安倍晋三は北朝鮮を訪れた場合は、朝鮮戦争戦没者墓地を参拝しなければならない

2013-07-31 02:09:03 | 政治

 

 北朝鮮の独裁者金正恩(キム・ジョンウン)が朝鮮戦争休戦60年となる7月27日に合わせて完成させたのだろう、新たに整備させた朝鮮戦争戦没者墓地の竣工式を7月25日、自ら出席して執り行ったと、次の記事が伝えている。

 《キム第1書記 朝鮮戦争の戦没者墓地に》NHK NEWS WEB/2013年7月25日 15時45分)

 数千人の市民や退役軍人、それに各国からの代表団らが参加、NHKを始め、日本やアメリカなど外国の報道陣も招かれたという。

 国民の飢餓を他処に飽食豊満で得た脂肪太りの金正恩は慰霊碑に献花し、行進する儀仗兵を閲兵したあと、並んでいる墓を1つ1つ見て回った。

 記事解説。〈キム第1書記としては、休戦60年を前にみずから戦没者への敬意を示すことで、国内の結束強化を図るとともに、アメリカなどに対し、休戦協定を平和協定に転換するよう求める立場をアピールした形です。〉――

 この記事によると、朝鮮戦争戦没者墓地としているが、調べた別の記事ではベトナム戦争で北ベトナム軍に参加して戦死した戦没者も祀られていると紹介し、また別の記事では名称を「国立墓地」として紹介している。

 この記事をNHKニュースで聞いていたとき、初めて、そうだ、北朝鮮にも靖国神社やアメリカのアーリントン墓地と同様に朝鮮戦争で戦死した戦没者墓地があって当たり前だと、その存在に気づいた。

 安倍晋三の靖国神社参拝論、その歴史認識は、靖国神社のみならず、戦没者墓地に祀られ眠っているのは戦争の目的や理念に関係しない戦死者の魂そのものであって、当然、参拝も戦死者が戦った戦争の目的や理念を讃えるためではなく、魂そのものを追悼するためとしている。

 要するに戦争の目的や理念から解放された魂そのものが眠っているのであって、その魂と向き合うのが参拝であって、戦争の理念や目的と向き合うためではないということなのだろう。

 色々な場所、色々な機会に同じようなことを喋っているが、最新の発言の一つは2013年7月4日参院選公示前日の7月3日日本記者クラブでの9党党首討論での発言がある。毎日新聞論説委員の倉重篤郎の靖国神社を参拝するのかとの問に対して――

 安倍晋三「ま、これは今までも何回も言い続けておりますように、え、国のために戦い、命を落とした人たちのために祈り、そして、尊崇の念を表す。私はそれは当然なことなんだろうと、えー、思いますし、非難される謂れはないんだろうと、このように思います。

 そして靖国に、えー、眠っている、まさに兵士たち、国のために戦ったわけで、これはアーリントン墓地には南軍と北軍の兵士が眠っています。

 そこにいわゆる行って、えー、亡くなった兵士の冥福を祈る。大統領も祈りますね。しかし、それは南軍の兵士が眠っているからといって、奴隷制度を肯定するわけでは全くないわけであって、そこに眠っているのはそうした理念ではなくて、ただ国のために戦った兵士たちの魂なんだろうと、このように思います。

 これが私の基本的な考え方であって、えー、今、靖国問題についてですね、行く行かないということ、自体が、これは外交問題に発展していくわけでありますから、今そのことについて申し上げるつもりはありません」

 倉重篤郎「アーリントン墓地のケースをよく言われますけれども、あれは内戦であって、南北戦争という内戦であって、あの国の人達が葬られている。しかし、靖国はですね、中国との戦いであり、そこには日本の人しか埋葬されていない。ちょっと違うと思います」

 安倍晋三「それは全然、あのー、間違っていると思います。それはあの、アメリカのケビン・ドークという教授がですね、えー、13代であります。えー、教授が、彼自身はクリスチャンなんですが、えー、彼は、まあ、哲学論として述べているのであって、内戦、えー、あるいは外国との戦いとは関わりないということを彼ははっきりと言っています。

 まあ、そういうことではなくて、戦った兵士の魂に対してどういうことかということや、そこにいわば、あー、戦争の目的、あるいは理念とは関わりがないということであろうと、このように思います

 当然、安倍晋三の靖国神社参拝論、その歴史認識からすると、北朝鮮の戦没者墓地に祀られている朝鮮戦争戦没者も北朝鮮国家が意志していた戦争の目的や理念に関係しない魂そのものとして眠っているということになる。

 北朝鮮は韓国を武力支配することで朝鮮半島の統一を謀るべく、1950年6月25日、突然韓国に侵略、一進一退を続け、1953年7月27日に国連軍との間に休戦協定が成立したが、韓国は署名を拒み、韓国と北朝鮮との間は戦争状態にあることになり、北朝鮮は韓国に対して民間航空機の爆破や、砲撃や哨戒艦の魚雷攻撃による撃沈等の戦争行為を行なっている。

 安倍晋三がアメリカを訪問した際にアーリントン墓地に献花するのは奴隷解放反対で戦って戦死した南軍の兵士が祀られていても、奴隷制度を肯定するためではなく、そのような戦争の目的や理念にもはや関係しないで眠っている魂そのものに対する追悼だとしているように、もし安倍晋三が拉致解決のために北朝鮮を訪れることになったら、その戦争が北朝鮮国家による、目的を果たすことができなかった韓国侵略の戦争であったとしても、侵略戦争の結果、北朝鮮が30万人近い戦死者を出したのは自らが仕掛けた侵略戦争だから止むを得ないとしても、また、北朝鮮の侵略戦争に途中から手を貸した中国人民解放軍が推定で50万人の戦死者を出したそうだが、それも止むを得ないとしても、アメリカ軍戦死者3万5千人近く、インターネット上に〈韓国軍は41万もの戦死者を出した。負傷者と行方不明者は42万、非戦闘員の死者が24万人、北朝鮮に連行された者が8万人〉との記述があるが、そのような膨大な戦死者・犠牲者を出した侵略戦争を演出した一人ひとりの北朝鮮戦死者であっても、そこに眠っているのは侵略戦争の目的や理念にもはや関係しない魂そのものだと、献花・追悼しなければならないだろう。

 北朝鮮側にしても安倍晋三の靖国神社参拝論、その歴史認識は先刻承知の情報を得ているだろうから、金正恩が安倍晋三を北朝鮮に招いた場合、「戦没者墓地に眠っているのは戦争の目的や理念に関係しない魂の一つ一つです。是非戦没者墓地に訪れて、献花し、追悼してください」と要求することは十分に予想できる。

 安倍晋三は自らの靖国神社参拝論、その歴史認識に従うなら、例え北朝鮮側が求めなくても、自ら進んで参拝・献花しなければならないはずだ。

 もし参拝・献花したなら、北朝鮮は朝鮮戦争に勝利したとしているが、勝利を裏付ける光景として利用することになるだろうから、単に戦争の目的や理念とは関わりなく、魂にお参りしたのだとはいくまい。

 大体が靖国の戦死者たちを「国のために戦い、命を落とした人たち」と言っているが、そのような行為の価値づけ自体に既に国家や戦争の概念が含まれている。

 いくら「国のために戦った兵士たちの魂」だと意味づけたとしても、戦争の目的や理念を抜きに魂だけを切り離すことはできないはずだ。

 切り離そうとするのは、都合の悪いこと(=侵略戦争)を隠す詭弁に過ぎない。もし正義の戦争を戦ったとしたら、「正義の戦争のために戦い、尊い命を落としてここに魂となって眠る」とでも称しただろう。

 安倍晋三がいつの日か北朝鮮の朝鮮戦争戦没者墓地に参拝することを楽しみにしている。

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下村博文、安倍晋三のお仲間らしく「人間力を判断する入試のあり方について議論したい」の非客観的合理性

2013-07-30 02:28:39 | 政治

 

 こんな記事がある。《文科相 人間力判断する入試を》NHK NEWS WEB/2013年7月25日 15時8分)

 記事題名から大体のことが分かる。

 文科相の下村博文が7月25日(2013年)、教育再生実行会議の有識者委員と共に東京・目黒区にある大学入試センターを視察した。

 目的は、政府の教育再生実行会議が今年6月から大学の入試改革などについて議論を進めていて、秋にも提言を取り纏めて安倍晋三に提出することになっているために大学入試改革の参考にするためだそうだ。

 まあ、時間潰しの役には立ったのだろう。

 下村博文(記者たちに)「現在でも、センター試験に各大学の論文試験などを組み合わせて、合否を判断する工夫が相当されていることがよく理解できた。学力一辺倒でない人間力を判断する入試のあり方について、熟議を重ねながら議論していきたい」――

 先ず「人間力」という言葉の意味だが、「はてなキーワード」には、「学力やスキルだけでは量ることのできない、人間としての総合的な魅力のことらしい」と書いてある。

 「はてなキーワード」にしても確実な説明はできない能力のことらしい。

 推察するに、単に知識があるとか、仕事の能力が優れているといったことではなく、人間的な感動を与えて他者を突き動かす力を持っていたなら、人間力を有することになるのではないだろうか。

 なかなかにそういった人間になることは難しいし、当然、数も少ないことになる。

 下村博文が言っていることは、現在は機械的に知識を問う試験ばかりではなく、論文で考える力を問うことを組み合わせた入試形式となっていて、合否判断が相当に工夫されている。だが、人間力を判断する入試とはなっていない。だから、「人間力を判断する入試のあり方について、熟議を重ねながら議論していきたい」ということなのだろう。

 要するに知識や考える力で試すだけではなく、人間力の点でも試す大学入試でなければ、今の時代、大学生としてふさわしい人材を選んだことにならないし、社会人として今の世の中に送り出すには十分な資格があるとは言えないと思っていて、人間力を判断する入試形式を各大学入学試験に採用していきたいと考えていることになる。

 だがである、知識や考える力を問う大学入試は高校生が保有しているだろうと予測している知識や考える力に対応した質問によって作成される。そうでなければ、入試は成り立たない。

 考える力を持たない高校生を集めて、ではこれから考える力を問う大学入試を実施しますとすることは不可能である。

 当然、人間力を問う入試にも言えることで、大学入試で人間力を問うには高校生がそれなりに人間力を備えていなければ、問いようがない。高校の3年間で人間力が簡単に身につくと思えないから、保育園・幼稚園の時代から小中高と日本の現在の教育が知識や考える力の植え付けだけではなく、人間力をも養い育てる教育となっていなければ、問う対象とすることはできない。

 当然、頭のいい下村博文は日本の教育が人間力をも育む教育となっていて、高校生が個人差はあっても、人間力をそれなりに備えていることを前提としていることになる。

 だとしたら、知識や考える力を問う大学入試が高校生が保有しているだろうと予測している知識や考える力に対応した質問によって作成されるというテストの原理から言っても、なぜ今まで人間力を問う入試(「人間力を判断する入試」)となっていなかったのだろうか。

 二つの理由が考えられる。一つは日本の教育が人間力を育む教育となっているが、これまでは大学生の資質として人間力は重視されていなかったために人間力を問う入試とはなっていなかった。

 この仮定にはちょっと無理がある。

 二つ目は、日本の教育が人間力を育む教育となっていないために入試が対応する必要性を持たなかった。

 後者だとすると、下村博文の前提自体が間違っていることになり、その合理的判断能力が疑われることになる。

 以前ブログに取り上げたが、下村博文は4月10日(2013年)の衆院予算委員会答弁でも、自身のブログの2012年7月30日記事でも、「日本青少年研究所」が毎年行なっている日本、米国、中国、韓国4カ国の中高生の意識調査を取り上げて、「自分はダメな人間と思う」日本の中高生は他の3カ国と比較して突出して多い、「よく疲れていると感じる」中高生も多数派を占めていることを訴え、「子供がダメなのではない。そのように多くの中高校生が『自分はダメだ』と思わせる日本社会が問題であり、子供達はその社会の鏡に過ぎない」と尤もらしげにに批判しているが、下村博文が描き出している日本の中高生の姿からは日本の教育が人間力を育む教育となっている様子はとてもとても見えてこない。

 にも関わらず、大学入試で、「学力一辺倒でない人間力を判断する入試のあり方について、熟議を重ねながら議論していきたい」と言っている。

 大阪商工会議所が 2012年12月4日発表の「在阪中小企業の上司・先輩に聞く!新入・若手社員に対する意識調査」によると、入社3年目までの若手社員が得意とする能力の1位に「規律性」、苦手分野の1位は「働きかけ力」を挙げたと、2012年12月4日付けの「毎日jp」記事が伝えていたが、「働きかけ力」と対比させた場合の「規律性」とは上の指示に忠実に従う受動性の性格傾向を言い、逆に「働きかけ力」は自分から周囲の人間に向けた他動性を言うはずである。

 得意能力の1位が受動性の姿であり、苦手分野の1位が他動性だという姿からは、両者が逆転した場合は見えてもくるだろうが、人間力を育む日本の教育の姿は見えてこない。

 下村博文が日本の教育行政を預かる身として先ず行うべきことは日本の教育を人間力をも育む土壌をも持たせ、大学入試が判断の対象とすることができる前提を作ることであろう。

 そうでなければ、テストだけで問う人間力ということになりかねない。人間力を持たない高校生がテストで人間力があると判断されて大学の門を潜っていく。

 イジメを苦にして自殺する生徒が出てから、生徒たちがイジメの目撃をアンケートを通して訴える。あるいは部活でチームが強くなるために、さらに試合に勝利するためにという口実で部活顧問から体罰が日常的に行われているのに対して、チームが強くなったり、試合に勝つためには体罰は必要だと容認する体罰文化に侵された生徒や保護者の姿からは人間力を窺うことはできない。

 重大ないじめ事件が起きたり、イジメ自殺が起きると、責任逃れに走り、伝えるべき情報を隠蔽する教師や教育委員たちの蔓延した姿からは人間力は見えてこない。子どもの姿は大人の姿に対応する。人間力を持たない大人が子どもに人間力を教え伝えることはできない。

 要するに下村博文は教育行政を国の立場で預かる身でありながら、客観的認識能力もなく体裁のいいことを言ったに過ぎない。

 そういった姿に果たして人間力を感じることができるだろうか。歴史認識は歴史家に任せるべきだと言いながら、自らの歴史認識を撒き散らすご都合主義の安倍晋三に人間力を感じることができるだろうか。人間力がないという点でも、両者はお仲間だと言うことができる。

 参考までに――

 2013年4月22日記事――《下村博文の、これでよく文科相を務めていられるなと思う検証精神なき認識能力 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍晋三の8月15日敗戦の日靖国参拝見送りは自らの信念が口先だけであることを暴露する

2013-07-29 03:28:16 | Weblog



 国家主義者安倍晋三が中韓に配慮して8月15日の終戦記念日の靖国参拝を見送る意向を固めたと、複数の政府関係者の話としてマスコミが伝えている。

 自らの信念に対する折り合いを口先だけとするらしい。 

 安倍晋三の靖国参拝に関わる歴史は長い。その主なところを拾ってみる。

 2005年5月2日、小泉内閣時代の自民党幹事長代理だった安倍晋三はワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」で次のように講演。

 安倍晋三(中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて)「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」――

 安倍晋三は日本という国のリーダーとなった場合の政治家は靖国神社参拝を責務とすることを自らの信念としていた。

 そして小泉純一郎を継いで、2006年9月26日に首相に就任。1年経過した2007年9月26日、病気を理由に首相職を投げ出して、辞任。

 日本にとって不幸な苦節5年余、再び首相就任の位置につけることが可能となる2012年9月26日投票の自民党総裁選に立候補、9月14日の立候補者の共同記者会見での発言。

 安倍晋三「国の指導者が参拝し、英霊に尊崇の念を表するのは当然だ。首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極みだ。(参拝は)今言ったことから考えてほしい」(MSN産経)――

 小泉首相の次の首相になりながら、「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」とした自らの信念を自ら裏切ったことを以って、「痛恨の極み」だとした。

 自らの信念を自ら裏切るということは自らの信念を言葉で終わらせてしまったことを意味する。あるいは想いだけで終わらせてしまったことを意味する。信念が強ければ強い程、その信念が言葉や想いだけで終わった場合、トラウマとなって取り憑く。「痛恨の極み」はトラウマが言わせた想いでもあるはずだ。

 もしトラウマとまではならない信念の裏切りであるなら、信念自体が元々大したことはないということになる。

 当然、「痛恨の極み」と反省した場合、トラウマ解消への衝動も強化され、信念をなおさらに新たにすることになる。今度こそ、言葉や想いだけで終わらせまいと強く、強く信念することになっていたはずだ。
 
 それが、「(参拝は)今言ったことから考えてほしい」という確約の言葉となった。もし自民党総裁に返り咲くことができ、首相に再度就任することになった場合は、かつてのようには言葉や想いで終わらせずに、在任中に必ず自らの信念を参拝の形で現すと約束したのである。

 そして野党自民党総裁として戦った212年12月の総選挙で大勝して、2012年12月26日に再び首相の座に就くこととなった。

 靖国参拝に向けて自らの信念を奮い立たせるためなのか、2013年2月7日の衆院予算委員会でも、言葉や想いで終わらせてしまった自らの信念に対する「痛恨の極み」を発言し、トラウマ解消への決意を訴えた。
 
 安倍晋三「私の基本的な考え方として、国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。その中で、前回の第一次安倍内閣において参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」――

 かくまでも強く思い固めた靖国参拝への信念をよもや言葉や想いで終わらせることは二度とないはずである。終わらせない参拝実行こそがトラウマから逃れることができる唯一の手段であり、「痛恨の極み」を慰謝し、その感情から解放してカタルシスを与えてくれる唯一の道である。

 当然、このように固ーく信念していたなら、参拝という具体的な形への移行は靖国の戦死者が最も悔しい思いをしたであろう日本が敗戦した日の8月15日、それも自らの信念をより早く証明できる今年の8月15日の参拝を措いて、他に信念の最も強烈な具体化を可能としてくれる参拝日はあるまい。

 「痛恨の極み」として引きずることとなったトラウマの完全払拭を強烈に表現してくれて、そのカタルシスを激しく高めてくれる、またとない機会としても、今年の8月15日の敗戦の日こそが最適の大舞台となるはずである。

 それが来年の8月15日の敗戦の日であったり、再来年の8月15日の敗戦の日であったりしたら、二度と言葉や想いで終わらせまいとした強い信念が先延ばしされることになって、その強さが薄まった状態で発揮することになるし、当然、「痛恨の極み」となったトラウマからの解放も、味わうべきカタルシスもより弱い形となる。

 また、秋季例大祭や春季例大祭であったりしたなら、例年の8月15日の敗戦の日以下の意味しか持たないはずだ。

 だから、安倍晋三が首相就任後の最初の4月21~23日の靖国神社春季例大祭に他の閣僚のように靖国参拝をせずに供え物の真榊(まさかき)の奉納にとどめたのは正解である。

 言葉や想いで終わらせた自らの信念を参拝という具体的な形で表現する日を今年の8月15日敗戦の日こそ大舞台と思い定めていたからこそであろう。「痛恨の極み」となったトラウマに終止符を打ち、そのカタルシスを全身に最大限に味わう大舞台はこの日を措いて他にないと。

 だが、見送りの意向を固めているという。

 再び、「次の首相も靖国神社に参拝するべきだ」とした信念を言葉や想いだけで終わらせるつもりなのだろうか。「首相在任中に参拝できなかった」ことが「痛恨の極みだ」となったトラウマをさらに引きずって、言葉や想いのすべてを一過性のものとするつもりなのだろうか。

 尤も、「痛恨の極み」は「首相在任中に参拝できなかった」ことに対する慙愧の念だから、8月15日の敗戦の日に限られているわけではなく、在任中のいつの日でもいいという論も成り立つ。最悪、次の首相が決まって、辞任間際であってもいいわけだが、中韓に対する影響も時限的とすることができるからとの理由でそうした場合、中韓の顔色を窺った信念の発揮ということになり、自らの信念を単に言葉や想いだけで終わらせなかったことよりもマシ程度となって、その信念の程度、「痛恨の極みだ」としたトラウマの程度が疑われることになる。

 当然、今年の8月15日の敗戦の日に参拝してこそ意味を成す、胸を張ることのできる信念の確実な具体化、さらに「痛恨の極みだ」となったトラウマの解消によって得る強烈なカタルシスは消化不良の形で胃の中に滞留させることになる。

 「首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極みだ」と言い切った言葉の重みからしても8月15日を1カ月切った時点で参拝宣言が出るだろうと予想していたが、今以て一向に参拝宣言が出ないこと、逆に安倍晋三が8月15日の敗戦記念日の靖国参拝を見送る意向を固めたとマスコミが報じたことを考え併せると、再び安倍晋三の靖国参拝信念が言葉だけのもの、想いだけのもので終わることを運命づけたと断言できる。

 口先だけであることの暴露以外の何ものでもない。

 例え他の日に参拝したとしても、信念を弱めた形の参拝でしかない。これまでの言葉を弱め、想いを弱めた参拝となるだろう。

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安倍晋三の対中外交、「条件をつけることなく」と中国に注文する合理性欠如のご都合主義

2013-07-28 07:52:28 | 政治


 
 田中均元外務審議官が7月26日(2013年)、日本記者クラブで講演、再び安倍対中外交を批判した。《「価値外交」を批判=田中均元外務審議官》時事ドットコム/2013年7月26日(金)16時36分)

 田中元外務審議官「中国をいかに建設的な形で巻き込んで変えていくかが(対中外交の)戦略の目的だ。『価値外交』と言って疎外するのは目的にかなうのか。

 中国国民が『(尖閣諸島を)日本が実効支配しているのはおかしい』と捉えだし、中国政府がコントロールできなくなった。今の緊張(度)を下げるしかない」――

 要するに中国以外の各国を回って価値観外交を訴えている安倍対中外交は一人の主婦が自分の価値観を押し通そうとして思い通りにならない近所の主婦に対する面白くない感情を晴らすために近所の別の主婦たちのところに回って、自分の価値観こそが正しい、相手の価値観は間違っていると訴えて同意を得て満足しているような外交に過ぎない。

 いくら周囲の同意を得ても、肝心な相手との価値感の違いは解消できるわけではない。

 テレビ番組で、「13回、海外に出張した、海の自由を守るために力による支配ではなく、法による支配を訴えた」と、さも正しい外交を行なっているかのように発言していたが、それで中国との関係が進展したわけではないのだから、対中外交に限って言うと、時間とカネのムダ遣いをしたに過ぎないことに気づいていない。 

 価値感の違いを理由に関係を遮断する道を選択するか、遮断できずに関係が必要なら、価値感の違いを乗り越える道を模索するか、いずれかに決めなければならないはずだが、相変わらず自らの価値観に同意してくれる近所の主婦のところを回って、同意を以って自身の対中外交としている。

 要するに中国に対して直接的な働きかけを行って有効とするのではなく、間接的な働きかけをするだけで、対中外交を全うさせている。

 にも関わらず、谷内内閣官房参与や谷口内閣審議官を中国に派遣するのは、日本の外交の顔である安倍晋三自身が一方で近所を回って対中包囲網を見せかけていながら、その一方で当事者に話し合いをしようと申し込むのだから、双方が簡単に満足する形で成立する種類の話し合いならいいが、そうでなければ、安倍自身の直接的な言動と矛盾することになって、相手に警戒と不信感を植え付ける助けとしかならないはずだ。

 安倍晋三は7月25日から3日間の日程でマレーシア、シンガポール、フィリピンの東南アジア3カ国を訪問している。「2国間関係だけを見るのではなく、地球儀を眺めるように世界全体を俯瞰する戦略的な外交を展開する」(MSN産経)と、相変わらず言うことだけは勇ましい。

 特別な相反する利害を抱えていない二国関係なら、「世界全体を俯瞰」した長期的・全体的展望に立った行動のための知恵・想像力(=戦略)は外交に役立つこともあるだろうが、抱えている場合の二国関係なら、それぞれの国がそれぞれに自国の利害を楯とした長期的・全体的展望に立った行動を見せることになるから、その行動を生み出す知恵・想像力にしても自国利害に左右されて、「世界全体を俯瞰」した戦略性は殆どの場合、利害の埒外に置かれて役立たないことになる。

 このことは「価値観外交」そのものが証明している。価値感を異にする中国に対して価値観外交は尖閣問題の解決に何ら役に立っていないし、価値感を同じくする韓国に対してであっても、竹島という領土問題に関しても、歴史認識問題にしても、何ら解決の糧にはなっていない。

 所詮、「地球儀を眺めるように世界全体を俯瞰する戦略的な外交を展開」は安倍晋三特有の奇麗事に過ぎない。

 7月27日、安倍晋三は訪問先のフィリピンで記者会見を開いている。自明の理でしかないが、価値感の違いを理由に関係を遮断できるわけはなく、価値感をひと先ず脇に置いて、対話を進める姿勢を示している。

 但し、安倍晋三らしい合理性を欠いた条件づけを行なっている。

 《首相 早期に日中首脳会談実現》NHK NEWS WEB/2013年7月27日 17時57分)

 安倍晋三「(中国は)隣国だからこそ、さまざまな問題が生じるが、切っても切れない関係であることを双方が認識し、お互いに努力していくことが重要だ。これこそが戦略的互恵関係であり、私の原点はここにある。中国も、その原点に立ち戻ってほしい。

 先ずはお互いが胸襟を開いて、話し合いをしていくことが大切で、外交当局間の対話を進めるよう私から指示している。条件をつけることなく、なるべく早く外相・首脳レベルの会合を持ちたい」――

 「条件をつけることなく」は中国に対する「条件はつけるな」という注文であろう。日本側は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」を基本姿勢としている。要するに中国側に対して中国とは尖閣諸島を領土問題として話し合わないを条件として突きつけている。

 もし日本側が「条件をつけることなく」の姿勢を取るということであったなら、領土問題の存在を認めることになり、この大きな政策変換は国民に説明しなければならない事実として扱わなければならないはずだが、何らの説明もないのだから、日本側から「条件をつけることなく」ではないはずだ。

 中国が尖閣諸島問題で日本に突きつけている条件は、

 〈1〉日本政府が領土問題の存在を認める
 〈2〉日中双方が問題を「棚上げ」する――の二つである。

 この条件の突きつけに対して安倍晋三は7月21日夜の日本テレビで次のように発言している。

 安倍晋三「問題があるからこそ対話をしていく必要性は高まっていく。対話のドアは開いていると申し上げている。中国側も対応していただきたい。こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体は少しおかしい」――(asahi.com

 安倍晋三が言っている「こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体は少しおかしい」と批判している意味は、日本側が条件を呑まなくても、首脳会談を開催すべきだということになる。

 では、日本側が中国側に突きつけている「尖閣諸島に領土問題は存在しない」の条件を中国側が呑まなくても、首脳会談を開催するという姿勢を示すことができ、示すことによって首脳会談開催が実現可能となっただろうか。

 ノーである。中国側にとって尖閣諸島に関わる領土問題を議論しない首脳会談は意味が無いからである。

 要するに、「こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体」は何も中国だけの姿勢ではなく、お互い様の姿勢であるはずだ。安倍晋三は自分の都合だけを言ったに過ぎない。

 中国側に対する“条件をつけるな”(=「条件をつけることなく」)にしても、「尖閣諸島に領土問題は存在しない」を日本側の覆す意志のない絶対の条件として突きつけていながらの相手に対す“条件をつけるな”(=「条件をつけることなく」)なのだから、これ程の合理性を欠いた自己都合、ご都合主義はない。

 問題は、双方が採ることになる「条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体」ではなく、双方が主張するそれぞれの国益に絡んだ、それゆえになかなかに譲ることのできない条件にお互いがどう歩み寄って、どう整合性をつけて首脳会談につなげていくかの、長期的・全体的展望に立った行動のための知恵・想像力(=戦略)を如何に構築していくかであって、安倍晋三にはその視点もその姿勢もなく、日本側の条件は絶対としながら、中国側には「条件をつけることなく」と棚上げを求める、合理性を欠いた自己都合、ご都合主義に寄り掛かった外交を専ら安倍対中外交としている。

 その程度の外交能力しかないということなのだろう。だから、田中均外務審議官に再三に亘ってその外交姿勢に対して批判を受けることになる。

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政界再編は石原慎太郎以下、旧太陽系議員を排除しなければならない

2013-07-27 10:36:03 | 政治


 
 二大政党の一翼を担う民主党が衆議院選挙に続いて参議院選挙で大敗、向こう3年間国政選挙はないと見ている以上、退場した一大政党に代わる誰もが考え得る有力な対抗勢力の構築は野党再編という選択肢に限られることになる。

 尤も参院選前から、世論調査で民主党の大敗は読み込まれていたために日本維新の会共同代表の橋下徹が選挙中から野党再編を呼びかけていたが、読み込まれていた通りの結果を受けて、マスコミの関心も野党再編に重点を置くことになった。

 当然、主たる野党党首が記者会見を開けば、野党再編に関する質問を受けることになるが、思惑や政治理念の違いから、直ちに賛成という党首ばかりではない。

 《みんな・渡辺氏 野党再編は拙速》NHK NEWS WEB/2013年7月22日 0時48分)

 参院選投票日の、ほぼ大勢が決まった7月21日午後11時頃の東京都内での記者会見。

 渡辺みんなの党代表「覚悟と戦略、信頼を共有することが絶対的に必要で、今すぐ『野党再編』というのは、あまりに拙速すぎるのではないか。維新の会は、党内で歴史認識を統一することもしておらず、仮に『一緒になろう』と言われても困難が伴う。ほかの党に野党再編を呼びかける前に、みずからの党を再編したらどうか」――

 始末の悪いことは日本維新の会に忌避感が強く、野党再編に慎重なみんなの党代表に対して幹事長は忌避感もなく日本維新の会を再編の一翼と見做して積極的であり、態度が別れていることである。

 翌々日7月23日。《橋下氏、野党再編に重ねて意欲 渡辺氏「維新再編を、市長では限界」》MSN産経/2013.7.23 18:02)

 大阪市役所でのぶら下がり記者会見。

 橋下徹「民主党に代わる新たな政治勢力を国民が求めているのは間違いない。次期衆院選に向かって(野党が)話し合い、一つの勢力にまとまらないと国のためにならない。維新、みんなの党、民主党という看板はなくさないとダメだ。

 (自ら主導するのかの問いに)それを言った瞬間、足の引っ張り合いになる。維新が取るとはいわない。誰かがやってくれればいい」――

 自身に対する忌避感を承知しているようだ。

 国会内で開催の党役員会で。

 渡辺みんなの党代表「政界再編のためには理念と政策の一致が大前提だ。維新は改革勢力なのか、自民党よりももっと右の復古勢力なのか、分からない。他党に再編を持ちかける前に維新自体の再編が必要だ。

 橋下市長が党代表でありながら、国会議員でないことは重大な問題をはらんでいる。国を変えるためには、大阪市役所からでは限界がある」――

 再編を成し遂げた場合の多くの国会議員を率いるには市長の立場では困難であるということなのだろうが、何よりも「理念と政策の一致」が問題となる。

 渡辺代表は特に歴史認識に関わる「理念」の一致を重要視している。「みんなの党代表 渡辺喜美」名で、《憲法改正議論に関する所感》を2013年4月12日に公表している。

 〈憲法改正についての議論が盛んである。みんなの党も改憲を目指すことに変わりはない。ただ、我々は戦時体制を賛美し、復古調のレトリックを駆使する勢力とは、根本的に異なる。みんなの党は、一院制、首相公選制、地域主権型道州制、政党規定の新設など統治機構の改憲を掲げている。復古派との違いは、端的に言えば、歴史認識であろう。

  ・・・・・・・・・・・・

 憲法改正の前にやるべきこと。それは選挙制度や政党を含めた政治改革であり、官僚制度改革である。〉――

 復古調の戦時体制賛美は歴史認識の反映としてある。渡辺代表はここから野党との関係に於ける日本維新の会に対する忌避感が生じているはずだ。

 例えば2013年3月30日発表の「日本維新の会 綱領」は、〈日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。〉と謳って、占領時代と占領時代につくられた日本国憲法を完璧に否定する歴史認識を示している。

 この戦後否定歴史認識は戦前の日本に対する肯定歴史認識と対立させているはずである。また、平和は「非現実的な共同幻想」によって成り立つものではなく、国民の願望とその願望に制約を受ける形のそれなりの政治の努力という現実があって初めて成り立つはずだ。

 政治の努力という現実をも共同幻想だと言うなら、石原慎太郎も一時期所属した戦後自民党一党独裁政治が手を貸した共同幻想ということになる。

 この「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」以下の文言は日本維新の会のもう一方の共同代表である石原慎太郎の強い要請で取り入れたそうだが、その歴史認識は2013年2月12日の衆院予算員会の質問に如実に現れている。

 石原慎太郎「浦島太郎のように18年ぶりに国会に戻ってまいりました、暴走老人の石原であります。

 私、この名称を非常に気に入っていまして、みずから愛称にしているんですけれども、せっかくの名づけ親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると老婆の休日だそうでありますが、これはまたうまいなと思って、大変残念でありますけれども。

 これからいたします質問は、質問でもありますし、言ってみれば、この年になった私の、国民の皆さんへの遺言のつもりでもあります。

 私がこの年になってこの挙に出た一番強いゆえんは、実は、昨年の10月頃ですか、靖国神社でお聞きした、90を超されたある戦争未亡人のつくった歌なんです。

 この方は20前後で結婚されて、子供さんも設けられた。しかし、御主人がすぐ戦死をされ、そのお子さんも恐らくお父さんの顔を見ていないんでしょうがね。その後、連れ合いの両親の面倒を見て、子供も結婚し、恐らく孫もでき、ひ孫もできたかもしれませんが、その方が90を超して、今の日本を眺めて、こういう歌をつくられた。

  かくまでも醜き国になりたれば捧げし人のただに惜しまる

 これは、私、本当に強い共感を持ってこの歌を聞いたんですが、国民の多くは、残念ながら我欲に走っている。

 去年ですか、おととしですか、東京に端を発して幾つか事例があったようですけれども、東京の場合には、40年も前に亡くなったお父さんを葬式もせずに隠してミイラにして、しかも数十年間その年金を詐取していた。このケースがあちこちで頻発して、政府は、どういうつもりか知りませんが、その数を公表しませんでしたが、こういう我欲が氾濫している。しかも、政治家は、そういうのにこびて、ポピュリズムに走っている。

 こういった国のありさまを外国が眺めて軽蔑し、もはや、うらやむ、そのようなことはなくて、とにかく日本そのものが侮蔑の対象になっている。好きなことをされて、好きなことを言われている。なかんずく、北朝鮮には、物証も含めて数十人、いや、200人近いですか、人が拉致されて、中には殺されている。これを取り戻すこともできない。

 こういった国の実態を眺めて、この戦争未亡人が、あの戦のために死んだ自分の御主人というものを、自分の青春を想起しながら、とにかく、ただに惜しむという心情を吐露されたのは、私は、うべなるかなという気がしてならないんですね。

 さて、総理が総裁選に出られる前、ある人の仲立ちで一晩会食いたしましたが、そのとき、私、いろいろなことをあなたにお聞きして確かめました。非常に心強い思いをして、期待しておりました。

 まず、この国を今日の混乱あるいは退廃に導いた一つの大きな大きな原因である現行の憲法についてお聞きしたいと思います。

 人間の社会に存在するいろいろな規範というものは、結局は、人工的なものはあるでしょうけれども、人間の歴史の原理というものがこれを規制して、それにのっとっていると思いますね。

 戦争の勝利者が敗戦国を統治するために強引につくった即製の基本法というものが、国に敗れ統治されていた国が独立した後、数十年にわたって存続しているという事例を私は歴史の中で見たことがない。

 もし、ちなみに、日本という独立国の主権者たる、つまり最高指導者の総理大臣が、この歴史の原理にのっとって、かつて勝者がつくって一方的に押しつけた憲法というものを認めない、これは廃棄するということを宣言したときに、これを阻む法律的見解というのは果たしてあるんでしょうか。

 そういうものを含めて、あなたが今、日本の憲法についていかにお考えかをお聞きしたい」

 安倍晋三「確かに、今、石原先生がおっしゃったように、現行憲法は、昭和21年に、日本がまだ占領時代にある中においてマッカーサー試案がつくられ、そしてマッカーサー試案が、毎日新聞によってスクープをされるわけでありますが、このスクープを見たマッカーサーが怒り狂い、もうこれは日本に任せておくわけにはいかないということで、ホイットニーに命じて、そして、ホイットニーが2月の4日に民政局の次長であるケーディスに命じて、2月の4日だったんですが、2月の12日までにつくれと言って、ほぼ8日間、一週間ちょっとでつくり上げた。それが現憲法の原案であったわけでございますが、それが現在の現行憲法のもとである、このように認識をしております」――

 安倍晋三の答弁は内容によってではなく、「ほぼ8日間、一週間ちょっとでつくり上げた」作成時間の短さを基準としてその価値を決める(=貶める)素晴らしい認識能力を示している。

 テストで回答の正誤によってではなく、早い時間で書き上げて教室を出て行った生徒にではなく、時間ギリギリで書き上げた生徒に100点満点を与えるようなものである。

 石原慎太郎の質問の最初は、20前後で結婚したものの、早くに夫を戦死させてしまい、子どもを育て、親の面倒を見て戦後の日本を生きてきた90歳を超えた老婦人が、その生きてきた戦後の日本を顧みて、醜い国になった、夫はこのような醜い国になるために尊い命を捧げたわけではないのに惜しいことだと悔やんでいる様子を老婦人作の和歌を通して紹介、石原自身も、「国民の多くは、残念ながら我欲に走っている」と、戦後日本の日本国民の在り様を批判している。戦後日本国民の在り様の否定である。

 この両者の戦後日本の日本国民の在り様に対する認識を裏返すと、戦前日本の日本国民の在り様は醜いところは一切無く、当然我欲にも走らず、お国のために一途に尽くしたという歴史認識となる。

 このような歴史認識で戦後日本から戦前日本を振り返ることによって、そこに戦前の体制・戦前の状態に戻そうと願望する復古主義を介在させることになる。

 安倍晋三にしても戦後否定・戦前肯定の復古主義を抱えているから、精神的な意味ではなく、物理的な意味で、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」という戦前日本に於ける戦争賛美の発言が出てくる。

 占領軍が作った憲法だからとする現憲法否定は安倍晋三も同じだが、石原慎太郎自身も、「この国を今日の混乱あるいは退廃に導いた一つの大きな大きな原因である現行の憲法」だと、あるいは「かつて勝者がつくって一方的に押しつけた憲法」だと断じて日本国憲法を全面否定している。

 老婦人は「かくまでも醜き国になりたれば」と戦後日本を否定し、石原慎太郎は「本当に強い共感を持ってこの歌を聞いたんですが、国民の多くは、残念ながら我欲に走っている」と、老婦人の和歌を借用することで自らの戦後否定が自分一人だけが抱いている歴史認識ではないと思わせる補強のレトリックを用いている。

 そもそもからして戦前日本国民の在り様と対比して戦後日本国民の在り様を醜い、我欲に走っているとする石原慎太郎自身の歴史認識自体が、90歳を超えた老婦人の歴史認識もと言うことになるが、客観的正当性を全く欠いた錯誤によって成り立っていることに気づいていない。

 以下、このことを証明するが、90歳を超えた老婦人という一個人なら、それ程の影響の広がりを見せないだろうが、国の代表的な政治家の一人が客観的正当性を全く欠いた錯誤で成り立たせた自身の歴史認識を情報発信するだけではなく、90歳を超えた老婦人の生き様を自身の歴史認識の補強に用いて情報発信した場合、補強が他人を信じさせる事実らしさを装うことになって、戦前日本肯定と戦後日本否定の歴史認識は当然、影響の危険度が増す。

 以下の証明は殆ど、既にブログに用いた情報である。

 1998年放送のNHKテレビ『敗戦、そのとき日本人は』は、「本土決戦に備えて蓄えられていた軍需物資はアメリカ軍の調査によれば、全部で2400億円にのぼる。敗戦と同時に放出された軍需物資をめぐる不正は内務省に報告されている。軍やその関係者が物資を隠匿・流用していた。東京の陸軍の工場では、ダイヤモンドが2億4000万円程度紛失した。滋賀県では、特攻隊員が特攻機に物資を満載し、自宅に運んだあと、機体を焼却。不正に流失した軍需物資は闇市に溢れた。・・・・」――

 戦後蔓延した日本人の反社会的行動の原因をアメリカナイズされたと、流入アメリカ文化に帰す風潮が横行したが、軍需物資の隠匿・流用は終戦と同時に発生したのであって、連合軍が日本に進駐する前、アメリカナイズされる暇もないうちの出来事である。

 さらに言うと、占領時代に占領軍が作ったとしている現「日本国憲法」の精神が日本人の精神に及ぶはずもない時代の日本人の問題である。

 人間は変わる。戦争しているときは国のために戦ったとしても、生き残った者にしたら、敗戦によって戦争中の“国のために”は無意味化したことになり、破壊された国土と経済の中でどう生きていくかと考えたとき、手っ取り早く部隊に残された軍需物資を以後の生活の足しにと考えたとしても不思議はない。

 勿論、こういった不心得な軍人は一部だろう。だが、戦後日本に於いても、醜い行為に走る者、我欲に走る者はごく一部であるはずだ。

 危険なのはこういった行為に走る一部の日本人ではなく、一部の行為を以って戦後日本と戦後日本人の在り様を否定し、翻って戦前日本と戦前日本人を肯定する復古的思想・復古的歴史認識こそ、より危険であるはずである。

 現在の民主主義が許す限り、あるいはその民主主義をかい潜って、戦前の日本の体制に戻そうとする矛盾した行動性を抱えていることになるからだ。

 軍人が残された軍物資の隠匿・流用等の「かくも醜き」「我欲」(反軍行為・反社会的行為)に走ったのは何も終戦間際ばかりではなく、戦争中も存在した。

 そのことはR・ベネディクト著『菊と刀』が取り上げている。

 〈俘虜たちは彼らの現地指揮官、とくに部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった連中を口をきわめて罵った。彼らは特に、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たちを非難した。〉――

 捕虜の複数証言である。大日本帝国軍隊は天皇の軍隊という絶対的存在性を背景に国民に対して絶対的権力者の地位にあった。そして軍の組織に於いても軍上層部はその命令を忠実に受命させることを通して兵士に天皇への絶対的忠誠を求める絶対的権威主義の上下関係を構成することで上官自らを絶対的存在としていた。

 当然、指揮官の目の前では批判することができなかったが、捕虜となって指揮の呪縛から逃れることができてから、激しく批判することができた兵士も問題だが、絶対的上下関係を利用して自己保身から満足に戦闘に参加しなかった指揮官、部下を残して敵前逃亡を謀った指揮官たちの「かくも醜き」姿・「我欲」に満ちた存在は戦後の専売特許ではなく、戦前の専売特許でもあったことを証明している。

 日本軍が国民に対して持つ絶対的権力者の地位を利用して、民間人を伴って敗走中、足手纏いだからと幼い子供を殺して自分たちの命だけを守ろうとしたのは「かくも醜き」「我欲」そのものの姿と言うことができる。

 また、彼ら日本軍の上官たちにしても、戦後の「日本国憲法」の精神の影響は受けていない。

 《比で敗走中の旧日本軍 日本人の子21人殺害》朝日新聞/1993年8月14日)

 第二次大戦末期の1945年にフィリッピン中部セブ島で、旧日本軍部隊が敗走中、同行していた日本の民間人の子ども少なくとも21人を足手纏いになるとして虐殺した。

 フィリッピン国立公文書館保存の太平洋米軍司令部戦争犯罪局による終戦直後の調査記録に記載されているという。

 虐殺は南方軍直属の野戦貨物廠(しょう)の部隊によって1945年4月15日頃にセブ市に近いティエンサンと5月26日頃、その北方の山間部で二度に亘って行われた。

 1回目は10歳以下の子ども11人が対象、兵士が野営近くの洞穴に子どもだけを集め、毒物を混ぜたミルクを飲ませて殺し、遺体を付近に埋めた。

 2回目は対象を13歳以下に引き上げ、さらに10人以上を毒物と銃剣によって殺した。

 部隊司令官らの供述「子どもたちに泣き声を上げられたりすると敵に所在地を知られるため」

 犠牲者の母親「子どもを殺せとの命令に、とっさに子どもを隠そうとしたが間に合わなかった。(指揮官を)殺してほしい」――

 これが天皇陛下の軍隊の一つの姿でもある。

 沖縄戦末期には日本軍は沖縄住民に対して集団自決を強いているが、これも軍による国民に対して持つ絶対的権力者の地位利用からの住民生命の軽視であり、住民の生命軽視の上に成り立たせようとした自己保身・自己生命尊重であろう。

 これを「かくも醜き」「我欲」と言わずに、どう表現することができるだろうか。

 「かくも醜き」「我欲」の姿は何も戦前日本の軍人ばかりではない。

 アインシュタインが来日、各地の日本講演旅行を通して得た日本人の性格を、個人主義的ではなく、非個性的だが、家族の絆を大切にし、共同体と国家に対して誇りを持っていると、その美徳を高く評価した1922年(大正11年)前後の日本人の姿、その在り様を1976年初版の『日本疑獄史』(森川哲郎・三一書房)の最後に記載されている「日本疑獄史年表」からざっと眺めてみる。

 1918(大正7)年――「八幡製鉄所事件」
  八幡製鉄と政界をめぐる汚職。押川所長が自殺。

 1920(大正9)年――「東京砂利ガス疑獄」
  市会議員、業者をめぐる大汚職で67名が連座。

 1921(大正10)年――「満鉄疑獄」
  満州鉄道会社をめぐる疑獄事件。中西満鉄副総裁が罪に問われる。  

 1921(大正10)年――「阿片密売事件」
  植民地に於ける阿片密売に関して汚職事件が発生。世論騒然となる。

 1924(大正13)年――「帝都復興院疑獄」
  関東震災後の東京復興計画を巡って汚職事件が発生、十河信二氏らが疑いを受ける。

 1925(大正14)年――「松島遊郭事件」
  遊郭移転問題に関して汚職が発生。箕浦元逓相、岩崎政友会幹事長その他が連座。

 日本軍が関わった疑獄では、アインシュタイン来日9年前の1913(大正2)年、ドイツ・シーメンス商会と日本海軍高官を巻き込んだ艦船その他受注獲得を巡る汚職事件、「シーメンス事件」が発覚している。シーメンス日本人社員が自殺と書いてある。

 1926(大正15)年にはシベリア出兵の際の略奪した金塊その他を巡る陸軍省機密費の不正横領事件である「陸軍省機密事件」が発生している。

 石田検事が怪死。

 皆、戦後の「日本国憲法」の精神とは無関係の時代に生きた政・官・財・軍の生き様の数々である。

 こう見てくると、戦前日本及び戦前日本人の在り様肯定と戦後日本及び戦後日本人の在り様否定に当たる90歳を超えた老婦人の戦後日本と戦後日本人に対する「かくも醜き国」と見做す歴史認識、石原慎太郎の同じ対象に対する「我欲に走っている」とする歴史認識を客観的正当性を全く欠いた錯誤だと断じたことの間違いのないことが分かる。

 ましてや、石原慎太郎が戦後日本及び戦後日本人の在り様否定の根拠を、「この国を今日の混乱あるいは退廃に導いた一つの大きな大きな原因」として「現行の憲法」に置いている、あるいは「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」だと「占領憲法」を価値づけていることの客観的錯誤は底なしと言わざるを得ない。

 かくかように戦後日本否定・戦後日本人の在り様否定と戦前日本肯定・戦前日本人の在り様肯定の、戦前の日本を取り戻すことを願望とした誤った歴史認識の持ち主を、いくら議員の経歴が豊かであっても、いや、豊かであるからこそ、他への影響の大きさからしても、政界再編の一員に加えることの危険性は理解できるはずである。

 橋下徹の場合は、「新しい政党を作ることになれば、国会議員が中心になる」(YOMIURI ONLINE)と自身は参加しないことを表明しているから問題はないが、石原慎太郎及び同じ穴のムジナの位置を占めている旧太陽系議員だけは排除すべきだろう。

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安倍晋三のアベノミクス賃金上昇と企業収益向上好循環の自信に見る最低賃金千円としないことの矛盾

2013-07-26 09:14:10 | 政治



 以前にもアベノミクスと最低賃金について書いていて、似たような内容となるが、安倍晋三は参院選挙でアベノミクスの効果について散々に自慢していた。テレビの党首討論で、「実体経済は確実に良くなっています」と請け合っていた。

 アベノミクスは賃金上昇と企業収益向上の好循環を謳っている。上昇した賃金が消費に回り、その消費によって企業が収益を向上させ、利益を上げた企業がその利益を社員の報酬に反映させて賃金がなお一層上昇し、なお一層上昇した賃金がなおのこと消費に回り、その消費によって利益を上げた企業がなおなお一層社員の報酬に反映させて・・・・・といったとどまるところを知らない果てしない賃金上昇と企業収益向上の無限循環を描き出していた。

 円高を円安に切り替えることに成功したものの、賃金が上がらないうちに円安によって輸入生活物資や輸入燃料、輸入肥料等が高騰して一般生活者の生活を圧迫しだして、多分、焦ったのだろう、今年2月の経団連、 日商、経済同友会の経済3団体に対して直接の賃上げ要請を行ったが、団体は実体経済が動かないうちからのベースアップに難色を示し、ボーナス等の一時金で対応した。

 そして参院選前の2013年7月7日のフジテレビ「新報道2001」――

 安倍晋三「雇用市場がタイトになれば、間違いなく有効求人倍率がリーマンショック前に戻りましたね。段々、段々ですね、え、給料は上がっていきますし、この夏のボーナス、64社、7%のボーナスが上がるんです」――

 同じく2013年7月7日のNHK総合テレビ「日曜討論」――

 安倍晋三「この夏はですね、大手でありますが、7%、あのバブル期以来の伸び率になっていきますから、私は必ず賃金は上がっていくと、このように確信をしております」――

 どうも安倍晋三は大手企業のボーナス、もしくは賃金が上がりさえすればいいと考えているらしい。

 この大手企業「64社、7%のボーナス」について、《大手のボーナス7.37%増 自動車業界は突出14%超》asahi.com/2013年5月30日19時51分)が具体的に伝えている。

 経団連が5月30日発表した大手企業夏のボーナス第1回集計である。

 組合員平均で84万6376円。前年夏比でプラス7・37%の5万8060円増。これはバブル景気以来の伸び率で、増加は2年ぶり。

 但し、〈恩恵は自動車業界にかたよっている。〉と解説している。14・15%増の92万5859円。

 「時事ドットコム」記事によると、自動車や自動車部品の対米輸出が好調で、2013年上期(1~6月)の貿易統計速報(通関ベース)で2兆9423億円の黒字となったと書いているが、そのような実績に裏打ちされた自動車業界偏向のボーナス奮発ということなのだろう。

 この黒字は3期連続で前年同期を上回っているということだから、円安だけに頼った黒字ではなく、米国の景気回復に支えられた黒字でもあるはずだ。

 自動車業界に続いて東日本大震災の復興需要があるセメント業界が4・96%増となっているが、これもアベノミクス効果ではなく、被災がもたらした企業収益向上という皮肉な効果が結果となって現れているはずだ。

 2013年6月14日閣議決定した「日本再興戦略 -JAPAN is BACK-」は謳っている。

 〈持続的な経済成長に向けた最低賃金の引上げのための環境整備・全ての所得層での賃金上昇と企業収益向上の好循環を実現できるよう、今後の経済運営を見据え、最低賃金の引上げに努める。その際、中小企業・小規模事業者の生産性向上等のための支援を拡充する。〉

 〈全ての所得層での賃金上昇〉を約束していながら、大手企業の一部に限った「この夏のボーナス、64社、7%のボーナスが上がるんです」と、都合がいいだけの統計を抜き出して、全体で見た場合は不正確・不正直となる情報のタレ流しを行なってアベノミクス効果の宣伝ができるということは、安倍晋三の景気回復・経済成長が大企業に重点を置いた上から目線となっていることの証明であろう。

 だからこそ、「安倍政権になってですね、5月、前年同月比、60万人増えました」と、その中に非正規雇用が多く含まれていることを無視して、アベノミクス効果の一つに入れることができる。

 また、大企業に重点を置いた上から目線となっているからこそ、「日本再興戦略 -JAPAN is BACK-」が謳っている「最低賃金の引上げのための環境整備」にしても、円安によって最初に生活の打撃を受ける最低賃金生活者(中には夫婦共稼ぎで、妻は最低賃金で働いていても、夫が十分な賃金を得ている場合もあるが)を後回しにして、企業や商業者、経営者の上部団体である経団連、 日商、経済同友会の経済3団体に賃上げの要請ができる。

 いわば上が豊かになって、その利益が下に流れるのを待つ上から目線であって、上は上として扱い、それとは別に下の賃金を底上げして、その消費が一段上の賃金上昇に繋げていく、下も忘れない上下同時の賃上げ思考とはなっていない。

 安倍政権は物価上昇2%目標に対応させて最低賃金2%超の引き上げを今年10月頃に予定している平成25年度最低賃金改定に合わせて引き上げる方針だということだが、何も10月改定を待つまでもなく前倒ししてもいいわけで、そうしないで2月に経済3団体に賃上げの要請をしていながら、8カ月遅れること10月実施予定ということは、上下同時というわけではなく、「日本再興戦略 -JAPAN is BACK-」に「最低賃金の引上げのための環境整備・全ての所得層での賃金上昇と企業収益向上の好循環」と書いていることに対してあくまでも後付けの下に対する配慮ということになる。

 もし安倍晋三がアベノミクスが描いている賃金上昇と企業収益向上の好循環に自信があるなら、最低賃金上げが中小企業の経営を圧迫することがあっても、その圧迫は好循環がそのうち吸収することになる予定的調和でなければならない。

 現在の最低賃金は全国平均で時給749円。2%超だと、平均15円超の引き上げになるそうだが、それが全国一律時給1000円の最低賃金上げであっても、そのコスト上昇を好循環が吸収するまでの間政府が何らかの支援を行うか、中小企業が大手企業と下請け関係にある場合は、大手企業は260兆円の内部留保があるということだから、中小企業が最低賃金を上げることによって人件費に余分にかかるコストを下請製品単価に反映することを許す何らかの措置を取ることで、経営圧迫を回避できる。

 また、時給1000円と上げ幅が大きい場合、元の時給を750円とすると、1日6時間働いて1500円の昇給、1カ月20日労働としても、30000円の上乗せ収入は預金に全額回すケースもあるだろうが、一般的には消費に回す余地を大きくするはずで、より上の段階の賃金と消費をも押し上げいく、下からの好循環が期待できないわけではない。

 上からだけではなく、下からの好循環のレールに乗ったなら、中小企業の経営圧迫は上下からの吸収の力が働く。

 どう考えてみても、最低賃金を時給平均749円から平均で15円程度引き上げる予定だということはアベノミクスが謳っている、消費行動を介在させた賃金上昇と企業収益向上好循環の自信に矛盾する、下からの目線を欠いた、上からの目線により重点を置いた措置に見えて仕方がない。

 参院選挙の各テレビ局の党首討論や街頭演説で見せたアベノミクス効果の自信の大きからか判断したら、最低賃金時給1000円でなければ、妥当性を見い出すことはできない。

 大企業に重点置き、その利益が下に流れるのを待つ上から目線がアベノミクスの本質だということなら、賃金上昇と企業収益向上の好循環にしても上に重点を置いた発想ということになって、どうもそれが確かなことのように見えるが、10月の平成25年度最低賃金改定に合わせて前倒ししないことからも、高々最低賃金平均2%程度上げは下への目線も忘れていないことを示す後付けのアリバイ作りの疑いが出てくる。

 上から目線を主とし、下から目線を疎かにしたら、いくら景気を回復したとしても、小泉内閣・第1次安倍内閣時代の「戦後最長景気」のときの大企業は軒並み戦後最高益を得ていながら、賃金も上がらない、消費も増えない実感なき景気の二の舞となる恐れが出てくる。

 参考までに――

 2013年7月12日、当ブログ記事――《安倍晋三の最低賃金上げ「10円以上」に見るアベノミクス賃金上昇好循環への裏切りと格差無視の政治体質 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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菅無能の何の覚悟も責任意識も危機管理もなかった東京選挙区党非公認候補支援の危機管理

2013-07-25 10:08:56 | Weblog



 民主党は今回の参議院選挙の東京選挙区(改選数5)で公示直前に2人の現職のうち、共倒れ回避策として鈴木寛だけを公認し、大河原雅子を非公認とし、後者は無所属で立候補することになった。

 選挙情勢を読んでの決定だったはずだ。

 各メディアの事前の世論調査では比例投票先で自民党が30%超、40%近くに達している調査もあり、民主党は10%以下。選挙区投票先も自民党が30%前後、民主党は自民党に対して3分の1の10%前後に低迷。

 政党支持率にしても自民党の40%前後に対して民主党は10%以下。

 当然、民主党執行部は背水の陣で参議院選挙戦に臨んだはずである。

 東京選挙区1人公認が例え間違った選択であったとしても、執行部の背水の陣からの決定であったろう。大河原雅子の残された選択は当選して胸を張って民主党に戻ることである。

 落選したら、それまでである。それなりの覚悟があって、選挙に立ち向かったであろう。

 大河原雅子非公認の民主党執行部決定に反して、あの菅無能が大河原雅子の支援に回った。当然、菅無能にしてもそれなりの覚悟があったはずだ。

 単なるヒラ議員が支援に回ったのとは訳が違う。民主党政権下の元首相であり、執行部の最重要メンバーを経験している。その人物が執行部の意に反する行動を取ったのだから、重みが違ってくるし、社会に与える評価も違ってくる。反旗を翻したと取られたとしても仕方はあるまい。

 会社に譬えるなら、平社員が社長に反旗を翻したといった事柄でではなく、元社長が現社長に反旗を翻したような重大さがあるはずである。

 また、菅無能は今日の民主党の衰退を最重要な立場で招いた一人である。2010年参院選直前に周到な準備もせずに不用意に消費税増税を打ち上げ、選挙で大敗、公示前勢力116議席から106議席に減らし、国民新党公示前6議席と併せて維持していた過半数さえも失って、ねじれ国会を招いた。

 さらに東日本大震災では被災者の救助・救援に遅滞を来たし、福島原発事故では危機管理対応に様々な混乱をもたらし、国民の政権交代に対する期待と希望を裏切り、失望へと変えていった。

 菅無能内閣がそれなりの支持率を維持できたのは民主党に対する失望との狭間で首相がコロコロ変わることへの国民の忌避感が支えた消極的選択であったはずだ。

 いわば民主党が2013年参議院選挙で背水の陣を敷かざるを得なくなった現在の進退窮まった状況に菅無能も責任の一端を負っているということであり、その背水の陣が東京選挙区にも波及した公認1人・非公認1人ということである以上、それが菅無能自身が決めたことではなく、執行部が決めたことであったとしても、その決定に関して自らの責任の範囲内にあることになるばかりか、首相経験者としても、あるいは執行部経験者としても、それなりの責任を自覚して行動しなければならないことになる。

 にも関わらず、党が非公認とした候補者を民主党にとどまったまま支援することは民主党の衰退を菅無能も関わって招いた結果としての党執行部の決定に対する菅無能自身も担っている責任の放棄に当たり、責任を自覚した行動とは言えなくなる。

 責任を放棄する以上、非公認の大河原雅子を支援すると決めた時点で民主党離党を決めて支援する覚悟が必要だった。今日の民主党の衰退を招いたのは私にも大きな責任があります、当然、東京選挙区の党公認の状況にも責任があります、非公認候補を支援する以上、離党して支援しますと言う覚悟が。

 そのような覚悟と責任意識が、離党しないままなら待ち構えることになるかもしれない党の処分に対する危機管理ともなり、そ手の危機管理が自身の経歴や責任放棄をそれ以上に傷つけないための備えともなったはずだ。

 だが、民主党を離党もせず、民主党にとどまったまま、現在の民主党の衰退を招いた責任、衰退の結果としての東京選挙区の公認事情などどこ吹く風で非公認候補支援を貫いた。責任放棄を続け、そのことによって自分では気づかずに世間一般が抱く経歴を損ない続けた。

 その結果、公認候補も非公認候補も落選、共倒れを招くことになった。

 民主党執行部が菅無能に対する処分を検討することになったのは当然であろう。《「菅元首相は自発的に離党を」》NHK NEWS WEB/2013年7月24日 12時7分)

 7月24日の午前中、海江田民主党代表が東京都内のホテルで菅無能と会談、党の公認を取り消された無所属候補を支援したことは「重大な反党行為だ」として、自発的に離党するよう促し、受け入れない場合は除籍処分にすることも検討していると記事は書いている。

 会談の結末は菅無能自身が自らに近い議員対して発言したという言葉が証明することになる。

 菅無能「党が掲げる政策に近い候補を応援しただけだ」――

 記事はこの発言を〈離党には値しないという考えを示し〉たものと解説しているが、自分は悪くはないと意思表明したのである。

 共倒れを招いている以上、「党が掲げる政策に近い候補を応援しただけだ」といった問題ではないはずだが、それだけの問題としていること自体が菅無能の無能たる所以を証明しているだけではなく、大した覚悟で非公認候補を支援したわけではないことをも証明することになる。

 覚悟の無さは現在の民主党の衰退を招いた責任と、この責任と対応することとなる、党勢衰退の結果としての東京選挙区の公認事情に対する責任を何も弁えていないことと表裏をなしているはずだ。

 覚悟もない、責任意識もない当然の結果として、菅無能は自発的離党を拒否。民主党は同24日午後、常任幹事会を開催、菅無能の処分を諮った。

 ここでも菅無能は自発的離党を拒否、多分殆どが菅無能グループ所属の議員なのだろう、出席議員からも菅無能処分に反対や反発の声が上がったという。結論持ち越し、再協議である。

 《民主 菅氏の処分は週内に再協議》NHK NEWS WEB/2013年7月24日 17時40分)

 自発的離党が拒否なら、除籍とする案を倫理委員会で諮ることにしたという。記事は常任幹事会出席議員の発言を紹介している。

 出席議員「参議院選挙で菅氏と同様の行動をとった議員もおり、菅氏だけを厳しい処分にするのはおかしい」――

 菅無能と「同様の行動をとった議員」がどの程度の議員か分からないが、例えそれが閣僚経験者であったとしても、菅無能は元首相であり、執行部を最重要なメンバーとして経験した人物であるその立場と、立場に伴う責任と覚悟の重大さは比較できないはずだが、比較もせずに立場と責任と覚悟を同等に扱う矮小化は菅無能に匹敵する無能だからこそできる解釈であり、やはり類は友を呼んで組織した菅無能グループの一員ということでなければ、整合性が取れない。

 海江田以下の民主党執行部が一旦持ち出した処分を処分通りに実行でずに処分撤回ということになった場合、他の政党の議員から失笑を買うだけではなく、国民の失笑まで買い、国民の民主党に対する失望を益々大きくすることになるだろう。

 菅無能の元首相としての覚悟の程も民主党衰退を招いた責任の自覚も、自身の立場に対する危機管理も何もない、今回の東京選挙区での非公認候補支援の情けない一幕が海江田民主党執行部の組織管理能力をなお一層試すことになっている。

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安倍晋三に不正確な情報をタレ流させて選挙戦を有利にさせた野党党首たちの責任

2013-07-24 10:23:08 | Weblog


 
 昨日(2013年7月23日)、パソコンを叩き“ながら視”していたNHKテレビ番組「クローズアップ現代 検証“ネット選挙”」で、街頭演説を行なっていた安倍晋三が、大写しになっていたから、周囲はよく見えなかったが、テレビ画面で見た限りでは多くの聴衆を前にして、「安倍政権になってから、GDPがプラスの4.1%になった」とか、汗をかいた顔でマイクを握り、声を張り上げていた。

 番組はその場面を伝えただけで、別の場面に移っていったから、次にどのような言葉を発したかは分からない。

 そのとき瞬間的に気づいたのだから、後付けの知恵となるが、要するに安倍晋三は有権者に対してアベノミクスの効果を印象づけるべく数字を、選挙戦を通じてのことだろう、操作していたのだから、野党党首達はそのことに対抗して、不正確な情報を垂れ流す、人間的に信用の置けない政治家という逆の印象づけを行って対抗すべきではなかったかと気づいた。

 安倍晋三のアベノミクス効果の印象づけが、それが不正確な情報であっても、無党派層の票獲得に力を発揮したはずだ。逆説するなら、野党各党は安倍晋三に対して不正確な情報による無党派層の票獲得をみすみす許したことになる。

 勿論、GDPプラス4.1%は正確な数字だろうが、株高と円安が押し上げたGDPプラス4.1%であって、株を持たないばかりか、為替変動が円安に振れたときに利益に関係しない場所にいて、また実質賃金が上がらない状況下のその他大勢の一般国民にはGDPプラス4.1%は意味のない数字であって、正確な情報とは決して言えない。

 逆に円安は輸入生活物資の高騰と電気代等の高騰を招き、生活を圧迫する要因となって一般国民を襲う。

 不正確な情報を流すのは不正直だからである。国民各階層に満遍なく向ける目を持たないから、不正確な情報を平気で垂れ流す不正直を犯すことになる。

 先行きGDPプラス4.1%がさらにプラスの上昇気流に乗せて一般国民の賃金につながっていく保証があるなら、正確な情報とも言えるが、2001年4月26日から2006年9月26日の小泉内閣時代と2006年9月26日から2007年9月26日の第1次安倍内閣時代と重なって2002年1月から2007年10月までの69カ月間続いた「戦後最長景気」の際は大企業は軒並み戦後最高益を得ながら、賃金に反映されず、当然、個人消費も伸びず、実感なき景気と言われた前例もあるのだから、GDPプラス4.1%が賃金につながる保証があるわけではない。

 すべての国民にほぼ同等に利益を配分するGDPプラス4.1%ではないにも関わらず、安倍晋三は有権者にアベノミクスの効果を示す数字として宣伝し、効果を印象づける情報として巧妙な用い方をした。

 このGDPプラス4.1%は2013年6月18日の「G8サミット閉幕後内外記者会見」でも、記者の質問に対して用いている。

 安倍晋三「GDPの成長率は、昨年の7月、8月、9月は、マイナスの3.6%だった。しかし、それが今年に入って1月、2月、3月は、プラスの4.1%、マイナスからプラスに、ネガからポジに、私たちが進めている政策によって変わったんですね。そして4月の数値を見てみると、消費においても生産においても数値は改善しています」――

 「消費においても生産においても数値は改善しています」と言っているが、主体は高所得層の消費に傾いた数値改善であり、生産も円安で利益を受けた主として外需産業であって、産業全般に亘る生産の改善ではないのだから、不正確・不正直な情報のタレ流しであることに変りはない。

 参議院選挙ということで日本記者クラブを始め、各テレビ局が党首討論を開催した。そこでも安倍晋三は不正確・不正直な情報をタレ流していたのだから、単にその情報を批判するだけではなく、不正確・不正直な情報を流布させる、人間的に信用の置けない政治家という、事実その通りの印象づけを行なって対抗手段とすべきではなかったろうか。

 7月3日の日本記者クラブ9党党首討論から始めて、各テレビ局の党首討論を日付順に、既に文字に起こしてある箇所に限って、安倍晋三が不正確・不正直な情報を流布させている発言を、既にブログに書いてあることと重なる箇所もあるが、再度取り上げて、それらの発言に対する野党党首の対応を見てみることにする。

 7月3日日本記者クラブ9党党首討論――

 小沢一郎生活の党代表の非正規雇用拡大に対する質問に答えた安倍晋三の発言だが、質問と回答が1回限定形式となっていて、小沢氏にはその場での反論の機会がない。だが、次の質問の順番が回ってきたとき、不正確な情報であることを追及して、信用の置けない政治家であるという印象づけを行うべきだったが、そういった戦術は取らなかった。

 安倍晋三「先ずね、雇用について言えば、安倍政権になってですね、5月、前年同月比、60万人増えました。そしてですね、いわゆる有効求人倍率、0.9になりましたね。これはリーマンショック前に戻りました。

 我々の政策によって、(声を強めて)明らかに実体経済が良くなって、雇用にもいい影響が出てきました。そして雇用市場がタイト(=不足)になって来れば正社員は増えていきます。

 事実、正社員、4月2万人求人が増えています。ですから、間違いなく、これはまだ半年間で、このような数字が出ていますから、これを続けていけば、必ず皆さんに実感していただけるだろうと、こう、オー、確信しております」――

 すべて不正確・不正直な指標で成り立たせた不正確・不正直な情報のタレ流しを駆使したアベノミクス効果の印象づけに過ぎない。
 
 「5月、前年同月比、60万人増えました」と言っても、その中に多くの非正規雇用が含まれているし、 「有効求人倍率、0.9」にしても、正社員に限った有効求人倍率ではないし、「正社員、4月2万人求人が増えています」と言っているが、2万人すべてが正社員であるわけではないと見て、明らかにウソの情報だとブログに書いたが、改めて調べ直してみた。

 厚労省HP――《第1表 一般職業紹介状況(新規学卒者を除きパートタイムを含む)》を見ると、正社員の新規求人数は3月305753人に対して4月326870人となっていて、確かに21117人、安倍晋三が「正社員、4月2万人求人が増えています」と言ったとおりに増えている。

 この点に関しては正確・正直な情報の流布と言うことができる。

 だが、非正規・パート等を含めた全数で、前年同月比707643人に対してプラス10.5%となっているものの、4月新規求人数は698062人で、3月の793120人よりも95058人減っている。

 常用と言うことで見てみると、前年同月比ではプラス9.1%の639926人で、58136人増ではあるが、3月706717人に対して4月 698062人の8655人減で、やはり減っている。

 新規求人数を取るだけでも、格差拡大を見て取ることができる。

 要するにアベノミクスの効果を印象づけ、宣伝するために都合のいい統計だけを有権者に提示する情報操作、不正確・不正直な情報流布を駆使しているに過ぎない。

 このような選挙戦術は果たして人間的に信用の置ける政治家の遣り方と言えるだろうか。

 上記調べ直した以外のことは2013年7月5日当ブログ記事―― 《安倍晋三がウソつきだと分かる小沢一郎生活の党代表の党首討論雇用質問に対する答弁 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いて、記事最後の結論で、〈安倍晋三ははっきり言って、ウソつきである。〉と断罪したが、不正確・不正直な情報を垂れ流す、人間的に信用の置けない政治家であると事実その通りに印象付ける選挙戦術が必要なことまで考えていたわけではない。

 7月3日の日本記者クラブ9党党首討論から4日後の7月7日フジテレビ「新報道2001」でも、安倍晋三はほぼ同じ繰返しの不正確・不正直な情報で以ってアベノミクスの効果を印象づける戦術を用いている。

 安倍晋三「私たちは明確な物価安定目標を示しています。その中でですが、景気が動き始めている中に於いて、雇用は段々創出され始めました。民主党政権下、55万人正規社員が減りました。

 しかし政権替わってからですね、求人ではありますが、2万人正社員、求人増えた。そして前年度比で5月60万人、雇用が増えたんですね」――

 司会者からこの安倍発言に対する意見を直接求められて、志位和夫共産党委員長が発言している。

志位和夫共産党委員長「今、総理が昨年比で60万人雇用を増やしたと言ったのですが、中身を分かっておっしゃっていらっしゃるのでしょうか。

 60万人と言いますが、増えたのは非正規(雇用)が116万(人)、正社員は47万(人)減っているんですよ。つまり、正社員から非正規への大規模な置き換えが進んでいる。これは、ずっと自民党政権下で、労働法制の規制緩和をやってきた結果なんですね」――

 志位委員長は続けて話題を解雇の自由化等の問題に移してしまう。「60万人雇用」の中身を解説したのみで、特に内容の不正確さを批判したわけではないし、不正確・不正直な情報を垂れ流す信用の置けない政治家という文脈で印象づける戦術を取ったわけではない。

 あの場で、「いい加減な情報を垂れ流して、有権者をたぶらかさないでください」と一言釘を差し、各遊説の先々で、このような人間的に信用の置けない政治家だと印象づける選挙戦を展開したなら、少しは違う結果を招くことができたのではないだろうか。

 フジテレビ「新報道2001」と同じ7月7日のNHK「日曜討論」

 安倍晋三「雇用に於いても60万人、えー、増えたんですね。前年同月比。えー、増えました。正社員についても2万人、増えた。

 段々労働市場がタイトになってくれば、必ず労働条件、えー、賃金も上がっていく。えー、この夏はですね、大手でありますが、7%、あのバブル期以来の伸び率になっていきますから、私は必ず賃金は上がっていくと、このように確信をしております」――

 「新報道2001」志位共産党委員長から「60万人雇用」の中身の不正確さを指摘されながら、その舌の根も乾かない短い時間の経過後に、性懲りもせずに「雇用に於いても60万人、えー、増えたんですね。前年同月比」と言って、その不正確・不正直な情報をアベノミクスの効果を印象づける情報として利用している。

 正社員新規求人2万人にしても、他の新規求人数を隠しているのだから、同じ利用ということができる。

 アベノミクスの効果を印象づけるこのような不正確・不正直な情報で、どれだけの有権者を釣り上げたのだろうか。

 2日後7月9日の夜のTBS テレビ「NEWS23」

 安倍晋三「あの、実体経済は確実に良くなっています。有効求人倍率は0.9ですから、これはリーマンショック前に戻りました。去年同月比で雇用も60万人、ま、増えています」

 続けて海江田民主党代表、その他が発言しているが、安倍晋三が発信する不正確・不正直な情報のタレ流しを攻撃する文脈での発言ではなかった。

 志位委員長「今のですね、経済情勢の認識がですね、安倍さん、良くなった、良くなったと一点張りなんですが、例えば雇用は60万人増えたとおっしゃるけれども、正社員は1年間で47万人減っているんですよ。

 つまり、正社員は非正規社員への置き換えが起こってる、こういう状態なんですね。・・・・」――

 志位委員長にしても批判とまではいかない、語調からしても中身の単なる解説で終わって、「新報道2001」と同様、労働法制の規制緩和を批判、労働のルールの立て直しの必要性を訴える発言につなげていったのみである。

 翌日7月10日の朝日テレビ「報道ステーション」

 古館伊知郎アナ「(安倍晋三の来年には賃金が上がるとする主張に対して、かち合う形で)消費税が来年上げるとすると、消費が冷え込むという見方が当然出てくるんで、課題が難しいところですね」

 安倍晋三「あの、これは非常に難しいところでしてね、あの、ま、実際、あの、雇用も、えー、5月前半、同月比60万人増えて、段々雇用の状態が良くなっていけば、雇用市場、段々タイトになって、賃金が上がっていくという状況も出てくるんですが、来年の4月、消費税3%上げる、この3党で決めた。

 これは伸びていく社会保障、あるいは大きな借金がありますから、国の信認を保たなければならない。・・・・」――

 アベノミクスは円安・株高によって経済格差拡大を招いている。デパートでは高額商品が売れ、住宅販売が伸び、高級自動車が売れて、大型自動車志向が高まっている。

 だが、多くの国民が給与が増えない状況の中、スーパーで1円の節約に血眼になっている。

 当然、この経済格差は雇用60万人の中の正規・非正規と相互反映し合う。

 安倍晋三はこのような中身の実態を隠して、アベノミクスの効果を印象づけるプラスの情報としてタレ流し、そのような情報に踊らされたのだろう、自民党は今回の参院選挙で無党派層の支持を大きく受けた。

 逆に民主党は無党派層の支持を失い、それが全体の獲得議席に現れた。

 あとで気づく寝小便でしかないが、もし野党党首達が各テレビ討論や街頭演説で安倍晋三を不正確・不正直な情報を垂れ流す、人間的に信用の置けない政治家と印象づける戦術を取って攻撃したなら、無党派層の投票動向もまた違った様相を見せたのではないだろうか。

 いや、遅くはない。飯島訪朝の結果報告もしていない。谷内、谷口訪中の結果も公表していない。芳しい結果を得ることができなかったからこそ公表しないのであって、いわば情報を隠蔽している状況に置いている。都合の悪いことは隠し、都合のいいことだけを白日に曝す。

 今後共不正確・不正直な情報を垂れ流して、アベノミクスの効果を印象づける戦術を取るだろうから、野党各党は国会追及等で、安倍晋三を正確・不正直な情報を垂れ流す、人間的に信用の置けない政治家と印象づける戦術を取って、対抗すべきではないだろうか。

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安倍晋三の「条件を呑まなければ首脳会談をやらないは正しくない」の中国批判はご都合主義の御託

2013-07-23 09:07:47 | Weblog

 安倍晋三が参院選投票日の7月21日(2013年)夜、日本テレビの番組に出演、日中関係と閣僚の靖国神社参拝、さらに自身の参拝について次のように発言したと次の記事が紹介している。《首相、中国を改めて批判 条件つき首脳会談「おかしい」》asahi.com/2013年7月21日23時5分)

 安倍晋三「問題があるからこそ対話をしていく必要性は高まっていく。対話のドアは開いていると申し上げている。中国側も対応していただきたい。こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体は少しおかしい。

 国のために戦った方々に敬意を表し、ご冥福をお祈りするのは当然のことで、外国からいろいろと指図される謂(いわ)れはないだろう。

 (自身の参拝は)外交問題に発展していく中に於いて、申し上げないという姿勢だ」――

 閣僚の参拝は「外国からいろいろと指図される謂れはないだろう」とは何と強気な。参議院選挙で自民党が大勝し、自公安定多数を獲ち取っただけあって、強気を通り越して、驕りが既に出てきたか。

 安倍晋三は7月3日(2013年)の日本記者クラブでの9党党首討論で、「靖国神社に眠っているのは国のために戦った兵士たちの魂で、戦争の目的や理念とは関係ない」と発言しているが、それは安倍晋三の都合であって、戦争をさせられ、植民地とされた国々にとっては戦争そのものを導き出した「目的や理念」を個別の問題にも当てはめていくゆえに戦死者に対しても「戦争の目的や理念」は常に関係してきて、単に魂の問題としてのみ取り扱うことはできないはずだ。

 何よりも問題なのは安倍晋三が靖国神社に祀ってある死者を「国のために戦った兵士たちの魂」だけと矮小化するゴマ化しが存在することである。

 A級戦犯と言われる戦争指導者たち、例え国内法的には犯罪人ではなくても、国外に於いては関係しないことであって、侵略戦争を仕掛け、韓国を始め、アジアの国々を植民地化していき、それがことごとく失敗して国内外に多くの死屍累々を招き、国内外の国土の破壊を招いき、国の進路を誤った指導者たちが祀ってあることについての言及はない。

 戦争指導者たちがそこに魂の形で眠っているとしても、戦争被害国から見た場合、その魂から果たして「戦争の目的や理念」まで剥ぎ取ることはできるだろうか。

 安倍晋三が靖国神社参拝について言っていることはご都合主義の歴史認識に過ぎない。

 安倍晋三は日中関係について、「こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体は少しおかしい」と中国の姿勢を批判しているが、自分がどれだけご都合主義の御託を並べ立てているか、その矛盾に気づいていない。

 だったら、安倍晋三も日本側の条件を提示することはやめるべきだ。例え条件を提示するだけで、その条件を呑むように要求しなくても、提示した段階でそれを呑むことを要求する形を取ることになる。

 そうでなければ、条件の提示は無意味となる。

 日本は常々中国に対して「尖閣諸島は日本固有の領土で領土問題は存在しない」という姿勢を取り、話し合いを拒んでいるが、「領土問題は存在しない」と主張すること自体、条件の提示に当たる。

 その条件は譲ることはできないと言うなら、中国側の「条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢」にしても、中国側からしたら譲ることのできない条件ということであって、日中同じ態度を取っていることになり、批判する要件を失うことになる。

 日本側が提示した条件を中国側が呑まないことによって首脳会談が実現しない日本側の姿勢は問題とせず、中国側が提示した条件を日本側が呑まないことによって首脳会談が実現しない中国側の姿勢のみを批判するのは無能なご都合主義の御託以外の何ものでもない。

 一度ブログに用いたが、中国政府が6月中旬、日本側に首脳会談開催の条件を伝え、受け入れを求めたと、2013年7月2日付け「YOMIURI ONLINE」記事が伝えている。その条件とは――

 〈1〉日本政府が領土問題の存在を認める
 〈2〉日中双方が問題を「棚上げ」する

 この2条件は中国側の尖閣問題についての従来からの対日基本姿勢であって、日本側も承知していた内容であるはずである。
 
 中国側のこの条件提示に対して谷内(やち)内閣官房参与が6月17日、18日と中国を訪問、「日本政府として、認められない」と拒否の回答をしたという。

 拒否回答だけでは外交は成り立たない。訪中した谷内内閣官房参与が中国側の条件提示に対する日本側の見返りの条件提示を行ったことを2013年7月9日付け「47NEWS」が共同配信の記事で伝えている。

 〈1〉領土問題の存在は認めない
 〈2〉外交問題として扱う
 〈3〉中国が領有権を主張することは妨げない

 これらの条件は相互に矛盾する。この場合の外交問題は領土問題の存在を前提としなければ成り立たない。中国の領有権主張を可能とするためには領土問題存在の前提を必要とする。

 要するに〈2〉と〈3〉の条件を成立させるためには〈1〉の条件が障害となるゆえに取り下げなければならないにも関わらず、取り下げもせずに〈1〉を絶対条件として成立するはずもない〈2〉と〈3〉を提示する矛盾である。

 菅官房長官が7月9日の記者会見で、「提案した事実はない」と否定している。

 但し安倍晋三は7月に入ってから、中国が尖閣問題で力による現状変更を試みているとする批判をエスカレートさせている。単に参院選向けの外交能力誇示を目的とした批判だけではあるまい。中国側の「こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体」に対する苛立ちが誘発することとなった批判のエスカレートでもあるはずだ。

 菅官房長官の事実否定にも関わらず、もし中国側が2条件を提示したのみで呑むことを要求され、日本側が2条件に代わる見返りの条件を提示もせずに、「こちら側が条件を呑まなければ首脳会談をやらない、という姿勢自体は少しおかしい」と批判しているのだとしたら、安倍晋三の外交無能力を曝す証明としからない。

 もし日本側が中国側が提示した2条件を呑むことができないと拒否、それに代わる何らかの見返りの条件を提示したものの中国側が呑むことはできないと拒否したとしたら、相手の条件を呑まないという点に於いて同じことをしたことになり、既に触れたように安倍晋三の「こちら側が条件を呑まなければ」云々の中国批判は無能なご都合主義の御託そのものとなる。

 事情がどうであれ、相手国がある外交問題で進展がないのは相手国に問題があるにしても、相手国に対して有効な手を打つことができていない閉塞した状況をも示しているはずで、にも関わらず相手国を批判ばかりしているのは有効な手を打つことができない自らの閉塞状況を棚に上げることになり、卑怯な批判となりかねない。

 飯島訪朝についても、谷内内閣官房参与訪朝についても 谷内参与の後を追うようにして訪中した谷口内閣審議官の件についても安倍内閣が何ら公表していないのはいずれも失敗したか、何ら進展を見なかったかのどちらかであろう。

 当然、批判ばかりしてはいられないはずである。にも関わらず、批判をエスカレートさせている。外交関係を進展させることができるか否かが自己にかかっている外交能力であるなずなのに、批判することで却って外交関係の進展を阻害する逆行に意を止めない様子からは批判が自己の外交能力を正当化させる手段となっているような感しか窺うことができない。

 正当な根拠もなく「尖閣諸島は歴史的にも法的にも日本固有の領土である」と言っているわけではあるまい。正当な根拠があるからこそ言っているはずである。

 根拠があるなら、領土問題の存在を認めて、話し合いのテーブルに持ち出し、その正当な根拠を示して、尖閣諸島が日本の領土であることを主張、最終的に決着づければいい。

 話し合いが決裂したとしても、実効支配という有利な条件を握っているのだから、現状の変更は回避できる。

 中国周辺の外国を訪問して、力による領土・領海の一方的変更の反対、平和的解決を訴えるよりも、話し合いのテーブルで討議したすべての内容を情報として公開した方が遥かに説得力を持つはずだ。

 安倍晋三がそういった具体的方法を選択せずに口だけ勇ましいことを言っているのは自己の外交無能力を隠す犬の遠吠えとしか判断しようがない。

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安倍晋三の日本が鎖国国家なら許される一国のリーダーとしての資格

2013-07-22 08:32:56 | Weblog

 日本は政治的にも経済的にも一国で成り立っているわけではない。外国との関係が日本のすべてを決定するわけではないが、基盤のところで外国との関係に大きな影響を受けて、その影響の中に日本は存在する。それは為替や株の動き一つ取っても、その相互関連性が理解できる。

 このことを逆説すると、わざわざ断るまでもないことだが、世界の中で日本を一国で成り立たせることは不可能ということになる。

 安倍晋三は第3次小泉内閣で内閣官房長官を務めていたとき、2006年2月16日の衆議院予算委員会答弁で既に日本の侵略戦争を否定している。 

 衆議院予算委員会(2006年2月16日)

 笹木竜三民主党議員「民主党の笹木竜三です。質問を始めます。

 今週、おとついですか、我々の党の前代表である岡田委員の方からも、戦後についての認識ということについての質問があり、やりとり、ここで聞かせていただきました。簡単に言ってしまうと、これからはアジアが最も成長する、今まで、日本にとって経済的にも一番のお得意はアメリカだったけれども、これからは、アメリカも含めてアジアに注目する、日本にとっても非常にさらに大事なつき合う相手の国になっていく。そんな中で、敗戦の認識あるいは戦後の認識、これは、今後のアジアとのつき合いの中でも、きょう、官房長官、外務大臣、あるいは財務大臣おられますが、それぞれの大臣にとっても、政策を決定するときに最も大事な基本になる部分じゃないかと思います。

 それで、きょうはまず最初に、敗戦と戦後の認識についてお尋ねをしたいと思っています。

 まず、(安倍)官房長官にお聞きをしたいわけですけれども、今週、そのやりとりの中で何度か村山談話が引用をされました。その中のこの文章も何度かそれぞれの大臣も引用されたわけですが、『植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします』(村山談話)

 こういった文章が何度か引用もされましたが、ここで言われている痛切な反省と心からのおわびの気持ち、これは、当時の村山総理大臣がどういう気持ちでこの文章をつくったかということを聞いているんじゃありません。これを、官房長官が、あるいは他の大臣も何度かこの文章に沿ってお答えになっている。ですから、これが政府見解だとしたら、政府の立場だとしたら、この痛切な反省と心からのおわびの気持ち、これは誰に対して痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明しているのか。

 最初にお断りをしたいわけですが、官房長官、先般も、政府の立場と自分の歴史観とはこれは別のものだという発言をされました。別に私は、ここで個人としてのひとり言をお答えくださいと言っているわけじゃありません。政治家としての官房長官のお答えをいただきたい、そう思って質問していますので、よろしくお願いします」

 安倍官房長官「政府としては、平成17年の8月15日の(小泉)内閣総理大臣談話等において、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切な反省と心からのおわびの気持ちをこれまでも一貫して表明してきております。この平成十七年の内閣総理大臣談話もそうでありますが、その以前の村山談話もそうでございます。

 委員の御下問は、誰に対しということだというふうに思いますが、これは、国内外において苦痛をこうむった方々に対して発せられた言葉であるというふうに理解をしております。

 笹木竜三民主党議員「これは、よくやりとりの中で質問もあってお答えもあるんですが、なかなかはっきりとお答えにならないので確認をさせていただきたいんですが、当然、一つの物事にはいろいろな側面があると思いますが、今のお答えだとしたら、アジアの方々も、そのおわびをする相手、反省をする相手として入っている、文章の脈絡としてもそうだと思うんですが、では、さきの戦争がアジアに対して侵略戦争だったということはお認めになるのか、確認をさせていただきたいと思います。

 安倍官房長官「いわゆる侵略戦争をどう定義づけるかという問題もこれは当然あるんだろうと、学問的にですね、このように思うわけであります。それが確定しているかといえば、まだ学問的に確定しているというふうには言えない状況ではないか、このように思うわけでありますが、アジアの国の人たちが、自分たちは侵略を受けた、こういう気持ちになっている、それは十分に理解できるわけであります。その文脈においては、我々は、先ほど申し上げましたように、村山談話また総理の談話において、痛切な反省の気持ちを申し上げたということでございます。

 他方、では、さきの大戦をどのようにこれは定義づけるかということでありますが、それはやはり、これは政府の仕事ではないだろうと私は思うわけであります。それはやはり歴史家の判断にまつべきではないか、このように思います」

 笹木竜三民主党議員「学問的にはまだ確定されていないとお話がありました。それは、学問的に確定されるのは、これは非常になかなか長い年月もかかると思いますが、何度もお話をしますように、官房長官としての御意見を聞いているわけです。

 では、アジアに対して侵略戦争という面だけじゃないとしたら、ほかにどういう意味合いがあったのか、それをお答えいただけますか。

 安倍官房長官「私が申し上げたのは、いわゆる侵略戦争という定義が定かでないということを申し上げたわけであります。

 歴史というのは長い連続性の中にあるわけでございまして、例えば、盧溝橋事件のときに日本軍はあの場所にいた、では、なぜあの場所にいたかといえば、これは北清事変講和議定書にのっとってあの場にいたわけでありまして、他の国の軍隊もいた。では、その前の北清事変講和議定書は、これは義和団事変の結果を受けて結ばれたわけでありますが、では、その評価はどうなのかということもあると思うわけでありますね。

 では、その背景は何なのかということをこれは一々詰めていく必要は当然あるんだろう、こう思うわけでありまして、それはそう簡単なことではないわけでありまして、この政治の場においてあるいは行政の場において、政府が歴史の裁判官になってそれを単純に白黒つけるということは、それは私は適切ではないのではないだろうか、このように思う次第でございます」 

 笹木民主党議員の村山談話は誰に対して発せられたものなのかとの問に対して、安倍晋三は「国内外において苦痛をこうむった方々に対して発せられた言葉」だと答弁している。

 村山談話のその箇所の文言は次のようになっている。

 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」――

 「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持」の直接的な発信対象はあくまでも「植民地支配と侵略」の被害国と被害国民に対してであって、それとは別に、「この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」と、内外の犠牲者を対象として「哀悼の念」を表しているのであって、いわば発信対象の主体は「植民地支配と侵略」の被害国と被害国民であるにも関わらず、安倍晋三は「国内外において苦痛をこうむった方々に対して発せられた」と一緒くたに扱う答弁を行なっている。

 ここには当然、ゴマ化しがある。大体からして村山談話が日本の戦争を「植民地支配と侵略」と定義づけている以上、あるいは「植民地支配と侵略」を歴史認識としている以上、国内外の国民を同等に扱うことは論理的矛盾を来すことになる。同等に扱ったとしたら、「植民地支配と侵略」に於ける加害者と被害者の関係をなくすことになる。

 村山談話でもう一つ忘れてはならないことは、「過去の過ちを2度と繰り返」さない戒めと平和構築の訴えを日本国民に発しているということである。「過去の過ち」を「植民地支配と侵略」としていることは断るまでもない。

 だが、安倍晋三は 村山談話と小泉談話が認めている侵略に関しては、「学問的に確定しているというふうには言えない状況」にあり、その定義づけは「歴史家の判断にまつべき」だとする表現で、一見、侵略か否かの確定に猶予を置いているように見えるが、猶予を置くこと自体が村山談話と小泉談話が認めている侵略を否定していることになる。

 そして安倍第2次内閣の今なお、その歴史認識は変わらない。

 いわば日本の戦争の侵略否定は安倍晋三という政治家に於ける歴史認識の本質を成していると断言できる。

 安倍晋三が日本の戦争の侵略を否定している以上、日本の戦争を侵略戦争とした東京裁判を否定したとしても不思議はない。

 2013年3月12日衆議院予算委員会。

 安倍晋三「「先の大戦においての総括というのは、日本人自身の手によることではなくて、東京裁判という、いわば連合国側が勝者の判断によってその断罪がなされたということなんだろう、このように思うわけであります」――

 東京裁判は勝者の判断による断罪だからと、日本の戦争を侵略戦争としたことを否定する歴史認識を示している。

 このように歴史認識を示しながら、そのくせ、この答弁の続きの最後で、「いずれにせよ、こうした歴史に対する評価等については、専門家や歴史家にまさに任せるべき問題ではないかというのが私の考えであります」と、「歴史に対する評価」(=歴史認識)は歴史家に任せるべきだと、現在も変わらない矛盾したことを平気で言っている。

 中国の大地に国民の構成を日本国籍の日本人を主体としていたゆえに国籍を必要としなかった満州国創建と対中軍事行動が証明することになる日本の中国に対する侵略、強権を用いた韓国併合が証明している韓国に対する植民地支配、八紘一宇、大東亜共栄圏、植民地解放をスローガンとしていながら、1943年5月31日の御前会議で決定した「大東亜政略指導大綱」で、「六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム」と規定した政策要領で「但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス」と指示して、「(イ)『マライ』、『スマトラ』、『ジャワ』、『ボルネオ』、『セレベス』ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム」と、上記国と地域に対して植民地解放とは正反対の日本植民地化の方針を打ち出し、南方に向けてその方向で軍事行動を起こした歴史的事実は東京裁判を待つまでもなく、日本の戦争が植民地化と侵略を性格としていたことを証明しているはずだ。

 そしてこの事実が国際的な評価ともなっているという現実は日本が政治的にも経済的にも一国で成り立っているわけではない相互関係性から言っても、日本のリーダーが外国との関係で対外国認識、特に中国、韓国に対する認識とすることを求められている歴史事実であるはずである。

 日本は鎖国国家として外国と独立して存在しているわけではない。経済的にも多くの外国から恩恵を受けている。いくら国内的な経済政策に優れていても、外国との経済的相互関係を否定できない以上、国際的な評価となっている日本の戦争が侵略戦争であり、植民地戦争であったことを対外的歴史認識としていない政治家はリーダーとしての資格を失うはずだ。

 この条件に適合していない安倍晋三は例えアベノミクスが成功したとしても(私自身はその成功に疑いを持っているが)、日本のリーダーとしての資格を有していないと言うことができる。

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