2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(7)

2010-09-30 05:45:19 | Weblog

《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(6)》の続き(最終章)

 乙武が、親・教師がこうなって欲しい、こうなっては困るとうるさく指示して子どもを窮屈にするのではなく、少しぐらい失敗してもいい、親が責任を取ってやるとストライクゾーンを大きく構えて、子どもがもっと自由に生きいきと自分の良さを発揮できるようにすべきではないかと忠告を与えている。

 管理教育イコール権威主義教育・暗記教育だと先に触れたが、乙武のこの忠告は非管理教育のススメを示している。親・教師は子どもをこうなって欲しい、こうなっては困るとうるさく管理するのではなく、子どもがもっと自由に生きいきと自分の良さを発揮できるように管理から解き放つべきだとの非管理のススメである。

 非管理のススメは同時に権威主義教育・暗記教育からの解放のススメとなる。

 改めて言うと、管理とは上の者が下の者の行動を上の者の思い通りに指示通りに支配、もしくは規制することを言う。当然、下の者は上の者の指示通りの支配、もしくは規制を受けて行動することになるから、そこでは子どもが主体的存在として自分で考えて行動する独自性確保の余地を許さない。

 逆説するなら、親・教師は子どもを管理することによって、子どもを非主体的存在として閉じ込めて置くことになる。非主体的存在からはそれぞれが独自性を必要とする考える力も個性も育つはずはない。

 管理教育イコール権威主義教育・暗記教育だから、当然、権威主義教育・暗記教育にも言えるそれぞれの姿となる。

 そのことを乙武は次に言う。

 「当然、30人40人という人数で一人の教師が授業をするということだけを考えれば、確かにストライクゾーンを狭くしてその中にみんないてくれた方が楽ですし、効率的ではあるんですが、それでは個性を伸ばすことには全くならないので、ただ、教師が楽をするだけで、どんな暴投でも受け止めてやるっていうような、そういう広いストライクゾーンで子供たちと付き合うのは大切だと思う」と。

 管理ではなく、できるだけ子どもの主体性に任せる非管理のススメを説いている。本人は気づいていなくても、このことは権威主義教育・暗記教育からの解放のススメともなる。

 個性は自分から考えることから始まる。自分から考えることが既に主体的存在となっていることを示している。考える習慣が身につき、自分なりの考えに従って主体的に行動し、主体的に思考すること自体が既に個性の提示となっている。

 このような主体性の積み重ね、主体的思考と主体的行動の積み重ねによる思考と行動の深まりがそこに自ずと個性を際立った方向に導いていく。

 こういった経緯からすると、いわゆる“個性を伸ばす教育”を心がけるのではなく、日常普段の授業の中で生徒が自ら考える機会が持てるような“考える教育”を心がけることが個性教育の必須条件となる。“個性を伸ばす教育”と称して、上からの管理で知識・情報を与え、生徒がそれを自ら考え、思考して受け止めるのではなく、与えられたなりになぞり暗記して自身の知識・情報とする権威主義教育形式・暗記教育形式の“個性を伸ばす教育”なら、個性は何ら期待できないことになる。

 親、教師、大人が、ああしなさい、こうしなさいとボールを投げて、ああしなさい、こうしなさいどおりに子どもがボールをキャッチしていたのでは個性は育つ余地を与えない。

 要するに知識・情報、行動まで管理する管理教育からの解放、知識・情報、行動までなぞらせるストライクゾーンを固定した権威主義教育・暗記教育からの解放が求められていると言うことでなければならない。
  
 乙武のストライクゾーンの話に対して須田アナが、「確かにいい話なんですけど、寺脇さん、小学生、中学生のレベルで全体の学力のレベルの平均点を上げようと思うと、これは矛盾するのか、それとも、それが一番いいことなのか」と質問したのに対して、寺脇が、矛盾するが、基礎学力は大事であるものの、それだけで終わらないことをきちんと整理して子どもや保護者に言っていけばいいと分かったような分からないようなことを言っている。

 基礎学力だけで終わらないのは極々当たり前の話で、わざわざ言うことではない。言うべきことは、基礎学力自体が暗記教育をベースとした学力となっていて、生徒に自分で考え、思考する機会を用意していないから、基礎学力から応用学力への発展を困難にさせているということであろう。

 その点を把えた議論がない。

 もし基礎学力が生徒が自分で考えて思考するプロセスを踏んだ学力であるなら、自身の考え、思考を自分自身でさらに拡大、広範囲化させていき、基礎学力自体を応用学力へと自分から発展させていくはずである。だが、全然そうはなっていない。

 応用する能力、応用能力を備えたなら、教師、親からの知識・情報だけではなく、誰からの知識・情報からでも、テレビ・ラジオ、マンガ、雑誌からの、あるいは街で目に把える知識・情報からでも、そこに自分なりの思考を置くこととなって、与えられたなりに受け止めるのではなく、その思考を通した自分なりの知識・情報へと持っていくことができるようになる。

 肝心のことに気づいていないから、当然、「それだけで終わらないことをきちんと整理して」と言っても、見当違いのことを言っているに過ぎないことになる。

 寺脇が「学力テストの成績は何点だったとか、授業時間が何時間で増えたの減ったのだとか、教科書はページが増えたの減ったのみたいな」“数量的管理”が行われることになって、「マインドの面が出にくいところがある」と言っていることも、本質的な問題点がどこにあるのか気づいていないから、日本の教育がなぜ“数量的管理”を優先する教育となっているのかまでの追究がないまま、日本の教育に対して単に表面的な観察を一通り言及しただけのことで終わることになる。

 日本の教育が機械的暗記教育で成り立っているために、その機械的性格に対応してその成果を機械的にテストで問い、その点数のみで生徒の能力を機械的に評価する、最悪生徒の人間性までテストの成績で価値づける“数量的管理”が行われることになっている教育構造をまで問うことをしない。
 
 また、“数量的管理”はこういったことだけで終わらない。“数量的管理”にしても“知識・情報管理”と同様に考えるプロセスを省いていることによって生じている双子の管理形式となっていることを自覚的に把握しなければならない。例え教科書が薄くても、生徒が自分から考えて自分自身の知識・情報に高めていけば、それぞれの生徒の中で知識量・情報量が増えることになって、教科書の中の知識・情報は見えないところで増えていることになる。教科書の薄さは問題ではなくなる。

 知識・情報を一から十まで管理して段階的に暗記させる権威主義教育・暗記教育となっているから、多くを学ばせようとすると教科書を厚くし、授業時間を増やさなければならなくなることは既に書いた。

 教科書が薄ければ、その薄さに応じた少ない知識量・情報量に対応して生徒の暗記知識量・暗記情報量も少なくなる。暗記能力も個人差があるから、不得手の子どもはさらに知識量・情報量が少なくする。

 逆により多く覚えさせるとなると、1+1=2の教育で、1+1を生徒それぞれが自分で考えて3にもし、4にもする教育でないから、知識量・情報量を増やそうと思えば、1+1=2を2+2=4とか、3+3=6と順を追って与える知識量・情報量を順次機械的に増やしていかなければならないことになって、どうしても教科書を厚くし、厚くした分、授業時間も多くしていかなければならない。

 結果、教える量に従って生徒が暗記する量はイコールか、それ以下の暗記能力次第の対応を取ることになる。暗記している知識にしても、教師が伝えたとほぼ同じの意味・内容となる。

 暗記教育を食堂のチェーン店の料理作りに譬えることができる。本部が決めた食材とその種類、調味料配合、作り方等のレシピに従って、煮たり茹でたり、炒めたり、油で揚げたり、本部が指示した方法と時間で各チェーン店が仕上げていき、それぞれの料理へとレシピに忠実に則って機械的に纏め上げていく。そこに料理を仕上げていく従業員の味への工夫、盛り付けの工夫等はすべて許されない。単に本部が指示したレシピに従うのみ、従属があるのみである。

 レシピが暗記教育に於ける教科書か教師が伝える知識・情報に当たり、仕上がったレシピどおりの料理が生徒自身が暗記して獲得した知識・情報に当たる。間違えずに暗記さえしたなら、レシピ(=教科書、あるいは教師)が示す知識・情報と従業員(=生徒)が頭に暗記した知識・情報は何ら変わりはない。

 料理に対して各従業員の味への工夫や盛り付けの工夫が許されないように、暗記教育では知識・情報授受の過程で各生徒がそれらに対して自分で考え、思考して自分なりの知識・情報へと向上させることを許さない。本来的にそういった機会を与える教育構造となっていないからなのは既に指摘した。

 寺脇の意見に対して、清家教授が大学教授にふさわしい主張を開陳している。これも全文再現してみる。 

 「寺脇さんが言われたようにバランスの問題だと思います。ですから、もう少し基礎学力のところはもう少ししっかりやる必要があるし、それ以上のところについて、もっともっと自分で頭で考える能力を伸ばす。そのためには例えば大学生には卒業論文の中に入っていますが、もっともっと授業だけではなく、研究をさせる。つまり大学生というのは高校生のアレと違って、分かっている問題に答を出すのが勉強じゃなくて、問題を探すのが大学生ですから、一番大切な点で、基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」

 清家がここで殊更にわざわざ「問題を探すのが大学生ですから」と高校生との違いを断らなければならないのは、大学生がそういう状況の姿――高校生とは違う姿を取っていないからだろう。自分で考え、思考する習慣を与えない教育となっているのだから、当然と言えば当然と言える高校生とは違うことのない大学生の姿なのだが、しかし同時に「問題を探すのが大学生ですから」の指摘をそのまま裏返すと、“問題を探さないのは高校生まで”の指摘となる。

 「問題を探す」には考える力が必要となる。「分かっている問題に答を出す」には考える力を必要としない。いわば高校生までは教師が伝える知識・情報を伝えるままに咀嚼する教育、考え、思考するプロセスを介在させない教育でいいとの権威主義教育・暗記教育の逆説的容認となっている。「問題を探すのが大学生ですから」と大学生に限定し、その限定から高校生を外して「分かっている問題に答を出す」としたのは、そういった教育でいいとの意味で言っているはずだ。

 しかし大学生になってからは権威主義教育・暗記教育から離れて、「問題を探す」教育――考える教育をして欲しいと希望しているが、希望通りには大学生は「問題を探す」ところまでいっていない、高校生と同じだと指摘している。

 大学生が置かれている状況を把握して指摘はするものの、やはり、ではなぜそうなっているのかの原因追究の姿勢がない。原因を追究しない限り、抽象的に「問題を探すのが大学生」と言い続けなければならないことになる。

 基礎教育のところで生徒自身に考え、思考する機会を与えない教育となっていて、そのような基礎教育を受け継いで高等教育が成り立ち、そのことが原因で「問題を探すのが大学生」の姿を取ることができていないと言うことなら、「基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」の提言も無意味と化す。無意味なことを言っているに過ぎないということである。

 考える習慣を身につけていたなら、高校生の年齢で必要とされる知識・情報を自身の思考作用を通して自分なりの知識・情報へと高めていき、そういった経験を基に大学生の年齢で要求される知識・情報に対しても、同じく自分の思考作用を通して要求される以上に自分なりの知識・情報へと発展させていく経験を踏んでいくことになる。

 ここで両者間に問題となるキーワードは“考え、思考するプロセス”であるのだから、求めるべきは生徒の側の思考作用の一貫的な発展性であって、教育する側の「基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」といった教育形式ではないはずだ。

 現役教師の乙武が日本の教育が生徒が自分で考え、思考する教育となっていないことを物の見事に言い当てる発言を行っている。

 「僕が小学校で担任して最初に凄くビックリしたのは、子どもたちがトイレに行っていいですかって聞きに来るんですよ。つまり今休み時間なのにトイレに行っていいかと判断ができないし、国語のノートを取っていても、先生、新しいページにした方がいいですか、聞いてくるんですよ」

 自分で考え、思考することによって判断能力は自然と身についていく。だが、休み時間にトイレに行っていいのかどうかも自分で判断ができない。教師が知識・情報の授受と同じように、「休み時間だから、トイレに行ってきなさい」と指示したなら、あるいは許可を求められて許したなら、暗記と同じ形式で、指示した、あるいは許可されたトイレに行くという行為を指示したとおり、許可されたとおりになぞることはできるだろう。だが、そこには教師の判断はあっても、生徒自身の判断は存在しない。

 管理(=権威主義的行動様式)が知識・情報の授受だけではなく、授業とは関係のない生徒自身の行動にまで及んでいる姿をここに見ることができる。既に指摘したように生活指導に関しても管理教育となっている、権威主義教育・暗記教育となっているということである。

 乙武は須田アナに、そのときはどう教えるのかと聞かれて、考える癖がつくように仕向けるといったふうに答えている。このことも日本の教育が考える習慣のないことの間接的な示唆となっているが、乙武はここで日本の教育が暗記教育であることを直接的に言及している。

 「いいよって、一言言った方が僕も楽なんですが、それではいつまで経っても考える力がつかないので、今は何の時間?5分休みです。それはトイレに行っていい時間、ダメな時間?いい時間です。じゃあ行っておいで、と言うと、子どもたちも考える癖がついてくる。小学校で教えていて、これじゃあ子どもたちに考える力がついていないなと思ったのは、兎に角テストというのは教えたことを暗記して、それをテストのときに記憶から取り出してくるっていう作業ばっかりなんですね。ですから自分で考えるということが授業の中で普段の学習の中でなかなか行われていない」――

 乙武はここで日本の教育の問題点を解決する方法を示唆している。「自分で考えるということが授業の中で普段の学習の中でなかなか行われていない」

 「授業の中で普段の学習の中で」こそ、考える教育が行われるべきだとの指摘であろう。その実践の一つが聖徳太子の17か条の憲法に18条目を生徒に考えさせる授業だったはずだ。

 当然、日本の教育の問題点を論ずる場合、日本の教育は暗記教育の形式を踏み、そこに生徒が考える作業・考えるプロセスを含まない、逆に排除している構造となっているということを把握した議論とならなければならないはずだが、なかなかそういう姿を取らない。

 生徒が考える作業・考えるプロセスを備えた教育とするためには答は誰にも分かることだが、権威主義教育・暗記教育を廃止すること以外にない。だが、そのような廃止論が社会の中で優勢となる状況を未だ見ていない。日本の教育を語る議論の殆んどがこの番組も同じだが、表面的に観察して、表面的に解釈するだけで終わっている。

 現役教師の乙武にしても、日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義からきていて、それゆえに教師や親を含めた大人全体の行動と思考が関係している知識・情報の授受が原因だとまでは認識していない。

 確かに聖徳太子の17か条の憲法をもう1か条加えて18か条とするなら、どういった条文を付け加えたいかとする授業はユニークで、生徒に考え、思考する機会を与えはするが、「みんな自分も18条目の憲法をつくってごらん」と教師の指示を受けて考え、思考するという形式はそれが教師の教えをなぞった知識、情報をそのまま答とする形式ではなくても、教師の指示に従う暗記教育の形式に則っていることに変わりはなく、教師の指示を受けなくても自発的に考え、思考して答を見い出す形式とは自ずと違うことを認識して、そのような形式に近づくよう常に心がけなければならない。

 このことは、「そういう場を設定していくことが大事だ」からと言っていることにも当てはまる。そのような「設定」に励んだとしても、教師の指示を受けた「設定」であることに変わりはない以上、指示を与えなくても生徒自身が必要に応じて自分から考え、思考する主体的思考の習慣――自発的に考え、思考する習慣にまで高めることを心がける必要がある。

 そのような形式に持っていくためには、乙武は「(答の)どちらも○にした。自分で考える力があれば、考えたことなら、どちらも等しく○なんだと思うんです」と自分の判断のみで○としているが、その判断に生徒自身が考え、思考する判断を介在させなければ、教師が○としたから、機械的に○だと受け止めた場合、権威主義教育・暗記教育形式の知識・情報の授受と変わらないことになる。それぞれの答を生徒同士で評価させる議論を加えたなら、生徒は自ずと自分の考えで判断することなり、「そういう場」の「設定」こそが自発性の判断能力の訓練の場となるはずだ。

 「それでも半分ぐらいの子がノート白紙なんですよ。やっぱりしょうがないのかな」と言っていることは、教師から「18条目の憲法をつくってごらん」と指示を受けても、何も考えることができない子どもの存在を示している。

 しかし答えた生徒の内容の議論を生徒同士で行うことで、白紙で出した答えない生徒も、ああ、こういった18カ条目もあるんだ、こういった18カ条目もあるんだと判断を伴わせて耳から学ぶはずである。
 
 須田アナが聖徳太子の17カ条の憲法を常に17カ条としている日本の教育の画一性を前提に、「清家さん、画一的な、一歩脱皮するにはどうしたらいいんですか?」と尋ねたのに対して、清家は貴重な提言を行っている。再度全文再掲載。

 「一つは学問というものを尊ぶ心を持って欲しいと思う。学問を通じて我々は真実を知ることができる。例えば一番分かりやすいのは昼夜の動きですよ。我々の普段の観察から言えば、太陽とか星が動いていて、地球が止まっている。真実はそうではない。地球が動いていて、動いているわけですよね。つまり天動説じゃなくて、地動説。

 それを我々は天文学という学問を通じて真実を理解している。だから、先ず一つはそういう学問を通じて真理を理解できるということをきちっと押さえる。その上で、そういう学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出すことができるんだというふうに考えていくことが大切だと思う。だから、自分の頭で考えることができる」

 番組がテーマに取り上げていたことは学校教育の問題点であって、「学問を通じて我々は真実を知ることができる」とか、「学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出すことができるんだというふうに考えていく」といった空論に近い大層なことではない。清家の議論は考える根を持たないにも関わらず、考える木が育つことを前提に推し進めているに過ぎない。

 せめて幼保、小学校低学年で考える根を根づかせなければ、中、高学年、さらに中学校、高校へと向かって考える木の成長は期待できない。高校生までがそういう状態であるなら、当然のこととして大学生は考える根も持たない、考える木が育っていないままの状態で大学生の姿を取ることになる。だから、「問題を探すのが大学生ですから」と言わなければならなくなる。

 大体が、「学問というものを尊ぶ心を持」つに至るには、自分で考え、思考する自発性の優れた判断能力を必要・前提条件としなければならないはずだ。「学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出す」も同じであろう。ここで問題とされるのは当然のこと、「学問」ではなく、自分で考え、思考する自発性の判断能力であって、それなくして「学問」は存在しないに等しい。猫に小判であろう。

 土台がないまま、大学生になっていきなり自分で考え、思考する自発性の判断能力を獲得できるわけがない。にも関わらず、清家は自分で考え、思考する自発性の判断能力を抜きにして、学問だ、学問だと言っている。学問を学ぶことによって、「新たなセオリーを創り出すことができるんだ」、「自分の頭で考えることができる」んだといったことを宣(のたまわ)っている。

 では、単なる一般教育を学ぶに過ぎない、学問を学んでいるのではない小中高校生はどうしたらいいとい言うのだろうか。

 土台となる前提を問題にしないで、それなくして成り立たない「学問」を問題としているに過ぎない。

 子どもに如何に考える力をつけるか。思考能力、判断能力を如何につけるか。思考能力・判断能力がつけば、ゆとり教育が最終目標とした「生きる力」が備わってくる。そのためには一にも二にもなく、権威主義教育・暗記教育、あるいは管理教育から脱して、生徒自身が自発的に考え、思考するプロセスを備えた教育形式への変換が必要だと書いてきた。

 その具体的な方法の一つがノートを取らない教育、さらに朗読劇の導入だと既に下記ブログに書いた。

 《考える教育はノートを取らない教育から》

 《考える教育は朗読劇から》

 次のブログもほぼ同じ指摘を目的としているが、参考までに。

 《テレビで放送していた小学生の工場見学に疑問を感じたこと》

コメント
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2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(6)

2010-09-29 04:42:21 | Weblog

 《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(5)》からの続き

 (寺脇なりの“教育環境論”)

 「大学での授業をやっていると、私のところは芸術大学だから、あんまり高校まで一生懸命やったんじゃないと思うんですがね。でも、私の授業は映画学科の学生さん。戦争映画の戦争、どうして戦争が起こって、どう歴史の中でなってきたのかって話をしますが、みんな分かるんですよ。よく、今の子どもは誰もそういうのは知らないっていう。俺たちね、教室ではあんまり聞いていなかったけど、映画見たり、小説読んだり、マンが読んだり、爺ちゃん婆ちゃん聞いたりしているんで、日本がアメリカ戦争をやって、こういうことがあったというのみんな知っているな。そこで授業が成り立っていく。

 勿論、それだけで成り立つわけではないけど、単に教科書に書いてあったことだけ学んできて、そこでやることと、自分で選んで色々なものを見たり、学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たちとの話から、得たものを、大学でもっと、勿論、当然、そこではきちんとした理論でいくということだと思うんですけどね」

 文部省だか文科省だかの役人をやっていて、しかも現在は曲がりなりにも大学教授。話し方が粗雑一方で、自分自身が「きちんとした理論」に則った話し方ができていないことに気づいていない。こんな粗雑な話し方の男を大学の教授としなければならない大学生は不幸だと思うが、それとも飾りっ気がなくて取っ付きやすいとでも思っているのだろうか。だとしても、知性をまるきり感じさせない話し方をする。

 日本の教育に於ける資質の相互循環的な「環境」は権威主義を土台とした暗記教育の形式を取り、大人から子どもへ、あるいは子どもから子ども、逆に子どもから大人へと循環している「環境」なのだから、「学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」との人間関係にも当てはまる「環境」であって、教師から知識・情報を受け取るときの自らの考え・思考の濾過・咀嚼を通さない同じ形式を踏んだ「爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」からの知識授受となった場合、他人の知識・情報をそのままの形・内容でなぞり暗記し、自分の知識・情報とし、知識量・情報量を増やしただけで終わりかねない。いわばそこに自分から考え、思考するプロセスを介在させない限り、「学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」から聞いた話として、単に知ったというだけのことで済ますことになる。

 学校教育も、「学校以外」の教育も共にこの逆であるなら、今の子どもは考える力がない、言語力が欠如しているといった問題点を議論する必要はなくなる。

 単に学校教育のみが権威主義教育・暗記教育となっているのではなく、日本人の思考様式・行動様式自体が権威主義の形式に則っている点を押さえなければならないはずだが、誰もが押さえずに話を進めているから、誰が議論しても、議論しただけのことで推移して、何も解決しを見い出せずに終わる。

 学校社会も日本社会を形成する下位社会の一つなのだから、学校のみが権威主義の思考様式・行動様式を取るわけではない。逆に日本社会の権威主義的思考様式・行動様式の反映を受けて、学校という下位社会で教育、その他の人間関係が同じ権威主義の形を取って形成されていくに過ぎない。

 須田アナが乙武に「小学校の教育現場にいて、今求められる人材養成には、どういうことが必要だと感じました?」と聞くと、乙武は「先ずは3年間教員経験をして感じたのは子どもたちに、次はこれをやってみようと課題を提示したときに、必ず返ってくる言葉がある。『えー、無理、できなーい』。まだやってもいないうちから、もうそんなの無理だよっていう言葉が返ってくる。それが凄くもどかしい。勿体ないという思いがあって。先ずはチャレンジしてみて、それがダメだったら、方法を変えてみたり、色々試行錯誤する中で色々身についていくというものがあると思うが――」と答えているが、この答の中にも日本の教育が権威主義教育・暗記教育となっていることの暗黙の示唆を窺うことができる。

 権威主義教育・暗記教育は教師が伝える知識・情報を伝えるままになぞり暗記して自分の知識・情報とする教育であり、そこに生徒が考え思考するプロセスを用意してないから、教師が教えたことしか自分の知識・情報としていないため、教えた知識・情報に対しては暗記している限り答を引き出すことができるが、教えない知識・情報に対しては自分で考え、試行錯誤するといったチャレンジは不可能となる。

 だから、安藤が言うように、何度でも同じ例を出して恐縮だが、優秀な大学を出ても、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」ということが起きる。

 いわば暗記教育に慣らされる余り、自分で主体的に考えて応用を効かす教育習慣を身につけていないために一旦教えたことを教えた範囲内でほぼ教えた通りに機械的に問う「課題」でなければ、「次はこれをやってみよう」と言ったとしても、ついていけないことになる。

 チャレンジするという行為自体が人任せではない、主体性が深くかかわっている行為を指す。だが、日本の権威主義教育・暗記教育は自分から考え、思考するという生徒の主体性を排除した構造となっている。あるいは主体性を育てない構造を成している。

 違う言葉で言い換えると、すべての知識・情報が教師の手を煩わせた知識・情報であり、前以て手を煩わせた知識・情報に対する問いや課題の提示でなければ、対応できないことになる。ここにあるのは生徒の主体性の排除そのものであろう。

 そもそもからして、「それがダメだったら、方法を変えてみたり、色々試行錯誤する」という考えるプロセス自体が権威主義教育・暗記教育にはない工程だということである。

 教師が、最初はこうやってみよう、次はこうしてみるといった具合に一つ一つ教えてリードする課題なら、いわば教師の一から十までの管理のもと行う課題なら、生徒はチャレンジすることができる。教師のリードをなぞり応じる非主体的対応・従属的対応は権威主義教育・暗記教育が最大の習性としている要素だからだ。

 課題の提示に対する生徒のチャレンジ精神の欠如を訴えた乙武に対して宋が「やる気、どうやって教える?」と聞くと、「先ず一つは、大人がチャレンジした結果の失敗を責めないということだと思う。最初はやりたがるのが子どもだと思うが、それがやってみて、ダメだったときに、ダメだったじゃないかとか、何でこんなことになったなったのっていうふうに責められた経験がるから、チャレンジを恐れるようになってしまっていると思う」と乙武は答えている。

 そういったこともあるかもしれないが、それ以前の問題として、教師が伝える知識・情報を丸のまま受け止めるのではなく、自分なりに主体的に考え、自身の知識・情報としていくことも教師の知識・情報に対する一種のチャレンジだということに留意しなければならないはずだ。

 だが、日本の教育は何度でも言うようにそういったプロセスを用意していない。当然、主体的に自分なりに考えるという一種のチャレンジの習慣が身につかないことになる。考えるというチャレンジ精神が身についていたなら、それがどのような課題の提示であっても、そのことに対しても主体的に自分なりに考えるというチャレンジ精神を発揮するはずだ。

 どう見ても、日本の教育が生徒自身が主体的に考え、思考するプロセスを介在させない構造の権威主義教育・暗記教育となっていることが日本の教育の問題点のそもそもの出発点となっていると把えべきであろう。

 勿論、このような指摘を的外れと見る者もいるだろう。

 乙武の子どもがチャレンジして失敗しても大人は責めてはいけないとの説明に対して、宋が、「会社の問題と一緒だなあ。同じことですよ。学校の教育の問題じゃない。何だか会社では管理職、先生になっていて、社員が生徒みたいに、僕は仕事としては見えますよ」と答えている。

 一頃、日本の教育は管理教育だと盛んに言われた。日本の管理は管理する側の上の者が自分たちの命令・指示どおりに下の者が動くことを最善とし、下の者も上の者の命令・指示どおりに動くことを最善と考える人間関係の構造を成していた。現在もそう変わりはないはずである。

 この構造はまた、下の者が主体的存在であることを否定する構造となっている。主体的存在であったなら、命令・指示どおりの相互関係を壊すことになるからだ。 

 この構造自体が権威主義教育・暗記教育の構造そのものに重なる。一頃盛んに管理教育、管理教育と言われたが、管理教育イコール権威主義教育・暗記教育なのである。知識・情報の伝達だけではなく知識・情報そのものも管理された状態にある。

 宋が前のところで、「違うことをやると、怒られるからですよ。私の子どもが短期留学行ったんですね。違うこと言ったら、先生に怒られるんです。こういうことを言ってくださいと言われたんですよね。多少違うこと言っていいですよと言ったら、先生には色々と言われても困りますと言われた」云々と言っていたことがこのことに当てはまる。教師が知識・情報に関しても生活指導に関わる行動に関しても教えたとおりに生徒が覚え、教えたとおりに答を出す管理した状態に置いているから、権威主義の文脈から言うと、従属させた状態に置いているから、教えたとおりから外れると教師の拒否反応に遭うことになる。

 もし生徒がこの管理状態に対して自分で主体的に考え、思考するプロセスを介在させたなら、管理の構造そのものを壊し、日本の教育を権威主義教育・暗記教育ではないものとすることができる。

 要はそういった構造の教育とするにはどういった方法を採ったらいいか、そのことの議論こそが必要だと思うが、別の議論ばかりに走っている。

 宋の学校の教師対生徒の関係を会社の管理職対部下の関係になぞらえて、部下の失敗に上司が怒るから、部下はチャレンジできなくなる、会社と一緒だとの指摘に対して、寺脇が、「それはその通りですよ。さっき職員室の空気の話をなすったけど、先生方ができないって言っちゃっているし、それから我々大人も、日本がこんな状態になって、どうしていくのって、できないって言ってるんで、子どもだけが言っているわけじゃないんですよ」と答えているが、だとしたら、子どもの言動は大人の言動の反映としてある、そのヒナ型だと突きつめるところまで議論を進めなければならないはずだが、ここでも事象の表面的把握と表面的解釈で終わっている。

 ここで須田アナが、「宋さん、会社の問題に置き換えていますが、そういう会社は伸びていかないですよ」と聞いたのに対して宋は「伸びていかないですよ」と答えているが、会社が伸びていかないことだけではなく、子どもが伸びていかないことまで把えなければならないはずだが、やはりそこまでの考察がない。

 教師や親、いわば社会一般の大人が子どもの失敗を責めて萎縮させるから、子どもはチャレンジすることを恐れるようになって伸びない。では、子どもの失敗を責める大人の習性、と言うよりも日本人の一般的な習性はどのような行動様式から来ているのだろうかと突きつめていく考察がない。

 何度でも言うように自分で考えて行動するということは主体的行動であって、上の指示・命令の管理で下が動くことは単に上に従って動く受動的行動だから、本人の主体的能力に関しては伸びしろは生じない。受動的行動は常に上の指示・命令を必要とする。そこから指示待ち症候群と言われるような行動傾向が生じる。

上の命令・指示を待ってから動く人間にチャレンジ精神は期待できない。自分で考えて動く主体的行動は自分で考えて動くゆえにチャレンジ精神も期待できることになるし、当然、主体的能力に関しても伸びしろを持つことになる。

 当然、子どもが伸びない原因を管理教育=権威主義教育・暗記教育に原因を置かなければならないことになる。 

 須田アナの「これからの時代、どんな人材を育てるべきだとお考えですか」の問いに清家が答えている。繰返しになるが、一言一句再現してみる。

 清家「やっぱり大きな変化の時代ですよね。大きな変化の時代と言うのは、過去の延長線上でものを考えたり、問題を解決することではなく、新しい状況を自分の頭で理解して、そしてその理解に基づいて問題を解決する。実は吉田松陰の話が出ましたけど、同じ時期、福沢諭吉、私たちの大学の創設者なんですけども、福沢はまさに明治維新を経て、明治の維新の前と後の大きく変化する時代に生きたわけですが、そのときに状況を自分の頭で理解して、問題を解決するということをとても大切に、そしてそのとき頼りにしたのは実は学問だったわけです。

 つまり自分の頭で考えるっていうのは無から何かを考えることはできないわけで、何か考えるのは何か科学的なものの考え方、つまり問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証する、説明する。そういう能力ですね。

 ですから、今国際化と言われているが、国際的にも異質な人の中で自分を理解させるためにはやはり論理の仕方と、そしてその論理を実証する力、学問の力が益々大切になってくる」

 須田アナは「これからの時代、どんな人材を育てるべきだとお考えですか」と聞いた。それに対して「新しい状況を自分の頭で理解」する、「その理解に基づいて問題を解決する」、「科学的なものの考え方」をする、「問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証」できる人材を育てるべきだと指摘したのだろう。

 だが、その結論として、「国際的にも異質な人の中で自分を理解させるためにはやはり論理の仕方と、そしてその論理を実証する力、学問の力が益々大切になってくる」と学問の力を借りた論理術、実証能力の必要性を訴えているが、清家の前の発言と合わせて全体として見た場合、学問の必要性の訴えとなっている。自分が挙げたような人材が学問をどう役立てたなら育成することができるか、学問がどのように役立つのかの具体的説明がない。

 あるいは日本人一般の国際化の未熟が言われているが、これからの時代必要とされる人材の育成になぜ今までの学問が役立っていないのかの考察もない。役立っていないからこそ、学問の必要性を訴えなければならない状況にあるのだろう。役立っていない根本原因を突きつめないことにはいくら学問の必要性を訴えたとしても、学問が役立たない状況は続くことになる。

 いくら学問が必要だ、必要だと言ったとしても、自ら考え、思考するプロセスを欠いた日本の権威主義教育・暗記教育で自ら考え、思考する能力・習慣を欠いたまま幼保、小中高と育った人材に大学でいくら学問したからと言って、清家が言っているご大層な講釈を吹き込もうと、特別な例外を除いて釈迦に説法、的外れな主張で終わるのは目に見えている。

 現在の子どもが考える力が不足している、思考能力・言語能力に欠けると言われている。その原因は日本の教育のどこから、何からきているのか。それが「問題」であり、それを解き明かして解決することが番組のテーマである『教育とはナンだ』に答える何よりの必要事項のはずである。解決した上で、清家が滔々と喋った御託が初めて展開可能となるはずだ。

 考えないで育った生徒はいくら高尚な学問に親しんだとしても、表面的な理解、昔の西洋の高名な知識人がこう言った、ああ言ったとなぞるだけで終わりかねない。

 清家自身にしても、「新しい状況を自分の頭で理解」する、「その理解に基づいて問題を解決する」、「科学的なものの考え方」をする、「問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証する、説明する、そういう能力ですね」と頭でっかちの人間なら誰もが言うような、単に必要とする能力を表面的に羅列したに過ぎない。表面的な羅列は表面的な理解が仕向ける。

 教師が生徒に伝える知識・情報を教師の解説どおりに記憶させる、暗記させるのではなく、少しでも生徒に考えさせて生徒自身の知識・情報に持っていけるようにしていく。一度自分の頭で考えるようになれば、後はその積み重ねと発展である。教室以外で得た知識・情報に対しても自分の頭、考えを通して把握し、曲りなりに自身の知識・情報に変えていく。その積み重ねが考える能力を発展させていく。思考能力・言語能力を獲得していく。自身の力による、表面的ではない「理解」と「解決」のプロセスを踏むことが可能となる。

 非常に単純なことがだが、日本の教育が権威主義教育・暗記教育となっていることが原因の障害であると気づかないから、単純なことも解決できず、今の子どもは考える力が不足している、思考能力・言語能力に欠けると嘆き節を続けることになる。原因を突き止めることができないために、この手の嘆き節に添った堂々巡りの議論しかできない。

 清家の場合は、学問、学問と言いながら、学問が何ら役に立っていない状況を言い立てているに過ぎない。

 教師が知識・情報を全部提供して丸呑みさせるのではなく、子どもに考えさせて次のステップに進むという学び、教えを幼稚園・保育園の頃から辛抱強く踏んでいけば、子どもは自分で考える習慣が身につき、最初は時間がかかっても、成長するにつれ、一から十まで、何から何まで教師が管理する形式で必要な情報を上から与えて与えたとおりに記憶させる、あるいは暗記させる手間を省くことができる。生徒は自分で考えて受け止めていくようになるからだ。教師の説明の後についていく子どもの理解がときには教師の先を行くことも可能となる。

 教師が伝える知識・情報を生徒がまるのまま暗記する教育では、生徒の理解が教師の先を行くことは不可能である。教師の知識・情報と同じ知識・情報を暗記能力に応じて生徒は自分の知識・情報とするだけだからなのは既に何度となく言ってきた。

 この状況は大学に於いても同じであろう。大学生が幼保、小中高生が育った姿だからだ。

 知識・情報を自分で考えて受け止めることによって、そこに自ずからさまざまな問題点を見つけることができる。問題点が見つかれば、解こうという欲求が湧く。その繰返しによって、主体的に思考し、主体的に行動する人間が生れてくる。

 清家が言っている、「自分の頭で考える」とか、「問題を見つけ」る、「検証する」といった思考行為に相当するプロセスであろう。主体的思考に裏付けられた主体的行動の成長が大学で学問を学ぶことによって「科学的なものの考え方」への到達を導く。

    ――以下続く――

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2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(5)

2010-09-28 03:45:41 | Weblog

 《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(4)》の続き

 清家教授の多様性と個性は基礎学力の上にこそ築くことができ、その両者のバランスが必要だとする主張を取り上げてのことではないが、番組の議論の記載に入る前の冒頭箇所で、誰もが基礎学力の必要性を訴えている現状に関して、身についた基礎学力が暗記教育に則った基礎学力の授受であるなら、教師が伝える基礎学力を単になぞって暗記する形式を踏んだ基礎学力に過ぎないことになり、考える力への発展に役立つとは思えないと指摘した。

 暗記知識でしかない基礎学力なら、「レベルを平均的に底上げする」ことで暗記量を多くすることに越したことはないにしても、みな同じ基礎知識を持つことになって、逆に多様性や個性を排除する力となって働くことになる。同じ基礎知識を基に同じ発想をし、同じ発想に基づいて同じ行動を取るようになるからだ。

 良く遊ぶ子を例に多様性、個性を見ると書いたが、多様性、個性の獲得には“考える”という知的作用を欠かすことのできない要素と見なければならない。いわば考えない基礎学力であるなら、いくら積み重ねたとしても、多様性、個性は生れないことになる。

 権威主義教育・暗記教育から脱しない限り、基礎学力の上に築く多様性、個性のバランスは決して生じないと言わざるを得ない。たまたま個人性に恵まれて暗記教育に距離を置いた者だけがバランスを手に入れることができるということではないだろうか。

 清家は大学教授らしく尤もらしく教育論を展開するが、他人の教育論を権威主義教育・暗記教育の構造に則って学んで、それをちょっと色をつけて披露しているだけのように見える。 
 
 さらに清家は、「高校とか大学のレベルでは、もっともっと多様性とか、個性が出てくるような――」と言って、そのような教育の必要性を主張しているが、必要とするこの現状を裏返すと、高校とか大学のレベルでも「もっともっと多様性とか、個性が出てくるような」教育ができていないということの指摘となる。この必要性は幼稚園・保育園に始まって小中と引き継いできた不足に対するものであろう。

 幼稚園・保育園に始まって小中と多様性・個性が出る教育となっていて、高校・大学ではそういう教育となっていないということでは矛盾することになる。

 「もっともっと」の意味が幼稚園・保育園に始まって小中で一応多様性・個性の出る教育はできているが、高校・大学ではそれ以上に多様性・個性が出る教育が必要だとする意味だとしても、多様性・個性に関しては幼稚園・保育園、小中、高校・大学とすべて同じレベルの教育となっていることになって、これまた矛盾することになる。

 いわば日本の教育は清家の指摘とは逆の、「もっともっと多様性とか、個性が出てくるような」教育とは全体的になっていないと言うことであろう。

 当然、清家はそのような教育になぜなっていないのかを考察しなければならないが、単に必要性を訴えているのみだから、現象を表面的に把えて、表面的に解説しているに過ぎないことになる。暗記教育で得た知識だからだろう。

 勿論、既に触れたように権威主義教育・暗記教育が多様性、個性を排除する構造の教育だからなのだが、そこに思い至らない限り、何も解決しないに違いない。

 ここで寺脇と宋が次のような遣り取りをするが、二人とも見当違いなことを言っているに過ぎない。
 
 寺脇「実は高校、大学というのは学ぶ場ですよね。学ぶためには力が必要なんで、その力を小学校で教えると、中学校で教えると。それはもう一つ、当然ある。ただそればっかりやっていると、学ぶ意欲、さっき宋さんがおっしゃった――」

 「いや、ボクは、先生、申し訳ないですけども、逆なんですよ。個性は絶対、小ちゃいうちだと思っています。知識は死ぬまで勉強するもんですよ。だから、東大は卒業したら、勉強する力なくなっちゃうんですよ。勉強し過ぎて――」

 寺脇が「さっき宋さんがおっしゃった」とは、宋が「教育できないものがある。馬は川へ行きたくないのに川へ連れて行っても、仕方がない。つまり、意欲がないと教えられない」と言ったことを指す。

 寺脇は、「高校、大学というのは学ぶ場で、学ぶためには力が必要」だと言っているが、権威主義教育・暗記教育の形式に則って教師が伝える知識・情報をそのままの形で受動的になぞり機械的に暗記した学力(=学びの力)と、そのような受動性を排して主体的に自分から考え、学ぶ、既にそこに学ぶ意欲を併行させた自ら獲得した学力(=学びの力)とは厳格に区別し、現在の日本の高校、大学が前者の“学び”となっているのか、後者の“学び”となっているのか把握して、そこを出発点としなければならないのだが、寺脇はそこまでの視点を持っていない。

 「学ぶ意欲」云々と言うなら、前者の教育からの脱却を図り、後者の教育構造に持っていかなければならない。意欲が学ぶ力をもたらす。

 宋が、「個性は絶対、小ちゃいうちだと思っています」と言っているが、個性を顔が違う、声が違う、怒りっぽいとか物静かだといったことの性格が違うに類する生来性を引き継いだ個性と、考え方が違うという後天性の個性に自覚的に明確に分けて考えないといけない。考え方が違ってくると、当然行動の方法も違ってくる。性格という個性は持って生れた性格をベースに学校社会での経験を含む本人の社会的経験によって大人としての性格に発達せしめることができるが、理性や人格につながる考え方の個性は自身の考えを進化させたり、発展させることで身につけていく個性であって、誰もが社会的経験を踏んだからと言って、大人としての理性や人格を有するとは限らない。親のしつけ、学校の教育を子どもに伝える中でそこに考えるプロセスがないと、考え方の個性に差が出てこないことになって、似たり寄ったりの人間ばかりとなる。日本人の均質性が言われるのはこの所以であろう。

 人間は死ぬまで何かを学ぶ生きものである。そういった点で宋が言っているように、「知識は死ぬまで勉強するもんですよ」ということになるが、その学びが権威主義教育・暗記教育形式で単になぞり暗記する学びであるなら、他者の知識・情報をそのまま自分の知識・情報とし、そういった知識・情報の量を増やすだけのことで、自分の考え・思考として身につけたことにならない。

 有名男女タレントがテレビでああ言った、こう言ったと言ったままを話題にするだけの人間はこの学びの種類に入る。
 
 いわば権威主義教育・暗記教育形式の知識・情報の授受なのか、自身の思考の濾過・咀嚼を経た知識・情報の授受なのか、この二つを常に分けて問う議論でなければならない。後者の知識・情報は常に発展形を取る。当初から“考える”要素を備えているからだ。

 人生のある時期、考えを深化させる機会に恵まれて、それが個性となって表現されるケースもあるのだから、決して「個性は絶対、小ちゃいうち」とは限らない。あの人は小学校のときも中学校のときも目立たない平凡なだけの子だったけど、まあ、立派に活躍されてといったこともある。

 多分、頭の中で考えることに熱中して、考えるという活動が外に現れないことからの目立たない平凡なだけといった印象を与えていたのかもしれない。

 だとすると、一般的には考える習慣は「小ちゃいうち」に身につけるに越したことはないことになる。

 清家は上の宋の発言に対して、「確かにそういう面があると思いますが、個性というものが勉強し過ぎると全くなくなっちゃうかと言うと、必ずしもそうじゃない。むしろ問題なのは、今、大学生というのはむしろ授業をやめるようになっている。昔の我々の頃は授業によく出、教師の言うことをよく聞いて、しっかり凄い出席して――」と、相変わらず日本の教育の構造を的確に把握しないままに論を進めている。

 権威主義教育・暗記教育自体が個性を削ぐ教育、個性を育まない教育だと既に言った。日本の教育が権威主義教育・暗記教育であるという視点を持つことができないから、そういった教育であるかないかを把握できず、「個性というものが勉強し過ぎると全くなくなっちゃうかと言うと、必ずしもそうじゃない」といった見当違いのことを言うことになる。

 見当違いは、「今、大学生というのはむしろ授業をやめるようになっている」とか、「昔の我々の頃は授業によく出、教師の言うことをよく聞いて」といった発言にも現れている。

 確かに先人の知識量・情報量は多かったかもしれない。読書量も半端ではなかったろう。だが、その知識・情報が単に教師の言うことやあるいは書物の中の知識・情報をそのままなぞって暗記して取得したもので、自身の考えでその知識・情報を濾過・咀嚼して、そこに自分なりの新しい考えを付け加えていかない、あるいは打ち立てていない権威主義教育形式・暗記教育形式の授受に則って獲得した知識・情報であるのは、先人を代表する立場にあり、尚且つ大学教授という知識人の立場にありながら、清家自身の今の大学生は勉強しない、昔の大学生は勉強したといった自らの知識・情報とした勉強風景を見たままになぞって解釈する機械的思考しか取れないこと自体が証明していることであって、そういった先人の知識・情報の機械的授受を受け継いで、現在の大学生、それ以下があるということであろう。

 違いは勉強量のみで、基本的思考形式は同じだということである。

 勉強の量が問題ではない。一を聞いて十を知る、せめて二か三を知る考える力が問題となっているということを考えることができない。もし一を聞いて十を知ることができる考える力も身につけていたなら、一を聞いて一を知り、別の一を聞いてその一を知る段階的・重層的知識・情報の獲得は必要なくなり、当然、勉強量は少なく済む。

 尤も先人も現在の人間も同じ姿を取るのは日本の教育が権威主義教育・暗記主義教育を伝統とし、文化とし、歴史としている以上、当然のことであろう。違いは単に世代間の暗記式知識量の違いのみで、そのような世代間の違いは同じ世代の大学生であっても、個人間に受け継がれている違いでもあるはずだ。

 清家は須田アナが「授業でつまんなかった記憶しかないですけど」と問うと、「昔ですと、みんな休講なんか喜びましたけど、休講したら、登校するんですかと、そういう、あれですからね、それはそれでいい面があるんですが、逆に高校や中学になると、同じような形で一生懸命勉強するというパターンが大学に来てしまって、むしろ大学生はもう少し授業は教授はこういっているけれども、本当にそうなんだろうかというような形で考える、そういうスタンスになってもらいたいって気がします」と答えているが、今の大学生に対する「本当にそうなんだろうかというような形で考える、そういうスタンスになってもらいたい」の希望をそのまま裏返すと、今の大学生は「考えるスタンス」を取れないでいるということであろう。「考えるスタンス」を取ることができないまま、教授からの知識・情報の伝達を機械的、無考え、無条件になぞって受容する形式の知性となっているとの間接的な言い方で図らずも日本の教育が考える教育になっていないことを言っているが、なぜそういう教育となっているかまで突きつめて考えることはせず、大学生の現状を見えるままに表面的に把えて、見えるままの解釈を機械的に行う表面的な観察の終始にとどまっている。

 いわば清家自身も権威主義教育・暗記主義教育による知識・情報の機械的授受に毒され、そこから抜け出れないままに機械的授受の形式に則って機械的な解釈を施して、それで終わっているということであろう。

 大学教授なのだから、議論の展開ももう少し論理的に誰にも理解できるように喋ることができないものだろうか。

 日本の教育方法が受け身の、あるいは受動的暗記教育、権威主義教育となっていて、生徒自身に主体的に考えさせるプロセスを介在させる教育となっていないから、プロ野球でも、大の大人に対してチーム全体で「考える野球」を唱えたり、「もっと考えて野球しろ」と叱咤しなければならない。基本的には選手個々の主体性・判断に任せているアメリカの大リーグとの違いが生じる。主体性・判断の点で、日本の選手は大リーグの選手のようには大人になりきれていないということである。

 もし幼稚園から小中高校と考える習慣が身につく教育、暗記教育ではない教育を受けていたなら、プロ野球で「考えろ、考えて野球しろ」と言われる前に自分から考えるはずである。社会人になって、一から十まで新入社員教育を受ける必要もないに違いない。建築家の安藤が言うように優秀な大学を卒業していながら、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」といった無考えの行動、発展性のない行動は取らないで、自分で考えて、考えたことを積極的・主体的に行動に移していくはずだ。

 考えるとは他から受けた知識・情報を基礎として、そこからその時々に応じて自身に必要となる知識・情報へと応用を利かす応用力までを言う。考え、工夫を凝らすことによって応用力は生れる。

 そのためには知識・情報のあらゆる授受に際して、常に自分なりの考えで受け止める習慣を身につけ、それを習性としていなければならない。考える習慣のないところに工夫を効かす機会も応用を効かす機会も訪れない。

 一つの例を挙げよう。非正規社員が正規社員と同じ仕事をしながら、正規社員よりも給与がかなり低いことが問題となっているが、新入社員教育を受けない非正規社員が新入社員教育を受けた正規社員と同じ仕事ができると言うことは 新入社員教育を受けなくても非正規社員は仕事にそれだけの応用力を効かすことができているということであろう。身分が不安定な非正規社員は一通り教えられた仕事の手順を否応もなしに考え、工夫を凝らし応用力を効かせて仕事をこなすことができなければ、厄介者として直ちにお払い箱となる。

 安藤が日本の教育の正体を言い当てている。「今の若い人は本当に過保護に育っているから、一から教えなあかん」

 だが、過保護と言うよりも過管理と言うべきではないだろうか。暗記教育であり、自分で考える教育となっていないから、常に一から教えることになる。教える全体を逐一暗記させなければならない。勿論教えを受ける生徒の方はすべてを暗記できるわけではなく、暗記量に個人差が出るが、それでも教える方は暗記形式に則っている以上、一から始めてすべてを暗記するように段階を追って教える知識・情報を積み上げていく

 犬に最初にお座りを教え、次にお手、その次にチンチンを教えるように段階を追わなければならない。犬はお座りを教えただけで、犬の方からお手を学ぶことはしない。だから、現在以上の知識・情報を学ばせようとすると、教科書を厚くし、授業時間も増やさなければならないことが起きる。 

 生徒が自分で考えて教師が伝えた知識・情報を自分なりに発展させてくれないからだ。一から十までの段階を丁寧に追った教えが、一見過保護の教えに見えるが、必然的に何から何までの過管理を招くことになる。権威主義の思考様式・行動様式に則って上が何から何まで下を従わせようとするから、どうしてもこのような過管理が起きる。

 教師の側から一から教えることは生徒の側から言わせると、一から教わるということになるが、この相互性を持ったすべての段階を踏む知識・情報の授受自体が日本の教育である権威主義教育・暗記教育の基本構造を成していると見なければならない。

 幼い頃からこの基本構造の教育に慣らされているために大学でも繰返されることとなり、安藤が言うように大学出の若者に対しても「一から教えなあかん」ということになる。

 そこでは自分で考え、工夫を凝らして応用力を効かすという場面は期待不可能となっている。

 時折鋭い洞察力を見せる宋文州にしても、日本の教育構造を厳格に把握していないから、「本来、教育は二つの部分があって、一つは体験、一つは知識。どう教えても、日本は知識中心なんですね。体験はつくれないよね。先生も体験ないし、親も体験させたくない。そしたら、(知識だけを)一生懸命教え込むしかないんですよね」と少々ズレたことを言うことになる。

 「知識中心」であっても、それが機械的になぞり暗記する知識ではなく、自身の思考の濾過・咀嚼を経る知識であるなら、何らかの体験をしない人間はいないのかだら、何か体験したとき、それが少ない体験であっても、あるいは体験と言える程の体験の機会でなくても、知識・情報の授受の際の自身の思考の濾過・咀嚼を体験のときも応用することとなって、少ない体験を自分なりに発展させることが可能となる。

 逆に体験が暗記教育に於けるのと同じ管理を受け、生徒が暗記教育に於けるのと同じく教師の管理に忠実に従って管理どおりの体験となった場合、あるいは教師の手の離れた場所での体験であっても、権威主義教育・暗記教育に慣らされて自身の思考の濾過・咀嚼を経なかったなら、考える機会を持たないこととなって、単に体験を表面的になぞっただけ、機械的に体験をこなしただけの物理性を帯びることになる。

 いわば考えない体験 ただ体験しただけの体験で終わりかねない。知識中心であっても、体験中心であっても、考える知識、考える体験でなければならないということである。その相互性によって思考能力は発展を受け、体験を備えた知識、知識を備えた体験へと育っていくはずである。

 ゆえにあくまでも基本は考える教育となっているかどうかであり、何事もそこから出発する。

 宋が自分の子どもが日本の小学校から中国系小学校か中国の小学校なのか、移って自己主張が激しくなったというと、須田アナが中国の教育は詰め込み教育ではなく、コミュニケーションを重視するのかと聞く。対して宋は、「それは教育のせいじゃなくて、先生もそういう人間だし、友達もそういう人間。環境なんです。みんな言うから、言わないと何もできない」と答えている。

 ここにも日本の教育が権威主義教育・暗記教育であり、考える教育となっていないことが現れていると同時に、子どもの言語力の欠如が大人の欠如の反映であることを奇しくも宋は言い当てている。

 考えて思考能力を発達させることによって自己主張が生れる。だが、日本の教育は知識・情報の授受形式に従って思考・行動共に考える機会を介在させずに機械的に上に従う権威主義教育・暗記教育となっているから、子どもは当然思考能力を発達させることができないために自己主張が生れない。

 しかしこのような子どもの状況は大人も権威主義教育・暗記教育で育っているから、考えて思考能力を発達させる機会を持たないまま大人となり、そのような大人によって教育やしつけを権威主義教育・暗記教育の形式に則って受けることになるから、その循環が子どもにまで及んでいる思考能力の欠如に対応した自己主張欠如ということであろう。

 宋が「環境なんです」と言っているが、大人から子どもへ、あるいは子どもから子どもへ、逆に子どもから大人への資質の相互循環性を空間的に「環境」と把えた発言であろう。

 日本の大人の思考能力の欠如に対応した子ども、あるいは子どもが成長した姿の若者の自己主張の欠如は建築家安藤が優秀な大学を出ていても、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」と指摘している、“指示待ち症候群”、あるいは“横並び症候群”、さらには“マニュアル人間”といった行動傾向が日本人全体を指すことに現れている。

 誰の指示を受けるまでもなく、「自分から一歩踏み込む」行動性も自己主張の一種である。だが、“指示待ち症候群”、“横並び症候群”、“マニュアル人間”といった行動傾向には「自分から一歩踏み込む」行動性は存在しない。

 宋の「環境なんです」という発言を受けて、須田アナが「教育というものは環境なんですね?教えることじゃないですね。如何ですか、寺脇さん?」と尋ねると、「学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」を持ち出して、寺脇なりの“教育環境論”を話す。

     ――以下続く――

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2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(4)

2010-09-27 06:34:08 | Weblog

 「尖閣列島は我が国固有の領土」は聞き飽きた

 菅首相「尖閣列島は我が国固有の領土であり、謝罪や賠償は考えられず、まったく応じるつもりはない」NHK) 

 日本政府「尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも疑いない。領有権問題は存在しない。謝罪や賠償といった中国側の要求は何ら根拠がなく、全く受け入れられない」(MSN産経

 前原外相「東シナ海に領土問題は存在しない。これから同じような事案が起きた時には、毅然(きぜん)と対応していくことに変わりはない」(asahi.com

 中国「釣魚島と付属の島は古来、中国固有の領土で、中国は争う余地のない主権を有している」(MSN産経

 姜瑜中国外務省副報道局長「釣魚島とこれに付属する島々(尖閣諸島)は中国固有の領土だ。日本は中国の領土主権と国民の人権を侵しており、中国側は日本に謝罪と賠償を求める権利を当然持つ」(asahi.com

 船長「釣魚島に行き、漁がしたい。機会があれば、また行く」(YOMIURI ONLINE

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 中国の漁船が日本の領海を侵犯して漁を行っている現実が現実としてある。逮捕すれば、中国から、「釣魚島とこれに付属する島々(尖閣諸島)は中国固有の領土だ。日本は中国の領土主権と国民の人権を侵しており、即時釈放すべきだ」と強硬な即時釈放要求が実行され、日本が「尖閣列島は我が国固有の領土であり、国内法で粛々と対応する」と釈放拒否しても、中国は日本が無視できない経済的損失を蒙る様々な制裁・圧力をかける。

 いわば現実問題として、菅首相以下が言っているようには「尖閣列島は我が国固有の領土」となっていない。なっていないにも関わらず、「尖閣列島は我が国固有の領土である」と口を揃えるのは、「尖閣列島は我が国固有の領土である」は単なる口先だけの言葉と化していることを意味している。口先だけの言葉でしかない何よりの証明が中国側の様々な制裁・圧力を含めた今回の中国人船長逮捕から釈放に至る過程で見せた日本側のドタバタ劇であろう。

 政治家に口先だけの言葉は許されない。中国が発する「釣魚島とこれに付属する島々(尖閣諸島)は中国固有の領土だ」を撤回させる政治的・外交的方策を講じて、「尖閣列島は我が国固有の領土である」を口先だけの言葉であることから確固たる実質的な有効性を備えた「尖閣列島は我が国固有の領土」とする責任が菅内閣にはあるはずだ。

 2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(3)からの続き

 須田アナ「慶応大学の清家先生は学問、基本的には学問である、生涯教育のすべてで学問の心、学問の姿勢というのは、どう構えていたらいいのでしょうか?」

 清家「それは見たものは真実ではないんだと。学問を通じて初めて真実を知ることができるんだという、その謙虚な気持を持つということが大切だと思います」

 須田アナ「見たものをそのまま信じちゃいけない」

 清家「信じちゃいけない。学問を通じて真理が分かる。いずれそれが分かったら、若者というのは本当に驚く程伸びますので、とても楽しみです」

 須田アナ「乙武さん、お父さんとして、どんな教育、どんな子育て、考えていますか」

 乙武「こうあって欲しいとか、こういうふうになって貰わないと困るという思いを強く持ち過ぎずに。どんな君でも認めて上げるよという、そういう心持で向き合っていきたいなというふうに思います」

 須田アナ「先ず受入れること。あるがままを受入れて、さあ、どう育つか(ニコニコと)。愉しみが湧いてきますよね」

 乙武「ハイ」

 須田ナナ「今日は教育というテーマで、まあ、学習という、置き換えて寺脇さんの方から提案が上がりましたが、色々なことをみんな考えさせられたんじゃないかと思います。どうもありがとうございました」

 (考察部分)

 番組冒頭部分で、小学校教師乙武洋匡は学校が貰えない子はかわいそうだからという理由でバレンタインデーのチョコレートを学校に持ち込んではいけない規則となっていることを例に上げて、「傷つく機会をどんどん奪っていくから、自分を伸ばしていくとか、自分の足りないとこを気づくという経験が不足する」ことになるといったことを言い、傷つく機会を与えて自分自身に不足している点を考えさせるめにもチョコレートを持ち込むのはいいと思うとしているが、ただ単に持ち込むことを許可して、「傷つく機会」を与える、あるいは自分がなぜチョコレートを貰えないのか、自分に不足している点を反省させて、そこを伸ばす努力をすべきだと生徒に教師の言葉を伝えるのみでは、中には発奮する子もいるだろうが、すべての生徒が教師の言葉に従って忠実に自己省察し、自身に不足している性格、才能等を把握してその点の自己発展を図るとは限らない点を考えると、必ずしも効果ある助言とは言えない気がする。

 勉強もできない、スポーツも得意ではない、容姿も取り立てて優れていなくて学校では自分を生かすことができない。だからバレンタインデーでチョコレートが貰えない。だが、人間は学校を卒業して世の中に出ると、誰もが何かの仕事に就いて働くことを通して生きていかなければならない。一生懸命仕事をし、一生懸命生きていきさえすれば、学校では見つけることができなかった才能を見い出し、その才能によって自分を生かすことができるようになる。学校でバレンタインデーのチョコレートを貰えなくても、みんなそうして生活し、生きていく。

 チョコレートを貰える子も貰えない子もその点では同じだと教える。

 一生懸命仕事をし、一生懸命生きて自分を世の中で生かすためには、例え勉強ができなくても一生懸命勉強し、例えスポーツが得意ではなくても、体操の時間は一生懸命体操をして、容姿とかは関係なしに毎日を一生懸命生活し、学校を卒業して何かの仕事に就いたとき一生懸命仕事をして一生懸命生きていけるように学校にいるときから“一生懸命できる”練習をしておかなければならない。一生懸命できる準備をしておかなければならない。バレンタインデーでチョコレートを貰える貰えないよりも努力する姿こそが美しい、立派だと機会あるごとに教師は生徒に伝えるべきではないだろうか。

 それまで何でも適当にやっていて、急に一生懸命やろうとしても急には一生懸命できないからだと教える。それが何であっても、一生懸命取り組んでいたなら、学校を卒業して世の中に出てもどんな仕事についても一生懸命取り組むことができる。

 そのように教えて、例え勉強ができなくても、運動の成績が悪くても、チョコレートを貰えなくても常に一生懸命であること、努力する姿勢を求める。おお、頑張っているな、頑張る姿は社会に出たとき必ず役に立つからな、と。

 いわば勉強ができないこと、運動が不得手であること、当然テストができないこと、容姿が優れていないこと、バレンタインデーでチョコレートが貰えないことを受入れてやり、その代わりすべてに一生懸命取り組む努力する姿勢に最大限の価値観を置き、それを求めて、そういった姿へのエールを送り続ける。

 あるいは勉強ができなくても、運動が苦手でも、容姿が優れなくても、そういった生徒が日々頑張ることができるエールとなる言葉を教師自身が考えて発することが教師に求められているのではないだろうか。

 すべての生徒が成績優秀となることは永遠に不可能だからだ。

 「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」と須田アナに問われて、安藤は「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」と答えている。

 「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」姿とは、指示を待って、あるいは指示を得て初めて指示通りに動く姿勢を言い、指示に従って指示通りに動くから、与えた指示「以上のことはやらない」という一連の行動パターンが生じることになる。いわば指示の範囲以内の行動しか取らない。

 この行動パターンは知識・情報の授受に関しても、生活指導に関しても上に位置する教師の指示(=教え)に生徒が従ってなぞるだけの、普段から慣らされ、浸みついた権威主義教育・暗記教育に於ける生徒の行動パターンをそのままを踏襲した行動パターンであって、優秀な大学を出て社会人になってもそのような行動パターンから抜け出ることができず、血肉化してしまっている様子を伝えている。

 元々が行動の構造・思考の構造が上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の構造に支配されているのだから、当然と言えば当然の行動パターンなのだが、このことは逆に、父親が権威主義の行動様式・思考様式をたまたま受け継いでいなくて、その影響で子どもの頃から自身も受け継いでいない幸運にでも恵まれていなければ、安藤のような優れた建築家、独創性溢れる人間が輩出しないことを教えてくれる。

 他人の指示に従って、指示通りに動く思考性・行動性からは独創性は決して生れない。自分で考え、思考し、それを発展させていくところに独創性は生れる。

 また、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」非主体的、受動的行動性は日本人の労働生産性の欧米と比較した低さにも関係している。ブルーカラーの場合は現場で上司の監視が届いてるから、尻を叩かれる形で「言われたことは」せっせとやっていれば、それなりの生産性を上げるが、ホワイトカラーの場合はその働きは営業のように成績が監視役を果たす場合を除いて上司の監視では把握困難なため、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」ことが阻害要因となって生産性を上げることができないでいる。

 寺脇研が自身が推進役の一人となったゆとり教育について、「画一的にみんなで同じにとか、誰も傷つかないようにというような教育じゃなしに、個別教育、一人ひとりにできるだけ合わせていって、それぞれの能力を伸ばしていって欲しい。当然、自分の能力のある部分はチャレンジしていって欲しいということだった」と述べ、「画一から個別へという整理」の必要性を訴えている。

 いくら画一性からの脱却を訴えても、教師の知識・情報を生徒が全員してなぞって暗記していく、暗記量に個人差はあっても、暗記している内容に関しては結果として同じことを暗記することになる権威主義教育・暗記教育の構造自体が画一性を量産しているのであって、元凶となっている日本の教育自体を改めないことには画一性の打破は不可能であろう。

 一人ひとりにできるだけ合わせていく個別教育を施せば、画一性から脱却でき、個別性が獲得可能なことを寺脇は言っているが、一人ひとりにできるだけ合わせていく個別教育にしても、それが生徒の学習進度に合わせた権威主義教育・暗記教育である点が変わらない以上、一人ひとりに合わせるために単に学習に時間がかかるというだけのことで、同じ知識・情報を植えつけ、植えつけたとおりになぞり暗記させる画一性に変化はない。

 冒頭で日本の権威主義教育・暗記教育は生徒が自分から主体的に学習する教育の構造を取っていないと書いたが、そういった主体性を無視して親が子どもを幼い頃から親の指示・命令通りに考えさせたり行動させたりするのではなく、主体的に自分から考え行動するように訓練づけ、幼稚園・保育園に入ってからも、教師が園児を教師の指示・命令通りに考えさせ、行動させるのではなく、自分から考え行動するように訓練づける教育を施し、そういった教育方法を小中高と受け継いでいったなら、如何ともし難く存在する能力差を埋めて全員等しくすることは誰もできないのだから、例え教師が「一人ひとりにできるだけ合わせ」なくても、教師の手を離れて、子ども、あるいは生徒自身の能力に応じて能力に合った学び方を自分から考えて、選んでいくはずである。分からないときに質問を受けるだけで済むはずである。

 自分から主体的に考え学ぶことによって、例え低い水準にとどまった知識・情報の獲得であっても、教師が与える画一的な知識・情報を超えて曲りなりにも生徒自身の個別的で独自な知識・情報とすることができる。それが個性という要素であろう。

 また自分から考え学ぶ主体的姿勢が勉強もできない、スポーツも得意ではない、容姿も取り立ててが優れていなくても、何事に取り組むにしても自分から一生懸命に取り組む努力する姿勢を生むはずである。少なくとも建築家の安藤が言うように優秀な大学を卒業して社会に出ても、「自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」といった主体性の欠けらもない、受動性一辺倒の人間に育つことはないに違いない。

 寺脇研が日本の教育が知識・情報の画一性を生む権威主義教育・暗記教育となっている点に触れずに画一的教育を排して個別的教育の必要性を訴えたのに対して、宋文州が「今の先生は自分たちが個性がないので、個性を教えるのに人間が教えるのではなく、環境づくりから始めなければいけない。お父さん、お母さん、先ず、個性がないでしょう?先生が個性もない。社会全体が個性がない」と答えている。

 自らの思考の濾過・咀嚼を通さない、いわば自分の考えを通さない、他人が与えるままになぞり暗記した知識・情報だから、画一的な知識・情報に満たされることになって、当然個性がないことになる。宋文州が言うように、「お父さん、お母さん、先ず、個性がないでしょう?先生が個性もない。社会全体が個性がない」ということになる。

 暗記教育で同じことを教えられ、ただ単になぞって同じことを覚えていくから、単に覚えた、あるいは暗記した知識・情報の量がそれぞれに違うということだけで、覚えている、あるいは暗記している中身は同じで、そこからそれぞれの思考・行動が発動することになるから、当然「個性がない」という事態が生じる。

 権威主義教育・暗記教育自体が画一性を育み、画一性が個性を拒否する。

 日本の教育が権威主義教育・暗記教育であるという自覚に立って議論を進めないと、いつまで経っても同じ堂々巡りを繰返すことになる。

 宋文州は次のようにも言っている。「教育できないものがある。馬は川へ行きたくないのに川へ連れて行っても、仕方がない。つまり、意欲がないと教えられない。社員見ても、そうなんですよ。意欲のない人間に教えるよりも、意欲のある人間に教えた方が早い。評価に差をつけて、よく引き出しての教え(が必要)」

 「意欲」とは、自分から考え、学ぶ姿勢に宿る。自分から考え、学ぶ姿勢が可能とする欲求であろう。あるいは主体性が可能とする欲求であろう。そのような欲求が進取のエネルギーとなって現れる。

 既に触れた主体的に一生懸命に取り組む努力する姿勢に当たる。宋の発言は日本の教育はそういう教育にはなっていないということの逆説的言及となっているはずだ。

 主体的に学んでいるように見えても、教師が伝える知識・情報を伝えるままになぞり暗記する教育となっている。自分から考え、自分から学んで、自分なりの知識・情報へと発展・向上させる教育とはなっていない。

 勿論、意欲を持ったとしても、様々な能力があるうちで、得手不得手がある。何を取り組むについても、意欲を持って取り組む姿勢が必要であることを言い、そういった姿勢を常に求めるめるべきであろう。

 主体的要素としてある、あるいは自発的要素としてあるこの「意欲」、一生懸命に取り組む必要性を安藤は自分では気づかないままに間接的に指摘している。

 「人間というのは生きていく力というものを含めて、教えられるものと教えられないものとがある。学校教育で全部言われることはできないわけです」

 教師が不可能であるにも関わらず、すべてを一つ一つ教えようとするから、無理が生じる。生徒に自分から考え、自分から学ぶ姿勢――意欲を持たせることによって、教師が教えることができないことで生徒自身が必要とする事柄(知識・情報、その他)は生徒が自分から埋めていく。結果として教師はすべてを教える手間を省くことができる。生徒自身の自分から考え、自分ら学ぶ主体的な発展性、自発的発展性に期待することによって「生きていく力」が自ずと身についていく。

 続けて安藤は、「子どもが自分でモノを判断する力とか、勇気とか教えられるものではないが、取れる時間ない、勉強、勉強、勉強と。意識朦朧としているんですよ、子どもは」と、学校では教えることができない「自分でモノを判断する力とか、勇気」とかを勉強ばかり押し付けられて子どもが学ぶ時間がないと言っているが、「自分でモノを判断する力とか、勇気」は自分から考え、学ぶ主体的姿勢――意欲が解決する課題であろう。何事も一生懸命取り組もうとする努力する姿勢が否応もなしにあれこれと考えさせて、「自分でモノを判断する力」がついてくる。「勇気」にしても、自分から取り組んで色々と失敗を乗り越えたり、成功を収める試行錯誤によって自然と勇気がついてくる。

 教師に教えられるままに教えられたとおりのことを暗記していくだけでは「自分でモノを判断する力とか、勇気」とかはついてきてはくれない。

 宋文州が、「ゆとり教育は発想は全然いいと思う。今からそれを実現するための具体論をやらなければならない」と言うと、寺脇が、十年前の日本の学校は教育で教科書に書いてあることとか、文部省の学習指導要領に書いてあることだけがすべてだった。それを変える勇気が必要だと答えている。

 教育で教科書に書いてあることとか、文部省の学習指導要領に書いてあることだけをすべてとするとは、それらを絶対的権威と看做して、一から十までそれに従うことを言うが、この絶対的権威に対する無条件の受動性自体が権威主義教育・暗記教育の構造そのものの体裁となっているのであって、現在も日本の教育が権威主義教育・暗記教育となっている以上、十年前の日本の学校風景では決してない。

 それを変えるには勇気以上に日本の教育がどういう構造を取っているか自覚することが必要となる。 

 宋が「乙武さん、先生を教えればいい」と言ってみんなを笑わせたが、このことに対して慶大教授の清家が、「バランスの問題だと思う。多様性とか個性は勿論大切だと思う。その基礎にしっかりとした学力がないと、あくまでも多様性とか個性はあるものを勉強した上で、自分なりの個性とか、あるいは自分なりの多様性とか出てくる。そういう面で、小学校とか中学校という義務教育のところは、むしろ国がお願いしてしっかり勉強してもらう所ですから、そこはレベルを平均的に底上げするという考え方は正しいと思う」と、基礎学力の上に多様性と個性を築き上げるバランスが必要だと指摘している。

 安藤が指摘する「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」若者像は清家が言う「学力」ある元生徒だったはずだが、その上に築かれるとする「多様性とか個性」は一切排除した姿を取っている。基礎学力の上に多様性と個性が築かれるとする主張との矛盾を清家はどう説明するのだろうか。

 また清家の主張を裏返すと、今の子どもは基礎学力が十分に身についていないから、多様性、個性に見るべきものがないということになる。だが、意外と先生の言うことを真面目に聞いてせっせと暗記教育に励み、テストの成績のよい勉強ができる子は多様性、個性は感じなく、勉強はできなくても、山や川や海といった自然の中で良く遊ぶ子に多様性、個性を感じる。

 遊ぶ子は一つの方法でばかり遊ぶと飽きてきてつまらなくなるから、遊ぶ方法を常に考える。あるいは新しい遊びに挑戦したりする。挑戦するには危険でない方法、どういった方法で行えば目的とした遊びを実行できるか瞬間瞬間に考えながら遊びを進めていく。また、うまくいった遊びでも、こうしたらもっと面白くなるかな、もっと楽しめるかなと工夫して、遊びの方法を修正するといったこともある。

 この傾向は個人的な見方ではなく、一般的な見方としてある傾向であろう。基礎学力の上に多様性と個性が築かれるとする主張とは全然整合しない清家の主張となる。


    ――以下続く――

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2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(3)

2010-09-26 03:40:59 | Weblog

 2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(2)の続き

 須田アナ「先ほど、清家先生が自分の頭で考えるしかない、その問題を探すことが大事じゃないかと。確かに意味あるいい話だと思うんですけども、建築の現場でもそうですよね。どうしたら実践したらいいんでしょうかね?」

 安藤「建築の現場でもそうなんですよね。例えば条件の悪い仕事が来る。そしたら自分で条件を、私は新しい人が来ると、自分で条件を組み立てろと。だけど、条件が出て、それを解決するだけ。それは大体できる。だけど、自分で条件を組み立てて、遠い距離へボートを置いて、遠いところへボートを置いてしまって、自分では到底追いつかないぐらいのところを考えて、それをどうしたら追いつくかということを組み立てていかなければいかんということなんですね」

 須田アナ「それも勇気がいりますねえ」

 安藤「中学のときに相撲の先生が、数学が美しいとか、数学は美学であるとか、あんまり分からないですけど、そういうときに数学と言うのは知識を詰め込むだけじゃなしに自分で組み立てていかないと。そして答を出す。そしてひょっとして答が出たら、自分に自信が出ると。その次に間違いなく勇気が出ると。そういうのが大事なんだと教えてもらった」

 乙武「僕が小学校で担任して最初に凄くビックリしたのは、子どもたちがトイレに行っていいですかって聞きに来るんですよ。つまり今休み時間なのにトイレに行っていいかと判断ができないし、国語のノートを取っていても、先生、新しいページにした方がいいですか、聞いてくるんですよ」

 「違うことをやると、怒られるからですよ。私の子どもが短期留学行ったんですね。違うこと言ったら、先生に怒られるんです。こういうことを言ってくださいと言われたんですよね。多少違うこと言っていいですよと言ったら、先生には色々と言われても困りますと言われた。子どもたちが本来は親の影響なんですよ。教えられているから、怒られているからいけないんですよ」

 須田アナ「そういうときは乙武さんはどう教えたのですか?」

 乙武「いいよって、一言言った方が僕も楽なんですすが、それではいつまで経っても考える力がつかないので、今は何の時間?5分休みです。それはトイレに行っていい時間、ダメな時間?いい時間です。じゃあ行っておいで、と言うと、子どもたちも考える癖がついてくる。小学校で教えていて、これじゃあ子どもたちに考える力がついていないなと思ったのは、兎に角テストというのは教えたことを暗記して、それをテストのときに記憶から取り出してくるっていう作業ばっかりなんですね。ですから自分で考えるということが授業の中で普段の学習の中でなかなか行われていない。

 例えば僕が6年生の歴史を教えていたときに、あの聖徳太子の17の憲法を教えるということで、最初は第1条はみんな仲良くしなさいって言っているんだよ。第2条は仏教を厚く信仰しなさいということ言ってるんだよ。それをしっかり教えた上で、じゃあ、教科書を閉じて、今は聖徳太子になってみて、今の時間は豪族たちが俺の方が強いや、俺たちの方が強いって争っていて、何とか平和の世の中にしたい、そうさせるためにみんな自分も18条目の憲法をつくってごらん、という授業をした。

 子どもたちは凄くユニークで、例えば凄く食べるのが好きな子なんかは、じゃあ、食べ物が余っていたら、分けて上げるとか、凄く勉強のできる子は、力のある豪族からはより多くの税金を取る。僕はどちらも○にした。自分で考える力があれば、考えたことなら、どちらも等しく○なんだと思うんです。

 それでも半分ぐらいの子がノート白紙なんですよ。やっぱりしょうがないのかな。つまり、そういうふうな機会を得ていないので、どうもそういう場を設定していくことが大事だなと思います」

 須田アナ「清家さん、画一的な、一歩脱皮するにはどうしたらいいんですか?」

 清家「一つは学問というものを尊ぶ心を持って欲しいと思う。学問を通じて我々は真実を知ることができる。例えば一番分かりやすいのは昼夜の動きですよ。我々の普段の観察から言えば、太陽とか星が動いていて、地球が止まっている。真実はそうではない。地球が動いていて、動いているわけですよね。つまり天動説じゃなくて、地動説。

 それを我々は天文学という学問を通じて真実を理解している。だから、先ず一つはそういう学問を通じて真理を理解できるということをきちっと押さえる。その上で、そういう学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出すことができるんだというふうに考えていくことが大切だと思う。だから、自分の頭で考えることができる」
 
 (宋が中国へ行くということで中途退席。)

 教育への投資で国を建て直したスウェーデンの話へと移る。日本でもスウェーデンをお手本とする動きが始まっているとしている。

●経済発展の原動力は独特の教育システムにあった。
●日本は高卒で資格がないとなかなか正規社員の仕事を見つけることができない。書類選考の時点で
 振るい落とされてしまう。
●このような日本と違って、スウェーデンでは何歳になってもなりたい仕事を目指せる、何度でも再
 チャレンジできる国となっている。
●人口約930万人。神奈川県とほぼ同じ人口。
●世界の注目を集め、世界に通用する企業を産み出している。

 スウェーデン人男性「うちの母親は馬関係の販売員から学者になった」

 同若者「私の高校の友達はエレベーターを造る仕事をして、26歳から消防士の学校に入って、今消防士」

●スウェーデンでは何度も仕事を変えることは珍しくない。
●それを支えているのはリカレント教育という独特な教育システム。
リカレント教育――学校を卒業、社会に出た後学び直すことができる学費無料・無試験の生涯教育
 の一つ。
●社会人の学び直しが積極的に行われている。

 スウェーデンの大学で学んだ日本福祉大学の訓覇法子教授(くるべ のりこ)は大学入学直後、同級生に驚いたと解説者。

 「1年制の平均年齢は28歳だった。それで、エッと思いまして。そしたらスチュワーデスしていた人もいましたし、船乗りをやっていた人もいましたし、非常に多様でした。スウェーデンの教育制度というのはいつでも、どこでも遣り直しの教育制度」

●スウェーデンは1990年代、バブル崩壊に苦しむ日本同様に経済破綻状況に落ち込んでいた。失
 業率は高く、財政赤字の悪化。しかし危機的な状況の中で教育に力を注ぎ続けてきた。

 駐日スウェーデン大使「研究、新しい生産方式の開発などに於いて世界の先頭を走るためには、教育と研究開発の両方に投資をしなければいけない。我々は考えた。そうしないと世界と戦えない」

●教育を高めることで時代の変化に対応できる質の高い労働をつくり出そうとした。

 駐日スウェーデン大使「我々は低い賃金を武器に世界市場で競争しているわけではありません。スウェーデンには高い知識レベルを持った幅広い労働者が必要なのです」

●高い教育を受けた労働力が国の経済を支え、スウェーデンでは国際競争ランキングで日本を上回る
 4位にのぼり詰めた。そして今、こうしたスウェーデン流の生涯教育を取り込み始めた大学に企業
 も大きな関心を寄せている。

 日本女子大学「評判が良く、(就職で)続けて取っていただいて」

●日本女子大学――3年前から離職者の女性を対象としたスウェーデン流のリカレント教育課程を導
 入。学んでいるのは20代から50代の様々な年代の女性たち。授業料は年間24万円。1年間の授業
 後、再就職が目的。

●この日の授業はパソコンを使って企業の会議さながらのプレゼンテーション。終わると直ちに担当
 の教授から指導。授業のすべてが実際の仕事を意識した内容。

 40代生徒「会社を辞めてから、ずっと主婦をして、子育てをして、いざ気がつくと、現代社会から取り残されていて、やっぱり自分が今学ぶことが一番必要じゃないかと」

 40代生徒「私は会社を辞めて、13年。ブランクがありまして、いきなりポンと働き始める勇気がなかったもので」

●再教育を受け、高レベルで社会に出ようという彼女たち。企業からの期待も高く、希望者の就職率
 は100%だと。

 ソートン・不破直子所長(日本女子大学生涯学習センター)「新卒者は勿論いつも見ておりますけれども、その人たちと比べ物にならない何か持久力がある。いざというときに頼れるような人たちが終了していきますね」

 須田アナ「清家さん、日本でも生涯教育の取組み、増えているような現実を聞いておりますが」

 清家「やはりこれから益々必要になってくると思う。一つはスウェーデンと同じだが、先進国どこでもより高付加価値を持ったサービスを生産していかなければいけないので、それを担うことのできる能力を持った人を常にサイクル教育していかなければならない。特に日本の場合は少子高齢化だから、これから人口がどんどん減っていくから。ということは働く人も段々減っていくのですが、その中で経済社会を維持しようと思える人は一人ひとりの人間が生み出す生産物の量を増やしていかなければならない。

 いわゆる生産性を高めなければいけない。そういう面では一人ひとりがもっともっとたくさんの物が作り出せるように能力アップしていかなければならない。そういう面でも、生涯教育は必要ですし・・・・」

 須田アナ「30代でも40代でも50代でも教育を受けるチャンスがあるといいですね」

 清家「おっしゃるとおりです。そして30代でも40代でも50代でもだけでなくて、これから年金の支給開始年齢も65歳になっていきますし、恐らく日本はもっと高齢化しますから、70歳ぐらいまで現役働けるようになりますので、その意味でも常に新しい技術を持った知識を自由に身につけ直す。そういう生涯教育、あるいは生涯に亘る能力開発というものが日本のような国には大切になっていく」

 吉田アナ「乙武さん、いつでも、どこでも誰でも学べるシステムをつくり上げたスウェーデンの取り組みについては?」

 乙武「まさに僕はこれだなと思うんですね。つまり大学を卒業して、一旦はスポーツライターという活動をさせていただいていましたけれども、やはり教育に力を尽くしたいという思いがあって、29のときにもう一度大学に入り直して、教員免許取得させていただいたので、あの期せずしてこのリカレント教育を自分で選んでいたんだなあと、そのお陰で凄く自分の道が開けてきましたし、今またいろいろなことを勉強したいって気持になっています。

 本当にこういうのは大事だし、人の生き方を前向きにさせるんじゃないかと思う」

 須田アナ「あの、スウェーデンの方式もそうだが、日本しかできないもの、日本流も中にあるような気がするのですが?」

 乙武「いろいろな国の文化と背景が違うので、システムというものをそっくりそのまま持ってくるのは難しい。ただ、色々勉強していく中で、あっ、ここは見習うことができるのではないかなと、色々な、少しずつ取り入れていくということはしてもいいのかなあと思う。例えばフィンランドでは義務教育でも留年があったりするそうだけど、それは日本では考えられないと思う。留年しても、授業料がかからないという前提があるのだが、そのお陰で分からないままにしておくことは恥ずかしいということが子どもにも家庭にも浸透しているので、勉強の分からないところがあったことをそのままにして置くことがなくなるそうなんですね。その辺りは色々と制度の問題とかあるのでしょうけれども、マネをしてもいいと思いますし――」

 須田アナ「寺脇さん、フィンランドのこと大変お詳しいということなんですけど。トータルで考えると、両方とも生涯教育の社会ですね」

 寺脇「これ、折角パネルを作っていただいたのに何なんですけど、私は敢えて生涯学習と言いたい。なぜかと言うと、両方とも生涯学習の国なんです。今度消費税上がるという議論が上がっているよね。私は逆に教育予算んてなかなか増えない。

 これは学習予算だという考え方に立って導入してもらいたい。今まで教育予算を増やせって言うと、先生が楽をするためにそういうことを言っているとか、既得権益がどうのって話が出てくる。学習予算と考えれば、全員のためになる」

 須田アナ「教育と学習とは言葉の意味合いが違うということですか?」

 寺脇「そう。学習の受益者とは国民全部じゃないですか。教育の受益者はどうしても狭いサイクルで把えられて、大学の人が喜ぶのかとか、そんな言い方をされるけど。大学は学習するための場所だと考えれば、あらゆる人に、つまり、大学って一握りの人が行くところじゃない。そんなことはないんですよ。

 さっきみたいにあらゆる人がいつでも、どこでも、やり直す大学に行けるとすれば、大学へ予算を投入するということは国民のすべての学習に関係することなんです。だから、教育よりも景気対策の方が優先だなんて言わないで、つまり学習に予算を、消費税をもし上げるんだったら、どんどん放り込んでもらってやっていく。それが多分、実は経済を良くすることにもつながるじゃないか」

 安藤「外国でよくするけど、話をすると、日本人の評価が一番高いのは長寿なんですよ。女性が90歳ぐらいで、男性が80歳ぐらいで、85ぐらいで、そういうことは若くて元気で、女性の場合は綺麗であると。その人たちが、生涯教育が非常に大事だということは、次に新しい知識を入れながら生き続けると。教育がないと、なかなか理想というのができない。やっぱり理想というものを持って、新しい世界を自分で切り開いていくときに勉強というものは非常に大事なんですよ」

 清家「長寿というのは、今安藤先生が言われたように昔は寿命が短かったから、若いとき集中的に勉強したり、仕事能力を身につけたり、後毎日忙しく短距離競走を走り抜くように定年まで働けばよかった。でも、これから60代70代まで働けるようになると、むしろ短距離競走じゃなくて、マラソン型の、途中で栄養ドリンクなど補給しながら長丁場を走りぬく。まさにそれが生涯教育、生涯学習――」

 須田アナ「私は60過ぎたけれども、私の世代で仲間が集まると、学生時代の仲間が集まると、いや、勉強した。例えば、文学の世界で、こういうものをもっと学生時代よりもっと深くできるような気がする――」

 清家「そこのもう一つ大切なのは、勉強して、次の仕事に結びつけるというのは投資の意味の教育でもあるが、教育というのはもう一つ、今まさに言われたように学問すること自体が楽しい、消費する意味がある」

 須田アナ「生きる何か力になる」

 清家「成長すること自体が喜びだという。だから単なる仕事のために生涯教育ではなく、自分自身のために人生を豊かにする意味を生涯学習ですね」

 乙武「私の妻も昔から言っているのは、私が子育てを終わったら、自然環境のことを学びにもう一回大学に行くんだと。行きたい大学まで決めている」

 須田アナ「素晴らしい」

 乙武「僕も刺激を受けましたね」

 寺脇「スウェーデンやフィンランドの教育予算、学習予算を物凄く取っているのは子どもたちだけのことではない、子どもから年寄りまで全員のためのことなんだと。医療と同じなんだという考えなんです」

 清家「私たちがもう一つ考えなければいけないのは日本でこれまで生涯教育を担っていたのは企業。企業の中で仕事能力を身につけ産業構造が変わったら、企業も違う方面に進出して、その中で再訓練していく。

 その面では日本では企業に於ける生涯教育というのは研修なども含めてとても発達していたのだが、一つここで問題が上がってきたのは、最近正社員の比率が減ってきて、企業が企業内の教育訓練するのは多いのは正社員で、それ以外の人たちの企業の中に於ける生涯教育の場が段々少なくなってしまう。そこでやっぱり社会全体で大学まで含めて充実していかないなというふうに思います」

 須田アナ「今、企業という言葉があったが、やはり企業。安藤さん、仕事そのものが生涯教育になっている場合が多いですね」

 安藤「そのとおりですね。学生のときに自分の好奇心が生きるエネルギーになる。体力と同時に日本人はもう好奇心が旺盛じゃないですか、昔から。映画へ行く、歌舞伎へ行く、音楽界へ行く。それが大体この日本人の素晴らしい人生、全部女性にいってしまっている」

 吉田アナ「女性は時間がありますから」

 安藤「男性もそれを取り戻して、やはり90歳、それを越えて、好奇心を持っていくと、好奇心というエネルギーが人間を充実した人生を送るためにはやっぱり生涯教育は凄く大事だと思う」

 須田アナ「乙武さん、最後にお聞きしたいのです。夢なんですが、奥さんの夢、先程お聞きしましたが、乙武さん本人もおありなんじゃないかと思います」

 乙武「僕は父親として二人の息子をしっかり育てていくということ。そうなんですけれども、平和ということを僕はテーマとしていて、凄くそこに自分の力を尽くしていきたいなという思いがあるが、その根本にあるのは一人ひとりが違って当たり前なんだということを分かっていくことだと思うんですね。

 それは個人個人もそうですし、国家と国家、宗教と宗教、全部が違っていて当たり前なんだということが大事だと思うのだが、それを伝えるのに僕はとても分かりやすい身体をしていると思うので、そのことを生かしながら、そのメッセージを伝えていくというのが僕の夢ですね」


    ――以下、続く――

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中国人船長釈放は日本の敗北か、菅政権の敗北か

2010-09-25 09:36:40 | Weblog

 釈放に至る一連の経緯を各種記事から見てみる。

 9月7日に尖閣諸島近辺の日本の領海内で中国漁船が操業、日本の巡視船が立ち入り検査しようとしたところ、巡視船に体当たりし、逃走。追跡して停船させ、船に乗り込み立ち入り検査に入る。

 政府は海上保安庁から一連の事態の報告を受けたのだろう、事件発生と同じ9月7日、仙谷由人官房長官と外務省、海上保安庁の幹部と首相官邸で対応を協議したと「asahi.com」記事――《尖閣沖の巡視船衝突、中国政府に遺憾の意 外務省》(2010年9月8日1時21分)が伝えている。

 〈船長を逮捕すれば、尖閣諸島の領有権を主張している中国側が強く反発するのは確実。東シナ海のガス田の共同開発をめぐる交渉に影響する可能性もあるが、政府関係者は「中国に毅然(きぜん)たる態度を示す。船は差し押さえて、石垣島か沖縄本島に連行することになる」と述べた。 〉・・・・

 逮捕が引き出すことになる中国側の反応は理解できていた。理解できていた上で、「中国に毅然(きぜん)たる態度を示す」ことで協議を決着させた。

 そして同7日夜、外務省の斎木昭隆アジア大洋州局長が中国の程永華(チョン・ヨンホワ)・駐日大使に電話、遺憾の意を伝えた上で国内法に基づいて漁船の船長を逮捕する政府の方針を説明した。

 斉木局長の説明に対して程永華駐日大使は「本国に伝える」と応じたという。

 ベルリン訪問中の岡田克也外相(当時)の同7日の発言。

 岡田外相「我が国の領海内の出来事であるので、法に基づいて粛々と対応していく。先ほど官房長官とも電話でそういう方針を確認した」

 外務省幹部「国内法の執行が、外交のためという理由で曲げられてはいけない。国内法に基づいて粛々とやるのが当然だ

 この逮捕に対して中国が尖閣諸島(中国名、釣魚島)は中国の領土であり、逮捕は不法だと強硬姿勢を見せると、「国内法に基づいて粛々」のルールを政府関係者の殆んどが口を揃えて発信した。

 その根拠は断るまでもなく、尖閣諸島は日本の領土だからである。「国内法に基づいて粛々」をルールとすると同時に尖閣諸島を日本の領土としていることから、尖閣に「領土問題は存在しない」を絶対命題としてぶち上げた。

 《尖閣沖の巡視船衝突、中国政府に遺憾の意 外務省》asahi.com/2010年9月9日2時27分)

 8日午前の記者会見の仙谷官房長官の中国漁船船長の逮捕についての発言。

 仙谷官房長官「外交的な配慮はなかった。粛々と手続きを進めた。そもそも尖閣諸島には領土問題は存在しないというのが日本の立場なので、日本の国内法で対処していく」

 立派だと手を叩くべきだろう。

 東シナ海ガス田共同開発交渉の停滞の可能性に関して。

 仙谷官房長官「影響が出るとは考えていない。・・・・事態をエスカレートさせないようにしようということが中国大使らとの話し合いで出ている。日本国内でもヒートアップせず、冷静に対処していくことが必要だ」

 《ガス田交渉延期 国交相「漁船問題と絡めてなら遺憾」》asahi.com/2010年9月11日22時10分)

 11日の前原国交相(当時)の岐阜県多治見市の記者会見での中国外務省が日中両政府東シナ海ガス田開発条約締結交渉会合延期発表したことについて。

 前原国交相「もし延期が(尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突を)絡めたものであれば、極めて遺憾で、中国政府に冷静な対応を求めていきたい」

 このことは9月7日の首相官邸での仙谷官房長官等の漁船船長逮捕についての協議で前以て政府内で予想していたことであった。  

 漁船の船長の勾留が決まったことについて。

 前原国交相「尖閣諸島は日本固有の領土であり、違反事案があれば国内法に基づいて粛々と処理をする。お互いが冷静にならなくてはいけない」

 だが中国側の対日圧力は東シナ海ガス田開発条約締結交渉会合延期のみでとどまらなかった。

 「船長を直ちに釈放せよ」の要求に併行させて、「閣僚級の交流停止」、中国の旅行業界に対する訪日旅行募集自粛要請。中国人観光団体客の訪日キャンセル。日本の各観光地で実害が出ていた。

 10月28日都内開催予定の「日中知事交流・フォーラム」の延期。中国吉林省長春の大学で9月25日開催予定の日本語弁論大会の延期。9月28日名古屋市で開催予定の「日中文化芸術国際交流の祭典」が出演予定の中央民族大学舞踏学院(北京市)から「来日延期」の連絡が入り、中止。そしてその他、あの手この手の圧力はとどまるところを知らなかった。

 最後のとどめが温家宝中国首相の国連総会出席のために訪れていたニューヨークでの9月21日の在米華人らとの会合での、船長即時釈放の要求と、応じない場合のさらなる対抗措置の示唆の後に行われた、中国が世界生産の97%のシェアを握っていて、日本が中国からの輸入に依存しているハイテク産業の生産と開発に欠かすことができないレアアースの対日輸出の停止と軍が管理している地域に無許可で立ち入り映像を撮影したとして日本の建設会社フジタの4人の社員の逮捕であろう。

 温家宝「日本側は取り合わず、必要な対抗措置をとらざるをえない。・・・・このことで生じるすべての結果は、日本側が責任を負わなければならない」(《中国首相、漁船船長の釈放求める 「即時に無条件」》asahi.com/2010年9月22日11時45分)

 ハイテク産業は日本の国家存亡の命綱である。ハイテク産業なくして現在の状況での日本は成り立たない。

 レアアースの対日輸出停止が確認されたのは9月23日。そして翌日の9月24日、那覇地方検察庁が船長を処分保留のまま釈放することにしたと鈴木亨次席検事が午後の記者会見で公表。《中国船船長の釈放決定 送還へ》NHK/10年9月24日 16時59分)

 釈放理由。二つ理由を挙げている。

鈴木亨次席検事「衝突された巡視船の損傷の程度が航行ができなくなるほどではなく、けが人も出ていない。船長は一船員であり、衝突に計画性が認められない」

 鈴木亨次席検事「わが国の国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上、船長の身柄の拘束を継続して捜査を継続することは相当でないと判断した」

 記者「政治の判断があったのか」

 鈴木亨次席検事「検察当局として決めたことだ。・・・・船長に確認すべきことがあるため釈放の手続きには時間を要する」

 「わが国の国民への影響や今後の日中関係を考慮」は、「国内法に基づいて粛々」を踏み外した発言であろう。国内法に則った釈放なら、「わが国の国民への影響や今後の日中関係を考慮」といった発言は出てこないはずだからだ。

 問題は中国の尖閣諸島は中国領土であるとすることからの対日圧力に屈した政府要請からの発言であるかどうかである。もし政府要請からの発言だとすると、「領土問題は存在しない」の絶対命題を日本政府自ら否定したことになる。

 政府の反応。《官房長官 法にのっとった結果》NHK/10年9月24日 18時12分)

 仙谷官房長官「刑事事件として、刑事訴訟法の意を体して判断に到達したという報告を受けており、那覇地検の判断を了としている。菅総理大臣には、秘書官室から連絡し、那覇地検が発表したあと、外交ルートを通じて中国に通報した。わたし自身は、粛々と国内法にのっとって手続きを進めた結果、ここに至ったと理解している」

 那覇地検が釈放の理由の1つに国民への影響や日中関係をあげていることについて。――

 仙谷官房長官「検察官が総合的な判断を基に身柄の釈放や処分をどうするかを考えたとすれば、それはそれでありうる」

 今後の日中関係について。――

 仙谷官房長官「日中関係が悪化する可能性や兆候が見えていたことは、まごうことなき事実だ。ここからあらためて日中関係が重要な二国間関係であって、戦略的互恵関係の中身を豊かに充実させることを両国とも努力しなければならない」

 仙谷官房長官が言うとおりに果して、「粛々と国内法にのっとって手続きを進めた結果」至った釈放決定だったのだろうか。

 菅政府内の一員として、法務大臣も同一歩調を取っている。《法相 指揮権行使の事実ない》NHK/10年9月24日 18時36分)

 24日夕方、法務大臣としてのコメントを記者団を前に発表したものだという。

 柳田法務大臣「検察当局が釈放の決定をしたあと、その発表の前に報告を受けた。法務大臣として検察庁法第14条に基づく指揮権を行使した事実はない。個別の事件における検察当局の処分について、法務大臣として所感を述べることは差し控えるが、一般論としては、検察当局が諸般の事情にかんがみ、法と証拠に基づいて適切に判断したものと承知している」

 同じ歩調の岡田幹事長。《岡田幹事長 検察が粛々と判断》NHK/10年9月24日 18時52分)

 岡田幹事長「検察庁が法に基づいて粛々と判断した結果で、その判断に対して政治家がコメントすることは避けるべきだ。検察庁が、日本政府や中国側から何らかの影響を受けて本来の判断を曲げてしまったと受け止められれば、最大の国益を損なうことになるので、そうではないということを発信していくことが重要だ」

 中国の圧力に屈して政府が要請した釈放だと「受け止められれば、最大の国益を損なうことになるので、そうではないということを発信していくことが重要だ」とまで言っている。

 馬渕国交相。《国交相 今後も厳粛に取り組む》NHK/10年9月24日 20時39分)

 馬渕国交相「今回の判断は、検察当局の判断だ。それぞれの立場の中で判断されたものと理解している。海上保安庁の諸君はたいへん適切な対応をしてくれたし、現在も大型の巡視艇などが哨戒に出て警備しているが、領土を所管する国土交通省としては、今後も厳粛に取り組んでいく」
 
 「海上保安庁の諸君はたいへん適切な対応をしてくれた」「適切な対応」は政府にとっても「適切な対応」だったということでなければならない。意見の一致を言った発言だからだ。

 この政府にとっても「適切な対応」は断るまでもなく、「国内法に基づいて粛々」のルール及び「領土問題は存在しない」の絶対命題に関しても首尾一貫した「適切な対応」でなければならない。

 だが、果してそうなっていると言えるのだろうか。

 そして最後に我が指導力優れた菅首相。《首相“検察が国内法で判断”》NHK/10年9月25日 7時16分)

 訪問先のニューヨークで記者会見。

 菅首相「検察当局が事件の性質を総合的に考慮して、国内法に基づいて粛々と判断した結果だと承知している」

 最近テレビによく顔を出すようになった元東京地検公安部長の若狭勝弁護士が政府側発信の首尾一貫性に疑義を呈している。

 《検察OB 外交的判断で問題》NHK/10年9月24日 20時1分)

 若狭勝弁護士「事件捜査としては、こう留期限まで5日も残して釈放するのは異例だ。那覇地検は、釈放の理由について『国民の利益や日中関係を考慮したなかで、捜査を継続するのは相当でない』と発表したが、検察がこうしたことを独自に決めたとすれば、捜査機関が外交的な判断を行ったことになり問題だ。・・・・実際には政府が中国側の反応やフジタの社員が中国で拘束されたことを受けて、高度な政治的理由から判断し、それに基づいて釈放が決まったと考えるのが自然だ」

 このことは那覇地方検察庁の船長釈放公表から実際の釈放、そして中国側が船長を中国に移送するためにチャーター機を持ち込んで船長を乗せて中国に向かった急転直下の一連の動きが証明している。

 以下いくつかの「NHK」記事を参考。那覇地方検察庁が船長を処分保留のまま釈放すると記者会見で公表したのは9月24日の日中。鈴木亨次席検事は「船長に確認すべきことがあるため釈放の手続きには時間を要する」と言っていた。

 だが、その日の夜の内に釈放。釈放は次の日の昼間の明るい日中であってもよかったはずだが、この慌しさは何を意味するのだろう。しかも中国は船長身柄引受けのチャーター機を差し向けた。この差し向けは即時釈放要求に対応した即応性からの措置と見ることができる。

 いわば、「釈放の手続きには時間を要する」としたことに対してそこに即時釈放要求があり、その要求に応じた深夜の慌しい釈放と言うことなら、那覇地方検察庁が公表した釈放決定自体が当初の即時釈放要求に応じた釈放決定であり、「釈放の手続きには時間を要する」とする日本側の事情に対してさらに嵩にかかった即時釈放要求が深夜の釈放と言うことではないだろうか。

 実際に船長釈放が「国内法に基づいて粛々」のルール及び「領土問題は存在しない」の絶対命題を反故にした中国の対日圧力への屈服であったなら、中国人観光客の訪日もレアアースの日本輸入も、取引して手に入れるものから与えられて手に入れるもの、付与物に貶める転換点となることは間違いない。

 中国の経済力のサジ加減一つで日本の死命を制することができる中国の対日外交カードとして有効・強力であることを証明したこととなって、今後とも使えると計算させたことは間違いなく、日本は中国の経済力と言う手のひらに乗ることになるだろうからだ。
 
 中国の経済力のサジ加減一つで死命を制することができる外交カードとして今後とも使えると計算させた上、日本が中国の経済力と言う手のひらに乗ることになる点で、“日本の敗北か、菅政権の敗北か”ではなく、釈放は日本の敗北であると同時に菅政権の敗北を意味することになる。

 菅政権は自らの敗北だけではなく、日本の敗北まで巻き込んだ。

 船長を乗せた中国政府のチャーター機は25日午前2時過ぎに石垣島を出発、3時間経った日本時間の午前5時前に中国南部・福建省、福州の空港に到着したという。NHKテレビの朝のニュースは船長を大歓迎で迎える群衆を映し出していた。中国にとっては勝利を意味していたはずである。

 そして中国政府は日本に対して船長逮捕の謝罪と賠償を求める方針を公表したという。この方針は尖閣諸島を中国の領土と認めさせようとする政治的行為であろう。

 日本政府が応じたなら、ある意味で中国の領土と認めることになる。応じなければ、これまで見せてきた日本に損失を与える様々な圧力を外交カードとするに違いない。

 いずれにしても、日本政府は尖閣諸島に関して「領土問題は存在しない」を絶対命題として尖閣諸島を中国領土とする中国に対してきた。だが、それが歴史的事実だとしても、「領土問題は存在しない」は日本の事情に過ぎないことを暴露した。中国が中国の領土だとして一歩も引かない以上、日中間には領土問題が存在することを突きつけた。 

 それが船長逮捕と釈放の経緯となって現れ、その間に生じた様々な対日圧力の出来となって現れた。あるいは「法に基づいて粛々と対応していく」ことを貫くことができなかったことが証明している領土問題の存在であろう。

 いわば尖閣諸島に「領土問題は存在しない」は日本の事情に陥っていることを自覚し、逆に日中間に尖閣諸島を挟んで領土問題が存在することを認めて、尖閣諸島は日本の領土だと相手に認めさせ決着づける交渉を中国の間で持つべきだろう。

 決着づけることができるかどうかは偏に日本側の政治能力・外交能力にかかっている。何よりも菅首相の逞しいリーダーシップにかかることになる。

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2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(2)

2010-09-24 04:09:48 | Weblog

 ――気づいた二つの事柄――

 「ミレニアム開発目標」に基づいた日本の支援を「菅コミットメント」とする厭味な自慢臭

 自分自身が提唱した理念――国のリーダーがまず果たすべき役目とは、疾病、貧困、紛争といった不幸の原因をできる限り小さくするという「最小不幸社会」構築の理念はMDGs(エム・ディー・ジーズ)の理念に共通するもので、この「最小不幸社会」の理念に基づいて2015年期限の発展途上国貧困層割合半減等を目標とした「ミレニアム開発目標」の達成に向けて開発途上国の保健分野に2011年から5年間で50億ドルを、教育分野に2011年からの5年間で35億ドルを支援と国連総会で昨23日に演説、この支援を以て「菅コミットメント」と謳い上げているが、いくら「最小不幸社会」がMDGsの理念に共通していたとしても、今日の日本の存在は様々な外国や様々な外国人の関与を受けつつ、これまで生存してきたすべての日本人の様々な分野に於ける活動の変遷と積み重ねの総体としてあるもので、開発途上国向け支援の総額2011年から5年間で85億ドルはこのような今日の日本の存在から生み出された貴重な資金であって、今日の日本の存在が菅首相個人の総体としてあるものではなく、当然、開発途上国向け支援の総額2011年から5年間で85億ドルは菅首相個人の存在から生み出された貴重な資金と言うわけではないのだから、個人の名前を冠して「菅コミットメント」とするのではなく、「ジャパンコミットメント」とすべきではなかっただろうか。

 85億ドル、1ドル84円計算でも、7140億円にものぼる。これだけのカネを援助しますと言うとき、そこに自慢がないわけではあるまい。自慢と言って悪ければ、誇りがないわけではあるまい。これだけのカネを出すことができますよの意味を込めているのだから。

 「菅コミットメント」と個人の名前を冠したとき、これだけのカネを出すことができますという自慢、もしくは誇りは菅首相個人に帰することになる。

 一国のリーダーには今後の日本のために今現在何を為すべきかが何よりも問われる重要事項であるにも関わらず、演説の中に「私は厚生大臣時代、初めて薬害エイズ問題に於ける国の責任を認めました。そして、患者全員に謝罪し、和解しました」と例の如く過去の自慢を付け加えていることにも現れているが、総額85億ドルの開発途上国支援に「菅コミットメント」と個人の名を冠したことにどうしようもなく厭味な自慢臭を感じたのは私一人だけのことだろうか。 
 連勝で名を遺す力士と連勝を止めて名を遺す力士

 大相撲モンゴル人力士白鵬がかつての千代の富士が持つ連勝記録53をあっさりと抜いて、昨日の秋場所12日目で59に連勝を伸ばした。双葉山の69連勝に向けてとどまるところを知らない勢いを見せている。

 千代の富士の53連勝を抜いて54連勝を達成したとき、大相撲の国際化到達の象徴的出来事に思えた。双葉山の69連勝を抜いたとき、単なる伝統的競技に過ぎない大相撲を日本の伝統文化だとする独善的、大仰な価値観からの解放を象徴する出来事となるように思えて仕方がない。

 厳密に日本の伝統文化なら、日本人の血を受け継いだ力士にしか成し遂げることができない連勝記録としなければならない。

 日本の大相撲史に外国人力士が後世に名を遺す。もし白鵬が双葉山の連勝記録を破ったなら、日本人力士、外国人力士を含めて再び破る力士は二度と現れないように思える。

 例え双葉山の記録を破らなくても、次なる連勝記録者として大相撲史に十分に名前を遺すことになる。連勝記録者としても、さしたる成績優秀者としても名を遺せない現役力士にとって、逆に名を遺す方法は白鵬が双葉山の連勝記録を破る前にその連勝を止める力士になることであろう。大相撲史に名を遺す絶好のチャンスとも言える。

 横綱を倒す最短の位置にいる大関たる外国人力士や以下の地位の日本人力士がそういった意気込みを持って場所に臨んでいたなら、昨日の大関の不甲斐ない負け方を見なくて済んだだろうし、もう少し場所全体が緊張感でピリピリと張り詰め、盛り上がったはずだが、白鵬の連勝記録だけが淡々と伸ばされていくだけとなっている。

 親方たちは、白鵬のような記録で名を遺すチャンスがなければ、連勝を止めれば、止めた力士としてたった一度の勝負で大相撲に名を遺すことができるのだとハッパをかけるといったことはしないのだろうか。ハッパをかけているが、力士たちが誰一人乗ってこないということなのだろうか。

 前者なら、親方の指導がなっていないと言うことになる。後者なら、救いようがないと言うことになる。

 大相撲をスポーツの一種で、日本の伝統文化だと認めていない私自身は白鵬のフアンではないが、双葉山の69連勝を破って、大相撲を日本の伝統文化だとする価値観を打ち破って欲しいとは思っている。

 2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(1)の続き
 
 須田アナ「乙武さんは先生を、教師を教えればいいんじゃないかと意見がありましたが、同じ立場で親たちの気持も今の時代、変わっていった方がいいなと思う部分が随分あるんじゃないかと思うんですが、親の立場で如何ですか?」

 乙武「保護者の方ともお話をしていて感じたのは、自分のお子さんに完璧さを求めている。自分も息子が二人になったけど、彼らが育っていったときに多分アラが見えてくると思う。そのとき思い出したのは、自分が子どもの頃、そんな俺もできていなかったな、俺もここがダメだったなどと振り返ることで、だったら、彼のこういう欠点も認めてあげないといけないな、そういう視点が必要かなと思う。

 小学校で個性ということを教えるときによく授業で使われるのは金子みすずさんの『私と小鳥と鈴と』という詩があって、最後、みんな違って、みんないい、というところが、凄く有名になっているが、あの詩をよく読むと、私は小鳥のように速く飛べないとか。でも、小鳥は私のように速く走れないとか、私は鈴のように綺麗な音が出ない。でも、鈴は私のようにたくさんの歌を知らない。全部できないことの詩です。

 そういう意味で、個性というものは、勿論いいところを伸ばすということも大事だが、しっかりできないことを、コンプレックスと向き合って・・・」

 須田アナ「認めるんですね?」

 乙武「そうですね。そして自分と向き合うということをもっと大事にされていいと思う」

 「管理職なんですね。ダメな管理職程、自分ができなかったことで、僕らに求めるんですよ」

 (吉田松陰の教育論に入るが、省略。番組では素晴らしい教育だと持ち上げているが、それが事実だとしても、現在の日本の教育に生きていなければ意味はない。ノーベル賞を受賞した一人の素晴らしい才能を褒めたとしても、日本の教育が素晴らしいことにはならないことと同じ。)

 途中、安藤忠雄の声が入る。

 安藤「今の若い人は本当に過保護に育っているから、一から教えなあかん」

 (次に安藤忠雄が建築した広壮な幼稚園の教育を取り上げる。『野間自由幼稚園』。相当カネをかけた大きな建物。自由奔放がテーマ。芝生を敷いた広い庭、幅の広い長い廊下。その廊下の柱に一方の縄の端を結んで、もう一方の端を幼稚園教師が握って縄を回転させ、園児に縄跳びをさせたり、廊下で三輪車に乗ったり、子ども同士がぶっつかったり自由に遊ばせている。

 だが、カネのかかった広い敷地、広壮な建物は一般的な教育の場とはなり得ない。きっとそれ相応に通園料も高いだろうから、高額所得者の子ども専用の幼稚園といったところではないのか。親が高額収入の子どもは高学歴を得る傾向にあるという図式に幼稚園の段階で参加可能とする幼稚園の類ではないのか。)

 女性主任「小学校に行って、リーダーシップみたいな取っている子はうちの園の子が多いっていう話も聞きますが、逆に取り過ぎて困ると言うこともありますが」

 解説「環境を与えてやることで人は変わるのか」

 須田アナ「何が安全か、何が危険か、自然と学べるわけですね」

 安藤「子どもとのときにそういう体験のない子がすくすくと、いわゆる温室のようなところから育っていくと、私はちょっと問題があるじゃないかと」

 「本来、教育は二つの部分があって、一つは体験、一つは知識。どう教えても、日本は知識中心なんですね。体験はつくれないよね。先生も体験ないし、親も体験させたくない。そしたら、(知識だけを)一生懸命教え込むしかないんですよね」

 須田アナ「安藤さんのように世界に羽ばたく日本人、これも日本人に対する大きなテーマですよね。世界に羽ばたくには闘争心だと安藤さんはよくおっしゃいますが?」

 安藤「島国日本では国際化の中でやるには、自分を知って外国人を知ると。そして自分を知って、他人を知らないと国際化にならない。一番基本は自分がいて、他人がいると。そして日本があって、外国があると。必ずぶっつかりますから、(それを避けるような?――聞き取れない)ところありますね」

 「ボクの子どもは去年まで日本の小学校だったけど、この1年間の間中に小学校(日本の中国系小学校か、中国の小学校か?)に入っていて何が分かったかというと、本当に主張が激しくなる。先月食事に行って、前の人が片付いていないということで、うちの子どもがすぐ走って、『あの、お姉さん、これ片付いていない』。2年生ですよ。日本では絶対言いません」

 吉田アナ「中国の教育には詰め込み教育ではなく、コミュニケーションが――」

 「それは教育のせいじゃなくて、先生もそういう人間だし、友達もそういう人間。環境なんです。みんな言うから、言わないと何もできない」

 須田アナ「教育というものは環境なんですね?教えることじゃないですね。如何ですか、寺脇さん?」

 寺脇「大学での授業をやっていると、私のところは芸術大学だから、あんまり高校まで一生懸命やったんじゃないと思うんですがね。でも、私の授業は映画学科の学生さん。戦争映画の戦争、どうして戦争が起こって、どう歴史の中でなってきたのかって話をしますが、みんな分かるんですよ。よく、今の子どもは誰もそういうのは知らないっていう。俺たちね、教室ではあんまり聞いていなかったけど、映画見たり、小説読んだり、マンガ読んだり、爺ちゃん婆ちゃん聞いたりしているんで、日本がアメリカと戦争をやって、こういうことがあったというのみんな知っているな。そこで授業が成り立っていく。

 勿論、それだけで成り立つわけではないけど、単に教科書に書いてあったことだけ学んできて、そこでやることと、自分で選んで色々なものを見たり、学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たちとの話から、得たものを、大学でもっと、勿論、当然、そこではきちんとした理論でいくということだと思うんですけどね」

 須田アナ「乙武さん、小学校の教育現場にいて、今求められる人材養成には、どういうことが必要だと感じました?」

 乙武「先ずは3年間教員経験をして感じたのは子どもたちに、次はこれをやってみようと課題を提示したときに、必ず返ってくる言葉がある。『えー、無理、できなーい』。まだやってもいないうちから、もうそんなの無理だよっていう言葉が返ってくる。それが凄くもどかしい。勿体ないという思いがあって。先ずはチャレンジしてみて、それがダメだったら、方法を変えてみたり、色々試行錯誤する中で色々身についていうというものがあると思うが――」

 「でも、やる気、どうやって教える?」

 乙武「先ず一つは、大人がチャレンジした結果の失敗を責めないということだと思う。最初はやりたがるのが子どもだと思うが、それがやってみて、ダメだったときに、ダメだったじゃないかとか、何でこんなことになったのっていうふうに責められた経験があるから、チャレンジを恐れるようになってしまっていると思う」

 「会社の問題と一緒だなあ。同じことですよ。学校の教育の問題じゃない。何だか会社では管理職、先生になっていて、社員が生徒みたいに、僕は仕事としては見えますよ」

 寺脇「それはその通りですよ。さっき職員室の空気の話をなすったけど、先生方ができないって言っちゃっているし、それから我々大人も、日本がこんな状態になって、どうしていくのって、できないって言ってるんで、子どもだけが言っているわけじゃないんですよ」

 須田アナ「宋さん、会社の問題に置き換えていますが、そういう会社は伸びていかないですよ」 

 「伸びていかないですよ」

 須田アナ「これからの時代、どんな人材を育てるべきだとお考えですか。ちょっと大きなテーマですけど」

 清家「やっぱり大きな変化の時代ですよね。大きな変化の時代と言うのは、過去の延長線上でものを考えたり、問題を解決することではなく、新しい状況を自分の頭で理解して、そしてその理解に基づいて問題を解決する。実は吉田松陰の話が出ましたけど、同じ時期、福沢諭吉、私たちの大学の創設者なんですけども、福沢はまさに明治維新を経て、明治の維新の前と後の大きく変化する時代に生きたわけですが、そのときに状況を自分の頭で理解して、問題を解決するということをとても大切に、そしてそのとき頼りにしたのは実は学問だったわけです。

 つまり自分の頭で考えるっていうのは無から何かを考えることはできないわけで、何か考えるのは何か科学的なものの考え方、つまり問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証する、説明する。そういう能力ですね。

 ですから、今国際化と言われているが、国際的にも異質な人の中で自分を理解させるためにはやはり論理の仕方と、そしてその論理を実証する力、学問の力が益々大切になってくる」

 須田アナ「我々もどうやったら答が出るんだろうと考えてしまうが、生徒の中でですよ、それよりも問題を見つけると」

 清家「そうですね」

 須田アナ「それも発想の転換が必要ですかね?」

 「先生がおっしゃっているのはロジカルにシンキングですね。日本の最近の社会では、理屈じゃないっていう自慢する人がいるんですよ。何か理屈言うと、お前理屈っぽいぞと。私はよく言われたんですよ。異なる意見を認めるのはロジカルシンキングの始まりですね」

 清家「異質の社会で生きていくためには、以心伝心は通用しない。論理的に説明できて、この論理が客観的にちゃんと客観的に証明できる。それが自分が言いたいことを相手に納得させる唯一の方法だと思います」

 須田アナ「それ、安藤流の教え方とどうですか?得手不得手を認識させて、そこから奮起する」

 安藤「子どもには失敗したら、もうダメになるんじゃないかという恐怖心があるから、それは決して失敗させないというところから問題だと思う」

 「それで弱くなる候補ですよ」

 ――(中略)――

 乙武「親も教師もストライクゾーンを広げてあげることが大事だなあと。教師になる前にスポーツライターをやっていた。ダメなキャッチャーはそのゲームに負けると監督に怒られるのは自分だからということで、ピッチャーにお前は次はここに投げろ、次はここだぞ、細かにコントロールを要求して、その結果、ピッチャーは肩に力が入って、ボールがいかなくなる。

 逆に優秀なキャッチャーというのは、もう俺が責任を取ると、ドーンと広く構えてやるから、どこでも投げてこいというふうに構えると、以外にピッチャーは気持ちよく肩が振れて・・・・(吉田アナが言葉を挟んで聞き取れない。)

 今問われているのは教師も、親もそうだと思う、この子にはこうなって貰いたいというよりも、こうなっちゃあ困ると、こうじゃなくちゃ困るという、どんどんストライクゾーンを狭めていって、子どもを窮屈にさせてしまっているなっていうのを感じる。こんなところへ行っても、どんなとこへ行っても、どこでも受け止めてやるぞ、大丈夫だぞと、構えてやることでもっともっと自由に生きいきと自分の良さを発揮していけるんじゃないかなと思う」

 吉田アナ「実際3年間、先生をされていて、そのように子どもたちを自由にさせるように教えてらっしゃって――」

 乙武「当然、30人40人という人数で一人の教師が授業をするということだけを考えれば、確かにストライクゾーンを狭くしてその中にみんないてくれた方が楽ですし、効率的ではあるんですが、それでは個性を伸ばすことには全くならないので、ただ、教師が楽をするだけで、どんな暴投でも受け止めてやるっていうような、そういう広いストライクゾーンで子供たちと付き合うのは大切だと思う」

 須田アナ「確かにいい話なんですけど、寺脇さん、小学生、中学生のレベルで全体の学力のレベルの平均点を上げようと思うと、これは矛盾するのか、それとも、それが一番いいことなのか」

 寺脇「矛盾しますよね。だから、両方を何でも二兎でも三兎も得ようとするから、ややこしいんで、きちんと整理をしていかなければならない。さっき清家先生が言われたみたいにきちんとした基礎学力をつけるということは大事ですよ。だけど、それだけで終わるんじゃないよということをきちんと整理して、子どもや保護者にそれを言っていけばいい。

 それをどうしても日本の先生方だってね、本当は乙武さんみたいに情熱を持ってやりたいんだけども、数量的に管理させていく。学力テストの成績は何点だったとか、授業時間が何時間で増えたの減ったのだとか、教科書はページが増えたの減ったのみたいな、数字の面だけで言われてしまうので、マインドの面が表に出て来にくいところがある」

 清家「寺脇さんが言われたようにバランスの問題だと思います。ですから、もう少し基礎学力のところはもう少ししっかりやる必要があるし、それ以上のところについて、もっともっと自分で頭で考える能力を伸ばす。そのためには例えば大学生には卒業論文の中に入っていますが、もっともっと授業だけではなく、研究をさせる。つまり大学生というのは高校生のアレと違って、分かっている問題に答を出すのが勉強じゃなくて、問題を探すのが大学生ですから、一番大切な点で、基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」

 「親が教育現場にあまり頼らないようにお願いしたいのですよ。教育で学校がやるもんだということはやめて欲しい。こうせいだとか。親が教えないと絶対無理だと思う。今の親を見ると、(口出しばかりしているから)先生なんか何もできないもの。乙武さん、(口出しされても)多分許してもらえるけど、普通の先生は全部親に気を使っているんですよ」

 寺脇「だから、学校を5日制にしたというのは別に学校の先生、学校の教育をさせるということではなくて、学校以外の時間を増やすことで、親も今までのようにほったらかしにはできないって思って貰おうということです」

 安藤「子どもの自由を奪っているわけですよ。親は子どもを怖がっている。先生は子どもを怖がっている。生徒の裏にいる親を怖がっている。子供と先生方と親がもっと自分たちの未来をこの子どもたちが、自分たちを支えてくれるんですから、そろそろ勇気を出さないといかんのは、親や先生です」

 寺脇「うまくいっていないというのは先生(安藤)のおっしゃるとおりなんですよ。つまり先生と親と子どもがやれみたいな話になって、先生でも親でも子どもでもない周りの政治家と官僚とか、あるいは企業のトップでもそうだけど、遠巻きに見ているだけで、お前らダメじゃあないかみたいなこと言っているけども、本当はこういうときこそ周りが先生もうちょっと大胆にやれよ、親ももうちょっとストライクゾーンを広げてみようと、それでも大丈夫だよと、メッセージを企業の側とか、社会の側から出していくべきときなんですよ」

   ――以下、続く――

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2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(1)

2010-09-23 04:35:12 | Weblog

 2010年7月11日(日曜日)フジテレビ放送の「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を聞いていて、ゲストの著名な各識者の主張に核心を突いている発言が確かにあるものの、ズレていると思える箇所も見受けられた。番組の一部分を省略したが、ほぼ全体を文字化して、自分なりに日本の「教育とはナンだ」を前々からの印象も含めて改めて考えてみた。

 尤も私なりに感じたズレであるから、第三者から見た場合、私自身のズレかもしれない。長文で制限文字数に入りきらないゆえ、7回に亘って掲載することにした。途中、この記事とは全然関係ない時事問題を挟むかもしれないが、悪しからずご容赦。
 
 最初に断っておくが、前々から言ってきたことだが、誰が何と言おうと日本の教育は暗記教育を教育形式としている。このことは吉田アナが「ゆとり教育」の目的を、「多くの知識を教え込む詰め込み、暗記力を重視する教育から、個性を生かし、自ら考える力を養う教育」への転換と説明するところで、逆説的に日本の教育が暗記教育となっていると言っているし、小学校教師を3年間務めている乙武洋匡氏自身もこの番組の中で言っていて、証明していることでもある。

 このことをしっかりと自覚して、暗記教育であることを出発点として教育問題に当たらないと、何を議論しても前進しないことになる。なぜなら、日本の教育の様々な問題点は暗記教育を土台として発生していることになるからだ。

 暗記教育は何を発生原因としているかと言うと、このこともHPやブログで前々から言ってきていることだが、日本人が伝統的に行動様式・思考様式としている権威主義を成り立ちの基としている。教師と生徒との関係を上下関係に規定して知識・情報の伝達・受容に於いてもその他あらゆる指示に関しても、上の教師が下の生徒を機械的に従わせ、下の生徒が上の教師に機械的に従う権威主義の構造を取るためにそこに教師が伝える知識・情報、その他指示に対する生徒の機械的なぞりが発生し、必然的に暗記教育の形式を取ることになる。

 なぞり覚えるは暗記の別名でもある。そこにあるのは機械性を持った記憶である.

 ゆえに暗記教育を権威主義教育とも言い換えることができるはずである。教師が伝える知識・情報を権威と看做し、それに従う。なぞって、暗記し、教師の知識・情報のままに機械的に自分の知識・情報とする。

 当然、生徒に於いて知識・情報の画一化、平均化が発生する。違いは多く暗記しているかいないか、暗記能力に応じた暗記量の違いしか出てこないことになる。

 教師の知識・情報をそのままの形・内容で生徒自身の知識・情報とする伝達形式はその中間に教師の知識・情報に対する生徒自身の側からの思考に関わる濾過・咀嚼を何ら置かないことを意味する。生徒自身の側からの思考に関わる濾過・咀嚼とは生徒自身が主体的に自分なりの考え・思考で以って教師の知識・情報を解釈し、自分なりの知識・情報へと主体的に消化・発展させることを言う。

 逆説するなら、教師の知識・情報を生徒が受容する中間過程に生徒自身の側から主体的に思考に関わる濾過・咀嚼の工程を置いて自分なりの知識・情報へと消化・発展させた場合、その知識・情報は暗記知識でも暗記情報でもなくなる。

 いわば暗記教育は生徒が自分なりの考え・思考で教師の知識・情報を主体的に(=自分から)濾過・咀嚼することを阻害要因として成り立つ。暗記教育は生徒の考える力を養う教育形式ではないということである。考える力をつける教育は暗記教育ではなくなる。

 主体性という点でのみ説明すると、生徒が自分から学ぶ、自分から考える主体的姿勢を取る学習のプロセスを暗記教育(=権威主義教育)は構造としていない。そのようなプロセスを備えていたなら、同じように暗記教育(=権威主義教育)でなくなるからだ。あくまでも教師が与える知識・情報を生徒がなぞり暗記する非主体的・受動的学習のプロセスを取る。それが権威主義教育であり、暗記教育である。

 日本の政治体制、官僚体制が中央集権と言われるのも中央を上に位置づけて、下に位置づけた地方を従わせ、下の地方が上の中央に従う権威主義の行動様式・思考様式を構造としているからなのは断るまでもない。日本人全体が権威主義の行動様式・思考様式に絡め取られているから、教育にしても、政界、官界の組織・体制にしても、その他、上が下を従わせ、下が上に従う上下の力関係に従った意思伝達で何事も推移することになる。

 上下の関係を取った者が対等に意見を闘わすことは、会議の場等のそれが前以て許されている形式を取っている場以外、先ず存在しない。下の者が対等な意識で意見を言うと、上の者は下の者を生意気だと把え、下の者は上下関係を気まずくしないために上の者の言うことを聞いて置けば無難だといった態度を取ることになる。

 教育について論ずるどの場面でも、誰もが「基礎学力」の必要性を訴えるが、例え基礎学力が身についたとしても、それが暗記教育に則った基礎学力の授受であるなら、教師が伝える基礎学力を単になぞって暗記する形式を踏んだ基礎学力に過ぎないことになり、考える力への発展に役立つとは思えない。単に基礎学力がついていると言うことだけで終わるだろう。

 その視点なく、誰もが基礎学力だ、基礎学力だと基礎学力の必要性を訴える。

 前置きはここまでにして、2010年7月11日(日曜日)フジテレビ放送の「新報道2001」の文字化記事を掲載、次いで出席者のそれぞれの発言に批評を加えながら、自身の考えを伝えたいと思う。ゲストの著名な各識者の敬称は略させてもらう。

 【レギュラー出演】 須田哲夫アナウンサー、吉田恵アナウンサー。

【ゲスト】

 乙武洋匡(34歳)――(おとたけ ひろただ)早稲田大学を卒業後スポーツライターに就く。2005年学校教諭免許状を取得するために、明星大学通信教育課程人文学部へ学士入学、2007年2月に小学校教諭二種免許状を取得。同年4月より杉並区任期つき教員として杉並区立杉並第四小学校に勤務。(Wikipedia

 安藤忠雄(68歳)――建築家。

 宋文洲(47歳)――中国国籍。北海道大学大学院卒業。ソフトブレーン株式会社創業者。現在は同社マネージメント・アドバイザーだとか。

 寺脇研(58歳)――東大卒、文部省入省、ゆとり教育推進。2006年文部科学省を退官。現在京都造形芸術大学で芸術論担当。

 清家篤(56歳)――慶應義塾大学 商学部教授。

 テーマ『答のない時代 教育とはナンだ?』

 須田哲夫アナ「3年間の教師生活を経験している。今の教育現場に於ける自分の経験の中で一番足りないと思ったのは何ですか」

 乙武洋匡「教育現場で凄く感じたことは子どもたちが自然と傷つく場面を奪ってしまっている。杞憂ばかり、ああなったろどうしよう、こうなったしまったら困ってしまうっていう。

 子どもが挫折したら、自然と傷ついたりという場面をなるべくなくそうとしている」

 須田アナ「自分が傷つかないと、どういう状態になってしまうのですか」

 乙武「バレンタインデーは絶対チョコレートを持ち込んではいけない。で、昔だったら、多少その日ぐらいいいんじゃないのっていう感じはあったが、なぜいけないのかお聞きしました。貰えない子がいるのは可哀想だと。

 でも、ボクはいいと思う。貰えない子は、あ、俺、もてないんだと。そこで傷ついて、じゃっ、もっとモテるようになるにはどうしたらいいんだろうとか。あいつはモテるのどうしてなんだろうと考え、もっと自分を伸ばそうとか思ったりすると思う。

 そうやって傷つく機会をどんどん奪っていくから、自分を伸ばしていくとか、自分の足りないとこを気づくという経験が足りていないのではないかと・・・」

 吉田恵アナ「守られ過ぎているんですね?」

 乙武「3年生と4年生を担任しています」

 須田アナ「今のそういう状況から、安藤さんがよくおっしゃるチャレンジ精神、それが失われていくんでしょうかね?」

 安藤忠雄「チャレンジする、失敗しますから、できるだけ失敗しない子をつくろうと。いわゆる戦後の教育をしてきたから、民主主義の教育も平均で、まあ、レベルの高くというよりはレベルの低く、優しい子ばかりってきましたから、生きていく力は全然ないじゃないですか?

 乙武さんが言っていたように貰えない子は考えると。貰えない子はどうするんだというところから始まっているから、・・・(かすれ声で聞き取れない)」

 須田アナ「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」

 安藤「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」

 須田アナ「そしたら、どんどん言うんですか?どうなんですか?」

 安藤「私はどんどん言います。朝からバンバン言いますが、掃除ひとつできない」

 吉田恵アナ「言い続けていくと、どの方向にどんどん変わっていくのですか?」

 安藤「ちょっと遅いですけどね、大学出ていたら、24でしょ?」

 須田アナ「へこたりませんか、安藤さんの強い言葉にパッパと言われると」

 安藤「大阪弁で喋る。何か恐怖感を持つらしいですよ」

 須田アナ「あの、社会に羽ばたくにはやはりチャレンジ精神ですかね?」

 安藤「ですね。やっぱり強い気持ちを持たないといけないと思います」

 吉田アナ(フリップを取り出して)「今の教育はゆとり教育。寺脇さん中心となって、文部科学省時代に推し進めたものですが、多くの知識を教え込む詰め込み、暗記力を重視する教育から、個性を生かし(フリップに「個性重視」の文字)、自ら考える力を養う、という教育に変えるということを目的にしたのもですが、今年春卒業した方がゆとり教育を受けた第一世代ということになります。今のゆとり教育の効果、現場でどのように現れているのですか」

 フリップ――週5日制 脱偏差値 総合学習 個性重視 道徳教育・・・

 寺脇研「乙武さん、現場でおやりになっていると思いますが、ゆとりと言うと、緩くするとか、遊ばせるみたいな受け止められ方をしてしまっている。根っこのところはきちんと教育審議会とか、臨時教育審議会で長いこと議論して、決めてきたわけです。画一的にみんなで同じにとか、誰も傷つかないようにというような教育じゃなしに、個別教育、一人ひとりにできるだけ合わせていって、それぞれの能力を伸ばしていって欲しい。当然、自分の能力のある部分はチャレンジしていって欲しいということだった。

 今おっしゃったように、そうは言いながら、まだ2002年から始まって、今8年ですからね、本当はそれをずっと受けてきた子は中学生ぐらいです。今年卒業しているっていうのは、それは高校ぐらいで、ちょっとそこをかすってきたって言うぐらいですからね。もうちょっと様子を見てみないと、成功・失敗、簡単に結論出せる話じゃない」

 須田アナ「ゆとりは当時求めたものだと思いますが、それが反撥・抵抗も受けていますが?」

 寺脇「ゆとりというのは文学的で、あまり使うべきじゃなかったと思う。当時の議論ですから、しょうがないけど、むしろ画一から個別へという整理をきちんとしていっておけば・・・」

 須田アナ「画一的ではない、もっと個別教育が必要であるということがゆとり教育の根本であると」

 寺脇「根本なんですねー」

 須田アナ「宋さん、今の理念、聞いてどうですか?」

 宋文州「今の先生は自分たちが個性がないので、個性を教えるのに人間が教えるのではなく、環境づくりから始めなければいけない。お父さん、お母さん、先ず、個性がないでしょう?先生が個性もない。社会全体が個性がない。だから、さっき乙武さんがおっしゃったように、ああいう競争を許さない、格差を許さないような世の中の雰囲気では、絶対競争心を養えない」

 寺脇「そこが難しい。おっしゃるとおり先生や親だけじゃなしに文部省の役人もやっぱり古い考え方だし、教育委員会の人たちもそうだという中で、でも、子どもたちのためには変わっていかなければ。ところが簡単には変わらない」

 「教育は教育の限界を求めないと、教育は直らない」

 須田アナ「限界ですか?」

 「教育できないものがある。馬は川へ行きたくないのに川へ連れて行っても、仕方がない。つまり、意欲がないと教えられない。社員見ても、そうなんですよ。意欲のない人間に教えるよりも、意欲のある人間に教えた方が早い。評価に差をつけて、よく引き出しての教え(が必要)」

 須田アナ「何でも教育できると思ったら大間違いということですか?」

 「牛を馬に教育できない。牛を馬に教育するのが今の教育」

 須田アナ「今の宋さんの考えは如何ですか、安藤さん」

 安藤「人間というのは生きていく力というものを含めて、教えられるものと教えられないものとがある。学校教育で全部言われることはできないわけです。その前に親がしっかりと子どもに教育する部分と、それから学校が教える部分と。子どもが自分でモノを判断する力とか、勇気とか教えられるものではないが、取れる時間ない、勉強、勉強、勉強と。意識朦朧としているんですよ、子どもは」

 「ゆとり教育は発想は全然いいと思う。今からそれを実現するための具体論をやらなければならない」

 寺脇「変える勇気をどう思っているかです。今、乙武さんが、教壇に立ってやっていただけるっていうのも、十年前の日本の学校だったらあり得ない。つまり、外部の方は、ちょっとアレだと。やっぱり先生だけがやっていくんだと。教育で教科書に書いてあることとか、文部省の学習指導要領に書いてあることだけがすべてだと」

 「乙武さん、先生を教えればいい」(爆笑)

 吉田アナ「先生を教えることが必要だということですか。 清家さん如何ですか」

 清家「バランスの問題だと思う。多様性とか個性は勿論大切だと思う。その基礎にしっかりとした学力がないと、あくまでも多様性とか個性はあるものを勉強した上で、自分なりの個性とか、あるいは自分なりの多様性とか出てくる。そういう面で、小学校とか中学校という義務教育のところは、むしろ国がお願いしてしっかり勉強してもらう所ですから、そこはレベルを平均的に底上げするという考え方は正しいと思う」
 
 「それでて矛盾しないと思う」

 清家「それで高校とか大学のレベルでは、もっともっと多様性とか、個性が出てくるような――」

 須田アナ「小中の教育で考えると、寺脇さんはその辺は?」

 寺脇「実は高校、大学というのは学ぶ場ですよね。学ぶためには力が必要なんで、その力を小学校で教えると、中学校で教えると、それはもう一つ、当然ある。ただそればっかりやっていると、学ぶ意欲、さっき宋さんがおっしゃった――」

 「いや、ボクは、先生、申し訳ないですけども、逆なんですよ。個性は絶対、小ちゃいうちだと思っています。知識は死ぬまで勉強するもんですよ。だから、東大は卒業したら、勉強する力なくなっちゃうんですよ。勉強し過ぎて――」

 清家「確かにそういう面があると思いますが、個性というものが勉強し過ぎると全くなくなっちゃうかと言うと、必ずしもそうじゃない。むしろ問題なのは、今、大学生というのはむしろ授業をやめるようになっている。昔の我々の頃は授業によく出て、教師の言うことをよく聞いて、しっかり凄い出席して――」

 須田アナ「授業でつまんなかった記憶しかないですけど」

 清家「しかも昔ですと、みんな休講なんか喜びましたけど、休講したら、登校するんですかと、そういう、あれですからね、それはそれでいい面があるんですが、逆に高校や中学になると、同じような形で一生懸命勉強するというパターンが大学に来てしまって、むしろ大学生はもう少し授業は教授はこういっているけれども、本当にそうなんだろうかというような形で考える、そういうスタンスになってもらいたいって気がします」


    ――(以下、続く)―― 

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菅首相、早速「有言実行」した閣僚合宿のみならず、すべての政策に有限実行性を整合させるべき

2010-09-22 09:26:38 | Weblog

 菅首相は野党時代から「脱官僚依存」の具体策のひとつとして唱えてきた内閣発足時の閣僚合宿を唱えてきたとおりに早速有言実行した。さすがに唱えてきただけの指導力を見せたようだ。《首相、全閣僚集め「勉強会」 政治主導の徹底図る》asahi.com/2010年9月21日1時26分)

 9月20日に改造内閣の閣僚を集めて5時間の政策勉強会を開いた。中華料理屋で二次会まで開いたと記事は紹介している。なかなかの指導力の発揮ではないか。

 まさか前原、野田辺りに引っ張れられて行ったわけではあるまい。

 〈政治主導の徹底のために全閣僚が「合宿」して意思統一を図るのは、菅氏がかねて温めていた構想だ。代表選を乗り切って本格政権を目指す首相が、ようやく「菅カラー」を鮮明にする第一歩を踏み出した。〉と記事は相当な期待感を示しているが、NHKが9月18日からの3日間行った電話世論調査による菅内閣支持率が先月前回調査より+24ポイントの65%に撥ね上がったが、「支持する理由」が「他の内閣より良さそうだから」が49%、「人柄が信頼できるから」が20%、「実行力があるから」がたったの6%となっていて、国民世論が見る実質的な政治的期待値とはかなり距離がある。

 要するに「菅カラー」とは指導色を指すのではなく、好感度色を以って「菅カラー」と言うらしい。
 
 勉強会は自由討議形式。討議内容は経済対策、財政運営、医療・年金、米軍普天間飛行場の移設問題等々だそうだ。記事は、〈幅広いテーマを取り上げた。〉と書いているが、幅広いも、幅狭いも、緊急に解決を求められている重要課題としてどれ一つ外すことのできないテーマであろう。

 討議を必要とする幅広いテーマの存在は政治的に解決に至っていない日本社会が抱える諸問題の多さと、それが社会に与えている矛盾の反映でしかない。とすると、テーマの幅広さが問題ではなく、要は解決という名の結果、成果の類が問題となる。討議に何百時間費やそうとも、またいくら中身の議論が充実した立派なものだったとしても、結果、成果を見ない討議は単なる形式に過ぎなかったことになる。いわば討議のために用意された時間、場所、中身の議論はハコモノとしての体裁しか持たなかったということであろう。

 常に問われることは、「政治は結果責任」である。
 
 秋の臨時国会の提出法案や来年度予算編成、税制協議の日程なども確認したそうだ。

 この勉強会もそうだが、どうも菅首相は税制改革チームを設置した、座長は誰だ、新卒者雇用・特命チームを立ち上げた、官邸に何々の特命チームをつくったと、先ずはハコモノでしかない初期の形式に拘っている。「50、いや100ぐらいの特命チームを作る。皆さんに自分の得意なチームに入ってもらい、政府・与党一体で改革を進める」(MSN産経)と特命チームの大盤振舞いである。

 自らの政治理念を拠り所とした自らが目指す政治の方向性を各政策に反映して、そのような政策の実現を強い意欲を持って指示し、その実現可能性を諮りつつ、可能な限り自らが目指す政治の形を結果として出すことが国の政治を最高責任者として担ったリーダーたる者の責任であり、結果を出す能力をリーダーシップと言うはずである。

 単に各閣僚、あるいはチームの参加者任せの政策実現であったなら、それがいくら政治主導の実現であったとしても、自らの政治理念を掲げてリーダーに名乗りを上げた意味を失う。

 菅首相は政策の確実な実現を求めたのだろう、「時期に応じた共通認識をもって政治課題にあたっていきたい」からと、〈各閣僚に対して、年内、1年間、3年間の3段階に分けた各省の「政策実現スケジュール案」を作成し、秋の臨時国会召集までに提出するよう指示〉したという。

 これらの各政策に自らの政治理念を拠り所とした自らが目指す政治の方向性が人体に於ける背骨のように果して一本貫いていたのだろうか。そうでなければ、一国の政治指導者と言うよりも、リーダーシップを必要としない単なる政策の纏め役と化す。

 例えば代表選を通じて、「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と言って、「雇用を生み出せば、経済の成長につながる」と、雇用=経済成長と太鼓判を押し、雇用創出の有力な場として特に介護分野を挙げたのは菅首相自身である。介護分野の雇用は厚生労働省が取り扱う政策であったとしても、雇用政策に関して菅首相の政治理念が貫いていないことにはその実現可能性は別問題として、“有言実行”とはならないということである。

 雇用を増やしてどういう介護の形にしたいかは、菅首相自身の政治理念、政治の方向性にかかっているからだ。

 いわば各閣僚に対して、年内、1年間、3年間の3段階に分けた各省の「政策実現スケジュール案」を作成するよう指示を出しただけでは“有言実行”を目指したとは言えない。

 これは民主党が野党時代からその実現を目指し、民主党が自民党に勝利し、第一党となった2007年7月参議院選挙の民主党のマニフェストに掲げた政策である〈森林・林業政策「森と里の再生プラン」〉には、「森林・林業に対する自立支援を拡充し、 木材自給率を向上させるとともに、100万人雇用を目指します」と謳っている。

 その具体的内容を「農林漁業再生本部顧問」を兼ねていた当時の菅代表代行が団長の資格で2007年6月9日、岡山県真庭市にある地域バイオマス熱利用フィールドテスト事業の銘健工業を視察し、そのあとシンポジウム「林業再生への提言~21世紀は緑のエネルギーで生きる」に参加し、林業再生による地域振興・経済発展実現をめざす民主党の森と里の再生プラン」として発表している。

 いわば2007年7月の参議院選挙前に纏めた「活動報告書」であり、菅氏は「農林漁業再生本部顧問」であっても、視察と報告書の発表には団長として関わっていた。〈森林・林業政策「森と里の再生プラン」〉政策には率先垂範の主たる責任者の位置にいたということである。 
 
 《民主党の森林・林業政策「森と里の再生プラン」》 (衆議院議員 山田正彦 - 農林漁業 - 活動報告/2007年6月9日に岡山県で発表)

民主党の森林・林業政策

「森と里の再生プラン」

10年後に木材自給率50%達成と省エネ木造住宅の普及で、新たな雇用100万人を創出

林業を軸にした山里の振興で地域間格差を是正する
1. 50年に一度の林業再生の好機

(1) 安価な外材を好きなだけ輸入できる時代は終わった
・ 中国をはじめとする新興経済国の需要の爆発的拡大
・ ウッド・マイレージの見地からも国産材の活用が望まれる

(2) 戦後植林から50年経ち、資源の本格利用の時代
・ 1,000万ヘクタールの人工林(蓄積量43億立方メートル)の年間成長量(8,000万立方メートル)が、ほ
 ぼ国内需要量(1億立方メートル)に相当するほどに成熟

2. 日本林業は産業として自立できる。10年後に木材自給率50%を目指す

(1) 国内市場規模は年間1億立方メートル、世界第2位のマーケット
(2) 現在日本では年間1,700万立方メートルしか伐採していないが、路網が整備できれば、資源の成熟もあ
  り、欧米並みの単価で年間5,000万立方メートルは可能
(3) そうなれば、木材産業の規模の集約化が進展。「重くてかさばる割に単価の安い製品を生産する」とい
  う木材産業本来の資源立地の有利性を、本格的に活かすことができる

3. 国産材はなぜ外材に負けてきたのか

(1) 日本の木材伐採の生産性は、欧米の数十分の1
・ 林業は知識集約・技能集約産業。しかし、専門家が不在
・ 森林管理・経営の担い手が機能しておらず、小規模所有を集約化できない
・ 路網未整備。日本の路網密度は、ドイツの10分の1程度
・ このため、機械を使いこなす基盤が存在しない

(2) 欧米の流通は合理化が徹底的に進展しているのに対し、日本は多段階流通
・ 木材の特性に反するきわめて割高な流通
・ 木材生産が不活発で、合理化しにくかったことが背景

(3) 国産材は、ねじれやそりの起こらない「乾燥材」需要に応えられない
・ 国産材の乾燥比率は20%。しかもその基準も曖昧

4. 日本林業自立への方策

(1)伐採コストの大幅引き下げ

・ 路網(作業道)整備
10年間で欧米
  並み(ヘクタールあたり100メートル)の水準、総延長60万キロメートル(年間6万キロメートル)に。
  財源は、地方も併せて1兆円近い林業予算のうち、林道予算690億円と、独立行政法人緑資源機構を廃止
  して国から支出されている不要な予算を組み替えれば容易に捻出。
・ 高性能機械(ハーベスタ、プロセッサ、フォワーダ)の導入促進
・ 不在村、小規模所有者の森林管理・整備の推進
不在村・小規模
  所有者に極力新たな負担を求めずに、森林組合と民間業者が森林の管理・整備を行い、利益が出れば所有者に還元する制度の創設
・ 未だにスーパー林道、拡大造林を続けている緑資源機構の廃止

(2)流通コストの大幅引き下げ

・ 木材の大量生産に対応するため、現在の生産者、原木市場、製材所、製品市場、卸売り市場など多段階
  にわたる流通を簡略化して、生産者と製材所、工務店といったルートに整備する
・ 森林組合と地方自治体が中心となって、森林台帳の整備、原木の集荷・保管体制の確立および木材の需
  要動向の把握機能の充実により、的確に需要に応じることのできる情報センター機能を整備

(3)乾燥材生産体制の実現

・ 消費地の多様な需要に安定的に対応しうる産地体制の整備の一環として、乾燥材生産体制の実現(計画
  的な整備の着実な促進のために、必要な助成措置、税制上の優遇措置)
・ 乾燥材規格制度の創設

(4)各府県林業公社改革

・ 1兆3000億円の債務の棚上げ
・ 公社の経営形態のあり方を含め、抜本的に見直しをはかる

(5)フォレスター制度の創設

・ フォレスターは、森林の管理・経営に関する高度な知識・経験を有する専門家。森林所有者に対し管理
  ・経営のアドバイスを行い、又は、森林所有者の委託を受けて自ら管理・経営を行う
・ 日本のすべての森林について、こうしたフォレスターが対応できるよう、フォレスターの育成(フォレ
  スター養成大学)を緊急に行う
・ 将来的には、森林組合にフォレスター採用を義務付け、森林組合の地域森林管理・経営能力の一段の向
  上を図る

(6)環境・景観保全に適合した森林管理・整備手法

・ 大面積の森林をいっせいに伐採(皆伐)し、跡地をそのまま放置している現状(再造林放棄)は、治山
  上きわめて問題であるばかりか、景観をも破壊し、林業の将来に対する希望をも打ち砕くもの
・ 林業経営、森林景観、環境あらゆる面で優れる抜き伐り方式による伐採(非皆伐施業)へと転換する
・ 伐採後跡地の植林を義務づけ、皆伐後の再造林放棄の「違法伐採」を明確化する

(7)国産材による省エネ木造住宅の普及で、地球温暖化防止と健康の増進を!

・ 健康(シックハウス症候群から解放)で、環境に優しい(省エネ)木造住宅の普及促進のため、現行規
  制(建築基準法等)の必要な見直し
・ 住宅に省エネ基準を導入し、公共建築物への地域材使用の義務化等国産材利用促進に加え、違法伐採さ
  れた外材の輸入禁止と併せて、温暖化防止に一段の効果を発揮させる
・ 木質バイオマスエネルギーの堅実な促進
・ 豊富な資源を活用して、バイオエタノールなどの活用
・ 森林認証制度の推進
  地元材の利用に税制、補助金の優遇制度
  違法伐採された外材の輸入を禁止して、地域産材、外材についても産地表示制度の導入
・ 「木の地産地消」「木づかい運動」「近くの山の木を使う運動」を推進
・ 公共建築物の地元材利用の義務付け

5. 林業を軸とした地域再生で100万人の雇用創出
・ 地域の森林資源の活用で地場産業を育成する
 森林整備10万人  木材加工業30万人  工務店30万人
 グリーンツーリズムによる観光業40万人

 だが、なぜなのか、政権交代を果たした2009年衆議院選挙の民主党マニフェストには、「畜産・酪農業、漁業に対する所得補償と林業に対する直接支払いの導入を進めます」とだけ記載されているのみで、他に「林業」なる文字は一切出てこない。2007年参議院選挙で一度掲げて国民との約束を目指したのだから、2009年衆議院選挙マニフェストに再度掲げる必要性を見い出さなかったということなのだろうか。

 そうと解釈しなければ、2009年8月30日に行われた衆議院選挙後の2009年10月半ばに菅氏は副総理の資格でテレビ朝日の「サンデーモーニング」に出演、「林業再生プラン」について、その政策に関しては自身の独壇場であるが如くに熱弁を振っていたことが不可解となる。

 菅副総理「もう一つ、公共事業がこれまでのように増えることはないわけで、そういうものに携わっていた人たちの転職をしたときの新しい仕事を考えなければいけない。

 最大の問題は農業・林業。漁業も若干あるが、そういう転職と農業や林業への就労の支援をプログラムでやっています。レストランをつくる。そのレストランに供給する農業をつくる。そこにまた研修の人を入れて、大変だけど、レストランが7、8軒あって、そこに供給する。

 おっしゃるとおり、農地法の問題が色々な参入規制があるので、大変なことは分かっている。しかし可能性としては農業があるのに加えて、林業も実はある。民主党は林業再生プランというものを出して、直接雇用が10万、切った木を使った雇用まで含めると、一応100万というものを2年前に出している」・・・・

 「2年前」というのは上記「報告書」発表の2007年6月を指すはずである。

 当然、「林業再生プラン」を出した2007年時点から政権交代を目指して着々と「政策実現スケジュール案」を主たる責任者の立場で練ったはずである。

 そして政権交代を果たし、例え菅内閣が発足したのが2010年6月からだったとしても、参議院選から3年経過している。民主党政権発足後から計算しても、1年は経過している。少なくとも1年分は「政策実現スケジュール案」は既に「案」ではなく、「林業再生プラン」の政策自体が1年分は進捗していなければならない。

 例え「政策実現スケジュール案」の作成指示自体は農水省に出していたとしても、「林業再生プラン」には主たる責任者として関わっていたのである。首相が「有言実行」という言葉を使う以上、「有言実行」を証明するためにも、「林業再生プラン」がどれ程進捗しているか、国民に知らせるべきであろう。

 特に「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と雇用創出の緊急性を第一番に訴えていた。「10年後に木材自給率50%達成と省エネ木造住宅の普及で、新たな雇用100万人を創出」と、「木材自給率50%達成」は10年後としているが、「新たな雇用100万人」は期限を明示していない。同じ「10年後」だとしたら、「一に雇用、二に雇用、三に雇用」の緊急性に反することになるから、その実現は衆議院任期の4年以内と見るべきである。

 「有言実行内閣」と言ったこととの整合性を示すためにも、「年内、1年間、3年間の3段階」と言わずに、既に何人の雇用創出を果たしたのか、その上で、年内に何人に達する、1年後、2年後、3年後の衆議院任期満了時にはそれぞれ何人に達して、合計「100万人」を実現すると「政策実現スケジュール」そのものを示すべきである。

 示さないとしたら、一事が万事、「有言実行内閣」と言われても信用できなくなる。「一に雇用、二に雇用、三に雇用」も信用できなくなる。

 国土交通省が8月27日に2011年度予算に関して住宅エコポイントの延長・拡充に330億円を概算要求することを公表したそうだが、100万人雇用創出の「林業再生プラン」からしたら、住宅エコポイントの延長・拡充など枝葉末節に過ぎない。

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考える教育は朗読劇から

2010-09-21 06:16:41 | Weblog

 かねがね日本の教育は暗記教育となっているから、生徒の考える力がつかないと言ってきた。暗記教育とは言うまでもなく、教師が伝える知識・情報を生徒が丸のままなぞり、自身の暗記能力に応じて丸のまま暗記して、暗記した分に関しては教師と同じ知識・情報を生徒自身の知識・情報とする構造の教育を言う。

 当然、生徒が学んだ(=暗記した)知識・情報は教師が伝えた知識・情報とほぼ双子の関係を取る。この知識・情報の双子の関係性は教師から生徒への知識・情報の授受の中間に生徒が自分で考え、思考するプロセス(機会)を介在させないことによって成り立ち可能となる。生徒が教師が伝える知識・情報を自分から考え、思考した場合、知識・情報の双子の関係性は崩れ、暗記教育でなくなる。

 暗記教育でなくなった場合、いわば生徒が教師が伝える知識・情報を自分から考え、思考して自身の知識・情報へと変えていった場合、生自身の考える力、思考能力、あるいは言語能力は成長と共に向上・発展していき、これらの能力の欠如に対する大人たちの嘆きは現実のものでなくなる。だが、嘆きは消えることなく現実に存在し続けている。暗記教育であり続けているからなのは断るまでもない。

 と同時に、やはり当然のこととして、その知識・情報は丸のまま暗記したものだから、暗記形式に応じて、いわば自分から考え、思考するプロセスを介在させない習慣づけによって、現状に於いても将来的にも発展・向上は期待できないことになる。

 勿論のことだが、暗記能力には個人差があり、年齢的な能力の問題もある。教師が伝える知識・情報をすべてなぞり、すべて暗記できるわけではない。だが、このことが幸いしている。もし教師とすべての生徒がそれぞれに知識・情報の授受に関して双子を乗り越えてまるきり同じクローン状態になったなら、これ程恐ろしいことはないからだ。殆んどの生徒が思考の点で教師に似たロボットと化すことになる。

 日本の暗記教育は日本人の思考様式・行動様式となっている権威主義性からきている。ここで言う権威主義性とは親や教師、会社の上司といった社会の上位者が自らの命令・指示で社会の下位者である子どもや生徒、部下をほぼ無条件に従え(かつて権威主義が時代的に強かった時期は無条件性も完璧に近かった)、下位者は上位者の命令・指示にほぼ無条件に従う上下方向の思考様式・行動様式を取ることを言う。この一般社会の権威主義性が学校社会にも反映され、教師から生徒に向けた知識・情報の授受に於いても同じ力学が働くことになっている。ゆえに暗記教育を権威主義教育と名付けることも可能となる。

 教師は自身が発する知識・情報をそのまま生徒に伝えることを役目とし、生徒は教師が伝える知識・情報を暗記の能力に応じてそのまま受け止め、頭に記憶することを生徒としての務めとしている。

 生徒が自分で考え、思考し、考える力、思考能力、さらに判断能力や言語能力を身につけるためには、当然のことながら、日本の教育を暗記教育でなくすることが第一条件となる。

 だが、日本人の精神的な血肉ともなっている権威主義性からの思考様式・行動様式に基づいているから、なかなか暗記教育から脱することができない。脱することができない中で、生徒に考える機会、考える習慣を身につけさせていくしかない。

 教師がすべての授業で同じ役割を担っていたのでは生徒は自分から考え、思考する習慣は身につかない。だが、すべての授業から教師の今までの役割をなくしたなら、長い間の伝統・文化としていることから、これまた授業は成り立たない。

 となると、生徒が自分で考え、思考する機会を奪っているのは暗記形式の教育、あるいは授業そのものだから、特別の授業を設けて、その授業に限って教師の従来の役割を外し、教師が伝える知識・情報を生徒がそのままなぞり、暗記する従来型の知識・情報の授受を断ち切ることが先ず先決となるはずだ。

 そのためにはその授業は時間数は少なくても、インパクトのある授業でなければ、少ない時間で経験する自分で考え、思考する機会は時間数の多い従来型の暗記教育の影響を受けて、考えないまま、思考しないまま知識・情報を授受する暗記習慣に惰性的に流され、ほぼ埋没の運命を抱えることになる。

 特別の授業を設けて教師を従来の役目から外すということは同時に生徒が単に教えられて暗記能力に応じて機械的に暗記する役目を生徒から取り上げることを意味する。教師の役目だけ取り上げて、生徒の従来の役目を取り上げなければ、意味を成さない。

 従来型の教師の役目と生徒の役目を取り上げた上で、少ない時間数であっても生徒自身が自ら考え、思考するインパクトのある機会を与える授業として、かなり前に一度当ブログにも取り上げたが、朗読劇がふさわしいように思う。

 この方法は自分で考え、思考する習慣が早い年齢の内から身につくように幼稚園・保育園の園児の頃から始めるべきだろう。保育園・幼稚園で行っている、いわゆる“お遊戯”を台本を見ながらセリフを読み上げる朗読劇に変えるだけだから、不可能ではない。

 保育園・幼稚園はその世代にふさわしい、小・中学校もやはりその世代にふさわしい朗読劇の台本を各種前以て取り揃えておく必要が生じる。

 文科省が指導要領で朗読劇の時間を義務づければ、教科書会社がそれぞれの年代にふさわしい朗読劇台本を競って出版するはずである。

 クラスをいくつかのグループに分け、グループごとに同じ朗読劇を朗読させるのではなく、グループごとに教師の助言のもと、異なる台本を選ばせる。

 台本をグループに選択させるというこの段階で既に生徒は考えるという作業を共同で行うことになる。

 異なる台本とするのは、一つのグループが一つの朗読劇というドラマ――人間劇を学ぶと同時に他のグループが朗読によって演じるドラマ――人間劇を併行して学ばさせることを目的とする。一度に多くを学ばさせるという手法である。

 また、それぞれに異なるドラマだから、マネをするという横並びは許されないことになり、自分で考えて朗読しなければならない独自性が常に要求されることになる。

 生徒自身が望むなら、それが小学校高学年の段階か、中学の段階か、高校の段階か分からないが、吉本新喜劇の喜劇台本でもいいわけである。

 各グループの台本が決まったなら、グループごとにいきなり朗読させるのではなく、本読み(=台本読み)を行う。いわば台本を各自読んで、何を伝えようとしている台本なのか、そのテーマをお互いに意見を言い合って解き明かしたり、分からない言葉の意味を調べたり、自分たちなりに劇の内容を読み解き、その上で言葉をつかえずに読めるように練習しておく。

 この段階も生徒に考える作業を要求することになる。教師の関与なく、自分で考え、思考する働きを生徒同士で、あるいは自分自身で機能させていることになる。また共同の本読みは一般の読書に通じる作業を伴わせていることになる。一般の読書と違うところは仲間と読み合い、教え合い、考え合うことであろう。

 このことによって読書習慣の欠如という現状の補完に役立つはずである。

 この段階を経て、次にクラスの生徒の前に立って台本を見ながら、だが、登場人物の普段の日常会話に近い話し方で朗読する本番が待ち構えることになるが、本読みを十分に消化したからと言って、朗読の本番で登場人物の普段の日常会話に近い話し方で朗読できるわけではない。同じ朗読劇を繰返すことによって理解が深まったり、あるいは違う理解に到達する場合も生じるはずである。

 いわばすべての段階で思考能力を要求されることになる。自分から考えて進めないことにはドラマの内容を理解し、セリフを暗記していたとしても、セリフ生きてこないだろう。また他の登場人物のセリフと響き合うこともないに違いない。

 この生徒同士の話し合い、考え合いとドラマのセリフの遣り取りを通して自然とコミュニケーション能力を高めていくはずだ。言語力の獲得である。

 また、コミュニケーション能力の獲得は利己主義一辺倒ではない、合理的な自己主張能力の育みにつながっていく。

 様々な人間が登場する一つのドラマを理解していくうちに理解を通して様々な人間の生きる姿をも学んでいくはずである。学ばなければ、セリフは各登場人物の人生に即した、あるいは生活に即した話し方で喋るところまで到達しないことになる。

 勿論、小・中学校の段階ですべての点に於いて完璧な域に達することは不可能だろうが、繰返し、積み重ねていくうちに少しずつ、少しずつ上達し、併行して様々な人間の生きる姿への理解を深めていくはずである。人間の和とか仲違い、反撥、行き違い、思い遣りといった感情行為、利害の対立とその克服も学び、対人関係能力を自然に身につけていくはずである。

 ドラマに登場する様々な人間の姿を学び、対人関係能力を高めていくことによって、そのような他者との比較から、自分という人間を考え、省みる機会を持つ生徒も現れるはずである。自己省察能力の獲得である。自己省察能力がよりよく合理的な自己主張能力を育む。 

 最初の本番となると、最初は棒読みか、棒読みに近い読み方になるかもしれないが、各グループが交代で何回か繰返すうちに、またそのことが競い合いとなって、登場人物が劇の中で話すように話そうと考え、努力するうちに台本の中のそれぞれに割り当てられた登場人物のセリフを読むのではなく、自身が登場人物となって話すようになるまでに上達していく。慣れれば、自分以外の人間を演ずる愉しみは誰も本能として持っているはずだからだ。他者を演ずることも自身を知る教育となる。

 朗読劇を通して色々な人間を演じる。演じることによって、色々な人間を自分から学ぶことになる。自ら考え、思考することによって。これは暗記教育の受動的学びにはない、それとは正反対の自発的、主体的な学びとなる。

 そして何回も繰返すうちに自分のセリフを記憶し、台本を読まなくても言えるようになり、自然と手振り身振りが出てくるようになる。朗読劇から演劇への発展となる。朗読劇からの卒業である。

 実際に行ってみないと、それがいずれの年齢か分からないが、その段階に達したなら、演劇への移行も生徒にとっての一つの発展を示す。あるいは自分たちでドラマを作り上げて演じるのも自分で考え、思考する能力の一層の向上に役立つ。思考能力だけではなく、言語能力や判断力のより高度な発展・獲得につながっていく。

 朗読劇をキッカケとした自分で考え、思考する働きは他の知識・情報の受容にも応用されていくはずである。教師が日本の教育の伝統・文化となっている暗記形式、権威主義形式の知識・情報の伝達に終始しようとも、その知識・情報を受容する過程で生徒の側は朗読劇で培った自分で考え、思考する働きを自然と作用させて自分なりの知識・情報へと発展させるか、単にそのまま暗記するのではなく、少なくとも一旦頭の中にとどめて、後から自分なりの考え、思考を付け加えて自分なりの知識・情報へと変化させていく工程を踏むことになるだろう。自分なりに考え、思考することを習慣とすることになるからだ。

 2011年度から小学校5、6年で英語が必修科目となる。どうせ文科省は小学校5年では英単語をいくつ覚える、6年ではいくつ、あるいは中学で最初に始めた、「This is a pen」といった簡単な英文を小学校5年から予定数教えて、それを覚えさせた上で耳に聞かせるといった、そこに生徒自身に考える機会を与えない、ほぼ暗記で片付く学習を要求し、結果として暗記形式の知識獲得を強制することになる授業となる疑いが濃い。このことは後で触れるが、同じ文科省管轄下の中学校の英語教育が満足な成果を挙げていないことが証明していることである。

 このことの解決に教科書会社等の出版社に日本語の朗読劇台本をそのまま英訳した英語の朗読劇台本の出版を要請し、小学校5年生になったら、日本語の朗読劇と併行してそれを忠実に英訳した朗読劇を英語の授業でも行わせたなら、既に日本語のセリフは頭に入っているだろうから、楽しく簡単に英語が話せるようになるのではないだろうか。

 民間の教育研究所「ベネッセ教育研究開発センター」が昨年(09年)の1月から2月にかけて行った調査で、中学生の約6割が英語の学習を苦手と感じているという結果を得たと、《中学生の6割“英語が苦手”》NHK/09年9月27日 8時16分)が伝えている。

 全国の中学2年生およそ2900人から回答を得た調査だそうだが、6割の内の66%が中学1年生の段階で「英語学習につまずいた」と考えているという。いわば初期の段階からつまずいている6割の内の66%の生徒にとって、その挫折は中学3年まで続き、進学した場合、さらに高校3年間続く確率が高いということになる。

 英語の学習が、

 「とても得意」―― 8 %
 「やや得意」 ――29.5%

 「やや苦手」 ――32.5%
 「とても苦手」――29.3%

 一方で全体の半数以上が「外国に行きたい」、「外国の生活や食べ物などに興味がある」と答えていて、外国への関心が高いことが分かったという。

 但し産能大学が企業勤務の400人に行った、9月16日発表のインターネット調査(6月)によると、67%が海外勤務したくないと答えている。《海外勤務したくない67% 産能大調査、語学力に不安》47NEWS/2010/09/16 16:37 【共同通信】)

 海外で働きたくない理由(複数回答)

 「海外勤務はリスクが高い」 ――52%
 「自分の能力に自信がない」――51%

 海外勤務に向けて不足している能力

 「語学力」――89%

 役職別の「海外で働きたいと思う」

 部長クラス――57%
 一般社員 ――29%

 記事は、〈産能大は役職が高いほど挑戦意欲が強く、海外勤務への心の準備ができている場合が多いなどと理由を分析している。〉と書いているが、上級職としてそういった意識を持たなければならない義務感からの、あるいは体裁上の海外勤務意欲といった側面もあるに違いない。

 89%もが「語学力」が不足しているという統計は中学1年の段階で英語の授業につまづき、それが高校、大学、さらに一般社会に入っても続いている姿でもあるはずである。

 中学生の約6割に英語の学習を苦手と感じさせている文科省教育が小学校5年生から英語授業を義務つけたとしても、単に年齢を早めただけで終わる可能性が高い。

 同じドラマ内容の日本語の朗読劇と英語の朗読劇から入った同時進行の英語の授業なら、英文の意味は既に日本語で理解していることが助けとなり、その助けを借りて英単語の読みを含めた英文の読みと英会話(スピーチ)を一体とさせることになるから、このような英語授業の必修化であったなら、少なくとも従来の文科省式の英語授業よりも英語教育に役立つはずである。

 いや、中学1年生で英語につまずいてしまう多くの生徒に対する挫折感、英語アレルギーを払拭して、積極的に学ぶキッカケとなる日本語・英語併行の朗読劇となると信じている。

 朗読劇によって自分で考え、思考する習慣がつき、判断能力や言語能力の獲得に役立つ。様々な登場人物の生きる姿・生活する姿を学ぶことによって、他者を理解し、自己を省みる対人関係能力と自己省察能力の学びにつながっていく。対人関係能力と自己省察能力はコミュニケーション能力と合理的な自己主張能力に連動していく。

 勿論、現実問題としてこのようにいいこと尽くめに進行はしないだろうが、少なくともこれらの能力の芽を育む火種とはなるはずである。

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