「批判を受け、年度内に」「障害者負担を軽減」と題する記事(06,11,28・朝刊)が『朝日』に載っている。「自立支援法で予算措置方針」という内容だが、引用すると次のようになっている。
「政府・与党は37日、障害者が福祉サービスを利用する際の自己負担額が今年4月から原則1割となったことについて、自己負担を一時的に軽減する措置を今年度内に導入する方針を決めた。障害者の負担増を盛り込んだ障害者自立支援法に『弱者切り捨て』との批判が高まっていることを受け、06年度補正予算案に負担軽減策を盛り込む。法律施行から1年も経たずに軌道修正を迫られた。
激変緩和策として検討されるのは、低所得者に対する自己負担軽減措置の追加や、障害者施設への補助の増額など。予算規模は月内をめどに財務省と厚生労働省が詰める。ただ、障害者自立支援法自体は見直す動きは今のところない。
障害者福祉の自己負担割合は従来、本人の所得など負担能力に応じて決められ、低所得者の在宅サービスなどは無料だった。今年4月からは、受けたサービスの1割を原則として負担するようになり、障害者の家計を直撃。大阪障害者センターが全国2296世帯を対象に行った調査だと、55%の世帯が『自己負担がつき1万円以上増えた』と回答し、86%が制度見直しを求めている。(後略)」
安倍首相の政治哲学、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」の「結果の平等は求めない」が実際には「不平等」をつくり出していたなら、意味を失う。小泉改革が格差社会という不平等をつくり出したようにである。そのために「機会の平等は求めるが、結果の不平等は辞さない」が実体となっている。
障害者自立支援法が例え小泉内閣時代に成立・施行した法律であっても、その当時から唱えていた〝条件付き平等論〟であり、自立支援法自体が〝条件付き平等論〟に添う原則を含む上に、協力し合って国会を通過させた法律である。安倍氏の政治思想の一つの具体化という形を取っていることは否定できないはずである。
自立支援法は障害者が地域で生活することを支援する趣旨の法律で、『障害者福祉 改革の岐路』と題する『朝日』の記事(05.4.19・朝刊)によると、「新法案は『障害者が自分らしく暮らせる地域社会の実現』」を目指すという理想を掲げて立案されたもので、最大の論点は負担の仕方だ。法案は、国や都道府県の財政的な負担を明確にする一方で、障害者には受けたサービスの量に応じた『応益負担』が課せられる。かかった費用の1割だ」と、まさに「機会の平等」を掲げ、「結果の不平等を辞さない」安倍哲学に合致した制度となっている。
「現在は収入にあわせた『応能負担』。低所得者が多いため、ホームヘルプの場合で利用料を払っている障害者は5%程度という。利用者負担の平均は月額約800円だが、応益負担になると約5倍になる見込みだ。
応益負担には月4万200円の上限がある。所得に応じて上限は2万4600円、1万5千円に下がる。生活保護受給者は無料だ。厚生労働省は『必要なサービスを確保するためには費用をみんなで負担し、障害者も制度を支える仕組みが欠かせない』と強調する。・・・」(同記事)
安倍首相の〝条件付き平等論〟である前半の「機会の平等を求」るに当てはめて言うと、厚生労働省が言う「必要なサービスを確保するためには費用をみんなで負担」するという「受けたサービスの量に応じた『応益負担』」に当たり、「所得に応じて上限」が設けられていると言っても、現在の「月額約800円」から「約5倍になる見込み」だという負担増加が「結果の平等を求めない」、実際には「不平等を辞さない」として現れている姿であろう。
安倍首相の「再チャレンジ政策」の「再チャレンジがしやすく、勝ち組、負け組を固定しない社会、人生の各段階で多様な選択肢が用意されている社会」にしても、障害者自立支援法を通して見ると、単なる人気取りの奇麗事となり、実体は「勝ち組が幅を利かし、負け組排除の社会、人生の各段階で選択肢を制限する社会」を目指している実態がさらけ出される。
企業減税で企業を勝ち組と固定することで日本の経済の活性化・経済成長を至上命題とし、その一方で勝ち組以外に予算を費やすことを減らして逆に自己負担を増加させ、それを以て財政削減策とする路線に立っている。その一つが「自立支援法」に定めた自己負担1割だったのだろう。
ところが「法律施行から1年も経たずに軌道修正を迫られた」。そうなったそもそもの原因は見通しの悪さではなく、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」といった小泉首相共々担った安倍氏流の受益者負担論、あるいは応益者負担論が単に財政削減のための国民負担を正当化させる奇麗事の口実・欺瞞であって、その機械的な当てはめが原因した破綻であろう。結果的に「機会の平等は求めるが、結果の不平等は辞さない」になってしまった。
もし「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」を言うなら、あるいは「再チャレンジ政策」を言うなら、人間らしく生きる最低限の生活を保障した憲法の精神を社会的弱者に位置づけられている障害者の生活にすべてに先立って十分に生かすべく努力すべきで、そうしてこそ、その延長に国民主権は生きた姿を取る。なぜなら、最も難しい問題に解答を与えてこそ、他の問題は解くのに難しいことではなくなるからというごく単純な理由からに他ならない。
人間らしい最低限の生活とは、断るまでもなく、単に食べて生きていけるということだけではなく、人間らしい社会活動(=社会参加)を併せて可能とする生活のことである。
そういった生活の保障に向けた視点を欠いた法律だと言う証拠は次に挙げる。先ずは上記新聞時事が指摘している「低所得者が多いため、ホームヘルプの場合で利用料を払っている障害者は5%程度という」事実を押さえておかなければならない。なぜ「低所得者が多い」のか。
平成17年6月1日現在の障害者の雇用状況について厚生省は発表している。1.8%の法定雇用率が適用される一般の民間企業(常用労働者数56人以上規模の企業)に於ける実雇用率は前年に比べて0.03%ポイント上昇の1.49%となり、雇用されている障害者の数が前年に比べて4.3%(約1万1千人)の増加、法定雇用率達成企業の割合が、前年比0.4%ポイント上昇の42.1%となったと、着実な進展を謳っているが、1.8%の法定雇用率に達していない事実は欧米と比較した障害者雇用の貧困を示す数値であろう。
1.49%の内訳は中小企業の実雇用率は引き続き低い水準にあり、特に100~299人規模の企業においては、実雇用率が1.24%(前年比0.01%ポイント低下)と、企業規模別で最も低くなっていること。 1,000人以上規模の大企業に於いては、実雇用率は1.65%(前年比0.05%ポイント上昇)と高水準にあるものの、法定雇用率達成企業の割合は33.3%と企業規模別で最も低くなっていると、大企業では未達成企業の方が多い雇用の偏りがあって、大きな顔はできない状況にあること、全体で見ると、元々お粗末な雇用状況がスズメの涙ほどの改善が見られただけといった情勢にあることを伝えている。
世界第2位の経済大国の勲章を背負った、その勲章の輝きにより強力な光を与えているはずの、資金がそれ相応に潤沢であるに違いない大企業でさえも法定雇用率の1.8%に到達していない企業の方が多いという事実は、日本人の障害者意識の劣りを物語っていないだろうか。
しかも平成17年度の実用雇用率1.49%は平成13年度と比較して経済状況は少しは改善しているはずであるにも関わらず、その年の1.49%と同じ数字を取っている。一旦下がって「0.03%ポイント上昇の1.49%」ということなのだろう。
確かに障害者の中には高齢に達してから脳梗塞等の病気で障害を負った者も多く含まれているだろうが、対象が誰であれ、社会への受け入れを基本的意識としていなければならない。それがどの程度か、障害者の雇用状況に現れている。
それを裏返すと、障害者の社会参加に対して社会的に非寛容、もしくは非積極性を社会的制度としているということであり、社会からの排除を文化的慣習としていると言うことであろう。このように障害者を日本の歴史・伝統・文化として社会から排除してきたことの美しい不始末がより多くの障害者世帯を低所得層に固定することとなった成果でもあるはずである。
もし安倍首相が「勝ち組、負け組を固定しない」「再チャレンジ」を唱えるなら、障害者の低所得層への固定の改善を第一の基本としなければならないはずである。だが、そういった固定化に関わる日本の美しい歴史・伝統・文化を顧慮することなく無視し、美しい不始末の成果に一切目を向けず、「応益負担」という名のもと財政削減を目的とした一方的な要求のみを突きつけて、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」を「機会の平等を求め、結果の不平等は辞さない」に変質させ、あるいは「勝ち組、負け組を固定しない」と言いつつ、自己負担を残酷に課すことで障害者の低所得層への一層の固定化を推し進めた。
いわば障害者に社会参加を伴った経済的・精神的により質の高い生活の保障を先ず最初に持ってくるべきを、それを不問に付し、社会からの排除に鈍感なまま、自己負担だけを求める不平等を犯した。それが「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」と称する原理の応用の実際の姿だったのである。障害者自立支援法がつまずきを生じたのは当然の結果なのだろう。
小泉政権に引き続いて、安倍政権下でも〝平等〟に関わる様々な矛盾・不合理が〝格差〟という形を取って今後とも続くだろう。
古い自民党だかからこそできる復党ドタバタ劇
昨夜(06年11月27日・月曜日)のNHKテレビ夜9時からの「ニュースウオッチ9」・造反議員復党問題――先ず離党勧告を受けて自民党から離党していた無所属の「郵政造反議員」12人全員が「復党願い」を提出したと伝えた。
番組はそれまでの動き追う。堀内元自民党政務会長の言葉「皆さん、全員選挙区に帰られるでしょうね。大変、みなさん方、是非復党されるようにご意向は殆どあるということだろうと思いますね」
もう少し滑らかな言葉の使い方をしてもらいたいと思うが、年齢相応に頭まで古くなってしまったのか、ないものねだりと言うことなのだろう。
「ご理解されますか」の質問に、江口俊一衆議院議員「もう去年の法案、臨時国会で賛成していますから。で、よりよい民営化ということで、今考えておりますので、ここら変は整合性はありますと思います」
その「整合性」とは法案に対する最初の反対を貫けず「臨時国会で賛成」にまわったことと今回の復党問題でも突きつけられた条件が本来なら自らの政策に反するにも関わらず反対できなかったことの二つの態度変更を言う「整合性」ということなのだろう。
解説が、「復党願い」に添えられた誓約書は、去年の衆議員選挙ののち離党勧告処分を受けたことについて遺憾であり、重大な責任を認識しているなどとして中川幹事長が先に示した復党の条件を全面的に受け入れる内容となっていますと伝えていたが、要するに反省していますと悔悟の姿勢を判を押す形で示せという内容だということだろう。
そもそもの郵政民営化反対が自らの政策上の信念で行ったことなら、それに対する反省というのはまるきりの矛盾行為となる。
但し、12人の無所属議員の自民党との交渉の窓口となってきた平沼元経済産業大臣は復党願いは出したものの、ただ一人誓約書の提出には応じなかったと解説。
平沼「支援者の皆様方の言葉も聞いてですね、信念を貫けという非常に強かったわけです。従って私は信念を貫かせていただいて、えー、こうした誓約書を書くことに関しては断固反対をすると――」
カメラは先週末地元岡山市に戻った平沼氏を追う。土曜日に地元幹部150人を集めて会合を開いたという。
会合の席で幹部を前にした平沼氏「私はある意味で筋を通し、信念を重んじて行動してきた政治家でありますから――」と、簡単には復党条件に従わない氏の姿勢を映し出す。そして、解説が言う「郵政民営化の確実な実施への支持、去年の衆議員選挙での反党行為に対する反省を明確にした誓約書の提出など」に対する考えとして「自民党を愛するにやぶさかではありません。今の自民党というのはどっかおかしい。一方的に一人の幹事長によって突きつけた、そういう問題を本当に呑んでしまって、私の先行きが切り開かれていくかどうか――」と、疑問を呈する様子を伝えた。
支援者の「筋を通していただくのは大事なことで、それあっての平沼先生でございますので」との復帰反対の立場からの声と、「この際、ほかの11人のためにも、自民党に復帰していただきまして、ご活躍いただきたいとお願いいたします」という復帰賛成の立場からの声を紹介する。
平沼氏は会合のあと、次のように述べている。「あなたもちゃんと信念を通せよと、みなさんにおっしゃっていただいたので、そういうことも胸に秘めて決断していきたいとな、そう思ってます。変な形でね、戻っても、何も主導権を発揮できないような、そういった状況で戻るということも考慮に入れなければいけないのかなあーと――」と、自分を殺す選択も視野に入れた迷いも見せる。
2度と反党行為をするな。反党行為の基準は安倍・ジョンイルが握っているのである。安倍・ジョンイルが一言、「それは反党行為である」と告げたなら、それが反党行為となって、逆らうことはできなくなる。常に顔色を窺って、何が反党行為かを探っていなければならない。キム・ジョンイルに対する北朝鮮国民と同じように絶対服従あるのみ。戻った場合の「何も主導権を発揮できないような」状況も覚悟しなければならない悲愴感に囚われたといったところか。
解説が、「復党願いの提出期限の今日、無所属議員との会合で平沼元経済産業大臣は誓約書の提出はできないという考えを示し、他の議員たちの説得にも応じなかったことを伝えた」と伝えた。
平沼氏のこのような態度に対して、堀内元政務会長「12名全員が誓約書を出すということは一番いいことではないかというふうに思っておりましたけど、まあ、これは信念の問題ですから、止むを得ないと思います」
山口俊一「ご自身の考え方、政治家としてのあり方の問題だろうと思いますね。これは本当に尊敬に値する話なんで――」
山口俊一ご自身の態度に関して言えば、「尊敬に値しない話」ということになるが、そんなことは少しも思ってもいないだろう。ご自身の頭の中は自分の「復党」のことしかないだろうから。
平沼氏は復党願いを出したことについては、「復党願いもあんまり出したくないと思ってましたね。まあ、しかし、12人が纏まって行動する、そういう前提でみなさん方が本当に一途に思っておられるので、まあ、それはいわゆる復党願いを出させていただこうと、こういうふうに決断しました。私には当面無所属議員として、あのー、一生懸命努力していくしかないなあ、とまあ、そういうふうに思っております」
誓約書を提出しなくても、あるいは復党が許可されるかもしれないという一縷の望みを持っていたからこそ、復党願いだけは出したといったところだろう。
解説が「午後5時。自民党役員会で安倍総理大臣は、しかるべき手続きを踏んだ11人は復党を認めると明言。党執行部は近くこの問題を審査する党紀委員会に諮り平沼氏を除く11人の復党を正式に決定する運び」だと伝える。
中川幹事長の記者会見。「今回の誓約書や11人の先生方に私が申し上げてまいりました条件はほぼ呑んで頂いたものと、このように受け止めております。条件を満たせば、そうした手続きで進むのが筋であると――」
「呑んで頂いた」と言うよりも、「呑ませた」と言った方が実態に近いだろう。平沼氏一人の態度に振りまわされていただけのことで、それがなかったなら、11人は股をくぐれと命じられたとしても、韓信とは正反対の心境で四つん這いとなり、頭を低く下げて股を潜っただろうことは目に見えている。
片山虎之助参議院議員、記者に問われて、「誓約書とかね、総括・反省だとかね、そういったことは、まあ、あまり公(おおやけ)でなくても、よかったんではないか。あの、もう少し優しいって言うかね、そういうやり方もあったんではないかと思いますけどね。まあ、中川さんは中川さんとして十分考えた上での措置だろうから――」
国民の目に見えない密室で内々に話し合うべきではなかったか、自民党の恥が漏れないよう隠せる場所でこっそりと解決すべきではなかったか。そういった「やり方」が「もう少し優しい」やり方ということなのだろう。いわば臭い物には蓋、都合の悪いことは国民には隠すべきだとテレビカメラの前で堂々と主張しているのである。密室政治の勧めを説いたとも言える。
安倍美しい国総理大臣の記者会見での弁「自民党は決して古い自民党に戻ることはありません。また戻してはならないと思います。国民の皆様の前でご示しをした条件を了解したと言うことで、私は総裁として復党を認め、そして、復党をなされたのちには、皆さんと、まあ、一緒に美しい国づくりに向けて汗を流して貰いたい。私の責任に於いて今後、みなさんにしっかりと力を発揮をしていただいて、みなさんの、国民のご理解をいただきたい――」
一国の総理大臣として、もう少し深みのあることが言えないのだろうか。「古い自民党に戻ることはありません」と「美しい国づくり」といった決まりきったスローガンと、復党の経緯をなぞっただけの内容しか示すことができない。これは正義である、大義ある政治行為であるぐらいの説明責任は国民に対して持っているはずだと思うが。尤も正義・大義の文脈で話したら、たちまちのうちにまったくの嘘っぱちの大逆転を味わうことになるだろうが。
「私の責任に於いて今後、みなさんにしっかりと力を発揮をしていただいて」とはどういう意味なのだろうか。「力を発揮」しなかった場合、復党を最終的に認めた自分に責任があると宣言したと言うことなのだろうか。力を発揮したら、復党が正当化されるというわけのものではない。復党問題自体と復党議員の今後の動向とは別問題のはずである。安倍総理の責任問題が生ずるとしたら、復党が国民の批判を受けて安倍政権が立ち行かなくなった場合であって、個々の復党議員の「力を発揮」云々は関係ないはずである。安倍総理が望んでいることはそんなことではなく、復党問題で国民が早いとこ健忘症にかかってくれることだろう。
また、「力を発揮」するしないは議員それぞれの責任事項のはずである。個人で立つということはそういうことだろう。自民党議員は古臭くも個人で立っていないということなのだろうか。だから、反党行為はしないといった議員の行動をコントロールする誓約書が必要だったということなのだろうか。
先の総裁選で自民党の大多数が美しくも演じたポスト欲しや寄らば大樹の自己保身からの安倍総裁雪崩現象といった打算一辺倒の無節操、今回の選挙目的の復党といった同じ打算一辺倒の無節操なドタバタ劇――古い体質でなければ演じることのできない無節操ではある。
そういった古い体質でなければ演じることのできない打算一辺倒の無節操議員が現在の自民党の主導権を握って、一大勢力化している。「自民党は決して古い自民党に戻ることはありません。また戻してはならないと思います」と華々しく啖呵を切ったとしても、一大勢力を築いているのが既に古い体質の議員である。小泉政権下で「新しい自民党」と見えたのは見せ掛けで、小泉首相がメッキを施してどうにか新しく見せていたが、安倍政権になって抑えるだけの力が首相自身になくて、メッキが既に剥がれかかっているということではないだろうか。
類は友を呼ぶ。リーダーの位置に立っている安倍首相自体が古い体質の政治家だから、古い体質の打算一辺倒の無節操議員が一大勢力化するのだろう。片山虎之助の都合の悪いことはこっそりとやるべきといった密室志向にしても、古い政治体質を持っていなくては出てこない発想である。
安倍首相がいくら「一緒に美しい国づくりに向けて汗を流して貰いたい」とバカの一つ覚えのように言ったとしても、「美しい国づくり」を担う人材自体が安倍首相を筆頭に一大勢力が古臭い体質の政治家ばかりな上、その関係で「美しい国づくり」創造の素材エネルギーとなるべき頭や思考能力自体が古臭くできているから、いくら一大勢力でも全員が逆立ちしたって、あるいは公明党議員を逆立ちに加えたとしても、「美しい国」になりようがないのではないか。
今回のドタバタ劇が今後どのように展開していくか、見守る価値だけはある。
東京都知事・石原慎太郎の豪華海外出張と氏の画家の四男・延啓(のぶひろ)氏(40)の都の文化事業関連の公費欧州出張が今問題になっている。
インターネット、その他から新聞やテレビでその伝えているところを拾ってみると、画家の四男の問題は、「都によると、四男は03年3月、都の文化行政担当の参与や都職員らと、石原知事脚本の『能オペラ』の準備のためにドイツやフランスに出張、四男の航空運賃や宿泊費計55万円を都が全額負担した。四男は同月、1カ月間だけ都の外部委員の嘱託を受けていた」(「朝日」)。
都の文化事業とは、東京新聞が「トーキョーワンダーサイト(TWS)――石原慎太郎東京都知事が発案した文化政策。都施設を活用し、若手芸術家の育成、支援の作品発表や交流の場を提供している。2001年12月開館のTWS本郷(文京区)、昨年7月のTWS渋谷(渋谷区)に続き、今年11月には3館目のTWS青山クリエーター・イン・レジデンス(同)がオープン。運営主体は都の補助で設立された任意団体から、今年4月に都の外郭団体「都歴史文化財団」に完全移管された。本年度の都の補助金は約4億7000万円」と解説。
「しんぶん赤旗」は、「トーキョーワンダーサイト 新進・若手芸術家の育成を図るとして2001年12月、文京区本郷の教育庁所管の御茶ノ水庁舎を改修してスタートしました。その後、ワンダーサイト渋谷、同青山を開設。さらにもう一施設の開設を予定。04年度の都の監査では、事業をチェックするために設置されたコミッティ委員会が年一回しか開かれず、事業計画の決定や決算の認定が審議されないまま委員長の決済だけで処理されていることや、都の承認なしに事業の変更が行われ、事業計画と実際執行された内容も金額も大きく違っていることなどの問題が指摘されています」――
画家の四男・延啓が例え「1カ月間だけ都の外部委員の嘱託を受けていた」としても、それが正式の、いわばどのような情実によるものではない、石原慎太郎以外の人間も交えた公正な選択による「嘱託」であれば、問題はないはずだが、「委嘱の期間は同31日までの1カ月間だけ。この事業に詳しい都幹部の一人は『極めて不自然。海外出張させるために委嘱したと疑われても仕方ない』と話す」(東京新聞)とすると、「嘱託」の身分から発生した海外出張ではなく、逆に海外出張という目的から発生させた「嘱託」と受け取られても仕方がないのではないか。
「嘱託」とはせずに、単に外部委託とするだけで出張費を受持つことが可能なはずだが、そうすると疑われるのではないかとの危うさを抱えていたから、そのための1カ月限定の「嘱託」という形式を殊更に取ったということもあり得る。
石原慎太郎の弁明、あるいは反論の弁を拾ってみる。
「(四男がオペラの)音楽家と一番親しいから、(外部委員を)委嘱して(欧州に)行ったんでしょう」(「朝日」)
「息子の名誉のために言いますけど、一応の絵描きだし、キャリアがあって、いろんな人を知ってるから。そういう芸術家というのはそうたくさんいないからね。そういう点で私は便利に使ってます、都としても」(「朝日」)
「Q.人選は正常な手続きだったのか?
「正常な手続きでしょう。息子であり立派な芸術家ですよ、失礼だけど。余人をもって代え難かったら、どんな人間でも使いますよ、私は。東京にとってメリットがあったら」(「TBSニュース」)
「(人事は)わたしが命じたわけではない。息子だが立派な芸術家。余人をもって替えがたかったら、どんな人間でも使う。私物化って、だから何ですか? 私が所有しているわけではない」(「スポーツ報知」)
TWSのギャラリー施設のステンドグラスは四男の原画を基に作成されたことについて、原画は無償で描いたものだったとし「建物を改修するときに、ステンドグラスをはめさせろと。金もないし、ウチの息子が絵描きだから、やってみろとなった。他に数人に原画を描かせたが、息子のがマシだったから。息子だが立派な芸術家。彼ら芸術家は人格もある。その人格も踏まえて、ずいぶんタダで働いてもらった」「四男、四男って、知事の息子なんで損をしているようだが、彼は慶大を卒業した後、スクール・オブ・ファインアートというカレッジを出た」(同「スポーツ報知」)――
公的な仕事に外部の人間を使う場合、「音楽家と一番親しいから」は〝公的〟であることに反する公平とは言えないごく私的な選択基準となっていないだろうか。
また四男が「いろんな人を知ってる」面識の広さはかつては有力国会議員であり、現在は都知事であり、有名作家でもあり、石原裕次郎と言う一時代を風靡した俳優の兄(四男にとっては叔父)である石原慎太郎という親の力が影響していはいないとは言えない、ときには親の七光りといった形を否応もなしに取る社交性であろう。いわば親の面識の力を借りた、それと重なる活動の広さを息子として背負っていて、そういった親子の関係にある以上、「私は便利に使ってます、都としても」とするのは、身内の力学を石原慎太郎自身が自ら利用することになって、縁故使用と言われても仕方がない。
「Q.人選は正常な手続きだったのか?
「正常な手続きでしょう。
「(人事は)わたしが命じたわけではない」とは言っているものの、「人選は正常な手続きだったのか?」との問い質しに、「正常な手続きでしょう」と推測の答となっていて、確言とはなっていない。とすると、「余人をもって代え難かったら、どんな人間でも使いますよ、私は」の「代え難」いが「私」一人の判断である可能性も窺え、公私混同の疑いが出てくる。第三者の立場にある複数の関係者との議論の上で、関係者の多くが「代え難」いとする結論に至る手続きを経て、初めて公私混同であることから免れることができるし、「勿論、正常な手続きを取った人選です」と確言できる。
いわば石原慎太郎が一人で「余人を持って代え難い」と最初から結論づけて推薦したのに対して、周囲が「じゃあ、息子さんに頼みましょう」と採用の決定を下したでは、確かに「命じたわけではない」形を取るが、石原慎太郎の独断を罷り通らせた決定(=縁故採用)となりかねない。
「トーキョーワンダーサイト(TWS)」の設立・運営の過程にしても、石原慎太郎という一人の人間の意志のみが強く浮かび上がってくる。
「私物化って、だから何ですか? 私が所有しているわけではない」は著名政治家にして著名作家に反する的外れな反応と言わざるを得ない。誰もが侵すことができない「所有しているわけではない」厳然たる事実を侵して、私的所有物であるかのように事の決定を個人の判断のみで行っていないか、権力を持った者がよく陥る過ちを質していたはずである。
次に豪華海外出張問題を見てみる。
「紀伊民報」によると、
▽都知事の海外出張規定額は総理大臣と同額で、ロンドン、ワシントンなどの大都市では1泊4万200円に反して、01年のワシントン出張では、最高で1泊26万3千円のホテルに泊まった。
▽ガラパゴス諸島への出張では、大型クルーザーを5日間借り切り、1泊あたり13万1千円の夢のような旅をしていた。
▽過去5年間の15回分で約2億4千万円の海外出張費を使っていたともいう。
「しんぶん赤旗」
「就任以来7年半で行った19回の海外出張のほとんどは、知事の個人的な関心で計画され、うち六回が知事の思い入れの深い台湾でした。海外出張の目的も福祉や教育の充実というものはなく、観光的なものが多数です」
上出の「紀伊民報」(『首長の出張費』11月25日/土)は次のようにも伝えている。
「『世にいろいろ味わい深いものもありますが、自分自身の老いていく人生ほど実は味わい深く、前後左右を眺めれば眺めるほど面白く、味わい深いものはないのです』
▽作家で東京都知事の石原慎太郎さんの「老いてこそ人生」のあとがきの1節である。この言葉は実に味わい深く、深い哲学を含んでいて、好きな文章の一つだ。
▽ところがである。ご本人は「老いていく人生」を味わうのに、ワシントン出張で最高は1泊26万3000円のホテルに泊まるなど、庶民が仰天するような大名旅行をしていたそうだ。共産党都議団の調査で分かったとアサヒ・コムが伝えている」――
「都知事の海外出張規定額は総理大臣と同額で、ロンドン、ワシントンなどの大都市では1泊4万200円に反して、01年のワシントン出張では、最高で1泊26万3千円のホテルに泊まった」
石原自身は「規定の料金が安過ぎる」とか、「事務方に任せている。たまたまリゾートで高くついた」とか釈明しているが、そんな釈明が効かない程に公職にある者が普通「1泊26万3千円のホテルに泊ま」るだろうかと驚く、「規定」を大幅に上回る出費に対して、周囲は容認していた。その事実こそ問題だろう。四男の「嘱託」の経緯にも重なるようなその事実が証明する〝事実〟は、石原慎太郎が都知事という地位・職責を外れて、権力者と化していたということだろう。日本風に言うと、お殿様となっていた。権力者は贅沢を特権とする。サダム・フセインの例を挙げるまでもない。北朝鮮のキム・ジョンイルを名指しするまでもない。
権力の反対力学として、周囲は咎めることも正すこともできずに、言いなりに従うだけのことを役目としていた。権力者に対するイエスマン、あるいは殿様に対する家老以下の家臣であることを自らの役目としていた。いわば目をつぶって、自らの平穏無事だけを祈る自己保身に耽っていた。
東京都を治めていたのは石原慎太郎なる都知事ではなく、特権階級者と化した石原慎太郎である〝事実〟を我々は知らされたわけである。権力の恣意的行使は、それを許し、従属する勢力があって、初めて成り立つ。その勢力のうちに石原慎太郎を都知事に当選させた有権者も入らないだろうか。いわば石原慎太郎、都職員、有権者の双務責任としなければならない。
長期政権は腐敗する。例外として、日本という国では短期政権でも腐敗するとしなければならない。とすると、日本ではすべての政権が腐敗するを政治政権に関わる絶対真理としなければならない。
もし再び石原慎太郎が都知事選に立候補した場合、都知事に当選させるようなら、日本人は自ら学ぶことのできない民族であることを改めて証明することになる。自ら学ぶことができないから、建国以来、他国の文化・思想・制度を真似て自らの国を成り立たせることを歴史とし、伝統とし、文化としてこなければならなかった。
もし石原慎太郎を立候補した場合の都知事選で拒絶できたなら、少しは学ぶことができたと言えるだろう。「少し」と言うのは、政治家が何かスキャンダルを起こさない限り、政治家の真の姿に気づかないからだ。石原慎太郎の特権階級者化した驕った態度は、「第三国人」発言や「ババア」発言、「外国人犯罪DNA」説等に前々から現れていたことで、既に気づいていなければならない姿だったはずである。気づかなかったのは、選挙意志がその政治家の政治姿勢・政治的人格ではなく、表面の姿勢を決定条件としているからだろう。
最後に余談だが、「トーキョーワンダーサイト」なるネーミング。日本の歴史・伝統・文化は素晴しいと言いながら、あるいは美しい日本語と日本語を絶対化しながら、肝心な箇所には外国語を使う矛盾と、矛盾であることに気づかない鈍感さを混じえた日本人の非合理性。私自身は日本の歴史・伝統・文化を肯定的な価値観のみで把えないし、日本語が素晴しければ、すべての外語も素晴しいとしなければならない、素晴しいという点では優劣ないと思っているから、矛盾はないが、矛盾を矛盾としない非合理性も、日本の歴史・伝統・文化としている思考性であり、肝心な箇所で外国語を使う思考程度も日本の歴史・伝統・文化としている価値志向であろう。律令の時代の中国語の利用から始まり、ポルトガル語、オランダ語の利用、そして英語やドイツ語、フランス語の利用。これからも美しい矛盾は続くに違いない。何しろ日本の歴史・伝統・文化なのだから。
22日(06年11月)の教育基本法参議院特別委質疑。その中で03年12月に岐阜県で開催したタウンミーティングに関する内閣府と広告代理店との業務契約内容についての民主党・蓮舫議員の質問がNHKでテレビ中継された。興味深い内容だったので、録画内容を文字に起こしてみた。
蓮舫議員は最初にタウンミーティングなる国民の声を直接聞くという試み(儀式でしかないのだが)に掛けた総額が20億円にものぼる生半可な金額でないことを明らかにした上で教育改革関係のタウンミーティングの場合は、その平均経費は1箇所で900万~1000万も掛かっていること、ヤラセのあったタウンミーティングは5千万円も使われていたといった具合に如何に高額の支出となっているかを予め解説した。
次いで内閣府が開催に関わる業務委託契約に当たって広告代理店に対し「業務広告代理店契約単価内訳票」で細やかな項目の指示を出していたことを指摘してから質問に移った。
民主党蓮舫「内訳単価表はどうやって決められたんでしょうか?」
内閣府山本大臣官房長「お答えします。タウンミーティング運営業務の運営請負契約につきましては年度当初に一般競争入札を実施して、1年間の請負業務を決定しております。その入札方法ですが、1回当たりの総価での競争を行い、決定をいたします。その際落札業者からその落札金額の単価内訳書、これは大体100項目前後に亘っておりますがその単価内訳書を提出してもらいまして、その単価内訳書に基づく単価で契約を締結している、と言うところでございます」
蓮舫「広告代理店で何社か一般競争入札をして、そして適当な仕事内容を、まあ一般の民間の感覚で言うと、より安価に提案した方たちが普通そういうタウンミーティングを受注されるんだと思うんですが、ずっと1社なんでね。一般競争入札でも、この受注をしている広告代理店ていうのは。しかもその値段でちょっと驚いたことがあるんですけど、会場費や舞台設営、ポスター・パンフレットの制作なんかは分かるんですよ。これはおカネがかかるというのは、ただ分からないのは、ヤラセ質問があった、これは岐阜でのタウンミーティングでの経費です。内閣府が広告代理店に指示をした最低コスト表です――」
看板に近い次の大きなフリップを示す。
空港(又は駅)での閣僚送迎等 15,000
会場における送迎等 40,000
エレベーター手動 15,000
エレベーターから控え室までの誘導 5,000
蓮舫「空港又は駅までの送迎に1人当たりの係の報酬経費に15,000円を指示している。仕事内容は何か。空港又は駅まで大臣をお迎えをして、車寄せに来ているハイヤーまでお送りするだけの仕事です。その報酬が15,000円。他には会場で着くハイヤーをお待ちして、大臣が降りてきた、お招きをして、エレベーターまで案内するだけで15,000円です。エレベーターを降りて控え室まで案内するだけで5,000円。ああ、ごめんなさい。すみません、間違いました。会場入口でお迎えしてエレベーターまで誘導するのは40,000円です。これは実際にこの回受注した広告代理店はここに8名を雇って、32万円掛けて大臣をお迎えしているんです。これなんで分けなきゃいけないんでしょうか。駅まで迎えに行った方は会場までお送りして、会場からエレベーターにご案内して、エレベーターから控え室にご案内すれば、一人で済むものを、わざわざ人数を分けて単価15,000円、4万円とする理由が分からないんですよね。これどうして必要経費を計上されたんでしょうか」
山本「あの、まあ、ちょっと、今のお答えの前に、先程大体入札しますと、最近ですと、4社ないし5社応札しておりまして、その中の最低価格の社と契約を致しておるところでございます。で、今議員がご指摘のような単価につきましても、こういう単価表の事項は示しますけれども、単価に入った額自体はその落札業者が自ら入れた額でございます。これはただ、これは業者の方で入れた額であるということをご理解いただきたいと思います。それから、今、あの、おっしゃいましたように確かに我々から示した仕様書の中には閣僚ですとか、そういう有識者をお迎えするに当たりまして、空港から会場まで、会場からエレベーターに乗って控え室まで、控え室から、アー、実際の会場まで、という具合に分けて仕様書を示しておりました。ええー、あの、まあそういう所に、ポジションに人が要るという意味で入れておったのが実情でございます。しかしながら平成17年度からはエレベーター手動といった項目は削除いたして節減化を図っておるところでございます」
蓮舫「あの、ごめんなさい。じゃあ、端的にお伺いします。この一番高いヤツですね、会場で大臣をハイヤーから降りられた大臣をお迎えして、エレベーターまで誘導するのに1人1万円、5分――、いや4万円、5分もかかんないでしょ?5分で4万円貰う。その単価表適正だったんでしょうか」
山本「あの、今申し上げましたように入札をするときに全体の各項目前後の項目につきまして、それぞれの業者が単価を入れまして、それで総トータルで一番安い所に落としているわけでございます。で、その会社がその1項目について入った金額が今蓮舫議員がご指摘なさった額でございまして、その額自体が適切かどうかっていうのはちょっと分かりませんけれども、トータルで、トータルで(ヤジがあったものだから、声を強めて「トータルで、トータルで」と2度繰返す)一番安い額として入札し、えー、落札していると、いうところで、業者の方で入れた額だと、トータルで判断しているということをご理解いただきたい」
蓮舫「ではお伺いします。あのここにありますエレベーター手動って何でしょうか?」
山本「内閣府の仕様書の中に平成16年度まではエレベーター手動という項目がございます。えー、この意味は先程議員もご指摘のようにタウンミーティング開催のときに閣僚等相談者が来場された際にエレベーターを待機させておいて操作する人員が必要となることから、そのための項目を設けていたというものでございまして、平成17年度から削除しております」
蓮舫「エレベーターのボタン係ですね、端的に言うと。大臣が来場されるときにエレベーターを1回押す。大臣が退出されたときにエレベーターを1回押す。極端な話、これはタウンミーティングで2回エレベーターのボタンを押すだけで1万5千円の報酬を経費としてお示しをしているのは、それは適正かと聞いたら、多分同じ答なんでしょう。広告代理店が提示してきた。広告代理店の提示をもとに民間の発想と違うおカネの会計の判を押していいんでしょうか。東京で言ったら、アルバイト、ファーストフードでやる、時給800円から900円が一番高いですよ。正社員になりたくても、なれなくてしょうがなくて、アルバイト、パーとしている人たちが1時間800円で頑張っているのに2時間でエレベーターのボタンを2回押すだけで1万5千円貰うのが本当に適正だとお考えなんでしょうか」
山本「お答えします。あの、ただ今の額自体についてのコメント、というのはなかなか難しい、まあ、高いなあという感じもあったんです。しかし申し上げましたように、全体のトータルの単価を色々入れていただいて一番安い価格のところに落札しておるわけでございます。で、その業者がそれぞれの単価に入れた。それが今のエレベーターの手動のところに額に入れている、こういうご理解をいただきたいと思います」
蓮舫「ボタンを、エレベーターのボタンを2回押すとか、会場でお迎えしてエレベーターにご案内するのに4万円とか、それが一番安いという発想でね、税金は使わないんで戴きたいんです。しかもこのタウンミーティングというのに税金を使っても、本当に国民の貴重な声が聞けて、大臣と直接対話ができて、それが政策に反映されるんであれば、意味のあるおカネなんです。ただここでヤラセがあったこと。この1千万円もの経費がまったくムダになってしまって、税金のムダ遣いになっているということが問題だと、私はご指摘させていただいているんですけども、細かいことを聞き過ぎだと質問が、ヤジが先程自民党席からありましたけれども、じゃあ、ざっくりとしたおカネをちゃんと項目付けされているんですかね?内閣府との事前調整という項目、平成14年度の4月から7月には76万円でした。8月から翌年どの3月までは94万円でした。平成15年度の42万8千円。他にも現地警察との事前調整とか色んな事前調整費があるんですが、一番高いのが内閣府との事前調整。これは何に使われたんですか?」
山本「お答えします。今あの、内閣府との事前調整という項目、それも内訳書に一つの項目として指名されているものでございますけれども、この項目でございますが、タウンミーティングを実際に開催するまでには会場選定から始まりまして、色んな会場整備、会場設営などの会場計画、また進行台本の作成、それから出席閣僚の動線作成、まあ、色んな参加募集も含めて、様々な準備作業を行う必要がございます。こういったような多様な準備作業に尽きまして委託業者のほうは私ども内閣府の方と入念に、まあ、事前に打ち合わせをしまして、調整をしながら進めていくことが必要でございます。そういった項目でございます」
蓮舫「今おっしゃいました開催会場候補リスト作成ですとか、会場計画ですとか、進行台本作成ですとか、運営マニュアルの作成、全部別に項目で上げて、2万円、2万円、5万円、10万円で予算づけられております。どう違うんですか」
山本「ここの項目は別途、今議員がおっしゃいましたような項目でございます。ここの内閣府との事前調整と言いますのはスタートから最後まで含めまして、総合的な進行管理も含めた総合調整、企画担当というものでございまして、相手業者の色んなそういった面でのスタッフの経費でございますとか、資料作成費用、それに打ち合わせにかかる経費、そういったものを含むものでございます」
蓮舫「あの、すみません。最初に言われていることですと、二度目に言われているご答弁の内容が激しく違うんですが、相手業者のスタッフなんですか、使われたんですか?じゃあ、これ何に使われたのかお示しくださって、もう会計は終わってますでしょ?これ契約書ではイベントが1回終わったごとに広告代理店から請求書が来て、請求書を受理して、内閣府は30日以内に決済して振込しなきゃいけない。もう会計で17年度まで全部終わっております。じゃあ、42万8千円は何に使われたのかお示しください」
山本「先程申し上げました項目の趣旨は準備作成、事前調整に要するものでございまして、具体的な経費といたしましては相手業者のそういった全体の総合調整企画担当、営業担当等のスタッフの経費でございますとか、資料作成でございますとか、そういったような諸経費を言うものでございます。従いまして、これは相手業者の多くは社内経費でございます。そういったような経費が中心となった調整費という具合にご理解いただきたいと思います」
蓮舫「まあ、ごめんなさい。私も理解する力が低いのかもしれません。今の答弁では納得できないので、委員長のお願い申し上げます。何に使われたのか、領収書等も当然お持ちでございますので、関連資料、誰とどこで打ち合わせ、どれどれにいくら掛かったのかとの資料提供をお願いします」
委員長「後刻理事会で協議をいたします」
蓮舫「安倍総理にお伺いします。小泉前総理大臣の時代から私ども与野党で共通認識で持っていたのは、もうムダ遣いややめようと、行政改革を進める上でムダを省いて、そしておカネを、税金を、戴いた保険料を、預かった保険料を大切に使っていこうという意識は共有させていると思うんですが、足元の内閣府で行われているタウンミーティングでさえも、殆どデタラメな値段付けが当たり前に使われていて、通常の恐らくタウンミーティングの額よりもズサン(?)過ぎると思うんですね。そういうおカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」
安倍総理「競争入札で行ってきたところでありますが、えー、先程来議論を窺っておりました。この明細を拝見させていただきました。やはりこれは節約できるところはもっともっとあるんだろうと、このように思うわけでございました。私共政治家も、よく地元で色んな会を開いて、色々と地元の方々とご意見の交換を行うわけでありますが、それは勿論パイプ椅子等をみんなで運びながらですね、最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが、そういう精神でもう一つのタウンミーティングの先程申し上げましたように運営を行うよう、見直してまいります」
蓮舫「おカネの使われ方は教育改革の本質の議論ではないんですよ。ただタウンミーティングでヤラセがあった。調べていくうちにあまりにも看過できない経費付けが各項目に使われていた。そういう小さなことから正していかないと、本当の改革はできないんだということを再度ご指摘させていただきたいと思います」(いじめの問題に移る)
「日テレ24」で、「塩崎官房長官『逸脱した行為があったわけですから、そこからケジメというものをどうつけるかというのは中身の問題だと思います』と調査結果を見た上で、担当者の処分を検討する考えを示しました。政府の調査委員会は明日(24日)までにと中間報告をまとめる予定です」とやっていた。
蓮舫議員は重要なことを一つ見落としている。見落としていなければ、追及は違った方向に進んだに違いない。単に不適切な金額で契約が行われたという指摘に集中することはなかっただろう。
先ず一般的に業務項目を必要以上に細分するのは総額単価を吊り上げる目的からである。二つの意図から行う。一つ目の意図は、「あれも掛かります、これも掛かります」といった経費の理由付けや、「こういうこともしなければなりません、ああいうこともしなければなりません」と仕事内容の確認付けを行うことで要求金額に正当性を持たせることができるということ。二つ目の意図として、実費に利益を何%か掛けて要求金額を算出するとき、項目が多い程、端数の切上げ回数を項目の数に連動させて多くすることができて全体の切上げ額を膨らませることが可能となり、結果的に総額単価を高額に持っていくことができる。消費税の端数切り上げと同じで、高額受注となるとバカにならない総額となる。
普通、と言うか、常識的に言えば、単価項目をやたらと多くして総額単価の吊り上げを図るのは請負業者側(この場合は広告代理店側)であって、それが入札請負で通用するのは、当然な話だが、談合か随意契約の場合であろう。官公庁が様々な理由を設けて支払い金額の一部を還流(キックバック)させて裏ガネづくりまで行っているような種類の随意契約にしても、請負単価をもっともらしく見せるために項目が細かく細分化されていて、それぞれに一般常識を上回る金額が記入されているに違いない。
例えば、NHKテレビ06年4月4日「ニュースウオッチ9」で報道された内容だが、環境省が自らのHP(ホームページ)を、お馴染みの図式となっているOBが天下っている管理運営会社に随意契約で委託している金額はHPの内容が変わるにも関わらず4年間同じ920万円で、これを民間のHP作成会社に行わせると学生アルバイトを使ってもできることで、月に30万円、締めて年360万円で作成可能だと言う。契約書は総額の920万という数字を入れただけで済ますわけには行かないから、その差額の560万円分も含めて920万円となることを正当付けるためにもっともらしい業務項目を様々に設けて、それぞれをそれ相応の数字で埋めていかなければならなかったはずである。そしてそういったことは双方の示し合わせをか、あるいは暗黙の合意(=暗黙の談合)を方法としなければ、行い得ないことだろう。
こういった例を探せば、いくらでも出てくるに違いない。
談合で入札を決めた業者は受注が持ち回りではなく、特定の業者が常に受注する形の場合は談合に協力した会社に協力金を支払い続ける義務を負うから、特に受注単価を上げなければならない。それだけ単価吊り上げへの圧力を受ける。
入札(一般競争入札)は「4社ないし5社応札」(山本)しているが、受注は1社の広告代理店に限られているということから談合の可能性は十分にあるが、内閣府大臣官房長山本タロベエは(という名前かどうか知らないが)「こういう単価表の事項は示しますけれども、単価に入った額自体はその落札業者が自ら入れた額でございます」と言っているから、項目自体を細かく細分したのは、細分化の方法を用いて総額単価を少しでも大きくしたい衝動力学を抱えている受注側ではなく、逆に総額単価を少しでも抑えたい意志を働かすべき注文側の内閣府という逆転現象が起きている。
受注者側が談合などで用いる項目増やしを注文主が逆に行っているのである。「さあ、単価を吊り上げてください」と言っているようなものだろう。ということは、応札している「4社ないし5社」同士の談合の可能性と同時に注文主と受注業者との談合の可能性も疑った方が自然ではないだろうか。
内閣府が「単価内訳書」で「100項目前後に亘って」業務内容を指示しておきながら、「1回当たりの総価での競争を行い、決定をいたします」としていることも不自然である。山本タロベエはこのことをこうも釈明している。各項目に「それぞれの業者が単価を入れまして、それで総トータルで一番安い所に落としている」
一見入札方法として正当に見えるが、「総トータル」金額のみで判断した場合、それが「一番安い」金額であっても、談合を行えば各項目金額は言いなりとすることができる。「100項目前後に亘って」業務内容を指示しているのである。項目を指示した以上、項目別にそれぞれの金額が適正であるかの確認作業が伴わなければ、業務内容を「100項目前後に亘って」提示した意味を成さない。その確認作業を行わずに、「総トータル」を根拠として受注会社を決定したのである。確認作業を必要としないを前提として契約したとしか考えられない。
「総トータルで一番安い」金額であっても、「100項目前後に亘って」指示した各項目の金額がそれぞれ適正だと確認できたとき、その金額は初めて「一番安い」ことの正当性を持ちうるはずである。それが適正でなく、不当に高い金額であったなら、「総トータルで一番安い」は正当性を失い、他者との談合がなければ弾き出すことができない「一番安い」金額としなければならない。
もし内閣府側が各項目別に適正かどうかの確認作業を行ったとしたら、それは還流するに十分な金額だと確認するための作業に過ぎなかった可能性がある。
「総トータルで一番安い」金額の各項目別の金額が常識を超えて不当に高ければ、「総トータル」でより高い入札額を入れた他社の項目別の金額は当然より高い金額となっているはずだから、両者を比較して、それが作為を感じさせる金額であるなら、談合と断定し得るに十分な疑いが生じる。
例えば「空港(又は駅)での閣僚送迎等」が受注会社は「15,000」となっているが他社が「16,000」、「会場における送迎等」の「40,000」が「41,000」、「エレベーター手動」の「15,000」が「16,000」とか、単に同じ金額を上乗せするだけの近似額を取っていたなら、作意がなければ弾き出せない金額と言うことになるだろう。
また空港(又は駅)から会場までの送迎にエレベーターのボタン押し係まで含めて、「広告代理店はここに8名を雇って、32万円掛けて大臣をお迎えしているんです」(蓮舫)とのことだが、「8名」がアルバイトなら、彼らに実際にいくら支払われたかを調査することで、その差額があまりにもかけ離れていたなら、談合であるかどうかの強力な判断材料の一つになる。
広告代理店の社員を使ったということなら、給料内の仕事ということになって、何も支払われていないか、ご苦労さん代ぐらい支払ったか、そのいずれかだろうが、上記項目が見せ掛けであることを暴露する動かぬ証拠となる。
もし自社社員を使っていて、名目上はアルバイト社員の使用となっていたなら、別の不正行為となる。
多分政府は担当者の処分を検討する考えを示したといっても、一般常識から離れた不適切な金額の契約が行われたとの理由のみで関係者をそれ相応に処分するだけで幕引きを行う可能性が高い。中央省庁だけではなく、地方公共団体に於いても、役人の世界では公費・予算を使った私利の遣り取りが一般化している。そのことから考えただけでも、談合の可能性だけではなく、還流と還流金を原資とした裏ガネづくりの可能性すら疑える。受注した広告代理店だけではなく、応札会社すべてを国会に参考人招致して追及すべきではないだろうか。
そのとき他社の入札単価表を提出させるべきだが、既に廃棄処分とした可能性が高いが、記憶を呼び起こさせてでも再度計算させて、受注した広告会社の「総トータル」よりも高い金額となること、それがどのような手口で行われていたかを立証・解明すべきであろう。
それにしても安倍首相の答弁は反応が鈍いものとなっている。単価項目と単価自体にピンと感じるものが何もなかったから、それなりの答弁の形式(言葉数や時間)を整えるために「地元の方々とご意見の交換」の話に持っていったのだろう。「最小限の経費で賄っていく」とカネをかけさえしなければ、「意見交換も活発なものが当然できる」とするのは安易なまでに短絡的に過ぎる。
郵政造反議員の復党問題で中川幹事長と造反議員トップの平沼赳夫元経済産業省が22日(06年11月)国会内で会談したが、会談はまとまらなかったと「日テレ24」が伝えていた。
会談後中川幹事長が記者会見し「今日の会談で合意ということにはなりませんでした」と発表。
テレビはフリップで「踏み絵」と称されている復党条件を掲げた。
①郵政民営化を含む「政権公約2005」の遵守
②安部総理の所信表明演説への支持
③党紀・党則の遵守
中川幹事長の記者会見の続き「ちゃんと郵政民営化賛成と入れていただかなければいけなかった。昨年9月11日総選挙の総括、そういうことについても反党行為を、まあ反省するということをしっかりと入れていただかないといけませんと――」
対する記者質問を受けた平沼赳夫議員「そこまで明確に書くってことはなかなかハードルが高いなあっという感じはしますね」
女性記者の質問「有権者にご自身が一番訴えたいことって、何ですか?」
平沼「郵政民営化法案と言うのは3つの点で誤っているってことをずっと主張してきて、刺客を破って当選してきましたから、まあ、そのことは有権者のみなさん方に、そこまで言われると、なかなか厳しいなあということは言わざるを得ない」
NHKの23日夜(06年11月)のテレビが中川昭一政調会長の中川幹事長を批判しているとも受け取れる映像を流した。「反省や総括が必要だと言うのを聞くと、中国の天安門事件を思い出す。政治は最後は情だと思う」と言っていた。
中川幹事長の〝原則〟に対する中川政調会長の「情」のつば迫り合いである。「情」とはうまいことを言う。「反省や総括」といったうるさい〝原則〟は引っ込めて、「情」で復党を許せと言うことだろう。
その「情」とは、今まで自民党という同じ釜の飯を長いこと食ってきた仲間ではないか、自分たちの意志で離党したわけではない、また一緒にやりたいと言うことなら、難しいことは言わずに温かく受け入れてやったらどうかという〝温情〟のことだろう。国家主義者の中川昭一にしたら、〝武士の情け〟だとしたいだろうが、武士なんて、単に支配層に属していたから形式張っていただけのことで、中身は一般人と何も変わらず俗物に出来上がっている人種に過ぎない。それに「情」は美しく見えるが、論理無視(=原則無視)を条件として成り立つ。
また〝情〟だからと言って、底意も何もない無私そのものを中身としていると受け取るのは単純に過ぎる。〝情〟を発動するにはするなりの何らかの必要性に迫られるからで、必要性をキーワードとする以上、利害行為に他ならない。〝情〟にも目的や狙いがあるということである。その必要性(目的や狙い)とは、安倍首相や中川秀直幹事長、参議院の青木、片山虎之助その他と同じ目的を目指すものだろう。世論の反発を買うかもしれない火中の栗を拾おうと言うのである、参院選という一点に絞られているはずである。「反省や総括」に拘り過ぎてややこしくなったら、元も子もなくなるどころか、敵に塩を贈ることになりかねない、〝原則〟を引っ込めて「情」でいったほう懸命ではないかと言ったところだろう
もし造反議員が小沢民主党に協力することになったなら、自民党のマイナスαはマイナスαだけで済まず、それに加えて民主党のプラスαの2倍のマイナスαとなる可能性もある。
中川秀直幹事長が安倍首相の意向を受けて復党条件に「郵政民営化賛成」とか「安倍所信表明支持」、その他の踏み絵を用意して踏ませる〝原則〟に拘っているのは、復党に反対意見が多い世論の反発を受けて、来夏の参院選で復党議員が持ち帰る持参金ならぬ持参票が捕らぬ狸の皮算用に早変りして目減りすることを恐れての損得勘定(=利害行為)からであろう。
大体が復党と言うと、「国民の理解を得るのが第一番だ」と口にするが、「国民の理解」は世論調査では半分以上が反対意見で固まっている。そのような「国民の理解」に素直に、あるいは潔く従うのが「国民の理解を得る」最善の選択であるはずだが、そのような選択は自分たちの得にならない。党側が好都合としている形で踏み絵を踏ませることができたなら、それを以て造反組が望んだ復党であって党側ではないのだとの大義をつくり出すことができる。その大義を「国民の理解」を得る材料として参院選を有利に運ぶことを自分たちの利益と考えているというわけである。
中川昭一官房長官の「情」も中川秀直幹事長の〝原則〟も、単に表面的な形式を違えているだけの話で、中身は同じ、穴を同じくするムジナ同士、節操をかなぐり捨てた損得一点張りの利害行為に過ぎない。参院選敗北となったら、安倍短期政権の運命が待ち構えていない保証はどこにもないのだから、政治家でもあるし、政治の世界でもある、なりふり構ってはいられないのだろう。
教育基本法案参議院特別委質疑
公明党・松あきら女史「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する」
昨日(06.11.22)教育基本法参議院特別委質疑で、質問に立った公明党の松あきら女史が心理学者だか精神科医だかの話として、「人間は5,6歳頃までに全人格が決定する。性質は親から受け継ぎ、性格は後からつくられる。だから、子のしつけに対する親の責任が如何に重大か」といったことを論じていた。
言っていることは、親から受け継いだ「性質」を土台として、親のしつけがその後の「性格」を決定し、両者が相合わさって5、6歳頃までに「全人格」としての体裁が整うということだろう。いわば子供の人格形成のすべての決定権を親が握っていると言うことができる。
この論理が正しいとしても、このことを根拠として衆院を通過させ参議院に回した自民党の教育基本法を「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって――」云々の「第10条」に絶対的価値を付与し、参院での賛成多数通過にも正当性を担わせようとする意図も発言にはあったはずでる。
だが、この手の賛成姿勢は厳密に言うと政府主催のタウンミーティングで青森の弘前等でやらせた賛成をお膳立てするためのサクラ質問と似ていないこともない。かなり近親性のある質問風景と言えるのではないだろうか。
「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する」――
それ以降の親以外の他者との関係は一切子供の人格形成に影響しない。5、6歳以降にどのような環境に育とうとも、環境の影響を受けず、どのような状況に立たされようとも、状況に左右されることはなく、決定している「人格」に従って行動は現れる。いわば人間の行動要因は「人格」であって、状況・環境は決定要因から排除される。
とすると、自らの人格を裏切るという事態は一切生じないとしなければならない。どのような犯罪を犯したとしても、それは「5、6歳頃までに」親にしつけられた「人格」に従った行動である。また、5、6歳以降に何らかの宗教的知識・感情に触れる機会があったとしても、それが親が持っていなかった種類の宗教性を備えたものなら、例え創価学会の教えであっても、性質・性格・全人格が決定しているために誰もが受け付けることは不可能となる。すべては親次第なのだから。親が創価学会嫌いなら、子も創価学会嫌いになる。
また、「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する」とするなら、学校教育が家庭教育を引き継いで重要な目標の一つとする〝人格形成〟、あるいは〝人間形成〟といった徳育教育は意味をなさなくなり、必要なくなる。人間のすべての行為は「親から受け継いだ性質」を基礎に「性格」が親によって形作られ、「5、6歳頃までに」決定する「全人格」の指示を受けてそれが善の行為であっても悪の行為であっても決定していくからだ。
このことは学校教師にとって大いなる朗報だろう。元々機能していない生徒に対する人格形成教育、人間形成教育に時間をまったく割かなくてもいいことになり、従来以上に安心して点数教育に専念できるからだ。
予期しない望まぬ多額の借金を抱えてしまい、何日までに返さないと身の破滅だという状況に立たされたとき、つい他人のカネに手をつけてしまう。あるいは会社のカネを誤魔化す。女を騙して、返すつもりもなく借金する、あるいはカネを貢がせる。最悪、金融強盗を決行する。そういったマイナス行為に走る要因にしても、既に5、6歳の頃までに決まっていた。借金を抱えて返させない状況に陥ったなら、必ずマイナス行為に走るDNAを親から「5、6歳頃までに」植えつけられていたとしなければ、説明がつかなくなる。
談合事件で逮捕された東大出身、もと参議院議員の前福島県知事・佐藤栄佐久にしても、子供・少年の頃は成績優秀で真面目も真面目であったとしても、その犯罪は「5、6歳の頃までに」決定していた「全人格」の関与内事項であって、本人の意志では避けられない出来事だったのだろう。
「性格」なる語を有斐閣発行の『社会心理学 小事典』で見てみた。「性格」の項目はなく、「パーソナリティ」で出ている。
【パーソナリティ】「人間行動に見られる多様な個人差や個性を記述し説明するための概念。人格、または性格と訳されるが、人格というときは「行動の内的規定要因として、個人に一貫した力動的なまとまりと独自性(独自の適応と生き方をつくり出す)」をさすが、性格というときは「個人の情意面の特徴の個人差」(気質や特性など)を示す。
パーソナリティは、遺伝的資質、生物身体的要因と、生育環境、学習経験などの社会的文化的要因との相互作用を通じて形成されるが、その条件次第では、様々な人格障害や異常人格が発症することがある。(中略)近来、W・ミシェルらによって、人間行動を状況・環境条件によってのみ説明する考え方が台頭している」
松あきら女史とは違う説明がなされている。「遺伝的資質、生物身体的要因」といった先天性のみによって決定するのではなく、「生育環境、学習経験などの社会的文化的要因」といった「5、6歳」以降も含めた後天的要因との「相互作用」で決定すると言っている。
『社会心理学 小事典』には「性質」の項目はないから、『大辞林』(三省堂)で見てみると、【性質】「その人に生まれつき備わっている気質。人となり。天性」と先天的決定事項であると説明されている。この点に関しては松あきら女史の「性質は親から受け継」ぐと言っていることは間違っていないと言える。
だが、人間はありとあらゆる性質・性格を持って生まれる。状況・環境に関係なく、一つの性質が常に強く現れるということもあるが、自分が置かれた状況・環境に応じて強く現れたり、弱く現れたりするのが一般的であろう。
例えば常日頃温和な人間が、珍しく怒りに駆られて行動するといったことは多くの人間に見られる光景であるし、常日頃から気性の変化が激しく、その行動に予測がつかないといった人間もいて、常に一つの性質(あるいは性格)に支配されているわけではないし、正確に一つの人格にのみ従って行動するわけではない。どうしようもなく二重人格的なところ、三重人格的な傾向を併せ持つのが人間である。
私自身は「近来、W・ミシェルらによって、人間行動を状況・環境条件によってのみ説明する考え方が台頭している」と『社会心理学 小事典』が言っているように、人間は状況・環境の生きものだと思っている。人間は利害の生きものであるという言い方をするが、利害は状況・環境を受けて決定する関数関係にあるから、〝利害の生きもの〟と〝状況・環境の生きもの〟は等式関係とすることができる。人間は損得で動き、その損得は自身の置かれた状況・環境に応じるとも言い換えることができる。
金銭的・経済的、あるいは保身上、地位上、その他の状況・環境を受けた損得の観点から行動を決定していく。と言うことは、状況・環境次第ではその影響の方が強くて、普段の人格が役に立たないケースもあるということだろう。
安倍晋三は首相職に就かなければ、自らの歴史認識・国家主義に従って行動する自らの人格を守れただろうに、首相になったばかりに自らの人格を裏切って歴史認識・国家主義をアイマイとする行動を取らざるを得なくしている。これは安倍晋三の行動決定要因が人格ではなく、状況・環境となっていることの証明であり、人格をあっさりと投げ捨てて状況・環境に簡単に変身仮面ライダーを演じるカメレオン、もしくは風見鶏を第二の姿としていることの証明でもあろう。
松あきら女史だけだろうか。「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する。性質は親から受け継ぎ、性格は後からつくられる」からと、親の子供に対するしつけをすべてだと考えているのは。それとも創価学会員が一般的に共々持っている考え方・思想なのだろうか。
一般的に持っていなくても、国会という公の席で口にし、それがテレビ放送を通じて全国に流される。天下の国会議員が言うことである、ああ、そんなものかと考えもなく信じ込んだ人間もいるだろう。これはタウンミーティングのやらせが自分に都合がいいように捏造した意見を他人に語らせえる情報操作であり、それが意図的であったのに対して、意図的ではなく、本人は気づいていないものの、悪質な情報操作という点では同じ線上に把えなければならない行為ではないだろうか。
考え方の違いに入る、それで済ますことのできる認識の問題ではなく、人間の事実に関係してくる事柄である。
「家庭の教育力」なるもの
自民党小坂憲次郎前文科相出演のフジテレビ番組「とくダネ!」(06・11・17金曜日)/「与党が単独採決・・・教育基本法〝素朴な疑問〟に大物議員が生回答」の「家庭教育」編
(家庭教育)
第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のための必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和の取れた発達を図るよう努めるものとする
2 国及び地方公共団体は家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう務めなければならない
番組は上記条文の「責任は家庭」としつつ、そこへの国と行政の関与を問題提起し、教育評論家の小宮山博仁の文字で表した批判を紹介する。「国や行政の家庭教育に介入する可能性があり、家庭内にプレッシャーをかけることになる」
取材アナウンサーの解説「自分の家庭で今まで教えていたこと、国に対する価値観、親から子に伝えていたこと、それが国や行政が介入してしまったら、親はどうしていいか分からなくなってしまうといった懸念をお持ちです、ということなんですね。先生の間にも愛国心の教育を受けていない方が殆どですから、そういう部分を、じゃあ、今後どうしていくんだろうかといった問題も孕んでいます」
大物小坂議員の「生回答」は「家庭の教育力が低下していることは皆さんは認めていらっしゃいます。そいう中で子育ての悩みとかですね、そういうのが一杯あるわけです。例えば幼稚園ですね、子育てのような相談の機能を持たせる。小学校にもそういったカウンセリングの機能を持たす。そういうことですね、家庭を支援していくことが必要になってまいります。あの、そういった相談のための施設をですね、地方自治体もつくって、家庭を支援していきなさいということが理念として心掛けられてきましたので、各自治体の創意工夫の中で、そういう家庭をそういった意味で支援するようなですね、施設をつくっていただく。例えば訪ねてきたときは電話でも教育相談に応じますとか、あるいは家庭の子育ての悩みに電話で応じますとか、そういったことを積極的にやっていくことが一つの理念としてですね、掲げられておりますので、そういった意味で家庭の教育に内心とか、家庭のプライバシーに踏み込んでいくということでは決してないわけです。待ちの姿勢でみなさんが相談にいらっしゃる所の、そういうお答えをしましょうという施設を充実させるということが私どもの期待するところなのです」
司会者小倉「今子供たちの間でいじめが原因の自殺がとかあります。この辺には重要に関わっていることだと思うんですが、例えば教育委員会のあり方であるとか、家庭の在り方、学校の責任の取り方の問題。大変難しい問題ですよね」
藤村民主党文部科学担当「今の家庭教育ということで、そもそもじゃあ、子供の教育、責任は誰にあるんでしょうかということをやっぱ整理すると、我々の、実は政府案とほぼ似たことでありますけど、また家庭というのはやっぱ子供の養育に責任を一番持つというのはごく普通のことだと思います。これは理念として掲げた。そしてまあ、小坂前大臣おっしゃったようなこと以外に国とか地方公共団体が、まあ、運動として早寝早起き・朝ごはん運動とかいうのがありますね。こういうのは我々は支持しているわけですね。つまり、そういうことを側面から支援しながら、やっぱ家庭の中で子供をきちんと育てて頂きたい。そして保護者はやっぱ一番の責任があるんですよと言うことは自覚していただきたいというのが理念で、まあ、これは政府案と我々と殆ど一緒でございます。で且つ、今いじめとかおっしゃいましたが、本当に責任はどこにあるとか言うのが、今回の法案で与党と我々の案と偉く違うところでは、我々は責任の所在は割りと基本法ではっきりとさせた。つまり一つは最終的に国が責任を持つと。ナショナルスタンダードであるとか、おカネをきちんと担保することとか、法律をきちんとつくること。しかしその他のことは殆ど学校にですね、現場に、それも校長さん一人ではなしに、学校の、地域の方、保護者の方、教育の専門家の方などが学校を、理事会つくってですね、そこできちんとつくってやってください、一番子供に近いところで、大方の責任を持ち、運用してください。そういうとこが今回の政府案と大きな違いではないかと思っております」
小坂大物「我々は違いとは思っていないんです」
藤村議員「実はわれわれと政府案の決定的に違うのは教育委員会の存在ですね。これは小学校のお母さんがうちの子に実は弁当を持っていかせたいと言った。で、先生に相談した。先生は、それは自分では決められない。校長に相談した。校長は自分でも決められない。市教育委員会に相談した。市教育委員会はそれは偉いことだと、県教育委員会に相談した。県教育委員会はそれはなかなか重要なことだと文科省に相談した。文科省はそれはみなさんで決めてください。文科省は指導と助言しかできません――というたらい回しが起こっている。この中間的な教育委員会は我々はなくそうと言うのが、ここが決定的な仕組みの面でも実は違うところですね」
小坂「教育委員会はですね、やはり中立的な立場としてですね、いわゆる市長、、組長さんと呼ばれる知事(暴力団の組長に擬えているとしたら、見事なまでの比喩である)、そして市町村長さん、そういった人の意向に従って教育が左右されないように第三者機関としての委員会というのは必要だと思います。ただ、教育機関の在り方という、たとえばスポーツとか文化も今教育委員会の担当になっていますが、こういったものは知事さんとか市町村長さんに委ねても私はいいと思っております。ですから、教育の根幹に関わるもの、やはり教育というのは国でちゃんとしっかり責任を持つべきだという意見は私ども一緒です。そういう意味で、それとちゃんと中間的にですね評価して、その地域に於いてちゃんと見守っていく機関は置いておくべきだと思っております」
小倉司会者「エー、ハイ、まあ時間がないんで、それはそうですね、国会の審議が100時間以上やったものを我々がここで(前回記事の愛国心問題議論も含めて)35分でやるのは無理に決まってるわけで。(テレビの前の視聴者に向かって)みなさん、分かりました?分かりました、みなさん、争点って?これでもまだよく分からないでしょ?恐らく政府案をじっくり見ても、前の(現行教育基本法)と比べてみても、案外微妙なニュアンスしか伝わってこない。そこが難しいとこなんですね・・・・」――
瑣末なことを回りくどく言い合うばかりだから、35分あれば十分に議論できることを不可能にしてしまう。
教育基本法は理念法だと言う。「国及び地方公共団体は家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう務めなければならない」は日本の教育に付け加えなけらばならない理念の一つだと言うのだろうか。〝理念〟とは追い求めるべき理想の形を言うはずである。
「必要な施策」とはその具体的内容を小坂大物は、幼稚園や小学校に子育ての悩み相談の機能を持たせる、電話でも受付ける、そういった施設(電話相談部門)を併せ持たすことだと。「例えば訪ねてきたときは電話でも教育相談に応じますとか、あるいは家庭の子育ての悩みに電話で応じますとか、そういったことを積極的にやっていくことが一つの理念としてですね、掲げられておりますので」とは言っているが、単にそういったことの実現を日本の教育が目指すべき理念だとでも言うのだろうか。言えるとしたら、何とまあ次元の低い理念かということになる。学校教育法とかで定めるべき方策の類であろう。それを教育基本法に設けるのは国及び地方公共団体の関与を一応押さえておきたいからではないだろうか。
「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」
確かにその通り。但し「父母その他の保護者」は家庭社会と、それと接する一般社会に於ける生活態度や規範に関わる「子の教育について第一義的責任を有する」のであって、学校社会に於ける生徒の教育及び生活態度については学校・教師が「第一義的責任を有する」ものとし、それぞれの責任・役割分担を明確に区別しなければならない。第十三条の学校は「教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚する」だけでは不足であろう。
なぜなら、家庭社会と学校社会とではある意味別個の集団社会だからである。当然「生活のための必要な習慣」も違ってくる。一段進んだ学校社会という現実の場で新たに学ばなければならない生活習慣、規範といったものがあるはずである。学校・教師が単に暗記学力の植え付けにのみに専念して、生徒の学力向上を自己の評価とする生徒管理・教育を行うばかりで、新たな集団社会生活に必要な生活態度・規範を学ばせることができなければ、学校・教師は第一義的責任を果たさず、逆に放棄していると言える。いわば、学校社会に於ける生徒の生活態度の乱れの責任を家庭にのみ押し付けることはできない。
例えば、家庭では親のしつけを守り、早寝早起きは勿論、挨拶をしっかりとすることも知っていて、勉強もし、小中高と成績だけではなく、生活態度も立派で、有名大学に進学して卒業後何々省といった国の中央行政機関に勤務し、何年か後に地位を利用して予算の一部を私的に流用する。それをそもそもの家庭の教育が悪かったからだと責任を全面的に押し付けることができるだろうか。省庁職員の一般化した犯罪・コジキ行為の蔓延からすると、中央行政機関社会の規律や規範意識、職務習慣が強く影響していたことも考えられることで、本人の責任ではあるが、行政機関長あるいは上層部の管理・監督により重要な責任を置くべきだろう。
このことを学校社会に準えると、遅寝遅起きを習慣としていて学校に遅刻するようなら、学校社会には学校社会のルールがあること、集団生活で成り立っている社会であることを教え、守らせるだけの教育力・管理能力を学校・教師は持たなければならない。いわば家庭内での遅寝遅起き習慣と学校での遅刻とは別問題としなければならない。「君は家でどんなに遅く寝ようと、どんなに遅く起きようと自由だ。しかし、学校の登校時間は守らなければならない。守れなければ、学校社会の一員としての資格を失う」
と言うことは、早寝早起き運動・朝ごはん運動など瑣末な問題となる。
大体が親にしろ教師にしろ、それぞれの活動空間を〝社会〟だと把える認識を有していないのではないか。それぞれの社会はその社会に特有の成員と成員間で決めたその社会を機能させるためのルールによって成り立っている。と同時にそれぞれの社会同士は何らかの形で関わっていて、その関わりに於いてもそれぞれが支障なく関わっていくための特有のルールが存在する。いわば決められているルールを守ることによって、社会を機能させることができる。遅刻はいけないという校則は学校社会を機能させるためのルールの一つであって、遅刻者一人の問題ではない――。
小学校に入ったときから、すべての生徒に、一人一人は単なる学校の生徒ではなく、それぞれが学校社会を構成する成員の一人であり、成員同士が学校社会のルールに則って集団をつくり、学校社会を成り立たせていく責任を有している。一人でも、そのルールを侵すことは許されない――といったことを機会あるごとに伝えていかなければならない。そう伝えて理解できる年齢に達していなくても説き聞かす習慣をつけることによって、理解できないなりに集団、その一員、ルールとかの核心を成すキーワードが自然と記憶に沁みついていき、時間の経過と共にその記憶は理解の形を取っていくはずだからである。
大物小坂議員は「家庭の教育力が低下していることは皆さんは認めていらっしゃいます」と言っているが、だとしたら、学校の教育力も低下しているとしなければならない。学校社会が学校社会で自らの社会に必要なルール(規範・規律)を学ばせることができるなら、いわば学校の教育力が低下していなければ、家庭の教育力の低下をそれなりに補って、それなりの秩序を保つことができ、家庭の教育力の低下を問題としなくて済むからである。
特にいじめ問題では責任逃ればかりで学校の危機管理が機能しない醜態は学校の生徒管理能力だけではなく、教育力の低下をも如実に物語るものだろう。学校社会に於いては生徒管理も教育も、その二つに亘って人間形成を育むための同じ教育行為だからである。
当然、教育力の低下という点に関しても、家庭だけの問題とすることはできなくなる。家庭社会の機能が低下し、学校社会の機能も低下しているということだろう。家庭が「子の教育について第一義的責任を有する」だけとするのは学校側からの家庭への責任転嫁に過ぎない。あるいは文科省等の教育行政の責任を家庭に転嫁するものだろう。
果して家庭の教育力は低下したのだろうか。確かに夜更かしとか、その結果としての遅起き、朝食抜きといった家庭社会の変化を認めることができる。その原因が家庭の教育力の低下によるものなのだろうか。現在と現在以前との最も大きな変化は親が恐い存在ではなくなったという権威主義性の低下であろう。勿論この低下は親だけを対象としたものではなく、学校の教師についても言えることで、教師は怖い存在でなくなった。現在子供・生徒にとって親や教師が怖い存在なのは精々小学生の間ぐらいのものだろう。勿論社会の大人も恐い存在ではなくなった。中学生高学年の女子生徒や女子高生に何か注意しようものなら、「うっせい」とか「うざったいんだよ」と罵り返されかねない。そういった光景が不思議でもない大人の威嚇を失った時代となっている。
もし家庭の教育力が低下したと言うのが事実なら、それは権威主義性の低下と連動した変化と言える。例えば子供が年齢の低い間は親の言うことを聞くルール厳守が親の教育力の効果だとすると、中学・高校生になって言うことを聞かなくなるルール状況の変化は今までは機能した教育力の低下、もしくは喪失では説明不可能となる。家庭の教育力はしつけの基本を構成するもので、年齢にはさして関係ない。教育力がカギではなく、年齢が機能変化の要因と言うことだろう。親の権威主義性が子供の年齢の変化を受けて、言うことを聞かすだけの力を失ったと考えるのが最も妥当な答のはずである。
ということは、家庭の教育力と把えていた親の能力は幻想で、上位権威者が持つ下を従わせる権威主義性に過ぎなかったということではないか。「生活のための必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和の取れた発達を図る」子供へのしつけは親の教育力が成否のカギを握っていたのではなく、権威主義性が有効かどうかが決定要因となっていたと言うことだろう。
いわば子供をしつけていた力学は教育力に裏打ちされた権威主義性ではなく、権威主義性に裏打ちされた教育力であった。教育力に裏打ちされた権威主義性であったなら、権威主義性が時代の影響を受けて弱体化しても、本質部分は時代の影響を受けない構造の教育力は残るはずだからである。
時代によって起床時間に違いはあっても(陽が昇ると同時に働き、陽が沈むと仕事を終了するという時代もあった)、仕事の時間に間に合うように起床するという原則的なルールは時代によって変化はないはずだし、起床して親と顔を合わせたとき正座して三つ指を突いたり、畳に額がつく程に深々と頭を下げておはようの挨拶をするといった時代や階級に応じたスタイルは時代の変化を受けたとしても、何らかの声をかけて朝の挨拶をするという本質部分のルールに変化はないはずである。それが顔を合わせても、ウンともスンとも言わない。「ご飯は」と声をかけても、黙って2階に上がってしまう。そういった本質部分のルールが機能不全に陥っているのは明らかに教育力が権威主義性におんぶして機能していたことの証明であり、権威主義性の低下を受けて教育力が機能不全と化した現象であろう。
もし家庭の教育力が低下したとされる状況が日本社会全般に亘る現象であるなら、家庭の教育力と言える程の教育力は日本の家庭社会全般に亘って存在していなかったことになる。あったのは確かな権威主義性で、子供は親の発動する権威主義に親が恐い存在であると言う唯一その理由によって無条件に従った。
そう、単に従った。自律的選択ではなかった。今自民党政府は国民に改正憲法や改正教育基本法で国民を従わせようとするかつての権威主義性を復権させようとしている。
権威主義性がしつけの決定要因だとすると、いくら教育基本法に「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と謳ったとしても、それを理念とすべきだと言おうが言わないが、さして効果はないことになる。自分たち国家権力だけが権威主義性を復権させるのではなく、親が恐いとする封建的な強権性の権威主義をも名誉回復させ、それとの抱き合わせでなければ、日本の家庭の教育力は力を発揮できないからである。
日本人は家庭社会で子供の規範意識、ルール意識をただの鉄板に金メッキするように権威主義に頼って従わせる形式の植えつけを行ってきた。第10条「家庭教育」は「自立心を育成し」と謳っているが、以前から日本人は「自立なき国民」と言われている。このことも日本の家庭社会が子供のしつけ・規範を権威主義に依存して行ってきたばかりではなく、学校社会にしても会社社会にしても同じパターンの繰返ししかできなかったことの証明でしかない。権威主義は従うこと(=従属)を教えても、どのような自立(自律)も教えないからだ。権威主義の磁場に於いては、従属は自立(自律)を敵対価値観として排除する。
日本の大人が今まで所持していた強権的な権威主義性を失うに伴って、教育に関して家庭社会は機能しなくなり、学校社会も機能不全の状態に陥っている。民主党の藤村修文科担当は弁当のエピソードを用いて「中間的な教育委員会」の組織的な機能不全を言い、教育委員会の廃止を訴えているが、そのような教育委員会の機能不全は家庭社会における子供の教育に関する機能不全、学校社会に於けるいじめに代表される人間形成に関わる機能不全、あるいは2002年実施の総合学習とその前身である「ゆとり教育」の導入の際、それを具体化する教科書がないためにどのような内容の授業をしていいのか判断に迷って学校側が弁当問題と同じく文部省に指示を仰ぎ、文部省がサンプルまで示して授業内容を指示するといった教育に於ける主体性の致命的な機能不全と対応し合う現象であって、機能不全を理由に教育委員会を廃止すべしとすると、家庭も学校も廃止しなければ公平を欠くことになる。
児童相談所に於ける児童虐待(死)に機能しない状況も、同質同根の問題であろう。あるいは中央行政機関や地方公共団体に於ける談合・裏ガネ・怠慢・非効率・職務違反・不正・コジキ行為等々に見る組織的機能不全にしても子供時代の家庭や学校でのしつけ・規範教育、あるいは人間形成教育が自律的選択による獲得物ではなく、単に従属によって獲ち取った金メッキであったことの証明であり、自律的行動性の欠如という点で他と同じ線上の名誉ある機能不全であって、何も教育委員会に限った現象ではない。多分、日本全体の問題ではないだろうか。
となれば、それぞれの社会・組織に巣食う非自律性・権威主義的従属性を解決しないことには、民主党が言うように教育委員会を廃止して、「地域の方、保護者の方、教育の専門家の方などが学校を、理事会つくってですね、そこできちんとつくってやってください、一番子供に近いところで、大方の責任を持ち、運用してください」といった組織を新たにつくったとしても、同じく機能しない第二の教育委員会となりかねない危険性を抱えることになる。
当然、教育委員会の廃止の有無といった問題ではなく、権威主義的従属性の排除と自律性の獲得を先決問題としなければならないが、存在もしなかった「家庭の教育力の低下」といった方向違いな論理矛盾を犯して何ら疑問を感じない、政治家も含めて多くの日本人に見られる客観的認識性の欠如も問題としなければならないのではないだろうか。
例えばテレビで昔はタバコの吸殻のポイ捨てはなかった、街はきれいなものだったとさも今の人間の規範意識が低下しているような小賢しいばかりの発言をしていたテレビタレントがいたが、今のようなストレス社会ではなかった時代は一般的に吸うタバコの本数が少なく、当然吸う時間の間隔が長かったこと、また人間の移動が少なく、吸う空間が限られたこと(江戸時代を例に取るなら、一般的には休日は盆暮れしかなかったから、吸う機会は殆ど家と職場かその往復の移動空間に限られただろうし、一人前になるまで住み込みが社会慣習となっていたから、なおさら外で吸う機会は少なかったろう。今の時代は労働時間も短くなり、休日も増えているから、その分外で吸う機会が多くなっている)、さらに二昔か三昔前頃までは女性の喫煙者がいわゆる水商売の女性にほぼ限られていたこと、それも現在のように歩きながら吸う習慣はなかったこと、親を含めた大人の権威主義が効いていて、未成年の喫煙者が少なかったこと(敗戦直後は親兄弟、家を失った小中学生に当たる浮浪児が食べ物を満足に手に入れることができない口寂しさを紛らわすためか、いっぱしの大人並みにタバコをふかしている光景が例外的に一般化していた。彼らは世の中を斜めに見ていたことだろうから、決して吸殻入れに吸殻を捨てるような丁寧なことはしなかったろう)、そういった社会の事情の上に道路上やその他の場所で見かけることがなかっただけのことで、吸殻入れを持ち歩いて、そこに捨てたり、あるいは吸殻入れが置いてある限られた場所まで捨てに行ったりしていたわけではない。もしそうしていたなら、花見といった物見遊山や催事が終わった跡に紙くずや弁当かす、座布団代わりに使った新聞紙が山のように捨てられている江戸時代やさらにその昔から現在まで続く光景は同じ規範意識の働きによってマウスをなぞるようにいとも簡単に削除されていたことだろう。また散歩中の犬の糞の始末の習慣化は最近ではなく、遥か昔に実現させていたに違いない。いわばポイ捨てされた吸殻が目立たなかっただけのことで、規範意識に関してその低さは時代の影響をさして受けていない。単に本人の客観的認識能力が欠如しているだけの話で、そのことに気づいていないから、昔は――といった話になる。
「第2条 教育の目標 5」――「愛国心」編
フジテレビ・06・11・17金曜日「とくダネ!」で「与党が単独採決・・・教育基本法〝素朴な疑問〟に大物議員が生回答」なる番組を朝の8時から流していた。「大物議員」とは小坂憲次郎前文科相のことで、それが「大物」とは日本の政治家は小粒だらけということになるのではないだろうか。民主党からも藤村修文部科学担当だとかいうのが出席していた。
先ず最初に小泉前総理がまだ首相の頃の国会答弁、確か「小学生が愛国心をどれ程理解しているか、分かりますか?評価できないでしょう」といったことを強い口調で言っていたと思う。慌ててビデオ録画に取り掛かったが、間に合わなかった。最近年齢のせいで元々よくない記憶力の衰えが痴呆症一歩手前まで進行しているようで、覚えていなくてもいいことは覚えるが、逆のことはすぐ忘れてしまう。お陰様で借金のない身だと最近は思い込んでいる。
次いで安倍首相の国会答弁。「どういう日本が伝統や文化を持っているんだろうということを調べたり、勉強したり、研究したり、そういう姿勢についてですね、学習する態度を、まあ、それを評価する」と、「愛国心」の程度ではなく、「学習する態度」を評価対象とすることを表明して、前内閣との方針の違いを印象づけた。
解説が「2002年に福岡市で愛国心を3段で評価する通知表がつくられ、問題になったことがあり、愛国心の理念をどう扱うことになるのか」と問いかけ、画面に、――問われる愛国心の理念――の文字を大きく映し出した。
自民党の法案の(与党案とは言わない。政教分離・反創価学会に立つ私自身としては独善的に公明党を政党とは認めていないし、自民党の単なる腰巾着としか見ていない)問題となっている<第2条 教育の目標 5>の条文が映し出された。
――伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと
尾木直樹教育評論家の文字で示した批判を取材のアナウンサーが読み上げる形で「評価基準をつくらなくてはいけなくなり、心・人格・感性の育成にはならない」と紹介したあと、その批判をアナウンサー自身が次のように解説して見せた。
「愛国心に関する評価を生徒が気にしてしまうことになる。それに感性の部分であって、それを学校でジャッジするというのはどうかという話です」
次に国際基督教大学の藤田英典教授の文字で示した「愛国心の評価に対して子供たちの競い合いが起こる危険性がある」という批判をアナウンサーが読み上げ、同じように解説。
「俺の方が国を愛している。お前の方の愛国心はイマイチだよ、このような評価をし合ってしまう。あらぬ方向に愛国心が一人歩きしてしまうというような懸念をお持ちです」
小倉何とか司会者「教育基本法に愛国心を愛するとか養うとかっていうのが出てきたら、必ず成績として評価しなければいけないものなんですか」と小坂大物生出演議員に訊ねた。
大物は当然の如くに上記批判の全面否定を展開する。
「いえ違いますね。先ずこの教育基本法と言うのは理念法ですから、あの、これからの21世紀の日本の国が行く教育のあり方というものを示しているんですね。例えば愛国心というふうに一言でおっしゃいますが、実際に法律の条文からすると、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を、と言ってるんですね。即ち、実際の学習ではどういうことをやるかと言うと、郷土の偉人とか郷土の歴史とか、我が国の歴史とか、そういったものを習う中でですね、日本て素晴しい国なんだなってとかですね、ああ日本て、こんなに色んな人が活躍をして今日があるのか、そういう偉人に対して憧れを持ち、また尊敬すると共にですね、それが国を大切にし、自分の郷土を大切にし、そして次第にそれは愛するようになってくる。そういうことをですね、あの、教育として目指していくんですよと言う理念を言ってるんです。ですから、評価をどういうふうになるかと言うと、この内心、いわゆる心の問題を1、2、3で評価することはできないんです。やっちゃあいけないことです。ですから、実際に郷土の偉人を一生懸命するような、図書館で調べているようなことをやったりですね、そして自分から発表するような、積極的な態度があったかとか、その偉人の名前を覚えているとかあるいは我が国の歴史についてどういうことがあったという、今までの歴史のテストみたいなものなんですね、そういうことを総合的に評価して、そういう態度を評価することになります。従って、それはその、そういうものを覚えているのか、覚えていないのか点数で評価されるというふうな基準ですね、これから専門の中央教育審議会の中に家庭教育部会とかいろいろな部会がございますので、そこでそういうあり方というものを審議していただいて、そして客観的な基準に基づいて、その評価基準というものをつくっていただくことになります。心を評価するということは絶対ない」
評価対象が問題点の一つのなっている。点数での態度評価の基準づくりをこれから各部会に諮って審議してもらうといった後付けではなく、前以て基準を完成させ、その説明を果してから法案を国会審議にかけるべきだが、逆の手順を取っていることに何の疑問も感じないほどに確かに大物らしい。
対して民主党の文部科学担当は「私たちは前文というところで、まさに理念でありますが、日本を愛する心を涵養し、と、涵養という言葉はちょっと難しいんですが、雨の水が土にじわーっと沁み込むようにと、いうことで、ここはまさに教育が心の問題、強制したり、踏み込んだりするわけではない、そういう思想でございますが、今の政府案のところは2条に教育の目標、と掲げて、その中の5項目に今の愛国心の、その態度を養うと、態度と出ていますと、評価の対象となるというのが一般的な受け止め方でありますし、心にもないことを、との言い方はありますが(態度が心と必ずしも一致しないということを言っているのだろう)、まあ、今までの政府案では、いや、心は態度と表裏一体だとおっしゃるとなると、それではまた心まで評価するのかといういう話になりかねない、そう考えております」
同じ時間内で論じられた家庭教育の問題と、民主党案と自民党案との決定的な違いであるという教育委員会の問題とは別記事で〝情報解読〟してみたいと思う。
教育基本法は「理念法」だと言う割には、自民党大物議員は細かい話に終始した感がある。大物だからこその細かい話なのだろう。
私も細かいことから出発する。私の場合はウソも隠しない小物だからである。つまり「理念」を問題にするのではなく、条文自体のゴマカシを突つくことから始める。自民党が日本語が乱れていると昨今盛んに言っている主たる勢力なのだから、ゴマカシではなく、単なる乱れだとすることはできないだろう。
自民党案にある「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」の〝尊重する〟と〝愛する〟と〝養う〟それぞれの〝何をするのか〟の意志行為の対象、もしくは目標は、〝尊重する〟は「伝統と文化」であり、〝愛する〟は「我が国と郷土」であり、〝養う〟は「国際社会の平和と発展に寄与する態度」であって、「愛する」の対象に「態度」は入っていない。「愛する〝態度〟とともに」とは言っていない。
いわば小坂前文部科学大臣が「態度を評価する」とするなら、「国際社会の平和と発展に寄与する態度」を評価対象とすべきで、大いに結構、「郷土の偉人とか郷土の歴史とか、我が国の歴史とか」を「図書館で調べているようなことをやったりですね、そして自分から発表するような、積極的な態度があったかとか、その偉人の名前を覚えているとかあるいは我が国の歴史についてどういうことがあったという、今までの歴史のテストみたいなものなんですね、そういうことを総合的に評価して、そういう態度を評価することになります」は脱線した拡大解釈以外の何ものでもない。
拡大解釈としないためには、「我が国と郷土を愛する〝態度〟と共に」・・・「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と並列行為としなければならないはずである。前者から〝態度〟なる文言を抜いたのは、やはり〝愛国心〟への執着が優っていたからだろうか。「愛する」に〝態度〟を入れたとしたら、「愛する」が直接的でなくなり、その意志行為を相当に弱めてしまうことになる。
例えば「彼女を愛する」と「彼女を愛する態度を養う」では、その直接性に格段の差が出てくる。私などはいつも女性から「あなたは先ず女性を愛する態度を養うところから始めるべきだ」と注意される。直接的に愛するなどというのはまだ早すぎる、その資格はないというわけなのだろう。だから今以て独身を続けていなければならないのかもしれない。
自民党は「愛国心」を重視する手前、「愛する」と直接的に表現しなければならなかった。但し、「愛国心」強要の非難を避けるために「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」の「態度」を「我が国と郷土を愛する」にもダブらせて、それを「評価する」とカモフラージュさせたのだろう。
小坂大物議員も、自らの解説で「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を、と言ってるんですね」と、条文にはある次の「愛する」という文言を抜かざるを得なかった。条文どおりに「愛する」とまで付け加えて、「そういうことを総合的に評価して、そういう態度を評価することになります」とすると前後の脈絡を自ら破ることになる。「愛する」とまで言って、それを「態度を評価する」ことだと誤魔化すためには、あくまでも後続の「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」まで言う必要があり、そこまで続けなければならない。その部分の解説は不要で省くとなると、「愛する」まで省かざるを得なくなる。
次に理念問題。
条文にある「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」理念の裏づけが「郷土の偉人とか郷土の歴史とか、我が国の歴史とか、そういったもの」の学習と、そこから日本が「素晴しい国」であることと「偉人に対して」憧れと尊敬を持つことを学び、「国を大切にし、自分の郷土を大切にし」、それらを「愛する」心情の育みへとつなげていくことだとするのは自分の足元だけを見ているちっぽけな国のちっぽけな一国主義ふうで目標が小さ過ぎて、それを理念とするのは大風呂敷もどきで、後半の「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とする世界に向けた理念と非常にバランスが悪い。
尤も後半の理念も他国の偉人とか歴史とかを学び、他の国々を素晴しい国であることと他国の偉人に対して憧れと尊敬を持ち、他国を大切にし、愛するようになるとするなら、バランスは取れ、「国際社会の平和と発展に寄与する」理念に合致するが、条文自体が前後で同じ意図を繰返す二重構造となる。「日本を含めた世界の国々の伝統と文化を尊重し、それらを育んできた日本を含めた世界の国々とそれぞれの郷土を愛する」とすれば、二重構造を犯さないで済む。但し、日本民族優越主義に立った国家主義者たちにとっては日本を前面から引っ込めて世界と同等の位置に立たせ、同等の価値を与える条文改正は自らの主義主張に反して誠に都合が悪く、認めがたいだろう。後半は単なる取って付けに過ぎないことになるが。
このような齟齬は条文の前半自体が自国のみに拘る自国中心主義によって成り立たせている関係から、当然でもあり、止むを得なくもある起承転結なのだろう。
自国中心主義だとするのは、小坂大物が解説しているように「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」目標が「日本て素晴しい国なんだなって」学び知ることだとしているからである。日本の、あるいは郷土の「偉人」を学ぶ目的も、同じく「日本て素晴しい国なんだなって」知ることへの材料に過ぎない。そしてその先に国と郷土を「大切にし」「愛する」心情を求めている。
日本という国の教育基本法なのだから、日本の国と歴史を学ぶよう仕向けてどこが悪いとする反論があるだろうが、日本史の教科が日本の全体・歴史の全体を学ぶものとすると、「愛国心」教育は「日本は素晴しい」と結論できる、その方向に限定した日本と歴史を学ぶ形式を取っている違いがある。そこに自国中心がある。
「日本は素晴しい」という結論を最初から目指した教育が自国中心主義でなくて、他に何と形容すべきだろうか。他の形容を求めるとしたら、イコールの意味を持つ自民族優越主義なる言葉以外にない。
歴史・伝統・文化、郷土の素晴しい点だけを教える。素晴しい点だけを吹き込む。このように「日本は素晴しい」で視野を固定すべく意図するのは、客観的認識能力の育みを阻害する方向に向かう。認識や思考に関わる視野の固定は次は必然的に認識的視野狭窄、あるいは思考上の視野狭窄を転移症状とする。
子供たちを「日本は素晴しい」とする一つの型・一つの認識にはめ込む。そのような誘導に素直に従うことができた生徒は評価の対象となる。「態度を評価する」ということはそういうことだろう。国家的に目論んでいる一つの型にはまらない生徒は低い評価しか獲得することができない。
但しこのような「日本は素晴しい」〝自国優越教育〟は自民党が教育基本法の改正案で初めて目論んだ国家主義姿勢ではなく、既に学校現場で行われていて、既定路線の法案化に過ぎない。そのことは当ブログの記事「愚かしいばかりの〝愛国心〟教育」(2006-06-22 20:09:00)に書いているが、学習指導要領の「主として集団や社会とのかかわりに関すること」とする項目の「郷土や我が国の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土や国を愛する心をもつ」との定めに従って、学校によって頻度が異なるらしいが、既に年に数回行われている。
そして授業は小坂大物生出演議員が解説したのとまったく同じ線上の、「日本は素晴しい」と結論づけるための物の見事なまでに〝日本のよさ〟発見の場となっている。〝日本のよさ〟発見も年に数度の授業なら捌ききれるだろうが、定期化して授業日数が増えた場合、歴史に関しては戦前の侵略時代は〝日本のよさ〟はどこにも転がっていないだろうから避けなければならず、学校はネタ探しに苦労するのではないだろうか。高校では暫く前に履修無視の問題が起きたが、戦前日本の新聞が国民の愛国心を高めるために軍国美談を捏造したように、ネタ枯れから偉人物語の捏造に走らなければいいがと余計な心配までしたくなる。
避けなければならない歴史事実を存在させること自体が、偉人探しでも伝統に関しても同じ結果を生むだけのことだが、生徒の客観的認識能力の芽を刈り取る作業を同時進行させることに他ならない。
自民党が教育基本法改正案に隠している愛国心教育の正体とその弊害が如何に危険な要素を含んでいるか、心してかからなければならない。
いじめられて自殺する学校の生徒が跡を絶たない。誰の目にも連鎖反応と見える。但しいじめから逃れる手段として自殺を選択することだけの連鎖反応ではなく、自分が追いつめられるところまでいじめられているという事実を知らしめたい願望があって、その手段ともなっている自殺の連鎖でもあるのではないだろうか。遺書を残すことでその理由を記し、自殺すれば、自分がいじめられていたことを自分が通っている学校の仲間や教師だけではなく、全国の学校の生徒・教師、そして日本中の大人が知ってくれる。訴えないでは済まないという僅かに残された最後の権利意識が自殺へと衝き動かす理由の一つになっているようにも思える。
文部科学省にいじめ自殺を予告する手紙が郵送され、それも続いている。伊吹文部科学大臣は緊急事態だと思ったのか、何か自分から働きかけなければ恰好がつかないからなのか、「文部大臣からのお願い」と題するメーセージを記者会見を開いて読み上げた。これは異例なことだとマスコミは伝えていたが、文科相宛てにいじめ自殺予告の手紙を出すこと自体が既に従来にない異例事態であろう。実際にいじめられている状況を抱えた上での予告であるなら、自殺の決行如何に関わらず、差出人は予告に知らしめの役割を担わしていることになる。
「未来のある君たちへ
弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんな恥ずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今やっているいじめすぐやめよう。
○ 〇 〇
いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所のお友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきを持とう。話せば楽に張るからね。きっとみんなが助けてくれる。
平成18年11月17日
文部科学大臣 伊吹 文明」
いじめの側に立つ生徒にはこの手のメッセージは自分はいじめているという意識を持ちながらいじめている場合には効果はあるかもしれないが、果してそのような意識を持っていじめている生徒がどれだけいるだろうか。単にからかっているだけ、あるいは気に入らないから口を利かないんだ、ウソをつくから懲らしめてやるんだと自己を正当とした意識を働かせている場合は、そういった本人たちにはいじめ行為とは見えていないから、効果がないのではないだろうか。
またいじめは相手と対等な位置にあるときの相互性を破って自己を優越的位置に置く権力行為(=相手の感情や人格を支配する行為)に他ならないから、いじめる人間にとっては自己活躍行為の部類に入る。いじめと言う行為を通して自己実現を図っているのであり、いじめ行為自体が自己存在証明の手段と化す。一旦そういった状況にはまると、なかなか抜け出し難いところが始末に悪い。いじめがエスカレートする傾向にあるのはそのことが理由となっているからだろう。
いじめが自己実現を図る自己活躍行為であり、そのことを自己存在証明とする権力行為であることは1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件のいじめ首謀者が仲間に自分を「社長」と呼ばせていたことが象徴的に証明している。社長と言う地位は一般社会に於ける大いなる自己実現の一つであり、社長行為自体が自己活躍に入り、その全体が優れた自己存在証明となる。首謀者は清輝君に対して暴力と恐喝を使った権力を通して強制的にカネを貢がせる人間支配を恣(ほしいまま)にし、貢がせたカネで仲間と共にゲームセンターに入り浸ったり、高額な食事を味わったりの豪勢な暮らしに耽った。貢がせたカネを全部自分が所持していて、支払いのたびにさも自分のカネで奢るかのように、いわゆる札びらを切るといったことをしたのだろう。何しろ「社長」なのだから。
いじめを通して清輝君を思いのままに支配した権力行為にしても、社長の地位で思いのままに面白おかしい、彼にしたら豪勢な暮らしに耽った行為にしても、中学生の身分でこれ程の自己実現、自己活躍はなかっただろうし、この上ない自己存在証明であったろう。それを止めるキッカケは清輝君の自殺といじめ側の3少年の逮捕・少年院送致といった物理的要因を待たなければならなかった。教師が輝君を呼び出して、いじめられているのか問い質しても、身体の怪我の原因を訊ねでも、いわば伊吹文部科学大臣のメッセージに当たる問いかけを教師が直接本人に発しながら、いじめが原因だとはついに告白させることができなかった。
また伊吹大臣の「いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ」といったメッセージは既に自分が一人ぼっちの状態に追い込まれ、自らも追い込んでいる人間に果たして効果を持つのだろうか。「お父さん、お母さん、おじいちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所のお友達」といった身近な人間のいずれかでも常によき理解者であり、日常的に親しく言葉を交わし合っている間柄にあったなら、いじめられる以前から「一人ぼっち」という状況は生まれていないだろうから、例えいじめが原因だとしても、「一人ぼっち」となること自体が既に彼らの存在が役に立たなかったことの証明でしかなく、それは誰も信用できないという不信に支配された世界であろう。その殻を破ることのできるほどの強い力をメッセージが持ち得ているかが問題となるが、果して持ち得ているのだろうか。
「けっして一人ぼっちじゃないんだよ」と呼びかけるよりも、「君は今一人ぼっちなんだね」と呼びかける方がより強いメッセージ性を発揮するのではないだろうか。事実「一人ぼっち」だろうからである。それを「一人ぼっちじゃないんだよ」と言ったら、ウソになりかねない。その確率は高いはずであるし、自殺しようと思いつめている人間がメッセージぐらいで、「ああ、自分は一人ぼっちではないんだ」と簡単に思い直すとは思えない。
「死んでしまいたいと思っているほどに君は一人ぼっちな場所に追い込まれているようだ。いじめを受けることほど苦しいことはない。自分が自分でいられなくなるのだから」と。「そんな君に手を差しのべるには、どうしたらいいのだろうか。もう一度手紙をくれないか。手を差しのべることができるようだったら、力になってあげたい。仮に役に立たないと思ったとしても、もう一度手紙をくれないか」
もう一度手紙を書く気力を持たせたなら、それは生への方向へ向かう気力ではないだろうか。
いじめ自殺が起きてから、周囲はバタバタする。責任逃れ、それが通用しなくなってからの認定。全校集会と保護者会を開いての説明と自殺してしまった生徒には何の役にも立たない「命の尊さ」を訴える紋切り型となっている儀式――その繰返しがすっかりパターン化している。いじめに於ける学校での美しいばかりの歴史・伝統・文化となっている。
地震対策と同じく常に備えておかなければならない危機管理の問題だと誰も気づかない。校内暴力や席立ち、過度な私語による授業混乱、学校外での万引きなどと同じようにいじめを学校社会の秩序を脅かす重大な危機の一つと把えて、常に予防対策を講じておく姿勢がそもそもからない。人間には誰もが十全に生きる権利がある。十全に生きるとは、それぞれの人間がその人間なりに持つ自然な欲求としてある喜怒哀楽の感情や自らの人格を他人に迷惑をかけない範囲で、それを絶対条件として自由・自然に発揮できることを言う。十全に生き、発揮すべき喜怒哀楽の感情や人格を他人が支配し、歪める権利は誰にもない。いじめることによって、楽しいと感じる喜びの感情を奪ったり、歪めたりしていいと思うか。そうすることが他人を支配するということだと。他人の感情を支配して、思うように発揮できなくする、他人の人格を支配して、自分がしたいと思う行為をさせなくする。君がいじめられて、嫌な思いばかりすることになって、誰もが持っている楽しいと思う感情を失うことになったら、どう思う?自由にのびのびと遊んだり、勉強したりしたいと思っているのに、いじめを受けて嫌な思いばかりで、のびのびと遊ぶことも積極的に勉強することもできなくなったら、どうする。そんな目には遭いたくないだろう。そんな目に遭いたくないのは誰も同じで、自分がされたくないことは他の人間にもしないことだ。
ときには生徒を何人かずつ、今日一日笑うことを禁止する苦行を課す。いじめを受けたとき、嫌な思いばかりで、笑いたくても笑えなくなる。実際のいじめはもっとひどいもので、仮の苦行で確実に知ることはできないが、その苦しさを少しでも身を以て経験し、学ぶためだと。お笑い芸人のテレビ番組を見せて、笑ってはいけないと命ずるのも一つの手である。笑いたいのに笑えない苦しさを確実に知るだろうから。そしてどのくらいに苦しかったか、発表させる。
学校は生徒に対してそういうメッセージを機会あるごとに発したり、具体的な訓錬を行ったりして、備えなければならない。それが学校管理者が責任を持って行わなければならない危機管理と言うべきものであろう。
ヤラセ質問して世論操作をやらかしたタウンミーティングで、質問依頼者に1人当たり5000円の謝礼金を支払っていた。当然、それが悪いことか悪くないことかが問題となる。政府は「問題なし」――悪いことではないとした。
塩崎官房長官の正当性の弁をテレビでの発言や新聞記事から、重複する箇所もあるが、少しずつ違うから、大体のところを拾ってみた。
「司会者が『代表発言』などと紹介したうえで議論の口火を切ってもらう、かなりオープンな役割に対する謝礼金で、いわゆるやらせ質問に払ったという話ではない」
「発言してもらう役割をお願いしているわけで講師謝礼があるのと同じだ。その程度の感謝の気持ちを示すべきではないか、ということでした」
「まったく問題視していない。議論の口火を切ってもらう方への謝礼金だ。いわゆるやらせ質問に謝礼を払ったという話ではまったくない。」
「議論の口火を切ってもらう役割を担ってもらった謝礼金であり、やらせ質問では全くないと聞いている。手を挙げている人の中から『この人』というのではなく、明確に会の流れの中でお願いをしている人に謝礼を払ってきた事実がある」――
「謝礼」と言っても、何もしないことに対する「謝礼」ではなく、何かをして相手に何らかの利益を与えたことに対する「謝礼」なのだから〝報酬〟であることに変わりはない。ほんの気持ち程度の報酬と言うことだろう。
また前以て金額を明示していたなら勿論のこと、明示しなくても、「謝礼はします」程度の応対があったとしたら、予め報酬を約束した契約依頼ということになる。それとも質問終了後に発生させた報酬ということなのだろうか。講演でも契約依頼と、講演だけを依頼して、後から「お車代です」と1万、2万のカネを支払うといったことがあるが、どちらにしても契約か否かの違いがあるのみで、報酬であることに変わりはない。
但し契約依頼ならば、例え5000円は謝礼としては常識の範囲内だとしても、報酬は報酬である以上、例え内容まで指示していなくてもカネで依頼した質問ということになり、決して「講演の時の講師謝礼と同じ」だとすることはできない。講演は自分が専門としている分野、あるいは得意としている分野の知識を改まった場所で不特定多数の人間に集まってもらって披露する、知識授受に関する精神的利益供与行為であり、その代償として報酬なり、車代なりの金銭的反対給付を受ける構図を取る。対して「質問」はカネの遣り取りの契約をして行う種類のどのような利益行為にも入れることはできないからである。
講演で最後に聴衆に疑問点に関する質問を受ける場合があるが、質問した人間に「謝礼」という形式の報酬を支払うだろうか。やはり質問はカネの遣り取りだけではなく、その他にどのような形であっても、契約という形を取って行う種類の行為ではないからだろう。
また、質問終了後に発生させた報酬だとしても、タウンミーティングの主催者である内閣府は運営などを依頼した業者との間で「その他の協力者謝礼金等」の項目が既に用意されていて、金額が「5000円」と書き込んだ書類に基づいて契約を交わしているのである。最初から予定していた報酬ということになる。いわば、単に相手がカネで依頼されたと思っていなかっただけのことで、質問依頼に関しては主催者側は当初から5000円というカネを担保したカネの遣り取りの契約を予定していたこととなる。この点から言えば契約依頼の「講演」と同じ構図を取るが、「質問」はカネの遣り取りだけではなく、その他どのような形であっても、契約という形を取って行う種類の行為ではないという点に関してはやはり問題が残る。
質問者本人は報酬を予期していなかった、あるいは予定していなかったとしても、いわば主催者側が質問依頼だけして、終わってから、ご苦労様でした、受け取っておいてくださいと渡したとしても、報酬を受け取った時点で事後的にではあるが、質問者は契約行為への変更を自ら行ったことを意味する。受け取るについては、内容までの指示はなくても、質問自体を依頼されたのだからと、当然とする気持があったからに違いない。質問行為自体は本来はごく個人的な主体的行為であるはずなのに、主催者側からの依頼によってお膳立てされた、主体性から離れた従属的な質問行為となる。自分の主張が元々主催者側の主張と意見を同じくしていたとしても、依頼されて行う質問の場合は主催者側の主張に外れないように意識を働かせて言葉を選んだはずである。
いわば主催者側・質問者側、双方共に純粋な気持からではない、最初から主張の一致を仕組んだ、あるいは主張の一致が決定していた、そのことを相互の利益とする意思疎通行為だったのである。単純に「議論の口火を切ってもらう役割を担ってもらった」だけでは片付けることはできないし、当然一般的な「講演謝礼」と同等だと比較することはできない。それを同じだと比較するのは自らの側の狡猾さ・不純さを誤魔化し正当化する巧妙なレトリックに過ぎない。
カネで遣り取りすべきことか、すべきことではないか敏感に直感を働かせなければならない事柄に疑いの気持ちを働かすことができるだけの常識の類が作動しない感覚麻痺・不感症がそこにあったという事実。同時にそれを「問題視していない」と正当化できる、あるいは当然視できる周囲の反応としてある感覚麻痺・不感症(=拒絶反応の欠如)――これらは簡単には見逃すことができない重要な問題が含まれているのではないだろうか。
こういった一見たいしたことがないように見えるカネで遣り取りすることの感覚麻痺・不感症、常識と把える意識が政治家・官僚の各種不正行為・コジキ行為の不正行為ともコジキ行為とも思わずに犯すことのできる初歩的な出発点、あるいはそもそもの下地となっているのではないかと思われるからだ。
質問の内容から言葉の使い方まで指示を出した質問者に報酬は払わずに、単に「口火を切ってもらう」ためにだけ依頼した質問者にだけ報酬を支払ったという真相解明は俄かには信じがたい。