「約10万人が一夜のうちに死亡したとされる1945年3月の東京大空襲の遺族や被災者がつくる『東京大空襲犠牲者遺族会』(石鍋健会長)が今年8月にも、国を相手取って損害賠償と公式謝罪を求めて集団訴訟を起こす」という「朝日」の記事(06.3.5.朝刊)がある。「空襲の遺族、被災者ら民間戦災者は、戦傷病者戦没者遺族援護法が適用される旧軍人・軍属やその遺族と異なって、補償が行われていない」「差別的取扱を放置した国の立法不作為の違法性などを問う考えだ」という。
但し、「空襲の被災者が国を訴えた例では、名古屋空襲の戦傷病者2人が損害賠償を求めた訴訟があるが、87年、最高裁が『戦争犠牲ないし戦争損害は国の存亡に関わる非常事態のもとでは、国民の等しく受忍しなければならなかったところ』と指摘し、退けている」というから、「東京大空襲犠牲者遺族会」は「この最高裁判決の『戦争受忍論』の問題点や克服の方法を検討するため、今後、弁護士や法学者と共に、法理論や外国の事例を研究する」ということらしいが、「天皇陛下のため・お国のため」と国民自らが侵略戦争を積極的且つ高邁な使命感で後押しした、いわば共犯関係にあった、その因果性としての「戦争犠牲」・「戦争被害」なのだから、補償を求める資格はないのではないだろうか。
政治家・軍部に踊らされて、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」と、日本は神国、天皇は神と妄信し、自惚れ、神だ、神国だ、優越民族だは自分たちが小さい人間であることを隠して大きく見せる民族的誇大妄想に過ぎないことに気づかずに、言ってみれば小人族がガリバーに戦争を挑んだ当然の結末でもあったのだから、その悲惨な運命は甘受すべきだろう。
それでも最高裁判決の『戦争受忍論』を克服するとするなら、「民間戦災者」の無補償を問題とするのではなく、逆に帝国軍人・軍属に対する戦後補償そのものを不当供与とする理論を打ち立てるべきではないだろうか。帝国軍人・軍属はカネを貰って、職業として戦争に参加していた点を突く方法である。
徴兵された人間にしても、志願した人間にしても、無償ではなく、俸給を受けているし、お国のためと、少なくとも表面的には積極的な協力姿勢で参加した。報酬としてのカネを受取り、なおかつ負傷者は傷痍軍人手当てを受け、戦死者の遺族は年金を受取っている。「戦争受忍論」を言うのだったら、カネを貰って戦争をした人間こそが、その被害に対して「等しく受忍」すべきで、「民間戦災者」が国からカネも貰わない無報酬で銃後の守りを強制され、戦争による生活物資の不足を我慢させられ、なおかつ爆撃等で犠牲者を出し、何ら補償も受けない。「等しく」ないではないか。「等しく」するために、これまで支払ってきた傷痍軍人手当てや遺族年金を没収すべきである。没収できなければ「等しく」するために「民間戦災者」にも補償して、国民すべてを「等しく」すべきであると。
職業軍人及び徴兵・志願の有給兵士が戦った戦争が一般国民に見るべき被害を与えない戦争で、国に何らかの利益をもたらし、その利益が何らかの形で一般国民にも還元された性質のもので、そのことに反して職業軍人及び徴兵・志願の有給兵士のみに限られた「戦争犠牲」・「戦争被害」であったなら、平等を期する意味から軍人のみの補償は止むを得ないとしても、一般国民にまで甚大にして多大な「戦争犠牲」・「戦争被害」を波及させた主犯としての責任を無条件に除外しての「受忍」の免除(戦傷病者戦没者遺族援護法に基づく補償)は利益平等付与の観点から言って、著しく不公平だと言えないだろうか。
4年近く前に書いた文章に偶然出会った。道路族のドンと称されている古賀誠の存在性にも関係のあることなので、少し手直して紹介することにします。
2002年5月の北朝鮮脱北者の瀋陽日本総領事館駆込み事件のときの公館関係者の対応を批判して、自民党のドン・野中が言っている。「日本の官僚は自律していない」
なら、日本の政治家は自律していると思っているのだろうか。人間は誰しも自分自身のことは気づかないという欠点を抱えがちである。日本の政治家が自律していたなら、建設的な相互刺激が働いて、自ずと官僚も自律の方向に進むものである。逆もまた真なり。官僚が自律していたなら、政治家も自律せざるを得ない暗黙の強制を受けるものである。相互性から生じている、それぞれの非自律性ではないのか。
ドンと称される存在自体が、非自律の証明であろう。ドンは自律の力学とは正反対の支配・被支配の人間関係に縛られた子分という存在を必要不可欠とし、両者の依存関係を力の源泉として初めて成り立ち得る。ドンとか派閥とかが存在する限り、日本の政治家が自律していないことの証明となり続ける。
(以下手直し部分)
国家における最高級のドンは北朝鮮のキム・ジョンイルが如き独裁者であろう。キム・ジョンイル以下の国民はキム・ジョンイルに従属した関係に押し込められる。そのような上下関係をドンとか派閥の領袖とかは日本社会の一部に持ち込んでいるのである。
ドンとか派閥とかは親分の位置にある人間にとっては都合のいい制度だが、簡単にドンや領袖といった存在を許す社会はドン・領袖の対極に簡単に従属しやすい下位者を抱えこんだ社会でもあり、自律性を無縁とした社会でもある。戦前の軍国主義国家と国民の存在様式が縮図させた形式で今の日本の社会にも生きていることを示す。日本人が意味もなくペコペコと頭を下げるのは、従属慣れしていることの現れであり、地位が上がると椅子に踏ん反り返るのも、自己の上位者であることを誇示し、下位者に対して従属させたい意識の現れとしてある光景であろう。
自分より立場や地位の低い人間にはペコペコしない。自分よりも立場や地位の上の人間には踏ん反り返らない。
他人の支配を受けない、相互に自律した対等な人間関係の獲得への道は、日本の集団主義・権威主義の社会的力学が難しくしているために、21世紀の今日に於いても、果たせないでいる。
6月1日から違法駐車の確認業務が民間委託されると言う。委託先は警備業やビル管
理業など全国74法人、監視人は約1600人。
警備業やビル管理業は元々警察官の天下りの特定的な得意先となっている。役所と天下り先企業との関係前例からすると、談合や随意契約を手段として何らかの高額契約を結んで十分すぎるたっぷりとした利益を与え、その見返りに天下りを引き受けさせ、ときには原稿執筆は役所側の受持ちとした広報雑誌等の制作をやはり高額で契約・下請依頼して、天下り先企業はそれを出版を本業としている会社にさらに下請させて完成させ、完成雑誌はすべて役所が無料で引受け、原稿執筆料名目等で利益の中からキックバックさせて役所側も懐を潤すといった、予算(元は国民の税金)を元手に規定外の自己利益(私利)を相互に搾り出す不当利益授受の仲間関係を築いてきている。
だからと言って、今回の民間委託が天下りOBの居心地をよくし、何らかのキックバックを企んだ前例に倣ったものだとは断言できない。但し委託業務に占める経費は人件費が殆どで、競争入札による契約となると、人件費を圧迫して業務に悪影響を及ばす恐れがあり、特例として随意契約となると思われる点から、中央省庁と天下り先企業との04年度の契約事業の9割以上が高値保証の随意契約という前例から、警備業やビル管理業には元々天下りOBが控えていて、今後の天下りを考慮すると、前例どおりの契約に進まない保証はない。警察自体が裏ガネづくりの名所となっていることも考えなければならない。
私利を引き出す不正取引を防ぐには天下りOB の有無や人数で契約額に差がないか、地域によって格差がないか、監視人の実給与と契約額に開きがあり過ぎないか等を監視するために経理に関わる定期的な情報公開を義務づける必要があるのではないだろうか。
06年4月21日の『朝日』夕刊記事から抜粋。
『超党派議員96人靖国神社を参拝』
「21日朝、春季例大祭中の同神社を参拝した。日本遺族会会長でもある古賀誠元自民党幹事長は参拝後の記者会見で、中韓両国のA級戦犯合祀に対する批判に対して『私は常にお参りするときは心の中で分祀している。お参りする一人ひとりの心の中の問題だ』と述べ、政治問題化すべきではないとの考えを示した」
参拝は自民議員以外に民主、国民新党などの議員が参加、現職閣僚はいなかったが6人の政務官が参拝したという。
古賀誠はA級戦犯分祀には「政治が宗教に介入すべきではない」との反対論者であり、同時に「靖国神社が唯一の慰霊施設であり、新たな慰霊施設の建設には反対」の国立追悼施設建設反対論者でもある。平成14年には当時の福田康夫内閣官房長官の要請で設立された「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の議論に対して財団法人日本遺族会会長古賀誠の名前で、「日本遺族会は、『国立戦没者追悼施設新設構想』を断じて容認できない。その撤回を要請する」と福田官房長官宛てに『要請書』を提出している。
いわばA級戦犯の墓は靖国神社に合祀させておけと一方では言い、その一方で「心の中で分祀」すれば十分と言っているのである。言っていることに矛盾があるかどうかが問題となるが、何よりも「心の中で分祀」していると言っていることがウソかホントかを問題としなければならない。
「心の中で分祀」が単なるレトリックであるなら、その巧妙さ・狡猾さは参拝を「心の問題」とした小泉首相の比ではない。首相は道路公団民営化と郵政民営化問題では対立関係にあったが、仲直りの握手をして、古賀誠流の詐術を見習うべきだろう。
人間のあらゆる行為が心の思いが外に向かって形を取ったものとして現される。だからと言って、外に現れた形から、心のすべてを正確に窺い知ることができるというものではない。外に現すとき、自己の利害に都合のいい形に装う演技や虚偽を介在させるからだ。
問題は古賀誠の「心の中で分祀」がそのような演技もしくは虚偽を介在させているのかどうかだが、介在させた言動と言うことなら、窺い知ることの難しさを逆手に取った人を食ったマヤカシそのものである。
心の中を窺い知るには、外に形となって表れた日常行為の数々から、そこに一貫して流れている心がけを判断材料として、それに対する心証から予測するしかない。譬えるなら、物的証拠のない容疑者に対して状況証拠を積み上げる作業に似ている。
まず最初に古賀誠は自民党道路族の系譜につながり、道路族の巣窟である「道路調査会」の会長を05年11月に石原伸晃前国土交通相が就任するまで4年ほど務めて、「道路族のドン」なる栄誉ある称号を得るに至っている。この一つを以てしても、古賀誠なる政治家が自らのホームページで言っている「誠を貫けば 天まで通じる 至誠通天 政治に夢 誠 愛」なる言葉に恥じないウソ偽りのない人物であることを窺い知ることができる。
そもそも日本道路公団は1956(昭和31)年に日本道路公団法に基づいて有料道路・有料駐車場などの建設・管理のために全額政府出資で設立された特殊法人だということだが、その経営方針は天下りの温床・主導で談合を信条とし、道路特定財源を打ち出の小槌として法外なまでの談合高値発注と数多くの不採算路線の各地元バラ撒き建設で40兆円という赤字を垂れ流してきた。そのような悪魔的な日本道路公団の民営化政策に同じ党の国会議員として反対し、道路特定財源の見直しにも反対している。
反対理由は、旧建設省・現国土交通省の道路行政と建設・管理主体の日本道路公団とが一体となった道路政策から利益を受けていた主たるた受益者の一人であったからに他ならないだろう。道路族といわれる所以である。何ら利益を受けていなければ、ズサン談合経営組織の民営化に反対するわけがない。
談合経営を受益者として支え、その受益で既得権益を築き上げては利益誘導政治を展開して政治家としての力を蓄えていき、実力者へとのし上がった。実力者として手に入れたのが4年間の〝道路調査会会長〟という名誉ある名前と地位が保証するより確固とした既得権益であり、それを土台とした一段上の実力者、ドンという地位であったはずである。
古賀誠は自らの講演で次のように述べている。不採算道路や過剰規模道路の建設中止が民営化目標であるのに対して、「需要動向や金利などのリスクも考えておく必要がある」という条件つきながら、「高速道路の整備については残事業が2300キロメートルある。この残事業は、2割のコストダウンと有料料金の活用によって16兆円が確保できれば、建設はできる」
談合経営に便乗・受益していた今までのコスト無視の姿勢をどこ吹く風として、「2割のコストダウン」と民営化必至の段階に至って初めてコスト意識を持ち出すとは一貫性を欠くご都合主義であるばかりか、「残事業」すべての建設は民営化目標の骨抜きにつながる以上、道路族としての既得権益擁護の使命を最優先させる自己利益からの主張であろう。
昨年の郵政民営化法案の最初の採決では、反対の姿勢を首尾一貫させて正々堂々と反対票を投じた亀井静香や綿貫といった守旧派や、あるいは子飼い議員である野田聖子の〝反対は正義〟の態度と一線を画して、古賀誠は反対派ながら、風当たりを巧妙に嗅ぎ分けたのか、本会議を〝正々堂々〟と欠席して、子飼い議員まで裏切る棄権を選択している。
この経緯を説明すると、「心の中」の基本は反対だが、反対票を投じるよりも万が一の衝撃を柔らくすることができるとの計算を介在させて、ワンクッション置いた最終形態が欠席であって、「心の中」と実際の行動がものの見事に一致しない顕著な例であろう。反対派議員から裏切り者呼ばわりされたのも頷ける。このことは古賀議員の行動が「心の中」と実際の姿とで必ずしも一致しているわけではないことの証明となり得る。
ご存知のように郵政民営化法案は参議院で否決され、小泉首相は衆院の解散総選挙に打って出て、自民党反対議員は党の公認を得られなかったばかりか、いわゆる党公認の刺客候補をぶつけられた上、選挙後、落選・当選に関係なしに離党勧告や党除名処分を受けている。
だが古賀誠は、武部幹事長が小泉首相の方針として欠席・棄権組に対しては「党公認」との引き替えに「郵政民営化と小泉構造改革に賛成する」旨の文書を提出するよう迫られると、反対から棄権に譲歩した変節をさらに変節させて、賛成の文書を党本部に提出し、反対を貫いた同志に対してはさらなる裏切りを、自らに関しては最大級の自己保身を発揮して〝正々堂々〟と自民党に居残って党公認をまんまとせしめた上、ホテルでの演説で、「総理総裁が情熱を傾けている以上、私たちも協力する。次の国会でできるだけ早く再挑戦し、実現していくのは最大の責務だ」と、賛成の文書を出しただけでは心にもない態度と取られると不安に駆られたのか、公にも保証を与える一層の自己保身の上塗りを図っている。
「名は体を表す」という言葉があるが、「心の中」と外の姿が一致して、初めて「名は体を表」しているとすることができる。果たして古賀誠の〝誠〟は「名は体を表」している類に入れることができるのだろうか。
小泉首相の郵政民営化に向けた「情熱」は古賀誠には値しない「情熱」のはずであったし、小泉首相からしたら、古賀誠の反対「情熱」はやはり値しない「情熱」で、相互に無価値と見なしていたはずだが、小泉首相は良くも悪くも自らの価値観を貫き、古賀誠は自らの価値観を貫き通すことができずに、相手の価値観の軍門にあっさりと降った。例え「心の中」の姿は違っていたとしても。一致させてこそ、「誠を貫けば 天まで通じる 至誠通天 政治に夢 誠 愛」を裏切らない態度と言うことができるというものだが。
民営化された道路建設での〝着工凍結〟予定を〝着工先送り〟とする形の整備方針の国土交通省の決定をマスコミは小泉後を待つ民営化の骨抜きだと解説しているところをみると、道路公団民営化に関しては実質的な勝利は反対派ということになり、古賀誠が様々な変節・裏切りを働いて〝正々堂々〟と自民党に居残った甲斐があったとしたら、やはり「心の中」と外に現れた姿の不一致を物語る傍証となり得る。寝業師と言われる所以がここにあるとも言える。
以上僅かながらでも見てきた古賀誠という人間の経歴から判断した場合、「心の中で分祀」なる言葉が「心の中」の実際の思いと一致すると見ることができるかどうかである。
「心の中で分祀」がウソ偽りないものなら、昨年の6月に古賀誠が会長を務める日本遺族会の見解として「首相の参拝は遺族会の悲願なので粛々と進めて欲しいが、それと並行して近隣諸国にも気配りと配慮が必要で、理解してもらうことが大事だ」と纏めたことに会長である古賀誠が関わっていないはずはなく、その関わりが野中広務から引き継いだ中国とのパイプ役としての立場からの体裁を飾る見せ掛けのメッセージだったなら、「心の中」と外の姿との不一致を示し、何をか言わんやとなるが、「首相の参拝」と「近隣諸国にも気配りと配慮」を同時に満足する形で実現させるとしたなら、「心の中で分祀」が可能なら、「心の中で」参拝も可能となるはずで、古賀自身がまず身を以て実際の参拝は控えて、「心の中で」参拝することによって「近隣諸国」に「気配りと配慮」を示し得る模範を垂れて、首相の参拝も同じ形式で願うことで遺族と「近隣諸国」双方の希望に添うことができるのではないだろうか。「心の中の分祀」は「心の中の」参拝をまってこそ、誰からも勘繰られることのないウソ偽りのない真正な事実とすることができるはずである。
それをしないところを見ると、「心の中の分祀」は合祀批判をかわすと同時に合祀を限りなく正当化させて分祀の動きを封じる、そのための演技・虚偽の類で、実際はA級戦犯分祀反対意思に添って、合祀されているA級戦犯をたっぷりと追悼した参拝だったのではないだろうか。あなた方は戦犯ではない。戦前の戦争は侵略戦争などではなかった。アジア解放の正義の戦争だったと。
「市民ひとりひとり」
当選して向けられたマイクに向かって喋った言葉。
「小沢新代表の新しい体制のもとで党全体が一枚岩となって選挙戦を戦えたことが一番嬉しかった」
当選した途端に大田候補に一票を投じた有権者のことは忘れてしまったらしい。 「雇用・高齢者福祉・教育の現場に格差が広がっていると小泉改革を批判し、『負け組ゼロの社会が必要』」(06年4月24日、朝日朝刊)との主張を掲げて選挙戦を戦ったということだが、有権者忘れからすると、民主党が掲げた選挙戦用の聞こえのいいキャッチフレーズに単に便乗しただけのことかもしれない。
26歳の若さで初挑戦・初当選、しかも僅差の当選で直後の感想が「感極まって言葉にできないくらい嬉しい」は理解できるし、期待度が高く、新代表に就任したばかりで新鮮味がまだあるから小沢代表を前面に出したい気持も理解できるが、党内事情が影響することはあっても、当選・落選はあくまでも票の数となって現れる有権者の意思にある条件性を打ち忘れて内輪の評価を持ってくるとはあまりにも自分たち中心で、小さい。「私が選挙戦で主張した政策は必ず実現させて、支持してくれた有権者の期待に応え、次の選挙では955票といった僅差ではなく、1万も2万も票差がつくような支持を集めたい、集めます。民主党は成長します。政権交代に向けて成長しまう」ぐらいのことはなぜ言えなかったのだろうか。26歳の年齢ではないものねだりなのだろうか。
「この勝利が小泉改革の矛盾を次々と暴露していくキッカケとなるはずです」といった先を見据えた発言の一つでも。
朝日新聞の出口調査分析では、太田候補が無党派層を引きつけたものの、「女性と若年層は『親自民』の傾向を強めている。特に女性は大きく自民に傾いた」(06年4月24日朝刊)というこの現象は「民主の女性候補が女性有権者に嫌われるのは、最近の選挙では全国共通」のものだと解説していたが、だからと言って今回も一般的傾向に添った動向と片付けていいものかどうか。
「負け組ゼロの社会」とは言っているが、政権を握っていない民主党が政治を動かしているわけでもない状況からその実現性を考えると、26歳で会社経営者、その上国会議員ともなればバカにならない歳費が手に入っていいこと尽くめとなり、「負け組み」とは無縁なのは言っている大田候補本人だけとなるかもしれない可能性への猜疑が妬みと嘲笑が混じった投票意志を生じせしめて一般的傾向とは異なった女性有権者の票の離反となって現れたといった事情はなかっただろうか。
少なくとも〝あった〟と考えて、当選してよかったのは自分と議席が一つ増えた民主党だけで、〝負け組ゼロ社会〟がスローガンのままであり続けることがないように常に意識してかかるべきでだろう。そのためには政権を握って、自らが政治を動かす立場の一人とならなければならないし、それを可能とする重要な条件は「民主の女性候補が女性有権者に嫌われるのは、最近の選挙では全国共通」という障害を、自身も女性としてクリアする力とならなければならない。
そうもなっていなのに、同じ民主党の議員が、「県会議員をやっていたのに、やめて立候補するなんて、人間力が凄い」とテレビでバカな発言をしていた。「人間力」はあくまでも前提であって、前提と結果が常に結びつくとは限らない。自分の力が大いに与って党が掲げ、自分も掲げた政策が実現に向かう結果を生んで、初めて「人間力」云々が言える。
世の中期待されて議席を獲得しながら、タダの頭数で終わる国会議員はいくらでもいいるはずだ。そういった議員の方が多いのではないか。民主党にしても、政権交代を実現できなければ、全員が頭数に過ぎなかったことになる。しかも歳費というバカにならないカネのかかった頭数と言うことになったら、民主党が自民党攻撃の一つに掲げている税金のムダ遣いの共犯者に成り下がる。
民主党は政権交代を実現できない状況では歳費をタダ取りしているぐらいの自戒は持つべきだろう。タダ取り状況から脱するためにも、政権交代を絶対使命としなければならない。
ブッシュと胡錦涛の米中首脳会談後の共同記者会見(06年4月20)で次のようなやり取りがあったという。、
「中国は自由選挙のある民主国家になるのか」
「あなたの言うところの民主国家の意味が何なのかよく分からないが、民主化なくして、現代化なしだ。中国の国情と人民の願いに沿って、政治体制改革を進め、社会民主政治の発展に努める」(06.4.22.『朝日』朝刊)
翌4月21日のエール大学の講演での胡錦涛主席の発言とそれに対する解説を4月22日の『朝日』夕刊で見てみると、
「他国の政治制度のコピーはしない」
「中国の民主化を『国情に沿って進める』」
「民主化を求める米国などを意識し、中国独自の『社会主義下での民主化』を推進する考えを改めて強調した」
「講演の内容は共産党独裁を前提にした発言に終始。米政府が前向きに評価した米中首脳会談後の『民主化なしに現代化なし』という発言にも言及したが、『原則』は譲らない姿勢を明確にした」
中国の民主化を促すために、一党支配ではない複数政党制・自由選挙に則った民主化を条件に首相の靖国参拝の中止と国立追悼施設建設を約束して、戦没者の墓をそこに移して参拝場所とすることを中国に提案したらどうだろうか。
靖国神社の参拝に拘っているよりも、実現したならの話だが、世界史に名の残る偉業となるのではないか。例え中国が内政干渉だとかの口実で拒否したとしても提案するだけでも価値がありそうに思える。中国が拒否した場合、少なくとも首相が靖国参拝を強行できる理由の一つになる。
できないだろうな。現在中国が一党独裁であることが唯一日本が非難できる点であって、それを失ったなら、中国に対して胸を張ることのできて大事な宝物となっている優越性を自ら無効にする矛盾を犯すことになるばかりか、中国が民主化したら、そう遠くない将来、すべての点で日本は中国に超えられてしまうだろうから。その恐れへの予感が日本の反中国感情の土台にある。
「小泉壊革 5年の軌跡(上) 派閥解体冷徹貫く」を題名とした記事が朝日新聞((06年4月18日)朝刊に記載されている。主な内容を拾い読みすると、
「小泉政治の時代は、派閥溶解の5年だった。首相就任時に25人前後だった無派閥議員は70人を越え、8つあった派閥の半分で領袖が代った」
「01年4月23日、新潟県長岡市のJR長丘駅前。田中真紀子衆院議員隣に立った小泉純一郎氏は『私は初めて派閥の論理が通用しない自民党総裁になる。派閥の時代は終わった。政治は動く』と声を張り上げた。総裁選は翌日に迫っていた」
「首相は昨年9月の総選挙で、郵政民営化法案への賛否を『踏み絵』にした。公認権を武器に選挙戦は党主導で進み、派閥の『選挙互助会』としての機能は薄れた。もとより中選挙区制度と異なり、小選挙区制度では自民党内の派閥同士が競うことはない。派閥の支援より、『党首力』が勝敗を大きく左右する。
総選挙後の昨年11月、首相は太田誠一・党改革実行部長に『派閥の役割を党の機関が肩代わりするよう取組んでほしい』と指示している」
(派閥の)「惰性が断ち切られたのは、人事や選挙での『首相(総裁)主導』が徹底したからだ。自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた。民主党の菅直人代表代行は『自民党内政界再編成をやった』と表現する」
果たして記事に書いてあるように小泉首相は派閥を解体し、派閥の論理を通用しなくしたのだろうか。「自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた」と確実に言えることなのだろうか。
派閥への傾倒は一人の力を数の力に転換させることで、より大きな力を生み出す自己の集団化を意味する。当然の反対給付として、集団の支配を代償としなければならない。自律的行動は許されず、常に派閥の束縛を受け、集団の一人として行動しなければならない。自己を集団(派閥)に合わせることによって、自己を成り立たせ可能となる。
そういった集団への依存は新人議員のときは有効であっても、新人ではなくても、自ら見るべき政策を創造し得ない議員には力となり得ても、独自の政治センスを持つに至りながら、派閥の中でそれを有効に生かしきれない議員にとっては派閥という集団は逆に自己を束縛するだけの存在と化すに違いない。だが、派閥の力で当選を続けることができた恩義と、独立した場合の数の力の喪失による自己弱体化が派閥へと縛り付ける。
同じ記事が「安倍晋三、麻生太郎、福田康夫、谷垣貞一各氏。ポスト小泉候補のうち派閥領袖は谷垣氏だけ。津島、古賀・丹羽派の複数の若手は、安倍氏を囲む会合を重ねる。その一人は『派閥の意向がどうであっても、安倍氏支持を推す』と話す」と、派閥の束縛を受けない姿を報じているが、自己の所属する派閥の利害では動いていなくても、そこから離脱して、どの派閥にも属さない行動となっていない以上、「安倍氏支持」に限定した派閥外行動でしかない。それを可能としているのは、安倍晋三が次期総理・総裁の最有力候補に挙がっていて、バックとしている小泉支持という力によってなおのことプラスされる近い将来高い確率で手に入れると確実視できる総理・総裁の〝力〟(=権力)に自らの力を寄り添わせ、その恩恵に与ることで取得できる、派閥への集団化に代る自己の勢力化が派閥の制裁から自己を保護してくれる力となるからだろう。寄り添った大樹が強力な〝陰〟を差し出してくれると言うわけである。派閥側も除名したら、数を失う自己利害から、除名に踏み切れないという事情もあるに違いないし、安倍政権になった場合の人質とし、そこから何らかの利益を得ることができるという計算もあるに違いない。
安倍政権成立による反対給付は、若手なら副大臣とか各委員会の委員といったポストの配分に与ることだろう。当面の論功行賞はなくても、いつかは約束されるだろうし、総理・総裁の勢力に加わることによって、少なくとも活動の場は広がる。総裁候補と目されているものの、その目がない谷垣氏に他派閥からその派閥の意向を無視した個人的な支持の具体的な動きが果たしてあるだろうか。目がない以上、自己を保護してくれる〝陰〟、あるいは何らかのポストが期待できる大樹とは当面はならないからだろう。
確かに小泉首相は派閥の力を弱めはしたものの、新聞が書いているように「派閥解体」を果たしたわけではなく、自民党総裁になる前に自ら宣言したように「派閥の時代は終わった」わけではない。閣僚人事にしても、派閥の論理を通用させなくした。しかし次期総理・総裁にその確率が高い安倍氏を支持する他派閥からの若手の動きと同じように、支持率の高さをも力とした「首相(総裁)主導」への派閥を超えた集団化・勢力化の動きが既に従来の派閥の論理を無力化していたと言えないだろうか。いわば多くの議員の間で小泉首相への〝寄らば大樹の陰〟の動きが生じた結果、それが一種の派閥集団(=擬似派閥)となって、その勢力化・集団化が一方で「首相(総裁)主導」へと力を与え、一方で派閥の従来的な論理を弱体化させたということではないだろうか。
郵政民営化問題など様々な要因で確かに「首相就任時に25人前後だった無派閥議員は70人を越え、8つあった派閥の半分で領袖が代った」が、無派閥議員の多くを占める昨年の総選挙圧勝で初当選したいわゆる小泉チルドレンその他が武部幹事長主導の新人教育に参加していること自体が派閥への集団化に代る「首相(総裁)主導」勢力への自己の集団化を示すものと言ってもいいのではないだろうか。党主導の新人教育を通して、新人無派閥議員を擬似派閥化していると言える。
いわば「首相(総裁)主導」を大きな勢力・大きな集団としたことを通して、それを一種の擬似派閥に形成したからこそ、それを主体的な基盤とした派閥の論理を駆使することで、自らも所属し、所属していることからも可能とした自民党最大派閥である森派をも無視して、「人事や選挙での『首相(総裁)主導』が徹底」できたということだろうか。
「首相(総裁)主導」が擬似派閥であることの証明は同じ記事の次の箇所が示している。
「首相は今、『小泉チルドレン』との会合などで、『解体後』の派閥像についてこう語る。
『派閥は、首相を作るために集うものでないといけない。総裁候補がいないのに人事や選挙のために動くのは不純だ』
総裁選で候補を支援するのは、派閥本来の機能だ。だが、人事や選挙などでの機能を、総裁をトップとする党執行部に譲り渡してきた派閥に、それだけの力はあるのか」
「派閥の時代は終わった」と自ら宣言した小泉首相自身が「派閥は、首相を作るために集うものでないといけない」と新しい派閥像とその役目を語っている。「総裁候補がいないのに人事や選挙のために動くのは不純だ」と従来からの役目は否定している。
しかし、「不純」説は詭弁だろう。派閥を勢力とする集団が存在する以上、勢力の伸張を属性の一つとしているのだから、「総裁候補がいな」くても、「人事や選挙のために」いくら「動」いてもいいわけで、その効果次第で「首相を作るため」の派閥へと将来的に変貌を遂げないとも限らない。
そういった派閥の動きに対して、相手の政治的才能を考えずに派閥均衡の振り分け人事を発したり、適材適所を考えずに、当選回数や派閥が出してきた候補にさほど重要ではない閣僚ポストを宛がうといったことをする任命権者側の派閥勢力に囚われた政治手法こそを問題としなければならないのではないだろうか。問題とはせずに、「総裁候補がいないのに人事や選挙のために動く」派閥を問題とした。
逆説するなら、言っていることが新しい派閥像として自民党内で市民権を獲得できる種類のものであったとしても、総裁候補を抱えているからこそ言える自己派閥活動の正当化であって(総裁候補を抱えていない派閥が、「総裁候補がいないのに人事や選挙のために動くのは不純だ」などと決して言えない)、その自己利害性が従来からの派閥力学からのものでないことは確かだが、派閥単位の考え、派閥単位の総裁選考を意図していることに変わりはなく、それゆえに例え新しいものであっても、派閥論理からの、その範囲内の主張に過ぎないことを証明している。
自らも所属している自民党最大派閥森派の森会長が時期が早すぎると反対している意向を無視して安部晋三を小泉首相自身がポスト小泉と認定したこと自体は、小泉首相の派閥論理が森派を基準としたものではなく、「首相(総裁)主導」を基準とした発想ではあっても、「首相(総裁)主導」勢力が擬似派閥として、所属議員のうち小泉支持議員と他派閥の支持議員を足して森派を上回る勢力となっていることから、ある部分可能としている事態でもあるだろう。
総裁選挙に関しては投票権を持つ党員への締め付けが派閥議員の数を人気が上回って影響するとは必ずしも言えないし、総理・総裁になってからの実際の政治活動は、やはり派閥所属議員の数がより多く力となるだろうから。
政治家一人一人が自らの考えに従って行動し、例え同じ考えの他の政治家と連携して協同することはあっても、その人間の支配を受けない。あくまでも自己を自律的な立場に置く。いわば自己自身の支配者は自己とすることによって、常に自律的でいられる。そういった姿が本来の姿であって、政治家一人一人がそういう姿形を取ったとき初めて派閥の解体と言えるのではないだろうか。
だが、決してそういう姿は取らない。日本人自らが自らの行動様式としている集団主義・権威主義から免れることはできないだろうから。
森派を将来受け継ぐのは小泉首相だろう。総理・総裁でなくなった彼が自らの影響力を保持するためには、自派閥から総理・総裁を出し続けるか、自派閥の影響力で他派閥の議員を総理・総裁に据えるか、かつての田中派以降の平成研究会がしてきたことと同じことをすることによって実現できる。
そのことは「首相(総裁)主導」の擬似派閥から従来の派閥への先祖返りを意味するが、もし次期総理・総裁以降が小泉首相と同様の「首相(総裁)主導」の擬似派閥を基盤として人事や政策を自ら握ろうとした場合は、両者間に緊張と拮抗をもたらすことになる。
読売新聞の2006年4月13日15時39分のインターネット記事の「与党の前文案」は次のようになっていた。
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類福祉の向上に貢献することを願うものである。我々はこの理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊ぶ豊かな人間性と創造性を備えた国民の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに我々は日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓(ひら)く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」
同じ内容を部分的に扱った『朝日』の06年4月13日朝刊記事は、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと』とすることで合意した」となっていて、問題となっている〝愛国心〟に関わる「我が国と郷土を愛する」との文言が読売には見えない。
どういうことなのか分からないが、言葉の使いようでどう韜晦し、どう暗示しようと、気持の上では〝国を愛する心〟を一人残らずの国民に持たせたいと願っていることだけは確かであろう。
〝愛国心〟を代償する精神に「公共の精神」を持ち出したのだろうか。何を以て〝愛国心〟とするのか。何を以て「公共の精神」とするのか。所詮、スローガンもどきのことしか言えないだろうが。
ついでに現行の「教育基本法」の「前文」を並べてみる。「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貞献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」
現行・改正案共に「前文」の理念は素晴しいが、現行の理念を現実の人間は果たして体現してきたのだろうか。体現できなかったから、改正するのだとしても、体現できなかった理念をどういじろうと、体現できないことに変りはないのではないだろうか。
改正案は「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家」としているが、事実日本は「民主的で文化的な国家」を「築」き得ていたのだろうか。今の日本が「民主的で文化的な国家」だと言っているのである。素晴しい映画を作り、素晴しい音楽を奏でようと、あるいは芸術的な建築物を如何にたくさん造ろうと、各種技術に優れていて、高度な機能を備えた携帯電話を誰もが当たり前に使っていようと、人間の一般的な社会上の行為・生活上の行為が「民主的で文化的」でなければ、意味を成さない。
前提が事実に反していたなら、目標とする「発展」は望みようがない。
また、「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊ぶ豊かな人間性と創造性を備えた国民の育成を期する」としているが、社会の大人が既にそういった「国民」になっていなければ、子供に求める資格はなく、当然子供への指針とはならない。大人が体現してもいない絵空事を求めることになるからだ。
もし新旧共に「前文」の理念が絵空事で終わるとしたら、言葉の遊びでしかないことになる。さも立派らしいことを言うだけの誤魔化しを働いただけで終わる。
下、上を見習う。子供は親の考え方・生き方の影響を否応もなしに受ける。その影響とは肯定的な反応、もしくは否定的な反応として受け止められるが、どちらか一方に偏るとは限らず、部分部分で肯定・否定が分かれる場合もある。勿論、子供の対人関係は親との関係がすべてではなく、教師とも持つし、友達とも持つ。大人になってから自分の生き方に大きく影響を与える人間との出会いもあるだろう。親がすべてではない。世の大人がテレビ電波の形でいくらでも家庭に入ってくる。
同じ年齢の友人から、その考え方に強い影響を受けるといったケースもあるだろうが、生き方の基本は下が上を見習うのであって、上が下を見習うのではない。
いわば子供たちは親や教師を含めた社会の大人の考え方・生き方を直接的・間接的に見習い、それを教育として自らの考え方・生き方を形作っていく。となると、親や教師を含めた社会の大人は自らの考え方・生き方そのものを子供たちの考え方・生き方の教材とすべく、常に意識して行動していかなけれバならない。
〝愛国心〟などと難しいことを考えるまでもないことではないか。それでも〝愛国心〟に拘りたいなら、法律に規定するのではなく、〝上〟に位置する社会の大人が〝愛国心〟を具体的に示すことによって、自然と〝下〟に位置する子供たちに見習わせる教育方法を採るべきだろう。〝愛国心〟の具体的体現とは、靖国神社に戦没者を参拝するといったことではなく、そんなことは形式的にも行えることだから、政治家・官僚で言うなら、利権行為・既得権行為に絶対走らない、一部の利益組織と絶対癒着しない、誠心誠意自らに課せられた役目に励み、公金を私腹したり、流用したりを絶対しない、族益だ省益だと利己主義行為を絶対しない、権力を絶対悪用しない、一般国民に対して自分を何様だといった上位権威に絶対置かない、常に公明正大である――そういったことを厳密に守って、〝愛国心〟の教材とすべきではないだろうか。
社会の大人たちが体現できない理念を〝教育基本法〟にいくらちりばめ、それを同じく体現していない教師に子供立ちに向けていくら教えようとも、伝わるはずはない。現行の教育基本法の「前文」の理念が理念のための理念で終わったのはそのためだろう。改正しても、今の日本の大人たちの姿からしたら、同じ轍を踏むだけである。まず大人たちが理念どおりの人間に成長することを前提としなければならないのではないだろうか。
実現不可能な理念のちりばめは、公共施設を如何に素晴しいテーマを与え、如何に莫大なカネをかけて最先端の建設技術で造り上げようとも、利用者に精神的な歓びや満足を還元できないハコモノと同じで、維持費も賄えない膨らむ一方の赤字という役にも立たない遺産は、教育荒廃に相当する情けない成果としてあるものだろう。
ハコモノづくりの名人である日本人が法律や制度に於いても外形は立派に仕上げるハコモノと同じく立派な条文を備えることはできても、人間形成や生活形成に役立つことなく終わったとしても、無理のない話なのかもしれない。
横田めぐみさんの夫がDNA鑑定で韓国拉致被害者だとほぼ確定したことを受けた日本の動きに、韓国は日本から持ちかけられた場合の共同調査に否定的な考えを示した上、その問題を韓国として個別に取り上げる予定のないことと、北朝鮮に拉致被害者の生死確認や送還に応じることを交換条件に経済支援を提案することを表明して、拉致問題では独自行動を取る方針であることを明らかにした。
このような韓国の態度に対して、テレビで、日本人が解決のために経済制裁、その他で圧力をかけようとしているときに、逆に経済支援して北朝鮮を助けようとする、自国民を守ろうという人権意識があるのだろうかと熱弁していた評論家だかがいた。
確かに韓国の態度は一見したところでは冷淡に見えるが、下手に藪を突つけない韓国なりの重大な事情があることに評論家氏は気づいていない。
韓国の映画監督の第一人者だったとされる申相玉(シン・サンオク)氏が元女優の妻と香港から北朝鮮に拉致されたのは1978年(横田めぐみさん拉致は1977年)、金正日の下で北朝鮮映画の製作を命ぜられた。しかし妻と共に在ウィーン米大使館に逃げ込んだ後、韓国への帰還を果たしたのが1986年(その翌年に大韓航空機爆破事件は起きている)。当然韓国当局の事情聴取を受けただろう。申監督夫妻の後の共著『闇からの谺』には拉致は金総書記の直接の指示によるものだったことを金総書記から直接聞いたという話が語られているというから、韓国当局の事情聴取の際、既にそのことを明かしていたはずである。
申夫妻が韓国への帰還を果たす3年前の1983年、当時の全斗煥韓国大統領の命を狙って、それを果たせず、韓国の4閣僚を含む17人を死亡させたラングーン爆破事件は、逮捕した北朝鮮工作員の裁判での軍首脳から直接命令を受けたとの証言から、韓国では金正日書記の直接指令による事件ではないかとの疑いを持ったと言う。それから3年後の申監督の証言はラングーン事件の首謀者は誰か、十分な心証になり得たはずである。そしてその翌1987年の金賢姫らに行わせた大韓航空機爆破事件は外交特権を利用している手口と、今までの経緯から、申監督だけではなく、他の韓国人拉致も爆破も金正日を首謀者とする国家犯罪だと確信しただろうことは疑い得ない。
しかし当時の韓国は軍政から民主体制への移行期で、学生を主体とした民主化運動が吹き荒れ、政情は不安定な上、現在程の経済国家ではなかった。北朝鮮との関係が緊張したとしても、戦争に至る武力衝突の防止を最優先課題としなければならなかったろう。
大韓航空機爆破事件から3年後の1990年10月の東西ドイツの統一。その後のドイツの経済不況。それは周知のように東ドイツの経済規模の劣悪さが西ドイツに負担となって押しかぶさったからで、そのことが韓国に教訓を与えたに違いないが、それはまだ警戒の段階ではなかったろうか。南北統一を現実的な政策として語る機は熟していなかっただろうから、西ドイツだからこそ、統一に踏みこたえることができた、我々の場合だったら、どんなことになっていたか分からないぞといった自戒を肝に銘じた程度だったに違いない。
1995年8月、北朝鮮は大洪水に見舞われ、農業が壊滅的な打撃を受けた上、それ以前のソ連・東欧の社会主義体制の崩壊の影響から経済が落込み、餓死や病死、国外流出などで、1995年に総人口2392万人あったのが、韓国筋の発表で、うち250~300万人の人口減をもたらしたと言う。1997年に金正日が朝鮮労働党総書記に就任。1999年、5年ぶりに発表された国家予算は規模を半減させていた。国力が2分の1に低下したと言うことである。
共産主義大国ソ連でさえ、その体制が崩壊したのである。十分にあり得る北朝鮮体制の崩壊という最悪の形で南北朝鮮の統一ということになったとしたら――ドイツ統一の教訓は単なる警戒から悪夢となって韓国上層部を襲い掛かったということは十分に考えられる。自分たちが望まない段階で、統一を外部から強制される恐れが生じたのである。
1998年2月に韓国大統領に就任した金大中が前金泳三政権の対北強硬政策を放棄し、北朝鮮との宥和を図って採択した太陽政策は、悪夢を現実の悪夢としないためのギリギリの選択ではなかったろうか。金正日体制の崩壊の過程でクーデターを誘発し、それが内戦に発展した場合、ドイツ統一時のように北朝鮮国民が難民と化して韓国に無秩序になだれ込み、韓国社会を混乱に陥れてしまうことは十分に計算に入れなければならない。そういった形の北政権崩壊による南北統一という最悪のシナリオの絶対回避のために、悪名高い独裁政権を支えるという滑稽とも受取れるパラドックスを実現させなければならなかった?
韓国の「政府関係者はこう語った。『今、北が崩壊したら、韓国も共倒れする。支援を続けて北の経済を「管理」し、徐々に変化を促して国際社会に関与させる。そうすれば将来の統一の負担も減る』」(03年7月27日『朝日』朝刊)。
これは金大中の次の大統領に2003年3月に就任した盧武鉉現大統領が前政権から受け継いだ太陽政策に添った逆説的対北政策であったろう。北の経済を支援することは金正日独裁体制を支援するという二律背反を展開することでもあるが、北経済が発展し、南北の経済格差をある程度埋め合わせたところまで待たなければならない。そのことを南北統一の絶対的前提条件としなければならない。
「02年韓国からはコメ40万トンのほか、トウモロコシ10万トン、肥糧10万トンなど、政府・民間あわせて1億3492万ドル分の人道支援が入った。中国の支援額は不明だが、韓国を除く国際社会の総支援額が2億5727万ドルだったのと比べると、かなりの比重」(同記事)を占めているという支援規模も、同じ政策に添った援助措置であり、韓国人拉致に関しても、日本とは個別に拉致被害者の生死確認や送還に応じることを交換条件に経済支援を行うという政策にしても同じ考えからだろう。
藪を突ついて、金正日を拉致首謀者として白日の下に突つき出した場合、金正日の国際的な立場を決定的に失わせしめて、そのことが国際的な経済制裁包囲網へと連動することは十分に考えなければならないことであろう。韓国にしても国際社会の一員としてその決定に従わざるを得なくなって北経済が窮地に立たされたとき、あるいは従わなかったとしても、韓国や同じく従わなかった場合の中国の経済支援のみでは追いつかない状況となった場合、当然金正日は国内的な立場をも失うこととなって、自身の足掻きとは関係なしにその地位が危なくなり、その結果としての北朝鮮の国内的混乱が韓国側にとっての最悪のシナリオに発展しない保証は限りなく頼りないものとなる。
日本人拉致が金正日を首謀者とした北朝鮮の国家犯罪だと気づかなかったのは日本だけなのではないか。小泉首相の最初の訪朝時にはそのような論調はなかった。金正日が日本人拉致を認めたとき、それをさも小泉首相の訪朝の成果の如くに持てはやす論調は見ることができた。しかし、自分が首謀者だとした事実認定ではなかった。
金正日が日本人拉致は「特殊機関の一部部署」による「恣意的な」犯行だと説明したのに対して、小泉首相が腹の中で首謀者はお前のくせにと思ったとしたら、訪朝のお土産にと言われた大量のマツタケを当たり前に受取ることはできなかったろう。北朝鮮は日本から援助米を受取っている。マツタケといった高級食材を贈る立場にはない。日本側にしても、受取る立場にない。食糧不足の国民に分けてやってくださいと遠まわしに断ったはずだ。しかし、誰にどうおすそ分けしたか分からないが、貰って帰ってきた。しかも、後にマスコミの報道で露見することになるが、日本国民には内緒にしていた。もしも小泉首相がマツタケを土産にと告げられたとき、最大限のにこやかな笑顔で金正日と握手したとしたら、目の前にいる男が拉致の首謀者だと気づいていないからこそできることだろう。
北朝鮮の報告として、日本人拉致関係者一同を職権乱用等で裁判にかけ、死刑、その他の長期刑に処したと日本が発表したとき、韓国の政府関係者は誰一人その内容を信じていないかったに違いない。
もし日本が拉致解決で韓国に共同歩調を求めるなら、拉致の首謀者が金正日であると判明した場合に誘発されるかもしれない北朝鮮の難民の相当分を引き受ることと、外部的な強制からの南北統一によって発生した場合の韓国経済の危機に日本は多大の援助を与えて、その危機を除去する担保を保証して初めて共同歩調を求めることができる。
難民は日本にも直接流入することが予想される。単一民族主義の日本が北からの難民を流入する人数だけ快く受入れるとは思えないし、韓国への経済支援が日本の経済そのものを傾ける恐れがないとは言えない。その種の担保が不可能なら、拉致問題に関わる韓国の態度を、自国民を守ろうという人権意識があるのだろうかと批判する資格は日本人の誰一人持たない。
勿論核開発やミサイル開発といった北朝鮮経済を圧迫し、韓国の逆説的北支援政策ばかりか、世界各国からの援助の効果を殺ぐ、あるいは無化するカネのかかる軍拡政策は中止させなければならない。それも中止させることができず、北への経済支援が金正日独裁体制への支援にもつながる一方という大いなるジレンマに耐えられないということなら、その独裁体制を拒否する残された手段がアメリカの武力攻撃しかない場合は、ある程度の難民は阻止できないだろうが、南北統一は先送りした形で、北朝鮮のみの占領とし、国民も経済もすべてを北朝鮮国内のみで管理する形でその経済回復を図ることを優先政策としなければならないのではないだろうか。
アメリカの先制攻撃のみが、韓国やその他の国を危険となる形で決定的に巻き込まない金正日独裁体制打倒の唯一有効な政策かもしれない。
前回の「内向き・縮み志向の自公の『愛国心』」に引き続いて、4月16日(06年)日曜日NHKテレビ「日曜討論」での各党の「教育基本法」についての議論から。勿論、〝愛国心〟表現が焦点となっている。
共産産党市田書記局長「今の教育基本法の精神が実施されてこなかったところに問題があったのであって、一体教育基本法のどこに問題があるのか。愛国心という問題はそれぞれの国民の自主性に委ねるべきで、国家が法律でそういうことを定めるということは、一人一人の内心の自由をやっぱり侵すことにつながると思う。私たちは反対します」
そのとおり、〝愛す〟・〝愛さない〟は精神性に関わる利害行為。例え国が相手であっても、「愛さなければならない」とするのは精神の自由に対する侵害以外の何ものでもない。
公明党冬芝幹事長「日本の教育は知育・体育はそれなりに成果を上げたが、徳育という情操教育が不足して、自分さえよければいいという利己主義の風潮が蔓延した。学校では組合の力が強いという事実があって、教育を損ねてきた。そこで『伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する』心の徳育を通して、教育の荒廃を改善していくという主張です」といったふうな反論を試みていた。
市田書記局長は日教組のことを持ち出されたからなのか、有効な反論ができなかった。「教育主体に問題があると言うことなら、基本法の文言をいくら変えても、問題解決につながらないのではないか」といった反論を試みるべきだったろう。
教育主体に関係なく、「愛国心」をどういう形で持ち出そうと、教育の問題は解決しない。組合が強いといったことが教育荒廃の原因でもなければ、権利の主張偏重が「徳育」教育放置につながったわけでもないからだ。
教育とは名ばかりで、基礎学力の重視を看板にテストの成績が上がりさえすれば、基礎学力がついたとする形式的学力観に支配され、そのような学力で高校・大学の入学試験に合格することに特化した、言ってみれば学力ロボット人間の育成が日本の教育となっていて、そういった教育を親もそれでよしとし、社会もそれでよしとし、政治家もそれでよしとした。その末の学歴主義・学歴社会だろう。教師も生徒がシャカリキに暗記してくれさえしたら教科書を解説するだけで済んで楽だから、便乗する。そのような学校教育からテスト教育に必要な成分のみを抽出し、最適化した姿が学習塾、あるいは進学塾なる存在とそれゆえの繁盛振りで、日本の教育の姿を最も先鋭的に象徴している。
さらに象徴的なことは、最近では「小・中学校で、授業や補修、進路指導などを予備校や進学塾に任せる『外注化』が首都圏を中心に広がっている」(「朝日」06、1.11.朝刊)という教育風景だろう。教育の一切合財をテスト合格に集約した学力の獲得に収斂させようという動きの加速化であることは間違いない。そこでは徳育は必要摂取栄養素とはならない。元々必要摂取栄養素ではなかったところへ持ってきて、ゆとり教育がテスト学力でしかない学力の低下を招いたとの批判の反動から生じた学力一辺倒への流れを受けて、徳育はより完璧に有名無実化したに過ぎない。世の中がそう仕向けたのである。
従来の年功序列と終身雇用から能力主義・成果主義への移行に煽られた椅子取り競争の激化によるなお一層のブランド志向がテスト学力の占める重要性を増したといった側面もあるのではないだろか。、
ゆえに「外注化」の流れは奇異なことではない。教育の放棄でも何でもない。元々日本の教育はテスト教育を伝統・文化としてきたから、政治が構造改革と称して市場化を推し進めるのと同じく、学校が従来のテスト教育を、それ以外の余分なものをさらにそぎ落としてより集約的・集中的に推進しようとしただけのことだろう。テストにのみ有効な教育で以て、テスト用の知識だけ人間を育てていると言うことである。周囲の望みどおりに教師はよくやっているではないか。ときにはワイセツ教師が出現するが。あるいは盗撮・万引き。しかし誰も非難できない。政治家も似たり寄ったりだから。現行の教育基本法の「前文」に謳った理念はテスト教育推進の前にあっては力を失い、最初から最後まで見せ掛けの看板・見せ掛けのスローガンと化してしまっている。
スポーツの才能に恵まれず、テスト教育にもついていけないことから学校から疎外された生徒が、義務教育であることから学校で居場所を見つけざるを得ないパラドックスの翻弄を受けて、戦後の権利意識も手伝って自分を押し出す手段が教育荒廃となって現れている部分もあるのではないだろうか。
学力とはテストの解答に限定した知識能力ではない。教えられて知ったこと、その知識に自分の考えを加えることで応用・発展させていく認識能力を備えて、初めて学力と言える。
知識の応用と発展へと向かう考える力の獲得は、教師の授業を受けてその内容をどれほど覚えたか、それをテストの点数で検証するといった方法で果たせることではなく、教師対生徒、あるいは生徒対生徒が知識に関わる疑問や意見の言葉を交わし、あるいは言葉を闘わせて、相互の考えを高め合うことを繰返すことによって初めて実現する。
そういった言葉の交わし合い・言葉の闘わせ合いによる考える教育の不在が徳育(情操)教育を必須栄養素としなかったに過ぎない。その結果性としてある典型が政治家・官僚の今のザマとしてある自己中心・利己主義であろう。
公明党の冬芝幹事長が単細胞にも言う「自分さえよければいいという利己主義の風潮」の「蔓延」は日本人が協同してつくった日本社会全体の「風潮」であって、当然スタート地点は家庭であり、学校であるというに過ぎない。各社会の段階を経て、利己主義は確固とした姿を取っていき、不正利益取得とか利益供与、贈収賄、談合、カラ出張、カラ手当、天下り利益、水増し経費、粉飾決算、脱税とかの方法を取るに至る。冬芝幹事長にしても、与党を構成する政党の力ある幹事長として、その協同作業に大きな力で与っていたはずである。
生徒の自分たちのあるべき姿の模索は教師対生徒、生徒対生徒が言葉を交わし合い・言葉の闘わせ合いの過程で自ら考え、自ら答を見つけ出していくもので、外から与えられて、与えられたなりの内容に添って、それを自らのあるべき姿とする自己画一化とその全体化は学校教育に於けるテスト知識の授受とその全体化であるテスト教育化と照応し合うこととなり、双方とも考える段階を排除する仕組みを当然とする。
自公連立政権は新しくつくろうとしている教育基本法で、「愛国心」という、さも立派そうに見える公徳心を装った道具立てを用いてまったく同じことをしようとしている。法律に明記することで自動的に従わせようとする図式は考えるプロセスを与えないもので、自分たちが望む姿に統一しようとする強制意志の働きを持っている。暗黙の全体主義がそこにはある。