昨30日(2011年8月)菅内閣が総辞職した。首相就任の「自分はサラリーマンの息子」に始まって最後の「内閣総辞職にあたっての内閣総理大臣談話」まで、在任449日間ずうっと「政治は結果責任」意識を欠如させたまま首相職にとどまった稀有な総理大臣として歴史に名を残すに違いない。 |
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政府の原子力災害対策本部が福島県の子ども約1150人を対象にした甲状腺の内部被曝検査で45%の被曝が確認されたと福島県いわき市で8月17日開催の説明会で発表している。
説明会には検査を受けた子どもの保護者ら約50人が参加。
《福島の子ども、半数近くが甲状腺被曝 政府調査で判明》(asahi.com/2011年8月17日21時26分)
すぐに医療措置が必要な値ではないとの判断だというが、被曝量から計った健康への影響だけが問題ではない。
記事は、〈低い線量の被曝は不明な点も多く、長期的に見守る必要がある。〉と書いているが、これも被曝量から見た健康の観点からの指摘となっている。
問題は放射線が子どもの活動を制約していることであろう。身体的な活動の制約は多少の違いはあっても、精神面の抑圧、あるいは感情面の抑圧に微妙につながっていく。
精神面の抑圧とは思考や判断能力に対する歪めた働きを言う。感情面の抑圧とは喜怒哀楽に対する制約をもたらす。少なくと活動の制約は思考や判断能力の幅を狭くし、喜怒哀楽の表出を抑えることになる。それぞれの子どもにとって当たり前の活動を様々に制約するとはそういうことであろう。
外に出て遊ぶのは1時間だとか2時間だとか、なるべく建物の中にいろ、暑くても長袖を通せと活動と精神を様々に制約する。耐え得る許容度は大人と違って子ども程小さく、負の影響力は大きいはずだ。このことが子どもの心身の発達に関しても様々な制約を微妙に与えていく。
元々家の中にいて遊んだり本を読んだりすることが好きな子ならば問題は少ないだろうが、遊びたい盛りの子どもの頃、外に出て遊びたくても、思い切って遊ぶことができなかった子どもが活動的な面のみならず、精神面に於いても喜怒哀楽の感情面に於いてもすくすくと育っていくだろうか。
勿論、ある一定の年齢に達したとき、多くの子どもが軌道修正を図ることができるだろうが、他県の子どものように何の心配もなく外で遊びまわって成長していった子どもと違って、身体と頭のどこかに子どもの頃思い切って活動できなかったという負の記憶を残しているはずだ。
上記記事の、いわき市と川俣町、飯舘村の0~15歳の子どもの1150人のうち、条件が整い測定できた1080人は全員が0.10マイクロシーベルト以下で、原子力安全委員会が精密検査が必要と決めた甲状腺被曝線量が毎時0.20マイクロシーベルト以上だとした基準値を下回ったという。
福島靖正対策本部原子力被災者生活支援チーム医療班長「問題となるレベルではない」
この発言も被曝量から計った健康への影響の面からのみを問題としている。
国が学校の校庭等の活動を制限する目安として1時間当たりの放射線量を3.8マイクロシーベルト、年換算20ミリシーベルトとしていることを受けて、福島県が4月下旬、県内13か所の公園の放射線量を測定、4公園で3.9マイクロシーベルト、1公園で3.8マイクロシーベルトの値が出たために県はこの5公園の利用を1日1時間以内に制限した。
だが、テレビで放送していたことだが、幼い子ども連れの母親が、「子どもへの影響は大人よりも大きいから、公園では遊ばない」といった趣旨のことを言っていた。これは自然な反応だろう。兎に角目に見えないのだから、どこどうより高い放射線量を浴びない保証はどこにもない。近づかないに越したことはないというわけである。
いわば公園で毎日きちきちと1時間の制限を守ったとしても、他の場所で高い放射線量を浴びたなら、公園での毎日の1時間は却ってアダとなる。
どこでどう放射能を浴びるかもしれない不安だけではなく、学者の中には1時間当たりの許容放射線量3.8マイクロシーベルト、年間許容量20ミリシーベルトは高過ぎると批判する向きもある。政府の原子力政策を批判して内閣参与を辞任した小佐古敏荘氏は文科省選定の1時間当たり放射線量3.8マイクロシーベルト、年換算20ミリシーベルトの許容度を「とんでもなく高い数値で、年間1ミリシーベルトで運用すべきだ」とさえ主張している。
大人よりも放射能の影響が大きい子どもを持つ親としたら、浴びる放射線はより少ないに越したことはないと判断するのは自然の人情であろう。例え意図しない活動の制約につながり、それが精神面や感情面の抑圧となって心身の発達に何らかの影響を与えたとしても、万が一身体を蝕むことになった場合の放射線の悪影響は心身の発達の元も子もなくしてしまうだろうから。
除染が進んでいるとは言え、少なくない学者が許容度として指摘する年間被曝量1ミリシーベルトにまで除染が進まなければ、一旦小中学校の屋外の活動を制限した以上、時間を気にかけずに遊びまわることが果たしてできるだろうか。
このことを証明する記事がある。《福島県外避難5万人超す 子ども千人超、夏休みに避難》(asahi.com/2011年8月22日21時37分)
福島県災害対策本部によると、原発事故の影響を避けたり、仕事を求めたりで福島県から県外へ避難した住民が5万人を超えたという。
県の発表で、県外避難者は8月11日現在で5万1576人。6月末時点の4万5242人より6千人以上増加。
避難先で最も多いのは山形県の1万43人。新潟県の6199人、東京都の5642人。県内も含めた全避難者数は6万4367人(8月22日現在)で、うち約8割が県外避難。
主として放射能を恐れてなのは、総務省の全国避難者情報システムに基づく宮城県の県外避難者、8月17日現在で7848人、岩手県は1540人で、福島県の県外避難者5万1576人の多さが証明している。
福島県の子どもに関しては、7月15日現在の県調査で県外避難小学生は5710人、県外避難中学生1962人、夏休みのうちに県外への避難希望児童・生徒が計1081人。
政府と自治体が校庭の土を重機で一生懸命に削ったり、通学路の側溝を高圧水流で流し集めて、それをバキュームで吸い込んで他処に運んでいって可能な限り放射能の除去に務めていても、夏休みの間の子どもたちの県外への流れはこの有様である。
いくら除染に努力したとしても、親や子どもが自然な選択としてある外での活動を控えた場合、放射能の身体への影響を避ける活動の制限が意図しないままに十全であるべき心身の活動を抑圧し、思考や判断をつかさどる精神と喜怒哀楽をつかさどる感情の制約につながっていくことになるが、放射能の影響が少ない県内避難、あるいは殆んどない県外避難することによって行動の自由な活動を確保した場合、同じく意図しないままに精神や感情の抑圧からの解放を味わうことができる。一般的な範囲で思いのままの自由な思考と思いのままの自由な判断が好きにできる。自由な喜怒哀楽の発散を可能とすることができる。
福島の子どもたちが夏休みの間、県外の自治体から海水浴や林間学校等に招待されて思い切り心行くまでの心身の解放を果たすように県内避難・県外避難によってそれが年間の保証を得ることができる。
放射能は心身の発達に何ら障害とはならなくなる。
政府は被曝量から見た健康の観点からのみの範囲で、大丈夫だ、影響はないと言うのではなく、子どもたちの活動を様々に制約することによって作動させることになる精神面の抑圧、あるいは感情面の抑圧までも考慮して、心身の発達に問題はないかどうかの判断まですべきだろう。
建物の中と外とを問わずにすくすくと育つ活動、伸び伸びと行動することができる活動の保証であることは言うまでもない。
環境の保証のみではなく、活動そのものの保証である。
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