安倍「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」

2007-08-31 10:00:10 | Weblog

 薄汚い詭弁と単細胞思考に満ちた「美しい国」志向

 半年ほど前に購入した安倍晋三著「美しい国へ」だが、あまりにも内容が安倍晋三なる人間の精神をそのままに反映して軽薄短小に仕上がっており、一気に読み通す意欲が湧かず、と言うよりもページを開いても続けて読む気力が萎えてしまい、その本が目に入れば、気が向けば手に取って偶然開いたページを数行読んで、また放ったらかしにしておくという状態が続いた。

 何日か前に衆議院選挙の比例南関東ブロックで当選した民主党の長浜博行が先の参議院選挙への立候補に伴い繰上げ当選した藤井裕久がテレビで「『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』なんて言っているんですからね。『美しい国へ』の中で。そんな人間が首相をしている」といったことを言っていた言葉だけが耳に入った。どんな話の展開から始まった結論なのか聞いていなかったが、確か本の中でそんなことを言っていたと思い、改めてページを開いてみた。その部分を書き記してみる。

 ≪その時代に生きた国民の目で歴史を見直す≫

 <(前略)歴史を単純に善悪の二元論でかたづけることができるのか。当時のわたしにとって、それは素朴な疑問であった。
 たとえば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとのひと言でかたづけられることが多い。はたしてそうだろうか。
 たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任はときの指導者にある。だが、昭和17、8年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権とするなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。
 百年前の日露戦争のときも同じことが言える。窮乏生活に耐えて戦争に勝ったとき、国民は、ロシアから多額の賠償金の支払いと領土の割譲があるものと信じていたが、ポーツマスの講和会議では一銭の賠償金も取れなかった。このときの日本は、もう破綻寸前で、戦争を継続するのはもはや不可能だった。いや実際のところ、賠償金を取るまでねばり強く交渉する気力さえなかったのだ。
 だが、不満を募らせた国民は、交渉に当たった外務大臣・小林寿太郎の「弱腰」がそうさせたのだと思い込んで、各地で「講和反対」を叫んで暴徒化した。小林も暴徒たちの襲撃にあった。
 こうした国民の反応を、いかに愚かだと切って捨てていいものだろうか。民衆の側からすれば、当時国の実態を知らされていなかったのだから、憤慨して当然であった。他方、国としても、そうした世論を利用したという側面がなかったとはいえない。民衆の強硬な意見を背景にして有利の交渉をすすめようとするのは外交ではよくつかわれる手法だからだ。歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではないからだ。
 この国に生まれ育ったのだから、私は、この国に自信をもって生きていきたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか。学生時代、徐々にそう考え始めていた。
 だからといってわたしは、ことさら大声で「保守主義」を叫ぶつもりはない。わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本及び日本人について考える姿勢のことだと思うからだ。
 現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか、と思っている。>

 「歴史を単純に善悪の二元論でかたづけることができるのか」

 「善悪の二元論でかたづけ」ているのは安倍晋三のような単細胞の人間かその同類だけのことで、単細胞でなけれは「軍部の独走であったとのひと言でかたづ」けるような愚かなことはしないはずだし、歴史を「善悪で割り切」ってもいないはずである。

 いわばすべての人間が「二元論」で片付けているわけではない。それを「善悪の二元論でかたづけることができるのか」と、そもそもの前提からことさらな取り違えを犯していて、そのことに気づきもしない単細胞である。「二元論でかたづけ」ているとすることによって、その歴史解釈を否定することができるからだろう。いわば安部的単細胞・ご都合主義がつくり出した「二元論」に過ぎない。

 「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」――国家権力と国民が一蓮托生の関係にあったことが事実だとしても、その歴史を常に「善」と規定することはできない。「その時代に生きた国民の目で歴史を見直」さなければならないを優先条件とするなら、安倍首相に向ける国民の姿勢、あるいは視線は首相に就任した当時の高い支持率で安倍首相を「支持していた」た信頼を固定的な基本要素としなければならないことになる。

 外に現れた事象のみを表面的に取り上げて歴史を解釈する方法は学習のプロセスを欠くことによって成り立つ。何も学ばないこと、学習の否定以外の何ものでもない。安倍晋三なる人間は学習する能力を持たないから、「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」などといったことを言えるのだろう。ある意味幸せな人間に出来上がっている。

 国民は安倍政治から首相の指導力の欠如、国家優先の政策、そのことからきている地方軽視・国民軽視、その他の無能力等を様々に学習したからこそ、参院選でノーを突きつけたはずである。それを閣僚の不始末はあったが、自分の改革が否定されたわけではないと続投する。国民の学習に対する首相の無学習がなさしめた続投に過ぎない。

 ここに来て内閣支持率が少し上がったのは、新しい内閣に於ける安倍色の埋没が自民党支持層に安心感を与えたからだろう。本人は認めたくないだろうが、安倍主導よりも派閥主導、あるいは党主導への期待値が上乗せさせた支持数値と見るべきである。派閥主導・党主導ということは官僚主導ということでもあるが、そういった新たな展開が吉と出るか凶と出るかは別問題である。

 日本国民が人間の主要な一活動である学習する能力を持たない生き物であったなら、首相就任当時の支持率のまま、有権者は自民党に投票したに違いない。安倍晋三にしたら、日本国民が何も学ばない国民であって欲しかったに違いない。

 日本の戦争から何も学ばないこと(学習の否定)によって「歴史の見直し」は「その時代に生きた国民の目」を基準とすることが可能となる。安倍首相自身が何も学ばない人間だから、「その時代に生きた国民の目」を自分の目に重ねるだけで終わらせることができる。何の解釈もなく、その時代に生きた人間になるということでもある。その時代に生きて、「天皇陛下バンザイ!、大日本帝国バンザイ!」とやりたいと思っているのだろう。

 もし今の日本国民が「天皇陛下バンザイ!、安倍晋三バンザイ!」とやらかすようになったら、日本の未来はなくなるに違いない。

 安倍首相は昨年9月(07年)の総裁選での政策主張で「村山談話は閣議決定した談話で、その精神はこれからも続けていく。個々の歴史的事実などの分析は歴史家に任せるべきだ。政府が(村山談話を)否定する談話を出さなければ、次の内閣もこの上に立って進めていくことになる。私は新しい談話を出すつもりはない」と言っているが、「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」るなら、「後世の歴史家」は不必要な存在と化す。外に現れた事象のみを追い、それをあったように表面的に受け止めるのみで、何も学ばず、何も解釈せずで済ませればいいのだから、歴史に対するそのような接し方は自らの想像力に従って歴史を解釈し、自らの才能を成り立たせる歴史家を否定要素とするに至るからだ。

 「その時代に生きた国民の目」を機械的になぞった何も学ばず、何も解釈しないままの「歴史の見直し」こそが侵略戦争否定論者、いわば植民地解放の戦争だった、自存自衛の戦争だったとする論者の日本の戦争正当化の便法とすることができる。何しろ「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」のだから。それが正しかったことなのか、どこが間違っていたのかといった解釈・学習は不純事項として排除される。何も学ぶな、何も解釈するな。「その時代に生きた国民の目」に従え。

 かくして戦争正当化に都合がいいだけの「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」となる。当時の国民が「天皇陛下のために、お国のために命を捧げる」と天皇及び大日本帝国と一体となって一億総動員へ雪崩をうった戦争なのだから、「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」戦争なのだから、一概に悪だとは言えないとしたいのだろう。

 大体が日露戦争当時の国家体制と昭和の国家体制を同次元で論ずること自体が単細胞にして粗雑極まりない歴史観の形成となっている。安倍晋三自身が「善悪の二元論」に侵されていることの証明にしかならない歴史の単純化である。

 大日本帝国憲法制定当時は制限つきながら言論・出版・集会・結社・信教の自由といった個人の権利を認めていた。それが1880(明治13)年制定の集会条例、1890(明治23)制定の集会及政社法から1901(明治34)年公布の治安警察法へと姿を変えていった「政治結社・集会の届出義務、現役軍人・警官・僧侶・神官・教員・女子・未成年者の政治結社加入禁止」や「警官の集会解散権」(『日本史広辞典』山川出版社)等の制定による思想・言論の統制。万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬するとする国体を維持し、それを変革する動きへの国民統制を主目的の一つとした1925年(大正14)公布の治安維持法等を通した天皇のより絶対化、天皇への絶対従順を軍部が国民支配の道具として軍部独裁を強めていき、さらに日米開戦直後の1941年(昭和16)12月に言論・出版・集会・結社等臨時取締法を公布。「戦時の社会秩序維持をを目的とし、政党など政治結社の設立や政治集会、新聞の発行・出版を許可制とすることを定め、厳しい罰則を設けた。東条内閣は本法を利用して翌年の翼賛選挙を実施、選挙後は翼賛政治会以外の政治結社を事実上認めない方針をと」(『日本史広辞典』山川出版社)り、新聞・ラジオ・雑誌の検閲を行うと同時に軍部に都合のいい情報を強制して軍部の御用機関に貶めた。その先にあった「断固、戦うべし」だったのである。

 そして検閲は自らの大日本帝国軍隊の天皇の兵士の手紙類にまで及んだ。

 国家権力を体現した軍部によるそういった思想・言論・集会等の個人の自由を抑圧・禁止した状況下での「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」のであって、自由な立場からの支持ではなく、安倍の「歴史の見直し」にはそういった視線が一切ないのは如何に歴史をご都合主義に単純化しているか、その単細胞ぶりだけしか窺うことができない。

 個人の権利の抑圧・禁止を代償として成り立たせた天皇絶対主義であり、軍部独裁であった。
例えそのような強制に自ら進んで従ったとしても、あるいは逆らうことができずに止むを得ず従ったとしても、「強制」という要素を抜きに歴史は語れまい。しかし安倍晋三は抜きに語ろうとしている。単細胞だから許される思考形式としか言いようがない。「虚心に歴史を見つめ直してみる」などと気取ったことを言っているが、単細胞の頭しか持たない人間はそもそもの理解力が不足しているのだから、決して「虚心」な心境にはなれない。

 当然、単細胞、理解力不足の人間が満足に「日本及び日本人について考える」ことなどできようがなく、「わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本及び日本人について考える姿勢のことだと思う」は自分をさも立派な政治家だとしたい見せかけの装いに過ぎない。

 「現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか、と思っている」。

 「歴史を見直す」方法として「その時代に生きた国民の目」を検証せず、表面に現れた姿のみを用いることしかできない単純思考の人間に「現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持」てるわけがない。
 
 「百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか」には過去を肯定する意識しかない。「百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統」としての日本的な権威主義が極端な姿を取った戦前の天皇絶対主義、国家主義、軍部独裁をも肯定することになる単細胞人間ならではの日本の過去に対する硬直観念であろう。

 軍部独裁を確立し国家権力を代弁するための天皇の絶対化とそのような軍部が引き起こした戦争が如何に国民の姿を変えさせるに至ったか、それを抜きにして「プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神」だとしている。

 「プルーデント」なる横文字の意味が分からず、「Microsoft Bookshelf」で調べてみると、「用心深い、慎重な、分別のある、 賢明な」と出ている。なぜいずれかの日本語を使わないのだろうか。横文字を使うことの気取り自体に胡散臭さのみを感じる。元々胡散臭い政治家ではあるが。

 最後に「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」だけでは済まない「歴史の見直」しのほんの一例を新聞記事から紹介してみる。

 ≪日本の軍人・軍属230万人戦死 6割が餓死・栄養失調 元中隊長の歴史学者調査≫
(2001.5.21.『朝日』夕刊)

 <アジア太平洋で戦争で死亡したとされる日本軍軍人・軍属約230万人のうち、役6割に当たる役40万人の死因は狭義の「戦死」ではなく、栄養失調による病気や飢えだった――。
 こんな結果を歴史学者の藤原彰一・一橋大名誉教授(77)が焼く10年がかりの研究でまとめた。
 戦後の旧厚生省調査では日本人戦没者は妬く10万人とされ、空襲の内地の被害者らを除いた軍人・軍属が約230万人に上る。藤原さんは、ガダルカナル島、ニューギニア、メレヨン島(現ウォレアイ島)などの南洋諸島などをはじめフィリッピン、タイ、中国大陸など、ほぼ全域にわたって戦線や作戦ごとに現存する軍資料や幹部の証言録、戦後の戦没者調査などを基に死因別の死者数(一部推計を含む)を数えた。
 その結果、少なくとも140万人以上が栄養失調による病死を含む広義の「戦死」と見られることが分かった。
 藤原さんによれば、食糧について「現地自活(調達)主義」をとった日本軍では補給の途絶などで膨大な飢餓が発生。体力や抵抗力を失い、マラリアやアメーバー赤痢などの伝染病や下痢による死亡が相次いだ。
 大量の戦死を生み出した背景について、藤原さんは

過剰な精神主義
②敵の火砲の軽視
③補給部門の軽視
参謀らの机上の空論的作戦主義

 などを挙げる。兵士の人権を無視し、天皇や国を守る弾丸や盾のように扱ったことなども指摘し、欧米の近代軍隊との差が出たという。
 藤原さん自身、陸軍士官学校で教育を受け、中国大陸縦断作戦の善戦に中隊長として参加。道路補修を命ぜられても工事器材がなく、食糧も弾丸も補給がない中で未明の急襲作戦を取り、右胸に被弾した。銃弾が今も右肺に残っている。
 藤原さんは「『靖国の英霊』の過半数は飢餓地獄の中での野垂れ死にだった。首相による靖国神社公式参拝が取りざたされるが、国をあげてたたえようとしている戦死の実態をもっと知ってほしい」と話す。
 研究結果は「戦死した英霊たち」(青木書店)として今月末、出版される。>

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安倍改造口封じ内閣

2007-08-28 05:17:08 | Weblog

 安倍改造内閣が昨7日(07.8)に発足した。「派閥の推薦は受けません」と言って安倍主導を印象付けようと努力していたが、やはり例の如く口先だけで終わった。いわば外側のハコは「安倍主導」でも、中身は派閥均衡のウチとソトがまるきりの別物となっている。

 例え従来のように名簿等の提出による「派閥の推薦は受け」なくても、以心伝心、阿吽の呼吸で派閥の意向を暗黙裡に感じ取った心理的派閥推薦を受けた均衡配置といったところなのだろう。所詮口先だけ、中身はゼロの表面を取り繕うことしかできないハコモノ政治家に過ぎない安倍晋三クンなのである。

 吹文科相は留任ながら伊吹派会長であり、新たに安倍首相の出身派閥である自民党最大派閥町村派会長の町村信孝が外相。防衛大臣の高村正彦は高村派会長。党人事で総務会長に就任した二階俊博は二階グループの会長といったふうに派閥の領袖がより多く顔を揃えることとなっている。

 派閥単位で数えると津島派が閣僚で3人、町村派、閣僚1人、首相補佐官1人。山崎派閣僚2人。高村派が閣僚で1人。古賀派、閣僚で2人。二階グループ党人事で1人、閣僚で1人。他に無派閥閣僚3人、首相補佐官1人となっている。全体を通してみると、領袖を入閣させた派閥の場合は単数の閣僚起用となっていて、領袖を入閣させない派閥の場合は複数起用となっている。

 閣内に取込まれた派閥領袖や各派閥所属議員は内閣、あるいは首相を批判する立場を失う。取込まれた以上、例え派閥主導の政策となったとしても、表面的には安倍首相に協力する姿勢を示さなければならないからだ。安倍首相の主導の下、各閣僚が一致協力して政策を進めていくという形式を取らなければならなくなる。

 党内の派閥領袖や各派閥所属議員を横断的に閣僚に取込んだのはそのためだろう。批判という雑音を排除項目として、「協力」という名文を必須項目とさせる、いわば口封じ内閣を目論んだ。

 その典型的な閣僚採用をこれまで散々安倍首相を批判してきた桝添参議員の厚労相への起用に見ることができる。安倍内閣を支える閣僚の一員として、今後批判を自ら口封じすることにあんるだろう。

 麻生幹事長は久々の大物幹事長であるが、安倍晋三が麻生を党幹事長に据えたのは、次期総理・総裁を手に入れるために安倍晋三から後継指名がほしいばかりに言いなりべったりの協力・支持を獲得できると踏んだことからの大物起用となったのだろう。

 麻生太郎はかつて「安倍に刃向かってできると思っているのか。だから俺と手を組もう」と同じく総裁選を争った谷垣元財務相に提案したように、「安倍に刃向か」わないことを安倍首相に対する自らの姿勢と硬く決めているのである。「刃向か」わないどころか、元々おべっか使いのところがあるから、総理・総裁の座を手に入れるためになり振り構わずゴマをすってでも安倍首相をヨイショするに違いない。

 今回も谷垣派からは入閣ゼロである。これは麻生の意向が強く働いた人事なのではないだろうか。入閣ゼロによって、谷垣派領袖の谷垣元財務相は安倍内閣、安倍政治を批判できる立場を確保することができるが、批判を口にするほど、安倍首相の谷垣アレルギーは強迫観念化することとなり、その反動が麻生いとしさへと向かう。

 安倍がコケて、親ガメがコケたら子ガメ孫ガメまでコケる流れで麻生までコケたとしても、安倍の愛情をしっかりとつなげ止めていたなら、自民党最大派閥の町村派の支持は入札したも同然で、谷垣の安倍批判を内心期待しつつ、一方で「刃向か」わない媚を安倍首相に振りまく地盤固めに奔走するに違いない。

 最も次回衆議院選挙でも与野党逆転となったなら、安倍晋三と町村派の支援を受けて自民党総裁に就任できたとしても、河野洋平についで総理になれなかった自民党総裁という名誉ある勲章を手に入れることになる可能性も否定できない。

 だが、麻生太郎は安倍首相の次の総理大臣になるべきだろう。安倍晋三に優るとも劣らない日本の偉大な政治家の一人なのだから。

 麻生太郎は2001年4月に東京の外国人特派員協会で<理想の国家像を論ずるなかで、「金持ちのユダヤ人が住みたくなるような国が一番いい国だと思う」と発言。日本もそんな国を目指すべきだ。>(2001.4.21『朝日』夕刊≪「金持ちのユダヤ人」麻生氏発言 海外で批判≫)と講演したそうだが、理想の国家像を説くにその国に住む国民のありように言及しないで金持ちの外国人を例に出すとは、稀有な優れた政治センスの持主と言わざるを得ない。この発言だけで、次の総理・総裁は決まりではないだろうか。

 安倍晋三同様に歴史認識もしっかりしている。2003年5月31日に日本の知性の最高峰東京大学での講演で、「創氏改名は朝鮮の人たちが名字をくれと言ったのがそもそもの始まりだ」と安倍晋三といった日本の国家主義者以外は真似のできない特異な卓見を述べ、知性溢れる東大生に素晴らしい知的刺激を与えている。米下院の従軍慰安婦決議に関しても、「事実に基づかない」と「安倍に刃向か」わないべったり振りである。

 とにかく発想が奇抜である。北方領土返還の策としてタウンミーティングで<「島に住んでいる人たちにとって、日本に行った方が生活水準がいいぞ、と(思わせると良い)」と述べ、北方四島で日本のテレビを視聴できるようにしてはどうかと発言していた。>(06.2.23『朝日』夕刊≪麻生外相発言 ロシアが批判≫)というから、外交の王道の中の王道をいく素晴らしい発想と言える。

 ああ、これで日本の敗戦以来の悲願であった北方四島の日本返還は間近になったなと感じた国民は多かったのではないだろか。外務大臣を麻生太郎に任せて正解だったと、改めて麻生太郎に尊敬の念を抱いた日本国民は多くいたのではないだろうか。

 お陰さまで北方四島は依然としてロシア領のままである。

 政調会長に任命された石原伸晃は無派閥であるが、昨27日(07.8)の朝日夕刊記事≪自民新三役の顔≫によると、<安倍首相らと「NAIS」グループをつくった「お友達」の代表格>だそうで、無派閥と言っても安倍シンパだから、純然たる無派閥と言うわけではなく、また「お友達」の代表格(=安倍シンパ)である立場上、これも「安倍には刃向か」わない口で、これまでも「刃向か」わないこと、牽強付会、こじつけ何のそので安倍正当化に努めていた。

 赤坂の高級議員宿舎批判に対して、危機管理上、首相官邸に近いことが大切だと、カネのかけすぎとは関係のないこじ付けで正当化していたし、上記朝日記事が<政策調整では整合性を重視し、党内への配慮を欠かさない反面、「腰が引けている」と評価されることも。改正政治資金規正法に党改革実行本部長として取り組んだが、「ざる法」と批判を浴びた。道路特定財源見直しでも、抜本的見直しまで踏み込まなかった。>と伝えてもいるが、事務所費問題では民主党の1万以上の領収書の添付義務化には事務処理が煩雑になり過ぎて政治活動の自由を奪うとバカの一つ覚えのように唱えて反対を繰返し、自民党提出の1件5万円以上の領収書添付を政治資金管理団体に限って義務化し、その他の政治団体はその限りではないとした案を正当化していたが、そういった功績が功を奏して参院選大敗の一因となったのだが、口封じ内閣形成の有力な協力者に据えておくために「お友達」の代表格(=安倍シンパ)から外すわけにはいかず、今回の人事で政調会長となったのだろう。

 かくして安倍改造口封じ内閣は磐石の備えを持つに至った。

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安倍人事一任と参院選総括との矛盾

2007-08-26 02:28:40 | Weblog

 ≪役員人事、総裁に一任=自民≫(時事通信/2007/08/24-12:51)

 <自民党は24日午前、臨時の役員会と総務会を開き、党役員人事を安倍晋三首相(総裁)に一任することを決めた。中川秀直幹事長が「安倍総裁は新たな党の体制を構築する方針だ。役員の選任について総裁に一任してほしい」と提案し、了承された。新役員の任期は来年9月末までとなる。
 外遊中の首相は25日夜に帰国後、人事に本格着手。27日午前に幹事長など新3役を決定し、直ちに内閣改造に踏み切る方針だ。>

 党役員人事を安倍首相に一任する。閣僚人事は「派閥の推薦を受けない」、「わたし一人で決めなければいけないと思っている」ということだから、他からの要請によるものではなくても、少なくとも自分自身では「一任」の形式を取っている。

 「一任」とは「物事の処理・決定をすべて任せること」(『大辞林』三省堂)ということだから、安心して任せることのできる能力――指導力や統治能力、求心力、人心掌握術、政策立案能力とそれを推進し具体化する実行力等を備えていることによって、「一任」は可能となる。

 いわば自民党は安倍首相の指導力、統治能力、求心力、人心掌握術、創造的な政策立案能力等に信頼を置いていることを意味する。信頼が置けなければ、一任はできもしない相談だろうから。

 同じ日の同じ総務会で「参院選の敗因を検証した参院選総括委員会(委員長・谷津義男選対総局長)の報告書を了承し」ている。それをSankei Webインターネット記事≪自民党 参院選総括を報告 首相の対応も指弾≫(07/08/24 12:28)から見てみる。

 <自民党は24日午前の役員会と総務会で、参院選の敗因を検証した参院選総括委員会(委員長・谷津義男選対総局長)の報告書を了承した。報告書では、敗因を年金記録紛失問題、政治とカネの問題、閣僚不祥事の「逆風3点セット」への対応の不手際だったことを指摘。安倍晋三首相についても「不祥事の後手後手の対応と手ぬるい処分により、国民から指導力・統治能力に疑問を呈された」と指弾し、「国民の目線に沿った政権運営」を求めた。
 役員会に先立ち、谷津氏は首相官邸を訪れ、首相あてに報告書を提出した。
 報告書では「参院選後も支持率は低迷を続け、党は存立の危機に立っている」と分析。内閣の「論功行賞人事」や郵政造反組の復党問題などへの世間の批判にも触れ、「首相が永田町の政治家の側に立っているようなイメージを持たれた」とした。
 また、「政策の優先順位が民意とずれていなかったか。『生活が第一』とした野党キャンペーンに主導権を奪われた」などと分析。党の再生に向けて、「地方や弱者が抱える痛みを解消するための将来展望を具体的に示す必要がある」と結論づけ、新たな支持層の獲得や、きめ細かく分かりやすい広報戦略の必要性を訴えた。
 総括委は参院選直後から、党所属の国会議員や地方組織、有識者らから意見聴取を重ねてきた。ただ、報告書に対し、党内からは「近視眼的に問題点を羅列しただけで、具体的な打開策には乏しい」(中堅)など懐疑的な声もあがっている。>

 記事に書いてある参院選自民大敗の原因を要約すると、
①年金記録紛失問題、政治とカネの問題、閣僚不祥事の「逆風3点セット」
 への対応の不手際。
②不祥事の後手後手の対応と手ぬるい処分によって国民から安倍首相の指導
 力・統治能力に疑問をもたれた。
③安倍首相の政権運営が国民の目線に沿っていなかった。
④安倍首相の政策優先順位が民意とズレていた。
⑤民意が求めていた都市と地方の格差、生活格差解消の政策を優先すべきだ
 ったが、それを置き去りにした。
⑥「論功行賞」を基準とした閣僚起用や郵政造反組の復党等の人事が国民に
 受け入れられなかった。

 今後の対策として、国民の目線に立ち、民意が求める各種格差解消の具体的な政策を示して強力に推し進め、国民の将来展望に希望を与える。

 政策優先順位の民意とのズレに関して読売インターネット記事≪自民の委員会が参院選総括「国民の側に立っていない印象」≫(07.8.24)は、安倍首相の<「美しい国」「戦後レジームからの脱却」の訴えは浸透せず>と、それが空振りに終わったことを報告書が挙げていることを伝えている。要するに独りよがりを演じていたと言うことだろう。

 読売記事は内閣改造後の新閣僚への注文として、<「政治とカネ」の問題が起こった場合は、進んで説明責任を果たし、それができなければ、自ら辞職する覚悟を持つよう求めた。>としているが、注文は注文内容とは逆の事態にあったことを示すから、誰も<進んで説明責任を果たし>ていなかった、そのことは内閣の統括者でもある安倍首相が<進んで説明責任を果た>すことを求めなかったことも原因していた事態で、そのことが国民の納得を得られない一因となったと言うことだろう。

 事実「首相は松岡氏が説明責任を果たしていると思うか」との岡田克也元民主党代表の質問に安倍首相は「法律の定めに従って説明を果たしたと私は理解している」などと〝注文内容〟とはズレた状況を演じている。ズレているから、それではいけないと注文が生じることになる。

 いわば指導力不足、統治能力不足、人心掌握と人事管理能力の欠如を暗に指摘している。

 「報告書」が全体を通して言わんとしていることは、内閣の長としての各閣僚に対する安倍首相の人事管理能力、統治能力、政策やその運営が破綻したときのそれを適正に処理する危機管理能力、あるいは政策修正能力、政治家として民意を読む(=国民の目線に立つ)政策感受能力、あるいは政策立案能力が欠如していたということだろう。いいとこなしである。

 安倍首相はそもそもからして国家主義者だから、国民の目線に立ち、民意を読む能力に欠けているのは彼にしたら自然な姿で、そうだからこそ独りよがりに<「美しい国」「戦後レジームからの脱却」>をさも偉大な改革であるかのように振りかざすことができた。

 最初に人事の「一任」は一任させる相手が指導力や統治能力、求心力、人心掌握術、政策立案能力とそれを推進し具体化する実行力等を備えていることによって可能となると言った。

 しかし自民党参院選大敗の原因を検証した参院選総括委員会の報告書はそれらの能力がすべて不足していることを伝えている。そのような能力不足の人間に人事を「一任する」滑稽な逆説を犯している。「不祥事の後手後手の対応と手ぬるい処分により、国民から指導力・統治能力に疑問を呈された」人間に「一任」なのである。

 いや実際は自分たちの逆説に気づいていて、政権維持の都合上、いわば政権を手放したくないから、安倍首相に指導力その他の能力があるように見せかけなければならない。そう見せかけるには「一任」という取り繕いが不可欠だからそういった体裁を取っているだけのことで、本心からの「一任」ではないということもある。

 党役員人事は「一任」、閣僚人事は「派閥の推薦を受けない」、「わたし一人で決めなければいけないと思っている」とすることで、安倍首相の指導力その他の能力があるように装わせておいて、陰であれこれ人事や政策の優先順位に注文をつけて、「民意とずれない」ないようにコントロールしていく。

 既に報告書の形を取って<「美しい国」「戦後レジームからの脱却」の訴え>が「民意とずれ」ていて不人気だったことを挙げて、優先順位をつけている。「論功行賞人事」はいけませんよと注文をつけている。幹事長が麻生でほぼ決定という状況下で、古賀派は幹事長に古賀誠をとぶち上げている。単なるアピールに過ぎないだろうが、アピールを許すということは現実には「一任」とは異なる状況にあるからで、「一任」が最初から破綻していることを示しているということだけではなく、それが体裁以外の何ものでもないことの証明でもあろう。

 注文は今後とも続き、安倍首相は参院選大敗の代償として党からの様々な注文に乗らざるを得なくなるだろう。今回の参院選和歌山選挙区で当選を果たした「美しい国づくり」国民運動担当の世耕首相補佐官が<「街頭ではとても『美しい国』なんて言えませんでした」>と首相に「美しい国」の不人気を訴え、<「生活に密着した政策を打ち出し、憲法改正などとバランスを取るべきだ」と進言。神妙に聞き入っていたという首相は、参院選後は「美しい国」という言葉は口にしていない。>(07.8.3『朝日』朝刊≪「美しい国」私も言えませんでした 広報担当・世耕補佐官が苦言≫)と、早々に注文に乗った首相を演じている。

 心(しん)もなく、注文には簡単に乗る首相だと既に足元を見られているに違いない。

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安倍首相も取らなかった「責任」、小池防衛相に言う資格なし

2007-08-25 07:25:51 | Weblog

 07年8月24日東京新聞インターネット記事。

 ≪防衛次官人事の対立再燃 小池氏「血迷っていない」≫

 <【ニューデリー23日共同】防衛省の守屋武昌事務次官の後任人事をめぐる小池百合子防衛相と守屋氏の対立が23日、再燃した。守屋氏は記者会見で「後任については話をしていただきたかったということに尽きる」と事前に相談がなかったことを批判。小池氏はニューデリーで記者団に「急に血迷って人事に手を付けたわけではない」と自らの正当性を強調した。
 小池氏は、海上自衛隊のイージス艦中枢情報流出事件に触れ「誰か責任を取ったのか。ただ漏れてしまったという形で、人ごとではいけない」と情報保全に関する不十分な対応が守屋氏を退任させる一因だったことを示唆。
 「それぐらいの対応をしなければ、武器調達などについても日本への信頼感がないままで進められない」とした上で、首相官邸の対応について「9月1日からの(防衛省の)組織再編ということをどこまで本気に考えたかクエスチョンマークだ」と不満を漏らした。>

 「誰か責任を取ったのか」――日本にはマスコミや世論や上からの指示、あるいはトカゲのシッポ切りといった他からそう仕向けられた形で責任を取る歴史・伝統・文化はあっても、自ら責任を取る歴史・伝統・文化はないのだから、イージス艦情報流出事件で省内で誰も責任を取らなかったからといって、責める資格は小池防衛相自身にはない。

 先の戦争では東京裁判で他から責任を取らされたが、日本自身は自らが責任を問い、自らが責任を取ることをしないまま現在に至っている。自らの責任には鈍感でありながら、他から取らされた責任に関しては不平を言う。

 官僚や会社人間が「上からの指示でしたことなのに、責任を取らされるのはおかしい」と言うのと同じである。

 小池防衛相は参院選自民大敗後、安倍首相が続投を表明すると、いち早く支持したが、防衛相に任命した本人だから、自己利害上続投支持を打ち出したとしても不思議はない。しかし内閣の長として安倍首相は大敗の責任を取っただのろうか。自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化に則って責任は取らなかった。そのような安倍首相の続投を自己利害が絡んでいたとしても支持したのである。
 
 一方で安倍首相大敗の責任を問題とせず、他方で情報漏洩の責任を問題とする「責任」に二重基準で立ち向かう自らの矛盾に気づいていないばかりではなく、自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化があることを無視している。

 ところが上記記事では守屋防衛省事務次官の記者会見での小池批判に対して記者に感想を聞かれたときの小池防衛相は「辞任」の「じ」の字も口にしていなかったにも関わらず、自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化に逆らって、誰も責任を取らないから、わたしが責任を取ると辞任の意向を示したと昨日(24日)夕方のNHKニュースが流していた。

 詳しく知るためにインターネット記事を検索してみた。夜行性の生活を送っているから、夜中の検索である。

 ≪「新しい閣僚に任せたい」小池防衛相、留任しない意向表明≫(07.8.24/21:21/ 読売新聞)

 <【ニューデリー=栗林喜高】インド訪問中の小池防衛相は24日午後(日本時間24日夜)、ニューデリー市内のホテルで記者団に対し、27日に予定されている内閣改造に関して、「(海上自衛隊の)イージス艦情報流出事件で防衛省内の誰も責任を取っていない。私が責任を取りたい。人心を一新し、新しい閣僚に任せたい。私は(改造を機に)『辞める』と言っている」と述べ、留任する意向がないことを明らかにした。
 さらに、小池氏は、テロ対策特別措置法が11月1日に期限切れとなることに関して「しっかりと延長を実現してもらえる人にバトンタッチしたい」と語った。
 小池氏は9月召集の臨時国会を前に、積極的に外遊するなど、留任に前向きと見られ、その去就が注目されていた。
 小池氏をめぐっては、守屋武昌防衛次官と防衛次官人事に関して激しく対立し、首相の指示を受けた塩崎官房長官が介入する形で、小池氏の意向とは違う人事で決着した。混乱の収拾に時間がかかったことから、政府・与党内からは小池氏を批判する声が強まっていた。
 小池氏の発言について、政府筋は24日夜、「情報流出事件の責任を取ることは留任しない理由になっていない。小池氏は、内閣改造で交代させられると感じ取り、先手を打って続投しない意向を表明したのではないか」との見方を示した。>

 「情報流出事件の責任を取ることは留任しない理由になっていない。小池氏は、内閣改造で交代させられると感じ取り、先手を打って続投しない意向を表明したのではないか」が可能性高い事実とすると、別に自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化に逆らったわけではなく、留任できなかった場合「留任に前向き」な姿勢を見せていたことが逆に裏目に出ることを前以て予防する取り繕いに過ぎないことになる。

 イージス艦情報流出は今年(07年)1月に発覚した事件である。防衛大臣(07年1月8日以前は防衛長官)はかの有名な「原爆投下はしようがない」発言の久間章生であって、責任を取るべきは久間大臣なのだが、情報漏洩ではなく、「しょうがない」発言で責任を取って辞任という顛末となった。それも日本の歴史・伝統・文化に反して自ら進んで取った責任ではなく、「これでは参院選を戦えない」との党内からの四面楚歌に止むを得ず応えた日本の歴史・伝統・文化に則した辞任であった。イージス艦情報流出に関してはその責任を取るべき省内の関係者とトップの久間防衛大臣なのだから、その後任の小池女史に関しては「情報流出事件の責任を取ることは留任しない理由になっていない」ということになるのだろう。

 小池防衛相の「(海上自衛隊の)イージス艦情報流出事件で防衛省内の誰も責任を取っていない。私が責任を取りたい。人心を一新し、新しい閣僚に任せたい。私は(改造を機に)『辞める』と言っている」の「私は(改造を機に)『辞める』と言っている」という部分が言葉の流れから唐突な感じが否めない。「時事」によると、<小池氏は「情報保全という大きな課題が本当に意味をなすためにきっちりとした体制でやってもらいたい。人心を一新してほしい。そこ(情報保全)を任せられる人に大臣になってほしい」と語った。さらに「わたしは辞めると言っているのよ」と述べた。>(2007/08/24-21:05≪小池防衛相「辞める」と明言=内閣改造を機に≫)となっている。

 なぜか辞任をことさら強調しているように見える。それも自発的辞任らしく装っている。例え顔に笑みを見せて余裕のある冗談ぽい言葉遣いで「わたしは辞めると言っているのよ」と言ったとしても、記者に「辞任ということですか」と聞かれてではなく、わざわざ自分から言うこと自体に心の底にヒステリーな感情を押し殺しているように思えて仕方がない。

 度の過ぎた「留任に前向き」なパフォーマンスはあなたにとってまずいことになるかもしれないという内々の注意を受けたと勘繰れないことはない。安倍首相とその周囲の意向が小池留任の意思で一致していたなら、自信に満ちた続投のパフォーマンスは有効ではあるが、留任の目がないとしたら、そのようなパフォーマンスは本人だけそう思い込んでいた滑稽な続投劇と化す。下手をすると、自分では気づかずに道化を演じていたことになって、「空気を読めなかった」女とマスコミから有難くない名称を頂戴しないとも限らない。これら一切を帳消ししてくれる取る必要もない責任をわざわざ取る形の辞任という装いなのだろう。

 それとも一旦自ら辞任する意向を見せておいて、留意されて再任となった場合、それ程までにも自分は重視されているといった様子を見せることができる。そういった辞任の意思なのだろうか。

 どちらにしても「責任を取る」とは関係ない「わたしは辞めると言っているのよ」は確実なところだろう。何しろ自らは責任は取らない日本の美しい歴史・伝統・文化なのだから。

 89年の参院選で宇野宗佑内閣が大敗を喫し「一切の責任は私にある」と退陣したが、前任の竹下登がリクルート事件や東京佐川急便事件、そして消費税導入の影響を受けた支持率の急落という世論やマスコミの攻撃を受けて辞任、他の自民党有力者も事件に関与していて、当時自民党を支配していた竹下派の都合で無色に近い宇野宗佑に白羽の矢が当たった棚からボタ餅の自分の身柄を自分で扱うこともできない傀儡に過ぎなかった。消費税とリクルート事件が尾を引いていた上に自らの女性スキャンダルが重なって参院選に大敗したのだから、傀儡の役目はそれで終わった辞任であって、厳密には責任を取った措置ではなかったろう。

 もし真に責任を取るとしたら、宇野宗佑を傀儡の首相に据えた竹下登や竹下派の有力議員たちで、彼らは首相のクビを次の傀儡、海部俊樹にすげ替えだだけで自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化にならって、何ら責任を取らなかった。

 98年の橋本内閣も参院選に大敗して責任を取って辞任しているが、責任を取らないと格好がつかないという事情に加えて、橋本龍太郎は竹下派を継いだ自民党最大派閥の小渕派に属していて、当時は派閥の領袖でもなかったし、小渕自身が最大派閥の領袖として村山富一(村山富一首相就任は政権維持のための都合に過ぎなかった)辞任後の後継を狙っていたが、橋本龍太郎の人気と見栄えで橋本を推したというイキサツがある。橋本内閣大敗はその後継を担う絶好の機会遭遇であり、責任を取って貰うことで派閥の領袖たる小渕の出番を本番とすることができる橋本龍太郎の「私に責任がある」辞任といったところだったのろう。

 そして今年07年の自民党参院選大敗を受けた、自らは責任を取らない日本の美しい歴史・伝統・文化に正真正銘則った安倍責任を取らない続投ということだろう。8月27日に予定されている安倍内閣改造は自らは責任を取らない日本の美しい歴史・伝統・文化の最初の大いなるイベントとなる。

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暴力団・銃1丁時代と高校生祖父殺し

2007-08-24 02:00:32 | Weblog

 金属バット祖父殺人/加害者は祖父なのか、高校生なのか

 暴力団組員1人に銃1丁時代だと言う。以前は幹部クラスが持ち、出入りや鉄砲玉を仕立てる必要が生じたとき手下に貸し渡す慣習となっていたから、限られた数で収まっていたのだろう。

 銃1丁時代は海外旅行やインターネットを通して簡単に手に入ることも原因しているのだろうが、組長や幹部と下の者との従来の上下関係に微妙な変化が起きていることから生じている現象でもあろう。組長や組幹部の側にとっては自らの命令・指示は自己利益となるし便利だし、何よりも上の地位の証明でもあるから、永遠の絶対性と下の者の無条件の服従を確保したいだろうが、下の側にとっては時代的な権利意識の発達を受けて絶対的服従要件とするには権利意識との関係で居心地が悪く、受け入れ難くなっていることから、対等な関係に持っていく備えとしての意味を持たせた銃1丁という状況ではないだろうか。

 このことは上の者の厳しい命令・指示が耐え難さの一線を越えたとき、耐え難さの反発を銃を使用して上の者の命を奪うことでその命令・指示を抹消してしまう、命令・指示とそれに対する無条件の服従という従来の上下関係には殆ど組み込まれていなかった最近よく見られる銃が可能としている力関係の逆転が証明している。

 ≪立てこもり前射殺で再逮捕=元組幹部「我慢ならなかった」-神奈川≫ (2007年7月30日(月)12:39 [時事通信社]

 <東京都町田市の都営アパートで起きた立てこもり発砲事件の直前に、神奈川県相模原市で指定暴力団極東会系金原組の横山円組員(37)を射殺したとして、県警暴力団対策課などは30日、殺人容疑で、同組元幹部竹下祐司容疑者(36)=殺人未遂罪などで起訴=を再逮捕した。
 同容疑者は「間違いない。ひどい扱いを受け、我慢ならなかった」と供述している。 
 調べによると、竹下容疑者は4月20日午前11時半ごろ、相模原市上鶴間本町のコンビニ駐車場で、横山組員の頭部と背中に拳銃2発を発射し、射殺した疑い。
 同課などは、竹下容疑者と横山組員との間に上納金をめぐるトラブルがあったとみている。
 竹下容疑者は4月20日午後、東京都町田市の都営アパート1階の自宅から、警視庁町田署地域課の巡査長ら4人を殺害しようと発砲。パトカーの窓ガラスなどを破損させ、拳銃2丁と実弾を自宅に隠し持っていたとして、今月20日に起訴されていた。>

 上の者の命令・指示を絶対とした下の者への無条件の服従要求は下の者の権利を介在させない関係によって成り立ち可能となる。権利を認めないことは相手の人格をも認めていないことを意味する。当然、そのような関係に対する下からの反動はある意味下の者の権利行為であり、人格発現行為と言える。例え暴力団社会のルールに反していてもである。

 上の者は一旦手にした従来のルールに則って常に自らの命令・指示を絶対とする方向に力を注ぐ。そのような従来の上下関係の画然性を埋め合わせる下からの権利行為の発現に銃を手に入れることによって、銃を代弁者とすべくその備えとする。いわば銃を上の者の命令・指示の絶対性に対抗する唯一の手段とする。

 当然上の者も下の者のそのような備えに自らも備えるべく、銃が1人1丁へと向かったということではないだろうか。

 上の者の命令・指示の絶対性はそこに下の者の権利・人格を認めないことによって成立可能となるが、同時に上下の議論の不在がそのことの要件となる。議論は自己主張を構成要素とするから、そこに議論を介在させたとき、自己主張が生じ、自ずと声を出す者の権利・人格を表出させることとなって、命令・指示の絶対性を揺るがすことになるからである。問答無用(=議論不在)こそを命令・指示の絶対性確保の絶対条件としなければならない。戦前の天皇・軍部の国民に対するようにである。

 また、上の者の命令・指示に不満を持ち、その絶対性を破ろうとして銃を発射して命令・指示そのものだけではなく、それを超えて命令・指示を発した上の者の存在そのものを自らが力としている銃によって抹殺する行為も問答無用(=議論不在)のものである。

 上の者の下の者の権利・人格を認めないそもそもからの議論の不在が下の者の上の者に対する銃による抹殺というの権利・人格を認めない議論の不在を再生産させる契機となっていると言える。

 山口県で孫の高校生が「勉強しろ」とうるさかった祖父を金属バットで殴り殺す事件(07.8.19)が起きた。果たして殺された祖父の孫の高校生に対する「勉強しろ」が絶対命令・絶対指示と化していなかっただろうか。祖父は自らの「勉強しろ」の命令・指示を絶対として、孫に勉強することを絶対服従行為として要求していなかっただろうか。そして孫の高校生の祖父のそのような絶対命令・絶対指示を抹消する手段が暴力団の下の者が銃を力とするように金属バッドを力とし、金属バッドを振るうことで命令・指示に対抗しようとして祖父を殺すこととなった一連の顛末ということではなかっただろうか。

 高校生は逮捕状を見せられたとき、「分かりました。おじいちゃんは死んだんですね」と言っていたというから、祖父への殺意よりも命令・指示への対抗心の方が強かったのではないだろうか。命令・指示をやめさせることが殺すことに否応もなしにつながった――。

 両者の関係がそのようなものであったとしたら、当然そこには勉強することについての双方の議論は存在しなかったことになり、議論の不在は孫の高校生の自己主張を封じていたことを意味する。自己主張の封殺は祖父の意志が孫の高校生の権利・人格を認めない性格のものであったことを証明する。

 「勉強しろ」
 「するしないは俺の勝手だろ」
 「お前の将来を思って言ってるんだ」
 「うざったいんだよ」等々は断るまでもなく。議論の内に入らない。

 祖父は孫の高校生との議論を介在させないことによって自らの命令・指示の絶対性を可能とした。そして孫の高校生も、祖父の議論の無視を受けて、自らも議論を経ずに祖父の存在そのものを抹殺してしまう命令・指示の抹消を超えた行為に走ってしまった。

 物理的殺人行為に関しては孫の高校生が確かに加害者に位置しているだろうが、権利・人格を認めない精神行為に於いて、祖父は加害者に位置していると言えるのではないだろうか。下の者の権利・人格を認める自己主張を構成要素とした議論を無視し、介在させないことによって上の者の命令・指示は絶対性を確保し、それに対する下の者の服従を生じせしめる。両者間の議論の不在がすべての契機となる。あったのは上の者の下の者に対する支配の意志のみで、そのような人間関係が招いた犯罪ではなかったろうか。

 事実は異なるかもしれない。だが、そうではないかと考えた人間関係は学校社会に於いてもよく見かける光景となっていないだろうか。授業の場が暗記を主体としたテストの解答技術を授受する意思伝達が支配しているのみで、そこに教師対生徒が相互に自己を主張する議論の習慣がなく、それが通常の人間関係となっている。

 人間は議論を通した自己主張の衝突から、対人関係を学ぶ。自他の権利にどう折り合いをつけたら対人関係をうまく維持できるかを学ぶ。それがないから、従うか、上に立つかに偏る。

 学校に於いては教師が上に立ち、生徒が下にいて上の教師に従う関係ができている。そのことが教師の教えに生徒が従うだけの暗記教育を可能としているのだが、議論の習慣の不在が教師と生徒を上下に位置するだけの関係に押し込めて、生徒をして議論を通して自己主張し、自己の権利を訴え、対人位置を計ることを学ぶ機会を与えないこととなり、戦後の個人の権利の時代の権利だけは教えられて、それを正当に主張する術を知らない歪んだ人間をつくることとなっている。

 授業中の教師の注意を無視した席立ちや私語、あるいは教室からの退出、さらには教師に対する暴力等の問題行動は、テスト教育に馴染めない生徒の議論を通じて訴えることができない、あるいはノーと言えない代理的な自己権利行為としてある自己主張であろう。

 なぜなら、それらの問題行動の殆どが生徒の側からの議論を不在として成り立たせている行動だからである。そしてそれは教師の側からの議論の不在を受けた生徒の側の議論の不在であろう。

 命令・指示する側にとって命令・指示を無条件に服従させるためには議論の不在は便利であるが、それを受ける側に不当の意識を与えたとき、議論の不在は歪んだ反動を与えることになる。議論の不在が相手の自己主張を抑圧し、自己権利を認めないものだからなのはこれまで言ってきたとおりである。

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安倍訪問に合わせてインドネシア紙、慰安婦問題批判

2007-08-23 04:24:10 | Weblog

 07.8.20『朝日』朝刊≪インドネシア紙 慰安婦問題批判 安倍首相訪問に合わせ≫

 <【ジャカルタ=矢野英基】安倍首相が訪問中のインドネシアの英字紙ジャカルタポストは20日付の社説で従軍慰安婦問題に言及し、「日本のリーダ-たちが自らの歴史を誠実に受け入れられない限り、国際社会での中枢での役割を担うことはできないだろう」と論評した。
 社説は、安倍首相が3月、従軍慰安婦について「強制性を裏付ける証拠がなかった」などと発言したことについて、カリマンタンの元従軍慰安婦(78)が「彼の顔を平手打ちしたい。ウソつきだ」と地元メディアに語ったことを紹介。「過去の否定は国の名誉を傷つける」と批判した。同紙は、首都ジャカルタなど大都市を中心に発行されている有力紙の一つで、知識層の読者が多い。>

 日本は他の民族に優越セル民族である。アジアの国々の上に立つ優越国家・日本国は神武建国以来、その優越性は歴史を超えた連続性を備え、不朽不滅の民族の精神と化している。その不朽不滅の連続性ゆえに優越民族日本の如何なる過去の瑕疵も瑕疵とするに値しない。歴史上のほんの一時期の不調和は民族の優越性の前にごくささやかな汚点と化す。「ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか」(『美しい国へ』安倍晋三)。

 なぜかくも日本民族は優越民族なのか。「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにない」(05.10.15.麻生総務相/当時)からだ。それが優越セル民族、大和民族なのである。

 「一文化、一文明、一民族、一言語」であること、単一民族あることこそが優越性の証明に他ならない。それが証拠に混血国家アメリカを見たら分かる。「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当知的な社会になってきている。アメリカなんかより、はるかにそうだ。平均点からみたら。アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的に見たら非常にまだ低い。」(1986年中曽根首相/当時)

 その理由は「日本は単一民族だから手が届きやすい」(同中曽根)からだ。戦前、一億の国民を自存自衛の戦争に簡単に総動員できたのも、単一民族の「手が届きやす」さからで、日本が世界に誇ってもいい日本民族の特性であろう。

 日本国家の単一民族性は万世一系の天皇と共に神武建国以来の歴史を超えた連続性として存在し、そのことが「一文化、一文明、一言語」の維持をもたらすに至った。単一民族=「一文化、一文明、一言語」であり、民族の優越性の証明に他ならない。

 「日本は一国家、一言語、一民族と言っていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されていますから」(2001.7.2./鈴木宗男自民党議員)

 「小さな国土に一億2600万のレベルの高い単一民族できちんとおさまっている国。日本が世界に冠たるもの」(2001.7.2./平沼赳夫経済産業相)としている優越性としての単一民族性。優越セル民族。

 「日本は単一民族である。日本人と言えば大和民族である。人種と国が大体に於いて、多少の例外があるが、合っている、という意味に於いて日本の事情というものが、実は世界の基準から見ればまったく、その特殊の国である」(01.12.1『朝日』朝刊≪「単一民族」発言で尾身担当相が謝罪≫)

 「経済社会の国際化の中で、日本が他の国に比べ、均質性が高い社会であることをどうとらえるかという問題提起をしたかった」(尾身釈明/同記事)

 「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国です」(07.2.25..伊吹文科相)

 「同質的」であること、あるいは「均質性が高い」こと。単一民族という同質性・均質性こそが日本民族を優越たらしめる唯一絶対の条件となっている。「一文化、一文明、一言語」という同質性・均質性が民族優越性の絶対条件なのである。安倍首相も加えた日本の優秀な政治家がこぞって言っていることなのだから、間違いはない。

 かくかように日本人が民族として守るべき絶対条件としている単一民族性、守るべき「一文化、一文明、一言語」への拘り(=同質性・均質性への希求)が同質性・均質性の反対要件である異質性への止むを得ない排除、外国人受入れへの拒絶反応であり、難民受け入れに対する非積極性なのである。日本民族が時代を超え、歴史を超えて優秀であろうとする民族的本能が外国人受け入れを最小限にとどめる生理的欲求となって表れているに過ぎない。

 誰が進んで自らの優越性を捨てるだろうか。但し、観光客は同質性・均質性への阻害原因とはならないばかりか、カネを落として立ち去る者として日本の利益となるのだから、大いに歓迎ではある。劣る国、アジアからの観光客であっても、カネを落としさえしていけば、拒絶反は起こらない。

 何度でも言う。他の民族に優越セル大和民族日本の天皇の大日本帝国軍隊がその優秀性ゆえに従軍慰安婦を性奴隷とするような卑劣な行為に出るはずはなく、「日本軍の強制性を裏付ける証拠がなかった」のはごく当然のことである。「20世紀は人権が侵害された世紀だった。21世紀は人権侵害がない、世界の人々にとって明るい時代にしていくことが大切」(安倍首相)で、「ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか」(『美しい国へ』安倍晋三)。

 20世紀の人権侵害に「日本も無関係ではなかった」(安倍首相)が、日本は他の民族に優越セル民族である。アジアの国々の上に立つ優越国家・日本国に於いては神武建国以来、その優越性は歴史を超えた連続性を備え、不朽不滅の民族の精神と化している。その不朽不滅の連続性ゆえに「日本も無関係ではなかった」過去の瑕疵も瑕疵とするに値しないだろう。

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安倍内閣改造の「わたし一人で決めなければならない」の「オオカミが来た」

2007-08-21 04:01:45 | Weblog

 安倍内閣改造・NHKニュース(07年8月19日/7:00~)

 NHK8月の世論調査
 支持率29%
 参院選の自民党大敗の主要な原因を問う。
 1.閣僚の不適切な発言――24%
 2.安倍首相の指導力 ――22%

 「閣僚の不適切な発言」に対して「適切」な対応で処理する指導力を発揮していたなら、傷口を最小限に抑えることができた問題だったろうから、有権者が意識していなかったとしても、二つの質問は重なり合う。辞任閣僚、自殺閣僚を最初は擁護した人事管理等を含めると、少なくとも40%、50%は「安倍首相の指導力」不足が原因となった大敗であろう

 参院選の翌日(7月30日)首相官邸
 安倍「人心一新というのが国民の声だと思います。然るべきときに、エエー、内閣改造、役員の一新を、ま、行いたいと思います。党として、こういう厳しい状況になったわけでありますから、一致協力して前に進んでいけるチームをつくっていかなければならないとおもいます」

 「党として、こういう厳しい状況になったわけでありますから」は自身が招いて「党」をも巻き込んだ「厳しい状況」のはず。主体は安倍首相自身の内閣管理、指導力等の能力が関わって招いた安倍内閣の「厳しい状況」ということだろう。「党として」で済ますのは自己責任の無化以外の何ものでもない。

 6日の官邸記者会見

 安倍「派閥の推薦を受けずに、内閣改造を行う。その方針に変わりはありません。推薦を受けると、推薦を受けて人事を行うという、そういう今までの、かつてのですね、やり方をわたしは取らないということは、申し上げたとおりであります」

 「そういう今までの」と一度言ってから、「かつてのですね」と言い直したのは、「今までの」とした場合、第一次安倍内閣の閣僚人事も含めることになるから、それを避ける意味からの言い直しであろう。実際にも、昨年の自民党総裁選前に政権公約の具体化や人事方針、歴史認識問題等についてインタビューした朝日の記事(06.9.7.≪自民総裁選06 安倍官房長官に聞く官房長官人事 派閥と無関係≫)で、自らが目差す閣僚人事方法について次のように述べている。

 <――組閣方針は。これまでの公明党枠や参院枠はどうしますか。
 安倍「全力投球内閣にしたい。派閥の推薦を受け閣僚を決める方法は取らない。バランスとチームワークだ。老壮青が力を合わせることが大切だ。公明党とは連立内閣の信頼信義を大切にしていく。参院が「この人で」と上げてきた人を決めるとは限らない。>

 「派閥の推薦を受け閣僚を決める方法」は「かつての」「やり方」であって、私自身のやり方ではないから、そういった「やり方をわたしは取らない」と宣言したのである。

 13日官邸記者会見
 安倍「私自身、よく熟慮をして、断行していきます。わたし一人で決めなければいけないと思っています」

 カメラに向けた目に笑みを見せて「断行」と言うとき言葉に力を込める。人事を誰にするかを「断行していきます」とは大袈裟に過ぎる。「わたし一人で決めなければいけない」の言葉と合わせると、連発した「私の内閣」の「私」と同じで、自己宣伝意識から自分を前面に押し出すための「断行」なのだろう。

 いずれにしても大敗の痛みをもう既にどこかに置き忘れた目の笑みに見えたが、あるいは挫けていないところを一生懸命見せようとした強がりの演技といったところだったのだろうか。

 8月19日(日曜日)アジア歴訪前の官邸での午前10時過ぎの記者会見。内閣改造について記者団から問われる。

 安倍「ま、基本的には、ええー、そういう方向で考えて、いきたいと思います。今、熟慮をしながら、あー、段々固めていると、固めていると、いうところです。ま、色々な観点を、おー、加味しながら、よく考えていきたいと思います」(終始口元に笑みを絶やさずにゆっくりと応じる)

 そしてアジア歴訪に旅立っていった。クーデターの盛んな国なら、飛行機が離陸した途端に反安倍派のクーデターが勃発して、以後安倍晋三は外国の空の下に暮らす身となったのではないか。

 安倍首相の記者会見を通してNHKが番組で伝えた安倍首相の意志は、推薦を受けて人事を行うというかつてのやり方は取らない、派閥の意向を無視して、「わたし一人で決め」るというものだろう。いわばこの安倍式閣僚人事方法は「全力投球内閣にしたい。派閥の推薦を受け閣僚を決める方法は取らない」との宣言のもと、既に第一次安倍内閣で実施済みであり、同じ方法を今回の内閣改造でも貫くとの姿勢を示したのである。

 だが、かく公言して憚らない安倍式閣僚人事はその最初のケースで言えば、その実態的な成果は番組でも批判を受けていたと解説していた「お友達内閣・論功行賞内閣」ということであって、それが自らが目差した「全力投球内閣」だったことになる。そのうちの特に目立った出来事が1年足らずの間に佐田行革相、松永農水相、久間防衛相、赤城農水相と3人の閣僚の辞任と自殺者1人を出し、その他失言閣僚を生み出したというものだろう。

 言っていることと実態との矛盾、あるいは小泉前内閣と安倍内閣が共同で招いた都市と地方の格差以上にひどい言っていることと実際の姿との格差はどう説明したら埋め合わせができるのだろうか。

 答えは簡単。言うことが実態として伴わない言行不一致、口先だけとしか言いようがないのではないか。

 「全力投球内閣にしたい。派閥の推薦を受け閣僚を決める方法は取らない」として行った閣僚人事に於ける実力の程、その正体が既にバレているのである。4人ものクビのすげ替えをアドリブで連発した「お友達内閣・論功行賞内閣」といったザマで推移した。ここで次の内閣改造を「派閥の推薦を受けて人事を行うかつての方法は取らない」、「わたし一人で決めなければいけないと思っています」と同じ手・同じカードを見せられても、俄かに飛びつくわけにはいかず、「狼と少年」の「狼が来た」と同じ効果――ウソの発信としか受け取ることができないのではないだろうか。

 再び同じ結果で終わるに違いない。安倍首相自身、口でどう言おうと、国民の生活よりも国の体裁を重んじる国家主義者である。国家に合わせて国民がどうあるべきかを規定しようとしている。国家に合わせた国民をつくろうとしている。国民の意識と遊離した国家優先の意識のもと、どう内閣を改造しようと、そのような乖離した意識が閣僚たちに自らの発言に無神経にさせたり、閣僚の疑惑行為を国民の批判に関わらず、それを無視して内閣の体裁を優先させるべくお互いに擁護したりするズレを再度生じせしめるだろうから、破綻を来たすのは時間の問題に違いない。

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安倍晋三には「国民の生命・財産を守る」を言う資格はない

2007-08-19 01:03:24 | Weblog

 歴史認識と「国民の生命・財産を守る」を言うこととの関係

 防衛省の次期次官人事を巡って小池防衛相と6年目の続投を狙っていた現次官の守屋武昌とが醜悪・滑稽なドタバタ劇を演じてマスコミに格好のネタを提供していた問題は昨8月18日の『朝日』朝刊≪時時刻刻≫で≪人事バトル 痛み分け≫の見出し解説となっている。小池女を売り物大臣が推薦した警察庁出身の候補と続投を断念した守屋が推薦した防衛省生え抜き候補を二人とも外して、非守屋派の生え抜きを当てる妥協案で決着、<痛み分け>と言うわけである。

 残るは今月末の内閣改造で小池オバサンが留任するか、次官人事のドタバタの責任を取らされる形でクビのすげ替えが行われるかに興味は移った。暫くはマスコミスズメがピーチクパーチクかしましく囀ることになるだろう。

 「続投」と言えば、安倍首相にも関係するキーワードであって、自分の「続投」は許すが、他の者の「続投」は許さないでは自他のバランスが取れないのではないか。

 「続投」と言っても自分の場合はこの先1年持つかどうかも分からない不透明・不安定な続投であるに対して、相手は4年以上も続投し、さらに続投と言うことになったら5年目の長期政権ということになる。そのことに嫉妬した<首相の指示で急転>(同『朝日』記事)といった「痛み分け」なのだろうか。大いにあり得る展開ではある。

 6日前の13日夜の首相官邸の例のぶら下がり記者会見で、テレビの中からあの顔でじっと見つめられているような気色の悪いカメラ目線一本やりではない、あっちに顔を向け、こっちに顔を向ける落着きのないキョロキョロで「人事はまだ何も決まってませんよ。防衛、安全保障は極めて重要で、しっかりと日本の国を守ることができる態勢をつくるという観点から人事を決めなければいけません。当然、この国民の生命と財産を守る、役所にふさわしい人事を考えていかなければなりませんね」と言い諭すようにのたまわっていたが、「国民の生命と財産を守る」といった言葉を口にする資格が安倍首相は自分にはあると思っているのだろうか。

 安倍首相は8月10日の首相官邸での記者会見で、参議院与野党逆転で「政策を進める上で困難な状況になったと覚悟しているが、私が続投するのはあくまでも政策を前に進めていくためで、国民の生命と財産を守る政府の責任には変更はない」と、集団安全保障等憲法解釈の見直しに関連してここでも「国民の生命と財産を守る」を口にしているし、これまでも機会あるごとに「国民の生命・財産を守る」を言っている。

 なぜ口にする資格がないのか。安倍晋三が国家主義者だからなのは言うまでもない。何度でも言うように国家主義者とは「国家をすべてに優先する至高の存在と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(『大辞林』三省堂)である国家主義に染まった人間のことを言う。

 口にするとするなら、「人事はまだ何も決まってませんよ。防衛、安全保障は極めて重要で、しっかりと日本の国を守ることができる態勢をつくるという観点から人事を決めなければいけません。国民の生命と財産を守ることも大切だが、『ときにはそれをなげうっても守るべき価値(国家的大儀)が存在する』(『美しい国へ』安倍著)ことを国民の共有意識に仕向ける役所にふさわしい人事を考えていかなければなりませんね」であろう。

 安倍首相はこのような指摘を不当な冤罪だと否定するだろうが、否定できない物的証拠を提示できる。

 ≪A級戦犯無罪主張のパル判事遺族と面会へ 安倍首相≫(asahi.com/07.8.14)

 <安倍首相は今月下旬にインドを訪れる際、極東国際軍事裁判(東京裁判)のパル判事の遺族と23日に面会する方向で調整していることがわかった。パル氏は連合国側判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張したことで知られている。

 政府関係者によると、パル氏の遺族との面会は首相の強い希望だという。首相は東京裁判について国会答弁などで「国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない」と述べるにとどめている。ただ、かつてはそのあり方に疑問を唱える立場をとっており、波紋を呼ぶ可能性がある。>

 8月15日の『朝日』朝刊では<安倍首相は14日、今月下旬のインド訪問の際、極東国債軍事裁判(東京裁判)のパル判事の遺族と面会する予定を明らかにし、「パル判事は日本とゆかりのある方。お父様のお話などをお伺いできることを楽しみにしている」と述べた。パル氏は連合国の判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張した。この点について、「面会はアジア諸国を刺激するのでは」と記者団から聞かれると、首相は「そんなことにはならないと思いますね」と語った。>(≪パル氏遺族と「面会楽しみ」安倍首相≫)と報道されている。

 昨8月18日の『朝日』社説はパル判事の遺族との面会に関して、<旧日本軍の慰安婦問題や靖国参拝を巡って国際社会の視線が厳しい中で、首相の行動は東京裁判と日本の戦争責任を否定するかのようなメッセージを発することになりかねない。>と批判しているが、<発することになりかねない>ではなく、間接的な否定のメセージそのものであり、不本意にも控えなければならなかった今年の8月15日の自身の靖国参拝に代える代理行為でもあろう。

 いわば実際には靖国神社に参拝して、A級戦犯に対してはあなた方は国内法的にも国外法的にも戦争犯罪人ではない、東京裁判は不当な勝者の裁判だった、日本の戦争は侵略戦争などではなく、民族自衛自存の戦争だったと参拝のたびに語りかけてきた歴史認識に関わる自らの信念の改めての語りかけを行うべきところを、それができない代わりに「連合国の判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張した」パル氏の遺族との面会という形式を通して靖国神社で果たせなかったひそかなる侵略戦争否定を全世界に向けて間接・象徴的に発しようということなのだろう。

 日本人を優越民族とする精神論だけで国民を無謀・杜撰・無計画な戦争に引きずり込み、国民も一体となった責任を免れることはできないが、「一億玉砕」だ、「一人十殺」だ、「皇軍寡兵よく勇戦」だ、「1億死に徹すれば」だのと体裁のいい勇ましいだけのスローガンで多くの国民を無駄死にの戦死に追いやり、「国民の生命・財産を守」る責任を放棄した東条英機等のA級戦犯を始めとする戦前の国家指導者・軍部を擁護しながら、「国民の生命・財産を守る」である。どう公平に見ても、口にする資格があると言えるだろうか。

 安倍晋三はA級戦犯を「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」とか、A級戦犯の戦争責任について「具体的に断定することは適当でない」などとしているが、と言うことは「犯罪人でもない、戦争責任もない」と解釈しているということだが、その根拠を<それは国内法で、かれらを犯罪者と扱わない、と国民の総意で決めたからである。1951年(昭和26年)当時の法務総裁(法務大臣)は、「国内法の適用において、これを犯罪者としてあつかうことは、如何なる意味でも適当ではない」と答弁している。また、講和条約が発効した52年には、各国の了解もえたうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているのである。>(同『美しい国へ』)としているが、それは程度の低い日本の政治家たちが自分たちの戦争に対する検証・総括を自分たちに都合がいいだけのお手盛りのご都合主義で飾り立てることしかできなかったことから生じている程度の低い無罪放免であろう。

 言い換えるなら、戦争相手国を意識の中に置かない日本という国を考えただけの一国主義に立った安っぽい検証・総括でしかなかったということである。

 いわばその程度の戦争検証、戦争総括しかできなかった。それを安倍晋三は戦後60年の時間の経過にも関わらず、無神経に引きずっている。しかも「国内法ではA級戦犯は犯罪人ではない」としていながら、8月15日の戦没者追悼式では、「わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えた。国民を代表して、深い反省と共に、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表す」(07.8.15『朝日』夕刊≪「アジアへ加害反省」≫)としている。A級戦犯を含めた日本の戦争指導者は「犯罪人ではない」、日本の戦争は侵略戦でもないとしている人間が心底「多くの国々、とりわけアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えた」と思っているだろうか。心底思えるだろうか。二つの考えは論理的に整合性を欠く関係にあるのである。

 安倍晋三という人間の意識の底では、「国民の生命・財産を守る」が口先だけの言葉であると同様に、「アジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えた」は世間体を取り繕う見せ掛けの言葉に過ぎないのだ。

 いずれにしてもA級戦犯を犯罪人でないとし、侵略戦争であったことを真正面から受け止めようとせず、否定の衝動を疼かせていることがそのまま「国民の生命・財産を守る」を口にする資格を失うことになる関係にある。そのことに気づかずに安倍晋三は様々に否定の衝動を働かせながら、口にする資格のない「国民の生命・財産を守る」を盛んに言い立てる矛盾を平気で犯している。

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安倍首相のカメラ目線から見る鈍感力100%、愚鈍力0%

2007-08-18 04:46:36 | Weblog

 07年8月15日の『朝日』朝刊。≪首相の会見目線「カメラ時々記者」に≫

 <首相は1日1回、テレビカメラの前で記者団からぶら下がり取材を受けている。4月中旬からは「(記者の)みなさんにお答えするというよりも国民のみなさんにお答えしている」と言って、質問した記者には目を向けず、テレビカメラをじっと見すえて答えてきた。>

 ところが自ら演出したカメラを通じた国民との仮想の直接対話が悪評散々で、周囲からも注意を受けて<安倍首相が連日の記者団とのやり取りでこだわってきた「カメラ目線」が変化した。テレビカメラをひたすら見つめる姿勢を改め、質問する記者にも目を配る。カメラ目線は国民に直接語りかける印象を与える狙いがあったが、マスコミ関係者の評判は芳しくなく、参院選大敗を機に「反省」したようだ。>

 疲れているせいなのか、下目蓋がいつも腫れぼったく顔色も内臓系の持病を患っている見たいにいい感じではない安倍首相にいくらカメラを通してと言っても、じっと見つめられていい心持する国民がいただろうか。いたとしたら、余程の悪趣味な顔フェチである。

 そのことに自ら気づかず、周囲から注意されて気づく鈍感力は100%モノだろう。

 だが、気づいた後が問題である。俺は俺だ、がどこにもない。コロコロ変わる。コロコロ変わるのは何もカメラ目線だけではない。小泉前内閣の強力な一員としての立場から郵政民営化法案に反対した自民党所属議員の党除名に協力しながら、自分が内閣を形成すると、参院選に勝てないからと選挙都合だけで復党させるご都合主義の変わり身の早さ、無節操な変節もコロコロのうちに入るだろう。

 政治問題が関わってくる歴史認識は、それが例え自分の根っこにあり、自らの生き様を支えている主義・主張であっても、「歴史認識は歴史家に任せる」と曖昧にして本心を隠して平気でいられるご都合主義も自分をコロコロと変える技がなければできない芸当に違いない。

 幹事長代理時代にワシントンのブルッキングス研究所で小泉首相の靖国参拝への中国の反対を批判して、「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」と威勢よく講演しておきながら、自分がその「次の首相」になると、その舌の根も乾かぬうちに中国との関係を優先させて首相就任前にこっそりと靖国参拝を済ませ、首相になってからは春季例大祭に内閣総理大臣の名前で真榊を供物として神前に捧げる参拝に代わる姑息な代理行為で済まし、自分から言い出した「リーダーの責務」を平気で放棄する態度もコロコロ変わるうちに入る。

 そして今年07年8月15日の敗戦記念日の靖国神社参拝も「参拝した、しなかった、する、しない、外交問題になっている以上、このことを申し上げる考えはございません」(07.8.16.『朝日』朝刊≪靖国自粛の夏 閣僚、参拝1人だけ≫)を例の如く「リーダーの責務」を果たさないゴマカシに使って終わりとするコロコロ変節を演じている。 

 改正教育基本法に自分好みの愛国心の注入に成功し、憲法を自分好みの国家主義色に染めようとその改正に執心し、その成功を以って「規律ある凛とした美しい国」日本と見定めるべく機会あるごとに「美しい国」、「美しい国」とバカの一つ覚えのように言い立てていながら、人気がないと分かると途端に口にしなくなる、そのコロッと自分を変える根性のなさも安倍晋三という人間に特有の心(しん)のなさだろう。心(しん)のなさは心(ココロ)のなさによってもたらされ、コロコロへと進化を果たす。と言うことはある意味、安倍晋三は進化した政治家なのだ。

 赤城前農水相の事務所費疑惑が持ち上がると、そのことが選挙に不利に働く要因となることよりも、閣僚の相次ぐ辞任ということになった場合の自らの内閣への支持率の悪影響を避け、任命責任者としての自己の責任に波及することを避ける自己都合を優先させて「説明されている、辞任の必要はない」としながら、参院選大敗を受けると、大敗の原因の一つとなったとして更迭したのは最初の自己都合を棚に上げて、次の責任転嫁の自己都合に乗り換えたことから生じたコロコロだろう。

 「こころ」がないから、口先だけ、安請け合いの連発となる。法案を国会を通過させただけで、自己の成果とすることができる。

 小泉前首相に「支持率を気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」と力強いエールを送られながら、支持率を気にし、支持率次第で主義・主張も打ち捨て、「リーダーの責務」もクソもなく、自分の態度をコロコロと変える。自分がないからだろう。自分というものを持っていないことから生じているカメラ目線だけではない、その他の変節となっている。

 自分がそういった政治家であると全然気づいていない鈍感力だけは100%は十分に持ち、自分は自分だと押し通す心(しん)の強さ、愚鈍力は0%と言っていい。

 そういった人間が教育基本法を語り、日本の教育再生を語り、憲法の改正を語る。「戦後レジーム」を語る。「規律」と「凛とした」態度を語る。何とまあ、不思議の国ニッポン。

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靖国参拝は政治家たちが国家を体現する数少ない機会

2007-08-16 05:30:57 | Weblog

 昨8月15日のNHKニュース。

 唯一安倍内閣で参拝した高市早苗「尊い命を国家のために捧げられた方々に対して感謝の想いと、それからご遺族の方々がご健康でお幸せでありますようにと、そういう祈りを捧げて参りました」

 安倍首相「国のために戦い、倒れられた方々に対する、尊崇の念・想いは持ち続けていかなければならないと。参拝しなかった、するしない、外交問題なっている以上、そのことを申し上げる考えはございません。」
 記者「そういうことは、あの、総理でいらっしゃる間はずっと同じ姿勢を貫かれるのですか」
 安倍「そう考えております」
  * * * * * * * *
 普段は陰で口利きだ、地位漁りだ、利益誘導だ、自己宣伝だ、売名だと薄汚い行為に終始している。その都度カネを力としないわけにはいかず、汚いカネの使い方をしている。仲間内の集まりで立派な身なりと立派な立居振舞いでさも立派な人間であるかのように装っても、ウラでどんな姿をしているかお互いに知ってもいるし、知られてもいるから、サマにもならないし、個人的行為から出るものではないし満足感も湧かない。しかも国民を相手に見せる姿というわけではない。

 ところが靖国神社参拝となると、「国のために戦い、尊い命を国に捧げた」と国家を持ち出し、国への奉仕を持ち出すことで、自身も普段体現する機会が殆どない国家を体現できる。国家を体現することで、さも自分も同じような立派な精神の持主だと錯覚できる。「規律ある凛とした美しい」人間だと国民に見せかけることのできる数少ない機会とすることができる。その効用からの参拝ではないのか。薄汚い自己利益からのみ行動する人間ほど、愛国心を声高に叫ぶようにである。

 実際には兵士たちの殆どの戦死は「尊い命を国家のために捧げ」たといった美しく勇壮なものではなかっただろう。戦う時間よりも退却の時間、あるいは陣地にこもって敵の襲撃をなす術もなく耐える時間の方が長かった者も多くいたに違いない。飢えと苦しみ、ときには戦死した兵士の肉を食い、飢えを凌ぎ、それでも餓死していったといった〝命の捧げ〟を取らされた兵士もいただろう。

 軍を維持するために、手がまわらないからと保護すべき民間人の生命・財産を保護せずに打ち捨て状態とする。硫黄島、その他の戦闘では国から見捨てられた戦死もあったということは、日本国家自身が兵士の命を「尊い命」扱いをしない裏切り行為を働いてたということで、そういった事実・実態を棚に上げて、戦死したあとの兵士の命すべてを参拝の場では一律に「尊い命」視する矛盾。事実的な扱いとは異なる「尊崇の念・想い」を示し、現実にもそのように扱ったかのように見せかける矛盾。このような矛盾は国家による国民に対する二重三重の裏切り行為を示すものだろう。

 戦前の日本国家が日本国民の命に「尊崇の念・想い」を持っていたなら、殆ど訓練を施さない素人同然の兵士を戦場に送り込むといったことはできもしなかったはずである。しかも戦闘が開始する前から捨石(=見殺し)にすると決めていた。「尊崇の念・想い」を持っていなかったからこそできた、いわば国民の命など何とも思っていなかったからこそできた送り込みであったはずである。

 あるいは過去に於いて「尊い生命」扱いしてこなかったから、「尊崇の念・想い」など国民の命に感じていなかったからこそ、今になって「尊い生命」扱いする必要、「尊崇の念・想い」を示す必要に迫られて「尊い生命」扱いを一生懸命にこなし、「尊崇の念・想い」を一生懸命にアピールして、それが過去から現在にまで連続している国家による国民の命に対する扱いであるかのように見せかけようとしているのかもしれない。

 日本がそのような国家でないとしたら、自己民族を優越民族視している国家主義者たちにとって耐えられないことになるからだろう。

 いずれにしても参拝して体現する国家とは国民を国家に向けて命を捧げさせる対象と見なし、そういった国民との関係を持った国家のようである。ここから安倍国家主義者の「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」という国家優先の思想が生まれることになるのだろう。

 国民の命は国家に捧げることによって「尊い命」に置き換えられる。靖国神社はそういった関係を提示する場となっている。

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