NHKクローズアップ現代/「言語力」(1)

2009-11-30 12:24:22 | Weblog

 11月25日の水曜日、NHK夜の7時半からの「クローズアップ現代」《“言語力”が危ない~衰える 話す書く力~》を放送していた。

 先ずNHKHPの「クローズアップ現代」の頁を覗いて内容、テーマ、背景等を見てみた。

 テーマは〈今、若者の間で、きちんと説明ができない、文章が書けない、など自分の思いや考えを伝える「言語力」の低下が大きな問題になっている。その実態と解決に向けた道筋を探る。〉というものである。

 出演者は立教大学大学院教授の鳥飼玖美子(63)、 キャスター国谷裕子(52)

 「言語力」とは論理的にモノを考え、表現する力のことだという。その低下が2000年以降進んでいて、国際学力調査"PISA"での成績下落の一因と見られているそうだ。

 進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」、言葉の引き出しが極端に少ない、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている等の事態が相次ぎ、教師たちは危機感を強めているそうで、背景として、センター入試の普及で「書く」「話す」が軽視されたこと、携帯メールの広がりで文章を組み立てる力が育っていないことなどが指摘されているという。

 NHKHPの案内のみで分かることは、「言語力」の低下は2000年以降のことで、それ以前は「言語力」に関して問題はなかった、教師たちはこのことに関して危機感を持っていなかったということが分かる。逆に言葉の引き出しが豊富であった。――


 キャスター国谷裕子(くにや ひろこ)の案内

 「情報が溢れ、変化が非常に激しい時代、学んだ知識がすぐに時代遅れになりかねない。そして予期しない事態、新たな課題に誰もが直面する可能性がある。こうした社会の中で一人一人に問題解決が求められるとき、問われるのが言語力と言われている。言語力と言うと、語学力と思いがちだが、言語力とは外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする力のことを言う
 
 そしてフリップで「言語力」なるものを要約して示していた。

 ●情報を整理する
 ●考えを組み立てる
 ●根拠を示して説明する

 国谷はさらに続けて。

 「欧米各国を中心に学力を測るモノサシとして言語力が最近広く使われているが、日本では言語力が低下し、面接で話ができない、作文が書けないといった事態がおきている」

 ここでも以前は備えていたが、ここに来て低下したという把え方で「言語力」を語っている。

 今月発表された大手企業の採用教育担当573人への「若手社員の問題点」アンケート調査の結果。

 1位 読み書きや考える力   53%
 2位 主体性           51%
 3位 コミュニケーション能力  46%

 国谷「若手社員の問題点として第3位に挙げられたのが、自分の意見をうまく伝えられないなどのコミュニケーション能力の低いこと。1位に報告書が書けないなどの読み書き・考える能力の低下が挙げられている。こうした中でこの秋から教育現場からの要請を受ける形で言語力検定がスタートした」

 そして「言語力が低下している様子」の紹介に移った。
 
 公務員を目指す若者が多く学び、毎年約200人を送り出しているという岩手県盛岡市の上野法律ビジネス専門学校にご登場を願って、自分の考えを整理して伝えられない学生と、その指導に頭を悩ませている様子を伝える。

 先ずは作文の授業――

 自己アピールの課題を出されて一カ月が経過していにも関わらず作文用紙に書き出しの「私は――」以外何も書いてないままとなっている女子生徒。

 女子生徒「努力するっていうことを書きたいのですけど、どういう話の流れにしたらいいか分かんない」

 次に模擬面接会場――

 学生「本日はよろしくお願いします」(両手を体の脇にしっかりとつけ、丁寧に頭を下げる。)

 面接官「ハイ、お願いしまーす。どうぞお座りください」(気軽に応じる。)

 学生、面接官のテーブルの前の椅子に腰掛ける。

 学生「災害や事故現場の最前線に立ち、東京都民の人たちを全力で救助していきたいと思います」

 面接官「あ、そうですか」

 解説「消防官を志望しているこの学生。志望動機は予め用意していたので、スラスラ答えられます。しかし・・・・」

 面接官「今日は岩手県からいらしたんですか?」

 学生(ハキハキと)「はい、そうです」

 面接官「岩手県のどちらですか?」

 学生「盛岡市です」

 面接官「ハイ、そうですか。ここで盛岡市を紹介してください」

 学生、閉じたままの口元に苦笑いめいた表情をみせ、時折目を宙に泳がせて、何も答えることができない。

 解説「想定外の質問をされると、住み慣れた街なのに答えられない」

 学生(インタビューに)「頭の中心にはイメージして浮かんでいたんですけども、それが纏まんなくて、受け答えの方ができませんでした」
 
 作文の場面と模擬面接の二つの場面から容易に想像できる事態はそれぞれの知識、あるいは情報が深く暗記と関わっていることを示している。

 教師の教えを介して教科書の内容に添って暗記した知識、情報なりは既に頭に入っていることだから、ノートなりテストの答案用紙なりに素早く書き込むことができるし、説明を求められてスラスラと喋ることもできるが、そのことに対してどんな紙にも書き写すことができない、説明を求められても言葉にしてなかなか口にすることができないというのはそこに暗記するという作業を欠いていて、自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報だからということであろう。

 上記面接に関して言うと、志望動機は紋切り型の誰もが言っているお手本を暗記していたから、無難に消化できて解決可能となったが、暗記を知識・情報の処理解決策としている限り、暗記という要素を欠いた場合、どう問われても満足に対応できなくなる。

 暗記に頼った知識・情報の処理方法は暗記教育によって培われ、慣らされてきたものであろう。

 暗記教育は教師が与える知識・情報を機械的に受け止め、機械的に頭に暗記させる教育形式だから、生徒それぞれが考えるプロセスを教師から生徒への知識・情報授受の間に置いた時点で暗記教育ではなくなる。いわば考えるプロセスは暗記教育の阻害要件としてのみ存在する。

 言葉を変えて言うと、暗記教育は生徒に考えさせない教育であると言うことができる。

 だから、暗記していなくて、自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報の場合、処理に手こずることになる。

 と言うことなら、言語力の低下は暗記教育が原因となる。だが、時間が過去に遡るにつれ、日本の暗記教育の磁力は強く働いていたのだから、言語力は低下とは逆の方向を指してよさそうなものだが、言語力は低下しているという。暗記教育が原因ではないということなのだろうか。

 上野法律ビジネス専門学校教務部三上博久「まあ、自分の答えたいことは頭にあるんですけども、それをどういうふうに自分で表現したらいいかっていうのを、分からないんで、いわゆる、紋切り型って言うか、その抽象的な言葉の羅列のようなね、面接になってしまう――」

 解説「なぜ自分の考えを整理して論理的に伝えられないのか」

 暗記教育原因説を採ると、暗記教育は生徒に考えさせない教育なのだから、暗記教育が求めなかった能力であったということに過ぎなくなるが、依然として「言語力の低下」という把え方に反することになる。

 椅子に座った母親の前に小学校低学年程度の子どもが立っている。

 解説「子どもは言いたいことを断片的にしか言葉にできません。例えば喉が渇いてジュースが飲みたいときも、その状況や理由を説明せず、ジュースとしか言いません。ここで大切なのは親からの問いかけで始まる会話です。

 言語心理学が専門の大津由紀雄慶応義塾大学教授(言語文化研究所)は子どものときに親と交わした会話の量に注目している」

 子ども「ジュース」

 母親「ジュースがどうしたの?」 

 子ども(目を浮かせて考えるふうにしてから)「飲みたい」

 母親「どうして、え?」

 子ども(少し考えてから)「喉が渇いたから」

 解説「会話で質問に答える経験を重ねることで、10歳頃から子どもに筋道を立てて考えを整理できるようになる。しかし今社会で会話する機会が減ってきている」

 スパーインポーズで、「朝食を1人で食べる中学生  42%(文部省 2005年度)

 解説「中学生の4割が朝ごはんを一人で食べている。多くの若者たちが会話の経験が乏しく、言語力の低下につながっていると大津さんは考えている」

 親が子どもの論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を如何に引き出すかが子どものそういった能力の育成にかかっているということなら、論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を欠いたまま育った子どもは親がそういった能力を引き出す自らの論理的な受け答え能力(=論理的な説明能力)を欠いていたことの反映ということになって、常々子どもの考える力の欠如は親を含めた日本人の大人の考える力の欠如を受けたその反映だと言ってきたことは間違っていないことになる。

 今の子どもは考える力が乏しいという世間の声は自らを省みない、子どもだけに罪を着せる言葉だと言ってきたことも間違ってはいまい。、

 いわば「考える力」と言おうが、「言語力」と言おうが、子どものそういった能力の欠如は常に親の問題であって、子どもの問題ではなくなる。

 それとも単に若者たちの「会話の経験」の乏しさは親子の会話の機会が少ないことが原因で、その結果としてある若者たちの「言語力の低下」であって、親は「言語力」を十分に備えているということなのだろうか。

 だったら、保育園の保育士、幼稚園の教員から始まって小中高の教師が自らの言語力を以ってして親子の「会話の経験」の乏しさを補い、子どもたちの「言語力の低下」に歯止めをかけてよさそうなものだが、果してそうなっているのだろうか。

 大体が「外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする」「言語力」教育を日本の教育はそもそもからして重要不可欠の役目としていたと言うのだろうか。

 もし役目としていたにも関わらず、言語力が低下したということなら、朝食を1人で食べる中学生がふえて親子の会話の経験が乏しくなったことにのみ原因を置くのは学校の責任を放棄するものであろおう。

 大津教授「小さいときの色々な遣り取り、大人や友達との遣り取り、っていうものがないと、すると、あのー、どうやったらば、自分の思いを、うまく伝えられるか、っていう、そういう、まあ、言ってみれば、練習の機会に、恵まれないということになってしまって、色んな情報を集めて、整理して、そして、それを、あの、明確な言葉にすると、いうことが、あー、できなくなってしまう――」

 「小さいときの色々な遣り取り」は大人相手では両親との間、保育士や幼稚園教員との間、小学校低学年では学校教師との間で様々に交わされているはずである。にも関わらず、「色んな情報を集めて整理して、そしてそれを明確な言葉にする」言語力の育みにつながらないとしたら、上出の子どもが親にジュースをねだる場面で子どもの言語力の育成には「親からの問いかけで始まる会話」が大切だとする主張、親が子どもの論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を如何に引き出すかが大切ということと考え併せると、大人の立場にある親以下の大人が一般的に言語力を備えていないから、子どもたちに伝わらない一般性としてある子どもたちの言語力の欠如ということにどうしても行き着く。

 決して“言語力の低下”ではなく、言語力の欠如ではないだろうか。

 「子どもたちに自ら学び、自ら考える力や学び方やものの考え方などを身に付けさせ、よりよく問題を解決する資質や能力などを育むことをねらい」(文部省)とした総合学習」の時間を2000年(平成12年)から段階的に開始しているが、これは自ら課題を見つけて自ら考え、自分で結論を見い出して生きる力とする能力とされたが、課題を見つけるのも結論を見い出すのも、基盤はよりよく「考える」ことによって達成し得る。いわば「考える力」(考える能力)が求められた。

 日本の生徒が「考える力」に不足があるからこそ求められた「考える力」の育みなのは断るまでもない。

 殊更説明するまでもなく、「考え」(=思考)は言葉の駆使によって成り立つ行為であって、「総合学習」が求める「考える力」は論理的に言葉を駆使する能力ということになる。

 また「外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたり」して他者に伝達する能力も論理的な言葉の駆使なくして成り立たない。「外からの情報を整理し・・・・」云々は言語力を説明した言葉なのだから、「言語力」は「総合学習」が言う「考える力」とそっくり重なる。

 名は違えているが昨今学校生徒に求めている「言語力」が「考える力」という名で1990年代末から求められていた。1990年代末には既に「考える力」の不足が言われていた。にも関わらず、「考える力」とそっくり重なる「言語力」の低下が今更の出来事のように番組は言っている。

 要するに小淵恵三から森喜朗へと引き継いだ「教育改革国民会議」が中身は殆んど変えずに安倍晋三の「教育再生会議」へと名前を変えて世に現れたのと同じく、「考える力」が「言語力」と名前を変えただけのことで、その能力不足は今更始まったことではない継続した問題提起であって、古くて新しい問題に過ぎないのではないだろうか。
 
 この見方が正しいとなると、既に指摘した“言語力の低下”ではなく、言語力の欠如だとする把え方は間違っていないことになる。

 このことの証拠を示す新聞記事がある。《多様な学校の実現を》『朝日』/1996.11.19)

 文部省が小・中学校の学習指導要領をほぼ10年ぶりに改定、21世紀の学校の青写真を描く狙いで「総合学習の時間」を設けるとする内容となっている。

 この「総合学習の時間」は1977年の改定で導入された「ゆとりの時間」と89年改定で小学校1、2年生に設けられた「生活科」を発展させたものだが、「ゆとりの時間」の場合は68・69年の改定が内容を詰め込み過ぎ、落ちこぼれ問題を発生させた反省に立って計画されたもので、発表当初は授業が学校の裁量に任されるのは画期的だと持て囃されたものの、自由裁量に反して「何を教えていいのか、示して欲しい」と校長会などから文部省に要望が相次いだため、文部省が「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」等を例示すると、各校の実践が殆んどこの枠内に収まる右へ倣えの従属が全国的に起こったという。

 記事の副題が《「考える力」教師にも》

 要するに学校は生徒たちの「考える力」の不足に危惧を持っていたものの、「総合学習」という名で生徒の「考える力」を植えつける各校自由裁量の授業を文部省から求められはしたが、そのような授業を「考える力」を持ち合わせていなかったのである。

 これは生徒の「考える力」の不足と相互に響き合った学校の「考える力」の不足となっているが、生徒の「考える力」の不足を学んだ学校の「考える力」の不足であったなら立場を逆転させることとなって、そんなはずはないから、学校の不足を反映させた生徒の「考える力」の不足であろう。

 「考える力」が「言語力」と重なる以上、生徒の「言語力」の不足は教師たちばかりか広く日本の大人たちの「言語力」の不足を反映だと当然のこと言うことができる。このことは「言語力」の不足は今に始まった現象ではなく、「考える力」の不足が言われていた1990年代末から存在していたことになり、決して「言語力」の低下ではないということができる。

 いや、1990年代以前から、「考える力」も「言語力」も不足していたのだろう。ただ単に暗記した知識・情報をテストの回答に当てはめていけば済み、「考える力」だ、「言語力」だと騒がれなかっただけのことだったに違いない。

 確実に言えることは、2000年開始の「総合学習」の趣旨に添って学校が生徒に「考える力」を身につけさせることができたなら、今更ながらに学校が生徒の「言語力の低下」だ何だと騒ぐことはなかったろう。ましてや教育現場からの要請を受ける形で言語力検定をスタートさせることもなかった。

 放送内容に戻ろう。

 NHKクローズアップ現代/「言語力」(2)に続く


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NHKクローズアップ現代/「言語力」(2)

2009-11-30 12:18:43 | Weblog

 解説「言語力が衰えている背景として、別の問題を指摘する声もある」

 大阪の私立中高一貫校「清風学園」

 解説「文武両道と知られるこの学校で数年前から国語の授業である問題が浮上。最近入学してくる新入生の中に作文を正しく書けない生徒が目立つようになっている」

 教師(生徒が書いた作文を前にして)「マーカーで色を入れているところが、よくない例ですね」

 作文「僕がこの本を選んだのは、目次です。・・・・」

 解説「本来、この文は『僕がこの本を選んだ理由は、目次を見て面白そうだと思ったからです』などと書くべきだが、説明をする部分が欠落している」

 次の例――

 作文「僕が一番に思ったのは、西洋のクリスマスというのは、僕がクリスマスを特別に考えている方ではないし、日本人のほとんどがそうだと思います」

 解説「論理を練り上げず、言いたいことを思いつくままに並べている」

 暗記教育が論理的思考能力を不必要としたという視点を欠いたまま番組は進む。

 「言語力」云々と言えば体裁はいいが、後から出てくる携帯文化の影響が確かにあるとしても、つまるところ1990年代後半から言われている、実際にはもっと昔から存在していた「考える力」を欠いていることから起きている「論理を練り上げず、言いたいことを思いつくままに並べている」といった状況であろう。
 
 清風学園国語教師橋口文志「話し言葉はね、どんどん文章の中に、こう入り込んでくる傾向が今あるわけです。単語で返事したら、全部気持が通じ合うという、生活世界があって、それとおんなじ感覚で文章を書いても伝わるんじゃないかという考え方があるんですね」

 携帯文化によって言葉がコマ切れの単語化したと言われているが、かつては子どもの語彙不足が盛んに言われていた。携帯文化が語彙不足を加速させた、あるいは語彙不足の上に語彙不足のまま済ませることができる簡単な単語で通じ合わせることができるコミュニケーション手段を手に入れたと言える。

 いわば学校から見たら、最近の傾向ではあっても、生徒の側からしたら前の代から習慣として受け継ぎ、積み重ねてきた歴史がある思考能力・言語能力といったところではないだろうか。

 つまり前々からあるお粗末な言語状況であって、学校は歴史的に放置してきた。そのような放置の上に現在の状況がある。

 解説「話言葉をそのまま文章にする傾向に拍車をかけているのが携帯メールの普及だという専門家もいる」

 大津教授「携帯メ-ルの場合は画面が非常に限られていますよね。そうすると、あの、文を作るときにも非常に短い文章になるし今度は文章、を重ねて文章を作るときにも非常にコマ切れの文を重ねると。じゃあ、文と文の関係はどうなっているのか、というような、そういう本来だったならば、意識的に考えて、書く場合だったら、推敲してやるべきところを端折ってしまう――」

 携帯の文字画面

 「今帰る

 パン
 
 大丈夫」――

 現在、小論文の指導や、論説文を要約する時間を設け、生徒たちの言語力の向上に努めているという清風学園授業風景――

 「考える力」の育成と銘打って「総合学習」の時間を設けながら、「言語力」と通じ合う「考える力」を育むことができなかった前科があるのだから、日常的な教科授業、あるいは日常的な教師や親といった大人たちとの会話で論理的な言葉の遣り取り、論理的な知識・情報の交換を経験しないことには、頭の中に根付く生きた知識――いつでも活用できる知識とはならないだろう。

 コミュニケーションご専門だという立教大学大学院教授の鳥飼玖美子がここで登場。

 国谷「今、就職戦線厳しいですから、面接はホントに一人一人の学生たちにも重要なんですが、想定外のことを聞かれて、ぐっとつまってしまう」

 鳥飼「絶句しましたよねえ。あれとよくあるケースで、あの、ずうっと、黙ってしまうんですけど、私は、あのー、そういうときにはね、目を泳がせていないで、えー、何でもいいから(手振りよろしく)、頭の中のプロセスをね、ええーと、急にそういう質問を受けたので、ちょっと今、戸惑っていますかがー、とか、あの、そういうこと考えたことなかったんですが、そうですね、私の郷里はーとか、何か、少し言葉に出して言いながら、時間稼ぎをして、忙しく頭の中で纏めて、そして、そうですねえ、でも、盛岡と言うのは、と、こういくといいんじゃないかと、アドバイスをしていますけどねえ――」

 「アドバイス」にならないことを言っている。盛岡に住んでいて、「ここで盛岡市を紹介してください」と言われて、「そういうこと考えたことなかったんですが」ということにはないだろうし、そのようには言えもしない。また、「そういうこと考えたことなかった」としても、何らか感じ取っているはずで、言葉によって把握しているだろうから、「そういうこと考えたことなかった」という言い訳も通用しない。何も感じ取らずに生活し、空気を吸っていたということなら、惰性で生きてきたと把えられかねない。

 もし暗記に頼った知識・情報の処理に慣らされていたなら、「時間稼ぎ」といったテクニックは暗記していない、それゆえに自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報の処理には十分には応えてくれないだろう。

 国谷「ホントに企業がコミュニケーション能力を非常に重視するようになった中で、ああ、大事になってきたわけですけれども、多くの大学生の方々とも、その、接していて、言語力の低下というのを、どんなに実感されていらっしゃいますか」

 鳥飼「そうですね。あの、大学生も勿論、ね、あの、企業が心配しているだけあってぇー、なんか話すのが面倒というね、あの、進んで説明するのがなんかかったるいみたいな、それが見られるような不安で、将来、どうなるのかなあという、のがあるんですが、私はもっと心配しているのは、小学生の、時代に常に、例えば、いじめ――っていうのが最近問題になっていますが、ずうっと問題ですけども、最近はちょっと質が変わっていて、その、言葉によるいじめ、それはなぜかと言うと、言葉を使って人間関係を構築するということを子供たちが知らないでいる。だから、思わず傷をつけてしまったり、傷ついてしまったりというね。それはやはり、その、一緒に遊んだり、喧嘩したりしながら、試行錯誤をして、あ、こういうことを言うと、相手は傷つくんだ。自分も傷ついたから、やっぱりこれは人にやっちゃいけない、っていうね、そういう、その、言葉を使って人と人との、関係をつくり上げていくということを、もっと幼稚園とか小学校とかね、家庭は勿論ですけどぉー、そういう場で、このー、実体験を通して、学んでいくということが足りないんじゃないかと思います」

 同時通訳者の草分けの一人と言われている(Wikipedia)そうで、外国人並みに身振りだけは立派だが、大学教授にふさわしい理路整然たる立派な話し方なのだろう。国谷に大学生の言語力の低下をどのように実感しているかと問われて、具体的には何も応えていない。

 また彼女のご説に従うと、「言葉を使って人間関係を構築するということを子供たちが知らない」場合、すべて「いじめ」につながると言うことになる。

 誰もが「言葉を使って人間関係を構築する」。問題は考えた「言葉」となっているかどうかであろう。

 中学生にもなると、パソコンと携帯の使用が一般化して、学校裏サイトや携帯のメールで陰湿な言葉によるいじめが流行っているということだが、「言葉によるいじめ」は昔からあったことで、今に始まった現象ではない。言葉を含めて身体的にも直接的ないじめから、ホームページや携帯といったツールを使った間接的ないじめに時代的に変化したのみで、1994年愛知県西尾市で起きた大河内清輝君いじめ自殺事件を見ても分かるように陰湿さという点では変わらないはずである。いじめ自体が陰湿で悪意ある感情から発している行為だからだ。

 「一緒に遊んだり、喧嘩したりしながら、試行錯誤をして、こういうことを言うと、相手は傷つくんだ。自分も傷ついたから、やっぱりこれは人にやっちゃいけない、っていう、そういう言葉を使って人と人との関係をつくり上げていくということを、もっと幼稚園とか小学校とかね、家庭は勿論ですけど、そういう場で実体験を通して、学んでいく」ことが必要だと言っているが、あるべき理想の姿を言うだけの主張は多くの人間が言っている前々からあるもので、そうはなっていない状況が続いているのだから、役に立たないまま単に必要性、あるいは道理を述べているに過ぎない。教育の専門家でありながら、実効的な解決策を述べているわけではない。

 国谷「そんなに(そんなふうに?)子供たちの小さな社会の中でそれを学ぶ、いい機会ですよね。小学校や――」

 鳥飼「小学校でやらないとぉー、そこが一番大事なところですよね。教科を通して、日常生活の中で、言葉を使って自分をどう表現していきたいとかね、相手に理解してもらい、相手のことを理解しという、その辺が、この、どうもうまくいかないんじゃないかなという気がしますね」

 「どうもうまくいかない」理由が「言葉を使って自分をどう表現して」いくかといったことを考えさせない、テストの点取りにウエイトを置いた暗記教育が学校社会では主流となっているからだという視点がないから、単に道理を述べるだけで終わることになっている。

 国谷「そのー、一つの理由として、その会話が少なくなっているんではないかと、いう分析もありましたけども、例えば、そのー、親が子どもたちの、その言語力を育んでいくために、手助けする方法としての、その問いかけと、いうのがありましたけども、どのようにご覧になりましたか?」

 鳥飼「あのー、あれもいいんですけども、一つ心配なのよね。あれがマニュアル化してしまって、子どもを見ると、ジュース。ジュースどうしたの?ウフフフフ(二人して笑う)。

 (声を大きくして)なぜ?みたいな。いつもそれをやっていると、子どもも厭になりますよね。やっぱりいつも大事なのは、私はその、親自身が言葉の大切さを、本当にあの、こう、我が事のように引受けて、そして言葉を大切に使うという、姿を見せるいうこと。

 もう一つは、やはり、子どもの、その、声を聞く。子どもの話というのはなんかかったるいので、ああ、分かった、分かったとなりがちなんですけども、それを、こう、一歩抑えて、なーに、という、あの、子供の方に話させる。自分が言いたいことを十分に言わせる、という、それがむしろ大事じゃないかなあっていう気がします」

 鳥飼センセイの言っていることができていないことが問題となっているのであって、なぜできないのかを問題とせずに、「それがむしろ大事じゃないかなあっていう気がします」で極楽トンボにも片付けている。

 詩人だ、小説家だといった職業人ではなく、一般人で「言葉を大切に使う」といった意識的行為をする人間は殆んど皆無であろう。親が言語力――論理的な言葉の駆使を備えていたなら、その論理性は子どもに自然と伝わる。親が自分の意に染まないことを子どもがすると、バカっ、いい加減にしろ、といったことしか言えない親の場合、子どももその程度の言葉しか駆使できなくなる。

 「親自身が言葉の大切さを」というふうに時折は親の問題だとするが、全体的には子どもの問題だとして「小学校でやらないとぉー」などと言っている。

 あくまでも親や教師といった大人の言葉の程度を学んで子どもの言葉は存在するはずである。もし子どもが大人の「言語力」――論理的な言葉の駆使を受け継いでいたなら、携帯のメールで 「今帰る  パン  大丈夫」と文字を打ったとしても、携帯のメールに限った「言語力」として使い分けるのではないだろうか。

 大体が日本の親は子どもにああしなさい、こうしなさい、バカ、やめなさいいったふうに自分を権威主義的に上に置いて下に置いた子供に指示・命令し、機械的に従わせる意思伝達を習慣としているから、「子供の方に話させる。自分が言いたいことを十分に言わせる」といった習慣を元々欠いている。

 この上が機械的に下を従わせる権威主義性に覆われた相互の意思伝達構造は暗記教育と同じ構造をなしているから、保育園でも幼稚園でも小中高でも、年齢が上に行くにつれその権威主義性は弱まっていくが、さらに一般社会でも機能している意思伝達の姿であって、このことが原因した「言語力」の元々ない姿――欠如であろう。

 上下関係なく「自分が言いたいことを十分に言わせる」には上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を剥ぐ以外にない。上下の関係から解放することである。

 国谷「どこか、その、日本の社会の中で、言葉というものを軽んじる傾向っていうのはありますか?本来、あの、言葉の意味は――」

 鳥飼(「自分が言いたいことを十分に言わせる」と言った舌の根が乾かないうちに相手の言葉を遮って)「私は何かね、どうも、あの、特に今そうなんでしょうけれども、言葉はスキルだと、皆さん思ってらっしゃるけど――」

 国谷(今度は国谷が相手の言葉を遮ったが、横文字が分からない視聴者のために日本語で説明するための措置だろう)「技術だと――」

 鳥飼「技術。技術ではないんですね、言葉というのは。やっぱり人間そのもの。人間の思想の根幹ですから、その技術論では片付かない。人間をつくっている一番大事なものが思想であり、それをつくっているのが言葉だと、いうことが、少し、認識が浅いのかなあと思います」

 言葉が思想なのは当たり前のこと。言葉が思想を表し、その思想が人間の行動に現れるが、哀しいことに思想も生活上の利害の制約を受ける。

 思想が利害で左右される当てにならないものであっても、問題は言葉に表れる思想の内容であろう。当然言葉が思想次第だとなると、言葉の内容自体が問題となる。

 子どもの言葉は常に親を含めた大人の問題であって、子どもの問題ではないと既に言ってきたが、だとすると、鳥飼が言っているように「人間をつくっている一番大事なものが思想であり、それをつくっているのが言葉だという認識が浅い」ことよりも、子どもの言葉は常に大人の問題だというその「認識の浅さ」を問題とすべきということになる。


 NHKクローズアップ現代/「言語力」(3)に続く


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NHKクローズアップ現代/「言語力」(3)

2009-11-30 12:03:19 | Weblog

 国谷「情報を整理して、、それを論理的に考えて、それを人に伝えるという、この言語力ですけども、どうやって育むことができるのか、今意外なところで新たな試みが行われています」

 解説「来年6月に開催されるワールドカップでベスト4を目指す日本代表。大きな課題の一つとして、サッカー協会が力を入れているのが言語力の育成」

 〈2006年 ワールドカップドイツ大会〉

 解説「予選全敗という結果の前回のワールドカップ。敗因を分析したレポートで指摘されたのは試合中に仲間が自分の考えを伝える能力の不足」――

 と言うよりも、ボールを保持した味方選手や防御に出る相手チーム選手の動きからそれら相手が考えていることを理解して(読み取って)、考えていることに応じた自分の動きをポジションとして与えられている役目に従って取るという理解能力(読み取り能力)をより問題とすべきでように思えるのだが。

 解説「それを克服するには言語力教育に力を入れるべきということになった。めまぐるしく状況が変わるサッカー。野球と違い、監督が指示できることは限られている。自分がどんなプレーをすべきなのかどうして欲しいのか、選手には自分で考え、それを伝える力がより必要とされる。サッカー協会で言語力教育の旗振り役となった田嶋幸三(日本サッカー協会専務理事)は言語力の強化によって選手の意思の疎通だけではなく、プレーの質も上がると考えている」

 「言語力の強化によって選手の意思の疎通だけではなく、プレーの質も上がる」と今更ながらに言わなければならないのは哀しい。「めまぐるしく状況が変わるサッカー」と言っているが、基本パターンがあるはずである。

 田嶋幸三「なぜ自分がドリブルした。自分がドリブルしていけば、すぐシュートが打てるとか、すべてにそれぞれ理由があるはずですよね。その理由を持ちながらプレーするのがサッカーというスポーツだと思います。考えないで、判断しないでプレーしているっていう、そういう習慣をつけてしまうことが一番怖くて、そういうことにならないためにも、しっかりと自分の意思を言葉によって相手に伝えるいうことを意識的にやらせる必要が逆に日本人には必要じゃないかと思っています」

 「考えないで、判断しないでプレーしている」といったことはまず存在しないはずだ。選手としての役目を全然果たさないことになって、チームから排除されることになるだろう。考えや判断が月並みとか浅いとか、的外れで間違っているとかのプレーは存在する。ボールを保持している選手が味方の選手がシュートする絶好の位置に動いてくれないために仕方なくその選手の位置にパスして、その選手がパスを受けてシュートで応じたものの、ふさわしい位置でなかったために相手選手に阻まれたりしてシュートが失敗するといったことはよくある場面であろう。

 解説「言語力強化の舞台となっているサッカー協会が運営する研究施設(JFAアカデミー福島)で3年前から未来の日本代表を目指す中高生を対象に行われている。これは自分の考えを論理立てて説明する訓練」

 (指導:つくば言語技術教育研究所)

 女性指導員「今日は実際に道案内、いうう(ママ)課題を使って、説明します」

 手作りの地図を使う。

 解説「お年寄りが駅から美術館までの逆順をどう説明したら、いいのかを考える」

 生徒が二人で相談し合う。

 「まっすぐ行って出ると、まっ正面に(美術館が)あるから、分かりやすいかもしれないから」

 解説「なぜそのルートを選ぶのか、さらにそれをどう説明すれば、分かりやすいのか、突きつめながら議論していく。どんなことでも自分の考えを簡潔に分かりやすく説明する。そうした訓練を通じて、選手の意識改革が進んでいる」

 一人(インタビューで)「自分はあんまり人に意見を言うタイプじゃなかったんですけど、こっちに来て、自分の意見を人に伝えることができて、自分のサッカーも他人に分かってもらったり、逆に他人のサッカーも自分で分かるようになりました」

 そういう方向を目指す教育が成果として求めている成長に添った非常に模範的な回答となっているが、サッカーの動きには基本パターンがあっても、基本に則りながら相手チームのめまぐるしく動き回る複数のデフェンスを一度に相手にして、その裏をかく動きを瞬間瞬間で判断していかなければならないから、模範的な回答通りにはいかないのではないだろうか。

 言語力を基礎から鍛えて、自分で考える力を養うという取り組みを始めている大阪 堺市浜寺小学校――

 解説「この小学校ではサークルタイムという授業を取り入れた。毎回テーマを決めて自分で意見を発表する。その日、3年2組に与えられたテーマは大きくなるって、どういうことだろう

 ひとクラスをいくつかのグループに分けて、それぞれのグループが教室の床に殆んどが足を立て、その膝に手を置くポーズで直に車座になって(サークルを描いて)座っている。女教師が生徒に挟まれて正座している。

 男の子「筋肉がもりもりになると思います。なぜなら、大きくなったら、背も伸びるし、体重も増えるから」

 「大きくなるって、どういうことだろう」を身体的な成長と把えた意見だが、そういった女教師の解説もなく、意見を言っただけで次の生徒に移っていく。

 女の子「できることが増えていくことだと思います。なぜなら――」

  成長と共に広がっていく活動範囲の広がり、あるいは行動範囲の広がりから把えた意見だが、女教師は解説も、他の生徒に意見を聞くこともしない。

 解説「先に結論を言い、そのあと、『なぜなら』をつけて理由を述べることを子どもたちは教えられている」

 女の子「大きくなるってことは心が成長することだと思います。なぜなら、心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできるからです」

 女教師「スゴーイ。拍手」

 車座になった生徒たちが一斉に手を叩く。

 なぜ「スゴーイ」のかの説明がないばかりか、生徒同士のそれぞれが口にした意見なり、主張なりを取り上げて議論し合うこともない。「スゴーイ」と思わずに聞いている生徒もいるはずで、受け止め方は一様ではないはずだが、「スゴーイ」とする自分の価値判断を生徒に押し付ける権威主義を犯し、拍手させるという機械的な従属的動きを誘導、悪く言うと強要している。

 どこがどのように「スゴーイ」のか説明して生徒に理解させる努力をするか、今の意見をどう思いますかと尋ねて、お互いに議論して一つの意見を掘り下げていき、最終的に生徒それぞれの判断に任せるべきで、教師が説明したり、生徒同士が議論し合うことで求めることになるその時々の判断が考える力――「言語力」を育む要素となるはずだが、そういった手続きを一切含まず、単に言って終わることと価値の押し付けだけが見えるのみである。

 学校全体の「言語力」育成の取り組みとして「サークルタイム」を設けている以上、教師同士で方法の良し悪し、内容や成果を話し合ったり情報交換しているはずだから、その時点での方法は学校が考え得る最善の方法でなければならない。意見の言いぱっなしで議論し合うこともない、教師の価値観を押し付けるのみが現在の最善の方法ということになって、学校の授業が教師が一方的に言うことを生徒に受け止めさせる(暗記させる)方法と重なり、あまり期待できなく見えてくる。

 「大きくなるってことは心が成長すること」だとするのは「大きくなるってこと」を精神的な成長と把えた意見なのは言うまでもないが、厳密に言うと、ここで必要とする「なぜなら」の理由は「大きくなるってこと」をなぜ「心が成長すること」と把えたのか、なぜ精神的な成長と把えたのか、簡単に言うと、なぜそう思ったのか説明であって、それを省いて、自分が描いている成長の姿を説明して理由としている。

 このことは「なぜなら」という言葉を省略をするとよく理解できる。

 「大きくなるってことは心が成長することだと思います。心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできるからです」

 確かに「心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできる」ようになるだろうが、なぜ「大きくなるってことは心が成長すること」になるのかの理由は依然として説明されないままとなる。身体ばかり成長して、「心が成長」しない人間は私を含めてザラにいる。「大きくなるってことは」は必ずしも「心が成長すること」につながらない。なぜ少女は「大きくなるってことは心が成長すること」だと思ったのか、その理由が知りたい。

 「なぜなら、成長するということは身体(からだ)が大きくなっていくだけではなく、心も大きくなっていくから、心が成長するということにしました」が厳密には正解として最も近いのではないだろうか。

 勿論、小学校3年生に論理的一貫性を厳密に求めるのは酷だが、教師が単純に「凄ーい、拍手」と決め付けていい問題ではないはずである。

 解説「友達から出された意見を今度はそれを図に書いて整理する。考え方が似ているものを線でつないで整理し、論理的に考える力を養う」

 (大人に近づく)  (できることがふえる)   (せいちょうする)   (大きくなるって、どんなこと?)とノートに書いたことを丸で囲み、相互に線を引いてつなげる。

 解説「この学校では1年生から『なぜなら』を使う訓練を始め、2年から『考えを整理する手法』を学ぶ。そうして論理的に考える基礎ができたところで、4年生から論述を書く訓練を始める。成長段階に併せて言語訓練を行うことで自分の考えを合理的に書いたり、説明できるようになるという」

 いいこと尽くめの言語力教育となっていて、3年生までに「論理的に考える基礎」を目指すと言っている。初期最終段階の3年生を担当している先の女教師は3年の生徒以上に「論理的に考える基礎」を身につけていて、それを生徒に伝える能力と役目を有するはずだが、「スゴーイ。拍手」が生徒に対して論理的に考えさせ得る「言語力」とはなっていないところを見ると、いいこと尽くめが怪しくなってくる。

 またこのこと以前の問題として、多分特別授業として週に何時間か設けているのだろうが、暗記式思考方法を元々は習慣としているのだから、圧倒的に時間数の多い普段の授業で考えを整理させたり、論理的に考えさせる習慣を身につけさせないことには、かつての「考える力」と同様に授業時間のプラスマイナスに応じ「言語力」にしても確実に身につくというところにまで達しないように思える。

 由良芳子校長「自分の、こう整理をしてぇー(語尾を伸ばした言い方)、えー、纏めて、自分の考えを自分の言葉で語るということに、やはり抵抗が少なくてぇー、考えを述べる力でありますとか、書く力でありますとかね、あの、着実に伸びてきているという実感が、あるんです」

 やはり「言語力」は先ず大人が身につけるべき能力のように思える。

 国谷「先生、今のレポートの中で、その、サッカーの質を高めるためには言語力を強化するっていうのは――」

 鳥飼「びっくりしましたねえ」

 ただビックリされたのでは困る。効果があるのかどうか、あるいは、結果を見たいですねの一言ぐらいあって然るべきだが、ビックリで終わっている。

 国谷「そうですねえ」

 鳥飼「言語力っていうのがね、えー、ああいうことがあるんですねえー」

 国谷「小学校では、結論を言ってから、なぜならば、っていうその訓練をさせていると言ってましたけど、これはどうご覧になりました?」

 鳥飼「あれはいいですね。あの、やはり、自分がこうしたいと、いうことまでは言えるんですけども、それはなぜかという理由を説明するのって、かなり高度な訓練になりますから、あの、それを訓練するというのはいいことですよね。考えますし」
 
 国谷「本当に正解の問いかけですよね」

 鳥飼「ただ難しいのは、日本の場合は子どもたちが、そういう理路整然と、あの、論理・・・・的なね、話をすると、理屈っぽいねえ、この子は――と言うね、そうなり勝ちですよね。(笑う)それをやはり大人の側で気をつけて上げないとぉ、よく言えたねえ、っというねえ、褒めて、あの、欲しいですよねえ」

 ここでも大人の問題だと把えはするが、なぜ大人の問題なのか、どうして大人の問題となっているのか、表面的には解説しているが、深く掘り下げてはいない。権威主義の行動様式から、子どもは大人の言うことを聞くものだ、いわば大人は正しいとしているから、子どもが何か言うと「理屈っぽい」と遮ることになる。

 国谷「あの、日本の、この、色んなその問題を、こうご覧になって、言語力をなさる問題をご覧になってて、一番に言語力を育てていく上で大事なこと、欠けていることって、何だと思いますか?」

 鳥飼「私はやはり、あの、ちょっと申し上げましたけども、小さいうちから、子どもたちが自分の考えを自由に述べるっていう場が、やはり不足しているんではないかと。日本の場合はね。それはその例えば、親とか、教師が子どもと対等な立場でやっぱり人間として、え、まあ、従いながらも、自分の考えを言っている、それの、その聞く耳を持つ、って言うんですねえ、そこで出発点じゃないかと、それがやっぱり十分ではない、全く十分ではない、というふうに思いますねえ」

 鳥飼センセイが言う「子どもたちが自分の考えを自由に述べるっていう場」とは空間的な「場」であろう。そういった「場」で「対等な立場でやっぱり人間として」「自分の考えを自由に述べる」――

 空間的な「場」で「自分の考えを自由に述べる」、「人間として」「対等な立場」を獲得するには親や教師が上の立場から、ああしなさい、こうしなさいと一方的指示・命令する権威主義的上下の関係性(暗記教育もこのような権威主義性で成り立っているのは既に言っている)を溶解して、人間関係の上からも精神的に同等な「場」、あるいは人間関係の上からも精神的に「対等な立場」を確保しなければ、そのような関係は空間的「場に」移行することもないし、当然のこととして、鳥飼センセイが言っているようにはそういった場所で「対等な立場でやっぱり人間として」「自分の考えを自由に述べる」といった大人と子どもの関係は生じることはないだろう。

 いわば何度でも言っているように精神的にも空間的にもそういった場を子どもに与えるかどうかはすべて親や教師といった大人にかかっている大人の問題であって、当然「言語力」が身につくかどうかも親や教師からのその手の能力の伝達を含めて、すべて大人の問題であるということである。

 国谷「学校の現場でも、やはり同じことと言えますか?」

 鳥飼「と思います。やっぱりどうしても、正解を求めてしまうし、まあ、つべこべ言わないで、ま、ちょっと勉強しなさいみたいなね。そうではなくて、間違っていても、自分の考えを言って、それが、こう、聞いてもらえたという、そういう体験から、話す意欲って生まれますからね。やはり若い人たちがなんか、話す意欲が持てないでいるというのは、大人の責任だと思います」

 確かに大人の問題だから、「大人の責任」だが、若い人たちが自分たちからつくり出した「話す意欲が持てない」状況というよりも、親や教師といった上に位置する大人と「対等な立場」で話す機会がないことから生じた「言語力」の欠如が否応もなしに仕向けている、大人たちがつくり出した「話す意欲が持てない」状況でもあろう。

 国谷「自由に話せる場ということでしょうけど、もう既に大人になってしまった人たち(笑いながら――失敬な)っていうのは、あの、これから社会の中で、そういうコミュニケーションを問われるようになったときに、これは、自分の中で変えていく、育成することができるでしょうか?」

 鳥飼「あの、意識することだと思いますね。つまり、何となく、日本って居心地のいい社会ですから、お互い同士、阿吽の呼吸で分かるという、思いがあるんですが、もやは日本の社会では、そうそうは言っていられないと。日本ではね、やはり、色々な、あの、違う人が一緒に暮らしているのだから、分かっているでしょうと、思わないで、分からないと思って、少し、こう、丁寧に説明していく。それ、意識的にやっていく、ことだと思うんですね。

 だから、もはや、もう、日本の社会は、もう21世紀ですから、沈黙は金の――、ままではいられない。もうあの、そんな、そんなことを言ったら、身も蓋もないなんて言ってられなくてー、口程になんてことも言ってられなくて、これはすべて自分の思い、考えは整理して、秩序立てて、相手に分かるように伝える。それが言葉の――、働きですよね」

 21世紀は関係ない。「阿吽の呼吸」で意思を伝達するには相当濃密な人間関係を築いてから可能となるコミュニケーションであって、問題としている「言語力」は濃密・希薄に関係のない人間関係の場面で求められる能力発揮を言っているはずだが、大学教授らしく頓着なく扱っている。

 「沈黙は金」にしてもそれがカチを持つのはケースバイケースであって、「言語力」以上に価値を持つ場合もあるはずである。「これはすべて自分の思い、考えは整理して、秩序立てて、相手に分かるように伝える。それが言葉の――、働きですよね」にしても、どうすれば身につけることができるかの具体的な方法論を述べているのではなく、知識・情報の伝達方法を表面的に解説しているに過ぎない。

 国谷「そして自分が直面した問題に対しても、どうやって解決していけばいいのか、自分の中で考えていく中での、一つの大きなその力になっていくと思って・・・・」

 鳥飼「そうですね。あの、言葉にすることによって、自分の言葉に整理して、コメントしていたものがはっきりしてくるってこともありますよね。それから、なんかこう、反対だから黙ってしまうんじゃなくて、一歩出て、そうしてこう、話し合うことによって折り合いをつけていく。そこからやはり、理解が始まると、思いますので、最初に言葉ありき、ではないでしょうか」

 国谷「まあ、グローバル化する中で、世界と、その、コミュニケーションしていくってこと以前に先ず、この国内でそういう必要が出てきたと、言うことが――」

 鳥飼「日本語という母語で」

 国谷「そうですね。どうもありがとうございました」

 一般的には「日本語という母語で」なのは当たり前じゃないか。



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武勇伝に事欠かない警察官たち

2009-11-29 17:16:34 | Weblog

 最近の警察官は武勇伝が多く、目を見張るばかりである。巨悪犯罪捜査に関わる武勇伝に事欠かないことの反映としてある盗撮、ワイセツ行為、飲酒運転等々の武勇伝の数々なのだろうか。

 11月18日午後9時55分頃、千葉東署地域課巡査長苅田大蔵容疑者(37)が千葉県船橋市内のマンション4階に住む女性巡査(28)方ベランダに侵入する武勇伝をご披露に及んだが、帰宅した女性巡査がベランダの人影に気づき、近くの交番に通報。苅田容疑者は駆けつけた署員に勇ましくも雄々しく催涙スプレーようの物を噴射して逃走、その武勇伝にも関わらず約60メートル離れた路上で敢無く取り押えられ、住居侵入と公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕された。

 苅田容疑者は女性巡査が面識はないにも関わらず、「以前から好意を抱いていて、女性のことが知りたかった」ことから警察官らしくベランダに侵入の武勇伝に及んだと供述。(asahi.com記事から)

 この事件前日の11月17日、神奈川県警刑事部機動捜査隊の巡査部長篠浦直人(34)が午前0時20分頃の真夜中に自宅近くの農業の男性(60)宅に「警察署の者だが」などと名乗って強引に入ろうとして制止した三男の大学生(18)を殴って鼻の骨を折る武勇伝を展開。だが、巡査部長篠浦直人は泥酔状態だったため、武勇伝も空しく敢無く家人に取り押さえられ、折角の武勇伝もそこで頓挫。通報を受けた警察官に現行犯逮捕されている。(asahi.com記事から)

 この事件の前々日の11月15日午後6時45分頃、高松北署地域課弦打(つるうち)駐在所(高松市鶴市町)勤務の巡査部長、白川一夫(58)が公用のオートバイを運転中、高松市春日町の国道11号脇の歩道で同市の病院臨時職員の女性(54)の乗る自転車と接触。転倒して膝の骨を折った女性を警察官からしたら当然の行為なのか、救護せずに立ち去る堂々の武勇伝を披露。武勇伝であるにも関わらず、自動車運転過失傷害と道路交通法違反(ひき逃げ)の疑いで逮捕されている。

 白川某はガソリンスタンドで給油後、国道に出ようと歩道を横切ろうとして自転車に接触。当時私服勤務中で、警察官と分からないだろうと思ったのか、女性に「大したけがではない」などと責任逃れから希望的観測を述べ、駐在所に戻っていたという。(asahi.com記事から)

 逮捕するよりも、武勇伝として表彰の対象となる事件だと思うが、事業仕分けの世相柄、表彰するとなると報奨金で余分に予算がかかるから、取り止めたのかもしれない。

 警視庁南大沢署の巡査長(36)が9月30日夜に東京都小金井市のJR武蔵小金井駅階段で高校2年の女子生徒(17)の後ろからカメラ付き携帯電話をスカート内に差入れ動画撮影する勇気ある武勇伝に及んだが、逆に気づいた女子生徒とその友人らに取り押さえられる武勇伝に出くわし、通報を受けた小金井署が逮捕。

 取調べに「家庭内のストレスを発散するため、昨年10月ごろから月に1、2回やった」武勇伝だと自供したという。

 9月30日の武勇伝なのに、なぜか1カ月半後の11月16日に警視庁は減給処分を発表、巡査長は退職金を頂戴できる温情に与って依願退職。

 警視庁は9月に電車内の痴漢撲滅キャンペーンを実施していて、その後も対策を強化していたが、10月にも対策側の築地署巡査部長が地下鉄内で対策・保護を受ける側の女性のスカートの中を隠し撮りした武勇伝があり、逮捕・書類送検していて、同庁は「誠に遺憾。職員に対する指導教養を一層徹底したい」とコメントしたということだが、先ずは「職員に対する指導教養を一層徹底」することから痴漢撲滅キャンペーンを始めなければならないことを痛感したということなのだろう。(47NEWS記事から)

 このことが徹底されたなら、警察官の痴漢武勇伝にお目にかかれなくなって淋しい限りとなる。

 このほかに痴漢、盗撮、未成年と知りながらの買春、暴行、飲酒運転、誤認逮捕等々、警察官の頼もしい限りの武勇伝を挙げたらキリがない。警察官武勇伝ベストテンをつくったら、バラエティ番組顔負け、且つ正々堂々の面白いベストテンを披露できると思うのだが、どんなものだろうか。


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道路欲しいなら民主党を応援してからと自民の開かれた党大会のハコモノ思想

2009-11-28 10:37:48 | Weblog
 26日の「asahi.com」記事――《道路ほしいなら「民主応援を」副幹事長、陳情の知事らに》

 全国高速道路建設協議会(会長・横内正明山梨県知事)の知事たちが25日に民主党幹事長室に道路建設の陳情に訪問。応対に出たのが民主党吉田治副幹事長。「asahi.com」記事には出ていないが、ほかに生方幸夫、阿久津幸彦の両副幹事長も応対側に加わっていたことが「山形新聞」インターネット記事で知ることができる。

 吉田治副幹事長は地元で要望を受けた際、次のように発言して応対したことを知事たちに紹介したそうだ。

 「それを言うんだったら民主党を応援してから言ってこい」

 この発言から誰もが窺うことができるのは陳情者は選挙で対立候補を応援していた。だが、対立候補が当選・落選に関係なく、民主党が政権を握ったために陳情相手を仕方なく民主党に変えなければならなかった。対して吉田治副幹事長は応援もしていないのに陳情に来るな、来るなら、応援してから来いと応対したということだろう。

 陳情にはそういった経緯が必要だと暗に示したということである。

 ここには見返り要求の意志の介在がある。見返り要求の論理に立った発言の体裁となっている。

 地元でそういう応対をしたことを紹介した上で、見返り要求の論理に則って次の発言へとつなげたのだろう。

 「政府与党はどこか、皆さんもよく理解して欲しい」

 「皆さん方はこれだけのお願いをしてこられた。私どもが受け止めてしっかりやることは、皆さん方も私たちに地域で、どうしっかりして下さるのかということだ」 ――

 「政府与党は民主党なのだから、自民党支持はやめて、民主党支持に変えなさい」と翻訳するとそういうことになる。

 出席した知事の反応。

 「びっくりした。自民党時代はあんなこと言われなかった」――

 「自民党時代はあんなこと言われなかった」のは極々当たり前のことで、そんなことを言うようでは客観的認識能力ゼロの頭の悪さだと言われても仕方がない。

 自民党政権時代は道路建設を頼む方と頼まれる方が歴史の積み重ねを受けて殆んどが政治的・経済的に強固な不義密通の切っても切れない懇(ねんご)ろな関係にまで達していた。勿論、その悪質な相互性は道路陳情とその見返りの選挙の票や政治献金を構造としていた。

 いわばお願いする(陳情する)こと自体が見返りの選挙の票や政治献金を暗黙裡に背景としていたから、陳情を受ける側から言うと見返りの選挙の票や政治献金が自動的に約束されていたから、ことさら口に出して応援しろと言わなくても阿吽の呼吸で事が進んだ。

 だが、民主党政権となってからは歴史がまだ浅いために陳情と陳情に対する見返りの選挙の票や政治献金を構造とした陳情する側と陳情を受ける側の相互性が確立していないために、「民主党を応援してから言ってこい」という発言となった。

 つまりは陳情には見返りの選挙の票、政治献金等を構造とした相互性の歴史(=相互利益構造の歴史)をこれから築いていこうというサインなのだろう。

 いずれにしても吉田治副幹事長自身は気づいていないとしても、限りなく自民党体質に近づこうとする意志を働かせていると言える。

 日本の将来のためには結構毛だらけ、猫灰だらけではないか。

 自民党が来年1月の党大会を一般の党員が参加する討論会の開催や党本部を党員に開放することを検討して、「開かれた党大会」とし、党再生の一環とする方針だと25日の「NHK」インターネット記事――《自民 開かれた党大会を目指す》が伝えている。

 野党になったことだから、党大会の趣向を変えるべきだという意見が出て、党大会での一般党員参加の討論会の開催や党本部を党員に開放といった方針に出たということらしい。

 自民党は安倍政権も福田政権も麻生政権も自民党は開かれた党だと機会あるごとに喧伝し、それを旗印としてきた。開かれた政党だとすることで、民主党は開かれていない政党だと背中合わせに対比させた、あるいは匂わせた喧伝であり、旗印だった。ある意味追い詰められていたからだろう。

 2008年8月にまだ自民党幹事長だった麻生太郎が江田五月参議院議長を表敬訪問、「ドイツはナチスに『一度やらせてみよう』ということで政権を与えてしまった」(msn産経)と、「一度やらせてみよう」で民主党に政権を任せたなら、ナチスドイツみたいになりかねないという文脈の発言を披露したのも、自民党は開かれた政党、民主党は開かれていない政党だとする延長線上の発言だったに違いない。

 「msn産経」は江田五月参院議長の応答を伝えている。

 「国民はどっちがナチスと思っているのか分かりませんよ」

 前原誠司の途中辞任を受けた2006年4月代表選で民主党代表に選出された小沢一郎が9月の民主党代表選で無投票で再選されたときは、代表選挙を行わないのは密室で決定で、開かれていない証拠だと自民党は騒いだが、自民党にしても2000年4月、総理大臣だった小淵恵三が脳梗塞で入院、後継候補を森喜朗としたのは森喜朗本人を含めた青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香のいわゆる5人組の密室の談合による決定だと言われているが、自民党両院議員総会にかけたものの総裁選挙は行っていないのだから、「開かれた党」は口幅ったい言い分でしかない。

 “密室談合”と言うことなら、独裁政治そのもので、江田五月が言っているようにどっちがナチスか分からなくなる。

 党大会という舞台で討論会を開いて一般党員に好きに喋らせる。党本部という舞台を開放して一般党員にす好きに動き回らせる。だが実際に自由自在な言動が展開される保証があるのだろうか。お釈迦様の手のひらの中だけの自由を与えられた孫悟空のように派閥領袖や派閥幹部といった党の有力者の暗黙の圧力を受けて、彼らの意向の範囲内の自由自在に限定されるなら、党大会での討論会も党本部の開放も実質的な中身を伴わない単なるハコモノの措置でしかない。

 外側の形式だけを立派に見せるハコモノということだろう。

 河野太郎は9月の自民党総裁選で森喜朗ら派閥の領袖の引退を迫った。従来どおりに陰に控えさせて裏で政治を操るのを許したなら、自由民主党は生まれ変わることはできないと信念したからだ。

 「この国の将来を考え、新しい党のリーダーを選ぼうとしている。にもかかわらず、私利私欲、自分の既得権を温存するために動いている人間が党内にいるのははなはだ遺憾だ。

 全く新しい政党を一からつくり直す。キーワードは二つ。一つはリーダーシップの世代交代だ。いつまでも古い政治のやり方を引きずっている人間が党を牛耳っていることに対する怒りが衆院選の結果だ。もう一つは党をむしばんできた派閥政治からの脱却だ。プライベートな人間の集まりが党人事、候補者選定に介入した。党の公式機関でない人の集まりが関与することはないことを明確にしたい」(時事ドットコム

 「腐ったリンゴを樽(たる)に戻せば樽の中は全部腐る」(asahi.com

 有力派閥が力を持ち、有力派閥の領袖、あるいは陰の領袖や派閥幹部が本質のところで人事を支配し、政治を決定する権威主義的な派閥力学の排除を実質的な中身としてこそ、いわばエセお釈迦様たちを排除してこそ、あるいは「腐ったリンゴを樽」の外に捨ててこそ、党員は勿論、党所属の議員も自由自在な言動を獲ち得て、開かれた党大会とすることも開かれた政党とすることも可能となって、これまではハコモノでしかなかった“開かれた政党”がハコモノから脱却可能となるということではないだろうか。

 参考引用 
 《道路ほしいなら「民主応援を」副幹事長、陳情の知事らに》(asahi.com/2009年11月26日5時45分)

 「政府与党はどこか、皆さんもよく理解して欲しい」
 民主党幹事長室に25日、陳情に訪れた全国高速道路建設協議会(会長・横内正明山梨県知事)の知事らに、吉田治副幹事長が見返りに民主党議員への選挙協力を求めた。

 吉田氏は地元で要望を受けた際、「それを言うんだったら民主党を応援してから言ってこい」と発言したことを紹介。さらに口々に道路建設を要求する知事らに対して「皆さん方はこれだけのお願いをしてこられた。私どもが受け止めてしっかりやることは、皆さん方も私たちに地域で、どうしっかりして下さるのかということだ」と述べた。

 出席した知事の一人は「びっくりした。自民党時代はあんなこと言われなかった」。

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事業仕分け/予算圧縮は官僚のコスト意識の観点からムダの存在を絶対前提とすべし

2009-11-27 12:35:35 | Weblog

 10月20日(09年)の当ブログ――《概算要求95兆円から3兆円圧縮への査定は少な過ぎないか》で、国の地方向けの補助金が殆んどの地方自治体で不正流用ができるムダを含ませている補助金算定(とその監視)の杜撰さ等を例に挙げて、民主党の概算要求額95兆380億円の各事業に於ける予算算定にしてもマニフェストに掲げた政策以外は官僚主導で行われただろうから、麻生政権09年度14兆7千億補正予算からムダ遣いや優先順位を洗い出してその約20%に相当する2兆9259億円を取り除くことができたなら、概算要求額95兆380億円にしても20%は不要(=ムダ遣い)・不急(=非優先)の目安の基準とすることができるのではないかといったことを書いた。

 また一律20%削減の根拠に、以前建設談合が大手を振って罷り通っていた時代に元請会社が下請に仕事を丸投げする場合、2割から2割5分の相場でハネ、その下請がさらに孫請に丸投げする場合、2割前後をハネるのが慣例となっていることを挙げて、そこに4割から4割5分のムダがあるということだから、その半分としても一律20%削減は無理な数字ではないといったことを挙げた。

 自民党参院議員の脇雅史が11月6日の参院予算委員会で質問に立って公共工事削減の煽りを受けて中小建設会社がバタバタ倒産している、建設業は悲惨な状況に追いやられている、日本の公共事業は高コストと言っているが、労働者の賃金は最悪だ、必要な公共工事は進めるべきだと、どういった公共工事が必要なのか理由は言わずにしつこく迫ったのに対して、前原国土交通相が倒産は由々しい状況だがと言いつつ、高コストと底辺の労働者の最悪だという賃金に関して一つの例を挙げている。

 「沖縄の公共事業の、じゃあ、地元にいくら、何パーセントのおカネが落ちているかということを調べてみました。そしたらですね、沖縄の公共事業の51%しか落ちていないんですね。

 つまりは49%は本土に引き上げられているということ」

 実際に肉体労働するのは最も下に位置する会社の土木作業員だから、約半分以下の工事費の中から人件費を捻り出すということになれば、当然最悪賃金となることを示唆していた。

 そしてそういったことに改善の余地はあるが、全体的には日本が置かれている巨額の財政赤字を前にした制約要因を考えると新たな公共投資というものはなかなか難しい状況になっているという考えを示していた。

 前原国交相が言っているように沖縄の公共事業の例を挙げて、地元の落ちるのは51%、本土に49%引き上げられる(吸い上げられる)ということなら、沖縄の公共事業に限ったことではないだろうから、丸投げする場合、最初は2割から2割5分、次に2割前後と段階的にハネられ、全体で4割から4割5分上に吸い上げられるという噂はかなり根拠のある事実ということになる。

 また高速道建設にしても空港建設にしても、計画当初の殆んどの需要予測が実際の需要を下回るといった事態も、事業計画能力と予算算定能力に欠陥があることの証明であろう。

 要するに官僚はムダを作り出す能力には長けているが、ムダをなくす能力に見るべき点はないということである。当然コスト意識を欠いていることになる。

 さらに25日(09年11月)のブログ、《JICA出身山本一太の言う「納得させる説明能力」》で、仕分け人の追及に省庁側が満足に答えることができない事態は事業計画とその予算付け自体が杜撰でムダだらけだから、どのような雄弁な説明も獲ち取ることができないのだといったことを書いた。

 多くの事業が、あるいは殆んどと言っていい事業が計画自体が不満足な形となっていて、予算算定も放漫な計算となっているということであろう。これを言い直すと、事業も予算もムダがあるということである。

 これは明らかにコスト意識の欠如が出発点となっている事業と予算のムダではないだろうか。コスト意識が厳しいまでにしっかりしていたなら、ムダな事業を計画したり、あるいは計画した事業の中にムダな部分を生じさせるようなことはしないだろうし、当然予算算定も隙のないしっかりとした計算を成り立たせるはずだからである。

 官僚のコスト意識のなさはブログにも書いているが、随意契約や競争入札を装った限りなく随意契約に近い一社応札、天下りが多くいる公益法人等には補助金を多く配分する、仕事を沢山回して契約を多くする等の便宜を図っていることからも十分に窺うことができる。

 いわば、すべての事業と予算に対してムダを絶対前提としてかかる必要があるということである。前者のブログで民主党政権の概算要求額95兆380億円から約20%を取り除くとしたら、19兆076億円圧縮できて、76兆304億円と下げることができる、その半分の10%をムダと看做しても、9.5兆円削減できるのではないかと書いた。

 そして例え必要とする事業であっても、すべての事業の予算を強制的に一律的に1割カットといったふうに設定して、その少ない予算の中で遣り繰り算段させ、そこを出発点として予算算定能力を高め、官僚のムダ遣いを正していく道筋として、コスト意識を高めていくべきではないかといったことを書いた。

 スパコン予算を復活させるとしても、同じくムダの存在を前提としてやはり1割はカットすべきだろう。その他の科学予算も同様の扱いとするのは当然である。

 勿論事業仕分けは行って、所管官庁が事業を委託した天下り公益法人がさらに下の法人や企業に丸投げして何も仕事をせずに高額の報酬だけを受け取る、あるいは公益法人経営の赤字経営のイベント施設や駐車場経営といったムダそのものに当たる非生産的な形態を炙り出して、現在行っているようにそういった法人や施設は廃止の方向に持っていったり、報酬の取り過ぎといったことは是正させ、最初に一律1割切った上にさらに予算を削るといったことはしなくてはならないのは断るまでもない。


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カネをかけるべきは科学予算か社会制度か

2009-11-26 11:06:05 | Weblog

 今話題の事業仕分けでスパコン開発を初め、各科学技術関係の予算が削減、あるいは廃止の判定が下されたのを受けて科学者たちが猛反撃に出た。

 先ずどのような予算が事業仕分けの俎上にのぼったかを《13日の仕分け結果の詳報》(47NEWS/2009/11/13 22:31 【共同通信】)記事から関連箇所を抜粋してみた。

 

 ▽文部科学省
 【理化学研究所(1)次世代スーパーコンピューティング技術の推進】世界最高速の計算性能を持つスパコンを神戸市に整備することを目指し、10年度は267億円を要求

 仕分け人は「1位でなければ駄目なのか」「国民生活にどう役立つのかが分かりにくい」などと指摘。今年5月に一部メーカーが撤退しシステムを大幅に変更したことへの疑問や責任を問う意見が続出。「一度立ち止まって戦略を練り直すべきだ」との声が上がった。判定「(予算計上の)限りなく見送りに近い削減」だった。

 【理化学研究所(2)大型放射光施設SPring―8など】兵庫県内に設置された、強力な電磁波(放射光)を用いて物質の構造を詳しく解析できるSPring―8という施設の運転や維持管理に文科省が108億円を要求

 「需要や相場を考え、精緻に費用分析するべきだ」「(施設を利用する)企業の売り上げに応じて費用負担を求めるなど(収益を上げる)努力を」との意見があり、判定は「3分の1以上の削減」。遺伝子を調べて植物の機能を活用する植物科学研究事業(要求額12億円)と、マウスなどの生命科学の研究材料を収集・提供するバイオリソース事業(同31億円)は、ともに「3分の1程度削減」を求めた

 【海洋研究開発機構】「深海地球ドリリング計画推進」(要求額107億円)は、地球深部探査船「ちきゅう」で東南海地震震源域の和歌山県沖・熊野灘の海底を約6千メートル掘り、巨大地震が起きる環境を調べる。

 仕分け人からは「国際共同研究なのに日本の負担が大きくないか」などの意見があり、判定は「予算要求の1割~2割の削減」となった。地震や火山の原因に迫る観測などの「地球内部ダイナミクス研究」(同12億円)の判定「少なくとも来年度の予算の計上は見送り」または「予算要求の半額削減」の両論併記。

 【競争的資金(先端研究)】国などが課題を募り、審査で採択された研究に資金を配分する制度で、6事業で計1228億円を概算要求。

 財務省の査定担当者は「1人で10種類以上の資金を受けている研究者もいる」と指摘。「制度をシンプル化し、削減するべきだ」と判定

 【競争的資金(若手研究育成)】博士課程修了者らに経済的不安を感じさせず研究に専念させることなどを狙った特別研究員事業(要求170億円)

 「雇用対策の色合いが強い」「民間に資金を出してもらえないか」との意見が相次ぎ、予算削減となった。若手研究者養成のための科学技術振興調整費(同125億円)と科学研究費補助金(同330億円)削減との結論。

 【競争的資金(外国人研究者招聘)】ノーベル賞級の学者から若手まで多くの外国人研究者を招き、人材育成や国際化を図る資金で、141億円を要求。

 「2週間程度しか滞在しない人もおり、研究(資金)ではなく交流資金でやるべきだ」などの意見が相次ぎ、削減と判定された。

 【地域科学技術振興・産学官連携】地域の大学や産業界の特色を生かして科学技術を振興し、日本全体の研究のすそ野を広げる狙いで、数種類の事業やプログラムを用意。概算要求は総計268億円

 仕分け人は「これまでも多額の国費を投入してきたが、地方に人、物、金はどれだけ増えたのか」「地方に自主的にしてもらった方がいいのではないか」などと述べた。判定は「廃止」

 【科学技術振興機構】理科支援員等配置事業は、子どもの理科離れを改善するため、小学5、6年生の一部授業に、研究者や大学院生などを理科支援員や特別講師として派遣。来年度に5500校分、22億円を要求したが、

 仕分け人は「すべての子どもに平等に機会が与えられるべきだ」「理科専門の教員を採用できるような抜本的な改革が先だ」などと指摘し「廃止」と判定。東京・お台場の「日本科学未来館」(要求額22億円)は、館長で元宇宙飛行士の毛利衛さんが来館者増などをアピール。仕分け人は、運営体制の整理を求め、判定は「削減」とした。(以上引用)

 対して科学者側の反撃。

 野依良治(理化学研究所理事長・ノーベル賞受賞者/25日午前の自民党本部での会合で)

 「科学をコストでとらえるのはあまりに不見識」

 「先進各国がオリンピックと同じように国の威信をかけてスパコンの開発にしのぎを削っている。いったん凍結すれば瞬く間に他国に追い抜かれる」

 「凍結を主張する方々は、将来、歴史という法廷に立つ覚悟ができているのか」

 「科学技術は我が国の生命線。短期的な費用対効果ではなく、将来への投資と考えるべきだ」

 (自民党議員の質問)「科学にムダはつきものか?」

 「うまく行かないこともたくさんあるが、先進国の平均寿命も、科学技術がなければこんなに延びなかった」

  (以上《科学技術予算削減 待った…ノーベル賞・野依さん「我が国の生命線」》(2009年11月25日YOMIURI ONLINE

 「先進国の平均寿命も、科学技術がなければこんなに延びなかった」と言っているが、このことが事実だとしても、寿命の延びに貢献した科学技術が寿命の延びが原因の一つともなっている高齢化社会の加速に対する抑制――バランスのよい人口構成――にまで貢献していないことの事実は、例え医学が難産で生まれてくる赤ん坊の命を沢山救って人口増にいくらか貢献したとしても、差引きマイナスの現実が証明している。

 勿論高齢化は科学の課題ではなく、政治の課題だと言うだろうが、それを正当付けるためには科学技術が社会のすべの問題を解決するわけではないという事実も正当性あるものと認めなければならない。

 また、生まれながらに難病を抱えて医学の助けを借りなければ生き延び得ない生命(いのち)といったケースは除いて、当たり前に生きてきた人間に関して言うと、医学で寿命を延ばして懸命に生きる生命(いのち)を基本とするよりも、素(す)のまま懸命に生きる生命(いのち)の方がより貴重だということを基本の生き方とすべきだと思うが、そうではないだろうか。

 カネが大いなる解決力を持っていても、カネがすべてではないと同様に科学が大いなる力を持っていても、社会のすべてを解決する力を有しているわけではないということなら、科学技術開発に国の予算に頼る場合、必要として付けただけ寄こせと聖域化してはならないはずだ。赤字国債や税収を含めた国の財源とのバランスも視野に入れて要求しないことには、バランスの良い社会の発展は望めない。

 いわば国の財源や経済動向をも睨んで「コストでとらえる」姿勢も必要となる。「科学をコストでとらえるのはあまりに不見識」と一刀両断するのは科学だけのことを考えた利己主義と言われても仕方がないのではないのか。

 日本人の思考自体が道路を造った、橋を造った、発電所を造った、東京タワーを造った、新幹線を造ったといった造形を尊ぶモノづくり思考(ハコモノ思考)に出来上がっているから、ハコモノ系インフラが頭でっかちの日本の社会となっていて、このことと連動して車やコンピューターといった同じくハコモノ系の科学技術が頭でっかちに発達した日本の社会の姿となっているが、科学技術の発達によって日本の平均寿命が男女合わせて世界一になれたとしても、その一方で医師不足、救急医療体制の不備が解決を見ぬまま存在し、救急患者がたらい回しされて治療を受けずに命を落とすケースが跡を絶たない。

 このアンバランスこそが問題ではないだろうか。 

 科学が社会のすべての問題を解決する力を有しているわけではないと言った。この事実からすると、「科学技術は我が国の生命線」は大袈裟に過ぎる。ある国が自動車産業を持たず、すべての車を外国からの輸入に頼って国内を走らせ交通手段としたとしても、優れた社会制度が整っていて、国民が精神的に余裕を持った、当然経済的にもそれなりに豊かな生活を送ることができたなら、その国にとっての生命線は整備された社会制度ということになる。

 逆に優れた自動車産業を抱えていて、自国産自動車を多くの外国に輸出し、世界的シェアが高くても、その国の社会制度が不備だらけで、国民が精神的に余裕を持てない、当然経済的にも豊かとは言えない生活を送ることしかできなかったなら、自動車産業はどれ程の意味が生じるだろうか。

 日本のように科学技術が発達していないように見えるデンマークとスウェーデンの相対的貧困率は5・3%と低く、科学技術が世界的に高い日本の相対的貧困率はOECDの03年のデータで加盟30カ国の中で4番目に高い堂々の14・9%に位置している。

 厚労省が発表した06年時点の日本の相対的貧困率は15.7%である。

 科学技術が発達した日本に於いて精神的にも経済的にも豊かな生活を送ることができない層が先進30カ国中、4番目に多く占めている。これは日本の高度な科学を以てしても解決できていない問題であることを示している。

 言葉を変えて言うと、日本の科学は社会を豊かにし、国民の生活を経済的にも精神的にも充実させる十分なツールとはなり得ていないということであろう。勿論、科学のみで解決できる問題ではなく、政治が絡んでこなければならない問題でもあるからだ。

 となると、ノーベル賞受賞者野依良治が言うように「先進各国がオリンピックと同じように国の威信をかけてスパコンの開発にしのぎを削っている。いったん凍結すれば瞬く間に他国に追い抜かれ」たとしても、それ程の問題ではなくなる。

 「科学技術の頭脳に当たる部分なのに、海外から購入すればいいというのはその国に隷属すること」(《「見識欠いている」ノーベル賞受賞者が“仕分け”批判》スポニチ/ 2009年11月25日 11:00)とも言っているが、「海外から購入」してもいいことで、そうしたからといって、問題は社会の向上に如何に役立てるかであって、「その国に隷属すること」にはならない。

 日本はパソコンの基本ソフトの大方をウインドウズの技術に頼っているが、だからと言って、日本はアメリカに「隷属すること」になっているだろうか。

 「費用対効果」から言っても、スパコンに国のカネをかけるよりも、社会制度の整備にカネをかけて制度の向上に「費用対効果」を見い出すべきということにならないだろうか。

 「将来への投資」という観点から見ても、これ程までにも世界的に見て高度に発達した日本の科学技術が社会の矛盾まで解決する力を有していないのだから、社会的矛盾の改善に国のカネをより多く予算付ける方が「将来への投資」となるに違いない。

 そういった方向性こそがより正しい選択であるなら、「凍結を主張する方々は、将来、歴史という法廷に立つ覚悟ができているのか」の批判はそっくりそのまま科学者に向けなければならない言葉となる。

 25日付の「日経ネット」記事――《野依・理研理事長、科学振興の凍結・縮減は「不見識」》は野依良治氏の次の発言を伝えている

 「科学技術は国際水準であればいいのではなく、世界をしのぐ水準が必要だ。危機意識の希薄を憂慮する」

 世界水準を求めることに何ら不都合はないが、すべての国の科学技術が「世界をしのぐ水準」にあるわけではない。高い科学技術を備えた国が相対的に経済的に豊かな国となっているだろうが、その経済の豊かさがその国の国民すべてにより公平に再配分されなかったなら、その豊かさはかなりの価値を損なう。

 また科学技術は社会に巣立った科学者のみが背負うわけではない。イギリスの教育専門誌『Times Higher Education』が行った2009年の「世界大学ランキング」は日本の東大はアジア圏ではトップであるものの第22位、〈米ハーバード大学がトップ。2位は英ケンブリッジ大学(前年3位)、3位に米エール大学(同2位)、4位に英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(同7位)、5位に英インペリアル・カレッジ・ロンドン(同6位)と、英オックスフォード大学(同4位)が並び、以下15位までは米国の大学勢が占めた。〉《世界大学ランキング、東大が22位でアジアトップ - アジア圏の躍進目立つ》マイコミジャーナル/2009/10/09)とする実態が示している日本の大学の「国際水準」と野依良治氏が要求してやまない「世界をしのぐ水準」との落差はどう説明したら埋め合わせることができるのだろうか。

 勿論、「世界大学ランキング」は根拠がないという議論も成り立つ。だが、根拠ないことを以てしても、貧困率、生活格差、待機児童、医師不足、高齢化社会、都市と地方の格差、年間自殺数、貧困母子・父子家庭、無年金生活者等々を生み出して解決できないままとなっている社会制度の不備は解消されるわけではない。

 科学関係の予算が大胆に削減・廃止の判定を受けて多くの科学者が事業仕分けに反撃に出たが、どうも科学という針の穴から世の中の科学にまつわる事柄だけを見ているような気がする。

 科学予算を否定するつもりはない。スパコンの開発も結構。だが、「先進国の平均寿命も、科学技術がなければこんなに延びなかった」といった科学がすべてであるかのような思い上がりだけはやめて貰いたい。

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JICA出身山本一太の言う「納得させる説明能力」

2009-11-25 11:54:47 | Weblog

 予算のムダを洗い出す事業仕分けが昨24日から後半戦に入った。今日朝のTBS「みのもんたの朝ズバッ」をNHKニュースからチャンネルを変えてパソコンを叩きながらの“ながら見”していたら、昨日事業仕分けの対象となったJICA(国際協力機構)について取り上げていた。

 緒方貞子だとは名前を出していなかったようだが、JICA理事長の年間報酬が2216万円で高いだとか、JICA職員の平均給与が公務員の役1.3倍も貰っているとか、その裕福ぶりを伝えてから(記憶力が最悪状態だから、うろ覚えにしか頭の中に残っていない。)、そのような裕福に引き続く出張にビジネスクラスと使っている、JICAビルの賃貸料が高いといった贅沢振り・裕福三昧の角度から査定の状況を伝えていた。

 JICAに関してどんな遣り取りがあったかは、《JICA施設運営費・研修制度は見直し》毎日放送/2009年11月24日(火) 22時12分)を参考にすると――

 JICAは、アジアやアフリカなどの途上国に人材を派遣するほか、資金や技術の面からも支援を行う団体、ODA=政府開発援助の事業を国に代わり行うこともあるとのこと。

 (仕分け人・尾立源幸参院議員)「新JICAの麹町のビルを拝見いたしました。さまざまな公的の機関に参りましたけれども、一番立派でした」

 東京・千代田区にあるJICA本部の賃料が以前借りていたビルに比べて年間およそ7億円高いことを取り上げた質問だという。

 同仕分け人「(一坪)4万5200円、東京でもおそらく一番高い賃料だと思いますけども、なぜ、選定に当たってここを選ばれたのか」

 (JICA担当者)「在京大使館との連絡が非常に多くございます。できれば、その近くでなるべく安いところをということで」

 次にJICAが海外の途上国から募集している研修生の日当が高過ぎると取り上げている。

 (仕分け人)「日当をですね、小遣いとしてためて使わずに持って帰る。私はそれが本当だとしたら、考え直さなければならないのじゃないかなというふうに思うのですけれども」

 (JICA担当者)「手当てにつきましては、生活費4415円。お金をその人たちがためるために来ているということは、まったくないと私は思います」

 (コートジボワールからの研修生)「(家賃や食費を除き)月10万円もらっている。ちょうど足りている感じです」

 (パキスタンからの研修生)「JICAのプログラムはとてもいいので、予算を削らないで欲しい」(以上引用)

 研修生が「(家賃や食費を除き)月10万円もらっている。ちょうど足りている感じです」といった生活状況は月10万円前後の生活保護費で家賃込み、食費込みの生活をしている生活保護受給者から較べたら、遥かに余裕ある生活と言えないだろうか。仕分け人の「日当をですね、小遣いとしてためて使わずに持って帰る」という指摘はあながち的外れではないように思える。

 JICAは研修生に対して十分過ぎる生活の余裕の提供よりも、優れた研修プログラムの提供と研修内容のムダのない時間内のより有効な取得の機会提供をこそ目指すべきで、研修生も研修プログラム内容の有効な取得をより重要な収穫とすべきで、その線に添った研修プログラムの構築と予算づけにエネルギーを注ぐべきである。

 JICAの施設については大阪や兵庫の国内研修施設、JICA地球ひろばなどの施設、宿泊施設等が稼働率が低く、運営費がムダになっていると追及を受けた(日経ビジネス)ということらしい。

 JICAの出張と職員の給与に関しては《仕分け 外交・防衛にも JICA出張 ビジネス利用》東京新聞/2009年11月25日 朝刊)が次のように取り上げている。

 〈「出張はビジネスクラス利用が基本とは、暮らしに苦しむ国民がどう見ていると思うか」。会場に怒号に近い声が上がった。標的となったのは、外務省所管の国際協力機構(JICA)だ。

 JICAには約1500億円の運営費が2010年度予算に概算要求されている。だが、職員の給与水準は独立行政法人トップで、一般国家公務員の約三割増。出張の75%がビジネス利用に「少しでも税金を使わないという考えがない」と非難が集中した。〉――

 仕分け人の追及に担当者は押されっ放しで、査定結果は、外務省が予算づけした独立行政法人JICA=国際協力機構の運営費交付金1509億円に対して、調査・研究のための96億円の費用を30%削減要求、JICA職員の人件費や、青年海外協力隊の派遣費用などについても大幅に見直すべきだと指示。(《仕分け再開 ODAで削減も》NHK/09年11月24日 21時10分)

 「朝ズバッ」はJICAに対する仕分け場面を取り上げてから、JICA出身だという自民党の山本一太参議院議員にご登場を願った。

 山本「納得させる説明能力を欠いている、説明能力が必要ですね」(とか何とか言っていた。)

 で、ブログに何か書いているだろうと思って《山本一太の「気分はいつも直滑降」》にアクセスしてみた。題名は「気分はいつも直滑降」かも知れないが、「直滑降」な気分が顔のどこにも見えない。発言も一見キレがよさそうに見えるが、牽強付会が多過ぎる。
 
 2009年11月25日のエントリー 「ボコボコにされたJICA」

 《午前零時30分。 ダメだ...眠い! 3時間寝てから勉強を再開する!! JICA事業の仕分けは「悲惨な結果」となった。(ため息) 「仕分け人」を説得するだけの準備をして行ったのかなあ?!  この件については改めて。 おやすみなさい!〉――

 今朝は「気分はいつも直滑降」とはいかなかったようだ。「いつも」でないとすると、誇大広告となる。気づいているのかな。

 仕分け人の査定追及にJICAは「ボコボコにされた」――。何ら満足に説明できなかった。立て板に水を流す如くに流暢に受け答えして、如何に要求しただけの予算が必要なのか、事業自体が有効且つ必要な内容を構成していて、どこにも不必要な贅肉部分はないと訴えることができず、守勢一方、結局大鉈を振るわれてしまったということだろう。

 このようなJICA側の体たらくを以って、「納得させる説明能力を欠いていた」といった批評を下した。

 ここで問われているのは、〈「仕分け人」を説得するだけの準備をして行ったのかなあ?!〉といった準備をした上で相手を十分に納得させることができる“説明能力”を身につけるかどうかではなく、多くの国民が納得できる内容を持った事業計画であり、計画が必要とするムダのない有効且つ効率的な予算づけであるかどうかであろう。

 そのような洩れ一つない予算を備えた磐石でムダのない事業計画そのものが雄弁な説明となるのであって、その前提条件を欠いた杜撰でムダだらけの事業計画と予算であるなら、それを相手に納得させることができる説明能力はどのような英知を備えたなら、獲得し得るというのだろうか。

 ムダのない事業計画と予算の先に同じ実質性を備えた事業の具体化と予算執行が存在するはずである。

 事業計画・事業内容が不完全であるなら、その不完全さに倣って予算づけも当然不完全となり、そのような事業と予算に関して完全な説明能力など存在しようがない。

 もし存在させたなら、いわば不必要・ムダな事業を納得させる説明能力を発揮して、必要な事業だと相手に思い込ませたなら、その説明能力はマヤカシに満ちた詭弁能力でしかない。

 日本の官僚は山本一太が言うように「納得させる説明能力を欠いている」のではなく、元々事業計画能力(=事業構築能力)自体を欠いているに過ぎない。事業計画能力(=事業構築能力)を欠いているから、ムダな予算を垂れ流すこととなり、国の財政を危うくしてしまった。

 「朝ズバッ」でコメンテーターとして出演していた片山善博前鳥取県知事が言っていた。

 「説明できないことをやっている」

 そう、事業自体が説明できる言葉を持っていないと言うことである。当然のことで、そのような事業は相手を納得させるどのような説明能力もどう逆立ちしても与えてはくれない。


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江戸時代の妻からの離縁状は「女性の地位」の見直しを迫る資料なのだろうか

2009-11-24 10:54:01 | Weblog

 新潟県十日町市の十日町情報館で江戸時代では珍しい妻から夫に宛てた離縁状が公開されているというニュースをNHKが流していたのでインターネット記事で調べてみた。

 《江戸時代の妻の離縁状 公開》NHK/09年11月22日 8時55分)

 1856年、江戸時代末期の安政3年に書かれた「離縁状」の写しで、〈婿養子の夫が病気になり、婿としてのつとめが果たせなくなったので、結婚と養子縁組の両方を解消することや、慰謝料として夫に金100両を渡したことが書かれ、差出人の筆頭には妻の「ふじ」という名が〉記載されているが、〈離縁状は当時、「三くだり半」とも呼ばれ、江戸時代の幕府の法律では夫が書くものと定められていて、離縁状を研究している専修大学法学部の高木侃(ただし)教授は「妻からの離縁状が見つかったのは初めてで大変貴重だ」と話してい〉るという。
 
 「十日町情報館」の高橋由美子学芸員の談話。

 「とても珍しいものだとわかり驚いている。江戸時代は男尊女卑の社会といわれるが、女性の意向も大きかったことがうかがえる有意義な史料だと思う」

 同じ事柄を扱った「YOMIURI ONLINE」記事――《江戸期史料で初 妻からの離縁状、高木・専修大教授が確認…新潟・十日町》(2009年11月17日)に離縁状を研究しているという専修大学法学部の高木侃(ただし)教授(日本法制史・家族史)の話として、〈江戸時代の幕府の法律では、離縁状は夫が書くとされ、妻本人が書いたものが見つかったのは全国初〉だと「NHK」記事と同じように伝えている。

 高木教授「男尊女卑社会と見なされた江戸時代においても、庶民の夫婦関係、家族関係は多様であったことが分かる。家族史・女性史の研究上、画期的な内容」

 「これまで青森から長崎県まで、約1200点の離縁状を見てきたが、妻が書いたものはなかった。越後は、女性が尊重されていた特殊な地域なのかもしれない

 記事自体の解説

 〈離縁状は、江戸時代、夫が妻を離縁するときに、理由を書いて渡す証明書で、俗に「三下り半」とも呼ばれた。離縁状の授受がなければ離婚は成立せず、再婚できなかった。婿養子の場合、妻の父などが書いたケースはあったが、妻本人が書いたものはなかったという。

 離縁状の形式は旧貝野村安養寺(現十日町市安養寺)の重右衛門家の娘・ふじから婿養子となっていた旧川治村(現同市川治地区)の萬平宛てとなっていて、差出人はふじ側の関係者の連名となっていて、筆頭にふじの名前記されていたという。

 次に文面だが、〈「離縁状のこと」と題され、萬平が2年前に婿養子となり、当主としての役割を務めてきたが、病気で婿養子としての役割が果たせなくなったことから関係者で協議の上、離縁した――との経緯が書かれている。

 続いて、「是迄同人取り計らい方において、いささか申し分これなく、これにより離別の験(しるし)として金子百両相渡し候」(これまで当家の婿養子としての行いは申し分なく、よくやってくれましたので、離別の慰謝料として金百両を渡しました)とある。当時は離別を申し出た方が慰謝料を払うことになっており、文面からも、妻の意向によるものであることが分かるという。〉云々――

 この全国初発見だという妻から夫に向けた離縁状(=三行半)に対して夫である萬平から妻に向けた離縁状も存在していて、セットで保管されているとのこと。この件に関する高木教授の見解。

 「法的に離婚を成立させるために、ふじの希望を受けて書いた(ものではないか)」――

 高木教授の江戸時代の女性の地位についての言及は「47NEWS」では次のように紹介している。

 「江戸期の女性の地位について見直しを迫る、画期的な内容」――

 江戸時代の〈庶民の離婚は嫁入り・婿入りを問わず夫から妻への離縁状の交付を要し、これにより両者とも再婚が可能となった〉と『日本史広辞典』(三省堂)が書いている。(一部抜粋)

 つまり妻ふじから夫萬平に向けた離縁状は法的効力を持たなかった。法的効力を持たなかったために正式な離婚に至らないことから、夫萬平からの離縁状の必要が生じた。いわば法的離婚成立の要件としての不可欠な形式だったことになる。

 ここで疑問が一つ生じる。夫である萬平から妻ふじに向けた離縁状のみで「法的」な離婚は用を足したはずだから、わざわざ妻ふじから夫萬平に向けた法的効力を持たない離縁状は必要としなかったはずで、法的効力なしにも関わらず妻ふじから夫萬平に向けた離縁状を書く手間を取ったのだろう。妻ふじが望んだ離縁である手前離別を申し出た方が慰謝料を払うことになっていたとしたとしても、100両は内々に渡せば済んだはずである。

 妻ふじから夫萬平に向けた離縁状の差出人が妻ふじを差出人筆頭者とし、ふじ側の関係者の連名となっていたということも、法的効力を持たない離縁状だという観点から言うと、この連名形式は仰々しくさえ見える。

 なぜ妻ふじから夫萬平に向けた離縁状を法的効力を備えるわけでもないのに必要としたのだろう。

 唯一考え得る答は、妻ふじから夫萬平に向けて申し立てた離縁だとする証明を必要としたからではないだろうか。法的に成立可能だとして夫である萬平を差出人とした妻ふじに向けた離縁状のみでは、法的成立は満たすことができたとしても、事情を知っている者はいざ知らず、事情を知らない世間は妻ふじが夫萬平から離縁を申し立てられた、いわば三行半を突きつけられたと取り、世間体に関わる。実際は妻ふじから夫萬平に突きつけた三行半だと世間に知らしめる証拠として残しておくために妻ふじからの離縁状を用意した。

 だから、法的効力を持たなくても、連名という仰々しい形式を必要とし、家族一同の、あるいはもっと大袈裟に一族一同の意志であることを示した。

 と言うことなら、実体は妻ふじからの離縁の申し立てだったが、夫萬平からの離縁状はあくまでも「法的に離婚を成立させるために」夫萬平に書かせた形式的離縁状だったと言うことになる。

 形式的に書かせるこの力関係と100両もの慰謝料を出すことができた資金力を併せて考えると、妻ふじの実家は相当に世間体を重んじる地域の財産家だったことが分かる。財産家ということなら、地域に於ける有力者でもあったろう。

 ここから窺えるのは両者間の力関係である。夫萬平が婿養子であったとしても、萬平の実家が妻ふじの家よりも財産家で社会的地位も高かったなら、上下の身分関係がうるさかった封建制度の江戸時代のことだから、夫がいくら「病気で婿養子としての役割が果たせなくなった」としても、妻のふじにしても、その家族にしても我慢を強いられたに違いない。

 当時は本人同士の結婚ではなく、家同士の結婚であり、家の意向が常に反映されたからだ。

 「YOMIURI ONLINE」記事が紹介している、〈婿養子の場合、妻の父などが書いたケースはあった〉〉とする高木教授の見解も家同士の結婚であることを証拠立てている。

 何よりも慰謝料として10両や20両ではない、100両もの大金を出したこと自体が、妻ふじと夫萬平との夫婦間の力関係を超えて両家の力関係(金力の差)が前者が上に位置していることを証明している。妻ふじから申し立てた離縁状を書いたこと自体も、双方の力関係の優位性がどちらにあるかを示しているはずである。

 また家と家との結婚だったことを考慮すると、江戸時代が男尊女卑の権威主義社会であったことに反して妻ふじから夫萬平に向けて離縁を申し立てることができた上位性は、事実備えていたとしても、ふじの実家が萬平の実家に持つ上位性の借り着だった可能性が生じる。実家の持つ上位性が娘のふじに反映した婿養子の満平に対する上位性だということである。

 当時の結婚が家同士の結婚であると同時に江戸時代は家長(一家の長)が家族員に対して絶対的・権威主義的な支配権を有していた社会だったのだから、妻ふじの実家が財産家で地域の有力者ということなら、家長のその絶対的・権威主義的な支配権は娘ふじに対しても相当に強く影響していたであろう。

 いわば「病気で婿養子としての役割が果たせなくなった」、離縁して新しい婿を取った方が家の利益になる、娘にもいいことだという否応もなしの“家長(=親)の意向”が働いて、それを娘の意向とさせ、「法的に離婚を成立させるために」夫萬平に離縁状を書かせる一方で、実体は妻ふじからの離縁の申し立てだと世間体を守るために妻ふじから夫萬平に差出した離縁状を書かせた。

 妻ふじから申し立てた離縁状の形式を取るために差出人の筆頭に妻ふじを据えてはいるが、以下ふじ側の関係者の連名となっているのは江戸時代の家父長制から見て2番目は家長の名前が書いてあるはずだが、この連名を用いたことは後見的意味合いからの連名ではなく、まさに家父長制度の影響を受けて家長の意向の存在を示す意味合いの連名であったと考えることができる。

 このように見てくると、例え妻ふじの意向が少しは混じっていたとしても、家にまで及んでいたその時代の封建的な権威主義を担った家長の絶対的・権威主義的支配権が娘とその婿養子に強制し、仕組んだ離縁とそれを成立させると同時に世間体を守るために妻ふじと娘婿満平にそれぞれ書かせた離縁状であって、江戸時代の男尊女卑の風習に反した女性主導の離縁ではないという解釈となる。

 この解釈からすると、「NHK」記事にあった 「十日町情報館」の高橋由美子学芸員の談話である、「江戸時代は男尊女卑の社会といわれるが、女性の意向も大きかったことがうかがえる」にしても、「YOMIURI ONLINE」記事にある、高木教授の「男尊女卑社会と見なされた江戸時代においても、庶民の夫婦関係、家族関係は多様であったことが分かる」にしても、 「越後は、女性が尊重されていた特殊な地域なのかもしれない」にしても、あるいは「47NEWS」「江戸期の女性の地位について見直しを迫る、画期的な内容」なる発言にしても、間違った解釈に貶めることになるが、専門に研究している情報館の学芸員や大学の先生だから、間違いのない分析・指摘であって、私の解釈こそが的外れなのかもしれない。

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官房機密費問題/共産党は麻生前総理と河村前官房長官を国会への証人喚問を申請すべし

2009-11-23 10:07:52 | Weblog
 麻生前政権が8月30日の総選挙に大敗して野党に下り、民主党内閣成立と同時に自民党内閣の機能停止が決定することとなったその2日後の9月1日に従来の慣例的支出額の2倍以上の2億5千万円もの官房機密費を支出した。

 極めて奇々怪々で、限りなく胡散臭い動きに思える。

 共産党の塩川鉄也議員が11月20日午前の衆院内閣委員会で次のように追及している。

 「この間(毎月)1億円だった。・・・辞めていく(麻生)内閣がどうして通常の2.5倍の機密費を必要とするのか。(衆院選があった)8月までに使った分の後払いではないか」

 もし選挙対策費用だとしたら、党利党略関係の支出と言うことになり、国益に関係のない事柄と化す。

 対して平野官房長官。

 「どう使われたかは(河村建夫)前官房長官に聞いてほしい」(以上時事ドットコム

 これに対して河村前官房長官は既にブログで取り上げているが、次のように答えている。

 「政権にいないので、お答えする立場にはないが、使途については非開示となっている」

 「非開示」だからと言って、日本国家のための使途だったかの、自民党と言う一政党のための使途だったのか疑惑を持たれた以上、その疑惑を明らかにする義務があるはずである。

 社民党の福島瑞穂党首はこのことに関して11月21日のTBSのテレビ番組で発言している。 

 「議員や政党のために使われていたら税金の使い道として全く間違っている。・・・・これはきちっと言います。選挙の関係で使われた可能性が高い」(asahi.com

 官房機密費の支出は国会対策に高級背広の贈答に使われたりしていたことが指摘され、内閣官房報償費(官房機密費)とは体のいい口実で、実際は政権党が自分たちの利益のために億という大金を支出しているのではないかとその使途が長年疑われていた。

 平野官房長官は使途の公表は「政府の活動に障害が出て国益を損なう怖れがある」とさも尤もらしいことを言っているが、官房機密費と言えども税金の一部であって、その使い道に秘密は許されないはずである。国民の利益につながる国益のための使途だったのかどうか、何らかの情報公開制度の網に掛けて、公表への道を開くべきだが、今回の下野決定後の2億5千万円の支出のように疑惑が著しい場合はその限りでないとして、国会で証人喚問して、その疑惑を質すべきではないだろうか。

 良心を持ち合わせた政治家がどのくらいいるか知らないが、「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、何事も付け加えない」旨宣誓させた国会に於ける証言と何年か後の情報公開によって明らかとなる事実関係との整合によって、その証言が事実であったかどうかが判明する。

 尤も情報公開に備えて、事実関係を前以て自分に都合よくでっち上げて、書類を捏造していたとしたら、何をか言わんやである。

 共産党は麻生前総理と河村官房長官の国会証人喚問を申請すべきではないだろうか。社民党は福島党首が民法のテレビ番組に出て、「選挙の関係で使われた可能性が高い」と疑っている以上、証人喚問に反対できないだろう。

 もし民主党が反対するとしたら、野党時代の官房機密費に対する言動との違いを自ら炙り出すこととなって、不利な立場に立たされるに違いない。少なくとも、世論はマイナスに動くはずで、簡単には反対できない難しい立場に立たされることになる。

 勿論のこと自民党は反対するに違いない。だが、反対は疑惑を深め、潔くない態度を曝す場面をつくるだけのことで、やはりマイナスに働くだろう。

 麻生太郎センセイが証人喚問席に立つ姿を是非見たいものである。

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