≪財務省が大臣の財政演説で26カ所の訂正願≫(msn産経/2009.1.30 21:59 )
<中川昭一財務相が28日の衆院本会議で行った財政演説について、財務省が26カ所の訂正願を衆院事務局に提出したことが30日、分かった。実際に訂正するには衆院議院運営委員長や自民、民主両党の同委理事の了解が必要となる。しかし民主党は「尋常な数ではないので財務省に説明を求める」(渡辺周同委次席理事)と反発し、了解を先送りする異例の事態になっている。
財務省の訂正願によると、中川氏は「歳入」とすべきところを「歳出」と述べたほか、数字でも「7兆4510億円」を「7兆4050億円」などと2度間違えていた。「経済を守る」を「経済を図る」と述べ、日本語として成り立たない発言もあった。
財政演説で中川氏は「渦中(かちゅう)」を「うずちゅう」と誤読したが、幸い(?)漢字で書かれている速記録では読み方まで分からないため、財務省の訂正願には含まれていない。民主党内からは「演説を練習しないで臨む気の緩みの表れ。まさに政権末期だ」(中堅)という批判が噴出している。>………
政権末期の緊張感喪失を閣僚の一人として分け持っている財務大臣中川昭一の緊張感のなさを全身で熱演した末の言い間違え、誤読に違いない。
いいではないか。何しろ天下の東大法学部卒なのだから。基礎学力に関しては他人の見本となる磐石の強みを持っているはずだ。そうでなければ日本が学歴社会であることの意味を失う。今の子供に対して学力の低下を言い立てる資格は十分にある東大卒の学歴と言うわけである。
最近の若者にも漢字が満足に読めないと批判できるだけの学力を受験教育で授かり、さらに上の学力を東大の4年間で身につけているはずだ。
但し手渡された原稿を目を一度も通さずにぶっ続け本番で読み上げたとしたら、なかなかの度胸だ。これも東大出身の心臓というわけなのか。
尤も読みの合理性から言ったなら、「渦中(かちゅう)」は「うずちゅう」と読むべきではなく、「うずなか」と読むべきではなかったろうか。「asahi.com」によると、「金融危機の“うずちゅう”」と高らかにかどうか知らないが、読み上げたということだが、“うずちゅう”を「渦中(かちゅう)」のことだと頭の中で翻訳して理解するまでにかなりの時間を要する。本人はアル中だとの噂があるが、そのせいで「うずちゅう」を「渦中(かちゅう)」という正しい言葉と意味に辿りつく前に余分なことに「アル中」という言葉を思い浮かべてしまって、いたずらに時間を取られるといったことも起こりかねない。
“うずなか”と読んでくれたなら、“うず”はストレートに「渦」という漢字に辿りつけるし、 “ちゅう”も「中」へとたちまち変換可能、頭の中での翻訳にさして時間は要しない。遥かに合理的な読みではないか。
「相殺(そうさい)」を「そうさつ」と慣用読みとするのは、「相殺(そうさい)」の「殺(さい)」を「殺人」の「殺(さつ)」に当てて読み出した間違いからではないだろうか。かくかように慣用読みとして本来の読みとは異なる読み方をする漢字が相当に存在する。
「言質(げんち)」を「げんしつ」、「病膏肓(こうもう)に入(い)る」を「こうこうに入る」、「消耗(しょうこう)」を「しょうもう」、「刺客(しかく)」を「しきゃく」等々。
05年9月の小泉「郵政選挙」のときは、マスコミも政治家も誰もが、「刺客(しかく)」と言わずに「しきゃく、しきゃく」と言っていた。いわば「刺客(しきゃく)」が正しい読みとなっている。
時代を受けて漢字の読みは変るということである。「渦中(かちゅう)」を「うずちゅう」と読み上げても差し障りはないわけである。何と言っても東大法学部卒の財務大臣中川昭一が国会という国の代表者たちが雁首を揃えて集まる場で読み上げた“読み”なのだから。
だが、意味をより簡明に読み取る言葉の合理性から言って、天下の東大出に逆らって悪いが、何しろ短時間の情報の伝達と解読・処理が必要とされる情報社会なのだから、このような時代の要請に応えるためにも頭の中での翻訳化の時間を少しでも省く必要上、既に触れたように「うずちゅう」よりも、「うずなか」と読む方がいいのではないのか。
偉大な財務大臣中川昭一を差し置くことになるが、ここに「渦中(かちゅう)」を今後「うずなか」と読むように提案する。「渦の中にあることを言うんだな」と簡単に意味が取れるではないか。
中川昭一財務相は上記26カ所の訂正願を提出した財政演説の結びで、<戦後荒廃から立ち直り、石油危機を乗り越えた歴史を振り返り、「日本人に乗り越えられない困難はない」と強調、政府の施策への理解と協力を求めた。>と述べたと別の「msn産経」が伝えていたが、景気と言うものは循環するものだから、日本人でなくたって、結果としては何人であろうと乗り越えることになる。症状が軽ければ、回復は早くなるし、重ければ回復までに時間がかかる。
政治の側の当然の対策は不況が国民生活に与える不安や打撃を如何に和らげるか、症状を少しでも軽くして、如何に短時間に回復に持っていくかを図ることであろう。いわば政治がどうのように有効、且つ実効性ある力を発揮していけるかどうかという問題であるはずである。
政治の問題であるのに、それを抽象的な把え方で「日本人に乗り越えられない困難はない」と国民一般の資質の問題としている。戦前の大日本帝国軍隊の戦略・戦術のすべてに亘る劣弱性が問題であるのに、それを「欲しがりません、勝つまでは」といった精神論で国民に我慢を強制したのと同じ類の狡猾・巧妙な問題のすり替えに過ぎない。こういった合理性も東大卒ならではの合理性なのだろう。
また好況期に大手企業のみが過去最高益を得たものの、その利益を国民に還元しないといったことではなく、経済的果実・富を如何に国民により平等・公平に再配分するかも政治の務めであるはずである。2002年2月から2007年10月まで続いた戦後最長の景気のときは自民党政治はそのことを怠った。そのツケも加わった今回の「100年に一度の経済危機」ということではないのか。
このページの画像は最初に引用した「msn産経」記事と同じページに貼り付けてあった麻生首相の写真で、そのどこにも「100年に一度の経済危機」は見えない、仕事を失い、住まいを失った者の不安にしても影さえも射していない、困窮の「渦中(うずなか)」から遠く離れた、これぞまさしく麻生太郎流の「楽観主義」を絵に描いた何とも言えない爽やかな顔に感心してちょっと文字を加えてみた。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。好きな言葉であり、ある哲学者の言葉です。未来は、私たちがつくるもの、我々がつくる。未来は明るい。そう信じて行動を起こす。そうした意志こそが未来を切り開く、大きな力になるのだと思っております。国民の皆様のために、明るい日本をつくりたい、そう強く考えております。」(麻生内閣総理大臣年頭記者会見/09年1月4日)
早急な具体策と早急にして具体的な実行力以外は何も望まない。派遣会社や請負会社の業界団体が「3月までに40万人が失職」との試算を明らかにしたと昨30日にNHKがニュースで伝えていた。
2009年1月28日、衆参本会議で麻生首相の施政方針演説が行われた。通常国会の召集から3週間以上経過してからの施政方針は異例のことだと「信濃毎日Web」が書いている。その理由は大方が知れることとなっていることだが、「ふつうは通常国会の冒頭、次の年度の予算案を出すのに合わせて行われる。今回ずれ込んだのは、解散・総選挙の引き金になることを恐れて、首相が2008年度補正予算案の提出を通常国会に先送りしたためだ。あおりで09年度予算案の提出が遅れた。」と解説している。
麻生首相は施政方針演説の中の「責任ある財政運営」の項目で、財政に対する責任を明確にするために実施時期は経済状況をよく見極めた上で判断と言いつつ、最初から2011年度までにと具体的な年度を上げて消費税を含む税制抜本改革に必要な法制上の措置を講ずるとしている。
<これは、社会保障を安心なものにするためです。子や孫に、負担を先送りしないためであります。>………
但し、<国民に負担をお願いするに当たっては、不断の行政改革の推進と無駄排除の徹底の継続が大前提です。>と断って、反対給付の「負担」を自らに課している。
だとするなら、天下りの厳しい規制、渡りの全面禁止を行ってから、上記「大前提」を打ち出すべきではなかったか。天下り・渡りは予算(=税)の無駄を生み、彼らの収入を一般人には手に入らない熟した最高級の果実とする不公平を生む悪しき慣習として長年に亘って官僚機構にはびこってきた何よりの悪しき制度であり、そうであるゆえにその規制・禁止は「不断の行政改革の推進」の象徴事業として改革の必須事項とすべきだからである。
ところが麻生首相は07年成立の「改正国家公務員法」で規定した天下り斡旋の「官民人材交流センター一元化」が機能する3年間の移行期間中は内閣府設置の再就職等監視委員会」が承認するとした上、その委員が野党の反対にあって決まらない状況を受けると、省庁による天下り及び渡りの斡旋を首相の権限で承認しできるとした政令を閣議決定する決まりまで設けて無駄・不公平の象徴たる天下り・渡りを自ら容認している。
これは麻生首相自身が言っている<国民に負担をお願いするに当たっては、不断の行政改革の推進と無駄排除の徹底の継続が大前提です。>とは逆行していると言う以上に、自らの言葉を自ら裏切る口先だけのサインであることを暴露する主張そのものであろう。
「時通信社」の記事を参考にすると、麻生首相は渡りを認める例外規定として
(1)国際機関の勤務経験が極めて豊富
(2)外国当局との交渉への十分な経験――の二つを上げ、 「渡りが出る確率は極めて低い」とか、「渡りが何回も行われることは考えていない」とした上で、「国が大事に育てた人材で経験は極めて高く評価される。『ぜひ』という声が出た場合、それを拒否するのはいかがなものか」を渡り容認の口実とした。
いわば渡りは“滅多にない例”というわけだが、ところがこの件に関しても麻生首相が言っていることに反して、06~08年の3年間に、官僚が天下りを繰返す「渡り」が11省庁で32件あったと「asahi.com」やその他のメディアが伝えている。
民主党の岡本充功衆院議員の質問主意書に答えるために27日の閣議で上記内容の答弁書を決定したということらしい。
<答弁書によると、最多は総務省の6件。国土交通省と農林水産省が各5件、経済産業省と人事院が各4件、財務省と文部科学省が各2件、厚生労働省、警察庁、内閣府、防衛省が各1件だった。>(同「asahi.com」)・・・・・・・
麻生首相は如何なる政策提示に関しても「自分は最初から同じことしか言っていない、ブレているなんてことはない」を信念としている政治家だから、渡りに関する実際の数字を否定して“滅多にない例”であることを押し通すかもしれない。
また、確かに官僚の中にも有能は人材はいるだろう。抽象的な経歴の指摘ではあるが、「国際機関の勤務経験が極めて豊富」で、「外国当局との交渉への十分な経験」を持った者もそれなりにいるに違いない。
だが、効率性を求め、ムダを排除する「官から民へ」という発想は経営母体を官営から民営に転換すると言うだけのことではなく、官僚機構を担う官僚が組織の中で官僚主義という名の無駄・非効率にどっぷりと漬かってきているはずだから、それを払拭するためにも人材に関する資質の点でも官から民への資質の転換を伴わなければ、効率性・公平性に関して改革的な「官から民へ」が達成できたとは言えないはずである。
となれば、官僚機構に向けた行政改革に於いても、特殊法人等改革でも公務員制度改革でも、公益法人改革、その他のすべての改革で、特に組織統括の人材は既存の官僚で賄うのではなく、逆に民間からの人材登用が重要となる。
大体が官僚が組織運営の当事者として位置していながら改革が必要とされるのは、官僚自身が効率的でムダのない組織運営の資格がないことの証明以外の何ものでもない。
当然組織改革や制度改革に於いて運営当事者を天下りや渡りで補うのではなく、また上層部を占める官僚の席自体も民間からの人材に替える必要があると言うことであり、それを以て行政改革の柱としなければならないということではないだろうか。
【官僚主義】「官僚や組織の特権階層に特有の気風や態度・行動様式。規則に対する執着、権限の墨守、新奇なものに対する抵抗、創意の欠如、傲慢、秘密主義などの傾向を批判的に言う場合に用いられる。お役人風。お役所式。」(『大辞林』三省堂)
牢固とした権威主義的上下関係が組織の中に下を従わせて上に位置する特権階層を生み、特権にしがみつき失うまいとする権限の墨守、それを破る新しい制度や新しい仕来りへの抵抗、それらが何事に対しても創意の欠如をもたらし、その欠点を隠して上を絶対と見せる自己保身からの傲慢、情報や必要事項を独り占めにして自分を有利な場所に置こうとする秘密主義等々を官僚組織の特徴とし、官僚体質とすることになる。
また日本の官僚組織が縦割り社会だと言われていることも権威主義の行動様式に裏打ちされた上下関係が可能としている組織図であろう。横の連絡がなく、上下の中で物事を決定する閉鎖性。上に位置する特権層に有利な決定のプロセスだからだ。下が創意工夫したアイデアであっても、上が生み出したアイデアであるが如くに装い、上の手柄とする。
官が優れて民が劣るとしたら、奇妙な逆説をもたらすことになる。日本の官僚組織は官僚主義に侵されてもいないし、弊害が言われて久しい縦割り社会でもないということになる。大体がそもそもからして改革を必要とする如何なる弊害もつくり出しはしなかったろう。
麻生首相は渡りを例外的に認めるとしていたが、施政方針演説から1日経た昨29日の衆議院本会議で、与党自民党の細田博之幹事長の質問に答える形で、渡りを<「国民からの厳しい批判や国会における議論を踏まえ、今後、申請が出てきた場合でも認める考えはない」と明言し、自らの在任中は政府によるあっせんを全面的に禁止する考えを表明した。>と「47NEWS」(2009/01/29 16:58 【共同通信】)が伝えている。
但し政令の廃止には触れなかったというから、その点にせめてものブレない姿勢を残したのだろうか。
「最初から同じことしか言っていない」を信念としている麻生首相の渡り例外容認に関わるこの変心は野党だけではなく、与党内からも批判を受けていた上に、渡り反対の急先鋒である渡辺喜美議員が野党提出の衆院解散要求決議案に賛成したのに次いで渡り容認の政令撤回を求める質問状を提出したが、受け取り拒否にあって抗議の、と言うよりも麻生首相を見放して離党といった与党内の内紛、そして天下りや渡りが「国民からの厳しい批判」を受けていることが原因した、これ以上支持率を落としたくない止むを得ずの選択からのものであろう。
野党の追及での変心では格好がつかないから、言いなりべったりの腰巾着細田に質問させて転換するという勿体付けの形式を取ったに違いない。
要するに麻生首相の元々からの基本姿勢にはなかった“全面禁止”なのである。だからこそ、「不断の行政改革の推進と無駄排除の徹底」の標的にしてもいい、すべきである天下り規制、渡り全面禁止を“国民負担”に代えるべき政策とし得なかった。
何しろ所信表明演説で「官僚とは、わたしとわたしの内閣にとって、敵ではありません。しかし、信賞必罰で臨みます。
わたしが先頭に立って、彼らを率います。彼らは、国民に奉仕する政府の経営資源であります。その活用をできぬものは、およそ政府経営の任に耐えぬのであります」と言っている。
だが、改革が必要な程に官僚組織は省益を専らとして緊張感を喪失、制度はひび割れ状態を来たしている。管理・監督者の立場にある自民党内閣及び与党には「信賞必罰」なる制度など存在せず、官僚の好きにさせていたからだろう。何しろ官僚なしでは何もできない政治家ばかりだからだ。
官僚はそれをいいことに思い上がって「国民に奉仕」どころか、国民の上に立って何様の傲慢な態度を取り、隠れたところで甘い収入を吸っている。
「国民に負担をお願い」しながら、自分たちの仲間だからだろう、天下り・渡りが高収入のいい思いをするのは放置して、「不断の行政改革の推進と無駄排除の徹底の継続」を、多分上唇の端を斜め上にを持ち上げ、だみ声を殊更引きずる気取りを見せて、さもたいしたことを成すかのように言っていたのだろが、如何に口先だけのご託宣か分かろうというものである。
これを以て無責任といわずに何と表現したらいいのだろうか。それとも無責任でも何でもないというのだろうか。少なくとも麻生首相には不本意なことではあっても自身の在任中は渡りを全面禁止するとしたことで、そのことを「不断の行政改革の推進と無駄排除の徹底」の中に必要事項として盛り込んだのである。
また天下り規制、渡り全面禁止は決して小さな行政改革(=公務員制度改革)ではない。常に大きく取り上げられることとなっていることが、そのことを証明している。当然、「国民に負担をお願い」しながら、細田幹事長の質問を受けて禁止に変心するまで天下りの厳しい規制・渡りの全面禁止に手をつけずに「不断の行政改革の推進と無駄排除の徹底」を言っていたのを無責任でも何でもないとは決して言えないはずである。
麻生首相は施政方針演説の最後の「おわりに」で、次のように述べている。
<世界経済の一段の減速に伴い、日本経済も急速に悪化しています。景気の後退を食い止め、不況から脱出するためにも、予算及び関連法案を早急に成立させることが必要です。これが日本の経済を、そして日本の将来を決めます。経済成長なくしては、財政再建も、安定した社会保障制度もあり得ません。
今こそ、政治が責任を果たす時です。国会の意思と覚悟が問われています。国民が今、政治に問うもの。それは、金融危機の津波から国民生活を守ることができるか否かです。
与野党間に、意見の違いがあるのは当然です。しかし、国民が望んでいることは、単に対立するのではなく、迅速に結論を出す政治です。政府与党としては、最善と思われるものを提出しております。野党にも良い案があるなら、大いに議論をしたいと思います。ただし、いたずらに結論を先送りする余裕はありません。
とかく、ものごとを悲観的に見る人がおられます。しかし、振り返ってみてください。日本は、半世紀にわたって平和と繁栄を続けました。諸外国から尊敬される、一つの成功モデルです。そして日本は、優秀な技術、魅力ある文化など、世界があこがれるブランドでもあります。自信と誇りを持ってよいのです。日本の底力は、必ずやこの難局を乗り越えます。そして、明るくて強い日本を取り戻します。
私は、自由民主党と公明党の連立政権の基盤に立ち、新たな国づくりに、全力を傾注してまいります。私は、決して逃げません。国民の皆様と共に、着実に歩みを進めてまいります。>………
麻生首相は首班指名を受けた後の第170回国会での内閣総理大臣所信表明演説 (2008年9月29日)の「国会運営」の項目では次のように述べている。
<先の国会で、民主党は、自らが勢力を握る参議院において、税制法案を店晒しにしました。その結果、二か月も意思決定がなされませんでした。政局を第一義とし、国民の生活を第二義、第三義とする姿勢に終始したのであります。
与野党の論戦と、政策をめぐる攻防は、もとより議会制民主主義が前提とするところです。しかし、合意の形成をあらかじめ拒む議会は、およそその名に値しません。
「政治とは国民の生活を守るためにある。」民主党の標語であります。議会人たる者、何人も異を唱えぬでありましょう。ならばこそ、今、まさしくその本旨を達するため、合意形成のルールを打ち立てるべきであります。
民主党に、その用意はあるか。それとも、国会での意思決定を否定し、再び国民の暮らしを第二義とすることで、自らの信条をすら裏切ろうとするのか。国民は、瞳を凝らしているでありましょう。
本所信において、わたしは、あえて喫緊の課題についてのみ、主張を述べます。その上で、民主党との議論に臨もうとするものであります。>となかなか勇ましく挑発的に言いたいことを言っている。
麻生首相が「店晒しにしました」と言っていることは、揮発油税の暫定税率維持を盛り込んだ税制改正法案が2月29日に衆議院可決、参院に送付されたものの、野党反対で審議されないまま参院送付60日目に当たる4月28日付で憲法59条により「みなし否決」とされ、衆議院に戻されて4月30日に与党の賛成多数で成立、5月1日に施行、再び1リットル25円値上がりしたガソリン騒動を指す。
だが、「迅速に結論を出す政治」が困難な状況に陥ったのは何も暫定税率維持騒動国会が初めてではなく、安倍政権下の2007年7月29日の参議院選挙で自民党が大敗し、民主党第一党、野党過半数を握る衆参ねじれ現象が生じて以来のことであり、そのお陰で安倍政権は「迅速に結論を出す政治」体制を見い出せず、首相就任1年も満たない参院選敗北のほぼ2カ月後の8月27日に政権を投げ出す無責任な形で辞任、その後を継いだ福田首相にしても手をこまねいていたわけではなく、「迅速に結論を出す政治」を自らの内閣に引き寄せるべく民主党の小沢代表と会談して大連立を策したりしたが結局引き寄せることができず、安倍首相と同じく「迅速に結論を出す政治」を得ないままに、やはり就任1年を満たない短期間の内に政権を投げ出し、麻生首相が跡を継いだ。衆参ねじれ現象を起こした参議院選挙から1年2カ月後の2008年9月24日のことである。
当然麻生首相も「迅速に結論を出す政治」を実現させるべく、所信表明演説で、「合意形成のルールを打ち立てるべきであります」と提案した。
提案は提案のままで終わったなら、責任を果たさないことになる。「国民が望んでいることは」と言っている以上、自らの力、自らのリーダーシップで「迅速に結論を出す政治」状況を実現してこそ、国民の希望に叶う責任が果たせる。
ところが、首相就任後の2008年9月29日の所信表明演説から一昨日2009年1月28日の施政方針演説まで4カ月経過していながら、「迅速に結論を出す政治」を実現させ得ずにいる。
「迅速に結論を出す政治」体制実現の残された唯一の方法は「急ぐべきは景気対策、はっきりしています」(09年1月1日麻生年頭所感)以上に解散・総選挙による民意の帰趨に任せる以外に道はないことは「はっきりして」いるはずである。
小沢民主党代表も08年11月28日の国会での党首討論で麻生首相に「選挙の洗礼、国民の審判を受けて、その国民の支援の背景の下に、総理がリーダーシップを発揮すると、いうのが民主主義のあり方だと思います。多分、総理もそのようにお考えになっていたんだろうと思います」と「迅速に結論を出す政治」体制の構築を直接持ちかけている。
「この12月に解散総選挙を断行して、そして麻生総理、あなたが国民の支援を得られたら、どうぞ、総理の思うとおりの、政策を実行したらいいじゃないですか」と懇切丁寧に「迅速に結論を出す政治」をつくり出す敵に塩を贈るような有効な方法を指導している
だが、麻生首相は言を左右にして「政局よりも景気対策だ」と主張、自分から「迅速に結論を出す政治」体制の構築から逃げていた。逃げていながら、一昨日の施政方針演説の「国民が望んでいることは、単に対立するのではなく、迅速に結論を出す政治です」なのである。
もし麻生首相が「迅速に結論を出す政治」を真に「国民が望んでいる」としているなら、それがウソ偽りのない心情だというなら、そのような体制づくりに向けて解散・総選挙すべきで、その結果政権の座を野党に渡すことになったとしても、一国の総理大臣として「迅速に結論を出す政治」構築に向けた責任――政治の安定に向けた責任を果たすことになる。
国民は既にそのことを各種世論調査で望んでいるのである。漢字が読めないばかりか、国民の空気も読めず、「私は決して逃げません」と就任後の所信表明演説でも言い、年頭所感でも言い、そして今回の施政方針演説でも言っているが、言っていることと裏腹に実効ある政治は自公のみがなし得るを逃げ口実に無責任にも「迅速に結論を出す政治」構築から逃げているのは麻生首相と自民党・公明党のみであろう。
29日午後、衆院本会議での代表質問で民主党の鳩山幹事長が「『逃げない』と言いながら、国民の審判から逃げまくっている。それが国益を損ない、国民の災いのもとになっている」(「asahi.com」と批判しているが、その通りである。
施政方針演説では「ものごとを悲観的に見る人がおられます」と言って、さも自分は意志強固な楽観主義に立っているリーダーシップある総理大臣であるかのように見せかけているが、実際には政権喪失の悲観主義から逃れることができず、「国民が望んでいる」「迅速に結論を出す政治」構築の責任を打ち出せずにいる
怪我で3場所連続休場していたため場所前まで引退も囁かれていた朝青龍が春場所に出場したものの復活を危ぶまれていたが、14勝1敗の圧倒的な強さで見事優勝。横綱同士の優勝決定戦で対戦相手白鵬を倒して優勝を決めた後のガッツポーズが品格ないと横綱審議委員会が横槍なのか、イチャモンなのか、ケチをつけたのか、批判の言葉が出たという。
26日の「YOMIURI ONLINE」が≪朝青龍のガッツポーズ「行き過ぎ」、横審委員から厳しい声≫が次のように伝えている。
<大相撲初場所後の横綱審議委員会が26日、両国国技館で行われ、復活優勝した朝青龍が千秋楽の土俵上で派手なガッツポーズをしたことについて、各委員から厳しい意見が出された。
海老沢勝二委員長は「朝青龍は体力や精神力も充実し、よく頑張った。全体的に非常に盛り上がった場所」と評価する一方、「伝統ある大相撲で、あのようなパフォーマンスは行き過ぎ」と複数委員からガッツポーズを問題視する声が上がったことを明かした。
指摘を受けた武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)は、横綱本人と師匠の高砂親方(元大関朝潮)に注意することを約束したという。
沢村田之助委員(歌舞伎俳優)は、「(今回欠席した)山田洋次委員(映画監督)からも『結果は認めたいが、横綱の品格はゼロと言ってほしい』と電話があった。今までの横綱でガッツポーズした人なんか一人もいない」と厳しい意見。
「僕は気にならなかった」という新委員長の鶴田卓彦委員は、「相撲は神事という意見に立てば行き過ぎという声もある。だが、一般の人はどう受け止めているのか」と寛容な姿勢を見せた。>………
山田洋次監督が扱うテキヤの世界はアウトサイダーの世界でありながら、監督自身がアウトサイダーに徹し切れなかったから、車寅次郎を葛飾は柴又の実家、寅屋というインサイダーの世界、常識的な生活空間に度々帰すにことになり、寅次郎をアウトサイダーの世界とインサイダーの世界を往ったり来たりさせることになったのだろう。所詮、監督の中では常識的的世界に優先順位を置いているらしい。
私自身は朝青龍は嫌いな相撲取りに入るが、周囲の偉い方々が朝青龍に対して伝統だ、文化だを振りかざすから、ここのところ朝青龍が優勝するよう応援している。
新委員長の鶴田卓彦委員のみが擁護。だが、現在の「相撲は神事」なのか。明治神宮の横綱の土俵入り奉納は神事の名残を今の時代にとどめる痕跡に過ぎない。もし「相撲は神事」であるなら、横綱の月給が基本給と手当で月282万円、本場所手当てが20万円×6場所、締めて400万円以上。十両の給料でさえ月103万円だそうだが、どう解釈したらいいのか。
相撲協会自体は親方株(年寄株)の売買を認めていないにも関わらず、ウラで億単位で売買されている事実はどう解釈したらいいのだろう。
相撲取りが階級に応じて収入を得る、親方株が取引されているという事実は「相撲は神事」ではなく、人間世界の一つの営利であり、その営利は勝負事で成り立っていることを証明して有り余る。
勿論相撲の歴史は古い。日本書紀によると垂仁天皇の時代の発祥だということだが、単に発祥が古いというだけのことで、勝ちをカネで購う営利行為となって以来、神事を離れて、勝負事の領域へと足を踏み入れたはずだ。
また勝負事だからこそ、時代時代の人間の血を沸き立たせ、引き継がれ、今の時代に存在し得ていると言える。神事であるなら、正月とかの時期に限られた神社で無償行為として行われることになったろう。
勝負事だから受け継がれた。もし日本人の感性にのみ訴える勝負事なら、外国に伝えられることはない。また、外国人の観客は存在し得ないこととなる。勝負事という人類普遍の価値観に支えられて現在に至っている。鎖国時代が長かったから、外国に伝わらなかったことが結果として日本人のみの中で伝えられてきただけのことで、日本人のみの精神性・文化性に訴えて歴史的に蓄積され、伝統となったと言うわけではないだろう。
勝負事だから、八百長や意図的な白星献上や勝ち越しに協力する手抜き相撲――結果としての無気力相撲が存在することになる。もし八百長が伝統となっていた大相撲と言うことであったなら、八百長は伝統からのものとなるが、伝統からではあるまい。あくまでもカネで褒賞される勝負事だからあり得る八百長と言うことであるはずだ。
ガッツポーズは外国生れの文化である。今では日本人も殆どのスポーツで勝者はガッツポーズを見せる。その点で内外の差はなくなった。日本の大相撲では品格のない仕草とされるが、モンゴル相撲では勝者は大鷲が羽を広げて舞う姿を真似て手を大きく広げ、全身をゆったりと上下に揺らす舞いを勝利の証とする。
朝青龍は白鵬と違ってモンゴル相撲の出身者であり、両手を広げるポーズで勝利を祝う文化を血としてきた。本人の感性としては正直な自然発生的感動行為であろう。何しろ怪我で3場所連続休場した上に場所前の稽古の調子が芳しくなく、大方の予想では初場所に出場しても持たないのではないかと危ぶまれていたところへもってきての日を重ねるごとに強さを増していった末の賜杯獲得である。場内のファンもそのガッツポーズに応えて拍手し、歓声を送り、共に朝青龍の勝利を祝った。
ところが横綱審議委員会のお偉い方たちはお偉いがためにだろう、地位獲得や賜杯獲得といった名誉だけではなく、何百万円という収入・カネも無視できない大きな動機の一つとして勝敗がカネで購われる勝負事であることを忘れて「品格がない」と言う。
紛うことなき現実のこととしてあるカネを褒賞とする勝負事としての側面を消し去ること自体が既にキレイゴトの始まりだが、その上に伝統だ、文化だを振りかざす。あるいは神事だと言って決まり切った型に押し込めようとすなら、自分たちが信じている伝統そのもの、文化そのものに戻すべきだ。即ち神社の境内のみに土俵を設けて、そこで神に奉納する神事として執り行う。勿論、勝敗がカネで購われることはあってはならない。何しろ神事なのだから。
さらに外国人力士を入れないで、日本人力士のみで成り立たせるべきだろう。勝ち負けの動機にカネの要素が入らなくなったなら、誰が真剣に勝負するだろうか。アマスポーツの世界でも勝負をスリリングなものにし、面白くするためにカネの要素が入り込んでいる。
名誉という動機のみでは競技する者は自身を強くし記録を上げる、トレーニングのみならず栄養管理をも含めた準備に事欠くことになるだろう。カネの要素が入ってこそ、肉体的・能力的な準備を万端に整えることができる。名宵はその先にある。
昨年の北京オリンピックで金メダルを獲った日本のアスリートのその競技能力・頑張りを誉めそやし持て囃す報道が続いたが、彼らに国や国内オリンピック委員会、あるいは各所属の競技連盟がどれ程カネをかけただろうか。カネなくして、彼らの名誉もなかったはずだ。
人間、伝統や文化のみでは生き得ない。また名誉のみでも生き得ない。カネを得てこそ、名誉は生きてくる。利害の生きものであり、生活の生き物だからだ。伝統や文化を振りかざすことが生活の利害と一致させ得る者のみが、伝統、文化を言い立てる。
テレビに出て言えば、偉そうに見えるから、その人間の主張すべてが正しいことを言っていると錯覚させるご利益をもたらことになる。
日本の政治家・官僚が自身は薬にもしていないのに日本の歴史だ、文化だ、伝統だを言うのは自分たちを偉い人間に見えるために、現実には今の時代の空気しか吸うことが不可能であるにも関わらず、さも自分たちが日本の歴史・文化・伝統を大切にし、その空気の中で生活し、活動しているか錯覚させようするからだろう。
実際に相撲を取る者が伝統や文化で相撲を取っているわけではなく、名誉のみならずカネといった経済的利益を大きな動機として相撲を取っているのに、取るわけではない運営側の人間が伝統・文化を言い立てる。口で言うだけで自分たちを偉い人間に見せることができるからで、それが連中の生活の利益となっている。
その代表的な一人に元NHK相撲解説者・現在相撲ジャーナリスト、且つ日本福祉大学客員教授だとか言う杉山邦博を挙げることができる。
大相撲は伝統だ文化だ品格だと言う程大層なスポーツなのか(2)に続く
1975年春場所千秋楽で大関貴ノ花(現在の貴乃花親方の父親・故人)との優勝決定戦での北の湖の横綱時代の敗戦が八百長だと疑惑報道した「週刊現代」の記事に対して日本相撲協会の北の湖前理事長と協会が発行元の講談社などを相手取り損害賠償請求した裁判が昨年(08年)の10月半ばから開始し、各テレビ局のワイドショーが競って取り上げた。それが朝青龍の横綱としての品格問題と重なり、大相撲は日本の国技だ、伝統だ、文化だという言葉が飛び交った。
何日か正確な日付を記さないままに録画を文字に起こしたものだから、何日放送のTBSテレビ<みのもんたの「朝ズバッ」>か不明のままだが、裁判で証言した後の当時はまだ協会理事長だった北の湖に記者がインタビューしているから、八百長疑惑裁判が開始されたほぼ直後の日付なのは間違いないと思う。この番組中の言動を通して、杉山邦博が如何に伝統だ文化だを言う資格のない人間か、自分を偉く見せる利害行為からの振りかざしに過ぎないかを証明してみる。解説及び感想は( )付の青文字で記した。
先ずは既にご存知だろうと思う17年前の1991年に録音されたカセットテープが流される。
二子山元理事長「君ら、よく聞けよ。親方衆、これは重大なことだ、親方衆。若い親方衆、今での相撲を見てみろ。師匠、何とも思わんか。その勝ちで喜んでいるのか。それで手を叩いているのか。お目出とう、お目出とうって。逆に叱らなきゃならないですよ。
皆様方にお忙しい中、今回来て貰った、ことは、無気力相撲について、出席していただいたところであります。」――
(17年前に国技館であったある会議の席だそうだで、親方衆と十両以上の関取全員を集めた「異例」の緊急会議で、テープは30分に亘る長さだとか。)
二子山元理事長「よーく耳の穴を掃除して、右から入ったら左へ抜けないように、左から入ったら右へ抜けないように頭の中で止めていただきたいと思います。――」
出羽の海親方(元佐田の山・無気力相撲を見定める観察委員会の観察委員長)「全然自分は関係ないと言う人も、一杯いると思います。いると思うんですけど、ここのところ、非常に一二、私の感じとしては多くなってきたんじゃないかと思っています。優勝とか大関になろうというときでも、何回挑戦しても跳ね返される。夜も寝れない。心臓ドキドキする。そういう思いを何回も何回もして、獲ち取るもの。これが得難いものなんですよね。
それを簡単にカネで手に入れるってことは、もうこれは稽古も何もしなくていい。まあ、床山とか若い者頭だとか、どういうのか分かりませんけど、何しろそれを仲介した人ですね。ええ、それも相当な処罰を得ます。場合によっては、若い衆はクビになるかも分かりません。床山とか、そういったものも廃業させられると思います」
(「観察委員会」なる組織があったこと自体が伝統だ、文化だで相撲が行われていないことの証明であろう。人間の利害行為に入る勝負事の一つに過ぎないということである。しかも「観察委員会」なる組織が存在していたにも関わらず、カネのやり取りがあったと言っている。)
ここで八百長裁判の原告である北の湖前理事長、どう証言したのか記者に聞かれて、「膝の怪我とか庇って相撲を取ると、膝で庇ったりして相撲を取ると、力が入っていないような感じに見えますからね、それと八百長は別だと、そのように申し上げました」
これは一般論を述べたに過ぎない。本来なら、「断じて八百長ではなく、カネの遣り取りもありませんと、そのように申し上げました」と言うべきだろう。しかしそう答えずに、一般論を裁判で述べた。)
再びテープ。出羽の海親方「絶対にあってはならない。故意による無気力相撲が一部の不心得者によって行われたことは許されないことであります」
ここでみのもんたが元NHK大相撲解説者、現在相撲ジャーナリスト、且つ日本福祉大学客員教授だとかいう杉山邦博に聞く。
みの「今のテープを聴いての感想を」
杉山「いや、本当に厳しさで定評のあった二子山理事長がホントに危機感を感じてですねこれはどうしても放っていられないぞと言うね、その現れで、まさに赤裸々な、もう胸の内をお弟子さんや、それから協会全員の前で吐露していらっしゃいますよね。ええ」
みの「出羽の海の発言を繰返し説明、そういう発言で出てくるんですけど――」
杉山「つまり、今巷間では八百長という言葉が使われていますが、流布していますが、協会ではその言葉は一切使われていませんで、気力のない相撲、あるいは故意による相撲ということですが、そのテープの中にもございますように故意によるっていうのは、これはもう、わざとと言うことですよね。このわざとの場合も、ただ、今場所勝つよとか、来場所どうするって言ってんじゃなくして、金銭の遣り取りがあったかのような、今話が聞かれましたよね。これはホントーに私はね、もう情けなくて、何とも言いようがありません。ええー」
(みのはテープを聴いた範囲内で八百長、もしくは無気力相撲が存在したかどうかの判断を尋ねたのである。それを曖昧にしたまま、「これはホントーに私はね、もう情けなくて、何とも言いようがありません。ええー」と自身の感情表明に変えている。この合理的な判断の回避は普段言っている伝統だ文化だが客観的な合理的判断を欠落させているからこそできる物言いであり、そこから生じている情緒的な把握への転換であろう。いくら長年相撲解説者を務めていたとしても、合理的判断に常に厳しくあろうとしていたなら、できない回避だからだ。)
みの「そうすると、今八百長疑惑っていうのは、じゃあ本当にあったのかっていうふうにつながってきちゃう可能性ありますよね」
杉山「そうなんですよね。それであのう、このテープの中で過去のことを云々する人がいるかもしれないけれども、そういうことを言っていたら先に進まないんだと、と言うか、絶滅しなきゃいけないんだということを強調していますよね。
それからもう一点は、あの、今、師匠みんなに言っているけど、果して師匠がそれぞれの弟子に伝えているかどうか、あなた方は呼び出されて注意された、その師匠がお弟子さんに、直に取った力さんに伝えていますかってことまでおしゃってますよね。そのテープの中にね、ええー」
(ここでも八百長相撲、あるいは無気力相撲があったかどうかの判断を回避している。部屋の親方の指示による取組、あるいは他処の親方から持ちかけられて双方の親方が承知している取組ということなら、「直に取った力さんに伝え」るも何もないだろう。すべての可能性を考えることができない物言いも合理的判断能力の欠如が原因しているからで、そんな人間が伝統だ、文化だを振りかざす。)
みの「八百長疑惑の裁判ですけど、これ(テープ)がもし提出されるとなると、相当影響出ますね」
杉山「私は、あの専門家ではありませんので、先生(弁護士の道歩みが出演している。)のお話を伺いたいんですが、ま、少なくとも心証的には、こういうことがかなり多く行われていたで・・・・(声を強めて強調する)あろうと思われても仕方がないですよね」
(専門家に聞かなければならない判断とすることで自らの合理的な判断は回避した上で、「少なくとも心証的には、こういうことがかなり多く行われていたで・・・・あろうと思われても仕方がないですよね」と他者の推測の判断にとどめることで自らも推測の判断に逡巡させる二重の合理的判断の回避を巧妙に試みている。)
杉山「実は17年前の平成3年のノートなんですが(と古びた大学ノートを取り出して見せる。)今、テープでお聞きいただいた3日後に初日が始まったんですね。秋場所の初日。ちょっとここを見ていただきたいんですが(とノートの余白を示す。)、私はここに『待ったをしたら、罰金5万円』という制度もこのときできたんですよね。時間一杯から。『敢闘精神欠如に』(と読み上げ、)二子山理事長の、ええー、『厳しい通達のスタート』。で、『内容すこぶるよく、気迫十分』と書いてあるんです。
つまり、これはですね、この通達が、3日前にこういうことが行われたことによって、その秋場所の9月場所、ここで書いてあります、平成3年9月場所なんですが、相撲が内容が如何によかったかと。私もそう思って、一行コメントをこう残しているんですが。ですから、ま、そういう意味では危機感にもう、充満してますので、九州場所は(と言ってから、声を強めて)間違いなく、私は素晴らしい展開すると思うんですけれども、それにしましても、今の話にちょっと戻らせていただきたいんですが、裁判は北の湖のと貴ノ花の33年前の相撲がどうあった、っていう話なんですね。私は今のこれだけ厳しい師匠であった、協会のトップだった二子山さんの、あの姿勢をみなさん、ご覧なる、お聞きになったら、とてもじゃないけども、北の湖と貴ノ花は協会切ってのクリーンだった二人の相撲が、私は八百長だったとか、あるいは気力を欠いた相撲だったとは、(言葉を強める)到底信じられません。そのことだけは申し上げたい」
(「『待ったをしたら、罰金5万円』という制度もこのときできた」。結果的に「内容すこぶるよく、気迫十分」の相撲がその場所を通して展開された。としても、無気力相撲と指摘される取組はその後も続いていたし、手を突く振りをして突かなかったり、待ったしたりは現時点でもいくらでもあることなのだから、厳しく注意された当座の場所のみ守られたとしても意味はあるまい。継続性を維持してこそ初めて意味が生じる。日本福祉大学客員教授までしていながら、合理的な判断を持ち得ず、自慢する。)
みの「ここへ持ってきて、400万円、用意しろ、しないと、変な噂が流れたりねぇ、誰も証言台に立たない。勝手に流れている話ですからねえ」
杉山「あの、若貴の兄弟の弟さんが初優勝したときにしても、これはもう本当に土俵上で引退定年退職直前のお仕事として天皇杯を手渡した、涙ぐみながら顔も真っ赤にして渡したのがこの土俵の二子山理事長だったんですよ。それを手にしたのが貴及花だったんですよね。後の貴及花は。そういうことを考えるとね、確かに私は無気力相撲ががあったんであろうということは色んなとこで情報としては分かりますけども、今巷間裁判の場に上げられている、この相撲に関しては、私はあり得ないと思っています」
みの「逆にあれですね。杉山さん、取材によると、そこであった無気力というものが非常に一掃されて、必死の土俵がこれから繰り広げられるようになった。審判制度も大変厳しくなって、そして来たと。だから、若の花(ママ)だの北の湖だの、何だと、一線がそんなことあり得ないよという。逆に逆実証になるかもしれませんよね」
(みのにしても、人間は不正な利害感情からいくらでも抜け道をつくり出すという合理的な判断ができない。振込め詐欺犯だけが新たな手口となる巧妙な抜け道を拵えるわけではない。)
杉山「そうありたいですよね」
みの「まあ、それは裁判所がどう判断するか、もし、証拠提出されたらですね・・・・、厳しい話、もう一度聞けますか」
再びテープの声を流す。
みの「厳しい、まあ、ね、話という、あったわけですよね。ですから、その場所っていうの、大変いい相撲が展開されたということなんですけれどもねえー。まあ、いずれにしても、それははっきりしなけりゃいけない。ま、記事の、さっき与良さんがおっしゃったように、確か書かれていることですね、それ以外は随分はっきりしちゃっている」
与良(正男・毎日新聞論説委員)「勿論証言の事実も関連事実として偽証の対象になり得ることはあるんです」
(いきなり「偽証」に持っていく見事な合理的判断。)
みの「どうもありがとうございます。しかしそれにしても凄い取材ノートですね」
杉山「いや、いや、そんなこと」
与良「これはありがたいものを。ボクはホント、記者の先輩として見せていただいた感じがします」
杉山「いや、恐れ入ります」と頭を下げる。
みの「道さん、どうですか」と弁護士の道あゆみに話を振る。
道「これ何か、この事件、ある意味。劇場化している、って言うんですか?私がこの前何気なく行ってみたら、その傍聴人の物凄くて、びっくりしたんですけれども。で、本来いつ法廷で出されるべき、ま、証拠、であるとか、その出廷すべき証人が、何か事前に記者会見をしたりとかですね、そういった形でマスコミに証拠を流しているんで、私たちも、それに翻弄されてしまうんですが。しかし、問題はですね、あの、この週刊誌が書いた記事、そこでテキジされた(摘示〈てきし〉暴き示すこと、また、かいつまんで示すこと『大辞林』なのか)事実が果して真実なのか。あるいは真実と信じるべき相当な理由があるようなことなのかどうか、っていうことなんですね。過去のずっと昔の八百長相撲かどうかって、この記事を見なければ分からないので、その週刊誌の事情の真偽に左右されてはいけないじゃないか、というふうに思います。まあ、記事に何と書かれているかだと思うんですね」
(記事の内容も把握せずにごく当たり前のことをごく当たり前に言ったに過ぎない。これでコメンテーターが務まるのだから、楽なものである。)
与良「心証の部分が大きいかもしれないんですね、元々メディアの報じる側から、この確証を把えると、我々、あの、報じる側の方が苦しんですよ。この種の裁判と言うのはね。なぜなら、要するに、その、あの、取材源を誰から聞いたってことを明らかにできないからですね。それを講談社が仮に明らかにしなかったら、このメディアとしての責任を問われるということなるんで。
そこの難しさ、っていうのは、我々、その報じる側からするとね。まあ、これはボクはどっちが正しいかっていうことを、僕は裁判をもうちょっと見ていこうと思ってますけども。だから、もう、次々と講談社側としてあね、ありとあらゆるものを出していくっていう、まあ、戦法だと思うですよね」
(これもごく当たり前のことをごく当たり前に言ったに過ぎない。)
みの(杉山に)「当時、実際取材なさってるんですよね」
杉山「はい・・・・・」(以上)
(再度言うが、相撲取りは伝統や文化で相撲を取っているわけではない。名誉と金銭的褒賞を大きな動機とした勝負事として行っている。勝負事だから、ファンも集まる。もし神事の域を出ない競技であったなら、一部の特定のファンしか惹きつけなかったろう。勝ちをカネで購う営利行為だからこそ、相撲取りは必死にもなるし、八百長相撲も行う。自分が白星を献上して貰うこともあるから、必要な相手に白星を献上することもある。すべて伝統だ、文化だ、品格だといった問題とは別次元のプロ競技に過ぎない。
「品格」を問題とするなら、ガッツポーズよりも朝青龍の不必要・過剰なダメ押しを問題とすべきだろう。伝統とか文化とは関係なしに、競技者のマナーに反するからだ。それをガッツポーズを品格ないと問題とし、ダメ押しは不問に付すのは見事と言うしかない合理的判断でとなっている。)
麻生支持率線とは最初から高度上昇する力もなく、低空飛行に始まって、たいして飛ばないうちからガソリン切れして急激に下降線を描き、破局に向かって突入していく線のことを言う。
≪クローズアップ2009:内閣支持率19%に低下 党内政局、収束せず≫(毎日jp/09.1.1.26)
<毎日新聞が24、25日に実施した全国世論調査(電話)で、焦点の内閣支持率はさらに下がり、19%と2割を割り込んだ。このほかも麻生太郎首相と自民党にとって、下げ止まり感が見えない数字ばかり。11年度からの消費税率引き上げをめぐり自民党内を二分した消費税攻防をしのぎ、当面の政局は落ち着いたが、次期衆院選をにらんだ「麻生降ろし」はなおくすぶり続けている。【中村篤志、白戸圭一】
◇自民「とにかく我慢」 一部若手、本音は「麻生降ろし」
「施政方針演説で首相の考えや政策を見てもらい、国民の理解が深まる。政策実行の環境は整いつつあり、今週から反転攻勢に出ていきたい」。自民党の細田博之幹事長は25日、毎日新聞の取材に対し、27日にも行われる首相の施政方針演説など政府4演説を通じ、政権浮揚を図る考えを強調した。
消費税攻防は先週末でひとまず決着。09年度税制改正関連法案の採決時に大量の造反が出る可能性は小さくなり、現時点で党内政局は、なぎ状態になりつつある。自民党の笹川尭総務会長は「支持率は上がった方がいいが、少し下がったぐらいで一喜一憂してもしょうがない」と冷静に受け止めてみせたが、党内が「低支持率慣れ」をしていることの裏返しでもある。
消費税攻防をしのいだ首相にとって支持率回復に向けた当面の戦略は、08年度第2次補正予算案と09年度予算案の早期成立を図り、経済対策の実績を重ねることだ。特に重視するのが2次補正に盛り込んだ総額2兆円規模の定額給付金。支給が始まる今春をにらみ、首相周辺からは「給付金が国民に行き渡るまで、とにかく我慢」との声が漏れる。
ただ、給付金への評価は依然低い。毎日新聞調査では74%が「評価しない」と答えている。2次補正、09年度予算を成立させても景気回復につながるかは未知数。「給付金を受け取ったからといって政権の評価が変わるのか」との疑心暗鬼もくすぶっている。
首相に近い閣僚経験者は、予算成立後の09年度補正予算案提出や内閣改造の可能性を政権浮揚策としてあげている。しかし、消費増税反対で動いた自民党中堅・若手の本音は、次期衆院選前の麻生降ろしにこそある。景気後退を受け、当面は予算成立を優先せざるをえないものの、「麻生さんではやはり戦えない」(若手)との声は切実さを増している。
与党内からは「現内閣の支持率が下がるところまで下がれば、次の首相が光り輝いて見える。米国のブッシュ前大統領の後のオバマ大統領、森政権の後の小泉政権。麻生政権でぎりぎりまでいって『チェンジ』だ」との声も出ている。
消費税攻防に続く党内政局の「第2幕」が開こうとしている。
◇政党支持、民主がリード拡大
政党支持率や次期衆院選に関する質問への回答は、「自民党と民主党」「麻生首相と小沢一郎民主党代表」の差が広がり、民主党優位がさらに強まった。
政党支持率は民主支持率が08年12月の前回調査比2ポイント増の26%、自民支持率が3ポイント減の20%など。両党の数字は08年10月の前々回調査から3回連続で民主が上回り、差は6ポイントに拡大した。ただ、「支持政党はない」が5ポイント増の42%で、自民からの離反層を民主が十分に吸収し切れていないこともうかがえる。
「麻生首相と小沢代表のどちらが首相にふさわしいと思うか」という質問への回答は、麻生首相が3ポイント減の16%、小沢氏が4ポイント増の25%。両者は前回調査で初めて逆転し、小沢氏が今回リードを9ポイントに広げた。「どちらもふさわしくない」が1ポイント増の55%で、依然多数を占めた。
「次の衆院選で自民と民主のどちらに勝ってほしいか」は、自民が2ポイント減の27%、民主が4ポイント増の50%で、やはり両党の差が拡大。「望ましい政権の形」を尋ねたところ、「今の自公連立政権」は4ポイント減の8%、「自民単独政権」は2ポイント減の6%だったのに対し、「自民と民主が協力する大連立」が4ポイント増の34%で最多となった。
これらの質問への回答を詳しく見ると男女差が顕著。男性の方が女性よりも自民党に厳しい見方をしている傾向がうかがえた。
政党支持率は、男性が自民20%、民主33%、女性が自民19%、民主18%で、「勝ってほしい政党」も男性は自民25%、民主57%、女性は自民30%、民主42%だった。「どちらが首相にふさわしいか」で、麻生首相を挙げたのは男女とも16%だったが、小沢氏を挙げたのは男性29%、女性20%だった。
一方のアメリカ新大統領・オバマの支持率
≪オバマ氏、就任直後の支持率68% ケネディに次ぐ高さ≫(asahi.com/2009年1月25日20時36分)
<【ワシントン=小村田義之】米民主党のオバマ大統領の就任直後の支持率が68%にのぼり、伝説的な人気を誇った民主党のジョン・F・ケネディ元大統領が就任時に記録した72%に次ぐ高支持となったことが、24日発表のギャラップ社の世論調査で明らかになった。
調査は、大統領就任直後の21~23日、全米の1591人を対象に電話で実施。オバマ氏の支持率は68%で、不支持率は12%にとどまった。
ただ、同じギャラップ社の今月9~11日の調査でオバマ氏が得た支持83%、不支持12%に比べると、支持率は下がっている。理由は明らかでないが、今回の調査では「どちらとも言えない」が21%にのぼっており、当面は政権運営の行方を見極めようとする姿勢がうかがえる。
選挙で選ばれた大統領の就任直後の支持率としては、過去最高のケネディ氏には届かなかったものの、共和党のアイゼンハワー元大統領が記録した68%と同率で2位となった。 >………
オバマ高支持率。今後、麻生支持率線を描くのか、逆麻生支持率線を辿るのか。アメリカが景気を回復し、世界の経済回復の牽引役を果たしてもらうためには、結果的にオバマ支持率線は少なくとも維持状態を示していたということが必要になる。
お粗末な一席で
財団法人の公益事業は指導監督基準で健全な運営に必要な額以上の利益を生じないように定めているにも関わらず、文科省所管の漢字検定を行っている漢字検定協会が文科省調査によると、「04~07年度の4年間に毎年7億~8億円の利益が上がり、資産が約50億円から、73億5千万円」に上っていると1月23日(09年)の「asahi.com」が伝えていた。
公益法人でありながら、儲け過ぎではないかというわけである。
記事によると、文科省は04年以降、3度立ち入り検査をして受検料を下げるか、公益事業に回すように指導してきたということだが、「73億5千万円」という金額の大きさから見るとせっせと貯め込んだように見えるが、それはカモフラージュ、偽装で、どうせお手盛りで特別手当だ、飲み食いのカネだで自分たちの甘い汁のために散々便宜を図った後の「73億5千万円」に違いないと思っていたら、同じ日付けの「YOMIURI ONLINE」が、<協会の大久保昇理事長が代表を務める広告会社「メディアボックス」(同市西京区)に、広報費など年2億~3億円の業務委託費を払いながら、文部科学省の調査に対し、報告していなかったことがわかった。>と報じていた。
漢字検定協会は広告会社「メディアボックス」に対して2006~08年度で合計約8億円を支払ったそうだ。トヨタや日産、あるいはパナソニックとかサントリーといった大企業が競合会社との熾烈な販売合戦に勝ち抜くために巨額の宣伝費を投じるとのと違って、一公益法人が広報企画や機関誌作成などの業務委託に年2億~3億円、3年間の合計で8億円も支払っていた。しかも委託先が大久保昇理事長が代表を務める広告会社だというから、見事なまでに出来過ぎた取引きとなっている。
「YOMIURI ONLINE」記事は、<公益法人が法人関係者の有利になる取引を結ぶことを禁じた指導基準に違反する恐れがあるとして、近く行う緊急の立ち入り検査で、業務実態や、代価が適正だったかを調べる。>と文科省の今後の対応を伝えると同時に、<協会は読売新聞の取材に、「(報告しなかったのは)失念していたのかもしれない」としている。>と報じている。
これは「失念」有無の問題ではない。先ず一番に報告の「失念」は組織の管理・運営上、あってはならないこと、当然許されないことだからであり、何よりも「業務実態や、代価が適正だったか」と記事が指摘しているように実際に行った広報企画や機関誌作成等が世間相場から言って年に2億~3億円、3年間の合計で8億円という支払額に見合う内容だったのかどうかを先ず問わなければならない問題であろう。見合わない内容なら、必然的結果として意図的に報告事項から外すか、偽装した報告へと姿を変える。
実際にはどのような報告もなかった。「失念」が許されない以上、報告を回避していたと解釈するのは止むを得まい。
このように書くのも、関連会社や関連法人に対して高額な業務委託をしていたケースは何も今回の漢字検定協会が初めての出来事ではなく、そこに繰返しの構図を見るからである。かつてのケースでは高額である理由がそこに不正な利益を前以てはめ込んでおく必要からの措置であった。
多分氷山の一角に過ぎないに違いない。多くは社会からの暴露を受けずに、安息・平穏を保っているに違いない。狡猾・巧妙と言う点では政治家・官僚は一筋縄でいかないからだ。04年10月23日『朝日』朝刊記事≪厚労省関連団体 「監修」仲介し5900万円 委託事業の受注先から補助金が還流≫が同じ構図の高額業務委託を伝えている。
厚生労働省所管の社団法人「国民健康保険中央会」の関連団体「厚生問題研究会」(代表者は厚生省から天下って国民健康保険中央会の代表を務めている者)が厚労省から00年と02年に合計約11億円の補助金を受けて医療保険制度などに関する広報冊子の製作を企画、製作は「国民健康保険中央会」の関連団体「コクホ中央研究所」に委託、「コクホ中央研究所」は実際の製作を都内の出版社に外注。
これは関連団体を迂回させることで、各組織に利益を少しずつバラ撒いていく構図であろう。かつて建設会社がよくやっていた手口だが(現在はどうか知らない)、100億で入札した工事を2割から3割の利益をピンハネした上で80億から70億の金額で下請に工事を請負わす。下請はあまり削ってはまずいから、2割前後のピンハネに抑えて60億前後で孫請に請負わせ、孫請は自社の利益をやはり2割程度前以て差引いた金額内で工事を納めるという儲けの構図である。
いわば100億で入札した工事が50億前後の約半値の工事に化ける。それも談合とかを行って高値入札を当たり前としていたから可能となる半額工事であろう。
但し上記『朝日』記事の厚労省の方は水の流れみたいに利益を上から下へと流すだけではなく、水で言えば自然の法則に反することだが、都内の出版社は冊子監修や原稿作成業務を厚労省国保課職員に斡旋して貰った仲介料名目で厚生問題研究会に02年12月から03年8月までの約9カ月間の間に5900万円が支払われたという。
ちょっとややこしい構図だが、冊子の原稿そのものは厚労省国保課職員が書き、その職員を紹介したのが厚生問題研究会だと言うわけである。
いずれにしても冊子監修と著者の仲介だけで5900万円も支払った。
さらに奇怪なことに冊子監修に関わる支払いは上記支払いで終わったわけではなく、出版社は00~02年の間に厚労省国保課職員十数人に監修料名目で1千万円以上を直接支払っていたという。勿論5900万円とは別である。
役所の冊子の内容ということなら、常識的には分かりやすく書いてあるものだが、著名な大学教授でもあるまいし、1人頭100万円以上と5900万円の二本立ての監修料とは、さぞかし高度な文章で難解、監修に時間がかかるものだったに違いない。
上記『朝日』記事は「たかりの構図、鮮明に」と副題をつけて、<監修業務をしていない職員が、監修料の受け取りや税無申告の際に名義だけを貸していたケースなど監修業務に実態がない疑いも出ていたが、同省は「確認できない」とするにとどまった。>とその実態を伝えた上で、監修料はそれぞれの個人に渡ったわけではなく、課内でプールしてタクシー代や夜食代、懇親会、税金等に使われたと書いている。
随意契約等を好都合な手段として委託にかかる実質的な必要経費を遥かに上回るカネを回すから、還流も千万単位といった大金とすることができる。ギリギリの適正価格なら、誰も還流などに応じることはできない。
但しいくらうまいことをやろうとしても、業務として組織を介して行うことだから、いつかは周囲に洩れて、組織内の特権階級のみのうまい汁の独占と言うわけにはいかない。うまい汁を周囲におすそ分けすることで口止めの意味合いを持たせる必要からの「プール」であり、“全員参加”か、ほぼ“全員参加”の共同消費というわけなのだろう。
また全員だからこそ、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」と同じく責任の分散が可能となり、罪の意識を簡単に麻痺させることができる。
似た構図は一つにとどまらない。04年7月26日の『朝日』朝刊には社保庁が社長が元職員である会社と6年間で計38億円の随意契約を結んでいたとする記事が載っている。記事には随意契約の種類と契約金額が書いてあるが、その一つを紹介すると、市販の約7倍の価格で金融機関のデータを購入していたというから、他の契約も推して知るべしであろう。
勿論7倍には根拠がある。日本の官僚・政治家は特に根拠のない大盤振舞いはしない。11品目の印刷物を発注して、社会保険庁や地方社会保険事務局が監修料やコンサルタント料名目で合わせて1億近いカネを還流させているし、印刷機器を発注して、担当者が200万円のワイロを受領、その他に社保庁職員100名が件の会社から餞別や接待の施しを受けている。
すべてに亘って「7倍」といった過剰・高額な契約金額が可能とした社保庁側の大盤振舞いに対する元社保庁職員経営会社の監修料やコンサルタント料に姿を変えた還流形式の大盤振舞いなのである。
漢字検定協会は大久保昇理事長が代表を務める広告会社へと広報企画や機関誌作成などの業務委託に年2億~3億円、3年間の合計で8億円を支払っていた。自分で自分に対してうまい汁を振り分けるようなものである。そのうちの利益をすべて自分の懐に入れたのだろうか。
厚生労働省所管の社団法人「国民健康保険中央会」やその関連団体「厚生問題研究会」、さらに「国民健康保険中央会」の関連団体「コクホ中央研究所」の還流の場合は補助金合計11億円を受けて冊子製作を企画、都内の出版社に外注に出して約7千万円(5900万円+1千万以上)を厚労省と関連団体に還流させていた。11億に対して7千万円なら、単純計算ながら、8億に対して5千万の還流は可能となる。
業務を個人的なうまい汁に利用して独り占めにしたら、周囲が誰にどんな噂を流すか分からない。当然露見を恐れることになる。上記二つの例と同様に外部にまで洩れないための口止めが必要となる。部下や周囲の人間を仲間に巻き込んで責任の分散を図り、罪の意識を麻痺させる。漢字検定協会の理事長社長の会社への8億の業務委託が世間相場に見合う金額でないとしたら、口止めの構図に進んでいる可能性を十分に疑うことができる。
疑いが事実で同じことの繰返しとなるのか、私一人の下司の勘繰りで終わるのか。
確か漢字検定協会が「世相を現す漢字一字」を公募し、発表した2007年の「今年の漢字」は「偽」であった。偽装の「偽」。
≪警察庁キャリアを書類送検 暴行容疑で、停職3カ月≫(47NEWS/2009/01/22 12:00 【共同通信】)
<成田空港で昨年末、手荷物検査担当の女性に検査用トレーを投げ付けたとして、千葉県警は22日、暴行容疑で警察庁キャリアの人事課課長補佐、増田貴行警視(36)を書類送検した。警察庁は同日、停職3カ月の懲戒処分にし、増田警視は辞職した。
警察庁は、テロやハイジャック対策で打ち立てたルールに対し、警察官が協力せずチェックを免れようとした点を重視。人事課は「自らの職務に反する言動で、警察に対する信頼、信用を大きく失わせた」としている。
警察庁によると、増田警視は昨年12月24日正午すぎ、成田空港の手荷物検査場で、150ミリリットル容器に入った男性化粧品を持ち込もうとして女性検査員に止められた。その際「警察庁の警視だ」と名乗って持ち込みを認めるよう迫り、トレーを投げ付ける暴行を加えた疑い。検査員にけがはなかった。>・・・・・・・・・
国際線への液体の持込みは100mℓ制限で、それを超えていたために注意を受けたのに対して、日本の警察の増田貴行警視はいたく感情を害して腹を立てた。これまで注意を受けたのは親と警察の上司と学校の先生ぐらいからで、自分よりも地位が低いと見ている下々の人間の注意など受けたことがなかったに違いない。何しろ今や「警察庁の警視」様なのだから。
本人は「200mℓまでと勘違いしていた。反省している」(YOMIURI ONLINE)と言っているらしいが、手荷物検査担当の女性は理由も告げずに単に「持ち込みはできません」と注意したわけではあるまい。「国際線への液体持込はテロ対策上100mℓまでの制限と決められておりますから」と丁寧に注意したはずである。もし理由を述べずに注意しただけなら、頭ごなしの注意となって、その態度の悪さから手荷物検査担当から外されるか、あるいは最悪、社員の地位からお引取りを願われたに違いない。
例え理由を述べずに注意しただけだとしても、「警察庁の警視」様の方から持込めないことの理由を尋ねさえすれば、手荷物検査担当の女性から規則違反の理由が直ちに返ってきたに違いない。乗客の質問にまさか「いけないものはいけないです」とあくまでも理由を述べなかったということはあるまい。
注意を受けた時点か、理由が納得できなかった場合はその理由を問い返した時点で、「200mℓまで」という「勘違い」は氷解していたはずだ。だが、検査用トレーまで投げ付けた。注意を受けたこと自体が面白くなかったからだろう。何しろ「警察庁の警視」様なのだから。
投げつけられたトレイは身体に当たったものの「検査員にけがはなかった」ということだから、結果オーライで犯罪とまで言えず、一般人ならこれといった前科さえなければ、単に大人気なく感情的に「キレた行為」と看做されて説諭で済んだ可能性大である。
だから、「テロやハイジャック対策で打ち立てたルールに対し、警察官が協力せずチェックを免れようとした点を重視」とか、「自らの職務に反する言動で、警察に対する信頼、信用を大きく失わせた」とかの理由をつけているものの、警察庁の警視である分ほんの少し色をつけただけのことで、警察庁が下した処分が「停職3カ月の懲戒処分」、千葉県警は暴行の疑いで書類送検といった軽い処分ということなのだろうか。
では、その処分に対して本人が上層部が下した処分よりも重い退職(=辞職)で応じたのはなぜなのだろう。責任を強く感じだからだとするのは注意を受けただけで「警察庁の警視だ」だと権力を笠に着た上、トレイを投げつけてまでして横車を押そうとした元々倫理観と責任意識を欠いていた態度の説明がつかなくなる。後で気がついた寝小便とするわけにはいかない地位と職務にあったのである。
まさか馴れ合いがあったとは思いたくない。後から警察庁の警視だと知れるのは仕方がないが、あの場で自分から名乗ったのはまずかった、単なる乗客の権力を笠に着た行為と警視庁の警視の権力に笠を着た行為とでは問題のされ方が大きく違ってくる、本来なら懲戒退職だが、穏便に事を済ますために停職3カ月の懲戒にするから、辞職で応じてくれと。
もしそういうことなら、身内庇いということだけではなく、下級職員に対してなら構わないが、キャリアである警視という地位ある者に対する「懲戒退職」という不名誉な記録が警察庁に残ることを避ける目的の前以て筋書きを書いた“穏便に事を済ます”になる。
これが下司の勘繰りに過ぎず、百歩譲って妥当な決着だと認めたとしても、何しろ警察庁キャリアの人事課課長補佐、増田貴行警視(36)様が仕出かした品行に関わる出来事である。
自分自身に関しては偉そうなことは言えないが、相手は警察庁キャリアの人事課課長補佐、増田貴行警視(36)様だから、偉そうなことを言うのを許してもらうが、人間の行為には善悪の判断(=倫理観)と責任がついて回る。この二つの道徳的要素が深く品行に関わってくる。
社会的地位、あるいは組織上の地位が高い程、高い倫理性・高い責任意識が求められるはずだ。また、年齢が長じる程、同じく高い社会性と高い倫理性が求められる。社会の一員としての常識を多く学んでいなければならないからだ。当然、年齢も高く地位も上の人間は社会的責任も大きくなる。倫理及び責任の意識を高く保持していなければならない。
もしも社会的地位や集団地位の高い者に高い倫理性・高い責任意識を求めることができないとしたら、一体誰に求めたらいいのだろうか。彼らには期待できず、社会的地位の高くない一般人のみに期待するとしたら、見事な倒錯現象としか言いようがなくなる。
「警視の階級は警察法第62条において、警視総監、警視監、警視長、警視正に次ぐ第5位の階級として規定されている」、「警視正とこの階級が、よく、キャリアとノンキャリアの大きな壁と比喩される。現に、キャリアは29歳で一斉に警視に昇任するのに対し、ノンキャリアはどんなに早く昇任してもこの階級に辿り着くのが45歳程度であり、差は大きい。」(Wikipedia)という高い地位とその地位の得難さからして、キャリアという国家資格と警視という地位に対する期待と責任の大きさを窺うことができる。このような社会的要求に応じて、当然、善悪の判断(=倫理性)も責任感も一般人以上に高い期待値が求められるはずである。
だとすると、国際線への持込み禁止を注意されたことに対して、「警察庁」という権力、なお且つ「警視」という地位が備えている権力を「警察庁の警視だ」と名乗ることで振りかざした上に注意した女性に対して検査用のトレイを投げつけて規則を自分の思い通りに曲げようとした何様の権威主義性に彩られた威嚇行為は例え刑法上の犯罪の観点からしたら軽微な犯罪に過ぎなくても、自らが占めている社会的地位、・集団地位そのものを裏切る行為というだけではなく、地位に要求される高い善悪の判断(=倫理性)と責任意識を損ね、自ら貶める“犯罪”そのものと言えないだろうか。
そのような倫理性と責任意識に関わる犯罪要素を厳しく問わないままに、ただ単に暴行容疑で書類送検で済ましていい、あるいは「停職3カ月の懲戒処分」に処し、それに対して「辞職」という形で平穏裡に幕を降ろそうとしている。事勿れと馴れ合いによる筋書き芝居ではないかと勘繰られても仕方のない決着ではないだろうか。
警察庁上層部が部下に向けた訓辞等で口先で言うだけではなく、自分たち自身が厳しいまでに備えている高い倫理性と責任意識であったなら、それは警視の欠如に対して鋭く反応して、「停職3カ月の懲戒処分」で済ますことはできず、懲戒免職が相当と厳しく問うことになったように思えるが、どうだろうか。
その反対の状況にあったから、厳しく問うまでに鋭く反応しなかった。高い倫理性と高い責任意識を相互に欠如させていて、お互いの欠如が単に響き合ったということではないのか。
厳しく罰することによって、罰を加える側も責任と倫理観に関して自分を厳しい場所に置くことになる。他人に厳しく、自分に甘くできないからだ。厳しく罰せない人間程、自分を責任問題で甘い場所に置く。
「警察庁の警視だ」は権力を振りかざす行為そのものだが、相手が女性だからできた行為だとしたら、警視の権威主義的態度は倫理的観点から如何ともし難いまでに犯罪性を帯びることにならないだろうか。
昨1月20日(09年)の「毎日jp」記事≪難民認定:ミャンマー国籍の姉妹、判断分かれる 東京地裁≫が次のようなニュースを伝えていた。
<ミャンマー国籍の50代の姉妹が国に難民認定を求めた訴訟で、東京地裁(定塚誠裁判長)は20日、姉を難民として認め、妹の訴えは退けた。妹は控訴する方針。
判決によると、ミャンマーで弁護士と公務員だった姉妹は日本に不法滞在していた04年、国に難民認定を求めた。06年に不認定となり、東京入国管理局が07年に退去強制令書を発付したが、姉妹側はミャンマー民主化を求める団体で活動していることを理由に「帰国すれば迫害される」と主張していた。
定塚裁判長は「姉は軍政府が強く嫌悪している民主化活動を支援する弁護士であり、自らも活動していた。帰国すれば迫害を受ける事情がある」として姉を難民と認定した。一方、妹については「政治活動は間接的なものにとどまり、反政府活動家として迫害を受ける恐れはない」と判断した。【銭場裕司】>……………
日本の裁判が姉と妹の立場の違いを異なるとしつつも、基本的人権を保障された同じ個人としての扱いをしているのに対して、言論の自由を極端に制限して自由な表現活動を許さず、政治に対する批判を認めないミャンマー軍政が果して姉と妹の立場の違いを認めて、姉と共に一旦国外に逃亡し、姉と共に難民申請した妹を政治的に無害の個人だと認めるかである。
しかも難民申請の理由を妹にしても「帰国すれば迫害される」としたことで、軍政当局を自由な言論を行う者を迫害し、弾圧する危険性ある者の立場に置く宣言をしたのである。軍政当局はそういった妹を「政治活動は間接的なものにとどま」っていたとしても、帰国後「反政府活動家として迫害を受ける恐れはない」とすることができるだろうか。
また、独裁政治は国民の自由な言論、自由な表現活動を制限することで国民の手足を縛り、その見返りに自らの手足の自由を得て可能とする恣意的政治システムを自らの体制を守る重要な手段とするが、国民の自由な言論、自由な表現活動を監視する方法として当局官憲による直接的監視と民間人を使った動静を探って密告させ、報酬を与える間接的監視とがある。
直接的監視と間接的監視、特に後者は、民主的裁判が国民の自由な言論、自由な表現活動を逆に認めることとなって独裁政治の障害事項でしかなく存在しないことから、密告内容の審理が民主的裁判を経ずに密告者の密告を鵜呑みに行われて厳しく処罰される密告の危険性を密告者自身が知っていて、そのような危険な密告が自分に及ばないための用心から密告という自分の仕事に熱心であることを示すことで体制に対して忠実であることを常に証明する必要性、衝動に駆られやすく、報酬を得る目的からもちょっとした言動を体制批判だと密告するデッチ上げの横行を社会は必然化し、そこから一歩進んで当局から依頼された密告者でもないのに密告される立場に置くよりも密告する立場に置いて自身の安全を図る共通の態度を社会的傾向として蔓延化させ、私的密告者までが横行することにもなる。
完璧な密告社会の成立である。ミャンマーにしてもかつての東ドイツのように密告社会となっていない保証はないはずである。独裁政治体制が崩壊して、明らかにされることが多いからだ。
当然のこととして国民同士の間に疑心暗鬼が芽生え、上が強制しなくても自由な言論、自由な表現活動を自分から口を閉ざす形で自ら一層の制限を加え、間接的な監視媒体である密告者から離れたさらに間接的な暗黙の監視状態を相互に構築してデッチ上げの密告という増殖的悪循環を加速せしめることとなる。
いわば帰国した妹が官憲に雇われているといないとを問わない密告者の手柄の餌食にならないという保証はあるのかということである。身の危険から政治活動を控えていたとしても、密告者から自分の身の安全を図ったり体制に対する忠実さを証明し、報酬を得るための生贄に祭り上げられることはないと断言できるだろうかということである。
また軍政当局が国外に出て自由な言論、自由な表現活動の機会を得た姉が軍政に都合の悪いことを喋らせない人質に妹を利用しない保証もないはずである。
徳川幕府が幕藩体制下の各藩大名に妻を江戸に住まわせて人質とした形式につながる自己安全策である。
姉にしてもミャンマーに強制送還された妹の身を案じて、国外に出て折角手に入れた自由な言論、自由な表現活動を自ら抑圧して軍政批判の民主化活動を封印する可能性も考えられる。
韓国入りした脱北者の中にはテレビに出るとき顔を隠す者がいるが、北朝鮮に残した家族・親戚に害が及ばないための必要措置であろう。ところが、難民認定の裁判を起こしたことで、顔も存在も在日ミャンマー大使館を通じてミャンマー当局に把握されることとなったに違いない。
ミャンマーに対する民主化要求は日本政府も行っていることで、それは世界的に大きなうねりとなってより効果を持つ上に姉妹はミャンマー軍政の弾圧下にあった当事者でもあるのだから、例え姉一人の沈黙であっても大いなる損失と見るべきで、そのような損失は日本政府のミャンマーに対する民主化要求を弱めることはあっても、決して強めることにはならないはずである。
東京地裁の定塚誠裁判長はミャンマーの軍政に対するだけではなく、独裁政治一般に対する認識が甘くできてはいないだろうか。
例え反政府活動が間接的であったとしても、姉のこれまでの活動や立場から、妹まで迫害の恐れありとした方がミャンマー軍政に対する警告になり、その非情さを訴える有効な手段となるのではないのか。
参考までに引用――
弁護活動理由に難民認定 ミャンマー女性、妹は敗訴(中日新聞/2009年1月20日 18時01分)
「弁護士として民主化運動を支援していたため、帰国すれば迫害を受ける」として、ミャンマー国籍の50代女性が難民認定などを国に求めた訴訟の判決で、東京地裁は20日、難民と認め、強制退去処分を取り消した。
定塚誠裁判長は、本国で武装勢力の弁護をやめるように軍から脅迫されたり、日本でも民主化運動を続けたりしていた女性の活動歴を指摘。「弁護士の反政府活動を強く嫌う軍政府当局に注視されているのは明らかで、迫害の可能性がある」と判断した。
一方、母国で公務員だった女性の妹も提訴していたが、判決は「従属的、間接的な政治活動にとどまる」として難民と認めず、請求を退けた。
判決によると、女性は1992年に来日。そのまま不法残留を続け、2004年に難民申請したが認められず、07年に強制退去処分を受けた。妹は97年に来日していた。(共同)
ミャンマー人姉妹に明暗 難民認定訴訟(msn産経/2009.1.20 18:26 )
難民認定申請が認められず、強制退去処分を受けたミャンマー国籍の50代の姉妹が、国に不認定処分の取り消しを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。定塚誠裁判長は、ミャンマーで少数民族の活動を支援していた姉を難民と認めたが、妹の請求は棄却した。
定塚裁判長は、ミャンマーでは反政府運動をする少数民族の支援をする弁護士の弾圧が続いていると指摘。姉が少数民族の刑事弁護をするなど反政府運動を支援していたことから「軍政府に注視されていることは明らかで、帰国すれば迫害される可能性があり『難民』に該当する」と結論付けた。
一方、公務員だった妹は、目立った政治活動をしているわけではなく、迫害の恐れがないと判断した。
判決によると姉妹は平成4~9年に入国、16年に難民認定を申請したが、18年に不認定処分となった。
難民認定、姉妹で明暗=ミャンマー人の強制退去訴訟-東京地裁(時事通信社/2009/01/20-16:16)
難民認定申請が認められず、強制退去処分を受けたミャンマー国籍の50代姉妹が、国に不認定処分の取り消しを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。定塚誠裁判長は母国で弁護士をしていた姉を難民と認めたが、元公務員の妹の請求は棄却した。
定塚裁判長は、1988年の軍事クーデター以降、ミャンマーでは弁護士の弾圧が続いていると指摘。反政府の少数民族の刑事弁護を担当していた姉について「民主化運動への取り組みが、軍政府当局に注視されていたのは明らか」と述べた。
一方、妹の活動歴は大勢が参加したデモに加わる程度で、帰国しても迫害の恐れはないとした。
反イスラエル記事がハマス持ち上げ記事となっている
停戦が次の衝突までのモラトリアムに過ぎないことは麻生首相のもっともらしげな口癖を借りずとも、誰の目にも「はっきりしている」事実であろう。ハマスが自ら掲げたイスラエルの存在自体を抹殺、少なくとも現在の地から放逐する政策の目的達成が軍事的にも政治的にも蟷螂の斧に過ぎない効果しか見い出せなくても、軍事的方法に頼る以外に道はないことが理由となっている衝突、停戦、衝突、停戦の同じことの繰返しの歴史を踏まなければならない自縄自縛に絡め取られているからだ。
イスラエル人死者が13人に対してハマス側は「子ども410人を含むパレスチナ人1200人以上が死亡、約5300人が負傷」(中国新聞インターネット記事)が示している人的被害とガザ地区街の建物やインフラの破壊等の物的被害を併せた今回の衝突で得たマイナスの戦果はまさに蟷螂の斧がつくり出した成果としか言いようがない。
ハマス側の停戦はイスラエルによる逆の“抹殺”、あるいは逆の“放逐”の恐れが出たため、それを避ける必要からの、それが唯一の理由であって、この機を逃したら、次の衝突を準備する体力回復を望めないと判断したからだろう。
世界のマスコミの多くはイスラエルの民間人であるとないとを問わない無差別に近い攻撃の残酷さを非難し、パレスチナの対イスラエル闘争をインティファーダだ、ジハードだと持ち上げてきたが、それに同調して反イスラエルのデモを行った各国国民も多くいた。
だが、ハマスがこれまでに行ってきたロケット弾攻撃や自爆テロ、あるいはインティファーダやジハードの類がどれ程の建設的な成果を積み上げてきたと言えるのだろうか。イスラエルに対する国際的非難は停戦によって収束し、その殆どが次の攻撃まで風化するが、停戦を挟んだ衝突の繰返しは常にパレスチナ側の人的・経済的・物質的損失をより多く伴う負の成果を積み上げるのみで、その愚かしばかりの反復性に懲りない。
昨19日の『朝日』朝刊記事≪時時刻刻 停戦 なお疑心と不安≫ の中でもガザ・パレスチナ人の“懲りない”声を伝えている。
「大勢の市民を殺したイスラエル軍の攻撃は、ハマスと我々の結束を強めた」
強めた「結束」が次の衝突に勇気づけを与えるとしても、人的・経済的・物質的にどのような建設的な成果を約束するいうのだろうか。
だが、記事はその声に同調して、<イスラエル軍の圧倒的な攻撃は、住民のハマス支持を広げたように見える。>と次の衝突の確約にしかならない「ハマス支持」に肯定的な評価を与えている。本人は気づいていなくても、ここでハマスのイスラエルとの衝突と停戦の繰返しを容認したのである。
この姿勢は当然のように軍事的衝突を計ることのないアッバス議長への非難となって現れる。
<一方、ガザとは別のパレスチナ自治区ヨルダン川西岸だけを統治するアッバス自治政府議長は、ガザ攻撃を非難しても止められず、無力ぶりをさらけ出した。
アッバス氏がイスラエル軍の戦車に乗ってガザに「凱旋」するのではないか――。そんな冗談まで、空爆下のガザ住民の間で飛び交っていた。イスラエルへの憎悪とともに、同国に協力するアッバス氏のイメージはガザ住民の間で地に落ちた感がある。>
アッバス議長がその実現を望んでいる対イスラエル「2国家平和共存」政策は間違っていて、ハマスの衝突と停戦の繰返しを、それが建設的な進展を何も見ない現実を無視して正しい決定だとでも言うのだろうか。少なくともパレスチナ自治区ヨルダン川西岸に於いては数多くのパレスチナ民間人の犠牲、生活基盤や産業基盤の破壊を免れた。ガザが負うこととなった被害と比較した場合、「2国家平和共存」政策が人的犠牲や生活基盤・産業基盤の無傷という建設的成果を労せずして挙げたとも言えるはずである。
民間人の多くの犠牲、生活基盤や産業基盤の壊滅的な打撃とそれらがすべて無傷であったこととの差は大きい。パレスチナの将来的な人材足るべき子ども410人という死の数を取っただけでも、一人として子供の死を見なかったヨルダン川西岸の平穏さとの差は大きいものがある。
それとも、今は成果を見なくても、衝突と停戦の繰返しが将来的にはこれまでに失った人命や経済的・物質的損失を上回る建設的な成果を生み出すことができると見た上でのハマス同調なのだろうか。
同じ19日日付の『朝日』夕刊記事、≪密輸トンネル網、空爆で大打撃≫にしても朝刊に続いてというわけなのか、衝突と停戦を正当化させるハマス持ち上げ記事となっている。
イスラエルによるガザ封鎖下でエジプトとパレスチナ自治区ガザを結んで住民の生活物資やイスラム過激派ハマス調達の武器等の搬入通路となっていたトンネルがイスラエル軍の空爆で大打撃を受けた。そのトンネルの「管理者」の一人がトンネルの利用実態を証言するという内容の記事である。
地下約20メートルで境界を越える約千本ものトンネルが連日の空爆でほぼ壊滅状態化したが、それまではガザ側からの注文に応じてカイロから調達した食糧や燃料、電気製品などを搬入、ガザ住民の生命線を担ってきた。トンネル「通貨料」は発電機1台150ドル、羊1頭100ドルが相場。
一方でハマスがロケット弾を作る材料の水道管200本(5千ドル)、TNT火薬1トン(5千ドル)といった注文も裁き、過去3カ月で15万ドル稼いだという。
記事はトンネルの「管理者」がガザに物資を提供するのは商売のためだけではなく、「ガザの抵抗を助けているのが誇りだ」とハマスの対イスラエル闘争支援も目的の一つに入っているとしている。
その理由がトンネルの管理者の多くはベドウィンと呼ばれるシナイ半島の遊牧部族民で、かつてパレスチナ解放を掲げたエジプト軍に情報提供等で協力したが、イスラエル軍に敗北、82年まで占領下に置かれ、抑圧された経験があるからだという。
トンネル管理者「イスラエルは一時的にトンネルを破壊できても、ガザの人たちを助けたいという我々の意思は砕くことはできない。停戦したら、仕事を再開したい」
密輸再開はハマスの次の衝突の準備にしかならないだろう。どのような話し合いも、何らかの形でイスラエルの生存を認めることになるから、攻撃しか、イスラエルの存在を認めないとするサインにないからだ。例えエジプト当局が密輸取締まりの監視を強化したとしても、密輸業者がワイロを用いた場合、どれ程の実効性が出るだろうか。エジプト官憲の中にもハマス寄りの人間はいるに違いない。
過去3カ月で15万ドル稼いでいて、ガザに物資を提供するのは商売のためだけではなく、「ガザの抵抗を助けているのが誇りだ」とハマス支援を口にするのは自らの密輸行為を美化する体のいい口実に過ぎないのではないのか。
2009年01月19日9時現在で1エジプトポンドの対ドル交換レートは0.18088ドルだと言うから、15万ドルは約83万エジプトポンド。
同じく同じ時点で1エジプトポンドは16円35銭。83万エジプトポンドは約1千350万円。
計算に弱いから間違えていないことを祈るが、インターネットで検索したところ、≪ピカラタウン [徳島 香川 愛媛 高知] ほっと四国 - 今日子の「勝手に旅マニア」≫なるブログが2008年10月中旬の「エジプト紀行」として次のように書いている。
「エジプトの富裕層の大半は石油会社の人間。役職に就いている人は平均月収50~60万くらい。 至るところで目にするポリスマンは、日本の感覚で8万円くらい。 一番安いのは教員(特に小・中学校の先生)で、3万円くらいの場合もあるとか・・・・」――
昨今のエジプトにしても世界的な不況と穀物等の高騰から諸物価が急激に値上がりして庶民の生活を圧迫しているということだが、しかし一般庶民の給与額からしたら、3カ月で約1千350万円、1カ月で約450万円の稼ぎはハマスの対イスラエル闘争支援が便乗でしかない荒稼ぎであることを証明しているように思える。
便乗ではなく、「ガザの抵抗を助けているのが誇りだ」が正真正銘の事実だと言うなら、450万の稼ぎの中から相当部分を浄財として闘争支援にまわしてもよさそうなものだからだ。
少なくともハマスがイスラエルに盛んにロケット弾を打ち込んで装備の点で消耗してくれた方が、その代償にパレスチナの民間人が子供を含めてどのくらい犠牲になろうとも、新たな装備に向けた需要が喚起され、それがトンネル商売の商機をつくり出してくれると言うものである。当然、エジプト人の一般給与から比較したら、ベラボーな大儲けを約束してくれる。
『朝日』の記事はそんなことにまで注意を向けないハマス持ち上げ記事となっている。
参考までに――
『ニッポン情報解読』by手代木恕之〈 パレスチナの取る道――世界を領土とせよ〉
15日(09年1月)午後、日本時間の16日午前5時半頃、「USエアウェイズ」のエアバスA320型機がニューヨーク近郊のラガーディア空港からノースカロライナ州のシャーロットに向けて離陸したあと、ニューヨーク・マンハッタンの西側を流れるハドソン川に不時着、乗客150人・乗務員5人の全員が無事救出されたと昨夜のNHKニュースが伝えていた。
旅客機は離陸30秒から45秒後にエンジンに鳥が衝突する「バードストライク」に見舞われ、両方のエンジンが停止、機長は空港へ引き返すことは困難と判断、マンハッタン島などの市街地を避け機体をハドソン川に導き、川幅1キロもある水面に機体を損傷なく着陸させた。
<「かなりの速さで降下したが、機長がうまく機体をコントロールしながら着水した」という。米CNNテレビによると、着水後すぐに機内に冷たい水が入ってきた。だが乗客の男性は「みな冷静で、女性と子どもを先に脱出させた」と語った>(毎日jp)
「マンハッタン島に降りていたら同時多発テロのようなことになりかねなかっただけに、機長のハドソン川への着水の判断は正しく、ラッキーなケースだと思う」(航空評論家の鍛治壮一/毎日jp)
「空港に引き返そうと無理に旋回していたら失速して墜落した可能性が高い」(航空評論家の浜田一穂/同毎日jp)
<現場に真っ先に着いたのは、サークルラインと呼ばれる2階建ての観光船だった。さらに市消防局の消防船や市警のヘリコプターなどが急行。現場が都会だったことが逆に、迅速な救助態勢をもたらした。>(asahi.com)
乗客(CNNテレビに)「最初はみなパニックになりかけたけど、機長や一部の乗客が非常に落ち着いて、冷静になるよう呼び掛けたので、大きな混乱はなかった。着水の瞬間は自動車事故にあったような衝撃。生きているのが夢みたいだ」(東京新聞)
AP通信によるある目撃者の話「ものすごい低空飛行だと思ったら水しぶきを上げて着水した。うまく制御された着水に見えた」(同東京新聞)
救出に参加したフェリーに乗っていた男性(42)「飛行機の乗客はみんな寒さに震えていた。フェリーの乗客が皆で抱きかかえたり手を握ったりして温めた。手がかじかんで携帯電話のボタンが押せない人がおり、代わりに押してあげる人もいた。今日はみんながヒーローだ」(同東京新聞)
NHKテレビで鼻の下から顎の両脇にかけて髭を生やしていたニューヨーク州知事が「これは『ハドソン川の奇跡』だ」と言っていたが、上記「東京新聞」は不時着後に機長と会話を交わした後のニューヨーク市長の言葉を次のように伝えている。
「機長は見事なランディングをした。全員の脱出を確認してから機内を二度見て回り、最後に自分が脱出した」――
この沈着冷静な快挙に1929年の世界恐慌と比較されるアメリカの現在の不況に暗い気分にさせられている多くのアメリカ人が勇気づけられたに違いない。単なる飛行機事故を超えて、政治・経済、社会の分野まで含めて、アメリカは大丈夫だと。必ずアメリカは立ち直る。再び世界のリーダーとしての地位と責任を回復すると。
一方の日本でも非正規社員の解雇・失業、正社員の賃金カット、内定取消し、操業時間短縮、複数日の操業停止、早期退職、倒産等々、暗い話・暗い出来事ばかりの中で米国旅客機不時着、乗客乗員全員無事救出ニュース報道に約1日遡る1月14日に、旅客機不時着に優るとも劣らない国民を勇気づけるニュースが伝えられた。
1月15日発売の「週間新潮」が参議院議員でもある鴻池祥肇内閣官房副長官(68)が参議員宿舎に美人妻を誘い込んでなのか、美人妻の方から自らの意志で進んでしていたことなのかは分からないが、不倫という文脈で宿泊させていたと各新聞・テレビが伝えた。
本人は否定している。「週間新潮」が発売された15日に<河村官房長官に会い、「記事にある女性が何回か議員宿舎を訪れた事実はあるが、不倫交際、半ば同棲(どうせい)のような状態というのは事実に反する」と釈明。>(asahi.com)したという。
最初は否定するのが誰もが行う常套手段だが、同「asahi.com」は、<鴻池氏はその後、記者団に「この女性に(宿舎の)キーをずっと渡していたこともないし、泊めたこともない。男女の仲になったというのは天地神明に誓って全く関係ない」と説明。首相から「プライベートなことだし、宿舎は誰でも出入りできる。政府の方針についてどうのこうのということでもない」と言われたことを紹介し、辞任の考えはないことを強調した。 >とのことだが、「(宿舎の)キーをずっと渡していたこともない」ということは、「全然渡したことはない」と言うことではなく、「渡したことがある」と言うことであろう。
マスコミはなぜ渡す必要があったのか、どのくらいの頻度で渡していたか、その2つのことを聞くべきだった。渡した理由と渡した頻度によって日本国民が勇気づけられる度合いが違ってくるからだ。
<週刊新潮によると、鴻池氏は1月6日夜、都内の居酒屋で、妻とは別の40代半ばの女性と2人で2時間ほど酒を飲んだ後、タクシーに同乗して東京・麹町にある参院議員宿舎に移動。一足先に鴻池氏が議員宿舎に入り、女性は1分後、宿舎のカードキーで玄関を開けて宿舎に消えていった。女性は「ちあきなおみ似」でスタイルがよく、「誰でも知っている超一流企業に勤める夫を持ち、子供もいる家庭の主婦」という。鴻池氏とはお稽古ごとで知り合い、5-6年前から宿舎に出入りするようになり、一昨年から泊まるようになったとされる。昨年の12月中旬にも複数回、宿泊していたという。>と≪議員宿舎はラブホ? 鴻池官房副長官にW不倫疑惑≫(ZAKZAK 2009/01/14)は伝えている。
「ZAKZAK」が伝える二人の状況を具体的に場面化すると、二人で本人の部屋に入るのを避けて、先ず宿舎の玄関のドアを鴻池氏がカードで開けたあと、そのカードを「美人妻」に手渡して自分は先に部屋に行き、その後美人妻がカードで玄関のドアを開けて、鴻池氏の後を追い、ノックか何かの合図で鴻池氏が美人妻を部屋に導き入れたという展開になるのではないだろうか。
「不倫交際、半ば同棲(どうせい)のような状態というのは事実に反する」、あるいは「男女の仲になったというのは天地神明に誓って全く関係ない」ということなら、なぜ部屋への時間差入室といったカモフラージュが必要だったのかの疑問が生じる。
また「週間新潮」の記事は野球帽をかぶった鴻池官房副長官が女性と寄り添って歩く写真を掲載している(FNNニュース)ということだが、特に有名人が外に出るときに野球帽などをかぶるのは他人に顔を見られたくないとか、行動を秘密にしておきたいといった理由の変装道具となっていることから考え併せると、男女の関係には「天地神明に誓ってありません」と誓うのは少々無理があるように思える。
上記「ZAKZAK」は女性は「週間新潮」に対して、<6日の宿泊については「申し上げられない」と話し、12月中旬については「部屋には行かず、女性トイレの個室で明け方まで寝ていた」と説明したという。>と伝えているが、それが真正な事実であるなら、「6日の宿泊については『申し上げられない』」ことが二人の間に持ち上がっていたということになる。
だとしても、なぜ「部屋には行かず、女性トイレの個室で明け方まで寝ていた」ということなのだろうか。「女性トイレの個室」とは鴻池氏の部屋のトイレではなく(鴻池氏の部屋のトイレなら、応接室その他を利用すればいいことで、トイレに寝る必要はまったくない。)、部屋の外の廊下にある誰もが使えるトイレの個室ということなのだろう。そこにある便器に腰掛けて、朝を待った。
そんなことをする必要があるだろうか。外に出てタクシーを拾って、口実を設けて外出していたために、それが夜中に家に戻ることができない性質の口実だったということなら、適当なホテルを見つけて、そこに宿泊すれば済むことである。
本人にとっては鴻池氏の部屋のベッドで二人で寝るのとホテルの部屋のベッドで一人で寝るのとでは大きな違いはあっても、何も知らない夫にとっては知らぬが仏で何の違いもない。
それとも鴻池氏の部屋に押しかけて関係を求めたが断られ、カードがないために宿舎の玄関から出ることができず、止むを得ずトイレの個室で夜を明かしたということなのだろうか。
だが、「6日の宿泊については『申し上げられない』」関係へと進んでいた?――。
もし不倫だとしたら、なぜ参議員宿舎なのだろうか。密会用のマンションを用意するなり、野球帽をかぶって本人と知られないようにカモフラージュまでしているなら、人通りの少ない場所のホテルでもいいはずだが、それが参議員宿舎で、却って問題を大きくする要因としてしまった。
もう何十年も前のことだが、不倫は一種の勲章行為となって優越感をもたらし、自らの虚栄心を満足させるが、夫ある身、妻ある身で不倫する男女の中にはなまじっかな勲章行為で飽き足らなくなると、危険を顧みるどころか、危険を却って刺激剤として女は相手の男を自分の家の夫と性生活を共にしているベッドに誘い、男は相手の女を妻と性生活を共にするベッドで行為を持つことを欲する不倫の形にエスカレートさせることがあると何かの本で読んだことがある。
夫以外の男と、あるいは妻以外の女と夫婦用のベッドで乱れる、自分と相手だけが知っている秘密を勲章として何も知らないそれぞれの相手を内心嘲り、自分自身はさもたいしたことをしているかのような優越感に浸って、自らの虚栄心を満足させるのだそうだ。
なぜ参議員宿舎だったのかという謎を解くとしたら、他の国会議員がしていないことを自分だけが特別にしているという勲章としたい虚栄心からで、そこに優越感を見い出していたということなのだろうか。
麻生太郎首相の反応を≪【麻生首相ぶら下がり詳報】鴻池副長官報道「われわれの関知するところではない」≫(msn産経/2009.1.15 19:59 )が次のように伝えている。
--鴻池副長官が参院議員宿舎に知人女性を宿泊させていたとする週刊誌報道について、与党内からも「説明責任を果たすべきだ」との声が相次いでいる。首相は説明責任についてどう考えるか
麻生太郎「今、会見しておられるんじゃありませんか。今、会見しておられるんだと思いますが」
--議員宿舎は地方選出の議員の在京での職務を円滑に遂行するために国民の血税で建てられた施設。一般論として、カードキーを知人友人にむやみに貸与することや、不適切な関係に利用することについて、首相はいかがお考えか
麻生太郎「あのー、基本的に3つ分けて考えないといけないんだと思いますが、少なくとも制度上、第三者がそこに来るとか入るとかいうのは制度上、別に問題はない。これがひとつ。それから職責上、何かそこの人に対して情報が、とかいうような話ってのは他には例がありましたけど、それもない。後は情緒的な話ですけれども、そこんところはこら、個人の話ですんで、われわれの関知するところではない。分ければそういうことになると思いますね」
--情緒的なところで、(議員宿舎が)使われてもやむなしと。
麻生太郎「これはご本人の話ですから、私、情緒の話は正確なところわかりませんから、お答えようのしようがありません」
--法律的には業務を円滑に遂行するためにというのが議員宿舎の目的であって、われわれの血税で建てられたわけだが、それも業務を遂行するための一部であると
麻生太郎「業務を円滑に遂行するための一部かどうかは詳しくは知りません。そんな関係、知りませんから。答えようがありません。そこのところは。ただ基本的には今申し上げたように、3つ分けて考えないといかんところなんじゃないかと思っております」
--首相
麻生太郎「はいどうぞ」
--この件に関して、副長官から事実確認などはされたのか
麻生太郎「僕は電話でときどき話はしてましたから、電話で話したことはあります。呼んで事情を直接聴取したのは官房長官の話であって、私ではありません」――――
この不倫疑惑報道があってから、日本は大丈夫だ、必ずこの100年に一度の大不況から日本は立ち直る。再び世界第2位の経済大国としての地位と責任を回復すると勇気づけられた日本人がきっとたくさんいたことだろう。
マスコミ各局・各社も元気づき、我先の一斉報道となった。河村官房長官に質問する、麻生首相に質問する。勇気百倍、エンジン全開といったところだ。派遣切りだ、雇い止めだ、内定取消しだ、賃金カットだが遥か背景に遠のいてしまった。
麻生太郎はいとも簡単に「第三者がそこに来るとか入るとかいうのは制度上、別に問題はない」と言っているが、「第三者」が何者かを問題としない単細胞な主張に過ぎない。極端な例だが、その可能性無きにしも非ずで、もし爆弾を腹に抱えたテロリストが訪れたとしても、「第三者がそこに来るとか入るとかいうのは制度上、別に問題はない」とでも言うのだろうか。麻生太郎なら言うかもしれない。
訪問者が誰かということも問題だが、自宅やプライベートな用事で宿泊したといったホテルの部屋と違って、議員宿舎は国会議員という身分に宛てがった生活空間であり、活動空間なのだから、その身分にふさわしい態度・振舞いが訪問者との間にも求められるはずである。
一参議院議員ではなく、内閣官房副長官の地位に就いてもいる。願わくば女性問題によってではなく、政治上の業績で日本国民を勇気づけて欲しいが、そういったことのできない政治家に限って、政治とは関係のない低俗な活動を勲章とし、自らの虚栄心を満足させる。
ここがアメリカの旅客機不時着が与えた勇気づけと大きく違う点である。