(1)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説

2022-05-31 08:16:04 | 教育
 (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
  (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》

 先ずは各マスコミ報道から旭川市中学校当該女子生徒が中学入学から転校、自死までの経緯とその年月日を簡単に記してみる。

2019年4月に北海道旭川市X中学校に入学
2019年5月連休中、深夜3時頃、上級生男子3人とW公園で合う約束(一つの事件)
2019年6月22日に死ぬと言って川への入水未遂と入院
2019年9月 退院・引っ越し、Z中学校に転校 PTSD発症、入院、通院
2021年2月13日に自宅を出た後、行方不明、
2021年3月23日に凍死体で発見

 次に旭川市教育委員会の対応をざっと追ってみる。全ての報道を覗いたわけではないから、抜け落ちがあるかもしれない。当該女子生徒が2019年6月末に川に入り入水未遂を起こしてパニック状態に陥り、そのまま入院した際、母親が娘のスマホを見て、彼女自身のわいせつ写真や動画を発見、履歴からだろう、送信されていることを知り、そのことを学校に伝えるが、学校はイジメ事案はなく、猥褻事案として対応。

 2019年9月(6月末の自殺未遂から3カ月後近辺)に旭川市教育委員会から女子生徒の事案報告を受けた北海道教育委員会は報告内容からいじめの疑いがあると判断、詳細な事実関係の把握と把握に応じた対応を口頭で指導。だが、旭川市教育委員会は指導を受けたという認識を持たず、調査を行わなかった。

 2021年4月下旬、2021年3月に凍死体で発見以後、文部科学省が音無しの構えでいる旭川市教育委員会に痺れを切らしたのかどうかは分からないが、北海道教育委員会に対して事実解明に向けて適切に旭川市教育委員会を指導・助言するよう指導。旭川市教育委員会は2021年4月27日(「asahi.com」記事)に外部有識者による第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)を立ち上げることを決め、2カ月近辺後の2021年6月に調査を開始。文部科学省という"お上"の威光は凄い。鶴の一声である。北海道教育委員会は上部機関に位置していながら、旭川市教育委員会に対しての"お上"としての威光を電池切れ間近の懐中電灯の明かり程の役にしか立てることができなかったようだ。

 ところが、旭川市教育委員会は第三者委員会を立ち上げながら、その調査は遅々として進まず、旭川市長から「第三者委員会におけるスピード感をもった丁寧な調査の実施」、「可能な限り2021年内、遅くても2021年度内の最終報告の実施」の依頼を受けたのに対して旭川市教育委員会は2021年10月29日に市長に対して「現段階では、最終報告の明確な時期などを示すことは難しいが、市長の考えも踏まえ、1日も早く最終報告ができるよう調査を進める」と返答。それでも進捗状況が芳しくないと見てのことか、市長は最終報告期限を「遅くても2021年度内(2022年3月末)」から2022年6月末までに3カ月間引き伸ばす譲歩を行った。

 旭川市教育委員会第三者委員会は市長の譲歩に褌を、まだ使っているかどうか分からないが、締めてかかることにしたのか、調査開始から約10カ月が経過した2021年度切れ間近の2022年3月27日になって最終報告には手が届かない中間報告を旭川市内で母親と弁護団に読み上げたと言う。

 旭川市教育委員会が第三者委員会に諮問したのは4項目

1、いじめの事実関係の調査と検証
2、当該生徒が死亡に至った過程の検証
3、学校と市教委の対応調査と課題検証
4、今後の再発防止策)〈文春オンライン記事から〉

 その1項目目の「いじめの事実関係の調査と検証」のみの報告となったために「中間報告」という体裁を取ることになった。第三者委員会は2022年4月15日に記者会見を開き、調査結果を報告し、記者の質問を受けた。2022年3月27日の中間報告の読み上げから19日もの経過後で、全てに亘って素早い対応となっていない原因は既に触れたように北海道教育委員会はイジメ事案と見ているのに対して旭川市教育委員会と学校はイジメ事案はなく、猥褻事案と見ていたことの認識の違いからそれぞれの聞き取りに齟齬を来していたからと考えられないこともない。もしかしたら、第三者委員会の中にも検証を経ても猥褻事案と見る委員がいて、記者会見という形での公開に手間取っていたのかもしれない。

 この記者会見の内容を以下の記事が詳細に報じていて、当初は要点のみを取り上げる予定だったが、既にリンク切れとなっていることから参考のために全文を参考引用することにした。中学校名と関係人物はローマ字で表記されているが、女子生徒のみが「女子生徒」と紹介してあって、男子生徒の場合は「男子生徒」と紹介してなく、在籍中学校名も最初のみの紹介で終わっていることから、読み進めても一目で把握できるようにどの中学校に在籍していて、男子生徒か女子生徒か、当該女子生徒から見て上級生であることを丸括弧を付けて適宜注釈の形で付記することにした。

 《全文掲載 旭川・中2凍死問題…第三者委員会“いじめ認定”6項目、性的行為の強要などに上級生の男女7人関与》(HBC北海道ニュース/2022/4/15(金) 15:39)

第三者委員会が公表した“いじめ認定”の詳細文

 去年3月、旭川市の公園で、当時、中学2年生だった廣瀬爽彩(ひろせ・さあや)さんが凍死した状態で見つかった問題をめぐり、背景にいじめがあったと認定した第三者委員会が15日午後、中間報告として詳細を公表しました。全文を掲載します(人権に配慮し、報告書の表現を一部修正しています)。

 【中間報告における公表事項】

【1】 2019年4月~6月の事実経過(いじめ事実関連の概要)

事実経過<1>廣瀬さんと上級生A、B、Cとの係わり

① 廣瀬さんは、X中学に入学後まもなく、X中学の上級生A(男子生徒)、B(男子生徒)と知り合い、LINEの登録を行い、メッセージの交換等をするようになった。その後、廣瀬さんはA、BとC(共にX中学上級生男子生徒)を含めたグループでオンラインバトルゲーム(以下、ゲームL)をするようになった。その前からA、B、C(共にX中学上級生男子生徒)は3人でゲームLをすることがあり、そのようなとき3人はゲームLをしながら、グループ通話で卑猥な「下ネタ」話をすることがあった。

② 廣瀬さんを入れて4人でゲームLをするときでも、A、B、Cは構わずにグループ通話の中で「下ネタ」話をしていた。あるとき、深夜3時ころまでゲームLをしたことがあって、そのときもA、B、C(共にX中学上級生男子生徒)は「下ネタ」話をした。

③ そのとき、ゲームLを終えた後、A(X中学上級生男子生徒)と廣瀬さんでLINEのやりとりが始まった。その中で廣瀬さんは、下着を着けている胸の画像をAに送った。また、廣瀬さんは、LINEのビデオ通話を使って性的行為の様子をAに見せた。

④ 4月中旬か下旬ころ、W公園で偶然A、B(共にX中学上級生男子生徒)と廣瀬さんが出会い、Bが一時その場を離れた間に、Aが廣瀬さんの身体を触ったことがあった。

⑤ 4月から5月にかけての連休中のある日、上記のメンバー4人で深夜3時ごろまでゲームLをしたことがあり、その中で、深夜を過ぎて補導されない時間になったから集まろうかというような話が出て、公園に集まる話になった。A、B、Cの3人(共にX中学上級生男子生徒)は結局外出しなかったが、誰もそのことを廣瀬さんに伝えなかった。廣瀬さんは、先輩であるAらとの約束を守るため、早朝自宅を出て行き、それに気付いた廣瀬さんの母親らが追いかけて引き止め、家に連れ戻した。

事実経過<2>廣瀬さんと上級生Dとの日常的なW公園での係わり

① X中学の上級生女子Dと廣瀬さんは、A、B、C(共にX中学上級生男子生徒)と一緒にゲームLをしたことで知り合い、2人ともW公園をよく訪れていたことから、W公園で会うことが多くなった。(X中学上級生女子)Dと廣瀬さんは、多いときは週に5日くらい、W公園で会って話をしたりしていた。

② 廣瀬さんは、塾に行く日、母親から飲み物や軽食を摂るためのお金を渡されていた。W公園で(X中学上級生女子)Dと一緒に居るとき、近くのコンビニ等へ2人で行って、菓子、飲み物、アイスクリーム等を買うことがあり、ほとんどの場合、廣瀬さんが(X中学上級生女子)Dの分まで代金を払っていた。W公園に小学生や(X中学上級生女子)Dの友人がいるときは、廣瀬さんがその子たちの分も買ってあげていた。回数、金額ははっきりしないが、5月中旬から6月中旬までの間、相当程度、頻繁にそのようなことがあったと考えられる。

事実経過<3>本人と上級生EとのLINEを通じての係わり

① Y中学の上級生男子Eは、(X中学上級生男子)Cと知り合いで、廣瀬さんとも面識があった。EはCから廣瀬さんがLINEのビデオ通話の中で性的行為の様子をAに見せたことがあるなどと聞いて、Cから教えてもらった廣瀬さんのLINEにメッセージを送ることにした。

② 6月3日(月)午後7時ころ、E(Y中学・上級生男子)から廣瀬さんへLINE登録の許可を求めるメッセージが送られ、廣瀬さんが許諾してLINEでのやり取りが始まった。この日の廣瀬さんとEのLINEのやり取りは4時間半ほどに及んでいるが、やり取りの内容はEが主導する性的な話題に終始している。Eはほぼ一貫して性的行為の動画送信を求めるメッセージを廣瀬さんに送り続けていて、その中には、動画が送信されない場合には、性行為をすることをにおわすような表現や、動画の拡散はしないことを告げるようなものも含まれていた。廣瀬さんはEからの動画送信の要求等を断り続けていたが、断り切れずに性的行為の様子を伝えたり、自分の下半身の画像を送信したりした。

③ 廣瀬さんからE(Y中学・上級生男子)に送られた画像は、その後、EからC(X中学上級生男子)、D(X中学上級生女子)、E、3人のLINEグループに送信されているが、この3人から更に拡散した事実は確認できない。ただし、Cは、6月23日(日)に、この画像をAとB(共にX中学の上級生)に見せている。

事実経過<4>6月15日(土)の出来事

① E(Y中学上級生男子)、F(上級生女子)、G(上級生女子)はY中学の同学年で、FとG(共にY中学上級生女子)の2人がEと遊ぶことはめったになかったが、この日は一緒に遊んでいた。同日、廣瀬さんが1人でW公園にいたところ、C(X中学校上級生男子)とD(X中学校上級生女子)が遊びに来て、そのすぐ後に、E(Y中学校上級生男子)、F(Y中学校上級生女子)、G(Y中学校上級生女子)の3人が合流する形になった。FとC、Dは面識があり、GとDは少し前に知り合った間柄であった。F、Gと廣瀬さんは初対面で、Dが廣瀬さんを紹介した。
 
② そのとき、C(X中学校上級生男子)とE(Y中学校上級生男子)が廣瀬さんが性的行為をしている、A(X中学の上級生)やE(Y中学上級生男子)に性的行為の画像を送っているなどと発言し、D(X中学校上級生女子)、F(Y中学校上級生女子)、G(Y中学校上級生女子)は廣瀬さんにその場でやってみせてと言った。廣瀬さんは、ここではできないと答えたが、3人はやってやってと言い、そのとき近くにいたZ小学校の児童数名も、事情をどの程度理解していたか定かではないが、同じように言い立てた。C(X中学校上級生男子)とE(Y中学校上級生男子)は、それを止めようとしなかった。廣瀬さんは初めは嫌がっていたが、断り切れず、性的行為をすることを受け入れた。

③ D、F、G、C、Eと廣瀬さんの6人は、W公園奥のベンチへ移動し、小学生たちを遠ざけ、ベンチに座る廣瀬さんを囲むようにして立った。廣瀬さんは、腰に回していたパーカーを前に回して隠すようにして、性的行為を行った。

事実経過<5>6月22日(土)の出来事

① この日、廣瀬さんは、午前中からW公園にいた。午後4時ころには、D(X中学校上級生女子)やE(Y中学校上級生男)、Z小学校の児童5~6人もW公園に来て遊んでいた。

② そうしたところ、E(Y中学校上級生男子)が廣瀬さんの仕草などを真似てからかった(6月15日の性的行為の様子を真似た可能性もある)。廣瀬さんは真似しないでくださいと言ったが、Eが面白がって挑発するように真似を続け、Eが知っている廣瀬さんの秘密を、その場で大声で言うかのような発言をしたところ、廣瀬さんは、泣きそうな表情になって怒り出し、Eを握り拳で叩いたり蹴ったりするような状況となった。廣瀬さんは、誰もわかってくれないとか、もう死にたいとか、いろいろなことを大声で怒るように言い続けた。

③ やがて、廣瀬さんは、もう死にますと言ってW公園西側を流れている川の方に向かって歩き出した。D(X中学校上級生女子)は、廣瀬さんの死ぬという趣旨の発言に対して、死ぬ気もないのに死ぬとか言ってんじゃないよなどと言った。廣瀬さんは川の方に走って行って川岸の柵を乗り越えて土手を降りたあと、川の流れ近くの草むらに立ってX中学へ電話をかけた。廣瀬さんは、電話に出た教員らに、死にたいと繰り返した。教員らは廣瀬さんを落ち着かせ、廣瀬さんがW公園にいることを聞きだした。そのころD(X中学校上級生女子)は土手を降りて廣瀬さんのところへ行っていて、廣瀬さんと電話を代わって状況を説明した。すると、廣瀬さんは、雨で増水していた川の流れに入り、膝下まで水に浸かった。

④ その後、現場にやって来たX中学の教員2名が、膝下くらいまで川の流れに浸かっていた廣瀬さんを川岸の草むらに引き上げて座らせた。そのとき廣瀬さんは、死にたい、生きたくないと繰り返しパニックになっていた。廣瀬さんの傍らに付き添っていたDと後から到着した教員1名を加えた4名でいろいろと話していくうちに、廣瀬さんは次第に落ち着きを取り戻した。その後、廣瀬さんは、教員らとX中学に行って休息したりしてから、N病院を受診することになり、受診後そのまま入院することとなった。

【2】 第三者委員会が「いじめ」として取り上げる事実等

以下では、上記【1】の事実経過<1>~<5>の記載内容に沿って、当委員会が「いじめ」として取り上げる事実等を示す。

<Ⅰ>当委員会が「いじめ」として取り上げる事実は以下の通り

1.事実経過<1>② ③ ④記載の事実に関して
上級生A、B、C(共にX中学上級生男子生徒)(3名が揃っていない場面も含む)が、グループ通話等において年少女児である廣瀬さんがいる状況でも性的な話題を繰り返したこと、個別のLINE(Aとの関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、A(X中学上級生男子)が廣瀬さんと性的な意味での身体接触を持ったことは「いじめ」にあたる。

2.事実経過<1>⑤記載の事実に関して 
上級生A、B、C(共にX中学上級生男子生徒)が、深夜(ないし未明)の時間帯に廣瀬さんを含めて公園に集ろうという趣旨の会話をグループ通話で行ったこと、それを実行していないにもかかわらず、それを廣瀬さんに伝えなかったことは「いじめ」にあたる。

3.事実経過<2>②記載の事実に関して
上級生D(X中学校女子生徒)が、廣瀬さんがDの分のお菓子等の代金を負担する行為(おごり行為)を繰り返し受けていたことは「いじめ」にあたる。

4.事実経過<3>②記載の事実に関して
上級生E(Y中学校男子生徒)が、廣瀬さんとのLINEでのやり取りにおいて、性的な話題を長時間にわたって続けたこと、性的な動画の送信要求を長時間にわたって続けたことは「いじめ」にあたる。

5.事実経過<4>②③記載の事実に関して
上級生C(X中学上級生男子)、D(X中学校上級生女子)、E(Y中学校上級生男)、F(Y中学校上級生女子)、G(Y中学校上級生女子)が、廣瀬さんに対して性的行為に関する会話を行ったこと、廣瀬さんに対して性的行為の実行を繰り返し求めたこと、性的行為の実行を求める発言に対して静観したこと、廣瀬さんが性的行為に及ぶ一連の状況を見ていたことは「いじめ」にあたる。

6.事実経過<5>②③③記載の事実に関して
上級生E(Y中学校男子生徒)が廣瀬さんをからかい、廣瀬さんが拒否的な反応を示した後もからかうような行動(廣瀬さんの秘密をその場で大声で言うかのような発言をしたことを含む)を続けたこと、パニックのような状態になった廣瀬さんに対して上級生D(X中学校上級生女子)が突き放すような不適切な発言をしたことは「いじめ」にあたる。

<Ⅱ>第三者委員会が「いじめ」と同様に考える事実は以下の通り

1.事実経過<3>③記載の事実に関して
E(Y中学校上級生男)がC(X中学上級生男子生徒)、D(X中学校上級生女子)、E(Y中学校男子生徒)のLINEグループに廣瀬さんの性的画像を送信したこと、Cがこの画像をAとBに見せたことは「いじめ」と同様に考える必要がある(廣瀬さんに認識がある場合は「いじめ」にあたる)

上記送信行為及び提示行為は、廣瀬さんが直接関与していない行為であるため、廣瀬さんがこれらを認識していなければ、法の定義における主観的要件を満たさないこととなり、形式的には「いじめ」に該当しないものと考えざるを得ない。ただし、法の趣旨を踏まえて「いじめ」と同様に考える必要がある。

 以上の内容から事実経過のみを振り返って、自分なりの解釈を試みることにする。最初に自殺した当該女子生徒の性格を考えてみる。若者の心理を理解するには年を取り過ぎている80歳を超えた老人だから見当違いそのものかもしれないが、他者に迷惑を掛けない範囲内の言論の自由を口実に敢えて解釈してみる。言論の自由を超えて、誹謗中傷にまでいかないと思う。

 この「中間報告書」には当該女子生徒の同級生、あるいはクラスメートといった類いの姿が一切見えない。見えるのは全て上級生との人間関係であり、その上級生も男子生徒との友達関係が初めにあり、後から女子生徒が加わっているが、男子生徒が主体の友達関係となっている。一般的には小学校の頃から親しい女子生徒がクラスにいたなら、その女子生徒と、いなくて他処のクラスにいたならその女子生徒と、あるいは新しくクラスメートとなった女子の中からか友達を作っていき、それらの女子の中から同性の友達の輪を広げていき、そこにクラスメートや同学年や上級生の男子が加わっていくのが普通の展開のように思えるが、そうはなっていない。勿論、一般とは異なるバリエーションもあるだろうが、中学入学早々の友達付き合いが上級生の男子であり、その男子との付き合いが友達関係の中心というのは「中間報告書」の説明がそうなっているだけのことかもしれない。

 「中間報告書」から見えてくる友達関係だけと見て、そのような選択となる可能性としての一例について考えてみる。相手が同級生であれ、上級生であれ、たまに下級生からということもあるだろうが、一般的にはいきなりイジメの支配と被支配の関係から始まるわけではなく、そのような関係が徐々に形成されていくことを考えると、当該女子生徒が中学に入って最初に持った親しい友達関係が男子上級生を対象としていた場合の考えられる理由は彼女にとって女子生徒の自分を後輩の位置に置いて、男子生徒を先輩とした上下関係がより心地よい友達関係であったということが考えられる。このような上下関係には自身を後輩として上級生である先輩の庇護を求めたい欲求(年上の先輩に庇って貰いたい欲求)が往々にして隠されているはずである。

 先輩に庇護されていると十分に感じ取ることができたとき、同級生に対して男子の上級生と良好な関係を持てていることに誇らしさを持つこともあるだろうが、下の関係に位置する者が庇護を望む姿勢を当たり前としていると、自身を自分からは働きかけない非主体的存在、いわば受け身の存在とすることになり、逆に上の関係に位置する者が庇護する姿勢を日常化させてしまうと、その日常化がいい意味でも悪い意味でも支配という形を取りやくすくなる。いわば支配と従属という上下関係に進むこともありうる。支配と従属とは好きに言い聞かせる上と好きに言い聞かせられる下という関係であると言い換え可能で、支配が万が一にも下の関係に位置する者の意思を無視するところまで進むと、イジメという何らかの形を取るケースが生じることもありうる。

 当該女子生徒が同級生やクラスメートの女子との人間関係を築いていたとしても、あくまでもメインの人間関係は先輩男子との上下関係であり、上が下の庇護を求めて「先輩、先輩」と呼びかけて近づいてくる態度をいいことにその意思を自分たちの思い通りに操るようになることも可能性としてはある。良好な関係にあった間は、「先輩、先輩」と嬉々として呼びかけることになるだろう。

 後輩が何かと言うと親しみを込めて「先輩、先輩」と呼びかけることは先輩を常日頃から立てているからであって、相手を立てる心理には同時に自分を相手の影響下に置く心理が働くことになる。相手の影響下に自分を置かなければ、相手を立てたことにはならない。相手を立て、相手の影響下に自分を置くことによって、自分を庇護される存在に置くことができる。

 後輩として自身を下に置く関係が当たり前になったとき、自分が庇護されるためにも先輩の意向に従属することとイコールの行為となり、自身の務めとしがちとなる。例えその意向が少しぐらいの無理難題を含んでいたとしても、無理難題に対するためらいを振り払って潔く従うことが後輩の役目とすることもありうる。先輩が命じる部活の体罰でしかない、無理難題そのものの過酷なハードトレーニングに勇んで従うような現象を例として挙げることができる。無理難題が肉体と精神の限界を超えたとき、体罰死に至る事例がしばしば発生する。

 当該女子生徒はX中学に入学後まもなくに同校の上級生である男子生徒AとBとCと知り合い、LINEの登録を行い、オンライゲームをするようになった。AとBとCが3人でオンライゲームをするときには習慣的な話題としていたのだろう〈卑猥な「下ネタ」〉を当該女子生徒がゲームに加わっている際も口にした。どのような「下ネタ」なのか、明らかにされていないが、のちに彼女に性的行為――自慰行為なのだろう、させているところを見ると、ふざけながらだろうが、露骨なきらいのある「下ネタ」だったことが予想される。それも最初は小出しにして、相手の反応を窺いながら次第にエスカレートさせていったはずだ。

 当該女子生徒が〈卑猥な「下ネタ」〉を聞かされたとき、一見すると、拒絶反応を示さなかったように見えるが、同級生の女子とLINEのグループを作っていたなら、上級生男子とのLINEグループを抜け出していたかもしれない。だが、同級生女子とLINEグループを作っていたようには見えないし、男子先輩との上下関係を学校生活に於ける自身のふさわしい友達関係としていたとしたら、この関係を壊したくないために先輩の意向を立て、何でもない振りを装ったのかもしれないし、あるいは中高生女子を読者対象とした、スマホでも手軽に読むことのできる少女漫画に触れていたことがあったかして、登場人物の中高生男女が交わす性行為に関わる際どいセリフへの慣れもあり、〈卑猥な「下ネタ」〉に左程の抵抗感を持たなかったかもしれない。

 あるとき、X中学の上級生男子生徒のAとBとCと一緒に「下ネタ」を話題に交えながらオンラインゲームを深夜3時頃までしたのちにAのみとLINEの遣り取りが始まり、どういった受け答えの結果かは明らかにされていないが、下着を着けている胸の画像をAに送り、LINEのビデオ通話を使って自慰行為を見せた。オンラインゲーム時の「下ネタ」の続きとしてある下着を着けた胸の画像送信と自慰行為の動画送信だから、「下ネタ」は自慰をしたことがあるのか、ないのかといった話題も混じっていたと思われる。尤もそのときが初めての自慰についての話題だったかどうかははっきりしないが、性の知識について強がりたい年頃だから、漫画やネットの知識に基づいて自慰を小学生の頃から男女共に誰れもがしている行為だという結論を共有することになっていたのかもしれない。当該女子生徒にしても経験があるなしに関係なく自分の秘密にしておくべきことを勢い子どもではないところを見せたくて経験があると答えていたとも想像できる。

 そのような前提がなければ、いきなり自慰して見せてくれとなかなか切り出すことはできないはずだ。Aは自慰を次の段階に置いて、そこに進むためのステップとして最初に下着を着けた胸の画像を送らせたと思われるが、当該女子生徒を名字で呼んだか、名前で読んだか、あるいは「お前」という言葉を使って、「お前のだから、見たいんだ。ほかの子なら、見たいと思わない」といった言葉遣いで好きという感情から出た要求であるかのように装ったのかもしれない。実際には恋愛感情を持たない相手にであっても、男はそういった態度を取るのが大方の相場となっている。

 当該女子生徒は好きだという感情を仄めかされ、先輩の意向に添いたい気持ちも手伝って、自慰の経験があれば、経験どおりに、なければ、小学生の頃から男女共に誰れもがしている行為だという固定観念を力に誰でもの中の一人に自分も入るだけだといった意識で見せてしまったのかもしれない。ただ、何がしかの恋愛感情を示されて自分事として秘密で行うべきことを誰かに見せてしまったとき、その露出は相手の共有を前提とすることになる。いわば2人だけの秘密にする暗黙の契約を前提とすることになる。

 もしこういった経緯を取ったとしたら、当該女子生徒がAに恋愛感情をいだいたとしても不思議ではない。あるいは元々Aに先輩として好もしく感じていて、好きという感情を見せられて、要求に応じてしまったという可能性もありうる。

 その後、オンラインゲーム終了後の公園で当該女子生徒は同じ中学の上級生男子生徒A、B、Cの3人と会う約束をして、3人にすっぽかされた。Aは行くつもりだったかもしれないが、B、Cに引きづられてすっぽかしてしまった可能性も否定できない。だが、アルファベットで仮名をつける順位が最初の文字Aとなっているのは3人の中で主導的立場にいるからだと考えると、Aの意思が多分に入った、あるいはAが主導したすっぽかしと考えられなくもなく、すっぽかしはAが好きという感情から当該女子生徒の裸に興味を持ったわけではなく、単なる性的興味から裸を覗いてみたかっただけだったということになる。当該女子生徒からしたら、自分の秘密を見せたAにすっぽかされたことは相当にショックだったに違いない。

 但し他記事によると、当該女子生徒は家を出たものの、母親に止められて公園に行かなかった。すっぽかしを知ったのは部屋に戻って、最初にAにだろう、スマホを掛けるかして知ったはずだ。

 性的興味に過ぎなかったことは画像と動画の送信の事実をAがCに漏らしていたことからも判断できる。そしてその事実はCからY中学上級生男子Eに伝えられ、Eに「じゃあ俺も」と思わせたところをみると、AはCに手柄話として話したのだろう。Eは性的興味を満足させると同時に自分も手柄にしたくなった。EはCから教えてもらった当該女子生徒のLINEにメッセージを送り、二人はLINEを通じて会話するようになった。Eは性的な画像と動画配信に持っていく前準備としてだろう、当該女子生徒が興奮してくると考えたのか、性的なことしか口にしなかった。多分、頃合いを見計らって自慰行為の動画配信を求めた。当該女子生徒は最初は断っていたと言うから、EはAには下着を着けている胸の画像を配信し、自慰行為を動画配信で見せたではないか、そのことをAがCに話し、Cから聞いたといったことを伝えて、こういった場合の男の一般的態度として当該女子生徒がEに見せることの正当性、Eが見せられることの正当性の口実としたと思われる。

 当該女子生徒がAに見せたのは好きという感情を示されてのことだとしたら、AがB、Cと共に公園での待ち合わせをすっぽかしたことを知った時点でそれがニセの感情だということに既に気づいていたはずだし、見せたことがAの口から漏れてEにまで伝わっていることを知って、Aが好きという感情から自分の秘密を覗いてみたいと思ったのではないことをなおさらに気づかされただろうから、最初は断っていたものの最後はどうなってもいいという捨鉢な気持ちから見せてしまったという心理はありうる。

 Eに自慰行為の様子を伝えたり、下半身の画像を送信したりしたということだが、前者は実際に局部に指を這わせたかどうかは不明だが、声を喘がせたりして自慰行為を声で表現して聞かせたのかもしれない。画像の方は送信を受けたE本人とX中学校上級生男子、X中学校上級生女子の3人でグループを組んでいるLINE上に送信され、拡散されることになったということはEもAと同様に性的興味からの行為だったことを示すことになる。

 LINEを通じた性的な遣り取りはこの2人のみのようだが、当該女子生徒の自慰行為と画像の送信の事実は本人と上級生男女5人が居合わせたW公園で見せた一人のY中学校上級生のE本人とX中学校上級生Aが漏らした同中学校上級生CからX中学校とY中学校の上級生女子の3人に言い触らされることになった。Aの共有で止めておかなければならない秘密のAから始まった一連の暴露は当該女子生徒の存在を軽んじた行為、人格を無視した行為そのもので、当該女子生徒が知らないでいたなら、何ら問題は起きないが、もし知ることになったなら、その時点で心理的な攻撃の意味合いを取り、イジメの範疇にいれなければならない。

 心理的な攻撃にはあざけりの気持ちが多分に含まれることになるが、言い触らすこと自体があざける気持ちがなければできないことで、聞かされた女子上級生にその場で、多分、面白半分を装いながら、男子生徒と同じようにあざける気持ちを内心に抱えていたはずで、巧妙に隠して「やって見せてよ」と上級生の立場から要求したのだろう。この上級生の優越的立場からの下級生に対する要求はイジメと判断される事例となっている。

 言い触らされた上に見せてくれと言われて、彼女にしても感情の生きものである以上、恥ずかかっただろうし、怒りも込み上げてきたはずだが、ある意味、Aに裏切られ、Eに裏切られて、気に入れられ、良好な関係にあると思っていただろう上級生女子からもあざけりを混じえた理不尽な要求をされ、内心はパニックに陥って、頭の中は混乱が渦巻いていたことも考えられる。「中間報告書」は調査して得た事実だけを述べて、感情の働きやそのときどきの心の在り様には一切触れていないが、当該女子生徒が既に死亡していて、聞き取り対象とし得なかった限界かもしれないが、当該女子生徒は上級生女子にやって見せてと言われて、何の感情も持たずに「ここではできない」と答えたわけではないだろう。応ずることの恐れを持ちながら、先輩に従属する関係に慣らされていたとしたら、気持ちとは反対にその場の状況に合わせてしまって、結果的に自分で自分を追い詰めてしまうということもあり得る。

 結局、W公園奥のベンチに移動、そこに座って、周囲から見えないように全員して壁になって囲んだ中で自慰行為を行った。腰に回していたパーカーを前に回して隠すようにして行ったとしているから、局部は満足には見えなかったはずで、顔の表情や声や息の洩らし方で自慰行為を表現したのかもしれない。

 ところが、1週間後の同じ土曜日のW公園で当該女子生徒に対して彼女と2度目にLINEを通じて性的な遣り取りをしたY中学校上級生男子Eが本人の自慰行為の仕草を真似てからかった。「中間報告書」は1週間前の「性的行為の様子を真似た可能性もある」と書いているが、パーカーで隠すようにして行っているのだから、手を股間に持っていって動かしている仕草を真似するよりも顔の表情や声、息の仕方を真似した方がからかいの仕草としてはより効果的だったはずである。当該女子生徒は怒り、「誰もわかってくれない、もう死にます」と言ってW公園西側を流れている川の方に向かって歩き出した。X中学校上級生女子Dが「死ぬ気もないのに死ぬとか言ってんじゃないよな」と当該女子生徒の意志をウソと見る言葉を発した。実際の語尾は「言ってんじゃないよな」ではなく、昔はチンピラを真似て不良学生しか使わなかったと思うが、今では多くの若者が使う、強がり言葉と言うか、今はやりの「ねえよな」を語尾につけて「言ってんじゃねえよな」という言葉遣いをしたのではないだろうか。

 死ぬ気もなかった単なる演技だったかもしれない。そうだとしても、本人は亡くなって、もはや解き明かされることはないが、当該女子生徒なりに様々な感情が渦巻いていたはずだ。「もう死にます」という言葉だけを捉えて、それをウソと見たことで、引くに引けない気持ちにさせた可能性は否定できない。川に入る前に学校に電話を掛け、教師らに死にたいと繰り返した。X中学校上級生女子Dが当該女子生徒に代わって状況を説明している間に雨で増水していた川の流れに入り、膝下まで浸かった。現場に駆けつけた教師らが彼女を岸まで引き上げたが、パニック状態で「死にたい、生きたくない」繰り返した。色々と事情を聞いたり宥めたりしたのだろう、落ち着きを取り戻した彼女を学校に連れて行って休息させてから、N病院に行き、受診、そのまま入院することになった。

 ここまでが「中間報告」の事実経過である。X中学校に戻ることなく引っ越し、Z中学校に転校、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、入院や通院を繰り返して不登校状態だったという。2021年2月に自宅を出た後、行方不明となり、2021年3月に凍死体で発見された。2度目の死は失敗したら、みんなにバカにされると思い、確実な死を決行したということも考えられる。人が確実な死を決行するとき、深い孤独を抱えながら死に向かうように思える。勿論、当該女子生徒がそのような経過を取ったのかどうかは本人しか知る由もない。

 2019年6月末の川への入水未遂で学校は当該女子生徒の周囲で起きた出来事をどのような事態として把握し、深刻度のレベルをどの程度に置いて、それぞれの理解に応じてどのような対応を取っていたのかを以下の記事から見てみる。


  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
 (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》
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(2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹の役立たずな解説

2022-05-31 08:08:18 | 教育
  <b(1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
  (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》

 先ず当該女子生徒の母親の証言を取り上げている2021年11月9日火曜日付けの「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」(NHKクローズアップ現代+)から事態を眺めてみる。

 この記事発信の2021年11月9日は2021年3月に凍死体で発見から約7ヶ月近辺後の報道となる。この記事は文春オンラインの報道が事件を表沙汰にしたことに触れている。そして前置きとして次のように触れている。

 〈ことし(2021年)3月、北海道旭川市の公園で女子中学生の凍死体が見つかった。遺族によると、自慰行為の強要やわいせつ画像の拡散などのいじめを受けていた。彼女のSNSには、いじめの告白や、自殺をほのめかすメッセージも残されていた。生徒の生前、映像の存在を知った母親はいじめとしての対応を学校側に繰り返し求めていたが、動きは鈍く、加害者側をかばうような発言さえ聞かされたという。いじめの認定に極めて後ろ向きな教育現場の闇を追う。〉

 では、母親は娘のイジメをいつ、どのように知ったのだろう。記事を読み進めてみると、当該女子生徒の川への入水未遂以前に母親はイジメの兆候を感じ取っていたことが分かる。

 〈入学して1か月後。動揺した様子の爽彩さんが、深夜突然、家を飛び出しました。

爽彩さんの母親
「泣きながら『先輩に呼ばれてるから行かなきゃ』っていうので、震えながら泣いてたので、そのときは『お母さんがだめって言ってるからって断りなさい』って言って。そしたら部屋にこもって誰かと電話してる感じだったんですけど、おびえ方が尋常じゃなかったので」

翌日、母親はいじめを疑い、学校へ電話で相談しました。しかし担任には、ふざけて呼び出しただけだと真剣には受け止めてもらえなかったといいます。

その後も、ふさぎ込むことが多くなった爽彩さん。大好きだった絵にも変化が。

爽彩さんの母親
「これ間違いなくいじめなんだろうなって思ってはいたんですけど、でも本人に『いじめられてないのかい』って聞いたんですけど、『どこからがいじめっていうか分からない』って言ってました」〉

 母親の証言は「中間報告書」の〈【1】2019年4月~6月の事実経過(いじめ事実関連の概要)〉箇所に当たる。改めて取り上げてみる。

 ⑤ 4月から5月にかけての連休中のある日、上記のメンバー4人で深夜3時ごろまでゲームLをしたことがあり、その中で、深夜を過ぎて補導されない時間になったから集まろうかというような話が出て、公園に集まる話になった。A、B、Cの3人は結局外出しなかったが、誰もそのことを廣瀬さんに伝えなかった。廣瀬さんは、先輩であるAらとの約束を守るため、早朝自宅を出て行き、それに気付いた廣瀬さんの母親らが追いかけて引き止め、家に連れ戻した。

 そして第三者委員会はこの箇所について次のようにイジメ認定した。

 2.事実経過<1>⑤記載の事実に関して

上級生A、B、Cが、深夜(ないし未明)の時間帯に廣瀬さんを含めて公園に集ろうという趣旨の会話をグループ通話で行ったこと、それを実行していないにもかかわらず、それを廣瀬さんに伝えなかったことは「いじめ」にあたる。

 この出来事はLINEを通してAに下着を着けた胸の画像と自慰行為を見せた後であり、Eに同じLINEを通して自慰行為の様子を伝えたり、下半身の画像を送信する前のことである。要するにAが秘密の共有を守っていなかったことをまだ知らずにいた。母親が呼び止めると、「先輩に呼ばれてるから行かなきゃ」と震えながら泣いて答えた。母親は「おびえ方が尋常じゃなかった」印象を受けた。

 母親にイジメの可能性を問われて、「どこからがいじめっていうか分からない」と答えていることを額面通りに受け止めて考えると、このある種のパニック状態に陥っている様子は想像するに自分の秘密を見せたことでAに恋愛感情を抱き、約束を破って嫌われたくないという思いがあったからだとした場合、それだけとは考えにくい。男子先輩の意思を絶対と見る従属性が属性化していて、その破綻を来すことの恐れが多分に混じっていたのでなければ、尋常ではない「おびえ方」は考えにくい。要するに先輩に呼ばれている以上、深夜だろうが何だろうが応じなければならないとの思いがあったとしたら、先輩という上の存在に対して後輩という自分の存在をかなり下に置いていることになり、その上下の距離が大きい程、先輩を絶対化していることになる。いわば強度の支配性と強度の従属性の力学下に閉じ込められていた可能性である。

 母親の制止後、「部屋にこもって誰かと電話してる感じだった」。電話は繋がったのだろうか。深夜3時ごろまでゲームをして、そのあとに公園に集まろうと決めて、当該女子生徒だけを行かせて、自分たち3人が行かないことにしたのは、当たり前のことだが、無駄足を踏ませてやろうと3人で示し合わせたからできたことで、無駄足を踏ませる目的は勿論のこと、からかうためだった。3人が公園に着く時間に来なければ、「遅いですよ」とスマホを掛けてくるのは想定していたことだろうから、電源を切っておいて、繋がるはずのスマホが繋がらなければ、相手はどうしたんだろうと戸惑う。3人共繋がらなければ、からかう効果は大きくなる。

 そこまで徹底したように思えるが、もし電話が繋がったとしたら、当該女子生徒は行こうとしたけど、母親に止められて行けなかったことをうろたえながら謝ったはずである。対して相手は「えっ、マジで行こうとしたのか?冗談のつもりだったんだ。真に受けてしまったんだ?行かなくてよかったな」と無駄足を踏ませることができず、からかいが中途半端に終わったことを残念に思いながら、笑って誤魔化した状景が浮かんでくる。

 3人共に電話が繋がった場合、多分、最初に電話した相手は自分の秘密を見せたことで恋愛感情を抱いたという見方をすると、Aだったことになる。繋がるはずの電話が繋がらなければ繋がらなかったで疑心暗鬼に駆られるだろうし、繋がれば繋がったで計画的に騙したと知って不信感を募らせただろうから、「先輩に裏切られた」ということになったとしても、あるいは恋愛感情を抱いた「A先輩に裏切られた」ということになったとしても、「ふさぎ込むことが多くなった」という精神状態はある意味当然ということになる。

 母親が呼び止めたから、無駄足を踏むことにはならなかったが、無駄足を踏む、踏まないの結果には関係なく、約束したことをからかいを目的として反故にすることは約束というものが一般的には信頼を動機づけとして成り立たせることから、それが何らかの強要によって成り立たせた約束であったとしても、前者は信頼への重大な裏切り行為であり、後者は約束を強要しておきながら破ることによって疑心暗鬼や恐れをいだかせることになり、両方共に心理的な攻撃としてのイジメに相当することになる。それを先輩の立場にある者が3人して後輩の立場にある1人に対して行ったのだから、あきらかに力関係からの集団のイジメと言えるだろう。

 この翌日、母親はイジメを疑い、学校へ電話して相談する。ふざけて呼び出しただけだと真剣には受け止めなかった担任はA、B、Cから直接聞き取りをする時間はなかったはずだから、担任自らが「ふざけて呼び出しただけ」と解釈して、その解釈のままを母親に伝えたのだろう。こういった場合の普通の応対なら、「聞き取りをして、後で電話します」と答えるものだが、聞き取りもせずに自身の独断のみを伝えるのは無責任と紙一重、あるいは無責任な態度そのものとなる。

 尤も実際には聞き取りを行って、加害者が"ふざけてしたこと"と答えたとしても、学校のイジメ事案で担任がイジメ加害者に聞き取る際、加害者が「ふざけてしただけだ」、「からかっただけだ」と答えるパターンが通例化している。つまり加害者自身がそう思っているか、罪薄めを謀っているだけで、実際には陰湿なイジメとなっている例が数多く存在する。担任はそういったことにまで想像力を巡らすことなく、イジメを誤魔化す口実、あるいはイジメと気づかないままにイジメを行っているときの口実として否定したか、そういった口実に過ぎないことが往々にしてあることを考えもせずにイジメ加害者のイジメを否定するときの口実をあっさりと受け入れたか、いずれかになる。

 2019年6月22日の川への入水未遂後、パニック状態だったため、そのまま入院した。母親は預かった娘の携帯の中から娘のわいせつ写真や動画を見つけ、それが送信されているのを知った。記事は、〈娘のわいせつ写真や動画。さらに、それが拡散されているという事実〉を知ったとなっている。

 翌朝、母親は学校に駆け込むと教頭が対応する。教頭はLINEでのメッセージの遣り取りを写真で撮って、「これをもとに調べさせていただきます」と言い その結果、学校はAとEに対する自慰行為の動画や性的な画像の送信の事実を把握、加害生徒とその保護者が当該女子生徒の母親に謝罪する場が(「Wikipedia」によると2019年8月29日の夕方に)用意された。当該女子生徒な9月に退院・転校となっているから、まだ入院中だったことになる。

 教頭「これは単なる悪ふざけ、いたずらの延長だったんだから、もうこれ以上何を望んでいるんですか」

 母親「じゃあ娘の記憶を消してください」

 教頭「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ。加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」

 母親「誰が画像を持ってるか分からない、みんなが持っているかもしれないという状況で、学校に通うというのはとても怖くてできないと思う」

 教頭「怖くないです。僕なら怖くないですよ。僕は男性なので、その気持ちは分かりません」

 教頭はナンバー2に出世するだけあって、教育風の高邁な言葉を口にする。イジメではなく、「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」とした。5月の連休中に公園で集まる約束をしてすっぽかされた翌日に母親がイジメではないかと電話した際、担任が「ふざけて呼び出しただけ」とイジメを否定してから入水未遂を図った2019年6月22日の翌日まで1カ月半も経過、学校側は調査に乗り出し、自慰行為の動画や性的な画像の送信の事実を把握し、2019年8月29日の夕方に謝罪の場を設けるまでに2カ月余が経過、十分に聞き取る時間があったはずで、上級生男の「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」といったこの手の主張が、既に触れたように学校の聞き取りにイジメ加害者がイジメを否定する口実として通例化していることを十分に承知の上での結論ということになったはずだ。

 だが、上級生側が「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」だと主張したとしても、その主張どおりに当該女子生徒が悪ふざけやいたずらだと認めるかどうかである。入院中で聞き取ることができなかったとしても、認めるかどうか、当該女子生徒の立場に立って想定する義務が学校側にある。最初に画像と動画の送信を受けた同じ中学校の先輩男子Aは二人で共有すべき秘密を同じ中学校の上級生男子Cに話し、CはY中学校のEに話して、Eは自分もと考えてのことだろう、当該女子生徒に画像、その他の送信を求めて成功し、それをLINE仲間に拡散している。当該女子生徒がこのような事実をどこまで知り得ているかどうか分からないが、Eが当該女子生徒に画像等の送信を求めたとき、Aが画像と動画の送信を受けていること、そのことをCから聞いたこと等を話しているはずだから、、Aが当該女子生徒を騙したかどうかは別にして、こういった漏洩行為は事が秘密を要すれば要する程、"暴露"に相当することになり、一連の暴露は当該女子生徒の存在を軽んじた行為、人格を無視した行為そのものとなり、心理的な攻撃の意味合いを取って、イジメの範疇にいれなければならないことは既に述べている。

 だが、教頭は「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」だとした。そして「もうこれ以上何を望んでいるんですか」の物言いで謝罪すればもう終わりだといった姿勢を取っているが、当該女子生徒がこの結論で納得するのかどうか、問題の経緯と共に学校・校長が慎重に考え尽くしたのかどうかは脇に追いているようにしか見えない。

 母親が娘のトラウマとなることを恐れてのことだろう、「じゃあ娘の記憶を消してください」と要求すると、「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ」と答えているのは秘密としておくべき自分事を先輩男子に見せてしまったこと、それを先輩男子が共有すべき秘密とせずに他人に暴露してしまったことが当該女子生徒の心の傷になるような出来事ではないと見ているからで、要するに「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」として当該女子生徒も受け入れている、納得していると見ているからで、このことを裏返すと、彼女を被害者と見ずに双方して合意のもと、性的興味と性的欲求を満足させ合った猥褻事案と見ているからにほかならない。要するに見る・見させることでお互いに性的な快感を愉しみ合った、ただそれだけのことだと。

 但し母親が「じゃあ娘の記憶を消してください」と要望したのは学校が出した結論に当該女子生徒が納得していることを想定した判断を伝えていないからであって、想定などしていないのだから、伝えようがないのだが、もし伝えることができていたなら、母親の要望に対して教頭は「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ」と言うはずはなく、「是非、納得してくださいよ」と言ったはずだ。

 要するにイジメではない、「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」に過ぎない猥褻事案だとするには当該女子生徒自身も納得していなければならない結論でなければならないが、この要件を省いてあくまでもイジメではない、猥褻事案に過ぎないとしていることになる。

 教育者としての頭を整えるところにまでいかずにおかしな頭になっているのは自分の方だとは気づかずに母親の頭は病院に行って診てもらわなければならない程に異常で、自分の頭は至極正常だと判断した。学校教育者として真っ当な頭の持ち主だから、「加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」とこれ以上ない真っ当な考えで10人と1人の未来を比較して、1人の未来よりも10人の未来の方が大切だ、10人の未来を潰すわけにはいかないが、10人の未来のためには1人の未来は潰してもいいということになるようなことを平気で言い、1人の未来よりも10人の未来の方が将来の日本のためになると暗に10人の未来のためには1人の未来は犠牲にしてもいいということが口にできる。

 生徒一人ひとりが異なるそれぞれの命を持った個別の異なる存在と見ることができずに数で見て、数の多い方に優先順位を置く。本人たちにとって、それぞれに大切な「未来」である。10人の「加害者にも未来がある」としたら、当該女子生徒にも「未来がある」。当然、「10人の未来」のために1人の未来を潰していいという論理は成り立たない。教頭は教育者としてのどういった権利があって一人ひとりの“未来”を比較の俎板に乗せることができたのだろうか。

 イジメは自分が生きて在る存在であるのと同様に相手も生きて在る存在であることを無視して、その命を痛めつけることによって成り立つ。教頭は当該女子生徒にしても生きて在る存在であることを考えることもできずに10人のみを生きて在る存在として扱っている。これは明らかに当該女子生徒の命に対する痛めつけであって、イジメそのものとなる。

 母親が「誰が画像を持ってるか分からない、みんなが持っているかもしれないという状況で、学校に通うというのはとても怖くてできないと思う」と抗議すると、教頭は「怖くないです。僕なら怖くないですよ。僕は男性なので、その気持ちは分かりません」と言ってのけているが、二つの問題を抱えている。一つはこの言葉は当該女子生徒の立場に立って、その心のうちを想像する物言いではなく、自分の立場に立って、当該女子生徒とは関係しない自身の心のうちを見せているに過ぎないことである。学校教育者が自らの学校の生徒の立場に立った想像力を働かせることができない、あるいは働かせようとしないのは無視という心理作用をある意味仕向けていることになり、学校教育者としての立場上励まなければならない生徒との信頼関係の構築に関わる部分の職務放棄を見事に成し遂げていることになる。

 二つ目はこの手の職務放棄が生徒一般に向けた日常的な姿勢であるなら、教育者失格そのもとなるが、一般の生徒を除いた特定の生徒にだけ向けた姿勢であるなら、依怙贔屓の罪を犯していることになり、この依怙贔屓によって生徒一般に向けた信頼関係構築もニセモノとすることになるという点である。

 記事は地元の月刊誌が当該女子生徒の2019年6月22日の自殺未遂(入水未遂)の背景にいじめがあったことを報じたと伝え、この報道に対する学校側の対応を描写している。ネットで調べたところ、地元紙は「2019年9月発売号」となっているから、2019年8月中の発行と思われる。

 学校の保護者宛配布プリント「ありもしないことを書かれた上、いわれのない誹謗中傷をされ、驚きと悔しさを禁じ得ません」

 当該女子生徒は転校後不登校となり、ネットで知り合った友人に自分が受けたイジメを告白する。

「会う度にものをおごらされる」
「外で自慰行為をさせられる」
「性的な写真を要求される」
「死にたいって言ったら『死にたくもないのに死ぬって言うんじゃねぇよ』って言われて自殺未遂しました」

 次にネットでライブ配信する運営者に相談していた本人の肉声を紹介している。

「いじめを受けてたんですけど、いじめの内容が結構きつくて。先輩からいじめられてたんですよ。先輩にいろんなものおごったりとか、変態チックなこともやらされたりとかもした。自分の方でなかなか納得がいかないっていうか、処理できないっていう気持ちになってしまってて、外に出ることがつらくて体力もなくて、学校に行くだけの体力もなくて、行っても吐きそうになってしまったりだとかあるから、どうなんでしょう、みたいな。人が怖いし、人と話すのも苦手だし、人に迷惑かけるのも怖いし、人に迷惑かけることとかがいけないことだって思っているふしが私の中にあって、そういうのにトラウマがあって、もう学校自体に行けなくなってしまって、学校に行くためにはどうしたらいいんだろうって考えたときに、何も自分じゃ思いつかなくて。学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」

 転校は2019年9月。学校が保護者宛にプリントを配布した以後と思われる。本人の肉声部分の最後に「学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」とあるから、本人が川への入水未遂を起こした翌日に母親が学校にイジメではないのかと掛け合ったときの学校側の対応を知らされていたり、プリントの内容を知ることになっていたと窺うことができる。

 但し2019年4月から5月にかけての連休中のある日に出かけるつもりもない先輩3人と公園で合う約束をさせられて、出かけようとして母親に止められ、母親から「いじめられてないのかい」と聞かれた際、「どこからがいじめっていうか分からない」と答えている。当時はイジメとまでは認識できていなかったことが上級生男女との上下関係、その従属的位置から解放されて冷静に自分を見つめることができるようになり、イジメと認識できるようになったという解釈もできる。

 「NHKクローズアップ現代+」は教頭に直接取材を申し込んだ。第三者委員会の調査中を理由に応じて貰えなかったが、2021年10月末に教頭が文書で回答してきた。

「私が回答することにより調査に影響を与えることが懸念されることから、回答を差し控えさせていただきます」

 調査は本人の証言のみを鵜呑みにはしない。関係者全員の証言を突き合わせて、その中からどの証言に正当性を見い出せるか検討を加えつつ真相を拾い出していく。イジメではないとしているなら、そのことに添う証言を誰に何を話しても、真相解明の任に当たる構成員が余程の予断を持ってさえいなければ、正当に評価するはずである。正当に評価といっても、事実とするに値するか、値しないかの取捨選択は受けるという意味での正当な評価なのは断るまでもない。要するに教頭はイジメでないとしている自身の証言が否定された場合、「クローズアップ現代+」が取り上げた母親への対応から、その可能性が高いのだが、教育者失格の烙印を押されることになる恐れから、下手に口を利くことができない閉塞状況に追い込まれていて、回答を差し控えるという体裁の対応しかできなかった可能性を窺うことができる。

 記事は、〈自殺未遂後、転校したものの不登校が続いていた爽彩さん。いじめの記憶に苦しみ、心的外傷後ストレス障害=PTSDと診断されていました。〉と書いている。要するに病院でPTSDのカウンセリングを受けることになった。だが、その甲斐がなかった。

 〈ことし(2021年)2月13日。ネット上で知り合った友人に、こう告げました。
「ねぇ。きめた。きょう死のうと思う。今まで怖くてさ。何も出来なかった。ごめんね」
その日の夕方5時ごろ、母親が1時間ほど家を空けた間に爽彩さんは部屋に上着を残したまま行方不明となりました。
爽彩さんが発見されたのは、1か月以上たってから。自宅からおよそ2キロ離れた公園で、雪の下から凍死体となって見つかりました。〉――

 最近、生命保険のコマーシャルでも大活躍している教育評論家の尾木直樹がゲストとして招かれ、イジメについてウンチクを傾けている。「ウンコを傾けている」ではない。誤解がないように。ネットで調べたら、10年以上も前の2011年8月からイオン『24色カラーランドセル』、日産自動車、小学館雑誌、インフルエンザ薬、進学塾、チューインガム等々のコマーシャルで活躍している。教育評論家としての発言が説得力があり、全国の父母の信頼を得ていて、日本の教育の発展に役立っているから、その影響力が商品購買にも貢献することが買われて、コマーシャルでも大活躍ということになっているに違いない。

 井上裕貴アナ:ここからは、教育評論家の尾木直樹さんに加わっていただきます。尾木さんはどう受け止めましたか。

尾木直樹:どきどきするほどつらくて、爽彩さんは6月に自殺未遂をしてSOSを発信しているわけですよね。本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら、今はいじめとして認めるというのが「いじめ防止対策推進法」、法的にもちゃんと定義されているんです。だから学校の先生が判断するのではなくて、本人が言ってきたらいじめと捉えて動きましょうと。それをやっていないということが僕は許せないです、とんでもないと思います。

それからもう一つは、やはりSNSの怖さですよね。4月に希望に燃えて入ってきたのに、6月にはもうすでに自殺未遂を起こしてしまうわけです。そういうふうに引っ張っていったのはSNS、LINEがすごく影響していて、今は24時間、ほかの中学生とつながれるわけです、広域に。その圧力たるやすごいものなんです。それは昔と全然違います。それから撮られた写真が拡散されたり、行為をやらされただけでも屈辱でプライドはずたずたになっているはずなんです。それなのに、その拡散の恐怖、誰が持っているかも分からない恐怖。これはひどい時代になったなと。SNSの怖さというのを思い知らされました。

井上裕貴アナ:尾木さん、なぜいじめと認定することがこんなにも難しいのでしょうか。

尾木直樹:はっきり言えば構造的な問題です。教育委員会に訴えても握り潰されたと、ほかの事案でいっぱいありますよね。でも、僕ら内部にいた人間から言えば、教育委員会と学校はコインの裏表で一体なんです。もうちょっと具体的に言いますと、教育委員会に勤めている指導主事という方たちがいるわけです、指導する立場の方。その方たちはそのまま定年退職を迎える例は極めて少なくて、ほとんどが中学校や小学校の教頭先生や校長先生、つまり管理職になって現場に行くんです。その現場に自分が行くかも分からない学校で、ちょっと問題が起きているというところにきつい指導はできないんですよ。自分がお世話になるかも分からない。自分がそこに赴任したときにみんなから反発を食らっちゃいけないというので、どうしてもやはり甘くなるし、教育委員会も何々中学校で校長をやったら次は教育長になるとか、そういうルートが全国的にずいぶんできちゃってるんですね。だから表裏一体だということですね。

井上裕貴アナ:繰り返される中で、どうしていったらいいんでしょうか。

尾木直樹:やはり大事なのは、事なかれ主義に陥っているのをどうしていくのかということなんですけれども。今、相談活動は文科省もすごく頑張っていて、24時間のLINEでの体制とか整っているんです。相談を受け付けるということも相談に乗ってもらえるということもありがたいですが、いじめられている子どもたち、あるいはいじめをまだ受けていない子どもたちにとってもやってほしいのは、ストップしてほしいんですよ。つまりいじめは、いじめっこが100%悪いんです。いじめをしなければいじめの被害者は出ないし、つらい思いをする人もいなくなるんですよね。だから、いじめの被害者を生まないように「加害者指導」をするということ。この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない。これは絶対的な条件ですよね。それからもう一つ言えば、相談活動だけではなくて「介入活動」、介入にすぐ入れるように。例えば大阪の寝屋川市というところがやっているんですけど、市長部局に監察課というのを置いて、解決するまで面倒を見ると。もちろん学校も支援しながらですけれど、おやりになっている。解決まで面倒を見るという体制を作ってほしいなと思います。

井上裕貴アナ:介入と、加害者指導と。

尾木直樹:そうですね。

保里小百合アナ:新たな被害を生まないためにですよね。

尾木直樹:そういうことが含まれた「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できると、理想かなと思いますね。

保里小百合アナ:尾木さん、今後、第三者委員会による徹底した調査が求められるわけですけど、これ以上遺族の方を苦しめないために何が重要でしょうか。

尾木直樹:一番大事なのは、いじめ防止対策委員会の調査委員会のメンバーが多様性に富んでいるということ。例えば、旭川市内ばかりのメンバーで弁護士を占めてしまうのではなくて、もっとほかのところからも多様に入ってくるというので、爽彩さんたちの無念さを晴らすためにも絶対真相究明できるような多様な第三者の調査委員会活動をしてほしいなと思います。期待しています。

井上裕貴アナ:語りきれませんけれど、ぜひお母さんのインタビュー記事のことばにも皆さん触れてみてください。今夜はどうもありがとうございました。

尾木直樹:ありがとうございました。

 尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」の正しい運用方法やSNSの怖さ、教育委員会と学校の馴れ合い関係、その他を発言しているが、仕組みや手続きや現状の解説にとどまっている。イジメ対応の殆どが事前防止ではなく、事後対応となっている現状では、このことは「いじめ防止対策推進法」がさして役に立っていないことを証明することになるが、少なくとも自殺に至らしめてしまうイジメ事案は学校・教師が全てと言っていい程に事後対応でさえも満足に機能させ得ない生徒管理にあることに起因していることを考えると、先ずは事後対応を十分に機能させる方法の模索から始めなければならない。このことは学校教育の現場を外から見ることのできる立場にある教育評論家が問題の本質がどこにあるのかを的確に捉えて、模索の任を特に担っているはずである。

 事後対応を機能させるためには現在起きているイジメをキャッチする初動対応を素早く感知・発動させて、イジメという命の痛めつけを最悪な状態に持っていかないための命の危機管理を事案に即して実践することが必要となるが、この必要性を満たすためには全て学校・教師の生徒という存在を一個一個の命として捉えることができるかどうかの感性に委ねられているはずである。成績や運動能力や容姿の良し悪し、あるいは動作の反応の程度等で命というものに差別を置かずに一個一個の命であるということを受け入れることができたとき、それぞれの命を粗末にはできない方向に教師それぞれの感性は自ずと敏感に反応していくことになる。どこかの教頭のように「加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」と命に差別をつけることはないだろうし、差別をつけなければ、もしイジメに遭っていたらという思いを強くすることができて、その命を守るために手を最大限に尽くすことになるだろう。だが、命に差別をつけたためにその命を守る方策を頭に浮かべることさえしなかった。イジメや体罰に関わる生徒の死は多くの場合、そういった教師の犠牲という形を取る。

 〈本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら、今はいじめとして認めるというのが「いじめ防止対策推進法」、法的にもちゃんと定義されているんです。だから学校の先生が判断するのではなくて、本人が言ってきたらいじめと捉えて動きましょうと。それをやっていないということが僕は許せないです、とんでもないと思います。〉――

 そうしている学校も数多く存在しているのだろう。だが、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が通う学校ではそうしていないか、初期的にはそうしていても、事後対応を間違えるかして招くことになる態様であることは明らかなのだから、「僕は許せないです、とんでもないと思います」と憤るだけで済ますことができるわけではなく、長年学校教師を続け、教育評論家となってテレビ等の放送媒体や雑誌などの活字媒体を通して教育問題について幅広く発信、イジメについても見たり聞いたりの幅広い経験を通して構築した知識を広く紹介し、それらの発信力が評価を得てコマーシャルでも大活躍しているのだから、自らの言葉でイジメかどうかは「いじめ防止対策推進法」に則って初期的には生徒本人の判断を最優先に尊重するというルールを学校・教師がごく当たり前の知識・情報として確立できるよう言葉の発信に努力しなければならないはずだが、単に憤っているだけでは教育評論家としての情報発信の姿勢が疑われることになる。  

 つまり尾木自身の「本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら・・・・・」云々は自らの認識としていたことだろうから、当然、何度も情報発信していたはずだが、自殺等の死が絡んでくる重大なイジメ事案の発生後の同じ発言は役に立っていなかったことを再び情報発信しただけの証明で終わることになり、このことが繰り返される可能性は尾木直樹にしたって否定できないだろうから、その情報発信力は教育評論家としての自身の知名度程ではないことになり、このことに思い至らないようなら、尾木直樹は単なる役立たずな解説を垂れ流しているだけの存在になる。

 教育委員会の指導主事は小中学校の教頭や校長として転出したり、中学校の校長が教育長へと起用されるケースがあり、そういった相互の人事交流を無事維持するために教育委員会として「きつい指導はできない」事なかれ主義に陥っていると「僕ら内部にいた人間」としての経験を解説しているが、教育評論家というものはそういうものなのか、やはり解説だけで終えている。その上、イジメがなくならない現状とイジメ対応の殆どが事前防止ではなく、イジメが起きてから対策に取り組む事後対応となっている現状にあることを無視し、「いじめは、いじめっこが100%悪いんです。いじめをしなければいじめの被害者は出ない」とこれ以上ない当たり前の道理を言ってのけるだけで済ましている。学校・教師が当たり前の道理を当たり前とすることができていないから、イジメがなくならず、イジメの被害者が延々と出てくるのであって、当たり前の道理を学校・教師が当たり前の道理とできるように事前防止の有効な手立てを模索・提示するよう努めることこそが肝心要のことであるはずだが、そういった模索・提示を行った形跡とその効果は見えてこない。最近では生命保険の印象の方が強い。

 「いじめの被害者を生まないように『加害者指導』をするということ。この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない。これは絶対的な条件ですよね」

 これは事後対応の公式論であろう。多くの教育評論家が何度も繰り返し言っていて、既に手垢がついているはずだ。だが、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が跡を絶たないという現実は尾木直樹が上記言っていることを「絶対的な条件」とし得ない学校、事後対応の公式論としていない学校が数多く存在することの証明でしかない。母親は娘がイジメられているのではないのかと学校に掛け合ったが、対応した教頭は取り合わなかっただけではなく、「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」と1人の未来の価値を否定した。このように事後対応の公式を全然実践できていない学校の態度を議論するためにゲストとして招かれた。当然、このような学校が今後とも出てくる可能性とこういった学校からこそ、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が出てくる可能性の両方を頭に置いた議論の進め方が求められているはずだが、頭に置かずに事後対応の公式論だけで役立たずにも済ませている。

 「それからもう一つ言えば、相談活動だけではなくて『介入活動』、介入にすぐ入れるように」と言っていることも事後対応の公式論であって、実践できている学校の例を挙げているが、実践を思いつかない学校にどう思いつかせるか、思いつかせるためには教育委員会と学校との馴れ合い関係を断ち切ることも必要で、どうしたら断ち切ることができるのか、これらを可能としていく議論にまで進む必要があるが、そこまで進まない議論で終わっている。

 勿論、こういった議論を進めたとしても、実践できない学校を皆無とすることはできないだろうが、イジメを少しでも減らしていくためにも実践できない学校に絞った実践させるための議論、公式論ではない議論が必要で、その必要性に気づかないままに公式論だけをコメントする教育評論家は自らの役目を相当程度放棄していることになる。

 また、今後事後対応の公式を実践できない学校が出てきたとき、実践させるための議論が行われていたにも関わらず事後対応の危機管理を満足に機能させることができずにイジメ自殺やその他の被害を出した場合と行われないままに出した場合とでは意味合いが異なってくる。前者の場合は出したことの責任は後者の場合よりも遥かに重くなるだろう。重くなることのメッセージを発し続けることで事後対応の危機管理について常に注意を払わせることの効果が期待できて、その効果が
イジメ被害の抑止に繋がる可能性は否定できない。

 女子アナが尾木直樹の単なる事後対応の公式論を新たな被害を生まないための方法論と取ると、あるいは買い被ると、尾木直樹は「そういうことが含まれた『いじめ防止対策推進法』の改正にも着手できると、理想かなと思いますね」と答えているが、本人は最初に「いじめ防止対策推進法」が現行に於いて機能していないことを口にしていて、このことはすでに触れたようにイジメ対策が主として事前防止ではなく、事後対応となっている事実が証明していることからも、どのような改正が行われても、それを"理想"とするのは甘いと言わざるを得ない。

 大体が親の虐待によって幼い子どもを死なせてしまう児童虐待の防止は児童相談所が最前線での防波堤を担っているのであって、児童虐待防止法ではないのと同じようにイジメ防止の鍵を握るのは、あくまでも学校・教師の姿勢にかかっている。このことも既に触れているが、イジメという命の痛めつけに敏感になれるかどうかは学校・教師それぞれの感性に掛かっている。いくら法律が立派であっても、学校・教師がイジメというものに鈍感であったなら、法律は機能しないだろうし、事後対応も、危機管理としてある決め事への取り掛かりが後手後手にまわって、満足な行く末を見ることはないだろう。

 学校・教師がイジメに敏感であることができている心の状況は生徒という存在を一個一個の命として捉えることができているかどうかにかかっている。このような心の状況にあれば、イジメが身体的・心理的な攻撃を継続的に加えて相手に深刻な苦痛を与えることを定義の一つとしている以上、その攻撃は身体的・心理的に相手の命を痛めつける行為そのものということになって、生徒それぞれがあるべきとしている命に対するどのような痛めつけも、見過ごすことはできないようになる。見過ごしてしまったなら、生徒という存在を一個一個の命として見ることができていないことになるからなのは断るまでもない。生徒という存在を一個一個の命として常に捉えていき、イジメ・体罰=人為的な命の痛めつけと看做していく習慣が身についたなら、イジメも体罰も、その解決に敏感になって、命の痛めつけからの解放を図らざるを得なく。

 イジメの疑いがある事案が発生した場合、あるいはイジメられているといった訴えがあった場合、学校がイジメかどうかの確認を怠たったりして事後対応を機能させることができずに生徒を転校、あるいは不登校、最悪の事態として自殺に追いやったとしたら、今回の場合は先輩男女が当該女子生徒の命を痛めつけ、死に追いやった自殺演出者だとすれば、教育委員会や学校にしても、特に校長・教頭は命の痛めつけを見過ごしたことによって自殺演出者たちの共犯者に加えなければならない。

 当然、一般社会は学校社会の管理者の地位にある校長・教頭・教師たちに対して学校社会の構成員である生徒たちは一個一個の命を持った存在であり、それぞれが自分の命を持って生きて成長し続けている人生の途上にある、そうである以上、そのような成長を阻害するどのような命の痛めつけも許してはならないというメッセージを発信し続けなければならない。生徒を一個一個の命として捉えることができなければ、教育者の資格はないと。

 また、メッセージは「どのような命の痛めつけも許されない」とするのではなく、「どのような命の痛めつけも許してはならない」としなければならない。前者は学校・教師の主体的意志の関わりを後者程には強く要求していなことになるからである。

 勿論、このメッセージは学校・教師が自分たちの道理とするだけではなく、全ての生徒一人ひとりが当たり前の思い・当たり前の認識、道理そのものとするように学校・教師は教育していかなければならない。「生徒誰もが一個一個の命を持ち、生きて成長し続ける存在であって、それを邪魔する権利は誰にもない。誰かをイジメることはその誰かの命を痛めつけていることになる」と。「命を痛めつけられたら、その命は悲鳴を上げる。それを想像できないような想像力の貧しい人間ではあってならない。自分がイジメられて、自分の命が悲鳴を上げて、初めてイジメは命の痛めつけだと実体験に基づかなければ気づかない程に人間関係に冷淡であったはならない」と。

 教師が生徒にこのように教えることによって教師自身がこのことを日々学び、日々認識していくことになる。イジメというもの、命の痛めつけがどこかで始まっていないか、常に注意を払うことになるだろう。万が一、気づかないうちに始まっていて、あとで気づくことになったなら、イジメ=命の痛めつけのこれ以上の放置に学校教育者として鈍感ではいられなくなるだろう。あらゆる知恵を絞って、生徒がその生徒なりに持ち、その存在を支えている生徒独自の命を守ることに全力を上げざるを得なくなるだろう。


 (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
 
 (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》
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(3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹の役立たずな解説</font></b>

2022-05-31 07:57:31 | 教育
 (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
  (3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》

 上記『クローズアップ現代+』で伝えている教頭の人となりから学校教育者としての姿勢を俎上に載せてみたが、『「イジメはなかった。彼女の中には以前から死にたいって気持ちがあったんだと思います」旭川14歳女子凍死 中学校長を直撃《生徒7人の行為をイジメと認定》』「文春オンライン」特集班/2022/04/16)が校長にインタビューしているから、その発言のいくつかから校長の人となりを当たるも八卦、当たらぬも八卦で覗いてみる。

 この記事公表の前日の2022年4月15日に旭川教育委員会第三者委員会が「中間報告」の記者会見を開いている。この記者会見を受けてのことだろう、記事は「初出2021年4月18日」記事の「再公表」という形を取っている。当該女子生徒が凍死体で発見されたのは2021年3月23日であり、記事は、〈なぜY中学校はイジメの問題に対して、真摯に対応してこなかったのか。4月11日、爽彩さんが在籍していた当時のY中学校の校長を直撃した。〉(『中間報告」は当該女子生徒が在籍していた中学校は「X中学校」としているが、この記事では「Y中学校」となっている)の説明となっているから、インタビューの「2021年4月11日」は遺体発見の2021年3月23日から19日後となる。

 (校長)「(ウッペツ川に飛び込んだ事件について)お母さんの認識はイジメになっていると思いますが、事実は違う。爽彩(さあや)さんは小学校の頃、パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあり、特別な配慮や指導していこうと話し合っていました。爽彩さんも学級委員になり、がんばろうとしていた。でも川へ落ちる2日前に爽彩さんがお母さんと電話で言い合いになり、怒って携帯を投げて、公園から出て行ってしまったことがありました。

 何かを訴えたくて、飛び出したのは自傷行為ですし、彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います。具体的なトラブルは分かりませんが、少なくとも子育てでは苦労してるんだなという認識でした。ただ、生徒たちが爽彩さんに対して、悪い行為をしたのも事実です。その点に関してはしっかり生徒に指導していました。

 我々は、長いスパンでないと彼女の問題は解決しないだろうから、お母さんに精神的なところをケアしなきゃない問題だって理解してもらって、医療機関などと連携しながら爽彩さんの立ち直りに繋げていけたらなと考えていました」

 校長は教頭と同じようにイジメを否定している。入水未遂の2日前に当該女子生徒が母親と電話で言い合いになり、怒って携帯を投げて、公園から出て行ってしまった行動を不安や怒りといった感情を抱えきれずに突発的な衝動となって現れるパニック障害と見ていて、「何かを訴えたくて、飛び出したのは自傷行為です」と言っていることが言い合いしたことを母親に後悔させてやりたい気持ちからの自身をも傷つける一種の復讐行動だとしても、「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」と結論づけていることの妥当性を考えてみる。

 このことは「我々は、長いスパンでないと彼女の問題は解決しないだろうから、お母さんに精神的なところをケアしなきゃいけない問題だって理解してもらって、医療機関などと連携しながら爽彩さんの立ち直りに繋げていけたらなと考えていました」という言葉が解き明かしてくれる。

 「お母さんに精神的なところをケアしなきゃいけない問題だって理解してもらって」の言葉も、「立ち直りに繋げていけたらなと考えていました」という言葉も、
そのような取り組みを行っていた、あるいは取り組みを行ってきたという意味を取るわけではなく、取り組みを考えていたと言っているに過ぎない。このような発言となったのは当該女子生徒が入水未遂後入院し、退院後転校したものの家に引きこもりがちとなり、医師からPTSDの診断を受け、入院、通院を繰り返していたことからの後出しすることになった物言いでしかないことは以下のことが物語ることになる。

 入水未遂は当該女子生徒が上級生男子生徒に対して性的な画像を送信したことに絡んで起きた騒ぎであり、このことがイジメ事案ではなく、猥褻事案だとするなら、以後の常習化を避けるためにも、さらに2019年4月始めの入学前にだろう、「パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあった」ことと入水未遂2日前に当該女子生徒が母親と電話で言い合いになり、怒って携帯を投げて、公園から出て行ってしまったことを「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」と判断したことを踏まえて、以後のことを考えてスクールカウンセラーのカウンセリングを受けさせる措置を考えに入れ、母親に話し、入水未遂後そのまま入院した当該女子生徒に母親から伝えるようにさせたていなら、当該女子生徒の心のケアに何がしかの役に立ったはずだが、何の措置も講じなかった。

 と言うことなら、「彼女の中には以前から死にたい気持ちがあった」も後出しすることになった物言いでしかないことを証明することになる。「パニックになることがよくあった」とする小学校からの引継ぎに対して「特別な配慮や指導していこうと話し合っていた」だけで、話し合いから実行に移した形跡を窺うことができないだけではなく、パニックと「死にたい気持ちがあった」ことを結びつける対策を講じることもなかったのだから、後出しの物言いとしか判断しようがない。ただ、「死にたい気持ちがあった」とした場合、自死はある意味当然の帰結とすることができ、学校の責任から遠ざけることができる。当該女子の自死、自ら命を断ったという深刻な事態を前にして、あるいは生徒誰もが一個一個の命を持って、生きて成長し続ける存在であるという重々しい事実が例え一個でも失われた現実を前にして後出しの物言いができること自体に校長自らの責任回避を見ないわけにいかない。

 ――爽彩さんが亡くなったことは知っていましたか?

「2月にいなくなったことは聞いていて、1カ月も経って遺体で発見されたと、ネットで初めて知りました。学校にいた生徒ですからね、中には入らなかったですけど葬儀場の近くまで行って、外から手を合わせました。なんとかしようというのはあったと思うんですけど、居た堪れない」

――爽彩さんの母親からイジメの相談があったときに調査をしましたか?

「生徒間のトラブルや、些細なトラブルがあれば情報共有することを学校側ではしている。もし、イジメがあれば把握はします。毎年5月にイジメに関するアンケート調査を実施していますけど、(イジメが)あるという結果はあがってないです」

 この「なんとかしようというのはあったと思うんですけど」と推測の対象としている主語は母親を指しているのだろう。だが、当該女子生徒の死を他人事とし、学校を関係外に置いている。例えイジメ事案ではなく、猥褻事案であったとしても、同校の何人かの生徒も関係していて、学校の生徒指導の問題も絡んでいる、その影響が全然ない自死というわけではないのだから、少しは学校の責任を感じている言葉を発していいはずだが、何もない。当然、「居た堪れない」も、体裁を整えるための言葉となる。

 「毎年5月にイジメに関するアンケート調査を実施していますけど、(イジメが)あるという結果はあがってない」

 だから、当該女子生徒と先輩男女との間の出来事はイジメではなかった。この校長はアンケートに現れない形でイジメが起きている事例があることを情報としているのだろうか。要するに先輩男女の「ふざけてした」の証言のみを取り上げて、当該女子生徒の側から見たとき、この証言に納得できるかどうかを想定する努力を怠り、イジメはなかったものとしているから、なかったことの根拠をアンケートに現れない形のイジメの存在を無視し、5月のイジメに関するアンケート調査の結果に置くことになっている。校長の無責任な態度しか窺うことはできない。

 ――それでイジメはなく、爽彩さんが抱えているのは家庭の問題だと判断したと。なぜそのような判断になったのですか?

「(ウッペツ川への飛び込み事件があった)当時、教頭先生からの話では、爽彩さんを川から引き上げた時にお母さんを呼んで引き渡そうとしたが、本人(爽彩さん)が帰りたくないと大騒ぎしたそうです。子供の問題の背景に家庭の問題というのは無視できないですから」

 校長は記者からイジメの問題ではなく、家庭の問題だと判断している理由を尋ねられて、上記の答を口にした。校長は「爽彩(さあや)さんは小学校の頃、パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあった」事実を明かしている。そしてパニック障害は家庭環境や親の育て方が発症原因となっている場合があるということだが、この発症原因とそのときどきにパニック状態となる発作原因が常に因果関係を取る形で現れるわけではないようである。入水未遂後、母親に引き渡そうとしたときに「本人(爽彩さん)が帰りたくないと大騒ぎした」キッカケは第三者委員会の「中間報告書」によると、Y中学校上級生男子Eに要求された性的な動画の送信後、そのE自身から動画で見せた仕草を公園で真似てからかわれたことであり、怒り出して「死ぬ」と行って川に入った行為自体が既にパニック症状を来していた可能性は決して排除できないのであって、パニック障害が慢性化していたとしても、この時点でのパニック症状は"家庭の問題"と関連していたわけではない。

 要するにパニックを起こしたからと言って、全てを「子供の問題の背景に家庭の問題というのは無視できない」と"家庭の問題"とのみに直結させるのは学校教育者として速断に過ぎるばかりか、妥当性を欠くことになり、上級生男子Eと当該女子生徒の関係性にも焦点を合わせて、その関係性を問い、そのときのパニックの原因を探らなければならなかったはずである。

 当然、そうしたことは一切せずに"家庭の問題"イコールイジメではないの理由付けとするのは当該女子生徒に「死にたい気持ち」があったとすることで自死は本人の責任で、イジメがあったからではないし、学校の責任ではもないとしたことと同じ責任回避の構造を成り立たせていることになる。そもそもからしてパニック障害の発症原因とそのときどきにパニック状態となる発作原因を機械的に因果関係で結びつけること自体が学校教育者として責任ある態度とは言えない。その程度の校長となっている。

 ――自慰行為を強要すること自体が問題だと思いますが。

「子供は失敗する存在です。そうやって成長していくんだし、それをしっかり乗り越えてかなきゃいけない」

――学校の指導によって、加害生徒は反省していましたか?

「僕が生徒に指導した時も、命に関わるんだぞ、どれだけ重大な事をやってるのか、わかっているのかと。素直にまずかったっていう子もいたし、最後の最後まで正直に話せなかった子もいる。公園で以前、小学生とすごく卑猥な話をしていて近所から通報があった問題の子もいたけど、指導しても認めない。自分の子供のやった事に向き合えない保護者もいて、学校としても本当に苦労したのは事実です。逃げ回って人のせいにして自分は悪くないとかではなく、心の底から反省したら本人が立ち直るんだし、そこに気づかせて二度とそういう事をしないようにしないといけない」

 校長の「子供は失敗する存在です」云々の言葉には生徒に対する慈しみ、あるいは思いやりの感情がこもっていて、温かく見守る姿勢を感じ取ることができる。校長としては「子供は失敗する存在」を全校生徒に当てはめて口にした言葉でいるつもりだろうし、当然、「失敗する存在」の中に当該女子生徒も加害生徒も平等に入れているように見えるが、当該女子生徒に向けた言葉、「小学校の頃、パニックになることがよくあったと小学校から引継ぎがあった」、あるいは「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」には「子供は失敗する存在」として受け容れる思いやりも温かく見守る姿勢も嗅ぎ取ることはできない。「失敗する存在」を当該女子生徒にも当てはめていたなら、中学校入学以来、小学校からの引継ぎを教師全員が共有し、注意深く見守っていたはずで、母親からイジメられていないか心配する電話があったとき、その場で打ち消さずに万が一の可能性を恐れて、それ相応の対応を取っていただろう。あるのは当該女子生徒に対する評価を評価のままに固定化させて、そこから一歩も出ない姿勢のみである。

 要するに「子供は失敗する存在」云々の「失敗」は加害生徒のみを頭に置いた、成長の一過程の修正可能な出来事と解釈した理解としかないっていない。と同時に「子供は失敗する存在」とすることによって性的な画像や動画の送信強要やその拡散、配信したことと動画の内容の他者への言い触らしといった当該女子生徒の人格を傷つける攻撃となっている、明白なイジメに対する免罪符の役目をも果たしていることになる。

 校長本人としては当該女子生徒と加害生徒を平等に扱っていると見せかけることによってイジメ事案ではないこととしたことの正当性を意図するつもりだったのだろうが、多くの発言が当該女子生徒への対応の責任回避を作為していることから、平等に扱ったと見せかていても、自ずと両者への差別が顔を覗かせることになっている。この差別は勿論のこと、責任回避意識に立脚させていることになる。

――学校の認識として、イジメはなかったという事ですか?

「そうですね。警察の方から爽彩さんにも聴取して、『イジメはありません』と答えてます。それは病院に警察が聴取に向かって、聞き出したことで、学校が聞き出したことではないです。実際にトラブルがあったのは事実ですけど」

――改めてトラブルがあったのは事実だが、イジメではないということですか?

「何でもかんでも、イジメとは言えない」

――男子生徒が当時12歳の少女に自慰行為を強要して撮影することは犯罪ではないですか?

「当然悪いことではあるので、指導はしていました。今回、爽彩さんが亡くなった事と関連があると言いたいんですか?それはないんじゃないですか」

 「警察の方から爽彩さんにも聴取して、『イジメはありません』と答えてます。それは病院に警察が聴取に向かって、聞き出したことで、学校が聞き出したことではないです。実際にトラブルがあったのは事実ですけど」

 学校は最初からイジメであることを否定し、猥褻事案と見ているから、加害生徒にイジメ事案としての聞き取りを厳格に行っているかどうかは疑わしいが、「旭川女子中学生いじめ凍死事件」(「Wikipedia」)には、〈被害者の中学校は加害生徒に聞き取り調査を行い結果を冊子にまとめている。その開示請求を弁護士法23条2による弁護士照会制度に基づき遺族は三度行っているが拒否をされている。〉と出ている。開示拒否は回答義務があるのに拒否をしても罰則がないシステムとなっているからだと、同じ「Wikipedia」が説明している。

 加害生徒への聞き取りでイジメと解釈しなければならない事実が出てきたが、学校が最初からイジメを否定してきた立場上、開示拒否をせざるを得なくなっているか、猥褻事案を主体とした聞き取りを行い、イジメ事案としての聞き取りは疎かとなっていた不備があるために開示請求に応じることができないでいるかどちらかだと思えるが、どちらであっも学校側に隠しておかなければならない不都合な事実が存在することからの開示拒否と見ないわけにはいかない。人間ウソがあると、正々堂々とした態度を取ることができなくなる。ウソがあっても、正々堂々とした態度を取れるのは安倍晋三以下、そうは多くないはずだ。

 入院した加害生徒を警察が病院で聴取したところ、加害生徒は「イジメはありません」と答えた。イジメを認めたくない、あるいはイジメられる程自分は弱い存在だと見られたくない自尊心がイジメを否定する実態は数多く見られる例となっている。イジメがあった、誰々にイジメられたと教師に伝えたことがイジメ加害者が知ることとなって、イジメがエスカレートすることを恐れる気持ちから否定する事例も多く見られる。当該女子生徒がイジメられるのは自分が悪いからだと受け止めていたとしたら、警察沙汰にすることにまで大袈裟にしたくないという気持ちが働いて、警察の聴取に対して「イジメはありません」と答えた可能性も否定できない。あるいは先輩・後輩の上下関係を完全には壊したくない気持ちが働いた否定ということも考えうる。

 大体が学校社会に於けるトップに立つ人間であり、学校の生徒同士の間で生じたトラブルである以上、2019年5月の連休中に母親が学校に娘はイジメられていないだろうかと電話が入った以後、2019年6月入水未遂・入院、2019年9月退院・転校、PTSD発症等々の経緯を前にして警察の聴取と5月のイジメアンケートだけをイジメ否定の根拠とし、そこに学校自身の聞き取りをイジメ否定の根拠として置かないのは学校長としての教育上の使命放棄に当たるだけではなく、このことに無頓着でいられる神経は教育者の名に、あるいは校長の名に果たして値すると言えるだろうか。イジメがあったかどうかは一応脇に置くとしても、イジメが疑われる事案であったことは校長も否定できないはずで、であるなら、イジメが疑われる事案の再発防止は、それが事実イジメそのものであったとしても同じことが言えるが、徹底的な聞き取り(=検証)を経た真相解明と解明した真相の全生徒を混じえた共有(情報共有)が要件となるはずだ。すべての生徒が真相共有(情報共有)できなければ、何がイジメなのか、何がイジメではないのか、何はしていいのか、何はして悪いのか学習することはできなくなる。

 だが、校長は当該女子生徒に対する警察の聴取と5月のイジメアンケートのみでイジメはなかったとの根拠としているだけではなく、加害生徒に聞き取り調査を行い結果を冊子に纏めていたとしても、それを公表して全生徒の真相共有(情報共有)にまで持っていかなければ、自分たちに不都合な事実が含まれているから、持っていくことができないのだろうが、真相解明とまではいかない状況に放置することになっていて、校長としての職務放棄にまでなっていることにさえ気づかないでいる。

 このような校長、教頭、担任の人間性に日々触れざるを得ない生徒はその人間性に毒される、ある意味被害者の立場に立たされていることになって、それを避けることができないという事実はイジメを受けているのと同じ状況にあると言える。学校教育者と言えない人間が校長ですと名乗り、教頭と言えない人間が教頭ですと名乗り、担任と言えない教師が担任を名乗って、それぞれの立場にいる。日本の学校教育に前途洋々たる未来を感じる。

 「イジメの定義」は2013年度から以下のとおり定められている。

 〈「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。〉

 役人が考えついた定義だからか、小中学生だって分かりやすく、すんなりと頭に入ってくる言葉遣いとなっている。

 〈イジメとはある生徒が他の生徒に対して何らかの力関係を用いて心理的又は物理的な攻撃を加えて、その命を痛めつけることを言い、命の痛めつけが心身の苦痛となって現れる。〉

 このようにイジメの定義を変える。この定義は教師の生徒に対する体罰や親や同居者の幼い子供に対する虐待にも当てはめ可能となる。体罰も虐待も命の痛めつけであると言った方が直感を得やすい。生後何カ月かという子どもが、あるいは1歳2歳の子どもが親や同居者の暴力を受けて死に至らしめられる。それがどれ程の命の痛めつけであり、どれ程に命が悲鳴を上げていたか、我々は想像しなければならない。

 イジメを受けることで命は痛めつけられ、痛めつけられることでその命が悲鳴を上げる。イジメを受けて悲鳴を上げたとしても痛めつけが止まらなかった場合、転校するか、不登校となるか、命の痛めつけから逃れて、悲鳴を上げないで済む方法を選択するが、逃げることができないところにまで追いつめられてしまうと、自死という方法でしか逃れる手が浮かばくなる。

 他の誰でも同じことだが、生徒一人ひとりは体と心を合わせて一個一個の命を成り立たせているのだから、心理的又は物理的な攻撃を加えて心身の苦痛を与えることは生徒の命そのものを痛めつけていることになる。イジメとは命の痛めつけだということを学校・教師自身が認識して、その認識を生徒全員の認識とするよう務めめなければならない。


  (1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
 
  (2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
 
《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
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