今秋場所千秋楽で白鳳に圧倒的な攻めで寄り切られて全勝優勝は逃したものの、優勝決定戦ですくい投げで勝って場所前の芳しくない評判に反して4場所ぶりの優勝、貴乃花を抜いて北の湖にあと1つと迫る通算23回の優勝を獲ち取った朝青龍が土俵上で何度もガッツポーズを取ったことを横綱の品位を汚す行為だと批判する声を紹介しつつ、待ってましたとばかりにマスコミが騒ぎ立てた。
勿論ガッツポーズを擁護する声も紹介しているし、横綱審議委員会でも賛否の意見が割れたそうだが、相反する声を紹介してどっちが正しいと煽ることで、読者・視聴者の関心を集めようと腐心している。
朝青龍の大関から横綱への昇進時に品格がないという理由で反対し、それ以来横綱としての品位・品格がないと批判を続けて朝青龍の天敵とされている横綱審議委員会の一員である内館牧子はマスコミにとっては朝青龍批判を煽る側の必要不可欠な素材として今回も顔を覗かせている。
朝青龍を大相撲のヒール役(悪役)と位置づけているマスコミ、ファンがいるが、内館牧子はマスコミにとって朝青龍批判を煽る一種のヒール役に位置づけている観がある。
内館牧子「絶対によくない。土俵には一種の武士道があり、守るところは守るべき。・・・・(相撲協会は)許していくのか、やらないように厳しくしていくのか。一体どちらなのですか」(日刊スポーツ)
「(謝罪に)高砂親方が横審に来るのは初めて。それだけ反省しているということでしょう。でも朝青龍は、いつも反省しているというけど、おおかみ少年と一緒ですね」(同日刊スポーツ)
「帰国過多のけいこ不足。心技体すべてにおいて満たされていない。・・・・(優勝は)どうとらえるかというと『まぐれ』ですよ。・・・・(自身の来年1月の任期終了に絡めて)朝青龍の方が早く引退すると思ってたけど、私の方が先に引退しちゃうわ」(日刊スポーツ)
「負けた相手を前に喜んだり、ガッツポーズしたりすることが、いかに恥ずべきで、情けないことか、私は双葉山さんに直接聞いた。・・・・幕内最高優勝は心技体そろう人が受け取るもの。朝青龍は心が充実せず、技も磨いておらず、体もけいこ不足でブヨブヨ。今回はまぐれ、としか考えられない」(中日スポーツ)
準肯定派の横綱審議委員会の鶴田卓彦委員長。
「高砂親方は謝罪ではなく説明に来た。・・・・あの程度はいい。個人的に違和感はない。国民もそう思っているのではないか。・・・・あの体力と精神力があれば、まだまだ頑張れる」(msn産経)
「土俵には一種の武士道がある」――
如何なる競技に於いても卑怯な手は使わない、正々堂々と戦うということ以外に求める姿勢があるのだろうか。朝青龍は卑怯な手を使っているわけでも、正々堂々と戦っていないわけでもない。ただ、勝ったときにガッツポーズすることとダメ押し、それと土俵外の服装やその他の行動が批判されている。
土俵上の立居振舞いに「武士道」を求めること自体が無理があるのではないのか。封建時代の武士自体が武士道を体現していたわけではなかった。体現していたなら、ことさら武士道を言い立てる必要は生じなかったろう。
各宗教が人間の正しい行いを永遠の教えとしなければならないのは人間の多くが正しい行いからハズレた生き方をしているからだろう。
いわば人間が正しい行いをしていないから、正しい行いを永遠の教えとする宗教が成り立つ。武士道にしても然り。
封建時代にことさら武士道を言い立てたのは、支配層としての武士が武士以下の士農工商層と同じ世俗的存在であっては支配の示しがつかない、支配者としての存在意義を失い、支配者としての価値が疑われることになることから、支配者としての人間的価値を持たせるために「武士道」なる価値づけを必要としたと言うことであろう。
また「武士道」なる価値観を装わせることによって士農工商に対する支配の正統性を獲ち取ることができると同時に、武士たちの最終的支配者としての領主等が支配下に置いている彼ら武士を自らの支配に都合のいい存在に封じ込めることができる。
だが、武士と言えども存在形式は違えても、被支配層と同じ世俗的存在に過ぎなかった。だから、同じ存在ではあってはならない、高い価値を持った支配者として優れた存在でなければならないと武士道を延々と講じることとなった。今の言葉で言うと、能書きを垂れることとなった。
武士道などという精神を叩き込まれなくても、立派な武士よりも立派な商人や町人、あるいは百姓が存在していなかったことはなかったたはずだ。
天皇の軍隊たる大日本帝国陸海軍の軍人も同じであろう。もし彼らが言われているところの軍人精神を体現していたなら、アメリカ軍の攻撃を前にして陣地を放棄し敵前逃亡する上級将官は存在しなかったろうし、古参上級兵の新兵いじめにしても存在しなかったろう。略奪や婦女暴行も、日本刀の試し切りと称した敵兵の処断もなかったろうし、国民に戦果のニセ情報を伝える大本営発表もなかったし、勝ち目のない戦争を仕掛けて無残な敗北を喫し、国民に塗炭の苦しみを味わわせたその責任を総括しないまま終えることはなかったろう。勝算のない戦争を精神論だけで戦え、戦えと鼓舞することはなかったろう。
軍人は国民の上に位置し、支配層を形成する者として価値づけるその証明のために軍人精神を必要とし、上に立つ者としての優秀さを価値づけるべく軍人精神をさも体現しているかのように振舞ったに過ぎない。
勿論立派な軍人も存在したろう。だが、そういった人間はほかの職業に就いたとしても立派な人間足り得たはずである。軍人となって、軍人精神を叩き込まれたから立派になれたのだとするなら、ほかの職業では軍人精神を叩き込まれる機会がないから、立派にはなれないこととなって軍隊以外に立派な人間は存在しない矛盾を来たすことになる。
要するに武士道、あるいは軍人精神が人格形成に役立ったとしたら、偶然の機会提供に過ぎないと言える。
人格は日々の人間関係等の社会的経験から自分自身で学び取っていくものだからだ。学び取れない人間は武士道を学ぼうと軍人精神を学ぼうと、人格形成に役立てることはできない。
新聞には登場していないようだったが、テレビでは相撲評論家の杉山邦博が朝青龍問題の常連として顔を出していた。
杉山「大相撲はただのスポーツでなない。伝承された日本の文化。だから国技とされる」
1月場所でも朝青龍のガッツポーズが問題視されたが、杉山邦博氏にご登場を願ってそのことを扱った2009年3月13日付の「msn産経」記事――《【金曜討論】朝青龍の「功罪」 さだやす圭氏、杉山邦博氏》が杉山氏の横綱はどうあるべきかを伝えている。(杉山邦博氏の主張のみを参考引用)
〈□杉山邦博氏
■「抑制の美」理解してほしい
--朝青龍のガッツポーズに衝撃を受けたとか
「(優勝を決め、土俵上でガッツポーズをした)初場所の千秋楽、日本の文化が音を立てて壊れかけたという感じがした」
--力士としてどう見るか
「貴乃花を抜き、北の湖にあと1つと迫る通算23回の優勝は評価している。だが、マスメディアには『大横綱』という言葉は使ってほしくない」
--その理由は
「土俵上での節度ある立ち居振る舞いや『勝者は敗者の胸中を察す』という部分が彼には極めて薄い。横綱というのは大相撲の象徴的な地位であり、公人として範を垂れるべきものだ。“ダメ押し”なども含め、あのような振る舞いが許されるなら、他の若手力士たちがまねをしても、とがめられなくなってしまう」
--なぜ、横綱には節度が求められるのか
「NHKに入って以降、56年間、見てきたが、大相撲は1400年の歴史を持つ、五穀豊穣(ほうじょう)の祈願に由来する神事だ。初日の前日には土俵に神を迎える祭りをし、15日間の場所が行われるという大事な日本の文化。神のもとで行われるのだから、神への感謝の気持ちを根底に置く『抑制の美』が求められる。単なるスポーツというなら、力士が大銀杏(おおいちょう)を結ったり、化粧まわしをつける必要もない。行司も古式装束でなくワイシャツでやればいい。そういう大相撲を見たいと皆さん、思いますか」
--外国人に理解できるのか
「外国人だから、というが、それは違う。高見山(現・東関親方)が昭和47年に外国出身力士として初めて優勝したとき、何のパフォーマンスもなかった。テレビCMに多数出演していたあのキャラクターを考えれば、派手な振る舞いをしてもおかしくなかった。師匠から厳しく教育され『抑制の美』を理解していたのだ。朝青龍も横綱になって6年にもなるのだから、そろそろ理解してほしい」
--彼のような“悪役”がいるから盛り上がるという意見もある
「悪役がいないと盛り上がらずに駄目になる、などというほど大相撲は“やわ”な世界ではない。プロの集団で長い伝統も持っており、一時的に客の入りが悪いことがあっても必ず復活する」
--悪役はいなくても、というなら、春場所は何を期待して見ればいいのか
「まず、朝青龍を反面教師にして成長した白鵬の謙虚な一挙手一投足やインタビューをよく見てほしい。それから、稀勢の里の気性の激しい攻め、豪栄道の粘りのある四つ相撲、栃煌山のわきを固めたおっつけ-という日本人の次代の担い手3人の相撲に注目してほしい。彼らが10連勝ぐらいするようになれば、悪役なんていなくてもすぐに盛り上がる」(山本雅人)〉――
「神のもとで行われるのだから、神への感謝の気持ちを根底に置く『抑制の美』が求められる」と言っている。
要するに「抑制の美」を各相撲取りは自らの品格としなければならないということだろう。勝負に勝ってもあからさまに喜びを見せていけない、控え目控え目に節度を保って振舞い、負けた相手を思いやり(「勝者は敗者の胸中を察す」)、負けた方も悔しさを露骨に見せてはいけない、悔しさを抑えて、控え目な結末にしなければならないと言っている。
負けた方のみが悔しさを好きなだけ見せていい、勝った方は喜びを見せてはいけないと言うことになったら、不公平が生じる。
内館牧子氏の「武士道」にしても、相撲評論家の杉山氏の「抑制の美」にしても、いずれも品格の表現手段と看做している。
日本人全体が大相撲を「伝承された日本の文化」である、あるいは土俵は武士道表現の場である、そうであるからこそ「国技」だと価値づけことができ、ゆえに“品格”を求められるとする構図を取るなら、全体的な日本人の精神性を反映した品格要求であり、その品格は自らにも要求して自ら体現していなければならないという図式を取らなければならないことになる。
自らの精神性から発してもいない、当然体現もしていない品格を「伝承された日本の文化」だとか武士道表現の場だとか言って、土俵上にのみ求めるとしたら、飛んでもない僭越行為となるからだ。
自分が正直であってこそ、他人に正直を求めることができる。自分がウソつきでありながら、他人に正直を求める資格を有するはずはない。
多分、杉山も内館も、また二人を支持して大相撲の横綱に「武士道」だ、「抑制の美」だと言って品格を求める日本人は自らも常日頃から「武士道」や「抑制の美」に則って行動し、常に常に品格漂わせているに違いない。
またそうであるからこそ、自らの品格と土俵上での品格が響き合わないと、不快な感情が引き起こされ、あれこれと批判することになるのだろう。
私自身の価値観から言うと、朝青龍ファンではないが、そのガッツポーズに不快な感情を呼び起こされたことはない。困難に打ち克った勝利にこそ、競技する者は思わず喜びの感情を爆発させ、全身で表現する。怪我や不調で3場所優勝から遠ざかって横綱としての責任を果たせず、4場所ぶりの賜杯獲得でやっと横綱としての体面を保つことができた喜びからのガッツポーズだと考えると、何の違和感も感じない。
勝負がついてるにも関わらず必要以上に“ダメ押し”する姿にはいい印象を持てないが、それは品格を私自身の行動原理としているからでも、精神の置き所としているからでもない。いたって俗っぽい人間で、品格は私自身には無縁の精神性でしかない。
日本の文化に反するとか武士道に反するとかの価値観からでもない。どのような競技であっても、勝敗がついた時点で、その勝負に限って完結させなければならないからだ。だが、朝青龍は明らかに勝負がついているにも関わらず、ダメ押しをする。
また大相撲が「伝承された日本の文化」であっても、あるいは“神事”に発した競技だと価値づけようとも、後世外国から移入された様々な競技が持つそれぞれの文化に影響を受けて、当初大相撲に与えていた価値観は微妙に変化を遂げて、同じ姿を取っているはずはない。外から受ける変化だけではなく、外国人力士を入れたことによって、彼らの持つ競技文化にも影響を受けて内側からも変化を見せているはずである。
いわば、「伝承された日本の文化」だ、「土俵には武士道がある」といつまでも変わらずに拘ることの方が間違っているのではないのか。
それでも大相撲を「伝承された日本の文化」だ、「土俵には武士道がある」と日本性に拘るなら、外国人力士を入れずに、日本人だけの競技とすればいい。あるいは野球やサッカー、ゴルフ等の競技者と触れ合うことを禁じて、他の競技文化の影響を断つべきである。テレビで観戦することも禁じた方がいい。
昨日9月27日、自民党総裁選が国会議員票199票、地方票300票の投票によって行われ、谷垣禎一候補が国会議員票120票、地方票180票の共に過半数獲得の300票で総裁に選出された。
対して反派閥政治の河野太郎の得票数は議員票が35票、地方票109票の144票、西村が議員票43票、地方票11票の54票。残る1票が議員の無効票。
存在感誇示のために(?)、あるいは腹癒せのチャチャを入れるために(?)麻生太郎は麻生太郎と書くべきだったと思うが、そういったハプニングは起きなかったのだろうか。無効票の1票が「麻生太郎」だったら、麻生の空気を読まないで口にする冗談も見直せるというものだが、無効票となっているからには、白票ではなく、何か書いてあったのだろう。
それとも余りの大敗、余りの議員減、その体たらくに「バカヤロー」とでも書いてあったのか。
今回の総裁選劇が全くバカげた一幕に映っていたなら、「そのまんま東」(東国原英夫)の名前を書く議員が一人くらいてもよかったと思うのだが、もし無効票の1票が「そのまんま東」であったなら、麻生内閣の支持率危険水域エンジン停止状態のまま東国原「総裁の椅子」騒動のドタバタを経て麻生降しのドタバタ、そして衆議院選挙大敗のドタバタまでのすべてのドタバタをその1票に象徴させることとなって、田舎芝居の続きを見るようで拍手喝采が起きたと思うのだが、無効票1票で片付けられてしまっている。
自民党の解党的出直し総裁選だ、自民党がこのまま終わるのか、再生できるのかは総裁選にかかっていると、その重大さが盛んに喧伝されていながら、地方票の投票率が46・7%。今回と同様の方法で実施された06年総裁選の61・5%を約15ポイント下回った(スポニチ)というから、ドタバタが治まらない総裁選だったと言うことができるのではないだろうか。
谷垣禎一新総裁選出後の弁。
「党の改革はまったなし。思い切った改革が必要でございます。我が党が、もう一回、政権に復帰できるように全身全霊を傾けて、職務に当たらせていただきたい、このように思っております。
この選挙戦を通じまして、私が標語としてまいりました、『みんなでやろうぜ』(絶叫)この言葉で、もう一回、党員のみな様、そして国民のみな様に、お訴えをしたいと存じます」(TokyoMX動画)
「この総裁選は自民党の再生をかけた戦いだった。そしてこの私に『先頭に立て』という命令をいただいた。このままズルズルと土俵を割ることは許されない。みんなでやろうぜ! この言葉をもう1回党員と国民の皆さまに訴えたい」(msn産経)――
「お訴え」を「国民のみな様」よりも先に「党員」向けとし、「再生」を先に約束する。自民党議員を養っているのは国民ではなく、金融機関や製造業等々の「党員」からの政治献金だと思っているからだろう。
「この総裁選は自民党の再生をかけた戦いだった」――果して谷垣新総裁選出で 「自民党の再生」は約束されるのだろうか。
「解党的出直し」という言葉をキーワードとすると、自民党の再生は派閥政治の弊害の扱いを重点課題としなければならないはずだ。谷垣自身も18日の総裁選3候補の共同記者会見で言っている。
「派閥の弊害というのは乗り越えていかなければいけないと思うんですね。例えば人事を壟断(利益を独り占めにすること)するとかね。えー、党あって、派閥あって、党なし、おー、いうようなことが行われるようではいけないと。やはり人事は、おー、何て言うんでしょうか、特に政権交代ということになればですね。えー、派閥の情実人事であると、順送りであるとか、あの人は次の選挙で引退するから、閣僚にしてやろうとか、こういう人事であっては、あー、政権交代、この可能な時代には、負けてしまう」
自民党に於いて議員同士の力関係が派閥の力学に支配され、それが政策にも影響して特定の地方、特定の企業や特定の組織に利益配分する不公平を生じせしめていた。となると、“解党的出直し”、あるいは“自民党の再生”は従来的な派閥型の支配構造を変えることから出発しなければならない。派閥の頭数、あるいは派閥の領袖の影響力――派閥の力関係が支配して人事や政策を決めてきた支配構造を変えることを重点項目としなければならない。
世代交代して若手が総裁になっても、派閥領袖として居座っている古い政治家の手のひらの中で誕生させられた、息のかかった総裁では世代交代の意味を失う。
このことはベテランや中堅の議員にも言えることで、「世代交代」云々が問題ではなく、派閥の力学から離れたところで党の人事や政策を実行できるか否かがカギとなる。
と言うことは、各候補の自らの新総裁選出に向けた主張は上記経緯に添った発言がより重要となる。
谷垣禎一の総裁選に立候補してからの派閥問題に関する発言をいくつか見てみる。
「ま、これは総裁になりましたら、どういう人事をするか。やはり、これは何と言うんですかね。えー、総裁が全責任を持って、自分の判断できちんと選んでいくんだと、この挙党態勢を揺るがしたらいけないんだと思います。そして、そいう中で適材適所。先程、あのー、甲子園野球のこと、喩えを申し上げましたけども、今の自民党には、あー、何て言うんでしょうか、人事の遊びをしている余裕はないんだと、それぞれのベストメンバーを当てていくんだと、えー、今度野党になった総裁は、その信念を徹底しなければいけないと思います」(09年9月18日・自民党総裁選共同記者会見)
「先程から派閥の議論が色々と出てきておりますが、私は、あの、誰を排除せよ、彼を排除せよっていう議論をやってますと、300何人いるときは、それでよかんたんだが、衆議院議員が百人ちょっとしかいなくなったときに、これはなかなか全員野球でやらなきゃダメだなあっと、オー、私は、そう思っております。うー、ただ勿論、先程西村さんからご質問ありましたように、適材適所、きちっと、派閥の横車は排除していかなければならないことは明らかです」(09年9月19日「日本記者クラブ共同記者会見」NHK)
もし谷垣が派閥の弊害に苦々しいばかりに拒否感情を持っていたなら、「派閥の横車は排除」は最初に口にしただろう。だが、そうした場合、あとから続けることになる「全員野球」云々は論理的に成り立たなくなる。「派閥の横車は排除」を最後に持ってきたところに谷垣の派閥の立ち位置が現れている。
(新総裁就任後の記者会会見で党人事に関して)「いろいろな意見に耳を傾ける必要があるが、最後は自分がきちんと判断するのが総裁たるものの責任だ。適材適所で指名させてもらいたい。神奈川と静岡の参議院の補欠選挙が目前に迫っているので、そう時間を取るわけにはいかず、今晩、ゆっくり考えて結論を出したい」(NHK記事)
人事は「それぞれのベストメンバーを当てていく」、「最後は自分がきちんと判断する」、「適材適所」と言いつつ、全体を通して主張している基調は「全員野球」であり、「みんなでやろうぜ」であった。誰が見ても明らかなようにそこに重点を置いている。
西村が議員票43票も獲得して、反派閥政治の河野の議員票の35票に8票も上回っていた。西村が谷垣と同じく「老壮青」を掲げた派閥政治容認派と見ると、森が影のオーナとなっている最大派閥町村派から出馬した西村は谷垣が各派閥の領袖を始め、その所属議員等から派閥横断的に支持を受けたその擁立の派閥横断性に対する目くらましに過ぎないと見るべきだろう。そして派閥政治容認が谷垣の議員票120票と西村の議員票43票を合わせて投票した自民党議員199人のうち163票も占めることになる。
この二つの事実からも分かるように「全員野球」、「みんなでやろうぜ」、あるいは「老壮青」は聞こえはいいが、派閥の弊害に目をつぶるこにいなる「全員野球」、「みんなでやろうぜ」、「老壮青」なのは明らかである。
先に「谷垣総裁選出は森喜朗が主役の派閥政治の延命治療」のブログをエントリーしたが、まさしく谷垣新総裁選出は派閥を力の源泉としている派閥のボスたちが大方の自民議員共々派閥政治延命治療をテーマに演出して舞台に乗せた、森喜朗や古賀誠、伊吹文明、町村、安倍、麻生といった古い政治家たちに心地よい眠りを約束する総裁劇だったに違いない。
その恐れはなかったろうが、万が一河野太郎新総裁となったなら、心地よい眠りは約束されない日々を送ることになったろう。
このような派閥政治容認の経緯に「自民党再生」の約束が入る余地があるのだろうか。あるいは「再生」の約束を入れる余地を果たして見出すことができるのだろうか。これまで安倍から福田、福田から麻生と顔を替えてきたのと同じく、谷垣では単なる顔の付け替えにしか見えない。
この傾向は2007年から再開された、全国の小学6年生と中学3年生を対象とし、毎年4月に実施の全国学力テストの結果にも現れている。
2009年全国学力テストの結果が今年8月に公表されたが、「過去2回のテスト結果と同様に知識や技能を活用する力の育成に課題があることが分か」ったと「NHK」が伝えているが、「知識や技能を活用する力に課題」とは基盤となる“考える力”の欠如を言っているはずである。
別の「NHK」記事――《学力定着傾向も活用に課題》は具体的に解説している。
〈正答率の平均は、問題の数を減らした影響で、小学校・国語の「問題B」と中学校・数学の「問題A」を除いて去年より3ポイントから13ポイント高くな〉ったが、〈その一方で、過去2回の結果と同じように基礎的な学力を問う「問題A」に比べて活用力を問う「問題B」の正答率が低く、文部科学省は資料から必要な情報を読み取って自分の考えを表現する力や、基礎的な知識を日常生活の中で活用する力の育成に課題があると分析してい〉ると。
1回目のテストの結果を受けて各学校ともそれなりに「資料から必要な情報を読み取って自分の考えを表現する力や、基礎的な知識を日常生活の中で活用する力の育成」に重点を置いた教育を講じたはずだが、「過去2回のテスト結果と同様」ということはそういった教育が力を発揮できなかったことの証明以外の何ものでもないだろう。
このことは何を意味するかと言うと、一般的に日本の学校教師は考える力を生徒に植えつける教育能力に欠けるということであろう。学校教師のそのような教育能力の欠如を受けた生徒の考える力の欠如ということになる。
最初に触れたが、日本の教育が考えるプロセスを省いた知識の機械的伝達と機械的授受のみで成り立っている暗記教育を歴史としているのだから、教師と生徒が同様の状況に立つこととなっている当然の対応関係と言える。
民主党がバラ撒きと批判した麻生内閣の09年度補正予算からムダな贅肉を落とすべくその見直しを進めているが、文科省関係の補正予算からは全国の各公立小中学校へ1台ずつ導入を予定、テレビの地上デジタル化とあわせて約670億円を計上していた電子黒板が見直しの対象となった。
もし導入ということになったなら、多額の予算をかける以上、日本の教育に欠けている生徒の考える力の育みに役立たなければ意味はない。
名前を聞いただけでおおよその見当はつくが、電子黒板とは具体的にはどんなものなのか。非常に便利な道具であることは確かである。今までノートに筆記していた文章をパソコンで入力するようになったときの便利さに匹敵するに違いない。パソコン入力した文章は保存可能、いつでも簡単に呼び出すことができて、書き直しも文字で汚すことなく簡単にできる。読み直したい箇所、どう書いたか改めて知りたい箇所はノートのように文字を追い、ときには何ページもめくって探す手間をかける必要もなく、文字検索で簡単・確実に辿りつくことができる。
だが、多くの教師が授業の資料作りにパソコンを利用しているはずだが、生徒の考える力の育みに役立ったているだろうか。役立っていたなら、日本の教育の今言われている課題はとっくに解決できていたことになる。
となると、670億円もかけて全国の各公立小中学校へ1台ずつ導入予定の電子黒板もパソコンと同様に考える力の育みには役に立たない単なる便利グッズで終わる可能性が生じる。
電子黒板を使った教育が考える機能を持たせ、生徒に考える機会を与える教育グッズとなり得るのかが問題となる。なるとしたら、なぜ教師は電子黒板を用いずとも、従来的な教育形式の中で自らの教育方法に考える機能を持たせて生徒に考える機会を与えることができなかったのか。
教師が特別な機器を用いずとも考える機能を持たせた知識の提供を行うことができ、生徒に考える機会を与えて考える力の育成に力があったなら、パソコンもそうなっただろうが、電子黒板にしても便利グッズとして考える力の育成により力を発揮すると言える。
基本は教師の教育方法にかかっているからである。
いわば教師の教育方法が従来どおりなら、電子黒板を如何に活用しても、黒板に直接文字を書いたり、一旦消してまた書き入れるといった労力的手間を省くことに役立つ教育で終わる可能性が高くなる。
『電子黒板普及推進に資する調査研究事業サイト -平成19年度 文部科学省委託事業 先導的教育情報化推進プログラム』という長たらしい名前のHPがその効能を謳い上げている。勿論いいこと尽くめのことばかりで、悪いことは書いてない。
大体次のように言っている。(青文字)で従来の黒板教育と代らないことを書き入れた。
電子黒板なら、映写された画面上でコンピュータを直接操作することができます。声のする所(操作する所)と提示されている所が一致しているので、子どもたちはどこを見てよいか迷うことなく集中して授業に臨むことができますし、先生は行ったり来たりする無駄な時間をなくすことができます。
(従来の黒板教育から比較して機械的な便利さを言っているに過ぎない。生徒が集中できるかどうかは教師が伝える授業内容に、あるいは提示知識に関心・興味が持てるかどうかによって決まるからだ。同じディスプレイ形式のテレビに慣らされているといっても、テレビから受ける情報同様、受け身の情報で終わらせたなら、電子黒板をわざわざ導入する意味を失う。)
電子黒板に拡大提示した教科書、子どものノート、ワークシート、テスト・宿題プリントの本文や挿絵、図・グラフ等に書き込みながら説明できます。
(確かに便利であるが、説明する教師の言葉が従来の黒板教育と変わらなければ、考える力を養うまでには至らない。常に教師の言葉が問題となるからだ。)
学習効果の高い画像や書きこみを利用することで、生徒の興味・感心そして集中力を持続させることができます。
(生徒が興味を持って「学習効果の高い画像や書き込み」に意識を集中させたとしても、それをどう咀嚼し、どのように自分の考えへと高めるかは、説明が従来の言葉から出ていなければ、道具立ての違いで終わるだけのことで、やはり従来にない教師の生徒に考えさせる言葉が必要となる。)
電子黒板の画面の保存が可能なため、書きこんだ画面を再度呼び出して振返ることができます。昨日の黒板を呼びもどすことは通常では不可能ですが、電子黒板ならそれができるます。
(パソコンを使って自分で勉強することと変わらないことを学校が電子黒板を使ってするだけのこと。家でパソコンを使って勉強していない生徒には目新しいだろうが、このような便利さが考える力の育みとなる保証はどこにもない。)
画像を拡大提示することで、注目させる部分を生徒に意識させることができ、また、知識として定着させる事項や関連づけたい事項について、電子黒板に直接書き込むことができ、それを授業のまとめで再提示することで、振り返りを容易にできます。
(これは教師が授業終了間際に纏めとして言葉や板書を使ってやっていたことで、テストが近いときなどは、「ここはテストに出るかもしれないから、よく勉強しておくように」といったことまでした。だが、すべては機械的暗記で済ますことができた。電子黒板のこのような使い方でもしも生徒に考える機会を与えることができるなら、いわば知識の機械的定着で終わらせずに済ますことができるなら、電子黒板を使った場合に劣るとしても、例え使わなくとも考える力を植えつけることができたろう。例えそれが小さな植えつけであっても、それがキッカケとなって生徒自身が育み、発展させていき、大きな考える力に成長させていくだろうから、電子黒板が必ずしも必要な教育グッズとはならないことになる。)
教科書画像など生徒と同じ学習環境を黒板に提示することで視覚的学習効果に深まりをもたらします。さらに電子黒板では教科書の一部を拡大させることも簡単です。重要部分を拡大しそこにさらに書きこみ、理解を深める。簡単な使用法でも大きな学習効果を生み出します。
(「書きこみ」が教師の従来どおりの説明と同じなら、機械的な問題で終わる。)
児童の机上にある学習環境(児童が見ている教科書等の学習教材)と同じものを黒板上に表せるので、つまづいている児童にとって視覚的に理解しやすくなり、学級全体へ高い共通理解をもたらすことができます。
(いいこと尽くめだが、理解できない文章をパソコンに取り入れたからといって、「視覚的に理解しやすくな」る保証はどこにもない。授業に興味を持たせて、考える機会を与えかどうかにかかっている。教師が電子黒板にそのような機能を持たせることができるかかどうかである。持たせることができるなら、黒板教育でも持たせることができるはずである。
つまり、電子黒板が問題ではなく、あくまでも教師が問題となる。)
これまでは学習プリントを用意し、教師はその拡大版(とはいえA1程度)を黒板に貼るなどしながら、また、マス目短冊黒板を複数用意し、そこに書き込んでおいたりして授業を進めていた。拡大版とはいえ児童には見えにくく、指示が通りにくかったし、マス目短冊黒板の枚数も十分ではなく多くの児童に考えさせるには限界を感じていたが、電子黒板を使うことでそのいずれもが払拭された。
(これも機械的な便利さの問題。そこから考える力の育成につながる道筋が描くことができるわけではない。)
電子黒板に生徒の作文を書画カメラで写し、優れた表現の部分を指摘したり、全体の構想がどのようになっているのかを書き込みながら説明できるます。自分の作品と友達の作品を比較したり、はじめに書いた作文と書き直した作文を比較したりすることが容易であり、また視覚的にとらえることでクラス全体の理解を深めることができます。
(「容易」というだけのことで、教師の書き込みながらの説明が従来の説明と異なっていなければ、生徒の説明も教師の説明に従った、その範囲内の説明で終わるだろうから、考える力の源泉とはならないだろう。考える力の育みは教師が考える力を育む教育能力を有しているかどうかに偏にかかっているのであって、電子黒板の機能そのものとは関係ないからだ。教師が生徒がまだ知らない詩を朗読したのを受けてその詩から生徒が感銘を受け、色々な思考を頭に思い巡らせてその考えを発展させるキッカケは詩自体の言葉と教師の解釈の言葉にかかっている。基本となる考える力を生徒に植えつける教育がなされていなければ、その結果を受けて考える力が生徒に備わっていなければ、教師の詩の朗読は機械的な朗読で終わる。電子黒板を使った作文の比較も同じ運命を辿るに違いない。)
ペン機能や拡大機能を用いて視覚に訴えながら説明を加えることで、説明する側の表現力を高めることができます。
(特別な場合を除いて生徒の表現能力は教師の表現能力に対応する。教師の表現能力に見るべきものがなくても、殆んどないことだが、生徒の表現能力に見るべきものがあったなら、教師をそれを学ぶはずだし、その逆も同じ構図を取るはずである。いわば考える力にしても表現能力にしても、その程度は相互対応の姿を取るはずだから、教師の表現能力に見るべきものがなければ、生徒の表現は「ペン機能や拡大機能を用いて視覚に訴え」たとしても、機械的表現で終わりかねない。)
直方体、立方体の概念について理解するとともに、見取図、展開図について理解し、立体図形の観察と表現の能力を高め、空間概念の基礎を養うことができます。
3Dソフトを使うと、立方体のフレームを特定の方向から見たように表示した時、立方体ではなく「六角形とその対角線」に見える。そのような教材提示は実物では難しい。どうしてそのように見えてしまうのかという発問から、児童は見取図を書く時に必要な要素について明確に気づくことができ、問題解決的な学習を通して本来のめあてが達成されます。また、その提示から、角度を変えて実際に回転させることで、平面的な場合と立体的な場合をシームレスにイメージさせることができます。さらにその図形に直接書き込みをして説明することで、児童の理解をより深めることができます。
これまで平行四辺形や三角形の求積は公式を適用することに重点が置かれ、時間的な問題から作業的な算数的活動が十分できなかったり、考えを比較したり共有したりして学びを進める探求的な算数的活動の場面が少なかったりした。そこで、こうした問題を解消する手だてとして、学年及び学級児童の実態を踏まえた上でICT機器やデジタルコンテンツを活用して授業展開する。ICT機器は、児童の理解を促進させるための拡大提示及び成果物共有のためのツールとして、児童の思考の道筋を整理して連続した授業展開を進めるための道具としての活用を図る。
(確かに平方形や立方体は板書するよりも簡単に提示でき、回転も自在に行って様々な角度から見せることができて形に対する生徒の理解を深めるだろうが、「知識や技能を活用する力」というよりも「基礎的な知識」に属する教育方法ではないだろうか。考える力の育みに役立つとしたなら、電子黒板を使わなくても、教師の工夫次第で育めたはずである。)
9月25日(09年)に川端文科相が補正予算見直し対象としている電子黒板導入の判断材料にその効果を学校に出かけて授業を受ける形で確認するために約30分間、英語の授業を受けたという。
どのような印象・感触を受けたのか、結論は週明け以降になるだろうが、今までと同じ教育形式の中で取り入れるだけのことなら、便利グッズで終わだろう。
ノコギリで材木を切っていたのを電動ノコギリで切るようになった。力は要らないし、格段に時間も早く、アッという間に切れてしまう。時間・労力ともに節約できた。しかし、切断の成果として残る切り口はノコギリで切ったのと電動ノコギリで切ったのとでは殆んど変わりはない。
必要なのは電子黒板の単なる便利さではない。
要するに従来の暗記教育に立っているなら、何を使おうと、パソコンを使おうと電子黒板を使おうと、便利と言うだけで、考える力の育みに役立つことはないに違いない。
基本は教師の思想面での教育方法にかかっているということである。機器を使った教育手段の問題ではない。
教師が自ら考える機能を有して教科書の内容を把握し、その内容を生徒に伝える段階で生徒に考えさせる機能を持たせて、生徒自身に考えさせる機会を与えることができるかどうかである。
知識への自発的(主体的)アクセス、アクセスした知識に対する自発的(主体的)解読、そしてその知識の自発的(主体的)活用。これらが有効に働いて、考える力はつく。そのような状態に持っていくことができるかどうかの教師の教育力が試されているのではないだろうか。
警察署、役所等、学校、幼稚園、教会、ホテル等の建物壁面、門扉、あるいはメインストリートの要所要所に平和や暴力の停止を訴える一文を一節とするコーランの一頁の巨大絵を掲げて、宗教的良心に訴える。あるいはイスラム教開祖のモハメッドの巨大肖像画か、2001年以降は生死不明ということだが、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルの巨大肖像画、あるいは著名なイスラム教聖職者の巨大肖像画を取り付けて、吸血鬼に対するにんにくの役目を持たせてテロに対する防御策とする――
例えば図に書き入れたように、
『アラーは同胞の死を悲しむ』
『アラーは同胞の暴力の欧州を悲しむ』
『アラーよ、この地に平和を!!』
といったふうに。
最初は効果はないかもしれないが、街のあちこちでコーランの一説やイスラム教ゆかりの肖像画を見かけないときはないとなったなら、テロをいくらジハード(聖戦)だと信じていようと、少しはためらいが生じないだろうか。
テロの任務を負った者は少なくとも成功させることしか頭にないに違いない。自身の身体に仕掛けたか、車に仕掛けたか、道路に仕掛けたかした爆弾が攻撃対象を捕らえて物の見事に爆発、一人でも多くの死者を出すか建物に大きな被害を与えるかして、それを自らの戦果とするシーンだけを頭に思い描いて行動するはずである。
だが、巨大肖像画やコーランの一節を目にした場合、それが今まで頭に思い描いていたシーンを邪魔しないことがあるだろうか。風一つない湖面に小さな石を投げてさざ波を立てるようにテロの任務を負った者が既定としている頭のシーンに気持の揺れやちょっとした迷いがさざ波のように立つことはないだろうか。
そのような気持の揺れや迷いを振り払ってテロを敢行し、成功したとしても、後ろめたさを残すことになるのではないだろうか。例え戦場に於ける兵士のように良心を麻痺させていたとしても、一般の戦場ではイスラムゆかりの巨大肖像画やコーランの一節を目にしながら敵を殺していくということはあるまい。
昨日9月24日の「asahi.com」記事――《日米同盟の強化一致 鳩山首相、オバマ大統領と会談》によると、日本時間で9月23日夜オバマ大統領と会談した鳩山首相は〈アフガン支援については、「自らの問題として、日本にできうる復興支援に積極的に取り組みたい。我々が得意とする分野で積極的に貢献したい」と述べ、具体的には農業支援や元兵士の職業訓練などをあげた。大統領は「大変ありがたい」と応じた。〉と伝えている。
また9月23日の「NHK」記事――《アフガン“民生中心に支援”》によると、鳩山首相はイギリスのブラウン首相と会談。ブラウン首相がインド洋での給油活動について鳩山総理大臣の見解を質したところ、鳩山首相は、〈「アフガニスタンの将来にとって、日本の最良の貢献は何か。例えばタリバン兵士の社会復帰のために職業訓練を行い、兵士に安定と幸せを与えることで、全体を平和にする道も考えられる」と述べ、給油活動に代わって、民生分野を中心に支援を行っていきたいという考えを示し〉たという。
農業支援や元兵士の職業訓練施設ということなら、治安の悪化とそのことを原因とさせたアフガン政府からの人心の離反、外国軍の撤退、アフガン政府の崩壊を目的としているタリバンにとって成功したら都合の悪い方向に向かうことになるから、テロ攻撃の対象にイの一番に加えかねない。テロ攻撃から施設を守るためにイラク復興支援のときのように他国軍隊に守ってもらうにしても、死者を一人でも出さないように上記提案を試してみるのも一つの手ではないだろうか。
巨大肖像画やコーランの一節がアラーを冒涜するものとして意に反して集中的な激しい攻撃対象となるようなら、逆に誘い込む罠とすればいい。
アフガニスタン大統領選挙が8月20日に投票が行われたものの、1ヶ月以上も経過して未だ誰が当選か確定していない。1ヶ月近く経過した9月半ばの暫定結果発表では現職のカルザイ大統領が過半数を獲得したと発表されたが、その暫定結果について欧州連合(EU)のモリヨン選挙監視団長が「カルザイ大統領の得票のうち3割強は不正投票だった疑いがある」と指摘したと9月18日の「日経ネット」が伝えている。
私個人の独断と偏見による好みから言うと、カルザイ大統領はテロによって多くのアフガン人が日々殺され、国が混乱を極め、多くの国民が貧しい生活を強いられているというのに艶やかな色つきのマントを羽織って気取ってるような男は大統領にふさわしくないと思っていた。
2004年11月11日になくなったパレスチナのアラファトPLO議長はカーキ色の軍服を常に纏って戦う姿勢を世間に宣伝していたが、アラファトは2国間援助や国連を通じた各多国間援助で成り立たせてきた自治政府予算から自らの個人的な特別口座に9億ドルも振り込み、側近たちにも多額のカネをばら撒き、側近たちはそのカネで高級車を乗り回し、豪邸を建てていたという。
いわばアラファトはカネでPLO議長の職を維持していた。気取った態度のカルザイを見ると、どうしてもアラファトと重なってしまう。カイザルが大統領である限り、アフガンの復興はないように思える。
記事はつぎのように支持に関する派閥の内訳を伝えている。
〈西村氏は、支持議員の半数以上の17人が(所属派閥の)町村派だ。伊吹派の4人も支持しているが、他派閥は0~3人にとどまっている。
河野氏支持も、所属する麻生派が7人で、無派閥の7人と並んで多い。
派閥側から見れば、今回も統一行動が取れていないケースが多い。特に、最大派閥の町村派(47人)は、西村氏支持が最多だが、10人が谷垣氏、6人が河野氏を支持している。町村信孝・元官房長官や森元首相ら派の幹部が方針を表明していないことが影響していると見られる。
当選回数別に見ると、衆院当選7回以上のベテランの約7割、当選4~6回の中堅の約6割が谷垣氏を支持し、西村、河野両氏をリードしている。
当選1~3回の若手では、谷垣氏支持が9人、西村、河野両氏がともに8人で、ほぼ互角。「中堅・若手の代表」を掲げ、世代交代を訴える西村、河野両氏は、肝心の「足元」を固め切れていない。
谷垣氏支持の議員からは、「経験も豊富で、清廉、政策にも明るい」(大島理森国会対策委員長)との声が聞かれる。河野氏については、「自民党の古い体質を引きずっていないのは河野氏だけだ」(義家弘介参院議員)との評がある一方、森元首相らベテランを名指しで批判する姿勢に、「議員からの反発が大きい」との指摘も出ている。〉――
要するに派閥の利益に、あるいは派閥の恩恵に最も浴しているのは谷垣ということになる。そのような立場に立っている利害関係上、「誰を排除せよという議論より、全員野球でやらなきゃダメだと思います」(19日の日本記者クラブ主催の公開討論会での発言)という姿勢を形成せざるを得なくなっているのだろう。人間は利害の生きものであり、利害状況に応じて態度を変える。ときには損すると分かっていて変える場合もあるだろうが、そのような場合であっても、何らかの利益を目的として、得ている。
「町村信孝・元官房長官や森元首相ら派の幹部が方針を表明していない」のは派閥主導と把えられることを警戒した自己利害からの“だんまり”の可能性が高い。
派閥政治批判に歯に衣を着せぬ河野太郎はそれゆえに自民党の大勢を占めるに至っている派閥領袖や派閥からの恩恵を多く受けて、そこに自らの立脚点を置いている派閥依存議員から記事にあるように「議員からの反発が大きい」という待遇を受けることになっているのだろう。
自らの政治活動に不利益となると分かっていて河野が派閥政治を批判するのは自らの正義感、自らが信じる政治思想等を満足させる精神的利益を満たすことだできるからだろう。だが、批判がいつまで経っても通じず、派閥議員を延々と敵にまわしていなければならなくなると疲れてきて、あるいはどうでもよくなって、大勢に妥協し、批判に反して派閥チームに於ける「全員野球」の積極的な一員と化したりすることもあり得る。
西村康稔(やすとし)は町村派に所属し、森喜朗に近い議員だそうで、「若手分断のため擁立された」と言われているそうだが、本人は「私は1人で推薦人を集めた。中堅若手の分断といわれるのは大変不名誉」(日刊スポーツ)と噂を否定しているが、否定は当然、肯定するはずもないことで、もし言われていることが事実とするなら、西村30票、河野太郎28票は「分断」が功を奏していることを示している。
尤も分断させるための立候補であった場合、西村支持の多くは人事と利権操作を専らの政治活動としている、森喜朗に代表される派閥領袖等の党内実力者の影の指図(さしず)に従った支持の可能性が高いから、西村が立候補しなかった場合、30票がそのまま河野に流れるとは限らない。未定の39票のうち何票かが河野支持だが、党内実力者に睨まれ、村八分にされることを避ける意味から前以ての支持を表明しない票の可能性が考えられるが、それがどのくらいあるかである。
国会議員票が読売の調査どおりに出るかどうか、結果が楽しみとなる。
18日に告示、3候補が届け出、午後になって自民党主催の共同記者会見が開催された。3候補の派閥政治に関わる部分の発言を見ると、それぞれが派閥政治をどう把えているかが自ずから炙り出すことができる。「全員野球」という言葉で派閥批判を封じ通した谷垣、露骨な批判を通した河野、若手であるにも関わらず派閥に立脚している矛盾に整合性を与えるためにそうせざるを得なかったのだろう、論理不明確に論ずることで、結果的にどちらとも態度を明らかにできなかった西村。
共同記者会見後、19日の日本記者クラブ主催の公開討論会、都内演説会、そして地方演説会とスケジュールを進めているが、3氏の発言は場所は違えても、基本的には趣旨を同じくした主張となっているはずである。13日の共同記者会見から3氏の発言・主張を眺めてみた。
「第2日テレNEWS24/ノーカット工房」の動画を参考にした。言葉を纏めるのが下手クソだから、私自身の感想は発言の途中途中に青文字で記した。
――朝日新聞の山浦です。鳩山政権、高支持率でスタートしたんですけども、オー、先ず政権奪回への決意、処方箋ですね。えー、この辺りを伺いたいんですが、あの、参院選に向けてですね、できれば、あのー、歴史的、この総選挙が、自民党、えー、歴史的惨敗、したんですけれども、この自らの責任、自らどこに原因があったか、そこは明らかにしたうえでですね、この参院選へ向けての、自民党をどう立て直していくかと、その辺りをお聞きできますでしょうか。
西村「よろしいですか。西村康稔(やすとし)です。えー、3点申し上げたいと思います。一つは、今質問がありました反省点ですけれども、えー、景気が悪い中でですね、それぞれの、国民の負担、えー、非常に重くなってですね、非常に苦しい思いをしておられる方が非常に多いと。それにも関わらず自民党は、えー、いわば政権をたらい回しにするような形で、権力にしがみついて、官僚の天下りを許してきた。えー、そういうイメージのもとでですね、自民党の政治家だけがいい思いをしているんじゃないか、俺たちこんなに苦しいのに。こんな思いがですね、えー、我々がそれを感じ取れなかったと言うのが一番大きな敗因だと思っております。
で、そこで建て直しの一つの方策はですね、えー、国会論戦を、しっかりやるということなんですけれども、そのために政策をですね、もう一度、地域のコミュニティーとか、地域再生、こうしたこと、我々がやってきた政策、社会政策を含めて、しっかりと見直して、これはもう官僚に頼らずにですね、野党ですから、官僚も離れていきますので、むしろこのチャンスに、自分たちの頭で、国民の思いをしっかりと受け止めた政策を立案していく。これを成長の、仕組みを建て直して、再編をしてですね、評価をし、そして、えー、それぞれのチームを作り、国会論戦、これは若手がですね、最前線に出てですね、論戦をしていく。
自民党も結構いい若手がいるじゃないか、そう思われるような論戦を是非やりたいと思います。
二つ目が、やはり選挙で勝たなければなりません。政権奪回であります。自民党の弱いところはやはりリクルーティング機能、だと思うんですね。候補者がどうしても、えー、世襲候補であったり、えー、あるいは官僚出身、あるいはえー、地方からの出身と、狭い範囲で選んできた。これをもっと幅広くですね、いい人材をピックアップできる仕組み、えー、選べる仕組み、NPOで働いている女性、若い民間人、こうした人たちを是非見つけ出して、支援して、指導していく。そうした仕組み、しっかりとつくりたいと、いうふうに思います。
えー、三つ目は、そうは言っても、最後は党のイメージであります。これまで密室で物事を決めてきた。あるいは、えー、決めるのにえらい時間がかかって、調整に時間がかかった。これをなくすためには、えー、総裁がリーダーシップを取ってですね、えー、調整せずに、勿論調整するなんてことありますけれども、スピーディに意思決定する仕組みをつくっていく。そして適材適所に人を配置していく、いうところをですね、えー、やらなければいけないと思っております。
私はそのために、えー、派閥を離脱をいたしましたので、中立的な立場で、えー、リーダーシップを発揮してですね。いい人材を、これは若手を中心に国会論戦をやったり、最前線で働くのは若手がやりますけども、えー、老壮青、これは力を合わせないとですね、たった200人しかいないのですから、巨大な与党に向かっていくわけですから、適材適所で、いい知恵を結集してですね、戦っていく。そういった体制をつくっていきたい。スピーディでクリーン、そして透明な意志決定をする、党のイメージをつくっていきたい、いうふうに思います」
(自民党に関してこれまで常に問題となってきた一つが派閥主導型政治であり、派閥主導型人事であった。小泉以後、1年を持たずに3人の首相が入れ替わったのも派閥主導の首相人事であったがゆえに国民の自民党に対する政治不信を買った。当然、「政権奪回への決意、処方箋」にしても、総選挙の「敗因」にしても派閥主導型の政治活動をどうするかを視野に入れた議論が為されるべきであることからすると、西村が若手が最前線に出て国会論戦をしていく、あるいは適材適所だと人選を差別化することは当然の対応だが、その舌の根が乾かないうちに、「老壮青」という言葉を使って差別化を否定し、年齢的バランスを重視する矛盾を犯している。「老壮青」が谷垣が言っている「全員野球」と同じ全体性を持つことから、その擁護対象は谷垣と同じく派閥主導に立つ党内実力者だろう。そういった議員を肯定的存在と看做している。
いわば派閥主導型政治・派閥主導型人事容認の「老壮青」なのである。)
河野太郎「えー、河野太郎でございます。あの、8月30日に国民のみなさんが選んだ、鳩山内閣でございますから、我々は、その船出を、しっかりと、見守って、エールを送っていきたい。えー、いいことについては一生懸命、後押しをさせていただきたいというふうに思っております。
えー、それとは別に、我が党をどう建て直すか、ということは、冷戦が終わって、自由民主党というのは、一体何なのかということが、非常に曖昧でした。自民党は政権与党ですとしか言えなかった。そこが一番の問題だと私は思っております。
自由民主党というのは効率のよい、ムダのない、小さな政府を中心にして、この国の経済をきちんと成長させる、健全な、公正な競争環境を、つくり出して、経済を成長させて、その果実を、以って、国民のみな様一人ひとりの豊かさにつなげていく。そういう政党なんだ、ということをはっきりさせなければならない、と思っています。ここ暫く、小さい政府でいくのか、バラ撒き型の大きな政府でいくのか。自民党の中も揺れたことがあります。それでは駄目なんだと、私は思っています。きちんと自由民主党という政党はこういう政党で、日本の国をこういうふうにしていきたい、そういう旗を立てた。その元で、それに賛同する国民のみなさんに集まっていただいて、二大政党の一つの軸として、自由民主党がきちんと対立軸として、立っていく。そういう状況をつくっていきたいと、思っています。
我々は自民党の政策を自民党のためにやるわけではありません。この国に二つの、二大政党という、二つの対立軸のはっきりした政党があって、それがお互いにきちんと議論するからこそ、この国の政治が深まっていき、日本の国がさらに前に進んでいく、そのために自由民主党を建て直す。それが私の考えでございます。
特にリーダーシップの世代交代をしっかりやらなければ、なりません。これはもう自由民主党の、支援者の皆様から、いつまで、同じ手垢のついた、古臭い政治のメンツでやるんだ、ということを、何度も私は、聞いて参りました。挙党態勢という言葉で、そういう人間がまた復活するようなことはないように、きちんとリーダーシップを、世代交代をし、派閥政治から脱却する。
人間は必ず群れをつくります。その群れに、あたかも党の公式機関のような人事権や候補者の決定権、そういったことを与えない。決めるのは党が決める。それを決定することによって、世代交代と、派閥政治からの脱却をしっかりやっていきたいと思っております」
(河野太郎は世代交代と派閥政治からの脱却を表裏一体のものとして明確に認識している。
このこととは別に河野は自身が考えている自由民主党のあるべき姿として「効率のよい、ムダのない、小さな政府を中心にして、この国の経済をきちんと成長させる、健全な、公正な競争環境を、つくり出して、経済を成長させて、その果実を、以って、国民のみな様一人ひとりの豊かさにつなげていく」に置いている。勿論、これは河野一人の考え方ではなく保守を掲げているいる大方の自民党議員の考え方だが、あとで次の言葉を同じ趣旨で言っているが、「小さい政府と大きな経済成長」は大企業を擁護することによって可能となる保証であることを、あるいは気づいていないのか、隠している。
ゆえに自民党は特に大企業の利害を最も代弁する政党となっている。これは国家を優先する考え方に立っていることからの中央政治家・中央官僚、特に大企業等の国家の上層に位置する組織・集団の利益を強化し、それを以て国家の力とする思想の現れであり、それを基本とした自民党の国家経営であったから、政・官の政策の恩恵を受けて得た企業の利益を下に位置する中小企業、あるいは一般国民に段階的に還元するとき、段階に応じて必然的にそうならざるを得ない上により厚く、下により薄くしていく配分を成り立たせることになっていた。
企業の人件費カット、製品コストカットにつなげ国際競争力をつけるという名目で行われた労働市場の規制緩和にしても大企業の利害代弁の姿勢から出た政策だが、その結果、その政策の恩恵を最大限に受けて日本の大企業各社に戦後最高益を約束することとなったが、最高益に応じた利益配分は段階に準じた量さえも従来どおりには一般国民にまわってこなかった事実は広く知れ渡っている。
この教訓に立つなら、河野の言う「経済を成長させて、その果実を、以って、国民のみな様一人ひとりの豊かさにつなげていく」は不確かな約束となる。)
谷垣「谷垣禎一(さだかず)です。あの、今度の選挙の敗因ですけども、やはり景気が悪かったり、あるいは、セーフティネットが何となく綻びている。そういう不安感に対して、我が党はきちっと対応を必ずしも示せなかった。
(セーフティネットは「何となく」程度の「綻び」だったのだろうか。「何となく」と見る生活感覚は本質的には自民党政治は間違っていなかったと見ていることから起きている判断に違いない。だからこそ、派閥政治擁護もできる。)
それから色々と出した政策。これはあの広報宣伝ということもありますが、必ずしも十分理解できるような、理解させて、理解していただくような形で説明が行われなかった。それに加えて、イメージの問題。しばしば総理大臣が代ったり、しかも党内で対立の図式で、国民目線というよりか、権力闘争に明け暮れているじゃないかと、こういったようなことが、あー、あの戦争の敗因の背後に、あったと思います。
それで私はやはり、その政策面からしますとですね、あの、これから野党になりますから、国会論戦が中心でございます。国会の中で、えー、我々も政策を練磨しながら、しっかり野、与党の政策の問題点を突いていく。
しかしその場合にですね、えー、その追及する、あるいは批判する視点が滅茶苦茶であっては、これはどうしようもありません。やはりこの保守政治の正道に立って、えー、批判をしていくという視点が必要でございます。そうやってコツコツと、おー、与野党の政策に、ま、風穴を開けていくという努力が先ず第一だと思いますね。
ですから、そこの国会の論戦に当たるに優秀な人材を配置しなければいけない。そしてそういう政策を批判するための政策をつくれる党の政策機関をきちっと充実しなければいけないということは台にあると思います。
それから、あー、二番目の広報宣伝ですね、やっぱり、その辺りは、それを専門に扱う、部署というものを、もう一回強化する必要があるのではないかと、オー、思っております。
うー、イメージに関しては、今もご議論がありましたけれども、やはり派閥があんまり跋扈跳梁するというようなイメージを乗り越えていく。そして若くて清新な人材も発掘していく。それに加えましてね、やっぱり、一番大事なのは、みんなでやろうぜ、オー、気持ちでもって、えー、全員一体となって、当たっていくことが大事だろうと思います。
それで、選挙の具体的な戦略ということになりますとね、やはり、あのー、新しい総裁が選ばれましたら、その総裁は、まあ、来年、この年度内ですね、来年の3月までぐらいに全都道府県をきちっとまわって、えー、地域の声、そして、地域の選挙事情、じゅうーぶん自分で見ていくということは、必要だと、おー、思います。
そしてまあ、今、あの、我が党の衆議院の方は、たくさーんこの苦杯を飲んで、将来、これ、どうやって勝ち抜いていくか、いう不安があるわけですから、やはりそこに党本部として、執行部として、対応していく。そういうことが必要ではないかと思います」
(自民党は組織としてはどうあるべきか、どうやって国民の支持を取り返し、自民党を再生させるかの本質論を正面から論ぜずに、国会論戦だの、地方をまわるだの、イメージがどうだの、肝心要の本質論とは程遠い表面的な活動を論じている。自民党の再生は自民党が大企業の利害を代弁している以上、政・官・財の上の利益が国民の最末端にまでより公平に循環させていく政策を見い出すことだと思うが、そのためにも利益配分の不公平の象徴となっている、あるいは利益の独り占めの象徴となっている天下り、派閥型政治、あるいは族政治を排除し、その構造を受けた企業優遇を正す議論が必要となるのだが、西村にしても谷垣にしても、そういった必要性はサラサラ感じないらしい。)
自民総裁選/谷垣総裁選出は森喜朗が主役の派閥政治の延命治療(2)に続く
――じゃあ、すみません、二問目をお伺いします。共同通信の須佐美(?)と申します。えーと、あの、衆議院の争点の一つで、小泉構造改革の是非というか、あー、総括というか、それが小泉構造改革があー、正しい方向だったのか、それとも少し修正した方がよかったというのが、あの、まあ、自民党内でも、両論があったと思いますし、えー、まあ、えーと、今回の、自民党の、敗因が、その小泉構造改革を貫けなかったからなのか、えー、貫いたからなのか、色々と意見があると思いますが、えー、三候補にどう総括しているのか、伺いたいと思います。
あの、過去に小泉政権があった時代に、えー、その小泉構造改革にどう関わってきたかというのと併せて、現在の考え、それから、今後どうすべきか、というのをお聞かせください。お願いします。
河野「それでは二問目ですから、あの、私からいきたいと思いますが、これは官から民へ、中央から地方へ、という改革は決して間違っていないと思います。小さな政府を目指し、えー、大きな経済成長を遂げようとする、その精神は、小泉構造改革、決して間違っていたものではない、と思っています。
しかし例えば、中央から地方へと言ったときに、権限は行っても、財源は渡せなかった。つまり役人と一体化して、地方へ権限とカネを渡すことに反対をした人間が党内にいた。その財源の移譲が不十分だったがゆえに、本来なら地方がきちっと財源とカネを持ってやれたことが、権限だけはきたが、財源はこなかった。遣り切れなかった、ということがあった。そういう面では不十分であった、ということは言えると思います。
もう一つ、反省をしなければいけないことは、そのー、公共事業を削減する、あるいはODAを削減する。そのときに社会保障だけが聖域になるのかという議論がありました。結果として、社会保障も、あの、2千2百億ずつ削減していこう、と。ええ、それは残念ながら誤った妥協、であったと思っております。
社会保障については、きちっと必要な財源をつける。その分、他を削ってでもやる、ということが、できなかった。えー、それぞれの省庁をバックに、バックにした族議員の反対があって、それを徹底できなかった、というのが二つ目の失敗、反省点だと思います。
三つ目として、規制緩和するときに、事業者の規模の小さいところから、規制緩和をやってしまった、というのが反省だったと思います。例えば空港のようにですね、事業規模の大きいもの、あるいは官の関与が極めて大きいところから、規制緩和をする。えー、それが本来正しい道、だったと思いますが、えー、小さいところから、事業規模の小さいところから、あー、規制緩和を始めてしまって、あたかも規制緩和で色々なことがあたかも悪くなってしまったという、おー、イメージが先についてしまった、というのがオー、反省点であります。
えー、構造改革というのは、これをきちっとやり遂げることによって、自由民主党が本来目指すべき小さい政府と大きな経済成長、そして安定した社会保障というものを、実現することができると、私は思っています。
それを族議員や色々な雑音で遣り切れなかった。それが残念ながら、我々が反省しなければならない点だというふうに私は認識しております」
(小泉改革にしても様々な抵抗・妨害の類や方法論の間違いもあったろうが、何よりも上の利益・果実の下に対する配分が十分に果たされなかったことに尽きるはずである。いわば上の利益・果実が一般国民にとってそれ相応の利益・果実とはならなかった。その結果としての所得格差・収入格差・生活格差であり、都市と地方の格差という社会矛盾が生じた。労働市場の規制緩和を行い、大企業にその何層倍にも当たる最高益を献上しながら、一般国民には無縁のものとした。にも関わらず、社会保障費を削って、その「安定」を目指したものの、一般国民には新たな負担となった。利益の配分もなく、負担だけが増えたのである。
譬えて言うと、小泉改革は国家や企業にのみ目を向け、一般国民には目を向けていなかった。強い日本国家の構築に目を向けていたが、国民生活の強化には目を向けていなかった。)
谷垣「小泉構造改革につきましては、私は小泉内閣5年余の間3年程、財務大臣を務めておりましたので、特に骨太2006等々、私も大きく関与しているわけであります。それでー、構造改革自体につきましてはね、やっぱりそれだけ国際的な大きな競争がある。それから日本は少子高齢化が進んでいる。こういうことを考えますと、おー、そのために必要な改革、構造の変化というのは、必ずしなければ、いけないだろうと思います。
ただ、小泉構造改革の理解というのは、えー、小泉政権の中にあっても、実は、二つあるんだと思います。一つは小さな政府そのものが、日本全体をよくするものだという考え方のもとに、ムダを徹底的に排除して、小さな政府をつくっていこうという考え方が一つあったと思います。
それともう一つの流れは、さはさりながら、これだけ少子高齢化が進むと、今も2千2百億の話がございましたけども、社会保障はムダを省くとしても、そうそう小さくはできない。それから地方分権というものを進めたとしても、確かに権限がなければ、財源だけ持っていっても、地方分権はうまくいかない。そうすると、必ず何かの財源措置を取らなければならないが、それはおそらく消費税ということになるだろうと。
それはしかしいきなり、じゃあ消費税をやりますよと言っても、なかなかそうはうまくいかないから、ムダを排除していこうと。そういう流れの人と、つまり、小さい政府派と、そこまで小さくできないだろうと、二つの流れが、私はあったと思います。で、私は後者でございまして、社会保障や地方分権のために、もう少し財源をつくらなければうまくいかないという考え方、でございます。今後もそれで臨んでいく必要があると思います。
因みに申しますと、民主党がムダを省いて17兆余の財源を生み出してくるということをマニフェストで盛んに主張いたしました。あの話を聞いておりますと、小泉時代にあったムダを省く、徹底的にムダを省いて小さな政府をすると、あれをもう一回やると言っているというように聞こえまして、そこまで、それだけ削ったのに、出てくるかなと、私は思っております」
(小泉以後も、安倍内閣のときも、福田、麻生内閣のときも、中央官庁や公益法人、地方自治体からいくらでもムダが見つけ出されている。予算執行された事業の中にもムダがなかったとは断言できない。民主党の「ムダをなくす」というスローガンをとやかく言える立場にはないはずだが、鉄面皮な男だ。
一例を挙げると、インターネットで国への申請手続きを行う電子申請システムの利用率が検査対象となった20の中央官庁の49システムのうち4年間で約119億円もかけた12のシステムでは総申請数の10%を下回っていたという会計検査院の調査(asahi.com記事から)はムダの最たる例であろう。
記事は書いている。
〈電子申請システムは、森喜朗内閣が推進した「電子政府政策」(IT戦略)の目玉として01年以降に始まったが、国民のニーズを度外視し、「何でもかんでもオンライン化してきた」(中央官庁幹部)ことが利用率低迷の原因とみられる。 〉――
利用率の高いシステムもあると言うことだが、低いシステムをカネをつぎ込むだけで放置してきた諸官庁の怠慢を政治は何ら監督できなった。)
西村「よろしいですか。えーと、小泉構造改革は、私は一年生、二年生でしたので、主として党内の議論に参加しておりましたが、えー、二つのことを。一つは官から民へ。一つは競争原理。これは官から民へで言いますと、道路公団民営化をやりました。えー、最近のサービスエリアを見ていただければ分かりますが、非常に色々なサービス、トイレも綺麗になったし、やっぱり民間で知恵を出してやれば、よくなると、いうところはですね、これは成功した民だと思うんですね。料金もできるだけ下げようと、努力しています。私も言うまでもなく、サービスエリアに観覧車ができて、非常に賑わって、そういう面は、民間の知恵が出ている面だと思いますね。
そして郵政民営化。これは田舎に於いて若干サービスが低下している面は、修正が必要な面もありますが、え、昨年度で確か、4千数百億円の税金を国家に納めて、これまで税金を納めてませんでしたから、そういう意味では新しい財源を民営化によってできたわけでありますので、こうした官から民へのプラス面は大きな面があると思います。
それから競争原理。これはIT産業初めとして、みなさんお使いのケイタイやいろんな面で、規制緩和によって生まれてきており、成長しております。こうしたプラス面は大いに評価しなければならないと思います。
ただ、一方で、財政再建を初めとして、えー、小さな政府、あの経済面はいいのですけど、社会保障の削減をした。あるいは地方の予算を削ってしまった。これによって地方の経済が非常に疲弊をしている。さらに言えば、えー、本来地域のコミュニティ、相互扶助、をする、つながりのあるま、連帯のある、その、地域コミュニティ、地域の構造まで壊れてしまっているという面まであります。これは市場原理が働かない分野があるということだと思うんですよね。
一つはそうした地域のつながり、の分野、地域共同体の分野。お互いに競争だけでやっているわけではない。ええー、それから社会保障の分野。これも競争だけでやるんじゃなくて、セーフティネットであり、また万人に振り分けをする、サービスを提供する、競争原理だけではうまくいかない、市場原理だけでうまくいかない面があるんだと思いますし、この辺りの面の改善をしていかなければならない。
さらに言えば、競争原理や、それを、まあ、信奉したがゆえにですね、エー、カネ儲けがすべて、えー、ていうような、何となく広がってきた、ところが非常に心配でありまして、もう一度、そうした、グローバル化した、対応した、経済成長でいくという面と、一方で、地域の共同体を守る。市場原理ではない、えー、お互いの信頼関係、えー、つながり、連帯、こうしたもので築かれた社会、あるいは安心できる社会保障制度、おー、あると、こうした両面を進めていかなければいけないと、思います。
まあ、いわば、新しい保守主義て言うか、健全な保守と言うか、ですね、優しい保守と言うか、守るべきものを守りつつ、且つ一方でグローバル化が新しい時代の産業、新しいニューフロンティアにも挑戦していく、この両方が必要だというふうに思います」
(功罪を言うなら、差引きプラスだったのか、マイナスだったのか指摘して国民生活上の利益・不利益を論ずるべきだが、道路公団の民営化をやった、高速道のサービスエリアのトイレが綺麗になった、観覧車ができて賑わっていると部分的利益のみをあげつらっている。しかもムダな道路建設に国の予算が注ぎ込まれない保証はなくなっていないことを棚に上げている。
また郵政民営化で昨年度4千数百億円も国に税金を納めたから、新しい財源ができたと言っているが、これまでも郵便貯金・簡易保険を財政投融資の「財源」として散々に利用してきている。地方で郵便サービスが低下していると言うなら、4千数百億円の税金からいくらかを使ってサービスの充実を図る政策を言うべきであろう。)
自民総裁選/谷垣総裁選出は森喜朗が主役の派閥政治の延命治療(3)に続く
――幹事から三問目です。テレビ朝日の足立です。えー、派閥ですけれども、えー、党再生会議の提案にもありましたけれども、解消すべきだとお考えでしょうか。もし解消するなら、どのような形で解消を実施するのでしょうか。え、総裁になったときに党役員人事などをするときに、そのバランスなどを意識した人選をするのでしょうか。それについても答えてください。
谷垣「派閥の弊害というのは乗り越えていかなければいけないと思うんですね。例えば人事を壟断(利益を独り占めにすること)するとかね。えー、党あって、派閥あって、党なし、おー、いうようなことが行われるようではいけないと。やはり人事は、おー、何て言うんでしょうか、特に政権交代ということになればですね。えー、派閥の情実人事であるとか、順送りであるとか、あの人は次の選挙で引退するから、閣僚にしてやろうとか、こういう人事であっては、あー、政権交代、この可能な時代には、負けてしまう。
だから、ベストメンバーでのぼらな、臨まなければいけない。そういう意味で、派閥の論理や何かはこの人事に関しては乗り越えなければいけない。これは当然のことだろうと思います。そうして派閥が人事や、それからカネを配る機能、カネを配るっていう機能もですね、野党になって、そんなものは非常に衰退化していくことは明らかでありますから、そうしますと、派閥の機能っていうのは、弱ってくると思うんです。
ただ、派閥の機能を弱めていくは、弱まっていくといいますか、もう一つ考えなければならないことがあると思います。それは今、党ではですね、必ずしも、あのー、何て言うんでしょうか、新人を教育したり、新人を発掘したりする作業が必ずしも十分にできていない。それから現在ですね、ええ、例えば落選をしておられる方が、どこに頼ろうかということになると、党に頼るというよりも、圧倒的に人間関係のあるところにいって、色々指導を受けたりですね、励ましを受けたりしているのは実情だろうと思います。従って、党にですね、やっぱり新しい人材を発掘し、そうして、その新しい人材に、何て言うんでしょうか、あー、選挙教育って言うんでしょうか、選挙指導というものを施してですね、それから落選している方々にも、きちっと連絡を取って、そうして、その何て言うんでしょうか、まあ、孤立化しないというか、あんまり淋しい気持になると、選挙も続きませんから、やっぱりそういうことをきちっとしていく、いうようなことが必要なんじゃないかと思います。
私はこういう野党になって、派閥の機能は段々なくなっていくと思いますけど、その今果たしているものに代える機能等をつくる努力をしなければいけないと思っています。
そうしますと、結局残るのは仲良し同士が時々メシを食うとか、えー、仲良し同士が、えー、政策を議論をやろうかと、いうような集団としては、ま、残っていくだろうと、そういうふうに思います」
(「あの人は次の選挙で引退するから、閣僚にしてやろうと」いった人事が与党時代の自民党では行われていたわけである。だが、そういった派閥の弊害を直接的には指摘も批判もしない。ただ、「派閥の弊害というのは乗り越えていかなければいけない」と一般論化して述べているだけである。
野党になって、派閥は衰退化していくと言っているが、野党となっても党役員の選出、影の内閣を置くだろうから、その閣僚の選出と人事作業は与党時代と変わらずに行われるはずである。そこに与党時代と同様の派閥力学が働かない保証はない。河野太郎に言わせると、総裁選立候補の段階で既に派閥は動いているということになっている。
にも関わらず、「派閥の機能は段々なくなっていく」から、派閥がこれまで担って来た新人教育・新人発掘を派閥に代って党が担う機能を構築しなければならないと野党化による派閥衰退がさも現実のものであるかのように言う。)
西村「ハイ。えー、派閥の機能を、これまで果たしてきた機能というか、やってきたこと、まあ、二つ三つあると思いますけど。一つが、えー、カネ、ポストの配分、ですね。で、え、まー、大臣ポストは総理が派閥に関係なく選ぶような仕組みで段々できてきましたけれども、残念ながら、えー、副大臣、政務官といったポスト派閥順送りでやっていたわけです。これがなかなか大臣を長として政策、政治主導でやるチームができなかった。これは大きな反省をしなければならない点だというふうに思います。
えー、そんな中で、えー、野党になりですね、あの配るポストもない、おカネもない。えー、段々段々もう派閥という機能がなくなっていく。まあ、いわば緩やかな、えー、おそらくサロンのような機能、むしろ、えー、これまでも派閥に属していたとしても、議連、議員連盟があったり、それぞれの組織、政策の勉強会があったりですね、横断的にやってきていますから、必ずしも派閥の機能がすべてを決めてきたということはないですけれども、これはもう、えー、機能は段々小さくなってきているんだろうと思います。そういう意味で、私は解消していく途中の中にあると思いますし、私自身は離脱をいたしましたので、えー、中立的な立場で、リーダーシップを発揮し、えー、適材適所で人事をやっていく、そういう覚悟でいます。
もう一つ、先程申し上げました。えー、残念ながら党に、あるいは地方組織にリクルーティングの仕組みがなかった。従って、派閥のグループが人間関係の中で、知り合いの中で、何かいいのがいないか、中であいつがいる、こいつがいる。そういう選び方をしてきて、そこで人材規制をしてきた、だろうと思います。まあ、いわば個人商店、自民党の議員はそもそも個人後援会が主として中心でありますし、そしてまた、そういう機能も個人個人で、個人のグループでやってきた。これを、ま、近代政党というか、新しい党に生まれ変わるためには、党主導で、党がしっかりと人材を見つける仕組みをつくり、必要とする仕組みをつくる。
そしてまた地方組織、えー、今までのような県会議員、市会議員の馴れ合いでやってんじゃなくてですね、え、しっかりとした仕組みにこれから生まれ変わる党改革、主要組織の改革をやって、そこで新しい人材を発掘する、あるいは人材育成をしていく。そして今落選をしている人たち、にしっかりと支援をしていく。こうした仕組みをですね、これからも活動していかなければいけないのではないかと思います。
えー、そういう意味で、えー、これから派閥を、ま、自然に解消しますけども、ま、人事とおカネでしっかりと党中央でやれば、党、党、党執行部は、えー、総裁が幹事長が、しっかりと、それをやっていけばですね、派閥がカネを配ったり、あるいは人事を派閥順送りにしなければですね、派閥の機能はなくなりますから、これはもう、解消していくと、言うことになるというふうに思います」
(西村も「大臣ポストは総理が派閥に関係なく選ぶような仕組みで段々できてきたけど、副大臣、政務官といったポスト派閥順送りでやっていた」と谷垣と同様に派閥が自民党の組織運営を担っていたことの種明かしをしている。
そして野党化したことで派閥は解消に向かうと谷垣と同様の考えを示している。だとしたら、何も総裁選の問題として取り上げる必要もないし、離脱をする必要もない。古い政治家の誰が派閥という自己存在証明及び自己実現、自己活躍の虎の子の手段であり、そうであるゆえに、自らのメンツを満足させ、うまい汁を保証してくれる既得権を手放すものか。
また派閥力学に依存し、その恩恵を受けて活躍の場と活躍の機会を得ている有象無象の議員がその恩恵をつくり出している組織の機能、派閥に担わせている機能を自ら無縁のものにすると思っているのだろうか。逆に既得権益として手放すまいとするのが人間の自然であろう。認識能力のない男たちだ。)
河野「森喜朗さんに派閥の解消をすべきだと言って、森さんが派閥を解消するでしょうか。絶対しないと思いますね。派閥をやめたけど、勉強会をつくった。派閥をやめたけど、仲良しグループをつくった。昼飯会をつくった。そうなるに決まっています。自民党のこれからを考えたときに派閥をどうしてくださいとか、派閥はどうあるべきだ、なんていう議論は全く無駄だと私は思っています。森さんを初め、派閥の領袖が、自分たちの力の源泉を自分たちでどうかする、そんな気はサラサラないわけであります。
じゃあ、どうするかと言ったら、派閥には何も触らせない。人事は、全部、党が、やる。政治資金はすべて党がコントロールをする。候補者の選定はすべて党が決める。それでも森喜朗さんと週に1回、昼飯を食べたいという人が何人いるか。それでもご飯を食べる友達がいるんだったら、それはそれで、いいことなんだと思います。しかし派閥が果たす役割は、河野総裁の元では、何もありません。それで誰かと一緒にご飯を食べたいと言うなら、それはどうぞ一緒にやってください、と言えばいいだけの話であります。
派閥が人を発掘し、候補者を決めてきたから、ベストのメンバーが候補者にならなかった、ことはこれまでも多々あります。党本部が人を見つけ、人を育て、そして地方と一緒になって、候補者を決めて、これが一番自由民主党にとって、最適な人事だ。そういうことをやっていかなければ、いけないと思います。
なぜ、大臣が今まで1年ごとに代ったか。あるいは党のマルチメディア局長なんていう役職ですら、なぜ1年で代ったのか。これは派閥が、その属する議員が満足して貰うために1年毎に、そのポジションを代えていかなかったら、不満が出るからです。そんなことをやっていたから、今の自由民主党の体たらくがあります。
私のところでインターンをやってくれていた、イギリスから来たある仲間に、イギリスの人事と、日本の自由民主党の人事、トニア・ブレアさんの労働党の人事と自民党の人事を較べて貰いました。自由民主党は綺麗に年功序列で、ポジションが代っておりましたけれども、イギリスでは全くそういうことは見られませんでした。河野太郎総裁の元では、派閥も年功序列も関係ない、能力オンリーで人事をやらせていただきます。それについて誰かからとやかく言われる筋合いは全くないと私は思っておりますので、だからこそ、この総裁選挙に立たせていただき、河野太郎の元にこの党を新しく生まれ変わらせていただきたいと思っております」
(河野だけが派閥利害から離れて立っているから、客観的な認識能力を示すことができる。
「森喜朗さんと週に1回、昼飯を食べ」る。それを望む人間からしたら、自らの忠誠心を示す場であり、森喜朗からしたら相手の忠誠心を計る場であろう。結果、政治が各自の政治的創造性によってではなく、忠誠心で動くことになる。
河野は派閥主導型政治に反対なら、私に総裁の1票を入れるべきだ、今のままの派閥支配の党運営でいいなら、谷垣さんなり西村さんなりを総裁に選べばいいと宣言して、誰を選ぶかを派閥主導を許すかどうかの踏み絵とすればいい。谷垣が選ばれたなら、自民党の大勢は派閥容認派に占められていることが明らかとなる。派閥容認でありながら、そう見られたくないために河野に投票する行動に出る者も出てくるに違いない。
その上で河野が選出されなかったなら、自民党の派閥政治を壊すことはできないだろう。)
――幹事からの質問は以上です。各社さん、どうぞ。
――産経新聞の・・・(?)・・・です。今の質問に少しかぶるんですけども、この前、あのー、落選議員の方々が党本部で開いた会合の中ではですね、キングメーカーが人事を歪めたりする。そういうやり方だったから、結局有権者に嫌われた、いう意見がかなりありました。あの、これから総裁になってですね、役員人事をやったりするときに、こうしたキングメーカーの声は今の段階で、完全に排除できる、そういう覚悟はおありなのかということと、具体的にそうするための手法を、どういうふうなことを考えていらっしゃるのか、それをお伺いしたいと思います。
西村「ハイ。えーと、私自身は総裁になったとき、こういう人事でやりたいっていうを頭に持っております。えー、これは比較的たくさんの、私、一年生、二年生、一期、二期のとき、からですね、各政策分野での事務局長をやらせていただいたり、委員会議事で色んな現場をやらせていただいてきましたので、えー、色んな先輩、先生方、あるいは同僚、後輩、一年生はまだ分かりませんので、一期生はまだ分かりませんけれども、えー、色んな付き合いの中でこの人はどんな能力があり、どんなことを考えておられるのか、私なりに、えー、よく知っているつもりであります。
えー、分担とか含めてですね、多少仕組みを変えたいと思っていますけども、分野ごとにですね。そうした分野でこの人を長にして、この人を、おー、の意見を聞きながら、そしてその人が国会論戦をやってもらいたいなあ、という大まかな絵は描いておりますから、これは総裁になればですね、直ちにそれを具体化していきたいというふうに思っております。従って、えー、全く相談する気はありません」
河野「8月の30日の投票の日からまだ一ヶ月も経っていない、この総裁選挙の推薦人を集める段階で、何を考えていらっしゃるのか分かりませんが、何人かの派閥の領袖が私の推薦人のところに電話してきて、河野太郎の推薦人には絶対なるな、そう電話をかけてこられた方がいらっしゃいました。全く懲りていない方がいらっしゃる。えー、これを何とかしないければ、自由民主党の再生はない。私はそう思っています。
ですから、私はその老壮青とか、挙党一致とか、色んなことを、おー、言葉がありますけども、だから、今までのことはなかったことにして、みんなで力を合わせようということには、ならないんだと思います。やっぱり自由民主党を新しくつくり上げるためには、切らなければならないという部分ははっきりある。それを切るかどうかがこの自由民主党の再生のカギを握っていると私は思っております。河野太郎の推薦人に名を連ねてくれた方々は、そういうことに賛同して、名前を連ねてくれたわけですから、我々の、うー、グループが担いでくれた河野太郎が総裁になったら、そういうところに耳を傾ける必要は私は何も感じておりません。
むしろ、そういう人には申し訳ないけども、自民党の中にどれだけ居場所があるのか、というのを考えてもらわなければいけない。というふうに思っております」
谷垣「ま、これは総裁になりましたら、どういう人事をするか。やはり、これは何と言うんですかね。えー、総裁が全責任を持って、自分の判断できちんと選んでいくんだと、この挙党態勢を揺るがしたらいけないんだと思います。そして、そいう中で適材適所。先程、あのー、甲子園野球のこと、喩えを申し上げましたけども、今の自民党には、あー、何て言うんでしょうか、人事の遊びをしている余裕はないんだと、それぞれのベストメンバーを当てていくんだと、えー、今度野党になった総裁は、その信念を徹底しなければいけないと思います。
ただ、私、まだ具体的に考えているわけじゃありませんが、色々と考えを巡らせますとね、なかなか難しいのは、人を知るっていうのは、簡単ではないんですね。あのー、自民党の中にも随分人材がいらっしゃいます。それぞれがどういう能力を発揮するかと、あの、何て言うんでしょうか、あのー、議員の、あの、年鑑を見ましてね、ずっと見ましてね、なかなか、そこは容易ではありません。その辺りをどうしていくか、というのは、普段の付き合いもありますけれども、かなり、色んな声に耳を傾けなければ、私はうまくいかない場合もあると思います。
その辺りの、何て言うでしょうか、一方に偏してはなかなかできないのかなあという気もしております」
(谷垣は終始一貫して派閥主導型政治の弊害から話を逸らしている。逸らすために「人事の遊びをしている余裕はない」などという。だが、この言葉を裏返すと、今まで派閥主導に任せた「人事の遊びをしている余裕」があったことになる。
また、谷垣は派閥の機能に代る党の新人教育・新人発掘の機能の育成を説いていた前の発言を忘れて、ここでは「自民党の中にも随分人材がいらっしゃいます」と派閥の新人教育・新人発掘の機能を評価している。発掘・教育した新人が派閥温存によって後々政治的能力からではなく、派閥力学を受けて活動を左右される弊害の可能性こそを問題とすべきだが、物事を表面的に把える能力しかないらしく、頓着ない発言の進め方となっている。)
自民総裁選/谷垣総裁選出は森喜朗が主役の派閥政治の延命治療(4)に続く
――(各自別々の質問をぶつけたようだが、質問の声に雑音が混ざり、聞き取れない。それぞれの発言から推し量るしかない。)
西村「ハイ。えー、河野太郎先輩と何度も仕事を一緒にさせていただいておりますし、共通点も結構あります。えー、それはムダを削減していこう、ムダ撲滅のリーダーしておられて、私も一端を担ってやっておりましたし、えー、外務省外務委員長で、私は外務政務官で、勿論あの、意見の相違があったり、遣り取りすることもありますけれども、大きな方では外務省の改革をしていこうという点では一応一緒にやってきた面もあります。
で、違いはですね、えー、大きく言うと、二つあるかなあと、思っております。一つは、えー、まあ、それは生い立ちが全然違いますので、私は世襲でもありませんですし、それから田舎の選挙区を持っておりますし、地方の痛みを知っている。私自身は裕福な家でもありませんし、えー、本当に苦しい、人たちの選挙区もあり、また私自身、周りもそうであったということも含めて、それが分かる点、えー、この点は、えー、ま、私も勿論、あの、激しく遣り取りすることもありますけれども、あの河野さん、突破力とか、破壊力は圧倒的に強い。いいものがありますので、この激しい、いわばこの攻撃力、私も評価しておりますけれども、ここは先ず手法の違いがある。あるいは生い立ちも違いがある、というのが一つ。
(裕福な家庭に育たなかったから、貧しい人の気持ちが理解できる、田舎に育ったから、地方の痛みが分かると言うのは固定観念的。)
もう一つは、、えー、考え方の違いだろうと思いますけども、私は、あの、先程申し上げたような地域の共同体、競争原理ではない、えー、つながり、あるいは連帯感のある、そうした共同体があり、別の価値で、他の価値を求めて動いていく家族、健全な家族であったり、職業観であったり、という保守の、新しい保守、そうしたものをベースにしながらも、守りながらも、グローバル化し新しい時代をつくっていくという、そういう考え方に立っておりますので、えー、ここは恐らく違うんだろうと思いますね。
そして、まあ、追加して言えば、今まで色んな議論をした中で、原子力政策とかですね、日米安保、そうした問題で意見が違いますので、ま、保守の政策を私は、新しい政策を体現していきたいと思っております」
(何を言いたいのか、何を言っているのか意味不明。)
河野「森喜朗さんを初め、例えば談合で福田内閣をつくり上げた。ああいう人たちの古い政治のスタイル、というものが、自由民主党というものに対する信頼を、著しく損ねた、と思っています。特にこれだけ総選挙に負けたにも関わらず、そのあとの本当に党をどうやってつくり直すかという、極めて大事な総裁選挙であるにも関わらず、派閥の力を利用して、それに強行に介入してきた人間がいる、というのは私は極めて憤りを感じております。
小野寺さんにしろ、石破さんにしろ、本来なら、手を上げて、ここに立っているべき人なのに、あいつのところが何人か足らないから、お前、悪いけど推薦人になってやってくれないか。そういう頼みをする先輩がいるなら、私はこの党もなかなか捨てたもんじゃないと思いますが、あいつだけはダメだから、推薦人にはなるな、というみたいな介入をすることが、自由民主党をつくり直すときにどれだけ役に立つかと言ったらですね、まだそんなことをやっている人間がいるのか、ということにしか、見られないんだと思います。ですから、そういうところをきちっと切り捨てなきゃあ、いかん、というふうに思っています。
私は谷垣さんの政治家としての能力に疑いを持っておりません。しかし残念ながら、派閥を足場にして何かをやろうとしているというスタイルは、私は間違っていると思っていますんで、是非この総裁選挙を通じて、そうではない、そういうことを是非証明していただきたい、と思っています」
谷垣「先ず、派閥を足場にして何かをしたいというスタイルというご発言がありましたけども、私は派閥を足場にして何かをしたいなんて全く考えておりませんし、それは今後の行動で見ていただきたいと、おもっております。
それで、まあ、派閥の領袖を執行部に入れる入れるのか入れないのかを、ということでありますが、私はみんなでやろうぜということを言っておりますので、予めこういう人入れる、入れない、こういう、何て言うんでしょうか、判断基準を持って、執行部を選ぼうとは、あー、思っておりません。ただ私が考えておりますのは、やはり世代交代、政権交代が起こりまして、自民党のフェーズ(局面)も一つのページがめくられた。そうすると、今までと全く同じような顔ぶれで執行部を選んで、これが野党になった自民党が再生を目指すんですよと、いうわけにはなかなかいかないだろうと。やはり自民党の中で若い世代が育っている。次の世代が育っている。こういうことも示していかなければいけないんだろうと、思っております」
(派閥の弊害は一切ないと言っているのと同じ。結果として育っている若い世代が派閥の選別を受けて活動の機会が左右されることもないと見ていることになる。自身は上手に派閥力学に乗っかって政治の世界を巧みに泳いできたのだろう。)
――共同通信の小倉と言いますが、えーとあの、党総裁に関するお話は大分出たと思うんですが、あの、これからの総裁選挙戦でですね、えー、内政・外交について、政策面ではどういうことを訴えていくのか、ということをメイン的なものを一つ二つそれぞれ。先程谷垣さん、消費税の話がありましたが、あと、日米安保の話をいただけましたら、えー、その辺りを具体的にお願いします。
河野「順番で私から。あの、今度の総裁選挙はですね、まだそのレベルではないと、私は正直思っております。本来、あの、私が日程を決められるんであれば、もっと総裁選を後ろにずらしたかった。なぜなら、やはり自由民主党っていうのは、どういう政党なのかという議論を先ずきちっとやった上で、この旗の元に集まるのは誰なんだ、というのがあった上で、そこに集まった人間の中から、リーダーを選ぼうと言うのが、本来あるべき総裁選の姿だというふうに思っております。残念ながら、日程が先に決まって今日からスタートということですから、総裁選挙をやりながら、自由民主党と言う政党はどういう政党なのかという議論を一緒になってやらなければいけないことになってしまったというのは、私はちょっと残念な気がしております。
私は、その自由民主党というのはなるべく、小さい政府で、公の中で官が果たす役割は極小化していく。そして公正で健全な競争の環境をつくることによって、日本経済を切磋琢磨の中で成長させていく。そういうことを目指す政党なんだ。日本の経済が成長することによって、一人ひとりの豊かさが大きくなってくる。
あるいは一人ひとりがリスクを取って経済の中で挑戦をしてもらうためには、リスクを取って挑戦して失敗した人がきちっと受け止められるセーフティネットというものをつくらなければなりません。特に少子高齢化ですから、セーフティネット、社会保障、というのは残念ながら本来目指すものよりも遥かに大きくならざるを得ない。
その中でも大きな社会保障を抱えながらも、政府はなるべく小さくして経済成長をきちっと目指していく。そういう政党であるんだという旗が先ずきちっと立った上で、色んな議論を、政策議論をそこから細かくやっていくべきだと、私は思っております」
谷垣「私はね、あのー、政策論というのは野党になったときに、どのくらいやるべきかというのは若干迷いがございまして。先ず自民党は国民のために何をやる政党なのかという議論から、あー、出発するのが正しいと思っております。
それから国会論戦が野党になると、一番の主軸であると言うことを申し上げましたけれども、オー、与党の政策を、オー、徹底的に追及していくと言うことは、野党はやらなければなりません、問題点は。しかしそのとき、追及する視点がバラバラでですね、どんな政策だってそれは100点万点ありませんから、どこか欠点ありますよね。その欠点を指摘する視点がバラバラであったんでは、あー、何の党かということになると思います。ですから、私は自由民主党が保守政治の王道に立つんだと。まあ私の言葉で言えば、自由や平和を、きちっと守り、繁栄をつくり、そうして色々な人間の絆を大事にしてみんなでやろうぜという精神でやってきた。
そういう保守主義をきちっと位置づけるというところから出発して、政策論もそっから批判していくということになるのではないかと思っております。ただお尋ねですので、若干申し上げますと、先程申し上げましたように、やっぱり、これは、これだけの少子高齢化が進んでいる、国際的な競争も激しい、日本は資源が乏しいと、こういうことで、どうやって生きていくかということになりますと、そういったものに対応する改革を避けて通ると言うことは、できないだろうと、オー、思います。
で、そういたしますと、結局、同時にセーフティネットをもう少しほころびを直し、手直ししていくということは、必要だろうと思います。しかし結局それは最後は人の問題になってくるんで、以下に人材を育て、そしてやっていくかと、こういうことを考えていかなきゃいけない。それはやはり保守政党の視点から、考えたいということであります。
もう一つ申し上げますとね、やっぱり保守政治という場合は、何でも政府に頼ろうというんではなくて、政府も必要なとこは出なくてはいけませんが、やっぱり自分たちでできることは自分たちでやろうと言う精神が大事だと思います」
(「色々な人間の絆を大事にしてみんなでやろうぜという精神」とは派閥力学がつくり出す人間関係を重んじる協調精神のことなのだろう。
また「自由や平和を、きちっと守り、繁栄をつく」る。そういった旗印を掲げているのは何も保守政治だけではない。それが「保守政治の王道に立つ」ことによってのみ実現し得る理想郷――「自由・平和・繁栄」だとするのは余りの独善性、独りよがりに過ぎない。独裁権力者にしても、自分たち権力層に限った、特に自身の権力維持のみに役立つ「自由・平和・繁栄」を求めて、あくなき権力の追求に勤しむ。
問題はどの層に立った利害代弁者なのかである。大企業・富裕層の利害代弁者なのだから、そこに目を向けている以上、3人が言っている「セーフティネット」も、それを疎かにしてきたことが総選挙での大きな敗因となったことの裏返しとしてあるスローガンに過ぎない。)
西村「あのー、これから国会論戦になりますので、民主党はマニフェストに書いた政策を出してきますし、これは我々にとっても、どう対処するか、どう反論していくか、どう建設的な議論をするか、これは大事な課題だと思います。
一つは、えー、経済対策ですね。予算を、再編を、えー、国事業(「こくじぎょう」に聞こえたが)を初めとして使われていない補正予算を停めて、それを別のものに振り替えようということをやってきますので、えー、勿論、ムダな事業は彼らは見つけてきて、我々が気づかなかったムダ事業があれば、それを停めて、別のものに替えることは必要だと思います。
けれども、景気がますます悪くなり、地方の景、雇用が問題になってきている中でですね、えー、経済対策どうするのかという議論を、それは論戦も、民主党との論戦もそうですし、先ず、大きな課題として、これをやらなければいけない、問題だと思います。そんな中で、家計におカネを配るんでなくて、基本はやっぱり仕事を創ると、えー、雇用を生み出すと、いうことだと思いますので、私は大胆な法人税の減税、えー、それから、えー、今予算の組み替えについて公共投資でもムダなものがあればやめるとしても、環境とか、あるいは防災対策とか必要な対策については、これは停めると、支障が出る、ということを言っていかなければいけませんし。
そして子育て支援についてですね、2万6千円の出てきますので、えー、本当に金持にまで5兆円かけて配るのかと、財源どうするのか、あるいはそれが本当にいい政策なのか、私たちは所得制限を入れた、児童手当を拡充していくっていうのは、これは少子対策に意義があることだと思いますので、えー、そうしたことを、これから国会論戦でやっていかなければならないと思いますし、外交面では、二つのことを、地球温暖化の問題にどう対応するのか。本当に25%削減できるのか。ま、外から1兆円か何兆円かかけて排出権を買ってこれば、いいと言いますけれども、本当にそれだけの財源があるのか、あるいはそれを買ってくるんであれば、国内でそうした対策をやった方が経済対策になるんじゃないかと、そうした議論をですね、これから国会論戦の中でやっていきたいと思いますし。チームをつくって、しっかりと理論武装すべきだと思っております」
(バカな男だ。ムダは誰から見てもそうであるかどうかを判断の基準とすべきで、そうでない判断は自分たちが利害代弁している立場に応じてムダかどうかが決まってくる。自身の利害まで代弁している自民党族議員にとっては自らが予算をつけた事業に決してムダはないだろう。
また環境対策、防災対策だから、決してムダな事業はないと断言できない。事業方法による。官僚がよくやっている、他社との談合を経た随意契約に限りなく近い一社応札で事業を行っていけば、そこに高値契約というムダが先ず生じる。
「大胆な法人税の減税」も結構だが、そのことによって得た法人の利益がどう国民に還元されていくか、そのことを保証する政策がより重要だが、そこまで考える能力はないのだろう。)
――朝日新聞の山浦と申します。あの先程から河野さんの話の中でしばしば出てくる森喜朗さんについて伺います。えーと、それぞれお三方、まあ、例えば西村さんは森喜朗さんに近いとされています。あと河野さんといえば、しょっちゅう森喜朗さんを批判されています。あと谷垣さんは、いっときは森さんを総理から引きずり降ろそうとしたこともあるかと思うんですけれども、オー、これ自民党の再生にとってですね、森喜朗さんというのは害になるのか、それとも、オー、これから再生に必要なのか、そこを具体的に伺いたいです。
谷垣「私は先程申し上げましたように、みんなでやろうぜという考え方ですから、特定の方を総裁選挙に於いて議論すると言う、そういう考え方には立っておりません」
(「みんなでやろうぜ」の一言で、派閥主導型政治の体現者である森喜朗問題を片付けている。)
西村「えーと、私、石川県庁に出向したときにですね、えー、当時から、国会におられたので、そのとき以来、あるいはつきあいであります。で、あのー、ま、私の色んな政策面での能力なんかを評価をしてくれているんだと思います。まあ、自分で言うのも何ですけど、思いますので、えー、そういう意味ではご指導頂いているお一人でありますけれども、私自身は、今回総裁選に出るに当たっても、私が出ますと言って、了解はいただきました。お世話になっている人ですから、それに仁義を尽くすのは当然だと思います。
えー、ただそれ以後、えー、何かを頼って、えー、推薦人集めをお願いをしたり、えー、邪魔をしてくれと言ったりそんなことは一切やっておりませんし、自分の力で総裁、えー、推薦人を集めたわけでありますので、そういう意味では、えー、今回の総裁選に絡んで何かを頼んだりしたことはありません。えー、今後の害になるかというかと、まあ、個人の人のことを、まあ、そういうのは適当かどうか分かりませんけれども、えー、基本的に私が知っている森さんはですね、もう自分で何かしようと、そんなことを思っておられるんではなく、若い人にどんどんやれと、そういうことを思っておられると、私は、個人的には思っておられますが、まあ、イメージが一般的にどういうイメージができているか、色んなイメージができていますが、それ以上のことは私には分かりませんけど、基本的には行動隊、若手が中心になって自民党を変えていけと、そういう思いを持っておられるとそういうふうに思っております」
(谷垣も西村も「自民党再生にとって森喜朗は害になるのか、再生に必要な存在なのか」との問いに直接答えていない。谷垣は「みんなでやろうぜ」「全員野球」だとしているが、政策の違いや人間の違い、好悪を無視して、すべての人間を等価値に置く不可能を可能と看做している。野球チームにしても、全員野球だからといって、すべての選手を等しく必要とするわけではない。活躍できない選手はベンチウォーマーに甘んじなければならないし、二軍に落とされもする。最悪、シーズン途中で解雇ということもある。シーズンを無事に終えても、來シーズンは契約の意志はありませんと球団から解雇通告を受けることもある。必要とするのは監督の采配に従って活躍できる野球能力を持った選手のみである。監督の采配を阻害する選手は排除される。
一人の洩れもなく全員が必要だと言うなら、森をも党再生に必要な存在だと言うべきだろう。)
河野「党のかつての総裁、総理でありましたし、かつての野党の河野総裁の元に幹事長を務めて、与党に戻った。えー、そういう過去の功績はあると、私は思っておりますが、そろそろ出処進退をお考えになるべきだと、私は思っております。
あのー、これだけ惨敗したあとの総裁選挙ですから、奇麗事ではやはりダメなんだと思います。あの、きちっと変えるべきところは変える。そういうことでなければ、私はこの党を再生させることはできない、というふうに思っております。
あの、総裁まで務めた方がですね、議員バッジがなければ何もできないと言うことは恐らくないんではないかと、私は思っておりますんで、そろそろ出処進退をお決めになられるべきときはきていると思っております」(以上)――
(誰が総裁に選出されるかによって、自由民主党の派閥主導型政治の動向がはっきりしてくる。)
7月3日付「京都新聞」記事――《北方四島は「日本領土」と明記》は次のように伝えている。
〈改正特措法は国の責務として「わが国固有の領土である北方領土の早期返還を実現するため、最大限の努力をする」と規定。日本国民と4島のロシア人住民が旅券や査証(ビザ)なしで相互訪問する交流事業の促進や、元4島住民の高齢化に伴う返還運動後継者育成支援も盛り込んだ。〉――
対してロシアは既にこの法案が衆院を通過したときに「不適当で容認できない」(同記事)と批判声明を発表している。記事は当時の麻生太郎首相の考えとして「ロシア側の不法占拠」だと把えていることを伝えている。
「ロシアの不法占拠」とすることで、改正北方領土返還特措法で明記した「わが国固有の領土」としたことと整合性を得る。当然、4島とも返還が日本側の最終決着の姿を取らなければならないし、四島返還のみが「わが国固有の領土」とすることとも整合性を得る。
麻生首相は今年の2月にサハリン(樺太)でロシアのメドベージェフ大統領と2度目の首脳会談を持った際、「新たなアプローチを用いて今の世代で解決できるよう具体的な作業を加速することで一致」したと「NHK」が伝えている。
麻生「大統領が事務方に指示を出したような、新たな独創的で型にはまらないアプローチの下で、帰属の問題の最終的な解決を目指していきたい」(同NHK)
いわば「新たな独創的で型にはまらないアプローチ」なる考え方はメドベージェフ大統領が「事務方」に指示して浮上したアプローチ方法で、それを麻生が受け入れたと言うわけである。
例え北方領土問題が「新たな独創的で型にはまらないアプローチ」での解決で一致しようとも、日本側は全島返還を絶対基準としなければ、日本側が姿勢としている自らの整合性に矛盾することになる。
対してメドベージェフ大統領。「双方に受け入れ可能な解決を見つける作業を継続する用意がある。世界にある他の問題と同じように解決可能だ」(同NHK)
日本側が全島返還を自らの整合性とするなら、ロシア側が全島返還に応じて初めて日本の整合性を獲得し得る。いわば日本側にとっては「全島返還」以外のキーワードはないことになる。ロシア側が全島返還の意志がないなら、「新たな独創的で型にはまらないアプローチ」は意味を失う。「双方に受け入れ可能な解決」方法も存在しないことになる。
だが、日本側が北方四島を「わが国固有の領土」とした改正特措法を成立させたことで、ロシア上院はビザやパスポートがなくても四島を訪れることができるビザなし交流の停止を大統領に求める声明を採択、北方四島への出入国の管理権がロシア側にあることを示して間接的に四島がロシア領土であることを認識させようとする動きに出た。
結果としてロシアはビザなし交流は続ける意向を示したが、日本から北方領土への人道支援物資の受け入れ停止を表明している。ロシアの領土として自立している姿を見せようとしたのだろう。
7月25日の「NHK」インターネット記事がロシア人の北方領土返還意識を世論調査したところ、9割が反対だったという内容を伝えている。《ロシア 北方領土返還9割反対》――
全ロシア世論調査センターが7月18日・19日、ロシア全土で1600人を対象に調査。
・北方領土の日本への返還に反対――89%。11年前前回調査よりも+10ポイント。
・返還に賛成――4%。前回調査よりも-8ポイント。
・メドベージェフ大統領が領土の返還を決断した場合、大統領への評価を下げる――63%。
記事は調査結果の原因について、〈ロシア国民の間で、領土の返還に反対する声がこの10年間余りでさらに増えたのは、経済の発展に伴って、強いロシアの復活を求める意識が高まっていることなどを反映した結果とみられます。〉と解説している。
ロシアは歯舞、色丹を平和条約締結後に日本に返還するとした1956年の日ソ共同宣言に則って二島返還のみを考えているのか、それとも四島とも返還する気がないのか。四島とも返還する気がないとしたら、四島のうち歯舞、色丹の二島を先に返還させ、残りの二島については継続的に協議するという二島先行返還論を唱えている鈴木宗男の返還方式も無意味となる。
ロシアが二島返還で決着を図ろうとしたとしても、あるいは四島とも返還の意志がなかろうと、日本側は全島返還で守りとおさなければ、自らの整合性を失う。北方領土を「わが国固有の領土」としていることも、現状を「ロシア側の不法占拠」だとしていることも泡同然の架空のことと化す。
だが、日本が守りとおさなければならない四島返還の自らの整合性を前首相であった麻生太郎自身が裏切っている。先刻承知の3・5島返還論である。3・5島とは歯舞、色丹の2島に国後島を加え、さらに択捉島の25%を加えると4島全体の半分の面積を占めることになって日本から見た場合3・5島で限りなく4島に近くなり、ロシアからしたら4島の半分の返還で済むという返還方式を言う。
この「3・5島返還論」は麻生総理のかねてからの持論で、安倍政権時代の外務大臣だった当時国会で発言しているという。
例え返還せざるを得なくなったとしても歯舞、色丹の2島で済ますことができれば、ロシア側の利益のロスは2島に関わる利益のみで片付く。それをわざわざ国後島と択捉島の25%まで手土産のようにつけて差し出す可能性を考えることができるだろうか。経済水域内の漁業資源や海底資源の問題も絡んでくるのである。日本の都合でしかない足して2で割る機械的返還計算にしか思えない。
北方四島は元々はアイヌ民族が先住していたという。だとすると、「日本固有の領土」とするのは間違いで、かつては「アイヌ固有の領土」だったとすべきであろう。最も北方四島は「アイヌ固有の領土」だと言い出せば、北海道も東北地方も「アイヌ固有の領土」ということになる。
だとしてしても、北方四島を「日本固有の領土」であって、現在ロシアが不法占拠しているからとして日本に返還を求めるのは整合性を欠くことになる。北方四島は「アイヌ固有の領土」だから、アイヌ民族に返還すべきだというなら、歴史的にも整合性を得る。
アイヌ民族に絡めた返還論ではかの有名な鈴木宗男が昨年の10月の衆院予算委員会で「北方領土の返還も『この島はアイヌ民族が先住民族。アイヌ民族は日本国民だから島を返して』というアプローチが(ロシアに)できる」(北海道新聞)と主張している。
この論理は衆議院議員在任中の2001年7月2日の日本外国特派員協会での講演で、「(日本は)一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから」(Wikipedia)の発言に添う返還方式だろうが、鈴木が言うとおりに事実同化されていたとしても、「アイヌ民族固有の領土」をアイヌ民族は日本国民となっているから日本に返すべきだは筋道が立たないのではないだろうか。
権利を有しているのは例え同化されたとしてもあくまでも同化されたアイヌ民族であって、日本国民ではないからだ。また同化に関しても、ルーツまで同化させるのは不可能である。民族に関わるルーツはそれぞれが異にし、それぞれに尊重し合うべきだろう。
民族的ルーツを異にし、それぞれのルーツは相互に尊重されるべきであるという考えに立つと、鈴木が言う「(日本は)一国家、一言語、一民族といっていい」はルーツ尊重に反する主張となる。鈴木の「アイヌ民族同化論」は北方四島をアイヌ民族ではなく、日本が横取りするための方便に過ぎず、そこから発した「北方領土の返還も『この島はアイヌ民族が先住民族。アイヌ民族は日本国民だから島を返して』というアプローチが(ロシアに)できる」とするご都合主義に映る。
北方四島が「アイヌ民族固有の領土」であり、返還を求めるとしたら、アイヌ民族に返還することがすべてに亘る整合性に合致する返還方式ではないだろうか。
アイヌ民族への返還をただ求めてもロシア側は納得しないだろうから、現住ロシア人との混住国家としたら、ロシア側としても受け入れやすい提案とならないだろうか。国名は「アイヌ民族固有の領土」であるのだから、勿論アイヌの名をつける。国民は例え現住ロシア人であってもアイヌ国籍となる。但し民族的ルーツ尊重の思想から、ロシア系アイヌ人と表現すればいい。
先住民はアイヌ人だからといって、現住ロシア人を差別するようなことがあったなら、日本人に差別された歴史を忘却の淵に沈める不遜を犯すことになる。また逆に現住ロシア人がアイヌ人を差別することがあってはならないのは当然であろう。
さらにアイヌの国だからと言って、統治体制のトップは常にアイヌ人でなければならないとしたら、人種平等の精神と民主主義に反することになる。被選挙権を有するすべての国民の中から選挙権を有するすべての国民によって選ばれるべきであって、ただ利害のバランスを取る意味から、選挙でトップにアイヌ人が当選したら、副トップを現住ロシア人(ロシア系アイヌ人)とする、トップが現住ロシア人なら、副をアイヌ人とするといった取り決めはあってもいいはずである。国会議員はアイヌ人と現住ロシア人を同数とし、異なる政策を掲げて賛否同数で決着がつかない相互に利害が反する問題は徹底的に話し合い、それでも決着がつかない場合は、どちらかがどちらかに譲り、次の決着がつかない問題では逆の譲り方をし、アイヌ人・ロシア人への富の配分をなるべく平等に持っていく統治体制が望ましいのではないだろうか。
勿論独立国家だから、どのような外国とどのような外交関係を持つかは政府が決めることだが、近隣関係を持つことになる日本とロシア両国との外交を最も緊密に求めるようであったなら、両国はアイヌ国家の発展のために最大限の協力をする。協力によって両国もそれ相応の利益を得るはずである。
このような独立国家は世紀の一大実験となるだろう。アイヌ民族と現住ロシア人が反撥し合うことなく友好な関係を構築しつつアイヌ国家を発展させることができたなら、イスラエルとパレスチナの関係、宗派対立を引き起こしているイラクにも学習材料を提供することになるのではないだろうか。
果して夢物語に過ぎないのか。私自身としては北方四島先住民族であるアイヌ人に返還すべきだと思っている。
昨2008年6月14日午前8時43分発生のマグニチュード7以上の岩手・宮城内陸地震では宮城県栗原市山間部の旅館「駒の湯温泉」が土石流で倒壊、1階部分が泥流に埋没、宿の住人と宿泊客7人が行方不明となったが、後に5人が遺体で発見され、残る2人の捜索に手間取った。
手間取った理由は道路が寸断されたため重機(パワーショベル)が搬入不可能だったことと、寸断された道路が復旧して例え搬入できたとしても現場付近が大量の土砂と川水でぬかるみ、重機が使えなかったからだという。
〈流れ込んだ土石流の影響で現場付近はぬかるみ状態だったが、最近はまとまった雨が降らず、重機の使用が可能になった。これまではすべて手作業だったが、今後は人力では難しい倒木や柱、がれきの除去などに重機を活用する。〉と「毎日jp」が書いていている
重機搬入まで救助の自衛隊員や消防隊員は旅館の布団や畳を使い、足場を確保してポンプやバケツリレーによる手作業で泥水をくみ出して捜索に当たった。あるいはスコップで排水路を掘り、バケツで泥水をくみ出す作業を行ったという。
果して現場周辺は重機が押し流される程の水嵩を持った水の流れ、そして重機が傾く程のぬかるみが存在したのだろうか。
重機(パワーショベル)はキャタピラ部分が浸かるくらいの水の中でも動かすことができるし、浸かる位置でキャタピラの底が重機の重量を支えることができる土の固さがあれば、作業は可能となる。
救助の自衛隊員や消防隊員が旅館の布団や畳を使って足場を確保できたなら、重機(パワーショベル)は差し障りなく搬入できたろう。このことは各報道機関の写真を見ても、そう判断できる。
逆に重機が傾くほどの深さまでぬかるんでいたなら、足場となる板を用意し、それが旅館の布団や畳であっても、それぞれの両端が重ねてあっても、浮橋のようにすべての足場を連結・固定して、橋の形状にした両端を何かにしっかりと固定しない限り、人間は独立したそれぞれの足場の上に乗って体を動かすことなどできはしないだろう。だが、人力で作業が行うことができる足場が確保できた。
万が一建物付近に入れなくても、旅館建物の上流地点に重機を入れることができる場所を見つけて、そこで足場を固めつつ、川の水路を変える作業を行うと同時に泥濘の流れが停止している下流地点で泥濘は幅は狭く、厚みも薄くなっていて人が埋まっているかどうかは可視できるから、そこに深い穴を掘って、行方不明者が埋まっていた場合傷つけないように見張りを立てた上で穴に重機で泥水を掻き寄せれながら穴を上流に向かって広げていけば、ポンプやバケツリレーによる手作業よりも迅速に短時間で泥水を取り除くことができる。
また重機(パワーショベル)で土を盛り上げて土手を造り、別方向に流す排水路を構築、上流の川の水や泥流を止めることができたなら、建物の壊れた部材も人間も建物の下に埋まっているか、それよりも下流に流されているはずだから、大型のハサミ重機で残されている建物を屋根部分から剥がして取り除くと同時に建物よりも下流地点の泥流のすぐ脇の地肌が見える場所はスコップ等でわざわざ掘って埋めない限り人間が埋まっている心配はないから、そこに深い穴を掘り、掘ったあと、人力でスコップや鍬(ジョレン)を使って泥流を穴に掻き落として行方不明者を見つけ出す作業を行えば、例え行方不明者が埋まっていても傷つける恐れは生じないし、バケツリレーやポンプで泥流を掻き出すよりも、すぐ足許の穴に掻き落とす方が作業が遥かに捗って時間短縮ができる。泥流の掻き落としは掘削穴から1~2メートルまでの地点とし、その間の地山が見えた範囲まで重機で穴を広げていく。この作業を繰返すことで、スコップや鍬(ジョレン)を使っての掻き落としが手早く行うことができる。勿論作業員が穴に落ちないように気をつけなければならない。
問題は「道路が寸断」によって重機を搬入できなかったことである。だが、政府は地震発生の6月14日から12日後の6月26日に陸上自衛隊の大型ヘリに吊り上げて中型ショベルカー(重さ4・4トン)を搬入している。重機搬入を阻んでいたという「道路が寸断」は何だったのだろうか。作業にかかってみて、重機1台では不足と見たのか、午後にさらに1台搬入している。
自衛隊は大型輸送ヘリを1機しか保有していないわけではないのだから、ヘリコプター2機でそれぞれ1台ずつ輸送すれば、それだけ運搬時間が節約でき、反対に最初から2台なら、その分作業は捗ったはずである。
地震発生時の首相である福田康夫は「人命救助が一番大事だ」と言っていたが、その言葉通りに迅速な人命救助を災害時に於ける危機管理の要点に置く考えに立つなら、常に早手回しの備えを心がけるべきだろう。人力から比較して重機の方が作業能率がいくら高くても、捜索範囲が広範囲に亘る場合、台数が多いに越したことはないからである。2台目が午後になっても時間的にそれ程の差はないと考えているとしたら、人命救助が常に時間との闘いであることと重機搬入までに時間がかかったことを計算して行方不明者に対して生きている可能性を置いていない救助姿勢がそう考えさせた疑いが生じる。
生きている可能性を置かない人命救助はこのこと自体が既に相互矛盾を示している。生き埋め状態での「生存の限界」は72時間――3日間と言われているそうだが、重機搬入にその4倍の時間がかかったとは驚きだが、例え「生存の限界」の72時間(3日間)が過ぎても、あるいはさらにその4倍の12日が経過していたとしても、生きている可能性を信じて捜索に当たることによって人命救助を常に優先させた危機管理を成立させることできるし、危機管理に携わる者の姿勢を全うさせ得る。
問題は陸上自衛隊の大型ヘリが搬入したのが中型ショベルカー(重さ4・4トン)だということである。写真で見ると、一度に掘ることができる掘削容積が40センチ×40センチ×40センチの0.4立方メートルにしか見えない。
以前ブログに書いたことだが、「災害時緊急支援体制検討委員会」が平成18年2月22日に当時の安倍晋三内閣官房長官に提出した『大震災・大事故に当たり、迅速な人命救助・被災地復興支援のため、全国主要地に予め基地を設け、救援する具体策を提案する』とした提案書は自衛隊の大型ヘリよる重機運搬の活用を提案しているが、その内容は「瓦礫に埋もれている人を出来る限り短時間に救出するため、自衛隊所有の大型ヘリコプターで(組立てなしの)12トン前後のハサミ重機を、被災現場に空輸する。」となっている。
「ハサミ重機」とは倒壊した鉄筋コンクリート建築物のコンクリートの瓦礫、倒壊した木造建築物の柱や梁、あるいは崖崩れ等で崩落した岩石を「掴みバサミ」のように挟んで別の場所に移動させる重機だが、「駒の湯温泉」の災害現場に搬入した重機が車体重量4・4トンで中型だというから、「12トン」は大型重機の部類に入る。だが、「自衛隊所有の大型ヘリコプター」としている以上、「12トン前後のハサミ重機」を運搬可能としていることになる。
では、「駒の湯温泉」の場合、車体重量4・4トンの中型重機が1台ずつ2台と言うことはどういうことなのだろう。2階部分が殆んど壊れないで倒壊した1階部分に覆いかぶさった状態では倒壊した1階部分に行方不明者が閉じ込められている可能性があり、2階部分を取り除くには建物の解体専用のハサミ重機が最も効率ある作業をこなす。建物の解体や残材を取り除くために大型のハサミ重機、泥濘除去と水路変更用に同じく大型重機(パワーショベル)を早期に投入すべきが人命救助を優先させた危機管理の手本ではなかったろうか。
岩手・宮城内陸地震発生の6月14日に約1カ月遡る2008年5月12日発生の中国四川大地震では土砂崩落によって川が堰き止められて巨大な堰止湖(せきとめこ)が出現し、決壊した場合の鉄砲水による下流都市住民の生命の安否が危惧されたが、中国政府は大型ヘリコプターで何台もの大型重機を運搬・搬入して排水路を確保、決壊の回避に成功している。
pdf記事「中国・四川地震により発生した土砂災害に関する調査・研究業務委託報告書」が次のような報告を伝えている。
〈重機の運搬には大型のヘリコプターM-26 型(最大吊り下げ重量は20t、世界最大)2台とM-17(最大吊り下げ重量は3t)5台が用いられた。これらのヘリコプターは5月26 日に綿陽空港に到着したが、当日は天候不良で視界が悪かったために、天候の回復を待ち、実際に重機の運搬を開始したのは5 月27 日となった。5月27日に現場に重機が運搬されると直ちに緊急排水路の掘削が開始された。〉――
日本は中国の四川大地震で見せた危機管理を何も学ばなかったのだろうか。「駒の湯温泉」の災害現場に政府が重機を投入したのは地震発生の6月14日から12日経過した6月26日である。
『大震災・大事故に当たり、迅速な人命救助・被災地復興支援のため、全国主要地に予め基地を設け、救援する具体策を提案する』は大震災などが発生した場合、30分から1時間以内に被災地へ前記資材等を空輸する必要上、日本全土を7~8地区に分けてそれぞれに大型ヘリの発着や必要資材備蓄用の基地の建設を求めているが、「Wikipedia」が次のように解説している。
〈施設科部隊として最も規模の大きなものは施設団であり、各方面隊に1個ずつ置かれている(北部方面隊のみ方面施設隊)。次に大きな規模の部隊は施設群であり9個置かれている(陸上自衛隊の連隊等一覧#施設科)。また、各師団には施設大隊が、各旅団には施設中隊が置かれている。
そのほか、施設隊、施設器材隊(架橋中隊、特殊器材中隊)、水際障害中隊、ダンプ車両中隊、坑道中隊などの施設科部隊が置かれている。坑道中隊は、トンネルを掘る部隊である。〉――
各施設科部隊は重機運搬の必要上、大型輸送ヘリを備えているはずである。災害発生と同時に例え必要が生じなくても、災害現場に最も近い陸上自衛隊基地が施設科部隊を備えていたなら、彼らに出動準備の発令、備えていなければ、備えている基地からの施設科部隊の移動を直ちに発令して、災害現場最寄のその基地に待機させ、必要に応じて直ちに災害現場に出動させる。ハサミ重機など備えていなければ、いくつかの土木建機リース会社と前以て契約しておいて、在庫ある会社までヘリコプターで引き取りにいき、そこから災害現場へ、あるいは一旦基地に戻って出動に備えるといったことをすれば、カネをかけてわざわざ災害出動用の基地を設けなくても済むのではないだろうか。
麻生太郎首相(68)が今年8月22日午前、豪雨被害に見舞われた兵庫県佐用町の現場を視察したとき、「まだ行方不明が2名見つかっていない。引き続き捜査、捜索に当たっている方々が努力しておられると思うが、ぜひ遺体が見つかるように今後とも努力をしていただきたい」(サンスポ)と生きている可能性を早々と捨てた発言をして、麻生の危機管理意識の程度、国民の命に対する感覚、人命救助をどう把えているかその思いの程を知らしめたが、例え生き埋め状態での「生存の限界」の72時間(3日間)を何日過ぎようが、生きている可能性に立って、たった一人の国民の命であっても疎かにしない人命救助の姿勢こそが政府の国民の生命・財産を守る危機管理全般に亘る象徴行為となるはずである。
日本の教育に於いて欠けている要素は生徒の考える力だとされている。これは日本の教育が知識の機械的伝達と機械的授受で成り立っている暗記教育を歴史としている以上、歴史的な傾向としてある欠如であろう。
自民総裁選は9月18日告示、9月28日投開票となっている。谷垣禎一(さだかず)元財務相(64)が9月13日に先陣を切っていち早く出馬を表明。立候補表明と同時に多くの派閥領袖や閣僚経験者から支持表明が相次ぎ、所属派閥である古賀派をベースに派閥横断的に支持を広げ、その甲斐あってか、22日までの読売新聞社の国会議員199票に限った調査で谷垣が102票、共に14日に立候補表明した西村康稔(やすとし)前外務政務官(46)は30票、河野太郎・元法務副大臣(46)28票、未定39票となっている。(《自民総裁選、議員票の過半数が谷垣氏…読売調査》(2009年9月23日07時17分 読売新聞)
18日自民党総裁選共同記者会見続き
18日自民党総裁選共同記者会見続き
18日自民党総裁選共同記者会見続き
麻生自民党政府が政権を失うことが決定した今年8月30日を遡る7月3日北方領土を「わが国固有の領土」と明記した改正北方領土問題解決促進特別措置法が参院本会議で与党自民党・公明党、野党民主党、社民党、共産党、その他のすべての野党の全会一致で可決、成立した。
民主党政権は大型災害時、大型輸送ヘリコプターを使って災害現場に大型土木重機搬入、人命救助に当たるシステムの確立に既に着手しているのだろうか。災害は待たないと言われている。