園田オリンピック柔道女子日本代表監督の体罰は選手一人一人の人間を見るの欠如が起因

2013-01-31 12:45:13 | Weblog

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  ――全日本柔道連盟体罰処理に桜宮高体罰処理と同じ構造を見る――

 部活でバスケットボール部に所属していた大阪市立桜宮高校2年生が昨年(2012年)12月23日、自宅で首を吊って自殺した。遺書には部活顧問から頻繁に体罰受けていたことが書いてあった。

 バスケットボール部部活顧問は体罰常習者であったが、学校がもし把握していなかったとしたら、噂にも聞いていなかったことになる。

 把握していながら、過小視していたに違いない。 

 2011年9月、市役所に件の部活顧問が「体罰を行っている」との情報が寄せられた。学校側が調査したが、顧問は否定した。部活顧問のみの聞き取り調査で、部員からの聞き取りは行わなかった。

 事実を当事者が話す片面からのみ見た。部員の証言も併せて事実を両面から見ることをしなかった。

 顧問教師「体罰は一切ない。トラブルもない。保護者会を年に数回開いているので、問題があれば、その場で情報が寄せられる。保護者には自分の指導方針を理解してもらっている」(NHK NEWS WEB

 調査は15分程で終了、否定を事実とし、その事実に正当性を置いた。その事実が市教委に報告され、市教委はその報告を了承、追加の調査を求めず、一件落着となった。

 2011年10月の大津中2イジメ自殺事件でも、自殺後の学校調査でイジメ加害者の生徒からは、いじめた側にも人権があるとか、教育的配慮を口実に挙げて、聞き取り調査をサボった。

 桜宮高では部活顧問の表向きの否定に反して体罰は続いていた。そして2012年12月23日、一人の生徒が常習的に体罰を受け、多分、怒りと絶望から命を断った。

 体罰の場面は変わって、2013年1月29日、日本柔道女子の園田隆二代表監督(39)ら指導陣が強化合宿などで選手に暴力などのパワーハラスメント行為をしていたとして、女子トップ選手15人が昨年12月4日、日本オリンピック委員会(JOC)に告発文を提出していたことが判明、マスコミに報道されることになった。 

 園田監督は理論的指導方法に高い評価を得ていて、昨年11月、次のリオデジャネイロオリンピックまでの続投が決まっていたという。

 その経歴は2008年8月の北京五輪で女子代表コーチを務め、3カ月後の11月に監督に就任している。体罰、もしくは暴力行為がコーチの時代からなのか、監督になってからなのか分からないが、2012年7月27日から8月12日迄のイギリスのロンドンオリンピック終了後の9月下旬、園田監督やコーチなどから暴力行為があったとする情報が全日本柔道連盟執行部に入った。

 このときは桜宮高の初期対応と異なって、園田隆二監督と選手双方から聞き取り調査を行った。園田監督は暴力行為を認め、2カ月後の11月28日、二度としないと誓約、選手に謝罪。全柔連は園田監督の続投を決定。

 これが監督のみの聞き取りだったら、否定、もしくは過少申告が事実として罷り通った可能性は否定できない。

 但し被害者は桜宮高の未成年者に対して、女子柔道選手は、中には20歳に達していない選手がいるかも知れないが、大半が20歳を超えた大人の社会人であろう。常識的には聞き取りのサボタージュにできる対象ではない。

 だとしても、全日本柔道連盟の監督続投決定は決定が許される範囲内の、問題にする程ではない暴力行為に過ぎないと判断したことになる。

 対して11月28日謝罪、監督続投決定からたった6日後の12月4日、告発文がJOCに届いたということは、園田監督の選手に対する暴力行為に関わる評価が全柔連執行部側と選手の側では大きな落差があり、執行部側の処罰自体を軽過ぎると見ていたことを意味する。

 軽過ぎるばかりか、暴力行為は直らないと見て、2016年8月のリオオリンピック迄、近づく程にトレーニングは強化され、その強化に応じて体罰も強化されたのでは溜まったものではないとする拒絶反応が告発文となって現れたといった可能性も否定できない。

 昨年12月に女子トップ選手15人からの告発文を受け取った日本オリンピック委員会(JOC)は全日本柔道連盟に連絡。全柔連は園田監督から聞き取り調査を行い、暴行の事実を認めたため、園田監督と元コーチを1月19日付けで戒告処分とした。

 だが、告発した選手の氏名が明らかにされていないとの理由で選手の聞き取り調査は行なっていないという。

 処分は4段階あるそうだ。

 (1)会員登録の永久停止
 (2)会員登録の一時停止
 (3)文書による戒告
 (4)口答による注意(時事ドットコム

 2番目に軽い戒告処分だが、ロンドンオリンピック終了後の9月下旬、園田監督やコーチなどから暴力行為があったとする情報が全柔連執行部に寄せられ、監督・選手双方から聞き取りの末、監督が認めたために2カ月後の11月28日に謝罪、監督続投決定、それからたった6日後の12月4日、告発文がJOCに届いたという経緯と、選手側からの聞き取りを外した監督側からの聞き取りのみの処分という経緯を併せ見た場合、当然、今回の処分のみならず、前回の処分も併せて決定の判断が妥当かどうかの問題となる。

 告発選手の氏名が不明であっても、園田監督が指導しているオリンピック日本代表女子選手を全員集めて、中には15人に加わらなくても、体罰を受けている選手も存在するかもしれないのだから、話し合うという形で聞き取りは可能のはずだ。

 それを行わずに、監督側のみの聞き取りで済ませて、2番目に軽い処分とした。最初から監督続投ありきの姿勢で調査に臨んだ疑いが出てくる。

 1月30日、全柔連、東京・文京区で記者会見開催。小野沢弘史専務理事が暴力行為があったことを認めたうえで陳謝。《柔道選手告発 全柔連が園田監督を戒告》NHK NEWS WEB/2013年1月30日 14時44分)

 全柔連調査に対する園田監督の説明。

 園田監督「合宿中に指示どおりに動かないと殴った。

 棒で胸を小突いた。勝たせたいという気持ちが強すぎて手を上げてしまった」

 記事。〈全日本柔道連盟では、園田監督が過ちを認識し深く反省し、指導力や情熱を持っていることなどから引き続き、監督として指導させると話しています。〉

 園田監督説明による暴力行為は11月28日謝罪以後も続いていた暴力行為なのか、謝罪以前の暴力行為を説明したものなのかは、読んだ記事の範囲では分からない。

 前者だとしたら、論外である。後者だとしても、謝罪からたった6日後の12月4日に全柔連の加盟上部団体であるJOCに対する告発文というのは、全柔連では埒が明かない(=片付かない)と見たからだろう。

 埒が明かないとは自分たちが望んでいる処分とは差があり過ぎるということを意味しているはずだ。当然、どちらの判断が妥当か、検証しなければならない。

 全柔連はこうした問題が2度と起きないよう強化委員会の中に新たに相談窓口を設置、選手と指導者のコミュニケーションを密にしていく方針だというが、やるべきことは処分内容の妥当性を第三者に判定して貰うことであるはずだ。

 誰が見ても片手落ちの検証に見えるが、告発文を受け取ったJOC自体が調査に異を唱えた。

 《JOC“全柔連の調査は不十分”》NHK NEWS WEB/2013年1月30日 18時2分)

 1月30日午後、東京都内記者会見。

 市原則之JOC専務理事「選手の聞き取りをしていないことは不十分だ。われわれとしては早急に選手に話を聞くように要望した。

 選手と指導者の信頼関係があるかどうか、出直しができるのかが重要だ。人事については越権行為になるが指導ということでお話しすることはできる。
 
 今後も同じような問題はあると思うのでしっかり対応していかないといけない。これを契機にJOCも反省してさまざまな改革を進めていきたい」

 経緯を見る限り、「選手と指導者の信頼関係」は決定的に壊れている。だが、全柔連側は監督の続投を維持している。

 竹田恒和JOC会長「JOCに加盟するスポーツ団体で今回、このようなことがあったことは大変申し訳ない。よく内容を精査して、全日本柔道連盟には必要な指導をしていきたい。

 (いつ知ったかの質問に)つい最近知った」

 記事はオリンピック柔道元日本代表の男女の選手の声を伝えている。

 元日本代表女子選手、「合宿でみんなが練習に打ち込んでいるときに勝手に水を飲みに行った選手を平手で殴ったり、竹刀でたたいたりしたこともあったが、園田監督ほど熱意のある監督はいない。処分が出たあとは指導陣と選手たちが以前より話をして、変わろうとしているようだ」――

 だが、15人の女子選手たちは、そうは見ていない。

 元日本代表男子選手「確かに殴ったり、蹴ったりはあった。柔道界では指導者がたたくことはよく見かけるし、今回の一件は氷山の一角に過ぎない。多少、けがをしてても試合に出るよう選手を指導するのは、園田監督個人の考えではなく、日本代表の方針であり、それに選手が反発したのだと思う。園田監督は、選手のことをよく考えているが、監督自身が殴ることが指導の選択肢の1つという環境の中で育ったことも背景にあると思う」――

 二人とも、園田監督の側に立って庇(かば)っている。15人が庇うことに納得するかどうか迄考えていない。

 上記記事は伝えていないが、JOC会見で、園田監督が女子選手に対して「死ね」という言葉を浴びせたと、次の記事が伝えている。

 《女子柔道告発問題:「死ね!」合宿で暴言 被害明らかに―JOC会見》毎日jp/2013年01月31日)

 〈12月4日にJOCに届いた告発文書には、大会や全日本合宿で園田監督やコーチ陣による暴力、暴言、脅しにおびえた選手の訴えが記されていた。〉と記事は解説している。

 12月4日のJOCに送った告発文書とは別のものなのだろう、〈12月25日に選手側がJOCの女性スポーツ専門部会に送ったメールの嘆願書〉の要旨を伝えている。

(1)人事を含めた強化体制の見直し
(2)問題解決までの合宿の凍結
(3)第三者による調査

 (1)の「人事を含めた強化体制の見直し」は園田監督の更迭を意味し、更迭と新監督の決定を問題解決のゴールと見做しているから、それまでの「合宿の凍結」ということになる。

 そして全柔連の調査では園田監督擁護の結果しか期待でず、埒が明かないから、「第三者による調査」を求めることとなった。

 平真JOC事務局長「合宿などで『死ね!』と言われたこともあったようだ。

 (選手には従わないと代表から外される不安もあった様子で)暴力を受け、顔では笑いながら怖かったのでは」――

 満足に能力を発揮しないことに対して体罰や暴言が浴びせられることは、即代表から外される恐れへと繋がっても不思議はない。

 だったら、外されないように努力して上達すれば暴力も暴言も浴びることはなくなるという主張もあるだろうが、技術の不足によって代表を外されるのではないかという不安を抱えながら努力することと、体罰や暴言を受けることの恐れも加わった中で代表を外されるのではないかという不安を抱えながら努力することとは心理状態が前者はよりプラスの方向、後者はよりマイナスの方向に働くことになり、どちらの努力がより身についていくか明らかである。

 大体が前者は後者と比較して、より人間らしい状態を保つことができる。

 何よりも問題なのは、「死ね!」という罵倒であろう。「死ね!」は全存在否定を意味する。生きている価値の全否定である。

 代表になる程に技術と能力を有した選手は自身に何が不足しているか、何を付け足さなければいけないか、自覚しているものだし、技を仕掛けた瞬間にどの点が悪かったか、どの点がうまくいったか、瞬時に自覚する能力を備えているものである。

 当然、放っておいても、不足の能力・技術を身につけ、優れている点の能力・技術に磨きをかけて伸ばす努力を自分に課すはずだし、課すだけの主体性は保持しているはずだ。

 そうっいった心理状況を無視して、「死ね!」と全存在を否定する暴言を浴びせる。生きている価値の全否定を行なう。これ程の不当・不条理な非人間的扱いはないはずだ。

 良い点も悪い点も自覚なし、努力してより完璧に近づけようとする意志も働かすことができないような選手は決して代表にはなれないし、代表選手として残ることはできない。

 もし園田監督に選手一人一人の人間を見る目、見る余裕があったなら、以上のことに気づくことができたろう。

 全柔連による園田監督の女子選手に対する体罰、あるいは暴力行為に対する調査・検証が桜宮高校体罰に関わる学校側の調査・検証と同じ片手落ちの構造・過小評価の構造を取っていることも然ることながら、園田監督自身が理論的指導方法に高い評価を受けていたとしても、指導者として勝つことだけに目を向ける限界を抱えた、そうであるがゆえにこそ、選手一人一人の人間を見る目を失っている指導者となっていることは、その理論的指導方法を無にする欠陥としか言いようがない。

 1月30日、全柔連が園田監督の辞任を示唆したとする記事がある。《全柔連、園田監督の辞任示唆…女子選手に暴力》YOMIURI ONLINE/2013年1月31日03時09分)

 全柔連幹部「選手から事情を聞き、その上で監督が自ら辞めるということであれば尊重したい」――

 30日午前中記者会見の戒告処分・続投の方針に対しての発言だそうだ。

 この期に及んでも全柔連自身が妥当な処分判断をする積極的な姿勢を見せることができず、園田監督自身にその進退を丸投げ、その自発性に委ねる受け身の態度でいる。

 これは園田監督一人の責任問題だと矮小化する態度以外の何ものでもない。一人の責任問題だと矮小化することによって、全柔連の管理責任を限りなく回避可能とすることができる。

 責任回避意識に支配され、園田監督と同様の勝つことだけの視線に立っているからこそ、積極的な解決姿勢を取ることもできない。

 同じ勝利至上主義に囚われていたとしても、人事管理に関わ責任意識が確固としていたなら、選手が納得する解決策を見い出し得たはずだ。

 体罰やいじめの隠蔽と違っても、責任回避という点でも、全柔連の体質は大津中学校や桜宮高校と同じ体質構造を取っている。

 全柔連の態度にしても園田監督の態度にしても、「スポーツマンシップ」という言葉、その精神を真っ赤なウソにする、倒錯的な表現となっている。


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安倍晋三の政治の責任を国民に転嫁した合理的判断能力なき所信表明「終わりに」

2013-01-30 09:19:37 | Weblog

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 但し機能の範囲が狭まることになり、有料の2万字が1万字となることから、2万字以上の記事の最後が途切れることになります。レイアウト左側のプロフィール欄にメールアドレスを添付しました。必要な記事がありましたなら、連絡をくだされば、メールで送ります。

 但し、ハードディスクに保存漏れの場合、ご希望に応えることができないかもしれません。そのときはご容赦を。

 昨日のブログでは1月28日の安倍首相の所信表明演説の中から拉致発言を取り上げて、安倍晋三なる政治家が如何に合理的判断能力を欠如させているかを書いた。

 今日は所信表明の最後の発言、「終わりに」を取り上げて、政治の責任を国民に転嫁している判断能力の狂いを指摘してみたいと思う。

 「経済再生」や「震災復興」等々の項目では、あれをやります、これをやりますと勇ましく様々に約束しているが、「終わりに」の責任転嫁はそういった約束を反故にするとまではないかなくても、所信の最後の最後になって自身の約束の覚悟を弱める意思表示となっているはずだ。

 弱めることになっている原因は自身が担う政治に対する自覚が不足しているからで、このような自覚不足も、やはり合理的判断能力を欠如させていることが背景にあるからであろう。

 (おわりに)

 安倍首相「我が国が直面する最大の危機は、日本人が自信を失ってしまったことにあります。確かに、日本経済の状況は深刻であり、今日明日で解決できるような簡単な問題ではありません。

 しかし、『自らの力で成長していこう』という気概を失ってしまっては、個人も、国家も、明るい将来を切り拓くことはできません。芦田元総理は、戦後の焼け野原の中で、『将来はどうなるだろうか』と思い悩む若者たちを諭して、こう言いました。『「どうなるだろうか」と他人に問いかけるのではなく、「我々自身の手によって運命を開拓するほかに道はない」』、と。

 この演説をお聴きの国民一人ひとりへ訴えます。何よりも、自らへの誇りと自信を取り戻そうではありませんか。私たちも、そして日本も、日々、自らの中に眠っている新しい力を見出して、これからも成長していくことができるはずです。今ここにある危機を突破し、未来を切り拓いていく覚悟を共に分かち合おうではありませんか。

 『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です。

 御清聴ありがとうございました」――

 安倍首相は個人の力と政治の力を混同している。「戦後の焼け野原の中で、『将来はどうなるだろうか』と思い悩む若者たち」に向けた芦田元総理の過去の発言「『どうなるだろうか』と他人に問いかけるのではなく、『我々自身の手によって運命を開拓するほかに道はない』」を譬えにして、個々人の「運命を開拓する」自発性、あるいは自力性を「『強い日本』を創る」原動力と見做しているが、芦田発言は個人個人の運命の開拓について言っているに過ぎないのであって、混同も甚だしい。

 もし芦田元総理が、若者たちが国の「将来はどうなるだろうか」と思い悩んでいたことに対してこのようなアドバイスをしたとしたら、安倍晋三と同程度の合理的判断能力の持ち主と言わざるを得ない。

 個人の力の及ぶ範囲と政治の力の及ぶ範囲は自ずと違う。例えばこの不況下でも非常に業績が好調な企業が複数存在する。企業「自身の手によって運命を開拓」した結果の好調な業績だろう。

 だからと言って、日本の経済全体に好調の影響を与えているわけではないのは現実の不況が証明している。「『強い日本』を創る」原動力とまでなっていない。個々の企業の力の及ぶ範囲が限定されるていることの証明でもある。

 低所得の非正規社員やニートが結婚に困難な状況に立たされていながら、「自身の手によって運命を開拓するほかに道はない」と結婚を果たすべくより高収入の正規社員採用を目指しても、正社員の中途求職自体が門戸を閉ざしている現実があり、結果として個人の力ではどうすることもできない変わらない低収入が障害となっている結婚できない現実にしても、同じく変わりがないままにどうしようもなく存在することになる。

 一旦非正規社員に陥ると、一部は正規社員に登用されることはあっても、その多くは正規社員の道が閉ざされている現実は自身の手によって開拓できない運命であって、政治の手による運命の開拓を待つしかないのが現状である。

 だが、非正規社員は年々増えるばかりで、平均所得も減って、政治は力となっていない。

 若い女性が結婚して一人子どもを設けたはいいが、退社を余儀なくされて、子育てが一段落したからと再就職しようとしてもパート程度の仕事しかないといった現実。収入が格段に下がり、子どもは二人ぐらい欲しいと思っていても、一人で諦めざるを得ず、夫の収入と併せて二人の子どもを持つよりも一人の子どもに教育費等の集中投資を行なう方が得策だと人生設計を思い定めたといった夫婦は世の中にゴマンと存在するはずだ。

 子どもを二人三人と産んでも育児の費用が十分に追いつき、子どもの将来に向けた投資も不安がない収入の保証は個人の力の及ばない企業全体の活性化と企業が稼ぎ出した富の所得に向けた再分配に期待するしかなく、その期待実現は政治の役目であって、政治の力を待つしかない。

 だが、第1次安倍内閣時代、小泉時代に引き続いて「戦後最長景気」下にありながら、大企業が軒並み戦後最高益を獲得したのに反してその富の再分配を満足に行わず、個人所得は伸び悩み、当然、個人消費も振るわず、逆に生活格差を拡大させた。

このような社会的不備・経済的不備の積み重ねが存在することとなって、「強い日本」とは程遠い強くない日本となっているはずだ。

 すべては政治の個人に向けた役割を満足に果たさなかった結果である。

 安倍「皆さん。今こそ、額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、真っ当な社会を築いていこうではありませんか。

 そのためには、日本の未来をおびやかしている数々の危機を何としても突破していかなければなりません」――

 掛け声だけで終わらせている政治の怠慢がつくり出した「真っ当」ではない、個人の力が及ばないこの社会であって、その責任意識もなく、個人の責任であるかのように呼びかけている。

 かくかように個人の役割と政治の役割は自ずと異なる。

 にも関わらず、「『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です」と臆面もなく言う。個人の役割と政治の役割を一緒くたに扱った発想以外の何ものでもなく、一緒くたに扱うこと自体が政治の責任を国民に転嫁する逃げの姿勢となる。

 個人の役割と政治の役割が一緒なら、政治は必要なくなる。当然、政治家も無用の長物と化す。

 個人の役割と政治の役割が違うからこそ、後者の役割の履行を期待して多くの国民は2009年8月の総選挙では民主党に政権と政治を託したのである。だが、期待が裏切られて、今回は自民党に政権と政治を託すことになった。

 だが、託した政党の親分が、個人の役割と政治の役割の違いを自覚もせずに、「『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です」などと言って、政治の責任については一言も触れていない。

 「終わりに」を述べる以上、この項目にこそ、最大限政治の責任に対する強い意志を示してもいいはずだが、示さないままに政治の責任を国民に転嫁する意思表明で終わらせている。

 この程度の合理性もない判断能力しか発揮できない一国のリーダーなら、政権と政治を託した意味を失いかねない。

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安倍所信表明の拉致発言から見る合理的判断能力と言葉の信用性の両欠如関係

2013-01-29 12:00:01 | Weblog

 そもそもからして、最初の発言からウソがある。

 安倍晋三「まず、アルジェリアで発生したテロ事件について、一言、申し上げます。

 事件発生以来、政府としては、総力を挙げて情報収集と人命救出に取り組んでまいりました」――

 先ず情報収集。事件当初に関しては日本政府が主体的に取り組んだ直接的情報収集ではない。イギリスやフランス、アメリカ等が手に入れていた情報を聞き取った間接情報でしかない。

 アルジェリアの日本大使館には駐在武官を置いていなかったために駐在武官とアルジェリア政府の治安当局やアルジェリア軍と直接のパイプを築いて関係機関内部に情報源を持つといったことはできなかったはずで、近接からの直接的情報収集は不可能だったはずだ。

 その証拠が日本時間1月18日午前4時50分頃、国営アルジェリア通信が救出作戦終了と報道から1日以上経過した1月19日夜、アルジェリア政府から外交ルートで「5人死亡」の情報が氏名と共に伝達されながら、2日間伏せたことに現れている。

 「時事ドットコム」記事によると、日本政府は事実の確認作業を行い、アルジェリア政府伝達の1月18日午前4時50分頃から3日以上経った1月21日深夜に「7人死亡」、1月23日深夜にさらに「2人死亡」をそれぞれ公表している。

 戦闘作戦が終了後の人質の犠牲者や武装勢力メンバー死者、病院搬送必要者の確認作業が可能となった時点での治安部隊関係者か政府関係者か、いずれかによる「5人死亡」が判明したという途中経過情報なのである。

 こういった経緯を読むことができたなら、「アルジェリア政府から5人の死亡が判明したと伝えられた」という表現で公表すべきを、読むことができずにいたずらに情報確認とやらに時間を費やした。

 どこが「総力を挙げて情報収集」に「取り組んでまいりました」と言えるのだろうか。

 「人命救出」に関しても同じである。日本政府は武装勢力に対して直接交渉当事国ではない。直接当事国であるアルジェリア政府の対応に「人命救出」にしても、人命優先にしても預けるしかなかった。

 だが、アルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の姿勢によって、人命優先は後回しにされた。

 物理的人命救出に関して言うと、アルジェリア政府は主目的としていなかったし、日本政府は直接的には一切タッチすることができなかったというのが現実の姿である。

 日本政府にできたことはアルジェリアのセラル首相に電話して人命優先を要望するぐらいのことしかなかった。そしてその要望も制圧優先の姿勢によって無視されたのである。

 日本政府には如何ともし難いこういった状況が厳然と存在していながら、「総力を挙げて」「人命救出に取り組んでまいりました」と、さも主体的に人命救出に取り組んだかのように言う。

 人命救出、あるいは人命優先に効果ある具体的且つ直接的な行動は何もしなかったのに何かしたかのように言うのは詭弁そのもの、ゴマ化しそのものであって、言葉にどのような信用も置くことができない。

 以下、所信表明で何を喋ろうとも、「国家国民のために再び我が身を捧げんとする私の決意の源は、深き憂国の念にあります」と言おうと、所信の冒頭早々に自ら一旦傷つけた言葉の信用を回復できるわけではない。

 情報を的確に読むことができるかどうかは偏に合理的判断能力にかかっている。いくら沢山の情報を収集したとしても、情報を的確に読む合理的判断能力を欠いていたなら、情報から汲み取ってつくり出す“事実”は合理的判断能力を欠いまま構成することになるがゆえに必要とされる行動を生み出すことは先ずできない。

 言葉の信用にしても、合理的判断能力が影響する。それが責任逃れの言葉であっても、責任逃れして露見した場合の信用失墜を考えるだけの合理的判断能力を備えていたなら、下手に責任逃れはできなくなる。

 要するに安倍首相が所信表明の冒頭早々に平気でウソをついて言葉の信用を失墜してしまうのは合理的判断能力を欠いているからに他ならない。

 ここでは拉致に関する発言を取り上げて、安倍晋三なる政治家が如何に合理的判断能力欠いているか、提示してみる。当然、発言は言葉の信用性をも欠いていることになる。

 拉致に関する発言は「終わり」の発言の前で述べている。

 安倍晋三「そして何よりも、拉致問題の解決です。全ての拉致被害者の御家族が御自身の手で肉親を抱きしめる日が訪れるまで、私の使命は終わりません。北朝鮮に『対話と圧力』の方針を貫き、全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国、拉致に関する真相究明、拉致実行犯の引渡しの三点に向けて、全力を尽くします」――

 言葉の勢い自体は力強いが、「対話と圧力」の方針は10年間、何ら変わらない。10年1日の如しである。10年間掲げて効果がない「対話と圧力」を今以て持ち出す合理的判断能力は素晴らしい。

 「全ての拉致被害者の御家族が御自身の手で肉親を抱きしめる日が訪れるまで、私の使命は終わりません」にしても、繰返し繰返し言っている約束だが、今以てそれを果たすことができずに延びのびとなっていることを何ら顧みずに臆面もなく何度も持ち出すことができる神経は合理的判断能力を備えた人間にはできない芸当のはずだ。

 拉致解決の3条件を掲げている。

1.全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国
2.拉致に関する真相究明
3.拉致実行犯の引渡し

 この3条件は第1次安倍内閣時代から掲げているものである。

 3条件一括の要求によって拉致が解決できると考えていること自体が安倍晋三の合理的判断能力の程度を教えている。

 拉致の首謀者は金正日である。ここに父親の金日成が一枚噛んでいたかどうかは不明だが、金正日であることはかなりの証拠が挙がっている。

 私自身は金正日自身が日本の戦争賠償と経済援助を北朝鮮の壊滅的な経済回復に喉から手が出る程に何よりも欲しているはずでありながら、日本政府の「拉致解決なくして日朝国交正常化なし」に対して「拉致は解決済み」の態度で処理、結果的に日本の戦争賠償と経済援助をフイにすることで自身が北朝鮮の救世主足り得る機会までフイにした状況証拠から、金正日自身を拉致首謀者だと見ていた。(2007年6月8日当ブログ記事――《安倍首相の脱北者対応に見るお粗末な政治創造性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 日本の警察当局の調査で、北朝鮮の金正日総書記直属工作機関「対外情報調査部」(現35号室)の幹部2人が実行犯に拉致を指示した疑いがあることが判明したとして、2008年03月11日の「asahi.com」記事が、《地村・蓮池さん拉致工作、2幹部浮上 総書記の直属》と題して伝えている。

 記事は書いている。〈一連の拉致事件で金総書記と直接接点のある政府幹部の関与疑惑が浮上したのは初めてで、立件に向けた詰めの捜査を進めている。日本側が「拉致問題の進展」を求めている日朝国交正常化交渉にも大きな影響を及ぼしそうだ。 〉――

 同じ「asahi.com」が翌年の2009年11月2日付で、《拉致工作機関、金総書記が直接指揮 日本政府調査で判明》と題した記事を発信している。

 〈北朝鮮による日本人拉致事件を計画・実行した朝鮮労働党対外情報調査部(現35号室)が、金正日・朝鮮労働党書記(現在は総書記)から直接指揮を受ける形で活動していたことが、日本政府の関係当局の調べで明らかになった。金総書記からの指示を受ける際には「伝達式」が行われていた。日本政府内では、金総書記が日本人拉致を指示したか、少なくとも知りうる立場にあったとの見方が強まっている。 〉と記事冒頭で書いている。

 既に政権は自民党から民主党に移っていたが、安倍晋三も知り得た情報でなければならないし、記事発信から少し遡った時点で、実際に知り得た情報として発言している。

 《安倍元首相が拉致問題で講演》YOMIURI ONLINE/2009年7月27日)

 安倍晋三「富山県に5人いると聞いている。国認定の(拉致)被害者以外にも、実際に拉致されている人はたくさんいると思う。警察は決定的な証拠を持っている人を認定している。万が一間違うと、北朝鮮に日本が言っていることはウソばかりだと非難にさらされる危険性がある。

 特定失踪者の中にも多くの方々が実際に拉致されているんだろうなと思う。

 (金正日総書記の健康不安と後継者問題について触れ)(拉致)作戦の責任者だったから、完全解決は難しいかも知れないが、(政権が)代わるかもしれないとなれば、最大のチャンスだ」――

 金正日を「(拉致)作戦の責任者」だとする認識に立って、拉致解決の「最大のチャンス」として政権交代に期待した。

 この認識自体に一片の合理性もない。金正日が死亡したのは この安倍発言から約2年3カ月後の2011年12月17日であるが、金正日の子どもの誰が継ぐか、既に父子継承が囁かれていた。

 だが、父子継承された場合の拉致解決の一層の困難可能性についての認識は一切ないばかりか、実際に父子継承した金正恩に対して、2012年8月30日、フジテレビ「知りたがり」に出演した安倍晋三は期待発言をここでも行なっている。(一度ブログに使用)

 安倍晋三「ご両親が自身の手でめぐみさんを抱きしめるまで、私達の使命は終わらない。だが、10年経ってしまった。その使命を果たしていないというのは、申し訳ないと思う。

 (拉致解決対策として)金正恩氏にリーダーが代わりましたね。ですから、一つの可能性は生まれてきたと思います」

 伊藤利尋メインキャスター「体制が変わった。やはり圧力というのがキーワードになるでしょうか」

 安倍晋三「金正恩氏はですね、金正日と何が違うか。それは5人生存、8人死亡と、こういう判断ですね、こういう判断をしたのは金正日ですが、金正恩氏の判断ではないですね。

 あれは間違いです、ウソをついていましたと言っても、その判断をしたのは本人ではない。あるいは拉致作戦には金正恩氏は関わっていませんでした。

 しかしそうは言っても、お父さんがやっていたことを否定しなければいけない。普通であればですね、(日朝が)普通に対話していたって、これは(父親の拉致犯罪を)否定しない。

 ですから、今の現状を守ることはできません。こうやって日本が要求している拉致の問題について答を出さなければ、あなたの政権、あなたの国は崩壊しますよ。

 そこで思い切って大きな決断をしようという方向に促していく必要がありますね。そのためにはやっぱり圧力しかないんですね」――

 拉致作戦に関わったのは父親の金正日だが、息子の金正恩ではない。だが、金正恩が拉致を認めるには父親の金正日を否定しなければならない――とまで認識していながら、圧力をかければ、父親の金正日を否定することになる金正日首謀の拉致を認めるだろうと発言を展開している。

 金正恩の父子権力継承の正統性は金日成に発して金正日を介し、金正恩に伝わった血にあるのであり、その血とは正義と偉大さを象徴している。

 自分が信仰して止まない日本の天皇制にしても、その地位の継承は偉大さを象徴する男系の血を根拠としていながら、北朝鮮の父子権力継承に関しては当てはめて考えることさえできない認識能力となっている。

 金正恩の権力継承の正統性がより近くは父親の金正日の正義と偉大さ、その血に置いていることを前提に判断すると、その否定が拉致問題を介して生じた場合、金正日の権力の正統性そのものを否定することになって、金正恩の権力継承の正統性に疑義の形を伴って跳ね返ってくる。

 単に拉致は金正恩が行なったことではないから、父親を否定することになるが、認めれば済むといった問題ではない。

 だが、安倍晋三はその程度のことだと考えている。
 
 当然、北朝鮮に対する拉致解決の要求3条件にしても、金正日共々金正恩の存在否定となる条件に早変わりしない保証はないということになる。

 第1番の「全ての拉致被害者の安全確保及び即時帰国」は、帰国者の誰か一人でも、拉致は金正日の首謀のもと行われたとする真相を知っていた場合、帰国後の発言からその真相が洩れない確証はなく、洩れた場合、金正恩は父子権力継承の正統性を失う危険性に曝されかねない。

 そのような危険を犯すだろうか。

 逆に言うと、帰国をさせない拉致被害者の中には金正日が拉致首謀者だと知り得る立場にいた可能性があるからこそ、帰さないという可能性も疑うことができる。

 2番めの「拉致に関する真相究明」は父親の金正日の直接の命令を隠す形で真相究明を行なうことにすれば、決して不可能ではないが、首謀者に仕立てられた人間、その近親者が当座ではなくても、何十年か後に事実を証言した場合、金正日にしても金正恩にしても、英雄の皮が剥がされ、犯罪者になり下がりかねない危険性を負うことになって、簡単には真相究明はできまい。

 第3番の「拉致実行犯の引渡し」にしても、その家族を口封じの人質にしたとしても、引き渡し後の実行犯の口から、主犯ではないとすることによって罪を軽くする意図から、金正日の命令で行ったのだとの証言が万が一にも飛び出さない永遠の確証を果たして金正恩は持ち得るだろうか。

 家族が捕らえられるのを承知で脱北する北朝鮮人も存在する。

 だからと言って、秘密を何ら知り得ない人物を実行犯に仕立てることはできないはずだ。日本の警察の取調べを受けた場合、満足な自白もできなくなる。カネか何かで吹きこまれただけの計画と実行のみでは想定した尋問には耐え得るが、想定していなかった尋問にはどこかで矛盾が生じる。

 とすれば、金正日に纏わせた英雄の彩りを守り、金正恩の権力継承の正統性を揺るぎなく守る最大の保証は秘密を知り得ると疑うことのできる拉致被害者と実行犯を手元に置くことであろう。

 にも関わらず、第1次安倍内閣時代から同じ拉致解決の要求3条件を掲げているということは情報から汲み取ってつくり出す“事実”がこの程度の内容だということであり、その変わり映えもしない認識能力は如何ともし難い。

 合理的判断能力が影響する言葉の信用性という観点からすると、このような低劣な認識能力の所有者であるなら、所信表明でいくら立派なことを力強い言葉で言ったとしても、信用できない言葉の羅列と化す。

 参考までに――

 2012年9月1日当ブログ記事――《安倍晋三と橋下大阪市長の意外と公式的な拉致解決論 拉致解決はどうしたらいいのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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体罰指導では部活は強くはならないことをプロ野球と大リーグの比較から見る

2013-01-27 11:16:40 | Weblog

 

 2013年1月22日の当ボログ記事――《橋下徹は独り善がりの大バカ者だ/素晴らしくも何ともない桜宮高体育科入試中止決定 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、部活に於ける体罰指導よりも、個々の部員・生徒の主体性に任せる指導が優れた才能を育てるからと、体罰を直し、適正な指導へと持っていく方法を書いた。

 〈部活顧問に体罰禁止・体罰を用いない指導を誓約させ、部活顧問と部員生徒を役目上は上下関係にあるが、意見を言い合うという点で、いわば人権上、対等な関係にあると規定する。

 部の運営はお互いに知恵を出し合って、それを意見の形に変え、各部員の基礎体力向上、技術面の向上、各練習の時間配分等、強いチームとするための提案を行なう。

 部活顧問が提案して一方的に従わせるのではなく、顧問の提案に対して各部員が意見を言い合い、部員の意見も顧問を交えて議論し、最終的に多数の同意を以って決める。「じゃあ、そうしようか」と。

 練習後、練習試合後、本試合後のミーティングに於いても、部活顧問が一方的に指示を出して従わせるのではなく、部員生徒と対等の立場で意見を言い合い、最終決定する。

 こういった部運営が実行されているかどうか、学校は時折り検証する。実行され、それが継続性を保つことができたとき、練習に向けた生徒の主体性は確立する。

 但し、チーム自体の成績は落ちるかもしれない。だが、主体性を確立した生徒程、持って生まれた運動能力次第で才能は伸びていくはずだ。

 例え持って生まれた運動能力に恵まれていたとしても、主体的に自分から動くのではない、体罰等、他からの強制を動機づけとする行動にスポーツであれ、学校の勉強であれ、優れた才能への向上は望めないはずだ。

 当然、体罰によって勢いをつけたチームは、生徒それぞれが自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度(=主体性)に恃(たの)んだ自力からの力によって成績を成り立たせるわけではないから、全体の力で一時的には好成績を上げるだろうが、勢いがある間は良しとしても、一進一退の状況となって、その状況を打開するために生徒それぞれが考えてプレーしなければならなくなったとき、自分から考えて主体的にプレーする習慣を持たない場合、力は長続きしないことになる。

 いわば体罰を介在させて能力・技術を伸ばそうとする指導は部員それぞれが主体的に伸ばす力を逆に抑えることになる。

 その場その場の成績だけに拘ると、生徒の主体性に任せるより、自分の指導を押し付ける方法が手っ取り早くなって、それが思うように行かないと、体罰や罵声に頼ることになる。

 結果として体罰や罵声が延々と続くことになるのは現実が教えている。

 以上言ったことは、部活動は勝利を目的とするのではなく、人間形成・社会性形成の教育の一環へと目的を変え、勝利はあくまで結果と見做すということである。〉云々――

 では、実際に体罰指導、あるはそれに類似したシゴキ指導が効果があるのか、日米野球を比較しながら、考察してみる。アメリカの高校野球、大学野球、大リーグの具体的情報はインターネットから得た。

 以下のことは元々広く言われていたことだが、アメリカの高校野球にしても大学野球にしても、全体的な練習時間は2~3時間程度で、基礎的な練習が多く、「バッティングの時間が極端に少ない」という記述もある。

 後は自主練習だそうだ。

 自主練習が何時間程度なのか、いくら探しても拾い出すことができなかった。監督や部顧問が課す全体練習と比較して自主練習は一般的に短時間という固定観念から、誰にも分かることとして時間を書かなかったのかもしれないが、そこに情報の不備があるように思える。

 勿論、自主練習であるから、それぞれが課題とする技術に関して集中的に練習するということだから、選手によって時間の長短があるだろうが、大体の平均時間というものがあるはずである。

 もし全体練習が2~3時間で、自主練習がそれを超える時間を費やすとしたら、「全体練習が2~3時間でも・・・」という書き方をするはずだから、常識的に考えて、1時間程度以内といったところではないだろうか。

 HPの一つに、「自主練習は他人に合わせるのではなく、自分のことは自分でといった自己管理能力がアメリカ野球の基盤になっているのです。ただし、結果が出るか出ないかも自己責任というシビアな面もあります」との記述があるが、要するに部活顧問や先輩といった上からの強制ではなく、あくまでも自分の意志からの主体性に任されているということを意味している。

 【主体性】「自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度のあること」(『大辞林』三省堂)

 【自主】「他人の保護や干渉を受けずに自分の判断で独立して行動すること」(『大辞林』三省堂)

 「自主性」とは、「他人の保護や干渉を受けずに自分の判断で独立して行動する態度のあること」ということになる。

 「主体性」と「自主性」はほぼ同じ意味だが、「自主性」は行動することによりウエイトが置かれていて、「主体性」は行動する主体(=私)によりウエイトが置かれていると、私自身は解釈している。

 如何なる行動も責任は伴うが、「主体性」が「みずから責任をもって」と、責任意識を自覚的に要求しているのは、行動を対象に置いているよりも、あくまでも行動する主体を問題としているからであろう。

 上記紹介した「結果が出るか出ないかも自己責任というシビアな面もあります」と言っていることは、単に自発的に練習すれば済む「自主性」というわけではなく、自主行動の結果に対する責任をも負う、本人の「主体性」を問題にしているということであろう。

 日本の中学野球にしても高校野球にしても練習は放課後からボールが満足に見えなくなる暗くなるまで続けて、中学校はともかく、高校の場合は多くの学校がナイター設備を持っていて、ナイターをつけてまでしてハードな練習を課す。 

 全体練習が終わると、下級生は上級生の命令でホームベースから1塁ベース迄の白線から2~3塁間の白線までの往復のウサギ跳びを20回、30回とやらせられたり、グランドを20周、30周と周回させられたりする。

 それ程迄に長時間徹底的にしごかれるのに対してアメリカの高校野球や大学野球は2~3時間の練習時間という差から判断して、中高野球部、さらに大学野球部からプロ野球に進んだ選手がアメリカの大リーブの選手に対して練習時間と練習内容の過酷さに比例した優秀な能力を獲得しているのだろうか。

 単純計算しても、日本のプロ野球選手の方が大リーグ選手よりも2倍3倍、あるいは4倍の能力を発揮していなければならない。

 だが、現実には日本のプロ野球から大リーグに進んだ選手で現在活躍したと言えるのは野茂投手、松井秀喜選手、イチロー選手ぐらいのもので、レッドソックスに入った松阪大輔は2007年15勝12敗で、勝ちはしたが負け数が多く、2008年、日本人シーズン最多となる18勝3敗と いう好成績を上げたが、肘を痛めたり故障がちとなり、200年4勝6敗、2010年9勝6敗、 契約最終年の2012年1勝7敗、FAとなって、まだチームが決まっていない。

 要するに長続きしていなくて、先行きの活躍は至って不透明となっている。先発投手として試合に出る前のブルペンの投球は大リーグでは、投手の肩は消耗品という考え方から投球制限をかけているということだが、松阪は「球数多く投げ込んで肩を整える」ことをスタンスとしていて、球団から許可を貰って、100以上投げ込んでいたという情報がある。

 日本のプロ野球が中5日の登板に対して大リーグは試合数も多く、中4日の登板の常識に反して自分から自分の肩に必要以上の負荷をかけ、結果的に自滅した。

 何日か前の当ブログにアメリカ人女性スポーツ選手の発言として、「日本のスポーツ選手は練習がハード過ぎて、選手生命を自分から短くしている」といったことを紹介したが、松坂大輔はまさにこの言葉を地で行ったと言える。

 ダルビッシュ・有は1年目は大活躍したが、2年目以降も活躍を維持、野茂と同等、あるいはそれ以上に力を発揮して、大リーグで活躍した数少ない日本人選手の仲間に入れるかかは今後にかかっている。

 日本のプロ野球から大リーグに進んで活躍した選手が少ないのに対して大リーグから日本のプロ野球入りして活躍した選手は現在でもたくさんいる。しかも殆どが大リーグで使い物にならなくなった選手か、活躍を期待されなくなった選手である。

 もし日本のプロ野球の方が大リーグよりも能力の点で優秀であるなら、プロ野球入りした元大リーグ選手は殆ど全員が使い物にならない期待外れの評価を得ていなければならないはずである。

 だが、少なくない選手がエースとして活躍し、4番等の中心打者として活躍している。

 勿論、日本のプロ野球でも使い物にならないで馘を切られた元メジャーリーガーが活躍した選手の2倍3倍と存在するが、彼らにしても大リーグで使い物にならなくなった選手か、活躍を期待されなくなった下り坂の選手であって、ある意味当然の場面としなければならないはずだが、一方で日本のプロ野球で活躍している元大リーガーの数から比較して、やはり大リーグの能力を日本のプロ野球の上に置かなければならない。

 そして忘れてはならないのは、既に触れたように、大リーガーの選手の能力は高校大学で2~3時間の全体練習と短時間の自主練習で基礎技術を培って得た能力であるのに対して、日本のプロ野球選手の能力は放課後から暗くなってまでのハードスケジュールの練習に加えて体罰を受けたり、罵声を浴びせられたり、たるんでいるからと過度な千本ノックだ、ウサギ跳びやランニングだといった体罰紛いの懲罰を与えられたりして培った能力であって、にも関わらず存在するプロ野球、大リーグそれぞれの場に立った場合の両者間にある活躍の差だということである。

 日本人の多くはこれまで2度行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で2度とも日本のプロ野球の代表チームが優勝していることから、大リーグのとプロ野球の能力は同程度となったと見ているようだが、私自身はWBCが短期決戦だから、優勝できたのだろうと見ている。

 これが一シーズンといった長丁場なら、先ず優勝は難しくなるはずだ。

 プロ野球で「考える野球」がワンシーズンのテーマになることが証明しているように、主体性を持って自分から判断して動くのではなく、上の判断に従って、その判断通りに命令・指示を受ける形で動くことに慣らされ、能力を発揮する、いわば他者に従う行動性の日本人選手と、短い練習時間で能力を伸ばすも伸ばさないも自身の主体性と責任にかかっているという自己責任の精神的タフさを求められる環境で育った、いわば自身の判断に従う行動性の大リーグ選手とが長丁場で対峙したとき、どちらがより強いメンタルを発揮するか、どちらがより高い能力を発揮するか、明らかである。

 決して体力だけの問題ではないはずだ。

 体罰や罵声といった身体的・心理的強制力による従属性の育みでは真の能力は期待できないということである。自身の判断による主体性を持たせた練習の積み重ねが、外からの強制ではない、内側からの能力の開花に力を与え、心身共に強靭な選手を育て上げる。このように考えて行動すること自体が練習時間を短時間に持っていくことになる。

 このことは暗記教育についても言うことができる。

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当たり前のことだが、内部協力者が存在した場合のイスラム武装勢力テロ対策は前以ての摘発が“人命優先”

2013-01-26 10:54:35 | Weblog

 誰もが既に気づいていること、あるいは当たり前のことを、自分なりの考えを述べるために記事にしてみる。

 アルジェリア天然ガス関連施設がアルジェリア政府軍の厳重な警備下にありながら、その施設へのイスラム武装勢力の襲撃・人質事件を今回可能としたのは、施設内部の従業員に11人の協力者が存在していたこと、武装勢力が国境越えに使用した車両の中に隣国リビアの公用車が含まれていたためにアルジェリア国境警備隊が車列をリビアからの公式の代表団だと考えて、荷物検査をせずに国境を通過させたこと、この二つの点に管理体制の不備があった疑いが浮上しているとマスコミは伝えている。

 要するに両事態を疑ってかかる警戒心を喪失していたと言えるが、何よりも厳重な警備体制を潜って施設そのものへの侵入を許したのは内部協力者の存在であろう。

 施設内の協力者は武器を予め施設内に運び込んで、隠していたと伝えられている。

 だとすると、内部協力者の摘発が襲撃を防ぐ肝心な手段となる。

 後付けの知識だと言えば言えるが、部外者には許される後付けの知識ではあっても、施設警備の軍や国境警備隊に関しては前以って備えていなければならない危機管理の知識であるはずだ。

 しかも両事態とも映画で、特にアメリカ映画でよく使う手となっているのは現実的可能性があるからだろう。アフガニスタンではアフガニスタン国軍内部やアフガニスタン警察内部にタリバンに対する共鳴者、もしくは協力者が存在して、外国兵に対する射殺事件がかなり頻繁に起きているし、頻繁な情報漏洩も考えなければならない。

 内部協力者、もしくは内通者は直接的襲撃者が見える敵で、警備体制がしっかりしていたなら、それなりの対応ができるが、見えない敵であるゆえにより危険である。乗客に紛れて飛行機に乗り込み、操縦室に侵入して飛行機を乗っ取り、自ら操縦して目的の標的物に突っ込んでいき、多数の死傷者を出した9・11のケースも見えない状態で内部に敵を抱え込んだ点で、内部協力者に近い敵と譬えることができる。

 また、警備体制が強固であればある程、襲撃対象とするためには内部協力者の存在が必要となる関係が生じることになる。

 このような関係からすると、兵員・武器・配置等の警備体制に万全を期すだけではなく、内部協力者の存在を常に疑ってかかる警戒体制を期す必要が生じる。

 どうしたら、内部協力者を効果的に摘発できるのだろうか。

 内部協力者は元々の従業員を協力者に仕立て上げるか、テロメンバーを従業員として潜り込ませるか、主として二つの方法を考えることができる。

 信頼性という点では後者に軍配が上がるはずだ。但し施設の構造や内部の配置、警備体制、人の動静などに関する情報に関しては元々の従業員の方に軍配を上げなければならない。メンバーを従業員として潜り込ませた場合、内部に関する情報取得は他の従業員に悟られないように一から始めなければならないから、時間がかかることになる。

 より確実な方法は元々の従業員を協力者に仕立て上げて、さらにテロメンバーを従業員として潜り込ませ、後者をして前者を裏切らないよう監視させて両者の連携のもと、内部偵察と武器の持ち込み、襲撃手順と人質確保等の計画を練ることであろう。

 いずれにしても内部協力者を疑う場合、勤務年限の長い従業員だろうと新参者であろうと、疑ってかからなければならないことになる。当然、対象は全員ということになる。

 長く務めているからといって、必ずしも信頼出来るわけではない。ある日突然信頼できない者に変身している可能性もある。

 従業員全員を内部協力者か否か識別するために個々の動きに張り付いて監視するのでは朝から晩までの時間と人手も膨大な数が必要になり、仕事そのものの障害となる。

 より簡便で効果的な方法は、全従業員に対して内部協力者かどうかを識別するための全従業員対象の面接を行なうと通達を出すか社内アナウンスを行なうことではないだろうか。

 実際の面接は各部署ごとに昼食時間等を使い、慎重を期してニ人の面接官が一人の従業員を面接、それを複数同時に行えば、時間も人手もそれ程必要としない。

 もし内部協力者が存在した場合、内部協力者かどうかを識別するための全従業員対象の面接を行なうという通達やアナウンスを受けただけで動揺しない人間がいるだろうか。

 内部協力者にしたら、露見した場合の恐れが先に立つはずだ。

 但し面接をより的確にするためには疑わしい従業員はウソ発見器にかけることとし、誰も断ることはできないことを採用条件としていたなら、採用の段階で内部協力者となることの危険、内部協力者として潜り込ませることの危険を察知することになって、摘発以前に内部協力者の出来を防ぐことができるのだはないだろうか。

 テロのメンバーを施設に潜り込ませるにしても、どのような試験と面接が行われるか、前以て調査しておかなければ、試験の段階で露見する危険性の有無の判定ができない。

 内部協力者かどうかの識別の面接を行う場合、警備体制を最高のレベルに上げなければならない。内部協力者が存在した場合、内部協力者であることの露見を防ぐために襲撃を面接より前に設定する可能性を考慮しなければならない。

 何が最も効果的・実効性ある方法なのか分からないが、いずれにしても内部協力者の存在を疑うことを出発点とした警備体制でなければ、国営・民営に関わらず、一般民間人を従業員とする大小施設に対するテロ襲撃は前以て防ぐことはできないことを今回の武装勢力襲撃事件は教えた。

 内部協力者を断って、武装勢力を見える敵のみとした場合の襲撃に対する可能な限りの防御が必然的に“人命優先”につながっていく。

 もし内部協力者もなしに武装勢力の襲撃を簡単に許して施設そのものを乗っ取られたなら、警備体制そのものに不備があったということで、最早論外ということになる。

 安倍政権はアフリカの駐在武官を増員するとか、自衛隊法を改正して、外国の地での邦人保護のために陸路輸送もできるようにするとか、武器使用基準を自衛目的から、敵防防御目的に緩めるとか言っているが、外国の地でそれが日本企業の施設であったとしても、武装勢力に襲撃されて邦人その他が人質となった場合の人質解放と武装勢力制圧の直接交渉当事国に日本がなれるわけではない。

 このことは1996年12月の在ペルー日本大使公邸占拠事件で既に経験済みである。

 すべては直接交渉当事国にかかっている。アルジェリア政府の「テロリストとは交渉しない」とする姿勢が今回、制圧優先となったのであり、やはり見えない敵である、あるいは最後の最後になって姿を現す、最も危険な要素である内部協力者の前以ての摘発が交渉当事国であるか否かに関わらず、人質をつくらないという意味での“人命優先”となって現れるはずだ。

 安倍首相のように単に「人命優先、人命優先」と言っているだけでは、何の解決にもならない。

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橋下市長の府立高体育科定員増要請は順序が違う

2013-01-25 12:16:03 | Weblog

 大阪市立桜宮高体育科系2科の入試中止問題は普通科定員160人に2科定員120人を加えて280人の定員として普通科試験を行う、120人の試験科目は普通科5科目に対して従来どおりの3科目と体育実技、そして体罰実態調査と教育方針見直し終了後に120人は体育科へと編入の迂回献金並みの迂回経路到達のゴマ化しで片付いたと思っていた。

 ところが、橋下知事が何のためなのか、府立高体育科の定員増を松井一郎知事と府教育委員会に要請したという。《橋下市長が定員増要請=府立高体育科、桜宮高入試中止で-体罰問題》時事ドットコム/2013/01/24-13:47)

 1月24日(2013年)、府側との会議での発言。

 橋下市長「体育科にどうしても行きたい生徒の進路先を確保してもらいたい」

 松井府知事「オール大阪でやらないといけない」

 府教委「前向きに検討したい」

 記事は長谷川恵一市教育委員会委員長の発言も伝えているが、会議に出席していたことになる。〈会議後、記者団に〉と書いてあるが、その発言を伝えている。

 長谷川委員長「普通科を体育コースに近い形にした」

 記事解説。〈市教委としては府側に定員増を求めない考えを示した。〉――

 会議に出席していたなら、なぜ会議中に必要ないと発言しなかったのだろう。

 別の記事を見てみた。《【桜宮高2自殺】橋下市長、松井知事と府立高体育科の定員増を協議》MSN産経/2013.1.24 14:15)

 記事冒頭。〈大阪市立桜宮高校の体育系2科の入試募集中止問題で、橋下徹市長と市教委の長谷川恵一委員長らは24日午前、市役所で松井一郎大阪府知事と府教委の陰山英男委員長らと会談を始めた。受験生の受け皿確保に向けた府立高2校の体育科の定員増について協議している。〉

 長谷川市教委委員長が出席していたなら、府立高体育科定員増要請は市教委委員長の容認のもと行われたことになる。

 府立高2校の体育科とは、〈大塚高(松原市)と摂津高(摂津市)。〉で、〈橋下市長が定員増を要望しているのに対して、松井知事は前向きな考えを示している。大阪市関係者によると、教室などのキャパシティーに余裕がある大塚高体育科で少なくとも40人以上を増員する方向で調整を進めている。〉と解説している。

 但し誰の発言も伝えていない。最後に、〈府教委が同日夕にも府教育委員を集めて会議を開き、対応を協議する予定。〉とのみ伝えている。

 どうも合点がいかないが、色々と矛盾がある。

 先ず第一に、橋下市長の1月17日記者会見発言との矛盾である。

 橋下市長「生きてたら、チャンスはありますよ、いくらでも。そんなのは。生命があれば。

 一度高校の受験の、ここで、あのー、うまく行かなかったからと言って、人生終わりなのですか」――

 受験生が受けることになる入試中止の困難に対して人生に果敢に挑戦する姿勢を求めた。 

 尤も人生に果敢に挑戦する姿勢を求めながら、合併前の状態をそのまま維持する形で普通科に吸収合併させて問題解決とする遣り方もゴマ化しそのものだが、府立高の体育科にまで定員増を要請して受験生を吸収しようとする方法も、人生に果敢に挑戦する姿勢を求めた自身の発言の否定となって、ゴマ化しそのものとなる。

 桜宮高体育科系入試中止は勝利至上主義とそのための体罰指導が生徒のみならず保護者も容認してきた風潮となっていて、その蔓延を一旦断ち切ることを理由としていた。

 1月15日記者会見。

 橋下市長「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」(毎日jp

 では、府立高体育科に定員増を求めて、桜宮高体育科受験生の進路先とするなら、府立高体育科に於いても勝利至上主義と保護者や生徒までが容認している体罰指導が存在しないことを絶対条件としなければならない。

 大阪府教委は桜宮高の体罰死を受けて、府立高校187校の体罰調査を緊急に行う方針を公表した。《大阪府教委 府立高校で体罰調査へ》NHK NEWS WEB/2013年1月16日 15時12分)

 調査項目――
 
 「生徒に体罰をしたことがある」と自ら申し出た教員数の報告。
 体罰の相談窓口に生徒や保護者から寄せられた相談数の報告。
 各学校配布の体罰防止マニュアルに従って研修を実施した日時の報告。

 報告期限――

 2月5日迄。

 記事。〈いずれも来月5日までに回答するよう各学校側に通知するということです。〉

 生徒全員に体罰有無のアンケート調査をしないのは気になる。果たして正確な調査となるのだろうか。

 陰山英男府教委教育委員長「府立学校ではこれまでも体罰防止の指導を徹底してきたが、今後はさらに児童や生徒の自殺を防ぐ対策を考えていきたい」――

 「府立学校ではこれまでも体罰防止の指導を徹底してきた」からと言って、体罰が皆無とは言い切れない。

 「Wikipedia」によると、陰山氏は2008年10月1日に大阪府教育委員に就任、2012年から委員長に就任している。

 大阪府のHP――《府民の声と府の考え方 公表(詳細)》に体罰を疑う投書が掲載されている。
  
 受付日が2012年5月28日だから、陰山氏が大阪府教育委員に就任してからで、昇進は年度初めの4月からと考えた場合、もしかしたら委員長に昇進してからの投書かも知れない。

 〈詳細情報 件名 府立高校での職員対応について

 府民の声


 府立〇〇高校での出来事です。女性の体育教師は生徒に対し脅しながら授業をします。『3年生にいうたろか!あんたら◇◇部やろ?』と脅しをかけて生徒を押さえつけて授業をするそうです。

 体育の授業は体罰にも思えるほどの内容で、できなければ連帯責任とかこつけ、走らせる、腕立て伏せ等罰をあたえます。

 大阪府の教育はこのような体罰・脅迫をし子育てを支援するのですか?親類の子は通学しなくなりました。

 これが前知事・橋元(ママ)さんの掲げた大阪府の教育ですか?大阪府の教育の現場をもっと調査し公表してください。いくら無償になっても教師がこんな教育態度では意味がありません。

 府の考え方(公表日 2012年7月13日)

 集団行動を通じて生徒は様々なことを学びます。○○高校では社会で求められる規律を学ばせようと全校を挙げて力を注いでいます。今回の件は、授業に遅刻してきた生徒に対して、遅刻は個人だけの問題ではなく、集団全体、今回はクラブ全体に影響することがあると注意喚起するために、ご指摘の内容に類似した発言を行ったものです。

 また、体育授業においてランニングや腕立て伏せ等を行っておりますが、集団行動は全員で行動し、一つのものを完成させるトレーニングとして行っているものであり、指導内容そのものには問題はないと考えております。

 結果的に、会話やことばの表現により誤解を招いたことにつきましては、以後このようなことがないよう、所属長より指導をしております。〉(以上)

 回答にはゴマ化しがある。
 
 投書は「できなければ連帯責任とかこつけ、走らせる、腕立て伏せ等罰をあたえます」と訴えている。対して回答は、「体育授業においてランニングや腕立て伏せ等を行っておりますが、集団行動は全員で行動し、一つのものを完成させるトレーニングとして行っているものであり、指導内容そのものには問題はないと考えております」――

 懲罰を連帯責任で全員に負わす集団行動を一般的な体育授業での集団行動と同じだと見せかけるゴマ化しである。両者は全然別物である。前者はできない生徒に対する懲罰を全員の生徒に等しく負わせる集団行動であって、江戸時代の五人組の制度と何ら変わらない。

 後者は体力向上や技術習得を目的とした体育授業を生徒全員で行なう集団行動であって、懲罰の類とは一切関係ない。前者を後者と同じだとする狡猾な言抜けに過ぎない。

 このような連帯責任形式の懲罰はできる生徒にも懲罰を負担させる不公平が生じせしめる彼らの肉体的苦痛に感じる理不尽によってできない生徒に対する不満、あるいは恨みをプレッシャーとさせる懲罰をも含んでいて、このような肉体的と心理的の二重の懲罰によってできない生徒に言うことを聞かせようとするもので、決して正当な指導とは言えず、過度なものとなれば、できない生徒ばかりか、できる生徒に対しても体罰に相当することになる。

 だが、どの程度走らせたのか、何回腕立て伏せを強制したのか、過度か正常かを判断する調査材料の提示がない。不公平そのものの回答となっている。

 また、投書は「『3年生にいうたろか!あんたら◇◇部やろ?』と脅しをかけて生徒を押さえつけて授業をするそうです」と訴えていることも、3年生という上級生が下級生に対して持っている威圧性を借りて、間接的に下級生である生徒を支配しようと意志した発言であって、3年生と下級生の間に威圧性そのものが存在すること自体が正常な教育空間と言えないし、それを学校教師が利用すること自体も、正常な教育指導とは言えない。

 このことを一切問題とせずに、「授業に遅刻してきた生徒に対して、遅刻は個人だけの問題ではなく、集団全体、今回はクラブ全体に影響することがあると注意喚起するために、ご指摘の内容に類似した発言を行ったものです」とのみ受け止めることのできる感覚は異常としか言いようがない。

 要するに、「集団全体、今回はクラブ全体に影響することがあると注意喚起するために」は3年生の威圧性を借りて、「3年生にいうたろか!あんたら◇◇部やろ?」と威す、あるいは類似した発言を口から発しすことも教育的指導として許されることとして認めたことになる。 

 問題はこの調査が生徒や部活部員全体に対する聞き取り調査を含むかである。報告の書きぶりをみると、体育女性教師の視点からの回答のみで成り立っていて、生徒の視点からの回答がどこにもない。

 これでは桜宮高体罰死問題で、2011年9月に市役所に「体罰を行っている」という情報が寄せられていながら、生徒や部活部員に対する聞き取りは行わず、行なっていると指摘された体育部部活顧問のみの聞き取りで済ませて、本人の否定のみを以ってして体罰はないと判断、結果的に体罰指導を許すことになって高2男子の自殺を招いた調査と同じ構造と言える。

 当然、陰山氏が言っている、「府立学校ではこれまでも体罰防止の指導を徹底してきた」からと言って体罰が存在しない根拠とはならない。

 ということなら、府立高校体罰調査の2月5日の回答を待ち、その報告内容を検証して、体罰指導も勝利至上主義も蔓延していないこと、生徒も保護者も容認する風潮にないことを確かめないうちに橋下市長が府立高体育科の定員増員を要請するのは市長の今までの言動から言って、順序が違うはずだし、言動不一致と言わざるを得ない。

 尤もその時々で発言を変える政治家である。順序が違ったとしても、言動不一致であってもどうって言うことはないのかもしれない。

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アルジェリア武装勢力襲撃事件/邦人死者名公表・非公表、双方共にあるメリット・デメリット

2013-01-24 10:33:55 | Weblog

 テロ襲撃事件日本人犠牲者の氏名公表についての1月21日深夜記者会見。 

 記者「時間をおいて政府から(犠牲者の)氏名を発表することはあるのか」

 菅官房長官「ご家族は大変悲しみ動揺されている。氏名の公表は日揮関係者と相談し、避けていただきたいとのことだったので、政府としては公表しない」(MSN産経)――

 1月22日の記者会見。

 遠藤毅日揮広報・IR部長「政府にもご理解をいただいている。今回生き残って帰ってくるスタッフ、残念ながら死亡して遺体となって帰ってくるスタッフ、それから亡くなった人たちにはご遺族がいる。厳しい体験をした本人、ご遺族への配慮を優先させたい。これ以上ストレスやプレッシャーを与えることは会社として避けなければならない」(MSN産経)――

 要するにマスコミが遺族から近親者、近所にまで殺到して根掘り葉掘り取材するのは迷惑する。特に遺族や近親者の心痛を考えた場合、取材は却って心痛を癒すどころか、傷口を広げかねないと見たということなのだろう。

 マスコミの殺到=迷惑との認識に立った“遺族感情配慮”というわけである。

 だが、いくら非公表の方針でいても、マスコミは大して時間をかけずに氏名を知ることになるだろうと思っていた。パソコンのみならず携帯電話をも端末としたインターネット時代、いかなる情報もインターネットに提供可能な情報提供者となり得るがゆえに、誰もが自ずと社会監視者となっていて、そのうちの誰かが氏名をインターネット上に提供することになるだろうと考えたからだ。

 その情報が正規のマスコミに伝わっていくということもあり得るはずだ。

 人間の動きを監視するのは監視カメラだけではない。人間自身が監視カメラの役目を担って、相互に監視し、監視した情報を社会全体に提供する生活空間となっている。

 ところが1月16日午後2時頃武装勢力襲撃事件発生から3日後の1月19日夜、アルジェリア政府が日本政府に外交ルートを通じて犠牲者の氏名と共に「5人死亡」の情報を伝えていたことが判明。

 だが、日本政府が日本人7人の遺体確認を公表したのはアルジェリア政府伝達の1月19日夜から2日後の1月21日午後10時45分であった。日本政府は情報が錯綜していて、どれが正確な情報か判断できなかったと弁明している。

 日本政府が公表した時点で、マスコミは事の重大さから安否不明者の状態であるよりも氏名を知る必要が生じたはずだ。

 もしアルジェリア政府が日本政府に伝達したことを日本政府が直ちに公表していたなら、日本政府が氏名非公表の方針であったとしても、マスコミはアルジェリア政府に氏名を知るための問い合わせを行っていただろう。

 1月23日、アルジェリアの地元紙が、情報源はアルジェリア政府なのか不明だが、電子版で日本人犠牲者5人の氏名を報道した。

 そして日本のマスコミは地元紙報道からさして時間を置かない翌24日未明に死亡または安否不明扱いで10人の名前を報じている。

 テレビも既に23日午後の時点で犠牲者の人となりを伝えたり、遺族の顔を撮し出して、思いを尋ねたりしている。

 政府と日揮が非公表の方針でも、公表は時間の問題だった。

 尤も政府と日揮はマスコミの取材攻勢で遺族感情が阻害されたとしても、我々が公表したのではない、マスコミが勝手に行ったことだと逃げの手を打つことができる。

 政府も日揮も氏名が知れるのは時間の問題だと承知の上で非公表としたということもあり得る。非公表が役に立たなくなって公的事実と化したとしても、取材と報道に対する一応のブレーキが期待できだろうと。

 但し遺族感情を無視した取材と報道が現実に生じた場合、節度を持った取材と報道をお願いすることで、逆にマスコミを悪者扱い、自分たちを正義の人と世間の目に映すことができる。

 そこまでは考えていなかったとしても、結果的にそういった関係に両者を置くことになるはずだ。
 
 果たして非公表のみが遺族感情に添う方法なのだろうか。

 もし非公表が厳格に守られた場合、遺族感情は守ることができると考えられがちだが、その代償として死者の生き様に関わる情報は遺族や近親者といった狭い世界にとどまることになる。

 遺族や近親者の中にはかく(=このように)世の中に存在したと、その生き様を世間に向かって広く知らしめたいと願っている遺族感情の持ち主も存在するかもしれない。

 故人を見知らぬ多くの人にも同じようにその人となり、かく生きたことを記憶して貰いたい、あるいは偲んで貰いたいと思うケースである。

 マスコミの取材が迷惑なら、取材の対象となった場合の遺族や近親者が直接断れば済む話ではないだろうか。

 要するに公表・非公表、双方共にメリット・デメリットがあるはずで、その上、非公表が役に立たないということなら、政府はデメリット覚悟でメリットに期待して、最初から公表に踏み切るべきではなかったろうか。

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麻生の終末期医療「さっさと死ねるようにして貰う」に見るホンネは言葉に現れ、ゴマ化しは同じ言葉を使う

2013-01-23 09:34:00 | Weblog

 1月21日(2013年)開催、有識者構成・政府「社会保障制度改革国民会議」第3回会合で、麻生副総理兼財務相がマスコミ叩きに遭って懲りたはずの首相時代の度重なる失言を、学習能力がないのか、それとも雀百までの習性が抜けないのか、またぞろ繰返した。

 マスコミ叩きの波紋が広がらなかったのはアルジェリア天然ガス関連施設武装勢力襲撃事件のニュースが世間の注目が集まっていて、その陰に隠れて目立たなくさせたのか、あるいは失言が小さな問題だと見られたのか、それとも他の理由からだろうか。

 だが、決して小さな問題ではないはずだ。ホンネは言葉に現れる。失言から麻生自身のホンネを窺うことができるからだ。

 《麻生氏 終末期医療発言で釈明》NHK NEWS WEB/2013年1月21日 18時1分)

 記事題名が示している終末期医療に関する発言。

 麻生太郎「私は遺書に『さっさと死ぬからその必要はない』と書いてあるが、そういうことをしておかないと死ぬことができない。『いい加減、死にたいな』と思っても、とにかく『生きられるから』といって生かされちゃかなわない。それを政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い。

 さっさと死ねるようにして貰うとか、いろいろ考えないと、この種の話は解決しない」――

 会議の模様がインターネット中継されて一部で発言が報道されたため、麻生太郎は記者会見して釈明に追われることとなった。

 麻生太郎「私の個人的なことを申し上げている。終末期医療のあるべき姿を申し上げたわけではない。いずれにしても、人生の最終段階を穏やかに過ごせるようにすることは、すごく大事なことであって、国民会議でも広く意見交換していく必要がある。

 『国民会議』という公の場で発言したことは、適当でない面もあったと思う。当該部分については、撤回するとともに、議事録から削除するよう申し入れたい」――

 菅官房長官、本人に電話、事実関係確認後の同日午後記者会見。

 菅官房長官「『個人の人生観を会議の場で発言をして誤解を受けてしまい、大変申し訳ない。撤回させていただく』と話していた」――

 要するに麻生太郎の言うように個人的発言だと見做して、問題視しないと言うことなのだろう。

 だが、記事は、〈最後に発言を求められた麻生副総理兼財務大臣は〉云々と書いて、続けて発言を紹介している。会議に於ける最後の発言とは締め括りの発言、会議で出た議論の総括でなければならないはずだ。そこに個人的人生観を混ぜたとしても、総括につながっていく話題となっていなければならない。

 確かに前半部分は極々個人的なことの言及と言える。麻生自身は終末期医療を希望していない。「とにかく『生きられるから』といって生かされちゃかなわない」と延命治療を拒否している。

 但し、「それを政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い」は、例え個人的考えだとしても、ある意味、政府のカネで延命するのは悪だと言っているに等しい。

 政府の立場にある政治家が、いくら個人的感想だからと言って、政府のカネを使った延命を悪だと意味するようなことを言うことができるのだろうか。

 また、政府のカネを使った延命が悪だとすると、一歩間違えると、延命そのものが悪ということに波及しかねない危険性を孕むことになる。

 延命治療を希望するもしないもあくまでも個人の選択の問題であって、政府が強要していい事柄ではない。

 発言の後半は明らかに個人の問題を離れて、「終末期医療のあるべき姿」を述べていて、議論の総括となっている。

 「さっさと死ねるようにして貰うとか、いろいろ考えないと、この種の話は解決しない」云々の「いろいろ考えないと」とは、総括として様々な議論の必要性を説いたもので、必要とする議論の対象の一つに「さっさと死ねるようにして貰うとか」を挙げたということである。

 議論の対象の一つに最初に挙げたということは、主要議題にすべきだとする思いが篭っているはずだ。主要議題とする必要のない問題を最初に挙げるバカはいない。

 麻生太郎に、「俺ならする」と言われたら、困ってしまう。

 要するに「この種の話」(=「終末期医療のあるべき姿」)は「さっさと死ねるようにして貰うとか」(=延命治療停止等)を主要議題の一つにして、色々と議論しないと(=「いろいろ考えないと」)、「解決しない」と、すべての議論を引き取って総括したのである。

 決して個人的な事柄に関わる感想を述べたわけではない。ホンネは言葉に現れる。そしてゴマ化しは同じ言葉を使って行われる。

 橋下徹のかつての体罰容認発言が体罰を生徒指導の手段としていた教師や部活顧問に、同じく体罰を子どもに対する躾(しつ)けの手段としていた親に体罰の正当性を与えるキッカケになっただろうと考えることができるように、麻生太郎の「政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い」という発言は終末医療を希望することの罪悪感を多くの人に与えるキッカケにならないとも限らない。

 尤も政府財政問題の解決になるとばかりに、麻生太郎の望むところかもしれない。

 麻生太郎の同じ発言を扱った「YOMIURI ONLINE」は、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現したと伝えている。

 この蔑みの一言が麻生太郎の終末期医療に関わる全人格をホンネとして現している。病院その他で終末期の医療を受けている患者を「チューブの人間」だと嫌悪している。

 このような人間が副総理兼財務相として安倍政権に関わっている。問題視しないわけにはいかない。

 だが、細野民主党幹事長は麻生発言を小さな問題だと見做したようだ。《民主・細野氏「揚げ足取らず」 麻生発言で》MSN産経/2013.1.22 15:11)

 1月21日記者会見。

 細野「生きようと頑張っている人の意思は尊重すべきだ。その観点からすればどうかと思う。

 揚げ足を取るのは控える。大騒ぎする気はない」

 この程度の解釈で済ますことのできる小さな問題として扱っている。

 「揚げ足を取るのは控える」とは、問題視した場合、揚げ足取りになるということなのだろう。いわば揚げ足取りになる程度の批判しかできないから、「揚げ足を取るのは控える。大騒ぎする気はない」と発言したわけである。

 以上は私自身の解釈である。

 いずれの麻生発言解釈に正当性がよりあるのか分からない。読者に判断を委ねるしかない。細野の解釈に正当性がないということなら、公党の幹事長の職に収まっているのも困りものということになる。

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橋下徹は独り善がりの大バカ者だ/素晴らしくも何ともない桜宮高体育科入試中止決定

2013-01-22 12:14:41 | Weblog



 ――桜宮高体罰自殺問題からの入試中止に代わる問題解決策――

 橋下徹大阪市長の独裁・ゴリ押しが通った。大阪市教育委員会は昨日1月21日、橋下市長が要求したとおりに桜宮高体育科系2科入試の中止を決定した。

 昨日1月21日夜9時からのNHK「ニュースウオッチ」がこの問題のコーナーで、最初に入試中止に対する橋下市長の発言と大阪市教委委員長の発言を伝えてから、バスケットボール部主将をしていた桜宮高2男子が部活顧問から体罰を受けて昨年12月23日に自殺していたことが判明した1月8日の橋下市長発言の発端からを順を追って伝えていた。

 1月21日、入試中止決定後の橋下市長記者会見発言。

 橋下市長「素晴らしい決定をやってくださったと思いますね。これで桜宮高校体育科のあり方も含めて、本気でね、トコトン、再生に向けて改革が始まると思いますね。先ず、第一歩、スタートが切れたと思います」

 長谷川大阪市教委委員長「少し、これは変則的な内容になっていますし、一夜漬けな形になっていますので、私としてはちょっと不本意な感は否めません」

 長谷川氏を含めて教育委員5人の採決で、ただ一人入試中止に反対した。

 高2男子の自殺が判明した1月8日記者会見。

 橋下市長「クラブ活動で、そうやって手を上げるってこともですね、あり得るんです、これは。

 こんだけね、注意をしようが、どんだけ意識をしようが、気をつけようが、手を出してしまうってこともあり得るんですよ。だから、あり得ることを前提にね、対処方法ってものを考えなきゃいけないんですよ」

 1月12日、遺族と面会後の記者会見。

 橋下市長「ちょっと、僕も、ああー、やっぱ自分の考え方は間違っていたかなあっと――」

 1月15日記者会見。

 橋下市長「スポーツ指導の場に於いて、えー、手を上げるということは、これはもう絶対禁止にしようと――」

 体罰容認から体罰否認へと改心の瞬間である。自身の改心だけで終わればいいものを、桜宮高体育科系2科の入試中止を言い出した。

 橋下市長「体育科は生徒を受け入れる態勢になってない。体育科については、あー、入試は、今年度はやめるべきだと――

 体育科を受験をー、しようと思っている、うー、生徒諸君、えー、今回こういう事態になったので、一回、体育科ってところは一回我慢してください。一回、ちょっと僕に預かってください」

 1月16日、市立中学校校長会会長インタビュー。

 市立中学校校長会会長「これから入試に臨む生徒を預ってるね、学校の校長としましては、困惑している」

 1月17日橋下市長記者会見。校長会会長の発言を受けて。

 橋下市長「事の重大さを分かっていない。もう、そういう校長は、もう要りません。大阪市にはね」

 暴君そのものである。

 インターネットの入試中止批判の書き込みを紹介する。(略)

 1月17日(午後?)記者会見。

 橋下市長「生きてたら、チャンスはありますよ、いくらでも。そんなのは。生命があれば。

 一度高校の受験の、ここで、あのー、うまく行かなかったからと言って、人生終わりなのですか」

 これは人生の成功者が言うことのできる言葉である。あとで振り返って、高校受験の失敗が人生のつまずきのスタートだったといったことはザラにあるはずだ。私の場合は生まれた時が人生のつまずきのスタートだったような気がする。

 体罰行使教師だけではなく、運動部顧問全員の異動の必要性を主張。

 橋下市長「(全員異動が)おかしいというということであれば、僕を選挙で落とす、そういう権限を、有権者は持っているわけですから」

 選挙で落としてくれは橋下徹の十八番だが、自分がどれ程乱暴な発言をしているか気づかない。間違っているなら選挙で落とせと言うなら、入試前に入試中止の決定が正しいか否かを争点とした市長選を自分で用意する責任があるはずだ。

 政令指定都市の市長選挙は告示期間が14日間だと言うから、急いで辞任して、再出馬という形式を取れば、間に合う。大阪市民の民意を問う機会を自ら設けないまま、受験生は入試を来月2月に控えていながら、その正誤を問い質してくれと自分から言っている次の市長選挙が2年と11カ月も先だというのでは不公平であるばかりか、論理的にも辻褄が合わない。

 今日1月21日記者会見。

 橋下市長「ボーリョクが恒常的に行われている現場で教員も、生徒も、保護者も、それをよしとしているような状況、これは絶対に教育の現場ではない。(桜宮高で生徒と対話)今日の生徒の声を聞いても、やっぱり僕の方針はカエルに、えー、至りませんでした。僕は入試はやめさせます」

 「入試はやめさせます」の言葉は市教委の判断を入試中止に持っていかせることを意味する。橋下徹の独裁意志が現れた場面であろう。

 民主的ルールに則るとしたら、「私自身の方針はあくまでも入試中止です。後は市教委がどう判断するかです」等の発言が妥当ということになる。

 この後、教育委員会との意見交換会に臨む。

 橋下市長(離れた場所から話している橋下を捉えたといった写りになっていて、低い声でしか聞こえない)「間違っていることは間違っているという精神・・・・」
 
 だが、この言葉は入試敢行は間違っていることで、間違っていることは間違っていると認めなければいけない、そういう精神が必要だと言っているのと同じで、心理的な強要となる。

 橋下市長「後は教育委員会のご決定にお任せする、ま、それしかありませんので、よろしくお願いします」

 椅子から立ち上がって、一礼して、部屋から立ち去る。

 「間違っていることは間違っているという精神・・・・」が功を奏したのか、挙手採決の結果、入試中止反対1、賛成4で決定する。

 入試要項の変更なし――

 ●当初予定の募集人員・通学区域
 ●スポーツ技能重視の教科、配点

 市教委決定後の同日記者会見。

 橋下市長「単なる看板の掛け替えじゃないですよ。体育科として募集しないんですから。

 ですから、受験生には、それぞれの桜宮の体育科として受験されては困ります。これは決定的な違いです。体育科の入試中止というところまで踏み込んで、こういうふうに決定したわけですから。

 それから教育委員会もしっかりと考えてくれると思いますよ」

 入試要項に於ける「スポーツ技能重視の教科、配点」とは、受験生に配慮して、これまでの体育系2科と同じ運動実技も加えた、普通科とは異なる受験科目だとマスコミは伝えている。

 要するにこれまでは体育科として受験してきたことを普通科と名前を替えて受験するだけのことで、体育科入試中止決定という形式が間に介在したのみの違いしかない。

 橋下市長はこの介在を重要視して、「単なる看板の掛け替えじゃないですよ」と表現したのだろう。

 だが、これは橋下市長の側からの見方に過ぎない。受験生の側からしたら、煩わしさの衣を一枚羽織って同じ着地点を遠回りして辿り着く違いしかないはずだ。

 それを看板を掛け替えてやらせようとしている。

 教育委員会が出したメッセージ

 「普通科に変更し、府内全域から募集することにします。普通科ではありますが、豊かな教養と幅広い人間性、他者を慈しむ心を最重視し、その基盤の上に真のスポーツマインドを持った人材を育成するスポーツに特色あるカリキュラムを組みます」――

 能書きだけは素晴らしい。自分たちに育成する能力がないことに気づかない。個人それぞれが本人の自覚に基づいて育成していく能力だからだ。

 このことに気づけば、体罰といった育成に関わる過干渉はなくなる。本人の自主性に任せることになる。

 要は日本の教育自体が暗記教育でコマ切れの知識を詰め込む上からの強要を離れて、児童・生徒の自主性に任せる教育へと変更し得たとき、「豊かな教養と幅広い人間性」にしても、「他者を慈しむ心」にしても、「真のスポーツマインドを持った人材」にしても、自分たちには育成する力はなく、生徒自身が学び取っていく能力だと、自分たちは手助けしかできないということを学ぶことになるだろう。

 上記番組では取り上げていなかったが、入試中止決定を受けた記者会見で、試験合格新入生の教育内容についても発言している。《橋下市長“すばらしい決定”》NHK NEWS WEB/2013年1月21日 22時49分)

 橋下市長「今のカリキュラムの中身を総点検して、新しい理論とか、スポーツマンシップを盛り込んだものを作ってもらいたい。具体的な教育内容は、教育委員会が作るのを待ちたい」

 記者「市長が求めていた高校の教師の総入れ替えはどう考えているのか」

 橋下市長「教育委員会がしっかり考えてくれると思う」――

 丸投げとは無責任な。

 「カリキュラムの中身を総点検」して、「新しい理論とか、スポーツマンシップを盛り込んだもの」に変えるということだけなら、入試中止をしなくてもできることである。中止の理由とはならない。

 それとも入試を中止しなければできないカリキュラムの中身の総点検であり、新しい理論の構築であり、スポーツマンシップ育成の新たな理論構築だというのだろうか。

 矛盾そのものである。そもそも受験生は桜宮高の体罰に関係していないし、男子の自殺に直接的に関わっていたわけではない。

 橋下市長が体罰死を受けて市教委に入試中止を要請するために持ち出した理由は、桜宮高に蔓延(はびこ)ることになっていた、教師のみならず生徒や保護者を含めて感化を受けていたとしている体罰容認の風潮を入試中止によって一旦断ち切ることで、クラブ活動の在り方と保護者や生徒の意識を変える狙いからだとしていた。

 体罰容認の風潮が事実として蔓延しているとしても、断ち切るという点では新入生には関係しないことである。彼らは一旦断ち切るも断ち切らないもない場所に位置している。蔓延が事実なら、断ち切る必要があるのは在校生と教師たちの方であろう。

 とすると、入試中止は「素晴らしい決定」でも何でもない。解決を急がなければならないのは在校生と教師たちに蔓延している、あくまでも事実とするならの話だが、体罰容認の風潮としなければならないはずだ。

 在校生と教師たちに蔓延している体罰容認の風潮を一旦断ち切るにしても、カリキュラムの中身の総点検や、新しい理論の構築、スポーツマンシップ育成の新たな理論構築を行なうことによって可能となる絶縁であって、あるいは可能としなければならない絶縁であって、後は教師たちや生徒の自主性に任せて、絶縁できない教師は辞職、生徒は退部、あるいは退学という手で排除していくしか方法はないはずだ。

 益々入試中止の決定が怪しくなる。独り善がりの大バカ者の決定にしか見えない。

 普通科入学から体育科への編入は裏口入学して表口から卒業するようなものではないだろうか。中には立派な学力をつけて表口から堂々と卒業していく者もいるかもしれない。

 どうも過去の体罰容認から一転して体罰否認はホンモノだと見せかけようとムキになっているようにしか見えない。

 橋下市長は1月15日の記者会見で持ち出した「大阪の恥」を昨日1月21日、在校生に入試中止を説得するために訪れた桜宮高で再び持ち出している。

 1月15日記者会見

 橋下市長「こんなところでそのまま入試をやったら大阪の恥。入試をやめて、生徒、保護者で考えないと学校なんて良くならない」(毎日jp

 1月21日桜宮高で。

 橋下市長「(学校のあるべき方向性が決まる前に)入試を継続するのは大阪の恥」(MSN産経

 (学校のあるべき方向性が決まる前に)は記事自体の注釈であるが、そのまま使うと、(学校のあるべき方向性が決まる前に)、いわば橋下徹が言っているように体罰容認の風潮が蔓延している中で在校生を教育し続ける矛盾はどうするのだろうか。

 とすると、やはり急ぐべきは入試中止ではなく、新しいカリキュラムや新しい理論の構築、スポーツマンシップ育成の新たな理論の構築ということになる。

 実際には新しいカリキュラムや新しい理論だとか、スポーツマンシップ育成の新たな理論だとかは必要ない。体罰を直し、適正な指導へと持って行くには、もっと簡単な方法がある。

 入試を行い、新入生を迎えた時点で、改めて部活顧問に体罰禁止・体罰を用いない指導を誓約させ、部活顧問と部員生徒を役目上は上下関係にあるが、意見を言い合うという点で、いわば人権上、対等な関係にあると規定する。

 部の運営はお互いに知恵を出し合って、それを意見の形に変え、各部員の基礎体力向上、技術面の向上、各練習の時間配分等、強いチームとするための提案を行なう。

 部活顧問が提案して一方的に従わせるのではなく、顧問の提案に対して各部員が意見を言い合い、部員の意見も顧問を交えて議論し、最終的に多数の同意を以って決める。「じゃあ、そうしようか」と。

 練習後、練習試合後、本試合後のミーティングに於いても、部活顧問が一方的に指示を出して従わせるのではなく、部員生徒と対等の立場で意見を言い合い、最終決定する。

 こういった部運営が実行されているかどうか、学校は時折り検証する。実行され、それが継続性を保つことができたとき、練習に向けた生徒の主体性は確立する。

 但し、チーム自体の成績は落ちるかもしれない。だが、主体性を確立した生徒程、持って生まれた運動能力次第で才能は伸びていくはずだ。

 例え持って生まれた運動能力に恵まれていたとしても、主体的に自分から動くのではない、体罰等、他からの強制を動機づけとする行動にスポーツであれ、学校の勉強であれ、優れた才能への向上は望めないはずだ。

 当然、体罰によって勢いをつけたチームは、生徒それぞれが自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度(=主体性)に恃(たの)んだ自力によって成績を成り立たせるわけではないから、全体の力で一時的には好成績を上げるだろうが、勢いがある間は良しとしても、一進一退の状況となって、その状況を打開するために生徒それぞれが考えてプレーしなければならなくなったとき、自分から考えて主体的にプレーする習慣を持たない場合、力は長続きしないことになる。

 いわば体罰を介在させて能力・技術を伸ばそうとする指導は部員それぞれが主体的に伸ばす力を逆に抑えることになる。

 その場その場の成績だけに拘ると、生徒の主体性に任せるより、自分の指導を押し付ける方法が手っ取り早くなって、それが思うように行かないと、体罰や罵声に頼ることになる。

 結果として体罰や罵声が延々と続くことになるのは現実が教えている。

 以上言ったことは、部活動は勝利を目的とするのではなく、人間形成・社会性形成の教育の一環へと目的を変え、勝利はあくまで結果と見做すということである。

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安倍晋三は“人命優先”を言うなら、その意思表示と実用可能性を兼ねて日本人医師を派遣するのが危機管理

2013-01-21 11:09:12 | Weblog

 政府によって派遣された城内外務省政務官が日本時間の1月17日午後9時前アルジェリアの首都に到着し、首都アルジェにある日本大使館に入った。

 軍の許可を得て、アルジェリア国営石油天然会社、ガス公社から提供された航空機で武装勢力に襲撃された天然ガス関連施設のあるイナメナス到着したのは日本時間1月20日午後10時頃。

 その後、天然ガス関連施設で邦人安否確認を行い、さらにその後病院を訪問して、存在するかもしれない邦人の安否確認を行なう予定だという。

 1月21未明の記者会見――

 《【アルジェリア邦人拘束・菅長官会見詳報】「城内氏、安否確認へ病院訪問」》MSN産経/2013.1.21 01:55)(一部抜粋参考引用)

 記者「城内氏は病院を訪問するそうだが、今後の見通しは」

 菅官房長官「ちょっとしばらく時間はかかるだろう。だから、これからその軍事施設の中に入った後だから、かなり時間がかかるかもしれない」

 記者「現地派遣する人員の構成メンバーは」

 菅官房長官「医務官をはじめとするさまざまな政官あげてのメンバーだと理解している」

 記者「たとえば外務省、警察庁、厚労省とかなのか」

 「ありとあらゆる、その安否を確認できる方だと理解を」

 記者「『城内氏の日程はしばらく時間はかかる』というが、現地が夜までの間にできるだけ済ませたいのか。今後、病院などで安否の確認ができた場合、記者会見で逐一、説明するのか」

 菅官房長官「まず先ほど、第1陣として城内政務官以下が参り、現地に着いたわけだが、飛行機の関係で第2弾はまだ着いていないので、そうした人たちが到着した後になる。(現地時間20日)夕方以降になる。現場の状況がわからないので、どうなるかはここで明確にお答えすることは控えさせていただきたい」(以上)

 「医務官」とは外務省在外公館勤務の医療系職員だそうだ。但し現地での一般人診療行為は、その国の医師法違反になるという。

 だが、2010年1月13日発生の死者20万人以上 被災者300万人以上の人的被害を出したM7.0、ハイチ巨大地震の際も、団長1名、医師4名、その他看護師や薬剤師等を2週間程度派遣しているから、アルジェリア政府の特別許可を取りさえすれば、派遣された医務官が邦人の診療を行うのに何の支障もないはずだ。

 医務官が外務省在外公館勤務の医療系職員であるなら、アルジェリアの日本大使館にいるから、なぜ城内政務官と同じ航空機で派遣しなかったのだろう。しかも城内政務官の病院訪問は菅官房長官が医務官等を乗せた第2陣の到着後、現地時間の1月20日夕方以降だと言っている。

 「以降」がどのくらい伸びるか分からない「以降」であろう。

 日本とアルジェリアとの時差は8時間で、日本の方が8時間進んでいるとのことだが、城内政務官がイナメナス入りしたのは現地時間の午後2時頃(日本時間1月20日午後10時頃)、病院訪問の予定時間が「夕方以降」ということなら、4時間から6時間、あるいはそれ以上後ということになる。

 “人命優先”を盛んに叫んでいたことから比較すると、これは危機管理に反した後手の対応ではないだろうか。

 さらに言うなら、“人命優先”を至上命題とするなら、日本からの日本人医師の派遣に限定すべきである。

 先ず第一番に日本国内ではなく、外国の地でイスラム過激武装勢力による邦人人質の情報を受けた時点で、相手が自爆という共倒れを伴った殺害も辞さない過激派であること、アルジェリア政府のように「テロストと交渉せず」の国家危機管理を基本姿勢としていた場合、いくら人命優先を求めたとしても、思い通りに人命優先が常に実現できる保証はなく、人質の生命が危険に曝されることは予見しなければならないだろうということである。

 その上で、邦人人質の情報に応じて直ちに行動に移す日本人医師派遣の国家危機管理に於ける利点の先ず第一点は、派遣を相手政府に伝えることによって日本政府が如何に人質の生命の万が一に備えようとしているか、人命優先の意思表示(=人命優先のメッセージ)になるということである。

 現地在外公館勤務の医務官派遣よりも日本からの日本人医師派遣の方が人命優先の意思表示により強いインパクトを与えることができる。

 例え今回のように襲撃現場入りが直ちにできなかったとしても、現地首都日本大使館に待機させているだけでも、人命優先のメッセージとなり得る。

 また、日本からの日本人医師派遣によって、日本政府は自らの“人命優先”の至上命題により合致させることができる。

 相手国の首相なり大統領なりとの電話会談で、人命を最優先に対応して欲しいと言葉で申し入れるよりも、具体性を持たせた強いメッセージとなるはずである。

 さらに日本からの日本人医師派遣によって、負傷した邦人が存在した場合の治療、あるいは健康状態を診た場合、現地病院のスタッフに日本政府の人命優先のメッセージを直接提示することになり、人命優先のあるべき姿として周囲に対して何らかの影響を与えることも期待できる。

 もし内外のマスコミが報道したなら、あるべき姿は世界に広く伝わることになる。如何なる政府もこうあるべきだとする思いを各国国民の多くが持ったなら、いつの日かその思いが多くの政府を動かす力とならないとは断言できまい。

 これが医務官の派遣であったなら、単に当然だと見られる恐れがある。

 このことは外国の地でこのような事件で負傷した場合の邦人に対しても、例え日本語が通じることで安心したとしても、同じように働く心理であろう。

 逆に日本からの日本人医師派遣によって、日本政府の人命優先はより強く伝わり、負傷が重症になればなる程、事件の衝撃を和らげ、安心感を与えて、精神的な治療薬の役目を果たすことも期待可能となる。

 こう考えてくると、医務官の派遣ですら、後手に回っている安倍政権の“人命優先”に関わる国家危機管理は口先の域を出ていないように見える。

 尤もこの日本からの日本人医師の派遣は個人的な考えでしない。客観的妥当性は多くの人の判断を待つしかない。

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