1月29日の衆院本会議代表質問で、安倍晋三の相変わらずの頭の悪さを見せつける面白い遣り取りがあった。結の党の江田憲司代表がタカ派色が色濃く出てきた例として安倍晋三の昨年暮れの靖国参拝を批判した。
江田憲司結の党代表「中韓だけではなく、同盟国のアメリカですら、『失望した』と厳しく論評し、更にEU等からも否定的な評価が返ってきました。
マックス・ウェーバーの『職業としての政治』に信条倫理と責任倫理という言葉があります。私が理解するところ、前者は自らの信念に基づき行動し、その結果は神に委ねて省みない。その信念自体が尊いのであるという考え。
後者は起こるであろう結果を想定した上で行動し、その責任を負う、という考え。
今回の安部総理の靖国参拝は恐らく信条倫理に基づく行動だったんでしょう。安倍さんに取っては一度ならず二度まで総理になった以上、実現できなくて『痛恨の極み』とまで表現していた靖国参拝は信念に基づく行動だったに違いない。
しかしマックス・ウェーバーは政治家は信条倫理ではなく、責任倫理で行動すべきだと説きます。
私も総理という地位にある方に間近にお仕え致しましたが、一政治家とは違い、一国の代表である総理は自らの信念だからと何でも押し通すことは控えなければならない。周囲の状況を慎重に見極め、その結果起こるであろう様々な事態を想像的に勘案した上で、国益のために何がベストなのか、それを決断しなければならない。
最近の安部総理を見ていると、これからの幾多の国政の課題の対処は、もうその信条倫理に基づき決断していこうと考えているのではないかとすら、疑ってしまう。
総理、マックス・ウェーバーのこの信条倫理ではなく、責任倫理で行動すべきという考えに対するご見識があればご披露ください」
安倍晋三「マックス・ウェーバーの考え方に対する私の見解についてお尋ねがありました。マックス・ウェーバーはご指摘の点について信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出すと述べております
これがマックス・ウェーバーが述べようとした本質であります。政治家としての行動によりもたらされる結果に責任を持つべきは当然であります。信念にだけ任せて、結果を考えることなく決断を行うようなことはあってはなりません。
一方で政治家として信念がないままにただ結果だけを案ずるのは妥協的な事勿れ政治に陥りかねません。今後共、私はマックス・ウェーバーが『職業としての政治』の中で最後に説いたように、最後に説いたように、情熱と判断力の二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家でありたいと考えております」――
頭の悪さを曝け出したのだから、拍手する場面ではないのだが、同じ穴のムジナ、頭の悪い連中だからなのか、自民党議員席から盛大な拍手。
【両々相俟って】「(りょうりょうあいまって)両方が互いに補いあって」(『大辞林』・三省堂)
先ず江田憲司結の党代表は安倍晋三の靖国参拝はマックス・ウェーバーが言うところの政治家に求めている責任倫理からの行動ではなく、禁じている信条倫理からの行動ではないかと追及した。
対して我が安倍晋三先生は、マックス・ウェーバーは政治家は責任倫理からのみ行動しなければならないと言っているのではなく、信条倫理に基づいた行動も対立しない行動基準として認めていると解説している。
この解説に則ると、安倍晋三は自身の靖国参拝を自らの信念に基づいた信条倫理からの行動であると同時に結果を前以て想定して、その結果に責任を負う責任倫理からの行動でもあったと自ら規定していることになる。
そして一方に傾くのではなく、信条倫理と責任倫理の両面からの行動こそが「両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出す」と断言、そのような人間に自らを擬(なぞら)えている。
このことは最後の発言、「情熱と判断力の二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家でありたいと考えております」の自信に満ちた言葉に如実に反映されている。
「情熱」とは信条倫理に於ける信念を満たしていなければならない激しい感情を言い、「判断力」は責任倫理を機能させる上で必須となる能力を指すはずである。その「二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家」とは、「政治への天職を持ち得る真の人間」に他ならない。
だが、第1次安倍内閣では病気から首相職を自分から投げ出す惨めな挫折を経験していて、「どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家」像を自ら否定する正反対の姿を一度は演じていた。
いくらアベノミクスが現在好調であったとしても、挫折が二度とない保証はどこにもないのだから、口先だけの宣言能力、あるいは宣伝能力にかけては他に類を見ない程に優れているとしか言い様がない。
私自身はマックス・ウェーバーについて、名前は知っているが、その思想がどんなものかは皆目無知ときている。だが、安倍晋三の「信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではな」いとの解説は果して「絶対的」に正しいのだろうか。
少なくとも安倍晋三の靖国神社参拝に当てはめた場合、正しい規定とすることができるのだろうか。
参拝が信条倫理のみに則った行動なら、江田憲司結の党代表が言うように「その結果は神に委ねて省みない。その信念自体が尊いのであるという考え」に立ち、中韓の批判、アメリカやEU等の否定的な評価は無視して、「私は信念の行動者だ、信念の遂行が全てだ」と宣言し、中韓との関係がどのように悪化しようが、欧米との関係にどのようなさざ波が立とうが、問題としないで済む。
参拝が責任倫理のみに基づいた行動なら、中韓の批判や欧米の否定的評価は前以って想定していたことになり、想定していた通りの結果に対して相手を理解させ、参拝を認めさせる責任を負うことになる。
だが、その責任を果たしていない。
安倍晋三が前者・後者いずれかの行動に基づいた靖国神社参拝ではなく、信条倫理と責任倫理、その双方が相俟った行動であるとするなら、前者は信念の遂行にウエイトを置いて結果に対する責任は負わない、後者は信念を脇に措いて国益という結果を重視、優先させ、結果としての国益の成果に責任を負う相互に相反した価値観に基づいた行動ということになるゆえに、どこかで折り合いを付けないと前後破綻させずに成り立たせることは不可能な行動となる。
果して安倍晋三の靖国神社参拝は信条倫理と責任倫理双方に両者破綻なく折り合いをつけた構造の行動だったと言えるのだろうか。もしそのような構造の靖国神社参拝だったと言うなら、江田憲司結の党代表が安倍晋三の参拝はマックス・ウェーバーがその著書『職業としての政治』の中で言うところの責任倫理からの行動ではなく、禁じている信条倫理からの行動ではないかと追及したとき、双方に折り合いをつけた何ら矛盾しない参拝であったと、いわば安倍晋三自身が言い分としたマックス・ウェーバーの主張と自身の参拝との整合性を言葉を尽くして具体的に説明し、江田憲司結の党代表を納得させなければならなかったはずだ。
そのような説明も中韓や欧米に対して納得を得るための説明となる。ところが、そういった説明責任は一切果たさずに、信条倫理と責任倫理「両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出す」とか、信条倫理と責任倫理の双方それぞれの核となる能力要素である「情熱と判断力の二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家でありたい」とか、自分がそのような人間であるかのような宣伝を行ったに過ぎない。
説明責任を果たさないまま専ら自己宣伝に努めているのだから、見当違いな自信であるにも関わらず、「情熱と判断力の二つを駆使して」と気張ることだけは一人前のその判断能力は程度が低い判断能力と言わざるを得ない。
また、自身の靖国神社参拝が責任倫理からの行動でもあると同時に自らの信念に基づいた信条倫理からの行動でもあると自ら決めていたとしても、その信念に関しては国外だけではなく、国内に於いても愚かしい信念と見做して軽蔑の対象としている者も少なくない。例え自身に於いては絶対的な信念であっても、他者に於いても絶対的な信念とは限らない相対化の力学に見舞われる。
この相対化に対する客観的認識性を備えていたなら、もう少しマシな行動を取ったはずだ。
信念が他者関係に於いて常に相対化されることは靖国神社参拝に対する世論調査が示している。
朝日新聞社
「参拝したことはよかった」41%
「参拝するべきではなかった」46%
読売新聞社
「評価する」45%
「評価しない」47%
NHK
「大いに評価する」17%
「ある程度評価する」27%
「あまり評価しない」29%
「まったく評価しない」23%
内閣支持率が回復してきた中での批判的評価の優勢となっている。その分批判的な声がプラスαされるはずだ。
常々安倍晋三なる政治家の合理的判断能力の欠如を言ってきた。江田憲司結の党代表とのマックス・ウェーバーの『職業としての政治』を用いた論争でも、当然のこととは言え、曝け出したのは合理的判断能力の欠如・客観的判断能力の欠如――頭の悪さに過ぎなかった。どこまでも頭の悪さはついていく。
1月28日午後の安倍晋三の施政方針演説等政府4演説に対する衆院本会議代表質問。
海江田民主党代表(安倍晋三の昨年末の靖国参拝について)「国益上正しい行為なのか。諸外国の国民は賛同しているのか」(YOMIURI ONLINE)
安倍晋三「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々に尊崇の念を表し、冥福を祈るのは国のリーダーとし て当然で、世界共通の姿だ」(MSN 産経)――
「世界共通の姿」 だから、間違っていない。いや、正しいことだと言っている。
ヒトラーの自殺遺体は側近たちによってガソリンをかけられて燃やされ、総統地下壕の地上の庭に埋められたが、ソ連軍によって発見され、完全焼却後、エルベ川に散骨されたということだから、ヒトラーの墓は地上に存在しないことになるが、ヒトラーの墓が存在しないことの代償なのだろう、ナチス副総統ルドルフ・ヘスの墓がナチス信奉のネオナチストの熱烈な聖地と化し、彼らによるその 墓への巡礼が跡を絶たなくなったために墓地管理の現地協会が遺族の了解のもと、墓を撤去したと「Wikipedia」 には解説されている。
もし国家主義者・軍国主義者の安倍晋三が靖国参拝・戦没者慰霊を 「国のリーダーとして世界共通の姿」だと言って世界的に普遍的な正当性を持った口実として許されるなら、戦後ドイツはヒトラー礼讃やナチスの意匠・出版物流布等を禁止し、禁止を破った場合民衆扇動罪(ドイツ刑法 第130条)で以って厳しく罰するそうだから、不可能な譬えとなるが、ナチス信奉者が首相になって、ヒトラーやその他ナチス政権の閣僚のゆかりの地を聖地と見立てて参拝して、参拝は「国のリーダーとして世界共通の姿」だとの口実を用いたとしても、正当性ある口実だとして参拝が許されることになる。
理由は安倍晋三にしても、不可能な譬えとして持ち出したナチス信奉のドイツ首相にしても、それぞれの自国が戦った戦争の性格を問題にしていないからこそ正当化が可能となるのであって、その点でのみ、「世界共通の姿」だとすることができるからだ。
合理的判断能力ゼロだから戦争の性格を問題にしないで済ますことのできる安倍晋三に対して、不可能な喩えであることは承知し て、同じく戦争の性格を問題としないナチス信奉者のドイツ首相を持ち出してみた。
つまり、戦争の性格によって、靖国参拝・戦没者慰霊を「国のリーダーとして世界共通の姿」だとするその世界的共通性は正当性を失い、異例な個別性と化す。
ドイツは一方でナチス的なもの全てを否定しながら、その一方で第2次世界大戦の戦没者に対する政府主催の追悼式典を開催している。だが、その戦没者の位置づけは安倍晋三のように国のために戦い尊い命を捧げた英霊として誉れを付与する位置づけではなく、「全国民哀悼の日」と名づけた、戦没者並びにナチスの暴力支配の犠牲者追悼を目的とした式典であって、いわば戦争やナチスの犠牲者という位置づけとなっている。
このことは靖国神社参拝の際に頻繁に使われる「顕彰」という言葉とドイツの「哀悼の日」の「哀悼」という言葉の違いにも現れている。
【哀悼】「人の死を嘆き悲しみ悼むこと」(『大辞林』・三省堂)
【顕彰】「隠れた功績・善行をなどを讃えて広く世間に知らせること」(『大辞林』・三省堂)
前者のドイツの場合は戦死者を戦争もしくはナチズムの犠牲と位置づけているから、「哀悼」という形を取り、後者の日本の場合は「国のために戦った」、あるいは「天皇陛下のために戦った」と勇気ある犠牲と位置づけているから、「顕彰」という形を取る。
死者に対する戦争の犠牲、もしくはナチズムの犠牲との位置づけはその戦争、あるいはナチズムに対する否定意思の上に成り立つ。決して肯定意思の上に成り立つことはない。
だが、靖国の死者に対する勇気ある犠牲との位置づけは日本の戦前の戦争に対する肯定意思の上に成り立つ。決して否定意思の上には成り立たない。
この文脈からしても、戦死者に対する参拝を「国のリーダーとして世界共通の姿」だとするのは無理があり、戦争の性格によって自ずと共通性を失うことになる。
安倍晋三はこのことを弁える合理的判断能力を満足に持ち合わせていないから、簡単に「国のリーダーとして世界共通の姿」だと言って、参拝を正当化できる。実際には戦前の日本の戦争を肯定し、その肯定に立っているからこそ、戦死者の死を勇気ある犠牲だと讃えることが可能となる。
今朝、このブログ記事を書くためにインターネット上と行き来している間に日本人の父親とスイス人の母親を持つ現役大学生でもあり、テレビタレントでもある春香クリスティーンが
12月26日の「情報ライブ ミヤネ屋」にコメンテーターとして出演、安倍晋三の靖国参拝に対するコメントが原因となって、彼女のブログやツイッターが炎上したという。
春香クリスティーン「海外でよくこの問題と比べられるのが、『もしもドイツの首相がヒトラーのお墓に墓参りをした場合、他の国はどう思うのか?』という論点で議論されるわけですけれど、まあ難しい問題ですよね」(J-CASTニュース)――
「ヒトラーの墓と靖国神社を同じにするな」とか、「国のために命を捧げた英霊をヒトラーと一緒にするな」とかの批判が殺到したという。
記事は解説している。〈あくまで春香さん個人の意見ではなく、海外で「靖国参拝」と「ヒトラーの墓参り」が同列に扱われることがあると紹介したのみだったが、発言の一部がひとり歩きした結果、多くのネットユーザーから「英霊に対する侮辱」や「事実誤認がある」などと反発を浴びることとなった。〉――
解説も言っているように春香クリスティーンはヒトラーの墓(存在させた上での話だが、)と靖国神社を同列に扱って紹介したわけではなく、参拝した場合の行為自体が同列に扱われることになることを紹介したに過ぎない。
但し墓に眠るヒトラーは、「もしもドイツの首相がヒトラーのお墓に墓参りをした場合、他の国はどう思うのか?」という言葉自体によって否定対象と位置づけられていることになる。
だが、日本の批判はドイツの首相のヒトラー墓参がヒトラーを肯定対象とした墓参になると解釈したがゆえに(事実その通りになるのだが)、「ヒトラーの墓と靖国神社を同じにするな」等々の異議申立てが成り立つわけで、このことは安倍晋三を含めた自分たちの靖国神社参拝が戦没者を肯定対象として英霊だと顕彰していることと矛盾することに気づいていない。
要するに靖国神社の戦没者は肯定対象として扱うのはいいが、ドイツの戦没者を、特にヒトラーやその閣僚を肯定対象として扱うのは同列に扱われることの危険性から許すことができないということなのだろう。
やはりそれぞれの国の戦争に肯定・否定の違いを持たせているからこそ、可能となる日本側の解釈であるはずだ。
日本側のこのような解釈の構図とは違って、ドイツはそれぞれの国の戦争を否定対象とし、そのように位置づけた構図で解釈しているからこそ靖国参拝と比較して、「他の国はどう思うのか?」という推論が成り立つ。
だが、日本の場合は真逆で、特に安倍晋三は「国のリーダーとして世界共通の姿」だと、全てを肯定対象とすることができる。ヒトラーの墓と同じにするなといった問題ではない。
ブログやツイッターの炎上は春香クリスティーンこそ、安倍晋三の靖国神社に対するコメントを介した日本の戦争の犠牲者と位置づけることができる。
私は今までWindowsXPをOSとしたパソコンを使用、メールを遣り取りする相手がいないからだが、「Outlook Express」をメールソフトとして利用したことは殆どなく、専らブログ記事を「Outlook Express」のメール作成画面で書いてきた。ところが昨年暮れから動作の具合が悪くなり、XPのサービスが今年4月に終了することもあって、今年に入って「WINDOWS8.1」に買い替えた。
長い人生の中で、清水の舞台から飛び降りたのはこのときが初めてである。
ブログ記事を「Outlook Express」のメール作成画面で書いてきた理由は、他にも沢山の人が同じ利用をしていると思うが、インターネットから集めた最新の新聞記事やHP記事は「Outlook Express」の左側の画面、「フォルダペイン」にジャンルごとに各フォルダを作って、そこに保存しておけば、いつでも簡単に確認や例示等の利用ができるし、リンク機能を使って、簡単に望みのページにアクセスできるからでもあり、文書の作成自体、Html形式にしておけば、文字修飾もかなり自由で、文章を書き進める過程で頭に入れておくべきキーワードや文字列の強調に役立つからだ。
ところが「WINDOWS8.1」のメールソフト「Outlook2013」は各フォルダから引き出して編集した文書を改めて保存するとき、「Outlook Express」の場合は元のフォルダの文書に上書き保存されたのだが、保存されずに全て「下書きフォルダ」に保存されてしまう。
文書を各ジャンルごとに分類して整理するためには、下書きフォルダに保存された文書を各フォルダごとに移動させ、上書き保存されていない元の文書を削除するという手間が必要になり、文書の書き加えや手直しの編集ごとにそれを繰返さないと整理がつかない。
そこで「Windows Live」メールに変えたが、同じ仕様で、さらに「Thunderbird」に変えたがやはり同じで、シェアウエアの3カ月間無料試用の、名前を忘れたが、ダウンロードして使ってみたが、何も変わらず、現在は「Thunderbird」を常用して、一定の容量に達するまで下書きフォルダに保存しておくことにした。
だが、ジャンルごとに仕分けされていないから、必要とするメールを探すのに少々時間がかかって一苦労する。しかも「Thunderbird」は1メールの容量が小さいらしく、画像がすぐに表示されなくなってしまう。我慢して使ってはいるが、精神的にいいとは言えない。
「Outlook Express」の画面構成とメールの送受信の機能を取り除いた文章作成機能と保存機能、さらにリンク機能を受け継いている文書作成専用のソフトがないか、貧乏人ではあるが、ここは有料でも仕方がないとインターネットで探してみたが、見つからない。
以上のような各機能を一度で満足させるには「Word」では不適格である。
次に考えついたのが、「投稿を受けたアイデアをカタチにするモノづくりプラットフォーム『WEMAKE』」というサイトに「カタチ」にして貰おうと投稿してみた。投稿日は1月26日夕方。話にならない提案だったのか、翌日昼頃、早過ぎる1次審査不通過の知らせ。
似たようなソフトが既に存在しているのだろうかと思って、更にインターネット上を探したが、探し方が悪いのか見つからない。私が希望する文書作成ソフトを知っている方がいたら、教えて貰いたいし、もしないなら、プログラミングに堪能な方にこのような文書作成ソフトに興味を持って貰って、作成意欲を掻き立てて貰うしかない。
いつの日か、そう遠くないときに、つまり73歳の私が生きている間に、つまり死なないうちにそのような文書作成ソフトが世に現れることを望んでいる。
「WANTED!文書作成ソフト」
《社会保障支出少ない韓国 OECD最下位=日本の3分の1》(聯合ニュース/2014/01/05 14:36)
1月26日日曜日、都知事選で他候補を押さえて一歩リードしているさすがの我が舛添要一先生、日曜日の休日だからと言って、精一杯張り込んだわけではないだろうが、多摩地区の街頭演説。
舛添要一「東京を世界一の福祉都市にしたい」(asahi.com)――
いくら東京都が世界を代表する巨大都市の一つだからと言って、低福祉国家日本の首都に過ぎない。東京都だけが飛び抜けて高度な福祉社会を形成しているわけではなく、もしそうであったなら、東京都と国の格差は国政の失敗・矛盾の現れとして地方都市から攻撃を受けるだろうから、それを世界一にするというのはハッタリに過ぎるのではないかと思った。
東京都の予算は約12兆円で、これはデンマークの国家予算に匹敵すると、都知事選の候補者の一人である宇都宮氏が発言していた。一都市が外国の国家予算と比較される、さすが東京都だが、「世界一の福祉都市」にするためには、予算が同規模のデンマークが医療費、大学卒業までの教育費(学生の間は返済義務がない生活支援金の支給を含む)、出産費、介護福祉費は基本的に無料の高福祉国家で、「世界一幸せな国」と言われているということだから、そのデンマークの高福祉を飛び越えなければならない。
但しデンマークのそのような高福祉を支えているのは一律25%の消費税という強いバックアップがあってこその話で、今年4月の消費税率8%への引上げ時には国分4.9%、地方交付税分1.4%、地方消費税収1.7%、合計8%のうち、東京都が手にする地方交付税分+地方消費税収分=3.1%と他の税収からの振り分けで現在の福祉レベルから「世界一の福祉都市」への飛躍が可能なのか、その辺をどうするのかも問題となる。
そういった具体的な説明なしで、「東京を世界一の福祉都市にしたい」と言っている。
いずれにしても、社会保障支出費に当てる税収が消費税収であろうと、他の税収であろうと、目標とする福祉レベルを実現するためにかかる予算の裏付けは必要であって、「世界一の福祉都市」が実現可能かどうかはデンマークと東京都の同等の予算のうち、消費税収等の予算の裏付けはひと先ず措いて、それぞれの社会保障支出費はどのくらいなのか、その金額の比較によっても判断できるはずである。
もしデンマークよりも遥かに少ない予算で「世界一の福祉都市」にすると言うなら、社会保障関係費を都民の生活を圧迫しない範囲で大幅に抑制するための創造的な改革が必要となり、今度はさすが舛添先生だと都民を唸らせるような見事な改革案を提示しなければならない。
だが、改革案を提示しているわけではない。
2012年度東京都予算案の概要は次のようになっている。
一般歳出4兆5,231億円。
特別会計3兆6,303億円
公営企業会計1兆9,950億円
合計 11兆7,742億円
約12兆円ということになる。
では社会保障支出費をどのくらいなのか調べてみたが、いくら調べても、一般歳出しか出ていない。
1年後の2013年度で見てみると、一般歳出は上記予算案よりも増えて、4兆5,943億円。
福祉関係予算は9,618億円。一般歳出の約5分の1強となる。全合計予算を12兆円と見て、大雑把な計算となるが、その5分の1は2兆4千億円。
勿論、これに国の社会保障支出費が各都民に加わる。平成23年度の「社会保障給付費」国民1人当たりで84万1100円だそうだから、都民1300万人にかけると、1兆円を超える。合わせて約3兆4千億円。
デンマークについては次の記事を参考にする。
【ソウル聯合ニュース】韓国政府の支出のうち社会保障費が占める割合(2011年基準)は13.1%と経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち最下位だった。OECD加盟30カ国を対象にした調査結果を韓国安全行政部が5日に明らかにした。
社会保障費の支出が最も多かったのはデンマークで43.8%だった。ドイツ(43.3%)、ルクセンブルク(43.2%)、フィンランド(43.1%)、日本(42.7%)などが続いた。30カ国の平均支出割合は35.6%だった。
一方、韓国政府の支出のうち「経済活性化目的」の割合は20.1%で30カ国のうち最も高かった。アイルランド(16.4%)、ハンガリー(14.4%)が韓国に続いた。平均は10.5%だった。
国内総生産(GDP)のうち政府支出が占める割合で、韓国は30.2%となりワースト2位だった。57.6%のデンマークが最多で、フランス(55.9%)、フィンランド(55.2%)が続いた。
デンマークの社会保障費政府支出は43.8%。
12兆円の43.8%は5兆2560億円。
予算規模が東京都とデンマークがを同じ規模であったとしても、社会保障関係予算はデンマークの方が約2兆円も多い。やはり医療費、大学卒業までの教育費(学生の間は返済義務がない生活支援金の支給を含む)、出産費、介護福祉費は基本的に無料の高福祉制度の裏付けは一律25%の消費税ということになる。
だが、その裏付けもなく、また低予算で高福祉を実現する創造的な改革案を示しているわけでもなく、いくら東京都が日本の首都であっても、一地方自治体としてデンマークと同等の消費税の裏付けを自らつくり出すことはできない以上、「東京を世界一の福祉都市にしたい」の主張はハッタリでしかなく、そのハッタリ度に於いてのみ、世界一だと言わざるを得ない。
先ずは「東京を世界一の福祉都市」にするためにはどのくらいの財源が必要なのか、その財源はどう捻出するのか、その裏付けを明らかにする説明責任が要求される。ただ「東京を世界一の福祉都市にしたい」と主張するだけでは無責任である。
もっとも無責任とハッタリがふさわしい舛添要一先生ではある。
《慰安婦問題「蒸し返されるのはおかしい」 籾井NHK会長会見要旨》(MSN産経/2014.1.25 21:05) 《NHK 籾井新会長が記者会見》(NHK NEWS WEB/2014年1月25日 18時 29分)
籾井NHK新会長「慰安婦は、今のモラルでは悪い。僕はいいと言っているのではない。しかし、そのときの現実としてあった。この2つを分けないと分かりづらい。個人的見解だが、韓国だけではなく、戦争地域に僕はあったと思う。ほかの地域になかったという証拠はない。ドイツにもフランスにも、ヨーロッパにはどこでもあっただろ う。この問題は、韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい。それは日韓基本条約で国際的には解決している。それを蒸し返されるのは おかしい」――
籾井会長のような人間がいるから、今までブログ等に書いてきた同じようなことを繰返して書かなければならなくなる。
言っていることは一面的には正しい。確かに従軍慰安婦はドイツやフランスにもあったはずだ。第2次世界大戦でドイツが占領したフランスでフランス人女性がドイツ人兵士に売春行為を働いて、敵国に身を売ったと頭を丸坊主にされた女性も存在した。
但し彼女たちは生活のため、その他の理由で自ら進んで身を投じた売春婦であったはずだ。
だが、軍が売春業者を使って女性を募集しただけではなく、軍自らが直接関与して未成年者を含む若い女性を暴力的に略取・誘拐して彼女たちの身体と精神の自由を奪い、軍自らが売春宿を経営した例は第2次世界大戦中、日本軍を措いて他にはないはずだ。
軍自らの経営であることは性病予防のために慰安所に軍医を置いていたことが何よりの証明となる。
上記例はインドネシア人女性元従軍慰安婦からの聞き取りを書き記した『日本軍に棄てられた少女たち ――インドネシアの慰安婦悲話――』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・山田道隆訳・コモンズ)の書物内容を引用する形で、2014年1月5日の当ブログ記事――《日本軍は戦時中のインドネシアで未成年者略取及び誘拐の罪を犯して従軍慰安婦狩りしていた - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
書物には軍の兵士がトラック等で乗り付けて直接略取・誘拐していった例と留学の口実で集めて従軍慰安婦に仕立てた例が書かれているが、後者は日本軍が備えていた有無を言わせない威嚇性・強制性を手段とした従軍慰安婦狩りであったのだから、いわば後難を恐れて仕方なしに従った経緯を辿っていたのだから、実態は仮面の裏側に強制連行の力学を隠した従軍慰安婦刈りと言えるはずで、この構造は前者と同じであるはずだ。
前者は収容所に収容していたオランダ人女性に対しても行われた。彼女たちの中には17、8歳の未成年女性も含まれていた。
インドネシアで行われていたことが、例え文書で残っていなくても当時の朝鮮や中国で行われていなかったとする証明とはならない。インドネシアでの留学勧誘は常に口頭で行われて、軍が現地地区の代表に公告等の文書で伝えたのではなかったとしている。当然、文書の形としては残らないことになる。著者は軍の評判を落とすことになる証拠が残ることを恐れたからではないかとごく当たり前の推測を行っている。
朝鮮半島の朝鮮人女性に対する強制連行ではないが、朝鮮人男性に対する労働動員のための日本への強制連行を記した文書は存在している。2007年4月24日の当ブログ記事――《初めに認めまいとする意志ありの従軍慰安婦認識‐『ニッ ポン情報解読』by手代木恕之》に書いたことだが、《朝鮮人 強制連行示す公文書 外務省外交史料館「目に余るものある」》(朝日新聞/1998年2月218日)が、〈アジア・太平洋戦争末期に、植民地だった朝鮮半島から日本へ動員された朝鮮人に対して、拉致同然の連行が繰返されていたことを示す旧内務省の公文書が、外務省外交史料館から発見された、「強制連行」についてはこれまで、被害者の証言が中心で、その実態が公式に裏付けられたのは初めてと見られる。水野直樹・京都大学助教授が発見、整理した。28日、「朝鮮人強制連行真相調査団」を主催して千葉市で開かれるシンポジウムで発表される〉――
この公文書は内務省嘱託員が朝鮮半島内の食料や労務の供出状況について調査を命じられ、1944年7月31日付で内務省管理局に報告した「復命書」だという。
いわば身内の実見記録である。これ程の証拠はない。
この「復命書」にかんして、「Wikipedia」の項目、《「朝鮮人強制連行」》には次のように解説されている。
〈1944年7月31日付、内務省嘱託 小暮泰用から内務省管理局長 竹内徳治に提出された「復命書」
・「四、第一線行政の実情 殊に府、邑、面に於ける行政浸透の現状如何」
…民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ
・「六、内地移住労務者送出家庭の実情」
「…然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であろうか、一言を以って之を言うならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない。朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である…」
・「七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何」「動員の実情」
徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである。
この復命書について、元朝鮮総督府高級官僚であった大師堂経慰氏は「この報告は朝鮮総督府への要求を緩和させるための、陳情の目的もあった事を理解して頂きたい」「これは朝鮮全体として見ると、決して一般的ではなかった。地方地方で事情が異なっており、各人により対応が異なっていた」と語っている。〉――
「無理強制暴竹」の「暴竹」とは、竹を用いた殴打のことを指すのだとしたら、江戸時代の牢屋の取りべ場面を戦中に実現させていたことになる。あるいは戦前の日本の警察の取り調べでは依然として竹を用いた殴打を自白強要の装置としていたのだろうか。
いずれにしても、「殴打」、「呼出拷問」、「不意打的人質的拉致」、「傷害致死事件」、「寄附は徴収」、「人質的掠奪的拉致」、「夜襲、 誘出」等々、強制外の何ものでもない言葉が並ぶ。
この強制が現地の朝鮮人警察官が行ったものだとしても、日本軍の威嚇性・強制性を背景とした情け容赦のない暴力的強制であったはずだ。
最後の元朝鮮総督府高級官僚であった大師堂経慰氏の釈明「この報告は朝鮮総督府への要求を緩和させるための、陳情の目的もあった事を理解して頂きたい」は、例え上からの指示で強制連行に於ける強制性が緩和されたとしても、あくまでも上からの指示に対する従属であって、本性自体は上の指示に自由な場でこそ現れる。
いわば上の指示に自由な場で現れる姿こそ、長年の慣習によって積み上げられ、築き上げることになった本性だということである。日本人でさえ、日本軍人は警察官以上に怖い、絶対的な存在であった。
「これは朝鮮全体として見ると、決して一般的ではなかった。地方地方で事情が異なっており、各人により対応が異なっていた」と言っていることも、日本軍自らが体現していた威嚇性・強制性を身内であるからこそ自覚していなかったことが理由となった自身に対する慰めでしかないことは、中国からも労働徴用の強制連行が行われていたことが証明している。
労働徴用の強制連行ではないが、強制性を持った連行の一つについて、戦争中インドネシアに日本海軍の主計官として派遣されていた中曽根康弘元首相が自身の著書で次のように書いている。
中曽根康弘「3000人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」――
「原住民の女を襲うもの」が出たとは例え一時的な措置であったとしても、略取・誘拐・強姦の強制行為以外の何物でもない。そこに未成年のインドネシ女性が含まれていなかった保証はない。
調べてみると、中曽根康弘の所属する部隊がインドネシア・ダバオに上陸したのは1942年である。「復命書」は1944年7月31日付。それ以前から行われていた暴力的強制連行であるのだから、さして時間差はない。
「決して一般的ではなかった」とする日本軍の各種強制連行・強制行為の非一般性は根拠のない証明と化す。
かくかように日本軍が直接関わって未成年者を含む若い女性を拉致・誘拐し、拉致・誘拐した場合の女性に対しては慰安所に閉じ込めて身体と精神の自由を奪い、集団強姦の生贄とした例が、いくら「個人的見解」だとしても、果して「韓国だけではなく、戦争地域」に於いて日常的な風景としていたと言えるのだろうか。あくまでも日本軍に特殊な風景・慣習としか思えない。
各マスコミがこの発言を批判的に捉えて報道しているにも関わらず、NHKはこの発言を抜かした報道となっている。理解できるように全文を参考引用しておく。
25日、NHK の新しい会長に就任した籾井勝人会長が記者会見し、不偏不党や公平をうたった放送法の順守に努めるとともに、国際放送の充実に取り組む考えを示しました。 籾井会長は70歳。三井物産の副社長などを経て、ITサービス会社の日本ユニシスで社長や特別顧問などを務めました。
記者会見で、籾井会長は「私がまず第一に挙げているのは放送法の順守で、放送法に沿った経営をやっていくことが、われわれに課された重大な任務だ。職員一同が放送法をもう一度身近に考えるよう徹底していきたい」と述べ、不偏不党や公平をうたった放送法の順守に努める考えを示しました。
また、籾井会長は「国際放送の充実など、さまざまな課題をしっかり実行に移していきたい」と述べました。
報道の自由である。何を伝えるか伝えないかの取捨選択は各マスコミの選択にかかっている。だが、新会長の記者会見を一つの社会的な出来事としてニュースで取り上げておきながら、事実を取捨選択して、そこに現れた重大な発言を事実通りにありのままに伝えない報道は、果たして報道の自由の範疇に入るだろうか。
もしそれが報道の自己規制だとしたら、自ら報道の自由を踏みにじる事実隠蔽に相当し、公共放送として大問題となる。
都知事選序盤戦の各マスコミの世論調査で、舛添要一が一歩リードと見出しが踊っている。かつて首相にしたい政治家のトップに顔を出したこともある舛添要一である。国民・都民の見る目に間違いはない。舛添要一の政治的才能・行政能力に対する高い評価は当然の成果なのだろう。
いわば舛添要一は現在の情勢では限りなく都知事の椅子に近い場所に位置をつけている。彼の目の中には都知事の椅子がちらついているのかもしれない。
人格的共通項の中に都知事職に関係しない菅無能元首相を入れたが、国と都の違いはあるものの、行政のトップに立ち、リーダーシップを発揮していた立場は同じくするゆえに人間としての比較対象の資格は十分にあるはずである。
都知事に限りなく近い位置につけている舛添要一は主役として、人格的共通項としてのその評価は最後に回すことにする。
先ず猪瀬直樹前都知事。その人格について、《瀬知事辞職:鋭い舌鋒、裸の王様に》(毎日jp/2013年12月19日 23時38分)は次のように伝えている。
〈国際オリンピック委員会(IOC)総会で2020年東京五輪の開催が決まった9月7日の深夜。猪瀬氏は珍しく、ホテルの一室に担当記者を集め、 満足げにビールグラスを傾けながら招致活動の内幕を語った。高円宮妃久子さまの総会出席が実現したのは自身の功績だったと強調し、「僕は『ミカドの肖像』の著者だよ」と力を込めた。〉――
東京開催が決まったことに強い高揚感を持つのは理解できる。だが、ベストセラー作家としての功績を持ち出して、そのことを以って自身の能力をオールマイティであるが如くに言うのは自らを何様と見立て、誇っていることになる。
いわば猪瀬直樹なる人間は何様意識をバックボーンとして対人関係を築いていたことになる。何様意識は自らを一大権威に仕立てていることによって可能となる精神性である。当然他者との関係は自身の一大権威に対して他者を遥か下に置くことになる。人間を上下関係で見、上下関係で扱う権威主義者ということになる。
このことは記事の後半の件(くだり)が証明している。
〈石原前知事の後継として約4万人の都庁職員のトップの座に就くと、鋭い舌鋒(ぜっぽう)は内部にも容赦なく向けられた。
知事室に説明に入った幹部職員を怒鳴りつけるのは日常茶飯事。ある課長は、資料の中にある国会議員の出身県が答えられずに叱責され、上司に「もう入りたくない」とこぼしたという。「約434万という空前の得票がワンマンぶりを加速させた」と嘆く職員は多い。〉――
「約434万という空前の得票がワンマンぶりを加速させた」というのは事実だろう。だが、元々は自身の何様意識――自身を一大権威と見做す権威主義を素地とした、具体的には「ミカドの肖像」の著者としての権威に「約434万という空前の得票」をさらなる権威に付け加えた「加速」であるはずだ。
権威主義者は人間関係を上下で価値づけるゆえに自身が上の地位・立場に位置すると、下の地位・立場の者を上の権威に絶対的に従わせようとする関係力学が働く。
このような上下で見る関係力学は下の者を一個の人格と満足に認めない対等意識を欠くがゆえに可能となる関係性によって成り立つ。だから、幹部職員に対する怒鳴りつけを「日常茶飯事」とすることができる。
部下が怒鳴りつけられることが日常的となると、部下たちは怒鳴りつけられる恐れから自律性・主体性を失って相手の顔色を窺いながら行動する萎縮した組織と化し、上下が対等な立場で相互に自律的・主体的に機能し合う活性化した組織を縁遠くする。
また、怒鳴りつけることで動かす人心掌握とはリーダーシップとは似て非なるものである。
このような人格的欠落を抱えていながら、あるいは人間性に欠陥を抱えていながら、猪瀬直樹は「約434万という空前の得票」を得て、都知事の椅子に座り、約1300万人という都民に対する政治を動かすに至った。
この人格的欠落、あるいは人間性の欠陥から見たなら、徳洲会グループから5000万円借入疑惑で辞任に至ったのは当然の結末と言えないことはない。
猪瀬直樹のこのような自身を何様に見立て、下の地位・立場の者を自身と同等の一個の人格を有する存在だと認めることのできない権威主義的性格は菅無能元首相も共通項としている性格である。
2011年3月11日の東日本大震災発生前のことだが、この性格を象徴的に伝えている記事がある。
政府関係者「菅首相に事前の説明をしていると、何度も怒鳴られる。官僚は怒鳴り散らされるから、だんだん寄りつかなくなる」(毎日jp/2010年12月31日 10時34分)
菅無能「首相官邸は情報過疎地帯だ。役所で取りまとめたものしか上がってこない。とにかく、皆さんの情報や意見を遠慮なく私のところに寄せてほしい」(YOMIURI ONLINE/2010年11月2日 21:16))
怒鳴りつけられるから、官僚が寄りつかなくなる。だが、菅無能は、相手の人格を認めない自身を何様に置く権威主義に原因があることに気づかない頭の程度だから、「首相官邸は情報過疎地帯」だと、そういう場所だとして、そのことに原因があるとすることができる。
首相官邸が情報過疎地帯であることがどれ程に恐ろしいことか気づかない。菅無能も裸の王様だった。
当然、リーダーシップを発揮できる能力を抱えているはずはなく、東日本大震災が発生して、満足に初期対応も、その後の危機管理も機能させることができなかったのは必然性があったとさえ言うことできる。
その証明を一つ。
東日本大震災が発生すると、菅無能は官邸5階の総理執務室で震災対応、特に福島原発事故対応の会議を開き、その会議を参加者たちは「御前会議」と呼び習わし、菅の判断を仰ぐとしていたという。
要するに菅無能を天皇に位置づけていた。天皇に位置づけるとは自身を絶対者としていたことを意味する。
この権威主義は如何ともし難い。天皇である菅無能に下手なことを言うと怒鳴られるゆえに恐る恐る顔色を窺いながら怒鳴られないような意見しか言わない雰囲気が醸し出され、それが当然の会議の場での空気・慣習となる。
満足な情報共有・情報交換ができるはずはない。リーダーシップとは言えないリーダーシップを有した人間が1年3カ月も日本の首相の座に就いていた。恐ろしいことではないか。
同じ性格を共通項とした舛添要一。
舛添要一は2度目の妻として大蔵省在職中の片山さつきと見合いし、1986年に結婚。しかし3カ月後には片山が弁護士に相談する事態に陥り、調停を経て89年に離婚したと「Wikipedia」に書いてある。
そして片山さつきの週刊誌での証言として、夫婦喧嘩になると舛添は怒鳴る、物を投げつけるなどの乱舞な行為に及んだという。
さらに今回の元夫の舛添要一の都知事選立候補。2014年1月14日付「MSN産経」記事が、片山さつきは安倍晋三から舛添要一に対する支援を求められたが、難色を示したことを党大会が開かれた都内ホテルで記者団に語ったと伝えている。
安倍晋三「誰よりも片山さんに(舛添氏の)応援に立ってほしい」
片山さつき「舛添氏は障害を持つ婚外子に対する慰謝料や扶養が不十分だ。解決されていない」――
片山さつきは舛添要一の人間性を問題にした。片山さつきと結婚する前から愛人を持ち、愛人が妊娠中であることを結婚3カ月で知ったという。
だが、舛添は片山さつきと離婚後、その愛人と結婚はせずに、別の女性と結婚している。
妻に対する怒鳴ったり、物を投げつけたりする乱暴な態度にしても、「障害を持つ婚外子に対する慰謝料や扶養が不十分」という姿勢にしても、自身の人格のみを認め、他者を一個の人格を有する存在と認めていないことによって可能とする権威主義に立った責任対応であるはずだ。
いや、愛人を存在させたこと自体、片山さつきの妻としての人格を認めていなかったことになる。
まさに猪瀬直樹と菅無能と舛添要一は権威主義者である点、権威主義者であるゆえに人間関係を上下で見て、下の地位・立場にある者の人格を認めない点を性格的な共通項としている。
権威主義者である舛添要一が都知事選に当選して都知事に就任したとしても、果たして猪瀬直樹や菅無能元首相と同様、満足なリーダーシップを発揮できるだろうか。都庁を萎縮した組織に築き上げることになりはしないだろうか。
舛添が言っている「五輪を成功させ、東京を世界一にしたい」も覚束なくなる。
生活の党PR
生活の党2014年度定期大会開催(大会終了後、小沢代表記者会見)
○ 開 催:2014年1月25日(土) 11:00~12:00
○ 生中継:ニコニコ生放送
○ 生中継:インディペンデント・ウェブ・ジャーナル(IWJ)
安倍晋三が1月22日のスイスのダボス会議基調演説後の質疑で現在の日中関係を第1次世界大戦前の英独関係に擬(なぞら)えたことに批判が集まっている。文脈上は、だから軍事的な偶発的衝突の回避装置の構築や関係改善に務めなければならないというものだが、これは尤もらしい主張に聞こえるものの、喩え自体は日本を当時のイギリスに擬(なぞら)え、中国を当時のドイツに擬えたのである。
この構図は昨日の当ブログ記事――《安倍晋三の中韓を悪者にして自身は正義の人を演じているダボス会議基調演説後質疑の狡賢いレトリック - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたのと同じ仕分けで、世界を相手にした公の場で日本を正義と位置づけ、中国を危険な悪者とする考えに立った喩えであるはずだ。
まさか逆ではあるまい。
勿論、どう喩えようと安倍晋三の考え次第だが、いわば日中間で国同士の握手のシーンを実現させるために日本を上に置き、中国を下に置いた善悪二項対立を描いて、最悪の危機的状況にあるとその危険性を訴えたとしたなら、相手も大国である中国は納得するはずもなく、反発を招くだけとなって、その外交感覚、合理的判断能力、頭の程度は以って知るべしとなる。
善悪二項対立を描いた以上、そのまま軍事的に対峙するというなら、まだしも論理的整合性を獲得し得る。「日本は中国の如何なる軍事的威しにも屈しない。日本は軍事的な備えを怠らない」と。
日本を正義とし、中国を悪者とする善悪二項対立の構図自体の終始一貫性も獲得することができる。
基調演説後の各国記者団との質疑応答の司会をしたというフィナンシャルタイムズの記者なのか、ギデオン・ラックマンなる人物が聞き出した日中善悪二項対立の安倍発言を記事で紹介している。
《ダボス出席の安倍首相、日中関係と第1次世界大戦前の英独を比 較》(フィナンシャル・タイムズ /2014年1月22日)(翻訳gooニュース)
ギデオン・ラックマン「中国と日本の間の戦争勃発は考えられるか」
安倍晋三「今の日中の緊張関係を第1次世界大戦に至る数年間の英独のライバル関係と比較すると、同じような状況だ。
今の中国と日本と同じように当時のイギリスとドイツの間にも、強力な貿易関係があった。だからこそ、この比較が成り立つのだ。最大の貿易相手国であっても戦略的な緊張が紛争勃発に至るのを、1914年の場合は防げなかった」(一部解説体を会話体に直す)
そして安倍晋三は、〈「偶発的な衝突」による紛争発生はとんでも ないことだと言明し、日中両国の防衛当局間のコミュニケーショ ン・チャンネル(通信経路)設置を改めて呼びかけた。〉という。
ギデオン・ラックマン氏は、〈安倍首相は興味深いことに、そのような紛争(日中間の戦争勃発)は論外だとこの機に明言しなかった。〉と、驚きの気持を込めて自らの感想を述べている。
そしてわざわざ第1次世界大戦前の英独関係を持ち出して、現在の日中関係に擬え、最悪の危機的状況にあるかのように描いてみせた。
安倍晋三は中国に対して、「常に対話のドアはオープンにしている」と言うだけで、自らは実質的な対中外交を何も発動できないでいる。尖閣諸島は日本の歴史的にも国際法上も日本固有の領土であることを絶対前提として、中国が求める領土問題の存在を認め、領土交渉のテーブルに就いて絶対前提としている固有の領土であることを論理的に主張し続ければ、実効支配している強みも味方して、領土交渉は儀式化も可能となる。
中国の防空識別圏設定も尖閣に於ける領土問題を認めないことの対抗措置であるはずだ。もしテーブルに就いて儀式化した交渉を延々と続けていたなら、交渉中の設定はあっただろうか。
安倍晋三の西独関係に擬えた論理からすると、もし関係改善の外交努力が功を奏さなかった場合、いわば1914年の場合と同じく、最大の貿易相手国であっても、戦略的な緊張が紛争勃発に至る、今日の日中関係に於ける自らが描いた経緯を辿る最悪の場面が浮上する危険性を抱えることになる。
靖国神社を参拝して、なお一層の中国の反発を買っている場合ではない。
靖国参拝によって中韓の反発を誘発しているところを見ると、安倍晋三が描く善悪二項対立の善・悪それぞれの立場も怪しくなって、立場自体を逆転させなければならないかもしれない。
以上見てきたような安倍晋三の外交感覚・頭の程度である。
昨日、1月24日午後の第186回国会安倍晋三施政方針演説でも、「地球儀を俯瞰(ふかん)する視点でのトップ外交」と麗々しく題して、「総理就任から1年ほどで、15回海外に出かけ、30カ国を訪問し、延べ150回以上の首脳会談を行いました。 ロシアのプーチン大統領とは、4度首脳会談を行い、外務・防衛閣僚協議も開催されました」と回数を持って成果・勲章しているところにも現れている外交感覚・頭の程度となっている。
そして明日1月25日からまたインドを訪問するという。
安倍晋三の外国訪問の予算が年度末を待たずに払底し、別のところから補充するとかマスコミが伝えていたが、安倍晋三の外交感覚・頭の程度にどれだけ予算を注ぎ込んだとしても、ザルに水の恐れ大である。
《トクする日本語 - NHK アナウンスルーム》
生活の党PR
《1月21日(火)小沢一郎代表が2014年初めての記者会見を行いました》
本日告示されました東京都知事選挙について、会見に先立ち開催された幹事会で、党として細川護熙元総理を勝手連的に応援することが確認され、これについての言及です。全文は党ホーム
ページよりご覧いただけます。 是非ご一読ください。
○ 『東京都知事選挙、細川護熙氏を応援』 【質疑要旨】
東京都知事選挙について
名護市長選挙について
民主党党大会への出席について
通常国会開会を迎えるにあたって
安倍晋三がスイスで開催世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」出席の1月21日(2013年)午後、政府専用機で出発、日本時間1月23日未明基調演説を行い、演説終了後の質疑応答で、靖国神社参拝と中国との関係について発言したという。
先ず基調演説冒頭発言の最初の発言について一言ケチをつけたいと思う。
安倍晋三「さて、『アベノミクス』と、私の経済政策は呼ばれています。誰が名づけたのかは、知りません。自分の名前を呼び続けるのはちょっと抵抗がありますが、ここは、この言葉を使わせてください」――
安倍晋三は「アベノミクス」なる自身の経済政策に非常に自信を持っている。その自信は過剰な領域にまで達している。「アベノミクス」こそが日本の長いデフレからの脱却の原動力となると信じ、「日本を変える」とまで広言している。
そのような自信を背景とした発言だと考えると、「アベノミクス」という名称が広く有名となっていることを前提としていながら、「誰が名づけたのかは、知りません」と自然に湧いて広まった現象だと見せかけて、それだけ「アベノミクス」は衝撃的な効果性を世間に与えたとする文脈となる。
当然、その文脈には誇り、自慢する気持を隠していることになる。その一方で、「自分の名前を呼び続けるのはちょっと抵抗がありますが」と謙虚さを見せてはいるが、相手の否定を誘って逆の効果を持たせる意味で使った謙虚さなのは明らかで、前後の文脈は誇りと自信で一致している。
アベノミクスの最終的な成果は今後の本格的に打ち出していく第三の矢である「成長戦略」の実効性にかかっていることは誰の目にも明らかであるはずである。まだ結果を見ないうちの、既に結果を出したかのような誇りと自信は却って危険であり、何がしかの謙虚さを見せるべきだが、謙虚さをクスリとしていない。
このことは中韓に対する外交姿勢にも現れている。
安倍晋三は「アベノミクス」なる名称を「誰が名づけたのかは、知りません」と言っているが、私自身は中川秀直が第1次安倍内閣時代に安倍晋三の経済政策をそのように名づけたと、何かを読んで記憶していたから、記憶を確認するために「Wikipedia」で調べてみた。解説の誘導によって、次の記事に、犬も歩かずに棒に当たった。
アベノミクス(2013年4月17日(水))
最近、経済ニュースでよく耳にすることば「アベノミクス」。この「アベノミクス」は「アベ」+「(エコ)ノミクス」を結びつけた造語です。「エコノミク ス」は「経済学」という意味。そのまま読むと「安倍経済学」となりますが、今回安倍総理が掲げている経済政策全体を「アベノミクス」といいます。
このことば、安倍総理は自分が作ったことばではないと言っており、主にマスコミが多く使うことばとして広まっています。さて、この「アベノミクス」、最近 になって使われはじめたことばではないのです。調べてみると、実は、平成18年(2006年)、第一次安倍内閣のときにすでに使われていました。【経済成 長と財政再建は矛盾するものではないとの経済政策『アベノミクス』の基本哲学をひしひしと感じる】当時の幹事長、自民党の中川秀直氏の発言です。
中川さんが作ったことばかどうかは分かりませんが、第一次安倍内閣は1年しか続かなかったため、この時には定着しなかったようです。ところで、「アベノミ クス」にはその先祖となることばがあります。「レーガノミクス(レーガノミックス)」。1980年代アメリカの、レーガン政権の経済政策です。インフレと 不況を脱出するために大胆な経済政策の転換をしたことからこの名がつきました。「サッチャリズム」も有名です。「サッチャー」+「イズム(主義・説)」の ことで、同じ時期にイギリスのサッチャー首相が大胆な政策の転換をしたのです。このアメリカとイギリスの政策転換は、日本をはじめ他国にも大きな影響を与 えたことから、その名前が残っているのかもしれません。
明らかにレーガノミクスのもじりであり、多くの人がそのことを知っているはずであるし、安倍晋三自身が任命した自身の内閣時代の党の総裁に次ぐ重要役職である幹事長が言い出した名称であることを知らなかったと言っても、誰も信じないだろう。
また、中川秀直自身が安倍晋三に対して耳に入りやすい言葉として、「あなたの経済政策を『アベノミクス』と名づけて売り出しましょう」ぐらいは伝えたはずである。
それを「誰が名づけたのかは、知りません」と言う。ハッタリ以外の何ものでもなく、ここにも謙虚さのなさと自信過剰が現れている。
この記事で問題にしたいのは中韓に対する外交姿勢で見せている謙虚のなさであり、謙虚さとは逆の傲った姿勢である。
この姿勢はダボス会議基調演説終了後の質疑応答にも現れている。
靖国神社参拝で中韓の反発を招いたことについて。
安倍晋三「国のために戦った方々に敬意をもって手を合わせ、冥福を祈るという世界各国のリーダーと同じことをした。 二度と戦争の惨禍で人々が苦しむことのない世界をつくると不戦の誓いをした。
課題があるからこそ胸襟を開いて首脳 間で話し合いたい。対話のドアはい つも開いている」(時事ドットコム)――
さらに安倍晋三は今月末から始まる中国の旧正月に当たる「春節」を祝うため日本滞在中国人向けの新聞3紙に寄稿したと、その内容をマスコミが伝えている。
安倍晋三「日本は戦後68年間にわたり、ひたすらに平和の道をまい進しており、今後も この姿勢を貫くことに何ら変わりはな い。積極的平和主義の観点から、国際社会の平和と安定にこれまで以上に貢献し ていく。
日中両国は今後、手を携え、地域と国際社会全体の発展のために責任を果たしていかなければならない。個別の課題があっても、2国間関係全体に影響させないようコントロールしていく 『戦略的互恵関係』の原点に立ち戻ることが必要であり、首脳レベルを含めて、さまざまなレベルで対話を行っていくことが重要だ。私の対話のドアは常にオープンだ」(NHK NEWS WEB)――
言っていることはほぼ同じであり、いつも言っていることの繰返しとなっている。
先ず安倍晋三は尤もらしい言葉遣いで例の如くに靖国参拝を正当づけているが、それは安倍晋三の自らの歴史認識に於ける価値観からの正当づけであって、中韓とは歴史認識の点で価値観が異なることを一切無視する驕りで成り立たせた正当づけ――価値観に過ぎない。
韓国外務省報道官が1月23日の定例記者会見で、ダボス会議後の質疑で安倍晋三が靖国参拝に理解を求めたことについて次のように批判している。
韓国外務省報道官「参拝しながら韓日友好を語るのが如何に矛盾しているか、韓国だけでなく、全世界のメディアと知識人、良識ある人々が声を上げ ている。この声が聞こえないのは理解しがたい。
参拝は、帝国主義時代に日本が犯した過ちを反省していないのと同じだ。首相ら政治指導者が靖国神社を参拝しないことが、韓日友好、地域の安定の出発点だ」(時事ドットコム)――
これが韓国の歴史認識上の価値観であり、中国も同じくしている価値観であろう。
いわば安倍晋三は中韓の価値観を無視し、自身の価値観を押し通した。
押し通すなら押し通すで以後の姿勢も終始一貫、整合性を持たせなければならないはずだ。
相手の価値観を無視して、自身の価値観だけで行動すれば、相手から反発を買うのは当たり前で、反発を予定調和としなければならない。
いわば中韓が反発することを分かっていながら靖国参拝を強行して相手の反発を誘い込んでおきながら、「日中両国は今後、手を携え、地域と国際社会全体の発展のために責任を果たしていかなければならない」だとか、「個別の課題があっても、2国間関係全体に影響させないようコントロールしていく 『戦略的互恵関係』の原点に立ち戻ることが必要」だとか、「首脳レベルを含めて、さまざまなレベルで対話を行っていくことが重要だ」、「私の対話のドアは常にオープンだ」などと自身の言っていることを正しい主張だとする論理・論法で発言を成り立たせている。
当然この論理・論法には自分の正しさに反して相手を間違っているとする位置づけが行われている。
これはケンカを売って仲違いを誘発しておきながら、自身の態度は改めずに仲違いは良くない、友好な関係が必要だから、話し合わなければならない、話し合わないのは間違っていると相手を批判するようなもので、この論理・論法にも話し合いに応じないことを理由に相手を批判することで悪者に位置づけて、友好な関係を求める話し合いの必要性を訴えている自身を正義の人に位置づける作為が込められていることになる。
もう一つ別の喩えを言おう。
夫の妻に対する家庭内暴力に耐えかねて妻が離婚を申し出たが、夫が応じないので裁判に訴えて離婚が認められた。夫は裁判の結果を承服することができず、妻に電話して話し合って関係を修復しようと申し出るが、妻はもう話し合う必要はない、電話もかけないでくれと断る。夫は妻に話し合わないのは卑怯だ、正しい態度とは言えないと妻を非難したとしたら、その非難の中で自身の態度こそ正しいと位置づけていることになる。
安倍晋三の自身に対する位置づけはこれらと同類じである。
基調演説での次の発言は中国を悪者にするための文脈となっている。
安倍晋三「アジア地域を、武力と威嚇でなく、信頼と秩序の地域としていくために、最後に私は、アジアと、そして世界へ向けて、訴えたいと思いま す。
われわれは、アジア地域において、際限なく軍備が拡張されることを抑制しなければなりません。
軍事予算を徹底的に透明にし、検証可能なかたちで公表すべきです。危機管理のためのメカニズム、軍同士のコミュニケーション・チャネルを整備すべきですし、海洋に関する国際法に基づいた行動を促すルールを、整えていかないといけません]――
これは世界に向けて発信すべき言葉ではなく、中国に向けて直接発信すべき言葉であるはずだ。だが、そうはせずに諸外国を回って、訪問国から世界に向ける形で発信するのみで、そうすることによって、独り中国を悪者に位置づける作為を果たしている。
狡賢いレトリックの駆使には長けているが、外交に長けた政治家とは決して言うことはできない。
尤も、安倍晋三の合理的判断能力の欠如にふさわしい外交能力の欠如とは言うことができる。
コメント(2014-01-19 00:13:11)
1月19日に当2013年10月4日記事ブログ記事――>《安倍晋三の靖国神社とアーリントン墓地との等価値論に矛盾する米閣僚の千鳥ケ淵墓苑との等価値化 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に関してコメントを頂いた。確か似たような批判を幾つか頂いているから、公開だけで済まそうと思ったが、批判に対する自分の考えを少し述べてみることにした。
投稿者名「異論」
タイトル「こんばんは!」
〈まあ、仮に大日本帝国が"「天皇のため・お国のため」を口実に兵士を弾避(たまよ)けに使い、犬死にさせてしまうような国”だったとしても、それならばなおのこと贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべきではないでしょうか?
そもそも大日本帝国とその指導者についての考察があまりに不十分かつ一方的なので説得力の一切を欠いていますが。〉
「そもそも大日本帝国とその指導者についての考察が」云々以下は全く以って合理的かつ正当な批判だと思う。説得力がないことは即、僅かなアクセス数に現れている。
だが、前半の主張――「まあ、仮に大日本帝国が"『天皇のため・お国のため」を口実に兵士を弾避(たまよ)けに使い、犬死にさせてしまうような国”だったとしても、それならばなおのこと贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべきではないでしょうか?」には明らかに論理矛盾があるように思える。
兵士の人権を軽視して、その生命(いのち)を粗末に扱ったことを歴史的事実として前提とすると、例え戦後「民主化された平和な日本」国家であったとしても、その国家は戦没した兵士たちを英霊と顕彰する資格を持たない。
戦前日本が兵士に対してその人権と自由を最大限に尊重する国家であったとき初めて、その国のために戦い、生命(いのち)を犠牲にしたなら、いくら顕彰しても検証し足りないだろう。
だが、兵士の人権を軽視して、その生命を粗末に扱った戦前日本国家が一方にあり、日本軍兵士がそのような国家のために戦い、生命(いのち)まで落としたことを歴史の事実として前提とするなら、戦前日本国家にしても戦前日本軍兵士にしても、両者共に少なくとも正義を勘違いしていたことになり、よくぞ国のため・天皇陛下のために戦ったと顕彰することは論理矛盾そのものの滑稽な儀式と化す。
滑稽な儀式から脱するためには顕彰ではなく、なぜ戦前日本国家と日本軍兵士、広く言うと日本国民は正義を勘違いするに至ったのか、その検証と総括から入って、戦前日本国家と特に日本軍兵士は勘違いした正義履行の共犯関係にあった以上、共に責任を認め合わなければならないはずだ。
当然、「贖罪と慰霊」は戦後日本国家と戦後日本国民が戦没兵士に対してではなく、被害を与えた外国政府と外国民を対象に行わなければならない責任と義務ということになる。
だとしても、兵士を含めた戦前の日本国民は戦前日本国家の下位に位置づけれら、国家に従属した関係を強いられてきた。国家が主導し、体質としていた人権軽視と自由の抑圧であり、国民、特に戦前日本軍兵士は自らもその体質を体現して、発揮することとなった。
その象徴的行為の一つが日本軍兵士による海外の占領地での現地人の14、5歳の少女に対する拉致・誘拐の従軍慰安婦狩りであり、その成果としての一日に数十人もの兵士を取らせた行為は国家から始まって日本軍兵士に連鎖していき、さらに外国民へと連鎖していった人権軽視と自由の抑圧であろう。
もし靖国の戦没者を「贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべき」であるとする主張が論理矛盾のない正当性を獲得するためには、戦前日本国家も日本軍兵士を含めた戦前日本国民も間違いのない正義を体現していたとしなければならない。
但し、そういったことを歴史的事実だとする前提に立って安倍晋三が靖国の戦没者を「国のために戦って尊い命を犠牲にした」と位置づけるなら、戦前日本国家は正義を体現していた国家であり、その国家が起こした戦争は正義の戦争だったとの歴史認識を正直に主張し、言葉を尽くしてそうであることの説明を尽くすべきだろ。
戦前日本国家は正しかった。戦前日本軍兵士も正しかった。当然、戦前の戦争は正義を体現していた。日本軍の戦没者は「国のために戦い、天皇陛下のために戦っい、尊い命を失うことになった」外国軍隊の犠牲者であったと。
このように主張し、証明して初めて、あるいはそのような歴史認識を描いて初めて、「贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべきではないでしょうか」という主張は論理的矛盾に陥ることなく、論理的な整合性を得るはずだ。
2013年12月27日、仲井真沖縄県知事は政府の日米合意に基づいた名護市辺野古沿岸部埋立て申請を正式に承認した。
仲井真知事「審査の結果、現段階で取り得ると考えられる環境保全の措置などが講じられてお り、基準に適合していると判断し、承認することとした。
政府から示された沖縄振興策は、県の要望に沿った内容が盛り込まれており、安倍内閣の沖縄に対する思いは、かつてのどの内閣にもまして強いと感じた。また、基地負担の軽減策でも、安倍総理大臣は沖縄の要望をすべて受け止め、交渉をまとめていくという強い姿勢を示された。
国際情勢は緊迫していると認識しており、沖縄は一定の役割を果たさなければならない。
県外の既に飛行場のある場所へ移設する方が最も早いという私の考えは変わらない。政府は、普天間基地の危険性の除去を図るため、5年以内の運用停止の実現に向けて、今後も県外移設を検討する必要がある。
(県移設を公約としてきたことに関して)公約を変えたつもりはない。一番重要なのは、宜野湾の街の真ん中にある危険な飛行場を街の外に出すことで、これを理解していただきたい。 5年以内の運用停止に取り組むという安倍総理大臣の確約を得ている。埋め立ての承認と県外移設を求めていくことは、危険性を減らすため並行して存在しうる」(NHK NEWS WEB)――
要するに政府の埋立て申請は内容に不備がないから承認した。2010年県知事選で掲げた普天間県外移設の公約に変わりはないとしている。
なかなかのタヌキ親父だ。最後の最後の土壇場で公約を裏切るのではないかという疑惑を拭い去ることができないでいたが、最後の最後の土壇場で到頭正体を現した。
いくら書類に不備がないからといって、「私は県内移設は反対だから」という理由で申請を不承認とすることもできたはず だ。つまり、公約との整合性を根拠とせずに書類の整合性を根拠として承認した。
その承認に対して、政府は「今後も県外移設を検討する必要がある」と言い、「埋め立ての承認と県外移設を求めていくことは、危険性を減らすため並行して存在しうる」と自己の判断を正当化している。
果たしてこの自己判断の正当性に根拠があるかどうかである。
安倍政権は埋立て申請が承認された以上、埋立てに向けて反対運動を除去しつつ進めていくはずだ。反対運動に抗し切れずに安倍政権が敗退し、辺野古移設から撤退した場合、アベノミクスが功を奏して経済が順調に回復していたとしても、政権は一挙に信用を失い、崩壊の危機を招きかねない。
そうなった場合、安倍政権は県外に移設を求めざるを得ず、仲井真知事の「県外の既に飛行場のある場所へ移設する方が最も早いという私の考えは変わらない」は先見の明を得て、正しかったことになる。
だとしても、公約との整合性を根拠に申請を不承認とし、反対運動を煩わさないで政府に県外移設を求める分かり易い方法もあったはずだ。
そして1月19日投票の名護市長選。辺野古移設反対の現職稲嶺氏が当選した。稲嶺市長は市の協力が必要となる行政手続きに一切協力しない、強固な移設反対姿勢を示している。
仲井真知事は稲嶺氏当選について投票日当日の夜、記者団に対して次のように発言している。《仲井真知事「もう承認した どうこうできない」》(NHK NEWS WEB/2014 年1月19日23時16分)
仲井真知事「この何日か、末松氏の陣営は非常にダイナミックな動きが出ていて、負けない手応えを感じていたので、『あれ』という感じが強い。
(普天間基地移設計画に与える影響について)民意が示されたという点では名護市の有権者の意向であり、大きいものがあるが、埋め立て申請はもう承認したので、私が今からどうこうはできない。移設に反対している稲嶺氏だと、おのずと、それなりに影響を受ける と思う」
記者「選挙の結果を受けて、職を辞す考えはないか」
仲井真知事「全 く無い」――
「この何日か、末松氏の陣営は非常にダイナミックな動きが出ていて、負けない手応えを感じていたので、『あれ』という感じが強い」とは、当選を期待していたということ以上に当選を予想していた印象を持っていた言葉の表現となっている。
と言うことは、移設推進派の市長の誕生を前提としていたことになって、反対運動が立ちはだかることは予想していても、その前提は安倍政権の少なくとも移設に向けたスムーズな行政手続きの実現を次の場面として想定していたことになる。
いわば仲井真知事は推進派の市長誕生を予想することで頭の中では移設の前進に向けたスケジュール状況を順次跡付けていたのである。
当然、このような跡付けは仲井真知事のホンネの現れ以外の何ものでもない。
ホンネが真に県外にあったなら、上記発言は出てこないし、そもそもからして名護市長選で辺野古施設推進派を応援することもないはずである。最低限、中立を守るか、逆に移設反対派の稲嶺氏を応援してこそ、公約を公約通りのホンネとすることができたはずだ。
政府の埋立て申請に対して書類の整合性を根拠とせずに公約との整合性を根拠して不承認としたはずだ。
だが、移設推進派の市長候補を応援して、当選を実現させることで辺野古移設に向けた障害が極力取り除かれることを望んだ。
ホンネが県内にある以上、昨年12月27日の発言、「県外の既に飛行場のある場所へ移設する方が最も早いという私の考えは変わらない」にしても、「埋め立ての承認と県外移設を求めていくことは、危険性を減らすため並行して存在しうる」にしても、単に政府の埋立て申請に対する承認を正当化するための詭弁でしかなかったことを自ら暴露する言葉の数々となる。
、図らずも暴露することになった。
最初から果たすつもりもない公約を掲げた確信犯だったと言うことができる。当選するために県外移設の公約を掲げ、当選を果たしたなら、密かに機会を狙って逆の公約を果たす心づもりでいた。
まさしくタヌキ親父そのものだが、沖縄県県民を最初から裏切っていたことになり、その責任は政府埋立て申請の承認撤回と県知事辞任という形以外では果たすことはできないはずだ。