安倍政権はヒトラー著「我が闘争」授業使用は否定的教えなら許されるとするなら、戦前天皇も右へ倣えすべき

2017-04-30 11:29:22 | 政治

 民進党議員の宮崎岳志(47歳)が2017年4月6日、「アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書」を提出、安倍内閣は2017年4月14日に答弁書を提出している。 
    
 「答弁書」   

 学校での国語科や道徳の時間を含む全ての教科等の指導における教科用図書以外の教材の使用については、学校教育法(昭和22年法律第26号)第34条第2項等の規定に基づき、教科用図書以外の教材で有益適切なものは使用することができることとされており、文部科学省が各都道府県教育委員会等宛てに発出した「学校における補助教材の適正な取扱いについて」(平成27年3月4日付け26文科初第1257号文部科学省初等中等教育局長通知)において示した教育基本法(平成18年法律第120号)等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校の設置者の責任と判断で使用できるものである。

 その上で、御指摘の「アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』については、同書の一部を引用した教材を使用して同書が執筆された当時の歴史的な背景について考察させるという授業が行われている例があると承知している。他方、仮に人種に基づく差別を助長させるといった形で同書を使用するのであれば、同法等の趣旨に合致せず不適切であることは明らかであり、万一このような指導がされた場合には、所轄庁や設置者において厳正に対処すべきものである。

 要するに教科用図書以外の教材は教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえていれば、アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』と言えども「有益適切なものである限り、校長や学校の設置者の責任と判断で使用できる」としている。

 森友学園元理事長籠池泰典も「教育勅語」を「有益適切なもの」と考えて、朝礼で幼稚園児に朗唱させたのだろう。要するに「有益適切」という価値観は人によって判断基準が異なるから、厄介である。

 相模原障害者施設殺傷事件の植松聖は(26歳)は障害者施設「津久井やまゆり園」に職員として勤務中の2016年2月18日に同僚に「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」と話し、同僚が危険を感じて園長に報告、翌日の2月19日に植松を呼んで面接した園長に対しても「ずっと車いすに縛られて暮らすことが幸せなのか。周りを不幸にする。最近急にそう思うようになった」と説明、園長が「ナチス・ドイツの考え方と同じだ」と植松の考えの危険性を指摘しても、「そう取られても構わない。自分は正しい」と自身の考えを譲らなかった。

 施設側は障害者を殺す意向があると判断、翌2月19日に警察に通報。警察は植松聖が4日前の2月15日に衆議院議長の公邸で障害者に対する抹殺の意志と障害者の安楽死制度の提案を内容とした手紙を渡していたことなどを踏まえて、「他人を傷つけるおそれがある」と判断、相模原市に連絡、相模原市は緊急の措置入院を決めた。

 植松は措置入院翌日の2016年2月20日に病院の担当者に「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話したという。障害者施設園長の植松の対障害者抹殺意志を「ナチス・ドイツの考え方と同じだ」と批判した言葉が暗示となって、自分は正しいという思い込みからヒトラーのホロコーストを正しいと価値判断したに違いない。

 植松は入院から13日後の2016年3月2日に退院、そして約5カ月後の2016年7月26日未明、施設に侵入してホロコーストもどきを実行、入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた。

 障害者抹殺をナチスのホロコーストに倣って「有益適切」と見做したからこそできた大量殺人であろう。

 「有益適切」という価値判断が他者の価値判断からすると、「有害不適切」となり得る場合もある。また、その逆の場合もあり得る。

 昨日のブログに書いたが、安倍晋三が天皇主義者・国家主義者の立場から理想の姿とする憲法は自身からしたら「有益適切」であっても、その立場に批判的な者からしたら、「有害不適切」そのものであろう。

 安倍晋三の腰巾着官房副長官の萩生田光一が政府がヒトラーの「我が闘争」に関わる政府答弁書を提出した4月14日にから5日後の4月19日の記者会見で「我が闘争」を学校の教材として使うことについて次のように発言している。

 「『わが闘争』の一部を引用した教材を使用し、執筆された当時の歴史的背景について考察させるという授業が行われている例がある。肯定しているのではなく否定的に使っている。

 仮に人種に基づく差別を助長させる形で使用するのであれば、教育基本法などの趣旨に合致せず、不適切であることは明らかだ。万一このような指導がされた場合には、所轄庁や設置者において厳正に対処すべきだ」(NHK NEWS WEB/2017年4月19日 13時18分)

 「『わが闘争』の一部を引用した教材を使用し、執筆された当時の歴史的背景について考察させるという授業」での否定的な使用なら問題はないが、「人種に基づく差別を助長させる形で使用するのであれば、教育基本法などの趣旨に合致しない」から使用は不適切だと言っている。

 6日後の4月25日の文科相の松野博一が文科省での定例記者会見で同じ趣旨の発言をしている。関係個所のみを抜粋する。

 記者「昨日、文部科学省のホームページに、ヒトラーの著書『わが闘争』が、学校現場で教材として使用されるかどうかについて、先般、政府の答弁書が閣議決定されたのですが、それに対して、中国の外交部報道官が反応する形でコメントを出し、それに対して文科省のホームページでは見解を出されたわけですが、見解を出された意図と狙いについて教えていただけますでしょうか。併せて、英語とドイツ語でも翻訳が出ておりますが、この辺の意図についても教えてください」

 松野博一「御指摘の中国外交部の定例記者会見における発言は、全くの誤解に基づくものであり、事実関係を確認せずになされたこのような発言を正すことが必要だということから、昨日、日本政府の立場を改めて明確にするために、日本語・英語及びドイツ語でそれぞれHP上で公表をいたしました。

 その中では、我が国においては、憲法に定める基本的人権の尊重等の基本原則や、教育基本法に基づいて人種に基づく差別等は絶対にあってはならないとの理念の下で教育活動を一貫して行っていること、我が国の学校教育においては『わが闘争』の一部を引用する場合には、あくまで否定的に引用した授業が行われており、こうした教育は、正に憲法との趣旨に合致し、憲法に定める基本原則の実現のために行われるものであることについて説明をしております。

 文部科学省としては、このような立場を引き続き堅持し、人種に基づく差別やジェノサイドなどは絶対に許さないという意識をしっかりと定着させるための教育の充実を図っていくということであります。英語及びドイツ語等でも併せて発表したということは、広く世界に、日本の立場、政府の立場、文科省の立場を御理解をいただくということを目的にしたものであります」

 日本国憲法は第3章「国民の権利及び義務」で、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定め、改正教育基本法で、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」と定めている。

 松野博一は政府答弁書に添って、「我が国の学校教育においては『わが闘争』の一部を引用する場合には、あくまで否定的に引用した授業」での使用であるなら、「憲法に定める基本的人権の尊重等の基本原則や、教育基本法」が禁止している人種に基づく教育機会の差別に触れないゆえに許されるとしている。

 そして「人種に基づく差別を助長させるといった形」での「わが闘争」の使用は不適切としている政府答弁書に同じく添う形で、「人種に基づく差別やジェノサイド(大量殺害)などは絶対に許さないという意識をしっかりと定着させる」否定的に引用に限った「教育の充実を図っていく」と宣言している。

 ナチスの人種差別・ホロコーストを可能とした一大原因はヒトラー独裁体制に他ならない。ヒトラーの命令にドイツ国民の殆どが考えもなく忠実に従い、その命令を考えもなく忠実に実行した。

 「わが闘争」はヒトラーが自身の思想を記し、その思想を自らの行動の基準とした書物であり、ナチスの「聖典」とされて、ユダヤ人虐殺や世界制覇に向けた侵略等々の行動に一つ一つ形に変えていくことができたのも独裁体制である。

 独裁体制なくしてヒトラーの大掛かりな行動はなかったと確実に言うことができる。

 翻ってナチス時代と世界史を同じくした戦前の日本を見たとき、戦前日本国家は天皇独裁体制にあった。「大日本帝国憲法」は「第1章天皇第1条」で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と天皇に主権を与え、「第3条」で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と絶対的存在に位置づけ、「第12条」で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、「第13条」で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と規定して、天皇は憲法上は絶対的権限の保持者の姿を取る独裁者に位置づけられていた。

 昭和11年(1936年)以降、軍部が発言力を増大させて軍部独裁体制に向かっていくが、それを可能としたのは天皇独裁体制である。天皇が持つ絶対的権限を天皇の名に於いて利用、天皇は本心では日米開戦に反対していたが、軍部に押し切られて昭和16年(1941年)12月8日に開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)を発することとなり、日本民族を優越民族とし、アジアの各民族を劣等民族に位置づけたアジア制覇の戦争を拡大させていった。

 かくこのように天皇独裁体制が可能とした日中・太平洋戦争である。

 ナチスの人種差別・ホロコーストを可能とした一大原因がヒトラー独裁体制であって、「わが闘争」がユダヤ人虐殺や世界制覇に向けた侵略等々の行動の基準となった思想書であったとしても、学校教育で否定的な使用なら問題はないとするなら、戦前の独裁体制を担った天皇という存在も学校教育で否定的に扱わなければ、似たような独裁体制であったことに対して矛盾することになる。

 だが、安倍晋三や稲田朋美は靖国神社を参拝することで戦前の天皇独裁体制を肯定し、独裁者天皇が発した「教育勅語」を憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることはないと「教育勅語」を肯定することで間接的にではあるが、独裁者天皇まで肯定している。

 確かにヒトラーと戦前天皇とでは独裁の規模に於いても、ヒトラーの思想を体現したドイツ軍と天皇の思想を体現した日本軍の行為の規模と残虐性の点に関しても桁違いではあるが、独裁という点では本質的には同じ地平にある。

 それぞれの独裁性が誘発した世界史に現れたそれぞれの否定的足跡である。

 であるなら、ヒトラーは許されないとするなら、戦前天皇にしても許されないとすることが独裁という政治体制に対する厳格な態度であるはずである。

 ヒトラー著書の「我が闘争」の授業使用が否定的な教えのみが許されるとするなら、戦前の独裁天皇制に関しても右へ倣えして、その当時の天皇の在り様だけではなく、「教育勅語」を含めて、戦前天皇が発信した思想のすべてを否定的に取り扱うべきだろう。

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安倍晋三が憲法に思い描く「新しい時代の理想」は安倍晋三自身の政治的主義・主張を見れば自ずと窺い知れる

2017-04-29 11:05:52 | 政治

 天皇主義的国家主義者安倍晋三が4月26日、憲政記念館で開催の日本国憲法施行70周年記念式典に出席、挨拶した。

 「首相官邸」(2017年4月26日)
   
 安倍晋三「本日ここに、日本国憲法施行70周年記念式が挙行されるに当たり、内閣総理大臣として一言お祝いの言葉を申し上げます。

 終戦後間もなく日本国憲法が施行され、70年の歳月が流れました。この間、我が国はこの憲法の下で戦後の廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、先人たちのたゆまぬ努力により、平和で豊かな国をつくり上げ、世界の平和と繁栄にたゆまぬ貢献を重ねてまいりました。

 私たちはこの歩みに静かな誇りを抱きながら、次の70年に向かおうとしています。改めて先人たちの御苦労に感謝を申し上げるとともに、国会が国権の最高機関として憲政の確立と発展に御尽力されてきたことに敬意を表したいと存じます。

 この70年間で国内外の状況情勢は大きく変化しました。急速な少子高齢化と人口減少社会の到来、バブル崩壊後20年近く続いたデフレによる経済の停滞、冷戦の終焉と北朝鮮による核・ミサイル開発を始め我が国を取り巻く安全保障環境の悪化。今を生きる私たちも、先人に倣いこうした困難な課題に真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。誰もが生きがいをもってその能力を存分に発揮できる社会、国民が安心して暮らせる豊かで平和な社会をつくり上げていく。節目の年に当たり、この決意を新たにしております。

 憲法は国の未来、そして理想の姿を語るものです。今を生きる私たちには時代の節目にあって、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の基本原則の普遍的価値を深く心に刻みながら、新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている。それが時代の要請なのではないかと思います。そうした精神が日本の未来を切り拓いていくことにつながっていくものと考えます。

 本日の式典が、国民一人一人が日本国憲法の基本原則の普遍的価値、そして我が国の未来に思いを致す機会となることを期待するとともに、国会が国権の最高機関として憲政の更なる発展に尽くされることを切に願い、私の祝辞といたします」

 戦後70年の歳月の間「我が国はこの憲法の下で戦後の廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、先人たちのたゆまぬ努力により、平和で豊かな国をつくり上げ、世界の平和と繁栄にたゆまぬ貢献を重ねてまいりました」と言っているが、日本という国だけで、あるいは日本人だけで立ち上がり、平和で豊かな国をつくり上げてきたわけではない。

 アメリカを主とする戦勝国の支援と朝鮮戦争特需という僥倖がなければ、満足に立ち上がることはできなかったし、立ち上がる時期も相当に遅れたはずだ。

 1950年6月25日開戦、1953年7月27日休戦までの朝鮮戦争の間の在朝鮮米軍、在日米軍から日本に発注された物資やサービス等の1950年~1952年までの3年間に生じた直接特需は10億ドルに達し、在日国連軍、外国の関連機関による1950年~1955年までの間接特需は36億ドル(Wikipedia)に達したと言われていて、当時は1ドル=360円の固定相場制下にあり、直接特需は3600億円、間接特需は1兆2960億円もの濡れ手に粟の利益が転がり込んできた。

 朝鮮特需が後の高度経済成長の基盤になったと言われているのだから、もし朝鮮特需という僥倖に恵まれなかったなら、カネがないために技術を新しくする、あるいは新しい技術を開発する挑戦の機会を手に入れることができない悪循環に暫くの間陥ることになって、日本の技術革新の時代は実際の時期よりもかなり遅れて迎えることになったろう。

 それぞれの国の支援があったからこそ、平和で豊かな国をつくり上げることができた。

 また、安倍晋三は「戦後の廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がることができた」のも「先人たちのたゆまぬ努力」であり、「平和で豊かな国をつくり上げ、世界の平和と繁栄にたゆまぬ貢献を重ねてきた」のも、「先人たちのたゆまぬ努力」だと言い、先人が戦後の困難な課題に真正面から立ち向かったように現在の「急速な少子高齢化と人口減少社会」や「バブル崩壊後20年近く続いたデフレによる経済の停滞、冷戦の終焉と北朝鮮による核・ミサイル開発を始め我が国を取り巻く安全保障環境の悪化」に「今を生きる私たちも、先人に倣いこうした困難な課題に真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません」と言って、現在の日本の国があることについての先人たちの貢献を最大限に評価している。

 但し「先人」という言葉は「昔の人、前人、古人、亡父、または祖先」を指す。と言うことは、安倍晋三が口にしている「先人」は戦後に生き残った日本人の大人を指していることになる。

 だが、戦後の日本を築いたのは戦後に生き残った日本人の大人だけではなく、同じく戦後に生き残って大人となった日本人、そして戦後に生まれて大人に成長していった日本人等も戦後の日本を築くのに力があったはずだから、戦後のその時々の時代を現在進行形で生きた日本人をも「先人」に加えなければならないはずだ。

 いわば「先人」を昔の人ではなく、今より前の人という意味を持たせるべきだろう。

 そうしないと、戦後に生き残った日本人の大人だけを優秀であったかのような、復古主義者で戦前回帰を志向している安倍晋三はそうしたいだろうが、過った優越主義で彩ることになる。

 しかも安倍晋三は先人の中に戦没者まで含めている。第2次安倍政権1年を期して靖国神社を参拝、《談話》を首相官邸サイトに発表している。   

 安倍晋三「今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります」――

 戦後に生き残った日本人の大人たちが戦死者のために頑張ろうと誓ったとしても、それは単なる動機づけであって、実際に働いたのは生きて在った日本人である。

 安倍晋三は憲法について次のように話している。

 「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るものです。今を生きる私たちには時代の節目にあって、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の基本原則の普遍的価値を深く心に刻みながら、新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている。それが時代の要請なのではないかと思います。そうした精神が日本の未来を切り拓いていくことにつながっていくものと考えます」

 憲法はその時代の国家権力と国民個人の理想的な在り様、その関係をルールづける国家の最高法規である。

 戦前の日本は天皇に独裁権力を与え、国民個人の基本的人権を制約することを国家権力と国民個人の理想的な在り様とし、その関係をルールづけた憲法を制定していた。

 戦後になって、個人の権利を全面的に保障し、その一方で国家が恣意的な権力の行使によって個人の権利を侵さないよう、その力を制約することを理想とする、憲法本来の姿を取ることになった。

 当然、国家権力と国民個人のどのような関係を以て理想とするかが問題となる。

 戦前の日本国家を理想の国家像とする戦前志向の安倍晋三は2013年4月27日の《産経新聞のインタビュー》で戦後憲法を忌避する発言をしている。    

 安倍晋三「憲法を戦後、新しい時代を切り開くために自分たちでつくったというのは幻想だ。昭和21年に連合国軍総司令部(GHQ)の憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物だ」

 安倍晋三の日本国憲法に対する改正志向はこの心情を出発点としている。

 例え憲法が「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るもの」であったとしても、あるいは「新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められる」としても、安倍晋三が新しい時代の国家権力と国民個人の在り様、その関係をどう理想づけているかが問われることになる。

  例えば「日本のこころ」の憲法改正案は国民主権を規定づけているが、「天皇は日本国の元首であり、常に国民と共にある」と天皇の地位を規定している。天皇が「常に国民とともにある」ということの天皇に対する義務付けは“国民は常に天皇とともにある”ことの義務付けでもあって、国民主権でありながら、その相互性によって天皇を国民の上に置いた存在としている。

 そしてこの天皇は当然、国家権力側に位置づけていることになる。

 いわば国民主権と言いながら、国家と国民を上下の関係に置く仕掛けがそれとなく施してある。

 「日本のこころ」にとってこのような憲法改正案が新しい時代の国家権力と国民個人の在り様、その関係として理想の形ということなのだろう。

 自民党の憲法改正案を見てみる。

 現日本国憲法の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」としている「第1章天皇 第1条」に対して自民党憲法改正案の「第1章天皇 第1条」は「第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定、「日本のこころ」と同じく天皇を元首としている。

 但し自民党憲法改正案は「前文」で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と規定、だが、「戴(いただ)く」という表現で天皇を日本国家の上に置いている。

 「戴く」という言葉はそれが地位上の存在に対して言うとき、「崇め(あが)仕える」という意味になるからだ。

 自民党憲法草案にしても「日本のこころ」と同様に国民主権と言いながら、天皇と国民を上下の関係に置く仕掛けを施している。

 このような国家と国民の関係を天皇主義者としての、あるいは国家主義者としての安倍晋三が「新しい時代の理想の姿」と思い定めていたとしても、時代が許さないために憲法にあからさまに塗り込めることはできないだろうが、そのような関係に近づけたい仕掛けは既に自民党憲法改正案に巧妙に貼り付けてある。

 このような憲法の理想から出発た場合、個人の権利を全面的に保障し、その一方で国家が恣意的な権力の行使によって個人の権利を侵さないよう、その力を制約する憲法本来の使命を剥ぎ取って、国家の権力をより強め、逆に個人の権利を制約することを「新しい時代の理想」とする憲法に行き着かない保証はない。

 安倍晋三が「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るもの」だからと言い、「時代の要請」として憲法に「新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている」と言ったからといって、「理想」という言葉に騙されてはいけない。

 以上見てきたように政治権力者によって憲法に思い描く「理想」はそれぞれに異なるからなのは断るまでもない。

 また、政治権力者が憲法に思い描く「新しい時代の理想」は憲法の条文を変えなくても、必ずしも実現させることができないわけではない。憲法で言論の自由や報道の自由を謳いながら、様々な政治の力を使って言論や報道に制約を加えることもできるからであり、実際にも安倍政権は既にそういったことをしてきた。

 と言うことは、安倍晋三が憲法に思い描く「新しい時代の理想」がどのような内容なのかを知るためには、安倍晋三自身の政治的主義・主張を見れば自ずと窺い知ることができる。

 但しその「理想」を憲法に反映させるとしても、民主主義の現代に於いては許さる限度が自民党憲法草案に現れている「国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家」までといった国家と国民の関係ということであるはずだ。

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安倍晋三のアベノミクスでは寄り添うことのできる被災者よりも寄り添うことのできない被災者の方が断然多い

2017-04-28 11:30:35 | 政治

 2017年4月26日のTBSテレビ「ひるおび!」でコメンテーターとして出演している時事通信社特別解説委員の田崎史郎が復興相今村雅弘の4月25日の大震災は「東北の方で良かった」発言に関して、「もうクビだろ。今村さんが確かに気持ちが全然寄り添っていない。でも、政治家は寄り添っているフリはしなければいけないんですよ。実際。でもフリすらしないで『良かった』と発言してしまう。これは言葉の使い方そのものができてない」とコメントしたとネット上で批判を巻き起こしていることに昨日気づいた。

 田崎史郎が言っていることは、政治家は言葉で寄り添っているフリをしていれば務まるということになる。

 このフリは東日本大震災の被災者に対する姿勢に限らないはずだ。被災者にだけ寄り添っているフリをすればいいとなると、飛んでもない差別となるばかりか、なぜ被災者だけなのかという根拠が問題となる。

 あらゆる政治の場面でその対象となる生活者、いわば全ての国民に対してということでなければ、発言の平等性、あるいは整合性を得ることはできない。いわば田崎史郎は「政治家は国民に言葉の使い方一つで寄り添っているフリはしなければいけない」と言っていたことになる。

 田崎史郎は安倍シンパとか安倍応援団とか呼び習わされている。田崎史郎は上記言葉の後に、「安倍首相を見習わなければいけませんよ」と付け加えるべきだったろう。「安倍さんは言葉で寄り添うフリをするのは名人だから」と。

 今村雅弘の後任となった復興相吉野正芳は4月27日の衆議院の特別委員会で就任に当たっての所信表明を行っている。

 吉野正芳「避難者の数は47万人から12万人に減少したが、未だ多くの方々が不自由な生活を余儀なくされている。
 
 私は震災直後から被災した者の一人として被災者の声に真摯(しんし)に耳を傾け、痛みや苦しみ、思いを共有し、復興に全力で努力してきた。改めて復興大臣として、現場主義に徹して被災地の意見をよく伺い、被災者に寄り添いつつ、復興の司令塔としての機能をしっかり果たしながら、復興をさらに加速化させていく」(NHK NEWS WEB/2017年4月27日 11時27分)   
  
 田崎史郎が求めている政治家としてのあるべき理想の姿から解釈すると、新復興相の吉野正芳は寄り添っているフリをする言葉の使い方ができていたことになる。

 問題はフリでしかない言葉の使い方を貫き通すことができるかどうかにかかることになる。寄り添っているフリをしながら、言葉の使い方でそれがフリだったことがバレないように気をつけなければならない。

 ここで一つ断らなければならない。閣僚が被災者に使っている“寄り添う”という言葉には政治の恩恵を施すという意味を持たせているはずだ。ただ単に傍に付いていて要望を聞いて、何らかの約束をしたりすることだけを言っているわけではあるまい。政治の恩恵を施して初めて寄り添ったと言うことができる。

 となると、田崎史郎が言っているように「政治家は寄り添っているフリはしなければいけない」とか、「言葉の使い方」の問題ではないことになる。政治の恩恵は「寄り添っているフリ」や「言葉の使い方」でどうにかなるものではないからなのはわざわざ断るまでもない。

 被災地の復興政策は復興相一人で管理・運営できるわけではない。内閣の長たる首相の全体的な政策の影響を受ける。しかも東日本大震災に関わる復興推進会議の議長 は安倍晋三である。
 
 アベノミクスの2013年、2014年、2015年の3年間の経済実績は《アベノミクスの3年間の成果》(2016年1月21日・内閣府)によると、一般労働者の1人当たり賃金は2012年10月が336,100円に対して2015年10月は341,700円の+5600円で、2013~15年の年平均上昇率は0.6%と、雀の涙しか増えていない。   

 但し上記記事には家計支出額も個人消費額も出ていないが、この3年間で個人消費1.5兆円縮小、正社員マイナス23万人、非正規雇用172万人増加と言われている。

 この原因はアベノミクス3年間で実質賃金が伸びていなかったらだろう。

 2013年 -1.3%
 2014年 -3.0%
 2015年 -0.1%

 2014年-3.0%から2015年-0.1%と改善は見られるが、一方で上記内閣府の記事は、〈家計の金融資産残高は2012年7-9月期と比べると、2015年第3四半期は169兆円も増加している。〉と解説している。

 要するにアベノミクス円安・株高の金融政策によって株所有の富裕層や大企業は莫大な利益を上げ、一般生活者はその恩恵から落ちこぼれる格差(=政治の恩恵の格差)をつくり出した。

 アベノミクスが格差ミクスと言われる所以だが、この格差拡大政策が被災地に影響を与えないはずはない。安倍晋三の格差拡大旋風が被災地を避けて通ったとしたら、あり得ない珍現象である。

 2017年2月27日付け「河北新報」が、〈東日本大震災から間もなく6年を迎える中、東北の被災3県では東京電力福島第1原発事故の自主避難者を含めて3万3748世帯、7万1113人がいまだに仮設住宅での生活を余儀なくされている。〉と伝えているが、この仮設住宅入居者は一方で高台等に家を新築して仮設住宅から出ていく被災者がいながら、津波等で財産の一切を流失してしまったといった理由で自力で新居を購入する、あるいは新築する資金を手当できないから、止むを得ず仮設住宅暮らしを続けざるを得ない状況にある被災者であって、格差を見ないわけにはいかない。   

 新復興相の吉野正芳は所信表明で「避難者の数は47万人から12万人に減少した」と言っているが、避難者の中には原発事故によって福島県内の避難指示区域以外から逃れてきた「自主避難者」への民間のアパート等を借り上げたみなし仮設住宅に対する無償提供が2017年3月末で打ち切られていて、このみなし仮設入居者にしても、カネがありさえすればと悔しい思いをしている被災者が大勢いるはずだし、このような状況にも格差を見ることができる。

 そして被災地に於いても指摘されている親の格差が子の格差につながっている状況は日本全体の状況の当然の反映でもあるはずだ。

 産業面では復旧工事が盛んな建設業や製造業などで生産規模を挙げている一方で、沿岸部の水産業では風評被害等が影響してなお厳しい経営を強いられている事業者が多く、観光産業も全体として伸び悩んでいて、業種間の格差、あるいは同じ業種でも経営規模等に応じた格差が生じていると言われている。

 いわばアベノミクスは格差拡大にその政治力を発揮していても、その裏返しとしてある格差解消には無策であることが影響している日本社会全体にはびこっている格差(=政治の恩恵の格差)であり、被災地に於いても同じ状況が見舞うことになっている政治の恩恵の格差の現状ということであろ。

 当然、復興相が心の底から被災者に寄り添っていようといまいと、あるいは言葉で寄り添っているフリをしていようといまいと、「言葉の使い方」でそのことをゴマカシていようといまいと、アベノミクスの格差政策で恩恵を受けることができる国民、あるいは被災者に対しては政治は寄り添うことができていると言うことができ、恩恵を受けることができない国民、あるいは被災者に対しては政治は寄り添うことができていないことになる。

 そして格差政策の宿命として恩恵を受けることができる国民、あるいは被災者はできない国民、あるいは被災者よりも少数派であって、恩恵を受けることができない国民、あるいは被災者はできる国民、あるいは被災者よりも多数派を占めることになる。

 いくら円安・株高で富裕層や大企業が利益を上げようとも個人消費が伸びない原因がここにある。多数派と少数派が逆転すれば、個人消費は伸びるし、そもそもの格差(=政治の恩恵の格差)は拡大から縮小傾向を取ることになる。

 安倍晋三のアベノミクスが格差ミクスとなっている以上、その政治の恩恵を以てして寄り添うことのできる国民・被災者と寄り添うことのできない国民・被災者との間の格差は付き纏い続ける。

 国民や被災者に対して政治家が使っている“寄り添う”という言葉を言葉の使い方やフリで片付けることのできる田崎史郎は幸せ者である。

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安倍晋三の今村雅弘辞任「任命責任はもとより内閣総理大臣たる私にあります」は口で言って済ませているだけ

2017-04-27 09:36:31 | Weblog

 復興相の今村雅弘が2017年4月25日夜の自民党二階派の派閥パーティーでの講演で、「社会資本などの毀損も、色んな勘定の仕方があるが、25兆円という数字もあります。これは、まだ東北でですね、あっちの方だったから良かったんで、これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大な、甚大な額になると思っています」と発言、その国家財政の観点からのみ東日本大震災を把え、被災者(=国民)の困難を置き去りにした国家優先・国民無視の姿勢が批判を受け、その責任を取って翌日の4月26日午前に安倍晋三に辞表を提出、受理された。

 実質的には政権批判を避けるための更迭だとマスコミは伝えている。二度までの失言でそういう流れを取らざるを得なかったのだろうが、安倍晋三は今村雅弘の最初の福島原発事故「自主避難は自己責任」の失言を今村の謝罪を以って問題解決と見做し、続投を許している。

 その不手際を早々に隠す目的もあった手早い辞任劇に違いない。

 安倍晋三は今村雅弘の辞任について首相官邸で記者団に発言し、「任命責任は私にある」と自らの任命責任を認めている。安倍晋三の発言は首相官邸サイトから、記者質問は「産経ニュース」から引用した。

 《安倍晋三、今村復興大臣の辞任等についての会見》首相官邸/2017年4月26日)
  
 安倍晋三「先ほど今村復興大臣から辞表を受け取りました。東日本大震災からの復興は、政権発足以来、安倍内閣の最重要課題であります。そして被災地の皆様の心に寄り添いながら復興に全力を挙げる、これは揺るぎない内閣の基本方針であります。にもかかわらず、昨日、今村大臣の講演において、被災地の皆様のお気持ちを傷つける極めて不適切な発言がありました。

 復興大臣にとって最も大切な被災地の皆様の信頼を失う重大な発言であり、辞職したいとの今村大臣の意向が示されましたので、辞表を受理することといたしました。内閣総理大臣として改めて被災地の皆様に深くお詫びを申し上げたいと思います。

 また、任命責任はもとより内閣総理大臣たる私にあります。こうした結果となりましたことに対しまして、国民の皆様に心からお詫びを申し上げます。

 復興はいまだ道半ばであり、多くの方々が大変な困難にいまだに直面をしておられます。一日たりとも停滞は許されません。被災地福島の出身であり、そして発災以来復旧・復興に全力を挙げてきた、そして現在衆議院の東日本大震災復興特別委員会の委員長を務める吉野正芳さんに後任の復興大臣をお願いすることといたしました。

 東北の復興なくして日本の再生なし。この基本方針の下、東北の復興、福島の再生に全力で取り組んでまいります」

 記者「今村氏にそもそもの大臣としての資質がなかったのではないかという声もありますが」

 安倍晋三「任命責任は、正に、総理大臣である私にございますので、こうした結果となりましたことに対しましてお詫びを申し上げたいと思います」

 記者「今村氏にかかわらず、他の大臣にも資質に関して問われる声もありますが」

 安倍晋三「緩みがあるのではないかという、厳しい御指摘もあります。そういう御指摘に対しましては我々、真摯に受け止めなければならないと思います。これからも全力で復興を成し遂げていかなければいけませんし、そしてしっかりと安倍政権が掲げた政策の実現、結果を出していくために全力を尽くしていきたい。結果を出すことによって国民の皆様の信頼を回復したいと、こう考えております」

 先ず最初になぜ首相官邸は記者の発言を入れなかったのだろうか。記者の発言を入れずに安倍晋三の答弁だけを伝えている。

 記者は最初の質問で今村雅弘の復興相としての資質を質す声があることを尋ねた。だが、安倍晋三は既に話した任命責任の所在を再び口にして、辞任という結果を謝罪しただけで、資質については何も答えずに済ませた。

 二度目の記者の質問は今村雅弘に限らず他の大臣にしても資質を問う声があることについて尋ねている。安倍晋三はその質問に対しても否定も肯定もせずに指摘を受けている内閣の緩みについて真摯に受け止めるとか、政策の実現と結果を目指すといった発言で締め括っている。

 要するに記者の発言を載せないままに安倍晋三の発言だけを見ると、安倍晋三は閣僚の資質について何ら答えていないのだから、実際には記者から閣僚の資質についての質問があった事実はそこに存在しなかったことになるし、安倍晋三がその質問に何も答えなかったという事実も存在もしなかったことになる。

 では、安倍晋三はなぜ資質を問う質問に答えず、しかも自分の発言だけを伝えて、そういう質問があった事実すら伝えなかったのだろうか。

 安倍晋三は記者が閣僚の資質を問う前に「任命責任はもとより内閣総理大臣たる私にあります」と認めた。

 断るまでもなく閣僚としての資質は首相の任命責任に深く関係する。その任命責任は閣僚に採用するに当たってその人物の資質を見る目があったかなかったかの初期的な判断能力に帰す。

 任命責任を認めた後で、記者が閣僚の資質を問う形で実質的には安倍晋三自身の閣僚採用に当たっての初期的な判断能力の如何・是非を問題にしたことになる。

 だが、安倍晋三が記者の質問に直接答えず、そのような質問があった事実すら伝えなかったということは、自身の閣僚採用に当たっての初期的な判断能力の適否を隠したことになる。

 誰に対して隠したかというと、国民の目に隠したことは明らかである。

 もし記者の質問に正直に答えていたら、「大臣としての資質がなかったと言わざるを得ません」と答えなければならないし、そう答えたなら、復興相に採用するときに資質がなかったことを見抜くことができなかったのかという次の質問、あるいは批判を覚悟しなければならないし、見抜くことができていたと答えたなら、採用との整合性が取れなくなるから、「見抜くことができませんでした」以外の答はないことになって、その答を口にした途端、自身の人を見る目の無能を曝け出すことになる。

 要するに記者の質問を無視する以外に手はなかった。無視しただけではなく、記者の質問個所を首相官邸サイトに載せなかった。

 この無視と不記載の経緯には都合の悪い事実を国民の目から隠すという情報隠蔽を忍び込ませている。

 当然、安倍晋三の「任命責任はもとより内閣総理大臣たる私にあります」は閣僚採用に当たっての自身の都合の悪い事実――人物を見る目の初期的な判断能力の欠如には触れない形での任命責任の受容に過ぎない。

 任命責任を認めたことは閣僚の資質を見る目がなかった事実を認めたことではないということである。

 いわば「私にあります」と口で言って済ませているだけのこととなる。

 今後共口で言って済ませていくことになるだろう。

 「東日本大震災からの復興は、政権発足以来、安倍内閣の最重要課題であります。そして被災地の皆様の心に寄り添いながら復興に全力を挙げる、これは揺るぎない内閣の基本方針であります」と言っているが、任命責任を口で言って済ませるだけのリーダーは真に被災者の心に寄り添うことはできないだろう。

 安倍晋三が真に被災者の心に寄り添っていないから、下は上を倣うで被災者の心に寄り添わない閣僚が出てくることになる。

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今村雅弘「東北の方で良かった」は国家優先発言 「自主避難は自己責任」発言擁護の安倍晋三の責任は重い

2017-04-26 08:45:30 | Weblog

 復興相の今村雅弘が2017年4月25日夜の自民党二階派の派閥パーティーで講演し、東日本大震災の復興に関連して「まだ東北の方だったから良かった」と発言したと、4月25日夜7時からのNHKニュースが伝えていた。

 このニュースを「NHK NEWS WEB」(2015年4月25日 19時12分)が動画を添付して記事にしていたが、「毎日新聞」(2017年4月26日 00時50分)がより詳しく伝えているため、その発言を利用させて貰うことにした。              

 NHKの記事添付の動画の今村雅弘の発言は語尾が敬語使いとなっているために敬語に直して、動画の発言により近づけてみることにした。(下線がNHK動画からの発言)

 今村雅弘「みなさんのおかげで東日本の復興も着々と進んでいます。図を見ていただきたいが、マグニチュード9.0と日本観測史上最大、津波も9メートル、死者・行方不明計1万8478人。一瞬にして命を失われました。

 社会資本などの毀損も、色んな勘定の仕方があるが、25兆円という数字もあります。これは、まだ東北でですね、あっちの方だったから良かったんで、これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大な、甚大な額になると思っています。

 復興予算が32兆円。お陰さまで道路や住宅の高台支援は着々と進んでいます。みなさんにあつくお礼を申し上げます」

 この発言から窺うことのできる今村雅弘の思いは、「社会資本等の毀損が25兆円。首都圏に近かったら、25兆円どころでない、もっと莫大な、甚大なカネがかかった。あっちの方だったから、25兆円程度で済んで良かった」ということにになる。

 東北の復興を国の役所のリーダーとして引き継ぐことになった復興相今村雅弘のこの思いは復興に費やすことになる国家の財政のみに向けられていて、その多寡(多いか少ないか)だけを問題にし、そのような問題意識で東日本大震災の日本史上最悪の被害を見ていたことによって成り立っている。

 今村雅弘の国家財政のみに視線を向けたこの問題意識の裏を返すと、断るまでもなく、被災者(=国民)に視線を向ける問題意識の欠如をそのまま物語ることになる。

 だからこそ、「まだ東北でですね、あっちの方だったから良かったんで」と、東北を「あっちの方」と粗雑な言い方で指すことができたのであり、自身の視線の中に被災者(=国民)の命や生活を存在させていなかったからこそ、国家財政の観点のみに立って「良かった」と言うことができた。

 いわば国のことだけを考え、「死者・行方不明計1万8478人。一瞬にして命を失われました」とは言っているが、単に被害の統計を言っただけのことで、国家財政に視線を向けるのみで、実際には被災者(=国民)の命や生活を度外視していた。

 ここには国家優先・国民無視の思想が宿っている。

 今村雅弘は講演後に取り囲んだ記者たちに向かって発言を取り消し、謝罪している。

 今村雅弘「「東北でもあんなひどい25兆円も棄損するようなひどい災害だったと。ましてやこれがもっと首都圏に近い方だったら、もっととんでもない災害になっていただろうと、という意味で言いました。決して東北のほうでよかったという趣旨ではありません。取り消させていただき、改めてしっかりとお詫びを申し上げます」(上記NHK NEWS WEB

 釈明発言にしても棄損することになる国家の財政だけを問題にして、東日本大震災という大災害を見ていることに変わりはない。と言うことは、被災者が突然に見舞われることになり、引き続いている苦しみや苦労、悲しみ、生活の困難さを見ていない。

 先刻承知のように復興相今村雅弘が国家優先・国民無視の思想を露わにしたのは今回のみではない。2017年4月4日の記者会見でフリーランスの記者が2017年3月31日に避難区域が解除されたのに伴って自主避難者向けの住宅無償提供が打ち切られたことに関して、「福島県と避難先自治体に住宅問題を任せるというのは、国の責任放棄ではないか」ということを質問した。

 対して今村雅弘はあくまでも国の責任に拘る同じ記者との遣り取りで次第にヒートアップしていって、「自主避難は本人の責任」だとか、「裁判だ何だでもやればいい」といった乱暴なことを言い出した。

 福島第1原発事故は被災者には何の責任もない。国は原子力政策を最優先のエネルギー政策と位置づけて国策として推進してきた。政府の地震関連の二つの組織が2002年と2009年に東北地方の太平洋岸に巨大地震が発生した場合は三陸沖だけではなく、福島沖、房総沖にかけても巨大津波が発生する危険性を指摘していたにも関わらず、東電は指摘に応じた対策を取らず、国も指摘していながら、対策を取るよう指導もしなかった。

 これ以前の問題として原子力の安全確保のための規制を担当する政府の原子力安全委員会は1990年8月30日に「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」を決定、その中で「電源喪失に対する設計上の考慮」に関して、〈長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。

 非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよ
。〉との文言で全電源喪失は想定しなくてもよいとした。

 だが、東電が巨大津波の危険性を指摘されていたにも関わらず防潮堤の嵩上げを行っていなかったことと併せて、東日本大震災で防潮堤を超える津波が襲い、たちまち全電源が喪失状態となって原子炉を冷却する電気系統までが不能状態に陥り、原子炉内部の圧力が高まって、そのことによる原子炉の破損回避のために放射性物質を含む気体の一部を外部に排出させて圧力を下げるベントを行った際、大量の放射性物質が空気中に排出されることになったことを受けた県内避難であり、県外への自主避難である。

 全ては国と東電に責任がある。《今村雅弘復興大臣の発言に対する抗議声明》原子力損害賠償群馬弁護団/2017年4月5日)に書いてあることだが、2017年3月17日に〈前橋地裁が国と東京電力を相手に自主避難者が起こした損害賠償請求訴訟の判決で双方に同等の賠償責任を認め、自主避難者の殆どに対して避難することが合理的であったこと、種々の理由で避難を継続していることも合理的であることを認めた。〉のは全ては国と東電に責任があることを受けた判決であるはずである。  

 前橋地裁の国と東電の責任を認めた判決に対して国は控訴した。

 この控訴にも現れているが、2017年4月4日の記者会見での今村の「自主避難は本人の責任」だとか、「裁判だ何だでもやればいい」といった発言にも国家優先・国民無視の思想が現れていることになる。

 安倍晋三は今村雅弘の自己責任発言について2017年4月6日の衆議院本会議で次のように発言している。

 安倍晋三「被災者の方々に寄り添いながら、復興に全力を挙げるとの安倍内閣の方針は、いささかも変わるものではない。今村大臣は謝罪会見を行い、感情的になったことをおわびし、冷静・適切に対応していく旨を申し上げた。

 今村大臣には引き続き被災者に寄り添って1日も早い被災地の復興に向け、全力で職務に取り組んでいただきたい」(NHK NEWS WEB/2017年4月6日 17時04分)

 「被災者の方々に寄り添いながら」が安倍内閣の方針であったとしても、復興行政に関わる直接の当事者である復興相の今村雅弘が全然寄り添っていなければ、内閣の方針は機能していないことになる。

 今村雅弘のこのときの発言で「被災者の方々に寄り添」うことのできない姿勢が既に現れていた。そしてその姿勢が昨日の派閥パーティーでの講演で最悪の状態で露わとなった。

 だが、安倍晋三は今村雅弘の「自主避難は自己責任」発言が被災者に寄り添うことになっているかどうか、その姿勢を問題としなければならなかったにも関わらず、その姿勢如何を基準にするのではなく、謝罪を基準にして続投を許した。

 姿勢を厳格に問題にせずに、多分、辞任させることで安倍内閣がダメージを受けることになることを心配したからだろう、続投を許したばかりに最悪の国家優先・被災者(=国民)無視の姿勢が剥き出しにされることとなった。

  安倍晋三の人間を見る目を持たずに今村雅弘を閣僚に任命した責任だけではなく、閣僚を監督する立場にありながら、閣僚の姿勢の欠陥に応じてきちんと責任を取らせなかった責任も重い。

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安倍晋三の立件は監視が絶対要件の「テロ等準備罪」は米提供のメール監視システムの後ろ盾があってのことか

2017-04-25 10:17:52 | 政治
 
 安倍政権は犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の構成要件を改めた「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案の成立を目指し、既に国会で審議が始まっている。

 「テロ等準備罪」はテロ組織等の「組織的犯罪集団」が重大な犯罪を計画・合意し、犯罪の準備行為を行った段階で処罰の対象とすることを可能とする、いわば計画した重大犯罪の実行以前に処罰の対象とすることを可能とする犯罪となっているゆえに犯罪の実行前に捜査対象とし、あるいは立件するためには監視なくしてそのような段階に進むことは不可能で、広範囲で徹底的な監視を絶対要件とする監視至上主義を前提とせざるを得ないとこれまでブログに書いてきた。

 監視方法は固定電話の盗聴、室内に仕掛けた盗聴器からの会話の盗聴、盗撮、携帯電話の通話記録の閲覧、そして犯罪メンバーと覚しき人物への直接の接触は危険だから、そのような人物が私用で接触する民間人への聞き取り捜査、張り込み等が考えられる。

 ところがCIAのスノーデン元職員が2013年にアメリカのNSA(国家安全保障局)から持ち出した機密文書のうち13のファイルをアメリカのネットメディア「インターセプト」が日本時間4月24日夕方6時頃からネット上で公開を始め、その中にNSAが「XKEYSCORE」というネット上の電子メールや通話記録などを収集・検索できるとされる監視システムを日本側に提供したとする記述があることを2017年4月24日付け《NHK NEWS WEB》が伝えていた。   
 
 もしこのことが事実だとすると、組織的犯罪集団が重大な犯罪を計画・合意し、犯罪の準備行為を行うという、犯罪実行前の段階で「テロ等準備罪」名目で取締り・立件して処罰の対象とするためには絶対的要件としなければならない監視の方法は上記挙げた以外にネットで遣り取りする電子メールや通話記録等の収集を最強の武器として後ろ盾としていた可能性は否定できないことになる。

 尤もこの報道によってそれが事実如何に関わらずテロ等の組織犯罪集団を立ち上げている、あるいは立ち上げようとしているメンバーたちは報道を学習してネットを使った通信を行わないことになるだろうから、監視は容易ではないことになる。

 だとしても、取締り側は如何なる監視も排除することはできない。監視なくして犯罪実行前のその事実の感知は不可能であることに変わりはないからだ。

 いや、このこと以前の問題として既に監視社会は始まっているのかもしれない。ネット上の通信だけではなく、ブログ等での反政府の言論を収集、その人物が何らかの集団メンバーであったり、メンバーとなった場合は組織的犯罪集団と目した監視対象とするといったことを開始しているのかもしれない。

 ブログサービス会社がそのことに協力して反政府言論を集めている可能性も否定できない。

 安倍晋三なら、遣りかねない印象が強い。 

 上記記事は防衛省のこの報道に対する発言を伝えている。

 防衛省「問い合わせのあった未公開文書がどのような性格の文書であるか承知していないため、防衛省としてコメントすることは差し控えます」

 先ずそのような事実はないと否定しなかった。

 報道が事実だとしても、ネット上の通信を傍受していたと肯定することはない。

 通信傍受にしても盗聴にしても、全ては秘密裏の監視としなければ、監視の用をなさないことになる。特に犯罪実行前の犯罪の合意と計画の段階で取り締まるためには監視は絶対的な秘密と確実性を守らなければならない。

 そしてそのような監視はそれが組織的犯罪集団だと特定するためには組織的犯罪集団かどうか分からない段階から始めなければならないために勢い集団と呼ぶことができる集団の多くを監視対象とせざるを得なくなる。

 いわば監視至上主義に立った監視社会が出現することになる。

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安倍晋三のアベノミクス自己満足度と乖離した日本の高校1年生の生活満足度が意味するところ

2017-04-24 11:40:43 | Weblog

 経済協力開発機構(OECD)主催2015年「学習到達度調査(PISA)」(72カ国・地域15歳(日本高校1年生)約54万人参加)の際に行った47カ国・地域回答の「生活満足度調査」が2017年4月19日に発表され、日本の高校1年生の生活満足度の平均値は43位、OECD平均7.3より低い6.8だとマスコミが報じた。

 トップが平均値8.5のドミニカ共和国。続いてメキシコ、コスタリカ、コロンビアと中南米諸国が上位を占めていた。GDP(国内総生産)が日本よりもかなり低い国が生活満足度で日本を上回っているということはどういうことなのだろうか。

 世界の15歳、日本の場合は高校1年生は一般的には自身では収入を得ていないだろうが、親の収入が生活満足度にかなりの影響を与えるはずだが、親の収入とは別の要因が理由となっている生活満足度の低さなのだろうか。

 詳しく知りたいと思ってネットで調べたところ、国立教育政策研究所がOECDの「生活満足度調査」を公表していた。   

 マスコミと同様、ここでも「生活満足度」という表現を使っているが、実際には『生徒のwell-being(「健やかさ・幸福度」)』についての調査となっている。

 次のように解説している。

〈(注)”well-being”について

 OECD の国際報告書では,”well-being”を「生徒が幸福で充実した人生を送るために必要な,心理的,認知的,社会的,身体的な働き(functioning)と潜在能力(capabilities)である」と定義している。

 “well-being”は,心身の「良好な状態」や「健やかさ」「幸福度」という言葉で翻訳されることが多いが,それらの言葉が意味するところ(定義)や解釈は人や立場,文脈によって異なる。”well-being”の日本語訳については,慎重に検討する必要があり,本報告書のタイトルでは,”well-being”を「健やかさ・幸福度」として仮訳をあてている。〉

 その結果、「十分に満足〔9~10〕」、「満足〔7~8〕」、「まあ満足(5~6)」、「満足していない(0~4)」の4の段階に分けた”well-being”(「健やかさ・幸福度」)の日本の高校1年生の調査値は以下となっている。

 「十分に満足」23.8%
 「満足」37.3%
 「まあ満足」22.9%

 「満足していない」16.1%――
 
 0ECD平均値7.3と比べ僅かに0.5低い平均値6.8であるが、47カ国・地域の順位では43位、最下位から5番目となっている。

 この結果について国立教育政策研究所が解説を加えている。

 〈日本の生活満足度は世界的に低いという単純な解釈は事実を正確に捉えられているとは言い難いように思われる。特に生活満足度の低い10か国の中に,東アジアの6か国(香港,マカ才,台湾,韓国,日本,北京・上海・江蘇・広東))が含まれていることを考えると,社会文化的要因を考慮しデータを解釈する必要かおる。

 この点については,0ECDの国際報告書においても,今回PISA2015年調査で測っている主観的な生活満足度の国際比較は「難しい(challenging)」とし,その理由として,何に価値観を置き,幸せや満足を感じるかは,文化によって異なることや,白己呈示(Self-presentalion)の仕方も文化による適いが大きいことを挙げている。〉――

 比較は難しいとしても、経済や教育の発達、生活の向上に反して日本の高校1年生は自身の生活を「十分に満足」が4分の1弱なのに対して「満足」と「まあ満足」を合わせて、いわゆる“十分に満足していない”が60%もあり、さらに満足とは程遠い「不満足」が6分の1も存在するということであろう。

 “十分に満足していない”とは社会文化的要因の影響を受けて、“十分な満足”にまでは到達していないということを意味するはずだ。

 社会文化的要因とは、人間が社会の生きものとしてその社会に於ける政治や経済、教育、生活、人間関係等々、ありとあらゆる環境の影響を受け、会得することになった理性や感性が逆に社会を判断し、評価することになる、その素地を言うはずである。

 日本の高校1年生が所属する社会は基本的には家庭社会を核とし、次いで学校社会、そして友人社会であろう。

 先ず家庭社会に於ける生活満足度を見てみたいが、この調査には家庭に対する生活満足度を直接問うことをしていない。但し朝食と夕食をどの程度摂るか尋ねている。

 〈生徒の朝食,夕食について比較すると,0ECD平均では,78.0%の生徒が朝食を食べ,93.7%の生徒が夕食を食べたと回答している。日本について見ると,92.5%の生徒が朝食を食べ,98.7%の生徒が夕食を食べたと回答している。日本の朝食を食べた生徒の割合は,北京・上海・江蘇・広東,ポルトガルに次いで3番目に多く,夕食を食べた生徒の割合は,オランダ,アイルランドに次いで3番目に多い。

 男子と女子それぞれについて,登校前に朝食を食べた生徒と食べなかった生徒の科学的リテラシーの得点差を示したものである。 OECD平均では,朝食を食べた男子の方が4点高く,朝食を食べた女子の方が9点高い。

 日本について見ると,朝食を食べた男子の方が31点高く、朝食を食べた女子の方が24点高い。なお,これらの得点差は全て有意である。〉

 この朝食・夕食をどこで摂ったかの場所の明示はない。中には親からカネを渡されてコンビニで買って食べる場合もあるが、一般的には家庭で摂るはずだから、コンビニ弁当は無視していいはずだ。

 日本の高校1年生は92.5%の生徒が朝食を食べ、98.7%の生徒が夕食を食べていて、食べている生徒の方が科学的リテラシーの成績が男子で31点高く、女子で24点も高いということは、家庭社会に於ける生活満足度は一般的にはそれなりに高いと見ていいはずだ。

 問題はどこにあるのだろうか。低い値が出ているのは「生徒の学校への所属感」である。文飾は当方。

 〈PISA2015年調査では,生徒の学校への所属感を明らかにするために,生徒質問調査の六つの質問項目から成る「生徒の学校への所属感」指標1を作成している。この指標は,0ECD加盟国の平均値が0.0,標準偏差が1.0となるように標準化されており,値が正で大きいほど,生徒の学校への所属感が強いことを意味している。

 なあ,結果の解釈に当たっては,日本の生徒は高校に入学して3か月後にPISA調査を受けているが,国によっては,高校入学前や所属する学年の年度末に調査を受けている場合がある点に留意する必要かおる。

 日本の「生徒の学校への所属感」指標平均値は-0.03であり,OECD平均( 0.02)と比較して,統計的に有意に低い。

 またこの質間は2003年調査及び2012年調査との終年比較が可能である。OECD平均では,六つの項目全てにおいて2015年調査で最も害合が小さく,「他の生徒たちは私をよく思ってくれている」以外の五つの項目において2003年調査で最も割合が大きい。すなわち,OECD加盟国の全体的な傾向として,生徒の学校への所属感はこの12年で低下していると言える。〉

 表から平均値を書き出してみる。

 2015年調査

 「学校ではよそ者だ(またはのけ者にされている)と感じる。

 日本      88.1 
 OECD平均   82.8

 「学校ではすぐに友だちができる」
 
 日本      68.8
 OECD平均   77.7
 
 「学校の一員だと感じている」

 日本     81.9 
 OECD平均  73.0
 
 「学校では気後れがして居心地が悪い」

 日本      80.5 
 OECD平均   80.9

 「他の生徒たちは私をよく思ってくれている」

 日本     73.8 
 OECD平均   82.1
 
 「学校にいるとさみしい」

 日本      88.5 
 OECD平均   85.2――

 より良い状況にある項目もあるが、全体としては学校社会に於ける生活満足度は悪い状況にある。

 「日本の生徒は高校に入学して3か月後にPISA調査を受けている」として、高校生活に慣れていないことを挙げているが、高校社会は中学校社会の延長社会である。例えクラスメートの顔触れが変わっていても、中学校社会で各調査項目に於ける友人関係に関わる生活満足度が高ければ、一般的にはその成功体験によって高校入学3カ月も経過すれば、友人関係を積極的にか、少なくとも当たり前の振舞いで開拓できるはずである。

 要するに日本の高校1年生のこの「学校への所属感」の低さは中学校社会での「学校への所属感」の低さの延長と見るべきだろう。

 と言うことは、主として学校社会が影響している日本の高校1年生の生活満足度の他の国と比較した場合の低さではないだろうか。

 日本は「学習到達度調査(PISA)」での勉強の成績は一応は上位につけている。日本の学校社会は勉強の成績とは繋がらない生活満足度を阻害する環境にあるということになる。

 このことを裏返すと、学校は勉強だけの社会となっていることを示唆しているはずだ。

 安倍晋三は主として日本の安全保障面から、「国民の命と幸せな暮らしを守り抜く」と宣言している。だが、安全保障面だけではなく、アベノミクスの政策全般に「国民の命と幸せな暮らしを守り抜く」役目を持たせているはずだし、持たせていなければ、政治を主導する資格が無いことになる。。

 そしてこのことは深く国民の生活満足度に関係する。

 いわば安倍晋三の教育政策をも含めたアベノミクスの全てが中高生にも社会文化的要因となってそれぞれの生活満足度に深く影響を与える。

 2016年11月8日、首相官邸安倍晋三出席の元「子供の未来応援国民運動 一周年の集い」を開催。安倍晋三から次のメッセージが発表された。

 〈こども食堂でともにテーブルを囲んでくれるおじさん、おばさん。

  学校で分からなかった勉強を助けてくれるお兄さん、お姉さん。

 あなたが助けを求めて一歩ふみだせば、そばで支え、その手を導いてくれる人が必ずいます。

 あなたの未来を決めるのはあなた自身です。

 あなたが興味をもったこと、好きなことに思い切りチャレンジしてください。

 あなたが夢をかなえ、活躍することを、応援しています。

 平成28年11月8日 内閣総理大臣 安倍晋三〉

 このメッセージに現れている自身の教育政策に関わる自己満足度は日本の子どもの相対的貧困率の高さから言っても、相当に高い。高いから、こういった屈託のない、楽観的なメッセージを送ることができる。

 だが、中学校社会を受け継いだ高校社会に於ける日本の高校1年生の生活満足度とは裏腹の自己満足度の高さとなっている。その生活満足度の実態を知っていたなら、こういった屈託のない、楽観的なメッセージは送ることはできないはずだ。

 要するに日本の高校1年生の生活満足度は安倍晋三のアベノミクス自己満足度とは途轍もなく乖離していると同時に安倍晋三がアベノミクスの成果として誇る各経済指標が高校1年生の学校社会に於ける生活満足度につながっていない状況にある。

 いや、高校1年生の生活満足度だけではなく、アベノミクスの第一番の成果が格差社会の拡大であって、そのことが日本の大人に対しても生活満足度を阻害する要因となっている。

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監視に始まり、監視が全てを決定する監視至上主義が蔓延しない保証はない安倍政権の「テロ等準備罪」

2017-04-23 09:10:58 | Weblog

 2017年4月20日の「ブログ」で、一部の重大犯罪を除いて具体的な犯罪の実行があり、被害が発生して初めて処罰対象となる刑法の原則に反して「共謀罪」の構成要件を改めた「テロ等準備罪」が、組織的集団が犯罪に走る一歩手前の共謀、あるいは計画や合意の段階で取締りと逮捕を可能とするためには絶対的な監視を前提としなければならないということを書いた。  

 いわば犯行を犯さない前に犯行を犯すと結論づけて取締りと逮捕に入るのだから、その結論を得るためには監視の上にも監視を絶対条件としなければ、とんでもない誤認逮捕や冤罪をつくり出しかねない。

 「テロ等準備罪」の成立に反対する野党側がその理由として監視社会化して憲法が保障する「思想・信条の自由」を奪い、基本的人権を蔑ろにすることを挙げているのに対して成立を図る政府は監視社会化を否定している。

 だから、憲法が保障する「思想・信条の自由」を奪うこともないし、基本的人権を蔑ろにすることもないというわけである。

 だが、「NHK NEWS WEB」の二つの記事を読むと、政府側は国会で監視を前提とした発言を行っている。

 ただ、本人たちが気づいていないだけである。

 NHKは一定期限が過ぎると記事をネット上から削除してしまうから、一応はリンクをつけておいたが、二つの記事の全文をここに参考引用しておくことにする。

 《「犯罪集団に一変」は合意の確認が必要 法務省局長》NHK NEWS WEB/2017年4月21日 18時50分)
  
「共謀罪」の構成要件を改めて「テロ等準備罪」を新設する法案について、法務省の林刑事局長は、一般の団体が組織的犯罪集団に一変したと認定するためには、団体の内部で犯罪目的の集団に変わるという合意があったと、確認することが必要だという認識を示しました。

「共謀罪」の構成要件を改めて「テロ等準備罪」を新設する法案は、テロ組織や暴力団などの組織的犯罪集団が、ハイジャックや薬物の密輸入などの重大な犯罪を計画し、メンバーの誰かが準備行為を行った場合、計画した全員を処罰するとしています。

これについて、法務省の林刑事局長は、21日の衆議院法務委員会で、過去に犯罪を犯していない一般の団体が組織的犯罪集団に一変したと認定するためには、団体の内部で犯罪目的の集団に変わるという合意があったと確認することが必要だという認識を示しました。

21日の委員会では、林局長をこの法案の審議の参考人として出席させることと、来週25日に参考人質疑を行うことを、自民・公明両党と日本維新の会などの賛成多数で議決しましたが、林局長の出席は委員の求めに応じて認める形にすればよいとする民進党や共産党が抗議し、林局長が答弁する際に両党の委員が詰め寄る場面もありました。

 〈「共謀罪」の構成要件を改めて「テロ等準備罪」を新設する法案は、テロ組織や暴力団などの組織的犯罪集団が、ハイジャックや薬物の密輸入などの重大な犯罪を計画し、メンバーの誰かが準備行為を行った場合、計画した全員を処罰するとして〉いる。

 対して〈法務省の林刑事局長は、21日の衆議院法務委員会で、過去に犯罪を犯していない一般の団体が組織的犯罪集団に一変したと認定するためには、団体の内部で犯罪目的の集団に変わるという合意があったと確認することが必要だという認識を示し〉た。

 「過去に犯罪を犯していない一般の団体」が「組織的犯罪集団に一変」する可能性を一度でも想定した場合、「過去に犯罪を犯していない一般の団体」の全てに対して監視を欠かすことができないことを絶対的条件としなければならない。

 いわば如何なる団体であろうと、初めから監視対象に入れて万全の態勢で厳しく監視していなければ、「組織的犯罪集団に一変」するかどうかは把握できない。

 もし監視に手抜かりがあって、「過去に犯罪を犯していない一般の団体」が「組織的犯罪集団に一変」したことに気づかなかったために万が一テロを起こされた場合、警察は大失態を演じた咎めを受けることになる。

 その怖れからも、団体と名がつく団体の全てに手を広げて監視対象とし、監視の上にも監視、監視に万全を期せざるを得なくなる。

 結果的に監視こそが最大・最善のテロ対策防止の、あるいは組織犯罪防止の万能薬だとばかりに監視至上主義が蔓延しない保証はない。

 監視至上主義は否応もなしに監視の乱用を背中合わせとする。取り締まる側にしても過ちなき人間も組織も存在しないからだ。

 必然的に監視を過剰化させざるを得なくなる。

 それが乱用に至らなくても、広範囲の監視はそういう世の中になったのだと自ずと人々に感づかせることになって、下手に口を聞くことができない用心から「思想・信条の自由」の自己規制に追い込む危険性は否定し難い。

 いずれにしても、法務省の林刑事局長は「テロ等準備罪」の施行には監視が絶対要件であることを間接的に表明した。

 もう一つの記事を見てみる。

 《テロ等準備罪の捜査 一般人への調査は限定的に》NHK NEWS WEB/2017年4月21日 20時35分)  
 
盛山法務副大臣は、共謀罪の構成要件を改めたテロ等準備罪が新設された場合、捜査を進める中で、一般の人を対象に情報収集などの調査を行うことはありえるとしたうえで、処罰対象が組織的犯罪集団であるため、一般の人への調査は限定的に行われるという認識を示しました。

共謀罪の構成要件を改めてテロ等準備罪を新設する法案は、テロ組織や暴力団などの組織的犯罪集団が、ハイジャックや薬物の密輸入などの重大な犯罪を計画し、メンバーの誰かが準備行為を行った場合、計画した全員を処罰するとしています。

これについて金田法務大臣は、21日の衆議院法務委員会で、「組織的犯罪集団という疑いがある団体と関わりのない人は、捜査の対象にならない」と述べ、一般の人が逮捕などの強制捜査の対象になることはないと改めて強調しました。

また、盛山法務副大臣は、テロ等準備罪の捜査を進める中で、一般の人を対象に情報収集などの調査を行うことはありえるとしたうえで、処罰対象が組織的犯罪集団であるため、一般の人への調査は限定的に行われるという認識を示しました。

また、委員会では、法務省の林刑事局長を法案審議の参考人として出席させることが与党側の賛成多数で決まったことに対し、野党側の筆頭理事を務める民進党の逢坂誠二氏が、自民党の鈴木淳司委員長に抗議する場面もありました。

 〈金田法務大臣は、21日の衆議院法務委員会で、「組織的犯罪集団という疑いがある団体と関わりのない人は、捜査の対象にならない」と述べ、一般の人が逮捕などの強制捜査の対象になることはないと改めて強調し〉た。

 対して〈盛山法務副大臣は、テロ等準備罪の捜査を進める中で、一般の人を対象に情報収集などの調査を行うことはありえるとしたうえで、処罰対象が組織的犯罪集団であるため、一般の人への調査は限定的に行われるという認識を示し〉た。

 先ず金田が言っていること。

 「組織的犯罪集団という疑いがある団体」かどうかは監視なくして決めることはできない。いわば監視に決定権がある。

 当然、「組織的犯罪集団」と関わりがある人物かどうかの決定も、監視を要件とする。

 監視の結果、「組織的犯罪集団」と関わりがある人物とされなければ、「逮捕などの強制捜査の対象」にはならないのは当然のことだが、関わりがある人物とされた場合は「逮捕などの強制捜査の対象」となることは、これも当然のこととなる。

 そもそもからして「組織的犯罪集団」の構成員にしても最初から犯罪集団の一員であったわけではあるまい。その殆どが犯罪集団と関わりのない一般の人間から出発しているはずである。

 金田は関わりがあるかどうかの全ては監視が決めることになっている捜査対象であるにも関わらず、その要件を隠して捜査対象となるかどうかが決まるようなことを口にしているに過ぎない。

 巧妙・狡猾な誤魔化しでしかないが、いくら誤魔化そうとも、言っていることは監視を要件としているということでしかない。

 〈盛山法務副大臣は、共謀罪の構成要件を改めたテロ等準備罪が新設された場合、捜査を進める中で、一般の人を対象に情報収集などの調査を行うことはありえるとしたうえで、処罰対象が組織的犯罪集団であるため、一般の人への調査は限定的に行われるという認識を示し〉た。

 金田よりも少しは正直だが、いくら処罰対象が組織的犯罪集団であったとしても、「一般の人」が知らない間に連絡役に利用されたり、あるいは犯罪集団の一員でありながら「一般の人」を装って連絡役を務めたり、指示役であったりするケースも否定できないのだから、常に調査は「限定的」だと結論づけることはできない。

 結論づけるためには監視というプロセスを絶対的に必要とする。

 要するに「思想・信条の自由」を脅かし、基本的人権を損ないかねない広範囲で徹底的な監視を絶対的要件としている「テロ等準備罪」であるにも関わらず、政府側の人間はその要件を外して国会答弁を行っているが、現実には外すことは不可能なゆえに自ずと間接的に要件として必要とする答弁となっていることが上記記事は表している。

 改めて言う。監視なくして成り立たない「テロ等準備罪」であって、そうであるがゆえに監視至上主義に走りかねない危険性と表裏の関係にある。我々は戦前の日本社会で監視至上主義を検閲や隣組という形で見てきた。

 戦前の日本国家に親近感を抱いている安倍晋三が「テロ等準備罪」を出してきたことと無関係ではあるまい。

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不倫問題中川俊直の離党で一定のケジメは議員辞職のルールが出来上がると困る自民党議員が大勢いるからか

2017-04-22 09:27:24 | 政治
 
 自民党国会議員中川俊直(46歳)が2017年4月18日、経済産業大臣政務官を辞任した。4月20日発売の「週刊新潮」が中川俊直の不倫記事を掲載していることが知れて問題となり、国会審議に影響が出ていることを受けた措置ということらしい。

 父親の中川秀直も女性問題で2000年に森内閣当時の内閣官房長官を辞任している。写真週刊誌に中川秀直が常連客として通っていた銀座の高級クラブのホステスである愛人と一緒に撮影した写真やビデオが掲載されて問題となった。しかもその愛人が覚醒剤使用の疑いがあり、警察が内定中であったが、中川秀直がその情報を伝えて注意を促していた録音テープまでが流出していた。

 隠しマイクを仕込んで内定中だった警察が懲らしめのためにそのテープを故意に流出させたのか、あるいは愛人が覚醒剤で取調べを受けることになった際の保険に隠しマイクを仕込んでおいたものを自ら流出させたのか、当時の民主党議員がこのテープを取り上げて中川を追及したかなりのスキャンダルだった。    

 その息子の中川俊直にしてもかなりのスキャンダルのようだ。ネット情報によると中川俊直の妻は中川が高校の陸上部だった時のマネージャーだったと言うから、同年輩ということになるが、その妻はガンで闘病中の身で、愛人との交際は中川に妻と子供がいることを承知の上で2011年からスタート、ハワイで擬似結婚式まで挙げているという。

 スキャンダルはこれだけではない。2017年3月9日発売の写真週刊誌「FRIDAY」が中川俊直と同じ自民党議員の前川恵(41歳)が、前川自身は密会を否定しているそうだが、時間差でマンションに出入りする盗撮写真を掲載していたという。

 中川俊直が妻がガン闘病中で女としての役目を満足に務めることができないからと、あるいは自身からも満足に務めさせることができなからと、その役目を他の女に求めたとしたら、最悪である。結婚している以上、自慰に代えてでも、性的欲求を満足させなければならなかったろう。

 自民党は中川俊直の不倫スキャンダルで国会審議に影響が出ていることから、4月21日中に離党届を提出するよう勧告していた。中川俊直はそれを受けて4月21日に離党届を提出、受理された。

 自民党は離党で一定のケジメは付いたとしているが、野党は離党だけでは満足せずに議員辞職を求めている。

 国民は選挙で候補者に国政を託すべく投票するとき、清廉潔白で正義漢ある人物であることを投票の暗黙の前提条件としている。そうしない国民がいるとしたら、その候補者とは清廉潔白さと正義漢を必要としない、いわば私的な利益誘導を核とした利害関係で結ばれている国民であろう。

 裏を返すと、一般的には国民は清廉潔白で正義漢ある国会議員でなければ、国民の負託に応える国の政治を行うことはできないという考えを持って一票を投じているはずである。

 将来、不倫スキャンダルで世間を騒がすことになる候補者だと分かっていたら、何らかの強い利害関係にある有権者以外に投票するだろうか。

 当然、中川俊直は国民が期待する清廉潔白で正義漢ある人物であることを裏切った以上、この一事を以って議員辞職が相当ということになるはずである。

 野党が与党の立場になった場合はどう豹変するか分からないが、野党が議員辞職を求めるのは当たり前の対応と言うことになる。

 だが、自民党は離党で一定のケジメが付いたとして幕引きを図り、議員辞職まで迫らなかった。離党だけの幕引きは中川俊直が9月15日までに辞職すれば、10月に補欠選挙が予定されて、中川が立候補しなくても、女性スキャンダルで議員辞職した事実が非難され、選挙で不利に立たされることになるからだと言われている。

 要するに自民党は中川俊直の女性スキャンダルで現れた彼自身の清廉潔白さと正義漢を欠いた国会議員としての資質よりも選挙事情を優先させた。

 但しそればかりではないはずだ。女性スキャンダル発覚後、離党勧告を経ずに議員辞職を直ちに求めた場合、女性スキャンダルイコール議員辞職というルールが出来上がりかねず、困ることになる密かに不倫実行中の自民党議員が大勢いて、自民党が党自体としても困ることになるという事情が予想されることから、なるべく離党のみで留めておきたいという思惑がが働いた、離党で一定のケジメということではないだろうか。

 全ての国会議員は国民が選挙で候補者に国政を託すべく投票するとき、清廉潔白で正義漢ある人物であることを投票の暗黙の前提条件としていて、その条件に応えなければならないという原点に立ち返るべきでだろう。

 全員が立ち返ることができたなら、党利党略で動く国会議員も、私利私欲で動く国会議員も絶滅させることができるが、安倍政権が小・中学校の道徳の教科で使う如何なる規律を以ってしても実現不可能に違いない。如何なる生活空間、あるいは如何なる活動空間でも不届き者は絶えることはない。懲罰を以ってしてその不届きの芽を摘み取っていくしかないだろう。

 中川俊直に対しても、議員辞職という懲罰を以ってしてその不届きの芽を摘むしかない。

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安倍晋三たち復古主義者が考えるように道徳とは日本の伝統・文化、愛国心を教えることではない

2017-04-21 11:44:51 | Weblog

 2017年4月17日の当「ブログ」に小学校では来年の2018年度の春から(中学校では2019年の春から)「道徳」が教科化されることになり、教科書出版会社の東京書籍が小1向け道徳教科書にそれまでは教科外活動であった「道徳の時間」で副読本の中で用いていた小1児童がおじいさんとパン屋に寄ってパンを買う「にちようびの さんぽみち」をそのまま載せたところ、検定意見が付き、パン屋を和菓子屋に変えると検定をパスすることができた検定事情を取り上げた。  

 文科省はパン屋に対して検定意見を付けた理由を、「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」だったからとしていると2017年4月5日付「毎日新聞」記事が伝えていた。 

 文科省が「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」と言うからには、日本の「伝統と文化の尊重」であり、日本の「国や郷土を愛する態度」と言うことであって、パンは日本の「伝統と文化」の尊重には当たらないし、日本の「国や郷土を愛する態度」を養うことはないと見ていて、和菓子なら、日本の「伝統と文化」を尊重することになり、日本の「国や郷土を愛する態度」を養うに適うと見ていることになる。

 だが、戦後の日本に限ると、食文化に於ける普及度や地位は和菓子よりもパンの方が遥かに優位な位置につけているはずである。

 ネットで調べたところ、2016年の和菓子小売金額は4750億円。対して2016年のパン1世帯当たりの支出金額は30,294円。2015年の国勢調査に於ける日本の世帯数5340万世帯。30,294円✕5340万世帯≒1兆6千200億円。

 一般家庭に於けるパンの食文化は戦後に普及し、その地位を確立した。

 と言うことは、文科省が道徳教育に於ける涵養の必要性として挙げている「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」は日本の戦前から存在した「伝統と文化の尊重」を言い、そうである以上、日本の戦前の姿を持たせた「国や郷土を愛する態度」を求めていて、「伝統と文化の尊重」と「国や郷土を愛する態度」を戦前というキーワードで一体化させていることになる。

 いわば安倍政権は小中学生に対して道徳教育を通して現在の日本や郷土の在り様よりも、戦前の「国や郷土」の在り様を道徳教科書によって再現させて、それらを愛する態度の涵養に重点を置いていることになる。

 このことを証明してくれる記事がある。《伝統・愛国心・郷土愛…教科書に描かれる「日本」とは?》asahi.com/2017年4月17日10時12分)    

 冒頭次のように記している。

 〈文部科学省の今回の検定に合格した教科書には、「日本の伝統や文化」「愛国心や郷土愛」を意識した記述が各教科で並んだ。2006年の第1次安倍内閣で改正された教育基本法に従い、学習指導要領で日本の伝統や文化を扱うよう求めているからだ。教科書に描かれる「日本」とは――。〉

 そして教材の目立った使用例を挙げている。

 お正月の過ごし方やおせち料理、風呂敷の使い方等の日本の風習や文化。浮世絵等の日本の芸術。

 何事に於いても日本の戦前の「伝統と文化」が徐々に変化したり、薄れていく中にあって、日本の戦前そのものの「伝統と文化」に重きを置いた傾向を窺うことができる。

 そのような姿を持たせた「国や郷土」を重視する。

 このことは記事が挙げている教材の一例に現れている。

 〈日本文教出版は小5の教科書で「和太鼓調べ」と題し、主人公の「佳代」が、地域の和太鼓職人を訪ね、様々な発見をする物語を掲載した。〉

 戦前とは違って戦後の時代が下るに連れて一般的ではなくなった和太鼓という話題を取り上げているのは文科省が主張する日本の戦前から存在した「伝統と文化の尊重」に添う意図が教科書出版社側にあったからだろうし、同じく文科省が重視している「伝統と文化の尊重」と一体化させた日本の戦前の「国や郷土を愛する態度」を育むに役立つと計算したからだろう。

 さらに記事は文科省の意図に添う教材の使用例を紹介している。

 〈広済堂あかつきは小3の教科書で、明治時代に大師河原村(現川崎市川崎区)で生まれた「長十郎梨」をテーマに、梨作りに生涯を捧げた地域住民の姿を紹介。話の終わりには「きょう土のためにつくした人について、家の人や地いきの人に聞いたり、本を読んだりして調べてみましょう」との問いも設定した。日本文教出版も小5の教科書で北海道で生まれた米「ゆめぴりか」の開発過程を紹介、全国の地域ブランド米も取り上げ「米作りから、ちいきのことを考えよう」と投げかけた。〉

 前者は明治時代の農村の住民の姿を学ばせ、後者は、「ゆめぴりか」は「Wikipedia」に〈2008年に北海道の優良品種として採用された極良食味米〉と紹介されていて、戦後の産物だが、日本が伝統とし文化としてきた農村という地域を共通項としている点で、文科省が望む、と言うことは安倍政権が望む日本の伝統性・文化性に添い、それが日本の戦前の「国や郷土を愛する態度」の育みに繋がると見ていることからの教材化であろう。

 勿論、道徳の教科が日本の戦前からの「伝統と文化の尊重」と、これと一体化させた日本の戦前の姿を持たせた「国や郷土を愛する態度」を育むことだけではないことは承知している。

 文科省の《学習指導要領「生きる力」「道徳」の項目、「主として集団や社会とのかかわりに関すること」を見てみる。     

 (5) 郷土の伝統と文化を大切にし,郷土を愛する心をもつ。
 (6) 我が国の伝統と文化に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心をもつ

 しかし、なぜ戦前の価値観を前面に出すのかである。戦後食文化の仲間入りを果たし、日本の文化となり、先後の日本の伝統と化していくパンではダメだとしているところに戦前の価値観の重視が否定し難く現れている。

 (5)、(6)以外の(1)、(2)、(3)、(4)を見てみる。

 (1) 約束や社会のきまりを守り,公徳心をもつ。
 (2) 働くことの大切さを知り,進んでみんなのために働く。
 (3) 父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくる。
 (4) 先生や学校の人々を敬愛し,みんなで協力し合って楽しい学級をつくる。

 規律を一律的に並べているところにも戦前の教育の価値観を見てしまう。

 なぜなら、個々の道徳を決定するのはこういった一律的な規律の教えではなく、個々が時々に応じて抱えることになる利害だからだ。
 
 時として規律はどう教え込まれようとも、利害の前に無力と化す。

 自民党の中川俊直経済産業政務官が結婚していながら女性との不倫問題で政務官を辞任した例は女性に対する欲望という利害を優先させた結果、大の大人として備えていなければならない規律を否応もなしに無力化させてしまったことを示している。

 真面目に働き、父母や祖父母を敬愛し、家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくっていた人間が何かの経済的なアクシデントを抱えてカネに困ると、往々にして人のカネを騙し取ったりするのは貧すれば鈍するで、カネ欲しさの金銭的利害に負けるからであろう。

 騙す相手が敬愛していた学校の恩師と言うことをあり得る。会社の親しい同僚という例はいくらでもあるに違いない。

 政治家が「政治とカネ」の問題で過ちを犯すのも、金銭的な利害に身を任して、正直さという守るべき規律を忘れるからであろう。

 また、利害という価値観は戦前も戦後も変わらない。教科書会社は戦前も教科書採用のために役人や教師にカネをバラ撒き、買収に血眼になっていたし、戦後も似たような事件が起きている。全ては教科書会社のカネ優先の利害行為がなせる技であろう。

 いくら安倍政権が戦前の価値観を教え込もうと、「政治とカネ」の問題は戦前に於いても存在した。そして法律が不完全ながらどうにか律している「政治とカネ」となっている。

 「政治とカネ」を自らの規律で守ることができている政治家はその殆どはカネ集めに苦労を知らない政治家であろう。

 当然、道徳は現実社会から利害に応じて善悪様々に変えていく生きる姿を拾い出して、そのような十人十色、百人百色の人生があることを教え、考えさせることにあるはずだ。如何に人間は利害に弱い生き物であるかを教える。

 過去に生きた偉人の物語を教えても、現実の利害の前にあってはどれ程に役立つだろうか。

 役立つとしたら、さしたる利害に出会わない無難な人生を送ることができた人間に限られるはずだ。

 戦前の価値観を教え込もなどというのは道徳教育に入らない。以ての外である。

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