国策に基づいた国民の過去の一定の行為を国家への功績と認めることは過去のその国家体制を肯定していることによって可能となる。その国家体制を否定していたなら、肯定は不可能となる。特にその国策が杜撰な計画に基づいた戦争によって受けた戦死ということなら、国家に対する功績者とは見ずに逆に国家による犠牲者と見ることになるだろう。
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円) |
戦後の日本で戦前の戦争の性格や内容を考えずに戦死を殉難と位置づけて、その国策もそれを生み出した国家体制をも肯定する国民が多く存在する。しかし日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織「陸軍省戦争経済研究班」(秋丸次朗陸軍主計中佐が責任者だったことから秋丸機関と呼称されていたという)が作成したアメリカ国力の調査報告書の内容は杜撰で、過小評価オンパレードとなっていて、杜撰な国力評価に基づいた対米英戦争計画が招いた日本約310万戦死、アメリカ約29万戦死、イギリス約14万戦死の圧倒的差だけではなく、日本約310万戦死のうちの約6割が戦闘死ではなく、圧倒的な戦力の差を見せつけられてジャングルに敗走し、食糧の補給を受けられずに命を絶つ餓死だというから、多くが犬死にに等しい戦死結果だった。
断るまでもなく、「犬死に」と「殉難」とは意味が違う。「犬死に」は「無駄に死ぬこと」を言い、「殉難」は「国家のために一身を犠牲にすること」を言う。太平洋戦争の日本軍戦死者の本人や周囲は国のための犠牲と思っていても、実質的には犠牲といった雄々しく、尊い振舞いを許される状況下で死に向かったわけではない。米国力過小評価に基づいた戦前国家の杜撰な戦争計画であった上に仮定的な希望的観測を拠り所とした作戦の見通しと合理性を欠いた精神論を主体とした訓練で手に入れた、実戦には役立たない戦闘能力を力に米軍に遥かに劣る物量と軽視された兵站での惨めな戦いを強いられて、それでもほんの最初は勢いは良かったが、日米開戦1941年12月8日から半年後の1942年6月初旬のミッドウェー海戦と同年8月初旬のガダルカナル島攻防戦敗退で日本軍は制空海権をほぼ失い、1943年5月のアリューシャン列島アッツ島の戦いでは日本軍守備隊3000人弱のうち90%近くが戦死のほぼ全滅状態となると、大本営はその全滅を「玉砕」と発表、あくまでも雄々しく勇ましい戦いであったかのように見せかけたが、以降、なし崩し的に敗退の道を突き進むことになった。
大体が勝つ見込みは陸海軍首脳と政府首脳の頭の中にのみ存在した期待上の計算であって、現実世界とは合致しない架空の計算とは気づかないままに戦争を始め、頭の中に存在させた計算とは異なる現実の展開に立ち止まることはせずに頭の中の計算に縋るのみで勝つ見込みのない戦争を兵士になお押し付けて、結果として犠牲を積み重ねていき、尊い命扱いはしていないのだから、兵士のその死を玉砕としたり、お国のために尊い命を捧げたとするのは実態とは掛け離れた不毛そのものの誤魔化しであり、非生産的で意味を成さない。
にも関わらず、玉砕と名付けたり、「尊い命を捧げた」国への犠牲とするのは実際には不毛で非生産的な死を国家にとっては意義ある死と思わせることで、国家の価値そのものに有意義性を与える意図があるからだろう。日本軍兵士の勇猛果敢さを演出して、自他に対しての敗退のショックを和らげると同時に日本軍にまだまだ勢いのあるところを見せて国民に安心を与える精神的手当からだろうが、それで追いつかなくなると、大本営は虚偽発表で戦果を補い、日本軍の強さを宣伝することになるが、そういった見せかけとは反比例して兵士の死の実態は玉砕だ、尊い命を捧げるだとは遠く掛け離れた悲惨な姿へと変えていったことを歴史が教えている。
だが、そのような惨めな戦いを強いられて不本意な戦死を遂げた兵士が戦前国家の杜撰な戦争計画を蚊帳の外に置いたまま靖国神社に祀られ、英霊だ、殉国の志だ、お国のために尊い命を捧げたと称賛の対象とされる。
その称賛によって結果として、それが日本の保守的な歴史修正主義者が主張するように例え自存自衛の戦争だったとしても、戦前国家の杜撰な戦争計画に基づいた勝ち目のない戦争そのものであった事実は変えようがないのだが、安倍晋三や高市早苗等、靖国神社参拝の常連政治家はその事実に気づくだけの人間的な共感は備えていない。
日本軍は1941年(昭和16年)7月29日に現在のベトナム・ラオス・カンボジアを併せたフランス領インドシナに石油や鉱物などの資源、米などの食糧の確保を目的に無血進駐した。本国のフランスは1940年6月にナチスドイツ軍がパリに到達し、6月22日にドイツと休戦協定を締結、国土の北部半分をドイツが占領、南半分はドイツ傀儡政権が誕生し、本国からの支援は望めない状況下にあったことが可能とした無血進駐であった。
アメリカはこの日本軍の軍事行動に対抗して在米日本資産の凍結、石油の全面禁輸という経済制裁を課した。軍備・編成、国防政策担当の海軍軍務局長の岡敬純(たかずみ)少将が「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」と言ったとの記録が残っていると言う。
要するに日本軍全体が最悪の事態を想定してそのことに備える危機管理に関わる戦略を機能させることができずにいたことを証明することになる。この証明は、当然、長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法論としての総合的な戦略の構築にも影響を与えて、どこかに隙や弛み、手抜かりを生じせしめることになる。危機管理意識を欠いた組織に満足のいく総合的な戦略など描くことは不可能だからだ。
アメリカから石油禁輸を受けた日本は石油、その他の資源を求めて南方の領土掌握を目指すことになる。蘭印(オランダ領東インド―現在のインドネシアのほぼ全域)の占領までを簡単な時系列で見てみる。
1941年(昭和16年)9月6日の第6回御前会議。
帝国は自存自衛を全うするために対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整すことを決定。
1941年11月5日の第7回御前会議を挟んで――
1941年12月1日 第8回御前会議
対米英蘭開戦決定。
1941年(昭和16年)12月8日真珠湾攻撃、対米開戦。
日米開戦によって、日独伊三国同盟の規定に従い、ドイツとイタリアはアメリカに宣戦布告。
アメリカは太西洋戦線に自動的に参戦。
1942年(昭和17年)1月10日日本南方作戦決定。
1942年(昭和17年)1月11日に蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)に侵攻。約2
ヶ月後の3月9日に占領。
日本はアメリカが太西洋戦線に自動参戦することで、太平洋地域の米軍戦力の分散を想定、自らを優位に立てる戦略に基づいた作戦を組んだ。その戦略どおりに作戦が進んだかどうか見てみる。
《日本軍政下の南方石油―スマトラを事例として》(金光男:茨城大学人文学部)
1942年占領の初年度には占領インドネシア現地での日本企業経営の石油生産量は日本とオランダ戦争前のオランダ企業経営の約半分量を回復、2年目にはほぼ開戦前の生産水準に達した。1943 (昭和18)年の原油年産量は約400万キロリットルまで回復。これは当時日本国内の総需要量の殆どを賄うほどの膨大な量であった。要するにアメリカの禁輸措置によって受ける日本のダメージをほぼゼロに戻した。
石油生産量の回復と共に日本内地への輸送を開始。占領1942年度から1943年にかけて内地還送量が順調に増加したものの、1944年に入ると急落し、1945年(昭和20年)には皆無となる。
理由は南方での軍•民の消費量の増加からではなく、連合軍による製油所爆撃とタンカー撃沈による消失からだという。要するにアメリカの対独参戦によって太平洋戦域での米軍の軍事力が分散されると予想していたが、軍用艦と軍用機の生産能力に日米間に圧倒的な差があり、軍事力の分散を吸収して、なお余りある軍事的優位を打ち立てることができたからだという。
要するに日本政府と軍部は米国の軍事物資の生産能力と兵員確保能力を見誤った。当然、アメリカの対独参戦を受けたその兵力分散を想定して打ち立てた戦争計画そのものが最初から欠陥を抱えていたことになり、その欠陥が戦略そのものに影響、無惨な結果を招いたことになる。
鉄屑の供出は1941年(昭和16年)12月8日の対米開戦よりも3ヶ月も前の1941年(昭和16年)9月1日から実施の「金属類回収令」によって始まり、鉄屑だけに収まらずに現実に使用中の金属製品までが供出の対象となっていったという自国の軍事物資の貧困に追い打ちをかける相手能力の過小評価という問題点を抱えていた。
日本軍の1940年(昭和15年)9月23日の北部仏印進駐の制裁措置としてアメリカが翌月10月16日に日本への屑鉄輸出を全面禁止した結果を受けての屑鉄の供出だが、このように資源貧国日本と比較してアメリカは対独戦も引き受けることができ、対日戦も引き受けることができる資源大国であり、経済大国であったが、杜撰な戦争計画によって勝算を見込むことになり、その見込み違いによって多くの兵士に犠牲を強いた。
想定そのものを間違えた戦争で受けた兵士の死は 玉砕とかお国のために尊い命を捧げた、天皇のために尊い命を犠牲にした、あるいは国策に殉じたとは決して形容できない。杜撰で愚かな戦争計画のために尊い命を犬死にさせられたと形容すべきだろう。
当然、靖国神社を参拝して、その死を、いわばよくぞ戦ったと讃える行為は戦争の実態から目を背け、あるいは戦争の実態を免罪し、逆にその戦争を止むを得ないことだったと正当性を与えて国家を免罪する姿勢と言うほかない。
杜撰な戦争計画であったことをネットで探した資料を使って証明していく。
「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」(牧野邦昭/摂南大学)に、〈1940年冬、参謀本部は陸軍省整備局戦備課に1941年春季の対英米開戦を想定して物的国力の検討を要求した。これに対し戦備課長の岡田菊三郎大佐は1941年1月18日に「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判断していた。〉とある。
要するに1940年冬に「短期戦(2年以内)」+「対ソ戦回避」を条件に対米英戦勝利可能説を打ち立てていた。当然、対米英戦争計画はこの可能説に基づいて組み立てられることになったはずだ。
だが、現実の対米英戦は「短期戦(2年以内)」を机上の空論で終わらせた。対ソ戦回避については、ソ連が日ソ中立条約(1941年4月25日発効、1946年4月24日まで5年間有効)を一方的に破棄して対日参戦したのは対米英戦開始1941年12月8日から3年8ヶ月後、広島原爆投下2日後の1945(昭和20)年8月8日で、最後の最後の場面であるから、形勢逆転のトドメの一撃になったというわけではないだろうが、約1ヶ月という短い期間で満洲国や朝鮮北部の制圧を受けたのは日本軍の主力を南方戦線の守りに回していたからだという。にも関わらず米英の戦力に太刀打ちできなかったのはアメリカの国力を過小評価したからで、過小評価は往々にして自己過大評価の反動として現れる。
多分、日本の神国思想に基づいた日本民族優越意識が合理的認識能力の目を曇らせることになった可能性は疑えない。だが、天皇の大本の子孫を神として、昭和天皇を1937年(昭和12年)の「国体の本義」で現人神と宣伝するようになり、軍部や政府の天皇に対する実際の扱いと神国思想から発した日本民族優越意識とは矛盾することなるのだが、軍部にしても、政府にしても矛盾なく受け入れていて、日本民族優越意識を自分たちの精神性としていた。
この軍部、政府の天皇に対する実際の扱いはまたあとで述べることにする。
ソ連は要するに形勢を見極めた上で勝ち馬に乗ったということなのだろう。日本はソ連参戦で北方四島まで占領されることになり、泣きっ面にハチのトドメの一撃を受けることになった。
陸軍省戦争経済研究班が行った対米英国力調査がどのように杜撰な内容を取ることになったのか、その杜撰さが多くの兵士を玉砕とか殉死といった勇壮果敢さは微塵もない犬死に同然の無惨な死に向かわせ、悲惨な敗戦という現実を与えることになったのだが、同じ牧野邦昭摂南大学教授の著作(現在慶應義塾大学経済学教授)、『英米合作経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)から窺ってみる。和数字は算用数字に変えた。
〈アメリカの経済抗戦力については「第4章 第8節 結論」で次のように述べられている(70ページ)。
以上の検討よりして我々は米国につきその経済抗戦力の大いさ(ママ)を次の如く判決することを得る。
1、米国は動員兵力250万、戦費200億弗の規模の戦争遂行に充分堪えることが出来る。しかもそれがためには、準軍需産業の転換並びに動員可能の労力1千万中600万人をもつて遊休設備を運転することによつて充分である。
2、米国はその潜在力を十分に発揮し得る時期に於いては、軍需資材128億弗の供給余力を有するに至る。併し之がためには設備の新設拡張を要するから、1年乃至1年半の期間を前提とする。〉――
「1」の想定の妥当性を次の記事から見てみる。
「レファレンス協同データベース」(近畿大学中央図書館 (3310037) 管理番号 20140418-1)
〈アメリカ軍が第2次大戦で投入した戦力を総括する統計数値として、1,635万人もの戦時動員数や108万人の死傷者数と6,640億㌦の総戦費などをあげて、アメリカが闘った他の戦争と比較総括した資料が見つかりますが、WWⅡ(「World WarⅡ」(第二次世界大戦)の略)でのヨーロッパ戦線と太平洋戦線ごとに分けた戦力数や、各兵器ごとの総量については見つかりませんでした。〉――
アメリカ軍が太平洋戦線と大西洋戦線の第2次大戦で投入した1,635万人の戦時動員数と6,640億㌦の総戦費を半分と見ても、太平洋での戦時動員数820万人、戦費3320億ドルとなり、4分の1と見ても410万人、1660億ドルであって、秋丸機関の想定、〈米国は動員兵力250万、戦費200億弗の規模の戦争遂行に充分堪えることが出来る。〉は国力、戦力共に過小評価していたことになるだけだけではなく、もしこれにイギリスが太平洋戦線に向けることのできる戦時動員数と戦費を加えたなら、話にならないくらいの過小評価となる。
このことは戦時動員数と戦費が戦争遂行上の重要な要素を占める点ということだけではなく、調査・報告がアメリカの諸々の国力から導き出しているはずの関係から、報告書の全体的傾向を示す過小評価の可能性は否定できない。
自分よりも能力の高い対象と自身の能力を比較しようとすると、相手の能力を自分の能力に近づけたくなる心理が働く傾向が往々にして生じる。
このような心理が働いたことなのかどうかは分からないが、いずれにして過小評価で成り立たせた勝敗決着の想定であり、その想定に基づいて打ち立てた戦争計画によって多くの兵士を死に向かわせ、靖国神社に祀り、「お国のために尊い命を捧げた」、「国策に殉じた」としていることになるが、他の能力に対する過小評価は自己の能力への過大評価が生み出す心理現象であって、自らの国力を過信した戦前日本国家の過ちに対する指摘、あるいは思いは安倍晋三や高市早苗、その他の靖国参拝からは見えてこない。
「2」の米国の「軍需資材128億弗の供給余力を有する」時期を「1年乃至1年半の期間を前提とする」と見立てた点についての妥当性は、既に触れているように日米開戦1941年12月8日から半年後の1942年6月初旬のミッドウェー海戦と同年8月初旬のガダルカナル島攻防戦の敗退で日本軍は制空海権を失い、劣勢に立たされ、その劣勢を一度も跳ね返すことなく敗戦に追い込まれていった現実は米国の軍需資材供給余力の数値に関係せずに「1年乃至1年半」を待たずに「潜在力」を顕在化させ、見せつけたのだから、この点からも報告書はアメリカの国力に対する過小評価で成り立たせていたことになり、過小評価からは満足な戦争計画は立てることはできないし、結果としての各戦術も戦略も欠陥を抱えることになる。その答が杜撰な戦争計画ということになったはずだ。
次に「4」を見てみる。
〈4、英国船舶月平均50万噸以上の撃沈は、米国の対英援助を無効ならしめるに充分である。蓋し英米合作の造船能力は1943年に於いて年600万噸を多く超えることはないと考へられるからである。〉――
1941年12月に対米英戦争開始から1943年の2年間を限度とした英米の造船能力は「英国船舶月平均50万噸以上の撃沈」×12ヶ月=600万噸撃沈に対して「年600万噸を多く超えることはない」、いわば英海軍のトン数の原状回復が精々で、その状況での米英海軍には太刀打ちできると計算していた。
そして米英軍のその他の戦争遂行に必要な能力の準備についても、「1年乃至1年半の期間」と見ていて、「短期戦(2年以内)」なら勝利は見込めると計算したのだろう。
この計算の妥当性を、『比較戦争経済史―潜水艦と造船の戦いを中心に―』(荒川憲一著)から見てみる。
〈本テーマに関連した先行研究の権威であり、当時の日本の戦争経済の解剖書といわれる「米国戦略爆撃調査団報告書」では、戦時の日本の造船が米国に比較して相対的に停滞した原因を、建造速度に焦点をあて、次のように結論している。日本の造船の建造速度が遅い原因は「日本労働者の平均技量の低い水準による基本的な制約、造船所が使用した窮屈な地域、能力の大きいクレーンと装置の欠如、日本の工業技術と経営が想像力に欠けたこと」にあるとし「労働力の不足には悩まされなかった」としている。〉――
つまり日本の造船分野は十分な労働力に恵まれていたが、労働者個々の技量の低さや日本の工業技術の低水準、そして活用余地が制約された土地条件や資本設備の貧しさ、全体としての日本の工業技術と経営に対する想像力不足等の影響が日本の造船の建造速度の遅い要因と見ていた。
この調査団報告書は戦後に行われたものだが、アメリカも日本の国力を調査していたはずで、どう戦うかについてはより正確な敵国力調査が必要となり、調査内容の正確さが勝負のポイントとなる。生産性の低さと技術革新の遅れは日本の造船業に限ったことではなく、日本の工業のほぼ全般に関係している問題点となり、日米全体の国力の差に関係していくことになる。
では、『日本海軍の防備体制-対潜戦、機雷戦の観点から-』(防衛研究所)の内容に基づいて日本の造船能力を潜水艦建造数の日米比較の観点から類推してみることにする。
『表3 日米海軍の潜水艦の総数と損失数の割合』
開戦時保有潜水艦 建造した潜水艦の数 総数 損失数(割合)
日本海軍 62 117 179 127 (71%)
米海軍 114 203 317 52 (16%)
開戦時保有潜水艦数も新規建造潜水艦数もアメリカが全てに上回っていて、日本の造船能力の米国と比較したその下位性に向ける目を秋丸機関は持たなかっただけではなく、下位性の要因としての造船部門の技術力や生産性の両国差に対しても向ける目を持たなかったことを示す。
そして日本の造船部門の技術力や生産性の低さと比較した米国の技術力や生産性の高さは既に触れたように造船に限定されるわけではなく、航空兵器の製造部門とも相互影響していることであって、日本の潜水艦の損失割合の高さは米側の航空兵器の生産能力の高さとその結果としての生産機数に海上兵器の数を併せた攻撃力の高さの証明ともなるが、こういった関連性に向ける目も持ち合わせていなかったことになる。
さらに技術力や生産性の程度は民生品の製造部門にも相互関連していく要素であって、兵士の食糧や軍服等、日常使用の品々の供給にも影響を与えることになり、最終的には日米の兵士の士気の問題にも関係していき、それが主体的姿勢に基づくのか、受動的姿勢に基づくのかによってそれぞれの戦闘能力にも違いが生じる。
日本軍の兵士の士気は各戦闘がアメリカ戦力の杜撰な調査をベースとした杜撰な戦争計画に則っている以上、主体性の発揮は期待しにくく、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」や「お国のためだ」、「天皇陛下のためだ」いった上からの強制性が一方で働いていたことを受けた精神論に則った機械的な士気の発揮となりがちで、このことも影響した各戦闘に於ける形勢不利であり、杜撰な戦争計画と相互作用し合った結果の理不尽な死の数々ということであろう。
事実、太平洋戦争での日本軍兵士の死の多くがそういった種類の死であったことは記録にあるとおりで、当然、大方のところで靖国参拝で称えているような死の形は取っていない。戦前国家を肯定している政治家、その他が肯定の先に頭の中で描いている雄々しく、美しい死の形に過ぎないことになる。
秋丸機関報告書が「英米間の船腹量が弱点」であるとしている点について、『英米合作経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)の著書の牧野邦昭教授は、戦前東京帝大助教授だったが、1938年の人民戦線事件(反ファシズム・反戦争の民主主義勢力結集運動)で検挙され、退官、戦後東京帝大教授に復職の経済学者脇村義太郎の戦前の日本の造船力に関する証言を取り上げている。
但し脇村義太郎がどういうイキサツで内情を知り得た証言なのかの解説はない。
〈最晩年の1995年に日本学士院で行った講演で、「問題は、(アメリカが)生産された軍需品を東洋戦線、ヨーロッパ戦線へ送れるかどうかということに関わるわけですが、これは結局、船の生産がどのくらい出来るかという一点にかかるということになります。その船の生産力がどうかということについて(秋丸機関の)『報告書』のここに書いてあるのは、大体、上述の市原顧問(名前は章則、戦後日本郵船社長)の意見であったと思われますが、市原という人は残念ながら、欧州大戦の記録しか知らなかった人なのです。当時は第一次大戦の記録しかなくて、その後アメリカがどういう状態になっているかということは全然知らなかった。それを有沢さん(東京帝大の助教授時代に人民戦線事件で休職処分を受けていたが、経済学の知識を見込まれてのことだろう、秋丸機関から招聘を受けて、調査員に加わる)と二人で見ていたわけで、お手許に配ってありますように、第一次世界大戦時にアメリカがどのくらい船を造ったかということにもとづいて、第二次大戦時にどのくらい船を造れるかということを書いておりますが、実は造船のやり方について第一次大戦と第二次大戦との間に大きな変化があったということを考えない予想だったのです」〉――
現実問題としてもアメリカの造船能力を見誤っていたのだから、この見誤りは戦闘機や爆撃機の航空機生産能力も過小評価していることに繋がり、アメリカ国力調査の杜撰さを改めて示すことになる。この杜撰な調査に基づいて想定と実際の戦力の矛盾を抱えた対米英戦争計画を練り上げて、米英に宣戦布告、そのような戦争を戦わされて、想定していなかった戦力の違いで無惨な死に追いやられた日本軍兵士こそいい面の皮だが、その実態は靖国参拝者の目には映し出されない架空のものとなっている。あくまでも国に殉じた、国のために命を捧げたと戦死者を通して戦前日本国家に正当性を付与していることになる。付与していなければ、戦死させられたと解釈することになるだろう。
著作者の牧野邦昭教授は秋丸機関報告書が杜撰な戦争計画であることを次のような言葉で総括している。
〈さらに、アメリカを速かに対独戦へ追い込み、その経済力を消耗させて「軍備強化ノ余裕ヲ与エザル」ようにすると同時に、自由主義体制の脆弱性に乗じて「内部的攪乱ヲ企図シテ生産力ノ低下及反戦機運ノ醸成」を目指し、合わせてイギリス・ソ連・南米諸国との離間に努めることを提言している。
とはいえ、この「判決」で提案されているアメリカに対する戦略は「どのようにそれをするのか」という具体案が全く無いので、率直に言えばただの「作文」といえる。〉――
この「ただの『作文』」が日本軍人・軍属約230万人、民間日本人約80万人、合計約310万人の死だけではなく、アジアの国々からも膨大な死を招いているにも関わらず、安倍晋三や高市早苗の手にかかると、日本人戦死者に限って、「お国のために尊い命を捧げた」となる。
高市早苗は経済安保担当大臣当時の2023年4月21日に靖国神社春の例大祭参拝。記者団の問いかけに答えている。
高市早苗「国策に殉じられた方々の御霊に尊崇の念を持って哀悼の誠を捧げてまいりました。感謝の気持ちをお伝えして、そして、ご遺族の皆様のご健康をお祈りしてまいりました」
戦死者を「国策に殉じられた方々」とすることで、国策に対しても、戦死、あるいは戦死者に対しても肯定的な意味づけを行っていることになる。
当然、アメリカの国力を過小評価した杜撰な戦争計画で対米戦争を開始し、多くの兵士を犬死に同然の無惨な死に追いやった歴史的実態は高市早苗の脳裡には影さえも射してはいないことになる。
国家と国民の関係が戦前型を維持しているから、国家を優先的に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座さる国家主体の思考から抜けきれないからに違いない。こういった人物が国民のためと称して国政に携わっている。
今年2024年10月17日秋の例大祭の靖国参拝では記者団に次のように発言している。
高市早苗「きょうはひとりの日本人として参拝させていただいた」
「ひとりの日本人として」とは戦前の戦死者を「国のために戦い、尊い命を犠牲にした」、「心ならずも戦場に散った方々に感謝と敬意を捧げる」等々、戦後の日本人の立場から祀るについての正当性を置いている文脈となるが、祀る事実を作り出した要因は戦前の日本国家とその戦争である以上、この両者に対しても正当性を置いていることは断るまでもない。
意味のない戦争で意味のない戦死だと価値づけていたなら、「ひとりの日本人として」などと
日本人であることを前面に出して、正当性を持たせた当然の義務とする発想は出てこない。戦前の日本国家を構成した政府や軍部所属の戦前日本人が日本の国力の過大評価を精神的ベースとしたアメリカ国力の過小評価が杜撰な対米戦争計画を招き、その計画のもとの戦争が多くの兵士を犬死に同然の無惨な死に追いやった歴史的実態はその靖国参拝の戦死者追悼の姿からは影さえも見せないのは、戦前国家否定を排除した戦前国家肯定を歴史認識としているからにほかならない。
要するに靖国参拝に於ける戦死者追悼は戦前日本国家肯定と同時進行で行われていることになる。
よく知られた事実だが、総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告でも対米戦敗北を予想していた。「Wikipedia」の項目、「総力戦研究所」を参考に書き起こしてみる。
総力戦研究所とは陸軍省経理局に置かれていた「戦争経済研究班」、通称「秋丸機関」の機能を引き継いだ機関だと解説している。研究生は各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちで、1941年4月1日入所第一期研究生官僚27名(文官22名・武官5名)、民間人8名の総勢35名が1941年7月から8月にかけて、〈研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。
その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった(原子爆弾の登場は想定外だった)。〉と、対米戦敗戦を予測していた。
この机上演習の研究結果と講評は1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告されたという。
この予測を覆したのは1941年(昭和16年)10月18日の首相就任3カ月前の陸軍大臣東條英機であった。表記は現代式に改めて、次のように記している。
東條英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」
東條英機は1904年(明治37年)2月8日から同年9月5日までの日露戦争の時代から1940年代後半のその時代に至る兵器の発達と各性能の向上を無視して(日露戦争当時は戦車も戦闘機も存在せず、潜水艦は日露共に実用の段階に至っていなかったという)、40年近くも昔の日露戦争を参考に、"意外裡な事"(意外の裡〈うち〉に入る事=偶然性主体の計算外の要素)に期待、合理性に基づいた戦争の進め方とは異なる気持ちの持ち方が大事だとする精神論に近い訓戒を行った。
「陸軍秋丸機関報告書」解説の著書牧野邦昭(現在慶應義塾大学経済学)教授が指摘した、秋丸機関の市原章則顧問(戦後日本郵船社長)が第2次対戦前のアメリカの造船能力を第一次大戦当時の造船能力に基づいて予測した時代錯誤な見立てと同じ轍を東條英機は踏んだ。
だが、東條英機が総力戦研究所の日米戦想定机上演習報告が出した答、"長期戦不可避→長期戦遂行不可能→敗北必至"を避けて、陸軍秋丸機関報告書が出した答、「短期戦(2年以内)」+「対ソ戦回避」を条件に勝機を見込んだ対米国力調査に賭けた経緯は分からないが、後者にこそ"意外裡な事"の偶発を期待したのか、両報告を比較して、より確実な勝機を計算してのことか、色々と推測することはできる。
だが、陸軍秋丸機関報告書が日本国力の過大評価への傾斜を内心に抱えたアメリカ国力の過小評価で成り立たせた杜撰な調査を内容としていたことは戦争の経緯から見て、軍部・政府の首脳の誰もが理解していなかったと見ることができる。
やはり神国思想を根にした日本民族優越意識が合理的認識能力の目を曇らせることになった自己過大評価とその地平から見ることになった他者過小評価が災いした国家の戦争暴走といったところなのかもしれない。
《日本国力過大評価と米国力過小評価に基づいた杜撰な対米英戦争計画から見る安倍、高市等の靖国参拝(2)》に続く