蓮舫の二つの記事から窺う小賢しさが鼻につく発言 個人的意見ながら、民進党代表の資格を疑う 

2016-10-31 11:42:42 | 政治

 蓮舫が2016年10月28日、毎日新聞のインタビューに応じて、7月の参院選で掲げた重点政策「国民との約束」を政権選択が問われる次期衆院選用の公約に改定して、11月中に纏める方針を明らかにしたという。   

 要するに大敗した参院選に用いた公約を焼き直して、より重要な次期衆院選の公約にするということらしい。少なくとも「参議院選挙」という言葉を「衆議院選挙」という言葉に変えるだけではなさそうだ。

  「財源の裏付けも含めて(検討が)進んでいる」と話したというが、政策と財源は一対のものでなければならないから、当たり前の話である。

 記事の後半は有料となっていて無料では覗くことができないが、過去の衆院選、参院選共にアベノミクスを争点とされて大敗していることと、民進党を含めて殆どの野党がアベノミクスは失敗だと言っている関係からして、再度の大敗を避けるためにはアベノミクスを上回り、尚且つ国民に成る程と実感させる経済政策の具体的な提示の約束こそが最優先されて然るべきで、そのことに関連する発言があったなら、その触りだけでも記事は無料部分で取り上げると思うのだが、取り上げていないということはその約束に関する発言はなかったということなのだろう。

 あるいはその手の予定があったなら、毎日新聞のインタビューに対してだけ発言するわけはなく、自身の記者会見でも触れるはずだから、自ずと世間に知れることになるはずだが、アベノミクスを上回ると思わせる具体的な経済政策の提示に未だお目にかかっていない。

 確かに2016年7月の参院選用に用意した政策集「参院選2016 国民との約束」で民進党の経済政策を明らかにしているが、具体策は何ら示していない。  

 例えば、「成長戦略・経済政策」は次の項目を掲げている。

 (1) 分配と成長の両立

  1)人への投資
  2)働き方革命
  3)成長戦略

 〈(1) 分配と成長の両立

 民進党は、ふつうの人から豊かになる経済政策を実行します。格差が拡大して、富とチャンスが偏り、人びとの能力の発揮や個人消費が阻まれています。必要なのは、「分配と成長の両立」です。公正な再分配を実現し、日本の潜在能力を引き出すために、「人への投資」「働き方革命」「成長戦略」を実行します。

 1)人への投資

 人への投資こそが、日本経済を成長させるエネルギーです。保育園・幼稚園、義務教育の負担軽減、大学進学等のための給付型奨学金の創設に取り組みます。職業技術教育を充実させ、公的な職業訓練メニューを多様化するなど、学びと仕事をつなげます。起業を応援するため、IT/デザイン・人材育成・研究開発などソフト面の助成金等を充実します。

 2)働き方革命

  残業が当たり前の働き方を変えて仕事の生産性を上げ、子育て・介護と仕事の両立を強力にバックアップします。誰もが時給1,000円以上となるよう、最低賃金を引き上げます。同時に、派遣法改悪を見直し、「同一価値労働同一賃金」を確立して、家計を温め、消費を刺激して成長につなげます。

 3)成長戦略

 既存産業の生産性向上、新産業の創出・育成の観点から、

 政策資源(予算、税制、人員等)のメリハリ=「選択と集中」

 起業と廃業の促進=「新陳代謝の向上」〉等々――

 この政策の多くをアベノミクスも掲げていて、具体的に政策を進めているのに対して民進党がここに掲げている政策の全ては具体論ではなく、スローガンの域を出ない抽象論に過ぎない。

 どう焼き直そうと、それが具体的な内容を伴わせた政策の提示とならなければ、アベノミクスを上回って成る程と国民に納得させることができるとは思えない。

 少なくともこのような視点を持たせていなければ、インタビューを受けた意味は生まれないし、記事が紹介している蓮舫の発言も意味はなくなる。

 蓮舫「民進党イコール何? このイコールにつながるものが見えない。民進党はこういう政党だということを作り、それを私が発信する」――

 人間は経済の生きものである。当然、経済=生活を最大の利害としている。安倍晋三はこの利害がアベノミクスに集約されているかのように思わせて選挙に勝ち抜いてきた。

 当然、「民進党イコール何?」の「何?」は参院選で掲げた経済政策の具体論を当てなければならないことになるが、蓮舫にはその視点がない。「イコール」など、出てきようがない。

 「イコール」が出てこなければ、同じ表現の言い替えである「民進党はこういう政党だ」と知らしめることになる、その主たる看板を国民の目に映ずることもできるはずはない。

 実際にアベノミクスによって一般国民の生活は良くなっていない。良くなったのはより富裕な国民ばかりである。そうである以上、一般国民にとって経済=生活はより差し迫った最重要の利害となっているはずである。

 この点をしっかりと捉えていたなら、民進党の経済政策はより具体性を持たせなければならないはずだが、その方向への意思を欠いたまま、「民進党はこういう政党だということを作り、それを私が発信する」と、これも抽象論でしかないことしか言うことができない。

 百歩譲って、「民進党はこういう政党だということを作」ることができたとしても、「それを私が発信する」と言うのは余りにも自己の能力を過信し過ぎている。

 この発言には民進党は自分一人で持っているかのような思い上がりがある。「私が発信する」ことによって知らしめることができるという過信と思い上がりである。

 そしてこの過信と思い上がりは民進党はどういう政党なのか国民に説明可能とするためには何が必要なのか、その具体的視点を欠いたきめ細やかさの無さと対応しているはずだ。

 民進党は蓮舫一人で成り立っているわけではないし、一人で成り立たせる程の力が蓮舫にあるわけではない。この自覚があったなら、民進党が一丸となって発信すべき事柄を何事も自身の発信にかかっているかのように自分だけを押し出す物言いはしない。

 小賢しさだけが鼻についたとしても無理は無いはずだ。
 
 鼻についたのはこの発言だけではない。

 東京都知事の小池百合子が自らの政治塾「希望の塾」の塾生を募集したところ、全国から4827人が応募し、選考の結果、2902人が入塾、10月30日に開講した。

 この開講について東京都内で記者団に向けた蓮舫の発言「asahi.com」記事が紹介している。 
 
 蓮舫「政治に関心を持つ人たちが、積極的に動く場所をつくるのは大賛成です。私たちの仲間も参加をしているとの報告を受けている。我々の仲間が手を挙げることを止めることはしていません。

 小池知事が取り組んでいる姿勢は私は素晴らしいと思っています。行財政改革、これまで情報非公開だった部分を透明化する姿勢は、国政にも求められる姿勢だと思っている。今後も協力できるところがあればさせて頂きたいと思います」――

 確かに新しく都知事となった小池百合子は現在風を受けて順風満帆の状況にある。だが、その風は舛添要一自身の「政治とカネ」の問題と古手の自民党都議たちの自己権益擁護中心の政治、さらに都の役人の豊洲問題に代表される無責任体制が吹かせた風に乗っかった順調な滑り出しであって、自分自身が作り出した風ではない。真の力量は今後にかかっている。

 このような風を受けて小池百合子は自身の政治活動の中心に都政改革を掲げることになった。

 先ずこの点を抑えておかなければならない。

 小池百合子の政治塾開講は2017年7月22日任期満了の都議会議員選挙を見据えた行動で、塾生の中から都議候補を擁立して当選させて都議会に議席を確保することで都政改革をより進めやすくする目的からだと言われている。

 現在の都議会の各会派の構成は定員127人のうち自民党が60人、公明党が23人の与党83人で3分の2近くを占める。野党は3分の1に過ぎない。

 小池百合子が自らの政党を立ち上げて都議会に議席を占め、一気に過半数を確保できればいいが、できなければ都議会民進党や共産党等の野党の力を借りる必要が生じる。

 だとしても、小池百合子は2902人もの塾生を抱えながら、定員127人の都議会選挙で野党との協力を視野に入れて野党との間で立候補調整をし、その落選を妨害しない住み分けを図るだろうか。

 野党との協力はあくまでも選挙の結果に対してのものであり、当然、民進党は、他の野党にしても同じだが、次期都議会選挙で小池百合子の政党と対立する関係となる。小池百合子の人気がその時までほぼ現在の状態で維持され、その人気を背景とした小池百合子の政党の立候補者が民進党を落選させることもあり得ることになる。

 結果、初めての都議選でありながら、過半数獲得、そこまで行かなかったとしても、それなりの躍進を果たした場合、自民党のみならず、民進党も共産党も議席を大きく減らす可能性は否定できない。

 蓮舫は民進党代表としてこういった可能性を想定しなければならない立場にある。

 このような立場を前提として蓮舫の発言を改めて振り返ってみる。

 「私たちの仲間も参加をしているとの報告を受けている。我々の仲間が手を挙げることを止めることはしていません」

 止めることなどできないだろう。旧民主党系の都議会民進党の都議を除名に付したとししても、旧維新の党系の民進党都議団の都議を除名に付したとしても、都議としてとどまることができるし、次の都議選に立候補をできる。

 除名が却って同情を誘い、小池新党への期待と相俟って当選に力を貸すことになったなら、除名したことが却って仇となる。

 いわば止めることができないことを、「我々の仲間が手を挙げることを止めることはしていません」と、さも民進党の心の広さであるかのように言う。

 この小賢しさにも鼻につくが、多分、7月の東京都知事選で党の方針に反して小池百合子を応援したことを理由に7人の自民党区議に対して離党を勧告していた自民党東京都連との違いを示したのだろが、そうだとすると、できないことを以って違いを示したことになり、却って小賢しさは増す。

 また、「小池知事が取り組んでいる姿勢は私は素晴らしいと思っています」と好感を寄せるのはいいが、一政党の代表である以上、代表としての蓮舫自身に好感を寄せる、小池百合子に負けず劣らずの賛同者が大勢いてこそ、他者に好感を寄せる対等の資格が出てくる。

 ところが衆院選東京10区補選で小池百合子が背後に控えていた若狭勝にしてやられた民進党候補の敗北は小池百合子よりも蓮舫の方の賛同者が遥かに少ないことを知らしめることになった。

 賛同者の数が対等でないにも関わらず他者に好感を寄せるのは政策やその他全てに関わる他者の自律性の下に同じく政策やその他全てに関わる自身の自律性を置いていることになる。

 いわば蓮舫は知らず知らずのうちに小池百合子を上に置いて下から見ている。

 言い替えると、蓮舫自身が取り組んでいる姿勢を多くの有権者に素晴らしいと思わせなければダメだと言うことである。

 素晴らしいと思わせてこそ、誰とも比較を許さない民進党代表としての自律性を確保できる。

 果たして蓮舫に民進党代表としての資格があるのだろうか、個人的意見ながら述べてみることにした。

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外相岸田の安倍晋三の意を汲み、核兵器を法的に禁止する条約の制定を目指す決議案にアメリカの立場から反対

2016-10-29 12:02:14 | 政治

 2016年10月27日、国連総会第1委員会(軍縮)が核兵器の全面廃絶に向けて全ての国が共同行動を取る決意を新たにするとした日本主導の決議――「核兵器廃絶決議」を国連全加盟国の8割を超す167カ国の賛成を得て採択したとマスコミが伝えている。

 中国とロシア、北朝鮮、シリアの4カ国が反対し、英仏など17カ国は棄権した一方で、昨年棄権した米国が賛成に回ったという。 

 正式タイトル名は「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意の下での共同行動」

 その骨子が《2015年第70回国連総会我が国核兵器廃絶決議案》と題してPDF記事で外務省のサイトに紹介されている。   

 「核兵器廃絶決議」の正式タイトル名を見ただだけで、単なる決意表明に過ぎないと分かるが、骨子からも決意表明に過ぎないことをいとも簡単に窺い知ることができる。

 先ず前文の幾つかと、それに対応させた主文を対置させてみる。

 前文〈核兵器のない平和で安全な世界を実現するための決意を再確認。〉
 主文〈全ての国が核兵器の全面的廃絶への共同行動をとるとの決意を新たにする。〉

 前文〈本年が広島・長崎の被爆,第二次世界大戦の終結から70年であることを想起。〉
 主文〈核兵器国による核兵器の全面的廃絶に関する明確な約束を再確認。〉

 前文〈核兵器使用の壊滅的で非人道的結末に深い懸念を表明,国際人道法を含む適用可能な国際法の遵守の必要性を再確認。〉
 主文〈核兵器使用の非人道的結末への深い懸念が核兵器のない世界への全ての国の努力を引き続き下支えする旨強調。〉

 前文〈核兵器使用による壊滅的で非人道的な結末が皆に十分に理解されるべきことを認識し,この関連でこの理解の向上のための努力がなされるべきことに留意。〉
 主文〈NPT締約国に対し,NPTの義務を遵守し,1995年,2000年及び2010年のNPT運用検討会議で合意された措置の履行を要請〉

 前文〈米露間の新戦略核削減条約(新START)の順調な履行を歓迎。〉
 主文〈NPT非締約国に対して非核兵器国として早期かつ無条件でのNPT加入を要請。〉

 等々となっている。

 NPTとは、ネットで調べて一応解説しておくと、「核兵器の不拡散に関する条約。核軍縮を目的にアメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5カ国以外の核兵器の保有を禁止する条約」となっている。

 要するに核保有5カ国の核はそのままに、それ以外の国の核保有は禁止しますという条約である。核所有を欲しているどの国が条約に参加するというのだろうか。

 また参加したとしても、国益を優先させることができるから、いつでも脱退できる。あってもなきが如しの条約、有名無実の存在に過ぎない。

 「核兵器廃絶決議」の骨子、前文にしても主文にしても、「再確認」、「決意を新たにする」、「~を想起」、「必要性を再確認」、「留意」、「履行を要請」等々の言葉が並んでいるのみで、義務(あるいは罰則)を伴わせた規則の体を成していない。

 要するに決意表明以外の何ものでもない。

 このことは「核兵器廃絶決議」が23年連続で採択されたことに現れている。23年間も目に見える発展はなかった。あるいは23年前の現状をほぼ維持し続けた。

 「日本主導」と言うと、さも立派なことを主導しているように見えるが、義務を伴わせた規則となっていない以上、いわば法の体裁を取っていない以上、最初から骨抜きされた毒にも薬にもならない、「廃絶」とは無縁の「核兵器廃絶決議」に過ぎないことになる。

 「核兵器廃絶決議」は年内に総会本会議で採択され、正式な決議となると言うことだが、採択されたとしても、総会決議に法的拘束力はないところにも、いわば既に触れたように義務(あるいは罰則)を伴わせた規則の体を成していないということろにも、正体が決意表明に過ぎないこと、そしてそこから一歩も出ないことを示すことになる。

 例え決意表明が正体の決議だったとしても、それすら中国とロシアの核保有国と、核保有予備軍の北朝鮮、シリア(既に核保有しているのか)の4カ国が反対し、英仏など17カ国は棄権したのでは、どう逆立ちしても実効性は伴わないことになる。

 国連総会第1委員会(軍縮)は同10月27日(日本時間の28日朝)、オーストリア等50カ国超共同提案の「核兵器を法的に禁止する条約の制定を目指す決議案」の採択を行い、賛成123、反対38、棄権16の賛成多数で採択された。

 日本はアメリカと共に反対票を投じた。

 「核兵器を法的に禁止する条約の制定を目指す決議案」がその題名に「法的に禁止する」という文言を入れている以上、そのような条約が制定されたなら、当然、法的拘束力を持つことになる。

 外相の岸田文雄が10月28日閣議後に首相官邸エントランスホールで「記者会見」を開いて、反対した理由を説明している。

 岸田文雄「『核兵器のない世界』を実現するためには,核兵器の非人道性に対する正確な認識と,厳しい安全保障環境に対する冷静な認識に基づき,核兵器国と非核兵器国の協力による具体的・実践的措置を積み重ねていくことが不可欠です。これは私(大臣)からも繰り返し申し上げてきた我が国の基本的立場であります。

 今般の国連総会第一委員会においても,このような立場を踏まえ,国際社会に対し,我が国の核兵器廃絶決議への支持を強く訴えてきて参りました。その結果,我が国の決議には,米国を含む,今集計中ですが,約110か国の国が共同提案国となりました。そして全体では167か国の圧倒的多数の支持を得て採択されました。

 この数字は共に昨年を上回っております。このことが我が国の決議こそ,NPT(核兵器の不拡散に関する条約(かくへいきのふかくさんにかんするじょうやく、Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons、略称:NPT)は、核軍縮を目的に、アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5か国以外の核兵器の保有を禁止する条約)を柱とする国際的な軍縮・不拡散体制の下で,核兵器国と非核兵器国双方が共に目指すべき「核兵器のない世界」への現実的な道筋を示すものであることを表していると考えます。

 一方,核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議,この決議案についても投票が行われたわけですが,我が国としましては慎重な検討を重ねた結果,反対票を投じました。

 反対の理由は,この決議案が,

 (1)具体的・実践的措置を積み重ね,『核兵器のない世界』を目指すという我が国の基本的立場に合致せず,

 (2)北朝鮮の核・ミサイル開発への深刻化などに直面している中,核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長し,その亀裂を深めるものであるからであります。

 こうした評価は,この決議に対する各国の投票行動,例えば北朝鮮はこの決議に賛成をしています。そして核兵器国は全てこの決議に対しては賛成をしておりません。こうした投票行動にも,こうした評価は表れているのではないか,このように考えます」

 前半は日本主導の「核兵器廃絶決議」の採択についての説明、後半は 「核兵器を法的に禁止する条約の制定を目指す決議案」に対する反対の理由を説明している。
 
 反対理由の一つてして、「具体的・実践的措置を積み重ね,『核兵器のない世界』を目指すという我が国の基本的立場に合致しないこと」を挙げているが、決意表明でしかない、そうであっても核保有国の多くが反対票もしくは棄権票を投じている日本主導の法的拘束力を持たない「核兵器廃絶決議」の採択の実現が、「『核兵器のない世界』を目指す」「具体的・実践的措置の積み重ね」、あるいはその一つだとするマヤカシは如何ともし難い。

 こういった恥知らずで厚かましい言葉をスラスラ口にすることができる岸田文雄の舌はどういった仕組みになっているのだろうか。

 当然、この説明は条約が制定されれば法的拘束力を持つことになる「核兵器を法的に禁止する条約の制定を目指す決議案」に対する日本の反対理由にはならないことになる。

 反対の二つ目の理由として「北朝鮮の核・ミサイル開発への深刻化などに直面している中,核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長し,その亀裂を深める」ことになることを挙げている。

 後段の「核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長し,その亀裂を深める」と言っていることは「核兵器国は全てこの決議に対しては賛成」していないことによって生じる事態ということになるが、核保有国と核非保有国の当然の利害の対立であって、だからと言って、核非保有国の日本が反対に回る理由とはならない。

 要するにアメリカの核の傘に守られている立場上の利害が反対の真の理由であるはずだ。

 また、核開発を進めている北朝鮮が「この決議に賛成」しているのに対して核保有国の全てが賛成していないことを以って、この決議に賛成できない評価が現れていると、反対した日本の姿勢を正当化しているが、北朝鮮一国の賛成に対して核保有国が全て賛成していないことに反対の正当化を置いているのだから、この正当化は同時に核保有国の核保有を正当化する姿勢を示していることになる。

 と言うことは外相岸田文雄の日本政府を代表した反対は当然、安倍晋三の意を汲んでいると同時に緊密な同盟関係を結んでいるアメリカの立場からの反対姿勢でもあるということになる。

 このような立場を守るために、「『核兵器のない世界』を実現する」などと言いながら、決意表明でしかない、当然実効性を伴わない、法的拘束力のない日本主導の「核兵器廃絶決議」の採択に23年間も続けて努力してきたのだろう。

 条約が制定された場合の法的拘束力は北朝鮮にも及ぶが、法的拘束力に猶予期間を設けることができる。核を多く持っている国の核全廃まで、核開発を止めることはできないと猶予期間を要求する外交カードとする可能性を考えないわけにはいかない。

 だからと言って、唯一の被爆国日本が条約の制定に最後まで反対し続けた場合、決議の採択で既に賛成が反対を倍以上上回っている以上、唯一の被爆国の信用を失うことになるばかりか、その外交上の主体性までも疑われることになるに違いない。

 「核兵器を法的に禁止する条約」が制定された場合、核保有国の核全廃までの期間、核保有国の核の何発かをそれを投下する大陸間弾道ミサイルとセットで国際連合安全保障理事会(安保理)の決議によって組織された国際連合指揮下の国連軍に預けるという形にしたらどうだろうか。

 もし核を開発したり、核発射の動きのある国が出てきた場合、安保理決議のもと核の先制攻撃ができるとする。

 アメリカやロシア、英国、フランス等の核保有国は培った監視能力で核開発や核発射の動きを監視する役目を担う。

 安全保障理事会は全会一致が決まりとなっているが、核の先制攻撃を受けた場合の被害に対する責任は反対した国も負うという規則を設ければ、安易には反対できないことになる。

 核抑止力を優先させるか、単なる決意表明ではない、核全廃に向けた人類の知恵を見い出す方向に動き出すか、そろそろ決めるときが来たはずである。

 もし前者の選択に走るなら、北朝鮮の核開発を非難する資格はどの国も失う。

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皇族三笠宮崇仁が終戦後日本人の作成に拘った憲法観を安倍晋三が現在受け継ぐ

2016-10-28 11:37:05 | Weblog

 親王の三笠宮崇仁が10月27日、東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなった。年齢は100歳の長寿。マスコミは「薨去」という言葉で伝えている。皇族・三位(さんみ)以上の人の死亡を言う言葉だそうだ。

 大正天皇の第4皇男子で、現天皇の叔父に当たるという。自身も軍務に就いた戦争の反省に立ち、戦後一貫して平和の大切さを訴えていたとマスコミは紹介している。

 戦後はオリエント研究者となり、歴史学者として「紀元節」復活に反対したという。

 戦前の男子皇族は全て軍務に就く規則があったそうだ。そのため1936年(昭和11年)に陸軍士官学校を卒業後、騎兵第15連隊で小隊長、続いて中隊長を務めのちに陸軍大学校を卒業、中国南京に派遣されたという。

 ところが、陸軍士官学校と陸軍大学で学んだことや、そこで仲間となった人間関係が作り出す世界と現実世界は違ったのだろう、次第に反軍思想に染まっていったようだ。

 先ずは《三笠宮さまが歩んだ激動の一世紀 日本軍を批判、紀元節復活に反対も》The Huffington Post/2016年10月27日 16時06分)なる記事から、三笠宮崇仁の言動を拾ってみる。記事執筆者は吉川慧なる人物。文飾は当方。
  
 汪兆銘が日本の軍事力を背景として蒋介石の政権とは別個に1940年3月30日に南京に樹立した国民政府について――

 「元来、国民政府は日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するために作ったというより、諸外国から非難された日本の侵略主義を掩蔽(えんぺい)せんがための、一時的思いつきによる小刀細工の観が深い」

 1937年(昭和12年)に盧溝橋事件を機に勃発した日中戦争について――

 「陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのでなく、現地軍が戦闘を始めてから陛下に後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」

 日中戦争の解決しない理由に就いて――

 「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」

 中国内の抗日活動について――

 「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」

 1956年出版の著書『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』に付された1956年までの自叙伝「わが思い出の記」の中での記述。

 「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」

 「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」

 昭和天皇や政府の統制の効かなくなった軍部の姿が浮かんでくる。軍部独走と言われる所以である。

 中国との戦争もアメリカとの戦争も軍部独走で始まり、止むを得ず昭和天皇が従い、戦争終結は軍部では幕を引くことができず、皮肉なことに戦争中はその存在を軽んじていた天皇の聖断なる裁決を仰ぐことになった。

 上記記事は、〈戦後間もない1946年6月、新憲法案を採決した枢密院の本会議で、三笠宮さまは新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張した。〉と解説している。

 具体的には次のように残している発言を記事は紹介している。

 「日本はたとえ受動的にせよ他国間の戦争はもちろん局地紛争にでも巻き込まれては日本の再建ができぬばかりでなく、今度こそ日本人の滅亡に陥る危険性がある。兵器の進歩を予察する時一層しかりである。故に日本は絶対に厳正なる局外中立を堅持せねばならぬ」

 無節操だった戦争の強い反動が平和を願わしたということなのだろう。

 但し誤った戦争を起こし、中国で横暴を極め、中国の民衆を抑圧してきたのは軍人を職業とする日本人でありながら、憲法に関しては日本人の作成に拘った。

 記事はその発言を紹介している。

 「第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること」

 「種々の情勢上反対する訳にも行かないが、さりとて賛成することは良心が許さぬ」

 この記事には書いてないが、他のマスコミ記事によると、採決は棄権したことになっている。

 例えそれがマッカーサー-憲法であったとしても、果たして日本人の手によって国民主権・平和主義・基本的人権の尊重の3大原理を憲法の中に打ち立てることができたのかどうかを判断できるだけの論理的冷静な思考能力を有していなかった。

 このことは当時の幣原内閣のもとで松本烝治国務大臣が中心となって1946年(昭和21年)1月に松本試案として纏めた憲法改正私案を見れば、一目瞭然である。

 松本試案第三条「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」

 これは大日本帝国憲法の第1章天皇第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と何ら変わらないままに天皇を絶対的存在として国民の遥か上に位置させている。

 松本試案第二十条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ役務ニ服スル義務ヲ有ス」

 これは大日本帝国憲法第2章臣民権利義務第20条の「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」の「兵役の義務」を「役務の義務」に変えただけで、GHQによって解体された日本軍のいつの日かの復活に備えて用意した文言であるはずだ。

 でなくても、国家権力が国民に対して勝手に法律を作って上から「役務」を命じていいはずはない。

 命じていいとしているから、大日本国憲法にも松本試案にも「職業選択の自由」の規定が存在しない。規定した場合、「兵役の義務」や「役務の義務」と相反することになる。

 少なくとも「兵役の義務」にしても「役務の義務」にしても、「職業選択の自由」の例外規定としなければならない。

 だが、そういった思想すらない。

 大体が松本試案が国民を「臣民」としていること自体が大日本帝国憲法観と同様に天皇及び国家権力と国民の関係を支配と従属の結びつきでしか見ることができないからであろう。

 連中にとっては国民は遥か下の存在でしかなかった。

 国民を天皇及び国家権力の支配のもとに従属させる関係で見ていたから、「信教の自由」にしても、松本試案は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ」とし、大日本帝国憲法も、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」と、支配と従属の関係性の中でしか自由を認めることができないでいる。

 当時の日本人の多くが敗戦という手痛い目に遭いながら、明治以降の国家主義の思想に囚われて、そこから完全に抜け出ることができずに大日本帝国憲法の思想とさして変わらない日本国憲法を目指そうとした。

 マッカーサーが松本試案を忌避し、当時の民間の憲法研究会の「憲法草案要綱」を参考にしてGHQのもとで作らざるを得なかったのは以上の理由があったからであろう。

 憲法研究会の「憲法草案要綱」の内容を「Wikipedia」から引用してみる。

 「日本国の統治権は、日本国民より発する」
 「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
 「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
 「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
 「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」(以上)

 この精神は現在の日本国憲法に生きている。

 当時の政治家に日本国憲法の作成を任せていたなら、どうなっただろうか。現在の民主主義の確立も自由な活動もなかったに違いない。

 日本国憲法成立には以上のような経緯がありながら、三笠宮は「第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること」といった思いで日本人の手による作成に拘り、採決に棄権した。

 当時の三笠宮が論理的冷静な思考性を持ち合わせていなかったように安倍晋三は現在もなお持ち合わせていない。

 日本国憲法をマッカーサーがつくった占領軍憲法だと忌避し、その憲法によって明治以降から戦前まで受け継いできた日本が改造され、同じく明治以降から戦前まで受け継いできた日本人の精神に悪影響を及ぼしたといった趣旨の批判を行っている。

 三笠宮一人ではなかっただろうが、戦後の三笠宮が日本人の作成に拘った憲法観を安倍晋三が今なお受け継いでいる。

 安倍晋三が三笠宮より始末が悪いのは、三笠宮が日本の戦争を戦後忌避し続けたのに対して安倍晋三はそれを侵略戦争と認めていないことである。

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ドゥテルテ比大統領の麻薬戦争超法規殺人批判の米・EU等をバカ呼ばわりしているが、バカはどっちなのか

2016-10-27 12:17:29 | Weblog
 
 フィリピンの最大の援助国は日本だそうだ。

 フィリピンのドゥテルテ大統領がなかなか強かな外交を展開している。2016年10月18日、中国を訪問、10月20日に習近平主席と首脳会談、フィリピン政府が国連海洋法条約に基づいて訴えた中国が南シナ海で主張している領有権は国際法違反だとした2016年7月12日のオランダ・ハーグの仲裁裁判所の判断を棚上げ、いわば中比間の対立問題の解決を先送りし、その見返りに習主席から90億ドルを超える融資の申し出でがあり、民間投資45億ドルを合わせて総額135億ドル(約1兆4000億円)の規模にも上る経済支援を獲得している。

 中国訪問の後、一旦フィリピンに帰国、10月25日に日本を訪問。翌日10月26日に安倍晋三と首脳会談。南シナ海で中国が主張する権益に関して、「法の支配を基に平和に問題を解決したいと思っている。我々は常に日本の側に立つつもりだ」と発言したという。

 中国では棚上げし、解決を先送りすることで合意していながら、日本では仲裁裁判所の判断の履行を中国に迫っている日本の立場と同調、法の支配に則った平和的解決を口にする。

 さらに「私どもは忠誠なる日本のパートナーであり続けることをはっきりと再確認するためにここにやってきた」とも発言したという。

 その狙いは日本からの経済支援を引き出すことにあるのは言うまでもない。フィリピンの海上警備能力の向上を図るための大型巡視船2隻供与の他、発展が遅れている地域経済活動支援の円借款供与等の具体策で合意したとマスコミは伝えている。

 要するに中国から資金援助・経済支援を受けるために南シナ海問題を棚上げ、その解決を先送りすることで合意し、日本からも資金援助・経済支援を受けるために仲裁裁判所の判断の履行を中国に迫っている日本の立場と同調した行動を取ることを表明した。

 但しドゥテルテ大統領は後者を優先させることはできない。優先させたなら、中国の支援が途中で止まる可能性が生じる。

 前者を優先させた場合、優先させている間に中国が南シナ海の権益を現在以上に着々と既成事実化し、実効支配をなお一層確立していったあとでは、仲裁裁判所の判断の履行を迫ろうとも、そこに日本を加担させたとしても、今以上の困難に付き纏われることになるのは目に見えている。

 それとも現状維持に留めるという密約でもしたのだろうか。だとしても、中国から援助を得るために国際法違反の現状に甘んじたという事実は残る。国が発展し、中国からの援助はが要らなくなったから、南シナ海の問題解決のためにそろそろ腰を上げるでは信義が通らないことになるが、信義など問題としていないのかもしれない。

 いずれにしても厄介な賭けに出たことになる。

 それを承知のことなら、なおさらに強かな外交手腕ということになる。

 ドゥテルテ大統領は10月20日に北京で開かれたビジネス会合で演説して、「軍事的にも経済的にもアメリカと決別する」と発言したとマスコミは伝えている。

 さらに10月25日、来日に向けたマニラ空港で米軍の国内基地使用等を可能とする米比防衛協力強化協定について「忘れてくれ」と述べたという。

 そして来日翌日の10月26日、都内で講演して、「私は独立した外交政策を追求すると宣言した。恐らく2年以内に外国の軍隊はフィリピンからいなくなる」と述べて、米軍の2年以内の撤退を求めている。

 アメリカとの関係を断絶しかねないこの極端な反米感情はドゥテルテ大統領がフィリピン国内で進めている麻薬常用者や麻薬売人を見つけ次第銃で抹殺してしまう、麻薬戦争と呼ばれている過激な麻薬撲滅運動に対してアメリカやEU、人権団体が「超法規的殺人」と批判、問題視していることに対する反発から出ているようだ。

 この根拠は10月25日の訪日当日、東京・千代田区のホテルで1000人近い在日フィリピン人を前に講演して、過激な麻薬撲滅政策を非難するアメリカやEUを「お前はバカだ。今頃分かったのか」などと名指しで批判したことに現れている。

 しかしバカなのはどっちなのだろうか。

 フィリピンの人口は9839万(2013年)。フィリピン政府の危険薬物委員会(DDB)は2012年の調査で全国の麻薬利用者は130万人としていたが、実際は人口の約1割に当たる1000万人近くに上る可能性があると推定されているという。

 この膨大な麻薬人口に関して2016年10月26日付の「ロイター」記事、《別リポート:ドゥテルテ氏、虚偽の数字で「麻薬戦争」先導か》が興味深い記述を示している。  

 〈ドゥテルテ大統領が22年間にわたって市長を務めたダバオ市でも、やはり同じように凄惨な麻薬取り締まりを主導。人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチによる2009年の報告書では、ダバオ市では数百人もの麻薬密売の容疑者、軽犯罪者、ストリートチルドレンが暗殺部隊によって殺害されたという。ドゥテルテ大統領は、これらの殺害のいずれについても関与を否定している。

 だがこうした取り締まりにもかかわらず、2010年から2015年の警察犯罪データによれば、ダバオ市は依然として、フィリピン15都市のなかで殺人事件の件数で1位、強姦事件の件数では2位にランクされている。〉――

 このような犯罪事情から容易に想定される犯罪を生み出している原因は、この記事では触れていないが、貧困の広範囲な広がりである。

 フィリピンの経済発展は著しいものがある。《フィリピン経済の現状と今後の展望》三菱UKJリサーチ&コンサルティング/2015 年3月17日)なる記事には次の記述がなされている。  

 〈フィリピン経済は、1960~1990 年代にかけて長期低迷に陥っていたが、近年は好調であり、2012 年以降の経済成長率はASEAN 主要国のなかでもトップクラスである。需要面で景気拡大を牽引しているのは個人消費であり、それを支えているのが、在外フィリピン人労働者(OFW)からの送金である。〉――

 また、マニラ等の大都市では高層ビルや豪華なショッピングモールが次々に建設されているという。

 そのような経済発展の一方で、ストリートチルドレンが街に溢れ、ゴミを埋め立てて山となったゴミ山から売れるゴミを漁って最低限の生計を立てている最貧住民が無視できない数存在しているという。

 いわばフィリピンは経済発展が富裕層を増殖させている一方で、その経済発展に取り残すことで貧困層を放置している状況にある。

 そして貧困が犯罪を生み出す温床となっている。

 では、フィリピンでは富裕層と中間層、貧困層の割合はどうなっているのか、《[フィリピン] 階層別世帯収入 ( アジア )》 この身はフィリピンに預け、心はまぼろしの日本を想う/2013/8/30(金) 午後 2:00)なる記事に日本人商工会議所の月報(2013年1月号)の引用でフィリピンの世帯収入毎の収入の分類と世帯数を載せている。  

社会階層  世帯収入月額   世帯数(割合)   日本物価換算収入月額

富裕層   15万ペソ以上     4万(0.2%)    150万円以上

中間層(A)  10万~15万ペソ   18万(0.9%)   100万~150万円

中間層(B)  2万~10万ペソ   380万(20.6%)   20万~100万円

貧困層    1万~2万ペソ     700万(37.5%)   10万~20万円

最貧層    1万ペソ未満     760万(40.7%)   10万円以下

合計                1862万(99.9%)

 貧困層と最貧層で1460万世帯を占める。日本の2015年世帯構成人数2.49人に対して2012年のフィリピンの世帯構成人数は4.6人。4年経過した今日、少しは状況は良くなっていると仮定して1460万世帯に4人掛けると、5840万人。

 5840万人をフィリピンの人口9839万(2013年)の割合で見ると、約60%を占める。

 そしてこの貧困の原因はご多分に漏れず、機会不均衡な教育事情にあるはずだ。

 《フィリピンの教育格差と日本人が知らない小学校の特別クラス》gloleacebu.com/2015/10/09)なる記事に次のような記述が載っている。    

 〈フィリピンの教育格差

 フィリピンでは大学や専門学校など、いわゆる高等教育の就学率は30%と高く、国内には1,600以上の高等教育機関があります。

 フィリピンは戦後、アメリカが英語を普及させ教育養成にも力を入れたため、優秀な人材がたくさん育っています。ITや工学、医学、介護などの専門知識を持った彼らは、欧米や中東など世界で活躍をしています。

 彼らのほとんどは幼稚園、小学校から、教育設備が充実している私立の学校に通っています。

 一方、授業料が掛からない公立の学校は、設備や先生の不足から十分な教育を提供できていません。

 また、貧困層の子どもたちも大勢いるため、小学校では30%、高校では50%の生徒が卒業まで在籍せず、途中でドロップアウトしてしまいます。

 学用品や制服が買えない、家の仕事を手伝わなければならない、などがその理由です。〉・・・・・・

 いくら高等教育の就学率は30%と高く、国内には1,600以上の高等教育機関があったとしても、それらを主として担っているのは富裕層や中間層に限られていて、フィリピンの人口9839万人のうちの約60%もの貧困層に属する生活困窮者が〈小学校では30%、高校では50%〉と途中退学していたのでは、あるいは最初から小学校にすら通っていないとしたなら、満足な就職もなく、貧困が貧困を生むという負のスパイラルに囚われた生活にとどまる確率は高いことになる。

 ゴミ山漁りも親を継いで生計の道具としている生活困窮者も存在するはずだ。

 そして困窮した荒(すさ)んだ生活の果に麻薬に走ったり、殺人や強姦に走ったりする。

 麻薬利用者がフィリピン政府統計の130万人であっても、実際は人口の約1割に当たる1000万人近くに上ろうとも、見つけ次第超法規的に銃で命を奪い、死体の山を築くことで麻薬に手を染める芽を摘んでいったとしても、犯罪を生み出す確率の高い貧困問題を置き去りにしたのでは、社会を浄化したことにはならないことになる。

 その貧困対策にフィリピンの最大の援助国である日本の援助は殆んど役に立っていなかった。富裕層の富の収奪により役立ったということであろう。

 貧困の解消と教育機会の万遍のない普及こそが麻薬やその他の犯罪を少なくしていく対策であるにも関わらず、ドゥテルテ大統領の麻薬対策に於ける超法規的殺人を批判するアメリカやEUに対して反感を募らせ、オバマ大統領に対してはバカ呼ばわりまでしている。

 バカなのはどっちなのだろうか。 

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イジメは隠れたところで、あるいは隠す形で進行し、ときに深刻化する、その原理に立った危機感が教師に必要

2016-10-25 12:48:01 | 政治

 2016年10月24日付「NHK NEWS WEB」記事が、文科省の有識者会議が深刻なイジメの定義を明確化する新指針の作成を決めたと報じている。  

 有識者会議とは正式には「いじめ防止対策協議会」と言い、10月24日に平成28年度第6回を開催しているが、文科省のサイトにはまだその内容が公表されていない。

 上記記事を頼りにどのような新指針なのか見てみる。

 先ず記事は、2011年に大津市の中学2年男子生徒が自殺したことをきっかけに3年前、イジメがあった場合は学校などが組織的に対応することを務づけた、「いじめ防止対策推進法」(2013年9月28日施行)が成立したものの、昨年度(2015年度)はイジメが原因と見られる自殺が9件にも上り、そのことを受けた文科省による有識者会議の設置だと前置きしている。

 要するに「いじめ防止対策推進法」を施行させることで学校に対してイジメに組織的に対応することを義務づけたものの、学校側は組織的に対応できなかった状況があったことになる。

 深刻なイジメを防いだという記事を見かけないから、イジメが原因の可能性の9件以外の学校はたまたま深刻なイジメが起きなかった幸運に助けれれていたのかもしれない。

 中にはイジメから逃れる最終手段として転校を選び、学校側は転校の本当の理由もイジメがあったことも知らないままに平穏無事に時間を経過させていくといった例も数多くあるに違いない。

 有識者会議は学校が深刻なイジメに対して組織的な対応ができなかった原因として子どもたちの命や心身に重大な影響を及ぼす深刻なイジメの定義が曖昧であったために学校の判断や対応にばらつきが生じたとして、その是正策として具体的な事例を示して定義を明確化することやイジメを認知したなら、早めに教育委員会に第三者による調査委員会を設置すること、いじめの調査方法等、新しい指針の作成を国に求めることにしたという。

 深刻なイジメの定義を明確化したからと言って、どうなるのだろう。イジメは主として隠れたところで、あるいは隠す形で進行していく。進行していく過程で時と場合に応じてイジメは深刻化していく。

 そしてそれが明確に表面に現れるのは多くの場合、一定の潜伏期間を経て、イジメを受けた児童・生徒の自殺や自殺未遂といった結末を迎えたのちに調査によって過去形でイジメがどれ程に深刻だったかを知ることになる。

 病気が症状に現れないまま身体の中で進行し、深刻化していくのと同じで深刻なイジメは初期の段階でのイジメに気づかないからこその病気の進行と同じ道を辿った深刻化ということであろう。

 当然、イジメに気づかず、その進行を受けた深刻化を見過ごしていたなら、早めに教育委員会に第三者による調査委員会を設置することなどできようがない。

 要は教師がイジメは隠れたところで、あるいは隠す形で進行し、ついには深刻なイジメの形を取るケースも生じかねないとする危機感を常に備えていて、その手前で防ぐためには例えそれがふざけあっているようなその場の関係に見えたとしても、一応はイジメではないかと疑ってかかって、イジメの場合はそれ以上深刻化することへの危機感を前面に出して行動することが教師に必要な深刻なイジメ防止の要件となるはずである。

 ところが、イジメを受けて児童・生徒が自殺したケースの多くで教師はそのような危機感で行動できていなかった。

 例えば東京中野の富士見中学2年の鹿川裕史君(13歳)が学校でイジメを受けて1986年2月1日、岩手県の盛岡駅ビルのショッピングセンター「フェザン」のB1トイレ内で首を吊って自殺した事件を伝えた、《中野・富士見中学いじめ自殺事件》なるサイトには、事件直後に富士見中に電話をかけた取材記者と校長の間での次の遣り取りが記されている。  

 記者「自殺の原因を思い当たらないか」

 校長「分からないが、イジメられたことは聞いている」

 記者「それが原因か」

 校長「かも知れない。それも考えられる。が、イジメといっても、仲間同士のプロレスごっこや、使い走りをさせられてる程度だ」

 この記事は一方で生徒の目撃情報として、鹿川君はプロレスごっこの投げられ役など、「サンドバッグの状態だった」と記している。

 イジメはふざけ合いを装うことが定番化している。いくらふざけ合いを装っても、それがイジメなら、そこに勝ち負けを存在させて、勝ち負けの関係を固定化させることになる。

 事実ふざけ合いなら、勝ち負けの関係は固定化させることはない。

 もしプロレスの勝負の真似事なら、勝ち負けを存在させたとしても、戦う双方の力関係が一定程度対等でなければ、勝負は成り立たない。力関係に差があり、常に負かされる側になると分かっていたなら、勝負の真似事自体を避けるだろう。

 要するに富士見中学の校長も教師もイジメは隠れたところで、あるいは隠す形で進行し、ついには深刻なイジメの形を取るケースも生じかねないといったイジメの原理を認識することも、そのような認識に立って万が一にもイジメが深刻化することへの危機感を持って、その回避行動に動くこともしなかった。

 2011年0月11日朝、大津市の中2男子生徒が執拗なイジメを受けて自宅マンションから飛び降り、死亡した事件でも、その10日以上も前に女子生徒がトイレで男子生徒が殴られているのを目撃、最初に見かけた担任ではない教師に「イジメられているからやめさせてほしい」と訴えた。

 その教師は殴られていた生徒に確認すると、本人は「大丈夫」と答えた。

 「大丈夫」、「何でもない」と答えるのも、イジメを受けている側の定番化した反応となっている。事実「大丈夫」、「何でもない」かもしれないが、弱い人間だからと思われたくない虚栄心からの、あるいはイジメを受けていることを喋って相手に知られた場合のイジメのエスカレートを恐れていることからの反応ではないかと疑い、実際には隠れたところで、あるいは隠す形でイジメが進行してはいないかと、そのことに対する危機感を持つことすらしなかった。

 件の生徒が自殺する6日前の10月5日、別の生徒が担任に「いじめがある」と伝えた。

 担任は自殺した生徒と同級生が喧嘩をしたとして、両方の保護者を呼んで謝罪させた。このとき担任は自殺した生徒を残して、「本当はどうなんだ」とイジメについて聞いたところ、生徒は「きょうはちょっとイヤやった」と答えた。

 担任と2年担当の別の教諭たちがその後、男子生徒について話し合い、「イジメかもしれないから、人間関係に気をつけていこう」と確認し合ったという。

 男子生徒はこの6日後に自殺した。

 イジメが隠れたところで、あるいは隠す形で進行するという認識を持っていたなら、いくら人間関係に気をつけようとも、教師たちが目にする生徒同士の表向きの人間関係からではイジメの存在を窺うことは難しいことに思い至っていたはずだ。

 実際にイジメられていても、「大丈夫」、「何でもない」と答えるのも表向きの人間関係を示しているに過ぎないように、生徒が答えた「きょうはちょっとイヤやった」という言葉も表向きの人間関係を示したに過ぎないのではないかと疑わなければならなかったはずだ。

 当然、女子生徒が「イジメられている」と告げた時点で、本人が「大丈夫」と答えたとしても、その場に居合わせたすべての生徒とそれぞれ個別的に徹底的に話し合わなければならなかった。勿論、イジメが隠れたところで、あるいは隠す形で進行してはいないか、それが深刻化する前に明らかにするためにである。

 イジメの進行と深刻化の関係に関わる危機感を有していたなら、その場その場をたいしたことではない、ちょっとした衝突だ、あるいは単なるふざけ合いだと遣り過ごしてしまうことはないだろう。

 現実にも遣り過してしまったことから、自殺の多くを招くことになってしまっている。

 深刻なイジメが跡を絶たないから、その定義を明確化するということだが、イジメの存在そのものに気づかなければ、定義は有っても無きが如し、有名無実化する。

 イジメそのものを目撃するのは、あるいはイジメではないかと、その疑いを目撃するのは殆どの場合教師ではなく、生徒である。また目撃したとしても、みんなの鞄を持たされているとか、パシリにさせられているとか、プロレスごっこでいつも負け役をさせられいるとか、イジメられている全ての場面を目撃するのではなく、いずれか一つずつの目撃に限られる場合もある。

 生徒の一人から目撃情報を伝えられたなら、例え時間がかかろうとも、生徒全てが持つ生徒同士の人間関係に関わる情報を活用する形で他の生徒を順次個別に面談していって、目撃情報の有無を調べ、実際にイジメかどうかを明らかにしてイジメの深刻化の防止に繋げていくことの方が、定義の明確化よりも重要であり、先決問題であるはずだ。

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安倍晋三の平和と繁栄の全てを担う存在であるかのような自衛隊特別視は自らに巣食わせている軍事優先の思想

2016-10-24 11:56:12 | 政治

 安倍晋三が2016年10月22日、防衛省で開催の2016年度自衛隊殉職隊員追悼式に参列し、スピーチを行い、翌日10月23日には埼玉県陸上自衛隊朝霞訓練場で開催の自衛隊観閲式で自衛隊最高指揮官としての訓示を行った。

 新たに殉職した自衛隊員は31人。全部合わせて1909人が殉職していると前者のスピーチの中で述べている。

 この中にはヘリコプターや点検機の操縦ミスで墜落死亡した自衛隊員や勤務が原因とされる自殺を公務災害と見做して殉職者の中に入れてもいるから、勤務中に上官にイジメを受けて、それに耐えられなくなって勤務外に自殺した自衛官も含まれているはずだ。

 「日本の自衛官の自殺率は依然として高水準」( Pars Today/2015/06/08(月曜) 21:50) なる記事には次のような記述がある。  

 〈日本政府は(2015年6月)8日月曜、2003年から2014年までの期間に自殺した自衛官の数は1044人で、その数が最も多かったのは2004年、2005年、2006年であったとしました。

 さらに、この報告では日本の自衛官10万人当たりの自殺者が29人であるのに対し、国民全体では23人であるとされています。〉――

 殉職者1909人のうち2003年から2014年までの自殺者が1044人。
 
 操縦ミス等の事故死が865人となる。

 安倍晋三はスピーチで次のように述べている。

 安倍晋三「国の存立を担う崇高な職務に殉ぜられた自衛隊員の御霊に対し、ここに謹んで、追悼の誠を捧げます」(首相官邸サイト)――  

 確かに崇高な職務を担っているという意識は強いものがあるだろう。だが、殉職とされている自衛官の約55%が自殺という結果を招いている。少なくとも自殺に関しては「崇高な職務に殉ぜられた」と言うには余りにも皮肉に過ぎるし、悩み苦しんで自殺したであろう自衛官に対してそのその悩み苦しみを軽んじているように見える。

 安倍晋三「御霊は、強い使命感と責任感を持って、職務の遂行に全身全霊を捧げた、かけがえのない自衛隊員でありました」

 自殺の大きな要因の一つに人間関係が上げられている。ときには人間関係が強い使命感と責任感を打ち砕き、自らを絶望に誘い込む。

 だが、安倍晋三は殉職者全てを「全身全霊を捧げた」肯定的存在に祭り上げることで自衛隊という組織自体を完全無欠化しようとしている。

 だからこそ、安倍晋三は「国の存立を担う崇高な職務」を恰も自衛隊という存在にだけ与えられているかのようにその能力を特別視することになっているのだろう。

 そのような職務は自衛隊だけではなく、外交や経済、教育等々国民全てが担っていて、それらの職務に於ける国民の総合的な営為が国の存立を支えているという発想を持ち合わせていないから、自衛隊の能力を特別視する発言を繰返すことになる。

 このような発言は翌日の10月23日に行った自衛隊記念日観閲式での安倍晋三の訓示からも見て取ることができる。  

 先ず台風や地震等の大災害で被害を受けた被災地に於ける救命・救出、あるいは食糧配布や給水・入浴支援等の活躍によって「国民から揺るぎない信頼を勝ち得た」と褒め称え、「カンボジアPKOに始まる、自衛隊の国際貢献の歴史は、はや20年を超えました」とそのPKO活動に触れて、次のようにスピーチしている。

 安倍晋三「今も、日本から1万1千キロ、灼熱のアフリカで、南スーダンの自立を助けるため、汗を流す隊員たちがいます。アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ、南太平洋の島国など世界の60を超える国々が、日本の自衛隊と共に国連PKO活動に従事しています。

 首都ジュバでは、カンボジアの部隊も、共に活動しています。その若い女性隊員が、ある時、自衛隊員にこう話しかけてきたそうであります。

 『約20年前、日本は、私の国を支えてくれた』

 内戦に苦しんだカンボジアが、国連PKOの下、平和への道を歩み始めた90年代初頭、まだ幼い少女であった、その隊員はこう続けたそうであります。

 『日本が、私たちにしてくれたことを、今、こうして、南スーダンの人たちに、返せることを誇りに思う。そして、アフリカのPKOに参加できるまでになったカンボジアの姿を、日本人に知ってもらえて、嬉しい』

 20年余り前、日本の自衛隊が、カンボジアの大地に植えた『平和の苗』は、今、大きな実を結び、遠く離れたアフリカの大地で、次なる『平和の苗』を育もうとしています。

 世界で193番目の最も新しい国連加盟国。南スーダンは、生まれたばかりの、『世界で一番若い国』であります。

 ジュバ近郊で道路整備に励む自衛隊員の周りには、決まって、近所の子供たちが集まってくるそうであります。

 あふれるような笑顔で、隊員たちに手を振りながら、自衛隊の活動を見つめる子供たちの眼差し。彼らは、将来、きっと、南スーダンの平和な未来を切り拓く原動力となるに違いありません。そして、いつか、あのカンボジアの幼かった少女と同じように、世界の平和と繁栄に力を尽くしてくれる。そう願っています。

 世界に『平和の苗』を植える。その大きな志を持って、この、危険の伴う、自衛隊にしかできない責務を、立派に果たしてくれている諸君に、心から敬意を表します。今後も、諸君には、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、国際的な舞台で活躍してもらいたい。大いに期待しています」――

 安倍晋三は南スーダン派遣自衛隊PKOを「南スーダンの自立を助けるため」と言っているが、自衛隊がPKO活動でできる自立支援はほんの僅かでしかない。

 このことはカンボジアPKOが証明している。

 カンボジアは経済発展が著しいと言われている。首都プノンペンは高層ビルが建ち並び、高級車が行き交っているという。

 だが、地方へ行くと、貧富の差が歴然とした姿で目の前に現れると言われている。

 その原因の一つは教育にあるはずだ。貧しい家の子供が満足に教育を受けることができず、教育がないことから満足な仕事に就くことができない結果、貧困を引きずったままの人生を送り、格差が縮まらない状況が一向に改まらないからだろう。経済格差と教育格差の悪循環である。

 〈2015年11月21日から11月26日まで、神戸ユネスコ協会の理事6名と私の教える学生4名で、「カンボジア国際ボランティア」を企画し、同国の首都プノンペンを訪問〉して得た知識から記述することになった、「カンボジア訪問記(5):4日目「小学校就学率69%、中学校就学率17%、大学進学率1%の衝撃」」QuonNet/2015年12月 1日 01:19)なる記事の題名そのものがカンボジアの教育環境不備とこのことが招いている経済格差と教育格差の悪循環を伝えて余りある。

 その国の真の自立は派遣された海外軍隊のPKOによって確立されるといったたやすいものではなく、その国の政府と国民によって成されなければならない。だが、政府が貧富の格差の拡大には力を発揮しても、教育を受ける機会の平等と拡大に力がなければ、一部の富裕な国民を除いて一般的な国民は自立に向けた社会参加さえできない。

 貧しい国民は教育の機会に参加できないだけではなく、そのことによって経済の平等な機会にも満足に参加できず、結果として格差の拡大はなかなかなくならないことになる。

 カンボジアがこのような格差社会にあり、偏った発展の姿を取っているということは自衛隊カンボジアPKOができた自立支援はほんの僅かでしかないことの証明であると同時に南スーダンのカンボジアPKO部隊の若い女性隊員が自衛隊員に語った話は創作か、そうでなければ富裕層に属する女性だからできた美しい話としか思えないことになる。

 南スーダンの自立にしてもカンボジア同様、外国から派遣されたPKOができることではなく、南スーダン政府と国民によって成されなければならない。

 そのための第一歩として、教育参加の機会均等を確立しなければならない。単に小学校という建物を建てただけでは済まない。大人から子供に伝える教育の高い質を欠かすことは出来ない。

 いわば自衛隊PKOが自立の全てを解決する力は持っていない。

 だが、安倍晋三は「ジュバ近郊で道路整備に励む自衛隊員の周りに」集まってくる近所の子供たちは「将来、きっと、南スーダンの平和な未来を切り拓く原動力となるに違いありません」と、自衛隊PKOが自立の全て担う能力があるかのように過大に特別視している。

 自衛隊PKOができることなど僅かなことしかないという謙虚さを欠いている。

 このことは次の発言にも現れている。

 安倍晋三「彼らの存在があったればこそ、日本は、平和と繁栄を享受することができる。国民の命と平和な暮らしは、間違いなく、彼らの献身的な努力によって守られています。この崇高なる任務を、高い使命感と責任感で全うする彼らは、日本国民の誇りであります」――

 日本の「平和と繁栄の享受」に自衛隊はどれ程に力があったのだろう。日本の「平和と繁栄の享受」は経済格差や教育格差を内包しているものの、この内包には安倍晋三が大きな力を果たしているが、特に経済活動や教育活動の分野での国民全ての総合的な営為・活動によって獲ち得た成果であろう。

 にも関わらず、自衛隊の存在だけが日本の「平和と繁栄の享受」をつくり出したかのように事実でない、自衛隊を特別視することを平気で口にしている。

 いわば自衛隊だけでは出来ないことを自衛隊だけで出来るかのように自衛隊という存在のみを過大に特別視し、錯覚させる話の仕方は自衛隊員に自衛隊の能力を過信させ、過剰な自信を植えつける危険性を招きかねないだけではなく、安倍晋三自身が自衛隊に過剰に価値を置き、特別視する軍事優先の思想を内心に巣食わせているからこそであろう。

 国家主義者が自衛隊という軍隊を特別視しても不思議はない。当然ですらある。だが、軍隊を特別な存在とする軍事優先の思想程、危険なことはない。

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蓮舫の自主投票新潟知事選地元入り応援は国政2補選敗色濃厚の中、勝利にツバをつけるための変わり身の早さ

2016-10-22 10:55:39 | Weblog

 10月16日投開票の新潟県知事選は医師・米山隆一候補者(49)を共産党、自由党、社民連が推薦し、前長岡市長森民夫(67)を自公が推薦という形を取って戦いが繰り広げられた。

 民進党は支持母体連合の新潟県連が与党候補の推薦に回っている関係からか、米山隆一氏が民進党の次期衆院選新潟5区公認予定者からの転身であるにも関わらず自主投票と決めていた。

 だが、民進党新代表の蓮舫は投開票が2日後と迫った10月14日、突然新潟入りをし、米山氏の応援演説を行った。

 この理由を10月15日付「毎日jp」記事は、〈突然の現地入りの背景には、代表として初めて臨む衆院2補選(23日投開票)で思うように支持が広がっていないとの判断がある。〉と解説している。

 誰もがこのような見方をするはずだ。自主投票と決めておいて、もし情勢が劣勢にあったなら、投開票2日前になって誰が応援に駆けつけるだろうか。駆けつけたなら、負けると分かっている選挙の応援に何を血迷ったのか、突然駆けつけたと笑いものになるだけである。

 だが、その逆を行った。

 マスコミは衆院東京10区補選は自民党公認の元検事若狭勝の優勢を、衆院福岡6区補選は与党分裂ながら、自民系無所属新顔の鳩山二郎の優勢を共に伝えていて、この両区とも民進党候補が劣勢にあることを予測している。

 蓮舫が新代表となって初の国政選挙である。二つとも勝利したら、これ程の勲章はない。蓮舫自身の評価は勿論、民進党の支持率は跳ね上がるに違いない。

 だが、二つとも落としたなら、蓮舫新代表効果は相当な打撃を受けることになる。何よりも民進党はやっぱりダメかと、東京10区と福岡6区の有権者ばかりか、全国の多くの有権者の失望を誘った場合、有権者がその失望を心理的習性として改めて積み上げていく危険性も生じかねない。

 負け癖のついたプロ野球チームが選手自体もファン自体も負けることが当然と思う習性にいつの間にか取り憑かれて、負けることに慣れてしまうようにである。

 このように国政2補欠選挙の勝利に加わる可能性はほぼゼロという状況の中、国政選挙ではなく地方選挙とは言え、新潟知事選で自公与党推薦候補よりも共産党、自由党、社民連推薦の野党候補が優勢の情勢にあった。

 いわば残された1県知事選の勝利に加わらなければ、直近3選挙で民進党新代表としての成果はゼロとなる。

 成果ゼロを免れる唯一の方法は優勢の選挙に遅ればせながら加わること以外にない。いわば勝利にツバをつけるために見せた、なかなか抜け目のない変わり身の早さといったところなのだろう。

 だが、蓮舫自身が新代表として初めから率先して勝利に導くための活動を行っていたわけではなく、最終盤になって選挙情勢を見た上で勝利に加わろうとしたのだから、その変わり身の早さは一種の日和見主義(形勢を窺って、どちらか自分の都合のよい方につこうとする態度)に基づいた行動で、有権者を誤魔化す遣り方とした言いようがない。

 自由党の小沢一郎代表が「勝ちそうになったから応援に行くというのは、野党第1党として主体性があまりにもなさすぎる」(時事ドットコム)と批判していたが、主体性がないという点でも、一貫性がないという点でも、有権者に対するゴマカシに相当する。  

 蓮舫は既に二重国籍問題で相当なゴマカシをしている。2016年9月7日に17歳のときに日本国籍を取得し、合わせて父親と共に台湾籍を抜く作業をしたと言っていながら、その確認のために台湾当局に問い合わせたところ、実際には台湾籍が残っていたために離脱手続きを取り、台湾当局から台湾籍の離脱証明書を受け取ったのは2016年9月23日のことで、離脱に伴って日本国籍の選択宣言をしたと明らかにしたのは10月15日になってからである。

 マスコミも指摘しているようにそれまでの間は二重国籍状態になっていたことになる。 

 17歳のときに台湾籍を抜く作業をしたなら、台湾当局から何日か後に手続き完了の何らかの通知があって然るべきで、父親か母親がそれを受け取って蓮舫に見せていたはずだし、台湾籍を抜いた証明として本人に大事に取っておくように言いつけたはずだから、17歳という年齢なら、離脱証明書という名前を記憶忘れしていたとしても、通知を受取ったこと自体は記憶していていいはずである。

 いわば台湾籍を抜く作業は届いていたはずの台湾当局からの手続完了の通知と共に記憶していなければならないが、台湾籍を抜く作業をしたという記憶のみ残していたこと自体が既に民進党代表選で不利にならないためのゴマカシの始まりだった。

 始まりだから、その後説明が二転三転することになった。

 自身を有利な立ち場に持っていくための方便として変わり身の早さのゴマカシや不利な事実を巧妙に隠すゴマカシが自ずと出てくるようでは、こういったことが蓮舫という政治家の実態となって有権者の目に映ることになり、いつかは見透かされることになるかもしれない。

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機動隊員の「土人」発言は精神的系譜として受け継いでいる日本人の沖縄差別 特定の個人の問題ではない

2016-10-21 11:34:46 | 政治

 今日のブログ記事に関係ないが、10月20日にエントリーした当ブログに対して2016年10月20日13時50分26秒の時点で、投稿者名「1940年生まれ(笑)」を名乗る人物から、「 頭沸いてる爺は死ね」なるタイトルで、〈こういうゴミクズが共産党とかに投票してんだろうな 頼むから早く死んでくれ〉という内容の有り難い投稿を頂いた。

 ブログ記事文章のどこがどういうふうに合理性を欠いている、間違っているといった指摘が一切ないから、「ゴミクズだ」、「早く死んでくれ」と言われても、どこにも突き刺さってこない。

 どうも自身の思想・信条に反する発言はすべてゴミクズ扱いしているようだ。つまり自身の思想・信条を絶対だと頭から信じて、他を受けつけない。だから、「早く死んでくれ」という排斥感情が起きる。

 「ゴミクズが共産党とかに投票する」と言うことは支持する者と支持される者は相呼応する関係を築くから、共産党をゴミクズ集団と見做していることになる。だが、共産党にしても、支持するか支持しないかは別にして、自らの思想・信条に基づいて行動している。当然、共産党をゴミクズの集団として排斥することは許されないし、ゴミクズ集団と看做すこと自体がやはり自身の思想・信条のみを絶対としていることになる。

 自身の思想・信条のみを絶対とすることの恐ろしさに気づいていない。

 沖縄県の米軍北部訓練場(沖縄県東村、国頭村)のヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設工事の警備に当たる大阪府警20代男性機動隊員が10月18日、建設反対デモ隊がフェンスを掴んで抗議しているとき、「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」と罵り、その様子が同10月18日にインターネットに投稿されたことをマスコミ各社が報道したが、この20代の男性機動隊員にしても自身の思想・信条のみを絶対としているがゆえに他を排斥する侮蔑的発言が口を突いて出たはずである。

 機動隊員がどのような思想・信条を持とうと、役目上も役目から離れていても、それを絶対とし、他を排斥することは許されないし、特に役目上は中立的立場を守らなければならない。

 このことは国家権力に養われているわけではなく、国民の税金でその組織を維持している点からもそのように言うことができる。

 ヘリパッド建設現場には警備として派遣された。建設反対のデモ隊が自らの思想・信条に基づいて建設を阻止する行動に出るのに対して機動隊は機動隊員それぞれの思想・信条からではなく、それとは無関係に建設を遮ろうとするデモ隊の行動を規制する警備の役目を与えられているのみである。

 例えばデモ隊はフェンスを張り巡らせた工事車両出入口に集結して工事車両の出入りを阻止し、工事ができないように努める。それを機動隊は排除して、工事が滞りなく進捗できるようにする。

 中立的立場とはそういうことである。

 機動隊員がそういった役目に自らの思想・信条を持ち込むことは許されるだろうか。

 例えばヘリパッド建設に賛成だからと、そのような思想・信条の元、反対しているデモ隊を排除する。

 このような姿勢は独裁国家ならいざ知らず、民主主義国家では国家権力に養われているわけではない機動隊が国家権力の思想・信条と自らの思想・信条を響き合わせて、国家権力の走狗(そうく・「手先」の意)となって行動することを意味するばかりか、その思想・信条を唯一絶対としていることになる非常に危険な行動となる。

 唯一絶対としているから、その反動としての排除の思想が生じて、「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」と侮蔑的な差別発言が飛び出すことになる。

 別の場所では同じく20代の男性機動隊員が建設反対のデモ隊に向かって、「シナ人」と発言したとマスコミは伝えている。

 いわば件(くだん)の機動隊員は自らの思想・信条を唯一絶対としていることの過ちと、それゆえに役目を離れて他の思想・信条を差別用語を用いて排除しようとする二重の過ちを犯した。

 これらの発言をマスコミやネットが差別発言・不適切発言と取り上げると、大阪府知事でもあり、日本維新の会代表の代表でもあるの松井一郎がは10月19日夜、自身のツイッターに「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と機動隊員を擁護・激励する文章を投稿、その投稿に対してネット上で「人の上に立つ者としての責任感が全く感じられない」等の批判が相次いだと、「産経ニュース」記事が伝えている。   
  
 記事はネット上の批判に対する松井一郎の10月20日の反論も伝えているから、その発言を纏めてみる。

 松井一郎「発言は不適切だが、個人を特定して鬼畜生のように叩くのはやり過ぎだ。相手もむちゃくちゃ言っているので、現地の状況の中ではやはり売り言葉に買い言葉でついつい口が滑る。だからといって言ってもいいとは思わないが、それをもって日本中の敵にされることはない。

 記者「『出張ご苦労様』という労(ねきら)いの言葉の意味は?」

 松井一郎「あの現場で働いているすべての人たち。命がけで行って、無用な衝突が起こらないように現地で警備をしている人たちに対して。

 もともと混乱しているから現地に行っている。じゃあ混乱を引き起こしているのはどちらなのか。北部の基地を何とか返還させるために約束通りのこと(ヘリパッド建設工事)をやっているわけで、反対派の皆さんも反対行動があまりにも過激なのではないかと思う」

 日本維新の会は安倍政権の補完勢力化しているから、機動隊員の方に肩入れしているのだろうが、機動隊自体は今まで説明してきたように中立的立場に立っていなければならない。

 だが、「ぼけ、土人が」とか、「シナ人」と差別の言葉を投げつけたこと自体が、それが一人二人の問題であっても、機動隊員として課せられている中立的立場を破ったことを意味する。

 当然、許されるはずもない重大な言動となる。

 松井一郎はこのことに気づかない。

 松井一郎はまた、「個人を特定して鬼畜生のように叩くのはやり過ぎだ」と擁護しているが、差別発言は特定の個人の問題ではない。

 本土のある種の日本人の沖縄差別の感情が精神的系譜として歴史的且つ伝統的に生きづいているからこそ飛び出た「ぼけ、土人が」とか、「シナ人」といった侮蔑的な差別発言であろう。

 何もないところから飛び出しはしない。

 先刻ご承知のように明治政府は1872年(明治5)に独立国であった琉球王国を廃して中央政府の管轄下に琉球藩として置き、さらに1879年(明治12)に警官・軍隊400人の武力を用いて首里城に乗り込み、廃藩置県を行うことを通達、首里城開け渡させ、琉球藩を沖縄県とした琉球処分によって約500年間続いた琉球王国は滅んだ。

 多分、征服したちっぽけな国の他処者ということで日本人は沖縄人に対して差別意識を持つことになったのだろう。日本政府は明治末期から大正時代にかけて沖縄に対して皇民化教育や同化政策を行った。

 日本人になれという強制策である。いわば沖縄人の上に日本人を置いていた。この差別に基づく上下関係は琉球征服によって構築されることになった支配と従属を構造としていたはずだ。

 この支配と従属は沖縄独特の姓名を本土風に改める改姓・改名運動となって現れた。両者を対等な関係に置いていたなら、沖縄の姓名を日本風に改める必要性は生じない。名前さえも日本人の名前を上に置き、沖縄人の名前を下に置く、差別に基づく上下関係で縛り付けていたのである

 この本土の日本人の沖縄県民に対する差別意識は戦後も日本人の精神の底に生き続けた。

 当ブログに以前書いたことだが、1999年5月16日付朝日新聞夕刊」≪邊境論 これで、あんたたちと同じ≫)は次のように伝えている。

 沖縄出身の女性の戦争中の内地での体験記である。

 (内地の)〈奥さんはどこで情報を集めたのか、サイパン島の、住民を巻き込んだ悲惨な戦闘の模様を、こと細かに話した。

 最後に何気なく言った。

 「玉砕したのは、殆ど沖縄の人だったんですって。内地人の犠牲が少なかったのは、せめてもの救いだったんですって」〉――

 この感慨は一人奥さんのものではない。

 本土の日本人は人間扱いし、沖縄人は人間扱いしていない差別意識を多くの日本人が抱えていた。

 人間扱いするとしないのとでは、その差別には大きなものがある。命まで差別しているのである。命に軽重を生じせしめている。

 「これで、あんたちと同じ」という記事の題名の由来は、帰郷したその沖縄女性が沖縄風の名前をヤマト風に改姓改名して、<「これで、あんたたち(本土)とおなじでしょ・・・・」>と内地の日本人と同等の立場に立てたとしたときの述懐である。

 しかし、沖縄人がいくらヤマト風を装っても、沖縄の人間の命を自分たちの命よりも一段低く見る本土の日本人の意識はそのまま残る。

 沖縄復帰40周年に当たってテレビカメラで捉え、記録として残された沖縄を振り返える意図のNHKETV特集『テレビが見つめた沖縄 アーカイブ映像』が2012年5月に放送された。

 その番組の中で1972年に制作したドキュメンタリー『そして彼女は?』を紹介していた。

 沖縄に旅行に来ていた男性と知り合い結婚して男性の実家の京都で暮らすことになった沖縄出身の女性が結婚35年後にテレビに向かって述懐した言葉である。

 「二人目の子どもにオッパイを飲ませている時です。
 
 あの人はちょっとお酒を飲んでいましたしね。『俺、聞いたんだけどなーあ』って。『何?』って言ったら、そう言うんですよ。

 あの、民宿なんかでも、ここはないちん区(?聞き取れない。内地〈=本土〉の人間が座る場所?)ここはうちなんちゅ区(うちなんちゅう〈=沖縄人〉が座る場所?)グループというみたいに分かれて、飲まわれるんですよね、お酒って。同じ所に泊まっても。

 で、その内地の人達だけ集まるっていうグループで、『あんたんとこのおかみさん、多分、沖縄に帰ったら、手柄やで』と言いって。

 で、うちの人も、そうなんだ、とそのまま私に伝えてくれたんですよ。

 『あんた、その時何で言わなかった?(左手の指を右手で指しながら、一本一本折り曲げて数え上げる)こんなに元気で、働き者で、こんな、可愛い嫁さん貰って』

 『俺はそれは手柄やけど、うちの奴を貰ったっていうのはあまり意識ないなあ』

 『何で、そんとき言わなかった?』って怒ったんですけど、『何でお前はそのことを素直に、俺が手柄なのが、お前を嫁に貰ったことではなくて、うちなんちゅう(沖縄人)を貰ったっていうことを、こんなにちゃんと言っているのに、何でお前は分からへんのや』

 その辺でもう、全然思いが違ってしまって、あ、この人とは通じない言葉があるんだなあと思って、日本語が通じないんですよ。思いと言うか、価値観と言うか、通じないのだなあっていうのがあって、ああ、何か寂しいなあって思いがあって――」

 沖縄の女性が本土の日本人の男と結婚し、その男の子供を生むことが沖縄では手柄となると本土の日本人は考えている。

 夫も沖縄の女性を貰ってやったことが自分の手柄(立派な働き)だと価値づけている。

 要するに本土の日本人は早々に沖縄の女性と結婚しないが、俺は結婚してやったという意識を潜ませている。

 日本人の価値を沖縄人の価値よりもどれ程に上に置いていることか。

 当然、そこには差別意識を存在させている。

 こういった差別意識が中立的でなければならないとする理性を置き去りにして感情的な装いを纏うと、「ぼけ、土人が」とか、「シナ人」といった差別用語にたちまち変ずる。

 まさにある種の日本人が沖縄差別を精神的系譜としているからこそ口を突いて出ることになったこれらの言葉であって、差別は突然変異的に現れはしない。

 だが、松井一郎は機動隊員は命がけで働いていて、差別発言は特定の個人問題だとし、その「個人を特定して鬼畜生のように叩くのはやり過ぎだ」と擁護している。

 松井一郎のように重大な問題だと受け止めずにこのように考えが浅いようでは、再び同じような差別発言を招くことになるだろう。

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安倍晋三は大日本帝国憲法に一歩近づける内容の自民党憲法改正草案を日本国憲法とするよう策略している

2016-10-20 09:53:51 | 政治

 どのような策略なのか。

 10月13日、自民党は憲法改正推進本部の会合を開き、新たに本部長に就任した元法相の保岡興治が、衆参両院の憲法審査会での論議に当たっての方針を纏め、確認し合ったと2016年10月18日付の「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。   

 確認し合った方針とは以下である。

 2012年に自民党が発表した自民党憲法改正草案は党の「公式文書」に位置づけているが、「内外から多くの意見も頂いており、考え方を整理する必要がある」こと。

 国会論議に当たって民進党が求めている党の改正草案の撤回には応じないこと。

 自民党憲法改正草案は国会に提案せず、憲法調査会で各党との議論を重ねて合意形成を図っていくこと。

 記事は保岡興治の発言を伝えている。

 保岡興治「改正草案全体を国会に出すことはないし、一部を切り取って出すことも全く考えてない。ぜひ各党に理解してもらい、静かな環境で、政局から離れて、国家の基本を議論し、一緒に頑張っていきたい」

 「静かな環境で、政局から離れて」とごくごく尤もらしいことを言っているが、国会での野党の自民党憲法改正草案に対する追及に決めてかかっている安倍晋三の答弁回避姿勢と物の見事に対応させた措置に過ぎない。

 当然、安倍晋三の指示を受けた方針なのだろう。

 2016年10月3日の衆院予算委員会で民進党の長妻昭が安倍晋三に対して自民党憲法改正草案の基本的人権に関わる新しい規定が人権をより制約する内容になっていないか問い質した。

 安倍晋三「私は総理大臣として内閣として提出をする法案については責任を持ってお答えしなければならない立場でございます。その場所場所でですね、しっかりと議論することが求められているわけでございます」

 要するに自民党憲法改正案が閣議決定されて法案として国会に提出されたなら、内閣総理大臣として個々の質問に答弁しなければならないが、現状はそこまで行っていないから、質問されても答える立場にはない、自民党案にとどまっているのだから、憲法審査会で議論してくれと要求して、長妻昭がいくら自民党憲法改正草案の条項について質問しようと、憲法審査会で議論してくれの一点張りで答弁回避の姿勢に終始した。

 つまり、本部長保岡興治の自民党憲法改正推進本部が自民党憲法改正草案は国会に提案せず、憲法調査会で各党との議論を重ねて合意形成を図っていく方針としたことは、少なくとも合意形成前は憲法改正法案として国会に提出しないことを意味することになって、その間は安倍晋三は国会で自民党憲法改正草案の条文について例えどのように質問を受けても答弁せずに済むことになる。

 それゆえにこそ、安倍晋三の答弁回避姿勢に対応させるための自民党憲法改正推進本部の決定方針と言うことができる。 

 その狙いは自公与党のみで憲法改正に必要な3分の2の勢力を衆議院で既に確保している上に今年7月の参院選で憲法改正に前向きなおおさか維新の会や日本のこころを加えると3分の2を超える勢力を確保できたため、その勢力を憲法審査会のメンバーに反映させれば、条文によっては自民党改正草案にいくら野党が反対しても全体として賛成を得ることができ、それを憲法改正法案として国会に上程した場合、国会で野党が反対する各条項の追及を受けても、安倍晋三自身は憲法調査会での賛成多数の既成事実を大義名分として前面に押し出し、その陰に隠れて具体的な答弁を回避可能とすることができる。

 「憲法調査会で賛成の意見も反対の意見も議論が尽くされ、採決を経て既に合意形成が成されているのです。合意形成されたものが法案として国会に出された。私のここでの答弁は憲法調査会での議論に重なることになります」、あるいは「繰返しになります」として、答弁を回避することができる。

 要するに安倍晋三は自民党憲法改正草案が国会に法案として出される前も出された後も野党からどのように追及を受けようとも、自身が答弁回避できるように企んでいた。

 だからまた、自民党憲法改正草案は自分が自民党総裁のときではなく、谷垣総裁時代に発表されたものだとする、一種の逃げの手を使っているのだろう。

 だが、例え谷垣総裁時代の作成であったとしても、現在も自民党の憲法改正草案と位置づけている以上、議論は憲法審査会に任せて、自身は現自民党総裁としても、自公与党の内閣を代表する総理大臣としても、各条項に対する具体的な答弁を回避するのは説明責任の放棄であり、説明責任の放棄は自民党憲法改正草案に関しての情報の国民に対する隠蔽に当たる。

 安倍晋三は説明責任を放棄し、国民に情報を隠蔽したまま自民党憲法改正草案を日本国憲法として国会で成立させようとしている。

 その自民党憲法改正草案たるや、大日本帝国憲法に一歩近づける内容となっている。安倍晋三の巧みな戦術によって、今やそれが日本国憲法となる危険な可能性が迫っている。

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稲田朋美の靖国参拝「国民の心の問題」は自由であるべき思想・信条の統制と独裁体制への親近性の表明

2016-10-18 10:13:20 | 政治

 稲田朋美が閣議後2016年10月14日に防衛省で行った記者会見で記者から靖国神社例大祭への参拝を問われ、再び「参拝知るかしないかは心の問題」と答えたとマスコミが伝えていたから、防衛省のサイトにアクセス、記者会見での靖国参拝に関係する実際の発言に触れてみた。


 稲田朋美記者会見概要防衛省/2016年10月14日(09時41分~09時51分))  

 記者「靖国神社の件なのですが、来週から例大祭が始まりますけれど、大臣の参拝の認識といいますか、どういうふうに考えられているのかについて伺います」

 稲田朋美「いつも同じ答弁で恐縮なのですが、靖国参拝するかしないかは心の問題だと思っておりますので、行くか行かないということは言うべきではないと思っておりますし、安倍内閣の一員として適切に判断をして行動していきたいと思っています」

 記者「関連で、閣僚の靖国参拝に関しては中韓両国が毎度反発していますけれども、そのこと自体については大臣はどうお考えですか」

 稲田朋美「そのこと自体については心の問題でありますので、いかなる国であっても、いかなる歴史観を持とうとも、自分の国のために命を捧げた方々に追悼の意を表するということは、私は、国民の心の問題であるというふうに考えております。

 最初に「靖国参拝するかしないかは心の問題」と言い、次に「国民の心の問題」だと表現している。

 「心の問題」との物言いは“私自身の”という個人限定であって、意味するところは人それぞれとなり、他人の思想・信条を縛らない。だが、「国民の心の問題」だとすると、国民は等し並みそうすべきだとする無差別性が入っていることになって、人それぞれの自由であるべき思想・信条の統制となる。

 だから、「いかなる歴史観を持とうとも」と、思想・信条を無視した追悼の要求となる。

 要するに稲田朋美はホンネのところでは人それぞれの思想・信条の自由を無視して国民全てに追悼を強制したい独裁性を抱えていることになる。

 この独裁性が現れた発言が2016年9月30日衆院予算委員会での民進党辻清美の質問に対する稲田朋美の答弁に如実に現れている。

 辻元清美は稲田朋美が「自国のために命を捧げた方に感謝の心を表すことのできない国家であっては防衛は成り立ちません。これは日本という国家の存亡にまで関わる」とまで言っていながら、今年8月15日の全国戦没者追悼式になぜ欠席したのか問い質した。

 辻元清美は稲田朋美が「国のために命を捧げた」からと感謝と敬意を表する空間は、あるいは追悼の空間は靖国神社であって、全国戦没者追悼式の場ではないことに愚かしくも気づいていない。

 稲田朋美「私が常々、靖国で日本の国のために命を捧げた方々に感謝と敬意を、そして追悼の思いを持つということは私は日本の国民の権利でもあり、義務でもあるということを申し上げてきました。

 そんな中で、そんな中で、義務というよりも心の問題ですね。心の問題です」

 あとで「心の問題」と言い直したが、靖国神社での追悼を「日本国民の権利と義務」としたい願望を露わにした。

 この願望は「いかなる歴史観を持とうとも」の発言と物の見事に相互対応している。

 稲田朋美が持つこのような精神性こそが人それぞれの自由であるべき思想・信条の統制に当たり、この手の統制を可能とするのは独裁政治以外にない。

 独裁政治こそが国民それぞれの思想・信条の自由を縛ることができる。戦前日本のように縛り、抑圧し、統制することができる。

 また、靖国神社に参拝して、戦没者に「国のために命を捧げた方々に感謝と敬意を、そして追悼の思いを持つ」精神的行為に於ける言葉の意味は戦没者が命を捧げる対象とした国家に対する全面的肯定を含んでいる。

 その国家を否定的に見ていたなら、そのような国家のために命を捧げた戦没者をとても「感謝と敬意を、そして追悼の思いを持つ」ことはできないだろう。

 とんでもない国のために戦ってしまったと、その国家に対する批判と戦った者に対する憐れみやら、悔しさやらの複雑な感情が湧き起こるはずだ。

 だが、稲田朋美は戦前日本国家の全面的肯定の上に立って「国のために命を捧げた」としている。

 いわば稲田朋美が持つ人それぞれの自由であるべき思想・信条を統制したい独裁性は天皇独裁体制下にあった戦前日本の独裁性と通底する関係にあることになる。

 だからこそ、靖国神社での戦没者の追悼を通して戦前日本国家を全面的に肯定することができるのであって、その追悼を国民の自由であるべき思想・信条を統制して全ての国民の権利と義務としたい独裁性を露わにすることになった。

 かねてからブログに、〈靖国神社は戦前日本国家を映し出し、そこに繋がる空間となっているはずだし、参拝はそのための精神的且つ身体的儀式となっているはずだ。〉と書いてきたが、戦前日本国家と精神的に繋がるということは稲田朋美が持つ独裁性と戦前日本国家の独裁性を相通じさせることでもあることを意味することになる。

 と言うことは、稲田朋美にとって、安倍晋三やその他も同じだが、靖国神社に参拝し、戦没者を追悼するということは自身と戦前日本国家との親近性の表明となる。

 そうでなければ、安倍晋三にしても国家主義とは無縁となるはずだし、復古主義者の側面を持つことはないし、何よりも強固な天皇主義を自らの思想・信条とすることはない。

 このような独裁性が谷垣総裁時代に発表した自民党憲法改正案だと言いながら、自分の主張が反映されていないはずはない条文のそこかしこに姿を覗かせることになっている。

 いくら経済が発展しても、いつ国民の基本的人権を縛ることにもなりかねないこういった独裁性をこそ気をつけなければならないのだが、国民の多くは自分たちの生活が良くなることだけに目が向いているようだ。

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