衆愚意識が言わせたタイムリーヒット
11月20日の経済財政諮問会議で一打大逆転の次のような失言ヒットをかっ飛ばしていたようだ。26日に公開された “議事要旨” で明らかになったタイムリーヒットの数々らしい。
「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」
「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」
「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」――
【インセンティブ】――「動機づけ」
プロ野球の選手なら監督に頼りにされる好打者といったところだが、以上は「asahi.com」記事≪「何もしない人の分を何で私が払う」医療費巡り麻生首相≫(2008年11月27日1時45分)からの引用だが、記事は「社会保障費の効率化の議論の中で」出た首相発言だとし、なお且つ「自らの健康管理を誇ったうえで、病気予防の重要性を訴えたものだが」と一応の情状酌量を与えているが、「保険料で支え合う医療制度の理念を軽視していると受け取られかねない発言だ」と批判を加えている。
「NHK」WEB記事≪首相 医療費めぐる発言で陳謝≫(08年11月27日 15時36分)が麻生太郎の「陳謝」を次のように伝えている。
「発言の前後を切って話を作って報じられているが、今、病の床についている人が気分を害したのであれば、おわびする。・・・・予防を考えない今の制度はいかがなものかということを指摘したもので、もっと予防に力を入れれば、医療費は抑えられる。予防や健康管理をしているかどうかでずいぶん差が出る」
果して「発言の前後を切って話を作って報じられ」たのだろうか。「予防を考えない今の制度はいかがなものかということを指摘した」もので、そういう制度にすべく訴えただけだとしたら、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」とか、「今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」とか、「私の方が税金は払っている」といった言葉がどこから出てくるのかと言う問題になる。
健康管理と言うことなら、大中小企業が人員を必要最低限以下に抑えて、少ない労働者で無闇やたらと残業を課して人件費を浮かす人件費抑制の労働政策を転換して、残業廃止で体力的に時間的・精神的余裕を与えることだろう。
だが、残業をしないと満足に余裕のある生活が送れない低賃金となっている。残業廃止によって体力的な時間的・精神的余裕を手に入れることができても、金銭的には物質的にも精神的にも余裕を得ることができない経済大国世界第2位の日本なのである。これも自民党政治の恩恵ときている。
麻生の弁解指摘は体裁のいい後付けの責任回避口実に過ぎない。
「今、病の床についている人が気分を害したのであれば、おわびする」ということなら、「今、病の床についている人」の中で「気分を害した」者がいるかどうか、すべての病院をまわって確かめてみるといい。
果して麻生の釈明で一件落着とすることができるのだろうか。「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」にしても、「こちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」にしても、「私の方が税金は払っている」にしても、自民党政府の首相やその他の要職にある政治家が靖国神社に参拝して、「公人としてではなく私人としての参拝だ」とマヤカスのとは正反対にあくまでも私人としての問題であって、公人たる首相が国の政策を議論する場で口にすべき話題ではないだろう。
口にするとしたなら、仲間内の場ですべきで、帝国ホテルとかの高級ホテルのバーで飲んでホラを吹き談笑するときのネタとすべき話題であろう。ところが首相という公人の立場で経済財政諮問会議に出席して、公人として発言した。
議論の合間にごく個人的なその場限りの冗談で言ったことなら、 “議事要旨” に残ることはあるまい。病気予防の重要性と社会保障費の効率化の議論に添わせて麻生の本気は「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」という方向に向かっていたからこそのクリーンヒットと断言せざるを得ない。
要するに民主党の鳩山幹事長が批判して、「支え合う仕組みがあり、それがあるから安心できるという共生の理念をまるでおわかりになっていない。病気になりたくてなっている人はいない。このような方が果たして総理にふさわしいのか、首をかしげる。信じられない発言だ」≪「共生の精神に反する」民主・鳩山氏、首相医療費発言に≫(asahi.com/2008年11月27日11時52分)と言っているように、“相互扶助・相互負担”の精神から離れて制度自体を、以前会社を経営していただけのことはあって、個人レベルの金銭的な効率の問題に矮小化させている。
確かに自身の不摂生・不養生から他人よりも医療費を費やす人間が数多くいるだろうが、そうであったとしても「私」とか「こちら」との比較で論ずるべきではなく、あくまでも国民を顔とした国の制度として社会保障費に向ける政府予算の効率化との兼ね合いで議論すべき問題であったろう。
自分が予想した程の支持率を獲得できず、自身の失言や政策がくるくる変る節操のなさから評判も芳しくない四面楚歌の中で次の首相に誰がふさわしいかの世論調査でのみ民主党の小沢代表を抜いている唯一の功績を頼りにそこで麻生太郎こそが首相にふさわしい人物だと決定的に印象づけたい腹づもりで党首討論を執拗に求め、今日28日午後3時から開催することが正式決定したが、他にこれと言って誇ることができる目ぼしい功績がないことからの経済財政諮問会議でつい出てしまった「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」や、「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」、あるいは「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」といった自慢話だったのではないのか。元々人間が軽く出来上がっているのである。
但し真に問題としなければならない事柄は発言からチラチラと顔を覗かせることとなっている麻生首相の衆愚意識であろう。本来的に「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」とか「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言する日本民族優越主義者である。
民族優越意識は権威を振りかざして下を従え、上の権威に対しては追従する権威主義を土台として発動される。自民族を最上・最優秀の権威とする人間は自己を最上・最優秀の自民族と同一化して最上・最優秀の部類に置き選民とし、選民であることの確証に反対概念たる劣る者を不特定多数の一般的大衆に置く。
いわば対外的に自民族を優越的な位置に置き、他民族を劣る民族として下に置く者は、その上下意識・優劣意識が対内的には自己を上に置き、一般国民を下に置く選民対(=劣る者)の上下関・優劣関係を作動させる。
我が麻生太郎は衆愚意識を内心に隠しているからこそ、1983年の発言だが、「東京で美濃部革新都政が誕生したのは婦人が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」と女性の判断力を男性のそれと比較して劣るとする女性に対する蔑視や、「新宿のホームレスも警察が補導して新宿区役所が経営している収容所に入れたら、『ここは飯がまずい』と言って出て行く。豊かな時代なんだって。ホームレスも糖尿病という時代ですから」(2003年)とホームレスを下に見据えた侮蔑的な発言ができる。
国内外の米価を比較する例えに「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」(2007年)とアルツハイマーで苦しんでいる本人や家族の苦痛・苦労を思い遣る視線も持てずに軽々しく「アルツハイマーの人」を持ち出すことができる。
麻生首相が衆愚意識から抜けるには自身の何様意識は勿論、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」といった民族優越意識から早く目覚める以外に道はないだろう。
早く目覚めないと、政治の世界でも官僚の世界でも、また一般世界でも如何ともし難い人間は存在するが、日本の総理大臣自体が如何ともし難い人間の仲間入りしたままで首相の座を終わり、如何ともし難い総理大臣だったと歴史に名を残すことになるだろう。
上記「NHK」WEB記事が河村官房長官が記者会見で述べた釈明を最後の部分で伝えている。
「麻生総理大臣の思いは、みずから努力して健康を勝ち得ることも大事だというものであり、病気になった方が悪いという思いはまったくない」
「できるだけ釈明というか、説明しなくて済むに越したことはない。麻生総理大臣の性格で、いろいろな発言がこれからもあると思うが、1つの個性であって、本意を理解していただく努力をわたしがしなければいけない立場だと思っている」
まるで頑是無い子供のいたずらで迷惑をかけた人に母親が子供を連れて謝ってまわる図である。「いいこと悪いことがまだ区別がつかない年だもんですから。さあ、頭を下げて謝んなさい」
いつ起こるか分からない地震対策に対する危機管理でもあるまい、総理大臣の失言に備えて官房長官が「本意」を釈明する役目を予め担うという人事上の図柄はどのような政治性の上に成り立っているのだろうか。そのような国家の政治性とは何を物語るのだろうか。
11月7日金曜日の当ブログ記事≪消費税増税/いつかは通る道なら、定額減税よりも消費税の一時停止、そして食品非課税で増税へ≫で題名どおりの「定額減税」(改め「定額給付金」)よりも、事務が繁雑だと言うことなら消費税を一時停止することで国民の生活を補助し、景気を回復したところで食品非課税で消費税を10%なり増税したらどうかと書いたが、勿論、今までの記事同様に何ら反響はない。自分が思っていることを単に書いているだけのブログだから当然の成り行きと言ったところだが、3日前(11月25日)の「asahi.com」記事がイギリスが景気対策を目的に09年末まで消費税を2.5%下げるという記事を紹介していた。参考までに全文を引用。
≪英、消費税2.5%下げ発表 景気対策で09年末まで≫(asahi.com/2008年11月25日1時8分)
<【ロンドン=尾形聡彦】英国政府は24日、景気対策のため、一時的に消費税(付加価値税)の減税に踏み切ると発表した。12月初めから、17.5%の消費税率を2.5%幅引き下げ、15.0%とする。英国の消費税率引き下げは74年に10%から8%に変えて以来。今回の景気後退局面で、消費税を減税するのは欧州主要国で初めてとみられる。
ダーリング財務相は消費税の減税が「すべての人に恩恵があり、最も公正な手法だ」と指摘し、09年末まで続ける方針を示した。所得税額を割り引く一般的な減税では貯蓄に回る分が多くなる可能性があり、消費税率を一時的に引き下げることで、消費意欲を刺激する狙いがあるとみられる。
消費税率を2.5%幅引き下げることによる財政負担の規模は125億ポンド(約1.8兆円)に達し、全体の景気刺激策は200億ポンドに上るという。英政府は消費税減税に伴う財政悪化を改善するため、高所得者の所得税の最高税率(現在40%)を45%へ引き上げる見通しだ。
ブラウン英首相は24日朝の演説で「(90年代の)日本などでは景気後退局面での対策が遅すぎた」と語り、大胆な消費刺激策を取ることで、バブル崩壊後の日本などであった失敗を繰り返さない姿勢を示した。 >・・・・・・・
「英国の消費税率引き下げは74年に10%から8%に変えて以来」の2度目だと言うことだが、1974年という年は1973年10月に第4次中東戦争が勃発、10月22日に停戦合意してはいるものの、アラブ産油国が石油戦略を発動、原油価格を一挙に4倍に引き上げたことから中東にエネルギーを依存していた先進国の経済に大きな打撃を与えた。
いわゆる石油ショックと言われる世界的不況の発生で、英国とて同じ状況下にあったろうから、その景気回復策と国民生活の救済に1974年に消費税率を「10%から8%に変え」たと言うことで、それが少なからず成功したことからの再度の“試行”といったところであろう。
いわば成功体験からの再挑戦でなければならないはずで、って、見るべき効果がなかったにも関わらず同じことの繰返しをするのは日本ぐらいに違いない。
15歳以下の子供や65歳以上の高齢者その他を支給対象として1999年4月1日から9月30日まで行われた1人2万円の地域振興券が財布の紐を締めていた消費者によって最低限必要とする生活必需品の購買にその殆どが向けられ、使わなくて済んだその分の自分のカネは貯蓄に回されたために財政支出は約6200億円必要としたものの、名目GDPを約2,000億円(GDPの個人消費の0.1%程度)押し上げる効果しかなく、差引き約4200億円分効果を見なかった失敗体験をモノとせずに二番煎じでしかない定額減税改めて定額給付金を支給する。
経済専門家の多くが地域振興券に前以て下したように定額給付金の効果に関しても将来の不安に備えて貯蓄に回って活発な消費活動につながるまいと予測し、マスコミが街で聞く声も多くが「貯蓄に回す」と答えていながらである。しかも麻生内閣から支給事務だけではなく、高所得者にも支給するのは不公平ではないかと指摘を受けて一旦は設けることとした所得制限の最終決定まで丸投げされた市区町村は事務手続き簡素化の面からのみ所得制限を設けるだの設けないだのと今以て決めかねて右往左往している。
対してイギリスは「消費税の減税が『すべての人に恩恵があり、尤も公正な手法だ』と指摘・・・・・・所得税額を割り引く一般的な減税では貯蓄に回る分が多くなる可能性があり、消費税率を一時的に引き下げることで、消費意欲を刺激する狙いがあるとみられる」と日本の逆を行く予測を立てている。
麻生首相は08年10月30日の「新しい経済対策『生活対策』の発表」の記者会見で次のように述べている。
「私の目指す日本は、福祉に関して、中福祉・中負担です。中福祉でありながら、低負担を続けることはできません。増税はだれにだって嫌なことです。しかし、多くの借金を子どもたちに残していくこともやめなければなりません。そのためには、増税は避けて通れないと存じます。勿論、大胆な行政改革を行い、政府の無駄をなくすことが前提であります」
また9月14日のNHK番組で「基本的には消費税10%はいまでも一つの案だ。小福祉小負担、北欧のような高福祉高負担とあるが、日本の落ち着く先は中福祉中負担だ。その場合、消費税10%は一つの目安かと思う」(2008年9月23日(火)「しんぶん赤旗」)と述べている。
麻生以下の自民党政府高官、その他は「高福祉、高負担という北欧型でいくのか、米国型の低福祉・低負担でいくのか」と一方に「高負担」、あるいは「低福祉」という痛みをカードとしてちらつかせて、それが嫌ならばと着地点を「中福祉・中負担」に誘導して消費税率増税を国民に納得させようとしている。
これは一種の威しであるばかりか、威しに利用している北欧型の「高福祉、高負担」にはマヤカシを潜ませている。
北欧諸国に入らないが、先ずは上記英国の例を取り上げて、景気刺激策としての消費税率下げの記事は「17.5%の消費税率を2.5%幅引き下げ、15.0%とする」となっているが、日本の5%から比較したら「17.5%」は相当高い消費税に思えるが、08年7月1日の「YOMIURI ONLINE」記事≪消費税アップ…軽減税率の検討不可欠≫によると、<英国では、物を買ったりサービスを受けたりする際、17.5%の税率がかかる。ただし、家庭用光熱費やニコチンパッチなどは5%、食料品や新聞、薬、子供服などは0%と、2種類の軽減税率がある。標準的な体形の13歳以下の子供が着る服は0%だ。しかし、小柄な大人が買ってもいちいち確認されるわけではないため、「子供服の売り上げは実際の子供の数より多い」との笑い話もあると聞いた。>と一律17.5%ではなく商品によって軽減税率が設けられていることを紹介している。
特に食料品が0%というのは中低所得者にとっては17.5%がウソのような福音であろう。
北欧諸国に関して言えば、「高福祉・高負担」の例に最も取り上げられるスウェーデンに関していうと、消費税は25%と日本の5%から比べたら目が飛び出るほどに税率が高いが、食品はほぼ半分の12%の軽減税率となっている。
さらにHP『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』(竹崎孜著 あけび書房 2000円)がスウェーデンの生活を次のように教えている。
<税金は直接税と間接税に分けられる。所得税は一定額以上の賃金や年金に課せられるが、特徴的なのは、最高税率のひどさよりは、比較的少ない所得までかかる点である。これは、社会保障と密接なつながりが認められる。税金は広くかける一方で、公平配分のための年金、児童手当金、住宅手当金などを用意しているわけである。同じ理由から家族控除は廃止された。スウェーデンの平均的所得税はおよそ35%、手取り部分は65%である。税金が3分の1以上に達する点だけを考えると恐ろしい重税とされようが、手取額である可処分所得のすべてが生活費に充当できる。すなわち、税金を支払ったあとは、社会保険料、健康保険料は差し引かれない。医療や教育費はゼロ、生命保険は名前すらない。生活を切りつめる貯蓄もしない。年間5週間に及ぶ年次休暇を楽しむセカンドハウスが購入できるのも実質所得が小さくないからといえる。>・・・・・・
「北欧の高福祉・高負担」と言いながら、軽減税率を採用している国があることを隠していることもそれとないマヤカシに入るが、スウェーデンの教育費ゼロ・医療費ゼロについても口を閉ざして言わないのはマヤカシそのものであろう。
翻って日本の教育費や医療費は一人当たり平均でどのくらいかかるのだろうか。一例を挙げると、日本政策金融公庫(10月に国民生活金融公庫など政府系金融4機関が統合)の調査結果をベネッセが取り上げ、自身の教育情報サイトで08年11月20日に伝えているものだが、<世帯年収に占める教育費の割合は平均で34%と、3分の1を占めます。特に200万円以上400万円未満の世帯では55.6%と、年収の半分以上(平均163万8,000円)を教育費に充てており、生活が大変ななかでも子どもの教育のために家計をやり繰りしている事情がうかがえます。住宅ローンも組んでいる世帯(平均年収692万5,000円)でも、45.9%と年収の半分近くが返済と教育費に消えていくといいます。>・・・・
子供の教育費に、あるいはそれにプラスして住宅ローンに一生縛りつけられる日本人の姿のみが窺える。
同じ日本政策金融公庫の調査を報じた記事だが、分かりやすいからついでに10月16日の「asahi.com」記事≪世帯年収の3分の1、教育費に 半分超える層も≫も紹介しておこう。
<世帯年収の3分の1が教育費に消えている――。日本政策金融公庫(東京)が今年2月に国の教育ローンを利用した世帯を対象に行ったアンケートで、そんな実態が明らかになった。年収が低い世帯ほど在学費用の負担は重くなり、年収200万円以上400万円未満の世帯では年収の半分以上を占めていた。
アンケートは7月に実施し、給与所得者がいる世帯からの回答2753件を集計した。
世帯の年収に対する在学費用(小学校以上に在学中の子どもにかかる費用の合計)の割合は平均で34.1%。200万円以上400万円未満の世帯では55.6%に達した。一方、在学費用自体は年収が高い世帯ほど多く、900万円以上の世帯は平均で221万1千円。200万円以上400万円未満の世帯より57万円余り多かった。
高校入学から大学卒業までにかかる費用は、受験費用、学校納付金などを合わせて子ども1人あたり1023万6千円だった。
こうした教育費の捻出(ねんしゅつ)方法を尋ねると(三つまでの複数回答)、「教育費以外の支出を削っている」が61.4%と最も多く、「奨学金を受けている」が49.3%、「子ども(在学者本人)がアルバイトをしている」が42.1%で続いた。節約している支出は上位から旅行・レジャー費62.1%、食費(外食を除く)48.8%、衣類の購入費46%の順だった。(大西史晃)>・・・・
このような国民の教育費に対する負担の大きさに比較して日本は教育費の支出が対GDP比で世界で第25位と、国は身軽な装いで済ませている。
その上将来的な健康に対する不安から民間の保険会社の健康保険、生命保険まで手当てしている日本人も多いだろう。スウェーデン人のように「年間5週間に及ぶ年次休暇を楽しむセカンドハウスが購入できる」どころの騒ぎではなく、自分たちが最初から着地点を決めていて、そこに誘導すべく利用することとなっているために一種の威しとなっている「北欧のような高福祉高負担」が如何にそれとないマヤカシに満ちているか分かろうと言うものである。
もう20年か25年前のことだが、中学生の甥っ子が私自身には決して使わないのに友達同士で動作の否定の意思表示にごく自然に「行かねぇ」とか「見ねぇ」、「したくねぇ」と「ねぇ」で止める言い方をしていた。
いつ頃から言い出したか、あるいは流行り出しかは知らないが、今では小学校の低学年生までが使っている。私の中学生の頃、もう50年前にもなるが、否定の意思表示に「ねぇ」を使う生徒は不良か不良がかった生徒と相場が決まっていた。元々は堅気でない者(=ヤクザ者)の言葉であり、それを真似たチンピラ言葉だったからだ。
尤もヤクザといった堅気ではなくても、職人の中でも荒くれの部類に入る大人も使っていた。逆説すると、その言葉遣いから大体の素性が知れた。決してまともな子供、まともな大人が使う言葉ではなかった。
いわば「・・・・ねぇ」はその言葉を使うことによって自分がどのような素性の人間かを表現すると同時にそのような素性の人間が持っている力――正確に言うと暴力に頼った力を相手に示す言葉、威しを表現する言葉であった。
だが、今ではヤクザでもチンピラでもない荒くれた生活を送っているわけでもない当たり前の子供が使い、中には当たり前の大人さえも使っている。女子高生や女子中学生までが使う。幼稚園の子供まで使うのではないだろうか。
学校の成績でもスポーツでも特別に力を発揮しているといった話は聞いていないかったし、体力的にも痩せ型であったから、ごくありきたりの中学生といったところなのだろう。そのような中学生がかつてはまともではない素性の人間が使っていた言葉をごく自然に使っていた。
言葉は意思表示でもあり、欲求表現でもある。学校社会で学校社会が要求する力(テストの成績やスポーツの成績が決定づける才能)を持ち得ない目立たない存在をまともではない素性の人間が使っていた言葉を借りて、その種の人間が持っている力を自分も持っているかのように装わせて少しでも目立たせようとしていたとしたら、自分自身が学校社会では持ち得ない力への欲求(=力への憧れ)を言葉の表現で代償させていたということになるのだろう。
誰もが自分の住む社会で力を持ちたいと思う。力を発揮したいと欲求する。現在の情報社会ではそれぞれの社会で力を発揮する者がヒーロー、ヒロインとして持ち上げられ、持て囃される情報が飛び交い、そのことが逆に力を発揮できない者に力の発揮を強迫観念化することとなっていないだろうか。
ある一定の年齢に達すると、自身の無力を諦めて社会に妥協して生きるが、中学生や高校生、あるいは大学生等の若者のうち、これといって力を発揮できない者はそれぞれに将来を背負っているために情報が伝える力ある者と比較した自身の無力に焦りを覚え、本来的に課せられた力の発揮が不可能の代償に歪んだ力の発揮に走ったりする。
それが大麻を吸ったり、暴走族を演じたりの自己活躍となって現れているのではないだろうか。ヤクザとかチンピラ、あるいは荒くれた男たちといったまともではない素性の人間が使うものと相場が決まっていた言葉をその種の人間ではないのに使うことで力への欲求(=力への憧れ)を満足させる。それだけで終わっているとしたら、人畜無害と言ったところだろう。
だがである。日本の総理大臣が記者会見といった公の場で使っているとしたら、人畜無害で済ますことができるだろうか。単なる口癖――ざっくばらんな物言いと見られているようだが、一般の若者が使っているのと同じ効用を持たせた言葉遣いだとしたらどうだろうか。
どのように使っているか二、三例を挙げてみる。
先ず11月19日の全国知事会議で「医師には社会常識がかなり欠落している人が多い」と発言したことについてのぶら下がり記者会見での質問に次のように答えている。
「ああ、お医者さんになったオレの友達もいっぱいいるんだけれども、なんとなく、そう言った意味で、何となくちょっと、全然話とは、意見が、全然、普段からオレとは波長の合わねぇのが多いなと。友達が多いせいか、そう思っていまして。うちも医者、いっぱいいますから、そう思ってて。何て言っただって?ちょっと今覚えてねぇけど」(≪首相VS記者団≫「毎日jp」/08.11.19)
また同じぶら下がり記者会見で元厚生事務次官宅連続殺傷事件について問われて、
「この二つがいわゆる行政関係者を狙った、特定の役所のあれを狙ったというのがきちんと判明したという段階ではありませんから言いようがありませんけれども、もし二つの関係が明確になった段階においては、これは明らかにテロとみなして、これ断固たる処置を取る。当然のことだと思いますけれどねえ。ただ今の段階では単なる傷害か何とかってまだ決まってないんだろ?よく知らねえけど。だからその段階ではちょっとうかつなことは言えませんけど、これがテロだと、いわゆる二つの間に明らかに意図があったということがはっきりしたなら、断固たる処置を取るのは当然です」(同「毎日jp」記事)
ペルーのリマで開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議後の記者会見(11月22日)の模様を伝える≪【麻生首相同行記者懇詳報】(下)小沢氏「この人の話、アブねぇなぁ」≫「msn産経」記事(2008.11.22 09:32 )からも窺うことができる。
「中堅、若手から早く2次補正を出すべきという意見も出ているが」と言う質問に対して、
「いろんな意見が出るのが自民党だ。北海道新聞では、いろんな意見出すというのは良くないことなんかねぇ。いろんな意見が出たとたん、リーダーシップがないとか、全然意見が出ない方がよほど問題なんじゃないかねぇ、フフフ…。ぼくはいろんな意見が出されてそれで決めるのがいいと思っているんで、賛成もあれば反対もある。
例えば、知事会見とかで定額給付金に反対と言ったら、いかがなものかと。そしたら、賛成だという話があったり、知事会というのはまともなんじゃないの? ぼくにはそう見えるねぇ。
昔の知事会というのは、だーれも発言しないで、どなたかご意見ありませんか?と言うと、1人だけ手を挙げて、それが鈴木俊一(当時の東京都知事)で、総理大臣の所信表明みたいで、みんなごもっともというんで、ほかにご意見ありません、ハイ終わり、って。意見がないならこんなものやるのは意味がないんじゃねぇかってあおったら、出た出た。
40代の知事もいっぱい出たので、ご意見ありますか、っていったら、みんなハイ、ハイ、ハイって出まして。いろいろ意見出るのはいいことだと思うんだがねぇ」
さらに同じ記者会見で、「会期の話だが、この間、民主党の小沢一郎代表から会談の申し入れを受け・・・」と聞かれて。
「あのー、気をつけてね、ぼくの言葉にあやつける前に、自分でしゃべっていることをよーく選んでくださいね。討論、会談じゃないんだからね。申し入れされるんだったら、少なくとも(国会内の)常任委員長室で、ということにはなりませんよと」
「小沢さんは2次補正予算案について『職を賭して』とか『常識の範囲内で結論を出す』とかという話があるが、今ひとつ信用が・・・・」と聞かれると、
「ハハハ、辞めるって? 私のほかに(河村)官房長官、(細田)幹事長がいて、向こうは小沢さんのほかに、鳩山(由紀夫)さんと山岡(賢次)と奥村(展三)というのがいたねぇ。合計7人の前で言った。
やっぱり、この人の話、アブねぇなぁと思うんじゃない?みんな聞いていたんだから、へへへ。とたんにみんな、やっぱりあの人の話あまり信用できなくなっちゃったなと、へへへ」・・・・・・
「あやつける」という言葉は最新版は知らないが、『広辞苑』(第二版)にも『大辞林』(第一刷)にも載っていない。ヤクザやチンピラ、その他の堅気でない者が粋がって使う言葉で、堅気が使う言葉のように一般化していなかったからだろう。「ケチをつける」とか「因縁をつける」といった意味だが、「を」を省くことはあっても、一般的には「あやをつけやがって」とか、「あやをつける気か?」、「あやをつけるな」といったふうに怒りの表現であり、上の者が下の者に向けるか、敵対関係にある者に向けた威圧を持たせた言葉として使われた。
かつてはヤクザやチンピラ、その他のまともではない素性の人間が使っていた言葉を、最近でも一般の堅気の生活を送っている人間が頻繁には使うとは思えない言葉を記者会見という公の場で使う。例えそれがマンガの影響だとしても、マンガの中で使っている人間と本人とは種類が違うのだから、言葉も区別しなければならないのではないかと思うのだが、区別がつかない程、バカではあるまい。
果してざっくばらんで砕けた物言い、口癖で済ますことができるだろうか。その他にも太字で示した言葉共々、本来の立場で発揮できない力への欲求を言葉の表現で代償させているということなのだろうか。
≪民主が仕掛けた党首会談のワナ 政府与党は苦渋の決断「会期延長」≫msn産経/2008.11.18 00:53)によると、11月17日の小沢・麻生党首会談は民主党幹部の一人が「9割は小沢氏が話していた。首相は借りてきた猫だった」と証言している。
それが身贔屓ではないことを同記事が証明している。<会談が小沢氏のペースだったことは麻生首相本人も認めている。17日夜、自民党総務会メンバーとの懇親会で首相はこう語った。
「突然、(会談を)持ち込まれ困ったよ。相手の意図も分からず、話を聞き置いただけだ」>――
「話を聞き置いただけだ」と言うのは疑わしい。≪党首会談やりとり要旨≫47NEWS/2008/11/17 22:51【共同通信】)を見てみる。
<麻生太郎首相と民主党の小沢一郎代表との党首会談要旨は次の通り。
小沢氏 首相が代わったら衆院解散・総選挙で国民の意思を問うのが筋だ。総選挙をせず「景気対策が必要だ」と言って決めた2008年度第2次補正予算案なのだから、早急に国会提出し(会期を)延長してでもやるべきだ。「選挙よりも景気対策」というのは国民に対する公約だ。
首相 今(編成作業を)やっている真っ最中だから明快に答えることはできない。出せるように努力している最中だ。
小沢氏 これまで協力してきたが、(新テロ対策特別措置法改正案の採決は)考えざるを得ない。
首相 2次補正予算案と給油法案とは全然関係ない。参院で決められた話を、党首が一方的に破棄するのは理解しかねる。2次補正予算案を提出すると、来年1月まで審議引き延ばしをするのではないか。
小沢氏 賛成はたぶんできないが、常識的な審議時間で、国会として結論を得る。代表として私の責任で約束する。審議をいたずらに引き延ばすことはしない。提出時期は、できるだけ早く結論を出してほしい。>――
決して「話を聞き置いただけだ」には見えない。それを「話を聞き置いただけだ」としなければならないのは、お互いの言い合い・主張のぶっつけ合いで総理大臣として、あるいは自民党代表として対等以上の力を発揮しななければならない立場にありながら、対等以下の力しか発揮できなかった、受身の姿勢を取らされたから、「話を聞き置いただけだ」と誤魔化さなければならなかったと言うことであり、その勢いの差が「9割は小沢氏が話していた。首相は借りてきた猫だった」といった比喩となって表れたのではないだろうか。
このことは「政局よりも経済」と言いつつ解散を避けてきながら、2次補正予算案を出せないでいることからも理解可能な、余儀なくされている受身の姿勢といったところなのだろう。
ヤクザとかチンピラといったまともではない素性の人間が堅気の人間に使う場合はその素性を知らしめるサインであると同時に威圧を持たせていた言葉を素人が使うのはその種の人間が持つ力への欲求(=力への憧れ)からではないかとする私自身の判断に従うとするなら、麻生首相が使うのはまともではない素性の人間が持つ力ではなくても、現在発揮できていない力の代わりとなる力への欲求(=力への憧れ)がやはりあるからではないだろうか。
麻生首相は10月発売の月刊誌「文芸春秋」に『強い日本を!私の国家再建計画』と勇ましく題した論文を書いているということだが、2008年10月9「asahi.com」記事≪冒頭解散考えてた 月刊誌に首相寄稿、情勢変わり修正≫がその内容の一部を伝えている。
「国会の冒頭、堂々と私とわが自民党の政策を小沢(民主党)代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う」
「私は決断した。・・・本来なら内政外交の諸課題にある程度目鼻を付け、政党間協議の努力も尽くした上で国民の信を問うべきかもしれない」
「私と小沢氏のどちらがそれに足る国のトップリーダーなのかを国民に審判していただく戦い。・・・・堂々の戦いをしようではないか」
結びは、「私は逃げない。勝負を途中で諦(あきら)めない。強く明るい日本を作るために」・・・・・
題名も勇ましければ、中身も勇ましい言葉で“宣戦布告”している。勇ましい言葉通りにどちらが政権につこうが、早い時期に決着をつけて民意を背景に「強く明るい日本を作るために」、経済政策に専念させるべきだった。
『強い日本を!私の国家再建計画』に散りばめた言葉のすべては首相就任後の支持率頼りの強がりでしかなかった。今以て支持率低下という民意に右往左往している。
強がりとは真の強さを持たない者がさもあるように装う見せ掛けの強さに過ぎない。麻生首相の「決まってないんだろ?よく知らねえけど」とか、意味がないんじゃねぇかって」、「あやつける」 、「アブねぇなぁ」といった、かつてはまともな素性ではない人間が専門としていた言葉を使うのは、最近の子供たちが自分が持たない力への欲求から日常的に使っているように、現在は首相の立場としての力を発揮し得ていない不足を補う力への欲求(=力への憧れ)が言わせている言葉の数々ということではないだろうか。
だからと言ってこの種の言葉を使うのは幼稚さと幼稚さゆえの強がりを示しているに過ぎない。
首相になる前から口癖にしていたと言うことなら、どのような立場でも真の力を発揮していたわけではなく、口先だけの強がりでその時々の立場を維持してきただけと言うことなのだろう。だから、余分なことまでペラペラと喋る、口の軽い首相だと批判される。
「日本は侵略国家ではなかった」とする趣旨の論文を投稿して10月31日(08年)に更迭された前空幕長田母神俊雄が今年の4月に航空自衛隊のイラクでの輸送活動を違憲とする名古屋高裁判決が出た際、政府が判決を無視する姿勢を示したことに同調したのだろう、但し記者会見で「そんなの関係ねえ」という言葉で無視したが、否定語に「・・ねぇ」を使っている。
政府が無視する以上、控訴して最高裁で争う機会はなく、自分の力では高裁の判決をひっくり返すことが不可能な上、立場上論理的反論の機会も奪われていて、その無力を誤魔化すためにまともな素性ではない人間が専門に使っていた言葉で強がって見せたのではないだろうか。内心に威圧を隠して。
反対の真の理由は日本人の血を汚したくない日本民族優越意識からだろう
11月18日(08年)未婚の日本人男性と外国人女性の間に生まれた子が父親認知を要件に国籍取得可能となる「国籍法改正案」が衆院本会議で可決、民主党その他の野党も賛成していることから、参院に送付後、今国会で成立する見通しだとメディアは伝えていた。
この改正の動きは最高裁が今年6月、結婚を条件とする現行法を違憲と判断したことを受けたものだという。但し、ウソの認知で国籍を取得する偽装認知が広がる恐れがあるため、虚偽の届け出をした者に1年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す規定を新設したそうだ。
6月の最高裁判決を08年6月4日「毎日jp」記事≪婚外子:婚姻要件の国籍法規定は違憲 最高裁大法廷判決≫で見てみると、――
<結婚していない日本人父とフィリピン人母10組の間に生まれた子ども10人が、国に日本国籍の確認を求めた2件の訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷=裁判長・島田仁郎(にろう)長官=は4日、出生後の国籍取得に両親の婚姻を必要とする国籍法の規定を違憲と初判断した。その上で10人全員について日本国籍を持つことを確認した。
最高裁が法律の規定を違憲としたのは、在外邦人の選挙権を制限した公職選挙法の規定を巡る訴訟の判決(05年9月)以来で8件目。国会は早急な法改正を迫られる。非嫡出子(婚外子)の不利益な扱いに対する違憲判断は初めてで、相続で差を設ける民法の規定などを巡り議論を呼びそうだ。
国籍法3条1項は、未婚の日本人父と外国人母の間に生まれた子について、父の生後認知と両親の結婚の両方を日本国籍取得の条件としている。嫡出子の立場を得ることを必要とする規定だ。
原告は、関東地方などに住む8~14歳の10人。父の認知を得て03~05年に法務局に国籍取得を届け出たが、認められなかった。
原告側は「両親の婚姻という子どもに左右できない事情で国籍について異なる扱いをするのは不合理な差別」として、憲法14条の定める法の下の平等に違反すると主張。これに対し国側は「両親の結婚で子は日本との強い結びつきを持ち、法には合理的な根拠がある」と反論した。
1審・東京地裁は2件の訴訟とも同項について違憲判断し10人の日本国籍を認めたが、2審・東京高裁は「婚姻要件を無効として認知のみで国籍を取得できると解釈することは、新たな要件を創設するもので立法権の侵害」と憲法判断に踏み込まず、いずれも原告逆転敗訴とした。
日本人父・外国人母の非嫡出子で原告と似た境遇の子どもたちは国内に数万人、海外にも相当数いるとの学者の試算がある。父の認知を得る困難さはあるが、判決は救済の道を開いた形だ。【北村和巳】>・・・・・・
国側の子供に「両親の結婚で日本との強い結びつきを持たせる」はもっもとらしげに聞こえるが、結婚できなければ駄目だという壁を設けるものだろう。
改正案が「婚姻」要件を外すことに反対して、自民党などの有志議員が11月17日、「国籍法改正案を検証する会合に賛同する議員の会」を結成して採決延期を求める決議を行ったという。
その理由は「偽装認知による国籍売買を招く恐れがある」というものだが、「偽装」は人間営為のすべてに付き纏うものだから、「偽装認知」を口実にすることは法律阻止の理由とすることはできない。
そもそもからして「偽装」に備えて、「虚偽の届け出をした者に1年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す規定を新設」しているし、この程度の罰金で「偽装」が止まないと言うことなら、法律を改正して罰則を厳しくするしかない。
1948年に制定された「政治資金規正法」は資金管理団体に対する企業・団体からの寄附を禁止したり、日歯連ヤミ献金事件をキッカケに政治資金団体に対する寄附の出入りを原則銀行や郵便振込み等で行うことを義務づけたのは証拠を残さない「偽装」の存在とそのような不正なカネの流れを防止することが目的であり、その後のそれまでは無制限だった政党及び政治資金団体以外の政治団体間の寄附の上限を年間5000万円まで制限する改正にしても、あるいは資金管理団体への企業・団体からの寄附禁止にしても、資金管理団体以外の政治団体を設けて迂回献金させる「偽装」の存在・横行とその制限の必要性から出たものであろう。
その後佐田玄一郎元行政改革担当や「何とか還元水」の自殺した松岡元農水相や同じく元農水相の赤城徳彦のように自らの政治資金団体に多額の光熱費を付け替えたり架空計上するといった「偽装」が明るみに出た。
このような「偽装」防止を目的に2007年に資金管理団体による不動産取得の禁止や資金管理団体の収支報告義務の強化を内容とした改正を行わなければならなかった。だが2008年に国会議員関係政治団体に関して、1円以上の領収書公開や第三者による監査義務付けを柱とした2009年分の収支報告書から適用の改正を行うこととなったのも、様々な「偽装」を用いた政治家の不透明なカネの流れが後を絶たなかったからだろう。
最近では福田改造内閣で農水相に任命された太田誠一の政治団体「太田誠一代議士を育てる会」が秘書官の自宅を「主たる事務所」として届けて2000~2002年、2005、2006年に亘って合計で5千万円近い経常経費を計上していて、そのことが今年8月に判明、活動実態がないことの指摘を受けて問題となったが、「政治資金規正法」という法律に反する「架空計上」や「経費の付け替え」といった「偽装」の存在を疑わざるを得ないからだろう。
「太田誠一代議士を育てる会」は2005、06年だけで1千万円にも上る人件費に関して給料の受取りを示す受領伝票を作成してなかった。(「時事通信」)
不正行為を予測してどのように法律を厳しくしたとしても、政治家のカネの不透明な流れは規制の網をかい潜ってその流れを止めることはあるまい。
とは言っても、「偽装を招く招く恐れがある」から、「政治資金規正法」は作る必要はない、反対だとは言えまい。これまでと同様に「偽装」が発覚したとき、それが既成の法律で規制できれば規制する、新手の「偽装」で法律で規制しきれない場合は法律を改正して対処するしかないだろう。また罰則も厳しくしていく。それが法律の宿命でもある。
太田誠一は事務所費疑惑はうまく逃れることができたが、誰もが承知しているように中国産冷凍餃子の中毒事件で「日本は安全なんだけど消費者、国民がやかましいから(安全対策を)徹底していく」、あるいはいわゆる汚染米流通問題で「(流通した事故米の残留農薬)濃度は(中毒事件が起きた)中国製ギョーザの60万分の1の低濃度。人体に影響は無いということは自信を持って申し上げられる。だからあまりじたばた騒いでいない」(08年9月12日NHK「日曜討論」)と食用として市場に流通した・させた農水省の杜撰・無責任な危機管理体制を棚上げにした無神経な発言の責任を取って選挙で戦えないという理由で詰腹を切らされて目出度く9月に辞任させられている。
道路交通法で酒酔い運転に対して厳しい罰則を設けても、酒を飲んだまま隠れて車を運転する「偽装」はなくならない。最初に言ったように「偽装」は人間営為のすべてに付き纏うからだ。酒酔い運転を取締る側の「警視」の地位にある警察官が酒酔い運転で当て逃げした上に自損事故を起こして仲間の警察に逮捕される、「泥棒を捕らえてみれば我が子なり」に似た場面を生じせしめたのはつい先頃の11月17日のことである。
もし事故を起こさず、検問にも引っかからなければ、善良な市民、優秀な警視として「偽装」した生活を送るのだろう。
さらに例を挙げるなら、民主党の前田雄吉衆院議員がマルチ商法企業から政治献金を受けて企業擁護の質問をしていたことが明らかになり、責任を取って民主党を離党しているが、自民党所属の野田聖子消費者行政担当相もマルチ商法企業にパーティー券を購入してもらっていて、業界擁護の国会質問をしている。
これらにしても国民に対して国会議員としてあるべきでない姿を隠して、日常普段から国会議員でございます、これがあるべき姿ですと顔を曝す「偽装」を犯していたと言えるだろう。
かくかようになくそうとしてもなくならない人間営為のすべてに付き纏う「偽装」である以上、「偽装認知による国籍売買を招く恐れがある」ことを理由とした「採決延期」は正当性を失う。
大体が「偽装認知」ではないが、日本が経済大国の名乗りを上げたときから貧しい東南アジアの国々発の偽装結婚を手口とした「国籍売買」(国籍取得)は始まっていることで、最近でも長期在留資格取得目的の偽装結婚が露見して逮捕される例が跡を絶たない。
08年7月11日の「YOMIURI ONLINE」によると、結婚相談所を経営する50歳の女が韓国のキリスト教宣教師の資格を利用してホームレス対象の炊き出しなどに参加してはホームレスの中から夫役を探し、約20年前から約300組の韓国女性等との偽装結婚を手掛け、約3億円を得ていたとみられる疑いで起訴されている。
こういったことは断るまでもなく一人の女性のみの犯罪ではなく、その他暴力団等も含めて合法的に外国人女性を風俗店等で働かせてカネを得るため、さらに偽装結婚の紹介料でもカネを得るための利潤行為で行っていることであって、その全体数は相当な規模に上るに違いない。
中国人の女性が同じ中国人の男との間にできた子供を出産する直前に日本人を夫とした偽の婚姻届を出して、子供に日本国籍を取得させていたとして今年10月に逮捕・起訴された例もある(「47NEWS」)。
例えそれが偽装結婚でも、1年間程度結婚生活の実態を演じて、念には念を入れて偽装結婚と露見させずに済ませている外国人女性も存在するかもしれない。
実際に「偽装認知による国籍売買」が存在したとしても、父親の認知を受けながら父親と同じ国籍を認められない子供たちの「不利益」をなくすことを何よりも最優先させなければならないように思えるが、どうだろうか。どちらをプラスとし、どちらをマイナスとするかである。プラスとした方が遥かに価値を持つとしたなら、少々のマイナスは発覚した時点で法律で罰するしかないだろう。
ところが「国籍法改正案を検証する会合に賛同する議員の会」は子供たちの利益をプラスとはせず、「偽装認知」の防止をプラスとして、そこに遥かに多くの価値を置こうとしている。
果して「偽装認知」が真の反対理由なのだろうか。それを解くカギが会の発起人代表の平沼赳夫元経済産業相の政治的立場であろう。
<会合には議員本人14人を含む38人が出席。平沼氏が「男性が証拠もなく認知をすると日本国籍が獲得できる、むちゃくちゃな歯止めのない法律だ」と指摘した。出席者からDNA鑑定義務化や偽装認知の罰則強化を求める声が相次いだ。>≪「偽装認知の危険あり」 国籍法改正案に反対の議連結成≫「msn産経」/2008.11.17 22:14 )ということだが、平沼は元々から日本民族優越主義者であり、天皇崇拝者であって、実際は日本人の血に特にアジア系やその他の有色人種の血が混じって、日本人の純粋だと思っている血が汚れることを嫌悪する立場にいる。
わざわざ証拠を挙げるまでもなく、多くの人間が平沼が日本民族優越主義者であり、天皇崇拝者であることを既成事実としているが、確認のために改めて平沼赳夫なる政治家の日本民族優越者振り、天皇主義者振りを書き記すことにする。
皇太子夫妻に男子が生まれず、秋篠宮夫妻も女子ばかりの子で、皇位継承の問題が世間の関心を呼んでいたことを受けた世論調査といったところだったのだろう、女性天皇を容認する日本人が92年の3割強だったのが99年の半数、03年には4分の3を超える社会的な皇室意識のもと、当時の小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が議題に皇位継承権を女性に広げ、女性天皇の子供が皇位を継ぐ「女系」を認めるか否か、あるいは皇位継承の順位、結婚した女性家族の宮家創設の範囲を検討する(以上『朝日』/05年1月26日朝刊記事)といったことを上らせてスタート。その時点で女性天皇及び女系を認める方向に進むことは予想できたことだが、そのとおりに「有識者会議」は容認を全会一致で決定し、その決定を受けて小泉首相は06年1月からの通常国会に皇室典範改正案を政府が提出する見通しであることを記者団に語った。
小泉首相自身、女性天皇及び女系を認める意思を示していた。
だがである、我が平沼赳夫はというと、「仮に愛子様が留学なさって、青い目の男性と恋に落ち、そのお子様が天皇になられることは断じてあってはならない」と女性天皇にも女系にも断固反対の姿勢を示した。
平沼は女性天皇及び女系に反対しただけではなく、その反対理由に「青い目」を持ち出したのは女系皇族の血に外国人の血が混じることは許せない、純粋に日本人の血を守らなければならないと考えたからだろう。そのように考えた程にも日本人の血、特に皇族の血を優秀だと見ていたのである。
このことは2001年7月2日、経済産業大臣在任中、札幌市内で開かれた自民党中川義雄参院議員のセミナーで発言した「小さな国土に1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの」(「単一民族国家-Wikipedia」)だと日本民族を価値づけたことが証明している。
日本民族が「単一民族」であると誇ることは、そのこと自体が既に自民族優越意識の表明以外の何ものでもないが、平沼のこの言葉を裏返すと、「小さな国土に1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている世界に冠たる日本」を崩すわけにはいかないと言うことになる。
その答は当然のこととして他民族は入れない、入れたくない、日本人だけの単一民族で日本を守りたいということに尽きる。
言い換えると、単一民族意識とは日本人が日本人であることを守るということである。その唯一の理由は日本民族を優秀民族と把えているからに他ならない。このことから「単一民族」であると誇ること自体が既に日本民族優越意識の現われとなる。単一民族意識=日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識=他民族排斥意識という等式が成り立つはずである。
確認のために「冠」(かん)なる言葉の意味を『大辞林』(三省堂)で見てみると、「最も優れているさま。最高と認められるさま」と出ている。狭い国土に単一民族で固まり、結束している。レベルが高いからこそ可能としている世界に誇ることができる日本の優秀・最高の民族性だというわけである。
女性天皇・女系容認の流れは2006年2月、「皇室典範改正法」を3月に国会に提出しようとする矢先に秋篠宮の妻紀子懐妊が報じられると、今国会で改正する意向を言明していた小泉首相は、「誰もが改正が望ましいという形で成立するのが望ましい。慎重に審議することによって、政争の具にしないように慎重に取り運んでいきたい」(≪皇室典範改正案、今国会の提出見送りか≫「日刊スポーツ」/2006/2/8/16:20)とし、結局見送りとなった。
秋篠宮妃紀子の懐妊を受け、秋の出産まで改正論議を凍結すべきだとの声が強まったことに配慮した(同記事)ということだが、9月の男子出産を以って皇室典範改正案の国会提出が見送られ、反対派の胸を撫でおろさせることとなった。
女性天皇・女系容認意識は男子継承者の出現によって敢え無く潰えさる程度の淡いものだったことになる。そのこと以来、女性天皇と言う言葉も女系と言う言葉も音沙汰なしと言っていい程に耳にしない。
尤も皇太子妃雅子からしたら、自分が果たせない男子出産に少なからず心穏やかなものを感じたかもしれないが、娘愛子のためにはほっとしたのではないだろうか。元外交官である彼女が籠の鳥から解放されてかつてのように世界を飛び回りたい衝動を抑えているとしたら、娘に同じ籠の鳥を運命づけたくないと思っているかもしれないからだ。
安倍晋三は首相時代、2007年1月に日系のマイク・ホンダ下院議員が日本政府への慰安婦に対する謝罪要求決議案を米下院に提出、3月1日に河野談話に関するマスコミの質問に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と、軍の直接的な関与を否定。
当時の外相麻生太郎は決議案提出に「客観的事実に全く基づいてなく、甚だ遺憾だ」と述べている。麻生太郎の漢字の読み違えは今始まった問題ではないだろうから、当時からも間違えはあったと思われるが、その当時は漢字の読み間違えについて報道されることはなかったようだ。
結局米下院は07年7月30日の本会議で法的拘束力はないものの日本政府に公式謝罪を求める従軍慰安婦問題に関する対日非難決議案を採択した。
但し決議阻止に向けて我が平沼赳夫も活躍している。採択される2週間程前の7月14日付の米紙ワシントン・ポストに「日本軍によって女性が強制的に慰安婦にされたことを示す歴史的な文書は存在しない」と全面広告した賛同者の一人に名前を連ねていたのである(「YOMIURI ONLINE」)。
これは日本民族優越意識がそう仕向けることとなっている、優秀な民族だから間違いを犯すはずはない、間違いなど認めることはできないとする日本民族無誤謬説に平沼が従来からかぶれていたことから生じさせた従軍慰安婦の全面否定であろう。
「うちの子供に限って」を日本民族に変えただけのことだが、イワシの頭も信心から、単一民族意識=日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識=他民族排斥意識という等式を常なる情動として抱えているのである。「国籍法改正案」反対意志がウソの認知で国籍を取得する偽装認知の広がりを恐れるというのは見せかけと断ぜざるを得ず、外国人の血が日本という優秀な国に混じって優秀でなくすることを少しでも防ぎたい一心からなのは、「小さな国土に1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの」という言葉自体が証明している。
優秀であるかどうかは民族性によって決まる価値観ではなく、個人性を要件として決定づける価値観であることを忘れてはならない。いつも言うことだが、政治家を見れは簡単に了解できる事柄であろう。歴代の天皇の中にもごくごくつまらない天皇もいたに違いない。
言葉の問題で終わらない見識の問題、総理大臣たる資格の問題――
麻生首相が11月19日に行われた全国知事会議での地方の医師不足問題に言及した発言が問題となっている。同日付の「47NEWS」記事≪首相の医師をめぐる発言要旨 全国知事会議≫がその要旨を伝えている。
<医者の確保をとの話だが、自分で病院を経営しているから言う訳じゃないけど、大変ですよ。はっきり言って、最も社会的常識がかなり欠落している人が多い。ものすごく価値判断が違うから。それはそれで、そういう方をどうするかという話を真剣にやらないと。全然違う、すごく違う。そういうことをよく分かった上で、これは大問題だ。
小児科、婦人科(の医師不足)が猛烈に問題になっているが、これは急患が多いから。急患が多いところは皆、人が引く。点数が入らない。点数を変えたらいいんです。これだけ激しくなってくると、医師会もいろいろ、厚生省も、5年前に必ずこういうことになりますよと申し上げて、そのまま答えがこないままになっている。
これはちょっと正直、これだけ激しくなってくれば、責任はおたくらの話ではないですか。おたくってお医者さんの。しかも、お医者の数を減らせ減らせと言ったのはどなたでしたか、と申し上げて。党としても激しく申し上げた記憶がある。臨床研修医制度の見直しについてはあらためて考え直さなきゃいけない。>・・・・・・
砕けた私的な場ならまだしも、襟を正し、真剣に対応しなければならない全国知事会議という公の場で「おたくら」という言葉を使う。「おたくら」は他人に対して「お前ら」と相手を下に置いて呼びかけるよりは少し上に置いて直接呼びかける言葉のはずだが、そこにいない医師に対して「おたくら」と言う。「お前らの話ではないですか」と言うよりは少しましな「おたくらの話ではないですか」だったということになる。
医師たちは「お前ら」と呼びかけられるよりは少し真っ当な呼びかけの言葉で取り上げられた。元々我が日本の総理大臣・麻生太郎の言葉に品がないなとは思っていたが、医師たちは何とも有難い扱いを受けたものである。
不特定多数の医師という社会的集団に対して「最も社会的常識がかなり欠落している人が多い」と評価した。いわば医師集団の属性(「そのものに備わっている固有の性質・特徴」『大辞林』三省堂)と看做し、そのように価値づけた。
このことは私自身は持ち合わせていないが、日本の総理大臣ともなると持ち合わせていなければならない、持ち合わせているべき見識(「物事の本質を見抜く優れた判断力。またそれに基づくしっかりとした考え、識見」『大辞林』三省堂)を如何に欠いているかという問題でもあり、さらに医師なる人間集団に対する差別、集団差別に相当する価値観であろう。日本民族を頂点に置く民族差別主義者だけのことはある、国家権力の立場にある者の下位集団に対する集団差別であろう。
麻生太郎というご大層な人間から見たら、社会的地位の高い医師ですら、「最も社会的常識がかなり欠落している人が多い」ということなら、私のような社会の底辺で暮らす貧乏人はどれ程に「社会的常識」が欠落していると見られているだろうか。何しろ麻生財閥の御曹司なのだから、一般国民は相当に見下されていると見なければならない。
「地方が元気にならなければ、日本は元気にならない」と地方を思いやる発言、総理大臣になって秋葉原への凱旋演説で「皆さん自身が生きる力を持たなければならない。暗い顔するヤツはモテないよ。モテたきゃ明るい顔をしろ」といった国民を元気づける発言はみな選挙向けで、麻生政治は愚民政治を本質としているのだろう。
全国知事会議での麻生首相の発言に対するぶら下がり記者会見での記者との遣り取りを11月19日の「毎日jp」記事≪首相VS記者団 医師の友人は「波長の合わねぇのが多い」11月19日午後6時17分~≫が詳しく伝えている。
<◇全国知事会議での発言
Q 総理。今日、知事会議で……。
A 知事会議。はいはい。知事会議って新聞記者いたんじゃないのか?
Q その中で文脈として「医者には社会常識が欠落している人が多い」と取れるような発言があったんだ
が、その真意をうかがいたい。
A ああ、お医者さんになったオレの友達もいっぱいいるんだけれども、なんとなく、そう言った意味で
、何となくちょっと、全然話とは、意見が、全然、普段からオレとは波長の合わねぇのが多いなと。
友達が多いせいか、そう思っていまして。うちも医者、いっぱいいますから、そう思ってて。何て言
っただって?ちょっと今覚えてねぇけど。
Q 「医者は最も社会常識が欠落している人が多い」と取れる。
A ああ、そう、そう、そう意味じゃあ全くありません。だからそう言った意味で何て言うの?まともな
お医者さんが不快な思いをしたというんであれば、それは申し訳ありません、そりゃ。
「首相VS記者団」とは
首相に対するいわゆる「ぶら下がり」取材のやりとりをそのまま活字にして掲載しているものです。
「ぶら下がり」とは、永田町に多く見られる取材方法の一形態で、記者団が取材対象者を囲み、立ち話形式でいろいろ質疑する、一種のミニインタビューのことです。少ない質問で短時間ながらもその時点で必要不可欠なことを聞き出す場として、通常の記者会見やインタビューとは差別化して使っています。取材対象が首相の場合は、ほとんどが首相官邸内で行われます。
語源ははっきりしませんが、記者が対象者にぶら下がっているように見えたことから誰かがそう言い始め、いつの間にか定着したようです。ニュースに映像が必須のテレビ業界にとって特に重要な取材の場になっています。
最近は、主に首相に対するものが「ぶら下がり」の代名詞となっています。「ぶら下がり」のやり方としては、かつては首相が官邸内や国会内を歩いて移動中に記者が共に歩きながら両脇から一問一答するのが主流でしたが、01年4月に就任した小泉純一郎元首相から、官邸内で時間と場所を固定して行う形になりました。テレビを通じて国民に直接訴えかけることで世論の支持を高める狙いがあった、と言われています。
「ぶら下がり」に対する歴代首相の対応はそれぞれで、歩きながらのやりとりで当意即妙だったのは中曽根康弘元首相です。「ポンポンと木魚をたたくように聞くな」と記者団をけん制したこともありました。森喜朗元首相は失言を恐れ政権末期には記者の質問を一切無視、安倍晋三元首相は、就任当初「ぶら下がり」の回数を減らすようメディア側に求め、記者団との関係が一時ぎくしゃくしたこともありました。>・・・・・・・・
「普段からオレとは波長の合わねぇのが多いなと」――「オレ」とか、「合わねぇ」とか、麻生太郎の品性がそのまま表れた言葉ではあろうが、医者に対して相当に蔑んだ言葉となっている。
「まともなお医者さんが不快な思いをしたというんであれば、それは申し訳ありません、そりゃ」にしても、「したというんであれば」と、不快な思いをするに決まっていることを仮定の話に格下げする感覚は見事である。世間一般の当たり前の人間としての実感能力を欠いているからこそできる何も感じないままの責任回避であろう。
麻生発言の謝罪を求めて20日に首相官邸で面会した日本医師会会長の抗議の後の竹嶋康弘副会長の次のような発言が不快な思いをしていることの証拠となる。
「国政をつかさどるトップの発言として軽率すぎる。麻生総理大臣からは、しっかりとした謝罪のことばを頂いたが、発言を撤回し謝罪したからといって、すべての会員が納得するわけではない」(NHKインターネット記事)
9月12日の自民党総裁選で麻生候補は失言癖を問われて、次のように答えている。
「一国の指導者ともなると、何事も軽々と申していない。いつも寸止めで踏みとどまってきた。ご安心を」
自分がきっちりと口にしたことさえ裏切る。「寸止め」どころか、失言のタレ流しといたところではないか。「一国の指導者ともなると、何事も軽々と申していない」――
ところが麻生太郎なる「一国の指導者」の実態は「軽々と申して」ばかりいる。
総合誌に解散をぶち上げる論文を書きながら、その言葉を裏切って平気で先送りする。定額給付金を所得制限なしと言いながら、所得制限を設けると言い出したと思うと、所得制限は自治体の判断に任せると丸投げする。
道路特定財源一般財源化地方配分の1兆円を地方交付税として配分すると言いながら、その舌の根も乾かないたった1日経過しただけで交付税に限る必要はないと言い出す。郵政会社の株式売却について、「株は高くなったときに売るのが当たり前だ。(株式市場の)株価が下がっている真っ最中に売る奴がどこにいるんだ、という話だ」(「msn産経」)と勇ましいことを言っておきながら、これもその発言で舌の根がまだ濡れているうちに経済状況も見ながら慎重に売却すると軌道修正「asahi.com」)する。
自分の言葉に責任を持たないからこそできる数々の失言であり、腰の坐らない跡を絶たない政策の揺れ・猫の目のようにくるくる変る軌道修正であろう。
自らの言葉に責任を持たない一国の総理大臣の性格構造とは国民の負託に責任を持たない性格構造にそのままつながる対応関係にあるはずである。
総理大臣の資格も資質もない政治家を我々は日本の総理大臣に据えている。
テロだと言うなら、「懲罰」の対象は何なのか
10月18日午前10時頃、さいたま市南区別所の自宅玄関で元厚生事務次官山口剛彦氏(66)とその妻美知子さん(61)の2人の血を流した死体を発見。
一方同18日夕方、東京都中野区上鷺宮2丁目で元厚生事務次官吉原健二さん(76)宅で宅配便配達を装った男が侵入、妻靖子さん(72)を刺して逃走。
警察庁幹部は二つの事件を
▽2人の経歴が似ている
▽凶器が刃物
▽襲撃場所が自宅玄関など、共通点が複数ある――
こういったことから「連続テロの可能性がある」と見て、埼玉県警と警視庁に対し関連を視野に捜査するよう求めた(「asahi.com」)という。
「2人の経歴」とは19日の時事通信社記事≪基礎年金導入時の担当幹部=2人の元厚生次官、経歴に共通点≫が纏め上げている。箇条書きにすると――
1.刺殺された山口剛彦氏と妻が刺されて重傷を負った吉原健二氏の両元厚生事務次官は基礎年金制度
の導入を柱とする1985年の年金改正に担当幹部としてかかわった。
2.吉原元次官は当時年金局長として、また山口元次官は年金課長として年金改正に取り組んだ。
3.吉原元次官は厚生省を退官後、社会保険庁長官も務めた。
同記事は2人の経歴以外に「基礎年金制度の導入」に関して、「それまで厚生年金、国民年金などに分かれていた年金制度で全国民共通の基盤を作った点で画期的だった」と評価する一方、「年金制度をめぐってはその後約20年を経て、基礎年金番号に統合されていない『宙に浮いた』年金記録が約5000万件に上ることが2007年に発覚。同年の通常国会は同問題で大荒れとなった」ことと、「吉原元次官が社保庁長官を務めた86-88年当時はちょうど、年金記録管理のオンラインシステムへの切り替えが行われていた時期に当たる。年金記録のミスはオンライン化時に多数発生したとみられている」と、既に国民の殆どが知ることとなっている制度の画期性に反する運営面での杜撰さとその破綻を指摘している。
そして最後の共通点として、「小泉純一郎元首相が2度厚相を務めた時にそれぞれ事務次官だった」ことを上げている。
吉原元次官は厚生省を退官後、社会保険庁長官に天下っているが、山口元次官の方は99年8月に次官退任後、「00年1月に社会福祉・医療事業団にはいり、01年2月に同事業団理事長に就き、今年3月に辞職した」(「asahi.com」)と吉原元次官と同様の天下りの経歴を踏んでいる。
退官後の再就職先は違っていても、2人とも天下りを経ている点で共通点があったことになる。
その行為が正しかろうと正しくなかろうと、実行者側から見た場合、テロなる行為は常に「懲罰」の意図を持たせ、持たせることで成り立たせている。だからイスラム過激派はアメリカ軍や外国人に対するテロ行為、もしくはテロ犯罪を「ジハード(聖戦)」と称して、「ジハード(聖戦)」の名の下、「懲罰」行為として自爆攻撃等を繰返している。
ここにテロの始末に負えなさがある。実行者は常に「懲罰」犯罪を正義の行為としている。
もしこの2つの事件が連続テロ事件だとしたら、テレビでコメンテーターたちが正義の人となって口を揃えるように「卑劣な犯行」だ、「許せない犯行」だと声高く非難しようと、あるいはこういった事件が起きること自体が「国家の危機」だと「国家」を振り回して警告しようと(麻生みたいな総理大臣が存在すること自体の方が「国家の危機」だと思うのだが)、実行者の側からしたら、「懲罰」の意図をその犯行に込めていたことになる。
犯人が犯行声明を出して、その声明の中に犯行動機として「懲罰」の二文字をそのまま書いているか、「懲罰」を匂わせる意味の言葉を記しているか、あるいは逮捕されて「懲罰」が犯行の動機だったと自白して初めてテロ犯罪だったことが判明する。
ではテロ犯罪だったと仮定すると、「懲罰」の対象は何だったかということになる。
「基礎年金の導入」は画期的な業績だったとしても、そのことに反する5000万件に上る年金記録のミスをつくり出して多くの国民に迷惑をかけ、不安に陥れたばかりか、僅かな年金で暮らしている国民が多数いることが明るみに出た上、不景気、原油高等による物価高等で打撃を受けた生活困窮者が多くいる一方で、そういったことにはお構いなしに事務次官退官後天下って、天下り先で高給を取り、さらに高額の退職金を受け取る、生活困窮など毛ほども感じたことがない人間が一方にいることを改めて印象づけた。
考えられることは、そのことの不当性に対する「懲罰」だと言うことなのだろうか。
2007年6月8日の「中日新聞」≪元社保庁7長官 「渡り」収入 計9億円≫によると、厚生労働省の推計として、<1985年8月から98年7月までに在任した歴代社会保険庁長官7人が再就職を繰り返す「渡り」で得た退職金と報酬の合計が9億2861万円、一人当たり約1億3200万円に上るとの推計を公表した。≫と伝えている。
「一人当たり約1億3200万円」と年金10万円以下でかつかつの生活を送る少なくない数の国民の存在。余りにも差があり過ぎるその格差。
最後の共通点である「小泉純一郎元首相が2度厚相を務めた時にそれぞれ事務次官だった」は、格差社会を決定的な形で仕上げた元凶として小泉元首相をキーワードとし、それに加担した共通性を2人に持たせている可能性もある。
上記記事は<最高額は、台帳廃棄が通知された当時長官だった正木馨氏で、長官退職後に四法人から計2億1121万円の報酬と退職金を得ていた。>と、その栄華を伝えている。
その栄華はお手柔らかにを願って差し出す農民からのワイロや年貢米徴収の過程で米を騙し取って財を成し、その財で与力や旗本の家督を買い取って華麗を極める、元々は下級武士でしかなかった江戸時代の年貢米徴収の代官の栄耀栄華を思わせる。
犯人が自己正当化の口実をどう設けようとも、犯罪は犯罪である。歪んだ「懲罰」としか言いようがない。だが、テロの存在自体が社会の矛盾の一端を示しているはずである。
いわば社会の矛盾という歪みに対応する歪んだ犯罪としての「テロ」と言うことだろうから、「テロ」という言葉を口にする以上、「卑劣だ」、「許せない」と非難して正義の人を演ずるだけではなく、犯人の「懲罰」が何に向けれらているかぐらい推測しなければ、テロを存在させることとなっている社会の矛盾とテロそのものを対峙させることはできないのではないか。
厚労省は2件の事件を受けて<現役と歴代幹部の住所リストを警察当局に提出し、警備を要請した。>(「毎日jp」)と言うことだが、警視の酔っ払い運転、跡を絶たない警察官のわいせつ、盗撮行為、住民の捜索願を無視して行方不明者の殺害を防げなかった捜査ミス等々、志気の緩みっぱなしの警察のお粗末な現状を考えると、警察よりも頼りになる「アコム」とかの民間の警備会社に依頼した方がより確かな安全を約束されるのではないだろうかと心配になる。
自分から考える教育のスタートを「朗読劇」に置く
11月16日の当ブログ記事≪橋本知事体罰容認発言/体罰は有効な教育足り得るのか≫で橋下府知事が府民討論会で「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と体罰を教室秩序維持の手段とすることを欲しているかのような発言をしたことに対して、私は記事の最後に<体罰の方向に進むのではなく、例え困難なことではあっても、より多くの生徒の知識欲を満たす方向に進むべく努力すべきなのは確かなことだと言えるのではないだろうか。>と主張した。
その具体的な方法まで述べなかったが、かねてから教師が伝える知識を単になぞって頭に暗記させる生徒の従属性を柱とした知識授受の教育ではなく、生徒に自分の方から自発的に学ぶ姿勢を持たせる生徒自身の能動性に期待する形式の教育への転換の必要性を言い、私自身のHP『市民ひとりひとり』に第9弾「提案します『中学校構造改革』」として02年2月10日にアップロードし、さらに「第128弾」として06年10月2日に『中学校構造改革(提案)』と題名を変えてアップロードし直したが、改めて再度ここで纏めてみて上記ブログでは述べなかった「具体的な方法」としたいと思う。
それは中学校を非義務教育化し、「一教科選択性」のいわば“専門学校化”すると言うものだが、勿論、私自身はそう信じていはいても、これが有用な主張であるかどうかは分からない。そのことは断っておかなければならない。
大体のところは『中学校構造改革(提案)』で書き尽くしているが、その「7.授業改革」の出だしで次のように書いた。
<基本はあくまでも自己責任性を原理とする。自ら学びたい教科を学ばせ、学びたい者だけを受け入れる学校社会とすることによって自己責任性は確立可能となる。
基本的には、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採る。但し他教科への中途転籍を許すこととする。
自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。
さらに譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となるからである。
但し価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるために、入学は無試験とした上で、従来の教科の種類に限定せず、ありとあらゆる可能性(生存機会)の試行錯誤に対応する教科の採用を行い、すべての生徒に自らが選択する可能性(生存機会)に対してチャレンジの機会を与えるものとする。ここが肝心である。
例えばマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のために、マンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。
中学校の非義務教育化と同時に学区制を廃止することで、希望者少数の科目は例え遠隔地となろうとも、通学可能な範囲内で一つの中学校に集めることで一つの纏まったクラスに編成し、協同して勉強に取り組ませることが可能となる。例え通学に時間がかかろうとも、 好きな勉強に打ち込めることと差し引きしたなら、どれほどの苦痛となるだろうか。好きなアイドル歌手の公演にはるか地方から電車や飛行機を乗り継いで駆けつける追っかけファンにとっては、それがどれほどに距離と時間がかかろうとも苦痛ではなく、逆に悦びであるに違いないのと同じである。
それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とすればいい。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で区切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。>・・・・・・・
一方で大学進学を目指す生徒には「進学科」を設けて、それを自己選択させることを提言した。
以上は最初に指摘したように中学校を非義務教育化すると同時に一種の“専門学校化”する(専門の教科を学ばせる)という方法論を主として述べたものだが、要するにテレビゲームでも何でもいい、生徒に自身が学びたい事柄を一つ自己選択させて、それを教科とするということに尽きる。自己選択自体が既に自発性を動機とさせる。自発性を動機としない自己選択は二律背反以外の何ものでもない。他からの強制を隠した自己選択は自己選択の装いを取っていても、真の自己選択とは決して言えない。そのことはすべての生徒に口うるさく伝えなければならない。例え親や友達に相談しても、最終的には自分で選択せよと。
自己選択となったとき、そこに必然的に否応もなく自己責任が伴う。自己責任自体も自発性を構造とする。自己選択とは自己責任行為である。
自分が選択した教科である以上、自分から進んで学び、結果を出すべく努力をしをしなければならない責任が生じるというわけである。
中学校を好きな教科を学ばせる“専門学校化”とする以上、高校もそのような形式に対応させて「進学科」を含めて“専門学校化”しなければならないのは断るまでもない。
日本人は学歴主義・権威主義の行動様式から逃れることはできないだろうから、これまでと同じく願わくば大学卒の学歴、それが叶わなければせめて高校卒の学歴をと願って学歴獲得を目的に上級学校に殺到するための通過地点としてきたように中学が非義務教育化しても、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、学歴獲得の通過地点とすることに変りはなく、誰もが中学入学を目指すに違いない。
だが、小学校の少なくとも5,6年生になると、中学で何を学びたいか、どのような教科を選択するか、自己選択を迫られる。今までのように小学校を終えれば中学に進むものだと機械的に把え、機械的に進学していけば済む問題ではなくなる。学びたい教科、進むべき進路を誰に相談しようと、基本的には自分で考え、自分で決定することが求められる。
いわば自発性の発揮による自発的決定(=自己選択)へと持っていかなければならない。真に自分がしたいこと、学びたいことは親でも分からないだろうし、親に決めさせたのでは小学生5、6年生にもなって一個の人格とは言えなくなる。
自分で考え、自分で決める自己選択を行った以上、積極的に取り組む責任、継続させる責任、学びを深める責任が生じる。簡単には途中で投げ出すことはできないだろう。
いわば、「何を学びたいか」、学びたい教科を一つ自己選択させることで、そこに学ぶことへの自発性及び自己責任性を発動せしめ、そのことによって橋下大阪府知事が言っていた「子どもが走り回って授業にならない」、あるいは女教師がプリント配布中にふざけまわっていて窓から転落死するといった授業時間中の無秩序をなくす「具体的方法」とするということである。
例えばサッカーが好きだから、サッカーを学びたいという生徒への数学はどう教えるのかといった疑問が生じるが、サッカーボールの風という空気抵抗を受けた場合の速度変化、曲がり具合、あるいはどのくらいの力を加えたら、どのくらいの速度と距離をつくり出せるか等々、いくらでも数学を創り出せる。
このような数学はサッカーの競技自体にも役に立つことだから、生徒は興味を持って自発的に学ぶだろうことは十分に考えることができる。
焼き物が好きだからと陶芸科を選んだとしても、器の口と胴体の大きさやふくらみ具合の比率の違い、あるいは高さの比率の違いがれぞれにどういう美しさ・調和を与えるか、その計算を数学問題とすることもできる。あるいは粘土で仕上げた器等を窯に入れて焼くときの火力の違いからの粘土に与える伝わり方の違いも数学となる。
教師も考える、生徒も考える教育となるように思えるが。
自分から考える教育のスタートを「朗読劇」に置く
機会あるごとに言っていることだが、教師が伝える知識を単になぞって頭に暗記させる日本の教育は知識の機械的授受を構造としているゆえに考える意識作用はその構造にはそもそもからして組み込まれていない。考えたりしたら、暗記教育ではなくなってしまう。
いわば暗記教育を施すことによって、日々生徒の考える機会を奪っている。だからこそ、日本の子供は自分で考える力が欠如しているとして、「自分で考え、自分で決定する」という「総合学習」を設ける必要が生じたのだろう。
だが、「学力向上」圧力、と言えば聞こえはいいが、単に「テストの点数上げ」圧力を正体とした「学力向上」圧力に過ぎず、その圧力に負けて、「総合学習」指向は後退してしまった。「テストの点数上げ」が目的だから、学力テストの成績自体を問題として、その公開だ非公開だと騒ぐこととなっている。これはテストの点数で日本の教育を回そうとする教育状況となっているということであろう。
だが、以下のことも何度でも言っているように子供の考える力の欠如は大人の考える力の欠如を受けた、その反映に過ぎない。日本の大人が長らく「マニュアル人間」だとか「横並び思考」だとか言われていることも、考える力の欠如を指していることの譬えに過ぎない。両者とも「他に従う」(=従属)をキーワードとした行動を指し、「自分で考えて自分で決定する」自発性をキーワードとした行動への言及ではないからだ。
教師自体が暗記思考を行動様式とする権威主義に侵されているから、どうしても教科書の内容をなぞった上に自分で考えたものではない、誰かが言っていることをプラスアルファ付け加えただけの知識をただ生徒に伝える機械的な知識授受の暗記教育を歴史とし、文化とし、伝統とすることとなっている。
それを打破する手っ取り早い方法が「朗読劇」ではないだろうか。
小学校1年生から始める。クラスをいくつかのグループに分け、セリフを書いたノートを持たせて教室の前に立たせる。最初は機械的にセリフを読み上げるだけで終わるだろうが、上達させるために何度も繰返していくうちに、自分がセリフで演じる登場人物のセリフそのもからその人物の考え方、あるいは生き方まで学べるし、登場人自ら学び取っていくようになるはずである。
朗読劇終了後、クラスで劇は何を言いたいのか、言いたいことのテーマは何なのか。登場人物の誰それはどのような考え方、人生観の持ち主なのかを議論して、教師の指導で生徒それぞれの考えを深めていく。自分で考えて、自分で答を見い出していくという「考える教育」の機会とする。
10月27日の「毎日jp」が橋下大阪府知事の体罰を容認するかのような発言をしたと次のように伝えていた。
≪橋下知事:「手が出ても仕方がない」体罰容認?発言≫
<大阪府の橋下徹知事は26日、堺市内での府民討論会「大阪の教育を考える」で、「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と述べ、学校での体罰を認めるような発言をした。
約700人が参加し、綛山(かせやま)哲男・府教育長が教育政策案を紹介。ある府民から「学力向上に取り組むのはいいが、成果主義が過ぎると障害児の排除につながらないか」と意見があり、知事は「そんなことにはしない」と答えた。また知事は学校と地域の連携について「子どもを育てる責任は第一に家庭、第二に地域にある」とし、「子どもが走り回って授業にならないのに、注意すれば保護者が怒鳴り込み、頭を小突くと体罰だと騒ぐ。こんなことでは先生が教育をできない」と主張した。
全国学力テストの結果開示を巡っては、知事が「先生の9割は開示に賛成だが、ふたをしてしまおうという先生もいる」と話すと、会場から「ウソをつくな!」などのヤジが飛んだ。
終了後、知事は報道陣に「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と語った。一方、出席した府教育委員は「手を出すことは教育者にとって敗北を意味する」と食い違いを見せた。【平川哲也】>・・・・・・
マスコミは橋本知事の発言を報じたものの、深くは追及せず、その発言が尾を引くことはなかった。言っていることの正当性、あるいは有効性の議論は展開されなかったようだ。
また、「成果主義が過ぎると障害児の排除につながらないか」との疑義に知事は「そんなことにはしない」と答えたものの、「そうはならない」順を追った具体的な理由を述べてはいない。
「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と釘を刺したのは体罰ではなく、教育上の配慮だとしたかったからだろうが、相手の身体に与える罰則であることに変りはない。言葉のみの注意ではその行動を律するに力を持たせることができない無力を補う身体的な力の行使――体罰を指しているはずである。
橋本知事は際限もなく体罰を許すのではなく、「どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と一応は線引きしている。
だが、相手に怪我を与える体罰はいくら教師のすることであっても傷害罪に相当することになるし、怪我を与えずとも一定以上の恐怖与える体罰にしても精神の自由に対する束縛もしくは侵害となって「コンセンサス(合意)」不可能だろうから、怪我をさせない、恐怖を与えない範囲内の体罰を合意事項とせざるを得ない。
となると、橋本知事も言っているように軽く「頭を小突く」とか、あるいはかつて行われていたように少々痛みを感じても皮膚が赤くなる程度で済む突き出させた尻をズボン、あるいはスカートの上から物指しの類で叩くとかの体罰に限定されることになる。
その程度の体罰ならいいだろうと「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を得たとしよう。
だが、体罰を受けるのは生徒自身であって、「地域」の人間でもなければ「家庭」の人間でもない。生徒の承認も必要な「コンセンサス(合意)」だろうから、生徒との間でも「コンセンサス(合意)」を得た体罰ともなる。
合意し、内容が分かっている体罰が果たして有効だろうか。体罰を受ける生徒も、体罰を目にすることになる周囲の生徒たちも分かっている怪我を与えることもない恐怖を与えることもない予定調和内の体罰がどれ程の威力を持つと言うのだろうか。
生徒の中には自分の勲章とするためにわざと教室の秩序を乱して、どの程度か分かっている体罰を受けて得意がる者も出てくる可能性も生じる。
体罰を有効とするには本人にとって不名誉となる、あるいは恥となる身体的苦痛や恐怖を与えてその行動を体罰を与える側の制約下に置き、全面的に支配することが必要となるばかりではく、同時にその体罰が周囲の人間の見せしめとなって、彼らの行動をも律することが条件となる。身体的な力の行使による教室秩序の確立である。
いわば、「子どもが走り回って授業にならない」等の教室の無秩序を改善して秩序を回復する方策として体罰を利用することを前提とするなら、苦痛、あるいは恐怖を以ってして、生徒の行動を支配下に置き、律することが絶対必要条件となる。
但しそういった過度の体罰は例え教師が正しくて生徒が悪くても、相手の反撥を誘い、恨みを買うばかりで、教育的な効果という点では見るべきものは期待できないに違いない。
このような教師対生徒の関係は国家権力が国民の行動を恐怖政治で言いなりに律する関係に相応する。国家権力を批判する国民を令状もなしに政治犯として捕らえ、裁判もなしに収容所にぶち込み拷問を加える、それがいつ誰が対象となるか分からないその恐怖で以て国民を律し、支配する関係である。
かつて世に馳せた「プロ教師」なる人物・河上亮一は自身の著作の『学校崩壊』の中で「怖い教師が必要だ」と“恐怖”を授業秩序維持の力とすることの必要性を説いたが、プロ教師と自称するだけのことはあって「恐怖」こそが生徒の行動を律する最善の方法だと知っていた。もし河上亮一が中学校教師ではなく、国家権力の中枢を占めていたなら、何ら支障のない国家権力の遂行を目指す最善の方法を国民を恐怖で律する恐怖政治に置いたに違いない。「怖い指導者が必要だ」と。
だが、生徒に予測させない過度の体罰が「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を得ることができるかどうかというと、最初に述べたように傷害罪や脅迫罪と紙一重の体罰行為となりかねない危険性を抱えているゆえに、常識的には得ることは不可能であろう。
橋本知事は矛盾したことを言ったに過ぎない。そこまで考える力がないか、教育について何も知らずに言っているに過ぎないか、どちらかだろう。
ただ言えることは、小学校入学当初から教師の制止を聞かずに「子どもが走り回って授業にならない」無秩序を演じるわけではないということである。それが徐々に制止を聞かなくなり、最後には制止は単なる教師の形式的な義務と化す。あるいは制止もしなくなる。
今月11月の4日に川崎市川崎区の市立川中島中学校で校舎4階の教室から1年の男子生徒(12)が転落、死亡した事故にしても同じ構図の無秩序から生じ、たまたま最悪のケースに至った例であろう。
転落死亡した男子生徒は国語担当で担任の女性教諭がプリント配布中に他の生徒数人と遊んでいて、窓際の机の上に乗った際にバランスを崩し、開いていた窓から約12メートル下の校舎南側のコンクリート製通路に落下した(「日刊スポーツ」記事から)ということだが、プリント配布中ということは既に授業に入っていた時間帯である。にも関わらず、席に坐らずに他の生徒共に遊んでいた。窓際の机の上に乗るといったことさえしていた。教師の制止がもはや無効となっていて、制止があるなしに関係なしに動き回っていた様子が窺える。
権威主義の力が強く働いていて子供にとってまだ大人が怖い存在であった間は授業が面白くなくてもただじっと我慢して席に坐っていた。しかし大人が怖い存在ではなくなった現在、授業が面白くなければ、生徒は好き勝手な行動を取る。
教室の秩序を乱す好き勝手な問題行動は授業の面白さのなさの表現行為でもあろう。おとなしく坐っているかいないかの違いがあるだけで、授業に身が入っていない状況に変わりはない。
問題は体罰によって生徒の態度を律するのではなく、生徒たちの知識欲を満たす面白い授業で惹きつけることではないだろうか。
勿論のこと能力差や可能性の違いが存在する以上、すべての生徒の知識欲を満たす授業など不可能であろう。だが、体罰の方向に進むのではなく、例え困難なことではあっても、より多くの生徒の知識欲を満たす方向に進むべく努力すべきなのは確かなことだと言えるのではないだろうか。
先月の10月26日、我が麻生太郎は首相就任後初となる街頭演説を東京は秋葉原駅前で行った。
「こんばんは。麻生太郎です。今から2年前になりますが、2年前まったく同じこの秋葉原で、自由民主党の総裁選挙、あの当時は安倍晋三候補、谷垣禎一候補、そして麻生の3人の候補で、この秋葉原で総裁選挙の街頭遊説をさせていただきました。あのとき、なんだかしりませんが、麻生太郎、アキバではえらく受けた。おかげさまで、あれがブレークして、多くの方々にご支援をいただきましたが、残念ながらとどきませんでした。
そして、今回、私にとりましては再びより、3回目、4回目の挑戦をさせていただいて、結果としてこのたび、自由民主党総裁にならさせていただき、今回はそのお礼もかねてここには、自由民主党総裁として、そして皆さん方から応援してもらったおかげさまをもって内閣総理大臣にもしていただきましたので、御礼かたがた秋葉原にこようと思って、今日はやってきました。自由民主党が、いろんなところで、街頭演説会というのをさせていただいていますが、少なくとも自由民主党が、麻生自由民主党総裁になってから、初めての街頭遊説はまず秋葉原からはじめねばいかん、そう思ってきょうはこの秋葉原にやってきました」(≪【麻生アキバ演説詳報】(1)「お礼かたがた秋葉原に来た」≫msn産経 /2008.10.26 22:48 )
アキバ御用達総理大臣の面目躍如といった内容と名調子である。そして世界から市民権を獲得した日本のアニメ、漫画について次のように熱く、熱く語った。
「知っているか、前にもここで話したけれど、国際マンガ賞は2回目、マンガはついにフランス語になった。みんなコミックなんていわない、マンガという。こういうことは完全に国際語になっていた。それはひとえに、日本のマンガ、アニメーション、そういったもののサブカルチャーといわれるものに世界で圧倒的に夢がある。日本の持っている文化というものは、なにも歌舞伎とか能とか狂言とかそういったものはもちろん、しかしそれよりぜんぜん違ったジャンル、違った分野で、日本のもつサブカルチャーの力というのが、広くアジアに限らずヨーロッパでもアメリカでも中南米でも広く読まれるようになり、いろんなマンガが右開きで、左じゃないよ、右開きで吹き出しだけが横文字になって、あとは全部日本語。
雨が降ってあるところはしとしと、ざーざーってローマ字で書いてあるからね。おれは最初何語かな、と思って、ああ日本語だと、そう思うくらい。これは間違いなく日本語が普及しているんですよ。いま日本語を習っている人は中国でものすごい数にふえてきた。ひとえにマンガを原語で読みたいから。アニメーションを日本語で見てわかりたいから。こういったものが結果として日本というものを、強くわれわれに与えた影響としてわれわれ日本人が思っている以上に。つい日本語の話が聞いて頂ければと思ってさしていただきました。
ぜひ今日、ここに足を運んでいただいた方々、なにもアキバにしょっちゅう、しょっちゅうおられる方ばかりではなさそう。いろんな世界の方がいらっしゃる。しかし、ぜひ皆さん方に分かっていただきたいと思っているのは、この日本という国はわれわれが思っている以上に、日本のマスコミが書く以上に、意外と世界の評価が高い。ぜひ、世界においてこれから最も期待をされている国は何たって日本人だと、そういう絶対の自信をもってわれわれは進んでいきたいと思っております」・・・・・・・・
聞く者から見たら、アニメを乗り移らせ、マンガを乗り移らせてアニメの化身、マンガの化身と化した如き熱弁ではなかったろうか。アニメ、マンガを語らせたら、日本の政界で右に出る者はいない。左に出る者は何人かいるだろうが――確かこれ古い漫才のギャグだったと思う。
マンガ、アニメが麻生太郎の知性と化し、脳ミソと化して、知性・脳ミソがマンガ化を遂げ、アニメ化を遂げることとなった。
なぜなのか、「知っているか」。首相就任時から福田政権発足時よりも支持率は低く、いざ政権担当となったら、政策はコロコロ変る、リーダーシップはない、そのくせ高級ホテル通いは一人前だと支持率は下がる一方、人気は低迷、唯一人気を実感できる場所がアキバしかなくなった。
その結果、時間の経過と共にアニメ・マンガに傾倒していかざるを得なかった、どっぷりとアニメ・マンガ漬けとならざるを得なかったから、麻生の知性・脳ミソ自体がマンガ化・アニメ化してしまったと言ったところだろう。
その恐るべき成果に違いない。≪麻生首相:漢字は苦手? 頻繁に読み間違い≫(「毎日jp」 2008年11月13日)
◇頻繁(ひんぱん)→はんざつ/踏襲(とうしゅう)→ふしゅう
<国会答弁やあいさつで、麻生太郎首相の漢字の読み間違いが目立っている。12日に母校の学習院大学で行われた日中交流行事のあいさつで、用意された原稿では日中首脳会談に関し「1年のうちにこれだけ頻繁に首脳が往来したのは過去に例がない」とあったが、「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」と読み誤った。
7日の参院本会議では、政府が過去のアジア諸国への侵略行為を謝罪した「村山談話」を「踏襲(とうしゅう)」と言うべきところを「ふしゅう」と答弁した。
首相は12日夜、記者団から「読み間違いが多いという印象がある」と指摘され、「そうですか。単なる読み間違い」と答えた。【塙和也】>・・・・・・・
テレビでは四川省大地震を「未だかつて経験したことがない」という意味で「みぞう」(「未曾有」)と言うところを「みぞゆう」と形容したとも伝えている。
マンガ、アニメに難しい漢字は似合わない。何てたってサブカルチャー、若者文化なのだから。マンガ好き、アニメ好きが高じて、知性・脳ミソがマンガ化を遂げ、アニメ化を遂げることとなって若者の漢字理解能力に近づいてしまった結果の「読み間違え」なのだ、ゼッタイ。
誰でも読めるような簡単明快な漢字を読み間違えるスザンヌとか木下優樹菜とかの女性タレント、おバカキャラが愛嬌があって憎めなくて大好きで彼女たちが出演しているテレビをよく見るが、となると麻生太郎も好きにならなければならないおバカキャラと言うことになるが、おバカキャラが許される範囲はやはりテレビタレントどまりだろうから、麻生太郎までを好きになるわけにいかない。
だが、麻生太郎としたら、折角アニメ化・マンガ化を遂げた知性・脳ミソを財産としたのである、縋る最後の砦はサブカルチャーの聖地アキバ。アキバ御用達の総理大臣として支持率回復・人気回復の手立てにマンガ、アニメを利用しない手はない。アニメ・マンガを学校教育にも持ち込み、教科書はすべてアニメ・マンガの類とし、授業が誰にでも理解でき、誰もが簡単に飛びつくことができるように麻生の存在自体みたいに内容を軽くする。
テスト問題も漢字を読めなくても絵を見れば誰もが簡単に解けるように教科書のマンガ・アニメから出す。我が子のテストの成績が格段に上がったと父兄・母親は飛び上がって喜んで、アキバの若者男女に限らず、麻生様、麻生様々で人気回復、支持率アップは間違いなし。
だが、その代償にやがては子供たちの知性も脳ミソもアニメ化・マンガ化して、アキバを知らずとも、行ったことがなくても、アキバ文化の精神的住人と化していく。
やがて子供たちはアニメ・マンガから獲得したアニメそのものの才能、マンガそのものの想像性を世界に「はんざつ」(頻繁)に発信するようになる。後に続く子供たちが「ふしゅう」(踏襲)していく。そして日本の子供たちのアニメ知性・マンガ脳ミソが「最も期待をされている国は何たって日本人だと」世界的に市民権を獲得していく。メデタシ、メデタシ。麻生も優秀・「みぞゆう」(「未曾有」)な総理大臣として日本の政治史に名を残す。
東京一極集中は日本人全体でつくり上げた社会体制
11月11日「asahi.com」記事によると、≪井戸・兵庫県知事「関東大震災が起こればチャンス」≫と近畿ブロック知事会議(11日和歌山市開催)で関東大震災発生に期待を寄せたそうだ。
私もその一人だが、いくら宝くじを買っても当たらない人間がいる一方で、かなりの確率で当選する人間がいる。人それぞれの当選の確率は期待実現の確率だから、もし井戸知事の期待実現の確率が高ければ、関東圏の住人は早々に首都圏直下型地震に備えた方がいい。大地震の前に1万や2万の定額給付金など役に立たないだろう。
上記「asahi.com」記事は井戸知事の「発言要旨」を次のように伝えている。
<まず、東京一極集中をどうやって打破するかという旗を揚げないといけない。物理的には、関東大震災なんかが起これば相当ダメージを受ける。これはチャンスですね。チャンスを生かす、そのための準備をしておかないといけない。機能的には、金融なんです。金融とマスコミが東京一極集中になっている。東京にいった企業をもう一度、関西に戻せというカムバック作戦を展開していく必要がある。(中略)そういう意味では、防災首都機能を関西が引き受けられるように、あるいは第2首都機能を関西が引き受けられるような準備をしておかないといけない。>――
「関西経済の活性化を論じる中で」の発言だと記事は解説しているが、発言の意図は人の不幸を踏み台にして自分の幸せ――「関西経済の活性化」を図る類の発想となっている。
関東大震災が発生して「ダメージ」(被害)を引き起こすことを前提に、それを「チャンス」だと条件づけているからだ。
東京都の石原慎太郎都知事も同じことを言っている。「ま、役人の浅知恵だね。他人の不幸をチャンスとして(鼻で笑いながら)、喜んじゃあいないんだろうけど、そういう表現てのは、ま、日本人の感性にやっぱり馴染まないよね」(11月12日NHK「ニュースセブン」)
「馴染まない」のは 「日本人の感性」に限ったことではないだろう。「日本人の感性に」と限定して「馴染まない」とするこの言葉には「日本人の感性」は特別だとする優越意識を潜ませている。「日本人の感性」が特別なものではないことは石原慎太郎自身が証明していることではないか。
井戸知事の「関西経済の活性化」が地震発生を前提としているから、「そのための準備」は地震が発生しなければ、絵に描いた餅で終わることになる。例え「防災首都機能を関西が引き受けられるように、あるいは第2首都機能を関西が引き受けられるような準備をして」おいて、いざ首都直下型大地震が起きよと待ち構えたとしても、真夜中のお百度参りを百万遍貫徹したとしたしても、起きないことには東京一極集中はさらなる肥大化の方向に向けて増殖し続けることになるだろう。
それを阻止するためには、かなり過激な唆しとなるが、明治維新前の薩長が天皇を利用した前例に倣って天皇を拉致・誘拐して大阪城にでも閉じ込め、「天皇は関西にあり」とでも宣言すれば、大阪は一極集中の拠点となり得る可能性は生じるが、それだけの過激性も覚悟も井戸知事は持ち合わせてはいまい。
11日の夜になって井戸知事は「発言の真意」申し開きの釈明記者会見を開いている。
「東京一極集中へのリスクの高まりと、リスクへの備えを(事前に)引き受けるのが関西のチャンスになるという意味だ。・・・・・言葉づかいが適切でなかったことは反省しなければならない」(同「asahi.com」記事)
記事は釈明したものの、「発言は撤回しなかった」と解説している。
当時東大理学部助手だった人物が東海地震説を唱えた1970年代半ば頃だったと思うが、知り合いの大工が不況でまるきり仕事がないことを嘆いて、「地震が起きれば、いくらでも仕事が出てくるんだが」と言っていたのを聞いたことがあるが、大工にしたら仕事の創出を地震の発生に縋るくらいだったから内心では切実な地震待望論だったろうが、同時に起こるであろう他人の不幸(死や身体障害といった生命の消滅、損壊、家の倒壊や消失等による財産の喪失)にまで考えが及ばない点は井戸県知事と同じだが、違う点はそれぞれが置かれている立場であろう。
大工は女房子供のいる一生活人に過ぎないが、井戸県知事は県民の生活を預かる公の立場に立っている。阪神・淡路大地震の不幸に一度見舞われている県民もいるだろうし、再び見舞われない保証はない。
井戸知事は自らがアイデアとした「関西経済の活性化」の「備え」が「関東大震災」発生を前提とし、それを「チャンス」だと条件づける心得違い以外にも重大な間違いを犯している。
首都圏直下型地震が発生して日本の首都東京が壊滅的な打撃を受けたとしても、復興を成し遂げたとき、再び東京は一極集中化し、例え関西が東京復興まで「防災首都機能」、あるいは「第2首都機能」を引受けたとしても、一時的な局面で終わりを遂げ、すべては徒花(あだばな)となるだろうということである。
なぜなら人間や物事を価値づけるに家柄や地位、学歴、才能、財産その他を上下・優劣・多寡で計り、常に比較上位に対してより多くの価値を、ときには絶対的な価値を付与して権威づける日本人の権威主義が日本の都市に於ける最上・最大の権威を日本の首都である東京に置いて、そこから一歩も出れないでいるからだ。
いわば日本人全体で作り上げた「東京一極集中」であり、その権威主義は例え東京という都市が地震によって見るも無残に壊滅しようが、復興を果たしさえすれば、再び日本人全体の力で東京に再び権威を復権させ、東京一極集中を再度確立することになるだろう。
個々の大学生の資質や才能のそれぞれのよさ、利点、あるいは可能性を評価の基準とせずに東京大学という大学そのものに、あるいは東京大学という名前そのものに最大の権威を与えてすべての大学の頂点に立たしめて権威づける上下・優劣の権威主義性を学生の人間的価値を計測する価値判断にまで広げているように東京という都市そのものに、あるいは東京という名前そのものに最大・最上の権威を置いている。
トヨタ自動車も同じである。発祥の地愛知県の豊田市に本社を構えながら、東京にも本社を構えている。官公庁との交渉窓口が必要だと言うだけのことなら東京支店でもいいはずだが、一つでいいはずの本社を二つも置き、その一つを東京に置いているのは日本の都市の中で東京に最大の権威を置いていて、その権威性を纏わせる意味からの東京本社であろう。
松下電工改めパナソニック電工は関西を発祥の地とし、発展拡大の地としながら、なぜ東京に本社を構える必要があるのだろうか。東京に本社を置くことで大企業としての格好がつくからだろう。日本では大企業の体裁を整える重要な条件に東京に本社を置くことが必要事項となっている。東京という都市、名前に権威を持たせているからだろう。
だが、そのことは同時に東京という権威の下に自らを立たしめて、その権威を身に纏わせ、自らの権威の一部とすることでもある。東京大学出身者が東京大学という学歴を誇って自らの存在性を優秀だと権威づけるように。
かくも権威主義が日本人を捕捉している。その権威主義からの脱却を図らなければ、首都圏直下型大地震が起ころうと起こるまいと「東京一極集中」は日本の風景であり続ける。「東京一極集中」のみならず、都市を上に置き、地方を下に置く権威主義的価値観としてある「都市集中」も、大企業を上に置き、中小零細企業を下に置く権威主義的価値観が生じせしめている「大企業上位」も日本の風景であり続ける。
犯罪を犯した会社人間は刑務所の中でも例え異なる会社勤めであっても会社世界での部長とか課長とかの地位に準じて上下の序列・待遇が決まるということだが、これも人間の価値を地位等の上下・優劣で図る権威主義性を纏っているからこそ可能となっている日本の風景であろう。
こういったことに気づかないまま、「東京一極集中へのリスクの高まりと、リスクへの備え」をいくら言っても、何も始まらないに違いない。東京に本社を置くことは日本では最大のステータスシンボル、最大の権威獲得なのだから、井戸知事が地震が起きるぞ、起きるぞと狼と少年の役割を熱心に演じて「こっちの水は甘いぞ」といくら誘いをかけたとしても、東京から本社を引き上げる企業など出てはこまい。
(参考引用)井戸・兵庫県知事「関東大震災が起こればチャンス」(asahi.com/2008年11月11日)
兵庫県の井戸敏三知事は11日、和歌山市で開かれた近畿ブロック知事会議で、関西経済の活性化を論じる中で、「関東大震災はチャンス」などと述べた。首都圏の災害時における関西の補完機能の重要性を指摘した内容だったが、他都市の被害を歓迎するように取られかねない発言に、参加した各知事からは「不適切だ」との声が上がった。
井戸知事は11日夜、神戸市内で記者会見し、発言の真意について「東京一極集中へのリスクの高まりと、リスクへの備えを(事前に)引き受けるのが関西のチャンスになるという意味だ」と説明。「言葉づかいが適切でなかったことは反省しなければならない」と述べたが、発言は撤回しなかった。
会議には近畿2府4県と福井、鳥取、徳島、三重の知事と副知事が出席。井戸知事は「東京一極集中を打破するための旗を揚げなければならない」と前置きしたうえで、「関東大震災なんかが起これば(首都圏は)相当ダメージを受ける。これはチャンス」と発言。さらに「首都機能を関西が引き受けられる準備をしておかないといけない」などと述べた。
井戸知事は会議途中で公務のため退席。会議後の記者会見で、鳥取県の平井伸治知事は「阪神大震災の被災県である兵庫県の井戸知事だからこそ、表現については訂正するべきだ」。大阪府の橋下徹知事は「(首都機能の)バックアップ機能が必要だという真意は、全知事がわかっている。でも、不適切な発言ばかりやっている僕から見ても不適切だった」と疑問を呈した。
井戸知事は旧自治省で大臣官房審議官などを経て、阪神大震災の翌年の96年に兵庫県副知事に就任した。01年に初当選して現在2期目。
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〈井戸敏三・兵庫県知事の発言要旨〉
まず、東京一極集中をどうやって打破するかという旗を揚げないといけない。物理的には、関東大震災なんかが起これば相当ダメージを受ける。これはチャンスですね。チャンスを生かす、そのための準備をしておかないといけない。機能的には、金融なんです。金融とマスコミが東京一極集中になっている。東京にいった企業をもう一度、関西に戻せというカムバック作戦を展開していく必要がある。(中略)そういう意味では、防災首都機能を関西が引き受けられるように、あるいは第2首都機能を関西が引き受けられるような準備をしておかないといけない。
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「関東大震災が起きれば、(関西経済に)チャンス」。首都圏の大地震発生に期待を寄せるかのような兵庫県の井戸敏三知事の発言に、防災に携わるボランティアらからは批判の声が相次いだ。
神戸市の阪神大震災の復興公営住宅で高齢被災者の見守り活動を続ける市民グループの東條健司代表(68)は「完全な失言。関西が政治や経済の中心になるために地震が起きて欲しいと思っているように聞こえる」と絶句した。国内外の被災地で支援を続けるNPO法人理事長の黒田裕子さんも「関東に地震が起きれば、関西がそれ見たことかと喜んでいるように聞こえてしまう」と残念がる。
首都直下地震をシミュレーションした小説「M8」などの著書のある神戸市在住の作家、高嶋哲夫氏は「兵庫は地震の悲惨さを一番、身にしみている県であり、全国から支援を受け、やっと立ち直ってきた立場。ほかの地域の被害を利用しようというのは、口が裂けても言うべきではない」と批判する。
神戸市幹部も「阪神大震災当時、真っ先に神戸に駆けつけてくれたのが関東のボランティアだった。そのことを考えると言葉を失う」とあきれる。
一方、阪神大震災の犠牲者遺族らでつくるNPO法人元理事長、白木利周(とし・ひろ)さんは「不適切な感じはしない。地震が発生すれば大阪や兵庫が団結して復興に当たり、関西の活性化にもつなげるという意味だと思う」と理解を示した。
しかし、東京都のある幹部は「震災を経験した県の知事にあるまじき発言。関西圏の繁栄を目指すのはいいが、あまりに視野が狭い」とあきれる。昨年4月には、石原慎太郎都知事が阪神大震災を巡って「(自衛隊の派遣を要請する)首長の判断が遅かったから2千人余計に亡くなった」と発言。井戸知事が「失礼な発言だ」と反論した経緯がある。このため、都庁内には「今回の発言は、石原知事発言への意趣返しでは」と受け止める幹部もいる。