核保有議論をする資格

2006-10-30 06:37:52 | Weblog

 自民党の中川昭一政調会長27日(06年10月)にアメリカでアミテージ元国務副長官と会談し、「日本はかつてアメリカが直面したキューバ危機に匹敵する切迫した状況にある」として核保有について議論することへの理解を求めたと29日・日曜日のテレビでやっていた。

 中川氏「ゼロからのスタートなんです。北朝鮮にああいう暴挙を一刻も早くやめさせないと、それが目的」だと言う。

 10月29日の『朝日』朝刊の関連記事から中川氏の発言を拾ってみると、「核の傘とは何ぞやという歴史的経緯から勉強していきたい」とか「情報や歴史を整理し、総合的に判断する問題だ」と言っている。

 このような発言は『朝日』の記事も解説しているように、明らかにアメリカの核の傘のもとにあった日本の安全保障の是非(歴史的経緯)を時間を遡って検証しなおすことへの提案であろう。

 朝日の解説は「『日本が米国の核の傘の下にあることが基本』(政府関係者)の日米安保体制や、核不拡散条約(NPT)の在り方の再検討さえ迫る」ものとしている。しかし続いて、「ところが中川氏は日米安保やNPT体制は『大前提』と語っており、核保有論議は『自然に起きてくるはずだ』と党内で議論をリードするつもりがないことも強調している」となっている。

 以上のような中川氏の核保有議論発言に見せている矛盾しているようにも受け取れる二面的態度・主張は安倍首相の首相就任前と就任後の二面性と微妙に照応し合っている。

 安倍首相は首相就任前は「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と日本の核保有の可能性を論じているが、就任後は「政府や与党が核保有を公式に議論することはない」と逆の方向にではあるが、態度を変更させている二面性と否応もなしに響き合う。

 また中川氏の「核の傘とは何ぞやという歴史的経緯から勉強」と「情報や歴史を整理」は安倍首相が訴えている「戦後レジームからの脱却」と呼応しあう主張であろう。

 安倍首相が首相という立場にいて思うように発言できない不便・窮屈を代弁して中川氏が身代わりに発言していると勘繰りたくなる程に二人の主張は、その二面性も含めて呼吸が合う内容となっている。

 問題としなければならないのは、「日米安保やNPT体制は『大前提』」(上記『朝日』記事)とし、「私は非核三原則をいじるとは一言も申し上げていない。私はもとより核武装反対論者だ」(06.10.19『朝日』朝刊)としながら、例え〝核を保有する必要があるかどうか〟の議論であっても、そういった二面性は許されるかと言うことであろう。中川氏自身は〝言論の自由〟を掲げて、許されるとしている。

 2006-10-20 01:50:42にブログした『ニッポン情報解読』「核保有論議よりも金正日崩壊シナリオを」の記事に対して寄せられたコメントの回答を兼ねたいと思う。

 核の議論はするべき 2006-10-25 02:16:55 世田谷の住人
 中国は18年間2桁連続で軍事費を拡大させ、核を所有し、
 反日教育を行い、東シナ海では中間線ギリギリでガスを開
 発しています。
 「核の論議」ぐらいはする必要があります。
 十分議論して、必要がないと分かれば止めれば良いだけで
 す。必要があるのであれば持てば良いだけです。一般の日
 本人は常識を持っていると思いますよ。議 論するなとい
 うことは貴兄は自分は大丈夫だけど、他の日本人は判断力
 がないと、馬鹿にしているのではありませんか。

 あの記事では「『非核三原則をいじ』らない、『非核三原則は政府の立場として変わらない』の前提を絶対とするなら、『言論の自由』云々とは関係なしに『核保有の議論』(保有する方向への議論)は存在させてはならない」、「『非核三原則』に反対する者(核武装論者)のみに『核保有の議論』(保有する方向への議論)は許される」という主張を展開したのであって、「議論するな」とは一言も言ってないと思うのだが、そう解釈したようである。

 「自分は大丈夫だけど、他の日本人は判断力がないと、馬鹿にしている」といった論理展開もさせていないはずだが、そういったふうに受け取られる論理展開となっていたのだろうか。

 中川政調会長が「あの国の指導者は糖尿病ですから」とテレビで言っていたから、日テレHPで調べて引用してみると、「『あの国のあの指導者はごちそう食べ過ぎて糖尿病ですから、(日本への核攻撃を)考えちゃうかもしれません。相手はルールも何もない!おいしいモノが食べられなくなった。日本からウニや…おいしいマグロが入らなくなった。頭に来た!やっちゃおう!と思いかねない人なんですよ』と自民党・中川政調会長は20日、核開発を進める北朝鮮の姿勢を批判した。
 また、日本の非核三原則は前提だとしながら『相手が核ということになれば、核の議論ぐらいはしておく必要がある』と述べ、あらためて核保有議論の必要性を強調した」(10/21 1:47)

 例え「日本の非核三原則は前提だとし」ていても、「(日本への核攻撃を)考えちゃうかもしれません。相手はルールも何もない」という考えに立って、「相手が核ということになれば、核の議論ぐらいはしておく必要がある」とするのは、「非核三原則」を裏切る、あるいは「非核三原則」論者には許されない〝核保有に向けた議論〟を示しているはずである。百歩譲って、〝核を保有する必要があるかどうか〟の議論の提案だから、「非核三原則」論者であっても許されるのではないかとする主張を検証してみる。

 「日米安保やNPT体制は『大前提』」とし、「私は非核三原則をいじるとは一言も申し上げていない。私はもとより核武装反対論者だ」としているなら、そのような立場から日本の安全保障の政策を個人的にも党としても、あるいは内閣としても代々の内閣が引き継ぐ形で既に創造していたはずであるし、個人的には政権党に所属する政治家であるからなおさら創造し、準備していなければならないはずである。創造もせずに「私はもとより核武装反対論者だ」という態度を取っていたのだろうか。

 いわば「核武装反対論者」であるなら、また安倍首相が言うように「政府や与党が核保有を公式に議論することはない」とするなら、核を持たない防衛体制で外交政策をも含めた日本の安全保障をアメリカと共同で、あるいはそれと並行させて日本独自に様々に構築し、シミュレーションも行い、計画書として作成されているはずである。計画書に立案・構想した政策が北朝鮮が核実験を行っただけで有効性を失ってしまう程に粗雑な内容だったということなのだろうか。例えそうであっても、ほころびが出た箇所を修復して、対応できるように創造していくのが「核武装反対論者」、あるいは「非核三原則」論者の務めではないだろうか。

 中川氏は中国もロシアも核を持っていて、北朝鮮まで持つに至ったなら、日本の周りは核だらけになってしまうといったことを言っていたが、中国・ロシアの核は今に始まったことではないから、日本の安全保障に新たに加えるべき要素ではなく、それに対する政策は前々から準備していたはずである。北朝鮮の核に対する不安・脅威に関連させて中国・ロシアの核にまで言及するのは、安全保障に何ら準備していなかったからなのだろうか。何も準備していなかったとしたら、「核保有議論」を云々する前に与党国会議員として責任を果たしていないことになって、政治家として失格者の烙印が押されなければならない。

 もし中川氏が核保有議論をするなら、「核武装反対論者」であることをやめるか(私に言わせれば、正直な姿を現すか、と言うことになるが)、少なくとも「核武装反対論者」であることに自信を失った、日本の安全保障は核なくして成り立たないのではないか、日本の「非核三原則」は時代に合わなくなったのではないか、日本が核を保有する必要があるかどうかの議論を始めるべきではないかとすべきではないだろうか。

 「核保有超党派国会議員の会」でも作って、その座長に納まって、大いに議論すればいい。核を持ったとしても、使えない核と化し、カネのムダ遣いで終わるだろう。例え北朝鮮が核先制攻撃を行ったとしても。先制攻撃に先んずる外交政策をも含めた政策を創造すべきだろう。

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郵政民営化造反議員復党/安倍無節操劇の一幕?

2006-10-29 04:44:06 | Weblog

 自民党が党を除名した郵政民営化反対議員に対する復党問題で揺れているとここ何日かいくつかのテレビが取り上げている。復党が世間で言われているように来夏の参議院選挙対策なら、安倍首相の消費税増税隠しのご都合主義と同列に置かなければならない自己利害行動としなければならない。

 28日(06年10月)土曜日の朝8時からの日テレ「ウエーク!」での遣り取りをなるべく忠実に再現してみる。

 桝添要一自民党衆議院議員
 「参院選挙云々という話が出てますけど、そういうことよりも、総理代わって、新しい政治です。教育改革やりましょう、いじめから何から大変です。拉致、片付けましょう。そうするとねえ、教育改革中心だったのは佐賀の保利耕輔さん。この人は本当に頑張った。この方の力を借りるのは国民のためにはいいことです。拉致は平沼さんが一生懸命おやりになってるんですね。だから郵政はもう終わったんですね。だから新しい時代に新しい課題にはオールジャパンでやっていこうということですから、そういう大義があるわけです。そのあとのことは、そういうことは政治の世界ではいくらでも、だって、昨日の友は今日の敵だったり、離合集散はあるし、いろんなことありますよ。みなさん、どのくらい政党に属してるんですか。一杯変わってますよ。それはどうですか。そういうことじゃなくて、それはそれぞれ地域において調整すれば済むことであって、新しい時代には新しい課題を掲げて、やり直しましょうと言うことです」

 長妻昭民主党衆議院議員
 「自民党の本性が出たなと思います。去年の総選挙と言うのは郵政が変われば日本が変わると、よくなるんだと、ばら色のこれ、テーマで一点集中で絞って、そして大勝したわけですね。我々は社会保障とか、まあ年金問題等々、色々な争点、天下りとか持ちかけたのですが、しかしやはり当選した方はその郵政、まだ、あれプログラム法ですから、まだ実現していないんで、本当にそれを変えて日本を変えるという公約を引き続きやる責任があるんですね。先ほどもコスタリカ方式とか比例とかありましたけど、多分地盤が脆弱なですね、その新人の方は最終的に比例に回されて最後には小選挙区では立てないような状態になると、こういう過程を辿ると思うんですね。そういう意味では日本を変えるという仕事を最後まで貫通しないで、そして選挙目当てで人を入れていくという、そう、節操の無さというのは、非常に私には不可解ですね」

 桝添自民党衆議院議員
 「それは違うんですね。郵政民営化賛成しない人は入れません。安倍総理の方針に賛成しない人は入れません。ですから、誰でも入ってくると。絶対郵政民営化、今でも反対であって、付いてきません。そういう方は例え国民新党という人おられれば、そういう方と一緒にやることはありません。ちゃんと条件つけますよ」

 司会
 「平沼さんなんぞはいまだに賛成したことないわけで、どうなりますか」

 桝添自民党衆議院議員
 「事態はもう民営化で動いているわけです。だから、ちゃんと踏み絵を踏んでもらいます。ダメならダメです」

 長妻民主党衆院議員
 「プログラム法ですから、途中やっぱ色々と変更が効くような法律なんですよ。だからそこでブレーキかかって、結局は国民のみなさんと約束したのと違う形になってしまう危険性をあるわけです」

 桝添自民党衆議院議員
 「我々が執行部である限り、そういうことはありません」

 司会
 「猪瀬さんと大宅さん、一言ずつ」

 猪瀬直樹
 「あのね、目先のことばかりおっしゃってはいけません。やっぱ郵政民営化をやって、郵政民営化をきちんと、まだ途中ですから、基本的にはできてますけど、それをやっぱ続けるのは、ね、当然ですよ。信義みたいなものをやっぱり国民に問うたわけですから、そこはあくまでも貫かなければいけないと思いですね」

 大宅映子
 「私は、結局おカネの上手な使い方、生きたおカネの使い方の問題なんですよね、根っこのところでは。これからどんどん右肩上がりなんかないときに、あの郵政のおカネをどううまく使うのかっていう形が一番大事なことであって、あんま小っちゃなことにゴチャゴチャ言ってる場合じゃないっていう気がします」

 勿論桝添議員は復党賛成の立場から議論を展開し、民主党の長妻議員は批判する側に立っている。評論家の大宅氏も「あんま小っちゃなことにゴチャゴチャ言ってる場合じゃないっていう気がします」と言っている以上、賛成側に立っているのだろう。なぜなら「郵政のおカネをどううまく使うのかっていう」ことだけの問題ではなく、政治家の〝ルール〟に関わる無視できない本質的な問題だからだ。決めたルールを例え一つでもご都合主義的な自己利害で破る政治家は如何なる場合でも同じような自己利害に従った行動を取る。安倍首相の歴史認識に関わる持論変更を一つ見ただけでも、安部晋三なる政治家のルールに関わる姿勢がどのようなものか理解できる。当然ルールに関わる問題を「小っちゃなこと」とするには、復党に持っていきたい気持があるからでなければならない。

 桝添氏に対する第一印象は東大を出て東大の教授を勤め、退任後国際政治学者を名乗って評論家活動をした人間の割には主張に論理性を欠いていることである。「我々が執行部である限り、そういうことはありません」という保証は言葉だけで終わらせることもできる断言でしかない。郵政反対派議員は選挙となれば、敵は何も同じ党のいわゆる刺客の類だけではなく、民主党や他の野党の対抗馬も敵として迎えなければならない。復党して選挙で党公認と選挙地盤を回復した上、刺客という前門の虎を免れたとしても、彼らの支持者である郵便局長とかのいわゆる郵政に関わる既得権益者の利益にならない政治活動を行ったなら、票を失うことになって、後門の狼たる民主党以下の野党候補に不利な戦いを強いられることになる。

 いわば、彼らは復党で桝添が言うどのような「踏み絵」を踏もうと、支持者を構成する郵政既得権益者の利益も図らなければならないというジレンマを抱えて新しい自民党活動を行わなければならない矛盾を抱えることになる。そのような議員を抱えていて、「我々が執行部である限り、そういうことはありません」という約束はどれ程に確かなものとすることができるだろうか。

 また小泉首相は昨年の9・11総選挙で郵政問題のみに限った賛成・反対の基準で党員を選別した。その他の教育改革や拉致問題に支障ないと見たから、郵政限定でいけたのだろう。それとも取り敢えずは郵政限定で、郵政民営化法案を成立させたなら、復党させればいいとの前提で暫定的措置として党公認を与えず、刺客まで送り、なおかつ除名や離党勧告を行ったと言うことなのだろうか。今になって教育改革問題に保利耕が、拉致問題に平沼赳夫が「大義」だとするのはご都合主義であるばかりか、矛盾する。逆に人材不足の非難を受けなければならない。

 長妻議員が「当選した方」は「郵政」を「変えて日本を変えるという公約を引き続きやる責任があるんですね」、「日本を変えるという仕事を最後まで貫通しないで、そして選挙目当てで人を入れていくという、そう、節操の無さというのは、非常に私には不可解ですね」と言っているが、まさにその通りで、対抗馬として自民党公認の資格を獲得し、〝刺客〟・〝くの一〟等で立候補した人間は一義的に郵政民営化実現の使命を担っていたのである。単に造反議員を落選させるために立候補を任されたわけではないだろう。

 07年10月から郵政民営化はスタートする。民営化がどのような内容で進行するのか、長妻議員が指摘したようにプログラム法である以上行く末を見守る義務がある。桝添氏が言うように決して「終わった」問題ではない。民営会社としてスタートラインに立ったとき、当初目指していた姿と違う、微妙に後退した姿となっていたということもあり得る。

 また桝添氏は復党といわゆる〝政党渡り鳥〟の「離合集散」を同じ俎板の上に置いて同じレベルの事柄としているが、中には政治的主義主張からではなく、国会議員という身分維持の自己利害からの節操を問題としない〝渡り鳥〟もあるわけで、かつて大学教育者であり評論家を名乗っていたなら論理的に議論を構成しなければならないはずだが、それを裏切って「離合集散」の個別性を無視してすべてを一緒くたに扱う不合理を犯している上に、さらにそのように合理的ではない理屈を郵政造反議員の「復党」の正当化理由にも結びつける二重の不合理を犯して何とも思わないでいる。こういった論理性を欠いた人間が国会議員を務めていると思うと、薄ら寒い思いにさせられる。

 同じ日の早朝からのTBSテレビ「朝ズバッ」では自民党参議院議員の片山虎之助が「安倍総理の理念や政策を共鳴をして、一緒にやりたいと人はねえ、復党してもらった方がいいと思いますよ」と言っていたが、参議院選で敗北したら、自分が所属する参議院自民党勢力の立場を失うし、敗北とまで行かなくても議席を減らしただけでも発言力低下を招く恐れからの、いわば勢力消長を問題とした発言なのはミエミエである。

 なぜなら、「一緒にや」るが「安倍総理の理念や政策」の「共鳴」を条件とするなら、自民党内にいる「安倍総理の理念や政策を共鳴」していない少数派は、「一緒にや」る条件を失って、逆に離党しなければならない。こじつけに近いが、〝条件〟(=ルール)を厳密に適用するとなるとそうしなければならない。

 「朝ズバッ」のカメラが野田聖子や平沼赳夫、武部善幹事長を追った。

 野田「できる限り前向きに取り組んでいただきたいと思っております」
 平沼「また自民党の同士と汗をかいてもいいなと、まあ、こんな感想を持ってます」

 復党したくてうずうずしている容姿を窺うことができる。
 
 菅直人「自民党という党が使い捨ての政党であるということを示していると思います」

 面白くも何ともないまともすぎる反応で、この程度のことしか言えないのかと分かっただけでも価値ある映像の一コマであった。

 武部前自民幹事長「私はねえ、さっき小泉総理と会いました。心配してましたよ。既得権者の票を当てにして、絶対参議院は勝てっこないと言ってましたよ」

 何かの会合か、マイクに向かって声を大にして言っていた。「さっき小泉総理と会いました」とは、武部氏の中では小泉純一郎はまだ総理大臣のようである。ということは自分はまだ自民党幹事長のつもりでいるのだろうか。

 武部前自民幹事長はいわゆる小泉チルドレンと称されるうちの無派閥新人議員を集めて新グループ発足を表明している。そのような立場上、逆に新人議員を追い出しかねない造反議員復党は真っ向から自己利害と対立する。声を大きくして反対する理由がそこにあるのだろう。

 所詮、人間は政治家であろうがなかろうが何らかの自己利害で動く。問題は自己利害行為が合理性を備えていて、広く一般的に正当性を獲得できるかどうかである。「大義」なる言葉も桝添同様に自己利害正当化の口実・便宜に利用される言葉であって、言葉どおりであるとは限らないことが多い。

 最後に安倍首相。解説で「今週党に対して復党問題に対する検討を指示しました」と説明があった後、「同じ考え方を持っている人たちに対して、どう対応していくか、それは幹事長、まあ党本部で検討して参りたいと思います」

 「検討」とは体裁で、〝体裁〟に時間をかけている間に世論がどう動き、どう判断するか、その動向・推移を見守って、復党が参議院選挙で自民党に有利に働くか、不利に作用するか見極めてから最終的に決定しようということだろう。だから自分の考えは述べない。不利に動く可能性のある事態に関しては、党が決定したこととするのだろう。機会あるごとにリーダーシップの発揮を言いながら、そのことに矛盾する党の決定への同調なのである。

 また有利・不利で判断すると言うことは自己利害行動の証明以外の何ものでもない。節操を超えたところで自己利害が基準とされることの証明でもある。

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安倍首相の単細胞反応な履修不足問題

2006-10-28 02:27:17 | Weblog

 世界史科目は必修、日本史か地理のいずれか1科目の合計2科目が必修、それが規定の学習指導要領を無視して選択制としたために、必修の世界史の授業を受けない実質的には単位不足状態の生徒の存在が富山県の県立高岡南高校で明るみに出て、それが出発点となって全国的な問題へと発展して、新聞・テレビが盛んに取り上げている。

 必修無視の発端は、例え必修であっても、受験に必要のない科目は生徒の受験勉強の負担を軽くするために学習指導要領の規定には目をつぶって免除していたということらしい。生徒側の要望から始めたということだが、負担を軽くすることで、生徒が希望の大学に合格する確率が高くなれば、生徒側の利益となり、同時にそのような合格実績が優秀な高校であることの証明となって学校側の利害とも一致する。校長たちは次のように弁解している。
 
 「生徒のためを考えてしたことが、結果としてこんなふうになって大変申し訳ない」
 「生徒の負担を軽くしてやりたかった」
 「受験に必要な勉強だけしたいという生徒の要望を受け入れた」

 全国的な広がりを見せていると言うことは暗黙の了解のもと、広く制度化していたということだろう。政治家が日常的に行っている政治資金規正法をかいくぐった迂回献金みたいなものである。そう、ただ単に学習指導要領をかいくぐってお互いの便宜を図っていたに過ぎない。自分だけ利益を得る迂回献金と違って、ずっと罪は軽いのではないか。
 
 誰も不利益を蒙る者がいないのだから、メデタシ、メデタシで結構なことだと思うのだが。元々日本の教育は暗記教育を制度としているのである。必要としない知識は暗記の対象から外すムダの省略は今の時代の価値観に合致する必然的な推移であって、必要とする知識のみを暗記する、そのような構造に相互対応し合って、必要としない科目は例え必修であっても排除の対象とされ、必要とする科目のみが受容される。適者生存の法則が適用されただけのことでもある。

 学習指導要領無視の発覚は外部の指摘があってということらしいが、誰がそんな余計な指摘をしたのだろう。単位不足を挽回するために卒業までの間に不足時間を集中的に受けなければならないと言うことだが、テレビで生徒の一人が「東大を受ける者として、無駄な時間を費やさなければならないのは辛い」といったようなことを言っていたが、正直な気持ちだろう。

 10月26日早朝5時半からのTBSテレビ「みのもんた朝ズバッ」で、次のようなやりとりがあった。

 みのもんた「教育する方も教育される方も、学問という道をどういうふうに考えているのか。お粗末極まりない。21世紀の日本を担う若者たちがこういうことでもって、例え受験に合格したとしても、人間性失格だねえ」
 アンカーマン嶌信彦「必要な勉強だけしたいってねえ、そんなことやって人間が成長できるかって。逆ですよ。(学校は)人間が成長するためには受験に必要なための勉強だけしてちゃあダメだよって言わなければいけないんですよねえ」
 みのもんた「学ぶってどういうことか考え直さなければならない」とか「昔は学問に王道なしと言って、みんな平等に学問が受けられた」
 同じく嶌信彦「知識って、たくさんあって、初めてね、物事の本質を見る構成力、分析力とかが出てくるんですよ。知識つけなかったら、物事の本質見えないんですよ」
 アンカーマン木元教子「誰が考えたんだろう。こんなシステム」

 社会の現実を知らずに、公共の電波を使って、その資格もないのに偉そうな口を叩く。社会の現実を知らないとは言っている本人からして「物事の本質見」る目を持たないからであって、当然間違った情報を垂れ流しているに過ぎない。

 みのもんたは日本の学校が大学でさえも、学問を教える機関とはなっていないことを知らないのだろうか。精々大学院の一部が学問機関となっているに過ぎない。高校までは進学のための勉強をする場であり、大学は卒業してより良い企業に就職することを目的として、そのための単位を取る場となっているに過ぎない。

 また、いくら知識を身につけたとしても、考える力がなければ、与えられた知識は与えられたままの知識で終わる。考える力を持ってこそ、与えられた知識は自分の知識となっていく。教えられた知識であることから自分自身の知識への発展・獲得へと進む。当然、知識をたくさんつけたからと言って、「物事の本質を見る構成力、分析力」を自動的に獲得できるわけではない。

 日本の教育が暗記教育となっている関係上、必要としない知識は暗記の対象とせず、必要とする知識のみを暗記対象とすると既に指摘した構造を自然な形式としている、そのような学校教育知識がそもそもからして生徒それぞれの思考能力を刺激し、創造性を否応もなしに高めていく、それ相応のインパクトを持っていると言えるのだろうか。

 考えさせることをしないから、生徒は発展もない同じ知識を鵜呑み状態で持つことになり、違いは鵜呑みした量(暗記量)でしか現れない。同じ知識だから、誰にとっても質問が同じで鵜呑みした知識をそのまま吐き出せば片が付くような構造のペーパーテストは成績を測るには公平・最適の方法となり、そのことが生徒の能力を測る方法としてペーパーテスト偏重の現象を生み出し、そのようなペーパ-テスト偏重が逆にペーパーテストの質問に合わせた知識獲得を学校教育とする悪循環な相互作用を引き起こしている。

 「物事の本質を見る構成力、分析力」を引き出すことができるような「知識」が学校教育の場で遣り取りされていると思い込んでいること自体が既に滑稽な妄想に過ぎない。火のない所に煙は立たずの譬えどおり、議論のない所に「構成力、分析力」は立たずである。嶌信彦は何様みたいに身振りよろしく得々と喋っていたが、空理空論を述べたに過ぎない。

 またマスコミは学校教育が受験予備校化しているとか、塾化しているとか学校を盛んに批判するが、その種の批判を口にする資格はマスコミにはない。東大とか京大といった有名大学(ブランド大学)への高校別合格数を大々的に発表するなどして、国立では東大・京大等を、私大では慶応・早稲田等を絶対とする風潮の補強・強化に率先垂範して関与し、大学の優劣ばかりか、有名大学合格者数に応じて高校をも優劣に序列づけ、受験競争を煽り立ててきたのはマスコミ自身である。

 断るまでもなく学校社会とは日本社会に数々ある社会の内の一つであって、いわば全体社会の下位に位置する、重要ではあるが、一つの社会に過ぎない。日本という全体社会の空気・風潮、あるいは考え方を受け、その影響を免れることはできない制約下にある。いわば学校社会は全体社会を反映し、必然的にそのヒナ型として存在することになる。

 となれば、答えは既にお分かりだろう。学校の受験予備校化も塾化も学校社会が自分たちだけでつくり出した現象・制度ではなく、全体社会自体が学歴社会化している現実があって、その風潮・学歴主義が当然学校社会にそれを下支えする圧力を生み、形を取ったのが受験予備校化であり、塾化であるということである。このような社会づくりにマスコミだけではなく、政治の力も大きく関与している。

 全体社会が学歴や卒業大学で人間を差別化(=優劣化)することがなかったなら、高校以下の学校教育が学歴教育化、あるいは受験教育化することはなかったろう。全体社会との暗黙的な相互連携による学歴教育化・受験教育化の過熱した姿が、あるいは合理化が全国的な必修無視の制度となって現れているということだろう。

 マスコミは出身校別の大学合格者報道、あるいは有名大学卒の人間を人生の勝者と扱うような持ち上げ報道で社会全体の学歴主義を煽り立て、その正当化、あるいは絶対化に努めてきた。戦前、軍部に阿諛追従の同調で戦意高揚、軍国主義鼓吹に率先協力し、軍部国家権力の正当化・絶対化に努めたようにである。対象は違えても、本質的には同じことをしている。戦前も戦後も何も変わっていないと言うことである。

 アンカーマンの木元教子は単細胞にも嶌信彦が偉そうに言った「物事の本質見」る目がないらしく、「誰が考えたんだろう。こんなシステム」と無邪気そうに言っていたが、日本の社会全体、日本人全体が考え出した「システム」であり、学歴主義の蔓延化・徹底化に積極的に手を貸しているという点で特にマスコミはその罪は重い。木元教子も嶌信彦もマスコミ人として戦犯の位置にいる。

 履修科目不足は27日(06年10月)午後7時からのNHKテレビで全国で39都道県380校にも及んでいると報道していたから、全国的に制度化していることの補強証明でしかないが、相変わらず学校の問題とのみ把えた内容の報道となっていた。日本の全体社会が学歴主義に侵されていることを受けた全国的な制度化であって、全体社会と学校社会が学歴主義を響き合わせた当然の結果としてある社会全体の問題と把えることができない。

 但し、全体社会の学歴主義を受けたからと言って学校社会自体がいきなり制度化に走るわけではなく、学校社会に於いてその成員である生徒の間で一種制度化していた(=慣習化していた)ことと全体社会の学歴主義の進行(とってい悪ければ暗黙の要望)の二つの圧力と、そして自己利害を受けて学校自体の制度としていったという経緯を踏んでの今回の事態であろう。

 これは私自身の経験からの判断である。1958(昭和34)年3月に高校を卒業したのだが、高校3年のとき何の授業を受けていたのか忘れたが、東大を現役一発で合格した、その当時から優等生の誉れ高い同級生が机の上に斜めに立てかけて開いたその授業の教科書にペーパーブック様の英語の本を載せて読んでいたのを見かけたことがある。東大を目指しているような優秀な人間でも先生に隠れてそんなことをするのかということと、英語の教科書でさえ読み解釈するのに四苦八苦している私と比較して、英語の本を辞書も使わずに読むことのできる能力に驚いたが、ある授業中に別の教科の勉強をすること自体は私自身もしていたことだが、大抵の生徒がしていたことで、別に驚くことではなかった。そのような仲間に東大を目指す人間が加わっていたことの驚きでしかない。

 人間は利害の生きものである。受験を控えていて、目指す大学の試験科目に入っていない授業を履修しなければならない状況に立たされたとき、その授業を真面目に一生懸命受けるだろうか。「必要な勉強だけしたってねえ、そんなことやって人間が成長できるかって」などと言う嶌信彦センセイなら間違いなく真面目に一生懸命に授業を受けて、現在のように人間的成長を遂げた姿を見せているわけだが、自己に有利・不利の感情に動かされて、有利な方向に動こうとするのが人間である。特に中間試験とか期末試験とかの前は、受験勉強に必要のない授業は受験科目に入っている科目のテストで少しでもいい点を取るべく、その勉強・暗記に利用するだろう。

今から48年も前から、多分その前からだろう、生徒の間では必要のない科目の履修は形式で済ませ、実質的には無視を制度としていたのである。受験科目にない必修授業のテストは一夜漬けでそこそこの合格点を取りさえすればいいとしていた。そのような実態の上に、学力向上だ、何だと社会の要望・圧力の進行、大学と高校の選別化・差別化、さらに学歴主義の強化・徹底が生徒が制度化・慣習化していた履修無視を学校自体が実体的な制度とするに至った。そういうことだろう。これを進歩と呼ばずに、何と呼んだらいいのか。

 それをさらに「教育バウチャー制度」とかで新たなより強力な競争原理を取り入れ、学歴主義を強めようとしている。

 小泉首相「それで具体的にどう変わる」
 安倍官房長官「人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにく
       くなる」
 二階経済産業相「廃校になってしまう」
 小泉首相「それで反対があるわけか」
 牛尾氏「競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛
    成する」
 (『分裂にっぽん3 揺らぐ「約束」』06.9.17.『朝日』朝刊)

 嶌信彦センセイの口調を借りて言うなら、「学校として生存できるかできないかの瀬戸際に立たされてねえ、学習指導要領どおりなんてやってられるかって」ということになり、背に腹は変えられないとなれば、学校側は新たな学習指導要領破りを考え出さなければならなくなる。

 学歴の上下で人間を優劣に判断する学歴社会となっている以上、合格実績で学校の優劣は評価される。その評価も合格大学の優劣・人数が基準となる。二流・三流大学に100人合格させた高校よりも、東大・京大に10人現役で合格させた高校の方が優秀とされ、高い評価を受ける。マスコミが大々的に報道することによってその価値を全国的に知られた高校に優秀な生徒が俺も私も東大・京大と全国から集まり、結果として東大・京大入学率がさらに上がる好循環を生み出し、勝ち組か固定することとなる。

 塩崎官房長官はテレビで「ルールはルールで、守ってもらわなきゃ困るということです」と言っていたが、では自分たちは常にルールを守っているのかと言うと、一般社会の人間よりも自己利害中心で動く政治の世界である、偉そうなことを言う資格はない。安倍首相の自らの歴史認識をゴマカすルール破り、来年夏の参院選で敗北しないための一度除名した郵政造反議員の復党を図るなりふり構わないルール破りなどから比べたら、合格実績を今ひとつ上げ切れない高校、あるいは今の合格実績を維持か向上させようとしている高校が必修だ何だとなりふり構ってはいられないルール破りなど、どちらが無節操かという点で軍配は政治家に上げなければならない。

 安倍首相は首相官邸での記者会見で「そういうことが起こるとは考えられなかった。子供たちの将来に支障をきたさないよう対応してもらいたい。こういうことがないよう、各学校は緊張感を持って当たってもらいたい」などと単細胞にも自分たち政治、あるいは政治家が何ら関与していない、マスコミと同様に学校の問題とのみ把えていた。

 それはそうだろう、「教育バウチャー制度」を採用して、社会・学校の学歴主義の尻をさらに叩こうとしているのである。そのことに気づきさえしない客観的認識性不足の近視眼だから、「そういうことが起こるとは考えられなかった」は当然な単細胞反応としてあるものだろう。

 但し、「子供たちの将来に支障をきたさないよう対応してもらいたい」と学校の生徒の肩を持つように思わせる正義の味方風の態度は見事である。マスコミと並んで日本社会を学歴社会としてきた重罪犯は政治家と官僚なのである。自分たちでそのようにしてきながら、「子供たちの将来に支障をきたさないよう」とか、「緊張感を持って当たってもらいたい」とか、学校の問題とのみ把えて、自分たちの問題でもあると把えないこと自体が鉄面皮な責任転嫁でしかない。勝ち組固定化の格差社会つくりの張本人の一人でありながら、ハイ、勝ち組を固定化させない「再チャレンジ政策」ですとマッチポンプをやらかしているように、学歴社会化に重要な立場で貢献しておいて、ハイ、自分たちは関与していませんといった態度を取る。

 ゆとり教育政策による授業時間の減数化、学校土曜休日化が受験学力の低下を招いて合格実績を悪化させ、その反動が履修無視がかりか、〝ゼロ校時〟とか言って、始業の一時限前に授業時間を設けて勉強させる制度としたり、〝勉強合宿〟とかで、生徒を缶詰にして朝から夜まで勉強漬けにする隠れ制度を用意したりして、逆に学歴主義・テスト教育を強化・加速する現実を招いている。

 しかし問題はそこにあるのではない。日本の学校教育が暗記教育となっていること自体を問題としなければならなかったのである。暗記教育は従う形式の教育であって、生徒自らが働きかける構造になっていないから、時間をかけることで成り立つ制度である。暗記量に比例して授業時間を多く必要とする関係式を当然持つ。そのことに気づかずにゆとり教育と称して授業時間だけを削ったり、土曜日を休みとした。その結果の〝ゼロ校時〟、〝勉強合宿〟という時間増加設定の反動があり、少なくなった授業時間を有効に使い回しする方策としての履修無視でもあったろう。そういった方策自体が同時並行的に学歴教育への加速化・受験予備校化ともなっていったに違いない。

、ゆとり教育を推し進めるなら、暗記教育をやめることから出発させなければならない。安倍首相にしても、日本の教育を暗記教育から脱却させて、考え、創造性を育む教育とするのか、このまま暗記教育を続けて暗記学力を底上げしていく教育を日本の教育とするのか、どちらの道を選択すのかはっきりさせなければならない。はっきりさせないで改革を試みるから、学校・生徒を戸惑わせるだけとなる。

 暗記教育の道を取り続けるなら、必修無視を容認することが「子供たちの将来に支障をきたさないよう対応」することになるだろう。何を必修とするのか、文科省が決めるのではなく、それぞれの学校の決定事項とする。そうしたとき初めて「教育バウチャー制度」を導入・推進する資格を得る。学校はさらに受験予備校化・塾化で応えるだろう。

 そこまで考えるのは近視眼・単細胞では無理な話か。

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衆院補選、民主大敗北の2連敗

2006-10-26 02:18:38 | Weblog

 「ドブ板選挙」は時代遅れではないのか

 *親離れが子供の成長を促す。
  自民党離れが、日本の政治を発展させる。
  日本の政治と政治家に緊張感をもたらす。
  政権交代は
  政治三流国から政治一流国へ向かう
  一度は通らなければならない
  普通の国への扉

 10月22日(06年)投票の衆院神奈川16区、同大阪9区の同時補欠選挙の結果を殆どのマスコミが「自民2勝」、あるいは「自民連勝」の文字・言葉を見出しや解説に踊らせたが、民主党代表を小沢一郎へと仕切り直して、日本に真の2大政党時代が幕開けするのか、仕切り直しが効果なく、幕開けせずに民主党以下は日本が一党独裁の国ではなく、民主主義の政治形態を取っていることを証明し、且つ政権党である自民党を引き立てる形式的必要上からの永遠の野党の存在のままま終わるのか、国民の政治意識が問われている状況下の選挙である。いくら「両選挙区とも自民党の議席だったうえ、北朝鮮問題で逆風下の戦いだった」(『衆院補選 自民2勝』06.10.23.『朝日』朝刊)とはいえ、その影響があったとしても、神奈川16区の投票率が前回の64・77%を17・61%も下回って47・16%、大阪9区が前回の67・56%を15・41%も下回って52・15%だったことを考慮すると、「民主大敗北の2連敗」とすべきだろう。

 両選挙区とも投票率が10%以上も下回ったと言うことは政権交代に向けた民主党の熱意を有権者が共有しなかったことの証明以外の何ものでもない。いわば政権交代の訴えを含めて民主党の政策は空回りした。有権者の関心を政権交代に向けることができず、元々腰は重いが、選挙結果を左右する頭数を有する無党派層の足を投票所に運ばせる程のエネルギー・気力を与えることができなかった。

 なぜなのだろうか。大阪9区の場合、「昨年の総選挙で西田氏に敗れた大谷氏は、鳩山幹事長を陣頭に、地方議員や党職員を動員しての『ドブ板選挙』を展開したが頼みの無党派層に浸透しきれなかった」(同『朝日』)と解説しているが、「ドブ板選挙」と「無党派層」の関係がすべてを物語っているように思える。

 「ドブ板選挙」はかつては有効であったとしても、今の情報化社会にあって、その有効性を失っているのではないだろうか。

 テレビ・新聞等のマスコミが選挙に関わる恰好の話題を提供すれば、有権者はその方向にいとも簡単に顔を向け、関心を持つ。不特定大多数の有権者を情報の網に一挙に絡め取るのに対して、「ドブ板選挙」は標的を足と時間をかけて個別的に当たっていく分、マスメディア情報のインパクトと比較して見劣りを免れないのではないだろうか。

 自民党総裁選での安倍晋三独走にしても、マスコミはまだ立候補者が特定されない段階で安倍有利の話題を提供し続けた。世論調査で誰が次の総裁にふさわしいか、期待するかと問いかけ、世論の形を取って、次は安倍の既成事実を積み上げていった。

 昨年(05年)の9・11郵政民営化選挙の自民党圧勝にしても、マスコミが小泉人気と共に〝刺客〟だとか〝くの一〟だとか恰好の話題として提供した情報が有権者の自民投票への雪崩現象を引き起こした大きな要因となったはずである。

 このようにマスコミの動向が選挙の動向を決定づける時代となっている。

 つまりマスコミ提供の〝話題〟がその情報源である党のテレビコマーシャルよろしく、創価学会員は投票することが宗教的使命(?)となっているから、彼らや支持政党が明確な有権者を除いて、支持政党を決めかねて選挙のたびに投票先が変わる有権者や政治にさして関心があるわけではなく、投票したりしなかったりといったいわゆる選挙戦の大勢を決定しかねない比較多数の無党派層の〝購買意欲〟ならぬ投票意欲を掻き立て、投票所に引きつけて選挙の大勢を決定する構造の選挙となっているのではないだろうか。マスコミによるたいした話題の提供がなければ、無党派層を引きつけて大勢を左右するといった事態が起こらない代わりに、日常的に話題を提供し、情報の場に顔を出している政権党である自民党にどうしても有利に働く。

 一見して「ドブ板選挙」が有効な力を発揮したと見えても、有権者の関心を強く引きつける恰好の話題がマスコミによって既にお膳立てされている場合に限るのではないだろうか。例えば今年(06年)4月の千葉7区の衆院補選では小沢民主党新代表はみかん箱だかの上に立って街頭演説する姿がテレビ画面に取り上げられたが、新代表就任早々の国政選挙であったために注目が集まり、新鮮な話題を提供し得たこと、そして民主党候補者が若くて美人の元県議だった女性であり、しかも元風俗に勤めたことがあるという異色の経歴がテレビ・新聞を通じた話題の提供に寄与したことが民主党にわずかながらも有利に働いた選挙結果であり、いわゆる小沢一郎が同時並行に展開した「ドブ板選挙」自体は当選にそれ程貢献しなかったのではないだろうか。

 ロッキード事件にしても、消費税導入、あるいはその増税であっても、その報道は〝話題〟の提供であって、それがそれぞれの党に於いて負の〝話題〟となるか、正の〝話題〟となるかで、不利・有利の力学が働き、選挙結果を左右していくということであろう。

 今回の補選にしても、投票日4日前の初の小沢・安倍党首討論で安倍首相を追いつめ、答に詰まらせる場面を展開できたなら、マスコミが大々的且つ興味本位に取り上げ、それが民主党にとって恰好の正の〝話題〟提供となって、安倍首相の自身の人気に乗っかった応援演説の効果を半減させ、選挙戦を有利に運べた可能性も期待できただろうが、残念ながら党首討論は消化不良を与えたに過ぎなかった。逆に小沢代表が安倍首相を追いつめることを期待していた有権者にとって、期待外れからの失望が民主党に不利に働いた逆の可能性も否定できまい。

 となると、自民党に関わる負の〝話題〟をマスコミから期待できない状況下の選挙では、民主党は自らが自らの党に正の〝話題〟となる情報を提供する以外に、選挙に勝つ希望は持てないということになる。逆に自民党が正の〝話題〟提供に事欠かない選挙では、昨年の9・11選挙のように自民圧勝・民主大敗となる可能性大となる。

 補欠選挙といった部分選挙は他県からの、例えば北は北海道から南は沖縄まで一人区で民主党が議席を独占している選挙区の民主党支持者を民主党カラーの揃いのTシャツ姿で<○○県連政権交代民主党応援団>といった幟旗を掲げて選挙応援に投入するとか(勿論無報酬でなければ選挙違反に問われると思うが)、あるいは民主党支持者のタレントを、同じく政権交代民主党応援団として選挙演説に加えるとか、マスコミが話題として取り上げる戦術も必要ではないだろうか。自民党を除名となった亀井静香や「大地」の鈴木宗男といった、〝負〟のイメージを持った政治家と連携するような、同じなりふり構わない戦術を取るとしたら、遥かにましな方法に思えるが。

 この情報化時代にあって、「ドブ板選挙」はどうしても時代遅れ、あるいは時代錯誤の選挙戦術に思えて仕方がない。

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安倍「国際標準」、身の程を知るべし

2006-10-25 03:00:50 | Weblog

 「政府は、日本の工業製品などの規格が『世界の標準』となるよう官民で取り組むための『国際標準総合戦略』の原案をまとめた。(中略)
 『標準を制するものが市場を制する』とうたい、各国が競う国際標準決定の場での交渉力を養う『塾』の設立など人材育成が柱。首相が経済成長戦略に掲げる国際競争力の強化につなげたい考えだ」(『「国際標準」決定 日本主導で 交渉力の塾 設立』06.10.24.『朝日』朝刊)との新聞記事がある。

 小学生の頃から学習塾に通って暗記学力を身につけ、大学卒の学歴を手に入れたせいなのか、何かと言うと政策に「『塾』の設立」を掲げたがるようである。

 「国際標準」を美しき大国日本、東洋の端っこのちっぽけな島国日本が担おうなどと、身の程知らずの高望みではないだろうか。安倍新首相は聞こえはいいが、就任早々で逸る気持があるのか、高望みでしかない政策を次々と打ち出している。逸るあまり、日本の優越性を前面に押し出したい国家主義が身の程を知らない高望みの政策となって現れている面もあるのだろうが、身の丈を知る謙虚さも弁えないと、単なる日本買い被りの空回りで終わりかねない。身の程を知って、基本にこそ目を向けるべきだろう。

 政治三流国・戦略なき思考性とのありがたい賛辞を世界から戴いている美しき大国日本である。日本人が一般的に創造性・機略性を欠いていることを指摘した評価なのは論を待たない。そのことが外交面ではカネは期待されるが、政治力は期待されない取り扱いにつながっているのであり、内政面では国民の精神的満足感・幸福感づくりに寄与しない、カネをバラ撒いて外形を造るだけの箱モノ政治、あるいは法律をつくっても条文どおりには機能させることが出来ず、結果的に〝外形〟を整えるだけで終わり、社会生活の向上に生かすことができない形式政治――中身を満たすことのできない政治――を日本の政治の姿とするに至っている。

 あるいは日本の危機管理欠如、日本の教育の成果たる似たり寄ったりの「良質の金太郎飴」といった才能をつくり出している原因物質たる創造性・機略性不足でもあろう。

 上記記事は「原案は『いかに優れた製品をつくろうとも、世界標準に合致していなければ、市場を獲得できない時代になった』と強調。産業界に対して『標準を外から取り入れ、それに上手に適応していけばよいという態度が習い性となっていないか。国際標準をつくる場面での日本の存在感はなお乏しい』などと指摘している」と伝えている。

 「日本の存在感はなお乏しい」は「国際標準をつくる場面」だけに限ったものではなく、カネを出す場面以外はすべての「場面」に亘って「乏しい」を専門としている。

 「習い性となっていないか」とは、「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く姿を日本及び日本人の自らにふさわしい存在形式としてきた、それを美しい歴史・伝統・文化としてきた、習慣としてきたと言うことであろう。しかしそのような姿は裏を返せば、それが日本人の身の丈に合った、馴染むことのできた姿だったからである。さらに裏返せば、それ以上の姿は望めなかった。望んだとしたら、身の程知らずの高望みとなった、と言うことだろう。

 「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く存在形式とは、日本の学校教育たる暗記式知識授受(=暗記教育)に於けるマネ・なぞりのメカニズムを本質のところで響き合わせた構造の存在形式であろう。

 国際比較で見た場合の小中高校生の(勿論大学生も)「多面的見方」の欠如、「考える力」の不足は、これも日本の美しい歴史・伝統・文化となっているものだが、暗記教育に於けるマネ・なぞりで解決できる1+1=2式の機械的応用力は成績優秀だが、1+1の式に対して、そのままには読まずに、読み方を変えたり、読み方に応じて3にも4にもしていく創造的応用力の欠如をカガミに映し出した姿を示す。

 いわば日本の大人の「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く存在形式に相互対応し合った小・中・高生の「多面的見方」の欠如・「考える力」の不足なのである。

 となれば、ただ単に日本の製品を出発点とした「国際標準」を掲げるだけでは解決しない問題であって、日本の教育という土台から変えていく作業が必要であろう。少なくとも日本の教育の本質構造に視線を向けた提案でなければ、マネ・なぞりを習性として育んだ機械的応用性を土台として、その上に、土台にはない創造的応用性を持った階層を築こうとする偽装設計を行うようなもので、建物自体は完成させることができても、土台と階層が馴染まず、建物が建物としての機能を果たせないに違いない。いわば、ないものねだりとなる。

 譬えを変えて言うなら、雑草にしかならない種を植え付けておいて、手に入るはずもないタマネギを収穫しようと計画立てるようなもである。
 
 例え日本の製品を出発点とした「国際標準」化による「国際競争力の強化」が緊急の課題だとしても、同時並行的に日本の教育から暗記教育を排して、創造性を育む教育への転換を図ってこそ、土台と階層を終始一貫させた建物の完成を見るはずである。

 それを基礎学力の向上の名のもと、暗記教育の徹底を図るだけの教育政策では、「標準を外から取り入れ、それに上手に適応してい」く従来の存在形式の補強・上積みに役立つだけのことで、当然「国際標準」を手に入れることなど覚束なく、身の程知らずの高望みのままで終わりかねない。結果的に何のための「国際標準総合戦略」だったのかということになる。最も〝ムダな抵抗〟は日本人のお家芸でもある。

 どこか抜けている安倍政策という性格からしたら、これはこれでいいのかもしれない。

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金正日のセンセイは安倍首相?

2006-10-23 06:39:56 | Weblog

 2度目の核実験

 新聞・テレビ等を見ると、北朝鮮が2回目の核実験をするかしないかで様々な憶測・情報が行き交っている。訪朝して金正日と会談、帰国後米国のライス国務長と会談した中国の唐家琁国務委員は金正日との話し合いを「幸いなことに無駄ではなかった」と伝えたと新聞は報道している。

 会談が「無駄ではなかった」ということは、常識的な解釈としては2回目の核実験凍結の言質を引き出したということでなければならない。

 韓国国防相が「金総書記が2回目の核実験は行わないと言及したと承知している」と述べたのは、常識的解釈に立っての観測であり、金正日に対する遠まわしな念押しではないだろうか。

 しかしライス米国務長官が中国の次の訪問国ロシアのモスクワに向かう機中で「唐氏は、金正日が核実験を謝罪したとか、今後核実験を行わないと言っていなかった」と述べたと『朝日』に出ている。

 「無駄ではなかった」はどこへ行ってしまったのだろう。

 金正日側からしたら、核保有と保有に向けた核実験は自己の独裁体制を保障する、今となっては最後の大事な切り札である。と、金正日はそう頭から信じ切っているだろう。国内経済の混乱があらゆる政策を行き詰まらせて独裁体制を内部崩壊させる可能性に対しては核保有は何ら体制維持の切り札とはならないと考えているのだろうか。内部崩壊は強権を以て何が何でを抑えつけて見せるという強い決意でいるのかもしれない。

 金正日にとって〝核〟が少なくとも外に対する体制維持の切り札であるなら、これも常識的に考えるなら、核実験しませんと約束したなら、切り札は切り札としての神通力を失っていしまう。

 切り札を切り札として手に維持するためには、するともしないとも明確に述べずに、アイマイなままにしておくことが最も賢明且つ効果的な方法であろう。2回目もすると言えば、関係国を厳しい態度に追い込む。しないと言えば、最後の威しを自ら放棄することになる。土壇場まで追い込むようなことをしたら、実験も核使用もアリだぞと疑心暗鬼させて相手の動きを鈍らせる便法さえ失う。例え自身の独裁体制に不利となっても、最悪の状況に追い込まれるギリギリまで温存させておく。それが切り札と言うものである――といったところではないだろうか。

 アイマイ戦術で思い出すのが安倍首相の首相就任前からの靖国参拝態度である。「参拝する、しないを明言しない」

 「参拝する」と言ったなら、対中首脳会談を実現させることができない。「しない」と言ったなら、自らの靖国思想を自ら裏切ることになるばかりか、安倍靖国思想の支持者・共鳴者の信頼を裏切って、支持率を下げることになりかねない。日中首脳会談を実現させ、関係改善に向けた話し合いを行う以上、それをご破産にする靖国参拝はしないだろうと相手に思わせ、自分の立場・靖国思想も維持できる両方にとってギリギリ都合のいい満足できる方法は「参拝する」とも言わない、「しない」とも「明言しない」どっちつかずのアイマイな姿勢を取る以外になく、自身が退任間近を迎えたとき、次期首相の靖国参拝如何に話題が移るだろうから、そのチャンスを窺って総理大臣の肩書で最後の最後に参拝を行う。「しない」と明言したわけではないから、ウソをついたことにもならないし、約束を破ることにもならない。参拝することで中国の感情を悪化させたなら、その修復は次期首相にお願いする。

 もし安倍首相が靖国参拝を首相在任中は参拝しないつもりでいたなら、そう明言するだろう。アイマイにしておく必要はどこにもない。中国は首相と外相と官房長官の参拝を否定しているのである。首相退任後なら、自由に参拝はできる。

 金正日と安倍晋三の態度アイマイ戦術は奇妙なまでに一致する。金正日にしても小泉首相の靖国参拝を注視していただろうし、安倍次期首相が参拝するかしないかも関心を持って眺めていただろう。安倍・胡錦涛日中首脳会談開催の経緯と推移も日中双方のテレビ放送を直接見て確かめていただろうし、側近から様々な情報も得ていたに違いない。

 当然、日中首脳会談を成功させた「参拝する、しないを明言しない」アイマイ戦術を承知していたはずである。問題はその靖国参拝アイマイ戦術を自身の核実験態度に応用したかどうかである。確かめようもないが、応用とまで行かなくても、参考とした、あるいはなかなかグッドアイデアだなと感心しただけのことが影響したということもあり得る。

 国家主義的な面で二人は共通点を抱えている。キム・ジョンイルは北朝鮮国民に自身への崇拝を求め、安倍晋三は自分が天皇の脇に控えて日本国民に天皇崇拝求める愛国主義者であり、両者は体制優先・国家優先、あるいは体制上位・国家上位を旨としている。国家指導者同士の共通点に何らか学ぶべき点を感じ取って、核実験アイマイ戦術に影響を与えた可能性も否定できないのではないだろうか。

 あるいは北朝鮮にとって日本は憎むべき敵国だからと、敵国の国家指導者が対中首脳会談開催に見せた奥の手を皮肉な気持から自分も使ってやれ、もしアイマイ戦術が悪いと言うなら、日本の国家指導者も同罪だ、道連れにしてやろうとそっくりと真似たと言うこともあり得る。

 以上の憶測が意外にも的中していたとなったら、結果的に安倍首相が金正日のセンセイとなったと言える。

 的中云々は別にして、金正日は中国の唐家琁国務委員に「核実験するかしないかは、両方を含めて言わないことにする」と表明したのではないだろうか。日中首脳会談での安倍首相の靖国参拝態度の前例から、北朝鮮と米国の関係が決定的に悪化しない間は核実験を控えるのではないかと受け止めたが、そのように公表した場合、金正日が最後の最後まで大事に温存している切り札を中国が無力化することになるために、それを避ける意味で「幸いなことに無駄ではなかった」と遠まわしな発言となったといったところではないだろうか。

 但し、米国側は合理主義的な判断からだろう、イエス・ノーをはっきりさせない、させないことでどちらにも変えることのできる金正日のアイマイ態度を受け入れなかった。それが「唐氏は、金正日が核実験を謝罪したとか、今後核実験を行わないと言っていなかった」といった発言となって現れた?

 そうだとしたら、あくまでもはっきりさせろと言うことなのだろう。はっきりとさせない限り、我々の方からは動かない。アメリカは自らの態度は終始一貫させることにもなる。

 安部センセイの靖国アイマイ戦術は中国には通じても、アメリカ相手だったなら、通用しなかったのではないだろうか。安倍首相が外国首脳のセンセイになり得るとしたら、生徒になるのは北朝鮮の金正日ぐらいのものだろうか。名誉なことではあるが。

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権威主義、天下りを助ける

2006-10-22 05:02:36 | Weblog

 〝機会の平等〟という観点から権威主義社会を見る

 芸は身を助ける、ではないが、権威主義、天下りを助けるである。

 6月17日(06年)に『ニッポン情報解読』にブログした『安倍「再チャレンジ」は機会平等獲得の機会足り得るのか』で、『旧大蔵・財務幹部ら23人、消費者金融5社に天下り』
(06.10.15.『朝日』朝刊)の記事から「大手消費者金融の元幹部は大蔵OBを受け入れた効果について『「銀行向けの看板」の威力が大きかった。銀行の融資が増えるとともに、銀行の役員が派遣されるようになり、資本面の不安が消えた』」との箇所と同じ日付けの(『消費者金融天下り 「大蔵なら誰でも」 業界「官の看板期待」』)という記事から「大手の元幹部は『当時は、銀行からいつ融資を引き揚げられるか気が気でなかった。大蔵省の役人を受け入れることで、「大蔵省は消費者金融をつぶさない」との認識を銀行に与えることができる。誰でもいいから大蔵を取れ、という雰囲気だった』」の箇所を紹介したが、天下りにこのような〝威力〟を発揮可能させている原動力は日本型権威主義に他ならない。

 現在の日本が地方の時代だ、三位一体改革だと言いながら、中央は地方に対して上に位置し、地方は中央に対して下に位置する関係を今以て色濃く築いている中央集権型の国家機構となっている事実自体が権威主義社会そのものであることの証明に他ならない。

 権威主義社会とは相互の関係を上下に分け、上は下を従わせ、下は上に従う関係力学なのは言うまでもない。官・民の関係に於いては官機構とそれが持つ国家権力を背景とした官僚は民間に対して上に位置し、民間という下を従わせる権威主義を自らの権威としている。と同時に官僚は官機構の中にあって、身分・地位(=役職)の上下に応じて上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力関係を組織運営の力学としているが、それがそのまま日常的な人間関係の力学にまで及んでいる。
 
 いわば一旦上下の関係が出来上がると、その上下関係は一般生活に於いても例外を除いて恒久化し、そこから抜け出れない社会化を生み出す。

 このことを証明する非常に象徴的な事例が新聞記事に出ている。1997年8月24日付けの『朝日』記事で、書いてある内容は1970年代の出来事だからいささか時間が経っているが、「その傾向はいまも変わらない」と1997年当時も変わらないことを説明しているから、その継続性からしても、今日的状況からしても2006年の現在もさして変化のない状況にあると見て間違いない。

 見出しは『「塀の中」でも部長は部長 会社人間 育たぬ自我』

 1970年代に「中野刑務所で法務心理技官をしていた」昭和女子大の新田健一教授が囚人と「面接し、その後の更生方針を立てる仕事」を通して知った観察事実であるが、「サラリーマンの受刑者は、刑務所内で経理関係の仕事に就くことが多い。所内でつくった木工品などの管理を、経験を生かしてこなしていく。
 不思議なことにここでも受刑者が会社にいたころの肩書きに応じた仲間内の序列ができるという。『塀の外』で部長だった人は『部長待遇』になり『課長待遇』の受刑者はお伺いをたてる。一部上場企業と二部上場企業とでは、前者の方が格上になるという」――

 同じ会社にいた囚人同士なら、会社にいた頃の肩書を引きずるということは理解できるが、上下関係が社会化しているからこそ、関係のない会社にいた者たちであっても、それぞれの肩書を引きずる。場所がどこであっても、会社から離れた場所であっても、勿論刑務所の中であっても、上の地位の者は地位に応じた自尊心を発揮し、下の者は上の地位の者に対して自分が下であることを弁えた態度で接する。

 同じ〝腐っても鯛〟であっても、何とも哀しい権威主義に縛られた〝腐っても鯛〟状況ではないだろうか。一旦獲得した権威が自己人格化し、組織を離れても自己人格化した権威を通してしか自己を表現できない。自ら気づいていないからいいものの、権威主義の奴隷となっている。

 尤も日本の社会ではこのような権威が重要な有効成分となっていて、大いに力を発揮する。天下りはこのような権威を最高の生存武器とする。

 天下っていく官僚にしても政府の役人として獲得した民に対する上の権威や、さらに官機構の中で地位・身分が上の者・上司として培った部下に対する権威がその人間に備わった自己人格と見なされ、民間会社やその他政府関係機関に天下った後も生きていて、官・民双方に水戸黄門の葵の印籠よろしく威光を発揮するというわけである。

 水戸黄門のテレビドラマでは印籠を向けられた側が、へへーと頭を下げてひれ伏し、上の人間の要求に従うシーンをよく見かけるが、それが表面には見えないだけで、本質のところでは似た姿を見せている。

 すべては権威主義のメカニズムが可能としている生存形式であり、威力形式であろう。例え官僚の地位を離れても、一度手に入れた権威主義の威力(=権威)が水戸黄門の葵の印籠並みに失わなわれない、その永続性が社会全体の人間関係に権威主義の網の目が隅々にまで張り巡らされている社会化を証拠立てている。上と下が相互不可欠の関係(=非独立の関係)にあって、上に従う下と下を従わせる上の関係力学のどちらが欠けても、権威主義は成立不可能となり、社会化は消滅してしまう、その反状況にある。

 今年(06年)の6月1日から民間企業が駐車違反の取締を行うようになったが、「警察から任務を委託される全国74法人に朝日新聞がアンケートしたところ、回答を寄せた法人の7割が警察の再就職先だったことが分かった。14法人は、今回の業務にあたり54人を新規採用していた。小泉内閣の『官から民へ』の掛け声とは裏腹の実情が浮かび上がった」と06年5月 31日の『朝日』朝刊(『駐禁取り締まり委託先 警察OB 36法人に 74法人本社調査 新規採用14法人』)が報じている。
 
 日本は権威主義社会であるのだから、警察という〝官〟が警備会社という〝民〟の上に位置した権威主義の関係にあると見なければならない。警備会社がこのように警察からの天下りを受け入れることの最大のメリットは天下った警察官、もしくは警察官僚が民の上に位置する官組織で自分のものとし、天下っても元の職場である官組織に対してもなお生き続けることとなる権威を企業活動に利用することであろう。そのこと以外にどのようなメリットがあると言うのだろうか。

 同記事は次のような解説も載せている。「違法駐車が横行する大阪市の繁華街で取り締まりを担うのは、財団法人『大阪府交通安全協会』。200人以上の警察OBを抱える全国屈指の『警察の天下り先』だ。府警は『協会はレッカーの移動やパーキングメーターの管理をしており、知識やノウハウ、信用性に優れている』と話す。
 東京・新宿では、警備会社『ジェイ・エス・エス』が取り締まる。警察官僚出身の亀井静香衆院議員が自ら『生みの親』と公言し、設立当初、亀井氏が顧問、元警視総監が代表取締役についた。今回、新たに5人の警察OBを採用した。『交通にからむ業務なので、経験者が必要だ。幹部としてではなくて、全員現場で働く』(担当者)」――

 「幹部としてではなくて、全員現場で働く」「警察OBを採用」とは、言っていることが事実としたら、高卒で地方公務員として採用されて巡査の階級から勤務し、巡査のままで退職することになったか、長年の勤務に与えられる巡査長の地位で退職した「警察OB 」であろう。昇任試験で巡査部長、警部補、警部と地位・身分を獲得していき、地位・身分に応じてそれ相応の権威を自分のものとしていった警察官が退職して駐車違反取締といった現場仕事に就くのは自己の権威・プライドに反するからだ。

 いわば地位・身分が低いまま退職した「警察OBを採用」は地位・身分を獲得した警察官が持つ〝権威〟は期待したくても期待できないのだから、〝権威〟を必要としたわけではなく、地位・身分が低いまま退職した「警察OB」にはなかなか見つけにくい再就職先の提供という便宜を図ることで、警察組織そのものと「採用OB」の上司に対する恩着せを目的とし、それがもたらすであろう見返りを期待した「採用」ということもあり、そのようなお膳立てはそれ相応の権威を携えて既に天下っていてその会社の幹部に納まっている元警察官、もしくは元警察官僚によって為されるだろう。

「違法駐車が横行する大阪市の繁華街で取り締まりを担う」「財団法人『大阪府交通安全協会』」の場合は、警察向けだけではなく、地域の顔としての権威の必要から幹部OBの採用とと一般退職者の再就職先となることの二つの必要からの天下り採用を担っているのではないだろうか。そのことが「200人以上の警察OBを抱える全国屈指の『警察の天下り先』」となって現れているのだろう。「府警は『協会はレッカーの移動やパーキングメーターの管理をしており、知識やノウハウ、信用性に優れている』と話」しているが、「レッカーの移動」は日常的にある業務ではないのだから、必要に応じて自動車修理会社に依頼するか、「パーキングメーターの管理」は、エレベーター事故で分かったように、エレベータの保守点検は専門の管理会社が請け負っているもので、「パーキングメーターの管理」にしても同じということもあり得る。

 但し、そのパーキングメーターの管理会社自体が警察OBによって経営されていて、利益をやり取りしているといったことは十分にあり得る。管理費の元のカネは税金から捻出されるのだから、随意契約ということになれば、かなり好きなように利益のキャッチボールを行うことも可能である。

 以上の勘繰りは社保庁やその他の官庁が天下った官僚OBの民間会社、あるいは政府系の公益法人や所管法人との間で既にゴマンと前科を演じている公費・税金を利用した私利・私益交換からの連想なのは言うまでもない。

さらに日本が如何に権威主義社会となっているかの例として挙げなければならないのは、『小泉チルドレン懐に格差 自民初当選組の資金力 比例単独組 交付金頼み 世襲組 際立つ集金力』(06.9.8.『朝日』朝刊)といった状況であろう。

 記事の内容を掲載する必要はない。見出しを見るだけで父親の権威がその傘を2世の頭にまで差しかけて、光り輝かせている権威主義的状況が見て取れる。父親は父親、2世は2世と別人格・別才能とする可能性に対する権威主義意識から自由であったなら生じない「集金力」格差であろう。今に始まったことではないだろうが、〝格差〟は所得格差、地域格差だけではなく、政治家の「懐」にまで幅広く及んでいる。

 2世は親の権威とその重要な恩恵である「集金力」で得たカネを自らの力として、いわば一般議員には得がたい機会を親から与えられて、大物政治家へとのし上がっていく。安倍首相はその最大級の完成形であろう。

 こういった権威主義的状況からの〝格差〟が国会議員に占める2世議員を異常なまでに多くしている。

 日本が学歴社会であることも、権威主義を母体として社会的な人間関係を成り立たせていることからの必然形としてあるものだろう。学歴を上下=優劣に権威づけて、上は下を従わせる権威として自己人格化させることができ、地位・身分・収入獲得に威力を発揮させることを可能とする生存武器となっている。 

 このように見てくると、権威主義社会は本質的には〝機会の平等〟を排除する社会でもあることが分かる。権威主義社会を〝機会の平等〟という観点から定義づけると、「機会の不平等を母とし、結果の不平等を子とした社会」とも言える。、

 日本が権威主義社会となっていることに目を向けないで、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」などと言っているようでは、安倍首相の社会観は相当にズレていると言わざるを得ない。当然安倍首相の「再チャレンジ政策」もズレることになる。

 参考までに前出の『「塀の中」でも部長は部長 会社人間 育たぬ自我』という記事の他の部分を紹介してみると、「会社犯罪にかかわったサラリーマンたちは、捕まっても罪悪感より、被害者意識の方が強い。その結果、『会社のため』と言い訳をする。再犯率は低いが、心から反省する人は少ないという。
一方で自我が弱い分、取り調べでの自供率は高いと言われる。『一人にされると弱いんですねえ』。新田さんの分析だ」

 終戦直後、国民の多くは〝国のため〟に戦ったにも関わらず敗戦を贈り物とされて、国に騙された、騙されたと、騙された自分の責任は問わないで、戦争責任を国だけのものとした。日本兵は「生きて俘虜の辱めを受くることなかれ」と捕虜となるよりも名誉の戦死を義務づけられ、捕虜となることはあり得ないこととして、そうなった場合を想定した訓練を受けていなかったために米軍の捕虜となると、取調に軍の重要な機密まで率先して喋り「自供率は高」かったと言うことだが、自分で考えて、その考えに従って自らの責任で行動する自律的主体性の欠如は終戦当時と何ら変わらないまま引き継ぎ、そのような態度が日本の美しい歴史・伝統・文化となっていることを示している。

 このことも上に縛られて上に従う権威主義の行動様式から来ているものであろう。権威主義は〝機会不平等〟の創出だけではなく、自律性や主体性の欠如維持にも深く関わっている。

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核保有論議よりも金正日崩壊シナリオを

2006-10-20 01:50:42 | Weblog

 北朝鮮の核実験に対抗して日本の「核保有の議論」を自民党政調会長中川昭一が6月15日(06年)のテレビ番組で語ったと翌16日の『朝日』朝刊に出ていた。

 「核があることで攻められる可能性は低いという論理はありえるわけだから、議論あっていい」

 「欧米の核保有と違ってどう見ても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対して、どうしても撲滅しなければいけないのだから、その選択として核という(論理はありうる)」

 他日次のような釈明が記事となっている。「私は非核三原則をいじるとは一言も申し上げていない。私はもとより核武装反対論者だ」

 これに対して麻生外相は18日の「衆院外務委員会で「非核三原則は政府の立場として変わらないが」、「核保有の議論について『この話をまったくしていないのは多分日本自身であり、他の国はみんなしているのが現実だ。隣の国が(核兵器を)持つとなったときに、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ』と述べた」(『核保有「議論は大事」 麻生外相』06.10.19『朝日』朝刊)と盧態度を示している。

 同『朝日』の同日夕刊には麻生外相が「『日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺することにくみしないという以上に明確な答えはない』と述べた」と出ている。

 「核保有の議論」に関して「言論の自由」が保障された国だから、「封殺」するわけにはいかないということだろう。

 同夕刊記事は続けて、「また、麻生氏は17日夜、自民党議員との会合で、同党の中川昭一政調会長が『核保有の議論はあっていい』と発言したことについて、『タイミングのいい発言だった』などと支持する考えを表明していたことも、複数の出席者の話で分かった。
 同会議には同党新人議員の十数人が出席。麻生氏は、中川氏の発言は北朝鮮の核武装を抑止する効果がある、と言う趣旨の説明をしたと言う。――」

 非常にもっともらしく聞こえるが、見え透いた安っぽいレトリックに過ぎない。「核があることで攻められる可能性は低いという論理はありえる」とは、核を〝保有する方向〟に向けた議論であろう。「欧米の核保有と違ってどう見ても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対して、どうしても撲滅しなければいけないのだから、その選択として核という(論理はありうる)」という主張も、例え結果としてそれが議論だけであって、核保有にまで至らなくても、核を〝保有する方向〟への議論としなければ、辻褄が合わなくなる。第一議論だけですよでは、「北朝鮮の核武装を抑止する効果」など出てこない。

 まさか〝保有しない方向〟への議論を提案しているわけではあるまい。核を保有していない国が〝保有しない方向〟への議論をするのは自己矛盾以外の何ものでもない。

 つまり「非核三原則をいじ」らない、「非核三原則は政府の立場として変わらない」の前提を絶対とするなら、「言論の自由」云々とは関係なしに「核保有の議論」(保有する方向への議論)は存在させてはならないわけである。例えば核廃絶を自らの主義・主張とし、核廃絶を訴える運動を起こしている者に「核保有の議論」(保有する方向への議論)は許されるだろうか。例え議論だけであったとしても、「非核三原則をいじると一言も言ってな」くても「非核三原則をいじる」ことになる。

 断っておくが、保有したい衝動を抱えている政治家の存在・状況に対して、保有させないという議論は成り立つ。

 これらを逆説するなら、「非核三原則」に反対する者(核武装論者)のみに「核保有の議論」(保有する方向への議論)は許される。

 「言論の自由」は保障されている、だから何を議論してもいいとは限らない。にも関わらず、「言論の自由」をご都合主義に振りまわす。

 安倍首相は首相になる前に衆院特別委で次のように述べているという。「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」(ONLY NEWS 「【総裁選】「語録」から見る安倍新総裁  靖国、歴史、改憲、核」)

 安倍氏にしても麻生氏にしても中川氏にしても、日本の大国表現として核武装衝動を自らの血としている。ただ「非核三原則」を掲げている関係と世論の手前があって、騒ぐ血を抑えているに過ぎない。その衝動が北朝鮮の核実験に対する対抗心から、不用意にチラッと覗いてしまったといったところだろう。

 例え「核保有の議論」が許されるとしても、日本に対して常に軍事大国化の疑いを持っているアジアの国々の疑心暗鬼を高めるだけであろう。疑心暗鬼を掻き立てているのは安倍・中川・麻生といった政治家の靖国参拝や戦前肯定・戦後否定の歴史認識、戦前の日本に都合の悪い歴史的事実の否定等が示している日常普段の国家主義的態度である。

 国連安保理事会の北朝鮮の核実験に対する制裁決議に反対して北朝鮮代表が2回退出している。北朝鮮がかつての日本が国際連盟を脱退し孤立化し、それをきっかけに破局へと向かったように国連を脱退して日本の二の舞を演じないとも限らない状況となっている。19日(06年10月)の『朝日』夕刊が『金正日総書記 「チャウシェスク」と同じ運命に』との見出しで、ル-マニア紙が報じていることを伝えている。

 「【ウイーン=関本誠】金正日(キムジョンイル)総書記はチャウシェスクと同じ運命をたどるかもしれない――。ルーマニアの主要紙が17日、核実験で孤立を深めている北朝鮮について、こんな記事を掲載した。『ソ連がチャウシェスクを排除したように、中国は金正日排除を望んでいる』との見出しで報じている新聞もある。
 一連の記事の発端は15日付英紙サンデー・タイムズ。89年に独裁政権が崩壊したチャウシェスク大統領に対する即決裁判と処刑の映像を、金総書記が幹部らに見るよう命じた、などと報じた。その後、ルーマニア各紙がこの報道を引用し、チャウシェスク政権と北朝鮮に関する記事を載せ始めた。
 主要紙ナツィオナルによると、金総書記は、世界の大国が自らをルーマニアの独裁者と同じ運命にしようと企ててるのではないかと恐れ、政権幹部らとともにチャウシェスク政権崩壊の事例を研究しているという。
 同紙は、北朝鮮の核問題に対する唯一の解決策は、金正日体制を変えることだという主張が広がっていると指摘。将来の政権崩壊の可能性を報じた。
 エベニメントゥル・ジレイ(今日の出来事)紙は、中国がルーマニアのような革命を望んでいるとという一部の中国人研究者の見方を紹介した。
 同紙は、北朝鮮の体制をめぐり、中国がルーマニアの事例を詳細に研究してきたと伝えたが、チャウシェスク政権崩壊直後に大統領になったイリエスク氏は『中国からの接触はなかった』と述べ、報道を否定した」――

 北朝鮮が外交的に孤立化を深め、経済制裁による内政悪化と併せた打撃によってルーマニアのチャウシェスク政権同様に金正日独裁体制が崩壊する可能性は否定できない。国際社会がその崩壊をどう管理するか、そのことのシナリオを前以て準備することの方が「核保有の議論」よりも金正日独裁体制に対する圧力となるのではないだろうか。

 最後の足掻きとして戦争を仕掛けてきた場合の軍事作戦の立案、発生した場合の難民の数の予想と各国応分の引き受け等の対処方法、金正日独裁体制を崩壊させた後の北朝鮮の民主化と経済復興に対するそれぞれのコスト負担、最終的に南北統一に向けた事業のシナリオを米・ロ・中国・韓国・日本が中心になって(中ロが参加しない場合は、両国を除いて)仕上げ、公表する。

 核を搭載したミサイル攻撃を同じ予想するなら、それが現実となったときは金正日独裁体制を軍事的に打倒しなければならないのだから、「核保有の議論」をするよりも、金正日抜きの北朝鮮確立のシナリオを準備することの方が遥かに現実的ではないだろうか。

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単一価値観がいじめ自殺を招いた?

2006-10-19 05:02:08 | Weblog

 10月11日(06年)にいじめを受けて自殺した福岡県筑前町の中学2年の男子生徒(13)の担任は学業成績をイチゴの品種に例え「あまおう」「とよのか」「ジャムにもならない」「出荷できない」とランク付けして生徒を呼んでいたと報道されている。

 自殺した生徒は成績優秀で最高ランクの「あまおう」で呼ばれていたということだが、「あまおう」の評価に反する「偽善者」・「うそつき」の称号をも担任から戴いていたらしい。
 
 男子生徒の母親から男子生徒が1年生のとき自宅でアダルトサイトのようなものを見ていたことの相談を受けたのに対して、そのような予想もしていなかった意外な面が学業成績の優秀さとそれに応じた普段の真面目な態度を裏切る性格のものだったことから、担任が〝偽善者めいた〟印象を受けたのだろうか。しかも相談内容を他の生徒に洩らし、男子生徒は同級生からからかいの対象とされるようになったという。

 そのような経緯があってのことだろうが、男子生徒の進級に当たって、担任は2年の担任に「この子はうそつきだ」と申し送りしたということだが、それが「偽善者」・「うそつき」のありがたい称号に至ったのだろうか。

 テストの成績を絶対とする価値観がテストの成績を通してしか生徒を(人間を)見ることができない価値判断に向かわせ、そのことが成績以外の価値に関連づけたランク付けを誘う。成績優秀であろうとなかろうと、年頃になれば誰でも性的興味を抱くようになるのだから、意外でも何でもなく、それが成績優秀に対する裏切り行為となるはずはなく、自身を振り返ればすぐ分かることを自己省察能力に欠けているから振り返ることもできずに、いわばテストの成績を絶対とする価値観から自由になれないから、表面的な落差だけを把えて「偽善者」・「うそつき」とするに至ったのではないだろうか。

 人間は誰でも〝偽善的な部分〟を抱え、当然〝偽善的部分〟と併せて〝うそつきの部分〟も抱えている。それが人を騙し、精神的あるいは身体的苦痛を与える類の行き過ぎた偽善やウソであったなら咎めるべきだが、本人の中で抱えている矛盾であるなら、他人に向かわないようにそれとなく指導すれば済むことである。

 例えば、何かの話にかこつけて、みんな性的興味を抱くようになる年頃になったが、これは男も女も一定の年齢に達すれば当然現れる兆候である。但し大学教授でありながら、他人のスカートの中を盗撮したり、電車の中で痴漢行為を働いたりする人間がいるが、そういったふうに間違った方向に性的興味が向かないように気をつけなければならない。覗き見したい気持や男は洗濯して干してある若い女の子の下着に興味を持ってしまうといったこともあるが、実際に覗き見したり下着泥棒に及んだりしたら、犯罪になって、見つかれば当然逮捕される。淫らな気持になってしまうことが多々あるだろうが、社会のルールを守らなければならないのは当たり前の話で、社会に生きていくためには淫らになってしまう気持を抑えて、性的興味が常に健全な方向に向かうよう、気をつけなければならない。

 こういったことすら考えることができない学校教育者だから、生徒をランクづけることができ、面と向かって「偽善者」だとか「うそつき」だとか呼ぶことができる。もし事実偽善的部分があるなら、個人的な面談を通して、そういった性格は直すべきではないかと、生徒との対話を通して指導すべき事柄のはずである。

 9年前にも生徒をランク付けした名称で呼んで問題となった教師がいた。

『成績順に王様 貴族 平民 奴隷 クラス席分け 松江の県立教諭』(1997.5.29『朝日』)

 「松江市内にある島根県立高校の男性教諭(38)が、生徒を成績別に『王様』『貴族』『平民』『奴隷』に分けて席を決め、授業していたとして、島根県教委は28日、この教諭を文書訓告処分にしていたことを明らかにした。
 県教委によると、教諭は1993年4月に同校に赴任してから、95年12月まで、約3年にわたり延べ14クラスで、生徒を試験の成績順で席替えした。後ろから『王様』『貴族』『平民』『奴隷』の順に座らせ、授業では『この問題は奴隷に解いてもらおう』などと言っていたという。
 95年7月には『奴隷』の席に座らせられていた生徒が教諭に平手打ちされ、2学期から一時不登校になり、保護者の指摘を受けて学校が調査し、授業の実態が分かった。報告を受けた県教委は96年8月9日付けで、この教諭を文書訓告処分にした。教諭は『生徒の学力を挙げるためにした』と説明しているという。
同校の校長は『自尊心を傷つけられた生徒に申し訳ない』と話している」――
 「文書訓告処分」とは軽すぎる処分の気がする。学校側にしても教育委員会にしても、そういったことはいけません、改めなさい程度にしか受け止めることができなかったから、「文書訓告処分」となったのだろう。学校教育者としての資格の有無の点から見たら、明らかに失格者に位置づけなければならない教育態度であって、懲戒免職が相応の処分ではなかったろうか。深刻に受け止めるだけの判断能力に欠けているから、同じような教師を輩出することになるのだろう。
 
 「王様」以下はテストの成績を具体的な身分制度に置き換えた極めて象徴的な、分かりやすい価値付けとなっている。社会的な身分制度は人間を身分によって優劣に仕分けしたランク付けだが、人間の中身である人間性や人格の優劣と一致するわけではない。だからこそ民主主義の時代にあって、「王様」「貴族」「平民」「奴隷」といった身分制度は姿を消すことになったのだろうが、今以て身分・階級が人間の中身とは無関係な規格だと考えることすらできずに人間の優劣を表すものとして把えているから、テストの成績を人間の優劣と見なす価値判断と響き合わせて、「王様」「貴族」「平民」「奴隷」と言ったランク付けとなって現れるのだろう。

 あるいは「あまおう」「とよのか」「ジャムにもならない」「出荷できない」といったいちごの品種の優劣・出来栄えを成績の優劣に擬(なぞら)えて人間の優劣とイコールさせる。すべては成績を絶対としている価値観に支配されていることから起こるランク付けであろう。

 多様な可能性の時代だ、多様な価値観の時代だと言いながら、そのような時代性に反して学校社会が勉強に於いてはテストの成績、部活運動では対外試合の活躍・成績で生徒の優劣・価値を決定付ける単一価値観・単一基準を絶対とし、そこから抜け出れないでいる。

 成績のみを絶対とするそのような単一性がまたテスト教育一辺倒に走らせ、部活では対外試合で大負けしようものなら、懲罰として体罰まで与える部活顧問まで出現させることになる。

 グローバル時代だと言いながら、日本人が単一民族に拘り、単一民族意識を捨てることができないのは、学歴や職業、社会的地位、収入、家柄等に上下の基準を設けて、その基準に基づいて人間の価値を優劣で判断する権威主義の、まさにその〝上下〟に仕分けて優劣を決定づける価値尺度としての〝上下=優劣〟の単一性が民族をも〝上下=優劣〟にランク付ける、あるいは価値づける価値観となって現れたものだろう。

 民族に対しても〝上下〟を設け、上下に応じて優劣で計る。それぞれの民族が異なる要素、あるいは共通する要素を抱え、それぞれに価値・可能性を含んでいると内容・中身にまで目を向けることができない。日本人が民族的に不誠実・単細胞にできているからだろうが、そのような単一性思考を考えると、学校教師が勉強に関してはテストの成績で、部活運動では対外試合成績で生徒の価値を決定づけている単一性は日本人全体の意識として巣食っている単一性を受けた価値観であって、学校教師ばかり非難できないことになる。

 また日本の学校生徒が歴史的・伝統的・文化的に国際テスト比較で多角的見方や考える力が弱いと言われ続けていることも、物事を表面的・形式的にのみ認識・判断して価値づける大人の視野(=単一性)を踏襲した子供たちの視野・弱点であって、子どもの問題とのみ把えるべきではなく、日本人全体の問題と把えなければならなくなる。

 先ずは学校教師だけではなく、親も含めた社会全体がテストの成績を絶対として生徒の人間を判断する権威主義的な単一性・単一的価値観から抜け出さなければならない。

 いじめ自殺した生徒の担任にしても、テストの成績を絶対として人間価値を決定づける単一性に侵されていなかったなら、成績をイチゴの品種になぞらえてランク付けすることもなかっただろし、生徒がアダルトサイトに興味を持ったとしても、今どきの中学生にしたら不思議はない興味・関心の類であって、「お母さん、心配することはありませんよ。年頃になれば誰でも興味を持つものですから、それとなく注意しておきます」でその場は片付けることができ、他の生徒に相談内容を喋ることもなく、別の展開を見たのではないだろうか。

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安倍「再チャレンジ」は機会平等獲得の機会足り得るのか

2006-10-17 10:57:54 | Weblog

 天下り制度を通して占う
 
 安倍首相の口癖政策「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」

 非常に合理的な主張の如くに見えてもっともらしく、語彙と語呂がうまくマッチし、美しい日本語の体裁を取り、言葉の響きも素晴しく、正しいことを言っているかのような錯覚を与える。言っていることが正しくても、あるいはいくら美しい語彙豊かな日本語を羅列させようとも、言葉に実行性を持たせなければ、正しさも意味も失う。

 06年10月15日の『朝日』朝刊に『旧大蔵・財務幹部ら23人、消費者金融5社に天下り』なる見出しの記事が載っている。

 記事は書いている。「大手消費者金融の元幹部は大蔵OBを受け入れた効果について「『銀行向けの看板』の威力が大きかった。銀行の融資が増えるとともに、銀行の役員が派遣されるようになり、資本面の不安が消えた」と話した。最高幹部として天下った大蔵OBは「会社からは、『(行政処分など)何か問題があった時にちゃんと相手(役所)を説得してくれ』と頼まれた」と証言している。」

 ――「銀行の融資が増えるとともに、銀行の役員が派遣されるようになり、資本面の不安が消えた」

 何という天下り威力だろう。このような状況を出発点として、現在の消費者金融と銀行との資本関係に於ける蜜月時代は幕開けされたのだろうか。そう窺わせる文章となっている。

 所得格差が学力格差を生み出し、教育に関わる機会の不平等を誘発しているように、天下り制度が商機の不平等(=機会の不平等)の機会を提供していないだろうか。

 『朝日』の同じ日付けの関連記事(『消費者金融天下り 「大蔵なら誰でも」 業界「官の看板期待」』)では、「大手の元幹部は『当時は、銀行からいつ融資を引き揚げられるか気が気でなかった。大蔵省の役人を受け入れることで、「大蔵省は消費者金融をつぶさない」との認識を銀行に与えることができる。誰でもいいから大蔵を取れ、という雰囲気だった』」と、天下りを特定利用目的人事としているのに対して、「大手各社は、いずれもOBを通じた役所側への働きかけを否定している。
 3人を受け入れてきたアイフルは『大所高所からの経営判断や社外監査役としての業務監査や会計監査』(広報部)。大手で最多の9人を採用した武富士は「経営全般。社内監査およびコーポレートガバナンスの強化」(広報部)」だと、不当な手段で自分たちに有利に事を運ぼうとする企業倫理に反した人事ではないとしている。

だが、消費者金融側が挙げた職務は何も元官僚でなくてもいいわけである。元官僚を採用するには、元官僚でなければならない特定の利用目的があったはずである。企業が利潤追求を宿命づけられている組織・団体である以上、設定した利用目的に添わせた人事を行うことが当たり前の姿と言うものだろう。元官僚を採用して機会の平等を奪うことも損なうこともなく企業倫理にも反しない公平を基準とした人事目的は何だったのか。 

 前者・後者、どちらの説明が正しいのか。いずれも言葉は美しいか美しくないかではなく、あるいは語彙が豊富であるかないかではなく、真偽の問題となる。

 天下りが特定利用目的人事であることを証明する記事がある。『天下り先へ、国費支払い6兆円超…延べ1078法人』(2006/04/03読売新聞)

 「中央省庁などの幹部OBを天下りとして受け入れた法人のうち、契約事業の受注や補助金などにより国から2004年度に1000万円以上の支払いを受けたのは延べ1078法人にのぼり、支払総額は6兆円を超えていたことが、読売新聞などの調べでわかった。また、契約事業の9割以上が随意契約だった。
  これら法人の天下り受け入れ数は計3441人。防衛施設庁を舞台にした官製談合事件では、天下りOBの受け入れ企業に工事が重点的に配分されていたことが判明したが、中央省庁全体でも、天下りと契約や補助金交付との間に密接なつながりがあることをうかがわせている」

 「契約事業の9割以上」という「随意契約」を可能としている、あるいは「補助金交付」を有利にしている条件とは天下りOBの存在を措いて他にないだろう。「随意契約」にしても有利な「補助金交付」にしても、機会の不平等を母体として成り立つ取引であることは言うまでもない。そこからキックバックや裏金プールが行われ、それらのカネを官僚たちの遊興費等の一部として利用することで自分たちの懐からの遊興費等の出費を抑えて生活の余裕を得る別の機会の不平等をもたらし、収入のある者はますます収入を増やしていく、「機会の不平等」から始まった「結果の不平等」が蔓延していく。

 また防衛施設庁の官製談合にしても、日本道路公団の橋梁談合にしても、天下ったOBが工事発注の配分に深く関わっていて、天下り採用がどのような特定利用を目的としていた人事であったか、天下りOBに与えられた役目・役割がどのようなものであったかを如実に物語っている。

 企業活動に欠かすことのできない重要な分野のエキスパートであるという理由で採用されるといった例外はあるだろうが、あくまで例外で、一般的には官僚OB採用は特定利益目的を目指した人事であろう。

 所得格差によって学力格差が生じる機会の不平等を起点として、学力格差は学歴格差につながり、学歴格差は所得格差へと発展・逆戻りして、機会の不平等の連鎖・循環を生む。天下り採用が企業取引を談合・縁故等を手段として不正操作する機会の不平等をつくり出し企業の利潤追求に不当に寄与し、企業は獲得した潤沢な利益の一部を次の天下り採用にまわして、一層の利益を上げ、企業規模を拡大していく機会の不平等の連鎖・循環を固定化させる。

 安倍首相は「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」競争社会の提案と同時に、「勝者、敗者を固定しない社会」の構築を言い、「敗者」の復活可能な政策として「再チャレンジ政策」を掲げたが、日本社会は既に機会の不平等が張り巡らされた不純な競争社会と化し、常に勝者に有利な社会となっている。勝者にのみ競争を有利となるエースのカードが与えられている。

 勝者に有利な社会とは、言うまでもなく機会不平等の社会であり、「勝者、敗者を固定」する方向に向けた力学が常に働く一方的社会である。元々社会とは、それが如何なる時代の社会であっても、〝勝者に有利〟を構造としている。

 安倍首相がそのような認識を持って「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」と言っているのか疑わしい。なぜなら個々の政策としては必要ではあるが、定年を迎えた団塊世代や都会になじめない若者の移住を就農支援などで支えるとか、フリーターや事業に失敗した者への支援、社会的に弱い立場にある女性や高齢者らの雇用機会の拡大、30~40歳のフリーターや子育てが一段落した主婦らを対象とした国家公務員3種採用枠の新設、塾に通えず機会不平等となる恐れのある母子家庭や生活保護世帯の子供たちに向けに大学生や教員OBが放課後や週末に勉強を教える寺子屋づくりといった表面的な現象・方向にのみ顔が向き、有利な者が常に有利となる社会的な機会不平等の本質的な原因に何ら目を向けていないからだ。本質的な原因の是正に向けた姿勢が何一つ示されていない。

 機会の不平等がせっせと再生産されている社会状況のもとで各種「再チャレンジ」がどれ程の効果を持つのか。程々の効果を持たせたることができたとしても、〝勝者に有利〟な社会のままでは何もなるまい。格差拡大化の傾向はより悪い方向に進むのみであろう。

 程々ではなく、絶対的な〝勝ち組〟を目指すとしたら、機会の不平等を利用する側に立つことという逆説的な了解事項が暗黙的に幅を利かすに違いない。

 機会の不平等を利用した〝勝者〟になお一層の有利な機会を与え、それが新たな機会の不平等を増長・再生産する構造となっている社会の本質的な矛盾・原因を放置しておいて、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」、あるいは「勝者、敗者を固定しない社会」の構築は原因療法を省いて対症療法を行うその場しのぎに過ぎない。

 天下りに様々に網をかけようとしているが、実行が伴わなければ、「再チャレンジ」は機会平等獲得の機会とはならず、有名無実化する。

 言葉は重要である。しかし美しいか美しくないかではなく、言うことが立派であるかないかでもなく、実行性を持たせることが可能なまでに考え抜いた提案・主張であるかどうかにかかっている。そのような提案・主張は社会に対する誠実な視線・誠実に考える姿勢を必要条件とする。安倍首相の首相就任以来の国会答弁、記者会見での答弁を見ていると、そこに誠実な言葉、誠実な姿勢を感じ取ることはできない。感じ取れるのは機会主義的な政略のみで、外交はそれで誤魔化すことができても、内政は誤魔化すことはできないだろう。

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