仙台市立中1年男子生徒のイジメ自殺による不在を転校による不在とした担任、あるいは学校が実際にしたこと

2015-08-31 09:25:57 | 教育



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《8月30日8・30国会10万人集会動画党HP掲載ご案内》  

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表は8月30日、国会正門前で行われた「戦争法案廃案!安倍政権退陣! 8・30国会
     10万人・全国100万人大行動」に参加し、「いい加減でバカげた安保法案を阻止し、皆で力を合
     わせて安倍政権を退陣に追い込みましょう」と訴えました。

     8・30国会10万人集会動画をホームページに掲載しました。ぜひご覧ください。

 各マスコミが8月22日前後からそれ以後にかけて、仙台市の市立中学1年の男子生が昨年秋に自殺していた事実を伝えた。8月21日に発表した市教育委員会はイジメが関連する自殺と結論づけ、学校の対応に問題があったと謝罪したという。

 生徒は昨年秋に自殺を図り、数日後に死亡したそうだ。

 昨年秋から今年の8月末まで、イジメの事実も自殺の事実も世間に伏されていたことになる。

 8月22日付「asahi.com」記事によると、〈男子生徒は入学後の昨年5月から、友人たちに仲間外れにされたり、消しゴムのかすを投げつけられたりしていた。生徒の保護者は担任の40代の女性教諭に少なくとも6回相談。学校は、いじめに関わった生徒から男子生徒へ謝罪させる会を2回設け、学年集会も開いたが、男子生徒は「チクった(告げ口した)」と言われた。いじめは止まらず、「変態」「寝ぐせがひどい」などとからかわれることもあった。〉と書いている。 

 謝罪させる会を2回設け、学年集会も開いたが、イジメ側の生徒は教師の前では謝罪したり、あるいは二度とイジメないと誓うことまでしたのかもしれないが、教師の目の届かない陰に回ると、イジメを続けていたことになる。

 だが、こういったパターンはよくあることとして想定内の一つとしていなければならない。

 男子生徒は昨年秋、「転校したい」などと保護者に話した翌日に自殺を図り、数日後に死亡した。遺書はなかった。

 記事は担任と学校側に不手際があったことを書き連ねている。

 〈担任は、保護者からの相談内容を校長らに報告していないケースがあった。生徒への定期的なアンケートで男子生徒は「持ち物にいたずらをされた」などと回答していたが、学校は対応していなかったという。〉・・・・・・

 経緯を調査した第三者委員会「対応方針を決める前に男子生徒や保護者と協議すべきだった」

 大越裕光教育長(8月21日記者会見)「イジメをやめさせられず、学校の対応として不十分だった。深くおわびする」

 遺族(コメント)「加害生徒はいじめは犯罪となる場合もあることを認識し、深く反省してほしい。学校や教育委員会は未然防止のための取り組みを徹底してほしい」――

 記事は、〈市教委はこれまで遺族の強い希望を理由に自殺のあったことを公表しなかった〉、〈第三者委が6月、再発防止への提言などを盛り込んだ答申をまとめ、遺族の了解が得られたため、発表したという。〉と解説している。

 6月の自殺発表が8月末のマスコミ公表となった。市教委の発表が自殺した生徒が通学していた学校の生徒のみへの発表だったからなのだろうか。そのため学校外の世間に少しずつ漏れて、マスコミが知るに至ったという経緯を辿ったのだろうか。
 
 8月23日付の「47NEWS」記事が、8月23日、当時担任だった40代女性教諭がクラスのホームルームで男子生徒がいなくなった理由について同じクラスの生徒に「転校した」と説明していたことが学校関係者への取材で分かったと伝えている。

 当時の同級生「学校を休みがちで、転校と言われても特に不思議だとは感じなかった。自殺とは知らなかった。(イジメについて)からかわれているのは見たことがあったが、特にイジメとは感じなかった」(47NEWS
 
 なぜ担任はイジメを受けた自殺を転校という事実にすり替えたのだろうか。
 
 その理由を8月24日付「時事ドットコム」が教えてくれる。

 市教委の話として、亡くなった生徒の遺族から「家の都合で転校したことにしてほしい」と要望があったからだという。

 マスコミの報道によって次々と新たな事実が明らかになる。

 市教委「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応だった」

 但しイジメに関係した生徒には事実を説明したとしている。

 自殺した生徒の両親は世間体を憚ったのだろうか。憚ったとしたら、息子のイジメを受けての自殺を不名誉と感じていたことになる。

 だとしたら、子どもの思い余った苦しみや悩みや哀しみをそのときの息子のありのままの感情として重んじて受け止め、思い遣ることよりも外聞を気にしていたことになるのだろうか。

 自殺が例え世間の常識に反していても、誰もが助けにならないと周囲が感じさせ、自身も感じていたに違いない中での、その結末としての自分なりの一つの答の出し方だったと考えると、やはりその死を直視しなければならない気がする。

 直視とは関わった一人ひとりがそれぞれに解釈した事実を事実として見て、しっかりと受け止め、それを学校社会を生きていく人間関係の知恵や成長していく糧とするということである。自殺の事実を転校の事実へと解釈の対象を変えることで直視の切実な必要性を失わせたことになる。

 自殺の事実と向き合う直視によってまた、その衝撃性が担任及びクラスメートに取って自殺した生徒はどのような生徒であったのか、あるいは自殺した生徒にとって自分たちはどのような存在であったのか、自ずと相互の関係性を探る、あるいは学ばなければならない機会とすることもあり得る。

 だが、転校したとすることで、例え「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応だった」としても、折角のその機会を奪ったことになる。

 勿論、自殺を今年の6月に公表してからでも、自殺を直視することも、直視することで相互の関係性を探ることもできるが、転校はウソで実際はイジメを受けた上での半年以上も前にあった自殺だと知った衝撃性は自殺直後に知らされる衝撃性と比べ物にならないはずで、当然、直視の強度に影響することなり、転校だと事実を隠したことに対する疑問に思いが向かう可能性も排除できない。

 担任は遺族が「家の都合で転校したことにしてほしい」との要望をそのまま受け入れて、イジメを続けてきた生徒を除いたクラスの生徒に対して自殺の事実を転校の事実にすり替えた。

 このことは担任としての責任放棄に当たらないだろうか。

 もし学校自体がそのように説明することを承認していたなら、学校の責任放棄に当たることにならないだろうか。

 責任とは自分が関わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償いを意味すると同時に立場上、自分が引き受けて行わなければならない任務・義務を言う。

 イジメを受けて追い詰められて選択した自殺だと事実を事実として知らせることが担任として何があったのか、何が起きたのかを生徒に考えさせるキッカケとなり、考えさせることによってその“何”を担任を交えた生徒それぞれの解釈を通して学び、学んだ“何”を全員で共有する知識とすることが可能であったはずだが、担任は、あるいは学校が生徒に対して自分たちが引き受けて行わなければならないその責任を放棄したことになる。

 この放棄は担任、あるいは学校が遺族の「家の都合で転校したことにしてほしい」との要望を断る言葉(=思想)を備えていなかったからで、その不備を「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応」に代えた。

 あるいは遺族の要望に便乗すれば、生徒たちに対する説明を省くことができるし、担任や学校の対応を問題視されることもないと自分たちの責任逃れを考えたのかもしれない。

 このようなイジメ自殺による不在を転校による不在とする責任逃れによって、全員して相互の関係性を探ることも、“何”が起きたのか、自殺を直視して検証する機会を失わせたし、今後共失わせることになるはずだ。

 なぜなら、単にイジメや自殺に対する担任や学校の対応の是非、さらに新たなイジメや自殺の防止の対策に重点を置いた経緯を辿ることになるだろうからである。

 自殺していなくなった生徒のことを転校したからだと誤魔化した時点で、あるいは「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応」としたことで、担任も学校も生徒と一緒になって誰かが、何かが追い詰めたかもしれない自殺から、その誰かは特定できたとしても、特定の難しいその何かを学ビび、特定しようとする意志も姿勢も持ち合わせていなかったことを示すことになる。

 担任も学校も持ち合わせていなかったから、生徒も結果的にそのような意志も姿勢も持つ機会を失ったことになる。

 例え転校だと誤魔化さずに正直に自殺だとその事実を明らかにしたとしても、以上挙げた自分たちが引き受けて行わなければならない責任を生徒たちを前に的確に履行できなければ、もはや学校教育者とは言えない。学校教育者の仮面を被った学校教育者ではない存在という逆説を踏むことになるだろう。

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下村博文の教育政策の、国立青少年教育振興機構の日本の高校生自己肯定感調査から見た成果

2015-08-30 10:36:37 | 政治


 8月28日配信の《日本の高校生 「自分はダメ」の割合高い》という「NHK NEWS WEB」記事を読んだ。

 国立青少年教育振興機構による日米中韓の高校生(合計7761人)対象の意識調査で、日本は7割を超えて最も高く、自己肯定感が低い傾向があると書いている。

 「自分はダメな人間だと思うことがある」

 「とてもそう思う」+「まあそう思う」 日本72.5% 中国56.4%、米国45.1%、韓国35.2%

 「人並みの能力がある」 日本55.7% 中国約9割 米国約9割 韓国約7割

 記事は、〈「友だちがたくさんいる」、「勉強が得意なほうだ」、「体力に自信がある」といった項目で「そう思う」と答えた割合が日本はいずれも4か国の中で最も低く〉、全般的に〈自己肯定感が低い傾向が見られ〉たと解説している。

 この調査は2014年のもので、2015年8月28日に発表、以下のサイトに載っている。《高校生の生活と意識に関する調査報告書〔概要〕—日本・米国・中国・韓国の比較—》(国立青少年教育振興機構) 

 ここでの日本の高校生に関する調査結果はNHK記事と少し趣を異にする。

 「自分はダメな人間だと思うことがある」 

 2011年 「とてもそう思う」36.0% 「まあそう思う」47.7%
 2014年 「とてもそう思う」25.5% 「まあそう思う」47.0%

 「とてもそう思う」に関しては2011年調査と比較して10.5%減少している。

 ここでかなり前に下村博文が同じように高校生の自己肯定感不足(=自己否定感肥大)を指摘、嘆いていたことをブログにしたのを思い出した。

 ブログに書いた2013年4月10日衆院予算委員会での答弁である。

 下村博文「先程総理もお話されておりましたが、日本青少年研究所というところで毎年4カ国の意識調査をしております。この中で高校生の意識調査で、自分をダメな人間だと思うと答えている中国の高校生は12%。韓国の高校生が45%。アメリカは23%。日本は自分はダメな人間だと思う、イエスと答える高校生が66%もおります。

 他の国に比べてもですね、圧倒的に、なおかつ中学生のとき以上に高校生になると、さらに自分はダメな人間だと思う子どもたちの数は増えている。

 それがそのまま大人になったとしたら、日本社会でも7割以上がですね、自分がダメな人間だと思う国にですね、活力が生まれるはずがないわけでございまして、そういう意味で、学校教育の本質的な意味としてですね、やっぱり一人一人の子どもたちが、あの、自分に対して自信を持ってですね、自分は素晴らしい人間であると、そして自分という存在がさらに能力を引き出して、教育によって引き出して、そして社会に貢献できる、自分という人間がいることによって、周りの(ママ)喜んで貰う、そういう一人一人を養成するということが教育の役割であるというふうに思います」――

 NHK記事は「国立青少年教育振興機構」の調査で、下村博文が上げたのは「日本青少年研究所」の調査である。ネットで調べたところ、国立青少年教育振興機構は文部科学省所管の独立行政法人で、日本青少年研究所は主務官庁(公益事業を所掌する官庁)が内閣府本府と文部科学省の一般財団法人となっている。

 官庁に所属する異なる組織が同じ調査をする。仕事をダブらせていることになり、ムダがそこにあることにならないだろうか。

 しかし調査主体が異なっても、調査結果はほぼ同じでなければ、調査の正確さが疑われることになるから、比較に耐え得ると見なければならない。

 同じくブログに書いたことだが、下村博文は自身の公式サイト《日本再生 教育創世」》でも、『4ヶ国の中高校生意識調査』の題名、2012年7月30日の記事として同じ話題を取り上げている。

 〈日・米・中・韓の4ヶ国中高校生の意識調査によると、「自分はダメな人間と思う」中学生は、日本56.0%、米国14.2%、中国11.1%、韓国41.7%。高校生になると、日本65.8%、米国21.6%、中国12.7%、韓国45.3%と、財団法人日本青少年研究所の調査で分かった。
 どうして日本の中高校生は、こんなに多くの割合で「自分はダメな人間だ」と思っているのだろう。彼らの心情を思うと、切なく暗くなる。

 子供がダメなのではない。そのように多くの中高校生が「自分はダメだ」と思わせる日本社会が問題であり、子供達はその社会の鏡に過ぎない。

 また、「よく疲れていると感じる」中学生は、日本76.0%、米国55.1%、中国47.9%。高校生は日本83.3%、米国69.3%、中国63.9%で、日本の中高校生は、ほとんど疲れている。

 ところが、日本の中高校生の1日の勉強時間は、学校、自宅、塾を含め1日平均8時間で、中国は同様に1日約14時間。日本の中高校生は中国の中高校生のほぼ半分しか勉強していないのだ。

 それでも日本の子供の方が疲れているのは何故だろう。就寝時間が短いのも影響しているようだ。他国の子供に比べ、ダラダラ生活を送っているようだ。

 同研究所は「中韓と比べて、勉強もしていないのに弱音を吐いている現在の子供たちの姿がはっきりみえた。甘えの気持ちが強いのではないか」と分析している。

 子供は社会の鏡だ。日本の社会そのものからシャキッとする必要がある。日本を建て直そう!〉・・・・・・ 

 まだアクセスできるかと思って試してみたが、ページは消えていた。記事日付2012年7月30日はまだ自民党は野党の時代で、5カ月後の2012年12月26日に第2次安倍内閣が発足、下村博文は文科相になっている。

 国会で過去の発言を捉えられて追及されることを恐れ、過去の記事は消したと疑うこともできる。どこを探しても、過去の記事を探すことができない。大体が検索窓がない。

 下村博文は自身が教育者でありながら、〈多くの中高校生が「自分はダメだ」と思わせる日本社会が問題であり、子供達はその社会の鏡に過ぎない。〉と言っているが、日本社会の何が問題なのか、その何を明らかにする姿勢も努力も見せていない。

 いずれにしても下村博文が文科相就任約5カ月前2012年7月30日の時点で、「自分はダメな人間だ」と思っている高校生は日本65.8%、米国21.6%、中国12.7%、韓国45.3%と把握していた。

 そして衆院予算委員会で答弁した2013年4月10日の時点で、「自分はダメな人間だ」と思っている高校生は日本66%、アメリカ23%、中国12%、韓国45%と把握していた。

 数字がほぼ同じだから、2012年7月30日の時点で把握していた確率をそのまま使ったのかもしれない。だが、下村博文自身は2013年4月10日の時点で、上記の確率で把握していた。

 下村博文が文科相に就任して約2年8カ月。だが、それ以前は1996年の初当選後、自民党文部科学部会副部会長、第2次小泉内閣での文部科学大臣政務官、自由民主党シャドウ・キャビネット文科相、自民党教育再生実行本部長等を歴任、教育行政に関わってきた。

 当然、教育行政に関しての見識・知見は現在の文科相2年8カ月の任期のみの経験からの習得では済まない。

 2012年7月30日の日付で自身の公式サイトに「自分はダメな人間と思う」日本人の中高生の米中韓の中高生に比較した多さに、「どうして日本の中高校生は、こんなに多くの割合で『自分はダメな人間だ』と思っているのだろう。彼らの心情を思うと、切なく暗くなる」と強い関心を示し、その後国会答弁でも関心を示していた以上、自己肯定感を持つことのできない高生徒の数を減らし、逆に自己肯定感を持つことのできる生徒の数を増やすことのできる教育のあり方を学校教育に反映させるべく、有識者を集めるなりして構築する責任を負っていたことになる。

 今回の国立青少年教育振興機構の「自分はダメな人間だと思うことがある」自己否定感調査で「とてもそう思う」に関しては2011年調査と比較して2014年10.5%減少は下村教育行政の成果なのだろうか。

 自己肯定感不足、あるいは自己否定感肥大は不登校や引きこもり、勉強放棄、自信喪失からの中途退学、問題行動、非行等と相互関連し合うはずだ。相互関連し合った現象間の悪循環がこれらの悪質化、あるいは長期化ということであろう。

 8月29日のNHK総合テレビの『週刊深読み』が小中学生の不登校12万人を超え、2年連続の増加だと言っていたが、《高校生の不登校・中途退学の現状等》文科省/2010年)によると、2010年の高校生の不登校は 55,707人(60人に1人)となっている。 

 高校生の場合は2004年時からの調査であり、図を見ると、2004年時は6万人を超えていたが、2009年よりも増加している。

 中途退学は2009年56,947人、2010年は55,415人となっていて、1532人減少しているが、不登校生徒の中に中途退学予備軍が存在すると考えると、それ程の差はないと見るべきだろう。
 
 さらに上記「国立青少年教育振興機構」調査での「自分はダメな人間だと思うことがある」以外の自己肯定感に関する調査結果を見ても、高校生全体であまり芳しい状況にあるとは言えない。

 「とてもそう思う」+「まあそう思う」の調査値を挙げる。 

 「私は人並みの能力がある」 日本55.7% 米国88.5% 中国90.6% 韓国67.8%

 「私は、体力には自信がある」 日本43.5% 米国76.9% 中国76.1% 韓国52.6%

 「私は、勉強が得意な方だ」 日本23.4% 米国65.5% 中国65.1% 韓国31.6%

 「自分の希望はいつか叶うと思う」 日本67.3% 米国83.9% 中国80.7% 韓国82.6%

 「私は将来に対し、はっきりした目標をもっている」 日本57.3% 米国80.9% 中国75.6% 韓国58.9%

 「私は将来に不安を感じている」 日本71.0% 米国63.0% 中国48.3% 韓国78.0%

 「周りの人の意見に影響されるほうだ」 日本63.7% 米国47.0% 中国58.3% 韓国73.4%(以上)

 最後の「周りの人の意見に影響されるほうだ」という社会で生きていく上で最も大切な自律性が欠如しているという点では韓国の高校生程の欠如は示してはいないが、米国と中国の高校生よりも欠如の度合いは強い。

 この自律性の欠如が「自分はダメな人間だと思うことがある」の精神性に反映することにもなっているはずである。

 日本の高校生だけを切り取った場合は調査年に応じて増減があるとしても、米中韓と比較して自己肯定感欠如の度合いが大きいことに変わりはない。

 こうして見てくると、全体的には下村博文が文科相に就任以前から関心を持っていなければならなかったし、自己肯定感欠如を嘆いた割には、高校生に限らず小中学生に対しても、彼ら自身の様々な生き方に自己肯定感を持つことのできる教育政策を構築、学校教育に反映させる成果を見せることができなかったとしなければならないだろう。

 参考までに――

 《下村博文の、これでよく文科相を務めていられるなと思う検証精神なき認識能力 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》  


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安倍晋三の「70年談話」は懇談会報告書に自身のホンネの歴史認識を隠れ蓑とする役割を担わせて作成した

2015-08-29 09:55:32 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《8月25日 小沢一郎代表記者会見要旨党HP掲載ご案内》    

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     8月25日に行われた小沢一郎代表の定例記者会見要旨を党ホームページに掲載しました。ぜひご一読くだ
     さい。

     【質疑要旨】
     ○朝鮮半島情勢について                                    
     ○著名人擁立の秘策について                                  
     ○岩手県議選への対応について                                 
     ○自民党総裁選、野党政権のあり方について
     ○日米地位協定のあり方について  
     ○ロッキード事件について                                  
     ○維新の党の現状について 
     ○盛岡市長選の結果について

 8月24日の参院予算委員会で山下芳生共産党議員が「安倍晋三戦後70年談話」を取り上げて、談話には安倍晋三自身の歴史認識が語られていない、安倍晋三自身は日本の戦争を侵略戦争だと認めるのか認めないのかと追及したが、談話の中の文言を繰返し取り上げ、談話が全てだとかわす埒の明かない、不毛とさえ言うことのできる遣り取りとなった。

 安倍晋三に日本の戦争を侵略戦争だ、植民地化戦争だと認めさせること自体、土台無理な話である。なぜなら安倍晋三のホンネの歴史認識は「村山談話」や「河野談話」とは全く別物だからである。

 それを山下芳生議員は「村山談話」等を例に挙げて、「村山元首相が認めたことをなぜ認めることができないのか」などと迫る。

 安倍晋三はかつて国会答弁や記者会見、インタビュー等々で自身のホンネの歴史認識を繰返し述べている。
 
 その①「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」 

 あるいは、「侵略の定義は、学問的なフィールドで様々な議論があり、政治家としてそこに立ち入ることはしない。絶対的な定義は学問的には決まっていないということを申し上げた」

 その②「自民党は歴代政府の政府答弁や法解釈などをずっと引きずってきたが、政権復帰したらそんなしがらみを捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない。これは大きいですよ」

 その③「河野洋平長官談話によって強制的に軍が家に入り込み女性を人浚いのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている。孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」等々である。

 解説するまでもない。日本の戦争を侵略戦争だとか、植民地化戦争だとかは認めていない。植民地支配したとも認めていない。「認めろ、認めろ」と持間をかけるのは持間のムダ遣い、税金のムダ遣いとなるだけである。別の攻め手を考えるべきだろう。

 安倍晋三は自身の私的諮問機関である21世紀構想懇談会の報告書を狡猾にも自身のホンネの歴史認識を語らずに済ませる隠れ蓑(本当の考え・姿を隠す手段とするもの)として利用したに過ぎない。

 このことは「70年談話」自体に現れているし、山下芳生議員の答弁にも現れている。二人の遣り取りを見てみる。

 山下芳生議員「そこ(「70年談話」)には『侵略』、『植民地支配』、『反省』、『お詫び』などの言葉は散りばめられているが、侵略と植民地支配を行ったのは誰なのか、主語がない。戦後50年の『村山談話』に示された『日本が国策を誤り、植民地支配と侵略を行った』という歴史認識は全く語られていない。

 反省とお詫びも過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで、安倍総理自らの言葉としては述べられていない。

 そこで総理自身の歴史認識を聞きたいと思う。先ず植民地支配について聞きます。私は植民地支配と言うんだったら、どの国がどの国を支配したのかが肝心要だと思う。総理は植民地支配を行ったという認識をされているのですか」

 安倍晋三には持っていない歴史認識を求めるという、いわばないものねだりをしていることに気づいていない。安倍晋三としたらないものを出すことはできないだろう。

 だからと言って、持っている歴史認識――ホンネの歴史認識をマジシャンみたいにパッと出して披露するわけにはいかない。中韓からのみならず、アメリカからも批判の声が上がるはずだ。

 安倍晋三(殆ど原稿読み)「21世紀構想懇談会の報告書に於いて日本がかつて台湾や韓国を植民地化したこと、そして戦争への道を進む中に於いて、1930年代以降、植民地支配が過酷化していったことが記載されています。

 懇談会に於いて有識者の方々が共有されしたその報告書の上に立って、今回の談話は作成したわけであります。戦後全ての民族は自決の権利が認められるべきであるという考え方が国際社会の大きな目標となりました。

 そうした国際的な流れの中で日本も自らの過去を振返り、植民地支配から永遠に決別し、全ての民族の自決の権利が尊重される世界を作っていくことを強く決意をいたしました。

 今回の談話に於いてはこのことと併せて、過去の植民地支配を含め、先の大戦に於ける行いについて痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明した歴代内閣の気持について私の内閣に於いても、揺るぎないものとして引き継いでいくことを明確にしたところでございます」

 前半は巧妙に「侵略」という言葉を避けて、「戦争への道を進む」という言葉に置き換えている。台湾や韓国に対する「植民地化」も、21世紀構想懇談会の報告書に記載されていることで、その報告書の上に立って談話を作成したと、自身の歴史認識を報告書の歴史認識に預けている。

 本人は気づいていないだろうが、このことを裏返すと、「植民地化」は21世紀構想懇談会の報告書が言っていることだとしていることになる。

 つまり安倍晋三自身は自身のホンネの歴史認識通りに日本の戦争を侵略戦争だとも植民地化戦争だとも思っていないことをここで示したことになる。

 後半は「痛切な反省と心からのお詫びの気持」は「70年談話」で言っていることの繰返しで、そのことを表明した歴代内閣の気持・立場を安倍晋三自身がではなく、安倍内閣として引き継いでいくという、自身を蚊帳の外に置いた歴史認識の引き継ぎに過ぎない。

 非常に巧妙・狡猾なレトリックの使用となっている。
 
 山下芳生議員「まあ、懇談会の報告書には明記されているというご答弁でしたが、私は『安倍談話』をいくら読んでも、その主語を見い出すことはできません。そこで聞いているんです。総理は日本が植民地支配を行ったという認識を持っているのですか」

 持っているはずもないことを聞く。

 安倍晋三「この談話についてはいわば談話全体が一つのメッセージになっているわけですから、一つ一つを切り取って、それを一部分だけを切り取って、議論するのはより幅広い国民とのメッセージを共有するという観点からは適切ではないと考えるわけですが、今回談話作成に於いては様々な有識者の方々にお集まり頂いて、有識者構想懇談会の中で様々な議論をして頂いたことでございます。

 当然、それぞれ主座は異なるわけでございますが、その中に於いて共通の一つの認識が示されたわけでございました。いわば今申し上げたとおりでございます。21世紀構想懇談会の報告書に於いては日本がかつて台湾や韓国を植民地化したこと、そして戦争への道を進む中に於いて、1930年代後半に、後半以降、植民地支配が過酷化していったことが記載されているわけで、その談話発表する冒頭、申し上げたとおり、私はこの報告書を歴史の声として受け止めたいと思います。

 こう述べたところであります。この報告書の上に立って、今回の談話を発表したところでございます」

 後半の答弁は前の答弁のほぼ同じ繰返しだが、「私はこの報告書を歴史の声として受け止めたいと思います」と言い、さらに「この報告書の上に立って、今回の談話を発表したところでございます」と言っていることは、「安倍70年談話」は「報告書」が言っていることを「歴史の声」として一つに纏めて作成・発表したということになり、その意味するところは安倍晋三自身の歴史認識・戦前に対する思想を何ら関与させていないことの言い替えとなる。

 であるなら、「安倍70年談話」と安倍晋三の名前を冠することも、その名称で閣議決定することも、その評価に値しないことになる。

 山下議員はこの矛盾を突くべきではなかっただろうか。

 ここでの答弁では、もう一つの矛盾が存在する。前半で、一つのメッセージとなっている談話を「一つ一つを切り取って」、「議論するのはより幅広い国民とのメッセージを共有するという観点からは適切ではない」と言っていることである。「村山談話」と同じ立場を取る歴史認識者は一つ一つを切り取って安倍晋三の歴史認識を問い質す必要に駆られるだろう。

 だが、「村山談話」と同じ立場を取らない歴史認識者たち、いわば安倍晋三と同様に戦前の日本国家を肯定する国家主義者たち、保守派の人間たちはこういった談話の一つ一つを切り取らずに、安倍晋三自身が日本の戦争を侵略戦争だとも植民地化戦争だとも認めていないことに、中にはこういった談話を出すこと自体に不満な保守派も存在するかもしれないが、談話としての価値を見ているはずである。

 いわば安倍晋三は同じ国民であっても、歴史認識の立場に応じて認識上の利害を異にしていることを無視したのか、気づいていなかったのか、自身のホンネの歴史認識を隠すことを「より幅広い国民とのメッセージを共有する」ことだと思い込んでいる。

 自身のその思い込みと実際には「安倍70年談話」が後者に属する国民のみと共有可能なメッセージであることの矛盾、あるいは歴史認識であることの矛盾である。

 と言うことは、安倍晋三と歴史認識を同じくする特定の国民のために発信した談話と言うことができる。

 勿論、このことはホンネの歴史認識をさらけ出した「談話」であっても、同じ姿を取ることになる。

 山下芳生議員「報告書の上に立ったのに、なぜ『安倍談話』では日本が植民地支配を行ったという認識が示されていないのか。歴代の政権は示しておりますよ。村山内閣はですね、談話でですね、『我が国が国策を誤り、植民地支配と侵略を行った』と、日本の植民地支配を行ったということははっきりと述べています。

 (安倍談話には)それが述べられていないんです。安倍談話にはその認識、総理自身の認識、ないんですか」

 安倍晋三に村山元首相と同じ歴史認識を求めようとすること自体が土台無理な話なのだが、無理なことに気づかずにないものねだりをする。「70年談話」を読み解いて、「あなたは侵略戦争だと認めていない。植民地支配だったとも思っていない」と断じた方が持間と税金を無駄にしないより建設的な追及だと思うが、どうだろうか。

 安倍晋三「今回の談話の作成に当たっては、例えばご紹介を頂いた『村山談話』に於ける『国策を誤り』といった抽象的な用語で終わらせずに、どのように進路を誤ったのか、歴史の教訓を具体的に振り返えらなければならないと考えました。

 但し政治は歴史に謙虚であるべきだという考え方のもと、その具体的な作業は21世紀構想懇談会を設け、有識者の皆さんに行っていただいたわけでございます。その報告書の上に立って、今回の談話に於いては第1次世界大戦後、戦争自体を違法化する新たな国際社会の潮流が生まれる中で、『当初は日本の足並みを揃えたが、世界恐慌が発生し、経済のブロック化が進むと、日本経済は大きな打撃を受け、その中で日本は孤立化を強め、外交的・経済的行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みた』旨を述べた上で、『満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました』、(と談話に)こう記しているわけでございます」

 要するに国際状況の止むを得ない変化を受けた戦争であったとする歴史認識が、「抽象的な用語」で説明するのではない、「歴史の教訓を具体的に振り返え」って出した結論だとしている。

 但しその結論にしても、21世紀構想懇談会の報告書に立ったものだとしている。

 再び懇談会の報告書を自身のホンネの歴史認識を語らずに済ませる隠れ蓑(本当の考え・姿を隠す手段とするもの)として利用しただけのことである。

 山下芳生議員「いくら聞いても、肝心要なことは答えない。なぜ『安倍談話』に日本が植民地支配を行ったという認識を示されていないのかと聞いても、答えはない。

 私は角度を変えるが、日本がどの国に対して植民地支配を行ったのか、これが非常に大事ですが、その認識、総理、ありますか」

 侵略戦争・植民地支配の歴史認識がサラサラない者になぜないのかと聞く。質問の趣旨が同じのまま、どのように質問の角度を変えようと答は変わらないのに、改めて答を求める無駄を犯す。

 安倍晋三「これは先程申し上げたように21世紀構想懇談会の報告書に於いて日本がかつて台湾や韓国を植民地化したこと、そして戦争への道を進む中に於いて1930年代以降、植民地支配が過酷化していったことが記載されているわけで、この談話の報告書を歴史の声として受け止め、その上に於いて今回談話を発出したところであります」

 質問の似た内容の繰返しである上に答弁はほぼ同じ繰返し。山下議員は更に質問の角度を変えたつもりなのか、今度は「村山談話」発表の翌年に橋本龍太郎元首相が参議院予算委員会で「村山談話」と同じ認識であると表明した事例を挙げて、なおも安倍晋三に同じ認識か追及したが、談話に「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」と書いた一節を読み上げて、そのような考えを「明確にしているとこころでございます」とかわされる似た展開の答弁しか手に入れることができない。

 釣りで言うと、針に餌をつけて糸を海に垂らしても、餌を獲られるだけで、魚一匹釣れないのでなお躍起になって針に餌をつけて糸を垂らすが、魚一匹釣れないことに変わりはない、その循環を繰返しているだけといった状況に陥っているにも関わらず、山下議員は尚もホンネの歴史認識を語るはずもない安倍晋三の歴史認識を自身の言葉で語れと迫った。

 埒が明かないから、この辺で打ち切ることにする。時間の無駄・労力の無駄となる。

 繰返しになるが、安倍晋三は21世紀構想懇談会の報告書をうまく利用して、利用するために懇談会を設置したのだろう、自身のホンネの歴史認識を語らずに済ませる隠れ蓑(本当の考え・姿を隠す手段とするもの)とした。

 この前提に立って、安倍晋三が談話を如何ように歴史認識の隠れ蓑としているか、様々な機会で明らかにしている日本の戦争や植民地についての発言と併せてその歴史認識を炙り出して、これが安倍晋三のホンネの歴史認識だと広く知らしめないことには、安倍晋三の口から自身の歴史認識を語らせることは成果のない無駄な戦いを仕掛けるようなものだろう。

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エンブレム審査委員代表記者会見は佐野デザイン東京五輪エンブレムを他者作品模倣を疑わせることになる

2015-08-28 07:24:47 | 政治


 8月26日、エンブレム審査委員代表を務めたグラフィックデザイナーの永井一正氏(86)が記者会見、佐野研二郎作品の2020年東京オリンピック・エンブレム原案はベルギーの劇場のロゴとは「似ていなかった」と証言したとマスコミが伝えた。

 無料だと最後まで出ていない、《五輪エンブレム当初案「劇場ロゴと似てない」 審査委員》asahi.com/2015年8月26日05時18分)と、《五輪エンブレム、原案を修正 審査委員代表が証言》47NEWS/2015/08/26 12:10 【共同通信】)の二つの記事から見てみる。      

 審査委員は他にグラフィックデザイナーの浅葉克己氏ら7人。応募104案は作者名を伏せた状態で番号だけで審査し、3案に絞った後、議論の結果、佐野研二郎の案が選ばれた。

 その後、大会組織委員会が佐野氏の案を商標登録するために世界中の商標を確認。

 永井一正氏「(原案と)似たようなものが他にあったようだ。そのため佐野さんの案は、元のイメージを崩さない範囲でパーツを一部動かすなど、組織委の依頼で何度か微修正された。

 最初の案は(類似性が指摘されている)ベルギーの劇場ロゴとは似ていなかった。盗作ではない。

 個人的には、ほかの応募案や審査の過程も公表した方がいいと思う。これまで組織委からはコメントしないように言われていたが、これ以上勘ぐられるのはよくないということで、『もう話してもらっていい』と言われていた。このエンブレムがCMなど色々な形で使われてゆけば、よさが伝わると思う」」(asahi.com

 (左側が佐野研二郎の原案に近いデザインで、微修正した結果、右側デザインになったことになる。左側デザインの黒枠は、理解しやすいようにあとから付けたもの。)


 永井一正氏が「(原案と)似たようなものが他にあったようだ」と推測で言っていることは、組織委が審査側を蚊帳の外に置いて、いわばデザインに関することだが、何の相談もなく、組織委と佐野研二郎の間で決めていったことになる。

 「47NEWS」記事は、〈永井氏によると、佐野氏の原案は「東京」の頭文字「T」を図案化したもので、ベルギーの劇場名の頭文字「L」を想起させるエンブレム右下の部分はなかった。その後、商標登録に向け大会組織委員会と佐野氏が協議し、他の商標との類似を避けるためデザインを練り直す中、最終的に「L」に似たデザインが盛り込まれたという。〉と解説している。

 だがである。佐野研二郎の原案が商標登録されている他のデザインに似ていたということは、東京オリンピックエンブレムとして最優秀作品と決まった佐野研二郎のデザインを正式に東京オリンピックエンブレムとして使うについて組織委が世界中の商標を確認し、似たデザインを発見した当時はさして問題ではなかったかもしれないが、佐野研二郎氏がスタッフがやったことだと本人の発言のみが証言となっているデザインを含めて、佐野氏の手によるデザインの幾つかが第三者のデザインと酷似していて、模倣・盗作ではないかと騒がれる事態が生じている現在、単に似ていたということだけで片付けていいものだろうか。

 なぜなら、同じ模倣・盗作を手口として生み出したデザインではなかったかと疑われても仕方がないからだ。

 サントリービール販促キャンペーン賞品のトートバッグ・デザイン30昨品のうち8昨品が第三者のデザインに酷似していて、その8作品を賞品から取り下げた問題では模倣を周囲から指摘されると、「デザイン佐野研二郎」名を売り物にしていながら、スタッフが第三者のデザインを引き写したと記者会見で公表、それで問題を一件落着とさせている。

 その後、佐野研二郎デザインによる名古屋の東山動植物園マークのコスタリカ国立博物館マークとの酷似問題が浮上。本人は模倣・盗作を否定したが、インターネット上に出回っている東山動植物園マークとコスタリカ国立博物館マークは配置を少し変えてあるだけで、各パーツは余りにも酷似していて、芸能人のよく似たそっくりさん程にも近似性が強いために本人の否定そのものを疑わせる結果となっている。

 そして佐野研二郎デザインのTシャツ、さらに現在建設中の「おおたBITO 太田市美術館・図書館」のロゴと米デザイナー、ジョシュ・ディバイン氏制作ロゴとの酷似。

 どちらも黒色の円と黒色の直線のみのデザインで、円を一つ増やしているが、横にしてある二つの円を縦にして、「BITO」の「B」を表現して、増やした円を「BITO」の最後の「O」に当てているが、両者共に黒色のみの色使いとなっていることと、黒色の線の太さがほぼ同じで、その幾何学的な使い方が似ている等の共通点は模倣・盗作を否定しきれない疑いを持たせる。

 佐野研二郎の数々のデザインがこういった経緯を辿っていることの関連性から言って、東京オリンピック・エンブレム原案が他の商標登録されているでデザインと似ていたということは同じ経緯を辿って完成させたデザインの可能性は捨て切れない。

 単に似ていたから、微修正しただけでは済まないはずだ。

 微修正した結果、ベルギーの劇場のロゴと似てしまったというのは皮肉である。

 つまりまるで呪いでもかけられたように模倣・盗作の疑惑にどこまでも付き纏われていることになっているということではないか。

 オリンピックは時折り勝利至上主義の誘惑に負けて薬物使用疑惑が浮上、メダル返上といった不名誉な出来事も起きるが、スポーツの祭典と言われている。そのスポーツの祭典に使用される「TOKYO Olympic2020」エンブレムが、薬物疑惑に付き纏われるように模倣・盗作の疑惑を引きずってもいいのだろうか。

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橋下徹の国家指導者は日本の戦争責任は負い続けるべきだが、国民はその必要なしとする歴史認識二分論の是非

2015-08-27 09:33:23 | 政治


 大阪市長の橋下徹が8月23日、大阪市中央公会堂(北区)で開かれた市主催戦後70年記念シンポジウムの冒頭挨拶で「安倍晋三戦後70年談話」や日本の戦争責任に言及したと、その発言要旨を《【戦後70年首相談話】橋下氏の発言要旨 「子供・孫がずっと戦争責任負うのは違う」「国家指導者と国民の一緒くたはちょっと…」》産経ニュース/2015.8.24 13:07)が紹介している。 

 この題名の、「子供・孫がずっと戦争責任負うのは違う」、そして「国家指導者と国民の一緒くたはちょっと…」と、いわば戦争責任は国家指導者のみが背負うべきとする発言が気になったので、記事からその発言のみを抽出してみる。

 橋下徹「(安倍晋三の70年談話で)ただ僕が気になったのは、将来世代の子たち孫たちに謝罪しつづける負担を負わせてはならない、それが現役世代の使命なんだ――という趣旨の言葉が入っていたが、僕は国家の為政者、指導者と国民をいっしょくたにするのは、なんか違うなという思いがある。国家の指導者、政治家は、僕はやっぱり、まだまだ謝罪をし続けなきゃいけないと思っていますし、もっと反省ということを全面に出していかなきゃいけない。国家の指導者はですよ?

 民主主義というある種の建前で国民と政治家は同一性があるといわれているが、(昭和53(1978)年締結の)日中平和友好条約の時、(昭和47(1972)年調印の日中共同宣言で)中国の指導者たちが対日賠償請求を放棄した際に、戦争被害を受けた国民を納得させるため、二分論を取って国家の指導者と国民を分け、この戦争の責任は国家の指導者にあるわけで、国民全体にあるわけではないということを、中国の時の指導者が二分論という論法を用いて、日本国民全体に責任を負わせていないんだという論理で、条約を締結した。
 
 こういうことを、社会人になって知った。こういう話を知ると、国家の指導者が出すメッセージと、国民が出すメッセージや国民が受ける責任というものは、別に考えてしかるべきだと。

 安倍談話は、国民全体を代表してのメッセージというような前提で発せられたものであるがゆえに、謝罪、反省、そういうものを極力薄くしていったような感じがするんですが、ここはきちっと分けて、国家の指導者、政治家からのものはきちっと歴史に対して真摯に向き合って反省。そして隣国の中国や韓国に対しては謝罪の意はきちっと表明しながら。

 ・・・・・・・中略・・・・・・

 国民が、子供たち孫たちが、ずっと戦争責任者と同じような負担を負わされ続けるのは違うと思っている。国家の指導者と国民を分ける二分論で日本の戦争責任はきちっと整理をしていかなければいけないのではないかと思っている」――

 中略のとこところは論点を整理するためにかなり省いた。

 戦争責任を「国家の為政者、指導者と国民をいっしょくたにするのは、なんか違うなという思いがある」、中国は「国家の指導者と国民を分け、この戦争の責任は国家の指導者にあるわけで、国民全体にあるわけではないということを、中国の時の指導者が二分論という論法を用いて、日本国民全体に責任を負わせていないんだという論理で、条約を締結した」、「国家の指導者が出すメッセージと、国民が出すメッセージや国民が受ける責任というものは、別に考えてしかるべきだ」、あるいは「子供たち孫たちが、ずっと戦争責任者と同じような負担を負わされ続けるのは違うと思っている。国家の指導者と国民を分ける二分論で日本の戦争責任はきちっと整理をしていかなければいけないのではないかと思っている」等の言葉で、戦争責任は国家の指導者が負うべきで、特に戦争に関係しない子どもや孫たちの世代は戦争責任を負わなくてもいいとしている。

 ドイツのヴァイツゼッカー大統領が1985年5月8日にドイツ連邦議会で演説したことと大分違う。

 「今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」――
 
 戦後生まれの世代が「自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません」が、それでもなお、「罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」と、戦後生まれの国民であっても戦争の歴史と責任を負っていかなければならないことを訴えて、橋下徹のように「国家の指導者と国民を分ける二分論」を取っていない。

 いずれが正しいのだろうか。

 日本の戦争は軍部主導で行われた。だが、当たり前のことを言うが、戦争は当時の大日本帝国軍隊のみで行われたわけではない。日中戦争も太平洋戦争も国民が関知しない環境で国家権力が独走する形で起こした戦争ではなく、戦勝祈願の神社参拝、出征兵士家族への慰問、生産増強や資源愛護の運動への参加、様々な勤労奉仕、あるいは赤紙を待たない内の志願等々を通して協力し、熱狂して共に戦った戦争であった。

 勿論、大日本帝国軍隊兵士たちも天皇陛下と大日本帝国国家のために命を捧げる玉砕を覚悟で戦場に臨み、実際にも多くの兵士が玉砕を実行し、天皇陛下と大日本帝国国家のために命を捧げた。

 このように国民・兵士共に合わせて全体的に集団を形成する形に至った天皇と国家への一億総国民的な奉仕を可能とした日本人の精神は日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義を措(お)いて他にはないはずだ。 

 ここで言う権威主義とは上の者が下の者を従わせ、下の者が上の者に従う、支配と従属の上下関係を構造とした行動様式・思考様式を言う。

 国家権力は天皇を現人神に仕立てて日本人の最上位に置き、最も高貴で最も尊い存在として天皇への奉仕・忠誠を「国体の本義」や「教育勅語」等を通して国民に植えつけていき、国民はその植えつけを受け入れ、自らの精神としていった。そして日本国家を体現している天皇への忠誠・奉仕が同時に日本国家への忠誠・奉仕となった。

 これが当時の愛国心の正体である。安倍晋三はこの手の愛国心を望んでいる。

 この天皇や国家という上の者に自らを下の者と位置づけた国民が集団的に従う、あるいは集団的に従属する上下関係は権威主義の行動様式・思考様式のメカニズムなくして成り立たない国家と国民の関係構造であるはずだ。

 集団主義と権威主義は相互関連し合う。国民が全体的に権威主義の思考様式・行動様式を取るとき、それは集団主義の様相を見せる。

 だから、国家が本土決戦を控えて天皇の名の下、一億総玉砕だと言えば、国民は一億総玉砕だと悲壮感を持って応えることになる。

 日本の過去の戦争の時代、日本国民はこのように天皇及び国家と、その命令・指示に権威主義の思考様式・行動様式に則って集団的に自らを従属させる関係を持ち、それを国民の姿としていた。

 いわば国家と同様に戦争を通して共に加害者の立場に立っていた。

 後世の国民は二度と過ちを侵してはならない教訓として時々の歴史に於ける国家指導者の姿と同時に国民の姿も学ばなければならないのは当然であるが、例えそれが自らの世代に関係しない先人の過ち――国家の姿・国民の姿であったとしても、それが決して小さなものではない日本人全体の過ちであった以上、同じ血を引く後世の日本人として国家指導者共々、その責任を引き受けるべきであるし、引き受けることによって、かつての狂気じみた集団主義・権威主義が再び現れてはならない国家の姿・国民の姿の教訓・戒めとして生きてくるはずだ。

 引き受けてこそ、過去の歴史の全てに痛感できる。

 橋下徹のように後世の国家指導者は日本の戦争責任は負い続けるべきだが、過去の歴史を学ぶ必要を訴えているものの、「国民が、子供たち孫たちが、ずっと戦争責任者と同じような負担を負わされ続けるのは違う」という表現で、後世の国民は戦争責任は負わなくてもいいという考えを取ることはできない。

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法律に自衛隊・自衛隊員の安全確保を明記して、その通り機能するなら、戦死者はこの世に存在しない

2015-08-26 12:54:54 | 政治



 記事題名を《安全確保を求めない軍事行動は存在しない それが狙い通りに機能するなら、戦死者はこの世に存在しない》から、《法律に自衛隊・自衛隊員の安全確保を明記して、その通り機能するなら、戦死者はこの世に存在しない》に変えました。あしからず。(2015年8月27日 04:45)


 8月25日の参院特別委員会で民主党の福山哲郎が安全保障関連法案に基づく後方支援活動での自衛隊の安全確保について問い質した。

 具体的には政府が後方支援活動を自衛隊が行うことを規定している法律に安全確保を明記しているとしているのに対して福山哲郎はどこに、どう明記されているのか追及した。

 最初に結論を言ってしまうと、大体が安全確保など条文で明記することなど不可能である。戦争、もしくは戦闘は全体的には勝敗、あるいは勝敗ががつかずに休戦や撤退といった決着で終止符を打つことができたとしても、部隊単位、あるいは兵士個人単位では不測の事態と常に隣り合わせで、その不測の事態に部隊や兵士個人が備えている細心の注意を払った安全確保で対応したとしても、常時対応しきれるとは限らないからだ。

 だから、部隊単位ではその戦闘に勝利したとしても、何人かは戦死者を出すケースが生じる。

 安全確保が確保したとおりに常に機能するなら、この世に戦死者は存在しないことになる。

 アメリカ軍がイラクやアフガニスタン、その他で軍事活動をするとき、軍組織としても、兵士個人としても安全確保を図っていないと誰が断言できるだろうか。

 安全確保を最優先・最大限に図ってもなお、戦死者や重傷者は出る。例え法律にこれこれの安全確保を図るようそれぞれの行動を事細かに規定し、明記したとしても、敵勢力が存在する以上、敵の動きがときには法律通りに事を進める保証は失わせる。

 法律通りに事が進むと考えるのは敵という存在があるのに対して不測の事態を否定するようなものである。

 それを安倍晋三も中谷元も法律に安全確保を明記したと言い、「リスクは高まることはない」と自衛隊の、あるいは自衛隊員の安全を保証できるとする現実にそぐわない楽観論は法律を成立させるためのウソも方便の類いに過ぎないからだろう。

 いくらウソも方便の類いであっても、そのことが本人たちが気づかぬ間に「自衛隊絶対安全神話」、あるいは「自衛隊員絶対安全神話」を打ち立てることになっていく。

 福山は、「今日は自衛官の安全確保について議論したいと思います」と言ってから、最初に自民党と公明党の安保法制に関する与党協議の際に公明党の北側一雄議員が自民党に示した自衛隊の海外派遣に関しての、いわゆる「北側三原則」を挙げた。

 (1)国際法上の正当性を有すること
 (2)国民の理解を得られるよう、民主的統制を適切に確保すること
 (3)自衛隊員の安全確保を最優先すること

 福山哲郎「総理、このことに間違いありませんか」

 中谷元「一般的に具体的にどのように書いたのかであるが、具体的には国際平和支援法やPKOに於いて国連や国際機関の決議・要請等があった場合のみ、自衛隊を派遣することとか、国際平和支援法では例えば事前の国会承認を要することとか(方向違いの答弁だからだろう、議場から批判の声が上がり、福山も手で、違うといったゼスチャーを見せる)、自衛隊の安全確保に関する配慮規定を設けるとか、様々な形で(北側)三原則を法案に明記をしたということでございます」

 「国連や国際機関の決議・要請」が自衛隊、もしくは自衛隊員の安全確保の保証になるわけではない。「事前の国会承認」にしても然り。「自衛隊の安全確保に関する配慮規定」を設けることが、どうして安全確保の保証になるというのだろう。

 また「(北側)三原則を法案に明記をした」ことがどうして安全確保の保証になるというのか、考える頭は中谷にはないらしい。安全確保を法律に明記することは不可能を可能にしようとする企みに過ぎない。

 安倍晋三「ただいま大臣から、どのように法案に明記されているか、述べたとおりでございます。そのとおりでございます」

 福山哲郎「先ず防衛大臣、私の質問に全く答えていません。私は安倍総理にお尋ねしたんです。安倍総理は特別委員会で何度も、衆議院の本会議でも答えています。

  この北側三原則、自衛隊の安全確保のために非常に重要な三原則だと思っています」・・・・・。

 (安倍晋三のかつての国会答弁を記したパネルを掲げて読み上げる。パネルは次のような内容。 

 「北側三原則」における自衛隊員の安全確保

 【安倍内閣総理大臣】

 第一には、国際法上の正当性を有すること、そして、国民の理解を得られるように、国会の関与等の民主的統制を適切に確保すること、そして、自衛隊員の安全確保のための必要な措置を定めること、この三つでございますが、今委員がご指摘のように政府としては、全面的に受け入れまして、三原則を法律上の要件として明確に定め、全ての法案にこの原則を貫徹することができたのではないか、このように思います。 (6月1日衆議院平和安全法制特別委員会)

 政府としては、この方向性に即して法案作成作業を行い、全ての方針が法案の中に忠実に、かつ明確に盛り込まれたものと考えています。(5月15日衆議院本会議)

 福山哲郎「総理の答弁に間違いありませんねと、(安倍晋三に答弁を)お願いしているんです」

 安倍晋三「これは答弁したとおりでございます」

 福山哲郎「防衛大臣、総理がああ答弁されているのに全然関係ない答弁されるんですか。『自衛隊が海外活動を行う際に自衛隊の後方支援に於ける安全確保は、安全配慮・実施区域の指定・一時休止・撤退することで確保されている』

 これは防衛大臣が何度も衆参の委員会で答えたが、安全配慮・実施区域の指定・一時休止・撤退ということの措置で安全確保されているということでよろしいですね」

 中谷元「その他にも国連の決議や要請とか、任務の明確化、実施の区域、こういった先程委員がおっしゃった活動の停止・中断・安全配慮規定、そして武器の使用。これも安全に関わることで、派遣された隊員が安全に活動できる、そういった様々な規定が法律に盛り込んだということでございます」

 中谷元の答弁は一生懸命無理を押し通そうとして道理を引っ込めているに過ぎない。挙げたどれもが安全確保の保証とならないばかりか、こちらの都合だけの安全確保となっている。

 相手のあることに対してこちらの都合だけの安全確保はその保証足り得ない。

 例えばボクシングの試合で一方のボクサーが、「先ず左ジャブで攻めて、右フックで相手の左顔面を攻め立て、チャンスを見て右アッパーを相手の顎に打ち込んでダウンを奪う」と思い描いて、思い描いたとおりに試合が進行すると思い込んで戦いに臨むのは自分の都合のみの戦術に過ぎない。

 武器の使用が安全確保の常なる保証となるのは相手が武器を持っていない場合である。相手が武器を持っていたら、その武器が相手の安全確保の道具となった場合、こちら側の武器は安全確保を打ち砕く道具としかならない。

 にも関わらず、武器使用を安全確保だと決めてかかることができるのはこちら側の都合のみを言っているからである。「活動の停止・中断・安全配慮規定」にしても、安全確保の手段だとすることができるのは、こちらの都合だけの安全確保となっているからである。

 福山哲郎「違います。自衛隊員の安全確保は重要で、総理も大臣もこの委員会でずっと安全配慮だ、実施区域だ、一時休止・撤退があるから、安全が担保できるんだとずーっと答弁されてきたことに間違いないですかと確認しているんです」

 福山の質問も間違っている。確認したからといって、どうにかなるわけではない。「安全に配慮していることが常に安全を担保するのですか。実施区域が常に安全を保証するのですか、一時休止・撤退が常に安全を担保・保証するのですか」と問えばいい。

 中谷元「これまで答弁してきたとおり、安全の確保・配慮等につきましては法案に明記しまして、自衛隊の派遣活動等については安全確保に留意してきたつもりです」

 安全確保に何の保証にもならないことを繰返しているに過ぎない。 

 福山哲郎「それでいいですよ。その通りなんです。で、パネルを御覧ください。存立危機事態に於ける後方支援について、先日の委員会の大臣の答弁です」

 福山がなぜ「それでいいですよ。その通りなんです」と言ったのか分からない。

 「存立危機事態での後方支援活動における自衛隊の安全確保」(パネル)

 【中谷国務大臣答弁】

 これは、存立危機事態に於いて新三要件に該当すると判断する場合でございます。しかし、そういった事態におきましても後方支援を実施するということはできるわけでございまして、武カ行使そのものではございませんが、後方支援として実施をするということで、これは当然、安全に配盧し、また円滑な活動が実施できる、そういう範囲で後方支援を行うということでございます。(8月4日参議院平和安全法制特別委員会)

 福山哲郎「これに間違いありませんね」

 中谷元「その通りに間違いありません」

 福山哲郎「中谷大臣、米軍等行動関連措置法に於ける自衛隊の安全確保に安全配慮・実施区域・一時休止・撤退はどのように担保されるのですか」

 中谷元「この米軍等行動関連措置法に関しては武力攻撃事態に於いてと同様で、存立危機事態についてはこれは我が国を防衛するための諸活動を行うために様々なリスクを伴うが、その場合は隊員の安全確保は重要であることは当然で、米軍等行動関連措置法の第4条で行動関連措置は武力攻撃、存立危機、武力攻撃を排除する目的の範囲内に於いて事態に応じ、合理的に必要とする判断の限度を超えるものであってはならないと規定しています。

 このことは隊員の安全確保についても配慮した上で必要な支援を行うという趣旨を示したものでありまして、また、重要影響事態と同様に法律上、隊員の自己保存ための武器使用の規定が明記されていて、隊員の安全確保のための措置はこの法律の中にも盛り込まれています」

 福山哲郎「 すみません、今『明記』とおっしゃった。もう一回聞きます。この米軍等行動関連措置法の中に安全確保の規定がどこに明記されているのかお答えください」

 福山哲郎は法律に明記したとしても安全確保の保証とならないこと、当然、確実絶対的な安全確保の条項など明記などできないことを承知して聞いているのか、承知しないままに安全確保は重要だからと明記を求めているのか不明だが、ないものでねだりをしているしているに等しい。

 中谷元「法律上、隊員の自己保存のための武器使用の規則が書かれています。また、隊員の活動範囲に於いてもですね、この武力攻撃、この存立危機を排除する目的の範囲内に於いて事態に応じて合理的に必要とされる限度を超えるものであってはならないと規定していて、このことは隊員についても配慮した上で必要な支援を行う趣旨を含むものでございます」

 自衛隊員は後方支援活動に於いて敵勢力がライフル銃や機関銃で攻めてきたために自己保存の武器使用に至らざるを得ず応戦することになって双方が銃撃戦を交わすことになったとき、武力攻撃・存立危機を排除する目的の範囲内に於いて事態に応じて合理的に必要とされる限度を超えているかどうか常に自身に問いかけながら、武器の引き金を引かなければならないことになる。

 勿論、敵勢力を短時間の内に撃退できれば、「合理的に必要とされる限度」を超えていない自己保存の武器使用と言うことができるが、なかなか撃退できないばかりか、逆に相手の勢いが優勢となって撃退は無理だとなった場合、どこに「合理的に必要とされる限度」の基準を置くのだろうか。

 単に相手の攻撃が優勢となって、自衛隊が押され気味になった時点なのか。あるいは自衛隊員の誰かが一人射殺された時点なのか。

 基準を前者・後者いずれに置くとしても、相手の攻撃が優勢な状況下で活動の一時休止・撤退は果たして可能だろうか。

 可能なのは敵勢力が自分たちの優勢をわざわざ捨てて追撃を行わない場合に限る。追撃はないことを想定とした安全確保であるなら、自分たちの都合のみを描いた後方支援活動と言うことになる。

 あるいは勝敗の趨勢がはっきりつかないままに合理的に必要とされる限度を超えていないと判断される状況下であっても、自衛隊員が敵勢力の撃ち放った弾丸に、それが狙い定めたものであるなら正確に、狙い定めないものであっても、偶然に当たらない保証はどこにもない。

 中谷元の言っていることは無理(道理がないこと)を有理(道理のあること)と言いくるめ、不可能を可能と言いくるめる詭弁に過ぎない。

 福山哲郎が答弁になっていないと抗議したのだろう、審議は中断した。再開されても、似た答弁の繰り返しで、福山に「武器使用の権限が安全確保だなんて聞いたことがない」と言われる始末で、福山は米軍等行動関連措置法のどこに安全確保の規定が明記されているのか、規定などできないことを知ってなのかどうか分からないが、なおのこと迫った。

 もし法律に自衛隊の安全が確保されること、あるいは自衛隊員の安全が確保されることを明記して安全確保を保証しておいて、それが崩れた場合、法律の欠陥として大問題となる。

 繰返しになるが、法律では安全確保を規定などできない。

 現実の戦闘の現場で安全確保はある意味自己責任となる。敵勢力と遭遇して戦闘となった場合、敵勢力の攻撃に対して如何に臨機応変に対応できるか、あるいは敵の攻撃に自身の対応がどこまで許されるかによって安全か否かは決まってくる。

 当然、敵勢力の攻撃が遥かに優って、そのために臨機応変に対応しようとしても、自身のその対応が考えた程には、あるいは自分の都合程には許されないというケースも生じる。

 中谷元は「後方支援は戦闘を行うものではなく、危険を回避して、活動の安全を確保した上で実施する」から安全だといった答弁をしていたが、後方支援は本来的には兵員・食料・物資・弾薬の輸送・補給を担う活動ではあるが、その活動によって友好国軍隊の戦争継続、あるいは戦闘継続に資することになって、それゆえに敵勢力の利害に反する活動となるゆえに、後方支援自体を阻止する絶対的必要が生じる。

 後方支援をただ眺めているだけでは済まないということである。当然、後方支援活動の区域が戦闘が行われていない安全地帯であっても、安全なのは日本側の都合だけとなる。中谷元は後方支援で敵勢力との遭遇を何ら想定しない非現実に立った答弁を繰返していたに過ぎないが、「後方支援を定めた米軍等行動関連措置法には自衛隊の安全確保のための規定がない」と、やっと当たり前のことを認めた。

 その後も何度か中断を挟んで断続的に審議が行われたが、福山が依然として答弁に納得せず、審議は紛糾、とうとう午前中の質疑は休止、休憩に入って、午後に開始された。

 福山哲郎「 先程防衛大臣は米軍等行動関連措置法にいわゆる後方支援、存立危機事態の後方支援については法案の中に安全確保がない、規定がないことを認めて頂きました。

 総理、総理はこの米軍等行動関連措置法に安全確保の規定がないことはご存知だったでしょうか。ご存じなかったか、正直にお答えください」

 安倍晋三「規定が安全確保の義務、あるいは活動区域を定めた規定がないというのは承知をしておりました」

 安倍晋三は規定がないことを認めたものの、中谷元が「米軍等行動関連措置法の第4条で行動関連措置は武力攻撃、存立危機、武力攻撃を排除する目的の範囲内に於いて事態に応じ、合理的に必要とする判断の限度を超えるものであってはならないと規定しています」と答弁したことを繰返して、「北側三原則が趣旨として盛り込まれていると解釈しているわけでございます」と安全が確保されている意味のことを答弁、「明記」から「解釈」へと変えたが、例え法律に明記してあっても、安全が確保される、あるいは安全が保証されるわけではないのに、「解釈」ではなおさらに確保や保証の確かな裏付けとなるわけではないにも関わらず、裏付けとしようとするのは「自衛隊のリスクは高まることなない」と発言している以上、譲ることのできない一線として自衛隊の安全確保に拘っているからだろうが、今後共譲ることはあるまい。

 繰返すことになるが、法律に自衛隊、あるいは自衛隊員の安全確保を明記することも謳うこともできないし、明記し、謳ったとしても安全確保を保証できるわけけではない。

 福山哲郎自身、このことを認識して質問しているわけではないようだ。

 マスコミ記事によると、福山哲郎は、「隊員の安全確保は法案の根幹だ。衆院から審議をやり直すか、自衛官に『安全規定はないけど行ってくれ』と言わなければ不誠実だ」と批判したということだが、「隊員の安全確保は法案の根幹だ」と言っていること自体が、認識していないことの証拠となる。

 どういった不測の事態が突発的に発生しない保証はどこにもない。「自衛官に『安全規定はないけど行ってくれ』」と言うしかないし、そういうことが正直な姿というものだろう。

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安倍晋三と内閣全体の臓器移植に関わる情報未共有の怠慢

2015-08-25 10:01:35 | 政治


 8月23日付け《脳死の子どもの臓器 提供希望も17件提供されず》と題した「NHK NEWS WEB」記事に基づいて8月24日参議院予算委員会で、「日本を元気にする会・無所属会」の松田公太 (46歳)が質問した。

 記事は日本臓器移植ネットワークの調査を基に5年前に改正臓器移植法が施行されて以降、家族が脳死と判定された18歳未満の子どもからの臓器の提供を希望したのに、病院側の体制が整っていないとの理由で提供されなかったケースが17件あったと言うことを伝えている。

 日本臓器移植ネットワークの調査は脳死と判定された15歳未満の子どもからの臓器提供を認める改正臓器移植法の施行から今年で5年になるのに合わせて行ったものだという。

 対して改正臓器移植法の施行後、18歳未満の子どもから臓器が提供されたケースは14件だそうで、それよりも多い17件がその善意を活かすことができなかったことになる。

 臓器提供に対応可能な施設は全国で約380施設。虐待防止委員会の設置等、子どもの臓器提供に必要な体制の整備が出来ていない施設は昨年末の調査で全体の4割近い148施設。

 つまり大人の臓器提供には対応できているが、そのうちの4割近くが子供のそれには対応できていないという、ある意味差別的な状況にあるということになる。

 記事は日本臓器移植ネットワークの希望として、「臓器を提供したいというご家族の気持ちに応えられるようより多くの施設で対応できる体制を整えてもらいたい」との発言を伝えている。

 では、松田公太がどう質問したか見てみる。


 松田公太「これは質問通告していませんけど、昨日報道がありましたので、取り上げさせて頂きたいと思います。

 子どもの臓器移植についてです。総理、ご案内のとおり、臓器移植法が5年前に改正されて、15歳未満の子どもの臓器移植が可能になりました。ところが、日本では臓器移植がなかなか増えていない。

 例えばアメリカでは年間8000人のドナー(臓器提供者)がいて、約2万8千人の方々が助かっています。それに対して日本は去年77件のドナーがいたということです。これは子どもに対しても同じ(少なさ)でして、何と5年間で14件のドナーしかいないんですね。年間にすると、2.8件ということになります。

 昨日報道にあったのですが、それ以外に17件がドナーとして申し出があったということなんです。これは非常に残念なことなんですね。それが17件、トータルすると、14件と17件で31件あった。

 17件に対して施設側の方で体制が整っていないからという理由で、これを断ってしまったということなんです。これは私は酷(むご)いことだと思います。何とか自分の命、臓器移植があれば助かるかもしれないという思いでギリギリのところで命を繋いでいらっしゃるお子さんたち、またご家族、ご両親の方々、そしてまたお子さんが病気になられて悲しみのドン底にいるんですけども、もしかしたら自分の子供の一部が他の子どもの命を助けることに繋がるかもしれないという思いで、臓器移植の提供を申し出たご両親たち、ご家族の皆さん、こういったものを含めて、体制が整っていないからという理由で無にしてしまっている。これは私はあり得ないことだと思っています。

 そこでこれは総理にお願いがあるのですけれども、日本が今380の臓器移植の体制があると言われている施設があるんですけれども、それに対して150の施設が子どもの臓器移植の体制が整っていないというふうに言っているわけなのですが、これに対して何とか指導して頂きたいと思います。

 何とか早く150の全てに促して頂いて、その体制を整えるということをやって頂けないでしょうか」

 安倍晋三突然の質問でございますので、私はまだその現状を把握しておりませんが、臓器移植に於いてはですね、ドナーとなると希望をされた方、これはご両親なんだろうと思いますが、ご両親の希望が施設に十分にですね、その体制が整っていないために叶わなかったということは私は非常に残念なことであり、そうした状況がなるべくないようにですね、施設の整備を行っていかなければならないと、このように思っています」

 松田公太「是非ですね、明確な目標を設定して頂いて、是非このような施設すべてが子どもの臓器移植対応可能になるようにお願いできればいいと思っています」(以上)

 松田公太の150の施設全てが子どもの臓器提供に対応可能な体制に持っていくよう指導して欲しいとの要望に対して安倍晋三は子どもの臓器提供に対応未整備な施設があってはならないことだとするのではなく、「なるべくないようにですね、施設の整備を行っていかなければならないと、このように思っています」と答えるこの熱意のなさ、自分の希望だけを述べて、適切な政治的対応の提示には何も触れないこの関心のなさは何を物語るのだろうか。

 本来なら、松田公太が「明確な目標設定」をと口にする前に安倍晋三が対応としなければならない対策のはずだが、逆になっている。

 安倍晋三は4月(2015年)に訪米し、4月29日に上下両院合同会議で演説している。

 安倍晋三「国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。

 人間一人ひとりに、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。私たちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません」・・・・・・

 人間の安全保障について「外務省HP」は、〈人間一人ひとりに着目し,生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り,それぞれの持つ豊かな可能性を実現するために,保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方です。〉(外務省HP

 要するに病気や貧困等を含めた様々な脅威から人間一人一人がそれぞれに持つ豊かな可能性を実現可能とすることができる尊厳ある生存・生活の保障(ある状態が損なわれることのないように保護し守ること)と、そのような保障を通した自立環境の提供が人間の安全保障ということになる。

 移植以外に治療方法がない臓器不全で長期入院を余儀なくされ、臓器移植の機会を待つ子どもに臓器移植の医療を提供して治療へと導き、一般生活者とほぼ変わらない自立できる生活へと誘(いざな)い、教育の機会も一般生活者と変わらない環境を提供、総合的に社会的な自立可能性を保障することも人間の安全保障に入ることになる。

 だが、安倍晋三は人間の安全保障の確立は「日本の不動の信念です」と断言した割には、生死に直接的に関係している臓器移植に関わる切実な人間の安全保障には熱意を示さなかった。
 
 安倍晋三が口先だけの言葉を高邁な思想であるが如くに装わせて撒き散らす政治家だと疑わせる理由がここにもある。

 また人間の安全保障を持ち出すまでもなく、日本国憲法は国民の生命・財産を守ることを国に義務づけている。

 ここで言っている「生命・財産を守る」とは健康で人間らしく生きることのできる生命の保障であるはずだ。やはり臓器移植のスムーズな提供機会の構築も、その保障に含まれることになる。

 安倍晋三は前以て通告がなかった松田公太の質問に対して、「突然の質問でございますので、私はまだその現状を把握しておりませんが」と言っているが、NHK記事を案内として調べたところ、日本臓器移植ネットワークが上記調査を行い、《改正臓器移植法施行から5年》と題してプレスリリースとして公表したのは2015年7月14 日となっている。

 NHK記事が7月14 日公表の情報を1カ月以上も遅れてニュースとして配信したその理由は分からないが、プレスリリースだから、同時期に記事にしているマスコミはないかと同じく調べてみたら、日本臓器移植ネットワーク公表と同じ日の7月14 日の夜遅くに「asahi.com」が、〈改正臓器移植法の施行から5年間で、18歳未満の子ども97人の臓器提供が検討され、83人が提供に至らなかったことが14日、日本臓器移植ネットワークのまとめで分かった。そのうち17人は病院側の事情で提供に至らなかった。〉との出だしで、《子どもの臓器提供、97人検討83人断念 法改正5年で》と題して記事にしている。   

 と言うことは、臓器移植関係は厚労省が所管であり、厚労省が把握していなければならない情報ではあるが、人間の安全保障という観点からも、日本国憲法が国民の生命・財産を守ることを国に義務付けていることの観点からも、厚労省のみがその情報を抱え込むことは許されないことになり、7月14日から8月24日参議院予算委員会の開催までに何度も開いているはずの閣議を情報共有の機会とし、厚労省は取るべきその対策と対策の進捗具合の報告をし、その報告を内閣全体で共有する情報としていなければならなかったはずだ。

 いわば質問通告がなかったからと言って、「突然の質問でございますので、私はまだその現状を把握しておりませんが」と答弁することは許されなかった。

 もし厚労省が何ら報告せずに自分たちだけの情報として抱え込んで情報共有を図っていなかったとしたら、人間の安全保障も国民の生命・財産を守ることの国の義務も内閣全体で取り組むべき課題である以上、厚労省は国民の生命に関わる情報は内閣全体で共有しなければならないことをルールとしていなかったことになり(ルールとしていないことが厚労省だけでなかったとしたら、大問題である)、その怠慢の責任は厚労省のみではなく、総理大臣も負わなければならないことになる。

 つまり閣議で厚労相を通して厚労省からの報告があってもなくても、それが国民の救命に関する臓器移植の問題である以上、安倍晋三が「突然の質問でございますので、私はまだその現状を把握しておりませんが」との文言で情報の未共有であることを伝えることは内閣の長としての責任を果たしていないことの証明としかならない。

 怠慢そのものを曝け出したのである。

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8・21参院、安倍晋三の武藤議員未公開株問題を巡って党総裁と行政府の長使い分けの論理的正当性なき答弁

2015-08-24 11:38:38 | 政治


 8月21日(2015年)付の「NHK NEWS WEB」記事が、安倍晋三が8月21日の参院平和安全特別委員会で未公開株を巡るトラブルで離党届を提出、即日受理された武藤貴也自民党議員について自民党総裁としての責任を問われたのに対して、最終的責任は自民党総裁である自身にあるとしながら、どう対処するかは幹事長が対応すると幹事長一任だといったことを言い、内閣の長としての責任は、「自身は行政府の長だから、立法府の議員に対して議員を辞めろと言うのは三権分立の関係から適切ではない」と答弁したと報道していたから、果たして安倍晋三のこの手の論理に正当性を与えることができるのか、録画してあった8月21日の参院の質疑を昨日(8月23日)テレビで見てみた。

 上記記事には質問者は書いてなかったが、民主党の蓮舫である。だが、蓮舫の質問は安倍晋三の答弁に於ける論理の正当性如何に重点を置いてはいなかった。

 横着して、先ず最初にインターネット上にこの質疑を文字起こししたページが存在しないか探してみた。8月19日の参院特別委員会での小池晃共産党議員の質疑と8月5日の東京オリンピックエンブレムをデザインした佐野研二郎の記者会見で利用させて貰った「聞文読報」に載っていたので、再度利用させて貰うことにした。


 《【書き起こし】8月21日 蓮舫(民主党 新緑風会)の質疑(全文) 参議院『平和安全特別委員会』》聞文読報/2015-08-22)

 ※平成27年8月21日、参議院『平和安全特別委員会』より

 蓮舫「この安保法案に反対をしてデモをしている大学生を利己主義と批判をした武藤貴也代議士が自民党を離党されました。なぜでしょうか?」

 安倍晋三「これは党に多大な迷惑をかけたと、本人の意思で離党届が出されたものと承知をしております」

 蓮舫「なぜ離党するか理由は問いましたか」

 安倍晋三「幹事長に報告があったと承知をしておりますが、本人が先のインターネットにおける発言、そしてまた今回、未公開株における疑惑について、党に対して迷惑をかけたことをもって離党をすると、そういう説明があったというふうに聞いています」

 蓮舫「週刊誌報道の報道の内容は事実か確認をされましたか?」

 安倍晋三「党の方から本人に対しまして、しっかりと説明責任を果たすようにということでございました」

 蓮舫「事実か確認をされましたか?」

 安倍晋三「わたくしは、政府の総理としての立場としては、事実を確認するという立場にはないと、このように思っております」

 蓮舫「自民党総裁の立場として確認をしましたか?」

 安倍晋三「我々自民党においては、総裁が総理になった際には、いわば政府の長としての責任を全うすることに全力に尽くす、党においては幹事長がその任に当たる。

 わたくしはかつて小泉政権時代、幹事長でございましたが、党で起こったさまざまなことについてはすべてわたくしが責任を持っておりました。

 今回も谷垣幹事長が、責任をもって対応をしているということでございます」

 蓮舫「幹事長に責任があって、総裁には責任がないということですね?」

 安倍晋三「これは責任の所在ということでいえば、最終的には総裁たるわたくしであります。

 しかし、事に当たってどう対処するかは、これは幹事長が対応をするということでございます」

 蓮舫「未公開株で国会議員枠というのは一般的にあるんでしょうか?」

 安倍晋三「そもそもわたくしは、それについてまったく存じ上げておりません」

 蓮舫「消費者庁担当大臣にお伺いします。消費者トラブルとして、“ その「もうけ話」、大丈夫ですか?詐欺的な投資勧誘にご注意ください!”と、政府広報オンラインで特集をしています。何のトラブルが多発されてるんでしょうか?」

 山口消費者庁担当大臣「お答えいたします。

 ただいまご指摘いただきました政府広報でありますが、これは平成25年、一昨年でありますが、5月に実は関係省庁で、いわゆる新しい詐欺的な投資の勧誘、これによる問題が多発をしておるということで、政府広報オンラインに掲載をいたしました。

 その中で、『未公開株をめぐるトラブルが多発をしております』というふうなことで、未公開株の購入を勧められ、未公開株を購入したところ株券が届かない等のトラブルが多数発生をしておる、あるいは未公開株をめぐるトラブルや被害について一時減少傾向にありましたが、ふたたび被害が増えてきておる、あるいは未公開株詐欺の勧誘の手口が巧妙になってきておる、というふうなこと等を掲載をさせていただきました」

 蓮舫「まさに消費者庁も、あるいは政府広報のホームページでも、金融庁のホームページでも、警察庁でも、政府をあげての注意喚起は未公開株の詐欺。

 これ、金融庁のところでは『発行会社との強いコネにより入手』、『値上がり確実』、『あなただけに特別に譲渡します』などと称して未公開株の購入を勧められ、“国会議員枠と未公開株の購入を持ちかけ、株は購入せず金を返還しない”と報じられた武藤貴也議員、これ大臣、この注意喚起の事例に当てはまりますか?」

 山口消費者庁担当大臣「わたくしも週刊誌しか存じ上げておりませんので、その点についてはコメントを申し上げるようなものは持ち合わせておりません」

 蓮舫「まさに学生を利己的と批判した武藤議員の方が利己的だったと改めて思うんですが、偽のもうけ勧誘は詐欺、インサイダー取引だと『金商法取引違反』、自身の貸付金未記載は国会議員資産公開法違反の疑い、自民党は議員が法律違反の疑いがあるなら、離党届を迅速に処理するのではなくて、自身の会見を促して、党として調査をして処分をするのが、これが筋ではないですか?」

 安倍晋三「武藤議員は個人の判断として離党届を提出をし、党としてすでに受理したとの報告を受けております。

 国会議員は自らの行動に責任を持つべきであり、国民の信頼を損なうことのないよう、常に襟を正さなければなりません。自身の行動に関しては、政治家本人がしっかりと説明責任を果たすべきであると、このように考えております」

 蓮舫「提案します。

 今からでも離党届を一時預かる形にして、法律違反の疑いのある御党の議員だった人にちゃんと調査をして、そしてこれが問題がないのか、あった場合には議員辞職勧告を自民党総裁として、内閣総理大臣として、私はするべきだと思いますが、如何でしょうか」

 安倍晋三「まずわたくしは行政府の長ですから、それが立法府の議員に対して議員を辞めろと言うのは、これは三権分立の関係から適切ではないと、こう思うわけであります。

 一方、党としてどのような判断をするか、この案件についてどのような判断をするかということは、わたくしは党に任している一議員の行動については、まさに党に任しているわけでありまして、党として現在のところの判断としては、本人が離党届を提出し、それを受理したと、こういうことでございます。

 蓮舫「ならば幹事長に指示しますか?

 安倍晋三「本人から事情等を聴取したのは幹事長であり党でございますので、そうした対応については党に任せておるところでございます。

 蓮舫「つまり、党から切り離して終わりという形なんですね。

 もう一人、国会議員として憲法尊重擁護義務があり、首相補佐官として総理の側近としてお支えになっている、磯崎補佐官」――

 蓮舫は今度は礒崎陽輔に辞任を迫るべきではないかと、標的を変えた。

 以上は8月21日の参院での武藤貴也に関わる質疑である。

 この質疑の3日前の8月19日発売の「週刊文春」報道をマスコミが伝えたのは、知る限りでは発売同日の8月19日である。武藤貴也が自民党に離党届を出したのも8月19日であり、夕方ということになっている。マスコミ報道によると提出と同時に即座に受理したことになっている。

 同8月19日付、《武藤議員が自民に離党届 金銭トラブル報道 安倍首相「仕方がない」》産経ニュース/2015.8.19 18:4)記事によると、〈武藤氏は同日、離党届を提出した。党執行部は受理する方針。安倍晋三首相は、離党届提出について「仕方がない」と谷垣禎一幹事長に伝えた。〉となっている。  

 この記事の一節は、谷垣幹事長が週刊文春の報道を知って、これが事実なら武藤貴也の責任は免れないと早手回しに手を打つ形で以後の展開は自民党と関係ないこととするために離党届を提出するよう迫り、提出と同時に受理する方針でいたか、武藤貴也の方から党に迷惑をかけるからと自分から離党届を提出、即受理する方針を決めたかした後、谷垣幹事長が安倍晋三に連絡、武藤貴也に対する週刊文春報道に関わる事実確認と離党届の提出と受理する方針の事情を説明し、安倍晋三が「仕方がない」と受理を承諾したという経緯を取ったことを表していることになる。

 記事発信は8月19日の「18:4」――夕方の6時4分。時間的に受理を決めてから、直ちに官邸に連絡したか、あるいは携帯で連絡したかいずれかであろう。

 勿論、安倍晋三の「仕方がない」の言葉には、谷垣幹事長が週刊文春報道の内容に関わる事実確認を武藤貴也に対して行わないということはあり得ないから、事実確認の内容をも承知した上での承諾ということになる。

 つまり週刊文春の報道が事実なら、未公開株に関わる購入勧誘は国会議員の詐欺相当の犯罪に当たるはずだが、にも関わらず、後のことは後のこと、武藤個人の問題だとばかりに離党のみの無罪放免を謀ったことになる。

 ここで改めて8月21日の参院質疑から、安倍晋三の論理的に正当であるかどうかを問わなければならない発言個所を順次拾い出してみる。

 蓮舫の「なぜ離党するか理由は問いましたか」という追及に対して、安倍晋三は「幹事長に報告があったと承知をしておりますが、本人が先のインターネットにおける発言、そしてまた今回、未公開株における疑惑について、党に対して迷惑をかけたことをもって離党をすると、そういう説明があったというふうに聞いています」と答弁、武藤貴也から谷垣幹事長に週刊文春報道についての「報告」があり、離党理由の「説明」があったと伝聞形式で聞いたふうに装っているが、実際には谷垣幹事長から詳しい報告があり、安倍晋三が党総裁の立場でその詳しい報告を聞いた上で、同じく党総裁の立場で承諾を与えるという、お互いの党に於ける地位の上下関係からそういったプロセスを取っていなければならなかったはずである。

 当然、蓮舫の「週刊誌の報道内容は事実か確認したか」の再度の問に対して安倍晋三は「私は、政府の総理としての立場としては、事実を確認するという立場にはない」と答えていることは、何ら論理的に正当性ある答弁とは言えないことになる。

 自民党総裁としての立場を使えば済むことだからである。その立場を使わずに、総理の立場を使うことで、「事実を確認するという立場にはない」と逃げる。

 論理的正当性を与えることができないばかりか、この逃げの姿勢は卑劣でさえある。

 また、蓮舫の「自民党総裁の立場として確認をしましたか?」の質問に対して安倍晋三は「我々自民党においては、総裁が総理になった際には、いわば政府の長としての責任を全うすることに全力に尽くす、党においては幹事長がその任に当たる」と、総裁が総理になった際には党では党幹事長が総裁の任に当たる、言い替えるなら、幹事長が党の責任者となり、党務の全責任を負っていると言っているが、党総裁があくまでも党に於ける最上位者であり、最終決定権を握っている立場にあることに変わりはないのだから、党幹事長から最終決定権を握っている最上位者としての党総裁への報告と、最終決定権を握っている最上位者としての党総裁からの党幹事長への承諾というプロセスを取らずに幹事長が党務を任されているからと自身が何事をも決定する最終決定権者の地位に置いた場合、地位に応じてそれぞれに与えられた役割を相互に壊すことになりばかりか、幹事長側からの明らかに許されない僭越行為となる。

 と言うことなら、上記「産経ニュース」記事が暗黙的に触れているように一連の経緯の報告と報告に対する承諾というプロセスを常に介在させていなければ、党が決めた地位相互の秩序、引いては党という組織自体の秩序を保つことはできなくなる。

 要するに安倍晋三は自身が最終決定権を握っている最上位者である党総裁の立場で承諾を与えたことであることを隠して、全て谷垣幹事長が対応したことだと卑劣にも誤魔化し、自身に責任が及ばないように謀ったに過ぎない。

 次の蓮舫の「幹事長に責任があって、総裁には責任がないということですね?」の問に対する安倍晋三の「責任の所在ということで言えば、最終的には総裁たる私であります。

 しかし、事に当たってどう対処するかは、これは幹事長が対応をするということでございます」の答弁にしても、最終責任者は自分だとしているが、報告と承諾のプロセスがあって初めて幹事長と党総裁間の地位と役割を機能させることができ、あるいは地位と役割が機能していることになって、最終責任者は誰かが成り立つことになるはずだから、ただ単に自分が最終責任者だと口で言うだけで、そのプロセスには触れず、離党届の受理は谷垣幹事長が対応したことだと、全てを幹事長に丸投げをしている。

 さらに蓮舫の「今からでも離党届を一時預かる形にして、法律違反の疑いのある御党の議員だった人にちゃんと調査をして、そしてこれが問題がないのか、あった場合には議員辞職勧告を自民党総裁として、内閣総理大臣として、私はするべきだと思いますが、如何でしょうか」との問いに対して「先ず私は行政府の長ですから、それが立法府の議員に対して議員を辞めろと言うのは、これは三権分立の関係から適切ではないと、こう思うわけであります」と言い、離党届提出と受理は党の判断に任せていると答弁したことも、行政府の長としての対応が不可能なら、党総裁として幹事長に指示を出して、幹事長が対処し、その対処の報告と承諾か否かのプロセスを取れば済むことを、単に行政府の長と党総裁を使い分けて、議員辞職に持っていくまいと逃げているに過ぎない。

 議員辞職となれば、それ相応の責任が自民党総裁としての安倍晋三にもついて回ってくるからである。

 その責任回避のための以上のいくつかの答弁であって、その発言のどれを取っても、ゴマカシは認めることができても、論理の正当性を認めることはできない。

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安倍晋三の吐血報道が事実でなく、法的措置を検討なら、テレビ公開で胃腸内視鏡検査を行い、白黒つけよ

2015-08-23 09:10:35 | Weblog


 8月19日発売の週刊文春が、安倍晋三が今年6月、自民党の幹部やJR東日本の幹部と都内のホテルの客室で会食中に気分が悪くなり、トイレに駆け込み吐血したと、関係者の話として報道していることを2015年8月20日付「NHK NEWS WEB」が伝えている。

 安倍晋三の事務所は週刊文春の編集長と発行する文藝春秋の社長に対し、「全く事実無根の内容が含まれており、根拠のない証言によって構成する見出しと記事全体は、個人を中傷し、読者に著しい誤解を与える、悪質極まりないものだ」と強く抗議すると共に記事の撤回と訂正を求めたという。

 「事実無根の内容」とは、吐血を指すのだろう。

 もし記事の撤回と訂正が行われなかったらという意味に違いない、事務所は「今後、法的な措置を取るかについても検討していく」としているということだが、つまり強い態度を示しているということなのだろう。

 但し週刊文春編集部は「記事に書いたとおりです」と話していると記事は伝えている。

  安倍晋三側は吐血は事実ではないと言い、週刊文春側は事実だと譲らない。記事撤回と訂正の要求には応じるつもりはないということである。

 こうなったら、安倍晋三側は法廷闘争に持ち込んで、吐血の事実を争うしかない。

 件の週刊文春記事を読んでいるわけではないから、想像で書くことになるが、ブログのテーマは別のところにあるから、想像であっても、大目に見て貰いたい。

 会食は都内のホテルの客室で行われたというから、バス・トイレは客室内に備えているはずだ。「ちょっと失礼」と言って落ち着いた様子で立ち上がり、落ち着いた足取りでトイレに向かって、トイレの個室で水を流しながら嘔吐したとしたら、その声は同席者に届かないのではないだろうか。

 トイレの個室に入る余裕がなくていきなり洗面台で吐いたとしたら、その声は客室に届くかもしれない。

 吐血を直接見た者、嘔吐時の声を聞いた者がいなければ、伝聞の争いとなる。いざ法廷で証言するとなると、果して正直に証言するだろうか。「聞いた話ですから、確かかどうか分かりません」といった曖昧な証言にならないだろうか。

 見た者、聞いた者がいたとしても、安倍晋三側の関係者と言うことなら、法廷では口を閉ざして何も言うまい。

 週刊文春側はこの事実をどうして知り得たのだろうか。ホテルのロビーで張り込むことはあっても、客室にまで入り込むことはできない。会食等の報道は記者がホテルのロビーや料理店の前で待ち構えていて、安倍晋三なり、同席した関係者なりを掴まえて、どういったことを話し合ったのか尋ねるというのが定番となっている。

 それにホテルの客室での会食ということなら、SPは廊下に待機するはずだから、週刊文春の記者は客室の廊下に佇むことはできても、SP程には客室のドアには近づくことはできないはずだ。ドアに耳を押しつけたり、精巧な集音マイクをドアに当てて中の様子を窺うことはできまい。

 とすると、SPが予定時間よりも早く客室を出てきたことで何らかの異常を察知しことと併せて、安倍晋三と同席者を前後囲む形でホテル玄関の車まで移動する際、心配した関係者が安倍晋三に様子を尋ねる会話を聞いて知り得た可能性が出てくる。

 SPの一人が週刊文春にリークしたということではなく、SPの家族なり、知人なりについ喋ったことが、最終的に週刊文春側に伝わったという可能性も考えることができる。

 SPから始まった間接の間接の、あるいはさらにその間接の伝聞だから、6月の事実が8月19日発売の週刊文春に取り上げることになる2カ月前後の時間差が生じたということもあり得る。

 再び断るが、あくまでも想像である。記事が伝えている実際の情報入手経路は全然異なるかもしれない。あるいは単に「関係者」とすることで、具体的には何も触れていないのかもしれない。
 
 但し吐血の事実が想像通りの情報入手であるなら、裁判となって確かな証言を得るために入手元のSPにまで辿り着くことができたとしても、やはり、「はっきりと聞いたわけではない」と証言するぐらいがオチで、安倍晋三自身が否定すれば、裁判に勝ち目はなくなる。

 だが、一つ確かめる方法がある。もし吐血が事実であるなら、吐血の痕が胃内壁なり、腸内壁なり、食道内壁なりに残っているはずだ。安倍晋三の60歳という年齢から言っても、傷痕はそう簡単には消えないだろう。年を取る程に傷痕は消えにくくなる。

 刑事ドラマで刑事が体表面に残っている傷痕(きずあと)を「古い傷痕だ」、「まだ新しい傷痕だ」と判定しているから、医者が内視鏡検査すれば、傷痕の色素の沈着具合で何時頃の吐血によるものかどうかは判定できるはずだ。

 ここ半年以内の吐血痕がなければ、週刊文春報道は事実ではないとすることができる。

 医者単独にその検査を任せるのでは、安倍晋三側からの圧力でどのような情報隠蔽が行われるか保証の限りではない。週刊文春と安倍事務所の両者の立ち会いのもと安倍晋三の食道・胃・腸の内視鏡検査を行い、内視鏡を操作する医師、検査補助の看護師、そして検査が厳正に行われているかどうかを監視する立会人を含めた検査の様子と、内視鏡検査と同時にモニターに映し出されていく各器官内の様子を、ウソ偽りのない事実を国民の前に明らかにするという意味でテレビ報道したら、事実かウソか、白黒をはっきりとつけることができる。

 各器官共に最近の吐血痕が見つからなければ、週刊文春報道の吐血が事実無根であるとする安倍晋三側の主張・抗議が信頼できる、あるいは信用できる事実として国民は受け入れることができる。

 そのためにも内視鏡検査のテレビ公開が必要ではないだろうか。

 特に公の立場にある者が事実でない出来事を事実とすることも、事実である出来事を事実でないとすることも、決して許してはならないとすることを厳格なルールとしなければ、いつまで経っても、事実を自分たちの都合で様々に扱う情報操作が後を断たないとになる。 

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統幕の成立前の安保法案の分析・研究への自衛隊参加は禁止規定の政治的行為に該当、政治への関与となる

2015-08-22 08:13:59 | 政治


 ご存知のように安倍内閣は防衛省統合幕僚監部が安全保障関連法案の成立を前提に自衛隊の対応を記した内部文書を作成していたことについて何ら問題はないという態度を取っている。 

 内部文書の作成時期について防衛相の中谷元は8月19日の参院特別委員会で次のように発言している。

 中谷元「5月の14日の法案の閣議決定を機に必要な体制を整える観点から、翌5月15日に私から省内の監部に対して、法案の内容について一層、分析、研究に努めるとともに、隊員に対しての周知を行うよう指示をしたところでございます」(聞文読報)   

 2015年5月14日に閣議決定して、翌5月15日、統合幕僚監部に対して法案の分析・研究を指示、併せて自衛隊員への周知を指示した。

 この2015年5月15日は安倍内閣が安保法案を国会(衆議院)に提出した日でもある。

 いわば国会提出と同時に法案の分析・研究をスタートさせた。

 この早手回しには驚くが、法案の成立を前提に未成立の法案に基づいて分析・研究を防衛省内の統合幕僚監部が、例え幹部自衛官がそのメンバーを占めていたとしても、行政機関の一部として行うことは問題ないとしても、行政機関に所属していない自衛隊員を分析・研究に関与させることは自衛隊員の政治的行為の禁止規定に抵触し、政治への関与を意味しないだろうか。

 法案が成立し、法律となった場合は各条文の具体的運用に関わる解釈は国会審議を通じて確定的となるから、如何ようにも分析・研究しようとも解釈に影響を与えないだろうから自由であるが、成立前であるなら、その解釈に影響を与えて、それが国会審議での閣僚答弁に反映され、条文自体の解釈にプラスされた場合、自衛隊員の政治的関与を介在させたことになる。

 この解釈への影響は自衛隊法が第61条で、〈隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。〉と規定している内の、“政治的目的のための利益要求”に関する政治的行為の禁止に該当するはずである。

 また、自衛隊法施行規則の第86条第5項、〈政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し、又はこれに反対すること。〉という禁止規定に該当するはずである。

 8月19日の参院特別委員会では小池晃共産党議員の追求に対して中谷元は上に挙げた答弁だけではなく、その他にも統合幕僚監部の法案に基づいた分析・研究への自衛隊の関与に言及している。

 中谷元「自衛隊の幹部に対する説明につきましては、やはり法案の内容を正しくしっかり周知徹底をするという意味で、これは重要なことでございます」

 何しろ総理大臣や防衛大臣の指示の下、具体的運用は自衛隊に任されるのだから、自衛隊の幹部がただ聞きおくだけという一方通行の説明で終わる保証はなく、彼らの、現場のことは我々が一番知っているという現場知識主義に基づいた自衛隊幹部側からの要望や希望、期待の類いが寄せられないということは考えられない。

 未成立の法案に対する要望や希望、期待と言うことなら、政治への関与そのものとなる。

 中谷元「今般の法制に関しましても、成立前に法律の施行に際して必要となる事項について、あらかじめその内容を分析、研究しておくことは、実際に任務として実施していく防衛省、自衛隊としては必要なことでありまして、本資料も統合幕僚幹部として当然に必要な分析、研究をおこなったものでございます」     

 防衛省のみならず、自衛隊が必要とする法案内容の分析・研究だと言っている。

 中谷元は自衛隊の政治への関与を許しておきながら、シビリアンコントロールについて次のように答弁している。

 中谷元「このように、この資料の内容はわたくしの指示の範囲内のものであり、法案成立後に行うべきものである実際の運用要領の策定や訓練の実施、関連規則等の制定は含まれておらず、シビリアンコントロール上も問題はあると考えておりません」(以上(聞文読報

 自衛隊を政治関与させておいて、「シビリアンコントロール上も問題はあると考えておりません」と言う。

 安倍晋三も同じようなことを言っている。

 8月21日の参院特別委員会。

 安倍晋三「今後、具体化していくべき検討課題を整理すべく、必要な分析や研究を行うことは当然のことと考えている。ましてや今回の資料の作成は、防衛大臣の指示のもと、その範囲内で行われたものであり、資料の作成に問題があるとは全く考えていない。シビリアンコントロール、文民統制は完遂されている」(NHK NEWS WEB

 自衛隊幹部を政治関与させる“シビリアンコントロール”とは、一体どのようなシビリアンコントロールなのだろうか。

 自衛隊の政治関与が当たり前となったとき、自衛隊の意向が法律やその他の規則に反映されていくことになるだろうし、何しろ彼らは現場を一番知っているのは我々なのだという現場知識主義の特権を体質としているだろうから、法律や規則の具体的運用に於いても、自衛隊の意向が大きく反映されかねない。

 こういった状況の行き着く先が戦前の軍部とならない保証はない。


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