経験的事故防止自動車運転/危険は道路に潜んでいるよりも運転手自身の中に潜んでいる

2012-04-30 09:30:57 | Weblog

 「自動車事故、危険は道路に潜んでいるよりも運転手自身の中に潜んでいる」と書いたら、自動車事故防止キャンペーンの標語になりそうだ。

 昨29日(2012年4月)早朝の東京ディズニーランド行き大型観光バスが道路脇の防音壁に激突させて車体に大きく食い込ませ、乗客7人死亡、39人重軽傷の関越自動車道群馬県藤岡市地点の大事故は原因が運転手の居眠り運転だったということだから、危険が道路に潜んでいると言うよりも、何よりも運転手に潜んでいることを教えている。

 一昨日のブログに取り上げたが、松原国家公安委員長が各地で登校中の児童に居眠り運転や考えごと運転で突っ込んできた自動車事故で死傷者を続け様に出している事態を受けて記者会見で次のように発言した。

 松原国家公安委員長「通学路の交通安全を確保するにはどこにどのような危険が潜んでいるのかといった具体的な情報を共有することが重要だ」(NHK NEWS WEB

 危険のない安全な道路でも、運転の仕方一つで事故はいとも簡単に生じるし、魔の道路と言われている最危険な道路も慎重な運転で危険は排除できる。

 このことは魔の道路を通過する車のすべてが事故を起こすとしたら、否定されなければならない解釈となるが、実際にはすべての車が事故を起こすわけではなく、初めて通る場所であっても事故を起こさない車もあるだろうし、事故を起こすのは通過車両のうちの数台であって、無事に通過する車両の方が多いということはやはりどこかに緊張感を欠いていたか、油断があった等の危険を運転手が潜ませていたがゆえの事故と解釈せざるを得ない。

 私は普通車の免許しかなかったが、土木作業員の経験が長く、2トンダンプや4トンダンプを運転する機会が多かったし、材木屋に勤めていたときは材木運搬の仕事もしたし、40代以降、静岡県清水市(現在静岡市清水区)から東は東京、栃木、茨木、千葉等、西は名古屋等に各種荷物を運搬する中距離ドライバーの経験がある。

 普通の4トントラックは17尺ボデーと言って運転席を除いた荷台の長さは5.1メートルだが、6メートある20尺ボテーの4t車を運転していた。運転席の屋根よりも高く荷を積む場合もあり、シートをかけると荷台全体が膨らんでサイドミラーを覗いても背後の後続車が満足に見えないために車線変更も追い越し時の車線戻しもままならないということがよくあった。

 長い運転歴の中で、これまで幸いないことに事故らしい事故を起こさなかった。単に幸運に恵まれたからではない。誰もがそうであるように事故は思ってもみないときに起きる。今日事故を起こすかもしれないと思っていて、事故を起こす者は先ずいないだろう。

 もし今日事故を起こすかもしれないと思ったなら、それだけの用心をした運転を心がけるだろうから、先ず事故を起こすことはないはずだ。

 思ってもみないときに(=予期しないときに)事故を起こすということは現在の危機管理で言うと、危機を無意識的に想定外としていたということであろう。事故を想定の外に置いていたから、思ってもみなかった事故、予期しなかった事故ということになる。

 だが、事故はちょっとしたことで場所を選ばずに起きる。ということは事故を常に想定内として運転しなければならないはずだが、多くが想定内を想定内とせずに想定外として運転していることになる。

 私は夜中に起きて遠距離にトラックを走らせるとき、事故はいつでも、どこでも起きると思っていたから、いわば想定内としていたから、今日は事故を起こすかもしれないぞと内心自分にそう言い聞かせることを習慣としていた。言い聞かせるだけではなく、自分が事故を起こしたシーンを頭に思い浮かべた。

 スピードを出し過ぎてカーブや交差点を曲がりきれずに荷物ごと横転したトラック。あるいはひっくり返って車輪ごと腹を見せたトラック。同時に運転席の中で顔から大量の血を流して息絶え絶えになっているか、即死した私自身を一瞬思い浮かべたりした。

 また運転中に追突や正面衝突等の事故現場を何回か目にすることがあったが、沼津から渋谷までの通行の激しい246号線の、24時間オープンしているドライブインが並んだ御殿場地点の店の照明が道の両側から煌々と照らした交差点で、車体前部をペシャンコにした乗用車が右折しかけて停止していて、運転手が右頬と共に上体をぐったりとハンドルに預けた、生きている様子もない事故現場に出くわしたこともあるが、そういったとき、次は俺かもしれないと思い、やはり事故起こした際の自身とトラックを脳裏に思い浮かべた。

 車に同乗者がいれば、当然、事故を起こした場合、被害は車と自身の人命に関わる損傷だけでは済まない場合が生じる。最悪、自分が助かって同乗者が死亡する可能性も否定できない。尚更に緊張感を持って運転しなければならないはずだ。

 このようにいつでも、どこでも事故は起こり得るを意識し、常に自身の事故、自身の死を想定内として運転を心がけると、かなり乱暴な運転もしたが、乱暴な運転に比例させて事故を起こした場合のシーンを頭に思い浮かべながら、事故を起こすなよ、事故を起こすなよと自分で自分に警告を発して極度に緊張感を高めた運転に自ずとなって、その緊張感が事故を起こすのを防いでくれたように思う。

 また緊張感のお陰で例え前の日の睡眠時間が短くても往路に眠くなることがなかった。例えば前の晩に次の日配達する荷積みが夜の11時頃終わってトラックを会社の駐車場に納めてアパートに帰って寝たのが12時近く、次の朝2時か3時に出かけなければならず、朝食や準備で1時間前に起床しなければならないといった場面も何度となくあり、短い時間でぐっすり眠らなければならないという強迫観念が逆に浅い眠りを強いることになるが、緊張感が睡眠不足を却って心地よい身体の張りに変えて途中で眠くなることは先ず無かった。

 荷を降ろして空車で帰るとき、次の日の荷積みに時間的余裕があるといった場合は特にそうだが、なかなか緊張感を維持できなくて運転中に眠くなることが頻繁に起きた。

 時間的余裕があるときは昼食時間を1時間と見て、食事にかかった時間を除いた3、40分程度仮眠を取ることにしていたが、例え仮眠を取ったとしても、246号線を沼津から入った国道1号線バイパスが片道3車線の運転に最適な広々とした道路状況だが、速度制限を守って走ると、快適な道道路状況も手伝って淡々と単調に走ることになって、そのことが却って災いして必ずと言っていい程に眠気を誘った。

 清水までほんの1時間足らずの距離だから、余程の眠気でなければ仮眠を取るわけにもいかず、事故を起こすなよ、事故を起こすなよと自身に言い聞かせながら、例の如く事故を起こした場合のトラックと自身を頭に思い浮かべながら、スピードを上げて、車線を右左にと変えて他の車を追い越していくことで緊張感を高め、眠気を覚醒させる手段とした。

 居眠り運転をしている車はふらふらと左右にゆっくりと蛇行しながら走ると教えられていて、246号線を沼津から入った国道1号線バイパスでそのような走行のトラックに出くわした際、2台並んで走るようにそのトラックの右脇に並ぶと、運転手は前を向いて運転している。にも関わらず、車体が左右に蛇行するから、取り敢えず小さくクラクションを鳴らしてみた。しかしクラクションが鳴った方向に顔を向けない。2度目は少し強く鳴らすと、ハッとしたように顔を心なし反らしてからこちらを見た。最初は何事かといった顔をしていたが、すぐに悟ったのだろう、照れ笑いのような笑みを浮かべて右手を上げてこちらに挨拶した。

 私も右手を上げて、そのトラックから離れた。

 途中ショウベンもせずに10時間も運転してからトラックを降りると、足の感覚がアクセルを踏み続ける動作に馴染んでしまっているからなのだろうと思うが、歩く感覚をすぐには取り戻せずに降り立った途端にふらつくことがある。

 人間の感覚は恐ろしいもので、身体の各部位も同じ動作を長時間続けると、その動作に必要とする感覚に支配されてしまって、別の動作が必要とする感覚にスムーズに移ることができないことがある。

 246号線と沼津で接続した国道1号線バイパスはその当時確か60キロの速度制限だったと思う。先に挙げた居眠り運転のトラックにしてもその場所は普段は60キロ前後で走るだろうから、居眠りによって足の先まで全身が弛緩してしまったといった余程の状態でなければ、例え居眠りしていても、60キロ前後で走行するときの感覚を足が覚えていて、その感覚でアクセルを踏んでいたのではないだろうか。

 群馬県藤岡市の関越自動車道での観光バスの事故にしても、制限速度100キロのところを運転席のスピードメーターの針は時速92キロを指して止まっていたというから、運転手が居眠りに陥っても100キロ前後で走らせてきた足の感覚通りにアクセルを踏ませて、92キロの走行を維持できたように思える。

 だが、道路上に通行人が存在しない場合の居眠り運転であっても、事故を起こした際、乗客数にもよるが、道路に応じた制限速度が却って災いして大きな事故とすることを今回の観光バスの事故は教えている。

 居眠りしたからといって、車のスピードは弱まらないということである。

 大体が居眠りしても通常通りにハンドルを握った姿勢か、あるいは通常に近い状態でハンドルを握った姿勢を維持できること自体が居眠りに関係なしに記憶した感覚がそうさせているからこそであろう。

 椅子に座って居眠りする人間を見ると、頭をガクンと下げて、急いで元に戻すことをするが、上体はほぼ座ったままの状態を維持している。国会で肘掛け椅子に座った大臣の上体をまるきり崩して肘掛けや背当てに預けて居眠りしているシーンは余程緊張感をなくしているからできる芸当であるはずだ。

 以上見てきたように道路にも危険箇所といった問題がなくはないが、やはりそれ以上に運転手自身が運転に必要とする緊張感を必要とすることを常に認識した上で、運転の際は常に維持する自覚が事故防止のカギを握っているように思う。

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谷垣自民党総裁の「国家の危難に殉じた方々」発言に見る戦前の靖国思想を引きずった靖国参拝

2012-04-29 10:17:57 | Weblog

 谷垣自民党総裁が4月23日(2012年)、大島自民党副総裁と仲睦まじく手をつないでかどうか知らないが、4月21~23日日程の春季例大祭に合わせてのことなのだろう、揃って靖国神社を参拝したという。《谷垣自民党総裁が靖国参拝》時事ドットコム/2012/04/23-13:01)

 参拝後、記者団に――

 谷垣総裁「国家の危難に殉じた方々のご冥福と国家安泰(を祈る)という思いで(参拝した)」

 「国家安泰」を靖国神社に祈念する。国政を担う政治家である以上、自らの政治思想・政治行動に「国家安泰」を恃(たの)むべきなのだが、靖国神社に恃んでいる。

 【恃む】「それに依存しうるだけの能力があると信じること」(『大辞林』三省堂)

 いわば「国家安泰」の設計・立案に依存しうるだけの政治思想・政治行動等の能力が自らにあると信じ、それらを駆使して「国家安泰」の実現に向けた行動を取るのではなく、靖国神社に「国家安泰」の能力があると信じて、その能力に依存し、祈念することで「国家安泰」の実現を願った。

 少なくとも靖国神社に「国家安泰」実現の能力があると信じたからこそ、祈念したということであるはずだ。

 自らの能力を恃んで現実世界を司らなければならない現代政治家が神と化したと看做す戦没者に「国家安泰」を祈る姿はまるで古代の神権政治の世界に入り込んだ祭司のようなカビ臭い図に見える。

 谷垣自民党総裁にはふさわしい図なのかもしれない。

 靖国に祀られている戦死者を「国家の危難に殉じた方々」と敬っている。

 【殉ずる】「任務や信念などのために命を投げ出す」(『大辞林』三省堂)

 戦前の日本人は果して個人として自律していたのだろうか。自律した個人として「国家の危難」に殉ずるのと、自律していない個人として「国家の危難」に殉ずるのとでは自ずと意味が違ってくる。

 前者は主体的に自ら進んで取った姿となるが、後者は国家の指示・命令に従属した姿となる。

 前者は個人から国家に働きかけた姿となるが、後者は国家から個人に働きかけ、個人がそれに従う姿となる。

 戦前の日本は絶対的至高の存在と位置づけた天皇を頂点とした、個人がそれに従う国家主義体制を採っていた。不敬罪が象徴しているように個人は天皇や国家と対比させた場合の個人について一切の自由――思想・信教の自由、表現の自由等々は認められていなかった。

 そういった世界での戦争に於ける“殉ずる行為”であった。決して前者の主体的に自ら進んで取った姿ではなく、後者の国家から個人に「天皇陛下のために、お国のために」と働きかけ、個人がそれに従い、死して靖国に祀られるをご褒美とした姿であった。

 一見個人から勇み進んで取った姿に見えるのは明治維新以来の国体思想によって絶対的存在とした天皇と、絶対的存在としたゆえにそれに従うべきとした臣民との関係を強いられ、その根拠として優越民族主義を刷り込まれ、洗脳された個人と化していたからだろう。

 優越民族主義は、優越民族であるゆえにその国家経営は制度を含めて絶対間違いはないとする無誤謬性を暗黙の共通意識とするゆえに国家を絶対と信じさせる有力な装置となると同時にそのような国家に従う国民の如何なる行動も間違えることはないと信じこませる装置ともなっている。

 天皇絶対主義の成り立ちである。

 このことゆえに国民が自ら進んで「天皇陛下のために・お国のために」のように見えるが、基本的には天皇を絶対的存在と位置づけて、その絶対的存在である天皇に国民を従属させるために持ち出した日本優越民族主義であって、この支配と従属の関係を両者間の基本構図としている以上、天皇や国家の支配を受けた「天皇陛下のために・お国のために」の国民の行動と見なければならないはずだ。

 いわば、「天皇陛下のために、お国のために」と戦い、命を捧げたのは天皇及び国家の支配を受け、国民がその支配に従属した戦前の殉国思想、殉死思想に依拠した行動であった。

 戦後、国民は天皇支配や国家支配の呪縛から解き放たれ、制度上は個人の自由を獲得することができた。

 にも関わらず、谷垣自民党総裁は靖国神社を「国家の危難に殉じた方々のご冥福と国家安泰(を祈る)という思いで(参拝した)」と、天皇及び国家支配と国民従属の関係から生じた戦前の殉国思想・殉死思想の文脈で戦没者を把えている。

 制度上は個人の自由を獲得することができたと書いたのはこのためである。戦後に至っても、戦前の靖国思想、あるいは戦前の殉国思想・殉死思想を引きずっているからである。国家観に関して精神的には戦前から戦後に向けて時間を停めたままでいる。

 谷垣総裁一人ではない。保守を名乗る多くの政治家、日本人が同じ姿を取っている。

 勿論、戦前の日本では兵士たちは心底から信じて天皇に殉ずるために、国家に殉ずるために戦い、命を落としていった。それが天皇及び国家支配と国民従属の関係の中での唯一の選択肢であったとしても。

 だが、「国家の危難に殉じた」が事実なら、「国家の危難」は救済されなければ、戦没者の「殉じた」ことの意味を失う。「国家の危難に殉じた」(命を投げ出した)が、「国家の危難」を打破・救済できずに国家が破滅したでは「殉じた」行為を天皇及び国家が受け止めることができなかったことを意味する。

 当然、戦争を引き起こして自ら国家の危機を作り出し、その危機対応に無為無策であった天皇を頂点とした国家指導者たちのために犬死を強いられたことになる。

 天皇を頂点とした国家指導者たちの無為無策の国家危機管理の誤謬はそのままにして、殉死をムダとされた戦没者の「ご冥福と国家安泰」を祈念する。

 この戦前の天皇を頂点とした国家指導者たちの誤謬を不問とする姿勢は戦前の天皇及び国家を無誤謬とした日本民族優越主義をどこかで引きずっているからだろう。

 また戦没者を正義の文脈で国家に殉じた者とし、英霊として顕彰することによって戦前の天皇及び国家を正義の存在――無誤謬の存在だと暗黙下に同等に対置し得る。

 このことにも戦前の靖国思想、戦前の殉国思想・殉死思想の引きずりを見ることができる。

 谷垣総裁は1945年(昭和20年)3月7日生まれだそうだが、日本が降伏した1945年8月15日には生後5カ月と8日しか経っていない。いわば戦後生まれといっていいはずだが、にも関わらず戦前の靖国観を引きずって、戦後の世界に生きている。

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子どもの思考力不足は大人の反映と教えてくれる学童自動車事故個人情報漏洩と松原公安委員長の事故認識性

2012-04-28 12:03:19 | Weblog

 先ず京都府亀岡市の集団登校中の自動車事故児童等10人の死傷事故で、亀岡書の警部補が加害者の18歳の少年の父親の求めに応ずるままに被害者10名の住所・電話番号等の個人情報を実際は漏洩に当たる提供を行った件について。

 今日の極度に発達した情報社会化を受けてインターネット上に大量に蓄積されている各種情報の中から、あるいは停車中の車に置いたパソコンやフロッピーディスクといった記憶媒体から個人情報が盗み出され、ときには100万を超える大量の個人情報が外部に漏洩する問題、あるいは個別に個人情報に不正アクセスして、口座番号を盗み出して預金を引き出すといった問題が頻繁に起きていて、パソコン時代の個人情報保護が喧しく言われている。

 こういった状況を警察関係者は十分に弁えていなければならない上に自らの職務に関しては役目や事件捜査で知り得た情報のみならず、それら情報に含まれている個人情報に関して役目上、あるいは捜査上、どの情報を公にしていいか、公にしてはならないかの取捨選択は日常的に心得ていなければならなかったはずだ。

 このことは役目や捜査が終了した時点に於いても同じであろう。

 いわば情報の取扱いに熟知していた。あるいは熟知していなければならなかった。

 だが、警部補は、伊達に警部補になったわけではあるまい、加害者の父親に被害者の個人情報をパソコンを用いてリストにしてまでして手渡した。

 加害者と色濃い間柄にある関係者に事故からさして日が経っていないにも関わらず、それゆえに被害者の遺族や関係者のどこにもぶつけようのない怒りや憤り、悲しみの激しい感情、なぜなんだ、不当じゃないかといった強い疑問、死んだことがまだ信じられないという空虚感等が入り交じって抑え難くふつふつと渦巻いているに違いない時期に被害者の個人情報を知らしめた。

 「強い求めがあった」からと、その理由を語っているが、「求め」が問題ではなく、渡すか渡さないかの選択が問題であるはずだが、そのことを考える力もなかった。

 父親は死亡した被害者の告別式に参列して謝罪する目的で警察に個人情報を求めたとしているが、それが事実だとしても、複雑な感情に襲われている遺族は果たしてそのようにされて喜ぶだろうか。

 喜ぶだろうか、喜ばないだろうか、却って不快感・嫌悪感を誘わないだろうかと考える力も持たなかった。

 大体が殺された者は永遠に現実世界には戻ってこない。そうである以上、一般的には誰の謝罪であっても、謝罪自体が実質的には有効性を持たないはずだ。死者が現実世界に戻ってくる謝罪のみ、有効性を持ち得る。

 だが、そういった謝罪はこの世に存在しない。

 殺された身内を抱える遺族が少年院等に入所中の殺人加害者からの謝罪の手紙を最後まで拒絶するケースがこのことを証明している。

 特に死から日の浅い間はその非有効性には強固なものがあるに違いない。

 加害者本人の謝罪が有効性を持ち得ないのに、加害の本人が警察に逮捕されて留置場に身柄を拘束されているために直接謝罪ができないからと言って、加害の当事者ではない加害者の父親に謝罪された場合、遺族からしたら、加害者本人に怒りをぶっつけるようにはぶっつけることができず、却って戸惑わせることにならないだろうか。

 父親の子どもの育て方にも責任があるはずで、そのことを悟って、「私の育て方が悪かった」と謝罪されたとしても、後悔先に立たずで加害者の父親に対してだけではなく、死者にも遺族にも何ら役に立たない後悔・謝罪であり、そうであることが逆に苛立ちを誘う要因ともなりかねない。

 人間の感情として余程自分を責める人間でない限り、加害者は自動車事故を起こして死なせてしまったと考えるだろうが、被害者の遺族は自動車事故を起こされて殺されてしまったと解釈するだろう。

 立場が違えば、事実の解釈も違ってくる。

 つまり警察官であるなら、以上のようなことを知識としていなければならないはずだが、例え知識としていたとしても、その知識を現実の出来事に如何に適用するかの情報解釈を自ら行う考える力を持たなければ、役に立たない知識と化す。

 亀岡警察署警部補の思考力欠如がもたらした個人情報漏洩であり、地方公務員法に於ける守秘義務違反抵触の疑いということなのだろう。

 警察が加害者の父親に渡した被害者の個人情報には胎児と共に死亡した26歳の主婦の電話番号が記入してなかったために加害少年の父親と共通の知り合いから依頼されて、女性の子どもが通う小学校の教頭が携帯番号を教えたという。

 小学校関係者も警察と同様に個人情報保護・個人情報管理には喧しいはずである。2005年4月からの個人情報保護法全面施行を受けて、公立小・中学校はクラス全体の児童・生徒の名前・電話番号・住所を記入した電話連絡網とか緊急連絡網とかの作成・各家庭への配布を児童・生徒本人の家族以外も目に触れるからと中止して、学校の連絡は各個人別に届くメールに替えて、それぞれの個人情報を秘密扱いにした。

 いわば電話番号とか住所とかの知りたい情報は電話局の電話番号案内を利用するか、知りたい相手を直接訪ねていって直接聞くか、知りたい相手の知り合いから電話等で聞くしかなくなったが、学校に尋ねてきた場合、学校は本人の承諾を取らずにハイハイと教えたのでは電話連絡網とか緊急連絡網とかの作成・各家庭への配布を中止して各児童・生徒の個人情報を管理・保護した意味を失うはずだ。

 特に自動車死亡事故加害者の父親への被害者の個人情報の提供となる以上、なおさら遺族本人の承諾を取らなければならなかったはずだ。

 だが、承諾を取らずに求められるままに日常普段の個人情報保護・管理に反して安易に個人情報を漏らした。学校教育者でありながら、そこまで配慮する思考力を欠いていた。

 情報を漏らした教頭は次のように釈明している。

 東佳明教頭「よく知る方だったので伝えてしまったが、私の考えが甘かった。遺族につらい思いをさせ、心が痛みます。反省しています」(NHK NEWS WEB

 「考えが甘かった」のではない。情報をどう扱って自らの情報としてどう発信するかしないか、その適切な方法を判断する思考力を欠いていたに過ぎない。

 4月23日の亀岡市の集団登校自動車事故と4月27日朝の千葉県館山市のバス待ちの小学生と保護者の列に軽乗用車が突っ込み、1年生の児童を死なせた事故、さらに同じく4月27日朝、愛知県岡崎市での小学生の列に軽ワゴン車が突っ込み、児童2人が重軽傷を負った事故を受けて4月27日(2012年)、記者会見を開いている。

 《“通学路の情報共有 事故対策を”》NHK NEWS WEB/2012年4月27日 13時34分)

 松原国家公安委員長「通学路の交通安全を確保するにはどこにどのような危険が潜んでいるのかといった具体的な情報を共有することが重要だ」

 確かに見通しの悪い道路、カーブがきつすぎる道路等、「危険が潜んでいる」道路というものは多く存在する。だが、そのように安全な道路であっても、酒酔い運転、居眠り運転、脇見運転、考えごと運転、スピードの出し過ぎ運転等、運転次第で危険な道路と化す。

 また、実際に危険な道路であっても、危険に応じて慎重な運転を心がけたなら、危険は回避できる。

 危険な道路だからと言って、日本中の危険な道路からすべての危険を排除することは不可能だろうし、例えすべての危険を排除して、あらゆる道路を安全な道路としたとしても、悪質な運転がなくならない限り、安全な道路の安全性は保障不可能となる。

 千葉県館山市の事故加害者は警察に対して次のように供述したという。

 大河原容疑者(20)「仕事が休みでけさ4時半ごろから1人でドライブしながら釣りをする場所を探していた。運転中に仕事のことを考えてボーっとしてしまった」(NHK NEWS WEB

 この発言からも、危険性・安全性はいずれも運転者の姿勢で決まることが理解できる。当然、このことを対策の要点としなければならないはずだ。

 とすると、「どこにどのような危険が潜んでいるのかといった具体的な情報を共有すること」よりも、悪質運転を少しでも減らす効果ある方策の構築の方がより重要になると思うが、違うだろうか。

 松原氏は国家公安委員長でありながら、どうも思考力を欠いているようだ。

 大河原容疑者は児童1人を死なせていながら、より罪の重い危険運転致死の容疑ではなく、より罪の軽い自動車運転過失致死の容疑で取調べを受けている。

 京都府亀岡市の集団登校の列に居眠り・無免許運転で自動車を突っ込み、お腹の子どもを含めて3人を殺しておきながら、より罪の軽い自動車運転過失致死容疑の扱いである。

 特に居眠り運転は目が見えない状態で運転することであり、前以て危険であることを認識しなければならないし、それを一晩中眠らずに敢えて運転を続けたのだから、そこに故意による運転意志を認めるべきだろう。

 4月25日の当ブログ記事――《京都府亀岡市集団登校中自動車死傷事故に対する危険運転致死傷罪適用不可能性の怪 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、居眠りは単なる過失だと杓子定規、画一的的に取り扱うのではなく、眠くなったなら、車を停めることが出来る場所で仮眠を取って眠気を覚まして正常な運転ができるような状態で運転し直さない居眠りは故意性のある行為と見做して、上限刑懲役20年の危険運転致死傷容疑とすべきで、脇見運転、考えごと運転にしても、実際問題として重大な人身事故を頻発させている現実を踏まえて、重大な人身事故が生ずることを認識しなければならない運転と規定し、現実に重大な人身事故を起こした場合、正常な運転を敢えて阻害した故意性を認めるべきであろう。

 このような罰則適用が運転する者をして居眠り運転や見運転、無免許運転に対する自覚を高めだろうし、敢えて犯してその故意性が問われて上限刑懲役20年の危険運転致死傷罪が適用された場合の情報が広く行き渡ることも、危険運転と危険運転による被害を防ぐ方策となるのではないだろうか。

 いずれにしても警察や小学校教頭、松原国家公安委員長の思考力の程度を見ると、問題となっている子どもの思考力不足は大人の思考力不足の反映だと教えられた気がした。

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小沢一郎を悪と位置づけ、自己を善と相対化する自己正義漢偽装は政治家もマスコミももうやめるべし

2012-04-27 10:43:12 | Weblog

 小沢元民主党代表が政治資金規正法違反裁判で無罪判決を受けた。対して自民、公明共に裁判で無罪でも、政治的・道義的責任があり、国会での説明責任を果たすべきだと証人喚問を求める方針を示した。

 自分たちの政治的・道義的責任には毛程も気づかないらしい。

 無罪に対する各政治家のコメントを見てみる。《【小沢元代表無罪】小沢系「当然だ」 野党「説明責任果たせ」 政界コメント集》MSN産経/2012.4.27 00:13)

 小沢氏に近い議員は勿論のこと、無罪を素直に歓迎している。

 田中真紀子元外相「こういう結果が導きだされて感動している。小沢先生にもリーダーシップを発揮してもらい、政治を動かしていただきたい」

 山岡賢次元前国家公安委員長「当然の結果だ。日本の法と正義はきちっと守られるという結果を受けてほっとした」

 自身の正義性に関しては胸を張って間違いなしと言えるのかどうかは些か疑わしい。

 木村剛司(たけつか)衆院議員(小沢系)「(首相が)挙党一致でやりたいなら小沢氏が活躍できるポストを与えるべきだ」

 下地幹郎国民新党幹事長「小沢氏が今まで以上に自由な政治活動ができるようになることで、政界に大きなインパクトをもたらす」

 どっちつかずの印象を与える。

 岸田文雄自民党国対委員長「証拠不十分で無罪になったとの認識だ。政治的・道義的責任は大変重い。裁判を理由に証人喚問を拒み続けてきたから、再びしっかり証人喚問を求めていく」

 彼も「政治的・道義的責任」を言っている。

 茂木敏充自民党政調会長「依然、グレーであることに変わりない」

 麻生太郎自民党元首相「秘書3人が有罪判決を受けたのに、本人は無罪だから私は関係ないということが通るのか」

 町村信孝自民党元官房長官「一人の政治家の裁判で日本国の政治が左右されという構造だけは早く脱却しないと政治が正常に機能しない」

 日本の「政治が正常に機能しない」理由は他にあるはずだ。決して衆参ねじれだけではなく、機能させるだけのリーダーシップを持った政治家が存在しないことが第一番の理由であるはずだ。民主党という党一つ纏めることができないし、自民党という党一つ纏めることができないリーダーシップの不在が蔓延している。

 このことはリーダーシップを満足に備えた政治家がなかなか見当たらないということだけではなく、誰にリーダーシップを託すか、見る目を持たない議員が大勢を占めていることも災いしている「政治が正常に機能しない」状況であろう。

 山口那津男公明党代表「小沢氏の道義的、政治的責任はなお残る。国会、国民に対しきちんと説明責任を果たすべきだ」

 日本の政治の現況に対する自身の「道義的、政治的責任」は棚に上げるご都合主義の発揮となっている。

 渡辺喜美みんなの党代表「民主党内のドタバタ劇がさらに深刻になる。民主党が政党の体をなしていないのなら、早く分裂した方がいい」

 一人民主党だけの問題ではない。日本の政治そのものが「体をなしていない」のだから、全員責任であろう。

 志位和夫共産党委員長「今こそ(小沢氏は)証人喚問に応じるべきだ。土地購入資金の出所、胆沢ダムをめぐるヤミ献金問題など解明すべき問題がたくさんある」
 三権分立。それぞれが対等の関係にあるはずだが、国会を裁判所の上に置く考え方となる。

 福島瑞穂社民党党首「政治倫理審査会で説明責任をたださなければならないが、判決を精査するため一呼吸置くべきだ」

 園田博之たちあがれ日本幹事長「無罪であろうとどうであろうと小沢氏に影響力があるわけがないし、われわれに関係ない」

 無理に過小評価して冷静さを保とうとしている。

 舛添要一新党改革代表「さまざまな曖昧模糊(あいまいもこ)とした国民の疑惑は簡単に払拭できない。無罪判決が9月の代表選に向けて民主党内に一つのマグマを形成することは確かだ」

 「国民の疑惑は簡単に払拭できない」状況に陥れたのは、政治家やマスコミが小沢一郎を悪と位置づけ、自己を善と相対化する自己正義漢偽装を演じ続けた成果でもあるはずだ。

 日本の政治や経済、財政、いや、国力そのものを今日の体たらくで劣化させた責任は誰にあるのだろうか。勿論小沢氏も含めた全員責任ではあるが、特に2009年の政権交代まで戦後ほぼ一貫して政権を独占してきた、実体は省益優先(=国民益非優先)の官僚主導任せであった自民党政治、そして最近では自公政治に特に責任不履行の責任があるはずだ。
 
 そして現在の民主党政権が官僚政治から脱却することができないままに責任不履行をそのまま引き継ごうとしている。

 官僚主導政治は、政治遂行の成果次第で政治家自身が選挙で国民からノーを突きつけられて責任を取らされることもあるが、政策の立案と遂行そのもの対しては官僚任せであるゆえに政治家は直接的には自らが果たすべき責任から離れた位置に立つことを可能としている。

 いわば自らが責任を持たないままに政策が立案され、遂行されていく。

 また、官僚自体も国民から選挙で選ばれる関係にはなく、国民に対する責任は持たない。だから、国民に対する責任はそっちのけで、天下り先確保のために独立法人だ、特殊法人だと新しい組織づくりに励み、官僚同士の利益擁護優先の行動を取ることができる。

 政治家は口では国民に対する責任を言うが、実質的には政官共に国民に対して責任を持たないこの無責任な国家体制を戦後一貫して創り上げ、強固にしてきた反作用として日本国家自体を劣化せて置きながら、自らの政治的・道義的責任を棚晒しにして、小沢氏の個人的な政治的・道義的責任を、裁判で決着がついたと見做さずに問おうと大騒ぎしている。

 もし小沢氏にな政治的・道義的責任があるとするなら、先ずは自らの日本の政治全体の現況に対するより大きなな政治的・道義的責任を問うべきだろう。

 自らに対しては問わずに小沢氏の政治的・道義的責任のみを問うのは小沢氏を悪と位置づけ、自己を善と相対化する自己正義漢偽装に過ぎない。

 すべての政治家が日本の政治や国家の現況に対しては悪漢の位置に佇んでいるということである。

 マスコミにしても日本の社会の現況や政治の現況に責任を負っているはずである。にも関わらず、自らの責任は棚に上げているばかりか、日本の政治をこのようなザマにした日本の政治家たち、日本の国をかくまでも劣化させた政治家たちの責任不履行、その道義的・政治的責任を問わずに、それを小沢氏に対する糾弾で代償させようとするのは政治家たちやマスコミ自身の道義的・政治的責任に免罪符を与えることに相当し、政治家と同様に自己正義漢偽装を演じようとしていることと同じ行為となるはずである。 

 政治家や官僚やマスコミが寄ってたかって日本の政治や日本の国や日本の社会はかくまで劣化させてきた。

 日本人は日本民族が優れているから、一度手に入れた世界第2位の経済大国の地位を永遠のものだとかつて思い込んだ。だが、中国が日本の超え、今や韓国までもが日本を乗り越えようとしている。

 民族が優秀だから技術が優秀だとするのは幻想でしかなく、単に技術開発が先行したことの結果に過ぎないと、2005年12月20日「市民ひとりひとり」HP記事――《第112弾 人間の利害と社会の矛盾》に書いた。

 〈コンピューターと情報伝達の時代的な加速化が技術開発の時間的速度を従来以上に遙かに高めている。日本の高い技術が到達に要した時間とは比較にならない少ない時間で、経済後発国は技術取得へと突き進み、〝先行〟を相対化し、無化するのは時間の問題だろう。〉と。

 そして中国は日本をほぼ乗り越えていった。
 
 モノづくりはモノマネの技術から入る。自動車を例に取ると、戦後の日本はアメリカの車を輸入し、細部に渡るまで徹底的に解体して、一つ一つの部品の性能を解明、そのマネから入っていって、技術を発展させていった。

 また日本の車が世界に於いて優位性を高めることができた理由の一つは石油採掘の国際石油メジャーの独占から産油国独占による石油価格の高騰という幸運にも恵まれたかだろう。日本は国土が狭く、道路が狭いために小型車・中型車を出発点とし、その技術の積み重ねを主流として発展させていった。

 対してアメリカは大型車を主流としていたが、ガソリンの高騰とかつての経済の勢いを失って、国民の経済状況に応えるために技術の積み重ねのないままに中型車に移行せざるを得なくなり、その間隙を縫って技術の積み重ねによって優れた性能を備えた日本車が入り込むことができた幸運である。

 政治家や官僚だけではなく、マスコミも含めて日本人全体が日本人は優秀だとする無意識下に抱え込んでいる日本民族優越意識を断ち切らなければ、あるいは技術は単に先行しているかどうかの違いがあるのみで、民族性には関係しないことだという認識を持たなければ、日本は現在の様々な劣化状態から抜け切れないに違いない。
 
 先ずは政治家全体が、官僚全体、マスコミ全体が日本の政治や国や社会の現況をつくり出した道義的・政治的責任を自らに問う反省に立つことから始めなければならない。 

 反省に立つことのよって初めて目指すべき大局が見えてくるのではないだろうか。

 小沢氏の政治観を支持しているゆえに身贔屓な記事になったかもしれない。悪しからず。

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前田国交相の前以ての是非判断力は必要不可欠な資質であり、その欠如自体が責任追及と辞任に相当する

2012-04-26 11:52:55 | Weblog

 ――北朝鮮ミサイル発射時の政府の情報伝達混乱、京都集団登校自動車事故亀岡署被害者情報漏洩も、自らの資質とすべき前以ての的確な判断力を欠いていたからこその失態であろう――

 前田国交相が岐阜県下呂市長選に立候補した元民主党議員候補への事実上の支援要請文書を告示前であるにも関わらず国交省の公用封筒を用いて自身の署名入りで地元建設関係団体に送付していた問題は職の辞任に相当する不始末であるはずだ。

 野党から告示前の事前運動や大臣等公務員の地位利用の選挙運動禁止を規定している公職選挙法に抵触する疑いのあるとして問責決議案の提出を受けて可決されたが、本人は国交相としての責任を全うするとして辞任を拒否し、野田首相も、藤村官房長官も、岡田副総理も続投を擁護している。

 果たして辞任しなければならない責任はないと言えるのだろうか。藤村官房長官が第三者機関にではなく、当事者たる前田国交相自身に事実関係の調査を指示、その調査報告を4月17日の衆議院国土交通委員会で行なって、自ら釈明を試みている。

 《国交相 “選挙文書”で改めて陳謝》NHK NEWS WEB/2012年4月17日 10時52分)

 前田国交相「文書は民主党の同僚の議員から署名を依頼されたもので、多忙ななかで文書の宛名や内容に目を通す暇もなく、政務秘書官に促されるままに署名した。

 いろいろな事情はあるにせよ、確認をしないまま署名したことについては、誠に軽率であり反省している」

 この発言には明らかにウソがある。

 先ずこういった依頼を受けた場合の極々常識的な手続きを言おう。先ず依頼者は依頼の趣旨を述べる。依頼の趣旨を述べずに署名だけ依頼することは常識としてあり得ない。

 いわば依頼の趣旨を前以て口頭、もしくはメールや電話等で伝え、その上で署名の依頼という次の手続きを求めたはずだ。

 当然、署名する文書に目を通さなくても、あるいは「目を通す暇」がなかったとしても、文書の内容を承知していて署名していたことになる。

 だが、前田は「文書は民主党の同僚の議員から署名を依頼されたもので」と、口頭等の依頼の趣旨の前以ての伝達もなしにいきなり署名だけを依頼されたかのような常識ではあり得ないことを言っている。

 署名だけを依頼された、署名だけを求められたとウソをつくことによって、あるいは署名だけが求めれることはないという世間的常識を排除することによって、次の「多忙ななかで文書の宛名や内容に目を通す暇もなく、政務秘書官に促されるままに署名した」――いわば内容を知らないままに署名したとする釈明を逆説的に正当化し得る。

 勿論、世間には口頭等で伝えた依頼の趣旨と文書の内容が違っていたということもよくある事実だが、そのためにも署名の際、目を通すなりの内容確認を行うのが極々常識行為としての次の手続きであろう。

 以上のことに反して、前以ての趣旨説明も何もないままに、あるいは趣旨説明を受けないままに依頼されたから署名した、その際多忙だったから文書に目を通しもしなかったが事実だとしたら、その事実は京都大学工学部を卒業し、同大学大学院修了、その後現国交省の前身である建設省に入省、元建設官僚であり、現国交相である等々の極めて優れた経歴上、特に必要不可欠な資質としていなければならなかった前以て是非を問う的確な判断力を、その必要不可欠性を裏切って働かすことができなかった愚かさの証明としかならない。

 つまり、「いろいろな事情はあるにせよ、確認をしないまま署名したこと」自体が経歴上からも立場上からも、あるいは立場上の責任から言っても許されないことで、許されない以上、必要不可欠な資質としていなければならない前以ての是非判断力の欠如自体が責任追及の対象となり得るし、問責決議可決は前以ての是非判断力の欠如にこそ向けられた責任追及と見做すべきで、そうとするなら、大臣としての適格性に関わるその欠如は辞任を責任の形としなければ埋めることはできないはずだ。

 前以ての是非判断力欠如の責任を問う問責可決を受けながら、辞任せずに続投することは前以ての是非判断力欠如を自ら問わない責任回避に当たり、許されるはずはない。

 もし責任追及の対象とし得ないし、辞任を責任の形とすることもできないとするなら、国交相という責任ある立場の者をして極々常識的に必要不可欠な資質としてなければならない前以て是非を働かすべき的確な判断力は欠いていてもいいという倒錯的状況を放置することになり、人事は最強も最善もどうでもいいということになる。

 だが、民主党内には身贔屓からだろうが、結果として必要不可欠としなければならない資質の欠如に目をつむる者がいる。

 鹿野農水相(4月17日、国会内で開いた自身のグループ会合)「前田氏は丁寧に説明をしている。(16日の)記者会見で言われた前田氏の(続投の)思いを私どもは大事にしていきたい」(MSN産経
 
 前田国交相は鹿野グループに所属している。必要不可欠な資質と見做さなければならない前以て是非を働かすべき的確な判断力の欠如に目をつぶるということは欠如によって生じることになる職務上の欠格性にも目をつぶるということである。

 もし前田国交相が前以て是非を働かすべき的確な判断力を欠いたたまでありながら、辞任せずに職務を果たすことができるとしたら、その逆説の疑義解消は官僚主導以外に答えを見い出すことはできない。

 例え必要非不可欠とする資質を欠いていたとしても、国交省の言いなりになっていることによって大臣としての勤めを果たすことができるというわけである。

 であるなら、ほかの誰でもいいことになり、是が非でも前以て是非を働かすべき的確な判断力の欠如自体を大臣にふさわしくないこととして責任追及の対象とすべきだろう。

 岡田副総理「真摯(しんし)に受け止めるが、問責決議を受けたから辞めなければいけないということはどこのルールにもない」(時事ドットコム

 確かに岡田の言うとおりだが、問責決議可決に至る自らが招いた前田の非常識――前以ての是非判断力の欠如は問題外とする岡田自身の非常識を鉄面皮にも曝け出して平然としている。

 藤村官房長官「前田大臣がみずから認め、大変反省しているが、内容や宛名など確認しないまま文書に署名したことは、極めて軽率だ。

 基本的に、前田大臣がきちっと公表し、説明責任を果たすことが、現時点では何よりだ。軽率さだけで、何か辞任と言われるのは、ちょっと本人には酷ではないかと思う」

 国交相という責任ある立場にありながら、同僚の議員から署名を依頼されたから、忙しくもあったから宛名や内容に目を通さないままに署名したという非常識の責任を追及しないままに本人の「誠に軽率であり反省している」という釈明一つで、あるいは藤村官房長官の前以て是非を働かすべき的確な判断力の欠如自体を無視した、「軽率さだけで、何か辞任と言われるのは、ちょっと本人には酷ではないかと思う」の庇い立て一つで大臣としての資質を問わずに済ますことはできない。

 野田首相が「最善かつ最強の布陣」として行った人事の一角を占めているである。果たして一角を占める資格があるだろうか。

 辞任に値する、大臣として必要不可欠な資質としていなければならない前以ての是非判断力の欠如であるはずだ。

 東日本大震災や福島第1原発事故の対応遅れにしても、北朝鮮ミサイル発射時の政府の情報伝達混乱にしても、関係者に於いて必要不可欠な資質としていなければならない前以ての是非判断力の欠如が招いた失態であろう。

 後になって検証だ、謝罪だ、あるいはこうすべきだったと反省を示すが、何よりも事が起きた際に自らの対応の是非を前以て判断する力を問題とすべきだろう。

 でないと、個々に於ける立場上の責任ある行動にしても、内閣全体としての危機管理にしても初期的対応能力はいつまで経っても身につかないことになる。

 4月23日の京都府亀岡市で登校中の小学生の列に軽自動車が突っ込み、10人が死傷した事故で加害者18歳少年の父親の求めに応じるままに亀岡署が死亡した2人と怪我をした8人の名前や住所、携帯電話の番号や親族の連絡先等の個人情報を被害者の確認を得ないままに漏洩した出来事にしても、警察として、あるいは警察官として必要不可欠な資質としていなければならない前以ての是非判断力を欠いていたことによる失態であろう。

 《亀岡署 被害者の連絡先を伝える》NHK NEWS WEB/2012年4月26日 4時7分)

 大棚亀岡署署長「ご遺族の感情を逆なでし、配慮が足りない行動だとつくづく思い、全面的に私たちのミスで本当に心からおわびいたします。

 少年の父から『謝罪したい、被害者の連絡先を教えてほしい』という強い求めがあり、署員が応じてしまったようだ」

 詳しいことは調査中で明らかにできないと答えたそうだが、果たして署員が署長に断ることなく単独で応じたことなのか、署長が署員の報告を受けた上でオーケーを出した情報漏洩なのか、現在のところ不明だし、今後共明らかになる絶対的保証はないが、前者だとすると、署員が警察官として必要不可欠な資質としていなければならない前以ての是非判断力を欠いていたことになり、後者なら、署長が警察署の最上司として必要不可欠な資質としていなければならない前以ての是非判断力を欠いていたことによる大失態に相当する。

 あとで反省を示されたり謝罪されたとしても、特に遺族は一度不愉快な気持にされた感情のしこりはなかなか癒されることはないだろうし、こういったことからしても、事が起きた際には立場立場に応じた自らの対応の是非を前以て判断する能力が何よりも必要なことが証明できる。

 それを欠いた人間が無視できない数で存在するということである。

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京都府亀岡市集団登校中自動車死傷事故に対する危険運転致死傷罪適用不可能性の怪

2012-04-25 10:50:36 | Weblog

 居眠り運転の挙句に集団登校中の小学生の列に突っ込み、約10人を死傷させた重大事故が、上限刑懲役20年の危険運転致死傷罪適用の可能性は低く、法定刑7年以下の懲役・禁固または100万円以下罰金の自動車運転過失致死傷罪適用の可能性が高いと伝える記事がある。

 事故と言うよりも最早犯罪と言っていい自動車を凶器とした残酷な死傷事件でありながら、要するに“故意”による犯罪ではなく、単なる“過失”に過ぎないと判断される可能性が高いということだそうだ。

 《危険運転致死傷罪の適用困難か》NHK NEWS WEB/2012年4月24日 17時53分)

 先ず居眠り運転は通常「故意」ではなく「過失」だと見做され、危険運転致死傷罪適用困難だという。

 このことを認めるにしても、「過失」にも程度がある。軽度の過失、重度の過失、重大な過失等々、程度に応じて責任も重くなってくるはずだが、あくまでも自動車運転過失致死傷罪の範囲内で程度を問うことになる可能性が高いということなのだろう。

 また危険運転致死傷罪は、無免許かどうかは問題ではなく、「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)を有していると見做された場合は適用外となるという。

 この少年の場合、無免許であるにも関わらず、「一晩中運転していた」という少年自身の証言から、「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)を有していると見做される可能性が高いと解説している。

 要するに例え無免許であっても、少年が「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)を有しているという理由から、この点からも「故意」による自動車事故ではなく、「過失」による自動車事故だと見做して、より罪の重い危険運転致死傷罪ではなく、より罪の軽い自動車運転過失致死傷罪の適用となるということらしい。

 と言うことは無免許でありながら車を運転した“故意性”は「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)によって相殺され、“過失性”へと姿を変えることになる。

 記事は警察庁の情報として、危険運転致死傷罪ができた平成14年(2002年)以降、無免許運転による事故で危険運転致死傷罪適用例は合わせて22件。昨年は長崎県で無職の17歳の少女が無免許で車を運転し、横断歩道を渡っていた男性に衝突した事故など合わせて3件で、〈いずれの運転手も公道での運転経験がまったくないか、それに近い運転技術しかなかった〉「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)を有していなかったための危険運転致死傷罪適用だとしている。

 とすると、「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)もないのに運転した。これは明らかに「故意」だとして危険運転致死傷罪を適用されたことになる。

 さらに記事は「進行を制御する技能」に関してさいたま地方裁判所が判決で示した1つの判断基準を紹介している。

 無免許の少年が酒気帯びの状態で車を運転、直線道路を時速118キロで走行、反対車線に飛び出して対向車と衝突した事故で、危険運転致死傷罪が適用可能かどうかが争われた。

 〈さいたま地裁は被告が無免許とは言え、十数回を超える車の運転経験があることや、被告が事故の直前まで一定の区間を事故を起こさずに車を運転していることなどを理由に、進行を制御する技能があったと結論づけ〉たという。

 記事は危険運転致死傷罪ではなく、自動車運転過失致死傷罪が適用されたとは直接的には書いていないが、記事全体の趣旨からして、後者の適用となったということに違いない。

 運転歴何十年の「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)を有したベテラン運転手であっても、ちょっとした脇見運転で重大な事故を起こす場合があるが、法律は「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)を一旦手にしたなら、常に不動の能力と看做して、あるいは水戸黄門の葵の御紋が入った印籠相当に評価していて、それを根拠に過失による事故とし、故意による事故には入れないらしい。

 亀岡市集団登校中自動車死傷事故に関して飲酒運転事故で2人の幼い娘を亡くし、悪質な違反の厳罰化を求めてきたという女性の発言を伝えている。

 井上郁美さん「今回のようなケースで、危険運転致死傷の罪が適用されなければ、何のためにできた法律なのかと感じます。現状は適用されるケースがあまりに少なく、捜査機関は危険な運転が明らかな場合は、ただの過失で済ませずに、きちんと適用してほしい」

 どうも記事が伝える法律解釈に納得がいかない。納得がいく人間がどれだけいるだろうか。

 参考に「刑法208条の2」規定の「危険運転致死傷」を「Wikipedia」から引用してみる。

 刑法第208条の2

 アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。

 2 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、前項と同様とする。赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、同様とする。

 1項の「正常な運転が困難な状態」にさせる自動車走行の影響原因が「アルコール又は薬物」のみで、居眠りが入っていないのは居眠りを「正常な運転が困難な状態」にさせる原因にはならないと解釈するしかないことになる。

 勿論、「アルコール又は薬物」の服用が居眠りを誘発し、「正常な運転が困難な状態」にさせることはあるが、あくまでも直接的には「アルコール又は薬物」の服用を故意による行為に相当させて、「アルコール又は薬物」の服用に関係しない場合の居眠りによる事故は故意ではなく、過失と見做すということなのだろうが、この解釈に納得がいくだろうか。

 例えば長時間の自動車運転を職業としている者が前の夜十分に睡眠を取って翌日の運転に備える義務があるはずだが、明け方近くまで麻雀等の遊びで費やし、睡眠不足のまま運転して居眠り事故を起こした場合でも、故意による事故ではなく、過失による事故になることになる。

 1項後段の〈その進行を制御することが困難な高速度〉に関しては少年は40キロ制限のところを50キロで走行していて、10キロオーバーに過ぎないから適用外となるだろうが、〈その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者〉と定めている危険運転致死傷罪適用規定の「進行を制御する技能を有しないで」の部分が記事が紹介していた無免許であるにも関わらず「一晩中運転していた」点によって「進行を制御する技能を有し」ていたと見做され、規定に触れない可能性が生じるとする理由箇所に当たる。

 この解釈も腑に落ちない。例え自動車レースのA級ライセンス所有者並みに「進行を制御する技能」を有していたとしても、居眠りによってその優れた「進行を制御する技能」を失うとする判断・解釈は存在せず、あくまでも不動の能力として扱っている。

 「進行を制御する技能」は不動の能力ではなく、葵の御紋でもなく、相対的な能力であるという判断・解釈を成り立たせていたなら、例え無免許であるために教習所へ行って運転技能だけではなく、運転マナーを学ばなかったとしても、居眠り運転は危険であるとする認識は、例え無免許であろうとなかろうと車を運転する場合は子どもでない限り誰もが社会的常識としなければならないはずだから、眠くなった時点で車を止めて仮眠なり取って眠気を覚ます一手間を取らずに眠気に襲われるままに運転を継続させた場合、そのこと自体が「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)云々に関係なく、既に過失行為から離れて故意による行為の範疇に入るはずだが、あくまでも「進行を制御する技能」(=実際的な運転技能)の面からのみの判断・解釈となっているが。

 いわば眠気に襲われたということは既に「進行を制御する技能」が怪しくなったということであり、眠気を押さえることができなくなった時点で車を停め、仮眠等で眠気を覚まして「進行を制御する技能」を回復してから運転を再開すべきだったが、法律はそうしなかった“故意性”は取り上げず、アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させた場合と進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させた場合を除いて、一旦手にした「進行を制御する技能」がどのような状態になろうとも、そこに“過失性”は認めても、“故意性”は認めようともしないということになる。

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京都府亀岡市集団登校中自動車事故死から見る集団登下校の功罪

2012-04-24 09:18:26 | Weblog

 ――集団登下校は子どもから判断力と危機に対する身体能力を奪う、功罪中の“罪”を抱えていないだろうか――

 京都府亀岡市の府道で集団登校中だった市立小学校児童と保護者、合わせて10人の列に18歳少年の無免許・居眠り運転の軽乗用車が突っ込み、2年生の女子児童と26歳の女性保護者が死亡、妊娠中の胎児まで死なせ、2人を重体に陥らせた。

 車が突っ込んだ瞬間とそれ以後に児童たちを襲った恐怖とパニックは年少だけに凄(すさ)まじいものがあったに違いない。例え無事であった児童でも、血を流して倒れている仲間の児童を否でも目にしただろうから、その恐ろしさに竦み、心理的な混乱は避けることができないままに後遺症として残らないとも限らない。

 最近の集団登下校中の悲惨な事故は昨年(2011年)4月18日に栃木県鹿沼市の国道で集団登校中の小学生の列にクレーン車が突っ込み、6人が死亡した悲惨な事件が記憶に新しい。 

 にも関わらず、普段は集団登下校は安心・安全だからと、一種の「集団登下校安全神話」を纏わせて、無自覚に制度を維持してきたところはなかっただろうか。

 であるなら、そろそろ集団登下校を考え直すべきときがきているように思えるが、どんなものだろうか。

 集団登下校を児童の安全を守る危機管理としていることに反して当たり前に歩道や道路脇を歩行している集団登下校中の児童が突っ込んできた自動車事故に遭遇して身体の安全・生命の安全を奪われ、さらには友達を失ったショックや短期的・長期的に自動車恐怖症に陥る児童も出る可能性を考えると、精神の安全をも奪う、逆の危機管理となるたびに考え直すべきではないかとい思いを強くする。

 この思いは事故の遭遇に無防備である点だけではなく集団登下校が児童にとって日常的に育まれるべき年齢相応の判断力と危機に対する身体能力を逆に育み困難としている問題点となっていると前々から疑っていたことも背景にある。

 私が自身の2006年10月2日アップロードのHP――《市民ひとりひとり 第128弾 中学校構造改革(提案)》に児童・生徒に暗記教育、あるいは暗記式知識授受・情報授受を強いている日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義性を排するために中学校の非義務教育化を提案、その中で生徒が幼少の頃から習慣づけられている集団主義的なもの・権威主義的なものを断つ方法の一つとして小学校の集団登下校の廃止を取り上げた。

 当ブログ――《『ニッポン情報解読』by手代木恕之》でも何度かこの《中学校構造改革(提案)》を取り上げたが、集団登下校の廃止に関しては取り上げないままでいた。次に引用してみる。

 〈中学校を非義務教育化したからといって、日本人が封建主義のはるか彼方の時代から思考様式・行動様式としていた集団主義・権威主義から即座に解放されるわけのものではない。幼い頃から徐々に訓練づけていくことによって、その効果は大きくなるはずである。幼少から習慣づけられている集団主義的なもの・権威主義的なものを気候が暖かくなるにつれて着ている衣服を一枚ずつ脱いでいくように剥いでいかなければならない。

 まずは小学校の集団登下校の廃止から取り組まなければならないだろう。集団登下校とは複数の年長者が共同責任者となって、学校で決めた同じ地域に住む一定人数の年少者と指定された集合場所で落ち合い、学校まで集団で登校することを言うが、年長者と年少者が特に会話を交わすというわけでもなく、学校が決めたこと――いわば上が決めたことに形式的・機械的に従っている体裁のもので、 集団主義・権威主義の補強に役立っているが、それは同時に自己責任意識の培養から遠ざかるものである。集団の意志を優先させ、個人の意志を抑圧する集団主義の行動様式においても、上位権威者の言いなりに従う権威主義の行動様式においても、そこには自発的行為性はなく、いわば集団・上位権威に意志・意識・行為とも預ける形で自己を存在させているために、責任をも預けて、習慣的なものとすべき自己責任意識は常に欠いている状態にある。当然、自発的活動は望むべくもない。

 集団登下校は車の事故から身を守ること(現在は痴漢から守ること)を主目的としたものであろうが、どう車を避け、道路をどう横断するかは自分が決め、自分の責任とすべきである。いわば集団で守り合うのではなく、最初から自分で守るという意識を持たせることによって、身体的なものだけではなく、精神的な反射神経をも養うことができる。身体的・精神的反射神経も、「生きる力」の一部となり得るものである。

 (確かに幼児に対する性犯罪の防止は難しい問題だが、集団登下校が集団主義・権威主義の日々の刷り込みになっていることも事実である。集団登下校になるべく頼らない防止法を考案すべきではないだろうか。例えば勤めを離れた高齢者が健康維持の運動にいつも決まりきった時間に決まりきったコースを散歩するケースが見受けられるが、そういった高齢者を対象にスケジュール表をつくって、ときには各高齢者に最寄りの学校の児童が登下校する時間帯の通学路に散歩のコースと時間を交互に変えてもらうとか、あるいは警察のパトカーや地域の防犯巡回車が単に通学路をなぞって走るのではなく、「ただいま警察(あるいは地域)のパトーカーが巡回中です、不審者を見かけたとかの目撃がありましたら、パトカー(巡回車)を停めてお知らせください」とか言葉を使った音を出すことで走行中の通路だけではなく、声が届く広い範囲にまで心理的な警戒効果がカバーできるようになるのではないだろうか。

 あるいは通行人がいたら時折クルマを停めて、窓からでもいいから、「何か変わったことはありませんでしたか」と声をかけるのも、通行人がたいしたことはないと思っていても、教えたことが重大な情報につながるといったことも起こり得るかもしれない し、効果があるのではないだろうか 。

 あるいは下校時間帯に市の広報のスピーカーから、童謡の『浜辺の歌』や『ふるさと』のメローディーを流したなら、心を浄化を促す効果とならないだろうか)

 大体が、学校が決めたとおりの道を決めたとおりに集団で登校して、歩道や道路脇を忠実に歩いていたとしても、車の方から暴走して突っ込んできた場合はどう避けようもない。集団登校の列に暴走車が突っ込んできて、何人かの死者を出した事故が実際に起きてもいるし、青信号の横断歩道を渡っていて、車にはねられることもある。もし暴走運転者が幼い頃から通学は一人か数人の親しい仲間とだけで行い、他人任せではない自らの判断で通行の激しい車を避けて信号機のない道路の横断や狭い道路の歩行の安全を確保する習慣 (=「自分で課題を見つ
け、それを自分の力で考え、解決する」総合学習方式の能力)を学習していたなら、例え車を運転する立場に変わっても、歩行者の安全に配慮する反射意識が条件的に働き、運転にT・P・Oを設けるようになるのではないだろうか。

 集団登校の廃止は当然、父母の交通整理の廃止につなげなければならない。かつては緑のおばさんと呼ばれ、緑色の服を着て、小学生の通学路の交通整理に当たったが、現在では生徒の父母が交代で勤めている。父母が道路の両端から黄色の旗を横断歩道を囲うように差出して車の通行を止めると、それを合図に子どもたちは一斉に道路を渡る。少し遅れて歩いてきた生徒がいると、急いで手招きして、慌てて走らせてでもついでに渡らせようとし、子どもも、その指示に言いなりに従う。子供は父母が車を止めたついでに渡りたいと思ったなら、自分から走り出すはずである。いわば手招きは本人の判断に反する意志の強要、あるいは支配でしかない。例え自分から走り出しても、手招きされるのを学習していて、条件反射的に応じたものなら、間接的な意志の強要・支配となる。

 これは一見些細なことではあるが、他のことによる個人の意志の強要・支配とも併せた複合的な集団主義・権威主義習慣の積み重ねを考えると、些細では済まされなくなる。世の大人たちは知らず知らずのうちに日常的に子どもたちに集団主義・権威主義の行動様式を重ね着させているのである。〉(以上)

 集団登下校の側面として存在する安全に関わる責任の他者への預託は主体性の放棄そのもので、自ずと判断力の自発的育みを阻害することになるはずである。

 主体性とは「自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度のあること」(『大辞林』三省堂)を言うから、当然、集団登下校はこのような性格性の排除要件となり得る。

 また交通整理の父母が黄色の旗で示す意思に全面的に従う行動性、あるいは集団登下校で責任者となる上級生の意思に全面的に従う行動性は安全に関わる責任を他者に預けるだけではなく、危険に対する自身による身体的・精神的反射神経の育みを自ら阻害する要因ともなり、当然の結末として、危機に対する身体能力を奪うことにもつながるはずである。

 最近の子どもの運動能力の低下が広く言われているが、集団登下校も助長している運動能力の低下ではないだろうか。

 また、HPでは書き残したが、集団登下校は一般的には道草を自動的に禁じることになっている。道草はその多くが日常普段は見かけない人物や物象に対する興味や関心によって占められる。

 いわば集団登下校は新たなモノに対する関心や興味、心惹かれるモノに対する関心や興味を遮断する役目を負い、知らず知らずのうちに精神の成長を抑圧しているということはなかっただろうか。

 以上見てきたようなマイナス点を考慮したとしても、それを無視して、集団登下校に於ける児童の安全を守る危機管理としての側面を優先してその制度を維持するのか、マイナス点を重視して、児童一人ひとりの責任に任せて単独で登下校させるか、単に無自覚に制度を維持するのではなく、少なくとも自覚的な選択は必要であろう。

 最低でも小学校入学時の出発点では友達2人か3人の親しい友だち同士による登下校とすべきではないだろうか。相手を誰にするかは当事者に任せ、その2人か3人が成長して単独の登下校とするか、あるいは相手を変えるかどうかの判断もその時期と共に各人に任せる。

 いわば各々の責任と判断力に任せる。そのような責任と判断がついたとき、危機に対する身体能力も自ずとついているはずである。

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野田政府のどうも分かりにくい除染効果考慮外の将来的な住民帰還困難地域予測

2012-04-23 10:42:37 | Weblog

 政府が4月22日(2012年)、福島県双葉郡との協議会で福島県内等の今後10年間の空間放射線量(=大気中の放射線量)の残留予測値推移とその推移との関係から判断した住民帰還可能性を公表したという。

 但しこの空間放射線量残留予測値は除染効果を考慮外に置いたものだという。

 いくつかの記事を見てみる。

 《“10年後も帰還困難な地域残る”》NHK NEWS WEB/2012年4月22日 21時29分)

 枝野経産相が双葉町や大熊町などでは10年後も空間の放射線量が年間20ミリシーベルトを超え、住民が帰還することは困難な地域が残るという予測を示したという。

 この予測は昨年11月に行った航空機によるモニタリングの結果を基に除染の効果は考慮せず、空間の放射線量が5年後や10年後に年間どの程度になるのかを計算したものだそうだ。

 いわば自然減衰に基づいた放射線量の残留予測値推移ということになる。

●5年後の2017年3月時点――福島第1原発所在の双葉町と大熊町では年間100ミリシーベルト
               を超える地域が一部残る。
              ――双葉町と大熊町、浪江町等で年間50ミリシーベルトを超える地域
               が一部残る。
●10年後の2022年3月時点――双葉町と大熊町、浪江町等で年間50ミリシーベルトを超えてい
                る地域は減るものの、一部残る。
               ――双葉町、大熊町、浪江町と富岡町の一部地域で年間20ミリシー
                 ベルトを超え、住民帰還困難地域が残る。

 協議会の終了後の記者会見。

 細野原発事故担当相「住民の皆さんに、すべて帰還ありきではないという選択をしてもらう準備もしなければならない。ただ、帰還したいという住民もいるので、除染のモデル事業の結果をもとに、除染の計画について地元と相談したい」

 発言の前段は、帰還できない住民も出てくるとの趣旨となる。後段は、帰還できない住民であっても、帰還を希望する住民に対しては除染を行なって、帰還希望に添いたいという趣旨になるはずである。

 でなければ、「除染の計画について地元と相談」する意味を失う。

 発言の全体を通すと、除染次第では帰還困難地域であっても、帰還可能になる地域も出てくるということの情報伝達となるはずである。

 ではなぜ最初から除染効果を考慮した放射線量の残留予測値推移としなかったのだろうか。1年後、10年後がそれぞれ1年、あるいは半年であっても、前倒し可能となって、希望を与える発表となったはずである。

 だが、放射線量を人工的に減量せしめる除染効果を考慮外に置いて、自然減衰という名の自然任せとし、「すべて帰還ありきではないという選択をしてもらう準備もしなければならない」と希望を失わせる発表を行なっている。

 しかも発言の後段で除染次第の帰還可能性を言う矛盾まで犯している。

 政府の役目が国民に希望を失わせることだと言うなら、理解できる。

 それとも除染モデル事業を実施中だが、除染効果が見込み可能な最適効果的な除染方法を現段階では未だ確立できていないということなのだろうか。

 だとしたら、最適効果的な除染方法を確立してから、自然減衰と併せた残留放射線量の地域ごと・年数ごとの予測推移を行った上で帰還可能性を公表すべきで、そうすることによって住民に少しでも希望を与えることが可能となるはずである。

 それともいくら地表や住宅の屋根といった地上物体の表面を除染しても大気中の空間放射線が残留している以上、雨風で地表や地上物体の表面に降り注ぐために空間放射線量の自然減衰を待たなければ放射線そのものが残留することになって帰還困難だと言うなら、地元と除染についてどう話し合ってもムダということになり、細野発言の後段はまるきりデタラメを言っていることになる。

 地上に降り注いでくる空間放射線と闘って、除染の上に除染を重ねて、帰還可能年を少しでも前倒ししていくしか道は残されていないのではないだろうか。

 どうも分かりにくい政府の将来予測となっているが、次の記事を見てみる。

 《【放射能漏れ】福島の空間放射線量予測 10年後も「帰還困難」 3町に50ミリシーベルト以上地域》MSN産経/2012.4.23 00:45)

 除染効果を前提としていないのは当然、この記事も同じだが、政府の予測について次のように解説している。〈昨年11月に実施された航空機モニタリングの結果をもとに予測。1年、2年、5年、10年、20年後の福島の放射性物質の減衰と、風や雨などの自然現象の影響を考慮した理論値で、住民帰還のめどや復興計画をつくるための判断材料となる。〉――

 この記事では20年後も含んでいる。

 その上でどの時点、どの地点でどの程度の残留放射性物質となっているか、次のように伝えている。〈年間の空間放射線量は、その場所で1日8時間、屋外で過ごした場合、1年間に浴びる積算の放射線量。3月末時点では、積算が150ミリシーベルト以上の地域が原発周辺や北西部に点在。50ミリシーベルト以上や20ミリシーベルト以上の地域も北西部を中心に帯状に広がっているという。〉・・・・

 残留空間放射線量との関係からの帰還可能性について。

 平野復興相「これだけの期間は最大限帰れないということを明示した」

 除染効果を排除してこのように失望を与えるようなことを言うのは、除染効果に期待を抱いていないことの意思表示でなければならないはずだ。

 逆に除染効果を予定表に入れていたなら、前倒しの可能性が生じるから、「これだけの期間は最大限帰れないということを明示した」などと断定的なことは言えなくなる。

 記事がこのようなニュアンスの発言にしてしまったのかどうか判断しようがないが、記事自体は除染効果に期待を寄せる解説も加えている。

 〈現在、除染の効果を調べるモデル事業を実施しており、各市町村が策定した除染計画も加味した上で、放射線量の減衰期間は短縮する可能性がある。〉・・・・・

 要するに最適効果的な除染方法は現段階では未確立だが、各市町村の除染計画と併せると、自然減衰期間が短縮可能となるとの解説である。

 だとすると、やはり平野復興相の、住民に失望を与えるだけの「これだけの期間は最大限帰れない」とする「明示」は明らかに時期尚早となる。

 同じ「MSN産経」記事でも、次の記事は悲観的な情報も伝えている。《【放射能漏れ】「希望抱かせる」「あくまで理論上」 予測地図 帰還遅れ示唆》MSN産経/2012.4.23 00:47)

 新設定の「帰還困難区域」に関して政府はこれまで最低5年は帰還困難としてきたが、〈帰還の前提となる除染の効果は未知数な中、今回の予測は帰還がさらに遅れる可能性を示唆しており、現在政府が検討している“帰還不可能区域”の設定が現実味を帯びたといえそうだ。〉と。

 最低5年は帰還困難としてきたが、それが2倍の10年後の時点でも一部地域で年間20ミリシーベルトを超える空間放射線量が残留し、住民帰還困難地域が残るとする悲観性の解説である。

 この解説からすると、除染効果を除外した予測推移であると言うよりも、除染効果を殆どゼロと看做した、そうとしか受け取ることができない予測に見えてくる。10年後の先まで見通しながら、除染効果を計算に入れずに自然減衰のみに根拠を置くことができるのはこのためではないだろうか。

 但し続いて逆のことを言っている。〈ただ、放射線量が時間の経過で減っていくことが初めて目に見えるように示されたことは、先の見えない避難生活を送ってきた住民にとって希望につながる。〉云々。

 すべての避難住民が該当するわけでないが、果して5年が10年になって、希望につながると言えるのだろうか。住民全体に亘って――いわば地域全体に亘って一人の住民も残さずに希望につながることによってのみ、力強さに満ちた復興への意欲を地域全体に約束するはずだ。

 帰還から残された住人が存在する限り、いくら止むを得ないことであっても、残した住民に対する自分たちだけがの済まなさ、心残りが復興に向けて最大限に発揮しなければならない全幅のモチベーションを殺がない保証はない。

 「除染をしなかった場合は20年後も原発周辺の一部地域に年間被曝線量が50ミリシーベルト超の地域が残る」とした今後20年間の空間放射線量の予測地図と帰還年限に関する地元首長の評価。

 井戸川双葉町町長「(放射線量の減少が示されたことは)住民に希望を抱かせる。長いスパンの予測を公表するのは難しかったと思う。国はよくやった。

 ただ、自然減衰よりももっと早く下がることを願う」

 記事は最後の発言を早期の除染実施を求めたものだとしている。だが、10年後の先まで除染効果を計算に入れていない予測である。除染効果が期待可能であったなら、自然減衰のみに基づいた予測はたちまち的確性を失うことになるが、どのような理由があってのことか、除染効果を考慮外として予測を立てている。

 遠藤富岡町長「予測地図が示されたといっても理論上のことで、本当にこの通りになるのかという疑問もある」

 記事。〈安易な期待感に警鐘を鳴らした。〉――

 やはり先ずは最適効果的な除染方法の確立とその効果を見極めてから、自然減衰を併せた今後10年間の空間放射線量の残留予測値推移とその推移との関係から判断した住民帰還可能性を公表すべきが政府の役目ではないだろうか。

 分かりにくいばかりの今回の政府公表に見えたが、私一人だけのことで、誰も問題にしないのだろうか。

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北九州市元警官銃撃は習志野署ストーカー捜査放棄と同様の警察の危機管理機能不全が原因

2012-04-22 08:56:23 | Weblog

 4月19日(2012年)、北九州市路上で福岡県警察本部の元警察官が嘱託勤務の市内病院に出勤途中、男に拳銃で狙撃され、重症を負った事件。元警察官は警官時代、指定暴力団工藤会の捜査担当をしていたことから、その報復と見て捜査しているとのこと。

 松原国家公安委員長が4月21日、事件現場を視察した。いくつかの記事を見てみる。《国家公安委員長 元警官銃撃現場視察》NHK NEWS WEB/2012年4月21日 12時10分)

 〈福岡県などでは暴力団との関係を断とうとする企業が襲撃される事件や対立抗争によるとみられる発砲事件が相次いで〉いると解説、社会的に物騒な状況となっているようだ。

 何のための事件現場視察かというと、捜査幹部から当時の状況などについて説明を受けるためだと書いてある。

 松原国家公安委員長「こうした事件を抑止できず、検挙できないことにはじくじたる思いがある。警察が悪との戦いに全力で取り組んでほしいし、私としてもこうしたことが起きない社会を作るため法整備も含めて頑張ろうという思いを強くした」

 この発言は国会提出中の改正暴力団対策法成立に全力を挙げて法整備を図る考えを示したものだと解説している。

 要するに警察の全体的な対暴力団警戒態勢が法律の制約等により十分に機能していないことへの危惧を述べた発言ということになる。

 《松原国家公安委員長が現場視察 北九州の元警官銃撃事件》asahi.com/2012年4月21日13時49分)

 〈松原委員長は午前8時20分頃現場に到着。北九州地区で暴力団捜査を担当する県警幹部から、元警部の広石保雄さん(61)が19日朝にバイクの男に銃撃された直後の様子や、薬莢(やっきょう)が落ちていた位置などの説明を受けた。〉
   
 松原委員長(記者団に)「銃撃事件は法治国家の日本に対する挑戦。断固として許せない。事件を解決し、治安を回復していきたい」

 この記事は「銃撃事件は法治国家の日本に対する挑戦」との発言を取り上げて、警察が暴力団と見ている狙撃組織の悪質性に重点を置いている。

 以上二つの記事の発言を併せると、悪質化した暴力団に対して警察の対暴力団警戒態勢が法律の制約等を受けて機能していないことへの吐露となる。 

 だからこそ、国会提出中の改正暴力団対策法成立に全力を挙げ、法律の制約を排除、警察に対してより強力な武器となる新たな法律の後ろ盾を与えようということなのだろう。

 このことと現地視察して銃撃直後の様子や薬莢落下位置等の説明を受けることとどう関係があるのだろうか。改正暴対法成立に全エネルギーを注入すれば済むことである。

 顔見せ・存在感アピールのパフォーマンスということなのだろうか。

 記事の次の解説が松原委員長の銃撃直後の様子や薬莢落下位置等の説明を受けた現地視察を見当違いの行為に見せる。

 見当違いなら、顔見せ・存在感アピールのパフォーマンスに過ぎなかった現地視察ということになる。

 〈広石さんは県警で約33年間、指定暴力団工藤会(本部・同市小倉北区)などの暴力団犯罪の捜査にあたった。県警は、工藤会から襲われる恐れがあるとして、退職後、自宅周辺などを警戒していた。〉・・・・・

 県警が自宅周辺等を警戒していたにも関わらず、銃撃された。

 ということなら、事件全体の様相が異なる姿を見せることになる。

 県警による自宅周辺等の警戒は次の記事も伝えている。《退職前後から自宅周辺に暴力団員》NHK NEWS WEB/2012年4月20日 14時54分)

 記事を要約すると、元警部が退職する前に別の事件で工藤会の幹部の自宅を捜索した直後から、工藤会の暴力団員が自宅周辺にたびたび姿を現すようになり、退職後も続いた。

 そのため警察は元警部の自宅周辺などをパトロールし、暴力団員を見つけた際は職務質問などをしていた。

 記事は最後に、〈警察は、暴力団員が嫌がらせをしていたとみて、銃撃事件との関わりについても調べています。〉と解説しているが、嫌がらせと言うよりも、捜査から手を引け、引かなければ、どうなっても知らないぞという捜査妨害を意図した暗黙の威嚇行為であろう。

 それが直接攻撃へと変じた。

 このニュースをテレビで伝えたとき、近所の女性住人がインタビューを受けて、「元警部の自宅周辺にパトカーがいつもきていたから、何事なのだろうかと思っていたが、事件が起きて初めて納得した」といった趣旨のことを口にしていた。

 自宅周辺のパトロールにはパトカーによるパトロールも含まれていたことが分かる。

 だとすると、暴力団の悪質化を受けて警察の全体的な対暴力団警戒態勢が法律の制約等により十分に機能していないということよりも、これと思い定めた危機に対する管理(=危機管理)を満足に機能させることができなかった、法律とは直接的には無関係の警察の姿勢、あるいは能力の問題となる。

 報復の恐れがあると警戒していたということなら、特に出勤途中、帰宅途中は特段に要警戒だったはずだ。相手は襲撃しやすい場所を比較的自由に選ぶことができる。出勤途中・帰宅途中は、今回は起きなかったが、無関係の第三者を巻き添えにする危険性を排除できない点も、要注意だったはずだ。

 要するに警察の全体的な対暴力団警戒態勢が法律等の制約を受けて十分に機能していないといった点や国会提出中の改正暴力団対策法成立に全力を挙げるといったことよりも、それ以前の問題として警察の日常普段のより直接的な危機管理姿勢・危機管理能力を問題としなければならないことになる。

 このことを問題としない現地視察は、やはり顔見せ・存在感アピールのパフォーマンスの疑いが濃くなる。

 千葉県警習志野警察署がストーカー被害を受けていた女性の父親が被害届の提出に赴くと、「1週間待ってほしい」と提出を保留させて2泊3日の北海道旅行に出かけ、その間に女性の母親と祖母がストーカーによって殺害された事件も、習志野署担当者の危機管理姿勢・危機管理能力の欠如が招いた事件であろう。

 特に市民の命を守るという強い意識を持った危機管理姿勢を全く備えていなかった。だから、「1週間待ってほしい」と言って、旅行を優先させることができた。市民の命よりも自分たちの旅行の愉しみだったわけである。

 姿勢がなければ、能力は育たないし、仕事上、幾分かの能力を育てていたとしても、その能力さえ発揮不可能となる。

 警察の捜査に於ける危機管理上の失態、あるいは不作為は全国的に発生している。例え法律を改正しても、警察の日常普段の危機管理姿勢・危機管理能力の不備を改めないことには、いわば使命感といった心がけを改めないことには、法律だけの変更に終わる気がしないでもない。

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前原誠司の小沢氏無罪でも党員資格停止処分解除慎重は公平・公正欠如のためにする主張

2012-04-21 09:41:11 | Weblog

 政治資金規正法違反で強制起訴された小沢元民主党代表が4月26日(2012年)の判決を前に無罪の可能性に期待を賭け、政治活動の最前線に立たんとする意欲を見せ始めた。《小沢氏 野田首相に代わる党代表を》NHK NEWS WEB/2012年4月18日 21時38分)

 4月18日のインターネット番組。

 小沢元代表「(消費税増税法案について)国民の大多数が反対しているものが国会を通過することはないと思う。野田内閣が党内議論を強権で打ち切り、増税一本という姿勢は、決して国民の支持は得られない。内閣支持率が20%を切ったらもたない。

 (9月予定の民主党代表選について)仮に9月までに代表選が行われるとしたら、『国民の生活が第一』と訴えた、政権交代の初心や志を持っている人を代表に選んで、次の衆議院選挙に臨むべきだ」

 実現可能性は別にして、野田首相退陣を自身の予定表に入れている。

 但し記事が伝えている発言からは、「政権交代の初心や志を持っている人」が自身を含めているのかまでは判別不可能である。

 2日後の4月20日の政治資金パーティーでの挨拶。《小沢氏“無罪判決で政治活動専念》”(NHK NEWS WEB/2012年4月20日 17時2分)

 小沢元代表「3年余りも苦しい時間を過ごしてきたが、来週判決が出る。皆さんの真心が通じ、天に声が届いてはっきりしたら、もう一度、最後のご奉公ができるよう頑張りたい。

 (民主党の現況について)党が国民の期待に応えられていない。任期満了まであと1年半しかないとも言えるが、まだ1年半あるとも言える。勇気を持ってやればなんとかなるので、2年半前の原点に戻って、政権交代の期待に応えられるよう、最後まで頑張りたい」

 「最後のご奉公」が一党員としての「ご奉公」を目指しているのか、党代表・総理としての「ご奉公」を目指しているのかも判読不可能である。

 だが、18日のインターネット番組での小沢氏の発言を扱っている、《内閣改造は不可避 輿石氏抵抗 首相二の足 小沢氏攻勢》MSN産経/2012.4.19 00:36)になるとニュアンスが違ってくる。

 記事は前田国交相と田中防衛相の参院問責決議案可決の場合の内閣改造不可避の可能性を主として伝えている。

 その上で、記事は〈首相の苦境に「勝機」を嗅ぎ取ったのか。民主党の小沢一郎元代表はインターネット番組でこう断じた。〉と解説。

 小沢元代表「内閣支持率が20%を切る状況になったら民主党が持たない。9月までに党代表選が行われれば、政権交代の初心を持っている人を代表に選び、衆院選に臨むべきだ。(自らの代表選出馬が)天命ならどんな役割でもする。日本に民主主義が定着するように最後のご奉公をしたい」

 記事が、(自らの代表選出馬が)と注釈を付けなくても、「天命ならどんな役割でも」と言っている以上、「天命」の中に党代表・総理大臣を排除していない意欲を窺うことができる。

 その資格は政治経歴、知見、どれ一つ取っても十分にあるはずだ。

 勿論、民主党内には反小沢派が無視できない数で蠢いている。その急先鋒の一人前原誠司が小沢氏の意欲に警戒感を示してのことだろう、早速牽制発言をしている。

 《早期処分解除に慎重 前原氏、小沢氏無罪でも》MSN産経/2012.4.20 21:29)

 記事は冒頭次のように伝えている。〈民主党の前原誠司政調会長は(4月)20日、小沢一郎元代表が26日の東京地裁判決で無罪になっても、党員資格停止処分の解除に慎重に対応すべきとの認識を表明。〉――

 この「認識を表明」とはBS「日テレ番組」収録での発言。

 前原誠司「小沢氏無罪の場合の党員資格停止問題について)政府・民主三役会議で一切話してない。

 裁判は三審制だ。判決確定まで時間がかかる(可能性がある)

 この段階で「政府・民主三役会議で一切話してない」ということは、最終判決が確定するまで党員資格停止処分の解除の予定はないということなのだろう。

 だが、発言自体が公平・公正を欠いた、欠いているゆえに卑劣と表現できる判断の提示となっている。

 勿論、現在のところ1審無罪獲得と断定できるわけではない。有罪の可能性も否定できない。但し、記事冒頭が伝えているように無罪を前提とした発言だからこそ、「三審制」を持ち出したはずだ。

 有罪の場合、小沢氏側の控訴は確定事実だろうから2審に進んで裁判はなお長期化するはずが、そうであっても「三審制」を持ち出すまでもなく、1審有罪を背負った小沢氏に対する党員資格停止処分解除は問題外となり、有罪を前提とした発言ではないことが分かる。

 但し無罪を前提とした発言であるなら、検察官役の指定弁護士側が控訴し、2審、さらには3審へと進んで裁判が長期化する可能性のみが残されているわけではない。

 判決内容によって裁判を維持できる有罪性を見い出せない場合、検察官役の指定弁護士側の控訴断念という選択肢の可能性も十分に想定し得るはずである。

 だが、前原誠司は控訴断念という選択肢の可能性を頭から排除して、控訴を唯一絶対の可能選択肢と看做し、「判決確定まで時間がかかる」からと党員資格停止処分解除の可能性を否定している。

 いわばを党員資格停止処分非解除を口実・手段にして小沢氏の全面的政治活動を阻止する意志を見せたということなのだろう。

 このような判断を以って公平・公正な合理性を備えた姿勢と言えるだろうか。

 口先番長と言われている言行不一致の政治家だけあって、自身に都合のいいことだけを言うのも無理はないが、反対派の活動を封じるにしても、あくまでも合理性を備えた、正々堂々とした公平・公正な阻止行動に徹しなければ、大物政治家だとは決して言えない。

 尤も前原グループの仙谷や枝野が元弁護士時代に培った人脈を利用して、2審で有罪獲得の可能性がなくても、党員資格停止処分解除回避のために控訴して裁判を長期化させるてくれと裏から手を回す陰謀のシナリオが既に出来上がっていたとしたら、検察官役の指定弁護士側の控訴断念という選択肢の可能性はゼロとなって、前原の発言は合理性も合理性、チョー合理性を備えた、確信犯的発言とはなる。

 前原、仙谷、枝野といった面々はそれぐらいのことはしかねない陰謀性満ち溢れた優れた政治家だと言うことはできる。

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