1985年出版の『日本警察の生態学』(ウォルター・L・エイムズ著・勁草書房)なる書物に、「日本の警察官の自画像(自己イメージ)は、誇り高いサムライに似て、きわめて礼儀正しく威厳に満ちたものだ」との一節がある。
既に20年も前に一読した書物であり、その内容は完璧に近い形で忘却の彼方に沈んでしまっている。上記の一節はノートのメモから発見したもので、改めて読み直すエネルギーはもはやない。前後の脈絡も忘れてしまっているから、どういう意味合いで書き入れた文章なのかもわからない。
あくまでも日本の警察官自らが自らに対して描いている「自己イメージ」を単に解説しただけのことであって、著者自身が「自画像(自己イメージ)」と実像が一致していると見たわけではあるまい。一致していたなら、自己イメージであることを超えて、社会的イメージとなっているはずである。社会が警察官一般の姿に「サムライのイメージ」を持ったことがあるだろうか。かつても、特に現在もないだろうと断言できる。
警察官自身が自分たちを「誇り高いサムライ」に見立てて行動し、何ら疑問も感じなかったとしたら、自己認識能力が極端に貧弱であることを示すものだろう。いや、幼稚で未発達な状態になければ、できない技であろう。初期的には自分を「サムライ」に見立てることはいくらでもできる。だが、日常的な職務上の行為が自らがイメージしている〝サムライ〟の感覚を常に満たしてくれる内容のものかどうかである。いわば仕事自体がサムライに与えられる種類の仕事となっていて、サムライとして仕事ができるかどうかである。
そうであるなら、イメージと仕事の実態とが一致し、「誇り高いサムライ」としての達成感を得ることができる。その逆なら、「自画像(自己イメージ)」は裏切られて、イメージと仕事の実態との乖離が生じて、心理的な破綻が生じる。
この本が出版された当時も、それ以前も警察官の犯罪が決して少なくなかったのは職務との乖離と〝サムライ〟であることの破綻を示すものだろう。それはすべての警察官に関してではないと言うだろうが、大体が日本人がイメージするところの〝サムライ〟なるものは存在しない。架空の期待像でしかない。
人間が道徳的・倫理的に出来上がっていたら、宗教は存在理由を失う。宗教の存在理由は非道徳的・非倫理的人間を道徳的・倫理的生きものに導こうとするところにある。だからこそ宗教は存在することとなった。
武士道の存在理由も同じ原理上にある。支配階級に所属する武士の支配の正当性(=人間の違い)を被支配階級に理解させるために現実は体現していないからこそ必要とした〝武士道〟なる姿であって、いくら武士道教育を以てしても、武士も同じ人間として武士道を体現できなかったことは商取引上の、あるいは買官のためのワイロ・談合の横行、あるいは年貢取り立てに於ける不当なえこひいきやワイロの請求等が証明している。
親が子どもに勉強しろ、勉強しろと口うるさく言うのは、子供が勉強しない状態にあるからだろう。親が要求するまでもなく自分から勉強していたら、口うるさく言う必要はどこにもない。いわば宗教も武士道も人間の実際の姿の裏返し要求をテーマとしている。
武士の場合は一般の武士は所属する支配階級の中で被支配の立場に置かれていて、彼らを支配する立場の支配者がいたことが一般の宗教とは異なる。武士道なる道徳観で武士を律し、型にはめることによって、支配者は管理上の利益が獲得可能となる。いわば、武士道は支配者を利する支配者のための期待像でもあった。
勿論職業が担うべき社会的役割に添った使命感を持ち行動する警察官は多いだろうが、だからと言って「自画像(自己イメージ)」を「誇り高いサムライに似て、きわめて礼儀正しく威厳に満ちたもの」とするのは行き過ぎであろう。「礼儀正しく威厳に満ちた態度」をいつも取っていたら、仕事に支障をきたすだけではなく、したたかな犯罪者にバカにされるだけだろう。「お前何様か。たかが警察官じゃないか」と
ではなぜ「誇り高いサムライに似て、きわめて礼儀正しく威厳に満ちた」といった「自画像(自己イメージ)」を取るに至ったのだろう。
他からの注入がなかったなら持つに至らなかった「自画像(自己イメージ)」のはずだから、警察の上層部が警察官を教育し、その行動を律するために、「お前たちはサムライだ」という意識を植え付けようとしたのだろう。「サムライとして行動せよ」と。
そのように教育された警察官各々が教えられた以上、そう自負せざるを得ないから、「自分たちはサムライだ」と世間向けの態度を取ることとなった。あくまでもタテマエとして。そのことは結果として宗教や武士道の裏返し要求と同じ姿を取るに至っていることが明瞭に証明している。
しかし、教育する側にしてもサムライとして行動し得てはいないだろう。既に指摘したように多くの日本人がイメージする〝サムライ〟なる存在など虚構でしかないからだ。人間は支配階級に属そうが、被支配階級に属そうが、自己利害を本質としていて、だからこそ精神的・物質的執心から離れられず、他人と比較した昇給・昇進にも一喜一憂し、それが満足のいく状態なら誇りを感じることができるが、不満足なら、妬みや怒りの種となる。
妻子ある同僚が若くていい女を愛人にすれば、羨ましくなって、俺もと思って柄にもなく無理をして手痛い失敗をやらかし、職を棒に振るといったこともする。
清貧さの象徴として語られる「武士は食わねど高楊枝」にしても嘘っぱちもいいとこである。人間、食べていくことも生きる目標の重要な柱だからだ。目標である以上、その最低限の達成である食えるに越したことはない状態を獲得するのが人間たる者の務めであり、人間の条件であろう。
かつて日本の警察は優秀だとされていた。先進国の中で犯罪発生率は低く、安全な国だといわれていた。それが警察の力によってもたらされていたと信じられていたからこそ、日本の警察は優秀だとの評価を得たのだろう。しかし、現在では犯罪は多発化と凶悪化の二重の傾向を帯びているのに反して、警察の検挙率は低下の一途を辿っている。
かつては優秀だったが、現在では優秀ではなくなったとするのは、日本人のお得意な、特に政治家が妄信している〝日本の歴史・伝統・文化〟論に反する。
かつても日本の警察は優秀ではなかったし、現在も優秀ではない。以前の犯罪は人間関係からの犯罪が多く、そうでない犯罪が少なかったに過ぎない。人間関係犯罪は被害者の人間関係を徹底的に洗い出して辿っていけば、犯人に行き着く確率が高いから、そのことに比例して検挙率も高くなるが、加害者と被害者との間に人間関係を持たない犯罪は、目撃者がいたとか、あるいは出所が簡単に割り出せる遺留品や前科のある指紋とかが残されていなければ、辿りつく線そのものが最初からないのだから、いくら優秀な刑事を以てしても当然犯人逮捕は難しくなる。東芝府中工場からの3億円強奪事件にしても、グリコ・森永事件にしても、世田谷一家4人殺しにしても、警察庁長官狙撃事件にしても、犯人逮捕に至っていないのはそのためだろう。数多くある未解決事件のうち人間関係事件が多々含まれているとしたら、日本の警察はまるっきり無能集団と化す。
世の中がカネに対する手段を選ばない執着が強まり、一攫千金を狙って、関係もない人間・関係もない場所を襲う犯罪が一気に増えた。そうなると、目撃者とか指紋が残されているとか、幸運に頼るしか犯罪捜査はなかなか前に進まない。「日本の警察は優秀だ」は人間関係犯罪に限った能力発揮に過ぎない幻想だったと言うことである。
警察官自身の犯罪も多発化の一途を辿っている。個人的な強力犯罪だけではない。裏ガネづくりや捜査協力費の流用、あるい職務怠慢等は警察組織全体の構造的なものだろう。〝サムライ〟意識教育が何ら役に立っていないことの証明でもある。自己利害の生きものである人間がどう逆立ちしたってサムライ足り得ないのに、サムライという意識を植えつけようとすること自体が既に自己に対するを含めた人間の現実の姿に対する認識能力の幼稚さを示すもので、新人警察官を教育・訓導する資格は最初からない。最初からないにも関わらず、教育の役目を担う。だからこそ警察官の犯罪がなくならないとも言える。
人間は自己利害の生きものであり、物心両面に亘る執心から離れられず、損得で人殺しもすれば、カネを盗むこともする。警察官も同じ人間なのだから、いくらでも人殺しもするし、強盗も働く。痴漢行為もするし、強姦事件を起こすかもしれない。しかし警察官と言う役目上、犯罪を犯す側に立つことは特に許されない立場にある。誘惑に負けないよう、常日頃から心していなければならない。
そのように警察官にしても犯罪を犯す同じ人間であるという前提に立って、上司・部下共にお互いに向き合っていたなら、警察官の採用で本人の犯歴、あるいは近い親類縁者に前科のある者がいるかいないかで採用・不採用が決まる基準はそれほど意味のあるものではなくなる。そのことは警察官自身の犯罪が既に立派なまでに証明している。
新人教育だけではなく、それ以降もそのような前提に立った人事面での危機管理を行っていたなら、警察官が役目に反する何かを仕出かしたとしても、現実に即した対応策を講じることも可能なのに、それとは逆にサムライ足りえない人間の現実に考慮を払うこともできず、君たちはサムライだ、サムライだと存在しないし、体現できないサムライ精神の一層の発揮に期待するとしたら、輪をかけた愚かしさを犯していただけのことである。
警察は、また警察官は自らが掲げてきた「自画像(自己イメージ)」を〝歴史・伝統・文化〟的に裏切ってきた。裏切ったとしても、警察官も同じ利害の生きものであり、同じ人間としての猥雑性を一般大衆と共に所持しいるのだから、当然な姿でもある。
〝サムライ〟教育が警察官教育に無力であるなら、〝愛国心〟教育に変えたとしても、同じ結果に陥るのは目に見えている。「国を愛する心」にしても、殆どの人間にとって自らが生きていく上での最優先条件としている自己利害の糧とはならないからである。
学校での生徒にとっての自己利害に関わる最優先条件はテストの点を一点でも多く取ることであり、そのことは親や学校自体が仕向けている生存条件でもあるだろう。まさにそういった生存条件そのものによって、生徒への〝愛国心〟教育は「日本の警察官の自画像(自己イメージ)」がタテマエ・幻想で終わっているのと同じく、「国を愛しています」と口先の言葉で終わらせることは間違いない。偽りの人間を育成するようなものである。
大体が政治家・官僚からして愛国心には無縁な自己利害を最優先させている生きものと化していながら、いわば彼ら自身にも役立っていない〝愛国心〟意識でありながら、〝愛国心〟を憲法に盛り込もうだとか、教育基本法に規定しようだとかすること自体が自分自身がさも愛国心を体現しているかのように欺くあくどい詐欺であり、さも体現しているかのように見せかけて、自らの存在理由を正当化しようとする狡猾な誤魔化しそのものであろう。
06年5月27日の朝日新聞夕刊に次のような記事が載っていた。全文を引用してみる。
「窓 論説委員質から 小沢氏の『自立と共生』」
「『共生』というキーワードを民主党の小沢一郎代表が強調している。党機関紙『プレス民主』の菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長との鼎談では、こう語っている。
『ここが自民党とは違うというものを見せる。理念として「共生」を掲げ、すべての面での筋の通った「公正な国」を目指して、新しい日本の設計図をきちんと示す』
ふと引っかかった。小沢氏と言えば『共生』より『自立』志向ではなかったか。
『個人の自立』『地方の自立』『国家としての自立』・・・・。自立は小沢氏が93年、自民党を離党する直前に出版した『日本改造計画』の決めゼリフだった。
自立と共生が並ぶようになったのは新生党の理念からだ。翌年、野党勢力を糾合した新進党の理念では『自由・公正・友愛・共生』とキーワードは一気に増えた。
新自由主義的な色彩が濃い自立だけでは幅広い結集は難しい。中道・左派も馴染みやすい共生などが加わっていったのは自然の流れだったのだろう。
だが、自立の旗印は小泉首相に奪われ、格差批判を浴びてもいる。ここは自論である自立より、共生に軸足を置くべきタイミングだ――。小沢氏の最近の発言からは、そんな計算が感じられる。
民主党の理念は『自立した個人が共生する社会』をめざす、と玉虫色だ。
ブレのなさが身上の小沢氏である。小泉流『自立』改革と、小沢流『共生』改革とはどこが、どう違うのか。鮮やかな説明を期待したい。(恵村順一郎)」 * * * * * * * *
どうも言っていることが分からない。「共生」と「自立」――両者が相容れない関係、対立する関係にあるかのような主張となっている。
「新自由主義的な色彩が濃い」言葉かどうか知らないが、「共生」とはそれぞれが自立(もしくは自律)した人間を基盤としなければ正当性を得ることができない世界なのではないか。裏返して言うなら、自立(自律)した人間を基盤としてこそ、「共生」は正当性ある一個の世界として確たる姿を取るのではないか。
自立(自律)の反対を成す語は「依存」、もしくは「被支配」であろう。「依存」は「他のものに頼って成立・存在すること」と辞書(『大辞林』・三省堂)に出ている。「被支配」は言うまでもなく支配されている状態を言う。人間は他者に依存することによっても、支配される状況をつくり出し、そのような関係で「共生」を可能とし得る。しかしそのような「共生」に正当性を与えることができるのだろうか。
例えば官庁と企業の取引上のいわゆる〝官民談合〟は、企業が官庁に依存し、依存することで官庁に支配された状態の共生関係にあると言える。決して官庁・企業共に自立(自律)した関係下の「共生」とは言えない。
政官財の癒着と言われる状況も、〝財〟の被支配を基準とした相互依存に立脚した自立(自律)なき共生であろう。かつての護送船団方式といわれた日本の産業政策も、政・官の特定産業の保護とその保護に依存した〝共生〟であった。それが馴れ合いに近い色彩を抱えていたから、官が暗に仄めかせば、高級クラブ・高級料亭、あるいはゴルフに接待しなけれがならなくなり、世間には隠しておきたい保護を求めるときは政にヤミ献金を献じたりしなければならなくなる。
現在どれ程に自立(自律)できているか疑わしい限りである。低所得者の犠牲の上に成り立たせたゼロ金利政策、金融機関に対する公的資金注入等々、何かというと、保護政策が優先する。
いわば「共生」は「自立(自律)」を条件としなければならないことを証明している。決して相容れない関係にあるわけではない。相互に「自立(自律)」していてこそ、「共生」は小沢一郎の言葉を一部借用して説明するなら、「すべての面での筋の通った『公正』」さを獲得する条件を整え可能となり、正当性を求めることができると言える。
「『個人の自立』『地方の自立』『国家としての自立』」が小沢氏が「自民党を離党する直前に出版した『日本改造計画』の決めゼリフだった」状況、そして現在民主党新代表として「自立した個人が共生する社会」を党の実現すべき理念に掲げている状況、「格差批判を浴びて」はいるものの、「自立の旗印は小泉首相に奪われ」、小泉首相の総合的理念となっているそれぞれの状況は、日本、あるいは日本人が様々な局面で自立(自律)していない状況、あるいは自立(自律)できていない、そうと認めざるを得ない状況を図らずも暴露する動きとして現れたそれぞれのシーンであり、その是正として「自立」を政策理念に掲げる必要が生じたということを物語るものだろう。
ではなぜ日本人は自立(自律)できていないかと言うと、自立(自律)を否定要素とし、反対状況の「依存」・「被支配」を肯定要素としている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の存在様式(そのような態様の主たる一つである政・官が民を従わせ、民が政・官に従う存在様式)に日本人の多くが縛られているからに他ならない。
裏返して言うなら、日本人それぞれが「自立(自律)」を獲得するためには、まずは以て権威主義的存在様式から離れなければならない。
しかし日本人が歴史・伝統・文化とし、優れた民族性そのものとしている存在様式である。その血を薄めるには簡単な作業ではない。〝民族改造〟とも言える難事業であろう。小沢一郎の『日本改造計画』を読んでいないから分からないが、基本的には日本人の存在様式である権威主義性を打破する内容でなければ、真の自立(自律)獲得は難しく、さして意味はない。
権威主義の打破は大人への成長を形作る役目を担っている学校社会で知識の授受を下に従わせる形式でもって権威主義的思考様式を日々刷り込んでいる暗記教育を排して、その代わりに生徒が教師に対しても、同級生や上級生に対しても、自由に自分の意見を述べることができ、お互いの意見を闘わす習慣を身につけさせる授業形式を採用することから、長い時間をかける覚悟で地道に始めるしかないのではないだろうか。
自由な意見の述べ合い、自由な言葉の闘わせが、例え相手が教師、あるいはその他の目上の人間であっても、上級生であっても、それぞれを相互に対等な立場に置く。対等な立場の構築こそが、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義的な存在様式の排除・否定につながっていく。地方役人が中央省庁に赴いたときの中央省庁の役人にペコペコと頭を下げる習性・慣行は対等な立場を築けていない状況、それとは正反対の上下・優劣の権威主義的態度を当たり前としている状況を示すもので、如何に日本人の血に権威主義が染み付いているかを証拠立てる光景であろう。まさしく道遠しである。
――短銃不正押収工作・耐震偽装に続く事件として日本の歴史・伝統・文化である権威主義から読み解く。
社会保険事務所が国民年金保険料の未納者本人の申請がないのに不正に保険料の免除手続きしていたということだが、それが1箇所だけではなく、大阪、長崎、東京、滋賀、三重といった各地の保険事務所が行っていたということから、最初は一つのマンションから始まって、全国各地のマンション、ホテルへと広がっていった耐震偽装の広域性へとまずは重なる。
本人の承諾なしの不正な免除手続きと言うものも、一種の〝偽装〟に当たるのは言うまでもない。
耐震偽装の主原因はいわゆる〝経済設計〟という口実のもとの鉄筋やコンクリート量の減数による単価下げの圧力とされている。保険料不正免除手続きの場合は、民間から登用された村瀬清司社会保険庁長官が6割にまで低下した年金の納付率を8割にまで上げる目標を立てて全国に配布した「緊急メッセージ」がプレッシャーとして働き、不正免除なるいわゆる〝近道行動〟に至ったのではないかと推測されている。それが事実なら、耐震偽装と共通する点は広域性のみならず、〝上の指示〟に対する無条件の追随、もしくは屈服を構図とした犯罪だと言うことだろう。犯罪そのものではなくて、他の何であろうか。
元来日本人は権威主義的な行動様式・思考様式を民族性としている。いわば権威主義を日本の歴史・伝統・文化としている。権威主義とはことさら説明するまでもなく上位権威者の指示・命令に下位権威者が従属・追随する行動様式・思考様式を言う。地位、学歴、先輩後輩関係を含めた年齢等の上下に応じて権威づけを行い、上を絶対として下を従わせ人間関係を律する行動・思考様式である。
今は改善されたのかどうか、一昔前までは東大出のバリバリの大蔵キャリアは入省6~7年のたいした実務経験も社会経験もないままに28、9の年齢でエリートコースの第一歩として全国各地の税務署長に配属され、1~2年の経験を積んで本省に戻る。殆どが署長とは父親ほどにも年齢差がある職員以下が将来の大蔵幹部と腫れ物に触るが如くに畏れ奉ってペコペコとかしずいてくれるから、実務経験なしでも東大出のキャリアと言うことだけでデンと構えていさえすれば役目を果たすことができる。
両者間に働いている人間関係の力学は上位権威者の指示・命令に下位権威者が従属・追随する様式以上のものがある。命令・指示を出さなくても、暗黙の権威が(この場合はまだ将来の大蔵幹部という見せ掛けの権威に過ぎないのだが)最初から下を従わせ、下は上が備えている暗黙の権威に先回りして無条件に従う極端な権威主義の働きに縛られている。
勿論、こういった人事制度は誤ったエリート主義を植えつけるものとして各方面から批判を浴び、政府は能力主義・成果主義の導入といった各種改革に乗り出しているが、果たして抜本的改革に向かっているかどうかである。入省6~7年で税務署長経験といったキャリア制度を10年に延長といった表面的な手直ししかできないのではないだろうか。天下り制度の改革も公務員改革のメインテーマとなっているにも関わらず、満足な改革も成し得ず、天下りを好きに任せているのである。政府が目指す公務員削減でも、今後5年間で定員を5%減らすといった表面的な数字操作を目指すもので、公務員の生産性を高めて仕事の効率を上げ、不要となった人員を減らしていくという手順を伴わせたものとはなっていないのではないか。そうするためにはキャリアのお飾りの部分をギリギリまで削ることにまず取り掛からなければならない。
改革の障害となっている本質的な原因は人間の格付けに権威を必要とし、権威によって人間の偉さ(それを能力だとはき違えている)を計る日本人が血としていてる権威主義の存在様式だろう。自己の偉さを権威で計る人間は自分の権威を守ると同時に他人の権威も守る。利害を一致させなければならないからだが、キャリア制度にしても権威作りの重要な方法だから、死守しようとする方向に動く。この手の権威主義制度自体が、キャリアにとってはそれぞれに自分のための利権と化しているのである。
自己の退職後の天下りを十全なものとするために他人の天下りを助けることとなる従来から慣行となっている天下り制度の維持に協力するのと同じである。自分のためにならなかったなら、誰が協力するだろうか。
民族優越意識とは民族を対象とした権威主義で、民族に優劣・上下の権威づけを行い、自民族を上に置き、他民族を下に置くことで所属成員である自己の優越性をも表現する価値観から出ているものであろう。
村瀬清司社保庁長官自身は自身の出した「緊急メッセージ」がプレッシャーとなったのではないかという指摘に、「法令を無視してやれという指示を出したつもりはない」と反論したというが、「法令を無視してやれ」などと自分で自分の首を絞めるような直接的指示は誰が出すものか。だが、そう仕向けた暗黙の強制は直接的指示とは別物である。
「納付率」アップの正当な方法は未納者に納付するよう説得して納付させることであるのは言うまでもない。但し、本人からの免除の申し出によっても、それに許可が出た場合未納者の数を減らすことになって、結果として「納付率」アップにつながる仕組みとなっている。村瀬長官がこの仕組みを知っていたかどうかである。
納付状況は年金制度維持の重要な柱である。監督官庁の長官たる者が、いくら民間から就任したとしても、知らなかった情報だとしたら不勉強の謗りを免れることはできない。その責に当たる資格を失う。
その責に当たっている以上、当然知っていた情報であることを踏まえて、2割アップの「緊急メッセージ」を全国に配布したとしなければならない。だとしたら、「法令を無視してやれという指示」は出さなかっただろうが、免除制度を悪用した見せ掛けの納付率アップは行わないこと、あくまでも直接的な説得による納付を確保するようにとの指示を「緊急メッセージ」に同時に付け加えていなかったとしたら、知っていた情報に注意を払わなかったことになり、立場上求められる職責に対する不作為を犯したことにならないだろうか。
その不作為が権威主義的な圧力のみを伴うこととなり、上からの2割アップの指示を果たすことだけを絶対しなければならない下の権威主義的な追随・従属意識を強め、指示を果たさなかった場合の責任問題へと発展する恐れも加わって相乗化したために保険料不正免除手続きにまで走ってしまったという流れではないだろうか。
いわば村瀬長官が2割アップの指示を与えた時点で、日常普段から相互に習性としている権威主義的上下関係の力学が作動して下の者を従わざるを得ない立場に立たせることとなり、その指示に不正免除手続きを禁止する事項が付け加えられていないことが従わなくてもいいこととし、2割アップの数字操作だけを優先させたのだろう。不作為によって間接的・暗黙的に不正手続きを誘導したと言えなくもない。
権威主義的力学が働いた不正行為として、過去に短銃押収工作がある。
1995(平成7)年7月群馬県警前橋署、同年10月愛媛県警、同年同月長崎県警、翌1996(平成8)年 2月警視庁蔵前暑と、あろうことか警察官が短銃を押収したかのように工作した事件が相次いだ。
これらの一連の偽装事件の背景となったのは、1995(平成7)年3月30日に短銃で何者かに狙撃された国松警察庁長官狙撃事件であろう。当時はオウム真理教問題で世間が騒然としていて、地下鉄サリン事件は同じ年(95年)の3月20日であり、捜査を妨害するためにオウム教団の信者が犯人ではないかと取り沙汰された衝撃的な事件だった。
銃に対して世の中が敏感になっていた時期であり、銃器取締まりが強化された時期であった。押収した銃の中から国松長官を狙撃した拳銃が出てくる可能性も考慮に入れていたに違いない。警察庁が全国の警察の本部長を集め、銃器取締まりの強化を数値目標を掲げて指示し、上からのその指示を受けて本部長は地元に戻って各市町村の警察署長を集めて、数値目標と共に上の指示を伝え、署長は各署で部下に同じ上からの指示を同じように数値目標と共に伝える。
かくして上からの数値目標は従属しなければならない絶対的指示となり、それをクリアするために自己の手柄意識も手伝って、偽装に走り、さも実際に押収したかのように工作する。
このことは年次拳銃押収量が証明している。インターネットで調べた数値だが、国松長官が狙撃された1995(平成7)年、1396丁、1996(平成8)年、1035丁、1997(平成9)年、761丁、1998(平成10)年、576丁と年々減り、2004(平成16)年に至っては、1995(平成7)年の1396丁の4分の1以下の309丁となっている。暴力団関係者等からの押収量に対して一般人からの押収量は少し下回る程度で推移しているようだから、一般人の所持量もバカにならない。
この押収量の減少は銃器そのものの所持数が減ったためとするのは犯罪の凶悪化や多発化の流れ、あるいはインターネット利用による入手簡略化の流れに反する。逆に増えていいはずの情勢であろう。群馬県警の短銃押収工作に関しての地裁の判決は、「重大な不祥事の発生を防ぎ得なかったことについては、けん銃押収努力目標数を設定し、その数値を達成することに目を奪われて、けん銃等に関する捜査、取調べや証拠物押収の実態に十分な関心を持とうとせず、今回の行為について署内で誰一人これを制止できなかったことに如実に表れているように、部下或いは同僚の違法ないし不当な扱いを見過ごしてきた警察内部の体質の問題性も厳しく指摘せざるを得ないのであって――」となっている。
初期的な「数値目標の設定」は警察関係の場合は警察庁が行うもので(内閣とか自治大臣からの指示もあるだろうが、基礎的な数値は警察庁自身の策定によるだろう)、国松長官が狙撃された1995(平成7)年と翌年の2年間に4件もの警察の拳銃押収偽装工作が引き続き、それに合わせるように狙撃の年の1396丁の押収量(残念ながらそれ以前の資料を見つけることができなかった)をピークとしている。
この状況は群馬県警の短銃押収工作に関する地裁の判決からも分かるように、銃器取締まりが権威主義的な力を伴った絶対的な指示となっていた様子を示すものであろう。上からの指示に対する下位権威者の権威主義的従属が行き過ぎて、「数値目標」を何が何でも達成しようとする意識が偽装工作をさせるまでに至ってしまった――。きっと露見せずに終わった工作をあったに違いない。
その反省からの反動――「数値目標」の抑制・排除(=結果としての権威主義力学の抑制・排除)が拳銃押収量の年次推移にも影響して、減少化の一途となって現れたと考えてもいいのではないだろうか。
このことを裏返しの形で証明する事例として挙げることができるのは、国松長官が狙撃された翌年のまだ拳銃摘発にホットであったはずの1996年10月に警視庁城東暑の刑事が知り合いの男から暴力団組長らの短銃所持事件の内部通報者を教えてほしいと頼まれて、その見返りに短銃の提供を受ける交換条件で短銃押収工作を計ったが失敗し、代わりに覚せい剤所持事件をでっち上げた偽装工作である。
失敗は内部通報者をはっきりと特定できなかったために交換条件を成り立たせることができず、短銃提供まで持っていけなかったからだが、代りの手柄に刑事とのつながりを失わない狙いからだろう、その男から「覚醒剤事件を仕組むことを持ちかけられた。職務質問月間だったこともあって」(1997.5.22『朝日』)、譲り受けた覚醒剤を無関係な路上生活者のリュックサックにこっそりと忍び込ませて職務質問した上で任意同行したり、知り合いの工員の乗用車のドアポケットに入れて、職務質問の末に現行犯逮捕したりしたが、疑われた二人とも身に覚えがないことが判明していずれも失敗したという。
日常普段から満遍なく遂行していなければならない全体的な職務を「職務質問強化月間」だからとか、「銃器取締まり強化月間」だからと(よく目にするのは「交通安全取締まり強化月間」であろう)、あるいは「数値目標」を指示されたからと、〝指示〟を受けた職務とその期間にのみ重点的に集中する。結果として、何々「月間」のため、「数値目標」のための職務と化す。このことの裏を返すと、「月間」や「数値目標」とかを設けて尻を叩く権威主義的圧力を加えなければ、職務に力を入れない、結果として成績が上がらないという状況を示すものだろう。これでは権威主義力学のさじ加減が成績を左右することとなり、それが拳銃押収量の年次推移に現れているのではないかと言うことである。
しかし権威主義の圧力が行き過ぎると、偽装工作に走る。保険料不正免除手続きと言い、短銃押収工作と言い、お粗末な話だが、その他にも類似の成績水増しの偽装があるに違いない。民間で言えば耐震偽装、経営者の圧力に屈した会計監査人の粉飾決算の黙認、あるいはサラ金の会社上層部からせき指示を受けた強制取り立て等がある。
こういった権威主義的な存在様式の範囲内での職務遂行は公務員の削減問題にも深く関わっている。
小泉首相は公務員の5%削減目標に関して、「必要なものは増やす」として、必要なうちに警察官の増員を挙げている。だが、上からの権威主義的な力が加えられなければ職務に力を入れない日本人が歴史・伝統・文化としている権威主義的体質そのものを払拭して、自主的・主体的に仕事に取り組み、仕事の効率を上げていく姿勢をそれぞれが自らのものとして生産性(先進国と比較してホワイトカラーの生産性が低い原因ともなっているのだろう)を上げる仕組み・方向に持っていく政策でなければ、真の公務員改革につながらず、保険料不正免除手続きと同じく数字の操作だけで終わる可能性大である。
自民党の古賀誠元幹事長が派閥の勉強会でA級戦犯の分祀を検討するよう求める政策私案を提示したという。これは誰が見ても分かるようにポスト小泉=安倍への妨害工作を示すものだろう。靖国問題を自民党総裁選で争点化した場合、自分が不利になることだからそうべきではないとしている安倍晋三を狙った直撃弾といったところか。ニックきは小泉、坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し、安部まで憎し。
果たして古賀誠はA級戦犯を分祀する気もなく、故意に争点化させて安倍を追いつめるだけの目的で牽制球として投げただけのことか、小泉退任後も安倍後継によって小泉の影響力が残る目を是が非でも潰すためにA級戦犯合祀を犠牲にすることまで考えて、分祀検討を求めたのだろうか。
「私は常にお参りするときは心の中で分祀している」と言っている古賀である。心の中での分祀で片付くことなら、合祀は形式としては存在していたとしても、実体的には存在しないこととなり、分祀を持ち出す必要はなくなる。国民のことなど眼中にない政治家にとっては、国民は形式としては存在しているが、実体的には存在していないことと同じである。
ところが分祀を検討するよう求めたということは、「心の中での分祀」で片付かないことを示すものだろう。自分は片付くが、総理大臣の立場では片付かないとするのはそもそもからして不公平であるし、分祀がA級戦犯が靖国神社に存在すること自体を問題視することである以上、整合性を持ち得ない。
古賀誠の動きに対して、安倍晋三は信教の自由に基づき靖国神社が自主的に判断することで、政治は介入できないという立場を取っている。分祀が簡単にできてしまったら、小泉・安倍ラインに対する妨害工作の意味を失い、逆に小泉首相の参拝に水戸黄門の印籠を与えるようなものである。分祀検討は実際にはその気もなく持ち出したハッタリの疑いが濃厚である。
尤も小泉首相はA級戦犯が合祀されていない靖国神社に参拝する意味はないと言い出すかもしれない。「死ねばみな仏様になる」とA級戦犯まで抱擁・無罪放免の最初からのスタンスである。戦争責任に関わる無罪放免は、責任を取らない・取らせないが日本の歴史・伝統・文化としているから、愛国人間小泉純一郎としたら当然の姿であろう。
とすると、本音のところではA級戦犯合祀まで含めた靖国思想に関しては古賀誠も小泉首相も相思相愛の関係にあると言えるのではないだろうか。相思相愛の人間に気持の食い違いがちょっとでも生じると、反動でかつての相思相愛が信じられないほどに憎しみ合うことがある。
コジキ行為が懲りない面々――
国会議員や国会職員らが国の政治や問題について調査活動を行う目的の≪国勢調査活動費≫が、『衆院で02、03年度の2年間で総額約1億円が懇談名目などで議員らの飲食代に支出され、その約半額が高級料亭やスナックなどでの酒食に使われていたことが、朝日新聞の情報公開制度で明らかになった』(06・5・25『朝日』朝刊)と言う。
「現行の情報公開制度では、対象を行政機関に限定しているため、朝日新聞は会計検査院に対して、衆院から提出を受けた支出関連の書類を情報公開請求し」(同記事)て得た内容だという。関連記事が、「銀座・赤坂 払いは国会」「ワイン6本10万円■料亭で5万円料理」と分かりやすい見出しで紹介している。駒崎義弘・衆院事務総長に限っては「先週末に自主的に返納した」そうだ。
「――なぜ94万円を返納しようと思ったのか。
『国勢調査活動費を飲食に使うことは、かつては慣行で行われていたが、今は理解が得られないと思った。朝日新聞の取材を受けて、自分が事務総長になってから決済した院外での飲食分については自主的に返そうと思った』
――公費から飲酒を含む飲食代を支出することに疑問は。
『当時はそれらの支出がどこから出ているのか分からなかった。外部での飲食費を支出することについて問題視する意見が内部に高まり、現在では一切行われていない』
――スナックで懇談したことになっているが、ご自身も行ったのか。
『数回行った。仕事の話をしなかったわけではない。国のカネでやっていいのかと言われれば、殆どが反省点だ』
――委員会の弁当も高額なすしやうな重が多い。
『昼を挟んだ委員会などで何も出さないと言うわけには行かない。国民から見ると高額かもしれないが、議員の弁当の額が適当かどうかについて私が言う立場にない』
――議長など議員や前任の事務総長に飲食代の返還を求める考えは。
『返還は組織としてではなく、私が自主的に行ったこと。その他の分について、私が言う立場にない』
「私が言う立場にない」は何とも便利な言い逃れ言葉である。「自主的」返還を強調しているが、「朝日新聞の取材を受けて」のことだから、「自主的」でも何でもない。「事務総長」の立場ゆえ、慌てて取り繕ったといったところだろう。
「現在では一切行われていない」と言うが、政治献金も〝迂回献金〟という抜け道をしっかりと確保した〝政治資金規正法〟だった。「かつては慣行で行われていた」にしても、単なる慣行を越えて、税金での飲み食いは日本の素晴しい歴史・素晴しい伝統・素晴しい文化としてきた〝慣行〟である。そう簡単にはその素晴しさは変えようがないだろう。そう勘繰らせて止まない我が日本の政治家・官僚の日常普段の品行方正さである。
国民の見えないところで隠れて税金で飲み食いのコジキ行為をやらかす。既にこういった慣習自体が臭い物には蓋の日本の歴史・伝統・文化となっている。
今は見かけないが、子供の頃は金品を貰って歩く乞食がいた。よく言うと、〝お貰いさん〟である。だが、人にカネをタカって飲み食いしたり、他人のカネを当てに何かをする人間を特に軽蔑を込めるからだろう、言葉も強まって〝コンジキ〟と言った。自分の懐を痛めないで他人のカネどころか、税金を当てに飲み食いのいい思いをする。まさしく言葉を強めた軽蔑に値するコンジキたちである。
学校の愛国心教育で日本の歴史・伝統・文化のいいところだけを取って教え、日本の国はこんなにも素晴しい国だから誇りに思いなさい、愛する心を持ちなさいと教える。これも日本の歴史・伝統・文化の臭い物には蓋をすることだろう。愛国心教育はそのことを必然とする。
これでは客観的認識能力が育つはずはない。固定的な価値観の一方的な押し付けと無条件の受容を離れた、生徒それぞれに価値判断させる言葉の闘わせこそが認識能力の確保と共に語彙を豊かなもとしていき、言葉への理解を深める。〝愛国心教育〟が客観的認識能力育成の阻害要因だとするのはこのためである。
戦前の戦争を侵略戦争ではなかったとするのも日本の歴史・伝統・文化の臭い物には蓋の意識の表出であろう。歴史・伝統・文化に対して相対化する余裕を持てず、絶対化への思い込みのみでは、そのこと自体で既に偏狭さに侵されていることを示す。侵された者がナショナリズムに囚われたとき、そのナショナリズムは当然のこととして偏狭なナショナリズムの姿を取る。愛国心教育が役立つのは、そんなときだろう。
★もし次期首相となったなら、靖国参拝を行うと宣言
せよ。
★肩書きは日本国総理大臣とした公式参拝とすべきだ
ろう。
「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」
そう、「リーダーの責務だ」
政治家が一旦口にした以上、口にしたことは守る。それが「責務だ」。口にした言葉を違えたなら、二枚舌政治家の謗(そし)りを受け、国民を失望させる。安倍の晋ちゃんに限って、そんなことはあってはならない。安倍晋三の〝シンゾウ〟は心臓に毛が生えているの〝シンゾウ〟でもあるのだから。
首相就任をA級戦犯に報告するために、就任直後直ちに靖国神社に参拝すべきだ。勿論、首相在任中は8月15日の参拝も行う。例え中国・韓国がどのように反対しようが、アジア外交がどうなろうが、「国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務」なのだから、何が何でも参拝を強行すべきだ。
いや、毎年の12月8日にも、名誉ある真珠湾攻撃を敢行し、太平洋戦争に突入した記念すべき戦争事業を讃えるために、参拝を行うべきだろう。太平洋戦争によっても多くの日本軍兵士を名誉ある戦死に導き、誇りある英霊の地位を与えることとなった記念すべきスタートラインでもあった 12月8日なのである。
日本国総理大臣として安倍晋三が〝心臓男〟を発揮して靖国神社を参拝する姿を早く見たいものだ。
『きょうの論点・小学校から英語を必修?』(06・4・24『朝日』朝刊)なる記事の中の「文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の外国語専門部会が、小学校5年から週1時間程度の英語を必修化する必要があるとの提言を纏めた。国際化時代の英語教育は如何にあるべきか」との問いかけに、国際教養大学長・中嶋嶺雄氏が賛成の立場から、同時通訳者の経験がある鳥飼玖美子立教大教授が反対の立場から述べている。同時通訳の経験があるのだから、賛成の立場かと思ったが、反対とは意外である。
最初に断っておくと、私自身は大いに賛成である。但し、「必修化」しても、今まで同様に話せない・使えない英語で終わるだろうと予想している。〝話せない・使えない〟は何も英語に限ったことではなく、英語ほどではないにしても国語・数学・社会・歴史、すべての科目に亘って、そこそこのコマ切れ知識、あるいはテレビのクイズ番組の解答に役立つ程度の知識は身につけるが、人間営為に関わる出来事についてそれぞれに独自の考えを創るところまでいかなければ、ある意味、〝話せない・使えない〟と同じ状態と言える。
徳川時代は何代続いたとか、鎖国政策を取っていたとかはコマ切れ知識に過ぎず、考えとは言えない。
中嶋嶺雄氏は、英語を「地球規模の意思伝達手段」と位置づけ、英語を話せるようになって、「多くの子どもたち」に「『地球市民』としての発信力」をつけてもらいたいとしている。
「地球規模」とは大袈裟に過ぎる感がしないでもない。また、英語を話せるようになることと「地球市民」としての資格を得ることとは全然別個の問題であろう。住民票を届ければその資格を獲得できるといった行政的な区分けによる〝市民〟とは違って、「地球市民」とは高度に文化的・道徳的意味合いを持った抽象的な存在形態であるはずだからだ。つまり、英語で情報を発信したからといって、即「地球市民としての発信」とするわけにはいかない。
私自身は世界共通語を設けるとしたら、英語が近道と言う単純な理由で賛成しているに過ぎない。英語が世界共通語として殆どの国から認知されたとしても、英語を話す人間が「地球市民」としての感性・哲学を自分のモノとしていなければ、どのような情報も「地球市民」のレベルからの「発信」とはなりようがない。中には英語が話せるようになって、海外に買春に行っても、女を選ぶにも値段を交渉するにも何一つ不自由しなくなった、便利なもんだといった人間も結構大勢いるだろう。買春するしないは本人の自由だが、そのような人間が「地球市民」の数に入るのだろうか。私自身にしても「地球市民」のうちに入りたいとは思わない。一個の俗物で十分である。カネがあれば、海外に買春に出かけかねない人間だからである。
勝手な解釈と誤解されないように、新聞に書いてあるとおりの中嶋嶺雄氏の言葉を書き写しておく。
――「開国か鎖国か。それに近い激論が起こる要素が、この問題にはある。小学校の英語教育に賛成の私は、開国論をとりたい。
90年代初めに冷戦体制が崩れ、ここ15年の世界の変化はすさまじい。今後もさらに変わるだろう。そんななか、『地球市民』としての発信力をつけなければならぬ多くの子どもたちを、鎖国時代的な状況に閉じ込めておいていいのか」――
何とも大仰な把え方である。
また中嶋嶺雄氏は、「『ジェスチャー(gesture)』という英語。これを知っていても、『身振り手振り』という立派な日本語を今の子供は殆ど使わない。それが『ジェスチャー』を元に『身振り手振り』を教えることで日本語をよみがえらせることもできる」との事例を挙げて、「英語教育を通じて異文化を紹介することで逆に日本文化の素晴しさを教えられる」ことの可能性を説いている。
英単語を使うことで日本語として用を足せるほどに流布しているなら、既に不都合もなく日本語化していることを示すものであろう。元々の日本語が死語となっていたとしても、生きものとしての言葉が何らかの社会的、あるいは時代的な利便性を受けて変化した日本語化であって、何も無理して「よみがえらせる」こともなく、そのことを英語必修化の理由の一つとするのはどこかズレを感じる。
また「異文化を紹介することで逆に日本文化の素晴しさを教えられる」は聞こえのいい可能性だが、「小学校5年」以上を対象に「週1時間程度の英語」必修化の是非を話をしているのである、そこまでいくのだろうか。そのことを英語で教えて、小学生に理解させることができるなら結構な可能性だが、日本語で教えなければならないなら、そのことに力を入れすぎると、英語の授業から離れて、日本語の授業になってしまう。文科省のマニュアルに指示事項として書き入れてあろうものなら、実現できなければ英語教育失格の烙印を押されることを恐れて、日本全国一律に右へ倣えして、日本語の授業なのか、英語の授業なのかどっちつかずにならないとも限らない。
習慣や文化は人それぞれがどう感受するかにかかっている。それぞれの判断に任せるべきで、任せずに「素晴しい」と教え、無条件に「素晴しい」と受け止める知識の授受を形式とした場合、客観的認識能力を排除して優越意識だけを育むことになりかねない優劣で価値判断する偏向を生じさせる恐れが無きにしも非ずとなる。
また中嶋嶺雄氏は、「国語力さえ落ちているのになぜ英語か、と言う意見がある。では、国語の時間を増やせば国語力がつくのか。国語力の衰退は、言葉に対する日本社会全体の認識や、感性の低下による点が大きい。原因の一つにテレビの俗悪番組の影響もあると思う」と述べているが、「国語の時間を増やせば国語力がつく」状況にないとなれば、「小学校5年」からの必修化で英語の「時間を増や」したとしても、英語力がつくはずはなく、自らの賛成論の展開と矛盾を犯している。
英語の理解は国語(=日本語)の支えがあって初めて機能する。例え英語の授業で日本語禁止となっていても、頭の中では日本語で対応している。英語で対応できるようになるまでには余程の時間が必要だろう。
中嶋嶺雄氏はこうも言っている。「問題は中学から大学まで10年間習っても大半が身につかない、従来の英語教育にある。時間と労力の膨大な無駄を繰返している。この立て直しこそ国家百年の計と思う。それには早期教育の一環としての学習が必要で、中学からでは遅い」
「従来の英語教育」の「立て直しこそ国家百年の計」で、その解決策が「早期教育の一環としての学習が必要で、中学からでは遅い」とする論理に整合性を見い出すことができない。「10年間習っても大半が身につかない、従来の英語教育」のどこに問題があったか、その問題点の解明とその具体的な解決策の発見がなくては、例え幼稚園・保育園から英語を必修化させたとしても、何「年間習っても大半が身につかない、従来の英語教育」を繰返すだけで終わるだろう。
〝話せない・使えない〟は英語だけの問題ではないと指摘したが、すべての科目ということなら、原因は暗記教育にあるのは自明のことであろう。テストの点数を上げることには力を発揮するが、暗記教育は自分の考えを入れたり、あるいは考えを発展させたり、他人の考えと自分の考えを比較・検討したりすることで得ることのできる知の喜びはそこにはなく、単にテストの点を取ったという即物的な喜びしかない。だから習慣的な営為と化す。勉強してテストの点を取り、また次の段階のテストのために勉強して点を取るという繰返しを習慣とする。そこに成績の発展、学歴の発展以外に人間性に関わるどのような発展があるのだろうか。
最後に中嶋嶺雄氏は「文科省が教育方針を変えるたびに現場が混乱するという指摘がある。しかし、英語の必修化は、日本が国際文化国家として生きていくために不可欠な、国家のあり方にかかわる問題だ。過去の『揺れ』とは同列には扱えない大きな歴史的選択なのだ。そのための条件整備には万全を尽くしたい」と言い、結んでいる。
大学の学長ともなると、地位に応じて物言いも大上段に構えることになるのか、「国際文化国家」だ、「大きな歴史的選択」だと言うことのスケールが大きくなるらしい。
英語が話せる日本人が大半を占めることになったとしても「日本が国際文化国家」となれるわけのものではない。「文化国家」は英語が話せることを基準として規定されるものではなく、そこに住む大半の人間が道徳の面、教養の面で文化的でなければ、「文化国家」の体裁を持ち得ない。いくらモノづくりの技術が優れていても、政治家・官僚が代表者の地位を占め、企業的に社会の上層を占める人間が続いているが、人間が道徳的・精神的に程度が低く仕上がっていたら、とても「文化国家」とはいえない。
このように中嶋嶺雄氏の英語必修化の賛成論の論拠を見てくると、素朴に詰めていけば済むと思うのに、大きく構えすぎて、そのような文言が学習指導要領にそのまま盛り込まれた場合、形式だけ大袈裟なものとなって却って現場を混乱させるのではないかという心配から反対の立場に席を移したくなる
次に同時通訳者であったという立教大教授の鳥飼玖美子氏の反対論を順を追って独断と偏見を恐れずに俯瞰してみると――、
まず次のように始めている。「提言を読むと、小学校の英語教育の目標は、ALT(外国語指導助手)を中心とした外国人との交流を通して、音声やスキル(技能)より、国際コミュニケーションをより重視することを基本にする、としている。
『コミュニケーション』と簡単に言うけれど。実は大変なことです。それは人間同士が思考と論理を言葉に乗せてぶつかり合うことで、相手の言い分を聞いた上で、自分の主張を相手に分かってもらう。反論に応え、持論を展開し、理解しあう相互作用です」
「国際コミュニケーションをより重視する」――。中嶋嶺雄氏の「国際文化国家」だ、「大きな歴史的選択」だと同じで、中央教育審議会・外国語専門部会にしても、どうも偉い人たちは物事を仰々しく把えなければならないと決めてかかっているようだ。それをバカッ正直にまともに受けて、鳥飼玖美子氏も仰々しく応じている。
小学校5・6年生を対象とした週1時間、月4時間程度の英語必修化に望むべくもない事柄を中央教育審議会・外国語専門部会は望み、鳥飼玖美子氏はその不可能性をムキになって論じている。例え将来的な期待事項だとして、早期に英語勉強を始めて、大学で一般的に英語を話せるようになったとしても、「国際コミュニケーション」を可能とするためには英語で話そうと日本語で話そうと、それ相応の知識と教養に裏打ちされた高度の内容を備えていなければならない。それを育むとしたら、英語授業にとどまらず、教育全般に関する問題となる。尤も英語で外国人と話したら、それを以て即「国際コミュニケーション」だとするなら話は別である。
鳥飼玖美子氏は反対論の根拠の一つとして、「今日の日本は、大人ですら隣人や見知らぬ人との会話が満足にできない状況にある。母語で考える力、生きる力をつけること。それこそ、小学校という人間の根っこをつくる時期に、英語を教えることより大事だと思う」と述べているが、そのことと週に1時間程度英語を必修させることとは別個の問題であろう。中嶋嶺雄氏の「10年間習っても大半が身につかない」英語と同じで、「会話が満足にできない状況」はそれ自体として把えるべき問題である。いわば「母語で考える力、生きる力をつけること」ができていない日本の教育そのものの問題であり、現在のテスト教育・暗記教育のままでいいというなら話は別だが、問題点としたことが解決できなければ、英語必修化も含めて一切合財が前に進まない。
要は日本の教師にとって、教科書の内容をなぞり、それを生徒に暗記させてテストの回答に当てはめさせる暗記教育(=なぞり教育)がロボットに代用させることができるくらいに機械的にできて楽で、「母語で考える力、生きる力をつける」教育は難しくて手に余るというだけの話であり、その結果としてある風景に過ぎない。このことは教師自身が暗記教育で育ったからに他ならない。
鳥飼玖美子氏はさらに続けて「中教審部会の提言を読んでも、これから具体的にどうするかが見えてこない。一番大きな問題は、英語を教える教員をどうするのか。ALT (外国語指導助手)を増やすことなどを提言しているが、英語が母語と言うだけで教育なんかできない。さらに、英語を必修にすることで有形無形の圧力が子どもにかかること、英語優先主義の誤った刷り込みの可能性が排除できないことを私は危惧する。それよりは、国語教師と協働で『言葉(コミュニケーション)』の教育ができないか」と言っているが、言っていること自体の矛盾に気づいていない。
国語教師が国語の授業で「母語で考える力、生きる力をつける」教育ができていないのに、その前提を無視して、「協働で『言葉(コミュニケーション)』の教育ができないか」と提案しているのである。
勿論「母語で考える力、生きる力をつける」教育を担うのは国語教師だけの任務ではなく、日本語で話すすべての教科の教師、さらに生徒と会話を交わすすべての大人が(親を筆頭に授業を受け持たなくても、朝礼とかで話をする校長・教頭、入学式や卒業式で来賓として話す市長や議員、教育委員会の面々も含めて)担うべき事柄である。大人たちが日常普段の会話を通して「考える力、生きる力をつける」に役立つ内容ある情報を発信し得ていたなら、生徒に自然と伝わって、知らず知らずのうちに蓄積されていくものである。口先だけの偉そうな話からは退屈や軽蔑を誘うだけで、それ以外には何も伝わらない。
鳥飼玖美子氏の次の主張となると、感情的反応としか言いようがない。「グローバル化というけれど、今日、人々が国境を越えて自由に動き回ることによって、世界は他文化主義になっている。グローバル・スタンダードから自分たちの文化や言語を守ろうと、としている人々もたくさんいる。多様であるからこそ世界なのであり、どこに行っても同じようになったら、海外旅行など面白くもなんともない。」
「多文化主義」に進む進まないも、あるいは「グローバル・スタンダード」を受け入れる受け入れないも、それぞれの人間の「文化」にかかっていて、英語を世界共通語とすることと関係ないことであろう。それぞれの国の経済が発展して主要都市にビルが建ち並び、風景が欧米化し、どこの国の都市か見分けがつかなくなる状況は民族服を脱ぎ、背広を着てズボンを穿く習慣と連動するもので、やはり英語の世界共通語化とは関係ない別種の機能性を原因とした表面的な変化に過ぎないのではないか。日本人が着物を脱ぎ、背広を着ズボンを穿いたからといって、日本人が血とし、肉としている「根っこ」の行動様式・思考様式は簡単に変わるわけのものではない。
英語が世界共通語となったことで「人間の根っこ」が「どこに行っても同じようにな」ったとしたら、その程度に脆い「多文化主義」を抱えていたに過ぎないことを証明するだけの話である。誰かが心配して、防げると言う問題ではない。
最後に「『国際人』とは何か。それは『向こう三軒両隣』と言うように、お隣さんとのお付き合いから始まる。例えば小学校のある地域に住むブラジル人や中東からの人たちと接して、世界の多様さを体験する。そうしたことこそ大事なことで、英語は中学からでも十分できる」と結んでいる。
譬え話だとしても、言っていることが無茶苦茶である。すべての生徒に望むことのできる「体験」であるなら、成立する譬え話だが、そうではない。日本人タレントがブラジルのアマゾンを旅行するテレビ番組でワニを食べたり、あるいは大ナマズと格闘して捕獲したりを見て、へーえ、こんなこともあるんだと感心したり、印象に刻み込んだりしたとしたら、それだけで無意識下に「世界の多様さ」を間接「体験」していることになる。そのことが「考える力、生きる力」となって役立つことになるかどうかは、日常普段の関係する人間・その他の人事から発信される情報の質と、それを受け止めるその子の感受性に関わる問題であろう。チャンネル選びにしても、感受性が決め手となる。
「世界の多様さを体験」するためにわざわざ「地域に住むブラジル人や中東からの人たちと接」する機会を作ること自体がどこか見当違いで、相手がつまる人間かつまらない人間かによっても受ける影響に違いが生じて、体験できると保証できるわけのものではない。
「国語教師と協働で『言葉(コミュニケーション)』の教育ができないか」と提案しているが、考えられる方法に〝朗読劇〟を挙げることができる。教師と生徒が〝言葉を獲得する〟方法(いわゆる「国語力の育み」)として私自身のHP「第49弾 雑感AREKORE part9」の「有田芳生氏の『テレビ、乳児から見せて大丈夫か』を批判する」(2002.1.15・火曜日アップロード)で既に提案しているが、興味のある人は覗いてみてください。
HPで提案した方法と少し違うが、まず国語の授業で1クラスすべての生徒を適宜グループ分けして、各グループに小学校5・6年生のレベルにあった舞台劇を素材に朗読劇として演じさせる。勿論最初は台本を見ながら朗読する。教師は演技や劇の内容、言葉の意味などの説明、解釈、役づくり、すべてに亘って生徒を交えて議論し合っていく。あるいは作品の時代、作者の生きた社会・時代等も議論の対象とする。それぞれの議論が教師・生徒双方の〝考え〟を創り、発展させていく。また各グループの朗読劇を比較検討し、批評しあう。批評には別の議論を伴う。
回数を重ねるごとに生徒の劇に対する解釈は深まっていくはずだし、各グループが同じ劇を朗読することで、それぞれの解釈の違いが微妙に反映することで生じる演技の違いが対人感受性の勉強にもなる。生徒それぞれが上達に違いはあるものの、朗読を高めていく過程で、台本を見なくても朗読できるようになり、台本を手から離すことができたなら、実際の舞台劇のように、自然と身振り手振りが出てくるはずである。顔の表情もシーンに合わせてつくっていく。
国語の授業での朗読劇がある程度進行したなら、今度は同じ朗読劇の英語版を使って、英語で朗読劇を演ずる。既に国語の授業で意味の解釈、役づくりなどが先行しているから、後は英語で朗読するだけであるが、やはり最初は台本を見ながらだから、英語を使ってイントネーションをどう変化させるか、感情をどう込めるかに意識を集中すればいい。楽しみながらできるのではないだろうか。回数を重ね、上達させていく過程で、英語のセリフそのものを暗記し、自由に話せるようになる。それが会話に役に立たないはずはない。朗読劇向けの発音の指導には外国人のALT(外国語指導助手)が必要であろう。
演ずることの楽しさは本能的なものとして誰もが抱えているはずだから、後は最初の恥ずかしさを克服しさえすれば、上達を励みとして夢中になっていけるのではないだろうか。そのためには教師のよき指導と生徒同士の励ましが必要なのは言うまでもない。
HPでは「朗読劇は成績の良い子を特定して演じさせるものであったなら、人間に関わる感受性の育みは限られた生徒にのみ片寄ることになる。クラスのすべての生徒に平等な資格と平等な機会を与える形での参加としなければならない。平等な資格と平等な機会を与えるとは、劇中のヒーロー・ヒロインを特定の生徒に振り分け、いいとこ取りをさせるのではなく、すべての生徒がヒーロー・ヒロインを演じ、同時に端役・脇役を演じるということである」と断っているが、すべての生徒に分け隔てなくヒーロー・ヒロインを交代で演じる方法が最善だと思う。
この国語と英語の授業での〝平行朗読劇〟を中学・高校でも行う。「10年間習っても大半が身につかない」英語の現状、〝話せない・使えない〟英語授業の未消化は相当に改善されるのではないだろうか。なぜなら、朗読劇に喜びを覚えたら、英語で書いてある他の舞台劇の台本等を自分から手に入れて読む生徒が必ず出てくることが予想されるからである。
また議論の習慣が英語のみではない〝離せない・使えない〟教育状況の解消を他の科目にまで広げていくキッカケとなると信じている。
基本は言葉の教育
5月17日(06年)の小沢・小泉党首討論で、小沢民主党代表は持ち時間の殆どを教育問題に割いたという。小沢一郎が教育行政の責任は市町村教育委員会にあって、文科省が直接的な責任を負っていない、それを不備として突くと、小泉首相は国家が教育に責任を持てという民主党の対案を協議し、審議を進めていきたいと述べるにとどめ、不備としたことに関しては直接には何も言及せずにうまくかわしている。
どうあるべきか、どうすべきかのデザインの作成とデザインに従った実際上の実践は深く戦略性の創造に関わってくる。外国の制度をマネして、あっちをいじり、こっちをいじりして積み上げていくことは日本人が最も得意とする分野であって、モノづくりには有効な方法で、大いに活用してきた。
だが、モノマネの才能を与えられた代償なのか、天は二物を与えない宿命からなのか、人間活動に関わる全体的な理想図とその理想図を機能させていくルールの策定を兼ね合わせたデザインを前以て準備する戦略的創造性に関わる能力は歴史的・伝統的に欠いていて、否応もなしに人間活動の理想的な有機性(活動の全体を構成している各部分が互いに密接な統一と関連を持って影響し合い、発展し合うことで活動の全体そのものをも発展させていく状況)の獲得は不得手としている。阪神大震災時の初期活動の遅れ、救助活動の不手際はこのことの最も顕著な現れであろう。
そのため、教育の姿と教育方法のあるべき姿をデザインすべき学習指導要領の内容自体が単なるスローガンの羅列か、それに近いもので終わり、実践活動に於いても、創造性の欠如がデザイン自体の不足を補うことすらできずなぞるだけで終わって、発展性も何も望めないこととなる。それを補って外国の制度と外国の技術のモノマネで日本の発展を戦前に於いても戦後に於いても曲がりなりにも支えてきた。
但し、後に続く中国や韓国のモノマネ技術が安価な人件費や自国に有利な為替相場を武器に日本の経済発展を凌ぐところにまで急迫している。
断っておくが、暗記教育はモノづくりと同じ工程を踏むもので、与えられた知識をなぞって記憶し、それをテストの回答としてつくり上げていくことでモノづくり同様に完了させることができるが、議論するために考えを編み出したり、考えを発展させて自分独自の主義・主張に創り上げて、それを自分の行動のスタイルとするといった自己活動に有機性を持たせて個を確立することには暗記教育は役立たないばかりか、逆に障害となる。
党首討論では小沢一郎が「教育の基本的な責任はどこにあるのか」と問うと、小泉首相は「基本的に親にある。幼児期では、自分は認められている、愛されているということを十分に植えつける。これが教育の原点だ」と答えて、「家庭教育の視点ではなく、教育行政の仕組みで責任は、と伺った」(06・5・18『朝日』朝刊)とたしなめられる一場面があったようだ。
「教育の基本的な責任」が「親」にあったとしても、「自分は認められている、愛されているということを十分に植えつける」を「教育の原点」とするのは、大切な要素ではあっても、情緒的に過ぎ、かつ単純に過ぎる。
人間はコミュニケーションの生きものである。コミュニケーションによって「自分は認められている、愛されている」という感覚を得ることができる。親の歓びが子供に伝わり、それが子供の歓びとなって、相互に反射し合い、増幅効果を持つ。
単なるじゃれ合いなら、ごく幼児の間はコミュニケーションを容易に成り立たせることはできるが、子供の各段階の成長を支えるには親が言葉によって表現されるそれなりの見識を持っていなければ、子供に伝えるにふさわしいコミュニケーションを失う。
昨今よく言われる親子の会話の不在は言葉を伝える習慣を持たなかったか、伝えたとしても、それが子供の成長に合わせて発展していく言葉でなかったために伝えるだけの意味を失ってしまたっか、そのどちらかだろう。
見識は観察力と判断力を備えて、初めて見識としての体裁を持つ。幼児期に親が仕掛ける単なるじゃれ合いも親の観察と判断によって子供の心理をそれなりに読む込み、それが子に関わる情報として積み重ねられてコミュニケーションに反映し、コミュニケーションは少しずつ新たな中身を加えたものへと変化していく。情報の読み取りも子供の成長に合わせたものとなり、次の成長へと導いていく。
いわば単なるじゃれ合いも、親の見識の程度で子供に伝わるコミュニケーションの質・内容がおのずと異なってくる。
小泉首相は後で、「『教育の基本で思い出すのは、しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせると言う言葉だ』と教育の持論を語った」(同記事)ということだが、勿論これは単なる身体的動作を言っているのではなく、十分に愛情を注いだ上で、社会に送り出してやることの形容であろう。
だが、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」だけで教育問題は解決するだろうか。
「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」には親自身がそれなりの言葉・それなりの見識に裏打ちされた内容あるコミュニケーション能力を備えていなければ、子は親から受け継ぐべき社会性をさして受け継がないままに社会に出ることとなって、果たして力を持ち得るだろうか。
だとしたら、それなりの言葉・それなりの見識を持たない親がいくら「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせ」る愛情の経緯・育みを踏んだとしても、さしたる意味を成さないことになる。
親が内容ある言葉を持っていることによって、子供は自然と親の言葉を伝え受け、自らも内容ある言葉を持つに至る。親が内容ある言葉に裏打ちされたそれなりの見識を持っていることによって、子供は親の見識を受け継ぎ、親子の関係と並行させながら、学校社会等の人間関係を通してそれを発展させていく。
逆に親が言葉の能力に貧弱で、言葉らしい言葉を持たず、見識といったらお笑いテレビ番組を酒を飲みながらか、何か菓子をぱくつきながら馬鹿笑いして頭に叩き込む番組から得た知識程度であったなら、それが子が受け継ぐべき言葉となり、見識となる。
つまり、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」育みは親がそれなりに内容のある言葉を持っているかどうか、それなりに内容のある見識を備えているかどうかによって意味と力が影響を受ける。となれば、親の言葉、親の見識がより重要でより基本的な問題となってくる。
例えば親が子供の絵本を読んで聞かせてやる。親が言葉を持っているかどうか、それなりの見識を備えているかどうかで、同じ言葉を読むにしても子供への伝わり方が違ってくる。読み聞かせが大事なのではなく、親が言葉・見識を持っているかどうかが重要なポイントとなってくると言うことである。読み聞かせしなくても、子供と散歩に出たとき、言葉・見識を持っている親は花の咲いている景色や木々の様子、空気の吹き心地など様々に語りかけるだろうし、子供は親の語りかけに応じて自分の言葉を口にする過程で新たに言葉を覚え、親の発する情報を頭に積み重ねていく。
要するに読み聞かせはコミュニケーションの一つの形式でしかない。
ことさら説明するまでもなく、言葉や見識は親となって初めて持つわけではない。幼児のときからの親との触れ合いによって伝えられ、成長と共に親以外の他者、兄弟や友達、その他の人間との直接的コミュニケーション、あるいはテレビや書物・映画を媒介とした間接的コミュニケーションを通して獲得し、その積み重ねによって内容を整えていく。
学校で教師が教科書をなぞるだけの知識を生徒が暗記し、テストの回答に当てはめる暗記教育が主で、教師対生徒・生徒対生徒の各種議論(=言葉の闘わせ)を通して対人感受性や自己認識能力を高め、生徒それぞれの考えを確立させていく機会の提供に時間を費やすことなく、これといった言葉・見識を獲得できなかった子供が親となり、子供を持って、その子に対して内容あるコミュニケーションを成り立たせる内容ある言葉・見識を期待できるだろうか。
こう見てくると、「教育の基本で思い出すのは『しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる』と言う言葉だ」だけでは済まない問題だと言うことが分かる。読み聞かせと同じように、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」も、子育ての基本ではなく、一形式に過ぎないからだろう。
つまり、教育の責任は「基本的に親にある」ように見えて、一人の人間が子から親に成長する中間に介在する学校教育が常に重要な役目を担う。
子供は初期的には親の言葉を受け継ぎ、受け継いだ親の言葉を土台として、自らの言葉を形成していく。その親の言葉が鉄筋の数を減らし、直径も細くして組み立てた偽装マンションの耐震強度が不足した土台みたいにいい加減ものであったなら、子供の言葉もそのいい加減さを受け継ぎいい加減な言葉しか獲得できない。そこへ持ってきて学校で暗記教育によって、言葉をつくっていく議論の機会、言葉を闘わす機会を与えらずに符号とたいして変わらないコマ切れ知識を植えつけられるだけで大人となっていき、自分の子供に自分の言葉として伝えていく。その悪循環を断ち切るとしたら、学校が教育方法を変えるしか道はないのではないだろうか。
日本の教育はどうあるべきかの政策を論ずる国会の場で、「幼児期では、自分は認められている、愛されているということを十分に植えつける。これが教育の原点だ」とか、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」子育てが大切といった情緒的なアプローチは言っている小泉首相自身は得意な気分に浸れるだろうが、様々な問題を抱えているからこそ党首討論の対象となっていることを考えると、そのような立脚点からは何も解決の方法は見い出せるはずもなく、キレイゴトの一言に尽きる。一国の総理大臣がこういった発想しかできないのだから、情けない内容としか言いようがない。経済大国・政治三流国という冷評が当然な受け止めにも思える。
経済大国・政治三流国に加えて日本の政治・外交に戦略なしといった評価も世界と比較して政治家なりの、官僚なりの言葉・見識を持たないことの帰結であって、将来親となる言葉を持った人間を育てる教育、あるいは将来親となる人間に言葉を持たせる教育をしてこなかったことの欠陥が親から子に延々と繰返されてきて、それが政治や外交、あるいは危機管理その他の日本人の活動に有機性を与えない原因となっているのだろう。
如何に教育が大切かである。勿論暗記教育ではなく、言葉の獲得の教育である。永久に日本の教育からは望めない項目なのかもしれない。
「日中21世紀交流事業」による第1陣の約200人の中国人高校生が来日していると新聞(06・5・18『朝日』朝刊)に出ていた。若い世代の内から友好を策す目的の事業なのだろうが、中国の学校では「反日教育」が行われていて、日本は軍国主義の国だと徹底的に教えられていると言う者がいる。昨年(05年)の反日デモにしても、そのような反日教育が影響したとする説もある。
同じ記事では、中国のネット上で日本は「軍国主義」だとレッテルを貼られがちだと解説しているが、そういった状況を受けてのことだとする文脈でのことだろう、挨拶に立った麻生太郎外相が、「日本には軍服を着ている人は多いかな、と思った人もいるだろうが、軍服を着た人を日本で見ることは多分ない」と冗談交じりに話したと伝えている。
だからと言って、日本は軍国主義国家ではないと単純に結論できるわけものではない。軍国主義か否かは「軍服」で判断されるわけのものではないからだ。軍事クーデターを起こした軍人が国家権力者の座についてから軍服をスーツ姿に着替えることがあるが、軍事独裁色を誤魔化す国際世論狙いと言うこともある。
また独裁国家に顕著な現象だが、旅行者や取材に訪れるマスメディアの人間に対して厳しい旅行制限を設けて都合の悪い場所への立ち入りを制限、もしくは禁止して、軍服を着た人間がいない場所だけを自由に歩きまわらせるといったこともある。何だ、軍事独裁国家だと言う割には軍人の数が少ないなと、そのことだけで軍事独裁の程度が分かるわけのものでもない。
日本の大企業に数えることのできる製造会社でのことだが、面接後工場案内があって待遇面、労働環境等を納得して就職したはいいが、配置された現場が工場案内のコースには入っていなかった油混じりの濁った空気が充満した、しかもむんむんする暑さで、外国人労働者が従業員の殆どを占めていて、カネのために我慢させているといった最悪状態の場所で、1週間持たずに辞めたということだが、勤めさせて続くようだったらシメたもの、続かなかったら諦めるといった僥倖狙いの採用方式なのだろう。民主主義国家日本でも、都合の悪い場所は見せないようにする知恵を働かす。見た目だけの姿がすべてを物語るとするのは短絡的に過ぎるが、麻生太郎だからできることなのかもしれない。
麻生太郎の挨拶に似た例として、反日教育を受けた中国人が来日して、日本は「軍国主義の国」だと教えられたが、軍人の姿が何処にも見えない、「あのセラー服を着た女たちが軍隊なのだろうか?」と勘違いしたが、学校の生徒だと分かって、中国政府の言っていることがウソだったと悟ったといったまことしやかな話も流布している。テレビの画面で見る中国人の女性兵士や女性警察官は軍帽や警察帽をかぶり、ズボンを穿いて腰にベルとをきちっと締め、激しい活動に対応できる服装をしている。中国人なら直接的、あるいは間接的に見た経験があるはずである。
そのような経験と照らし合わせたなら、日本の女子生徒はどのような帽子もかぶってはいないし、セーラー服は水兵の制服を由来としているが、スコットランド兵が儀礼用にスカートを穿くことはあっても、日常的な任務で簡単にめくれて下着が覗いてしまうスカート姿の軍人などいるはずはないと理解しなければならないだろうし、盗撮マニアにはそうあってほしい光景だろうが、軍隊と間違えたとしたら、話がうまくできすぎている。
間違えられる対象に「セラー服を着た女たち」を持ってきたのは、中国とは違って如何に日本は平和な国であるかということを強調するためだろう。日本人がつくった嘘っぱちか、日本人に対してよほど卑屈な中国人が日本人に媚びるために自作したウソのどちらかだろう。
こういった話を疑いもせずに単純に信じ込んで流布の輪を広げていくことのできる単細胞は麻生外相に似た単細胞と言えないだろうか。
戦前の例で言えば、日本人がすべて軍服を着用していたわけではない。軍服を着用していなかった一般民間人も、その多くが軍国主義に洗脳されていた。逆に軍服を着用していた日本軍人のすべてが軍国主義者であるとすることもできないはずである。中には戦争に反対しながら、仕方なく軍服を着ていた日本人もいた可能性はある。
戦前の日本がアジアの国々を侵略しつつ南洋へと侵出していったのは石油等の資源を必要としたこともあったろうが、何よりも〝八紘一宇〟思想の戦争を手段とした最終的な具体化である世界支配の手始めとしてのアジア支配に向けた侵出であったろう。〝八紘一宇〟思想は自民族優越意識をベースとせずに成り立ない。戦前のアジアの盟主といった〝盟主意識〟も構図を同じくするものであろう。
R・ベネディクトの『菊と刀』(平凡社刊)に次のような文章がある。「1942年の春、一中佐が陸軍省の代弁者として、(大東亜)共栄圏に関して次のように言った。『日本は彼らの兄であり、彼らは日本の弟である。この事実は占領地域の住民に徹底させなければならない。住民にあまり思いやりを示しすぎると、彼らの心に日本の親切につけこむ傾向を生じせしめ、日本の支配に有害な影響を及ぼすことになる』
ここにはアジアの国々に優るとする日本民族優越意識が、露骨な物言いではないが、意識的には露骨な形で明確に表されている。軍事的支配・軍事的統治を以て「日本の親切」とは、その思い上がり・傲慢さは穏やかな姿を取っているが、甚だしいものがある。
戦後に於いても台湾や韓国に続いて東南アジア各国、さらに中国が自国経済を発展させるまでの間、経済発展のアジアでの独り勝ちから獲得することとなった戦後版〝アジアの盟主〟なる名称にも日本民族優越意識を投影していなかったとは断言できまい。
そのことは「以前の日本は東南アジアのボスみたいな態度だったが、最近は腰が低くなり、対等に近い関係になった。タイの発展の成果だ」(<円借款離れ、中国台頭>05.8,5.『朝日』朝刊)とタイのナロンチャイ元商務相が新聞で語ったというこの一事で十分過ぎる証明となる。
戦前は「兄」であり「弟」であった関係が、戦後は「ボス」となり、対するに子分となったとは、軍国主義国家改め民主主義国家を背負った割りには優劣関係は逆に悪い方向に向かったこととなる。
もしも現在の日本人の多くが今なお日本民族優越意識に侵され(殆どの日本人がそのことに気づかずに侵されているのだが)、それを固定観念とした上であらゆる面で〝対抗意識〟を軸に中国を把えようとした場合、当然の趨勢として自民族の優越性を対抗の唯一有効な武器とする。なぜなら経済競争とか政治的影響力といった対抗軸は為替相場や原油相場、あるいは株式動向といった外部的な各種状況やそれぞれの政治手腕に応じてシーソーの性格を持ち、常に絶対的でないことを実感させられるのに対して、優越意識はひとたび囚われると、実体を持たないだけに絶対的でない物事を補う自尊維持のために逆に絶対としたい衝動にいくらでも反応してくれるからである。
麻原彰晃を絶対だと信じることができたのは、絶対だとすることによって絶対でない自らを満たすことができたからだろう。間違いや不足があるとしたら、それらは直ちに自分に跳ね返ってきて自分を苦しめることになるから、認めることよりも振り払う方向に意識が向かう。
日本はアジアで唯一ノーベル賞を2桁授賞しているが、中国は14億もの人口を抱えていながら、ノーベル賞授賞者が1人しかいないといった流説も、その対抗意識の底に否応もなし日本民族優越意識の流れを認めないわけにはいかない。政治的影響力や経済活動の面で中国に押されがちな否定できない現実の悔しい状況を補う、それに代わる手段として持ち出した日本民族優越意識が働いた優劣の比較であろう。、
石原慎太郎の「市民社会を持つ米国は中国と戦争した場合、生命に対する価値観が全くない中国には勝てない。中国に対抗する手段は経済による封じ込めだ」とするワシントンの戦略国際問題研究所での講演にしても、テレビの報道番組でのかつての日本の状況を忘れて、「中国は自分では何もつくれない。マネしかできない」といった主張も、日本民族優越意識に立った、裏返すと中国蔑視の〝対抗意識〟の現れであろう。決して〝協力意識〟を軸に中国を把えようとする対等姿勢からの言説ではない。
「軍服を着た人を日本で見ることは多分ない」としても、日本民族優越意識に囚われ、その優越性が損なわれることを恐れて中国と対抗する姿勢でいたなら、中国の軍備増強に対しては日本の軍事力強化といった具合に同じ図式による短絡的な反応を示しがちで、そのような反応が否応もなしに中国敵視感情を増幅させていったとしたら、見えない軍服を纏ったことと同じになる。
いや、既に多くの日本人が中国に対して見えない軍服を纏っていると言えるかもしれない。それが心理的に「軍国主義」に彩られた軍服であり、そのような状況下に陥っているとしたなら、麻生太郎の言葉はある面、意味を失う。日本の進む方向によってはさらに意味を失う。
尤も、平和国家の証明に軍服姿を持ってくる単純さは、それだけで片付けることができるのだから、いくら冗談混じりだとは言え、幸せと言えば幸せである。物事を全体的に把えることが欠如していることから出ている主張だが、そういった認識能力の欠如にも関わらず外務大臣を務めていられることも、幸せと言えば幸せと言える。ニッポン、バンザイと言ったところか。
5月16日(06年)、衆院本会議で教育基本法改正案をめぐる質疑が行われた。朝日新聞から小泉首相の発言に関わる箇所を拾ってみる。
①「教員は法令に基づく職務上の責務として児童生徒に対
する指導を行っているもので、思想、良心の自由の侵害
になるものではない」と述べ、職務として「愛国心」の
指導を行うべきだという考えを示した。
②「愛国心」規定については、教育現場での強制や評価に
つながるとの批判があるが、首相の発言は教職員が「良
心の自由の侵害」を理由に愛国心の指導を拒むことがで
きないとの認識を示したものだ。一方で、首相は児童生
徒については「これまでも児童生徒の内心の自由にかか
わって評価することを求めておらず、このことは本法案
により変わるものではない」とも語った。(『朝日』の
別の記事から)改正後も「児童生徒の内心に立ち入って
強制するものではない」と語った。
③児童生徒が学習する内容を定めた文部科学省の学習指導
要領(道徳)では「国を愛する心を持つ」という記述が
盛り込まれている。首相は答弁の中で「これまでも学校
教育において実際に指導が行われているが、その重要性
から今回、法案に明記するものだ」と説明した。法制化
されることにより、教職員の指導に対する強制の動きが
より広がる可能性がある。
④改正案が「宗教に関する一般的な教養は教育上尊重され
なければならない」としている宗教教育について、首相
は「宗教の役割を客観的に学ぶことは重要なことだ。国
家神道を教育現場に復活させる意図はない」と強調した
。
⑤「歴史的に形成されてきた国民、伝統、文化などからな
る歴史的文化的な共同体としての我が国を愛すると言う
趣旨だ。時々の政府や内閣を愛するものではない」
小泉首相は衆院本会議でこう答弁し、「愛国心」をめ
ぐる表現は排他的な国家主義に結びつかないと強調。法
改正は「こどもたちを戦争へと追いやるようなものでは
ない」とも述べた。
①・②番について――、改正後も「児童生徒の内心に立ち入って強制するものではな」く、「これまでも児童生徒の内心の自由にかかわって評価することを求め」ることはしてこなかったことが事実だとしても、「我が国を愛する」教育を繰返し繰返し習慣づけて慣れさせ、それを当たり前の感覚とすることで「児童生徒の内心に」抵抗感もなく受け入れさせることは可能である。となれば、「評価することを求め」る必要は元々生じない。「国を愛する」気持を一般化させるからだ。それを狙った「これまでも児童生徒の内心の自由にかかわって評価することを求め」ないであり、「児童生徒の内心に立ち入って強制するものではない」と言うことなのだろう。
そのことのどこが悪いと言う反論があるだろうが、そのことは後に述べる。
③番について――、「国を愛する心を持つ」教育を「これまでも学校教育において実際に指導が行われている」とするなら、具体的にその授業方法・授業内容を示すべきであろう。何の支障もなく行われていたなら、法案明記によって教育現場での強制や評価につながるとの批判や懸念は起こりようがないはずだからである。
人が同じ人を殺す生きものでなければ、〝汝人を殺すなかれ〟と十戒の一項目に銘記する必要は生じないし、また仏教が地獄なる威しを設ける必要も生じなかっただろう。そのことの裏返しの事実としてある人を殺しもするし犯罪も犯す人間存在の実態の逆バージョンでしかない、「学校教育において実際に指導が行われてい」なかった実態へのもどかしさ・苛立ちが仕向けた法案明記ということでなければ、矛盾をきたす。
④番について――、宗教教育によって「国家神道を教育現場に復活させる意図はない」としているが、国をどういう姿で把えるかは個人に任されるべき選択であって、それを日本という国はこういう姿をしています、こういった伝統・文化を持っていますと一定の形をつくり与えて「愛する心を持」ってくださいと要求する。当然の経緯として「愛する心」を可能とさせるには日本の国、伝統・文化が優れているとする自尊意識(=自民族の優越性)を裏打ちさせることが必要条件となることを考えると、その行き着く先が天皇を頂点とした国家体制への希求へとつながらない保証はない。
なぜなら天皇の存在は日本民族優越性の最大の証明装置であり、証明事項として〝万世一系〟、あるいは〝世界に例のない男系〟を絶対的な看板としているのであって、日本民族の優越性を証明したいばかりに天皇制を復活させたい衝動を抑え難く抱えている日本人が今の時代に於いても無視しがたい数で存在するのである。天皇制を成り立たせる根拠にその方法しかない神秘性を前面に打ち出すべく、戦前と同様に皇室神道を主たる土台として、それに日本人が生活の一部としているためにその精神に既に浸透させている神社神道を結びつけ、そのことによってその正統性に疑問を抱かせることなく打ち立てることができる国家神道を再び国家体制のイデオロギーとしない恐れなしとすることはできない。
小泉首相自身もそうだが、日本の歴代総理大臣は毎年正月に伊勢神宮を参詣する。伊勢神宮は皇祖神である天照大神を主神として祀り、皇祖神であるがゆえに国家神道の頂点に位置し、戦前まで国家神道の中心施設となっていた。そこを参詣すること自体、国家神道を体現していることにならないだろうか。
暴力団幹部が組を脱退したと言いながら、組事務所を折に触れて訪れていたら、その脱退は偽装としか受け取れない。戦後は国家神道が禁止され、消滅したと言っても、GHQの指令によってそうさせられたのであって、日本人自身が決定した禁止・消滅ではない。国家神道を精神に残している日本人が無視しがたく存在するし、戦後生まれの日本人でも国家神道を自らの思想とするに至っている者もいる。そういった精神的状況下にありながら、政治家が自分に限っては国家神道とは無関係だと言っても、証拠立てることは不可能だとタカをくくった偽装ということもある。
天照が歴史上の実在の皇祖ではなく、神話上の架空人物だったからこそ、その絶対性・優越性を都合よく演出でき、それを受け継ぐ者としての天皇を現人神と定めることができたのであって、天皇共々そのような存在を日本民族優越性の象徴とした虚構空間に現実主義者でなければならない、あるいは合理主義者でなければ務まらない政治家が今もなお足を踏み入れている。手を合わせ拝む一体感行為でしか日本民族の優越性を実感できないからだろう。経済大国・政治後進国と言われる所以がここにある。真に日本民族が優越的であるなら、世界政治の舞台で政治を手段としてその優越的であることを証明してもらいたい。
⑤番について――、「歴史的に形成されてきた国民、伝統、文化などからなる歴史的文化的な共同体としての我が国を愛すると言う趣旨だ。時々の政府や内閣を愛するものではない」と小泉天皇は畏(かしこ)くも宣(のたま)っているが、既にここで「歴史的に形成されたきた国民、伝統、文化などからなる歴史的文化的な共同体としての我が国」とする把え方・考え方自体が疑いもなくそれらを〝善なるもの〟=誤謬なきものとする自尊意識(自民族の優越性)を背景として成り立たせている。
大体がどこが「文化的な共同体」なんだろう。浮気は日本の文化だといみじくも言ったタレントがいたが、天下りも日本の文化でなくてはならなくなる。
「児童生徒の内心に立ち入って強制」しなくても、〝善なるもの〟=誤謬なきものとする習慣的な植えつけ教育によって、悪く言うとそれとない洗脳によって、戦前の侵略戦争といった負の歴史やいつの時代にもあった貧富の格差、あるいは男尊女卑、在日朝鮮人差別といった各種差別、さらに「時々の政府や内閣」の国民を裏切る不正行為や犯罪行為、国民を犠牲とした無為無策や不作為といった政治の劣位・矛盾と、それらをつくり出してきた日本人の精神文化に目を閉じさせて無抵抗に受け入れる学習態度が身につき、そのような客観的認識能力に反した独善性を自らのパーソナリティとして自尊意識(自民族の優越性)と共に成長し大人となり、それが揺るぎのない確固とした主義・主張と化したとき、「『愛国心』をめぐる表現は排他的な国家主義に結びつかない」可能性は非常に危ういものとなる。
「国を愛する」気持を一般化させることの危険性がここにある。このことを裏側から説明すると、負の歴史や国家の矛盾・社会の矛盾を、即ち日本人の愚かしい部分を〝愛国心〟教育によって巧みに隠して見えなくさせ、日本という国そのものに、あるいはその歴史・伝統・文化に優越的正統性を与える作業となることを意味する。
日本の政治・外交が戦術はあっても戦略なしと悪評されるのは、だからこそ政治後進国にとどまっているのだが、日本人が客観的認識能力に欠けているからであって、欠けているからこそ学校教育から育みそだてなければならない客観的認識能力を〝愛国心〟教育のために犠牲とする。ますます日本人に戦略性なしと悪評される。その愚かしさにも気づくべきだろう。
「国家主義と結びつ」く可能性の芽が無きにしも非ずとなれば、「法改正は『こどもたちを戦争へと追いや』」なくても、「国家主義」(自尊意識=自民族の優越性)を背景とした偏狭なナショナリズムの頭をいとも簡単にもたげさせて、険悪な外国敵視感情を時代風潮としない保証はなくなる。
そんなことは杞憂だ、呉牛月に喘ぐの類いだと言うなら、「歴史的に形成されてきた国民、伝統、文化などからなる歴史的文化的な共同体としての我が国を愛する」とする授業内容を具体的に示して、それが「時々の政府や内閣を愛するものではない」こと、排他的な国家主義に結びつかないこと、「こどもたちを戦争へと追いやるようなものではない」ことなどを明確な形で証明すべきではないだろうか。こういった授業を行います。皆さんの心配は当たりませんと。
決して自尊意識(自民族の優越性)に則った性格の授業ではないこと、どう転んでも客観的認識能力の芽を摘む授業内容ではなく、逆に客観的認識能力を強力に育む授業内容であることを証明すべきであろう。そのためには醜い姿をも曝し、観察・批判の対象としなければならない。侵略を侵出と歪曲するのは、醜い姿を隠して美しく見せようとする作為に他ならない。
証明が成され、その証明に反論を許さない内容ということなら、〝愛国心教育〟に納得もする。