渡辺喜美の「愛の構造改革」と安倍晋三の「美しい国」

2006-12-31 08:30:26 | Weblog

 客観的認識性がゼロだから言える「愛」と「美しい」

 政治資金収支報告書虚偽記載疑惑で辞任した佐田玄一郎前行革相の後釜に渡辺喜美氏が就任した。二世議員。父親は総理・総裁を狙っていたが最後まで夢を果たせなかった男で、一癖も二癖ありげだった金権体臭プンプンの政治家、というよりも政治屋に近い印象だった渡辺美智雄元外相。

 渡辺美智雄の「アメリカの黒人は破産してもアッケラカンのカーだ」の差別発言で内外から非難を浴びた前科は、「アッケラカンのカー」を政治家としてはあってならない黒人すべてを一律・同質に扱って人種的特質と見なす、そのことを何とも思わない客観的認識性の欠如を示すものだろう。

 新聞・テレビは金権体臭プンプンといった皮肉な人物評は行わない。「父親譲りの歯にきぬ着せぬ発言」とか、「父親似の歯切れのいい語り口」とか、渡辺喜美を評価することで、父親を豪放磊落な性格の持ち主であるがごとくの印象を与えている。まさか「アメリカの黒人は破産してもアッケラカンのカーだ」を「歯にきぬ着せぬ発言」のうちには入れてはいないと思う。

 安倍首相は渡辺氏の起用理由について「自民党行政改革推進本部の幹事を長く務めて、詳しい知識を持っているし、突破力がある。行革には突破力が必要で、そこを見込んだ」(06.12.28/19:52/読売新聞)ということだ。

 私自身には渡辺喜美の体型から判断して一部体育会系の「突破力」ということなら理解できるが、知能的な「突破力」は想像することはできない。

 タウンミーティングのヤラセ質問問題ではテレビで、「ちょっとお粗末ですね。タウンミーティング全部がこんなヤラセではないと思いますが、たまたま文部科学大臣がご出席されるってんでね、まあ、そういう方面の人たちがこういう文書をつくって流したんでしょうけどね」と「たまたま」の偶然とすることで、計画性の否定、一部の不作為的・恣意的独走行為だと「父親譲り歯切れのいい語り口」を駆使して限りなくちょっとした問題だと見せかける身内庇いの罪薄め・火消しをやらかせていた。知能的な「突破力」を持った人間のすることだろうか。

 身内庇いの意識が先ず働き、そのためにはご都合主義の解釈を臆面もなく優先させて、事実はどうなのかの解明姿勢をケロッとした顔で無視し、〝事実〟そのものまでを無視する。

 これは学校や教育委員会のいじめの事実の有無の検証よりも先に「いじめの事実はなかった」とする責任回避・事実無視を優先させるのと同じ姿勢だろう。

 事実無視は客観的認識性の欠如をベースとして可能となる姿勢であるが、このような事実無視・客観的認識性の欠如は就任の記者会見の言葉にも表れている。

 ――「しがらみとなっている制度、規制をこのまま放置すると税金が余計にかかり、将来の(国民)負担になる。愛の構造改革をやっていく」と抱負を述べた。天下り規制見直しなど公務員制度改革については、「公務員に誇りとやる気を持って働いてもらう必要がある。将来を見据えてこれから詰めていく」(同読売新聞)――

 「愛の構造改革」とは、これまた臆面もない。安倍晋三の「美しい国」と同じで、情緒的なアプローチ(認識態度)ではたいした期待もできない。精々官僚の政策の上に乗っかるぐらいではないだろうか。その証明として、今まで日本の過去の歴史をすべて振り返って、「愛」だ、「美しい」だと価値づけることができた政治が一度でも存在しなかったことを挙げることができる。美しい言葉を並べることはできる。だが、その美しい言葉どおりの世界を現実に遍く反映させ、美しい言葉どおりの世界を実現させることが一度でもできたことがあっただろうか。

 過去にはなかったが、未来世界では実現可能だとするのは人間の現実を知らない客観的認識性ゼロの人間が言うことである。

 「愛の構造改革」とはすべての国民に等しく恩恵を与える「構造改革」を言うものでなければ、「愛」なる形容詞を冠することはできないはずである。一部にのみ利する「構造改革」であったなら、「愛」とは言えないだろう。小泉式「構造改革」はまさに高所得者・大企業といった一部に利する「愛」なき構造改革であり、「愛」もなく一部にのみ利したからこその格差社会という美しい答を導き出すことができた。

 また「美しい国」とは格差という矛盾のない国を目指すことを意図した政策だろう。そうでなければ、「美しい」国にはなり得ない。格差がなければ、犯罪は起こりにくいし、格差とは反対の平等を大切にするために国民はこぞって規律を持って生きようとするだろう。小泉政治の否定が「美しい国」なのである。

 だが、如何なる時代であっても、矛盾のない社会は存在しない。美しい言葉どおりの世界を現実に遍く反映させ、美しい言葉どおりの世界を実現させることが一度でもできなかった当然の因果性としてある矛盾世界であろう。当たり前のことでしかないが、正義とか善とかは地位や立場によって異なってくるから、そこに矛盾が生じることになる。ある勢力にとって正義であり、善であることが、立場や地位の異なる勢力にとっても正義であり、善であるとは限らない。

 いわば全体にとっての絶対正義など存在しない。絶対善も存在しない。絶対正義・絶対善を実現させるだけの力を人類は有していない。永遠に獲得することもないだろう。当然、全体をプラス・マイナスに分ける。独裁者サダム・フセインの死刑はシーア派にとっては正義であっても、多くのスンニ派にとっては不正義とされるに違いない。

 全体にとっての絶対正義・絶対善が存在しない以上、すべての国民に等しく恩恵を与える「愛の構造改革」など実現させようがない。どのような「構造改革」であろうと、全体をプラス・マイナスに分け、格差、その他の様々な矛盾の発生は避けがたい。だが、政治は矛盾をつくる営みであってはならず、矛盾をなくすことを役目としているはずである。しかし人間には矛盾を完全になくす創造性を持たないとなれば、矛盾を如何に最小限にとどめるかを目標及び役目としなければならない。

 それを政策者の条件として自らに課さなければならない。政治を含めた人間の創造性の限界への厳しい認識を持って、初めてその条件を自らに課すことが可能となる。

 再び、如何なる時代であっても、矛盾のない社会は存在しなかったという言葉に戻らなければならない。「愛」だ、「美しい」だといった政治は実現させようがないのだから、禁句としてのみ存在する言葉としなければならない。政策者の条件としなければならない客観的認識性をまったく欠いているからこそ言える奇麗事であろう。

 渡辺喜美の「公務員に誇りとやる気を持って働いてもらう必要がある」の「誇りとやる気」にしても、問題がどこにあるのかを見る目(=客観的認識)を持たなければ、「愛」とか「美しい」といった言葉と同じく、単なる情緒的抽象語で終わる。

 下は上を見習う。政治家が官僚の手を借りなければ国会答弁もできず、政策らしい政策づくりもできない情けない姿を曝していながら、国会議員の先生です、大臣ですと何様顔にのさばり、懐を肥やしているのに、下に対してのみ「誇りとやる気」を期待するのはお門違いというものである。

 官僚の世界でも、一般官僚たるノンキャリアと高級官僚たるキャリアの世界は別で、キャリアが外部からの接待や贈答でうまい汁を吸い、退職後には天下って経済的にも何様的にも万々歳の生活を送っていく姿を目の当たりに見せつけられて、ノンキャリアたる下が「誇りとやる気」を発揮できると思っているのだろうか。自分たちなりに可能となる、裏金をプールして飲み食いに使うといった甘い汁吸いにせっせと精を出す下、上を見習う式責任意識しか望めないだろう。

 国会議員のセンセイ方たちが官僚の手を借りずに自らの力で政治を行う「誇りとやる気」の自立(自律)を果たしてこそ、下の者にしても上の者を見習って「誇りとやる気」の自立(自律)を果たさざるを得なくなる。

 政治家が自らの手で政治を行うことによって、今まで煩わせていた官僚の手を省くことになり、公務員の数も減らせる。

 安倍首相にしても渡辺行革相にしても、言葉は巧みに操ることはできても、事の実際は所詮官僚の手を借りて、あっちから1を加え、こっちからも1と、それを足して2とするような政策しかできないのではないか。人間営為に関わる客観的認識性と政治家自身に対する自己省察能力を欠いていても到達できる政策地点だからである。

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自己保身がつくる責任の形と危機管理

2006-12-30 07:50:24 | Weblog

 小学校教諭無断写真掲載HP問題から

 『ニッポン情報解読』2006-12-17の記事「日本人の危機管理」に次のようなコメントをいただいた。

 「このことに対して はな
 ここにいじめという文字がありますが内容わかりますか。
この先生と校長に言葉や授業の教材をよういしてもらえな
いといういじめを受けた生徒もいたし教育委員会の隠蔽工作
でこのことは隠されていますがhp事件の書類送検後の事件で
した」――

 「日本人の危機管理」は、自作ホームページに自動車事故で被害者となった女子児童等の写真を無断で転載し性的興味の対象とした小学校教諭の事件が以前一度犯し、警察の捜査対象とされた再発・再犯であったことに対する同じことを許した学校と教育委員会の〝人事〟に関する危機管理を、いじめに対する危機管理を例として解説した記事内容で、いじめそのものを問題としたものではなかったし、いじめがあったとかなかったとかを指摘したものでもなかった。

 ――(参考)ブログから問題箇所抜粋。「記者の『ホームページは見たことありますか』の問いかけに誰も答えない。『誰も見ていないのですか』の再度の問いかけに、後藤良秀教育委員会参事が『報道で見た物が私たちが確認したものなんです。今言われましたようにですね、私どもは既にホームページを閉じ情報と機器等が警察の方に押収されたということでですね、その段階でホームページそのものは完全に閉じられていて、今もホームページがあってですね、それが閲覧できるというようなことを判断しておりませんでした』
 いじめ問題が起きて、いじめた側が謝罪して収まった。だからと言って、そのいじめが再発しない保証はどこにもない。再発しないか、いじめられた生徒・いじめた生徒に必要に応じて問いかけを行うといった観察が必要なはずである。『仲良くやっているか?』といったふうに。周囲の生徒からの聞き取りも続けなければならないだろう。それが事後管理というものである。   
 だが多くの学校、教師が放置したままとし、いじめの継続を許してしまう。」――

 だから、「ここにいじめという文字がありますが内容わかりますか。」と問われて、咄嗟に理解の頭が働かなかった。書いてあることが事実であるという前提のもとで話を進めると、「この先生と校長に言葉や授業の教材をよういしてもらえないといういじめ」と「教育委員会の隠蔽工作」が「hp事件の書類送検後の事件」だとすると(あるいは明らかになったのは「hp事件の書類送検後」というこのなのか)、HP問題で抱えることとなった傷口を抱えた以上に広げない自己保身から、何も自分の方から話すことはないとした「隠蔽工作」ということではないだろうか。

 人間は事実や証拠を突きつけられて世間の明るみに出た事件・行為であっても、露見を免れて隠すことができている関連事項は自己をより不利な立場に立たせないために隠し通そうとするだろうし、隠すことができていても、隠し通せないだろう、明るみに出るのは時間の問題だと予見した場合は、隠していたことがアダとなって自己をより一層不利な立場に立たせかねない損得計算から自分からこういった事実もあったと告白する〝潔さ〟、〝正直さ〟も見せる。あるいはすべてが露見した場合は自己を絶対的に不利な窮地に追い込むことことが分かっていて、それを避ける意味合いから、隠し通せるだけ隠そう、隠せなくなったら、そのときはそのときだと開き直ることもする。

 今回問題となった佐田行革相の政治資金収支報告書虚偽記載問題にしても、隠せることは可能な限り隠そうとするだろう。追及されて、逃げられない場合は、逃げてウソをついた、誤魔化したと受け取られるよりも、事実を話して、それも隠せることは可能な限り隠して告白することで、キズをより少なくする損得計算のチエを働かすに違いない。人間はかくも巧妙な生きものに仕上がっている。

 HP問題でも、問題とされていること、質問されることだけを最小限の範囲で答え、隠すことができることは隠していた可能性も出てくる。テレビで見た教育委員会や校長の態度の範囲内からの判断であっても、その可能性は指摘できる。

 自己に都合の悪いことは可能な限り隠そうとする自己保身本能の裏を返すと、すべてを知っているのは当事者のみで、第三者――世間は真の事実から常に遠ざけられていることになる。

 あるいは当事者にしても自分に不都合なことは都合のよいことに脚色を続けていくうちに、脚色した都合のよいことを事実と信じるに至る意識誘導・意識操作を自ら働かす。結果として、当事者にしても事実から遠ざかることになる。

 こういったことを裏返すと、〝真実〟とする〝事実〟は存在しないことになる。隠そうとする本能が付き纏う限り、客観的な事実としての〝真実〟は存在しようがない。だから、芥川龍之介の名作『藪の中』は存在し得た。
マスコミの、とくにテレビの「真実をいま明かす」といったキャッチフレーズは誇大宣伝以外の何ものでもない。私は自分自身の言葉として、一度も〝真実〟という言葉を使ったことはない。この世で一番嫌いな言葉に位置づけているからである。やたらと「真実」という言葉を強調したり、繰返したりする人間は信用しないことにしている。勿論、そういったテレビ番組は信用しない。チャンネルを回すのは、信用できないとする自分の判断の正否を確認するためである。そして常に間違いないことを確認してきた。

 「この先生と校長に言葉や授業の教材をよういしてもらえないといういじめ」云々のコメントが事実としたら、この学校に於ける教員人事いじめに関わる危機管理は今後とも有効に機能しないだろう。何も起こらない安全・無事の偶然性に頼るか、起こった場合は隠すことを優先させた危機管理が続くことになるに違いない。
 
 勿論何も起こらない偶然性にも〝隠蔽〟にも裏切られて、どこからか漏れて世間に明るみに出た場合は、隠せない範囲で明らかにする。だからこそ、後手後手の事後処理となる。そういった事例が殆どであり、相次ぐことになる。
いわば自己保身という名の責任回避をひそかに優先させ、ひそかに罷り通らせることを習慣としていたなら、生徒管理や教員人事に関わる〝危機管理〟の学習は覚束なく、当然に満足に機能させた危機管理はいつまでも期待不可能事項としてとどまることになる。

 なぜこうも情けない状況、自己保身と責任回避の情けない光景が日本という国に蔓延するのだろうか。封建主義の時代から、上から指示・命令されたことだけをなぞって果たす権威主義性の義務遂行を責任(務め)と見なす民族性、そしてそれを今以て引きずって、上に従うことを自己責任の範囲とすることに慣らされていることからの(教師が自分のHPで生徒をどう扱っているかを確かめる責任を教育委員会に丸投げしていた校長の姿勢に象徴的に現れている)、裏を返すと、自発的行動を自己責任(自己任務)としていない、その逃げの姿勢・行動様式が誘発していることからの必然的成果としてある無責任性であるに違いない。

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アイルランド人の「知と個性」が映し出す改正教育基本法の「国を愛する」

2006-12-28 08:43:08 | Weblog

 (66歳の誕生日記念に)

 06年12月14日の「朝日」朝刊に次のような見出しの記事が載っている。『ワールドくりっく 発信するアイルランド 辺境が磨いた知と個性』(木村伊量ヨーロッパ総局長)。途中から引用してみる。
 
 ――国の存在感を決めるのは、富や国土の大きさではない。国を代表する外交官でもない。国民一人一人の能力と個性の総和こそが「発信力」ではないか。そのことを教える好例が、人口400万人余の島国アイルランドだ。
 近年、この小国の経済発展は目覚ましい。97年から9年間の平均の国内総生産(GDP)は7%を超え、世界最高レベル。とりわけ情報通信の分野では「欧州のシリコンバレー」とうたわれ、コンピューターのソフトウエアでは世界有数の輸出大国。インテル、デルなど300社を超す海外IT企業が進出している。

 そのアイルランドも、かつては「移民以外に輸出するものがない」といわれた貧しい国。8世紀近くも英国の支配を受け、1845年に始まる「ジャガイモ大飢饉」では、100万人を超す人が餓死するか国外に移住した。
 何がこの国を変えたのか。元財務相で首都ダブリンにある欧州事情研究所の所長、アラン・デューカスさんは言う。「アイルランドには『強くないなら、賢くあれ』という古いことわざがある。1960年代以降、教育立国の目標を掲げ、国民の能力開発に優先投資してきた。国民ひとりひとりの潜在力が花開いたのです」
 3年前に誕生した「アイルランド科学基金(SFI)」は、バイオ技術とIT分野を担う人材の育成を目指す。女性の先端技術者の養成にはとくに力が入る。「私たちは欧州の先を見ている。ライバルはIT大国のインド」とデューカスさんは言った。

 目を見張るのは、さいはての島国に集積された「知と個性」の密度の高さである。
 「ガリバー旅行記」のスイフトや「サロメ」のワイルド、詩人のイェイツ、劇作家のベケット、きら星のごとく輝く文学の伝統。南極探検家のシャクルトンや、最近ではロックバンドのU2といった個性派の群像・・・・。
 海外に散らばるアイルランド系移民や子孫は、英国や米国などに5千万人以上とされ、本国の人口のざっと10倍以上。米国のケネディ元大統領やレーガン元大統領領もアイルランド系だ。「FBI(外国生まれのアイルランド人の俗称)がアイデンティティーをつくる」とさえ言われる。
 「辺境と逆境が独立心や自尊心を磨き、どこにもない個性を育てた」と話すのは国立ダブリン大学のデクラン・カイバート教授(アイルランド演劇・文学)。
 「一方でアイルランド(ゲール語)をお蔵に入れ、英語を第2公用語にする柔軟な受容力がある。『血』や地域に縛られず、世界に新天地を求める。アイルランド人にはグローバル時代に適合するDNAが備わっている」
 国際会議を成功させるこつは、インド人を黙らせて、日本人を喋らせること、という冗談がある。さすがにインド人には及ばないが、アイルランド人もいずれ劣らぬ雄弁家ぞろいである。
 だが、おしゃべりとは違う。苦難の歴史のなかで、たくまずして研ぎ澄まされてきたコミュニケーション能力なのだろう。――

 このアイルランドとアイルランド人を語る文章は日本と日本人の姿をおのずと映し出している。そう意図した記事かどうかは分からないが、「国際会議を成功させるこつは、インド人を黙らせて、日本人を喋らせること、という冗談」はまさに的を射た本質的な日本人論となっている。

 「会議」は常に何らかの〝決定〟を目的としている。〝決定〟を目的としない会議は会議とは言えない。その「会議」が一度打ち合わせたことを確認する集まりであったとしても、その確認した事柄が最終決定事項となり、そこには〝決定〟が絡んでくる。日本の閣議が議論らしい議論もなく、単なる顔合わせで終わることがあるということだが、日本だから許される〝決定〟不在の会議とは言えない時間潰しであろう。

 「会議」の〝決定〟に向けて議論に加わらないことは、〝決定〟の内容如何を問わずに無条件の従属を専らとすることを意味する。それを可能としているのは日本人が行動様式としている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を下地とした従属性以外にあるまい。おとなしく従う日本人というわけである。だからこそ「ものを言う日本人」が求められたりしたのだろう。

 「国際会議を成功させる」ために「インド人を黙らせて、日本人を喋らせ」たとしても、〝従属〟に慣らされている日本人は他人の議論の焼き直しや機械的な積み重ねといった新たな〝従属〟を展開するのが精々で、創造的な議論は望めないのではないだろうか。言われているところの戦略性の欠如は創造的議論の欠如の言い替えであろう。

 佐田行革相が政治資金収支報告書記載問題で昨日(06.12.27)辞任したが、このことに関連した安倍政権の「リスク管理」の脆弱さと曖昧な「責任の所在」を解説した『時時刻刻 政権に傷 幕引き淡々』(06.12.27.『朝日』朝刊)に次のような一節がある。

 ――首相周辺からは「首相の意向を眺めるだけで、自分で考えて行動できない『わら人形』のような人ばかり」という嘆きが漏れている。――

 この図柄を会議の場に当てはめると、議論に加わらずに眺めているだけという図柄となる。その先に「首相の意向」に無条件に従属する姿と会議の決定に無条件に従属する姿が重なって導き出されることとなる。

 アイルランドのソフトづくりによる世界に向けた発信・発展は「『血』や地域に縛られず、世界に新天地を求め」た思想性・行動性にあるとアイルランド人自身(「国立ダブリン大学のデクラン・カイバート教授」)が解説しているが、翻って日本が得意とし、日本の発展の原動力となっている〝モノづくり〟はアイルランドとは逆に「『血』や地域に縛られ」ていることの成果としてあるものだろう。

 単一民族主義はまさに「『血』や地域に縛られ」た姿としてあるもので、それが日本人性となっている。日本人性である以上、当然の帰結として、単一民族主義は〝モノづくり日本〟の原動力となっているとしなければならない。

 権威主義は当たり前のことだが、常に〝権威〟を価値基準とする。民族的な〝権威〟が単一民族主義ということだろう。単一民族主義を支える基本の思想が〝万世一系〟であり、〝男系〟であろう。多民族主義へと変じたなら、〝万世一系〟も〝男系〟も価値を失い、意味を失う。〝万世一系〟も〝男系〟も日本民族の看板に過ぎず、他民族の看板として通用しないだろうからだ。

 単一民族主義は〝モノづくり日本〟の原動力となっている。〝モノづくり〟の工程自体が日本人が行動性としているお得意分野の〝従属〟をプロセスとしているからだろう。現在あるモノに〝従属〟させて、新たな工夫を付け加えるのがモノづくりであって、モノづくりは〝従属〟を条件としている。車にしてもテレビにしても、パソコンにしても、その他殆どの〝モノ〟が最初は外国が創り出し、外国によって与えられたその当時あったモノであり、そのモノに従属させて工夫を積み重ねていき、現在の中国のように人件費の安さを武器として世界に日本製品を流通させていった。その結果のモノづくり日本であろう。

 日本が世界に誇る〝モノづくり〟が「『血』や地域に縛られ」ていることの成果としてあるからこそ、安倍晋三なる政治家・日本の美しい首相は〝モノづくり日本〟の一層の発展のためには日本人をより強固に「『血』や地域に縛」ることを必要と感じて、子供の頃からそのように教育すべく、改正教育基本法「第一章 教育の目的及び理念 第二条(教育の目標)五」に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」なる文言を付け加えたのだろう。

 自国の歴史・文化・伝統に拘り、「国を愛する」ことで自国に拘る。すべてが日本人という「知」、日本という「地域」に縛ることを思念している。「血」優先・「地域」優先の安倍思想が見事に改正教育基本法に反映された。

 「世界に新天地を求める」は単に物理的な人間の移動のみを意味するわけではなく、「『血』や地域に縛られず」「知」の世界に向けた探求(「世界に新天地を求める」)をも意味する。自国のみの「知」に拘らず、世界に「知」を求め、世界から「知」を受け入れ、自らも世界に向けて「知」を発信する。世界と自国間に向けた「知」の双方向化・「知」の交換であろう。

 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」に拘っていては、思想・哲学にまで高めることができる柔軟な「知」の双方向化も「知」の交歓も望めない。単一民族主義を立脚点としている間は、内向きの〝従属〟のアンテナばかりが働いて、他国の権威を受け入れ、相対化する柔軟性を学ぶ「知」の働きに期待はできない。

 まあ、美しいばかりの安部センセイが決めたことである。

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佐田行革相は有罪とすべき

2006-12-27 08:03:14 | Weblog

 安倍美しい内閣の群馬1区選出・佐田行革相の政治団体が東京都内に架空の事務所を構え、存在しないのだからかかるはずもない事務所経費を7800万も支出していたかのように政治資金収支報告書に虚偽記載していたという。

 本人は記者会見で、「私も報道でビックリしてるんですけれども。兎に角、その、地元の方にですね、よく調べるようにということで、指示は出してあります」
 ――7800万円の使い途って言うのは。
 「いや、だから、今兎に角調べるように言ってますから、私はちょっと分かりません」と自分は無関係だといったふうに述べていた。

 例え本人が関知しない場所で本人とは無関係に仕組まれた虚偽・ゴマカシであったとしても、それが部分的な虚偽・ゴマカシに過ぎなかったとしても、そのような虚偽・ゴマカシの上に佐田玄一郎という一個の美しい政治家が支えられ、存在していた事実・経緯は消すことはできない。

 いわば例え僅かであったとしても、虚偽・ゴマカシから直接・間接に有形・無形の利益を受けて佐田玄一郎という一個の美しい政治家を形成するに至っていた。少なくとも部分的には虚偽・ゴマカシを養分として美しい政治家を成り立たせる栄養としていた。例え本人の知らないことであったとしても、そういった美しい虚妄を実体とした姿を国民の前に存在させていた。

 このような構図を取っていた以上、自分は知らないことだからと無罪放免とすることができるだろうか。自分は無実・無関係だからと、行革相の地位にとどまるとしたら、安倍美しい内閣にふさわしい美しい出処進退に当たるとは言える。

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久米宏の「『島国根性』の視野の狭さ」の胡散臭さ

2006-12-25 09:28:32 | Weblog

 「朝日」に次のようが記事が出ていた。「久米さん10年後の謝罪 Nステで『外人の日本語は片言がいいよね』」(06.12.21/夕刊)

 内容は見出しから推察できるとおり、日本語を流暢に操る外国人に対する感想として久米宏が「外人の日本語は片言の方がいいよね」と喋ったことに対する「米国出身の有道出人(あるどう・でびと)」氏の抗議と「10年後の謝罪」美談(?)というわけである。その一部始終のイキサツは有道出人氏のHP「Arudou Debito/Dave Aldwinckle's Home Page」 に掲載されている。かいつまんで紹介すると、

 「あるインド人が非常にお上手な日本語でしゃべ(っ)たようです。
 その後、久米さんはこうおっしゃったそうです
『しかし、外人の日本語が片言がいいよね』」――
テレビ朝日に直接電話して抗議したところ、応対した者が「『片言は悪い言葉だと僕は思わない。あんただけだよ。』」と答えたという。

 それが突然「10年後」に久米宏から謝罪のメールが届いた。その内容を引用すると、

 「突然のメールで恐れ入ります。
私は、3年前までニュースステーションという番組に出演していた
久米宏と申します。
10年ほど前の話で恐縮ですが、
私が番組の中で、「外国人があまり日本語がうまいのはどうも・・・」
という趣旨の話をして、
それに対して貴方様が抗議の発言をしていらっしゃるのを最近知りました。
その時の状況は覚えています。
その方は、とにかく物凄く日本語が上手で、
あまりのうまさに驚いて、やはり外国の方は、外国人だと分かる日本語を話して
くれないと困る、というニュアンスで僕は話した記憶があります。
しかしながら、良く考えてみると、これはかなり失礼な発言だと思います。
いわゆる「島国根性」の視野の狭さ、と反省しています。
もし不愉快な思いをされたら、今頃何をとお思いでしょうが、
心からお詫びします。
                      久米宏。」――

 有道出人氏は 「いつもテレビ朝日のニュースステションを拝見し、久米さんのざっくばらんのスタイルは非常に爽やかだと思います。」と久米宏に「片言」発言以外は好印象を持っている。また「私から皆様にお伝い(し)たいのは、久米宏さんは非常に良心的な方なので、いくらでも過去なことがあってもかかわらずきちんと責任を取ろうとしていますね。私から心から感謝いたします。どうもありがとうございました!」と、久米の〝潔さ〟を褒め称えている。

 果して〝潔い〟とすることのできる「謝罪」なのだろうか。久米宏は自らの過ちを「『島国根性』の視野の狭さ、と反省しています。」と一般化している。一般化で済ますことができるだろうか。ごくごく平均的な一市民であったなら、その発言はその者が活動する狭い世界にほぼ限られる。インターネットで発信したとしても、その匿名性、もしくは無名性によって、流布の制限を受ける。

 だが、久米宏は一つのテレビ局の視聴率高い、その高さに比例して社会的に広範囲に影響力を持っていると言える報道番組の〝顔〟として、長年ニュース報道に携わってきたのである。影響力の獲得は信頼の獲得に比例する。そして信頼は常に正当性をバックボーンとすることになる。正当性を失ったら、信頼されず、信頼されなければ、影響力を失う逆のプロセスを辿る。その発言・態度に正当性あるものとして信頼されていたからこそ、高視聴率を維持できたのだろう。

 私自身は現在以上に以前はニュース番組や報道番組にチャンネルを回すよう心掛けていたが、久米宏の物言いが表面的、皮相的に思えて、いわば軽薄そのものに思えて神経が苛立つことが多く、単に事実を知ることを必要とした数回程度しか覗いていない。現在の司会者もその強すぎる何様意識が生理的に受けつけず、交代した当座、試しに覗いた程度で、最後のプロ野球ニュースぐらいはほんの数回覗いてはいるが、最後にチャンネルを回したのはいつのことか、覚えてすらいない。

 いずれしても社会的影響力を持った者の発言である。どのようなものであっても、自分の発言・主張・見解が瞬時を置いて全国に流れ、多くの人間の思考に正当性と信頼性を裏打ちした影響を与えることを常に自覚していたはずであるし、自覚していなければならない立場にあったはずである。

 そして現在でも報道人としての立場で活動している。それを可能としている要素は、社会的信用にまで高め、さして失わずに維持している正当性と信頼性を成果とした社会的影響力であるはずだし、そのことの証明でもあるだろう。

 このことを裏返すなら、テレビカメラの前に顔を曝すことになる最初から「『島国根性』の視野の狭さ」に侵されることはいっときでも許されない立場に立たされていたのであり、現在でも同じ立場に依然として立っていて、そのことを常に自覚して自らを律するのが自らに課すべき責任と義務でもあるし、自己の立場上の社会に対する責任と義務でもあろう。

 そうであるのに失言の原因を「『島国根性』の視野の狭さ」とし、それで済ませてしまっている、この安直さ、無神経、無感覚はどのような責任と義務の感覚からきているのだろうか。

 もしも「『島国根性』の視野の狭さ」を久米宏が資質としているとしたら、それはすべてに反映されるだろから、一部の資質に過ぎないとすることはできず、その上報道人としてはあってはならない資質である以上、有道出人氏のように朝日テレビの「ニュースステション」の久米宏に好感を持ち、番組に親しんできた多くの人間が実際は「『島国根性』の視野の狭さ」を内に隠した人間の発言・主張・見解に、それがもっともらしく繕った見せかけであることに気づかずに正当性と信頼性を与えつつテレビ画面を通して接していたというパラドックスを滑稽にも演じてきたことになる。

 私自身としたら、元々信用していなかったし、それとなく感じていた胡散臭さが証明された形だが。

 抗議に対して応対に出たテレビ朝日の人間の「『片言は悪い言葉だと僕は思わない。あんただけだよ。』」は、「片言が悪い」と言っているのではなく、「外人は片言の方がいい」という束縛意識を問題にしたのだろうから、筋違いの自己正当化であり、相手に対して見当違いな冤罪を犯したことになる。

 外国語を話し始めるとき、誰もが「片言」から出発する。日本人も例外ではない。いきなり流暢に喋れる人間などいないだろう。それを「悪い」とすることは誰もできなし、誰も「悪い」としないだろう。そのくらいのことも咄嗟に頭に回らないような人間が天下の朝日テレビで電話の応対に出る。そのことも驚きである。

 束縛意識は抑圧意識を背景とする。軽い気持ちで言ったとしても、流暢に日本語を話す多くの外国人を直接・間接に見てきてもいるはずで、そのことに棹差す要求となっているのだから、「片言」に抑えておきたい欲求に衝き動かされた「片言の方がいいよね」であったろう。ニュース報道で正義の人を演じ続けている間に「島国根性」の一変形でもある何様意識の権威主義に侵されて持つに至った無意識の権力意志が、干渉できるはずもない外国人の言葉遣いに強制意識を滲ませた干渉を行ってしまったのではないだろうか。

 かなり前に新聞記事で知ったことだが、嫁の来てがないまま中年に達してから結婚紹介業者の仲介で韓国人女性を妻とした日本人男性が、妻に外に出ることを許さず、人前で彼女の母国語である韓国語を喋ることも禁じたそうだ。名前も日本風に改名させた。彼女は流暢に日本語を操れるようになるまで、片言の日本語も使わせてもらえなかったに違いない。見事なまでの強制性・独善性である。

 韓国人女性を妻にしたのは、顔だけでは外国人と見分けがつかなかったからだろう。しかし一言でも喋れば、日本人でないことが露見してしまう。それを隠そうとするのは韓国人女性を妻としたことを恥ずかしいとしているからで、韓国人を下に見る権威主義的な差別意識からの隠蔽であろう。もし白人女性だったら、見せびらかし歩いたに違いない。島国に住むことで育むこととなった「島国根性」が日本型の独善的な権威主義を行動様式とさせるに至っている。 

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真に必要な道路・ムダな道路の「定義」

2006-12-24 06:08:24 | Weblog

 道路特定財源の見直し問題が「道路歳出を上回る税収」に限って一般財源化するという、道路建設にお墨付きを与える趣旨の方向で政府・与党の間で決着というか、妥協を見たというか、その後を受けた06年12月10日のNHK『日曜討論』。

 共産党小池晃政策委員長「真の道路っていうのは誰が決めるのかと言うことですね。自民党の道路族はこれは、ここは真に必要な道路、ここの道路は真に必要な道路、そうやっていたら、とにかく今までの構造と何も変わらないじゃないかと。で、やっぱしね、おかしいと思うのは色んな予算の中で道路だけは優先で、無条件でここまではもう使いますよと。そこから今は財政大変だって言うんで、色々財源どこから持ってくるか、ああだこうだ議論してやっているときに、道路だけはここまでは使いますという仕組み優先で使えるという必要残しているでしょ?そういう遣り方したら、本当の意味でムダな道路なくすなんていう力が働くのか。私は結果としてですね、そういう遣り方をすれば、まあ、今までと同じようにね、ま、ムダな道路がどんどん造られていくっていう構造、そのまま残ると思いますよ」

 中川昭一政調会長「真に必要な道路と言うのは国民の代表の専門家の方々をご意見を聞きながら、政府が決定するわけで、決して道路族が造るものではございません」

 小池「一般財源の中で必要な道路を造っていけばですよ、私たちは私たちで道路は造るなとは言ってないんですよ。必要な道路は造ればいいんです。しかしそれは色んな諸課題の中で、同列で横並びでね、道路だけは特別扱いするのはおかしいのじゃないかと。そいう中で本当に必要な道路と厳選されていくんじゃないですか?」

 中川「厳選されていくと言うのは分かりますけど、真に必要な道路という定義も分からない。じゃ、ムダな道路というのはどう考えることをムダなと言うのか。例えばね、松木さんや小池さんや私んところ(の選挙区)で、道路造ってもらいたい、貰いたいっていう切実な気持ちがあります。台数(通行量)が少ないとか、色々なまあムダの定義はあるかもしれません。でも、そこに住んでいる人たち、生活者にとってみればですね、ある意味命がけです。積雪関連地帯ではね。だから何がムダだと言うこともね、ある程度定義を決めていかないと、何か地方に造るのはムダだとかね」

 小池「そんなことは言ってませんよ」

 民主党議員「問題はさっき申し上げたように決め方の問題で、我々省庁のみなさんに道路に関係する、いくつかの省庁が跨っていますけれど、申し上げたことあるんですよ。『なぜ必要なのかということを我々に説明して予算を要求されたらいいんじゃないですか。先ずこの道路の金額、枠を守ってください、という陳情ではなくて』そこで、『ウーン』と言われるわけですよ。つまり、先ずおカネを確保するという発想で今までもあったんですよ、現実には。だから、この特定財源のことが問題になってきているわけですよ。だからちゃんと必要性を・・・・」
 ――
 何を以て〝真に必要な道路〟と言うのか、何を以て〝ムダな必要な道路〟と言うのか、定義を持ち出したのはなかなかの策士といったところだが、この「定義」論には大きな誤魔化しがる。「真に必要な道路という定義も分からない」は野党が言う場合の「定義」が分からないということで、自分たち自民党が言う「真に必要」の定義は分かっているという誤魔化しである。だからこそ、いくらでも造り続けることができたのだろう。

 つまり自民党道路族が「真に必要な道路」と言えば、「真に必要な道路」になると言うことであり、「ムダな道路」と言うのは野党が単に反対の立場から言っていることで、自民党からしたら「ムダな道路」は存在しないと言うことである。「何がムダだと言うこともね、ある程度定義を決めていかない」とは言っているが、それは野党が言う「ムダな道路」という批判を否定するための方便で、何しろ必要と言う点では「そこに住んでいる人たち、生活者にとってみればですね、ある意味命がけ」なのだからと正当づけている。

 何を以て〝真に必要な〟であり、何を以て〝ムダな〟だろうか。将来の首相候補、安倍晋三と似た者同士の中川昭一の発言から、改めて考えてみた。

 道路建設にはどのような基準が設けられているのか、道路関係四公団民営化推進委員会が実施した「高速道路の建設に関する基準等世論調査」の結果を反映すべしとした、2003 年7 月22 日提出の道路公団民営化委員会の猪瀬直樹委員提出資料なるものから見てみる。今以て真に必要な道路とは何か、ムダな道路とは何かが議論されているのだから、3年前の資料であっても、決して古くはない。

 「道路関係四公団民営化推進委員会が実施した『高速道路の建設に関する基準等世論調査』の三指標間の『重み付け』の数値は、『採算性』が35・7%、『事業効率(B/C、費用対便益)』が36・1%、『その他外部効果(波及的影響)』が28・2%であった」とのこと。

 これに対して「国土交通省が知事・政令指定都市市長らにヒアリングした調査結果と大きな違いが生じた。国交省が知事らの意見を反映させた『重み付け』数値は、『採算性』と『事業効率(B/C、費用対便益)』は25%程度、『その他外部効果(波及的影響)』だけは突出しおよそ50%となっている」と逆転状態を示している。

 「そのほか外部効果(波及的影響)」に関しては次のように詳述している。「『高速道路の整備を前提とし』て『スポーツ施設』や『文化施設』などの『施設整備』を行ったり、『高速道路の利用に関するパンフレット・チラシ、小冊子等の配布』や『高速道路に関する出前講座』を行うといった『地方の創意工夫による自主的な取り組み』の数が増えれば増えるほど点数があがる仕組みになっている。このように客観的とは言い難い指標を重視するのは問題ではないか」と批判。

 次に「世論調査」の内容と結果をざっと見てみる。

Q1、高速道路料金についてどう思いますか?
   高い50.0%+やや高い25.1%=75・1%
Q3、費用便益比(B/C)の高い路線から順に建設すべき
   だと思いますか?
   賛成 36.1+どちらかというと賛成 36.5=72・6%
Q4、B/Cの低すぎる路線は建設しないなどの足切りライ
   ンを設ける必要があるとか、建設費があまりに高額
   な路線については再考が必要だなどと思いますか?
   賛成43.2%+どちらかというと賛成33.5%=77・7%
Q5、規格の見直しやコスト削減をすれば採算が合う高速
   道路の建設について、どのように考えますか?
 ・採算が合わなくても、計画通りに高規格の高速を建
   設すべき=5%
  ・採算が合うように、規格の見直しやコスト削減をし
   たうえで建設を続けるべき=52・6%
  ・採算が合わない高速は建設すべきでなく、早く通行
   料金の値下げをすべき=38・5%
  ・わからない=3・2%
Q6、規格の見直しやコスト削減をしても採算が合わない
   高速道路の建設について、どうすべきだと思います
   か?
  ・採算が合わなくても、これまでどおり借金で建設す
   べき=4・7%
  ・採算が合わなくても、税金で建設すべき=11・8%
・採算が合わない高速道路は建設すべきでなく、早く
   通行料金の値下げをすべき=76・8%
  ・わからない=6・8%
Q8、B/Cや採算性が同レベルの場合、工事の進捗率が高
   い高速道路から優先的に集中投資することについて
   どう思いますか?
  ・賛成=35.4%
 ・どちらかというと賛成=39.5%
Q9、進捗率が以下の段階のとき、どんな処置をすべきだ
   と思いますか?
 ・「進捗率10%未満の路線は無条件に凍結すべきという
  意見が5割以上」という結果。
 ――
 以上を見てみると、最後の「進捗率10%未満の路線は無条件に凍結すべきという意見が5割以上」という結果が象徴的に示しているが、道路建設の側から判定した「採算性」、「事業効率(B/C、費用対便益)」、そして殿(しんがり)に「そのほか外部効果(波及的影響)」の各要素を建設基準としている。「重み付け」の順位からすれが当然の結果でもあるが、上記NHKの『日曜討論』も同様の構図を取った議論となっている。

 だが、道路は車両通行者の「便益」のみのために存在するわけではない。地域(地方)を先に持ってきて、その振興・活性の「採算性」・「事業効率(B/C、費用対便益)」・「そのほか外部効果(波及的影響)」の中に道路自体の「採算性」・「事業効率(B/C、費用対便益)」・「そのほか外部効果(波及的影響)」は計算されるべきではないだろうか。

 逆説するなら、地域の活性化に供与しない道路建設はムダな道路とすべきだということである。このことをさらに裏返すなら、道路建設は車両通行者の便益や採算性を目的とする以前に地域活性化の付帯事項とすべきだということである。

 「国土交通省が知事・政令指定都市市長らにヒアリングした調査結果」で建設基準とすべき指標値が「50%」も示した「そのほか外部効果(波及的影響)」は、「『スポーツ施設』や『文化施設』などの『施設整備』を行ったり、『高速道路の利用に関するパンフレット・チラシ、小冊子等の配布』や『高速道路に関する出前講座』を行うといった『地方の創意工夫による自主的な取り組み』」によってもたらされるとしているが、これはあくまでも「高速道路の整備を前提と」し、道路利用率を高めることを出発点とした「外部効果(波及的影響)」を目的としていて、地域活性を「前提とし」、それを出発とした「外部効果(波及的影響)」を目的としているとは言い難い。

 地域活性・地域振興の一環として、それとの一体的な取組みによって道路建設はなされるべきだろう。立派な道路はできたが、周辺地域が過疎化するだけでは、道路を建設した意味を成さなくなる。その道路が若者が都会に出て行くためと、盆と正月の年に2回帰省するときに主として利用されるだけなら、それがどのようなラッシュを来たし渋滞しようと、そのことのために道路は建設されるべきではない。都会に出た若者は都会生活でそれ相応の便益を得ているはずである。その上に帰省時の渋滞緩和という年に2回の便益を得るために立派な道路を求める資格はないだろう。土砂崩れ等の危険は別問題として、既設道路が狭くて運転し辛いとか、時間がかかりすぎるといった不便は我慢すべきである。

 立派な道路は造った、地域は過疎化によって衰退していく。衰退していく地域の立派な道路という図式はあまりにも倒錯的であり、あまりにも逆説的であり過ぎる。地域振興があってこそ、道路は生きてくる。

 地域・地方が衰退し、死に体化したなら、道路も死に体化する。地域・地方が過疎化し、老人ばかりが残って孤立し、病院に通うにも道路が整備されていないから不便だということなら、道路建設にかけるカネで地域・地方に医者・看護士を一般よりも高級で雇い、快適な住居付きの診療所を設けるべきだろう。例え赤字でも、建設費にかける膨大なカネを補助金に回せば、運営は可能ではないだろうか。第一、地域住民の福祉に恩恵する。

 逆に「採算が合わなくても」、地域活性を目的とし、その付帯事項としての道路建設であったなら、道路自体の採算性は地域活性度との差引計算で算出・評価されるべきだし、主目的とした地域活性が果たされた場合、道路自体の採算性も回復するはずである。

 都市と地方の格差拡大が続いている。地方が確実に衰退に向かっていることの証明としてある格差拡大現象であろう。高速道路であろうと一般国道であろうと、衰退した地方を結ぶカネをかけて建設した道路は、すべてムダな道路だったとしなければならない。

 例えば東名高速道がいくら車両通行量が多くても、東京や沿道の主要都市のみに利益を与え、それ以外の小都市・地方にはさしたる利益を与えないか、衰退への歯止めの役目を果たさない構造の道路なら、その偏りから見た場合、取り残された都市や地方にとって何のための通行量かということになる。沿道及びその近郊の小都市をも活性化させる実効的な政策を並行させて、初めて通行量は意味を持つのではないだろうか。

 政治が「結果責任」を構造としているなら、地方の衰退、都市と地方との格差を以てして、道路族は何のための道路建設であったのか、一度反省すべきだろう。

 「必要な道路」とは地域振興に必要不可欠となる道路であり、「ムダな道路」とは地域振興に役立たない道路を「定義」とすべきである。

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的外れな教育再生のキー

2006-12-23 06:44:11 | Weblog

 安倍首相直属の教育再生会議が議論の取りまとめに紛糾しているようだ。何をやっても教育改革国民会議の二の舞、ムダに終わるだろう。「教育再生」の基本とすべきキー自体の設定が的外れを犯しているからだ。

 尤も「教育再生」に関わっているすべての議員がそれぞれに的外れを犯しているとは思っていないだろうが。当方としたら、的外れであることを証明しなければならない。

 安倍首相が郵政造反議員の復党を了承したのは11月27日(06年)、その最終決定を行う党紀委員会の開催日が予定されていた12月4日の前日の12月3日日曜日、フジテレビの「報道2001」で、造反議員復党で自民党が古い自民党に戻ったとする批判が国民の間にあるという司会者の言葉に、政治評論家の西部進が復党賛成の立場から、「地方に行くと、政治に深くコミットしている人ほど古い自民党に戻って欲しいと言っている。テレビでちょっと知っただけの政治にコミットしていない人間程、古い自民党が悪いようなこと言う」と、古い自民党を悪とするのは政治を知らない人間だと言わんばかりのことを口にしていた。

 これに対して同じ自民党から出席していた河野太郎が「中選挙区制度の元で自民党は大丈夫だと胡坐をかいて、既得権の甘い汁を吸っていた人たちが古い自民党に戻って欲しいと言っているだけ」と反論して、造反議員復党反対の立場から刺客新人議員代表といった感じで出席していた佐藤ゆかりを援護した。

 復党は安倍首相が了承するまでもなく、問題が持ち上がった時点から誰が見ても既定の事実と化すのは分かっていたことで、安倍首相の了承自体にしても、党紀委員会の決定にしても儀式でしかないことを見越していたのだろう、佐藤ゆかりは復党問題には直接触れずに、「自分で考え、判断して、実行していくのではなく、官僚が用意した答弁書をただ読むだけの代議士の方がいる」と自民党の自立していない、いわば古い議員たちを暗に批判して、議員にはそれぞれの役目があるだろうから、私は自分の考えで政策を実行していくだけといったことを確か言って、自分が古い議員ではないことをアピールしていた。

 〝確か〟というのは、録画していなく、記憶を探りつつ思い出しながら書いているからだが、なかなかうまいことを言うなとそのとき思った。女性議員同士の対決ということでマスコミが恰好のネタに取り上げているが、一頻りマスコミが持て囃していたあの軽薄単細胞新人・杉村太蔵は最近すっかりご無沙汰しているようだが、どうしたのだろう。早くも「あの人は今」にジャンル入りしてしまったのだろうかと余計な心配までした。

 もしかしたら、「官僚が用意した答弁書をただ読むだけの代議士の方」とは野田聖子議員その者を指していたのだろうか。日本の国会議員は政治家であるというよりも、官僚が作成して政府首脳が掲げる政策をなぞり、官僚作成の答弁書を読み上げ、あとは地元に利益誘導の便宜を図って票を如何に獲得するかの政治屋であれば務まると言われてから、疑えないことはない。

 但し、「自分で考え――」以下は、それが国会の光景の一部となっていることだから、正真正銘の事実であることは疑いようがない。

「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」能力の向上を図った『総合学習』が取り入れられたのは1998年度改訂の「小学校・中学校学習指導要領」からである。

 これは上記資質・能力に欠けていることの裏返し作業であろう。『総合学習』を学校教育の重要課題と位置づけた当時から、このような子どもの資質・能力の欠如は大人の欠如を受けた、その反映としてあるものだと主張してきたが、佐藤ゆかり議員の「自分で考え――」以下はまさにそのことの証明の一つとなる発言であろう。

 小選挙区になったと言っても、国会議員から市町村議員まで系列化し、下の者が順次上の者の〝顔〟(=影響力)の庇護を受けて様々な利益を獲得し、その見返りに票という利益を与えて、その票を順次上の者は金権的な利益に錬金する、「自分で考え、判断して、実行していく」自立性とは正反対の相互依存関係・グルの関係にあるのだから、古い体質は改まりようがなく、造反議員復党で「古い自民党に戻った」とする回帰局面は単に幻覚に過ぎない。

 国会議員から市町村議員まで系列の連鎖を断ち切って「自分で考え、判断して、実行していく」自立性を相互に獲得したとき、一番上の国会議員で言えば、官僚への依存を断ち切って自立を果たしたとき、あらゆる古さから脱却できるのではないだろうか。

 今の大人は「自分で考え、判断して、実行していく」自立の獲得にはもはや手遅れだろう。例え佐藤ゆかり議員が自立性を獲得していたとしても、周囲が自立的行動を許さないだろうから、いわば力ある者が多数を頼んで同じ行動を取らせようとするだろうから、自立化の一般化が必要となる。当然、自立的大人を育てるためには、子どものうちから始めることをしなければならない。

 既にここで「教育再生」の基本とすべきキーは「自分で考え、自分で判断し、自分で実行する」資質・能力の育成に定めなければならないことになると思う。その〝基本〟の上に、学力向上問題にしてもいじめ問題にしても議論を重ねるべきを、それとは正反対に「総合学習」的要素を排除して、それ以外の問題をそれぞれに部会を設けて別個に議論し、それらを持ち寄って最終結論を打ち出そうとしているようである。例え纏まったとしても、これまでと同様に見せかけの教育結果しか得ることはできないのではないだろうか。

 日本の学校に「自分で考え、自分で判断し、自分で実行する」資質・能力の育成教育が如何に欠けているか、それを伝える現場教師の新聞記事を基に、それが日本の教育方法となっている暗記教育が原因しているというこれまで何度も展開してきた持論を述べたメーリングリストの記事を見つけたものだから、参考になるか、ブログ記事としてそのまま記載してみた。「自分で考え、自分で判断し、自分で実行する」資質・能力の育成を「教育再生」の基本とすべきキーだとする主張とも重なると思う。
* * * * * * *
 送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
 宛先: <kokkai2@yahoogroups.jp>
 件名 : [kokkai2][07585] 日本人の情報処理能力と危機管理能力(2)
 日時 : 2006年1月25日 7:29

 手代木です。

 前回の「[kokkai2][07564] 日本人の情報処理能力と危機管理能力」で、日本人の危機管理能力の欠如は、暗記式・詰込み型の教育と深く関係しているのではないかということを言った。暗記式・詰込み型が知識(それもコマ切れの知識でしかないのだが)のなぞりを構造としていて、そのことが危機管理に最重要に必要とする考え・創造する力(=柔軟な発想)を必然的に欠落させることとなっているからだが、またそのことが日本の政治や外交の戦略性の欠如につながっているのではないのかとも言った。

 スクラップを紐解いていたら、上記の考えを補強する新聞記事に出会った。現場教師の意見で、具体的であるから、全文紹介してみる。

 全文を紹介するのは、自分の主張に都合がいいとこだけをツマミ食いして紹介、もしくは脚色することとなったら、一種の情報操作を犯す(ホリエモン騒動で言われている<偽計>にも当たる)ことになるから、そうではないことを証明するためと、人によっては異なる解釈を施す場合もあることを考慮して、その必要に応えるためにも、結果的に長文となるが、なるべく全文か、それに近い形で紹介することにしている。

 相変わらず朝日新聞からの引用で、1998年8月16日の記事です。悪しからず。

 『自分で調べ、論じる方法 教師も教えられなかった』

 和井田清司・千葉県立小金高校教諭 

 「日本で政治教育が定着しなかった背景には、現実の問題を率直に取上げる戦後の『社会科』という科目のやり方が、当時の教師や社会に受入れられなかった面もあった。社会科教育の歴史に詳しい国立教育研究所の研究協力者・和井田清司さん(千葉県立小金高校教諭)に聞いた。

 昭和20年代はエネルギッシュな時代だった。当時の高校新聞を見ると、生徒は高い政治意識を持ち、天皇制や再軍備といった問題を正面から論じた。ところが、大方の教師はそうした関心にこたえるだけの授業ができなかった。

 無論教師は、人権や民主主義など憲法的理念は身につけていた。だが実際の授業となると、生徒に何かを教え込むという、戦前以来の伝達式授業方法が殆どだった。

 政治とは、異なる価値を持つ人間が、討論を通じて合意を探る作業と言える。生徒に自分で問題を探らせ、発表や討論を通じて学習する方法が有効ははずだったが、それができなかった。当時は学校対抗の討論会が盛んでクラブ活動などではディベートが流行したが、その方法が社会科の教室での授業に採り入れられることもなかった。結果として教師の政治への見方を教えるということになりがちだった。

 高校社会科の一科目である『時事問題』の盛衰が象徴的だ。『時事問題』は、1947(昭和22)年の学習指導要領に登場。教科書はつくらずに現実の時事問題の中からテーマを設定し、生徒の調査・研究・討議を通じて学習することになっていた。しかし、教え込み型の授業に傾きがちな教師には不人気だった。やがて教科書がつくられ形式化が進んだ。結局、討論学習を成立させる具体的な方法や手引きもないまま、56(昭和31)年版学習指導要領で消滅してしまった。
 
 また、当時の高校社会科には社会的条件とのミスマッチという問題もあった。選挙違反について新聞に投書した高校生の一家が地域で村八分になったり、社会科の学習に熱心に取り組んだ生徒は就職に不利になったりするという事例すらあった。

 社会的問題を探求的に学ぶ必要性は、いまの時代はますます高まっている。かつてのような社会とのミスマッチも消えつつある。戦後初期の社会科の失敗の中から教訓を汲み取り、ディベートなどを活用した政治学習が実行できる時代になってきたのではないか。」(引用以上)
 ――――――――
 (以下は私自身の解説)

 「自分で問題を探らせ、発表や討論を通じて」「社会的問題を探求的に学ぶ」主体的な学習機会を持たないまま卒業して、大人となっていき、その循環が繰返されている。

 <主体的>とは、自覚的な意志・判断が基準となって発揮される行動性を言い、その先に創造性が関わってくる。指導力も責任遂行も、<主体的>であるところから生まれる。その逆の姿にある生徒を世に送り出しているということだから、政治家・官僚にしたって、同じ姿のなり代わりで、主体性も創造性も期待できないのかもしれない。

 新聞記事は限られた文字数で自説を展開しなければならない限界を抱えていて、主張のすべてを言い表せるわけではないから仕方のないことだが、解説に不足と思われる箇所を補足してみる。

 記者がまず質問している、「現実の問題を率直に取上げる戦後の『社会科』という科目のやり方が、当時の教師や社会に受入れられなかった面もあった」という状況は、それがアメリカの教育使節団が提言して実現させた教育内容であって、例え西洋社会にごく妥当な性格のものであっても、日本の土壌にふさわしくない作物だったということだろう。慣れないことに手を染めたわけである。

 尤も土壌を改良し、作物に手を加えることで、目指すべき収穫を可能とすることができないわけではない。しかしそれができなかった。

確かに、当時の「生徒は高い政治意識を持ち、天皇制や再軍備といった問題を正面から論じた」だろう。生徒だけではなく、一般の大人の「政治意識」も高揚した時代だったはずである。神国日本のあり得べからざる完膚なきまでの徹底的な戦争敗北と国土の荒廃を受けた上、外国軍隊の日本占領、そしてGHQの大日本帝国の解体となる公職追放や警察改革、特高・内務省の解体、御真影の禁止、農地改革、教育改革、国家神道の廃止等々が続いたのである。いやでも政治意識が高まらざるを得なかっただろう。高まらなかったとしたら、丸きりの愚かな国民となる。

 但し、そのような「政治意識」が、その時代に横たわることとなったすべての問題を、日本人全体(=すべての自分自身)が関わってもたらした過去の反映、あるいは帰結として存在しているものであり、そのことの自覚をも含めて、自分の目・頭で把え、自分で判断し、それぞれを自分の主張として表現した政治性であったかが問題となる。

 60年安保時代は高校生まで巻き込んで大学生主体の学生運動が全国的に高揚したが、彼らの演説ときたら、一般の耳には騒音にしか聞こえない独特の抑揚で、喚き散らすだけのものだった。思想そのものはレーニンや毛沢東が一度使った言葉のそっくりそのままの受け売りか、焼き直しのなぞりでしかなく、そのこと自体が既に自分自身のものではない、他人から「伝達」された思想でしかなく、後は、なぜそうなのかという説明もなく、「安保反対」とか、「アメリカ帝国主義」、あるいは「日本反動勢力」の打倒とか、実現させるだけの知力も武力も持たないからだが、口で言うだけの「世界同時共産主義革命を今こそ目指そう」といった、決まり文句を並べ立てるだけの主張展開で、果たして内容的にも「高い政治意識を持」っていたと言えるかどうかである。

 「無論教師は、人権や民主主義など憲法的理念は身につけていた。だが実際の授業となると、生徒に何かを教え込むという、戦前以来の伝達式授業方法が殆どだった」という状況にしても、少なくとも教師一般は、「身につけていた」「人権や民主主義など憲法的理念」が「戦前以来の伝達式授業方法」に従って得たなぞっただけの知識で、自己化にまで至っていなかったということだろう。

 思想・知識が自己化していたなら、ことさら教えるという作業をしなくても、会話を交え合いさえすれば、おのずと伝わっていくものだからである。年々のその積み重ねが、すべての生徒ではなくても、「教え込ま」れたものではない、教師から自然と受け継いだ思想・知識を自己化していくという構図を取るはずである。

 大体が「人権や民主主義など憲法的理念は身につけていた」と言っても、敗戦を境に昨日までの天皇主義・軍国主義に変わって民主主義を今日与えられたといった急場にあったのである、5年や10年で自己化に至るまで「身につ」くはずはなく、俄か仕立てされた付け焼刃に過ぎなかっただろうことは想像に難くない。今もって、人権小国といわれている日本である。5年10年どころか、敗戦後65年経過しても、「身につい」ていない始末ではないか。

 日本の教育を民主化するためにアメリカの第1次教育使節団が日本にやってきたのは、1946年(昭和21)の3月初旬であり、「教育の民主的な具体案として六・三制や男女共学、PTA、教育委員会の設置などを」(『日本史広辞典』)3月30日にまでに報告書にまとめてGHQに提出している。教育基本法案が国会に上程されたのは翌1947年(昭和22)の3月13日で、3月31日に交付されている。六・三制が発足したのは、同年4月からで、最初の学習指導要領もその前月の3月に定められた。

 南原繁東京帝大総長を委員長とする日本側教育家委員会も参加してまとめた提言だと言うことだが、アメリカ教育使節団の「理念は教育の中央統制の排除、地方分権化とアメリカ型教育システムの導入であ」り、「これを受けて制定された教育基本法に依拠して新制度が実施された」(『日本史広辞典』)と言うことだから、アメリカ教育視察団の教育思想の影響をより多く受けた改革だったことが窺える。

 このことは当時の学習指導要領が、「教師の参考・手引きの性格が強かった」が、「1958年の小・中学校学習指導要領全面改訂から文部省告示となり、国の基準として法的拘束力を持つとされた。以降、教育内容・教科書検定などに国の指導が強められている」(『日本史広辞典』)という経緯にも現れている。

 当初の学習指導要領の「教師の参考・手引きの性格が強かった」はアメリカ的な自由主義的傾向の強い影響を示すもので、それが「国の基準として法的拘束力を持つとされ」るに至った中央集権化は、いわば教育の日本回帰を示すものだろう。

 「戦前以来の伝達式授業方法」である「生徒に何かを教え込むという」教育方法にしても、教師による生徒の知識と判断に対する支配を示すもので、国の学習指導要領を利用した中央集権化(=中央支配)と相似形をなすものだろう。同じ日本人のすることだから、一致して当然なのかもしれない。

 だが、1958年の「全面改訂」までの11年間、学校・教師は「教師の参考・手引きの性格が強かった」状況を利用して、歴史上の一つの事件であっても、社会的な問題であっても、どのような把え方があるか、どう把えるべきかをお互いに議論しあい、それぞれの考えや判断を深化させ、創造性を高めていく自由な教育ができていいはずなのにできなかった。教師自体が如何に「戦前以来の伝達式授業方法」に慣らされていたか、歴史・伝統・文化・国柄としていたか、物語っている。

 教師が他人や書物から受けたボールを同じボールのまま生徒に投げて、生徒もそのボールをボールだけのものとしてキャッチするだけの順繰りの知識「伝達」を行っていると言ったことだろう。

 「1947(昭和22)年の学習指導要領に登場」した「高校社会科の一科目である『時事問題』」にしても、「56(昭和31)年版学習指導要領で消滅してしまった」のは、それが与えられた教科で、日本の文化の中に種を落とし、根付き育った作物としてあったものではなく、収穫の方法もわからなかったからだろう。

 だからと言って、「討論学習を成立させる具体的な方法や手引きもない」ことが、「消滅の原因」ではないはずだ。「方法や手引き」だけでどうなるものではないことは、2002年実施の総合学習と、その前身である「ゆとり教育」で、それを具体化する教科書がないためにどのような内容の授業をしていいのか判断に迷い、学校側が文部省に指示を仰ぎ、文部省がサンプルまで示して授業内容を指示するといった、総合学習やゆとり教育を「成立させる方法や手引き」を犬に餌を与えるように目の前にぶら下げてもらいながら、サンプルをなぞることしかできなかったから、各学校ともその範囲内で授業が画一化してしまったという前科が証明している。

 このことは「『時事問題』」が「教科書がつくられ形式化が進んだ」状況と重なる光景であろう。学校・教師自体が、教育に携わる身でありながら、「『時事問題』」で、「自分で調べ、論じる方法」を身につけていなかったのである。総合学習で言うなら、それが目指す「自分で考え、学び、自分で解決する力」を持っていなかったのである。

 そのような学校・教師に学ぶのだから、生徒の「自分で調べ、論じる」にしても、「自分で考え、学び、自分で解決する」にしても、できない姿は当然の結果としてあものだろう。その繰返しが歴史・伝統・文化・国柄となっていく。いや既になってしまった。

 アメリカの教育使節団が与えた「生徒に何かを教え込むという、戦前以来の伝達式授業方法」からの脱却の機会を、さして有効化もできずに無駄にし、ゆとり教育と総合学習によって再びそのチャンスを与えられながら、暗記知識でしかない学力の低下という、枯れ尾花が正体の化け物に怯えて、早々に遠くに追いやってしまった。

 要するに、「討論」する習慣が歴史的・文化的・伝統的に、いわば教育上の国柄として存在し得ず、代って暗記式教育習慣が存在していたに過ぎない。

 江戸時代の寺小屋からして、往来物と称する見本としてある手紙の内容を書かせて、文字と同時に手紙の書き方や文例、あるいは品物の名前や姿を覚えさせたり、山城とか、相模と言った当時の国名を書かせて、漢字と同時にその場所を覚えさせたりする、機械的になぞらせて、なぞらせたなりに機械的に記憶させていく、現在と殆ど変わらない受身の知識伝達、記事で言うところの「伝達式授業方法」を教育の姿としていたのである。

 大体が日本という国の成り立ちからして、律令制、その他の制度・思想・文物の中国からの移入、明治のフランス・イギリス・ドイツからの制度・思想・文物の移入。戦後民主制度・その他のアメリカからの移入。金融改革にしても、他の改革にしても、アメリカの制度を参考にするなぞりから出発している。日本の社会に――というよりも、公平であることよりも利害関係に合うように手直しして採用はしているが、だから、有効に機能することは少なく、矛盾だらけの綻びを手直しの上に手直しする繰返しが行われる。

 記事は「社会的問題を探求的に学ぶ必要性は、いまの時代はますます高まっている」と言っているが、何を試みても、過去の例が証明しているとおりの、日本の歴史・文化・伝統・国柄としてある学力重視の暗記式・詰込み型の「伝達式授業方法」の循環で終わるだろう。それは日本人の行動様式としてある、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義と重なるからである。

 大山鳴動ネズミ一匹すら出てこなかった元の木阿弥の繰返しだった。まあ、経済が破綻しない限り、それが借金であっても、カネで解決する力を失わないで済むから、政治や外交に戦略性がなくても、どうにか国としての格好はつけていけないこともない。
 
 戦略性・創造性の欠如を補うものとして、カネで解決があるのだろう。市民の福祉、高度な生活の構築に生かす知恵もないにも関わらず、箱物だけをつくる行政にしても、戦略性・創造性に代るカネの力というわけである。(以上)
 * * * * * * * *
 国(文部省)の教育思考で全国を統一する、自律性(自立性)とは正反対の中央集権性がそもそもの「自分で考え、自分で判断し、自分で実行する」資質・能力を排除・否定する構造になっていて、その上にある暗記教育がなおのこと「自分で考え、自分で判断し、自分で実行する」資質・能力の排除・否定を補強しているのではないだろうか。

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安倍内閣は個人商店ではない

2006-12-22 07:15:11 | Weblog

 本間正明税制会長辞任だけで終わらるのか

 例え「美しい」を売り物としている個人商店だとしても、家族が店のカネを誤魔化したり、子どもが学校でいじめを働いていたりしたら、「美しい」が多くの客に喜びを与えていたとしても、それは輝きを失い、客たちは騙された感じを抱くに違いない。

 ましてや商店主自身が税金を誤魔化していたり、儲けたカネをギャンブルや女につぎ込んで実際の経営は火の車だったりが露見して人間自体が美しくないことが世間に知れたとしたら、「美しい」は単なる経営の手段を出ない便宜に過ぎなかったと思い知らされ、製品自体の価値に変化はなくても、別の店に変えることになるだろう。他の店よりも安いとか、他の店に置いてないといった特別な理由があって、その店から買い続けることがあったとしても、素直に買い続けることはできなくなるに違いない。

 例えどのように素晴しい商品であっても、その売り買いは人を介して行われる。その際売主の品性を問わないのは直接的な接客態度に問題がなければ、通常であることを暗黙の前提とするからだろう。接客サービスの悪い店が客の寄りが悪いのは、それによって品性をも量っているからだろう。

 しかし接客態度はいくらでも装うことができる。接客態度で知ることができなかった売主の実際の品性が何かの機会に知らされたとき、利益を与えることを潔しとするだろうか。今まで利益を与えてきたこと自体をも悔やむこともあるに違いない。

 例え問うことも問われることがなくても、人間の関係は品性・人格の裏打ちを基本としている。相手の品性・人格に目をつぶって維持・継続させなければならない関係は惨めである。

 安倍内閣は安倍晋三一人の経営による個人商店ではない。譬えて言えば、国民を株主、あるいは顧客とした大企業に位置づけることができるだろう。担うべき声価は売り物の製品に当たる何を成したかの政策だけが問題となるのではなく、所属構成員のそれぞれの人格は勿論、それらがトータルされた全体的な品性によっても決定付けられる。

 自社製品が欠陥品であることを知りながら販売を続けるのは会社全体の品性が深く関わっている。政治家が国民向けの顔は誠実に振舞い、多額の政治献金を政治資金収支報告書に記載せずに裏ガネとして利用し、政策成立の取引に使っていたとしたら、どのような立派な政治を行おうと、国民は品性を差引いて低い評価しか与えないだろう。
 
 安倍内閣の品性は一人総理大臣たる安倍晋三の品性・人格に負うものではなく、構成するすべての閣僚、あるいは各内閣官房長官、さらに政策立案に関係する有識者会議といった各種会議、調査会、審議会のメンバーまで含めて負っている。逆説するなら、安倍首相自身が自らの品性を守るべく自らを律するのは勿論、品性欠ける人間を一人たりともメンバーに加えてはならないはずである。

 品性を問わずに、政策をすべてとすることが許されないからなのは言うまでもない。安倍首相自身にしても首相就任時にこのことを宣言して、その後も盛んに口にして自らの信条としている。「規律を知る、凛とした国」とか「美しい国」への目指しは品性をこそ問題とした主張であろう。品性への宣言とも言える。

 政策がすべてで、品性は問題でないとすることがもし許されるとするなら、「規律を知る、凛とした国」も「美しい国」という言葉も、商売する人間の装った接客態度と同様の見せかけの体裁と化す。何よりも自分たちの品性を問題にしてこそ、「規律を知る、凛とした国」という言葉も「美しい国」という言葉も生きてくる。それとも自分たちの品性は問題にしないが、国民の品性は問題にするということなのだろうか。だとしたら、国民を国家に従順な集団に操作しようとすることであろう。

 もしメンバーの中に品性欠ける人間が一人でも混じっていることが分かったなら、「規律を知る、凛とした国」を目指すためにも、「美しい国」という言葉を掲げた手前も、直ちにメンバーから外すべきである。

 ところが安倍首相は自らが掲げる〝信条〟を無視する言行不一致の「美し」くない「規律」違反を犯した。12月19日(06年)の『日テレ24』の記事が次のように伝えている。「税制のあり方を政府に提言する政府税調・本間正明政府税調会長が、非常勤でありながら国家公務員住宅を利用し、妻以外の女性と同居していたと報じられた問題で、批判が相次いでいる」ことに対して、安倍首相は「見識を生かして、あるべき税制の姿を作っていく、議論していくことによってですね、まとめていただくことによって職責を果たしていただき、責任を果たしてもらいたいと思っています」と意味空疎な言葉を付け加えつつ、「職責を果たすことが責任の取り方」だと言っている。

 税制に関する「見識」を優先して、品性に関わる「見識」は問わないという姿勢を示したのである。これは政治家・官僚をも含めた国民の品性を裏打ちとして初めて可能となる「規律を知る、凛とした国」とか「美しい国」といった首相自身が打ち上げた国家的価値観を、華々しく打ち上げておきながら自ら華々しく裏切る行為ではないだろうか。自身の主義・主張・信条に対する自らの裏切りとはどのような〝品性〟を言うのだろうか。郵政造反議員の復党問題でも見せた態度につながる資質ではあるが、安倍首相自身の〝品性〟自体を問題としなければならない。

 本間会長は21日、政府税制調査会会長を辞任した。任命責任に対する関係者の態度を12月21日(06年)のNHKテレビ「ニュースウオッチ9」から拾ってみる。

 塩崎官房長官「(辞任は)本間会長ご自身の一身上の都合――ということでありまして、総理の任命責任の問題ではないと、考えておるところでございます」

 中川秀直幹事長「国民の理解を得ながら仕事をしていくことができないとご判断されたんですから、これも止むを得ないことだと思います。首相の任命責任という問題ではないですね」

 中川昭一政調会長「税制会長という非常に重要なポストについて考えて任命したわけですから、その方がいなくなったということは、それはあのー、そういう意味ではダメージが、あるんだろうと、そう思います」

 町村自民党税調小委員長「もうちょっと早く判断されればよかったとは思いますよね。(男性記者の「安倍政権への影響というのは今後ありますでしょうか?」との問いに)それはないでしょう。やめてしまえば、それまでですからね」

 何という粗雑さ。

 公明党北側幹事長「ある意味プライベートな問題に関わることですから、総理があの、その方自身をですね、任命をされたこと自体について、私は、その問題にされる必要はないんじゃないかと思っております」

 菅直人民主党代表代行「ずるずると問題の決着を延ばすと、安倍政権の優柔不断さというものが目立った結果でなないかなと。勿論任命責任というのは一定の責任として当然あるわけですから――」

 共産党市田書記局長「そういう人物を任命した安倍総理の感覚ですね。結局自身がそういう庶民の目線のものを見れない内閣だということが非常にはっきりしつつあると――」

 対する安倍首相(首相官邸で記者に囲まれて)「高い税に対する見識と知識、これを是非私は生かしていただきたいと、このように思い、お願いしたわけですありますが、ご本人が一身上の都合でどうしても職を辞したい――ということでございますから、これは止むを得ないと判断をいたしました」

 確かに辞任のみに関して言えば、本人の〝都合〟と〝申し出〟によって生じた問題であるが、「任命責任」とは別の問題である。なぜ記者は他の政府・党関係者には質問しながら、直接的な任命権者にその質問をぶっつけなかったのだろうか。質問して安倍総理が答えたということならニュースに流さないことはないだろうから、質問しなかったのだろう。「『一身上の都合』で済ますことができるのか」と問うべきではなかったろうか。

 愛人がいることと、その愛人と公務員宿舎に居を構えていたことは週刊誌の報道によって知ったことだろうから、任命した時点での責任はないとすることができる。だが任命の際に被任命者の品性を問わないのは、モノの売り買いで売主の品性に対して取る態度と同様に、地位・能力にふさわしい品性を備えていることを暗黙の前提としていたからだろう。任命権者としての安倍首相自身のその前提が崩れたのである。そのことに対して、相手の辞任で決着とするのではなく、任命権者としてそれ相応の行動を起こすべきだったのではないだろうか。起こさなかったということは、その責任も果たさなかったことになる。

 以上の見解を先に上げた〝品正論〟から再説明すると、任命責任とは任命した時点での対応のみを問うものではなく、任命理由とした職務能力のみならず、能力に付随させるべき職務態度、及びプライベートな生活態度――いわゆる品性に関わる部分――の発揮・維持の如何に対する対応も問われるということである。含まれる以上、被任命者がその職にとどまっている限り、任命責任は負い続けることになる。

 「高い税に対する見識と知識」といった能力だけを問題としたのでは、学校教師が指導力さえあれば、生活態度に問題があったとしても、それが女子児童に対するワイセツ行為の常習であったとしても問題とはしないルールをつくるようなもので、そういった教師の教員免許を取り上げるといった「教育再生」は矛盾を犯すことになる。

 また、安倍首相自身が責任基準としている「政治は結果責任」という原則からすると、任命時点で暗黙の内に備えていると見なした品性が見せかけの結果を露にした以上、その結果に対する責任も自らの行動・態度で示さなければならないだろう。示さなければ、タウンミーティングのヤラセ質問問題で「当時の官房長官として私の所掌(「法令により、特定の機関の権限でつかさどること」(『大辞林』三省堂)の中で起きた大変遺憾な出来事だ。所掌する事柄に於いては責任を負っている」とわざわざ難しい言葉で述べた〝結果責任〟は給与返納で幕引きを狙ったキレイゴトの疑いがますます濃くなる。

 何かしら自身か、あるいは管理下の人間がスキャンダル・不祥事の類を犯した場合の責任的立場にある公的人間が「職責を全うすることで責任を取る」とする責任論で自らの品性を免罪する人間がこれまでに何人いただろうか。村上ファンドへの1000万円出資で問題となった福井日銀総裁も、防衛施設庁の官製談合が問題となったときの所管大臣たる額賀防衛庁長官も、「職責を全うすることで責任を取る」形の責任論で自らの責任を免罪としている。

 特に天下の東大卒・日銀副総裁だった福井氏は金融機関による大蔵省幹部接待事件・贈収賄事件で総裁と共に監督責任を取って1998年に副総裁を辞任しているが、接待先の一つであるノーパンしゃぶしゃぶに自らも出入りしていた〝品性〟が発覚している。

 逆に「職責全う」式責任免罪論の許しがそのことに水戸黄門の葵の印籠並みの効用を与える免罪符となっていて、スキャンダル・不祥事、あるいは管理無能の跡を絶たない無限連鎖の「美しい」「凛とした」無責任現象を生み出す結果につながっていないだろうか。

 そろそろこの無責任の無限連鎖を断ち切る時がきているように思える。安倍首相の「規律を知る、凛とした国」・「美しい国」という言葉をウソにしないためにも。安部首相自身がウソつきなのだということなら、スキャンダル・不祥事、管理無能等々と「職責を全うすることで責任を取る」式責任免罪論の無責任な無限連鎖の追っかけっこが日本という国に於ける、あるいは日本という社会に於ける永遠の現象となることだろう。いや、既に十分に現象化している。それが安倍首相自身が自ら掲げながら自ら破る「規律を知る、凛とした国」・「美しい国」の正体となっている。

 政府税制調査会の本間正明会長が愛人と共に入居していた都内の国家公務員官舎は本間氏が教授として務める大阪大学と契約した物件だということだが、大阪大学はどのような使用目的を示して大家に当たる財務省から許可を得たのだろうか。使用目的と本間氏の入居との間にズレが存在していたといったことはなかっただろうか。存在していたということなら、大阪大学はウソの使用目的を示したか、本間氏が大阪大学にウソをついて転用を図ったか、いずれかの疑いが生じる。あるいは財務省側は何も気づいていなかったのだろうか。気づいていて、相手が偉い人だからと、黙認していたといったことはなかっただろうか。タウンミーティングのヤラセにもあった、何らかのカラクリの存在も疑わなければならない。

 当然、タウンミーティング問題がヤラセ質問だけではなく、受注企業の不透明・不当な高額請負のカラクリ等も絡んでいることを考慮すると、安倍首相等の関係者の給与返納だけで済ますわけにはいかないように、本間スキャンダルにしても、「政治は結果責任」の問題、〝品性〟の問題、任命後も生き続ける任命責任の問題、入居に関わる問題等が解決しないことには、単に本人が退去した、一身上の都合で辞任したで終わらせるわけにはいかないだろう。

 最後に先に引用したNHKテレビ「ニュースウオッチ9」から、別に支持はしていないが、社民党又市幹事長の見解「まだまだ不透明の点も多くあるわけでありますから、これらも解明をする必要がある。事と次第によれば、国会閉会中であっても、審査要求していく」

 当然である。

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国連事務総長退任のアナン愚かさ

2006-12-20 05:52:32 | Weblog

 アナンは退任の記者会見で「イラク戦争を止められなかったことが一番悔やまれる」といったことを語ったということだが、では、アメリカのイラク攻撃以外にサダム・フセインの独裁政治を終わらせ、イラク国民を独裁政治の抑圧から救い出すアイディア・妙案を自身が持っていたというのだろうか。

 イラク戦争は止めることができた、だが、イラク国民を独裁政治の抑圧に曝すままだでは、どのような解決と言うのだろうか。独裁政治からの解放を実現させる実効性あるアイディア・妙案を持ち合わせもせず、イラク戦争を止めるということは、サダム・フセインの独裁政治の継続を放置・放任することを意味する。事実、アナンは総長就任以来、何ら解決策を見い出せず、放置・放任してきた。その間何人のイラク国民が裁判もなく無実の罪で政治収容所にぶち込まれ、拷問や死刑で命を失い、何人のイラク国民が国外から脱出したのだろうか。

 独裁政治打倒のアイデア・妙案を持っていたが、アメリカの攻撃意志に阻まれたということなら、北朝鮮で活用する絶好の機会があったはずである。キム・ジョンイル独裁の抑圧と飢餓・餓死の苦難から北朝鮮国民を救うことにもなり、名総長の名を残すことになったろう。しかし今以て、北朝鮮国民はキム・ジョンイル独裁政治の軛に息絶え絶えの状態でつながれ、生活の苦難、餓死・餓死の恐怖下にある。

 時計の針は戻せない。針が指している時間、時間にふさわしい考えを打ち出し、行動を起こすべきだったろう。針が最初に示していた時間に佇んだまま、単に反対が正しいとする自己正当化を主張しているに過ぎない。針の進行に合わせるには、プラスマイナスを考えて、新たな行動を編み出す以外にない。

 イラクの今の混乱はイラク国民の愚かさから来ている。自己宗派を絶対とする愚かで偏狭な権威主義。イラク国民が持ち合わせている〝チエ〟とは、折角与えられた民主主義確立の機会を生かすことではなく、単に宗派が違うというだけの理由で同じ国民同士が殺し合うチエだけのことを言うのだろう。イスラム教を信仰しています、シーア派です、スンニ派ですの態度が生み出している混乱・愚かさの程度を示しているに過ぎない。

 反米・反戦メディアはアメリカがサダム・フセイン独裁を打倒した当初、スンニ派やシーア派の指導者たちをイスラム原理主義過激集団に拉致された民間人の釈放に尽力があったからと「存在感を示した」とか持ち上げたり、「アメリカは占領軍だ。占領軍であるアメリカをイラクから追い出す我々の武力闘争は正当なジハード(聖戦)だ」といった声明を正当性ある主張の如くに報道・流布させていたが、「存在感を示し」、「ジハード(聖戦)」を展開していた指導者たちはシーア派・スンニ派の今の醜い宗派闘争に何と無力なことか。お互いに殺しあうだけのテロ行為を止めるどのような「存在感」すら示すことさえできないでいる。

 尤もスンニ派、シーア派とも、自らの相手宗派に対するテロ攻撃を「ジハード(聖戦)」と位置づけているだろうから、反米・反戦メディアは双方の攻撃を支持しなければ、かつての態度との整合性を失う。

 アナンの単に反対が正しいとする自己正当化はアメリカ一人を悪者にすることで、イラクの現在の愚かしいだけの宗派闘争・相互報復テロに対して国連総長として時計の針に合わせた手を何一つ打つことができない自らの無能・無力から人目を逸らすペテンに過ぎないのではないか。

 イラク国民も愚か、アナンも愚か――双方共に自らの愚かさに気づかない、イラク国民の進行形の報復であり、アナンのアメリカに対する途切れることのない恨み節なのだろう。

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NHK番組「きらっと生きる」投書

2006-12-19 03:08:20 | Weblog

 以下の文章はNHK教育番組「きらっと生きる」を見て、投書したものです。「投稿いただいた内容は一部修正、省略させて頂く場合がありますのでご了承ください」ということだから、書いたとおりに記載されるのか、それ以前に投稿したものの、採用されなかったということもある。余計なお世話でみなさんの参考に供したく、ブログ記事に直してみた。
* * * * * * * *
 先ずは番組案内から。『陸上少女13歳の挑戦』「この秋に兵庫県で開催された『第6回全国障害者スポーツ大会』で陸上400メートルに最年少で出場した。5年前に視神経委縮という視力が急激に低下する病気を発症し、現在は左目で光を感じる程度だという。陸上に出合って以来、積極的に生きようと白杖(はくじょう)や料理など日常生活でも挑戦を始めている。走ることで、新しい世界が見え始めた彼女の姿を見詰める」

 自分の世界を広げていこうとする姿、その積極さ・一歩一歩が伝わってきました。人との関わりを持つものの、自分が生きる世界は自分独自の作品であり、自分独自の人生です。例え同じような障害を持ち、同じように陸上競技に挑戦している同じ13歳の少女が別にいたとしても、関わる人間の違いによって、例えば両親が違うだけで、それぞれの生きる世界は違ってくる。それぞれの世界がそれぞれに独自性を抱えることに変わりはない。

 人間は一生をかけて、自分の世界をつくっていく。自分の世界をつくっていくこと自体が生きることに他ならない。彼女は「自分の世界をつくっていくことが生きるということだ」という言葉どおりの自覚はなくても、日々自分の世界をつくっていくといった感覚をかなり自覚しつつ生活しているのではないだろうか。そんなふうに思わせた彼女の挑戦する姿だった。私自身障害者ではないが、健常者がなかなか持ちにくい「自分の世界をつくっていく」、あるいは「自分の世界を広げていく」という感覚を障害者の多くは常に肌に感じつつ生活しているように思える。

 翻って政治の世界を見ると、政治家の多くが自分の都合だけを押し付ける世界となっている。

 満足できる形に自分の世界をつくり、その世界を思う存分に生きて欲しい。司会者から、将来何になりたいか聞かれて、「多くの人に助けられたから、人を助ける仕事をしたい」と言い、将来的な希望職種として白衣への憧れを口にしたが、彼女のめげずに生き、挑戦していく姿勢そのものが既に多くの人間に元気を与える人助けとなっている。

 陸上400メートル走は残念ながら優勝を逃し、3位の銅メダルに終わったが、もし練習がままならないとしたら、家で自分一人でできる体力向上の役にも立たないかもしれないアドバイスを二、三。

 直立の姿勢で足をほんの少し開き、踵をゆっくりと目一杯上げて、一呼吸置いてから元の姿勢に戻して、再び一呼吸置いてから踵を上げる繰返し運動を100回ずつぐらい3回程度合計300回行う。一回ずつの間、音楽を聞いたりしてほんの2、3分休憩を入れる。

 次に足を25センチほど開いて直立の姿勢となり、両手を前方水平方向に出して身体のバランスを取りながら膝を曲げ、尻をギリギリまで落とす。立ち上がるとき、両手で左右それぞれの膝頭を後ろに押さえるようにして立ち上って、元の直立の姿勢に戻る。これは50回ぐらい、日に1度か2度行う。

 前者の運動はふくらはぎの筋力と足首の関節を強くします。後者の運動は膝のバネの強化に役立つと思います。立ち上がるとき、手で膝頭を抑えるのは、経験から膝の負担を軽くするように思えます。若いときから右ひざを痛めていて、ハードワークになると痛みが再発するといったことを繰返していて、再発した場合、屈伸運動の回数を減らしたり、休止したりして痛みが治まるのを待つのだが、3ヶ月程前に痛いのを我慢して屈伸運動していたとき、痛みを抑えるつもりで膝を押さえながら立ち上がっていたら、痛みが和らぎ、そのうち痛みを感じなくなって、それ以来時折ほんの少し鈍いしこりを感じることはあっても、以前のように痛みを感じることはなくなったのです。膝を押さえることによってその部分の筋肉がつくのではないかと思っています。例えば野球選手はバットを握ることで手のひらにたこができます。それと同じ原理で、習慣的な負荷によって筋肉がついていくのではないでしょうか。

 最後に握力と腕の力をつける運動として、懸垂が効果的だと思います。学校に鉄棒がありますが、家でも行うとしたら、ぶら下がり健康器を買ってきて使用するか、家に3尺幅の廊下があり、柱が左右一対になっている場所があるようでしたら、中が空洞の鉄棒を鴨居より高い位置に取り付けて、鉄棒代わりにすることができます。これは固定されるから、思い切りぶら下がることができます。鉄棒の直径に合う受け金具をホームセンターで買い求めることができると思います。それをネジで柱に止めれば固定できます。

 懸垂は1度に10回と決めたら、その回数を守り、できるからとむやみに回数を増やさない方がいいと思います。少な目の負荷で継続させることが疲労や疲労からくる故障を避ける最良の方法であり、継続こそ力と言われているように、力をつける一番の方法だと思います。

 上記運動の大事な要領は、一つ一つの工程をゆっくりと着実に行うことが肝心です。ゆっくりと行うことによって、身体の各部分の動き・リズム・負荷を自分の身体に記憶させていくことができます。「記憶させる」とは身につくように仕向けることを言います。記憶させることができたとき(=身に付けさせることができたと)、身体の各部分の動き・リズム・負荷といった一つ一つの要素は身体の中で有機的に働き合って全体的な統一性を備えることとなり、それが運動エネルギーに転換されるとき、より躍動的な力強さを発揮するはずです。

 身につかない力はどう発揮しようもない、満足のいく運動エネルギーに転換しようもない、その逆の原理です。記憶させ、身につくことによって、より力強い力が発揮できる。

 回数だけ消化しようとして、せかせか行うと、身につかないでしょう。練習が形式・義務・儀式となるだけです。私自身、ゆっくりと行う運動を「ユックリズム」と名づけています。具体的なイメージで説明すると、童話の「ウサギとカメ」のカメの黙々と一歩ずつ進む着実さを頭に描いています。少しずつ力をつけていくその継続的な忍耐が、精神的な練り強さと同時に身体の内側に大きな力を溜め込み、着実な力の発揮につながるのではないかと勝手に思い込んでいます。

 それは少しずつ自分の世界を広げていく生きる作業に通じると思います。この投書が少しでも役に立つようでしたら、幸いです。
 * * * * * * * *
 投書には書かなかったことだが、年齢のせいで前立腺肥大が進んでいるらしく、かなり長い間間歇的に発症する股間部分の痛みや不快感に悩まされてきた。尾篭な話で申し訳ないが、1ヶ月前程のことだと思う、朝便意を催したとき、かなり強い痛みを前立腺部分に感じて、用を足すと痛みが治まった。2,3日そんな状態が続き、腸内に溜まった便が前立腺を圧迫して痛みを発症させるまでになったかと、カネがないから医者にも行かず観念して放置していた。直立の姿勢となって両手を前方水平方向に出しながら、膝を曲げる屈伸運動は以前は両足を揃える形で膝を閉じて行っていたのだが、膝を曲げたとき急に股間に前立腺の痛みが走ったのを思い出して、閉じて行うのは前立腺を圧迫することになるのではないかと思い、25センチほど開いて行うことにしたら、それ以降、ウソみたいな話だが、便意を感じようが感じまいが、また他のときも前立腺に痛みを感じなくなり、痛みからも不快感からも解放され、現在に至っている。

 単に偶然に直ったのか、他のことが原因してのことなのか、それとも足を開いて行う膝屈伸運動が治療に役に立ったのか分からないが、役立つかどうかは前立腺の痛みや不快感に悩まされている多くの人間が試してみれば分かることで、悩んでいる人がいたら教えて、試しにやってみたらどうだろうか。

 実際に治療に役に立つなら、結構。何の役にも立たないということなら、悪しからず。

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