NHK2月28日(08年)「ニュースウオッチ9」から防衛省の虚偽行為を見る。
①事故当日の19日、イージス艦の航海長をヘリコプターで東京市ヶ谷の防衛相に呼び出して行われて
いた事情聴取で防衛省は捜査に当たる海上保安庁の事前の了承を得ていたと説明していたが、得て
いたとしていたのはまったくのウソ・虚偽の類で、実際は承諾を得ずに独断で行った事情聴取だっ
た。
27日の増田防衛省事務次官の記者会見。
質問「虚偽の説明をしたという認識はありますか?」
増田「(海上保安庁との)認識に齟齬がある、もしくは食い違いがあるわけですね。それはもしかしたら、その、今のご指摘のような点、の、その可能性もですね、まったく排除できると、いうことではないと思っています」
何と煮え切れない発言あることか。
事前了承に関して「認識に齟齬がある」ということは防衛省側は事前了承を得たつもりでいたが、保安庁側はそれを事前了承と受け取っていなかった――つまりその点に関する防衛省側から海上保安庁側に向けたコンタクトは取っていたが、それが了解点にまで達していなかったという意味でなければならない。
だが、「虚偽の説明」の「可能性は排除できるということではない」と前後に矛盾することを言っている。なぜマスコミは「虚偽の可能性が排除できないということはどういうことなのか」と問い詰めなかったのだろうか。それが全くの「虚偽」であったなら、「認識の齟齬」は生じないことになる。
それとも増田の言う「認識」とは防衛省側にも事情聴取するぐらいの権限はあると思い込んでいた「認識」ということなのだろうか。ではなぜ最初海上保安庁に事前に連絡を取っていたなどとウソをつく必要があったのか。ウソ・虚偽の事実は厳然としてそこに存在する。
②石破防衛相らと共に航海長から事情を聴いたときの記録に関して、正式な議事録は取っていないとし
ていたが、まったくのウソ・虚偽で、実際は事務方が記録を取り、メモを作成していた。
27日の増田事務次官「議事録という形で取っている者はおりません」
質問「メモを取っている方はいるのですか?」
増田「それは分かりません。私は取っておりません」
質問「記録に残っていることはない?」
増田、顔を右斜め目上に向け、「取っていると・・・」と呟いてから、「こういうことを言ったなあというのは俄かには正直に出てきません」
一国の軍隊が自らの過失で民間人に重大な事故を起こしたのである。雑談とはまったく以って異なる「事情聴取」という特別の形式を取った場面での会話を「こういうことを言ったなあというのは俄かには正直に出てきません」は人をバカにしているか、正直に話したらまずいことになることからの隠蔽以外にない。守屋前防衛省事務次官も証人喚問で使ったように「記憶にございません」が誤魔化す必要のある人間にとって最良の逃げの一手なのだから、隠蔽と受け取るしかない。
28日の参議院外交防衛委員会
石破、イージス艦の航海長を防衛省に呼んだのは海上幕僚長の判断だったことを明らかにした上で、自分に事前に報告があるべきだったと述べたという。
石破「問題であると思います。私は航海長を呼んでいますと、いうことの報告を受けたのは(事故当日の)12時少し前でございます。そのとき、私自身、それは事前に教えてもらいたかったと、いう思いを持ったのは事実でございます」
この部分に関して今日29日の『朝日』朝刊≪大臣室での航海長聴取 防衛相が指示≫には、<石破防衛相は28日の参院外交委員会で、事故当日、防衛省に呼び寄せた航海長から、海上幕僚監部とは別に大臣室で事情を聴いたのは、自らの指示によるものであることを明らかにした。海上保安庁の了解を得ずに捜査前に行われたトップによる聴取の事実を、石破氏は当初、明らかにしていなかったが、「隠す意図は全くなかった」と釈明。航海長の呼び寄せは吉川栄治海上幕僚長の指示とした上で、事前に「私に断るべくだった」と語った。
石破志氏は航海長を呼び寄せ事情を聴いたこと自体「誤った判断ではない」との認識を示した。(後略)>と出ている。
<海上保安庁の了解を得ずに捜査前に行われたトップによる聴取の事実を、石破氏は当初、明らかにしていなかったが、「隠す意図は全くなかった」と釈明。>は<航海長の呼び寄せは吉川栄治海上幕僚長の指示>だとしていることと併せて俄かには信じ難い。
NHK「ニュース9」も、<航海長から聴取した内容を後で大臣に報告していたとしていたが、今日(28日)になって、「大臣も一緒に聞いた」とした>とコロコロと情報が変わる様子は伝えているが、この情報操作は最初は「大臣不在」とすることが防衛省側に有利と判断した「隠す意図」を持った「当初、明らかにしていなかった」隠蔽と見るべきであり、当然のこととしてそこに石破大臣が加わっていなければ必要としない「大臣不在」なのだから、石破大臣自身の演出による「大臣不在」であり、情報の隠蔽・情報操作としなければならない。
大体が海上の事件・事故の捜査権は海上保安庁にある。海上保安庁とは「海上において、人命・財産を保護し、法律違反を予防・捜査・鎮圧するために設けられた運輸省(現国土交通省)の外局」(『大辞林』三省堂)なのである。1988年7月の海上自衛隊潜水艦「なだしお」による30名死亡・17名重軽傷を出した遊漁船「第一富士丸」への衝突・沈没事故でも海上保安庁の捜査を受け、「なだしお」艦長の指示で衝突時の航海日誌を改竄していた事実まで判明、当時の防衛庁長官が引責辞任したことは防衛省の外局・内局に関係なく教訓として引き継がなければならない負の記憶であって、捜査権は一にも二にもなく海上保安庁にあることは承知していたはずである。
もし大臣が承知していなかったなら、そこに下の者からの注意がなければならない。注意によって、大臣も承知していた海上保安庁の捜査権だったはずである。
ところが事故後、海上保安庁に無断で防衛省は電話で乗組員から事情聴取を行い、やはり海上保安庁に無断で護衛艦幕僚長がヘリコプターでイージス艦「あたご」に乗艦、乗組員から事情聴取、そして極めつけはヘリで航海長を海上保安庁に無断で事故現場から連れ出し、その権利・資格もないのに防衛省内で航海長から事情聴取を行った。海上幕僚監部の聴取の後に石破大臣自身による聴取が行われた。
大臣も含めてすべて海上保安庁の専権事項なのだと承知していなければならない捜査権を侵害していた。当然当初そうだとしていたメモの不在、「大臣不在」も「なだしお」艦長の航海日誌改竄が自分たちを有利とする目的の虚偽操作・隠蔽工作であったと同じ線上にある衝突事故の責任を最小限にとどめ、なお且つ上層部への責任波及を遮ろうとする目的の虚偽操作・隠蔽工作と受け取らざるを得ない。
自分から承知しているか、下の者に注意されるかして承知していなければならなかった捜査権の海上保安庁専権なのだから、その虚偽操作・隠蔽工作に石破防衛大臣も加わったいたということである。石破が参議院外交防衛委員会で証言した「私は航海長を呼んでいますと、いうことの報告を受けたのは(事故当日の)12時少し前でございます。そのとき、私自身、それは事前に教えてもらいたかったと、いう思いを持ったのは事実でございます」には、海上保安庁に捜査権があることについての言及が一言もない。「報告」を受けた時点で示すべき事情聴取行為が妥当かどうかの判断が何も示されていない。国務大臣の立場で後付けの「妥当ではなかった」とか「適切ではなかった」といった弁解は許されない。
参議院外交委員会で石破大臣は民主党の大場直史参議院議員から「市ヶ谷で行った事情聴取について調書を取られているんでしょうか?」と質問を受け、「そこで聞き取った事実というものは書面に致しました」と増田防衛省事務次官の記者会見表明と違う事実を明らかにしている。増田は記者会見で男性記者に次のような質問を受けることになる。
記者「メモがあったか分からない、というふうに答えらっしゃいましたけれども、大臣にメモがあってですね、それを、あの、海上保安庁のほうにFAXで送ったと――」
増田「聞き取りのときにですね、の内容をメモしたものがですね、少なくとも今の時点に於いてですね、事務方のレベルに於いて、一人の者が、あの、メモを記録しておると――」
「事務方のレベル」の者までが事情聴取に加わっていたのだろうか。海上保安庁に捜査権があることを除いたとしても、重大事故である、<海上保安庁の了解を得ずに捜査前に行われたトップによる聴取の事実を、石破氏は当初、明らかにしていなかった>(上記『朝日』記事)事実から考えても、それが不当なことではなくても「明らかにし」たくない事柄が出てこないとも限らない事情聴取は少数の幹部で内密に行うのが自然な姿であって、そのことに反して事務方を加えていたとは考えにくい。
「事務方のレベル」の者は我々幹部から離れた存在だから、メモを取っていたとは知らなかった、だから当初はメモは存在しないとしていたとする、自分たちを無罪とするための情報操作の疑いが限りなく濃い。
NHK「ニュースウオッチ9」は責任問題に関して次のように伝えている。
鳩山由紀夫民主党幹事長「虚偽の答弁とか、口裏合せとかね、情報操作、これがみんな重なってきたなと。その責任は極めて重いのではないかと。早く自ら身を処すべきだと」
山崎拓「士気が緩んでいる点があるんじゃないかと。国民の生命・財産を守るべき組織でございますから、その国民の生命を奪うような事態は反省し、それを十分反省してですね、今後の防止に努めていただきたい」
ありきたりのことしか言えない自民党前副総裁でございます。現在問題となっているのは事故を起こした職務怠慢の真相解明以上に不都合な責任問題を国民の目から隠そうとした国家機関による隠蔽行為があったかどうかの解明であろう。決して成功させてはならない隠蔽としなければならない。
暴力団員風国会議員・中川秀直「二度とこんなことが起きないような責任体制をしっかり確立すること。そういうことでの防衛省・自衛隊の改革をしっかり進めること。私は誰かのクビを差し出せがいいなどという話ではない――」
「なだしお」事件のときも誰かが同じことを言ったに違いない。「二度とこんなことが起きないような責任体制をしっかり確立すること」・・・・
「誰かのクビを差し出せばいいなどという話ではない」――誰も詰め腹を切らせろと言っていない。トップの者としての責任を果たしているようには見えないから、責任を取れと言っているに過ぎない。
福田首相「石破大臣は今は、あの、あれでしょう、捜索活動の指揮を取っていると。それから原因究明ですね。総指揮を取っておられますねえ。ですから、それを全力を挙げてやってもらいたいと思います。
石破大臣には防衛省を改革しなければいけないと、いう大きな使命があると思いますね。それが石破大臣の責任だと思います」
貧弱な言葉。そして最後は錦の御旗としている「改革の責任」へと持っていく。
石破「何でこんなことが起こったのか。どうすればもう起こらないのか。先ずそれが優先すると思います。どういう立場にあった者が如何なる権限を持ち、責任を負うべきか、ということはそれはそれとしてちゃんとやっていかなければならないと思っております」
石破だけではなく、山崎拓も中川秀直も、またここには登場していない町村官房長官にしても、福田首相にしても、真相究明と再発防止策の構築を最優先事項・錦の御旗としているが、そのことの利点は、2分前視認を12分前に、赤灯を緑灯に、海上保安庁の了解を取ったを取らなかったへ、聴取を書き記したメモはなかったをメモはあったへ、石破大臣も事情聴取していたことを最初は明らかにしていなかったり等々、情報の変更と訂正を繰返すことで国民に疑われることとなった防衛省の隠蔽体質・事故隠し疑惑から目を逸らすことができることである。
となれば、徹底的に追及しなければならない隠蔽体質・事故隠し疑惑であって、石破防衛大臣は追及を受ける側の当事者の一人であることを以って、事故の真相解明、防衛省改革・自衛隊改革の席に位置する資格を失う。辞任した上で、事故後、石破大臣・防衛省は何をしたかの追及を受けるべきだろう。疑惑ある人間に改革を受けたとしても、たいした効果は見ないに違いない。国土交通省が道路改革をいくら叫んでも、改革はできないようにである。
犯罪に「再発防止策」など存在しないを絶対真理とせよ
08年2月24日日曜日、NHK「日曜討論」、米海兵隊員の14歳沖縄少女暴行容疑事件を話し合っていた。その一部分。
我部正明沖縄大学法学部教授「アメリカ軍に依存した経済活動も存在している。沖縄県民すべての人がアメリカ軍はいらないと言っているわけではない。少女暴行が問題になっている理由は人権の面から社会に於ける人権感覚が大変ここ10年20年で上昇してきている。そういった事件が起こったことの反応は10年20年前よりリアクションが大変大きい。日本の社会の中の人権感覚が上がってきているので、前と同じようなわけにはできない。我々はよく理解しなければいけない。それから、この特にこのような暴行事件のような場合、性格というのは犯罪として当初から容疑者の人が意識、理解したかどうか、多分していないんだと思う。簡単に言えば、女性と交際したいとか、色々なやっているようなプライベートなことと領域が重なっている。そこに監視カメラを置いたとしても、罪の意識があればやめますが、罪の意識のない人間には監視カメラは何ら抑制の効果を持たないんだと思う。そういう意味ではプライベートな所に属しているところは綱紀粛正と言っても、かなり浸透しにくい。犯罪であれば、分かります。酔っ払いと言う点でも分かります。しかし窃盗も分かります。それは犯罪だからです。しかしこのような暴行事件のような場合は、かなりプライベートなところが入っていくるので、どうしてもその浸透がしにくい犯罪であり、同時に社会的には大変注目を浴び、しかもそれは誰もがおかしいと、遺憾だというふうにならざるを得ないというようなことを象徴している事件なので、これは従来にあるような犯罪防止とは別個の形で考えていかなければならない。しかも一件でもこういった事故が起こった場合のインパクトは大変大きいということですね」――
「罪の意識」があるなしに関係なしに監視カメラの存在を承知して強行する犯罪の場合、監視カメラは何ら抑止効果を持たない。2週間ほど前の2月11日に目出し帽などで覆面した4人組が千葉県・市川市でセルフ式ガソリンスタンドを襲撃、1人がバール状の物を振り回して従業員を威嚇し手出しできないようにしておいた隙に残る3人が現金支払機を破壊、現金100万円を強奪した事件は監視カメラが設置されていることを承知して敢行した強盗事件であろう。例え逮捕されたとしても、犯罪そのものに関しては何ら抑止効果を持たなかった例に挙げることができる。
この事件と同じように米兵が覆面して単独、あるいは複数で女性を襲い、力尽くで車に押し込み、無人の場所に連れて行って姦す暴力的拉致・誘拐・強姦の場合は例え逮捕に監視カメラが役立っても、犯罪そのものには役に立たなかったことになる。
暴力的犯罪でなくても、知能犯で監視カメラをかわす方法もあるに違いない。例えば米兵が近くにある行きつけのバーの名前を言って一緒に飲みにいかないかと女性を誘う。監視カメラがその場面を写していたとしても、米兵は暫くして用事を思い出した、誘っておいて先に帰るのは悪いけど、もしすぐに片付いたら戻ってくる、片付かないようだったら電話するから、携帯の番号を教えてくれないかと言う。うまく聞き出せたら、カウンターで余分に金を払い、彼女を飲ませておいてくれないか、用事を思い出したから先に帰る、足りない分は後で払うと言ってその店を出る。店の者は米兵が先に帰ったことを証言してくれるだろう。米兵は外に出て女性の携帯に公衆電話から電話して、用事は同僚が片付けておいてくれた、別の場所に飲みに行かないかと誘って外に連れ出し、監視カメラのない場所で強姦することもできる。手っ取り早い口封じは死人に口なしにすることである。
勿論「用事とは何だったのか」、「アリバイはあるのか」と尋問されるだろうが、監視カメラは犯罪抑止を保障する装置とは必ずしもならない例に入れることができる。
人間は犯罪を成功させるために知恵を働かす。このことは振込め詐欺を見れば、いやでも理解できる。一つの手口が世間に流布して効果が薄れると、別の手口を創造してまんまと成功させる。最初は自動車事故の加害者、あるいは痴漢加害者に仕立てたニセの夫や息子にニセとバレないようにうろたえた声や泣き声を出させて示談金を払えば警察に逮捕されなくて済む、ダメ押しにニセ警官まで登場させて電話で示談金が支払われれば事件にしないで済みますと言わせて親族、特に年老いた親に振込ませる手口から、融資を持ちかけ、その保証金を支払わせる手口、最近は年金や税の還付金が生じたとして携帯で指示してATMを操作させ、気づかないままに預金の中から多額の金額を振込ませる手口へと進化させている。
警察庁のHPによると、振込め詐欺の認知件数は「平成19年上半期には6890件(内既遂6803件)」であり、その「被害額は96億6,844万8,919円」にも上ると言う。
H19年上半期の被害額にH17年の被害額約251億5千万円とH18年の被害額約約249億8千万円を合わせると、598億にも上る。この金額は日本人の振込め詐欺に関する学習無能力を金額換算した数字とも言える。新聞やテレビが機会あるごとに流している情報という名の「監視カメラ」が一般的には何ら役に立っていないことの証明でもある。
米兵に対して基地からいつ如何なる場合も外出を禁止する外出禁止令をしいたとしたなら、基地外の犯罪はなくなるだろうが、その代償に基地内の犯罪は増加の一途を辿るに違いない。基地内に閉じ込められて抑圧された行動欲求が攻撃的な行動に変わらない保証はないからだ。尤もアメリカ軍はひた隠しに隠すだろうが。
但し基地外の米兵の犯罪をゼロにできたとしても「アメリカ軍に依存した経済活動」の一部が支障をきたし、その面での沖縄県民の不満を募らせることになる。生活に困った彼らが報復に米兵の犯罪の真似をしない保証もない。
我部正明沖縄大学法学部教授の見解に対する外務省出身の国際問題アドバイザーを肩書きとしている岡村行夫先生の優れた見解。「岡本行夫公式HP」のプロフィールページには「橋本内閣で96年-98年沖縄担当総理大臣補佐官。小泉内閣で01年9月より内閣官房参与、03年4月より04年3月まで総理大臣補佐官(イラク問題担当)。」と錚々たる肩書きの持ち主であることを自ら証明している。
「あのね、アメリカ軍の一部にはこういう考えがあるんですよ。ええ、見てくれと、成人男子がね、まあ、沖縄だけで2万人いますね。こういうことはまあ、人口数万の都市に匹敵する規模だと。ええ、そこは必ず犯罪は起こるんで、米軍は犯罪を兎に角防止するけれども、ゼロということは無理なんだと言う人がいるんですね。それで、私はそれは間違いなんだと。ここにいる限りは、もうゼロにしてくれと、言い続けてましたけど、司令官の中には、その特に沖縄の、県民感情を一番大事にしなければいけないっていうことで徹底低に教育してくれる人がいる、あの、兵隊さんをですね。しかしそれがまた基地の司令官が代わるとね、少し緩んじゃったり、厳しくなくなったりです。だから、以前からやっている試み、努力ではあるんですけれども、兎に角最初の新兵さんにですね、徹底的に如何に事件・事故の完全撲滅することは大事なことっということを、その、映画も見せ、その教育もするっということを、ええ、つまりね、東アジアの安全保障を維持するっていうことと同じくらいに事件・事故を撲滅するっていうこととは大事だって言うことを常々この引継ぎはやってってもらわないといけないんですね」――
「国際問題アドバイザー」の立場で理想が力とならない、相互の国益・利害の取り合いを駆引き材料とするような現実世界に生きながら、岡本行夫は見え透いた理想論者のようである。尤も本人は自分の理想論が見え透いているとは気づいていない。
口でうるさく言い、「映画も見せ、その教育をする」ことで米兵の犯罪がなくなるとしたら、自動車運転者に対して警察は自動車免許更新時に事故の悲惨さを訴えるビデオを見せて交通事故防止の教育手段とし、交通取締りも頻繁に行っているのだから、とっくの昔に交通事故ゼロの効果を見せていいはずだが、そうなっていない。酒酔い運転で人を殺す重大事故も跡を絶たない。当然の対応として更新時のビデオ鑑賞にしても交通取締りにしても延々と繰返さなければならない状況が続いている。
人間は犯罪を犯す生きものである。犯罪を犯すことを人間存在の一つの姿としている。何度でも例に挙げていることだが、人間が犯罪を犯す生きものであることは人類と共に存在したキリスト教・イスラム教・仏教等の宗教が証明している。宗教の存続性が人間犯罪の永遠性をも証明している。
宗教は人間のあるべき理想の姿を説くことを存在理由としていることは誰も異論はないと思う。実質は葬式宗教のみの役割しか果たしていなくても、見せ掛けは人間のあるべき理想の姿を説く宗教の振りをしている。宗教がそのような役割を任ずるのは断るまでもなく現実の人間の姿があるべき理想の姿とは正反対の姿を取っているからで、あるべき姿をしていたなら、何も説かなくても済む。いわば宗教は現実の人間の姿のアンチテーゼそのものを表している。
紀元前の人間モーゼは「汝人を殺すなかれ、汝姦すなかれ・・・」と人間が犯してはならない十戒をエホバから授かり、それを人間の守るべき教えとし、キリスト教にも受け継がれたが、人間は殺人からも姦淫からも逃れることができないでいる。罪を犯した者は落ちるとされる地獄を用意していてもである。
日本の仏教は悪事を働いたら落ちて苦しむことになるとする閻魔大王が主宰する八熱地獄だ八寒地獄だ、焦熱地獄だと136種類もの地獄を用意しながら、人間の犯罪性をどうすることもできなかったし、今もできないでいる。二昔か三昔までは、「悪いことをすると閻魔様に舌を抜かれるよ」と親に注意されたが、「そんなこと関係ねえ、オッパッピー」の効果なしで子供は大人となって様々な犯罪を繰り広げている。いや、子供でも人を殺す世の中となっている。
※【地獄】「六道の最下位。閻魔が主宰し、死者の生前の罪を審判して、それに応じた責め苦を与える。八熱地獄・八寒地獄など136種類ある。」(『大辞林』三省堂)
※【六道】(ろくどう)「すべての衆生が生死を繰返す六つの世界。迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。前の三つを三悪道、あとの三つを三善道という。」(同『大辞林』)
何度でも言う。人間は犯罪を犯す生きものであり、それを永遠の存在性としている。それが人間と犯罪との関係に於ける「人類史的絶対真理」に他ならない
米軍としては「成人男子が沖縄だけで2万人もいる。人口数万の都市に匹敵する規模で、そこは必ず犯罪は起こるんで、犯罪を兎に角防止するけれども、ゼロということは無理なんだ」をホンネの公式態度にしたいと思っているのだろうが、犯罪を犯す側だから、それができない。しかし色々と手を打ちながら、ホンネはそこに置いているに違いない。人間の現実の姿を知っているからだ。人間の姿に対する現実認識に欠ける人間だけが「犯罪をセロにしてくれ」などという。日本人の犯罪が上は政治家・官僚、教師、警察官、裁判官、検事までなくなることなく続いていると言うのに自分たちの犯罪は棚に上げて、米兵の犯罪を「ゼロにしてくれ」と。
自らが「犯罪ゼロ」の範を垂れるべきを、そうしないで、できもしないからだが、他にのみ求めるのは自分たちに不可能なことを他に可能と求める誤魔化しのキレイゴトとしか言いようがない。海上自衛隊は職務怠慢から漁船に衝突事故を起こして2名を行方不明にしている。地元の漁民はなぜ沖縄住民みたいに怒らないのだろうか。不思議でならない。石破如き政治家に「あんたの手で真相究明してくれ」などと頼み込んでいる。同じ日本人として人間の姿を見る目がないからだろう。
どう手を打とうと、人間から犯罪を奪えないとなったなら、犯罪を犯した者に対しては懲罰で応じるしかないことになる。だが、前にもブログに書いたが、「再発防止」を目的とした懲罰は犯罪を犯した者には役立つことはあっても(再犯者には役に立っていなかったことになるが)、初犯者には役に立たないことは跡を絶たないその永遠の出現性が証明している。
できることは真相究明と責任要求のみである。勿論「再発防止策」は色々と手を打つだろうが、それが絶対的な「再発防止」を約束する保証はどこにもない。殆どすべての犯罪が別々の人間による、時には同じ人間による「再発」としての姿を取っているのである。だからこそ、犯罪は永遠性を獲ち得ることとなっている。
イスラム教では盗みを働いた者は二度と盗みが働けないように腕を切り落とす刑があると聞いたことがあるが、それで窃盗・強盗の類がなくなったという話は聞いたことがない。その人間に後悔を植えつけることができても、新たに犯罪を犯す者には役には立たないからだろう。中国の公開銃殺刑にしても、中国社会に蔓延している上下全体に亘る犯罪を見ると、テレビ・新聞でも報道されるに違いない直接的に視覚に訴えるその見せしめにしても何ら効果がないことを証拠立てている。
私自身も政治家や官僚の重大な知能犯罪は強盗・殺人に匹敵する懲罰を以って罰せよとする懲罰論者だが、それで政治家・官僚の犯罪がなくなると思っていたなら、人間は犯罪を犯す生きものだなどと言わない。
犯罪が発生したなら、警察が捜査し、逮捕にこぎつけ、取り調べたあと裁判にかけ、それ相応の刑罰で罰する。それ以外に方法はない。犯罪に対して社会はこれまでもそうであったように、そういった姿を取り続けるだろう。沖縄にしても同じである。例外となることはない。
その現実を無視して、あるいは日本人自身の犯罪を「ゼロ」にできない現実を棚に上げて、米軍に関してのみ犯罪を否定するのはエセ正義を振りまわすのと変わりはない。
尤も米兵の日本人女性に対する性犯罪や中国農薬入り餃子は日本人が正義感を振りまわす絶好の機会とはなっている。そうでないと言うなら、学校教師の教え子に対する性犯罪をもっと怒ってよさそうなものだし、教師にGPS機能付き携帯電話を持たせて学校と自宅を往復させる以外は寄り道させないように監視せよと要求することぐらいはしていいはずだが、米軍に対する態度から比較したら寛容に過ぎるのなぜなのだろ。
日本の食品企業の国産と偽る外国産混入の偽造事件にしても、もう少し騒いでよさそうだが、その騒ぎは中国産農薬餃子の騒ぎの足元にも及ばない。
テレビにしても、米兵に対して正義を振りまわすなら、私自身は反対だが、テレビに登場させるすべての若い女性をイスラム教徒並みに目だけ出して身体全体を隠す黒一色のチャドルを着用させることを正義とすべきである。一方で正義を振りまわし、一方で性的情報につながる映像を垂れ流すのは公正に欠けるからだ。
2月24日日曜日「NHK日曜討論」イージス艦漁船衝突事故。
岡本行夫国際問題アドバイザー「石破大臣はよく対応していらっしゃると思いますが、信じられないことが多すぎる。なぜあのときまで発見できなかったのか。発見した最後の段階に於いても、私はよく分からないが、イージス艦の操縦に詳しいアメリカ海軍の関係者に聞いたら、普通は右と左のプロペラを逆に回して舵を一杯に切れば、10ノットの速度なら避けられたんではないか、どうしてしなかったのかと首を傾げていたが、それができなかった事情があったのでしょう。ただ、石破大臣にお願いしたいのは、石破大臣の怒りというものをもっと乗組員たちに見せてくださって当然じゃないかと思います。そうではないと、自衛隊全体があのようなお粗末体質ではないかと思われてしまうんじゃないでしょうか。あの「あたご」の操船、今度事故に至った経緯というのは我々の常識から言ったら、ないことなんだと、なぜそんなことが起こったんだという、それをおっしゃっていただきたいと思うんです」
石破「最新鋭のイージス艦です。ですから、そのことに誇り、国を守るという誇り、というものがあったんだと思う。ただ、それが、誇りが驕りに変わっていなかったかということですよね。やはり生命を賭けて国の独立と平和を守る、そういう自衛隊です。圧倒的多数の隊員がその思いで日夜一生懸命歯を食い縛ってやっているんだけれども、その誇りがもし驕りに変わっている面があるとするなら、それは断固として改めなければならないと思います」
戦前、優越日本民族・天皇の大日本帝国軍隊は国を守る組織どころか、軍事力も国力も工業力も数段格上のアメリカを相手に八紘一宇の思い上がった世界制覇を夢見て無謀な戦争を仕掛け、世界制覇どころか、国を破壊し、内外の国民の生命を破滅する組織としての役目しか果たさなかった。
自衛隊だけが国を守っているわけではない。軍隊は国を守る一組織に過ぎない。そして戦前の例を見るまでもなく、国を破壊し、平和維持の役目を裏切る場合もある。
政治も外交(=他国との関係)も領土保全と平和の役目を担っている。企業も富を生み出すことで社会の破綻を防ぎ、それは平和や国の守りにつながっている。国民も労働を手段に企業が富を生み出す原動力の役目を果たし、労働によって得た報酬の中から納税の形で政治や外交による国の平和の維持経費・社会維持経費提供に貢献している。
基本は社会の維持である。社会が維持されなければ、国家が維持されても意味はない。その社会とは自由と平等と生活を保障する民主主義の原理に貫かれていなければならない。
いわば国は政治や外交(=他国との関係)、企業、国民、自衛隊の総合力によってその姿が表される。自衛隊だけが「国の独立と平和を守」っているわけではない。自衛隊だけが「国の独立と平和を守」っているのだといった「誇り」に支配される自己特別視自体が既に「驕り」となっている。
自衛隊が常備している兵器及び自衛隊員の給与は国民の税金で賄われているのである。国民主権という立場からも、自衛隊のスポンサーは国民である。自衛隊が「国を守っている」という考えではなく、国民が自衛隊を「国を守る」一つの組織として機能させていると解釈すべきだろう。それが唯一軍隊を暴走させないための真のシビリアンコントロールではないか。
単細胞な余りこのことを理解できずに陸海空三軍の自衛隊を管理・監督する石破防衛大臣自身が「生命を賭けて国の独立と平和を守る、そういう自衛隊です」と自衛隊のスポンサーである国民を差し置いて自衛隊を国を守る組織として最上位に置く僭越で以て自衛隊員の驕りを誘発しかねない妄言を吐いている。
文民でありながら、ある意味シビリアンコントロールを自ら破っているのである。このことの余りにも愚かしい罪一つを取っても辞任に値する。
また、今朝のテレビで事故当日の19日夜に石破防衛相に見張り員の漁船視認が当初2分前としていたのを「12分前」だったと訂正報告が既になされていたにも関わらず、20日夕方の自民党合同部会で防衛省幹部が「2分前」と説明、25日になって防衛相事務次官の増田なる男が防衛省での記者会見で「12分前を知ったのは20日昼の時点」だと時間をずらして発表。増田某は「記憶が曖昧だが」と断っていると弁解しているが、行方不明者者が2名出ているときに「記憶が曖昧」は許されないことだろう。
石破防衛相への報告については「12分前」の報告どおりに発表しなかったのは確認するのに手間取ったと言っているが、「12分前」という報告共々その後の「確認」という経緯自体を発表すべきが「情報公開」というものだろう。
「12分前」は政府に不利となる、出さないで済むなら出したくない情報である。核持ち込み密約だってする政府である、そこに隠す意図が働いたしても不思議ではなく、そう疑うことは十分にできる。
石破は日曜日には複数のテレビ討論番組に出て、情報を隠しているわけではない、包み隠さず話せ、すべて正直に話せと伝えてあるといったことを喋っていたが、情報を含めた動静自体を有態(ありてい)に公開していなかったことは「包み隠さず」の言葉を自ら裏切る薄汚い情報隠蔽そのものであって、この罪を加えるなら、大臣辞任だけではなく、国会議員でいる資格もない。
責任の所在の明確化は大臣が先ず範を垂れるべき
福田首相は韓国訪問に先立つ首相官邸での記者会見で、<海上自衛隊のイージス艦と漁船の衝突事故を受け、野党が辞任を求めている石破防衛相について「防衛省の問題点をよく知っている人が、全責任を負って改革の先頭に立つことが必要だ」と述べ、辞める必要はないとの考えを明確にした。内政の安定が外交上も重要だとの観点から、民主党との大連立にはなお意欲的で、「相手次第」と語った。
首相はイージス艦の事故について「防衛省の体質にかかわる問題なら、防衛省のあり方を根本的に変えなければいけない」と指摘。そのうえで、「(石破氏を)うっかり代えてしまうと、(改革は)できなくなる。新しい大臣が一から勉強して、どうしましょうかみたいな話で本当にいいのか。そんな無駄なことはすべきでない」と述べた。(後略)>(08.2.24asahi.com≪福田首相 防衛相は辞任の必要なし、大連立は相手次第≫)と言う。
だがである。「防衛省の問題点をよく知っている人が、全責任を負って改革の先頭に立つことが必要だ」は言っていることに矛盾がある。「防衛省の問題点をよく知ってい」ながら、重大な事故を起こすまで放置していたことになるからだ。問題が起きても何が「問題点」か気づかないのも問題だが、「問題点をよく知ってい」ながら、何か問題が起きてから、「さあ、改革だ」では、「改革」は何か起きるまで待つことになって、なおさらに始末に悪い。福田首相や石破防衛相なら何か起きるまで眠っている式の危機管理といったことならお手の物だろうが、それでは危機管理の意味を成さない。
今回問題となったのは航行時の見張り体制の不備と事故発生後の連絡体制の不備である。
双方共に深く危機管理に関わっている。石破大臣はその「問題点をよく知ってい」たと福田首相は言う。何ら改善を施さずに手をこまねいていたということは知っていながら防衛大臣としての役割を果たす責任を果たさなかったということなのだから、役割を果たせなかった者に改革の役割は期待しようがなく、その無策・無責任だけを取っても辞任に値する。
連絡体制に関して石破防衛大臣の責任を具体的に言うなら、防衛省は05年の9月事務次官通達で重大な事件・事故が発生した場合、発生から一時間以内をめどに一報を受けた各幕僚監部が内局を経由せずに防衛相や副大臣に概要を直接通報することを義務付けたそうだが、今回の「あたご」衝突事故ではそれが忠実に遵守されず、防衛相への連絡が事故発生から1時間半もかかっている。首相への連絡はさらに遅れて2時間後だそうだ。
たった2年半前の義務付けも守ることができなかった役割遂行意識の欠如・無責任。石破防衛相はその「問題点をよく知ってい」た。「知ってい」ながら、放任していた。
このようにも手をこまねくばかりだった大臣に「全責任を負」わせて「改革の先頭に立」たせるという判断を正しいことだと言えるだろうか。例え「一から勉強」し直すことになっても、「新しい大臣」のもとで「どうしましょうかみたいな話」とすべきということになる。
海上保安庁の取調べに乗務員の証言が小出しなのも、証言に連続性がないことも事の重大さに比例する責任の重さを少しでも軽くしようとする責任回避意識からの細工なのは明らかである。いわば自己を有利な立場に置こうとすれば、証言に細工をせざるを得ないが、細工した証言の矛盾点を追及されて止むを得ず話すから、結果的に証言が小出しの状態ともなり、証言に連続性を持たないことにもなる。そしてよく使う逃げの手が「よく覚えていない」である。
このような事故と証言の経緯は与えられた役割を果たす責任を果たさない無責任と無責任によって生じた結果に対して負うべき責任を果たさない無責任によって成り立っていて、
無責任の二重構造下に立っていると言える。
危機管理はすべてそれぞれの責任意識にかかっているのである。「問題点」はすべてその点に集約される。上から言われたことに単に従う権威主義的行動様式で行うのではなく、上から言われなくても自分から進んで行う自己判断行為とすることで責任の所在がはっきりとし、責任行為はよりよく生きてくる。
この点に関して福田首相も石破防衛大臣も十分に認識していないようだ。無責任構造日本の一員だからでもあるからだろう。当然のことにイージス艦の乗務員だけの問題ではなく、国会議員や中央官僚、さらに地方自治体の首長、地方議員、地方役人にも言える無責任の構図ということになる。
小さい頃から慣らされた権威主義的行動様式に阻害されて、自己判断行為が満足にできず、結果として責任の所在が曖昧となり、責任行為を満足に果たせない。
危機管理のすべてがそれぞれの責任意識に左右されるということなら、責任の所在という点で上の誰かが範を垂れないことにはいつまで経っても責任行為は期待できない状態で推移する。、
「防衛省の問題点をよく知ってい」ながら、何ら対策を打つことができなかった不作為・無能・無責任の点からも、責任の所在の明確化の範を垂れる意味からも、石破大臣は進んで辞任にすべきであろう。どうせ満足な改革などできないのは分かりきっている。できることは「辞任」ぐらいしかないにだから。
イージス艦に見る「たるんでいる」任務内規律と危機管理欠如は今に始まったことではない日本全体の問題
米兵沖縄14歳少女暴行事件以後も多発する米兵事件に我が日本の偉大なる町村信孝内閣官房長官は記者会見で、「17日には酒酔い運転。誠に遺憾千万で、たるんでるとしか言いようがない」と米軍の規律の緩みを厳しく非難する言葉を言い放った。
そして2月19日午前4時7分のイージス艦「あたご」の漁船「清徳丸」との衝突事故。場所を選ばずの渡り鳥・小池百合子元防衛相は「たるんでいるのひと言」(08.2.21/日刊スポーツ≪2分前から一転、漁船確認12分前だった≫)と批判。
清徳丸が所属する漁協の組合長「ミサイルを瞬時で打ち落とせるような優秀な船が、なんで漁船に気づかなかったのか。自衛隊には、たるんでる、と文句をいいたい」(文藝春秋編 ≪日本の論点PLUS≫から)
陸海空自衛隊の最高司令官、わが偉大なる内閣総理大臣福田康夫の「福田内閣メールマガジン」で記した言葉((08.2.21『朝日』夕刊≪首相「緊張感が欠如」≫から)。
「これだけの重大事について連絡が遅れたことは、危機管理意識が欠如していたと言わざるを得ない」
「国民の生命財産を守るべき自衛隊が、このような事態に至った事が悔やまれてならない」
「緊急事態に常に備えるべき自衛隊の艦船が漁船と衝突すると言う事態は、やはり緊張感が欠けていたとのそしりを免れなり」
「危機管理意識が欠如」を簡易語に翻訳すると、断るまでもなく「たるんでる」になる。緊張感を欠くことで「危機管理意識が欠如」した組織=「たるんでる」組織のまま放置していた責任は誰が負うのだろうか。陸海空自衛隊の直接の管理・監督者である我が石破防衛大臣の責任は重大だが、そのことを以ってして石破を防衛大臣に任命した福田総理大臣の任命責任は免れるわけではない。
我が石破防衛大臣は特に危機管理に熱心だった。軍需商社山田洋行から収賄に当たるゴルフ接待を受けて逮捕された防衛省事務方の長である守屋前防衛事務次官が連絡がつかない状態で接待ゴルフ等で遠隔地に出かけていたことの反省から、石破防衛相は「危機管理官庁なので居場所を明らかにするのは当たり前。行動が把握されるのが嫌だったら、そんな人は防衛省にいなくていい」と幹部の休日行動を把握する目的で全地球測位システム(GPS)機能付き携帯電話の所持を義務づける方針を示していた。その「危機管理官庁」そのものが「危機管理」を破綻させる衝突事故を起こしたばかりか連絡遅滞・報告不備の危機管理欠如を曝した。我が石破防衛大臣の「危機管理」とは何だったのか。
防衛省ばかりではない。去年暮れから今年にかけての中国農薬餃子問題でも各方面に亘って「緊張感を欠いて」いたとしか言いようのない危機管理の欠如を露呈した。救急病院から移送された患者の病状を食中毒と把握していながら、市立病院の医師は食品衛生法に基づく保健所への届け出を怠っているし、地域住民の健康や衛生を支える公的機関の保健所が消費者が持ち込んだ餃子の検査を断っている。万が一の危険を想定してそのことに備えることも「危機管理」である。それが国民の生命・財産の保護につながっていく。そういった認識すら持たない緊張感のなさなのだろう。
東京都も餃子中毒を起こした兵庫県から連絡を受けながら、中国餃子輸入元のJTF本社がある品川区に伝えて調査を要請する際、農薬中毒症状を記載した書類ページを誤ってファクスし忘れ、先方に農薬中毒だと認識させる機会を自ら断つ危機管理欠如を犯している。
昨年12月の佐世保で発生した2人殺害の銃乱射事件では長崎県警は近隣住民が警察に銃の所持許可を取り消してほしいと申請しながら、適切に対応せず、「銃所持許可は適切だった」とする危機管理欠如を曝している。近隣住民が不安に感じ、心配したとおりに現実に銃の不法使用が起き、2人の人間が殺害されたのである。結果から自分たちの判断の当否を問うべきを事務手続き当時の判断を基準に当否を問う責任回避は危機管理を無視する緊張感も何もない態度以外の何ものでもない。
02年7月に宇都宮で主婦1人を殺害し、もう一人の主婦に重傷を負わせた散弾銃殺傷事件は事件後自殺した犯人の62歳の男が銃許可を申請した際、その身辺調査に当たった当時の宇都宮南署地域課員が「許可には熟慮を要する」と報告し、主婦側も男とのトラブルを警察に訴えていたにも関わらず、警察は銃所持を許可し、結果として事件が発生した。
この経緯は佐世保銃乱射事件の経緯と重なるばかりではなく、遺族の損害賠償の訴えに宇都宮地地裁は事件は予測できた、県警の銃許可は違法と判断したのは佐世保銃乱射事件を遡ることたった半年前の5月24日(07年)のことである。
佐世保銃乱射事件の犯人に対する近隣住民の苦情が記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのか、宇都宮の事件の銃所持許可を違法とする宇都宮地裁の判決を教訓とすることもできなかった「危機管理意識の欠如」、学習することもできなかった「緊張感の欠如」はまさしく「たるんでる」としか言いようがない。
佐世保事件の場合は05年4月に近隣住民の苦情を受けた後、容疑者に電話で取り外し可能で銃を使用できなくする銃の「先台」を預けるよう求め、本人の「預けます」という承諾を受けていながら、実際には預けさせるところまで持っていかなかった機管理欠如は近隣住民の苦情の確認に直接本人に面談するのではなく、それを省いて銃所持許可更新時の添付書類である医師診断書を判断の主たる根拠としたことと先台の提出を電話で応対したことの「時間と手間の面倒」を避けたことが原因となった危機管理の破綻であろう。
何もかも「緊張感の欠如」、「危機管理意識の欠如」つまり「たるんでる」ことから起きた危機管理の破綻なのだ。
この教訓機能の欠如・学習の無化の構図は既にマスコミが伝えているようにイージス艦「あたご」の衝突についても言える。88年7月に海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が大型釣り船第1富士丸に衝突、30人を犠牲とし重軽傷者を17名出した事故である。長男を29歳で失った遺族の88歳の父親は「あたごの事故は完全に『避けられた事故』だったと思う。自衛隊は綱紀がたるんでいるんじゃないか。同じような事故が再び繰り返されないという保証はない」と話している。(08.2.21/ asahi.com ≪あたご遺族「またか」 事故後20年、怒りあらわ≫から)
そう、「綱紀がたるんでいるんじゃないか」と町村信孝内閣官房長官と同じ「たるんでる」という言葉を使っている。町村の「たるんでる」は沖縄米軍に向けた言葉。遺族の「たるんでいるんじゃないか」は町村信孝も所属員の一人となっている日本政府管轄下の自衛隊に向けた言葉。いわば町村も受け止めなければならない遺族の「たるんでいるんじゃんないか」である。
場所を選ばずの渡り鳥・小池百合子にしても、町村よりも近い形で防衛省に短い期間とは言え、一時は直接的に所属していたのである、第三者批判的に「たるんでいるのひと言」と言い捨てるだけでは済むまい。
もし町村、その他福田内閣の面々が「なだしお」衝突事故遺族の言葉を海上自衛隊のみに向けたものだと受け止めたとしたら、責任の所在を防衛省と自衛隊のみに負わせるもので、「緊張感に欠けている」としか言いようがない。内閣全体が受け止めなければならない責任であり、「危機管理意識の欠如」であろう。
海難審判所は「第一富士丸」の接近してからの左転に問題があったとしながら、「なだしお側」の回避の遅れを事故の主原因としている(Wikipedia)。当然の後付として防衛庁および自衛隊は「再発防止」を唱えたが、学習効果もなく「あたご」は教訓とすることができなかった。「たるんで」いたからであり、「再発防止」の危機管理意識が当座だけの維持だったことを証明している。
危機管理に関してさらに言うなら、1995年の阪神大震災、1997年のロシアのタンカー・ナホトカ丸の重油流出事故、1999年の北朝鮮偽装工作船領海侵犯事件、2001年3月のえひめ丸の米原潜衝突沈没事件、同年5月の金正男不法入国事件、児童に対する大人の虐待を把握していながら、面談の面倒を省いた電話対応等で児童を死に至らしめてしまう何年も続く跡を絶たない児童相談所の無策等々、日本の「危機管理の欠如」を挙げたらキリがない。
昨07年の1年間で「虐待を受けた児童が死亡したケースは35件」(08.2.21/MSN産経≪児童虐待と児童ポルノ被害児童、統計開始後で最悪≫から)だという。このうち何人の死に児童相談所等の「危機管理欠如」が関わったことだろうか。
まだ1週間しか経っていない2月16日に大阪府寝屋川市で起きた21歳の同居男の6歳女児に対する虐待死も児童相談所が女児の顔にアザがあるのを把握していて虐待を疑いながら、保護しなかった結果の危機管理の欠如・危機管理の破綻が原因した事件である。
「危機管理」とは国民の生命・財産を守るために常に最悪の事態を想定してその回避に向けて対処すべく行動することであろう。児童虐待に関して言うなら、想定すべき「最悪の事態」とは虐待死以外にあるだろうか。その回避に備えて行動しながら、虐待死を許してしまう逆説は児童相談所の存在そのものが意味を成さないことを示す。危機管理意識もなくそのことに備えて行動していないとしたら、例え児童相談所の存在に意味はなくても、形式的には存在させ得る。単なるハコモノとして。そういった相談所が多いということなのだろう。中国餃子で保健所がそうであったように。
以上挙げてきた「危機管理意識欠如」事例は「任務外規律」のたるみから生じた米軍の犯罪を除いてすべて「任務内規律」のたるみからの事例である。勿論「任務外規律」のたるみからの犯罪だからと言って、米軍当局の責任が免責されるわけではない。問題としたいのは自衛隊や警察といった組織での下部組織と上部組織共々が緊張感の「たるみ」=「危機管理意識欠如」を共有していたとしても、上部組織の下部組織に対する管理・監督の作用は何らかの形で機能しているはずの場所で「任務内規律」のたるみが生じるということである。米軍当局の直接・間接の目が届かないプライベートな時間・空間での米兵の14歳少女暴行とは訳が違う。イージス艦「あたご」の場合は航行中の艦船という上部組織による下部組織に対する管理・監督の目が直接・間接に届く場所での「任務内規律」のたるみ、危機管理意識の欠如であることを重視しなければならない。
目の届く「任務内規律」に関しては直接にも間接にも監視可能の状態にあるから、もし上部組織による下部組織に対する管理・監督の作用が何も機能していないとなったなら、上部組織は存在していても存在していないが如しの無能集団に堕す。
このような上と下との関係からすると、当然のこと「たるんでる」緊張感=危機管理意識の欠如は下部組織から上部組織に伝染するのではなく、多くは水の流れと同じで上部組織から下部組織に浸透していくか同時進行の形で起こる。
ではなぜ上部組織の下部組織に対する管理・監督の作用が何らかの形で機能していながら、緊張感を欠き危機管理意識を欠如させた「たるんでる」組織行動が起こるのだろうか。「任務内規律」のたるみが発生するのだろうか。
「規律」は上からの指示・命令をなぞって従うだけでは単なる機械的な反復行動で終わる。そのような経緯の「規律」を有効な状態に保つためには常に上からの指示・命令を必要としなければならなくなる。当然のことで例え「任務内規律」であっても、直接的な上からの指示・命令から離れた場所ではなぞって従う基準を失って、指示・命令にズレた行動が生じる。
指示・命令に機械的になぞり従うのではなく、そこに自分の判断を介在させることによって、「規律」は機械的反復行動であることを免れて主体的行動に高めることができる。当然直接的な上からの指示・命令から離れた場所であっても、自分の判断で「規律」に添った行動を取ることができることになる。
「自分の判断」とは自分で考えることを言う。自分の意志・判断を出発点として自らの責任に於いて行動する主体性へと進化していく。それが主体的な「規律」行動となったとき、上からの指示・命令から離れた場所であっても少なくとも「任務内規律」は適切に機能し続けることになる。
イージス艦「あたご」の見張り員が漁船の灯火群を確認していながら双方の進路との関係を把握することを怠ったこと、例え緊急性を感じなくても当直仕官やレーダー担当部局に一応の連絡をすべきを、「万が一の危険性」を省いたこと、緊急の融通性を欠く自動操縦を続けたことは命令・指示によってではなく、そこから離れて自分で判断を下さなければならない場所で適切な行動(=判断)を取れなかった主体性(自分の意志・判断を拠り所として自ら責任を持って行動する姿勢)の不在を示すもので、「主体性」の不在が原因した「任務内規律」のたるみであろう。
上の命令・指示のある場所ではそれが求める行動を忠実に実演できるが、例え任務内であっても命令・指示のない場所では命令・指示に添った行動をよりよく取りえない状況は下の者の行動が命令・指示に対する機械的な対応(なぞり・従属)で終わっていることの証明であり、この構図は判断のプロセスを欠くことによって成り立たすことができる上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動性から出ていると言わざるを得ない。
「任務外規律」のたるみと「任務内規律」のたるみを比較した場合、前者の病弊の方が悪質なのは言を俟たない。その悪質さは学校教師が放課後の校外ではなく、勤務時間内の教室内で生徒に対して働いたワイセツ行為の「規律」が「規律」として生きていない状況になぞらえることができる。
とすると、様々な場面で演じられている日本の「危機管理意識の欠如」は根深いものがあると言わざるをえない。
野党の石破辞任要求に対して、福田首相「そういうことを考えてる状況じゃない。今は原因究明と人命救助をしている。石破大臣がしっかりと対応することが必要だと思う」(08.2.22『朝日』朝刊≪広がる防衛相の辞任論 与党内にも厳しい声≫
漁船の地元に謝罪に訪れていた石破防衛相「家族から『大臣に原因究明、再発防止をやってもらいたい。政争の具にされるのはいやだ』と言われた。政治家として果たすべき責任は何なのかこたえたい」(同『朝日』記事)
福田首相と石破の責任論は松岡元農水相が資金管理団体に多額の光熱水費を計上していた問題が起きたとき、当時の安倍首相が「今後職責を果たすことによって国民の信頼をうる努力をしてもらいたい」と「職責遂行」を責任としたのと同じ論理を踏む。
ところが隠し切れないと見たのか、松岡は死人に口なしの自殺を選択して責任回避に成功した。
原因究明とか職責を果たすとかのこの手の責任論は出来事が起こった後の「責任」のみを問題にするもので、起こしたこと自体の「責任」を省いている。起こしたこと自体の「責任」を曖昧とした場合、職務上、あるいは立場上負うべき任務意識・義務意識が疎かにされることとなって、「責任」は何か起こした後について回る後付の意味しか持たないことになる。
職務上、あるいは立場上負うべき任務・義務を厳格に行う初期的責任を果たしてこそ、後付けの責任をよりよく回避できる。
防衛大臣は陸海空自衛隊に所属するすべての自衛隊員、及び防衛省に所属するすべての職員を管理・統率する責任を与えられ、彼らの如何なる行動に関しても責任を負う立場にいる。当然、防衛大臣の初期的責任は彼ら自衛隊員や省職員が職務上、あるいは立場上それぞれに負うべき任務・義務を厳格に果たすべく管理・監督を行うことなのは論をまたない。
いわばイージス艦の行動に非がある衝突なら、そのような非を生じせしめた行動に対する責任だけではなく、関係者が直後に取った行動に関しても、それが適切でなかった場合、その行動に関しても防衛大臣は管理・監督不行届きの責任を負わなければならない。
2月20日のasahi.com≪イージス艦、回避は衝突直前 報告の遅れは内規違反≫は次のように伝えている(一部引用)。
<■内規は「発生から1時間以内」
海上自衛隊のイージス艦「あたご」の衝突事故で、事故の一報を受けた海上幕僚監部や統合幕僚監部が緊急連絡を定めた内規に基づく「発生から1時間以内の防衛大臣側への連絡」を怠っていたことが19日、明らかになった。石破防衛相への連絡は発生から約1時間半後、福田首相へは約2時間後になり、政府の危機管理体制の甘さが浮き彫りになった。石破氏は連絡体制の見直しを防衛省に指示。重大事案の際、各幕僚長が大臣に直接速やかに報告するよう内規を同日付で改正した。
防衛省によると、内規は04年11月の中国原子力潜水艦による領海侵犯事件後の翌年9月から実施。重大な事件・事故が発生した場合は、自衛隊の各担当部署が防衛大臣と副大臣の各秘書官に発生1時間以内をめどに第一報を伝えることを義務づけている。
だが今回は、海上幕僚監部のオペレーションルームが事故発生から41分後の午前4時48分に連絡を受けたにもかかわらず、大臣と副大臣の各秘書官に事故を伝えなかった。さらに海自から連絡を受けた統合幕僚監部のオペレーションルームも1時間以内の報告義務を怠り、午前5時ごろに同省内部部局(内局=背広組)の運用支援課に伝えたという。
その結果、石破氏への第一報は午前5時40分にずれ込んだ。同課が首相秘書官に伝えたのは午前6時だった。
内局の対応のまずさも挙げられる。運用支援課が事故に気付いてから大臣側への連絡に要したのは約40分。同省幹部は「5分もあれば連絡は可能」としている。同課が石破氏よりも事務次官や局長への連絡を優先していたことも判明した。
内閣情報調査室(内調)に情報を速やかに伝達することを定めた03年11月の閣議決定「緊急事態に対する政府の初動対処体制」が守られなかった疑いも出ている。 >・・・・
各関係部局のこのような度重なる連絡行動の不備・遅滞は管理監督する立場の防衛大臣の管理不行き届き・監督不行き届きに当たり、当然そのことの責任は防衛大臣自らに帰属させなければならない問題であろう。
特に運用支援課が「石破氏よりも事務次官や局長への連絡を優先していたことも判明した」と言う事実は長としての存在を蔑ろにする看過できない行動であり、蔑ろにする状況を許していた管理・監督の不行き届きは防衛大臣としての統治能力の欠如を示すもので、当然のこととして上に立つ資格を持たないことの証明以外の何ものでもない。
さらに言うなら、漁船に気づいたのは衝突の約2分前だとしていた証言を12分前だと訂正したイージス艦の見張り員のデタラメな報告行為、最初は「緑」の灯火しか見えなかったが船体左側の「赤」の灯火と中央マストの「白」の灯火を見ていたと訂正した同じくデタラメな報告行為は自分自身が招いた重大事故を糊塗し、自己責任を回避するためのデタラメな報告行為であることは明らかである。
それが見張り員一人だけのデタラメなのか、イージス艦の艦長たちも加担したデタラメなのか。19日午前4時7分に漁船と衝突後の「2分前視認」を20日夜に「12分前視認」へと認めさせるのに約1日半もかかった対応不備は自分たちも加わったからこそ、その責任回避が生じせしめた時間経過だったのか。
石破は21日に地元を訪問した際に次のように言っている。「まったく自分たちに有利なことを言おうとか、そのようなつもりはまったくございません」(NHKニュース)
だが、イージス艦の乗務員の証言を訂正した態度自体が既に「自分たちに有利なことを言おう」とした行動であって、そのことを無視して「まったく自分たちに有利なことを言おうとか、そのようなつもりはまったくございません」と言うのは乗務員の「自分たちに有利なことを言おう」とした行動とその責任を誤魔化し、隠す発言であろう。
乗務員、あるいは上官も加わって「自分たちに不利なこと」をなお隠しているとしたら、その可能性大なのだが、責任の大きさに比例した責任回避行動の大きさを示すものであろう。
事故を起こした当事者に既に言っている「自分たちに有利なことを言」わせないために石破防衛大臣が責任者としてすべきことは「自分たちに有利なことを言おうとしていないか、精査中です。例え不利なことを言うことになるとしても、すべて事実を話せと言ってあります」であろう。
責任者としてそのような態度を表明していないところを見ると、「まったく自分たちに有利なことを言おうとか、そのようなつもりはまったくございません」と言いつつ、「自分たちに不利」となる状況をなるべく避けつつ、少しでも「有利」となる着地点を探しているとしか取れない。
このことが単なる下司の勘繰りだとしても、乗務員が証言を変えたこと、衝突直前まで自動操縦を続けたこと、義務として定められている右に舵を切る衝突回避行動を取らなかったこと、上部への報告が遅れたことなど職務態度自体に対する行動管理の責任、管理・監督能力の不備の責任は残る。
いわば職務上、あるいは立場上負うべき任務・義務を厳格に遂行させる管理・監督上の初期的責任を自衛隊全体を統括する責任者として果たしていなかった能力不足の問題である。
原因究明後に辞任したとしても、出来事が起こった後のそのような責任の取り方は既に触れたように出来事を起こしたことに対する行動管理の責任、管理・監督能力の不備の責任を曖昧にする。当然、「政争の具」にするなとか「政局にする問題ではない」といった自公側からの批判にしても同工異曲の責任回避であり、責任の曖昧化に向かう。
既にイージス艦側の失態が明らかになっている。失態をつくり出した管理不行き届き・監督不行き届きの責任は時間の経過と共に雲散霧消する。即座の辞任こそが事の重大さを全自衛隊員と防衛省全職員に伝え、防衛大臣の責任の重さだけではなく、自分たちが負っている責任の重さを教える。起こった後の後付の責任ではなく、そのこと以上に起こしたこと自体の責任――職務上、あるいは立場上負うべき任務・義務を厳格に果たす初期的責任の重大さを教える。
石破はその逆のことをしている。責任意識を持ち合わせていないからだろう。
総務省の05年調査で自治体1060病院のうち約7割が赤字状態で、累積赤字額は1兆7820億円に上るという。(07.12.12『朝日』朝刊≪赤字減らし加速へ≫から)
赤字対策としてPFI方式の病院開設が進んでいるらしい。既に3病院が開設し(島根県立こころの医療センターは今年2月1日に開院したばかり)、「計画・建設中」が7病院あると『朝日』記事(08.1.22/朝刊≪時時刻刻 風前 病院PFI≫(下段引用)に出ている。
「PFI」とと何か、「キーワード」として解説してある箇所を最初に引用すると、
<PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)公共施設の建設、維持管理、運営などを民間の資金や経営ノウハウを活用して行う。英国で生まれた手法。事業コストなどが削減され、質の高い公共サービスを提供できるとされる。近江氏八幡市立総合医療センターの場合SPC(大手ゼネコン大林組が出資した特別目的会社)が金融機関から融資を受けて施設を建設。市は施設を借りる。SPCは市から支払われる使用料や運営費の中から金融機関に返済する。>
15年間の維持管理費を含めた総事業費が88億5000万円だという島根県立こころの医療センターは開院したばかりだから経営状況は今後の推移を見守るしかないが、05年開設の高知医療センター(高知市)と06年10月開設の近江八幡市立総合医療センター(滋賀県)は赤字対策の民間活用PFI方式を裏切って多額の赤字経営に陥っていると記事に出ている。
その原因は近江八幡市立総合医療センターの場合は豪華な建物を造って自慢したい・自慢する日本人のハコモノ体質が抜けなかったからなのか、ベッド1床当りの単価が民間病院の2~3倍の3千万円にもなる高額な建設・維持費にあるらしい。それが「想定より10億円多い24億円の赤字計上」という収支となって現れている。
大阪府知事の橋本はハコモノは残ると言うが、累積していく赤字と共に残ったのでは意味はない。
ハコモノを豪華にして、その豪華さに合わせて建物の内部・外部の設備を豪華にすれば、建設費ばかりか、その豪華さに比例して維持管理費も高くつくことになることぐらいは市の役人にしても当初から計算できたことではないだろうか。
建て替え前の旧近江八幡市民病院が30年間黒字経営であったということだが、維持管理費について言えば、旧市民病院時代に委託業者に支払った運営費は6億7千万円だったが、現在の豪華な病院経営では今年度PFIに支払う運営費は2倍強の約16億5千万円だという。豪華な建物を造った当然のツケに相当する。このことは地方に場所柄似合わない立派過ぎる道路を造ったことについても言える「ツケ」であろう。
「ツケ」は建物の豪華さに比例した当然の対価であるばかりか、黒字だった病院経営をわざわざ赤字経営に転落させるための豪華病院化だったと言われても仕方があるまい。その方便にPFI方式を利用したに過ぎない。
また、「清掃や給食など外部委託が可能な業務をSPC(建設・維持管理の特別目的会社)が一括受注すれば、それまでの個別契約に比べてコストが削減できるというのが病院PFIの理念だ」として、それを常識としていたようだが、これは事実に反する真っ赤なウソだと見破るぐらいの世間知を持ち合わせていなかったらしい。
外部委託業務はSPCが直接請け負うわけではない。給食は給食、清掃は清掃と分けて、それぞれの専門会社に下請に出して賄う。当然そこにピンハネの仕組みが生じて、直接外部委託する場合よりも経費が高くつくことになる。建物や設備にカネがかけてあるほど、維持管理費が高くつくのは当然だが、当然とする固定観念がより多額のピンハネを容易にしやすくなって、そのことが逆にピンハネを隠す装置となる。旧市民病院時代の個別契約が市長や市会議員等との癒着や圧力による随意契約でなかったなら、一括契約との金額差は歴然とした数値で出てくるに違いない。
旧市民病院時代に委託業者に支払った運営費は6億7千万円だったのに対して今年度PFIに支払う運営費が2倍強の約16億5千万円だという金額差にもその一端が現れているはずである。
今年の2月1日に開院したという精神科の島根県立こころの医療センターは県農業試験場桑園跡地に建設したと言うことだが、その敷地面積は約42,000平方メートル。そこに3階建て・約1万6100平方メートルの病院と、入院した子どもたちが学ぶ平屋建て・約900平方メートルの小中学校の分校の構成だという。病院の建坪自体を仮に1万平方メートルとしたとしても学校と合わせて1万900平方メートルとなって、残りの約3万平方メートルが病気治療のための花作りや野菜作りといった耕作地、緑地や散策路その他のいわゆる庭に相当する面積であろう。
その広さは東京ドームの広さが約216メートル四方の46656平方メートルだから、約3分の2の広さとなる。治療環境としては最高のものとなるが、経営環境としてはそれだけ維持管理費がのしかかってくる。
HPを見ると、「施設の維持管理等業務及び職員宿舎の保守管理業務」をSPCへの委託業務としているが、その具体的な内訳が次のようになっている。「施設の清掃業務」・「環境管理」・「植栽管理」・「保安警備」・「患者搬送等業務」・「大規模修繕業務」・「患者利便施設運営」
庭相当の場所の管理は「環境管理」・「植栽管理」といったところになるのだろうが、SPCが造園会社等に下請けさせ、それが競争させる形の複数者競争入札によって決めたとしても、競争させることで抑えた単価は抑えた分維持管理費に反映されるわけではない。維持管理は当初契約で単価が設定されて契約済みとなっているからだ。入札上限価格は当初から2割~2.5割程度のピンハネ分を差引いていて、さらにそこから下請けに出す単価を如何に抑えるかがSPC自体の経営の見せ所となる。予定ピンハネ分+抑えた単価分はSPCの利益となる。
下請会社が企業努力で入札単価を抑えただけなら、下請いじめは起きない。元請会社が当初からピンハネ分を差引いて入札上限価格を低く設定していて、不当な線引き内で無理な競争を強いられるから、下請いじめとなる。下請会社は不当との思いはあっても、仕事欲しさから我慢することになる。当然手抜き工事に至る場合も生じる。
自治体が新たに病院を建設する場合、民間のカネを当てにしてPFI方式を採用するのもいいだろう。しかし自治体1060病院のうち約7割が赤字状態である現実を考えるなら、医療業務自体が苦しい経営を強いられている状況下にあると言うことだから、医療業務自体の赤字をカバーする経営の発想を持たなければならないはずである。
ところが、建物・設備を豪華にして逆に維持管理費が高くつき、赤字をカバーするどころか、逆に赤字を広げることになっている。それが近江八幡市の場合は「想定より10億円多い24億円の赤字計上」という場面なのは断るまでもない。
医師や看護師の質や量の確保の問題、政府予算を圧迫していく医療保険の問題、そのことの反映としてある診察料や入院費の問題、そして施設の維持管理の問題等を考えたとき、これまでのように病院を病院単体で経営していくのは無理があるのではないだろうか。
例えば同じ民間のカネと運営ノウハウを活用するPFI方式で病院を建設・維持管理したとしても、病院単体ではなく、商業施設や居住施設(マンション)を併設して、売りマンションの売上げて建設費の補填、商業施設のテナント料、あるいは居住施設の一部賃貸部分の賃貸料で病院経営の赤字を補填していく方式にしたらどうだろか。
5階建ての病院を建設するとしたら、病院の建物を背後から覆う形で思い切って20階建て、30階建ての建物を建て、1階から3階までぐらいを商業施設としてテナントする。病院施設を除いた4階から上は売りマンションと一部賃貸マンションとする。病院との出入口はノロウイルス等の細菌問題を防止するために別とする。
商業施設は建物建設前にスーパーやコンビニ、百円ショップ、小さな映画館、書店、喫茶店、ラーメンショップ等、客数が多く望める店を対象に募集する。マンションの一部賃貸部分はワンルームとし、独身の看護師や医者を対象に安く賃貸する。彼らは独身であるゆえに階下の商業施設を出会いの場とする恋愛や結婚を目的とした一般の若い男女を集める魅惑的な誘蛾灯となってくれるだろう。中には一緒のマンションに住みたいと一部屋買う男女も出てくるかもしれない。
とにかく病院経営の赤字を一般会計から補填する雪だるま式に赤字を膨れ上がらせていく方法ではなく、別の商売で補填していく赤字を出さない方法を取らなければ「自治体1060病院のうち約7割が赤字状態」は解決しないのではないか。病院経営以外の肝心の商売とマンション経営が赤字に陥ることとなったなら、PFI方式が利点とする民間の経営ノウハウに欠陥があったということだろう。
この商業施設・居住施設併設のPFI方式病院建設は自治体の図書館や美術館経営にも応用できると思うが。
* * * * * * * *
≪時時刻刻 風前 病院PFI≫
<キーワード・PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)公共施設の建設、維持管理、運営などを民間の資金や経営ノウハウを活用して行う。英国で生まれた手法。事業コストなどが削減され、質の高い公共サービスを提供できるとされる。近江氏八幡市立総合医療センターの場合SPC(大手ゼネコン大林組が出資した特別目的会社)が金融機関から融資を受けて施設を建設。市は施設を借りる。SPC橋から支払われる使用量や運営費の中から金融機関に返済する。
民間活用し効率化のはずが大赤字
民間の資金と知恵を社会資本の整備に役立てようと始まったPFIが、病院事業で苦境に立っている。滋賀県近江八幡市では21日、全国で始めて設計から運営までPFI方式で実施した病院経営をめぐって、「契約解除」案が浮上。病院では初事業だった拘置しでも、契約解除の言葉が飛び交う。導入から8年余り。區にも事業の透明さが必要だとし、改善に乗り出す。
第一号で契約解除案
「PFIという外国の呪文に、近江承認のそろばんを忘れた」
経営悪化が明らかにんった近江八幡市立総合医療センターについて検討委員会(長降委員長)は21日、契約医解除も視野に入れた厳しい「提言」を冨士谷英正市長に答申。PFIを導入した市の姿勢を批判した。
同センターは、PFI方式により06年10月開業。大手ゼネコン大林組が出資した特別目的会社(SPC)が病院設計から手がけて建設、所有。
開院後は医療以外の給食や清掃などの業務を一括して受注。30年間の長期契約で、市側は計56億円のコスト削減が可能と試算。前市長の03年に時代に契約された。
問題は足元の収支と資金繰りの悪化だ。医業収支の減少などで、実質的な初年度である07年には、想定より10億円多い24億円の赤字を計上。今年度末には、つなぎ資金8億円の一時借り入れ余儀なくされる。建て替え前の旧市民病院は30年間、黒字経営だった。
提言は、PFI導入にあたって、事業計画そのものの精査が甘かったと指摘する。
その象徴が、豪華な建物。ロビーは吹く抜けで広々としており、床はカーペット敷き。壁は高級ホテルのような木目調。ベッド1床あたりの単価は焼く3千万円で、民間病院の2~3倍だという。
また市によると、SPCに今年度支払う運営費は約16億5千万円。旧市民病院時代に委託業者に支払った運営費は契約6億7千万円だった。「高すぎるのではないか」と冨士谷市長。
こうした見方に、SPC側は真っ向から反論する。昨年12月に検討委からのヒアリングに応じたSPCの社長は、「建物の概要や維持管理・運営の内容、レベルはすべて姜が決めること。それに対して我々(複数の民間企業)が提案し、官が選考される」「今になって(契約額が)高いというのはおかしな話」と言い切った。また、医療業務は市が運営しているとし、「収入減はSPCの関係ないところで起こったとした。
検討委の長委員長は、「美容院経営は国の医療せいdふぉに影響されやすい」として、長期契約のPFIにはなじまない、と分析している。
高知でも不満噴出
近江八幡より1年半早くPFI方式で開業した耕地医療センターについても、不満の声が高まっている。
同センターの06年度の赤字は22億円に迫り、経営計画より4億円以上多い。18日に開かれた高知県・高知市病院企業団議会議員協議会は、「契約解除も視野に入れる必要がある」と、県や市の議員から厳しい批判が相次いだ。
批判の矛先は、オリックスが構成団体のSPC。調達を担う材料費の医業収益に占める割合が、、提案で示した数字を大きく上回っているためだ。「オリックスが契約を取るために、低めの低めの数字を設定したならおかしな話だ」という声や、業務提案書の提出を求める声も上がった。県と市の議会も昨年12月、経営改善を求める決議を全会一致で可決した。
事業の透明化 国が勧告
PFI事業は、バブル崩壊後の景気対策として橋本政権下で始まった。議員立法で推進法案が成立し、99年秋に施行。さらに「官から民へ」をスローガンにした小泉政権で導入件数が急増。内閣府によるとスポーツ施設や刑務所など、計画中を含めて約290件の事業が動いており、うち160余の事業でサービスの提供が始まっている。
導入が進む背景には、国や自治体の財政難がある。PFI方式をとれば、公共サービスをより安く効率的に実現するというのが、売りだった。
病院事業で開業ずみは3件。うち2件で契約見直しの動きが起きたことは、行印PFIの課題を浮き彫りにしている。
一つには、公立病院の経営そのものの厳しさだ。医師不足や診療報酬の引き下げで約千の自治体病院の収支は急速に悪化。総務省は昨年12月、公立病院の改革ガイドライン(指針)をつくり、各病院の「黒字達成」を求めた。
国は自治体に対し、新たな財政健全化策を求めており、病院の赤字を自治体本体の赤字と連結した決算を対象にした「査定」を来年度から始める。自治体にとって、財政指標の改善h、今すぐ達成する必要がある。
一方、PFI導入による財政的なメリットは30年など長期に亘る契約期間の終了後に判明する。そんな長期のメリットより、赤字団体への転落を免れるには、「目の前の赤字改善のほうが先」という懐事情が、自治体を左右する。
二つ目の課題は、自治体などの事業の発注元と、受託する特別目的会社(SPC)と9の関係だ。
清掃や給食など外部委託が可能な業務をSPCが一括受注すれば、それまでの個別契約に比べてコストが削減でき、経営効率化できる、というのが病院PFIの理念だ。
だが、近江八幡市では「業者との個別契約の方が、要望を直接伝えられて効率的」との声が上がった。高知でも、自ら提案した仕事の水準を満たせないSPCへの不満が出ている。。公共事業アドバイザーの熊谷弘志さんは、「PFIでは、自治体が通常の起債で調達するより高い金利の民間資金を使う。その差額を上回るメリットがないと、税金のムダ遣いになる」と話す。
総務省行政評価局が今月11日に発表した政策評価では、調査した146事業のうち、コスト削減の根拠を公表していたのはわずか1件。「事業の客観性・透明性が必要」と勧告した。内閣府は今夏にも、導入の際の手本にと、契約書のひな型や解説を示す予定だ。>
昨19日夜7時からのNHKニュースでの民主党と全国知事会共催の道路特定財源の是非をめぐる公開討論のコーナー。
菅直人民主党代表代行「道路特定財源というものが国土交通省と場合によっては道路族と言われるような人が、つまりその力によって配分していて、公平・公正なルールがない形で来ている、という、そういうことの現れではないか。公平・公正、透明性の高い形で決めるルールをですね、一緒になって考えてもらいたい」
「道路族と言われるような人」とは菅直人が自民党の古賀誠と二階を引き合いに出して「顔を見るからに道路利権だけは放さないという決意が表れている」と以前発言していた、いわゆる「利権顔」した面々を指すのは間違いない。道路利権で地元のボスにのし上がり、当選回数を重ねて自民党のボスの列に加わった連中のことである。この手のボスに対してボス度が高いほど周囲はペコペコと頭を下げる儀礼を同時進行させながら「センセイ、センセイ」と呼ぶ習わしの待遇を与えてボスをボスたらしめている。たらしめられているセンセイ方はハッタリだけで持っている高待遇だから、悪い気分はしないに違いない。
そのまんま東・東国原「まずは特定財源をきちっと確保して安定的にですね、あのー、この、将来亘って、エー、確保しないと、道路っていうのは安定的、継続的にできないと。一般財源化するのであれば、車を所有、あるいは使用する人だけじゃなくて、一般から広くもらわなければいけないです。つまり、課税根拠がなくなる」
東国原の言っているように確かに「課税根拠がなくなる」。だからと言って、「一般から広くもらわなければいけない」ということは決してない。主として道路から利益を受けるのは今後とも車使用者であることは変わりはないのだから、応分の受益者負担は止む得ないし、不足分は道路建設で今まで負担はせずに受益一方となっていた道路族が政治献金で、道路官僚が天下りで、ゼネコンが談合で得ていた不当利益を排することと、何よりも不必要に豪華な道路を造るムダを排する絞りに絞った道路建設計画を初めとしてすべての予算のムダを省く予算の有効化の遣り繰り算段の創造性を先ずは身につける訓練を行うべきだろう。
何しろ予算のムダ遣いと公金の個人的流用は日本の政治家と官僚のメタボ体質となってまでいるのだから、その体質が持つ毒性を対外に排出してスッキリとスリム化しなければ何も始めまらない。自民党の利権顔だって、リメイクすることはできまい。
麻生福岡県知事「民主党さんの案はですね、一見よさそうに見えるんですけども、道路体系としてはですね、これはもう一番基幹のところはやらないという予算構成になってしまう。これはですね、対策になっていない。是非私どもはやはり暫定税率ぐらい維持させてもらいたい・・・・」
「これはですね」、具体的な説明「になっていない」。京都大学を卒業しているなら、もう少し具体的、明確に議論を展開してほしい。
東国原「菅さんはよく、道路はできたけど、病院に医師がいなくなったら、いないんだったら、道路を造る意味はないとおっしゃいますけども、違うんですよ。医師がない所から医師のある所に患者を運ぶために道路は必要だっていうのが観点なんですよね、私たちは」
これは東国原が宮崎県内で地元勢力を集めて開催した「暫定税率廃止に断固反対」の総決起大会(15日)で主張していたことの繰返しである。
「ガソリンを25円下げることの経済効果を野党さんはあまりおっしゃっていない。野党さんは道路ができてもお医者さんがいなければ何もならないとおっしゃいますが、お医者さんのいる遠い所からいない所へ運ぶために道路は必要なんですよ」
16日の当ブログ記事≪道路特定財源一般財源化は日本の緩んだ政治・緩んだ官僚体制を目覚めさせる電気ショック≫でも書いたことだが、東国原が言っていることは道路建設最優先政策であり、病院の過疎化・医師の過疎化容認政策の主張であるとも言える。そうでなければ、「医師がない所から医師のある所に患者を運ぶために道路は必要」だとする正当性は成り立たなくなるからだ。
逆説するなら、病院・医師が充実していれば、患者を運ぶ必要はなくなって、道路も必要でなくなるという奇妙なことになる。
地方自治体の長として道路建設を必要としたとしても、病院と医師の確保も同時進行で進めなければならない政策であろう。「医師がない所から医師のある所に患者を運ぶために道路は必要」とする論法は詭弁に過ぎない。
ここでお笑いネタを一つ。
救急隊の隊長「患者を乗せて病院に連絡を次々と取ったのですが、連絡を取るだけで3つの病院から断られてしまったから、直接ぶつかるしかないと思って押しかけたのです。でも、外科専門の医師がやめていってしまって対応できない、緊急手術中で受け入れることできない、当直医が専門外だから、引き受けるわけにはいかない、看護師不足で救急患者の受け入れは当分休ませてもらっているといった理由で7つの病院から断られて、宮崎県内高速道路を隅々まで走った挙句、やっと11箇所目の病院でオーケーを貰ったのですが、治療遅れで助かりませんでした。でも、利権顔した道路族のセンセイに高速道路をお造りになっていただいたお陰で一般道路を走るよりも11箇所目の病院に到着するまでに1時間は早く着くことができました。そうでなかったら、救急車の中で息を引き取られることになったと思います。治療が間に合わなかったとは言え、病院のベッドの中で息をお引取りになられたことは患者さんにとってせめてもの幸いだと思います。誰だって搬送途中の救急車の中で息を引き取りたくはないでしょうから。何もかも利権顔した道路族センセイのお陰です。今後とも医師がない所から医師のある所に患者を運ぶために高速道路を活用したいと思います。宮崎県内で手当てできなければ、高速道路さえつながっていれば鹿児島までだって長崎までだって、九州中どこへでも走らせます」
東国原「民主党さんは対案を出してほしい。具体的な対案を出していないです。我々に見える案を出してほしい。そしてそれを議論の遡上に載せてほしい」
女性アナの解説「東国原知事は記者会見で菅代表代行とは地方の道路整備が遅れている現状認識では一致できたと思う。その一方で民主党は道路特定財源を廃止した後、具体的な道路整備計画を示していなく、今日の討論に参加してみても、信用できないという思いは変わらなかったと述べました」
菅直人(記者会見)「私たちはこの問題で国民に信を問うだけの価値がある問題だと思っておりますけども、国会での議論もさらに推し進めたいと、こう考えております」
高速道路が走っている地方の病院に働く医師・看護師は仕事が過酷であったり給与が安かったりしたら、安心してより待遇のいい都市の病院に移ることができる。病院不足・医師不足・看護師不足を高速道路が患者搬送の役目を担って補ってくれるからだ。
取調べ刑事が被告の足を掴んで親族や職場同僚の名前を書いた紙を無理やり踏ませる「違法有形力行使」を犯してまで有罪とすることができる自白を引き出そうとした2003年の鹿児島県議選公選法違反事件。鹿児島地裁判決は無罪を言い渡している。
どんな「踏み字」だったのか。「父親の名前 おまえをこんな人間に育てた覚えはない」
取調べ刑事が自分はまともな人間に育っていると思っていたからこそできた「違法有形力行使」だったに違いない。
「孫の名前 早く正直なじいちゃんになってください」
実際に孫に正直でないと思われていて、正直になってくださいと言われたとしたら、泣かせる話だが、言われた方は形無しで豆腐の角に頭をぶっつけて自殺でもするしかない。事実は違って「落とす」目的の作り話に孫を持ち出す創作意欲には涙ぐましい努力まで窺えて頭が下がる思いがする。
お笑いタレントが十二分に使えるネタでもあるが、偽りの方法で「正直」な人間だと認めさせるゴマカシにしても認めるゴマカシにしても嘘発見器が逆立ちしても敵わない巧妙な逆説性を漂わせている。果たすつもりもないウソの公約で自分を力ある政治家だと演出できる政治家の巧妙な逆説性といいとこドッコイの勝負だろう。
鳩山法相は2月13日、法務省で開かれた検察長官会同(会同=会合のこと)の席上で「私は冤罪と呼ぶべきではないと考えている」と発言。冤罪の定義は「無実の罪で有罪判決を受け、確定した場合」であって、裁判の結果無罪判決を受けた場合は「冤罪」に当たらないと記者会見で自ら解説している。
有罪か無罪かは裁判が決定する。罪が決定する裁判前の捜査の段階で警察は有罪と決めてかかって、有罪を前提に無罪の可能性を一切排除して有罪のみに導くべく「踏み字」といった「違法有形力行使」まで用いた。
警察は捜査の段階で裁判所の役目まで担う越権行為を侵していたのである。しかも有罪のみに目を向けた断罪行為を行っていた。これを以て冤罪と言わずに何と言ったらいいのだろうか。警察が犯した「冤罪」なのである。鳩山法相は警察は冤罪を犯さない機関であり、裁判所だけが冤罪を犯すと思っていたようだが、単細胞に出来上っているからだろう。そのようにも単細胞の人間が法務大臣を奉職している逆説性も日本ならではの物凄さがある。
多くの冤罪は警察と裁判所の共犯によって引き起こされるが、今回の例は警察が犯した冤罪を裁判所によって阻止され無罪を獲ち得たケースと言える。冤罪とは簡単に言うと、罪のないところに罪をつくることを言う。
警察が犯した冤罪として日本の冤罪史に永遠に名を残すべきはオウム真理教が1994年に長野県松本市で猛毒のサリンを散布した事件の犯人を被害者でもある河野義行氏と断定、有罪を絶対前提に無罪の可能性を一切排除した違法捜査を挙げることができる。
この冤罪には殆どのマスコミが加担し、煽りさえした。真犯人は河野義行だと有罪を絶対前提に無罪の可能性を一切排除した報道を率先垂範してタレ流し世間に流布させた。言ってみれば冤罪は裁判所や警察といった国家機関だけが犯すのではなく、民間も犯す特筆すべき例の一つに挙げることができる。
松本サリン事件の真犯人に祭り上げられた河野氏は翌1995年3月に地下鉄サリン事件の発生を待ってやっとのことで冤罪から解き放たれることとなった。オウムが松本サリンのほとぼりが冷めるまでと息を潜めていたなら、警察の冤罪は裁判所の冤罪を巻き込み、有罪判決を受けた可能性すら考えることができる。勿論マスコミは裁判所・警察の冤罪に追随した行動を取っただろうということは間違いなく言える。
オウム真理教あるいは「アーレフ」は現在でも団体規制法に基づいて公安当局によって危険団体とされ警察の観察下にあるが、まだ法を犯していないのに何をするか分からないという不安だけで、その対策として日本国憲法が定める「居住の自由」に反して日本各地の自治体が行っていた信者の転入届等の住民票の不受理は最高裁が違法とする判断を下しているが、人を見たら泥棒と思え式のオウム信者と見たら誰でも凶悪犯罪者だと思えの地方自治体による、あるいは地域住民による一種の「冤罪」行為ではないだろうか。
(【日本国憲法・第22条】「居住・移転及び職業選択の自由、外国移住及び国籍離脱の自由」――(1)何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 (2)何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。)
「公共の福祉に反」した場合のみ、居住の自由は制限を受ける。
オウム信者に対する上記経緯はかつての朝鮮人だから何をするか分からないと警戒した日本人の朝鮮人に対する、あるいは黒人だから危険だとする白人の黒人に対する精神的な「冤罪」に対応している。
複数の人間を一個の邪な人格に一括りし、その物差しをすべての人間の人格に機械的に当てはめる。このことは冤罪以外の何ものでもない。あるいは親が殺人を犯すと、その子供まで「人殺しの子」と同じ人格を当てはめる冤罪と同根のものであろう。
かつての日本人が朝鮮人を日本人よりも劣る人種としていたのも同じ類の「冤罪」である。今もそう信じている日本人が相当いるのではないのか。
裁判所や警察、あるいはマスコミだけではなく、一般的な多くの人間があらぬ罪をなすり付けたり、ありもしない人格をなすり付けたりする「冤罪」を犯す状況から見たら、鳩山法相の「冤罪ではない」発言を批判してばかりはいられない。
沖縄の少女暴行事件を受けて(容疑者は否認している)、政府は基地外居住の米兵に対して居住の条件や新たな基準を設ける厳格な制限と基地内居住米兵に対しても夜間外出制限の厳格化を要求しているそうだが、これもオウム信者に対する住民票不受理に相当する米兵すべてを性犯罪者だと一括りした「冤罪」措置に当たらないだろうか。
2月18日(08年)の東京新聞朝刊インターネット記事≪出口なき怒り・不安 少女暴行1週間 逮捕米兵なお否認≫が次のように伝えている(一部引用)
<米兵が集まるクラブの案内係の女性(65)は「今日は日本人の女の子も少ない」と話したが、通りで米兵と声を交わす二人の二十代女性は「怖いことなんてない。遊び方を知ってれば事件に遭うことはない」と素知らぬふり。>
「今日は日本人の女の子も少ない」は普段はそれなりにいることを示している。米兵との「遊び方」がセックスをするところまでの若い女性がいるとしたら、そのことへの期待からその意図のない若い女性であっても時間と場所、あるいは服装で対象と判断され、それ相応の誘いを受けることになる。見知らずの相手からの誘いはその応諾の度合いで関係の度合いまでも推測されて、度合いに応じた期待と準備行動へとつながっていく。例え今回の少女がオートバイに乗っただけのことでセックスまでいくつもりはなかったとしても、声をかけられてオートバイに乗ったことで相手に期待を持たせた事実は消しようもなく、期待に形だけでも応える女性が存在する限り、米兵全体を性犯罪を犯す集団だと一括りした米兵のみに向けた判断と予防措置は彼らに対してある意味「冤罪」を犯していることにならないだろうか。それも正義感を振りまわしながらの「冤罪」となっている。不公平なことだと思うのは私一人なのだろうか。
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≪出口なき怒り・不安 少女暴行1週間 逮捕米兵なお否認≫(東京新聞)
<沖縄の中三少女暴行事件は十七日で発生から一週間。県議会と十六市町村議会による抗議決議など沖縄で広がる反発に、日米両政府は事件再発防止を模索するが、県民の怒りと不安を収める有効な手だては見えてこない。逮捕された米兵は依然容疑を否認。県警が車や衣服を押収し、裏付け捜査を進めている。
事件は十日夜発生。実効性のある対策を求める沖縄県に対し、政府は十四日、基地周辺の繁華街への監視カメラ設置検討を表明した。
だが基地の街の飲食業者らは「警察官やMP(米軍の憲兵隊)がかなりの数いても、米兵のいざこざは起きている。ビデオが抑止力になるとは思えない」「防犯カメラより米兵の上官にもっと巡回させた方がコストもかからず効果的では」と懐疑的だ。
在日米軍は綱紀粛正のため一カ月以内に教育プログラム見直しなどの結論を出す方針で、県も新たに設置する作業チームで米軍への要請を強めていくが、具体策につながる見通しは立っていない。
沖縄では米兵絡みの事件などに超党派で数万人規模の抗議集会を開いてきた“伝統”がある。一九九五年の米兵による少女暴行事件では、県民大会が日米両政府を米軍普天間飛行場返還合意へと動かした。昨年九月、沖縄戦の「集団自決」をめぐる教科書検定に抗議して開かれた大規模な大会も県民の記憶に新しい。
しかし今回は県議会の与野党間に、米軍再編問題をめぐる思惑の対立があり実現は難しい状況。教科書問題への対応で、今年に入り表面化した与野党間の亀裂も微妙に影を落としている。野党側は水面下で超党派の大会開催を働き掛けていくが、仲井真弘多知事も「いろんな意見が出てきてから判断したい」と慎重だ。
基地の街米兵の姿少なく 沖縄・ゲート通り
中三少女暴行事件で米海兵隊員の逮捕後、初めての週末を迎えた基地の街。沖縄県沖縄市の「ゲート通り」では十六日未明、前日がペイデー(給料日)だったにもかかわらず、事件の影響から米兵の出足は鈍った。
「見ての通りさ」。ライブハウス「JET」店内に米兵の姿は少ない。「いつもなら海兵隊も多いけど、今日は空軍だけだね」と古堅喬オーナー(57)。「事件のたびに客足が遠のくから経営に響くよ」と首を振った。
ゲート通りには、週末を楽しもうと繰り出した米兵グループの姿も見られたが、地元タクシー運転手(64)は「いつもの週末の半分ぐらいだね」。傍らを三人一組の見回り米兵が、肩を怒らせ厳しい表情で通り過ぎた。
アーケードの入り口で話し込む二十代前半の三人の海兵隊員。「ペイデーだから、ほんとならもっと大勢出歩いてるはず」と事件の影響を否定しない。二週間前にイラクから戻ったという三人は「事件が事実なら許せないね」と口をそろえた。
米兵が集まるクラブの案内係の女性(65)は「今日は日本人の女の子も少ない」と話したが、通りで米兵と声を交わす二人の二十代女性は「怖いことなんてない。遊び方を知ってれば事件に遭うことはない」と素知らぬふり。
暴行事件の被害少女が声を掛けられた胡屋十字路付近では、米兵の車とタクシーが衝突。警察官に米軍の憲兵隊も加わり事故処理に当たった。タクシー乗客の男性の怒鳴り声が通りに響いた。>
合理的判断能力を欠いた単一民族主義者・日本民族優越主義者の育みには役立つ
新学習指導要領案が文科省によって発表された。文科省の「教育基本法の改正に対応した学習指導要領案の主な改訂点」を読むと、冒頭は次のような記載となっている。
<●学習指導要領(冊子)の冒頭に「教育基本法」(全文)、「学校教育法」 (抜粋)を収録。
●学習指導要領の「総則」の冒頭に、「各学校においては、教育基本法及び学校教育法等に示すところ
に従い、適切な教育課程を編成するものとする。」と規定>し、<学習指導要領が教育基本法等
の理念を踏まえたものであることを明らかにする。>としている。
いわば、前首相の安倍国家主義教育の始まりの宣言である。下記下線部分・太字部分を見ても分かるとおりに、授業を「道徳色」で染めようとする意図がミエミエで、すべて安倍国家主義者が望んだ教育形式だからだ。不足部分は「道徳教育の教科化の見送り」のみである。反対を和らげるために一歩ずつ前進ということなのだろうが、一気に推し進めたい安部晋三にとっては「福田と渡海めっ、何をやってるんだ。単一民族主義者の伊吹が文科大臣だったらよかったのに」と自らの国家主義が完璧には満たされなかった悔しさのあまり歯軋りし、地団太踏んでいるに違いない。また下痢を起こさないように。
改定教育基本法が掲げる「教育の目標(第1章第2条)」の規定を新学習指導要領案でどう指針づけるかは次のように提案している。
<・幅広い知識と教養、豊かな情操と道徳心、健やかな身体(第1号関連)
・「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和を重視。
・学校教育全体を通して、言語活動や体験活動、道徳教育、体育や食育を充実。
・道徳教育について、目標に、伝統や文化の継承・発展、公共の精神などを規定すると
ともに、道徳の時間を要(かなめ)として学校の教育活動全体を通じて行うこ とを明記。
・発達の段階に応じた指導内容、例えば、挨拶、規範意識、自他の生命の尊重、社会の形成への主体的
な参画などを具体的に明記し、指導内容を重点化するとともに、体験活動を重視。
・先人の生き方、自然、伝統と文化、スポーツなど児童生徒が感動を覚えるような魅力的な教材を
開発・活用。
・「道徳教育推進教師」を中心とした指導体制を充実。
各教科等においても、道徳の教育内容を適切に指導することを明確化。>
「道徳教育推進教師」まで置いて「道徳の時間を要(かなめ)」とした教育だというから復古主義的道徳教育の徹底と言える。全国的な統括者を置くとしたら、エセ品格者藤原正彦がふさわしいのではないだろうか。
このような「道徳」偏重を見ると、新学習指導要領案の狙いは改定教育基本法「教育の目標(第1章第2条)」の内、「五」の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」の中で特に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とした部分の「愛国心規定」を中心に据えた「学習指導」だということが分かる。
大体が後半部分の「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」は前半の「愛国心教育」が突出している印象を避ける意味からのバランス上の付け足しに過ぎないのだから、勢い道徳教育を中心に据えた愛国心教育に向かうのは必然的な趨勢と言える。いわば道徳教育と愛国心教育を響き合わせている。
これはなぜかと言うと、日本の国家主義者たちが戦後レジーム以前の日本国家(=神武建国以来から戦前までの日本)を天皇の聖徳(せいとく)によって治められた道徳国家と位置づけているからだ。天皇の「聖徳」と侵略戦争、日本軍強制の従軍慰安婦制度、同じく日本軍強制の沖縄集団自決、中国・朝鮮人強制連行、南京虐殺とその他の日本軍虐殺・虐待等々は矛盾する事柄だが、「そんなの関係ねえ、オッパッピー」なのだろう。とにかく合理的判断能力を欠いてまでして日本を美しい無誤謬の国家・民族としたいのだから。
合理的判断は公正・的確な客観的認識能力が保証する。にも関わらず、「伝統や文化の継承・発展」にしても、「先人の生き方、自然、伝統と文化、スポーツなど児童生徒が感動を覚えるような魅力的な教材を開発・活用」にしても、上記能書きの中の「魅力的な」という言葉に象徴されているように、あるいは国家主義者たちが好んで使う常套句の「日本の伝統」とか「伝統を守る」といった言葉に集約されているように、負の歴史・負の伝統・負の文化を排除した「いいとこ取り」が許している公正・的確に反する非合理的判断が仕向けた「学習指導」なのは明らかである。
歴史上こういう立派なことを成し遂げた日本人がいた、日本には過去の歴史でこのような立派な業績があった、この地域にはこのような素晴らしい伝統が生きづき、文化が受け継がれている、あの地域には世界に例を見ない優れた先人の生き方が伝統として根付いていて地域住民の生活の中に溶け込み、生活の中で自然と後世に伝えられてきた、みな規律正しく品格を持って正直に正しく生きてきたから自分のものとすることができた歴史と伝統と文化なのだといった日本の歴史、伝統、文化それぞれの「いいとこ」だけを取って教える。
これは安部「美しい国づくりプロジェクト」の趣旨にそっくりと添わせることができる。<日本の「薫り豊かな」ものや途絶えてはいけないもの、かつては美しかったが美しくなくなってしまったものを見つめ直し、あらゆる世代が日本の「良さ、素晴らしさ」に気がつくこと。>、<一人ひとりが、「美しい日本づくり、美しい自分探しへの旅」を始め、その思いをきっかけに自らが行動するような身近な視点での取り組みを推進すること。その結果、描き出されたものを「美しい国、日本」として皆で共有し自覚し合うこと。>
両者とも日本の歴史に関しても伝統に関しても文化に関しても「いいとこ」への視点しか持たず、負の場面を一切排除している。このような経緯は当然のこととして合理的判断能力の欠如への一里塚とならないでは済まない。
日本人が自国の歴史・伝統・文化を取り上げるとき、「優秀」あるいは「美しい」をキーワードに語る傾向は以前からのものだ、教育現場に於いてもそれは変わっていない。同じ日本人だからだろう。当ブログ06年6月22日記事の≪愚かしいばかりの〝愛国心〟教育≫で6月16日NHK放送の『どう教える愛国心』を取り上げたが、西東京市の向台小学校6年生の教室で若い教師をサポートしていた校長が生徒に次のように質問する。
「自分たちが住む日本のよさは何だと思いますか?僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」
校長の「いいとこ取り」の誘導を受けて生徒たちも「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」とか、「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」、「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」と日本の「いいとこ」のみに目を向けた「いいとこ取り」の答を出している。
だが正直な日本人ばかりだとしたら昨今の食品偽装・食品偽造は説明不可能となるし、官僚の談合・公金の私的流用・ムダ遣い、特に社会保険庁職員の不正は説明つかなくなる。政治家の族益行為も口利き行為も説明がつかない。
いわば「いいとこ取り」の愛国心教育、それと響き合わせた道徳教育は一方で合理的判断能力を欠いた思考能力を育む装置となり得ることを証明している。
経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査にしても昨年4月に行われた文科省の小学校6年生と中学校3年生を対象とした全国学力テストにしてもそこそこの成績を収めた「基礎学力」と比較して「考える力(=思考能力・応用能力)」が10ポイントから20ポイント劣るという結果に既に現れている合理的判断能力の欠如なのである。
それを「道徳教育推進教師」まで置いて現行教育以上に「道徳の時間を要(かなめ)」とした「いいとこ取り」だけの「愛国心教育」、「道徳教育」を刷り込んでいけば、合理的判断能力が育つのをこれまで以上に堰き止める役目しか果たさないのは目に見えている。
そのような「愛国心教育」、「道徳教育」の刷り込みが赴く先は、暗黙の日本民族優越主義であり、単一民族主義なのは間違いない。「いいとこ」だけを教えられ、日本の歴史や伝統・文化の持つ負の場面、負の価値を教えられないからだ。負の方面の知識がないままに育つからだ。日本人が美しいばかりの人間ではなく、醜い側面を多分に持った人間でもあることの教育の機会を与えられないからだ。
結果として中曽根や伊吹や麻生や鈴木宗男や平沼の後に続く日本民族優越主義者やイコールとしてある単一民族主義者を次々に生むことになるのだろう。
伊吹「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国で、悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」
麻生「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
平沼「小さな国土に1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国で、日本が世界に冠たるもの」
鈴木宗男「日本は一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから」
大トリは中曽根御大「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当知的な社会になってきている。アメリカなんかより、はるかにそうだ。平均点からみたら、アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的に見たら非常にまだ低い」
(以上「アイヌ民族の存在を否定する「単一民族国家」発言に抗議を!」から引用)
中曽根以下の国家主義者に続く人間の輩出は安部や中川昭一といった国家主義者には喜ばしい現象であろうが、代価として日本人の合理的判断能力を子供レベルに置き去りにすることになる。尤も上記自民党政治家の国家主義思考(=日本民族優越意識・単一民族意識)は合理的判断能力を子供レベルに置き去りにしているから成立している主義・主張に過ぎない。
歴史や伝統・文化の「いいとこ取り」の教育が合理的判断能力を阻害するばかりか自国に対する優越意識の育みにしか役立たないということなら、そのような弊害を避けるには今ある「社会の姿」を教えることで補わなければならない。今ある社会のプラス・マイナスの姿が「いいとこ取り」に傾かない教育となり、日本優越民族教育・単一民族教育を排した合理的判断能力の育みにつながる。
いくら日本の歴史・伝統・文化が他国に優越している、美しい姿をしていると教えても、現在住んでいる現実の社会が他国の社会と比較して優れてもいない、美しくもないということなら意味をなさない。
また現実の社会の姿を教えることによって優れているばかりではない、美しいばかりではない姿を学ぶことを通して否応もなしに対象に自己の姿をも含めて人・物事を客観的に眺める目が育ち、それは合理的判断能力につながっていく。
ということなら、真っ先に問題としなければならないのは今ある現実の社会をどうするかということになる。それをより公平・平等・公正な社会へとどうしたら築いていけるか。それを考えさせれば、考える力・生きる力。自分で決定する力の育みを目的とした「総合学習」にもなる。「合理的判断能力」とはそもそもからして考える力・生きる力。自分で決定する力を含む。
学校の勉強ができなかった人間の提案だから当てにはならないが、どんなものだろうか。