田中防衛省沖縄防衛局局長の不適切発言は単に女性蔑視・沖縄蔑視で片付けていいものなのか

2011-11-30 11:01:55 | Weblog

 田中防衛省沖縄防衛局局長が11月28日(2011年)夜の非公式の懇談会で(と言っても、酒の席での非公式会談だという。)行った発言が問題視され、更迭されることになったとマスコミが伝えている。

 先ず非公式の場での発言でありながら、報道した「琉球新報」の報道したことの正当性の主張から見てみる。《沖縄不適切発言:報道した琉球新報「非公式でも許されぬ」》毎日jp/2011年11月29日 22時3分)

 玻名城泰山(はなしろ・やすたか)琉球新報編集局長名コメント「政府幹部による人権感覚を著しく欠く発言であり、非公式の懇談会といえども許されていいはずがない。公共性・公益性に照らして県民や読者に知らせるべきだと判断し、報道に踏み切った」

 いくら非公式発言であっても、許される発言と許されない発言がある。許されない発言を報道せずに看過したなら、許されない発言は国民の目が届かない裏で専ら行い、国民の目が届く表の発言は許される範囲内の発言をする、いわば裏ではホンネ、表ではタテマエの使い分けが横行することになる。

 そしてマスコミはこのホンネとタテマエの使い分けに付き合うことになって、自らもホンネとタテマエを使い分けた報道に努めることになるはずだ。

 そのとき、場合に応じては報道の役目(記事が言っている公共性・公益性)を捨てることもあるに違いない。

 こういった場面では、マスコミと政治家・官僚との間に許されない発言を密かに認め合う暗黙の了解が否応もなしに生じることになる。

 このような暗黙の相互了解は両者の密かな癒着を意味するはずだ。

 では、どのような発言であったのか、最初に報道した「琉球新報」記事から見てみる。《「犯す前に言うか」田中防衛局長 辺野古評価書提出めぐり》琉球新報/2011年11月29日)

 どのような非公式の懇談会であったか、記事は防衛局が呼び掛け、報道陣が応じて那覇市の居酒屋で開いたもので、報道陣は県内外の約10社が参加したと書いている。

 元大蔵省が(今でも財務省がやっているかどうかは分からないが)金融機関に「情報交換」と称して呼びかけ、銀座や赤坂の高級クラブで料金は金融機関持ちで飲ませた会合に限りなく通じていないだろうか。

 もしそうだとしたら、他人のカネを当てにして酒を飲むなど卑しい限りである。

 記事は米軍普天間飛行場代替施設建設の環境影響評価(アセスメント)の「評価書」の年内提出について、一川保夫防衛相が「年内に提出できる準備をしている」との表現にとどめ、年内提出実施の明言を避けていることはなぜかと記者から問われたことに対する発言だとしている。

 田中局長「これから犯しますよと言いますか」

 「NHK NEWS WEB」記事では、「犯す前にこれから犯すとは言わない」となっている。

 果して目的語をつけなかったのだろうか。酒の席である、「女をこれから犯しますよと言いますか」、あるいは、「女を犯す前にこれから犯すとは言わない」と。

 一川防衛相が田中局長を直ちに東京に呼びつけて、直接事情聴取を行い、11月29日夜記者会見して田中局長の更迭を発表。《不適切発言の沖縄防衛局長を更迭》 (NHK NEWS WEB/2011年11月29日 20時53分)

 一川防衛相「田中局長本人は、発言した内容は報道と同じではないと言っているが、その場の雰囲気や状況からみると、そう解釈されてもやむを得ないということだったので、弁解の余地はないと判断した。本日付で更迭する人事を決めた。

 沖縄県民に心からおわび申し上げたい。これまで私たちが沖縄県と信頼関係を向上させるために努力してきたが、それが失われかねないと認識している。普天間基地の移設問題を中心とした懸案事項は、引き続き、従来の方針に沿って進めることには変わりなく、しっかりと反省しながら、おわびするところはおわびし、説明するところは説明していきたい」」

 沖縄の反発拡大を恐れて、素早く鎮火に動いたということなのだろうが、根は辺野古移設反対にあるのだから、政府に対する反発は強まることはあっても、収まる方向に動くことはあるまい。

 「沖縄県と信頼関係を向上させるために努力してきた」と言っているが、普天間の「国外、最低でも県外」移設に政府が動いてこそ確立しうる「信頼関係」となっているのだから、勘違いも甚だしい幻影でしかない「信頼関係」であろう。

 最後に田中局長の発言がどのように問題視されたか見てみる。

 最初に上記「琉球新報」は次のように書いている。

 〈県などが普天間飛行場の「県外移設」を強く求め、県議会で評価書提出断念を求める決議が全会一致で可決された中、県民、女性をさげすみ、人権感覚を欠いた防衛局長の問題発言に反発の声が上がりそうだ。〉・・・・ 

 「毎日jp社説」

 〈評価書の提出は、飛行場の名護市辺野古への「県内移設」に向けた手続きだ。一方、沖縄は「県外移設」を求めて政府と対立している。発言は、沖縄が反対する県内移設に向けた措置を女性への性的暴行にたとえたものであり、言語道断の暴言だ。〉・・・・・

 「沖縄タイムズ」

 〈女性への乱暴に例えた発言で人権感覚を欠いたとの批判を浴びそうだ。〉・・・・・

 「asahi.com」
 
 〈女性への性的暴行に例えた発言で、沖縄県内で反発の声が広がりそうだ。〉・・・・・

 糸数慶子参院議員・「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」(那覇市)共同代表「発言が事実だとすれば、絶対に許せない。女性だけでなく、沖縄への差別発言だ。田中局長は基地問題と向き合う資格はない」(YOMIURI ONLINE

 安次富(あしとみ)浩ヘリ基地反対協共同代表「沖縄知事選、名護市長選を通して普天間の県内移設に反対する沖縄県民の民意は明らかなのに、政治家、官僚は押しつけようとする。女性蔑視、沖縄蔑視が本音として出た発言だ

 首をすげかえて年内に環境影響評価の評価書を提出する方針だろうが、そんなことは絶対させない」(毎日jp

 どの記事の解説も、あるいはどの発言も主として女性に対する性的暴行に譬えた文脈での女性蔑視だとしているが、普天間の沖縄県内移設実現を性的暴行に譬えて同じレベルの感覚で把えたということになる。

 だとすると、女性蔑視であるよりも沖縄蔑視がより色濃くなる発言となる。

 だが、ここで問題としなければならないことは強姦は予告なしの暴力的(乱暴)な不意打ちの性格を有した行為だということである。

 田中局長はこの意図をより持たせて発言したはずである。一川防衛相はアセスメントに関して「年内に提出できる準備をしている」との表現にとどめ、年内提出実施の明言を避けている。相手に知らせず、不意打ちを食らわす乱暴な形で突然提出して、政府に有利に事を運ぶ。

 だから、昨日のツイッターに、〈記者「一川防衛相がアセス年内提出を明言しないのはなぜか」

 田中局長「犯す前にこれから犯すとは言わない」

 何と表現力豊かな。消費税に擬(なぞら)えると、4年間は犯さないと言いながら、4年経たないうちに犯そうとしていると言える〉と書いた。

 消費税増税も4年間は上げないの公約からしたら、国民に対する暴力な不意打ちに相当する。

 但しこの不意打ちがアセス提出にとどまるならまだしも、政府の辺野古移設強行実現の第一条件となる海面埋め立てに必要な沖縄県知事の許可権限を知事から取り上げて国に移す特別措置法制定の政府内で予定している不意打ちを田中局長も共有していて、沖縄側からしたら乱暴となる、そのことまで含めた不意打ちを念頭に女性に対する暴力的な強姦に譬えたと解釈できないことはないはずである。

 いわば女性に対する強姦が持つ不意打ちに主意を置いた発言ではなく、特別措置法制定のゆくゆくは予定している不意打ちに主意を置いた発言ではないのかの疑いである。

 11月25日(2011年)付の「NHK NEWS WEB」記事によると、糸数慶子沖縄県選出参議院議員の「沖縄県が評価書の受け取りを拒否できるかどうかについて」の質問主意書に対する政府答弁書は、「行政手続法で、届出が提出先に到達したときに手続き上の義務が履行されたものとなっている」と、受取拒否できない県の義務だとしたこと、「知事の(海面埋め立ての)許認可権の剥奪を目的とした特別措置法の制定を考慮に入れているのか」の質問に対しては、「移設について、沖縄の理解を得るべく全力で取り組んでいるところで、現時点で特別措置法を制定することは念頭に置いていない」と答弁しているが、あくまでも「現時点」の話であって、県の国に対する義務だとした評価書の受け取り後、次の段階として「特別措置法の制定」の不意打ちに出ない保証はないことになる。

 単に女性蔑視・沖縄蔑視と把えて済ますわけにはいかない「これから犯しますよと言いますか」に思えて仕方がない。

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橋下徹の「民意を無視する職員には去ってもらう」の独裁性

2011-11-29 10:00:06 | Weblog

《橋下氏 松井氏とW当選!市職員にいきなり“宣戦布告”》スポニチ/2011年11月28日 06:00)が11月27日(2011年)投開票の大阪市長選挙で当選した橋下徹氏の記者会見での発言を伝えている。

 記事はこの記者会見での発言に関して、〈橋下氏提唱の「大阪都構想」実現へ向け大きな一歩をしるす一方、「ぶっつぶす」としていた“敵陣”市役所の職員らにいきなり“宣戦布告”した。〉と勇ましく煽り立てている。

 橋下徹氏「民意がわれわれの主張を選んだ。大阪を変える。意味の分からない補助金がたくさんあるし、職員の給与は徹底的に見直す。選挙で選ばれた者への配慮が欠けてる職員がいるので体質も変えていかないといけない。民意を無視する職員には去ってもらう」

 記事解説も勇ましい。〈これまで平松氏を担ぎ上げ、“利権”を守ろうと必死だった職員に対して容赦はしない。府庁で戦ってきた知事時代と同様、切り込んでいく構えを見せた。〉――

 橋下徹氏(教育基本条例に猛反対し、「可決なら総辞職」との姿勢を示した府教委に対して)「有権者の判断を重く受け止めるよう言いたい」

 橋下徹氏(4年で都構想を実現すると意欲を燃やした上で)「4年後は46歳。知事、市長と8年もやればガタが来るので40代前半の元気な人に都知事を引き継いでほしい」

 記者「4年後の国政進出の意思は?」

 橋下徹氏「全くない。これ以上(週刊誌に)追いかけられるのは嫌だから」

 橋下新大阪市長(スキャンダラスな一部週刊誌を名指しで批判して)「あれくらいの報道でへこたれてたらダメ。あれで闘争心に火が付いたから感謝してる。あいつら本当にバカですね」

 この発言に対する記事解説。〈ドッと沸く会見場。「バカ」を連発した橋下氏はニコリともせず、勝ち誇った表情を見せた。

 選挙期間中、政治とは関係のない生い立ちなどに関する記事が毎週のように掲載されたが、逆にエネルギーに変えられたのも勝因の一つ。〉云々――

 大勝利に相当に気持が高ぶっていたようだ。

 橋下徹「子供の殺人予告も絶えなかったし、父として家族とコミュニケーションはあまり取れなかった。長女と長男に報道について話すと“関係ないやん”と言ってくれた。僕の中学時代よりたくましい」

 橋下徹氏(破った平松氏に対して)「きょうで区切りがついた。応じてくださるなら市長としてアドバイスをもらいたい」

 記事解説。〈元ラガーマンらしく“ノーサイド”を宣告。日付をまたいだ約3時間のロング会見で橋下氏の口調は最後まで勢いを失うことはなかった。〉云々――

 ここでは、大阪市役所職員に対する「民意を無視する職員には去ってもらう」と、大阪府教委に対する「有権者の判断を重く受け止めるよう言いたい」の二つの発言を取り上げて、その言葉に込められている独裁性を指摘したいと思う。

 この「民意を無視する職員には去ってもらう」の発言は「asahi.com」記事――《橋下新市長、職員を一喝 「民意無視なら去ってもらう」》(2011年11月28日13時23分)では次のような描写の解説となっている。

 〈「民意を無視する職員は大阪市役所から去ってもらう」と告げる一方、「民意に基づいて市政をしっかりやろうと考える職員とは必死にやる」とも述べ、職員に立場を鮮明にするよう迫った。

 一連の発言は、相手に先制攻撃をかけ、その後の交渉を有利に進めようとする得意の「橋下流」と言える。市職員に厳しい言葉を浴びせたのは、今後、都構想の具体化や市議会対策を進めていくうえで、市職員の協力が欠かせないと考えるからだ。〉

 「民意がわれわれの主張を選んだ」と言っている、市長選で橋下氏を当選させた民意はあくまでも選挙に於ける民意であって、世論調査が期待に対する評価・判断と結果責任に対する評価・判断の二つの側面を持つのと同じように、特に初めての立候補の選挙に於ける民意はあくまでも期待に対する評価・判断がウエイトを占めていて、結果責任に対する評価・判断とは別物と見做さなければならない。

 例え大阪府知事としての約4年間で府職員の賃金カット、各種補助金カットで府財政の赤字解消、黒字化に腕を振るい、府知事としての結果責任に対する評価・判断が高かったとしても、この業績が大阪府全体の経済の地盤沈下の解消には役立っていないとう批判もあるが、大阪市長としての業績(=結果責任)は今後の政治活動に於ける展開次第となるのだから、知事としての全体的な業績が大阪市長としての全体的な業績に対する忠実な反映を必ずしも約束するわけではない。

 いわば選挙の民意は変数としての性格を多分に担っている。決して定数ではない。このことは政権交代時の民主党に対する国民の民意と現在の民主党に対する国民の民意を比較すれば、歴然とする。

 橋下氏は選挙で得た民意をバックに実地に政策を推し進めていくことになるが、例えそうであったとしても、選挙後の時間の経過と共に橋下政治の実効性が明らかになるに従ってその実体も評価の対象にのぼることになり、民意は変数としての姿を露わにすることになる。

 選挙の時に獲得した民意は常に定数を維持するわけではないということである。

 当然、選挙で民意を受けて当選したからといって、全て正しいと審判が下ったわけではないことになる。

 有権者が選挙で示した審判がいつまでも有効であるなら、民主党政治の体たらくが大きな発端となっている国民の政治不信はかくまでも深刻な状況に陥らなかったに違いない。

 「asahi.com」の別記事によると、維新府議団が府議会に提出した職員基本条例案は府職員の人事評価を5段階の相対評価とし、2年連続で評価が最低ランクの職員は免職の対象とするほか、同一の職務命令に3回違反した場合は原則免職とすることなどを定めているとしている。

 記事が〈府総務部は9月、条例案の法律上の問題点などを指摘した計687項目の質問書を維新の会府議団に提出している。〉と書いているから、どの辺まで法律上実現可能な条例案か分からないが、法律上可能となった場合、橋下氏もこれに倣うだろうが、民意が変数である以上、「民意」を楯に「民意を無視する職員には去ってもらう」と言うことはできないはずだ。

 あくまでも成立させた条例を楯に言うことはできる。「条例に従って、無能な職員、覇気のない職員は去ってもらう」と。

 それが変数であることに反して選挙時の民意に絶対的権威を付与して振り回し、民意を笠に自身の判断を絶対正義と位置づけているところに否応もなしに橋下氏の独裁性が現れている。

 同じく府議会に提出している教育基本条例案は数の力で成立させることでその内容の妥当性の証明とすることはできるが、その証明が小・中・高生の成績向上の証明にまでつながっていくのか、その実効性は現段階では不明であって、このことからすると、当然、府教委に対して民意を楯に「有権者の判断を重く受け止めるよう言いたい」と言うことは橋下氏自身の独裁意志の押し付けに過ぎないことになる。

 例え現段階で具体的な実効性は不明であっても、条例の内容と説明上の実効性を楯に成立させた条例を以てして重く受け止めるよう迫ることでその独裁性を排除できるはずだ。

 市長として政治を行い、一定の段階で市民から世論調査で多くの支持を得たなら、結果責任に対する評価・判断と看做すことができ、その民意をバックに強力に自らの政治を推し進めていくことはできるが、だからと言って、民意をすべてとして自らを絶対正義に位置づける独裁的権力志向は許されない。

 最後に評価外の職員は免職の対象とするといった独裁性を持たせた条文を前以て用意しておくことは職員をして自らの身分・生活を守るために自尊心を捨てさせて命令・指示を機械的にこなし、無難に遣り過そうとするだけの去勢されたその他大勢の言いなりの人間を生む危険性を抱える。

 免職はあくまでも上司による個別の判断として対処すべき問題であろう。

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野田首相の松下政経塾会合挨拶から見る主体性・自律性の欠如

2011-11-28 09:57:52 | Weblog

 野田首相が11月27日(2011年)午後、かつて所属した松下政経塾の都内での会合で挨拶を行ったという。《松下政経塾会合で野田首相「苦労多いが丁寧にやりたい」》MSN産経/2011.11.27 20:11)

 この短い記事の短い紹介挨拶から野田首相の資質を判断してみる。一見小さな問題に見えるが、姿勢そのものの現れと見ることができる。

 記事が紹介している発言の順序を前後に変える。

 野田首相「(塾生時代)同級生の中で演説が一番下手で、政治家になれないと(周りは)思っていただろう」

 予想外の大バケを曝すことで一種の笑いを取ろうとして、多分成功したに違いないが(記事には書いてない)、発言の裏には誇らかな感情の発露を滲ませている。自尊意識なくしてできなかった発言であろう。

 政治家になれないと周りは思っていただろうが、ところが単なる政治家どころか、一国の総理大臣にまで登りつめたというわけなのだから、当然の自尊意識である。例のニコニコした顔の裏に隠していたに違いない。

 しかし記事が最初に紹介している発言からは自尊意識が消えている。

 野田首相「非常に大変な時代の首相を引き受けたので苦労は多いが、一つ一つ丁寧にやりたい」

 民主党国会議員の多くから推されて「引き受けた」のではなく、自ら手を挙げた主体的・自律的立候補だったはずだ。例え野田グループに推されたとしても野田グループは民主党国会議員408人中の約30人(2011年民主党代表選挙時)に過ぎない。自ら手を挙げる強力な主体性・自律性なくして30人を以て残りの370人を相手に戦うことはできなかったはずだ。

 初回投票では2位につけ、決選投票で政治力学から他のグループの支援を受けて当選を果たすことができた。

 このことを以てして「首相を引き受けた」とすることはできないこともないが、やはりグループの約30人をバックに370人を率いるには強力な主体性・自律性を絶対的要件としなければならないだろう。

 いわば「首相を引き受けた」のではなく、「この国を変えるために自ら進んで手を挙げ、最終的に皆さんの支援を受けることができた」とする積極性を示さなければならなかったはずだ。

 発言をこのようにすることで、「(塾生時代)同級生の中で演説が一番下手で、政治家になれないと(周りは)思っていただろう」の自尊意識と整合性を獲得しうる。

 「首相を引き受けた」という発想に立っていること自体が既に自らを主体性・自律性に反する受動性(受身)の塊としている。

 この受動性(受身)が何につけ影響しないはずはない。財務省の言いなりという評価が事実だとしたら、ここから出ているのだろう。

 また、「非常に大変な時代」であることも、「苦労は多い」ことも前以て承知していなければならなかったはずで、承知していなかったとしたら、菅首相以上に客観的認識能力に欠けるということになるが、「非常に大変な時代」であり、「苦労は多い」からこそ、自ら手を挙げる強力な主体性・自律性が求められることになる。

 勿論、菅首相みたいに民主党代表になって、総理大臣にスライドするためだけの挙手、強力な主体性・自律性の発揮であってはならない。

 だが、野田首相は総理大臣になったことの自負、自尊意識を見せながら、就任からまだ3ヶ月近くしか経過していないことと、「苦労」を予定調和としていなければならないことに反して、「非常に大変な時代の首相を引き受けたので苦労は多い」と弱音とも受け取れる受身の意識を曝して、資格要件とすべき強力な主体性・自律性を示し得ないでいる。

 これはまたそのような資質を本来的に欠いているからこそ、このような言葉になって現れたということであろう。 

 強力な主体性・自律性は強力なリーダーシップ(=指導力)につながっていく。

 強力な主体性・自律性を、あるいはリーダーシップ(=指導力)を性格、もしくは資質としていたなら、「苦労は多い」などといった言葉は出てこなかったはずだ。

 せめて、「苦労は多いが、やり甲斐がある」と自尊意識を持って言うべきだった。

 そう言うことによって、前後の発言が自尊意識の点で整合性を獲ち得る。

 だが、実際はそうなっていないからなのだろう、「一つ一つ丁寧にやりたい」と口では言いながら、消費税増税の問題にしてもTPPの問題にしても、丁寧な説明責任を欠くことになっている。具体的設計図がどういう形を取るのかの説明は今以なされていない。

 消費税の具体的な増税時期や税率を年内に取り纏めるよう、政府・与党に指示する方針だというだけで、増税自体の形式について周囲が逆進性の影響は15歳以下の子どもがいる家庭ばかりではないにもかかわらず、政府内、あるいは党内で検討、議論を重ねた末の発言なのかどうか分からないが、多分そうではないだろうが、逆進性対策として子ども手当の増額を検討対象にするとか言っているに過ぎない。

 言葉が言葉通りの実行性を見せていない。

 自らの政治がそういった構造を取ることができないということは強力な主体性も自律性も強力なリーダーシップ(=指導力)も欠いているからこそであり、当然、一国のリーダーに必要なそういった資質は期待できないということになりかねない。

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玄葉外相の日米地位協定運用見直し発言に見る日本のアメリカに対する歴代政府を受け継いだ従属性

2011-11-27 09:39:01 | Weblog

 今年1月に沖縄県沖縄市で19歳の與儀功貴(よぎ・こうき)氏が米軍属の男性(24)が運転する車に跳ねられて死亡する事故を、「沖縄タイムズ」によると、那覇地検は3月、職場を出てから10分後の「公務中」の事故だったと認定し、日米地位協定に基づいて日本に裁判権がないとして不起訴にした。

 地位協定は公務中の米軍人・軍属による犯罪は米側に第1次裁判権があり、公務外では日本側にあると規定しているとしている。

 裁判権は妥当・公平な判決を持たせた正当な裁判を履行して初めてその権利所有の責任、いわば権利主体としての責任を全うしうる。この条件さえ備えていたなら、地位協定に矛盾はない。

 だが、米側は裁判さえ行なっていなかった。《米軍属の犯罪、裁かれず 06年から裁判権に空白》asahi.com/2011年11月13日3時0分)

 日米地位協定は公務中の軍人、軍属の犯罪について「米軍が第1次裁判権を持つ」と規定。軍人に対しては軍の裁判に当たる軍法会議で処分決定。

 1.1960年、米連邦最高裁で「軍属を平時に軍法会議にかけることは憲法違反」とする判決。

 2.最高裁判決以降、日米両政府はこの判決を尊重。

 3.但し地位協定規定無変更のまま、米軍が軍属に公務証明書を発行しないことによって日本に裁判権を事実上委ねる運用を行う。

 4.2006年から米軍は公務中の軍属の犯罪について証明書の発行を再開。日本の検察当局も「裁判権がない」として公務中の軍属の犯罪については不起訴とする。

 5.法務省調査で、08~10年の3年間に米軍属52人が公務中を理由に不起訴となっている。

 1月の沖縄市の自動車死亡事故を引き起こした軍属もアメリカで裁判を受けてのことではなく、沖縄米軍に拠る運転禁止5年の懲戒処分のみであった。

 公務中とすることで第1次裁判権を有名無実化していた。妥当・公平な判決を持たせた正当な裁判を履行せず、裁判権を蔑ろにし、記事が「空白」と表現している、権利主体としての責任放棄を行なっていた。

 勿論、1960年の「軍属を平時に軍法会議にかけることは憲法違反」だとする米連邦最高裁判決に従っているとされればそれまでである。

 但しそれはあくまでもアメリカ側の都合であり、アメリカ側の権利主張に過ぎない。日本側はアメリカ側の権利に合わせることで、日本側の権利を放棄してきたことになる。

 日本側に第1次裁判権を移せば、「軍属を平時に軍法会議にかけ」ないとする憲法要件まで抹消可能となり、日本側にとっての障害をクリアできたはずだ。軍属を平時に軍法会議にかけることができないなら、日本側に第1次裁判権を移して日本の裁判にかけようと動くことはできたはずだが、動くことはしなかった。
 
 つまり日本政府は公務中の軍人、軍属の犯罪について「米軍が第1次裁判権を持つ」と規定する日米地位協定の改定要求を出すことなく、アメリカの規定に従ってきた。

 言葉を替えて言うと、アメリカ側はこの規定をアメリカ側の利益としていたのだから、日本政府は日本国民の利益を無視して、アメリカの利益を日本の利益としてきたことになる。
 
 何と言う従属姿勢なのだろうか。アメリカの属国と言われる所以である。

 那覇地検の不起訴処分を受けて、遺族が那覇検察審査会に不起訴不服の申立を行い、那覇検察審査会が5月、「起訴相当」の議決を出した。

 多分、日本の利益を実現させるためにではなく、マスコミも伝えていることだが、普天間移設問題で沖縄県民の反対姿勢が強いことから、これ以上沖縄県民世論を硬化させてはまずいと、その観点のみで動いたのだろう、日米両政府は在日米軍の軍属が公務中に起こした重大事件・事故に関して地位協定の運用見直しで合意することとなった。

 その結果、軍属は11月25日、自動車運転過失致死罪で在宅起訴となった。

 だが、あくまでも地位協定の運用見直しであって、決して地位協定そのものの改定ではない。

 つまりアメリカの利益を残して、日本はアメリカ側に残した利益分、自らの利益を削った状態にして置くことを承知した見直しということになる。

 ここにも日本の米に対する従属姿勢を見ることができる。

 次の記事はその観点に添っている。

 《普天間にらみの合意=日米地位協定》時事ドットコム/2011/11/24-22:55)

 記事は冒頭で、〈日米両政府が、在日米軍の軍属が公務中に起こした重大事件・事故に関して地位協定の運用見直しで合意した背景には、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題がある。日本政府としては、基地負担軽減で成果を上げることにより、同飛行場の名護市辺野古移設に向けて前進を図りたい考えだ。〉と解説している。

 11月24日の記者会見。

 玄葉外相「非常に難易度の高い交渉だった。今回風穴を開けた意義は大きい。

 沖縄の皆さまに基地について理解を得なければいけない」

 基地についての理解を得るための運用見直しだとしている。日本国民の権利を守る国益追求を日本側の利益とする、その獲得を目的としたものではないと。

 この文脈での協議だったからこそ、アメリカ側に主体性を置いた条件付きの運用見直しで落ち着いたに違いない。

 〈今回の合意により、被害者を死亡させたり、障害が永続的に残る重い罪を犯したりした米軍属に対し、米国で刑事訴追が行われない場合、日本での裁判が可能となる。しかし、日本で裁判を行うには米政府の「好意的配慮」が必要とされ、個別の事件ごとに米側の同意を得なければならず、米側に裁量の余地を残した。〉・・・・・
 
 常に米政府の「好意的配慮」を條件とするということは日本で裁判を行うには米政府の「好意的配慮」を待つということであり、餌を前にして食べてもいいという合図を待つ犬の飼い主に対する従属性と同様に、ここにもアメリカに対する日本の従属性の存在を見て取らないわけにはいかない。

 記事は最後に今回の運用見直しの過去への遡及(「過去に遡って効力を及ぼすこと」(『大辞林』三省堂)は1月の事故のみで、それ以外は対象外とする運用見直しの合意だと書いている。

 要するに過去の事件・事故に関してはアメリカ側の利益を殆ど手つかずに残して日本側の利益には殆ど目をつぶった1月の死亡事故限定の運用見直しであり、この構造は地位協定を改定しない限り、当然、将来的な事件・事故に関しも反映されることになる。

 だからこそ、米政府の「好意的配慮」が條件づけられたということであり、日本のアメリカに対する従属性に変わりはないことを示している。

 以上、日米地位協定の現状を通して日本のアメリカに対する従属性を書いてきたが、先の玄葉外相の発言自体が日本のアメリカに対する従属性の表現となっている。

 「日米地位協定」に於ける不平等性を根本的に改正するのではなく、運用面でほんの一部常識的な線に持っていくことが「非常に難易度の高い交渉だった」と言っている。この言葉を裏返すと、わざわざ断るまでもなく、日本のアメリカに対する従属性に対応した“難易度の高さ”なのだから、玄葉外相は「非常に難易度の高い交渉だった」と言うことで、自分では気づいていなかったろうが、はからずも日本のアメリカに対する従属性の根深さを言い表していたのである。

 玄葉外相は11月22日、閣議後の記者会見で在日アメリカ軍の兵士などが公的な行事で酒を飲んだあとに起こした交通事故を、「公務中」の事故として、アメリカ側に優先裁判権(1次裁判権)を認めていることについて、「公務中」とは認めない方向で日米地位協定の運用を見直したいという考えを示したという。

 但し地位協定の改定ではなく、運用の見直しとしているところはアメリカに対する従属性から抜け切れていない姿そのものであろう。

 《外相“地位協定運用見直しを”》(NHK NEWS WEB/2011年11月22日 17時51分)

 記事は玄葉外相の発言すべてを地位協定の運用見直しの文脈で伝えている。

 玄葉外相「公の催しで飲酒して自動車運転をしたことが、公務として扱われるのはおかしいと、私はずっと言ってきた。まさに、強い決意で臨んでいる最中だ」

 「強い決意で臨」むべきは国民の正当な権利実現・利益実現の地位協定の改定であって、運用見直しで「強い決意で臨」むとするのは、やはり日本のアメリカに対する従属性から抜け切れていないからに他ならない。

 また「公務中」としてアメリカ側に裁判権が認められていながら、アメリカ国内で裁判が行われない状況に関して――

 玄葉外相「本当にありとあらゆる事態がそれでよいのか、問題意識を強く持っている。日米でしっかり協議するよう、事務当局に、再三、強く指示しており、今、協議中だ」

 玄葉外相の「問題意識」にしても、地位協定の改定ではなく、運用見直しにとどめている点にアメリカに対する日本の従属性を物語って余りある。

 尤もこの従属性は歴代日本政府の従属性をそっくり引き継いだ従属性でもある。

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女性宮家創設はたちあがれ日本の平沼赳夫代表忌避の皮肉な満願成就の可能性

2011-11-26 10:04:05 | Weblog

 10月5日(2011年)、羽毛田宮内庁長官が首相官邸で野田首相と会談。この会談内容について藤村官房長官が11月25日の記者会見で公表。《女性宮家構想が浮上 官房長官「検討課題」》asahi.com/2011年11月25日11時30分)

 藤村官房長官「女性皇族が結婚年齢に近い年齢になっているという話があった。皇室の活動という意味において、緊急性の高い課題があるとの認識が示された」

 その上で記事は官房長官が、〈女性皇族が結婚しても皇族の身分にとどまれるようにする「女性宮家」の創設を今後の検討課題とする考えを明らかにした。〉と書いているが、緊急性の高い課題として「女性宮家」創設の検討要請がその時点で既になされていたはずである。

 まさか、「緊急性の高い課題がある」という認識を示しただけで羽毛田長官が席を立ったわけではあるまい。

 10月5日の会談から50日経過している。この間、なぜ公表されなかったのだろうか。逆説的に言うと、なぜ公表を抑えていたのだろうか。このことに対する説明責任を野田首相は負っているはずである。

 皇室に於ける「緊急性の高い課題」を藤村長官は次のように発言している。

 藤村官房長官「安定的な皇位継承を確保する意味で、将来の不安が解消されているわけではない。

 (女性宮家創設に関して)国民各層の議論を十分に踏まえながら、今後検討していく必要がある」

 この発言の前半箇所は、天皇の孫世代で皇位継承資格者が秋篠宮夫妻の長男、悠仁(ひさひと)(5)一人であることを踏まえたもだとしている。

 と言うことは、女性皇族が皇族以外の男子と結婚した場合皇族の身分を離れるとする皇室典範現規定の規制緩和を以って「女性宮家」を創設、万が一悠仁が皇位継承が不可能となった場合、あるいは悠仁が皇位継承しても、結婚して女子しか恵まれなかった場合、「女性宮家」の誰かが設けた男子を悠仁の皇位継承者に当てようという深慮遠謀の結実が「女性宮家」創設の構想ということになる。

 この「女性宮家」創設の背景にある本質的な思想は“男系優先”の思想であろう。女系・女子であっても構わなければ、未婚の女性皇族は現在8人(内6人成人)いるということだから、男系に拘らなければ、皇位継承に困ることはないはずである。

 この“男系優先”は11月8日(2011年)記載の当ブログ記事――《評論家シーラカンス三宅久之の2006年発言女性天皇反対論の正当性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、小泉元首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が2005年11月24日、女性天皇・女系天皇の容認、長子優先を柱とした皇室典範改正の報告書の提出を受けながら、秋篠宮夫妻の間に男子悠仁が出産すると、女性天皇・女系天皇の容認、長子優先の報告をたちまち立ち消えさせてしまったことにも現れている。

 要するに「皇室典範に関する有識者会議」の女性天皇・女系天皇の容認、長子優先は男子が出現しない場合に備えた止むを得ない選択に過ぎなかった。

 このことは 2005年11月24日公表の『皇室典範に関する有識者会議(第17回)議事要旨』の中の一文が証明している。  

 〈女性、女系容認という表現が使われることがあるが、容認ではなく、継承資格の拡大であって、重要な役割を担っていただく皇室の新しい未来が更に開けていくということだと考える。〉・・・・

 「容認ではなく、継承資格の拡大」だと言うことは、女性天皇・女系天皇、長子優先の決定はあくまでも便宜的な措置であって、必要に応じて、「継承資格」の縮小の可能性もありうるということであり、やはり“男系優先”の思想を背景とした便宜的措置だと理解できる。

 当然、「女性宮家」の創設も天皇家の血を絶やさないための止むを得ない便宜的措置ということになる。直系が男子を設けるに越したことはないからなのは断るまでもない。
 
 この“男系優先”は日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義の一つの現われである男尊女卑の反映と見るべきであろう。一般社会に於ける男尊女卑の最大形を天皇家に置いているということなのだろう。

 「女性宮家」の創設によって皇位継承の直接的な男子が存在しなくなった場合、女性宮家のいずれかが設けた継承順位の高い男子を皇位継承者と予定する。

 だとしたら、女性皇族が外国に留学して青い目の男性と恋愛に落ち、宮内庁の頭の硬い男尊女卑の連中に引き裂かれるのを前以て防御する危機管理から早々に肉体的にも愛を確かめ合い、その結晶を医学的にどのような処置も不可能な状態にまで育んでから、天皇・皇后に報告、それが宮内庁全体の知ることとなり、もはや手遅れ、その場になって皇位継承権を他に移した場合、日本国民が批判しなかったとしても国際社会が黙っているわけはなく、人権後進国、人種差別、歪んだ日本民族優越主義と糾弾されるのを回避するために結婚を認めざるを得なくなるだろう。

 青い目の男性との間に青い目を引き継いだ男子が生まれた場合、次の皇位継承権を受け継ぐことになる。

 かくして2006年にたちあがれ日本代表の平沼赳夫が「愛子さまが天皇になることになって、海外留学して青い目の外人ボーイフレンドと結婚すれば、その子供が将来の天皇になる。そんなことは断じて許されない」と忌避したことが回りまわって皮肉な満願成就を迎えることになる。

 日本人の今以て引きずっている男尊女卑の権威主義や密かに抱えている日本民族優越意識(外国人を入れまいとする態度に最も現れている。)を打ち破るためにも、また天皇家の国際化を果たすためにも、青い目の天皇を生きている間に見てみたいと思うが、最後の点はその可能性ゼロと言わざるをえない。

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民主党の「医療扶助」制度見直し検討から、再度“健康履歴”を監視役とする健康管理の自己責任を考える

2011-11-25 11:09:58 | Weblog

 11月24日(2011年)、民主党厚生労働部門会議・生活保護作業チームが、〈生活保護の受給者の医療費負担を全額公費で賄う「医療扶助」制度について、自己負担の導入を検討することを決めた。〉と、「YOMIURI ONLINE」記事――《生活保護の医療扶助、自己負担導入検討へ》(2011年11月24日19時50分)が伝えている。

 その理由。〈生活保護費の受給者数が過去最多を更新し、増え続ける公費支出の抑制が必要になっているほか、不正受給問題も深刻化しているためだ。〉という。

 要するに生活保護受給者は今までタダだった医療費について一部負担をお願いすることの検討開始というわけである。

 平成19年被保護者全国一斉調査を記載した《生活保護基準未満の低所得世帯数の推計について》(平成22年4月9日厚生労働省社会・援護局保護課)によると、私自身もその一人だが――

 総世帯数     ――4802万世帯
 最低生活費未満世帯――597万世帯
 被保護世帯数   ――108万世帯

 但し厚労省発表の2011年7月時点の全国の生活保護受給者が205万495人と急激に増加している。

 平成19年総世帯数4802万世帯に対して生活保護受給基準の「最低生活費」を下回る低所得世帯率は4.8%の約230万世帯。いわば生活保護基準以下の所得でありながら生活保護を受給していない世帯が約230万世帯。生活保護世帯が受ける「医療扶助」の恩恵に与っていない。

 このこととのバランスもあるのに違いない。

 次のような記述も「Wikipedia」にある。

 〈一方、所得が生活保護支給基準以下となるケースの内、実際に受給している割合を示す「捕捉率」は、イギリスでは87%、ドイツは85~90%なのに対し、日本は約10~20%となっている。厚生労働省の推計では、2007年の時点で世帯所得が生活保護基準に満たない世帯は597万世帯(全世帯の12.4%)であるのに対し、実際に生活保護を受けている世帯は108万世帯(全世帯の2.2%)である。世帯類型別では、世帯所得が生活保護基準に満たない世帯は高齢者世帯が141万世帯、母子世帯が46万世帯、その他の世帯が410万世帯であるのに対し、実際に生活保護を受けている世帯は高齢者世帯が49万世帯、母子世帯が9万世帯、その他の世帯が50万世帯である。〉

 しかし一方で「増え続ける公費支出の抑制」の必要性は厳然たる事実として立ちはだかっている。

 だからと言って、「医療扶助」制度に自己負担を導入した場合、少しの病気なら病院に行くのを控えるといった新たな問題が生じない保証はない。

 リーマン・ショック以降の不景気で国民保険料を1年間滞納して保険証を返却するケースが増え、このことは保険証返却以後の場面としてある違いない生活保護世帯のここにきての急増と連動しているはずだが、治療にかかる場合、「被保険者資格証明書」が交付されるが、医療費の全額を一旦窓口負担し、あとから7割分等の返却を受ける制度であるために、そのカネがなくて治療を受けるのを控えるといった問題を既に見てきている。

 いわば「公費支出の抑制」が招くこれらの諸問題であるはずだ。

 またこういったことは「公費支出の抑制」の名目で給付を剥ぎ取るだけで問題が解決するわけではないことを教えている。給付の抑制は特に中所得層に対する国から個人への負担の付け替えに過ぎないからだ。

 やはり11月2日(2011年)の当ブログ記事――《年金問題を含めた社会保障給付費圧縮は根本的な原因療法に目を向けるとき - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたように、共通番号制を早期に導入、民主党が考えている共通番号制度は「マイナンバー」という名称となっているが、生後1~3ヶ月の乳幼児健診に始まって、幼稚園での健康診断、小中高の健康診断と社会人となった場合の会社による健康診断、失業者であっても、毎年健康診断を義務付け、死亡するまでの健康診断値を各個人の“健康履歴”として管理し、過度の飲酒や過度の喫煙、あるいは健康を心がけない怠惰な生活等の不摂生からの病気、不注意や怠慢からのケガに対しては自己責任として診断費の自己負担を増やす一種の懲罰制を用いたなら、国の給付の抑制ばかりか、国民一人ひとりが健康に留意し、自覚的に健康を管理し、心がけるようになり、自ずと国の給付の抑制につながっていくのではないだろうか。

 健康管理が医療費に関わる国の給付だけではなく、介護に関わる給付の抑制にもつながっていくはずである。例え生活保護受給世帯になったとしても、健康を維持していたなら、「医療扶助」制度の世話にならずに済み、その分、国の給付を減らすことができる。

 また逆に健康管理が労働の保証となって、病気が原因で仕事を失ったり、仕事があっても就職ができなかったりする経済的困窮の回避につながるはずである。

 健康管理が約束する労働の保証=経済的困窮回避はまた生活保護世帯の減少につながっていくはずである。

 “健康履歴”を監視役とする健康管理を国民一人ひとりの責任とするこのアイデアが役立たないということなら、政治家は給付を削るだけではない、国民自身の力と責任で年金以外の国の社会保障給付費を抑制する方法を考えるべきである。

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日本社会の「新卒信仰」は果たして権威主義発の価値観に拠るのか改めて見てみる

2011-11-24 11:42:17 | Weblog

 昨日(2011年11月23日)、東京・新宿駅周辺で 就職活動に追われる大学生らがデモを行ったと、「asahi.com」記事が《「就活長い」「卒論書かせろ」 大学生ら100人がデモ》(2011年11月23日21時20分)と題して伝えている。

 名付けて、「就活ぶっこわせデモ」だそうだ。〈来春卒業予定の大学生の就職内定率(10月1日時点)は59.9%で、昨年に次いで低い。〉厳しい就職状況下、〈ツイッターやブログでの呼びかけに応じて集まった約100人が、「就活長いぞ」「卒論書かせろ」などと声を上げながら、約1時間練り歩いた。 〉と紹介している。

 小沼克之早稲田大5年・デモ企画者「勉強する時間を就活に奪われている。新卒ばかりが求められるのもおかしい」

 女子私立大生(10月から試験対策やマナーの講座に出席)「女性は笑顔でなければダメだと言われ、講座の最後には大声で『内定取るぞ』と言わされる。就活のおかしさを伝えたかった」

 デモ目撃主婦(53)「声を上げたくなる学生の気持ちはよく分かる」・・・・・

 デモ企画大学生が言っている就職活動の早期化で大学4年間で学ぶ時間を確保できにくくなっている弊害や企業の「新卒一括採用方式」が既卒者の就職活動に不利を強いている差別については2010年3月30日記載当ブログ記事――《新卒でなければ正社員になりにくい現状という権威主義 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に権威主義の面からの現象だとする立場から、私の才能の範囲内でほぼ書き尽くしていると思う。

 1年半近く経過しているから、再度ここに掲載してみる。 

 大学生の就職のあり方について議論している日本学術会議の「大学と職業との接続検討分科会」が新卒でなければ正社員になりにくい現状を問題視して、「卒業後、最低3年間は(企業の)門戸が開かれるべきだ」とする報告書案を纏め、文部科学省に提出すると、「asahi.com」記事――《卒業後3年は新卒扱いに 大学生の就職、学術会議提案》(2010年3月29日5時33分)が書いている。

 結婚したら、3年間は新婚扱いにしようと取り決めるようなものかもしれない。だが、そう取り決めたとしても、以前は新婚旅行から帰国と同時に別れる夫婦を譬えた成田離婚などといった言葉も流行ったし、それ程最悪ではなくても、新婚賞味期間の3年を経たずに離婚するカップルもいるだろうし、逆に結婚後10年を経過しても新婚状態を保つ夫婦が稀には存在するだろうから、新婚状態を維持できるか否かは当事者それぞれの意識の問題だが、就職の場合、新卒で就職の機会を逃した大学生がその後も新卒賞味期間を維持していたとしても、企業側が新卒年のみしか賞味期限を認めない就職制度を自らの意識とし、そのような意識を少なくとも戦後日本の就職制度に於ける歴史と伝統と文化としていたということなら、大学生側には太刀打ちできない双方の意識の断絶ということになる。

 記事は次のように解説している。

 〈日本の企業は、大企業を中心に、新卒者を採用する傾向が強い。中途採用はあるものの枠は狭く、希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書を持つために、留年するケースもある。 〉――

 だからこそ、このような現状を改めるべく検討された「卒業後3年は新卒扱い」という意識面での新たな制度の設定ということなのだろうが、企業が新卒者にほぼ限定して採用に値する価値を置くのは新卒・既卒に関係なく個々の人柄や能力に価値や権威を置くべきを、このことから較べたら形式に過ぎない新卒にある種の権威を与えて、上の存在と価値づけているからだろう。その逆として、新卒で就職できず、次の就職シーズンに再度のチャンスを求める既卒者に権威を置かず、新卒者の下の存在と価値づけていることから生じている採用傾向に他あるまい。

 日本の社会は家柄や血筋、職業、卒業した大学の有名・無名を上下の価値で権威づけているように、就職時の卒業時点に関してまで、新卒を既卒に対して上の価値で権威づける権威主義に支配されているということである。

 かなり前だが、一頃、家や大学の寮から通う女子大生は世間ずれしていない、アパートやマンションを住まいとしている女子大生は親に内緒で男をいつでも連れ込むことができる、外泊も自由で世間ずれしているからと、企業が住まいを採用時の条件としたといったことがあったと聞いたが、人間の価値はそういったことで決まるわけではないはずだし、試験の成績で決めれば済むことだが、採用し、使用する企業側が世間ずれしている女子大卒は扱いにくい、世間ずれしていない女子大卒は扱いやすい、素直に言うことを聞くに違いないといった意識があったからではないだろうか。

 そもそも権威主義とは上が自らを絶対として下を従わせ、下が上に無条件に従う行動様式を言う。上の指示・命令に対する下の同調・従属に狂いがあってはならない。狂いを生じせしめる条件を持った採用対象は疎外されることになる。それがかつての親から離れてアパートやマンションを借りていた女子大生であり、かなり前から現在まで引き続いている新卒時に就職できなかった既卒者というわけなのだろう。

 そしてこのような権威主義的採用条件は当然のことだが、大学の有名・無名を権威主義的に上下に権威づけて採用に差別を設ける制度と相呼応している。すべてが日本人の意識としてある権威主義的な価値観、権威づけから発生して、社会制度とまでなっている採用の仕組みをそれぞれに構成しているからだ。

 だが、このような権威主義に則った日本の社会的制度とまでなっている権威主義的意識からの採用制度を裏返すと、企業側は自らの人事管理能力に頼って部下を採用・使用するのではないことを何よりも証明している。

 権威主義の原理に頼って採用・使用することとなっているから、人柄や能力に価値を置くことよりも、有名大学卒か否か、新卒か既卒かといった自分たちがつくり出した形式に過ぎない権威に価値を置くことになる。

 住まいで女子大生の就職に差別をつけたのと同じく、権威主義の行動様式に照らして、新卒の方が既卒と比較して世間ずれしていない、純粋だ、言うことを聞かせやすいといった権威主義的な人事管理からの行動意識が理由となっている“新卒志向”といったところなのだろう。

 これは三昔か四昔前、男女とも女性は処女であることに絶対的価値、絶対的権威を付与した“処女信仰”にも相当する、日本の権威主義的思考が招いている大学生に対する一種の“新卒信仰”と言えないだろうか。

 新卒であるか否かが学生の人間価値の決定要件ではないのと同じように処女か否かがその女性の人間的価値を決定する資格要件ではないにも関わらず、かつての日本人は処女に人間的価値を置く権威主義に囚われていた。今以て囚われている日本人もいるに違いない。

 分科会は問題点を新卒でなければ正社員になりにくい現状のみに絞って議論したわけではなく、他にも問題点を取り上げている。

 就職活動の早期化で、大学4年間で学ぶ時間を確保できにくくなっている弊害や企業の「新卒一括採用方式」が特定の世代に景気変動の影響を与えやすい点等を取り上げ、問題視している。

 後者は“新卒信仰”が強く関係している問題点であろう。一旦景気変動の影響を受けて新卒の資格を失うと、例え景気が回復して有効求人倍率が上がっても、新卒でないことが本人の努力や能力に関係なしに後々の就職にも影響していく。

 何とも哀しい権威主義の価値づけであり、権威づけと言わざるを得ない。このことを避けるために、〈希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書を持つために、留年するケース〉が本人にとっては深刻な問題だろうが、滑稽にも発生することになる。

 分科会は具体的対策を次のように提案している。

 企業に対する新卒要件の緩和の要求。経済団体の倫理指針や法律で規制するのではなく、既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とする企業の公表。

 これは同じ枠で採用しない企業の社会的評価を落とす懲罰になると同時に同じ枠で採用する企業への社会的評価を高める報償とすることで同調を促そうとする提案であろう。

 政府に対しては卒業後も大学の就職支援を受けられるように法律を改正するなど速やかな対応の要求している。

 就職活動で学生が学業に打ち込みにくくなっている現状については大学4年間、あるいはさらに大学院での在学年の間、学生を社会から隔離するのではなく、インターンシップ等の制度を整備、そのような制度に則った機会を通して大学在学中から社会に交わることが重要だと提案している。

 さらに記事の最後で、〈大学が就職活動のスキルやノウハウを伝え、資格をとるよう促す動きについては大学教育全体で職業的な能力を育て、成績評価を社会でも意味を持つよう改善することなどを求めた。〉と解説しているが、大学生が在学中に得た職業的な能力の「成績評価を社会でも意味を持」たせることができたとしても、それ以前の問題として、大学間で大学の価値を上下差別する価値づけ、権威づける日本人の権威主義的意識を取り上げなければならないはずである。

 例えば大学在学中に国家公務員上級職試験に合格した。だが、学んだ大学が違っても、国家試験という同じ土俵に立って獲得した資格であるにも関わらず、卒業した大学の有名・無名によって採用後の地位・給与の待遇に上下の違いが生じる。

 このような差別を受けた場合、例え大学生が在学中に得た職業的な能力の「成績評価を社会でも意味を持」たせることができたとしても、その評価は出身大学による待遇差別によって相殺されることになる。

 大学の有名・無名に従って与えた価値・権威をそのまま大学生個人の能力として価値づけ、権威づける。あるいはそのような権威主義的な価値観を在学中に得た資格にまで広げる。何とも如何ともし難い日本人の権威主義の行動様式ではないだろうか。

 以下参考引用――
 
 《卒業後3年は新卒扱いに 大学生の就職、学術会議提案》asahi.com/2010年3月29日5時33分)

 大学生の就職のあり方について議論している日本学術会議の分科会は、新卒でなければ正社員になりにくい現状に「卒業後、最低3年間は(企業の)門戸が開かれるべきだ」とする報告書案をまとめた。最終報告書は近く、文部科学省に提出される。同会議は、今の就職活動が、学生の教育研究に影響しているとして、新しい採用方法の提案などで大学教育の質についての検討にもつなげたい考えだ。

 日本学術会議は、国内の人文社会・自然科学者の代表機関で、文科省の依頼を受けて話し合っている。報告書をもとに同省は議論に入る。

 今回、就職にかんする報告書案をつくったのは「大学と職業との接続検討分科会」で、就職活動早期化で、大学4年間で学ぶ時間を確保できにくくなっている弊害などが出ていることから、対策を考えてきた。

 日本の企業は、大企業を中心に、新卒者を採用する傾向が強い。中途採用はあるものの枠は狭く、希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書を持つために、留年するケースもある。

 報告書案では、「新卒一括採用方式」について、特定の世代に景気変動の影響が出やすい点を問題視。卒業後すぐ採用されなければ正社員になるのが難しいことから、卒業後最低3年は在学生と同様に就職あっせんの対象にすべきだとした。

 企業側にも新卒要件の緩和を求め、経済団体の倫理指針や法律で規制するより、既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象とする企業を公表することを提案。政府にも、卒業後も大学の就職支援を受けられるように法律を改正するなど速やかな対応を求めている。

 また、就職活動で学生が学業に打ち込みにくくなっている現状についても、規制のみで対応することには限界がある、と記述。大学が学生をできるだけ長く社会から隔離するのではなく、インターンシップなどの機会を早くから整備することが重要とした。

 大学が就職活動のスキルやノウハウを伝え、資格をとるよう促す動きについては大学教育全体で職業的な能力を育て、成績評価を社会でも意味を持つよう改善することなどを求めた。

 大学生の就職のあり方について議論している日本学術会議の分科会が鳩山内閣下の2010年3月下旬に新卒でなければ正社員になりにくい現状に「卒業後、最低3年間は(企業の)門戸が開かれるべきだ」とする報告書案を纏めて、4月に入ってからなのか、最終報告書を文部科学省に提出した。

 政府は4ヵ月後の管内閣下の8月30日、若者の雇用対策を含んだ追加経済対策の基本方針を1日前倒しして決定。

 8月30日から2ヶ月以上経過した2010年11月15日に厚労省は菅政府の追加経済対策の基本方針を受けて、改正「青少年雇用機会確保指針」を公布。

 「厚労省のHP」には次の文言が書き記してある。

 〈雇用対策法第7条および第9条に基づき、厚生労働大臣が定めた「青少年の雇用機会の確保等に関して事業主が適切に対処するための指針」に、新卒採用に当たって、少なくとも卒業後3年間は応募できるようにすることなどが追加されました。〉・・・・

 いわば卒業後3年間は新卒扱いをせよのお達しである。

 雇用対策法の第1章総則第7条と第9条―― 

 〈第7条 事業主は、青少年が将来の産業及び社会を担う者であることにかんがみ、その有する能力を正当に評価するための募集及び採用の方法の改善その他の雇用管理の改善並びに実践的な職業能力の開発及び向上を図るために必要な措置を講ずることにより、その雇用機会の確保等が図られるように努めなければならない。〉

 〈第9条 厚生労働大臣は、前2条に定める事項に関し、事業主が適切に対処するために必要な指針を定め、これを公表するものとする。〉 

 必要な指針として公表したのが改正「青少年雇用機会確保指針」だというわけである。

 だが、上記第7条が追加されたのは平成19年(2007年)である。この第7条を以てして3年経過しても新卒者を既卒者の上に置く権威主義、新卒信仰を改めることができなかった。

 そして2010年11月15日改正「青少年雇用機会確保指針」公布から約1年経過しても、今年3月に卒業した大学生の就職率が被災地も含めて全体で91.0%の過去最低で、新卒でも狭き門となっているところへ既卒者にしたら、新卒信仰が原因してなお一層狭くなっているからだろう、「新卒ばかりが求められるのもおかしい」とデモで訴えざるを得なかった。

 デモ企画者が早稲田大5年生の肩書となっているところを見ると、新卒肩書維持のために留年した口なのかもしれない。

 では、厚労省が改正「青少年雇用機会確保指針」公布で「少なくとも卒業後3年間は応募できるように」新卒扱いせよとお達しした具体的な“成果”はどの程度か、「MSN産経」記事――《企業の既卒者採用 受け付け6割、実績1割》(2011.8.25 07:44)が書いている。

 人材総合サービスのディスコ(東京都文京区)の調査。7月25日から8月1日にかけて全国の主要企業1万6868社に行い、1104社から回答。

 「既卒者を今年度から受け付ける企業」――14・7%。
 「以前から受け付けていた企業」   ――42.5%
                   合計57・2%

 『卒業後何年目までの既卒者を受け付けているか』

 「規定は設けていない」――51・1%
 
 『規定している場合の年数』

 「3年以内」――34・7%(最も多かった。)

 内定を含めて既卒者への内定出しの実績――13・7%

 1千人以上の企業――22・7%
 300人未満の企業――10・2%となった。

 記事は面接はするものの、内定実績は僅かという実態を伝えている。

 厚労省のお達しをクリアするための面接が実体といった側面もあるに違いない。

 調査した人材総合サービス・ディスコの恩田敏夫フェローが、《「3年以内既卒者の新卒扱い」実態変わらず、むしろ波乱要因の懸念も》と題して解説している。

 多くの採用担当者「就職できなかったのはコミュニケーション能力や積極性を欠くなど、それなりの理由があったからで、よほどの努力がなければ、そうしたものは1~2年で身に付くとは考えにくい」

 別の採用担当者「既卒はあまり優秀ではない。同レベルなら既卒ではなく新卒」

 要するに一度採用の篩(ふるい)からこぼれて既卒となった人材に過ぎないと言っている。

 そして恩田氏の解説。〈内定を得られるのは、留学経験者や国家公務員受験者など企業から評価される既卒者に限られ、決してすべての既卒者が新卒採用の対象になっているわけではない。〉・・・・

 そして最後のダメ押し。

 〈3年以内既卒者の新卒扱いという指針改定以降、今年ダメでも来年頑張ろうと就活の力を抜く学生が明らかに増えているという。〉・・・・

 こう見てくると、既卒忌避・新卒信仰は権威主義からでも何でもなく、実質的評価に基づいた公平・正当な選択だということになる。

 〈内定を得られるのは、留学経験者や国家公務員受験者など〉の既卒者に限られると解説しているが、留学経験や国家公務員受験に一種の権威を置いていないだろうか。

 留学に関してもすべての国の留学を対等に見ているわけではなく、権威主義の意識が働いてアメリカを一番としてイギリス、フランス、ドイツへの留学を上に起き、アジアやアラブ、東欧の大学への留学を低くみる価値観に囚われている傾向がある。

 アメリカやイギリス、フランス、ドイツへの留学だと、留学自体の価値はもとより、留学が可能なのは多くは所得余裕層であり、そのことへの価値観も働いた権威主義的な評価ではないと決して否定できないはずだ。

 上記解説では、「国家公務員受験者」と書いてあって、「国家公務員試験合格者」とは書いてないが、合格という結果を得ていなければ意味はないのだから、試験合格者だと思うが、その場合、国家公務員を上と見ている官尊民卑の権威主義を引き継いだ価値観と見ることもできる。

 また、企業の評価が「留学経験者や国家公務員受験者など」の既卒者に限られるとする限定自体が既に権威主義のワナにはまっている。

 このことは自分たちが採用試験を行なって採用した新卒者のすべてが優秀だとは限らないことが証明する。2008年(平成20年)の中・高・大卒の厚生労働省職業安定局調査の「新規学卒就職者の在職期間別離職率」によると――

 四捨五入の関係で1年目、2年目、3年目の離職率の合計と一致しないことがあるとのこと。

 離職率  1年目   2年目   3年目   合計

  中卒   44.1%   12.1%   8.5%   64.7%
  高卒   19.5%   10.0%    8.1%   37.6%
  大卒   12.2%   9.5%    8.3%   30%

 新卒社員にとって会社の風土や仕事が合わなかいからと辞めていく場合もあるし、同僚の新卒と比較して仕事に能力を発揮できないと辞めていく場合もあるだろう。

 だが、どちらであっても、会社の風土や仕事内容を熟知している人間が採用のすべてに関わって、会社の風土に合うだろう、会社の仕事に能力を発揮してくれるだろう、期待できる人材だと採用という最終判断を新卒受験者に対して下したはずである。

 そこには会社の社員との人間関係にしても予定調和とする計算もあったはずだ。

 2008年に限って言うと、30%の新卒者にお眼鏡違いが生じた。

 新卒者に対する目は絶対ではないということである。当然、既卒者に対する目も絶対とは言えないことになる。 

 だが、既卒者に対しては「コミュニケーション能力や積極性を欠く」、「既卒はあまり優秀ではない」と自らの目を絶対とすることで、このことが新卒者に対する目をなお絶対とすることになる権威主義的な“新卒信仰”を生んでいたはずだ。「同レベルなら既卒ではなく新卒」を採用すると。

 以上の言葉には試験や短時間の面接では形式知を示すことはできても、そこでは滅多に現れることはない、大学では会得できない、就職浪人中に一般社会でしか会得できない経験知を会得した可能性に対する探究心すら窺うことができない。

 自分の会社という狭い社会にしか生きてこなかったからではないか。

 自らの目が絶対ではないにも関わらず、両者それぞれに対して以上のような評価を可能としていたということは評価を固定観念としていたことを意味する。

 固定観念を以てして、新卒を上に置き、既卒を下に置く権威主義で差別を働いてきた。

 無意識のうちにだろうが、自らの目を絶対とすること自体が既に権威主義の意識に侵されている。そこに新卒を上に置き、既卒を下に置く価値観に基づいた差別を生じせしめていた。

 「コミュニケーション能力や積極性を欠く」等が既卒者に認められる一般的傾向であったしても、また実際に既卒者の中には「今年ダメでも来年頑張ろうと就活の力を抜く」者も無視できない人数で存在するかもしれないが、ワンチュク・ブータン国王の人それぞれの内面に生息して経験を餌として育つ人格という名の竜の説話からすると、既卒者を社会経験を積んだ者として、その経験が会社が即座に必要とする知識や技術にそぐわなくても未知の何かを生む人格上の可能性としての価値は決して無視はできないはずで、少なくとも固定観念や先入観なしに新卒者と既卒者を同じように並べて比較すべきだろう。

 そうすることによって日本人の多くが侵されている権威主義を少しづつ剥奪していくことができるはずだ。

 どう考えても、権威主義の価値観から端を発した新卒と既卒の差別的な扱いに見える。

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一川保夫防衛相のワンチュク国王夫妻歓迎宮中晩餐会欠席の喜劇

2011-11-23 10:41:22 | Weblog

――ブータンを小国と見た侮りから喜劇は生じた―― 
 
 国賓として来日していたブータン国王夫妻を歓迎するる宮中晩餐会が11月16日夜、皇居で開催された。天皇陛下入院で両陛下欠席、皇太子が名代を務めたという。以下皇族の出席、野田首相夫妻の他、全閣僚が招待を受けた。

 閣僚の出欠は自由だったのだろう、内4人が欠席。一川防衛大臣もその一人だった。このことが今野党の攻撃を受けている。同日開催の同じ民主党の高橋智秋参議院議員のパーティ出席を優先させたということだが、その出席よりも、挨拶の言葉が問題視されている。

 一川防衛相「他の大臣は皆そちら(宮中晩さん会)に行きましたが、私はこちらの方が大事だと思って参りました」(毎日jp

 この発言の後半部分は自分の選択を正しいとする誇らしげな自己誇示のニュアンスが込められている。多分笑いを取ったに違いない。

 当然前半の「他の大臣は皆そちら(宮中晩さん会)に行きましたが」には後半の自己選択の正しさに反する選択として、あからさまな批判はなかったが、軽い揶揄が込められていると見なければならない。

 出欠自由だとしたら、どこへ顔を出すのも自由ということになるが、自他の比較をわざわざ行って、自身の選択を誇ったことからすると、一川防衛相はどうしても出席しなければならなかったという優先順位基準を議員パーティを国賓として来日したブータン国王夫妻歓迎宮中晩餐会よりも上に置き、ブータン国王夫妻歓迎宮中晩餐会を議員パーティの下に置く上下の価値観に基づかせていたからだろう。

 要するに議員パーティを重要視し、ブータン国王夫妻歓迎宮中晩餐会を軽んじた。ブータン国王夫妻歓迎宮中晩餐会も大事だが、止むを得ず議員パーティに出席したというわけではなかった。

 それぞれの会合を上下の価値観で計っていたから、「他の大臣は皆そちら(宮中晩さん会)に行きましたが」といった軽い揶揄を込めた言葉を口にすることができたのだろう。

 宮中晩餐会にしても様々な名称の開催があるはずだ。アメリカ大統領夫妻歓迎宮中晩餐会だとか、サウジアラビア国王夫妻歓迎晩餐会だとか、スワジランド国国王夫妻歓迎宮中晩餐会だとか、大国から小国までその国の元首、その他を歓迎する催しがあるはずだ。

 もしアメリカ大統領オバマ夫妻の歓迎宮中晩餐会だったなら、一川防衛相は欠席しただろうか。日米の安全保障上の重要な関係から言って、同じ日に議員パーティを幾つか掛け持ちする予定があったとしても、全て断って、いの一番にオバマアメリカ大統領夫妻歓迎宮中晩餐会に駆けつけたに違いない。

 議員パーティに出席して、「他の大臣は皆そちら(宮中晩さん会)に行きましたが、私はこちらの方が大事だと思って参りました」などといった挨拶の場面は決して起こりはしなかったはずだ。

 だが、ブータン国王夫妻宮中晩餐会よりも議員パーティを上に置いて欠席した上に宮中晩餐会に出席した他の大臣と欠席して議員パーティに駆けつけた自分を比較して自身を誇り、出席した他の大臣を軽く揶揄した。

 アメリカ大統領夫妻歓迎宮中晩餐会では決してできないこのようなことができた理由は日本との外交関係に於いてブータンがさして重要な国だと見ていなかったからであろう。

 外交関係に於いて重要な国ではないということは安全保障上も資源外交の点に於いても、人的交流の点に於いても重要な国ではないことになる。

 どれか一つでも重要ということになれば、外交小関係に於いても重要な国に位置づけられることになる。

 いわば日本にとって重要ではない小国だと侮っていた。――と見たとしても勘繰りとは言えまい。

 小国だと侮って、議員パーティよりも歓迎宮中晩餐会を下に置いて欠席し、議員パーティに出席して、その選択を誇り、宮中晩餐会に出席した他の大臣を軽く揶揄することができた。

 要するに政治上、何が重要であるか何が重要でないかの政治家の現実的な価値観に徹していた。

 だが、ブータンは小国ながら、その金額も小国に応じたものだが、8000万円とかの義援金を被災地に送り、日本の常任理事国入りを支持している。

 ワンチュク・ブータン国王「2011年は国交樹立25周年に当たる。ブータン国民は特別な愛着を日本に抱いてきた。このような不幸(大震災)から強く立ち上がることができる国があるとすれば、日本と日本国民だ。

 我々の物質的支援はつつましいものだが、友情、連帯、思いやりは心からの真実だ。

 安全保障理事会拡大の必要性だけでなく、日本がその中で指導的な役割を果たさなければならない」(時事ドットコム

 外交上の現実的な利害から言うと、日本が念願してやまない常任理事入りを決定する、国の規模に関係しない、重要な大きな1票となる機会が訪れない保証はない。中国が反対票を主導して賛成票とせったときである。

 ワンチュク国王は被災地を訪問、相馬市の小学校を訪れている。

 ワンチュク・ブータン国王「みなさんは、竜を見たことがありますか?私は、竜を見たことがあります」

 この一言で子供たちの心を掴んだ。軽いどよめきめいた驚きが子供たちが発し、多くが身を乗り出すようにした。

 正直なところ、私自身は見たことがあるはずはないであった。

 ワンチュク・ブータン国王「竜は一人ひとりの心の中にいます。私たちの中には人格という名の竜がいます。

 竜は私たちみんなの心の中にいて、経験を食べて成長します。だから、私たちは日増しに強くなるのです。

 そして感情をコントロールして生きていくことが大切です。どうか自分の竜を大きく素晴らしく育てていって欲しい」

 何と含蓄に富み、優しさに溢れた言葉だろうか。この言葉を記憶し、言葉が言っていることを自覚的に生きることによって子供たちは震災の苦しい経験が生きた自分の強くなった姿をいつの日か見るに違いない。

 片や一川防衛相は11月22日の参院外交防衛委員会で、自民党の佐藤正久氏に国王の名前を尋ねられたが、即答できなかったと「MSN産経」記事が伝えている。背後の秘書官に尋ねなければ答えられなかった。

 一川防衛相「ワンチュク国王と思う」

 佐藤正久議員「名前も覚えていないのは『反省がない』と言われても仕方ない」

 記事では一川防衛相の答弁は「ワンチュク国王です」の断言ではなく、「ワンチュク国王と思う」の頼りない推測となっている。「思うが」が事実とすると、相手は国賓として来日したのである、即答できなかったことも失礼に当たるが、推測で答えることも失礼なことで、二重の失礼を犯したことになる。

 その後一川防衛相は在京のブータン総領事館を訪れて、欠席を謝罪したという。そしてワンチュク国王宛てに謝罪の手紙を書くことも検討しているという。

 謝罪にしても、手紙を書くにしても、その理由がブータンを小国と侮って宮中晩餐会よりも同僚の議員パーティを上に置いたというのだから滑稽そのものである。

 一川防衛相の大の大人でありながら、大国の防衛大臣が持していなければならない矜持・理性に反した宮中晩餐会欠席に関わる一連の態度・行動とワンチュク国王の訪日中の慈愛に満ちた沈着冷静な態度・行動とを比較すると、一川防衛相のそれは滑稽を通り越して、喜劇そのものにしか映らない。

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菅前首相の「政権は4年単位で評価」を鳩山元首相辞任のときになぜ言わなかったのか

2011-11-22 09:52:54 | Weblog

 《菅前首相、政権は4年単位で評価を》(MSN産経/2011.11.21 22:44)

 記事はこのことを菅前首相の直接の発言としては伝えていない。〈民主党の菅直人前首相は21日夜、都内で開かれた民主党国会議員のパーティーであいさつし、政権の成果を衆院の任期で評価してほしいと述べた。〉と解説で紹介している。

 直接の発言は――

 菅前首相「私を含む最初の2年は問題提起をして方向性は出せた。それが一つひとつ動いている」

 そして結びの解説。〈菅政権は、最後は与党内からも「居座り」という批判を浴びて短命に終わった。野田佳彦首相が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)や社会保障と税の一体改革の課題に取り組んでいるのは菅政権の成果だと暗に訴えることで、汚名を返上したいとの思いがあったとみられる。〉云々となっている。

 「政権は4年単位で評価」は菅前首相の元々の持論である。2011年8月26日の首相記者会見でも、イギリスの内閣制を例に取って、次のように自らの持論を述べている。

 菅首相「私は日本もやはり、せめて衆議院の任期の4年は、政権交代があったときには同じ首相で続けていくことが、ある意味国民的な、あるいは政治社会における慣習となっていくことが望ましい、このように考えております」

 国会答弁でも同じ訴えを行なっている。2010年11月8日の衆院予算委員会。

 菅首相「わたし自身どこまで頑張りきれるか分からないが、物事が進んでいる限りは石にかじりついても頑張りたい。

 政権を担当したら4年間の衆院の任期を一つのめどとして一方の政党が頑張ってみる。4年後に(衆院)解散・総選挙で継続するかしないか国民の信を問うという考え方がこれから政治的な慣例になっていくことが望ましい」・・・・

 4年間政権を担当しなければ、本当の実力は発揮できないと言いたかったのだろう。

 菅前首相は「MSN産経」記事で「私を含む最初の2年は問題提起をして方向性は出せた。それが一つひとつ動いている」と、9ヶ月弱の鳩山政権を含めた菅政権の成果だと誇っている。

 だが、社会保障と税の改革にしても、先進国で最悪の財政の再建問題にしても、景気回復問題にしても、その解決策の一方法としての消費税増税問題にしても、すべてが早急に解決が迫られている国の緊急課題であるのだから、どの党が政権を担当しようとも、「問題提起をして方向性」を出さなければならない諸問題であった。

 また、問題提起とその方向性提示を初期段階の成果としたなら、当然、「一つひとつ動いてい」くことになる。

 TPP参加問題にしても、民主党同様に自民党にも賛成派と反対派がせめぎ合っている。自民党が政権を奪回したなら、国が進むべき方向として民意を図りつつ参加か否かを決めるだろう。

 ということは、例え「一つひとつ動いている」ことになったとしても、「問題提起をして方向性」を出すことは成果とは言えないことになる。

 勿論、最終的な結果として獲得した成果ではないからだ。挫折や骨抜き、変質ということもある。最終的な結果を以てして、成果かどうかが評価される。「問題提起をして方向性」を出し、「それが一つひとつ動いている」としても、あくまでも中途過程に於ける初期的成果であって、最終的な成果とは言えない。

 菅前首相が成果だとしている問題提起とその方向性提示はどの党が政権を担当しようとも取り組まなければならない事柄であり、成果と見做していることにしても中途過程に於ける初期的成果に過ぎず、最終結果ではないことからすると、民主党であろうと自民党であろうと、何よりも要求される肝心な場面は提起した問題を提示した方向性そのままに的確・有効に決着づけること(=結論・結果を出すこと)であり、求められる能力は決着づける実行能力ということになる。

 勿論、政策を的確・有効に実現させ、役立つ結果を得るには強力なリーダーシップ(=指導力)をも必要とする。

 いわば政治家の評価はリーダーシップ(=指導力)や政策実行能力によって計られるべきで、衆院任期の4年間で計られるべきではないことになる。衆院任期の4年間はリーダーシップ(=指導力)や政策実行能力についてまわる結果としなければならないはずだ。

 首相としての政権担当の前提はあくまでもリーダーシップ(=指導力)や政策実行能力であり、衆院任期4年間は前提ではないということである。

 当然、衆院任期4年間を首相任期とする前提を持ち出してはならないことになる。この前提を許したなら、首相が無能であっても、国のカジを4年間も任せなければならないことになる。

 大体が菅前首相の衆院4年間の任期を同時に首相の任期とするという“衆院4年間首相任期説”は無能と批判されたことに対抗して自己正当化のために持ち出した、後付けの都合主義からのこじつけに過ぎないはずだ。

 そうではなく、最初から真に“衆院4年間首相任期説”に立っていたなら、鳩山元首相が母親からの多額の資金提供と個人献金虚偽記載問題、さらに普天間移設問題で日米関係を悪化させ、国内に混乱を生じせしめて辞任を表明したとき、「政権は4年単位で評価されるべき」だと、なぜ辞任を思いとどまらせなかったのか。

 なぜ、「政権交代があったときには同じ首相で続けていくことが望ましい」と慰留しなかったのだろうか。

 母親からの資金提供のカネは素性が怪しいとわけではなかったし、個人献金虚偽記載問題にしても公設秘書が独断でやったとしている以上、“衆院4年間首相任期説”に立って擁護して然るべきだった。

 だが、“衆院4年間首相任期説”を一度も打ち出さなかった。打ち出していたなら、情報となって公に知られたはずである。

 自分のときだけ機会あるごとに持ち出した。

 鳩山元首相が何よりも問題とされた点は普天間移設問題で象徴的に現れた、普天間移設問題だけで済ますわけにはいかない指導力のなさ、政策実行能力の欠如であったろう。

 このような欠点が衆院任期4年間を第一番にフイにさせた理由であるはずだ。

 菅前首相の場合は何よりも東日本大震災と福島原発事故に対して復旧・復興の諸政策の遅れをもたらすこととなった指導力のなさ、政策実行能力の欠如が問題となる。

 このことが致命的となって、持論に反して衆院任期4年間を待たずに放り投げることとなった。そもそもからして問題の置きどころが間違っている。基本の資質とすべき合理的判断能力を最初から欠いているからだろう。

 菅首相のリーダーシップ(=指導力)と政策実行能力の欠如は今もって大震災と原発事故対応、その他に災いをもたらしている。《全国知事会議、政権に対する批判や注文続出》MSN産経/2011.11.21 19:46)

 野田政権になって初の全国知事会議だそうだが、11月21日(2011年)に首相官邸で開催された。記事は、〈東日本大震災からの復興対策の遅れなどをめぐり、全国の知事から政権に対する注文が相次いだ。〉と書いている。

 知事1「国を挙げて放射能対策をしているといえるのか」

 知事2(社会保障と税の一体改革や来年度から導入される拡充児童手当について)「国と地方の協議が遅すぎるし、拡充児童手当については協議すら行われていない」

 延期されていたが、今月行われた福島・宮城被災2県の県議選で民主党が改選前議席を割り込んだ原因も、菅首相政治能力発端の復旧・復興の遅れがアダとなっているはずである。
 
 リーダーシップ(=指導力)も政策実行能力も見るべきものがない、無能そのものの政治家でありながら、衆院任期の4年間が終わるまでやらせるべきだと言う。

 だが、鳩山元首相辞任のときは口を閉ざしていた。

 これを以て盗っ人猛々しいと称する。

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2011年9月4日放送「そこまで言って委員会」ゆとり教育談義に見る辛抱氏の認識間違い

2011-11-20 12:09:33 | Weblog

 20011年9月4日放送日本テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」、テーマ「今の教育このままで委員会」

 番組を見ていて、ここだけを問題にしたかった箇所が一つある。それは司会者の辛抱氏の認識間違いの発言である。

 キャッチコピー「熱血先生達による教育プレゼンション 子供たちの未来を考えるSP」

 プレゼンターや寺脇研(59歳)元文科省審議官。「さんまのスーパーからくりTV」に出演して有名となった下地敏雄(55歳)久留米市立中学校国語教師。そして今村克彦。

 今村克彦氏(54歳)は元教師で、創作ダンス集団の会社を経営し、学校や家庭に課題や悩みを持つ子ども達にダンスを教えて、踊りを通して生き直す機会を提供しているとのこと。

 ここでは寺脇研氏のテーマ「教育と子供たちの未来を考える」に対する辛抱氏の認識のみを主として取り上げる。適当にメモっていたから、ところどころ脚色を用いて一貫性を持たせている箇所があることをお断りしておく。自身の批評は青文字で記した。

 先ず文科省の「ゆとり教育」から「脱ゆとり」への流れの紹介。

 1990年、旧文部省は「生きる力の育成」を掲げ、ゆとり教育路線を邁進。「脱詰め込み教育」のスローガンのもと、「自ら考え、判断し、表現することで問題を解決できる能力」を育てることを教育主眼とした。

 具体的方策として、学習時間の3割削減。

 だが、結果として学力の低下を招き、「ゆとり教育」がその元凶と批判される。OECD学習到達度調査が学力低下の根拠とされる。

 OECD学習到達度調査に於ける日本の成績

            2000年   2003年  2006年  2009年

 読解力         8位     14位   15位    8位
 数学的応用力      1位     6位   10位    9位
 科学的応用力      2位     2位     6位    5位

 上海がすべての分野で1位を独占。

 ゆとり教育の旗振り役を務め、「ミスターゆとり」と呼ばれてきた寺脇氏。

 解説「寺脇研氏は子どもの学力低下は印象論で語られており、根拠が無いと反論」

 だが、文科省は200年、2003年、2006年の日本の学習到達度調査の成績を受け、文科省は日本の子供たちの学力低下を認めて、「脱ゆとり」にカジを切ることに決定。2008年に小・中学校の学習指導要領を改訂、2009年に高等学校・特別支援学校の学習指導要領の改訂、「ゆとり教育」からの転換が図られることとなった。

 2009年OECD学習到達度調査に於ける日本の成績がわずかながら回復したことが学力低下に対する文科省を始めとした学校、親たちの危機感と2008年に既に小・中学校の学習指導要領を改定したことの成果と見做されたのだろうか。

 ゆとり教育と名付けながら、本質のところで一種の強制的な知識授受を内包した詰め込みの暗記を基本原理とした教育に変わりはなかったことから、授業時間3割削減が強制して詰め込み暗記させる時間の3割削減に相当することとなり、当然こととして学力が低下することになったのではないのか。

 いわば日本の暗記教育は授業時間量=暗記知識量となっている。この暗記知識の授受に於ける関係式は部活にも応用されていて、長時間の練習が成績の保証となって現れている。

 このことは高校野球のグラウンドにナイター設備が一般的になる前に東北地方の高校は日が暮れるのが早くて練習を早い時間に切り上げなければならず、その分練習時間が短くなって不利だとされていたことに如実に現れている。

 暗記教育ではなく、生徒に考えさせる教育なら、一から十まですべてを直接教えなくても、一つのことから生徒自らが考えるから、授業時間は直接的には関係しないことになる。自分で考えるということは考える対象に既に関心という知的作用を働かしていることであり、関心は自ずと問いかけという知的作用を同時に伴い、答えを得ることで問いかけの知的作用を充足させることができるから、関心を出発点とした知的作用(=思考作用)が自身の考える力によって知識の拡大につながっていくことになる。

 別の言い方をしてみる。暗記教育の場合、授業時間を減らして生徒に詰め込ませる暗記のコマが少なくなれば、そのことに伴って生徒が引き出しに詰め込む暗記知識のコマも少なくなる。当然、テストの設問に引き出しから取り出して機械的に当てはめる知識のコマが当初から不足しているから、成績を下がることになり、成績低下を以って学力低下と評価することになる。

 子どもが考えて得た知識なら、例えテストの設問に当てはまる知識のコマを持ち合わせていなかったとしても、既に持ち合わせているコマとコマを突き合わせてそこから新たな知識のコマをつくり出して、テストの設問に当てはめる応用も可能となる。

 考えるということはそういうことであろう。


 寺脇研氏「教科書が分厚くなることばかり注目され、一部のマスコミや評論家が“脱ゆとり”と騒いでいるだけ」

 ゆとり教育だ、「自ら考え、判断し、表現することで問題を解決できる能力」の育成だと言いながら、暗記教育から脱することができなかった。暗記教育を引きずったままであることに気づかずに「脱ゆとり」だと騒ぎ、詰め込みという強制を力学とした暗記教育に本腰を入れて回帰を図ることとなった。

 暗記教育が授業時間量=暗記知識量の関係式で成り立っている以上、当然授業時間を増やし、教科書も従来どおりの分厚さに戻して、詰め込む知識のコマを元通りに、いや、低下した学力を一気に取り戻すために元通り以上に知識のコマを増やす必要が生じ、教科書を以前以上に分厚くした可能性は否定できない。


 寺脇氏は文科省が進め、世の親たちが望んでいる“脱ゆとり”に否定的態度を取り、これからの教育について次のような理念を話しているという。

 寺脇研氏理念「どこかの組織に所属して守ってもらうのではなく、自分でやり甲斐を発見していく。偏差値で輪切りにして、勝ち組・負け組をつくるようなかつての画一教育ではダメ。競争から共生への転換を掲げた“ゆとり教育”の理想が必要になる」

 あくまでも“ゆとり教育”に拘って譲らない姿勢でいるが、“ゆとり教育”を阻害している真の原因に気づいて、“ゆとり教育”は暗記知識に関わる学力低下を予定調和とすることを証明しなければならない。従来のテストの成績では計ることができない学力を与えるのが“ゆとり教育”だと。

 「どこかの組織に所属して守ってもらうのではなく、自分でやり甲斐を発見していく」「画一教育ではダメ」と言うことなら、非常に難しいし、時間がかかることだが、先ず機械的に知識をなぞらせ暗記させていく暗記教育を遮断しなければならない。

 自分なりの知識に則った自分なりの判断力を育み、身につけさせる実効性を備えた授業方法を創造しなければならない。

 画一教育は教師、その他から与えられた知識をほぼ全員して機械的に自分の知識とする暗記形式の知識の授受によって成立する。いくら教師が教科書の知識を生徒にそのまま機械的に詰め込もうとしたとしても、生徒がそれらの知識を自分の判断で自分なりに解釈して自分なりの知識に高めていったなら、十人十色の知識を備えることとなり、画一教育は成立しない。

 暗記教育と考える教育は対立概念を成している。考える教育を活かすためには暗記教育を殺さなければならない。現在のところ、一般的には考える教育は暗記教育によって未だ生まれていない状態、一種の死の状態に置かれている。

 当然、教師が教える知識を機械的になぞって暗記して、生徒のほぼ全員が同じ知識を画一的に自分の知識とするのではなく、自分なりに考えて受け止め、自分なりの知識として積み重ねていく考えるプロセスを教師との間に置くことに尽きることになる。


 ここで女子アナなのか、「寺脇氏が考えるこれからの教育とは? 子供たちの未来とは?――熱く語って貰います」と声を低くしたおどろおどろしい口調で前口上を述べる。

 寺脇氏登場。画面に京都造形芸術大学教授の肩書が記してある。そして今後の教育と子供たちの将来のために3提言を行う。

 1.総合学習を進めていく!
 2.学校をコミュニティスクールに!
 3.教師に自立性(自律性)を!

 寺脇研氏「もともとこれをつくったのが、中央教育審議会の答申というのが出たのが、『子供たちにゆとりと生きる力を』というタイトルだったので、ゆとり教育って言われるんですけども、それが1996年なんですね。1996年というのは阪神・淡路大震災の翌年だもんですから、非常にその中には阪神・淡路大震災があったということが色濃く反映されてるんですよ。

 今まで想像もつかなかった、つまりあり得ないと思われたことが、起こったときにどう対処していくかというような力をつけていくっていうのが生きる力なんだっていうことを言っている。

 やってきたものは今までの学校教育と違うのは、授業時間は確かに減ったんですけども、総合学習というのを新しく入れてきたんですね。

 それを導入して、9年経つわけですけど、その成果をどうなのかっていうことを今見てもらいたい。

 総合学習を経験してきた子どもたちが、今は高校1年からずっとやってきた子っていうのが、今高校生の世代に当たりますし、大学生も今も、そういうのをやった子たちが、入ってきているわけです。

 結果は、その高校生や大学生をどう見るかという問題だと思う。

 (従来の教育は)算数にしても国語でも、一つの答えを導き出していくという考え方でやっていくわけですけども、総合学習は色んな考え方があっていいというような授業をしていく。例えば捕鯨がよくないという人、いいという人があり、両方の意見を聞いて、自分なりの意見を持つ」

 「総合学習は色んな考え方があっていい」は当然のこととして受け入れることができるが、学校の授業はあくまでもテストという試験を対象に一体的に考えなければならない。確かに生徒それぞれの考え方を自由に問う設問もあるだろうが、殆どの場合、「一つの答」を求めるテストとなっている。「一つの答」を求める場合であっても、生徒それぞれが自分なりの考え方で答を導き出していく解答方法を以って総合学習としなければならないはずだ。

 
「色んな考え方があっていい」総合学習と構造しておきながら、教師が教えたとおりに暗記した「一つの答」を機械的に当てはめる別の意味での一体化――暗記知識とテストの解答との一体化が続いていたのでは総合学習は砂上の楼閣であり続ける。

 
「捕鯨がよくないという人、いいという人」いうことではなく、暗記知識とテストの解答との一体化の逆を行く教えに限定して目指すことによって、「自分で考え、自分で判断し、自分で決定する」という総合学習に一歩一歩近づいていくのではないだろうか。

 辛坊「あの、そもそも決定的に違うのは総合学習の時間というのは教科書がないんですね。基本的に先生の力量に任されているから、場合によっては思想教育のキツーイ先生が出てきて、自分の思想教育ばっかりやるという可能性も無きにしもあらずですね」

 この発言が問題にしたかった箇所である。前提自体を間違えた認識となっている。

 教師が自身の思想を生徒に強制的に暗記させて機械的に生徒の思想と押しつける教育は生徒が考えるプロセスを最初から省略しているゆえに、あるいは生徒が考える機会を取り上げているゆえに既に総合学習の範疇から外れた、従来の暗記教育とは何一つ違いのない教育となる。

 例え教科書がないからと、それを好都合に自身の思想を押しつける授業を行ったとしても、校長や他の教師、あるいは父兄の授業参観によって防ぐことができる。

 また逆に教科書があっても、教科書が記述している知識の授受に便乗してやろうと思えば、いくらでも自身の思想を押しつけることはできる。

 そうしてきた教師も少なくないはずである。

 そのためにも生徒には自分で考える力を身につける必要が生じる。

 総合学習の基本構造・基本精神は普通教科でも踏襲されなければならない。総合学習の時間であろうと、普通教科の時間であろうと、相互に授業参観を行なって、的確・適正に総合学習の基本構造。基本精神に則って生徒に考えさせる教育が行われているか監視する機会を設けるべきだろう。従来の暗記教育を踏襲したままでは意味を失う。

 あくまでも基本は教師の授業が生徒に考えさせる機会を用意しているか、考えさせるプロセスを踏んでいるかである。
 
 辛抱氏の認識間違いを言いたいために、この記事を書いた。これで目的を果たしたが、もう少し続けてみる。


 ここで久留米市の中学校教師の下地氏がどのような総合学習を行なっているか紹介する。

 下地氏「1学年の場合は地域交流ということで、地域のお年寄りと交流を持つ時間。2年生になると、職場体験。色々な職場に行って、実際にそこで働いたり、インタビューしたりする。

 3年生になると、地域が広がって体験する。そういうふうに位置づけられている」

 寺脇氏「働く経験や、スーパーに行けば、社会科的な仕入れの仕組みや、しかも目の当たりに見る。売上の計画とか、どういうふうにやっているとかの話も出てくる。

 そういったことも知って貰って、大学生になっても、何の仕事についていいか分からない、取り敢えず有名な会社にエントリーしてやっていこうみたいな話じゃなくて、自分というのはどういうふうに社会の中で活躍をしていけるか、ということを考えてほしい」

 下地氏も寺脇氏も、勘違いがある。何かを体験すれば、考える力がつくという勘違いである。教師から生徒、親から生徒、地域住民等の第三者から生徒への知識授受が上から与えられた知識を無條件・無考えになぞって暗記する暗記教育の構造を踏んだ知識授受であるなら、如何ようにたくさんの体験を積んだとしても、教えられたことを教えられたとおりに、あるいは体験させられたことを体験させられたとおりの知識の授受にしかできない。

 このことはプロ野球やプロサッカー等で延々と言われていることが証明している。「考える野球をしろ」、「考えるサッカーをしろ」、「考えて動け」

 これらは選手自身がいくら練習という体験を積もうと、「自分で考え、自分で判断し、自分で決定する」という総合学習の精神である「考える力」を身につけていないことの裏返しとしてある状況であろう。

 学校が指示する体験をこなしたとしても、それが
「地域のお年寄り」との「交流」であろうとなかろうと、そこに自分で考えて自分なりの知識を加えて、自分なりの体験として高めなければ、何々をしましたという、暗記教育の知識と同じく、誰もが同じとなる画一的な体験で終わる。

 本質化している暗記教育形式の知識の授受を打ち破らないことには週何時間かの総合学習で自分で考える教育、自分で考える知識授受は実現不可能であるばかりか、学力低下を受けて「ゆとり教育」から再び詰め込み形式の暗記教育にカジを切った。と言うよりも、旧体制へどっぷりと回帰しようとしている。

 従来どおりに考える力が身につかなくても、OECD学習到達度調査の成績が上がり、それを以て学力向上だと安心して満足することで終わるに違いない。

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