天窓からの児童落下死亡事故を受けた防護柵設置反対

2008-06-22 09:52:35 | Weblog

 反対、反対ばかり言う私はかつての社会党を髣髴させます
 
 6月18日(08年)東京都杉並区立杉並第十小学校の6年生男子が校舎屋上の天窓から転落、死亡する事故が起きた。天窓は人間が乗ることを想定していない設計で、「毎日jp記事」によると、<アクリル製の覆いは約750キロの荷重に耐える設計だが人が乗り1点に力が集中すると壊れる可能性があ」>り、<強度は10年で約1割劣化するため、ホームページで防護柵や天窓内側の下に落下防護ネットを設置するよう求めていた。>としている。

 6月19日日付の「中日新聞インターネット記事」≪天窓割れ小6転落死 授業中、屋上から12m≫を参考に事故の経緯を見てみると、

 普段は屋上はカギがかけてあって出入り禁止の状態になっていたが、屋上を授業で使用する場合に限って立ち入ることができるようになっていた。その日は6年生の2学級を3グループに分けたうちの25人のグループに所属していた一人として女性教諭(49)の引率のもと歩幅の平均値を計算する算数の体験授業を受けていたという。

 事故は授業が終わって教室に戻る途中のことで、女性教諭は児童を誘導していて、生徒が天窓に上ったことも転落の瞬間も目撃していなかった。

 杉並区教育長「女性教諭が目を離したすきに男子が天窓に上った。屋上での授業は好ましくなかった」

 杉並第十小学校校長「児童に危ないと指導したことはなかった。危険性を十分予見できなかった」・・・・・

 次は≪天窓の安全点検、全国に通知 転落死事故で文科省≫(2008.6.20 21:06/MSN産経)から。

 文科省は事故を受けて20日に天窓が設置されているすべての小中高校の安全点検を実施するよう全国の教育委員会などに通知、近くで授業などを実施する場合は事前に危険がないか確認し、防護柵を設置することなどを要望した。――

 確かに「防護柵設置」は安全対策としては万全であるが、「防護柵設置」によって「安全」果実を手に入れる一方のメリットのみで片付くとしたら何も問題はない。果して失うものは何もないだろうか。物事には大体に於いてプラスマイナスがある。

 被害児童はグループ活動(集団活動)中であった。「目を離した隙に」というが、子どもはグループ活動中である以上、グループ活動に従う責任を有し、単独行動は許されない。例え屋上授業が終えたあとであっても、教師の直接的な指示があってもなくても 次に取るべきと予定されている教室に戻る行動を実行する責任を有する。

 そのような責任を全うするには教師の目の届く範囲にいることによって可能となる。教師の注意監視にしても生徒が教師の目の届く範囲内にいることによって機能する。

 普段の教室での授業を考えれば理解できる。教師が黒板に書き物をしていて生徒たちに背を向けている隙に生徒の誰かが後ろの入り口から物音を立てずにそっと教室を抜け出し、そのことを誰も教師に告げなかった場合、教師の目は届くはずはない。

 教室を抜け出した生徒が校外に出て自動車事故に遭った場合、「目を離した隙に」という弁解は必要としないはずである。勝手に教室を抜け出し、勝手に校外に出たのである。屋上での授業でも、生徒は勝手にグループ(集団)を断りなく抜け出して、天窓のところに行った。抜け出す瞬間に教師の目に入れば注意し、生徒はその注意に従って思いとどまっただろうが、その場合でも取るべき行動を取るだけの責任意識を有していたなら、教師に無断でグループを抜け出そうとはしなかっただろうから、自らの判断で思いとどまる行動を取ったのではなく、その責任を果たさず、教師の指示に機械的に従った思いとどまりに過ぎないことになる。

 天窓は750キロの重量に耐えるのだから、そっと乗るだけだったなら突き破る事態は生じなかっただろ。反動をつけて飛び乗ったか、乗った後、その場でジャンプでもして一点に重力をかけることになったのだろう。

 事の本質は例え天窓に近づかないように注意を受けなくても、また授業形式が教室内外を問わず、教室への移動を含めて生徒が取るべき授業態度、授業中に示すべき生徒に与えられた役割を自ら踏み外した点にある。

 確かに珍しい形をした物に触れたい誘惑に負けても仕方のない年齢であり、未発育にある分別から言うと役割に忠実であることだけを求めるのは無理があるとする意見もあるに違いない。だが、防護柵の設置によって子どもに安全に対する注意を喚起してその行動を見守り、それに制限を加えるのは防護柵そのものであり、あるいは教師が目を離さないでいる「監視」によって可能となる子どもの危険行為に対する頻繁に発する注意の言葉であって、子ども自身が教師の注意や監視を記憶に甦らせて危険を読み取る情報解読的な判断でもなく、あるいは状況を把握して自ら危険を察知する経験から学習した判断ではないことになる。

 この場合の防護柵は教師の「目を離」さない注意・監視に対するこれ以上入ってはいけませんよの物理的注意・監視の役目を負う。

 防護柵や危険を知らせる看板、教師や親の口うるさいヒステリックなまでの注意等の「指示」、あるいは「監視」を受けて危険を察知する。そういった危険予知の「指示」あるいは「監視」に慣らされ、それらに機械的に従うことが当たり前の行動様式となって、いわば習性とするようになると、逆にそういった「指示」・「監視」を予定することになり、それがないと危険に対する防御能力、あるいは安全確認能力が働かない恐れ生じる。

 と言うことはそれらの能力を育んでいないことによる機能不全現象でもある。

 いわば安全に関わる行動を大人たちの「指示」・「監視」で何でもかんでもお膳立てしてやると、そのお膳立てに頼る習慣を育むだけで、それを習性とさせる代わりに自分自身の判断で危険を察知する能力の発動機会を奪うこととなって、自らの判断に従って自らの行動を自ら決める自律的主体性の育みを期待不可能とすることになる。

 「防護柵設置」によって「安全」果実を手に入れる一方で失うものとはこのことである。ただでさえ家では親が、学校では教師がああしなさい、こうしなさい、それはしてはダメ、これはしてはダメと注意の指示を連発して子どもの行動を監視し、制約することで子どもが自らの行動を自ら判断して自ら決める自律的主体性を発揮する頭を抑えているところへ持ってきて、「防護柵」でご丁寧にも危険だと知らてやって自分で安全か危険か判断させ、危険だと判断したなら、その判断に従って自分から回避行動を取る主体的行動性(=自律的主体性)を発揮しなくて済むように省いてやる。

 また防護柵とか注意看板、注意貼紙、口頭の注意といった「危険指示」・「危険監視」の何でもかんでもの前以てのお膳立ては「危険指示」あるいは「危険監視」を受けた回避行動をパターンとすることになって、自己責任行為を他者の「危険指示」・「危険監視」に委ねることになる。その結果として保護者たちの「なぜ防護柵を設置しなかったのか」の非難が生じることとなった。

 生徒のこのような行動性は他者の指示に従う権威主義性を満足させるが、主体的行動性を元々あればの話だが、逆に奪うことになる。

 幼い頃から家では親の指示、学校社会では教師の指示で動かされているから、見るべき主体的行動性を身につけているとは思えない。このことは親や教師の同じ注意が頻繁に繰返されることに現れている。しかも教師は放課後の生徒の校外の行動まで監視し、「注意指示」まで発している。注意の指示、監視を受けての行動となるから、そのような生徒の行動に対して教師側は常に注意の指示を与え続け、監視し続けなければならなくなる。それが悪循環だとは誰も気づかない。

 その悪循環を断ち切って、安全確認のみならず、自らの判断に従って自らの行動を自ら決める主体的行動性(=自律的主体性)を子どもに植え付けるにはどうしたらいいのか。

 少なくとも小学4年生以上になったなら、一度の口頭の注意であとは生徒自身の判断で行動を取らせるのが理想であろう。

 「天窓の構造はこうなっている。落下して死亡事故も起きている。危険だから上らないように。注意を守らず上ってもし落ちて死んでも、死んだ人の責任ですよ」

 屋上もカギをかけずに4年生以上は普段でも出入り自由とする。

 防護柵の設置などせずにこのような一度の注意のみでいい。守る守らないは生徒自身の判断に任せる。自らの判断に従って自らの行動を自ら決める主体的行動性(=自律的主体性)のみに期待をかける。守らなければ守らない人間の責任とする。

 逆説的に言うと、注意指示を守らずに落下して死亡する生徒が続出する程、教師の口頭注意に対する生徒の集中力は育つと同時に物事に対す注意力が育まれ、何事も自分の判断に則って行動しなければならない主体的行動性(=自律的主体性)を否応もなしに学ぶことになる。

 安全注意のみならず、すべての注意を口頭による一度を原則とし、その繰返しのみで一切の監視をやめ、すべての行動を生徒自身の判断に任せて主体的行動性を育む。授業に於ける教師から生徒への知識授受に於いても、そこに生徒自身の判断が介在することとなって、暗記式の知識授受であることから免れることができるようになる。知識に関しても行動に関しても自己判断を原則としたとき、生徒は自律(自立)した存在へと変身可能となる。
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 ≪天窓割れ小6転落死 授業中、屋上から12m≫(中日新聞/08年6月19日 朝刊)

 18日午前9時25分ごろ、東京都杉並区和田3、区立杉並第十小学校の3階屋上で、6年生の中村京誠(きよまさ)君(12)が、明かり取り用の強化プラスチック製の天窓に乗ったところ、天窓が割れた。中村君は内側にあるガラスも突き破って、約12メートル下の多目的ホールの床に転落。全身を強く打ち、約4時間後に死亡した。警視庁杉並署は、学校や区側の施設管理に問題がなかったか、関係者から事情を聴いている。

 同署や区教育委によると、天窓は直径1・3メートルのドーム状で厚さ4ミリの強化プラスチック製。内側には厚さ7ミリの金網が入った平面状のガラスが敷いてあった。天窓の周りに柵はなかった。

 中村君は当時、歩数から歩幅の平均値を計算する算数の体験授業で、他の児童とともに屋上に出ていた。授業が終わって教室に戻る途中、中村君が天窓に上った。指導していた女性教諭(49)は屋上の出入り口付近で、3階の教室に戻るため児童を誘導していて、転落の瞬間は目撃していなかったという。

 天窓は3年に1回、目視で点検する決まりだが、2006年10月の点検では異常はなかった。区教委は、天窓のある区内の小中高校計13校に緊急点検を指示した。

児童が落下する事故があった杉並第十小学校の屋上で、割れた天窓を調べる捜査員ら=18日午後3時58分、東京都杉並区で

 ◆校長「危険予見せず」

 「女性教諭が目を離したすきに男子が天窓に上った」。同校の宮山延敬校長とともに18日、区役所で記者会見した井出隆安教育長は沈痛な面持ちで頭を下げた。

 中村君が受けていた授業は、少人数指導として6年生の2学級を3グループに分けていた。中村君は屋上を使った25人のグループの1人。周りの教室に迷惑がかからないように、3階の教室から近い屋上を使ったという。

 宮山校長によると、屋上は通常入り口が施錠され、児童は出入り禁止だった。同校長は「児童に危ないと指導したことはなかった。危険性を十分予見できなかった」と悔やんだ。井出教育長は「屋上での授業は好ましくなかった」と安全管理の甘さを認めた。

 区教委は天窓に必要な強度はあったとみているが、人が乗ることを想定していなかったという。文部科学省の小学校施設整備指針では、天窓について「地震時の破損・落下等について留意して計画することが重要」だとしているだけで、具体的には定めていない。
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 ≪天窓の安全点検、全国に通知 転落死事故で文科省≫(MSN産経/2008.6.20 21:06)

 東京都杉並区立杉並第十小学校で6年生の中村京誠君(12)が天窓から転落死した事故を受け、文部科学省は20日、小中高校に設置された天窓の安全点検を実施するよう全国の教育委員会などに通知した。

 通知は天窓が「人の体重を支える強度がない」として、近くで授業などを実施する場合は事前に危険がないか確認し、防護柵を設置することなどを要望。児童生徒に対し「天窓の上に絶対に乗らないよう周知徹底」するとともに、学校全体の安全管理も求めている。

 渡海紀三朗文科相は同日、都道府県教委の学校施設担当者が都内に集まった会議で「学校が安全で安心な場となるよう協力してほしい」と要請。校舎を設計する際の市町村などの留意事項をまとめた施設整備指針について、より具体性のある記述に見直すことも表明した。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-03-31 03:01:30
貴様が落ちて死ねジャップヒトモドキ
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Unknown (Unknown)
2020-03-31 03:01:45
貴様が落ちて死ねジャップヒトモドキ
返信する

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