江戸人の小柄な体・栄養失調・伝染病は北朝鮮と同様の特権階級(=武士)による統治の質の反映

2011-12-31 10:43:34 | Weblog

 ―正月は3~4日休みます。悪しからず。―

 新たな年を迎える大晦日のブログ記事にしてはふさわしくない内容かもしれないが、国立科学博物館(科博)が東京都内の開発で掘り出された人骨をざっと1万人分も保管していることを伝えている、10日以上も前の記事がある。《江戸を語る人骨1万体 小柄な体・栄養失調・伝染病》asahi.com/2011年12月17日23時5分)

 江戸時代の骨が殆どで、刀傷が残る骨もあるそうだが、〈今よりも小柄で栄養状態も悪かった。時代劇のイメージとは違う江戸の人々の厳しい暮らしぶりが、浮かび上がってくる。 〉と骨から窺うことのできる江戸時代の生活を伝えている。

 篠田謙一人類史研究グループ長「この頭の骨は左の側面に鋭い刃物の傷が2本。日本刀で斬り殺されたのでしょうね。青黒いシミがついたこちらの骨は、梅毒の痕跡ですよ」

 国立科学博物館が研究用に20年程前から開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を受け入れてきたのだそうだ。

 特に鉄分が不足していて、総体的に栄養状態が悪い。現代なら死亡率の低い若い世代の骨が多い、つまり若死にが多かった。

 《図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)》によると、1776年(安永5)~1875年(明治8)の平均寿命は32歳となっている。
  
 確かテレビなどで江戸時代の話をするとき、平均寿命は55歳だとか言っていたはずである。

 もし55歳が武士の平均寿命だとすると、被支配者との間に、若い母親が幼い子供に満足に食事を与えないで痩せ細らせてしまう虐待に通じる搾取の構造を見なければならない。

 原因は、〈伝染病がたびたび流行し、人が簡単に死んだ〉からであり、そのことを物語っているという。

 但し伝染病が死を簡単にもたらしたことの裏を返すと、医学の未発達もあるだろうが、基本的には簡単に伝染病に罹って弱ってしまう栄養体質であることの証明ともなる。

 記事もこのことを書いている。

 江戸時代の成人の平均身長は男性が150センチ台半ば。女性の平均身長は140センチ台半ば。栄養状態が悪い上に狭い長屋などに密集して生活したストレスの影響と考えられる身長だと書いている。

 注目しなければならないことは、〈日本のすべての時代の中で最も小柄だった。〉と伝えていることである。

 篠田謙一人類史研究グループ長「生活は厳しかった。スラムといった方がいい江戸の影の部分が骨には記録されています」

 江戸人が「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」ということはすべての時代の中で物質的にも精神的にも最も抑圧された時代であったことの証明以外の何ものでもあるまい。

 いわば統治の質が江戸時代の国民の生活、人生に反映した結果としての栄養状態であり、平均寿命であろう。

 アメリカの最初に統計に現れている1820年の平均寿命は39歳であるが、対して日本の1820年(文政3)平均寿命は、1751年~1868年の平均寿命37歳から減って34歳で5歳も低い。

 現在の北朝鮮で多くの国民が飢餓・餓死に苦しめられている国情にしても統治の質が反映した生活実態であろう。最近のテレビで見たのだが、ガリガリに痩せた身寄りのない10歳前後の女の子がゴミを漁っていた。

 貧しい国民の満足にありつけない食糧がキム一族とそれ以下の支配層の権力と満ち足りた食生活を支えている。

 その頭目の金正日がくたばったとき、日本の藤村官房長官はその死を悼んで、哀悼の意を表明した。

 江戸時代、日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民その他を支配する特権階級に所属していた。扶持だけでは食えずに、内職を強いられる貧しい武士も存在したが、それでも彼らは支配層に属していた。
 
 武士は8割の農民から何ら代償を支払わないゆえに搾取となる、主として米を収穫の半分前後も年貢として取り立て、それを金子(きんす)に変えて生計を立てていた。農民の中でも田畑の土地を持たない百姓は土地持ちの地主となる百姓から田畑を借り、作物を小作していたが、「走り百姓」とか「走り者」という言葉が残されているように作物を作っても満足に食えない高い小作料を課す搾取が災いして、耕作地を捨てて江戸や大阪といった都市に逃げて浮浪人化する百姓が跡を絶たず、幕府や藩はそれを元の土地に帰す人返しの法を以って対策としたが、幕府や藩自らが搾取の構造を統治手段・支配手段としていて、それを受け継いだ地主、土地持ち富農の小作人に対する搾取の構造なのだから、いくら禁止令を出したり人返しの法で対抗しても効果はなく、「走り百姓」とか「走り者」といった逃げ百姓はなくならなかったという。

 江戸時代の「走り百姓」、「走り者」は北朝鮮で言いえば、さしずめ脱北者に当たるに違いない。

 と言うことは、北朝鮮は江戸時代よりも200年は遅れていることになる。

 武士階級が如何に搾取者の位置に立っていたかを証明する一文がある。

 「江戸時代においてはわが国民の8割以上が農民であった」彼らの「生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の1割ぐらいに相当する人々(武士)を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかったという」(『近世農民生活史』児玉幸多著・吉川弘文館)

 1割の武士が8割の農民を搾取し、搾取される側の農民にしても、土地持ちの豊かな農民が土地を持たない小作人、水呑み百姓を搾取していた。

 では、全国民の8割の農民の内、小作人、水呑はどのくらい存在していたのだろうか。

 『日本の農地改革』(大和田啓気(けいき)著・日本経済新聞社)に次のような記述がある。

 明治初年の「およそ国民の8割は農業に従事」と(P15)書いてある。これは江戸時代の農民の割合と同じで、農民に限って人口構成は変わっていないことを示している。

 『日本史広辞典』(山川出版社)によると、1872年(明治5)の戸籍に基づく人口は3481万人だというから、その8割が農民だとすると、約2784万人が農民だったことになる。

 前記『日本の農地改革』に、明治9年の田畑・宅地に対する地租改正によると、「田畑・宅地の所有者604万人」だと書いてるから、農民約2784万人-604万人=2180万人が土地を持たない小作農、いわば水呑百姓で、農民全体に占める割合は78%に当たる。

 人口の8割が農民なのは明治大と江戸時代と同じとして、これを1721年(享保6)の宗門人別帳に基づいた日本初の人口調査2607万人に当てはめてみると、2607万人の8割の2085万人が農民で、2085万人の約78%、1627万人が田畑・宅地を持たない農民――小作人、あるいは水呑だったことになる。

 要約してみる。

 1721年(享保6)の人口――2607万人
            農民――2085万人
        土地持ち農民―― 458万人
   土地なし小作人、水呑――1627万人

 1872年(明治5)の人口―― 3481万人
            農民――約2784万人
        土地持ち農民――  604万人
   土地なし小作人、水呑―― 2180万人

 人口増加率
 3481万人-2607万人=874万人
 874万人÷2607万人=33.5%の増加率。

 (享保6)の土地持ち農民458万人×33.5%の増加率=611万人

 この611万人は『日本の農地改革』に記述してある「田畑・宅地の所有者604万人」にほぼ相当している。

 (享保6)の土地なし小作人、水呑1627万人×33.5%の増加率=2172万人。

 この人数も1872年(明治5)の土地なし小作人、水呑2180万人に近い数字となっている。

 間違っていない導き方だと思うが、人口は増加したまま、搾取の構造は変化がないことを示しているのではないだろうか。

 江戸時代も明治時代も、食えない貧しい農民は、当時は避妊技術が発達していなかったために妊娠しても、生まれると食い扶持が増えるために間引きと称して、堕胎する習慣があった。堕胎薬を飲んだり、冷たい水に腰まで浸かり身体を冷やしたり、腹に圧迫を加えたりして死産を導いたという。

 あるいは娘を女郎に身売りする習慣があり、それは戦後の時代も東北や北陸の寒村に引き継がれていた。

 その中でも江戸時代は搾取の反映として「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」という貧しい、劣る栄養・貧しい、劣る生活を強いられた。

 江戸時代の武士をサムライだ、武士道の体現者だと持ち上げる向きがあり、何らかの分野で活躍人間を「サムライ」と呼び、活躍する集団を「サムライ集団」と呼ぶ習慣があるが、現実のサムライは北朝鮮のキム一族とそれを取り巻く権力層と変わらぬ特権階級に位置し、支配者として君臨して搾取を専らとしていたのである。

 「武士道」とは自らの支配と搾取を正当化するために権力者である武士を立派な存在と美化した造り物の倫理観に過ぎない。

 一つのWEB記事から北朝鮮の統治体制の質との共通性を見て、今年最後のブログ記事としてみた。

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野田首相の消費税増税素案取り纏めに見る君子豹変の有言実行性

2011-12-30 10:19:49 | Weblog

 昨29日(2011年12月)、民主党は税調合同総会を開催、野田首相出席のもと、「13年10月に8%、15年4月に10%」ととしていた消費増税時期の当初案を「14年4月に8%、15年10月に10%」と半年先送りすることと議員定数削減と公務員給与の削減法案を来年の通常国会に提出、14年4月の消費税引き上げの前に実施するという修正、さらに税収の使途を含めて取り纏めるに至った。

 増税時期に関しては、父親が反対し、母親が賛成している娘の結婚だが、その結婚式を半年遅らせることで父親が賛成するような意味不明な感覚がしないでもない。

 父親は結婚の中身である娘の結婚相手の男を問題にしているのであって、結婚式の時期を問題にしているわけではないはずだ。父親にとっての真の解決は結婚の中身が別の男に変わることであろう。

 今回税収の使途まで大まかには決めたが、これまでは増税時期と増税率が常に先行していた。最も重要である、どういった消費税とするか、低所得層対策はどうするのかといった肝心の中身である増税の形と使途、さらにその先の増税による財政再建効用と経済効果、さらに社会保障の新たな姿についての説明はなかった。

 今以て年金の受給年齢はどうする、ああすると騒いでいる。

 中身について、《引き上げ停止の規定“盛り込む”》NHK NEWS WEB/2011年12月30日 4時4分)から見てみる。

 消費税率を10%にした際の引き上げた5%分の税収使途について――

▽低所得層に対して年金額の加算等「社会保障の充実」          ――1%分
▽基礎年金国庫負担割合い2分の1維持のための財源充当「社会保障の安定化」――3%分
▽消費税率引き上げに伴う物価上昇を受けた政府支出増加         ――1%分

 その上で、〈「経済財政状況の激変にも柔軟に対応できる仕組みを設ける」として、さまざまな経済指標を確認したうえで、経済状況によっては税率の引き上げを停止する規定を法案に盛り込む〉としている。

 低所得層程負担が重くなる「逆進性」対策として、〈2015年からの運用開始を目指している「共通番号制度」が定着した後を念頭に、一定の所得以下の人に、所得に応じて現金を給付する「給付付き税額控除」を検討〉、〈それまでの間は、一定の所得の世帯に一律に現金を給付する措置を行う〉としている。

 低所得層対策だとしている「給付付き税額控除」はあくまで「検討」であって、導入の確定となってはいない。

 にも関わらず、増税時期と増税率を常に先行させてきた。前原政調会長などは12月25日のテレビ番組で、「今の日本の財政状況を考えると、(税率が)10%で収まるとは到底思えない」(時事ドットコム)と、国民にどういった形式の負担を求め、その負担が国家の財政と国民生活にどのように寄与するのか具体的姿とその説明をしないまま、更に増税率を上げる、無責任な発言を示している。

 上記記事はまた、〈消費税率の引き上げに対する国民の納得と信頼を得るため、素案の冒頭部分に、「議員定数削減や公務員総人件費削減など身を切る改革を実施したうえで、税制抜本改革による消費税引き上げを実施すべきである」と明記し、衆議院の議員定数を80削減するための法案や、国家公務員の給与を削減するための法案の早期成立を図る〉と書いているが、野田首相は8月29日(2011年)の民主党代表選立候補演説で、首相になった暁にはという意味で次のように公約している。

 野田候補「先ずは隗より始めよ。議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減、それはみなさんにお約束したこと。全力で闘っていこうじゃありませんか。

 それでも、どうしてもおカネが足りないときには、国民にご負担をお願いすることがあるかもしれません」

 自ら有言実行の優先順位を約束し、それを自身が首相になった場合の公約としていながら、ブレて優先順位を逆転させ、消費税増税時期と増税率を先行させた。

 野田首相が最近になって「議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減」を言い出したのは、増税の前に議員定数削減や国家公務員給与削減等の行政改革を行い、自ら身を削ることが必要だと訴え続けてきた強硬な民主党内消費税増税反対派を納得させるためであって、自らの公約実現を優先させるためではなかった。

 このことは昨夜での民主党税調合同総会での野田首相の発言を見れば分かる。《野田首相:議員定数削減、通常国会に法案提出の意向表明》毎日jp/2011年12月29日 23時50分)

 野田首相「本来ならば(衆院の)1票の格差を是正し、定数を削減する成案を先の臨時国会の間に野党も巻き込んで得ていなければいけなかった。次の通常国会では(野党より)先に法案を提出し、成立を期すように樽床伸二幹事長代行には指示したい。民主党は政治家の集団ではない。政治改革家の集団であることを力強く国民に示そう。

 公務員給与削減法案も残念ながら先の国会では実現できなかった。政党間の協議で固まるよう全力を尽くすが、政治改革と同じように我々がボールを投げなければいけない。独立行政法人改革、公益法人改革、特別会計改革もやり抜きたい。

 政権をいただいてから4カ月近く、丁寧な国会運営を心がけてきた。来年は正念場の年。我々が掲げて来た政策を思い切って悔いのないように打ち出し、全力を尽くして成立を期す。『君子豹変(ひょうへん)す』という立場で行革にも臨んでいく決意だ」――

 8月29日(2011年)の民主党代表選立候補演説で「議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減」を自らの公約とした以上、消費税増税に言及する前に成案を得ていなければならなかったはずだが、そのことを裏切って後先を変えておきながら、「定数を削減する成案を先の臨時国会の間に野党も巻き込んで得ていなければいけなかった」と今更ながらに言っている。

 何という有言実行性だろうか。

 公務員給与削減法案にしても、優先順位を消費税増税の前に置き、消費税増税の実現に関しては「不退転の決意」を言っていたのだから、消費税増税と同様に「不退転」の有言実行性を示すすべきを、「残念ながら先の国会では実現できなかった」と「不退転」をどこかに投げ捨ててしまっている。

 8月29日(2011年)の民主党代表選立候補演説で自らが公約とした「議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減」を果たした上で、「どうしてもおカネが足りないときには、国民にご負担をお願いする」をすべて裏切った。有言実行性をかなぐり捨てた。

 「『君子豹変(ひょうへん)す』という立場で行革にも臨んでいく決意だ」と勇ましいことを言っているが、「君子豹変す」は現在では一般的に君子であった者が君子でなくなる、ウソつきや変節漢に思いがけない急変を見せるという悪い意味で使う。

 自ら掲げた公約を裏切り、有言実行性を紛い物としたのだから、まさしく「君子豹変」した。

 元々有言実行性は持って生まれた資質としていなかったのかもしれない。

 自分が口にしたことを平気で変えて何とも思わない、この責任感の欠如は一国のリーダーの責任感だと果たして言えるのだろうか。

 上記「毎日jp」記事は最後に野田首相の決意表明を伝えている。

 野田首相「一番苦しく、一番逃げてはいけないテーマは社会保障と税の一体改革だ。『苦しいから次の政権に任せよう。消費税は上げなければいけないが、いつかやればいい』という議論が続いてきたが、もうその猶予はない。欧州危機のことをことさら誇大に言うつもりはないが、(日本売りという)想定外ではない大きな危機が来るかもしれない。危機管理の意味からもやり抜かなければいけない。

 政治家としての集大成の気持ちで訴えている。残念ながら同志の中から離党者も出たが、この国の将来のためにこのテーマを我々が背負い込んで結論を出そう。少なくとも税率と上げる時期を決めることをもって初めて素案になり得る。素案を作って野党と協議する。今度は野党が苦しい番かもしれない。その上で大綱を作り、年度内に法案を提出する。このプロセスを揺るぎなくたどっていかなければならない」

 自分の発言に有言実行性を纏わせることができない首相がいくら立派なことを言っても、“オオカミ少年”の薬効しか見い出すことができないはずだ。 

 自分が一旦口にしたことを一つ一つ有言実行してきたなら、特別に立派なことを言ったり、特別な決意表明も必要としないはずだ。有言実行こそが、指導力と求心力の礎となり、国民の支持の糧となるはずである。

 一国のリーダーがこの体たらくなら、例え消費税増税10%実現を果たしたとしても、財政再建はできない、ムダの削減もできない、行政改革もできない、社会保障制度の改革もできないで、前原が言うようにたちまち「10%超」の増税が必要になるに違いない。

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政府「高度人材」外国人受入れポイント制度は職業差別及び憲法違反に当たらないだろうか

2011-12-29 09:51:01 | Weblog

 政府は外国人就労者を学歴、職歴、年収等で点数化し、高得点者を優遇する「ポイント制」を来春から導入することを決めたという。

 このことを伝える二つの記事が目についた。先ずは、《外国人の年収などを点数化 「高度人材」には優遇措置》asahi.com/2011年12月28日16時14分)

 目的は、〈研究者や医師、経営者ら専門知識や技術を持つ外国人にもっと日本に来ても〉らうためだと書いている。

 記事には、〈平岡秀夫法相が28日、概要を公表した。〉と書いてあるが、28日が仕事納めだからなのか、あるいは次の閲覧が翌朝では早過ぎるということなのか、法務省のHPにはまだ記載されていない。

 「ポイント制」の仕組みは、〈外国人の学歴や職務の経験年数、年収などの項目ごとに点数を積み上げていき、70点以上で「高度人材」と認定する。〉というもので、年間約2千人を対象予定で、来春の開始を目指しているという。

 「高度人材」認定の特典――

 ●日本永住許可條件が従来の10年以上居住から5年居住に短縮。
 ●配偶者の就労時間制限週28時間以内の緩和。
 ●3歳未満の子がいる場合は本人や配偶者の親を呼び寄せ可能とする。
 ●外資系企業幹部のみ認可の家事使用人同伴を70ポイント以上「高度人材」にまで拡大、許可。

 次に、《日本で就労希望の外国人、「ポイント制」導入へ》YOMIURI ONLINE/2011年12月28日)

 記事はポイント制導入は政府の新成長戦略の一環だと書いている。

 〈高度な能力や技能を持つ外国人労働者の受け入れを促進して、日本の技術革新や経済成長につなげるのが狙い〉だと。

 あとは「asahi.com」とほぼ同じ内容。

 ●制度対象者は、「学術研究」「高度専門・技術」「経営・管理」の三つの分野。
 ●ポイント計測対象項目は学歴・職歴・年収等。
 ●政府支援企業への就職、日本の大学卒業者にはボーナス点を付与。
 ●70点以上を合格とし、法務省が認定。

 「高度人材」認定の特典――

 〈1〉連続10年の在留が条件の永住権を5年で獲得
 〈2〉週28時間に制限されている配偶者の国内での労働制限撤廃
 〈3〉親や家事使用人の同行の条件付きでの許可

 記事は、〈法務省はパブリックコメント(意見募集)を行った上で、必要な省令や告示の改正を行う。〉と書いている。

 この「高度人材」外国人受入れポイント制度は職業差別に当たらないだろうか。

 人間の価値を職業の違いと職業に付属する学歴や年収の違いで決めることになるからだ。

 日本人は元々で家柄に上下をつけ、学歴や職業に上下をつけ、年収の違いに上下をつけて、家柄、学歴、職業、年収の上下を人間の価値の上下としてきた。

 いわば人間の価値イコール家柄でもなければ、イコール学歴でもなく、またイコール職業、年収でないにも関わらず、人間の価値を家柄、学歴、職業、年収等の上下に結びつけて、優劣の基準としてきた。

 上の価値に権威を置き、下の価値の権威を認めない権威主義を人間価値の判断尺度としてきた。

 その典型的な象徴が江戸時代の士農工商であったはずだ。それは制度として存在した。

 人間の価値を家柄、学歴、職業、年収等の上下で決めつけるこの権威主義を今以て引きずっている。

 法務省の「高度人材」外国人受入れポイント制度は現代に於いても人間の価値を家柄、学歴、職業、年収等で計る権威主義を制度化することではないだろうか。

 また、この「高度人材」外国人受入れポイント制度は憲法に違反していないだろうか。日本国憲法は次のように明記している。

 第3章 国民の権利及び義務

 第22条 居住・移転及び職業選択の自由、外国移住及び国籍離脱の自由

 (1)何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
 
 「居住、移転及び職業選択の自由を有する」とは、単に「居住の自由と移転の自由」と「職業選択の自由」をそれぞれに分けて謳っているのではなく、居住、移転を職業で選択してはならない、職業に関係なく、居住、移転は自由であるということも保障しているはずである。

 だから、移動と職業選択を同じ項目の中に置いた。

 だが、法務省の「高度人材」外国人受入れポイント制度は日本への居住、移転に関して、職業で選択しようとしている。

 これは職業で人間の価値を決めることにもなる。

 会社経営者や会社幹部も必要だが、そういった高度人材だけでは会社は動かない。一般労働者が存在して、初めて会社は動く。モノの生産も成り立っていく。

 社会も同じであろう。高学歴の研究者や医師、経営者等の高度人材のみでは社会は成り立たない。より多くの一般人材を得て初めて社会は成り立つ。

 上の部類に入ると判断した学歴や職業、年収を基準に外国人を受け入れることは治安上はメリットがあるかもしれないが、社会の活力は一般人材の這い上がりからより多く生まれる。

 もし黒人が虐げられていた時代にジャズの誕生が黒人からもたらされなかったら、アメリカの現在の活力も違ったものになったはずだ。そして多くの黒人や白人がジャズが持つ力強い活力を自らの精神としてアメリカ社会を這い上がっていった。

 かつてヨーロッパの貧しさを逃れ、アメリカ大陸に新天地を求めてアメリカに移住した多くのヨーロッパ人の這い上がっていく活力ある過程があったからこそ、アメリカ社会は発展し、アメリカは不況期にあっても今以てその精神を引き継ぎ、社会に活力を与えている。

 日本人は高度成長期、豊かな生活への這い上がりが高度成長の活力を生んだ。だが、1億総中流化して、満足し、這い上がりの精神を忘れ、活力を失った。

 中国、韓国が這い上がりの活力で中国は日本を追い越し、韓国も追い越そうとしている。

 外国人受入れを考えるなら、高度人材に期待するのではなく、治安上のマイナスはあっても、日本で這い上がり、その這い上がりが一代で実現しなければ、苦しい生活の中から子どもの教育にカネをかけて這い上がりを二代で実現させる活力を発揮するであろう一般人材にこそ期待すべきであるように思える。

 その活力発揮が日本人に伝染しないはずはない。伝染しなければ、日本人はお終いである。

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菅は周辺から戦前天皇に擬(なぞら)えられていた、その絶対者としての姿

2011-12-28 10:49:48 | Weblog

 12月25日(2011年)日曜日TBSテレビ放送、東大日本大震災と福島原発事故を扱った『「報道の日2011」記憶と記録そして願い』(第三部)で解説が次のように話していた。

 解説「福島原発事故発生から5日目の3月15日午前3時、参加者たちが当時御前会議と呼んだ、菅の判断を仰ぐための会議を開かれた

 出席者は当時福島原発事故に当たっていた関係閣僚や関係官僚、原子力安全委員会委員等だったと解説している。議題は東電から全面撤退の申し出があったことについてであった。

 「御前会議」「菅の判断を仰ぐ」――

 この言葉が意味するものは何なのだろうか。

 「御前会議」とは、「戦前の日本で国家の緊急時に天皇の出席のもとに元老や主要閣僚等によって開かれていた最高会議」(『大辞林』三省堂)を言う。

 とうことは、周囲は菅を戦前の天皇に擬していたことになる。いわば、戦前の天皇に見立てていた。

 擬し、見立てられるについては菅にはそういった資質を担っていたからだろう。菅自身が戦前天皇の姿を取っていたということである。

 戦前の天皇は絶対者に位置づけられていた。最悪なことは周囲の軍部等が天皇の名のもと、天皇の絶対性の衣を自らに着せて、絶対者の如くに思い上がった振舞いに及んだことであろう。

 そのことが一般国民や下級兵士の悲劇を生んだ。

 下級兵士に対しては戦後靖国神社に祀り、英霊だと持ち上げることでその悲劇を帳消しにしようとしている。

 いずれにしても菅内閣関係者は菅を戦前の天皇に見立てて絶対者に位置づけ、自分たちを絶対者に支配された下位者と看做す権威主義的関係性の意識に少なくとも囚われていた。

 このことは「菅の判断を仰ぐ」という両者の関係性にも現れている。

 最終的には「判断を仰ぐ」という場面が生じることはあるにしても、最初から「判断を仰ぐための会議」と位置づけることはそこに判断の上下関係を置いているからであって上の者の判断を絶対として下の者の判断とするということであろう。

 お互いに忌憚なく意見を言い合い、最良の意見に纏めて最終判断とすることを首相の役目とする対等関係の意見集約を「判断を仰ぐ」とは決して言わない。

 俳優を使った「御前会議」開始の再現シーンにしても、こういった権威主義的な上下関係がそこに働いていることとして見なければならない。

 出席者全員が直立不動に近い形で席から立ち上がっている。そこへ菅が入室してきて着席すると、全員が頭を下げながら着席する。

 そこには単なる慣習以上の上下関係が支配しているはずだ。支配していなければ、「御前会議」などと呼び習わしたりはしない。

 要するに菅は自らを何様とする振舞いを当たり前としていた。

 このことは「御前会議」の再現シーンで菅が発言したときの語調にも現れている。

 菅は長テーブルの両側に座った出席者に対してテーブルの正面に座り、両側の席の菅に最も近い席に座っている班目原子力安全委員会委員長を腕を持ち上げて指さして問いかけるが、同じテーブルに着席した者をさも問い詰めるかのように腕ごと持ち上げて相手の顔に突きつけるように指さすといったことは余程の権力を許されている者でなければ滅多にしないことである。

 「撤退の話が出ているんだが、どう思うんだ」

 班目委員長にも話を聞いた上での再現シーンだろうから、事実と異なる乱暴な言葉遣いを用いるわけはないだろうし、用いたりしたら名誉毀損となる。

 班目委員長(インタビュー証言)「それに対してですね、それはあり得ないと。そんなことをしたら、もっと大変なことになりますと、いうふうに申し上げて、かなり、その、えー、緊迫した雰囲気だったことは確かです」

 番組はこれだけの発言しか伝えていないが、班目は原子力の専門家である、菅は班目にどういったプロセスを踏んで「もっと大変なことになる」か尋ねただろうし、班目も全面撤退した場合の考え得る事態の段階的な進展を例に挙げて「もっと大変なことになる」かを説明したはずだ。

 東電申し出の全面撤退を議論した「御前会議」は3月15日午前3時開始。菅が清水東電社長を官邸に呼んだのは3月15日午前4時過ぎ。約1時間後である。

 「時事通信」の9月17日(2011年)の菅に対するインタビューは次のような遣り取りとなっている。
 
 記者「東電は「撤退したい」と言ってきたのか」

 菅前首相「経産相のところに清水正孝社長(当時)が言ってきたと聞いている。経産相が3月15日の午前3時ごろに「東電が現場から撤退したいという話があります』と伝えに来たので、『とんでもない話だ』と思ったから社長を官邸に呼んで、直接聞いた。

 社長は否定も肯定もしなかった。これでは心配だと思って、政府と東電の統合対策本部をつくり、情報が最も集中し、生の状況が最も早く分かる東電本店に(本部を)置き、経産相、細野豪志首相補佐官(当時)に常駐してもらうことにした。それ以降は情報が非常にスムーズに流れるようになったと思う」――

 「『とんでもない話だ』と思ったから」と、撤退不許可は自身の判断であるかのような発言を行なっている。

 班目から聞いたであろう、全面撤退した場合の危険性を原子力安全委員会班目委員長の判断だとして理路整然と順序立って話し、全面撤退の撤回をなぜ説得しなかったのだろうか。

 だが、「社長は否定も肯定もしなかった」曖昧な態度を取らせただけだった。閣僚や官僚に見せる何様の傲慢な権威主義的態度はここでは通用させることはできなかったらしい。

 番組は東電申し出の全面撤退問題で「御前会議」を開くことになったについて、その前段として次のようなエピソードを伝えている。

 3月14日深夜、東電清水社長から海江田、枝野、細野に相次いで全面撤退要請の電話が入った。

 海江田(インタビュー証言)「深夜の電話でしたけれども、非常に、やっぱり、緊張――をしてまして、イー…、まあ、退避――したいと思うと、いうことで、えー…、電話がありました。これはやっぱり撤退をしないと、それこそ作業員の方たちの、おー、大量被曝ということも、十分、考えられますので」

 解説「電話を受けた誰もが菅に伝えるのをためらった。総理周辺の人物は即座に報告が上がらなかった理由をこう説明した」

 総理周辺の人物(声優の声のみ)「最高指揮官としては、もう少し冷静でいて欲しかった」

 以上の経緯からは菅を恐れていた様子しか浮かんでこない。このエピソードからも閣僚や官僚たちの間に菅を絶対者とする権威主義関係を成り立たせていたことを窺うことができる。だから、「御前会議」と位置づけられ、「判断を仰ぐ」という情報確立の権威主義的手段が取られることとなった。

 だからこそ、14日深夜に東電社長から電話を受けておきながら、「御前会議」が3時間は過ぎている翌15日の午前3時となった。
 
 菅は部下をそれぞれが自律(自立)した存在として率いる統率者ではなかった。恐怖を手段として従える絶対者として君臨していた。

 当然、真の意味での自由な情報共有・自由な伝情報達・自由な情報発信は両者間に期待できなかった。

 このことも影響した震災対応・原発事故対応の不手際・停滞であろう。

 次の発言もこのことを証明している。
 
 菅首相「首相官邸は情報過疎地帯だ。役所で取りまとめたものしか上がってこない。とにかく、皆さんの情報や意見を遠慮なく私のところに寄せてほしい」(YOMIURI ONLINE/2010年11月2日 21:16))

 政府関係者「菅首相に事前の説明をしていると、何度も怒鳴られる。官僚は怒鳴り散らされるから、だんだん寄りつかなくなる」(毎日jp/2010年12月31日 10時34分)

 菅は首相になると、盛んに自分は政治家二世、三世の息子ではなく、サラリーマンの息子だと、サラリーマンの息子でありながら総理大臣に登りつめたことを誇った。そして元市民派であったことを勲章とした。

 このことは他者との人間関係を権威主義的上下関係の力学で縛らないことの宣言ともなっていたはずだ。

 だが、サラリーマンの息子、元市民派が首相となり、自身を何様の権威主義的な絶対者と位置づけ、他者との人間関係を自身を何様の上に置いた上下で律することとなった。

 サラリーマンの息子、元市民派にしては見事な逆説、あるいは裏切りを演じたことになる。

 いや、首相になる前は本性を隠していただけのことかもしれない。

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原発事故報道番組が改めて証明する菅のお粗末な認識と判断能力

2011-12-27 14:02:07 | Weblog

 12月25日(2011年)日曜日、TBSが東大日本大震災と福島原発事故を回想の形で『「報道の日2011」記憶と記録そして願い』(第三部)を放送していた。

 この最後の方で原発事故放射能漏洩からの住民避難に「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI〈スピーディ〉)」が効果的に活用されなかったことと、『官邸初動5日間 原発事故緊迫の舞台裏 初動を検証』及び『ブラックボックス リーダーたちの初動の5日間』と二重に題したコーナを最後に設けて、官邸と東電、その他の対応が適切であったか、検証している。

 地震発生が3月11日午後2時46分。その約2時間後の午後4時49分に政府が132億円かけて開発したという「SPEEDI」を作動させ、放射性物質の拡散状況を予測している。

 だが、住民避難に活用されず、一般に一部公開されたのは3月23日。4月25日に毎日正午に公表すると発表している。実際にな何月の何日から毎日公表されたのか、調べたが不明で、「Wikipedia」によると、5月に入ってから本格的に公表されたことになっている。

 3月11日午後5時15分当時には海岸方向(東方面)に拡散していた放射性物資は3月12日~15日には北西方向へ拡散。この情報が自治体にも住民にも知らされず、同じ方向に住民が避難していた。

 公開しなかった理由を番組は細野首相補佐官(当時)を登場させて、あの有名になった釈明のシーンを伝えている。5月2日の記者会見。

 細野首相補佐官「公開することによって、社会全体にパニックが起きることを懸念したというのが実体であります。

 ここまで公表が遅くなったことにつきましては、本部の事務局長として、心よりお詫びを申し上げたいと思います」

 だが、公開しなかったのではなく、公開できなかったのである。昨日のブログでも「NHK NEWS WEB」記事の情報として、「SPEEDI(スピーディ)」の存在を把握していなかった」のだと書いたが、5月20日付「YOMIURI ONLINE」記事によると、枝野官房長官(当時)は同日の記者会見で、「SPEEDI(スピーディ)」の試算結果が、事故発生翌日の3月12日未明に首相官邸にファクスで届いていたことを明らかにしている。

 枝野官房長官、「(官邸の)幹部で全く共有されず、担当部局で止まっていた。情報の存在自体が伝えられなかったのは大変遺憾だ。避難指示の時にそういった情報があれば意義があった」

 そして経緯を検証する考えを示したというが、検証報告の様子はない。

 「スピーディ」を管轄する文科省も住民避難に活用する発想を持っていなかった。

 当然、「社会全体にパニックが起きることを懸念」して公開を控えたなどといったことはできない。細野は大ウソをついた。

 この「スピーディ」活用の無為無策は番組の後の方で出てくる「原子力災害対策特別措置法第15条」に関係するから、また後ほど言及したいと思う。

●3月11日午後3時37分、東電福島第1原発 全交流電源喪失。
●約1時間後の4時45分、東電から原子力安全・保安院へFAX。「1号機・2号機注水状況が分からな
 い」
●菅首相側近(当時)ノート「菅総理、冷却水が必要」

 解説「報告を受け、最高指揮官は熱くなり、声を荒らげていた」

 政府に原子力問題について助言を与える立場の班目原子力安全委員会委員長のインタビューを受ける形の証言。

 班目原子力安全委員会委員長「これはもう、あのー、大きなことになるので、えー、当然、(官邸に)原子力災害対策本部が立ち上がるだろうっていうので、待っていたんですけどもね、えー、案外招集がかかるのが遅くて、あのー、確か6時半ぐらい前に、あのー、安全委員会の方を出て、官邸に向かったんだと思っております。

 1時間ぐらい、あのー、事情は分からないんですけども、待たされて、ただ待っていたという状態です」

 東電から原子力安全・保安院へFAXが届いたのは4時45分、班目委員長が官邸に向かったのは約2時間後に近い6時半ぐらい前。
 
 官邸は関係者全員に非常呼集をかけなければならなかったはずだが。そもそもの初期段階から不手際を演じていた。

 また班目委員長ものんべんだらりん待つのではなく、自分から連絡を入れて、行かなくてもいいのか聞くべきだった。

 待ちの姿勢に徹したこの教条主義は阪神・淡路大震災時の自衛隊への災害派遣要請は知事が出すという規定のもと、偵察飛行を行いながら、知事の要請を待ち、実際の出動は地震発生から4時間後となり、後に大問題となった自衛隊の教条主義に通じる。

 きっと多くの救える命を死なせてしまったに違いない。

●午後4時45分に福島第1原発で起きた緊急事態は東電から保安院、さらに経産省に報告され、海江田
 経産相(当時)が5時40分過ぎに官邸へ報告。東電から原子力安全・保安院へFAXした4時45分か
 らさらに約1時間経過していた。

 この迅速さは組織の体を成しているのだろうか。

 首相官邸

 (俳優による再現シーン)「何で非常用のディーゼルが停まるんだ」

●福山官房副長官(当時)のノートに海江田から菅に告げられた言葉、「15条通報」が記されてい
 る。

 「15条」とは次の規則に該当する。 

 原子力災害対策特別措置法

  第三章 原子力緊急事態宣言の発出及び原子力災害対策本部の設置等

 (原子力緊急事態宣言等)

第十五条  主務大臣は、次のいずれかに該当する場合において、原子力緊急事態が発生したと認めるときは、直ちに、内閣総理大臣に対し、その状況に関する必要な情報の報告を行うとともに、次項の規定による公示及び第三項の規定による指示の案を提出しなければならない。

一  第十条第一項前段の規定により主務大臣が受けた通報に係る検出された放射線量又は政令で定める放射線測定設備及び測定方法により検出された放射線量が、異常な水準の放射線量の基準として政令で定めるもの以上である場合

二  前号に掲げるもののほか、原子力緊急事態の発生を示す事象として政令で定めるものが生じた場合

2  内閣総理大臣は、前項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、原子力緊急事態が発生した旨及び次に掲げる事項の公示(以下「原子力緊急事態宣言」という。)をするものとする。

一  緊急事態応急対策を実施すべき区域
二  原子力緊急事態の概要
三  前二号に掲げるもののほか、第一号に掲げる区域内の居住者、滞在者その他の者及び公私の団体(以下「居住者等」という。)に対し周知させるべき事項

3  内閣総理大臣は、第一項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、前項第一号に掲げる区域を管轄する市町村長及び都道府県知事に対し、第二十八条第二項の規定により読み替えて適用される災害対策基本法第六十条第一項 及び第五項 の規定による避難のための立退き又は屋内への退避の勧告又は指示を行うべきことその他の緊急事態応急対策に関する事項を指示するものとする。

4  内閣総理大臣は、原子力緊急事態宣言をした後、原子力災害の拡大の防止を図るための応急の対策を実施する必要がなくなったと認めるときは、速やかに、原子力安全委員会の意見を聴いて、原子力緊急事態の解除を行う旨の公示(以下「原子力緊急事態解除宣言」という。)をするものとする。 (以上)

 要するに原子力緊急事態の発生を示す事象が認められた場合、「原子力緊急事態宣言」を発し、関係市町村長及び都道府県知事に対して住民の避難のための立退き又は屋内への退避の勧告又は指示を行うよう義務付けている。

 そして続く第16条で「原子力災害対策本部の設置」について書いてある。

 海江田経産相(インタビュー証言)「私は、あのー、事務方から、あー、報告受けましたから、えー、すぐに、うー…、まあ、そのー、すぐに(原子力緊急)事態宣言を、オー、発して、貰えるものだと思っておりました」

 番組解説者「菅も緊急事態の通報を受けて、『これは大変なことだよ』

 福島第1原発の状況にそんな言葉を30回以上繰返していたという」

 これは最高司令官でありながら、その立場に反してパニック状態に陥っていたことを物語っていないだろうか。

 午後6時22分。保安院の内部資料によると、海江田の報告から30分以上も経過していながら、結論は出ていなかった。

 その理由。海江田自身が“15条通報”の中身を正確に理解していなかった。

 海江田経産相(インタビュー証言)「法律の、おー、“たてつけ”と申しますか、ま、そういうことについて、えー、質問がありました。ま、うまく答えられなかったと、言うこともあって、ま、時間がかかったと思います」――

 「時間がかかったと思います」ではなく、その場に同席していて、事情を逐一目の当たりにしていたのだから、「時間がかかった」と正直に言うべきだろう。「思います」の推測には責任回避意識が働いている。
 
 “15条通報”の何たるかを知るために総理執務室の隣の首相秘書官室で秘書官が六法全書のコピーに追われていたと関係者の話として伝えている。

 海江田にしても原子力緊急事態宣言は法律に則って行うのだから、必要条文を調べてから報告すべきを中身を熟知しないまま首相に報告した。周りにいたのは秘書官だけではないはずだが、その条文を知るべく、六法全書をコピーさせた。

 なぜインターネットに接続して、「原子力災害対策特別措置法」、もしくは「原子力緊急事態宣言」と入力しなかったのだろう。そのページを探し当てて、その上で「十六条」と検索すれば、直ちにイヌも歩けば棒ではない素早さで行き当たることができたはずだ。

 私自身はそうした。

 インターネットに接続したパソコンが1台や2台、身近にないはずはない。不手際と言うよりも、間抜けな無為無策としか言いようがない。

 だがである。菅首相自身、海江田経産相が詳しく知らなかったとしても、この“15条通報”を熟知とまでいかなくても思い至ることぐらいの記憶はあって然るべきだった。

 昨日のブログでも書いたが、大震災発生の3月11日から約5カ月前の2010年10月20日に静岡県の浜岡原子力発電所第3号機が原子炉給水系の故障により原子炉の冷却機能を喪失、放射性物質が外部に放出される事態を想定した、菅首相を政府原子力災害対策本部会議本部長とした「平成22年度原子力総合防災訓練」を行っているのである。

 福島第1原発原子炉に緊急事態発生と報告を受けた時点で、この訓練を思い出さなければならなかった。

 この訓練は、「原子力災害対策特別措置法」の「防災訓練に関する国の計画 第十三条」に基づいて行うよう義務づけられているのである。

 参考のために記載しておく。

 「原子力災害対策特別措置法」

 防災訓練に関する国の計画

 第十三条

 第二十八条第一項の規定により読み替えて適用される災害対策基本法第四十八条第一項 の防災訓練(同項 に規定する災害予防責任者が防災計画又は原子力事業者防災業務計画の定めるところによりそれぞれ行うものを除く。)は、主務大臣が主務省令で定めるところにより作成する計画に基づいて行うものとする。

2  前項の規定により作成する計画は、防災訓練の実施のための事項であって次に掲げるものを含むものとする。

一  原子力緊急事態の想定に関すること。
二  第十条、第十五条及び第二十三条の規定の運用に関すること。
三  前二号に掲げるもののほか、原子力災害予防対策の実施を図るため必要な事項 (以上)

 当然、現実に原子力事故が発生した場合の国が為すべき法律の規定は何条に当たるか、少なくともその内容についてひと通り目を通しておくか、経産相(訓練当時の経産大臣は大畠氏)か班目原子力安全委員会委員長が簡単な説明をしておくべきだった。

 もし現実には過酷な原子力事故は起きないとしていたなら、官邸自身が「原子力安全神話」にどっぷりと浸っていたことになるばかりか、そのことが災いして、現実には起こらないことを前提に訓練を行なっていたということになって、訓練は当然のこととして形式的な儀式と化していたことになる。

 実際にも現実の原発事故初期活動に何ら役に立てることができなかったのだから、カネのムダ遣いをしていたのである。

 訓練では緊急時迅速放射能影響予測システ(スピーディ)を用いた環境放射能影響予測を行なっている。

 もし枝野が言うように、「SPEEDI(スピーディ)」の試算結果が事故発生翌日の3月12日未明に首相官邸にファクスで届いていながら、首相には伝えられずに情報共有ができなかったが事実だとしても、訓練を思い出して、首相の方から「スピーディ」の存在を聞かなければならなかったはずだ。

 その存在を知らないとしていたのは訓練が儀式化していたからだと疑われても仕方はあるまい。

 このように「原子力災害対策特別措置法」13条の国の原子力事故訓練規定を通して“15条通報”と「SPEEDI」は深く関係していたのである。

 それが現実の原子力事故に遭遇して、“15条通報”が何なのか慌てふためき、「SPEEDI」の活用に無為無策を曝した。

 緊急事態宣言の遅れについて菅は証言している。

 (インタビュー証言)「手続きとしての宣言、これはまあ、まさに日本に於いて初めてのことですよね。ま、経産相の方から上申書が上がってくる。ま、その間に、イー…、野党とのいろいろな会議等があってですね、ま、結果としては確かに19時3分に、あのー、宣言を出しましたが、その間も、当然、情報・・・・を、収集すると同時にできる対策、例えば電源車を送るとか、そういう相談は既にやってたわけです」

 問われているのは緊急事態宣言が適切に発せられたかどうかである。何が問われているか棚に上げた無責任な弁解でしかない。

 野党との会議は関係ない。例え“15条通報”を把握していなかったとしても、直ちに把握する適切な判断と行動を示し得なかったことは合理的な判断能力を欠いていたからだと言われても仕方はあるまい。

 また、「例えば電源車を送るとか、そういう相談は既にやってたわけです」と言っているが、東電関係者や原子力安全委員会の人間と同時並行で行わなければならない責任行為であろう。

 「手続きとしての宣言、これはまあ、まさに日本に於いて初めてのことですよね」にしても、阪神・淡路大震災時に村山首相(当時)が政府の情報収集の遅れと危機管理体制の不備を問われて、「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われます」と弁解したのと同じで、初めてだからと言って、不手際・無為無策が正当化されたのではたまらない。危機管理は「初めて」の備えに対してもあるはずである。

 「初めて」は言い逃れにはならない。

 その他に番組は東電と官邸の全面撤退に関わる食い違いやベント作業の遅れ、首相の第1原発視察の是非等を取り上げているが、このことはまた次の機会に譲るとして、経産相や東電、保安院に対する極度の不信から、身近な相談者として母校東工大の同期生を官邸に招じ入れたことを判断能力欠如の例として挙げなければならない。

 信子夫人に「東工大の名簿を持ってきてくれ」と命じ、その中から選んだという。

 事故2日目の3月12日、午後9時、首相執務室。北陸先端科学技術大学院副学長日比野靖。後に内閣官房参与に就任。

 日比野(インタビュー証言)「2月の末に、あのー、まあ、と、大学紛争のときの、仲間がですね、えーと、総理の公邸の方に集まって、彼を励ます会をやったんですね」

 菅首相とは学生運動を共にした旧友だという。

 日比野(インタビュー証言)「私の専門はコンピューターなんですよ。ですから、システム設計みたいなことはある程度、えー、やって、いますけど、原子力は全くの、専門外です。

 自分(菅)が、これでいいのかなっていうことを誰かにちょっと相談したかったんだと思います」

 一刻の猶予もならない緊急事態の最中(さなか)に「誰かにちょっと相談したかった」から、原子力とは専門外の旧友を呼んだ判断能力は素晴らしい。

 (俳優による再現シーン)「(日比野に話しかける。)臨時閣議でも誰も意見を言わない。話しにならないんだ。それに東電、保安院、安全委員会、それぞれに言うことがみんな違うんだよ」

 最高指揮官でありながら、みなに意見を忌憚なく述べるように仕向けることができなかった。あるいは忌憚のない意見を引き出すことができなかった。トップの資質の問題でもあるはずだ。それが気づかない。

 菅は直ちに日比野に会議への同席を求める。

 (俳優による再現シーン)「現状はどうなってるんだ」

 原子力安全委員会担当者(同)「原子炉内で核分裂反応により核燃料を燃やします。その蒸気により、タービンを回すと…」

 (同)「そんなことは理解してるよ。それぞれの炉の状態について説明してくれ」

 解説者が「管は原子力発電のイロハから始まった原子力安全委員会の説明を途中で遮った」と説明していたが、恐れいった全く以って杓子定規な教条主義である。この男は特別だと思うが、日本人の頭の程度はこのぐらいなのだろうかとつい思ってしまう。

 東電担当者「炉は燃え続けています。2号機、3号機については非常用の冷却装置が動いているので安定しております」

 (俳優による再現シーン)「次はどうすればいいんだ。それを言ってくれ。装置が動いていると言っても、水がグルグル動いているだけだから、温度も圧力も上がっていくだろ・・・・」

 何様の命令口調、高みに立った物言いとなっている。

 日比野(インタビュー証言)「震災の対策としてやらなければならないことには山程にあるのですが、その中で原発の事故に対する対応ってところに、もう全力を注いでいたように思いますね。

 不足しているのは何かって言うと、ずっと若い時から政治家としてやってきていることがあって、サラリーマンの経験がないわけなのですね。その組織をどうやって動かしていくかってところは、少し、あのー、何て言うんですか、経験はないってことはあったと思います」

 サラリーマンの経験の問題ではない。どんな経験でも、それを他の経験に応用できるかどうかの応用能力の問題であり、応用するには一つの経験から役に立つ知識を汲み取り、学ぶ的確な判断能力・的確な認識能力を有していなければならない。

 そしてそれを新たな経験に臨機応変に適用させるさらなる的確な判断能力・的確な認識能力が必要となる。

 相談役として会議に同席させる人物の選択は原発事故に関しての自身の質問が適切であるか、質問に対する返事が適切であるか判断の役に立つかどうを基準としなければならないはずだ。当然原発事故に深い知識のある人物が対象となる。

 ところがコンピューターが専門で原子力に専門外の、単に旧友という基準のみで相談役を選択し、会議に同席させた。

 そればかりか、後に内閣官房参与に任じた。

 最高指揮官でありながら、そのことに反したこの判断能力がすべての原因の源であろう。

 最後に管が締めくくりのインタビューで答えている。

 「まあ、私は多くの国民が、本当によく立ち向かって頑張ったと思います。特に原発事故といえば、東電や色々な下請や、あるいは自衛隊や、色んな人がですね、ある意味で危険なところをですね、分かっていても、踏ん張って頑張ってくれたと。

 みんなが逃げなかったから、ここでとどまったと思っています。

 私もそういう中の一人としてですね、あのー、逃げないで頑張ったつもりです」

 涙目になっている。指を大きく広げた左手で感極まるかのように目を覆う。

 確かに菅は「逃げなかった」、「そういう中の一人」であった。逃げる逃げなかったよりも、トップリーダーとして組織をどう動かしたか、自らの判断は迅速且つ適切であったかどうかが何よりの問題であるはずだ。

 最期まで何が問われているか気づかない。他人の頑張り、功績を以てして自らの功績とするのは管の十八番である。菅自身の最高指揮官としての資質が問われているのに役目がそれぞれに異なることを無視して、頑張った国民を持ち出し、自衛隊を持ち出して、自らの役目の頑張りとする。あるいは同次元の頑張りとする。

 何度でも言わなければならないが、この認識能力、判断能力がすべての不適切な対応の根源的な原因となっていた。

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野田内閣の朝鮮半島有事想定の危機管理に手落ちはないか

2011-12-26 09:04:56 | Weblog

 政府が金正日がくたばったのを受けて、金正恩がくたばれば北朝鮮国民にとって最大のプレゼントになると思うのだが、世の中は非情でそうは問屋で降ろさないと言うわけか、朝鮮半島有事を想定、北朝鮮からの大量難民流入と韓国在留邦人保護の検討に入ったという。

 《北朝鮮の難民保護に自治体協力 政府検討、米と連携も》47NEWS/2011/12/25 02:05 【共同通信】)

 いつも感心するのだが、民主党は非常に対応が素早い。独裁者金正日がくたばったとの放送は12月19日正午。検討を政府関係者が明らかにしたのは12月24日。1週間も経たないうちの素早い対応だから、感心しないわけにはいかない。

 先ず日本政府の北朝鮮情勢分析。

 「現時点で特異な事象はない」

 だが、権力継承が安定的に進む保証はなく、野田佳彦首相が19日に「不測の事態に備えた万全の態勢整備」を指示

 関係府省庁は直ちに1994年に金日成主席が死去した際に作成された緊急事態に関するシナリオを参照し練り直しに入った。

 野田首相の場合はくたばり放送のあったその日に直ちに反応したのだから、ニュートリノ並みの素早い対応で、感心する暇もないくらいだ。

 検討の内容。

 〈難民の一時保護などで日本海側の自治体の協力を得るため事前協議を進め、受け入れが可能な施設を選定。朝鮮半島が不安定化した場合の韓国在留邦人輸送に備え、米軍との連携緊密化を図る。〉
 
 政府は北朝鮮難民保護だけではなく、北朝鮮と韓国との万が一の軍事衝突をも視野に入れた。

 流石である。ドジョウと言えども、手抜かりはないところを見せたといったところか。

 だがである。手抜かりはない野田首相と手抜かりのない民主党にケチはつけたくないが、一言言わざるを得ない。2010年12月17日の当ブログ記事――《視野狭窄な菅首相の視野狭窄な事例 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》でも触れているが、2010年11月23日午後2時過ぎ、韓国領延坪島(よんぴょんとう)に北朝鮮が謂れのない砲撃を加え、韓国海兵隊員2名、民間人2名の死者を出した1カ月後の2010年12月10日、当時の菅無能首相が拉致被害者家族会と面会、党内で議論し、案として纏めたわけでもなく、次のように挨拶している。

菅首相「北朝鮮による砲撃があり、アメリカ軍も含めた一触即発の状況も生まれてきている。万一のときに、北朝鮮にいる拉致被害者をどうすれば救出できるか、準備や心構えなどいろいろなことを考えておかなければならない。

 救出に自衛隊が出て行って、韓国を通って行動できるかどうかというルールはきちんと決まっていない」

 朝鮮半島有事を想定した発言だが、自衛隊出動となれば、北朝鮮が日本の自衛隊機には攻撃を加えないと保証してくれればいいが、その保証の保証は皆無なのは目に見えていることで、憲法9条の武力不行使の規定との兼ね合いで、その非現実的な実現性に野党から批判され、またかつて植民地宗主国であった日本の自衛隊機の韓国領内への着陸に韓国内の拒絶感を考えない発言であったため、韓国からも、「現実性のある話ではない。深く考えて述べたものではないだろう」(大統領府関係者)と軽く見られる始末だった。

 だとしても、延坪島砲撃事件を受けて一旦は朝鮮半島有事を想定したのである。その時点で実現性のある現実的な韓国在留邦人保護の方法、北朝鮮難民の保護、米軍との連携緊密化策を計画立てていていいはずだった。

 だが、1年を超えて、大量北朝鮮難民流入と韓国在留邦人保護の検討に入った。

 何と素早い危機管理だろうか。

 また、次のことも危機管理のうちに入れて置かなけれならない問題であろう。

 父子世襲権力継承の金正恩が子どもだった20年前の1991年前後に他人名義の偽のパスポートを使って複数回、日本に極秘に入国し、東京ディズニーランドなどを訪れていたと、《子ども時代 極秘に複数回入国》NHK NEWS WEB/2011年12月22日 19時5分)が公安当局からの情報として伝えている。

 パスポート上の年齢は8歳。兄のジョンチョル氏とみられる人物もパスポート上の年齢10歳で同時に入国。正恩の母親の大阪出身のコ・ヨンヒも数日後に入国、日本国内で子供たちと合流。

 公安当局が当時、北朝鮮関係者が不法に入国したという情報を得て行動確認に乗り出したが、正恩らは入国から10日後の5月22日に既に出国していた。

 2001年に長男の金正男が密入国、入国管理局が身柄を拘束。政府は3日後に中国に強制送還している。

 金正男の場合は拘束できたが、正恩は複数回密入国、母親も拘束された場合、大問題になることが予想されていながら、密入国を成功させている。

 このことは彼らは日本密入国をリスクある賭けとは見ていなかったことを物語っている。金正日が工作員を日本に密入国させ、日本人を拉致までさせていた自由自在な振舞いの延長上の不法行為と看做すことができる。

 このような事態を裏返すと、日本は密入国に対する危機管理がなっていなかったことになる。金正男拘束から判断すると、この手の危機管理は上達したと見ることもできるが、相手としたら、それを上回る密入国の方法を開発していないと否定はできまい。

 金正日とて、自身の独裁体制が何らかの事情で破綻した場合の朝鮮半島有事を常に想定していたはずだ。だからこそのミサイル開発であり、核兵器開発だったろう。

 朝鮮半島有事となれば、在韓米軍のみならず、在日米軍の出動も計算に入れているだろうから、そのことの備えとして、ほぼ自由に日本に密入国できることから日本国内を撹乱するために日本人になりすました北朝鮮人工作員を既に多数密入国させている危険性も考慮しなければならないはずだ。

 彼らがもし日本国内撹乱のために密入国しているとしたら、最適の武器は隠しやすく目立たないサリン等の神経ガス、あるいは細菌兵器の類ではないだろうか。

 このような危険性がゼロなら構わないが、想定できる危険性である以上、その危険性に備えるのが危機管理である。

 だが、今回政府が検討を開始するという朝鮮半島有事の際の北朝鮮難民と韓国在留邦人保護の危機管理のうちには危険性として否定できない北朝鮮工作員の密入国とその武器についての対策の検討が入っていない。

 実際は入れているが、秘密工作の部類に入っていて、密かに捜索しているということなのだろうか。それとも今回の検討があまりにも素早い対応であり過ぎたためについ漏れてしまったということなのだろうか。

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菅直人の一国のリーダーとしての仮面・元市民派としての仮面が剥がれていく

2011-12-25 12:04:48 | Weblog

 ここ数日間に菅直人の一国のリーダーとしての仮面・元市民派としての仮面を剥がす記事を幾つか見つけた。先ず最初に12月22日(2011年)記事――《原発事故、官邸内で情報分断…避難混乱の一因に》YOMIURI ONLINE

 政府の(東電第1原発)「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)の中間報告概要を紹介した記事である。

 先ず東電の初期対応に関して原子炉の冷却操作で誤認や判断ミスがあったとしているが、このことが事故拡大につながったということなのだろう。
 
 菅政権の事故・震災対応については、〈官邸内のコミュニケーション不足や重要情報の公表の遅れなど、政府の情報の収集・伝達・発信に問題があったことを指摘〉していると書いている。

 では、菅政権の情報の収集・伝達・発信はどういった体制にあったのか。効率的・迅速的な体制を築くことができるかどうかも偏にリーダーたる菅首相のリーダーシップ(=指導力)にかかってくる。
 
 大震災発生後、官邸地下の危機管理センターに各省庁の幹部らによる緊急参集チームが集合、陣取った。

 菅首相以下政府首脳は執務室のある官邸5階に集合。

 いわば一箇所に陣取って漏れのない迅速な情報交換を図って、発信していく情報を的確・迅速に決定していくのではなく、情報交換の場を二つに分けたばかりか、情報の決定は官邸5階のみが握って、地下の緊急参集チームは情報決定に関わることができなかった。

 その結果、記事が紹介しているように、事故調査・検証委員会は、〈政府の事故対応に関する主な決定は、5階にいた一部の省庁幹部や東電幹部の情報や意見のみを参考に行われ、同チーム(緊急参集チーム)との連絡も乏しかったとした。〉という事態を招くことになったのだろう。

 地下室と5階である。両者共、お互いの情報の遣り取りを直に目にすることも耳にすることもできない。両者間のその距離に対応した情報の距離を生じせしめた。

 その結果の弊害の一つの例として記事は官邸5階が放射性物質拡散予測システム「SPEEDI(スピーディ)」の存在を把握していなかったことを挙げている。そのために住民のより適切な避難を阻害したと。

 そしてこういった失態が生じた原因として事故調査・検証委員会はスピーディの活用に関する責任が所管する文部科学省と原子力安全委員会との間で曖昧だったことと官邸5階に文科省の幹部が在席していなかったことから、その存在が情報伝達されなかったためだとしている。

 だとしても、2011年9月11日当ブログ記事――《菅政権は22年度原子力総合防災訓練でスピーディを用いている その存在を知らなかったでは済まない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたように、菅政権は2010年10月20日に静岡県の浜岡原子力発電所第3号機が原子炉給水系の故障により原子炉の冷却機能を喪失、放射性物質が外部に放出される事態を想定した、菅首相を政府原子力災害対策本部会議本部長とした「平成22年度原子力総合防災訓練」を行い、その訓練で「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)」を使用、2010年10月20日の風速、風向、浜岡原発周辺の地形等に基づいて放射性物質の放出仮定量と拡散状況をシュミレーションし、その結果値からどの地域の避難が必要か等を訓練している。

 菅首相自身が「SPEEDI」の存在を知っていなければならなかったのである。もし知らなかったとしたら、訓練の意味と政府原子力災害対策本部会議本部長の責任を失う。

 住民の命がかかってくるのである。市民派とは一般市民、一般住民の立場に立つことが如何にできるかによって初めて市民派の資格と正統性を得るはずで、何よりも「SPEEDI」の存在を気にかけていていいはずだが、そうはなっていなかった。リーダーとして無責任極まりないということだけではなく、市民派は仮面に過ぎなかったことの証明以外の何ものでもあるまい。

 「SPEEDI」を活用しなかったために、〈政府の避難指示が迅速に伝わらず、自治体が十分な情報を得られないまま、避難方法を決めなければならなかった〉と事故調の指摘として記事は紹介している。

 記事は最後に、〈政府の情報発信では、炉心溶融や放射線の人体への影響など、重要情報に関する公表の遅れや説明不足があったとし、緊急時の情報発信として不適切だったと総括している。〉と伝えている。

 情報の共有による情報の活用が的確に発揮されていなかった。組織運営能力をそもそもからを欠いていたために満足な情報体制を築くことができず、的確・迅速な情報の共有に基づいた情報の活用が的確・迅速に発揮することができなかった。

 これが菅首相をリーダーとした菅内閣の事故対応姿勢だった。

 このことは菅首相が震災と原発事故を受けて、役割が重なる会議やプロジェクトチーム、対策室等を官邸に20近くも設けて、結果として指示の不伝達・不徹底、指揮系統の不明確、責任所在の不明といった問題を引き起こしたことに重なる。

 にも関わらず、菅首相は機会あるごとに「内閣としてやるべきことはやってきた」と国会答弁で何度も言い張っていた。

 3月11日午後2時46分東日本大震災発生の翌日の3月12日午前7時11分から、菅首相は福島第1原発を現地視察している。原発事故で現地対策本部長を務めた池田元久前経産副大臣が3月11日の事故発生から5日間の様子を手記に纏めていて、その中で菅視察に同行したときの菅首相の態度を記しているという。

 拾い出した限りでは、「asahi.com」「YOMIURI ONLINE」「MSN産経」12月20日前後の日付で伝えているが、他にも伝えているマスコミがあるかもしれない。

 記事は、怒鳴り散らしている菅首相の姿を浮き彫りにしている。極めつけは、「何のために俺がここに来たと思っているのか!」(MSN産経・朝日)である。

 理に適った怒鳴りなら、怒鳴られた側は姿勢を正すことも必要となるが、言葉自体に何の理も見い出すことはできない。反発を誘うだけであろう。

 このことは池田氏が「指導者の資質を考えざるを得なかった」(「asahi.com」・「YOMIURI ONLINE」)と書いていることが証明している。

 元市民派が理路整然とした言葉で情報発信せずに視察で何様の姿を取って意味もなく怒鳴り散らす。市民派の仮面を自ら剥いだ瞬間であろう。

 純粋な市民派はいくら反権力を掲げていたとしても、理不尽な権力者に対したからといって何様の態度は取らないはずだ。何様の態度は自分を偉く見せる態度であり、闘う態度ではないからだ。

 それを下に位置する者に対して無闇矢鱈と怒鳴る。

 菅首相は国会で、視察で「第一原発で指揮をとっている人の話を聞いたことは、その後の判断に役だった」と答弁しているが、一国の首相に怒鳴り散らされた側が果たして素直に心開いただろうか。萎縮し、恐縮して恐る恐るの言葉遣いしかできなかったのではないだろうか。腹の中では、クソっ垂れと反発しながら。

 最後に何度も当ブログで取り上げている、東電の全面撤退の真偽の問題である。12月24日(2011年)付記事――《福島第1原発:「最悪シナリオ」原子力委員長が3月に作成》毎日jp/2011年12月24日 15時10分)

 記事は福島第一原発事故から〈2週間後の3月25日、菅直人前首相の指示で、近藤駿介内閣府原子力委員長が「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出していたことが複数の関係者への取材で分かった。〉と紹介している。

 〈さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、原発から半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算していた。〉と。

 近藤内閣府原子力委員長「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」

 だが、これは前以ての危機管理ではなく、事故が起きてから対策を講じる慣例ともなっている後付けに過ぎない。

 問題は記事が結びで、〈菅氏は9月、毎日新聞の取材に「放射性物質が放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」と述べており、近藤氏のシナリオも根拠となったとみられる。〉と書いていることに関してである。

 この記事が伝えている情報の前段部分である現実場面は、《検証・大震災:菅前首相の証言 国難、手探りの日々 「日本がつぶれるかも」》毎日jp/2011年9月7日)によると、原発事故発生3日後の3月15日午前4時17分、清水社長が官邸を訪れ、東電が全面撤退を申し出たのに対して菅首相は全面撤退をその場で思いとどまらせる指導力を発揮することができなかったからだろう、約1時間10分後の午前5時35分、東京・内幸町の東電本店に乗り込み、そして、〈放射線の危険と隣り合わせの事故対処に、「覚悟を決めてくれ」と迫った菅首相。このときの思いを、こう振り返った。〉と記載されていて、その思いを次のように伝えている。

 「放射性物質がどんどん放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる。国際社会が当然、日本に何とかしろと圧力をかける。黙って指をくわえてみていて、日本が何もやらないなら、国際社会だって黙っていない。ものすごい危機感があった。(放置すれば)間違いなくチェルノブイリ事故どころじゃない量の放射性物質が出る。国際的な部隊がやってきて対応しなければいけなくなることだって十分にありえる、と思った」云々。

 いわば東電が撤退した場合の最悪のシナリオとして、「100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」との思いは3月15日午前5時35分に東電本社に乗り込んだときのものであって、首相を退陣後の9月の毎日新聞の取材に対して回顧として述べたという順序を取ることになる。

 菅首相がこういった切迫した思いを3月15日当時実際に抱いていたとしたら、その切迫感は住民避難の範囲に影響してもいいはずだが、実際はそうなっていない。例え東電が全面撤退の申し出が事実あったことで、全面撤退の断念を約束したとしても、事故対応が満足に進捗しなかった場合、一度申し出た全面撤退にいつ突入するか分からないのだから、それ相応の避難を求めてもいいはずだった。

 東電乗り込みの3月15日午前5時35分から約5時間半後の3月15日午前11時00分に緊急記者会見を開いて、高濃度放射性物質の放出を発表、同時に第1原発周辺半径20~30キロ屋内退避指示を行っている。

 この半径20~30キロが「100キロ、200キロ、300キロ」の切迫感からあまりにもかけ離れているゆえに後付けの「100キロ、200キロ、300キロ」ではないかと疑っていたが、近藤駿介内閣府原子力委員長が「原発から半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算」した「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出したのは3月25日である。

 いわば3月25日以前は菅首相は知り得なかった「最悪シナリオ」でなければならない。
 
 知らなかったからこそ、3月15日午前11時00分の屋内退避指示を第1原発周辺半径20~30キロ程度とすることができたはずだ。

 近藤内閣府原子力委員長3月25日作成の「最悪シナリオ」の提出を受けてから知った「100キロ、200キロ、300キロ」の切迫感であり、あくまでも「さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合」の「最悪シナリオ」であるにも関わらず、東電が3月15日に全面撤退を申し出たときの“最悪シナリオ”に変えて誤魔化している。

 しかも菅首相は「最悪シナリオ」の提出を受けた3月25日の4日前の3月21日午後4時03分、緊急災害対策本部で原発事故について、「光明が見えてきた」(同毎日jp)と発言している。

 いわば「光明が見えてきた」中で報告を受けた「最悪シナリオ」であった。それを東電が全面撤退を申し出てきた日の「最悪シナリオ」にすり替えた。

 この誤魔化しは誤魔化す必要が何らかあったことからの意図的な作為に基づいているはずだ。東電の全面撤退が事実あったこととするために「100キロ、200キロ、300キロ」の切迫感を演じたのか、自身の首相としての事故対応すべてに正当性を与えるための強調なのか。

 時事通信の退陣後のインタビューでは次のように発言している。

 菅前首相「(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら、放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、(避難区域を半径3キロ、10キロ、20キロと拡大させた対応は)当時の判断として適切だと思う」――

 いわば自らの当時の判断を適切だとするために100キロだ200キロだ300キロだを後付けとして持ち出したとすることができる。

 元市民派がする誤魔化しだろうか。権謀術数に長けた政治家だけがよくする誤魔化しであるはずである。

 一国のリーダーとしての仮面を剥ぐと同時に元市民派としての仮面をも剥ぐ菅前首相の一連の態度と言わざるを得ない。

 菅首相にとっての市民運動は政治的野心を満たすための利用の場であり、利用の機会に過ぎなかったとしか言いようがない。

 参考までに避難指示と全面撤退等に関わる推移を時系列で。

 2011年3月11日午後9時23分 ――半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の指示
 2011年3月12日午前5時44分 ――避難指示を半径3キロ圏内から半径10キロ圏内に拡大
 2011年3月15日午前3時頃   ――菅、海江田経産相から、東電が全面撤退の意向を示していることを伝えられる。
 2011年3月15日午前4時過ぎ ――菅、清水東電社長を官邸に呼ぶ。
 2011年3月15日午前5時半過ぎ――東京・内幸町の東電本店に乗り込み、「撤退なんてあり得ない!」と怒鳴ったとされる
 3月15日午前11時00分    ――第1原発周辺半径20~30キロ屋内退避指示

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八ッ場ダム建設継続は菅仮免参院選マニフェストで既に決定、前原の反対は馴れ合いのサル芝居

2011-12-24 11:04:19 | Weblog

 野田首相は昨日(2011年12月23日)、「政府・民主三役会議」を開催、「2009年衆院選マニフェスト」に従って2009年9月16日鳩山内閣発足と同時に国交相に就任した当時の前原誠司が認証式後の就任記者会見で公表し、鳩山首相自身も翌日、これを支持し建設中止とした群馬県八ッ場ダムの建設を継続、来年度予算案に必要な経費を計上することを正式に決定した。

 前原誠司は鳩山内閣を継いで発足の菅内閣でも国交相を留任、2010年9月の民主党代表選で再選され、2010年9月17日発足の菅改造内閣で外相に就任するまで、ちょうど1年間の任期を国交相として過ごしている。

 前原国交相辞任のあとを引き継いで2010年9月17日に国交相に就任した馬淵国交相が八ツ場ダム建設中止方針の撤回を打ち出した。

 国交相に就任してから20日近く経過した11月6日(2010年)午後の記者会見。

 馬淵国交相「私が大臣のうちは『中止の方向性』という言葉には言及しない。予断を持たず(ダムの)検証を進め、その結果に従う」(MSN産経

 「『中止の方向性』という言葉には言及しない」とは「中止の方向性」の議論は行わないということであろう。事実上の建設中止撤回である。

 馬淵国交相のこの八ツ場ダム建設中止方針の撤回は2011年8月26日当ブログ記事――《菅か前原か馬淵か、「八ッ場ダム」建設迷走の一番の悪者は - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取り上げた。

 マニフェストは誰が内閣を運営しようとも、民主党政権の4年間の公約である。最初に看板を高々と掲げて、こういった政策を行いますと国民に約束した。

 また民主党は「コンクリートから人へ」を政治理念としていた。これは公共工事への投資よりも人への投資優先を謳った政治理念であるはずである。

 その象徴であった八ッ場ダム建設中止であったはずだ。 

 だが、馬淵は国交相に就任して12カ月そこそこで民主党が決めた八ッ場ダム建設中止であるにも関わらず、国交相の立場で中止撤回の方針を打ち出した。

 ここに矛盾が生じる。マニフェストに関係する政策の行方である以上、民主党全体で決めなければならない八ッ場ダム建設中止撤回であるか、最低でも内閣の名に於いての撤回でなければならないはずで、そういった撤回であった場合に於いてのみ所管大臣として代表して中止撤回を公表することが許されるはずだ。

 今回の建設継続も野田首相を交えた政府・民主三役会議での決定となっている。

 上記当ブログで書いたが、改めて2009年マニフェストの八ッ場ダムに関する箇所を取り上げてみる

 《2009年マニフェスト》 

 〈公共事業

  ○川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す。
  ○道路整備は費用対効果を厳密にチェックしたうえで、必要な道路を造る。
 
 《民主党政策集INDEX2009》 

 〈大型公共事業の見直し

 川辺川ダム、八ッ場ダム建設を中止し、生活再建を支援します。そのため、「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法(仮称)」の制定を目指し、国が行うダム事業を廃止した場合等には、特定地域について公共施設の整備や住民生活の利便性の向上および産業の振興に寄与する事業を行うことにより、当該地域の住民の生活の安定と福祉の向上を図ります。〉――

 実は馬淵国交相の、「予断を持たず(ダムの)検証を進め、その結果に従う」とした文言は菅仮免内閣の〈2010年民主党参院選政権政策(マニフェスト)〉に既に書き記されている。

 「中止の方針を表明している八ッ場ダムをはじめ、全国のダム事業について、予断を持たずに検証を行い、『できるだけダムにたよらない治水』への政策転換を一層進めます」・・・・

 前記当ブログにこのことについて、次のように書いた。

 〈検証を経た上で不必要と認めたダムは中止の方向に向けるとした政策を掲げているのみで、八ッ場ダムの建設中止の凍結を謳っているわけではない。

 もしここで既に八ッ場ダム建設中止の決定をも“検証”の対象としていたとするなら、この時点で2009年マニフェストの八ッ場ダム建設中止の政策を変更したことになる。

 だが、そんなことは一言も言っていないはずだ。〉――

 どうも情報を読み違えたようで、謝罪しなければならない。

 「『できるだけダムにたよらない治水』への政策転換を一層進めます」と、脱ダム宣言を掲げているが、だとしたら建設中止を決定をした八ッ場ダムを検証対象に含めなくいいはずだし、含めないことによって後段の「『できるだけダムにたよらない治水』への政策転換を一層進めます」の脱ダム宣言と整合性を持ち得るが、わざわざ「中止の方針を表明している八ッ場ダムをはじめ」と八ッ場ダムを検証対象に含めたことは巧妙な言い回しの中で、その建設中止決定まで検証の対象としていたということになるのではないだろうか。

 だが、菅仮免が2010年参院選マニフェストを作成した当時は(2010年6月17日マニフェスト発表記者会見)八ッ場ダム建設中止を宣言した前原が国交相を務めていて、中止の方針を打ち出した本人が中止撤回の方針を打ち出したなら、単なる政策ならまだしも、「コンクリートから人へ」の政治理念の象徴としてマニフェストに掲げた政策の変更である手前、矛盾を曝け出すことになるために馬淵国交相の出現を待たなければならなかったということであろう。

 いわば菅が主体となって策定した参院選マニフェストを受けて、前原を引き継いだ馬淵国交相が八ッ場ダム建設中止方針の撤回を打ち出したと解釈すると、馬淵国交相個人による、その権限もないゆえに許されないマニフェスト変更ではなく、管の、あるいは菅内閣全体の変更指示に従った建設中止方針の撤回ということになって、何ら矛盾は生じないことになる。

 尤も菅内閣の秘密裏の指示を受けた馬淵八ッ場ダム建設中止方針の撤回だとすると、国交相から外相に横滑りした前原一人が反対するのは新たな矛盾となる。

 前原は馬淵中止撤回方針を受けて、8月25日(2011年)次のように発言している。

 前原外相「国土交通相の時に八ツ場(やんば)ダム中止と言ったのにできていない、という話があるが、続けさせてもらえればやった」(asahi.com

 この発言は最近の建設継続に対する強硬な反対姿勢と矛盾する。上記ブログにも書いたが、「続けさせてもらえればやった」とは交代したのだから仕方がないと半ば方針撤回を認めるニュアンスの発言となるからだ。「続けさせてもらえなかったのだから、仕方がないではないか」という半ば容認の意味であろう。

 また、このように発言することによって、菅仮免参院選マニフェストの「中止の方針を表明している八ッ場ダムをはじめ、全国のダム事業について、予断を持たずに検証を行」うとした、最低でも菅内閣全体の意向としなければならない八ッ場ダム建設中止撤回に前原も含めることとなって、マニフェストの全体的決定という性格に添うことになる。

 しかし、この八ッ場ダム建設継続にマスコミや世間の目は2009年民主党衆院選マニフェストとの整合性に主として目が向けられ、マニフェスト違反だと批判の声が上がり、特に中止の方針を打ち出した前原の中止の不徹底に批判が集中した。

 この批判に対して2010年参院マニフェストに掲げたとおりに「中止の方針を表明している八ッ場ダム」を含めてダムとしてのその必要性を「予断を持たずに検証を行」った結果、継続が適切だいう結論を得たとすれば、何ら矛盾は生じず、反論は可能となるはずだが、政権交代の2009年衆院マニフェストが2010年参院選マニフェストよりも優越的位置を占めるためにおおっぴらに反論はできないのだろう、前原としてはダムの建設継続そのものに反対せざるを得なかった。

 《国交相と民主政調会長の発言要旨》時事ドットコム/2011/12/22-21:50)

 前原政調会長「(本体工事は河川整備計画の策定などを踏まえ、判断するとした)官房長官裁定を前田国交相が受け入れたのであれば、本体工事の着工は(現段階では)論理矛盾だ。無理やり(2012年度)予算案に入れるのであれば、党として反対する。国交省の予算は認めないので、閣議決定させることはできない。

 (23日の)政府・民主三役会議でこのことを伝える。最終的に予算案が閣議決定されるのは24日だ。それまでに事態の収束が図られる。最高意思決定機関である政府・民主三役会議でどのような決断をするかに尽きる。

 (自身の進退に関する質問に)政調会長として党内の意見を取りまとめ、最終的に官房長官裁定に従った。裁定の文面を読めば、本体工事を着工できないというのが私の結論だ」

 記事が伝えている前田国交相の発言。

 前田国交相国交省の政務三役会議で八ツ場ダムの事業継続を決定した。流域の1都5県の知事、地域の安全に責任を持つ自治体の長に電話で一報した。地元の町長にも連絡した。利根川水系には即効性のある治水対策が必要だ。ダムは8割方完成しており、あと6、7年で完成する。

 政権交代後、(当時の)前原国交相の下で(事業の必要性を検証する)有識者会議を組織した。(有識者会議とは別に)関東地方整備局に検討の場が設けられ、(事業継続が)妥当という結論を出した。検討プロセスに瑕疵(かし)はなく、最終的には有識者会議でダム続行が妥当という結論を出した。

 民主党の中にマニフェスト(政権公約)との関係で納得していない方々も大勢いる。マニフェスト通りの結果が得られなかったのは誠に残念だが、苦渋の決断をさせてもらった」

 民主党のマニフェストでありながら、民主党や内閣に諮りもせずに「国交省の政務三役会議で八ツ場ダムの事業継続を決定した」としている。少なくとも内閣に諮らなかったのは内閣が内々に追認している八ッ場ダム建設継続でなければならない。

 この内閣追認は最終決定の「政府・民主三役会議」を開催する前に建設継続を決定したこととして、前田国交相が「流域の1都5県の知事、地域の安全に責任を持つ自治体の長に電話で一報」していることが証明している。

 このことを読み取ることができない程バカではない前原のはずである。

 いわば既に内閣も追認している建設継続を野田首相を交えた「政府・民主三役会議」で前原政調会長も出席していながら、最終決定した。

 問題は果たして前原が事実反対していたかどうかである。

 前原政調会長の「政府・民主三役会議」後の記者会見。《政府・民主 八ッ場ダム建設継続決定》◇(NHK NEWS WEB/2011年12月23日 18時4分)
 
 前原政調会長「『政府・民主三役会議』の場で、幹事長、国会対策委員長、幹事長代行も含めて、党としては八ッ場ダムの本体工事の予算計上に反対であるということを繰り返し伝えた。1時間以上やり取りをしたが、政府の考えを変えるに至らなかった。

 事実上の最高意思決定機関は『政府・民主三役会議』であり、トップは野田総理大臣だ。党の立場で総理大臣を支えるということで構成している会議で、予算案は政府に委ねる形にした。

 マニフェストを守れなかったこと、政権交代の理念が骨抜きになったことは、国土交通大臣を1年間務め、政策調査会長をしている者として責任を感じるが、引き続き、キャッチャー役として野田政権を支えることには変わりない」・・・・・

 「事実上の最高意思決定機関は『政府・民主三役会議』であり、トップは野田総理大臣だ」は最初から分かっていたことで、分かっていながら、党として反対する、国交省の予算計上は認めない、閣議決定は不可能だ、政府・民主三役会議でこのことを伝えると、さも阻止できるかのような強硬姿勢を見せていたのである。

 ここにいかがわしいばかりの矛盾がある。

 「事実上の最高意思決定機関は『政府・民主三役会議』であり、トップは野田総理大臣」であるなら、自身に最終決定権はないのだから、見せなくてもいい強硬姿勢だったことになる。「『政府・民主三役会議』に最終判断を委ねます」で済んだはずだ。

 それをさも阻止できるかのように演じていた。

 菅仮免が2010年参院選マニフェストに謳い、馬淵が2010年11月6日事実上撤回したことが2011年12月23日になってそのまま決定した。

 前原の強硬な反対が野田内閣との馴れ合いのサル芝居でなくて何であろうか。

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小沢裁判に見る検察の立件を前提とした捜査と証拠選択

2011-12-23 10:14:55 | Weblog

 11年30日(2011年)水曜日放送の《NHKクローズアップ現代「証拠は誰のものか」》は、25年前の1986年3月に福井県福井市の市営住宅で女子中学生が殺害された福井女子中学生殺害事件を取り上げて、検察の証拠の取扱いについて、その正当性如何を論じていた。

 逮捕された被告は無罪を終始訴えていたにも関わらず懲役7年の刑を受け、刑期を終えたのち、2004年に再審請求、7年後の11月30日(2011年)に再審開始が決定。

 当該事件に関わる以下の記述は放送のテキスト文を参考とした。

 決定の主な理由は裁判所が検察に対してすべての証拠の開示を求めたところ、検察が被告を有罪とするに不利となるいくつかの証拠を裁判所に提出せずにいたことの判明であった。

 証拠開示について番組は次のように解説している。
 
 ●すべての証拠の提出を義務づける法律はない。
 ●検察は裁判上不都合だと考える証拠は出さないこともできる。
 ●弁護団が再三に亘って証拠開示を要求したが、検察は頑なに拒否。
 ●検察は裁判所の勧告を受けようやく証拠の開示に応じる。
 ●その中に検察側の有罪立証に不利となる証拠が出てきた。

 いわば被告側の無罪立証に有利となる証拠の存在が明らかとなった。

 そして裁判所の再審再開決定。

 当時の検察関係者「有罪の立証に役立つ証拠 つまり、ベストエビデンス(証拠・証言)だけを裁判に出すのは我々にとって当たり前だ」

 裏返すと、「有罪の立証に役立たない証拠、つまり、ワーストエピデンスは裁判所に出さないのは我々にとって当たり前だ」となる。

 以上のことは犯罪が発生した場合の犯人逮捕と裁判所起訴は集めたすべての証拠に基づいて容疑者を特定し、その犯罪事実の全容を確立して起訴に持っていくのではなく、捜査の過程で犯人と目星をつけた容疑者を容疑者に足る証拠のみを以て犯人と特定、いわば犯人に仕立てて、仕立てるにふさわしい犯罪事実のみを組み立てて犯罪の全容、もしくは犯行の全容とし、起訴に持っていくことが検察の役目であると証拠立てている。

 検察のこのような手続きは犯人と目星をつけた容疑者が実際に真犯人であった場合は犯人と仕立てるに都合のいい証拠のみで犯罪事実・犯行を如何ように組み立て、真犯人だとしようとも、プロセスそのものは非合理的であろうと、合理的結末を得ることが可能となるが、真犯人でなかった場合、証拠の操作による仕立てられた犯行、仕立てられた犯人ということになって、冤罪という非合理を超えた不条理へとつながっていく危険性を抱えることになる。

 初めて知り得たことで驚いたが、当時の検察関係者が言っている「有罪の立証に役立つ証拠 つまり、ベストエビデンス(証拠・証言)だけを裁判に出す」検察行為は法律上許されている、合法行為だったということである。

 ゲストの木谷明法政大学法科大学院教授が番組で解説している。

 木谷大学院教授「現在の訴訟法は、当事者主義という考え方でできてます。

 当事者主義というのは、それぞれの当事者が、自分に有利な証拠を集めて、それを裁判所に提出すると、その中から真実を発見していくんだと、こういう建て前ですね」

 検察は立件に不利な証拠があっても有罪だと信じるに足る証拠を根拠に起訴すべきであり、起訴と決定した場合、すべての証拠を裁判所に提出、有罪の立場で裁判に臨み、弁護士は検察の有罪の主張が正しいか否か、例え有罪であっても検察の主張する求刑に相当する犯罪か、あるいは被告が無罪を主張する場合、被告の利益擁護の立場に立って無罪を主張して、すべての証拠を間にその妥当性を闘い、最終的に裁判所の判断に従う手続きとはなっていなかった。

 検察は犯人と特定するに疑わしい証拠が出た場合、そのような不利な証拠を以てしても犯人だと特定するに足る、あるいは有罪を組み立てるに足る有力な証拠の存在無くして起訴はできないはずだが、そうはなっていなかった。

 犯人だと特定するに都合のいい証拠のみに基づいて犯罪の全容を組み立て、真犯人だと立件して裁判所に起訴していた。

 村木裁判では最初から罪アリと特定し、その特定に添う証拠のみを収集、特定に不都合な証拠は排除して罪アリを固めようとしたが、目的通りにいかなかったために、目的通りに罪アリと特定するために証拠を改竄した。

 犯罪事実と犯人と目星をつけた容疑者との間の関連性に合理的根拠を見い出すのではなく、合理的根拠を無視して、犯罪事実に犯人と目星をつけた容疑者の行動を一致させるに都合のいい証拠のみを以て犯罪事実の全容とし、目星をつけた容疑者を真犯人として起訴していく。

 このような捜査と起訴の手続きが小沢強制起訴でも用いられた疑いが出てきた。
 
 《【小沢被告第10回公判(7)】「証拠隠しは言ったっけ」「石川議員が『土下座』」…止まらぬ“暴露”》MSN産経/2011.12.16 16:40)

 村木事件で証拠改竄を行い、懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けたが控訴しなかっために実刑が確定、法曹資格を失った例の前田恒彦元検事が陸山会事件で大久保隆規元秘書の取調べを担当した関係から証人として出廷。

 前田証人「1回目(の指定弁護士との打ち合わせでは)はざっくばらんに、捜査の問題点を含めて申し上げた。『私は小沢さんが無罪だと思う』『指定弁護士も職務上大変ですね』と。捜査にいろいろ問題があったことも言いましたし、証拠隠しのことも…言ったかな? 言わなかったかな?」

 弁護人「証拠隠しって何ですか」

 前田証人「要は、私が裁判官なら、『無罪』と判決を書く。証拠がすべて出されたとしても…」

 弁護人「いや、『隠された証拠』ってなんなんですか」

 前田証人私が思っているだけですけどね。判決では検察審査会の起訴議決が妥当だったかどうかも審理されるわけですよね。そこで検察が不起訴と判断した資料として検審に提出されるもので、証拠になっていないものがあるわけですよ。例えば、(自分が取り調べを担当した)大久保さんの調書には全くクレームがないけど、石川さんの調書にはあるんです。弁護士からのクレーム申入書が。でも(指定弁護士との)打ち合わせのときに、指定弁護士は知らなかった。検審に提出された不起訴記録に入っていないから。

 私はクレームが来ていないから胸を張って任意性がある、と言えるんですけど。石川さんの調書に問題があったんじゃないですかね。(石川議員の取り調べに対する)クレームはバンバンあったくらいの印象がある。指定弁護士も調査したら1、2通見つかったと言っていたが、私の印象ではもっとあると思いました。それが証拠に含まれていれば、審査会が見て、調書の信用性は減殺されるわけですよね

 《前田被告は息つく間もなく、小沢被告を無罪と考える根拠として、立件材料がそろわなかった点を説明する》

  前田証人「それに、この事件では捜査態勢が、途中でものすごく拡充されたんですよ。(元秘書ら逮捕者の取り調べを行う『身柄班』に対して)『業者班』。ゼネコンや下請けの捜査員を増やした。でも、(作成された)調書が、まー、ないでしょ? 大久保さん(の)、小沢さんに裏金を渡しているという検察の想定と違う取り調べ内容は、証拠化しないんです。どうするかといえば、メモにしている。手書きのその場のメモということでなく、ワープロで供述要旨を整理していた。

 水谷(建設)で言えば、4億円の原資として5千万円は水谷かもね、となっても、残りの3億5千万円については分からない。何十人の検察官が調べて、出てこない。検審にそれが示されれば、水谷建設の裏献金の信用性も、減殺されていたはず。想定に合わなければ証拠にならないというのがこれまでの検察で、私も感覚がずれていて、厚労省の(証拠改竄)事件を起こすことにもなった」(以上引用)

 「検審に提出された不起訴記録に入っていない」――

 これは検察が小沢氏を事情聴取して不起訴とした記録の一部分を検察審査会に提出した不起訴記録の中に入れなかったということなのだろう。

 いわば都合の悪い証拠を取捨選択の操作を行った。

 「それが証拠に含まれていれば、審査会が見て、調書の信用性は減殺されるわけですよね」

 「大久保さん(の)、小沢さんに裏金を渡しているという検察の想定と違う取り調べ内容は、証拠化しないんです」
 
 「想定に合わなければ証拠にならないというのがこれまでの検察」――

 「私が思っているだけですけどね」とは言っているが、立証・立件に都合の悪い証拠は隠し、都合のいい証拠のみを表に出す“当事者主義”を最大限に活用した事実を暴露している。

 小沢裁判でも、「有罪の立証に役立つ証拠 つまり、ベストエビデンス(証拠・証言)だけを裁判に出すのは我々にとって当たり前だ」とする検察の役目を忠実に実践していたということである。

 裁判所はそのような取捨選択を受けた証拠に基づいて判決を出していく。検察が裁判所に提出した証拠のみを以て犯罪事実とし、犯罪事実を構成するそれら証拠に基づいて被告の刑を確定していく。

 前田元検事は別のところで次のように証言もしている。

 前田証人「その際、■■(匿名となっている)キャップからは『この件は特捜部と小沢の全面戦争だ。小沢をあげられなければ特捜の負けだ。恥ずかしい話だが、東京には割り屋がいない。だから大阪に頼ることになった』といわれた」

 いわば検察は有罪を前提に捜査に臨んだ。そのために不都合な証拠は隠し、有利な証拠のみを表に出す“当事者主義”をフル活動させた。小沢氏に対する事情聴取も、「小沢をあげられなければ特捜の負けだ」の強硬な姿勢、挙げることを前提として行われたはずだ。

 だが、小沢氏に関しては2度の事情聴取を以てしても起訴に持ち込むことはできなかった。

 にも関わらず、検察審査会によって強制起訴を受けたが、「検審に提出された不起訴記録に入っていない」という証言からすると、“当事者主義”に毒された強制裁判だと認識しないわけにはいかない。

 これまでも検察が証拠を操作してデッチ上げた起訴を裁判所がデッチ上げと気づかずに冤罪となる判決を下してきた。


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藤村官房長官の金正日「哀悼」に見せた見事なまでの薄汚い詭弁

2011-12-22 12:12:53 | Weblog

 藤村官房長官が12月19日午後の臨時記者会見であの悪名高い独裁者金正日の死に対して哀悼の意を表し、21日午後の記者会見では、哀悼の意は、一般的常識としての日本的文化の範囲内で個人的に行った哀悼表明で、政府の意向ではないと否定したといくつかのマスコミが伝えていた。

 発言内容を具体的に知りたいと思い、首相官邸HPの中の官房長官の記者会見記事にアクセスしてみた。記事は冒頭発言のみテキスト文が記載され、記者との質疑応答は動画のみのサービスとなっている。

 これを親切と取るか、不親切と取るか。

 19日午後の関係発言は冒頭発言の中で、21日午後は記者との質疑応答の中での発言となっている。 

 《官房長官記者会見「北朝鮮の金正日国防委員会委員長の死去について」》(2011年12月19日(月)午後)

 藤村官房長官「まず私(官房長官)の方から、金正日国防委員会委員長の死去についてということでお話しします。
 
 北朝鮮金正日国防委員会委員長の突然の逝去の報に接し、哀悼の意を表したいと存じます。

 今回の突然の事態が朝鮮半島の平和と安定に悪影響を与えないことを、まず期待したいと存じます。

 政府といたしましては、先ほど直ちに官邸内閣対策室を最初に設置をいたしました、とともに午後1時から安全保障会議を開催いたしました。

 野田総理からは、既に12時10分に出されておりますが、総理の指示、すなわち今後の動向について情報収集体制を強化すること、米国・韓国・中国等の関係国と緊密に情報共有をすること、及び不測の事態に備えて万全の態勢を取ることについての、改めてのご指示がございました。

 政府としては引き続き適切な対応に努めてまいりたいと存じます。

 また、今からの話、今後、関係省庁担当局長会議をこの後開きます。さらに、合同情報会議等を断続的に開催することとしております」

 次に21日午後の記者会見を関係箇所のみ動画から採録。聞き取りにくかったため、聞き取りにくい箇所は省略。
 
 共同通信記者「政府として今後弔意、哀悼の意っていうふうに、会見で長官、おっしゃっておりましたけど、政府として予定をどういう形で示されるのか、伺えますでしょうか」

 藤村官房長官「あの、今後、特にございません。特に予定はございません」

 記者「関連してなんですけど、(北朝鮮は?)民間の弔問団は受けないというふうにおっしゃってますけど、民間の弔問について、政府として、例えば、その、渡航自粛とか、渡航制限について緩和するとかのお考えはあるのでしょうか」

 藤村官房長官「具体的にまだ聞いておりませんが、具体的に今変更するとかありません」

 千葉MSN産経記者「MSN産経の千葉です。関連になってるんですが、弔意の表明という形で、長官、19日の会見で最初に弔意の表明をされましたが、例えば北朝鮮の人民に対して弔意の表明という形で、かなり慎重な判断をされたように思いますが、最初に弔意を申し上げた意味合いについて――」

 藤村官房長官「まあ、あのー、おー、これは一般的常識、日本的文化の中で、ということですが、の範囲の中で私が、まあ、哀悼の意を表したところに過ぎないと思います」

 これが個人的な意思から出た哀悼表明であって、政府を代表した哀悼の意ではないということなら、これこれの文脈で「哀悼の意を表したに過ぎません」と断言すべきで、そのように断言することによって個人的な意思判断であることの証明となるが、個人的な意思判断だと自分から言い出しておきながら、「哀悼の意を表したところに過ぎないと思います」と、自らの意思判断を推測する矛盾した言葉遣いとなっている。

 単に言葉遣いの間違いなのか、実際は政府の意思を代弁したことを誤魔化すためについ推測の形を取ってしまったのか。

 だが、内閣官房長官という職務は重要事項や各種事態に関する政府の公式見解等を発表する政府報道官(スポークスマン)としての役割を担う内閣の要としての地位を占め、内閣総理大臣に次ぐナンバー2の重要ポストにある。

 いわば発言は内閣を代表したものとなる。もしそれが個人的な意思判断であったなら、そのことの断りを入れて、明確に分けなければならないはずだ。

 北朝鮮の朝鮮中央テレビが12月19日正午の特別放送で金正日の死を伝えた。その日の午後の官房長官記者会見で、政府を代表してではなく、個人的な意思判断だとの断りを入れもせずに、「北朝鮮金正日国防委員会委員長の突然の逝去の報に接し、哀悼の意を表したいと存じます」と発言した。

 百歩譲ってこれが個人的な哀悼表明だとするにしても、認めるについては公式の記者会見の場で悪名高い独裁者の死に際した北朝鮮権力層及びその権力層と利害関係を結んだ一部国民に対して個人的に哀悼の意を表明しなければならない金正日に対する個人的な敬愛や信頼の類を説明する責任を負う。

 あるいは独裁国家北朝鮮との今後の関係を考えた個人的な哀悼の表明であることの説明が必要となる。

 当然、続いて発言している「今回の突然の事態が朝鮮半島の平和と安定に悪影響を与えないことを、まず期待したいと存じます」は国民を代表した政府の期待ではなく、藤村官房長官の個人的な期待ということになって、政府の期待は発表しないで済ませたことになる。

 この矛盾をどう説明するのだろうか。
 
 「哀悼」とは「人の死を悲しみ悼むこと。哀惜」の意味であると『大辞林』(三省堂)に出ていて、「哀惜」と同義語としている。「哀惜」とは読んで字の如く、その死を哀しみ惜しむことを言う。「惜しむ」とは死を残念だとする想いを背景とした感情の発露であろう。

 いわば生存を望みながら、そのことが叶わなかったときの想いが「哀悼」であり「哀惜」の感情となって表れる。

 死んでほしいと願っていた人間が死んで、誰が「哀悼」の念に駆られたり、「哀惜」の念に駆られたりするだろうか。

 藤村官房長官は金正日の死に際して、「哀悼」の念に駆られ、あるいは「哀惜」の念に駆られて、個人的に政府公式の記者会見を使って哀悼の意を表明した。

 なぜなのか、そのことの国民に対する説明が必要となる。

 藤村官房長官は自身の個人的な哀悼表明を「一般的常識、日本的文化」「範囲の中」の儀礼だとした。

 ということは、北朝鮮権力層及びその権力層と利害関係を結んだ一部国民がその生存を願いながら叶わなかった悪名高い独裁者金正日の死を哀しみ残念がる哀悼・哀惜の念にしても、日本の「一般的常識、日本的文化」と共通しているとして同列に置いたことになる。

 実際には哀悼・哀惜の念は日本文化に限らず、世界中の文化に共通の普遍的な人間感情であろうが、同列に置くことで藤村官房長官は自身の哀悼・哀惜念を北朝鮮の権力層と同列の哀悼・哀惜の念としたのである。

 だが、何よりも問題としなければならないことは藤村官房長官の個人的な哀悼・哀惜が「一般的常識、日本的文化」に基づいているとした場合、その非合理的判断能力である。

 もし藤村官房長官が金正日の死が北朝鮮国民の自由の実現、生活向上にとって善かれと願う、あるいは朝鮮半島の平和と安定実現に向けて善かれと願う想いに強く囚われていたなら、内閣の一員としての立場上、国家間の関係維持の点で形式的・儀礼的には表明することはあっても、個人の立場ではどのような口実を以てしても到底哀悼の意を表明する気持にはならないだろう。

 だが、「一般的常識、日本的文化」を口実として個人的な哀悼表明とした。

 これを以て見事なまでの薄汚い詭弁だと言わずして、何と言ったらいいのだろうか。詭弁でないとしたら、北朝鮮国民の自由の抑圧、恐怖政治、飢餓・餓死を考えることができない冷酷な人間にできているとしなければならない。

 クリントン米国務長官の12月19日の声明。《「北朝鮮市民を深く懸念」米国務長官が声明 弔意示さず》asahi.com/2011年12月20日15時22分)

 クリントン米国務長官「北朝鮮市民の福祉を深く懸念しており、困難な時期にある市民に思いをはせている。

 新たな指導者は(これまでの)約束を履行し、周辺国との関係を改善し、市民の権利を尊重して国を平和に導くよう期待する。

 米国は北朝鮮市民を支援する用意があり、新指導者が朝鮮半島の平和と繁栄、安全保障の維持で新たな時代の先駆けとなるよう国際社会と協力するよう呼びかける」

 記事題名にあるように、〈死去への弔意は示していない。〉――

 クリントン長官の声明が19日午前か午後か分からないが、藤村官房長官の哀悼表明と同じ19日である。

 《「総書記への哀悼は適切でない」とした米の事情》YOMIURI ONLINE/2011年12月21日21時01分)には次の一文が紹介されている。

 クリントン米国務長官「我々の思いと祈りは北朝鮮国民とともにある」

「総書記への哀悼は適切でない」とした米の事情とは、1994年の金日成()国家主席死去でクリントン大統領(当時)が哀悼声明を発表、共和党から批判を浴びたことからの学習と米国内世論配慮だとしている。

 米専門家「北朝鮮が、前回に劣る扱いを受けたと解釈する恐れがある」

 そのように「解釈」したなら、国民の自由と民主主義を認めたなら、迷惑に思うぐらい哀悼の意を表明するだろうと言い返してやればいい。国家権力者は国民の自由と民主主義と食の保証を約束することがあるべき姿だということを北朝鮮に対しても、他の独裁国家に対しても示すことができる。

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