大した生き方をしてきた人間ではないから、生き方の総体としての個々の命については偉そうな口は利けないが、命の本質性に関しては誰もが平等であると考えると、最近話題となっている尊厳死について一言できる資格はあると思う。
「尊厳死」とは人間としての尊厳を失う前に、つまり人間としての尊厳を維持できている間に自らの意思と自らの力に基づいて死を迎えるか、自らの意思に基づくものの、他者の力を借りて死を迎えることを言うはずである。つまり許される、許されないは別にして、あくまでも自らの意思からの発現でなければならない。
これが他者の意思と力に基づいて行う場合は「命に対する尊厳」という形は取らずに「命に対する蔑視」に基づいて強制的に死を与えるという形を取ることになる。
尊厳死に於ける前者は自殺という形を取り、後者は安楽死が認められていない日本では自殺幇助か嘱託殺人といった形を取る。
そして「安楽死」とは、その多くは尊厳死の方法論の一つを指す。
れいわ新選組から2019年の参院選に立候補して落選した大西恒樹(56歳)なる人物が高齢者から「命の選別」をすべきと発言したと、2020年7月8日付「IWJ Independent Web Journal」記事が伝えている。その発言を纏めてみる。
大西恒樹「高齢者を長生きさせるのかっていうのは、我々真剣に考える必要があると思いますよ。介護の分野でも医療の分野でも、これだけ人口の比率がおかしくなってる状況の中で、特に上の方の世代があまりに多くなってる状況で、高齢者を……死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう、そういう政策を取ってると、これ多くのお金の話じゃなくて、もちろん医療費とか介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これは若者たちの時間の使い方の問題になってきます。
こういう話、たぶん政治家怖くてできないと思いますよ。命の選別するのかとか言われるでしょ。生命選別しないと駄目だと思いますよ、はっきり言いますけど。何でかっていうと、その選択が政治なんですよ。選択しないで、みんなにいいこと言っていても、たぶんそれ現実問題としてたぶん無理なんですよ。
だからそういったことも含めて、順番として、その選択するんであれば、もちろん、高齢の方から逝ってもらうしかないです」
記事は「高齢の方から逝ってもらうしかないです」の発言に対して、〈高齢者に先に死んでもらうしかないと明言したのである。〉、〈「逝ってもらう」とは、寿命が来る前に、まだ生きている人を「殺す」ということである。高齢者の組織的大量殺戮を堂々と宣言したようなものだ。こんなことを「政治」の仕事だと公言する人物が、一度は国会議員を目指して立候補したということ自体に、寒気を感じる。〉と解説している。
「命の選別」に関して「高齢の方から」と言っていることは「高齢の方」が「順番として」最初であって、その次があることになる。大西恒樹が考えていることはさしずめ身体障害者ということなのだろう。
「逝ってもらう」方法が安楽死という形を取ったとしても、「命の選別」の線引は他人が決定権を一括して握ることになり、このことはそのまま個人個人が行うべき人間の尊厳に関わる生き死にの線引をも他人の決定権に委ねることになる。
このような経緯の具体化の一つがヒトラーの優生思想に基づいてユダヤ人等を劣等人種と看做し、その絶滅を謀ったナチスのホロコーストであろう。つまり他者の意思と力に基づいて行う命の選別は「命に対する尊厳」という形を取ることはなく、「命に対する蔑視」という形を取って、最悪、強制的に死を与える儀式と化す必然性を往々にして担う。
往々にして担った例として「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」という思想のもと、2016年7月26日未明に自身が勤めていた障害者施設「津久井やまゆり園」に侵入、入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた植松聖(当時26歳)の他人が関わることができないにも関わらず関わった「命の選別」、人間の尊厳に関わる生き死にの線引を身勝手に行った例を挙げることができる。
植松聖は自らの思想を自らの手で具体化したが、れいわ新選組から2019年の参院選に立候補して落選した大西恒樹は自らの思想を国の政策として具体化したいと欲している点、ナチス・ヒトラーに近い。
大西恒樹の発言が報道されたのは2020年7月8日。半月後の2020年7月23日の報道は2019年11月30日に当時51歳のALS女性患者が2人の医師に安楽死を依頼し、医師はその依頼に応じて、腹に開けた穴からカテーテルを使って直接胃に薬物を投与し、嘱託殺人の疑いで逮捕されたというものであった。
既に触れているが、安楽死は日本では認められていないし、このことは周知の事実となっている。だが、事の良し悪しは別にして、女性は人間の尊厳に関わる生き死にの線引を自らの意思に基づいて行った。もはやこれ以上生きたとしても、人間として抱えている自らの命の尊厳を守ることはできないと命に終止符を打つことを考えた。
終止符を打つことがギリギリのところで自らの命の尊厳を守る唯一の方法だとした。
あくまでも自己の命の尊厳に限定した線引であって、他人の命の尊厳にまで土足で踏み込んで、好き勝手に線引したというわけではない。例え日本で安楽死制度が成立したとしても、あくまでも希望者が対象であって、年齢や身体上の機能を一律的条件として課す制度とはならない。なぜなら、最初に触れたように人間の尊厳に関わる生き死にの線引は個人個人が行うべきものであり、他人は行い得ないからであって、民主主義体制を維持する限り、優生思想に基づいて国家や他人が線引する理不尽・不条理な抹殺・排除の類いのつくりとは決してならない。
もし日本で制度として安楽死が認められることになった場合、命の尊厳の自分なりの維持に見切りをつけて制度を利用する人間が増える一方で見切りをつけずに人間としての自らの尊厳の線引を、少なくとも生命維持装置が必要となる瞬間まで自然の摂理(自然界を支配している法則 「goo国語辞書」)に任せて制度を利用しない人間が多く存在することになるはずである。
利用しない人間が多くの人間が利用するのに自分が利用しないのは肩身が狭い、悪口を叩かれているのではないかと気に病み、あるいは周囲の人間が利用すべき人間でありながら、利用しないのは国に迷惑をかけていることになるなどと批判したり悪口を叩いたりするのは双方共に個人個人として自律していない人間ということになる。
自律していれば、生き死にに関して人間の尊厳をどの辺りに置くかの線引は個人個人が行うべきものとの認識のもと、人は人、それそれが決める個人的な認識の問題として距離を置いて冷静に眺めることができる。戦前の日本人は相互に自律していなかったから、個人の尊厳を全く無視した、国家への従属一辺倒の「天皇のため・お国のため」の全体主義一色となることができた。特に介護が必要な身体の機能に障害がある場合は強い自律心を持って自らの生き死についての尊厳の線引は自分自身に委ねられているものと自覚していなければならないはずである。
65歳以上の要介護者が親族に殺される老老介護殺人は年に20件から30件起きていると言う。介護疲れから先行きが見通せなくなったり、共倒れしてしまうのではないのかといった恐れから自発的に殺人を犯す場合と、苦しがるあまり、見るに忍びないと同情心から殺してしまうケース、殺して欲しいと頼まれて止む得ず殺してしまうケース。
もし安楽死制度があったなら、人間としての尊厳を自ら守る生き死にの線引を前以って要介護の程度に置き、その程度を超えた場合は安楽死を以って自らの人間としての尊厳を維持したまま生に終止符を打つと登録しておくケースも出てきて、老老介護殺人の何件かは殺人という形を取らずに済むことになる可能性は生じる。
2019年10月25日再放送のNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」は安楽死制度が認められていて、外国人の安楽死を受け入れているスイスに行き、2018年11月に安楽死を遂げた52歳の女性の、2人の姉との関わりを含めて、そこに至るまでの経緯を取り上げていた。彼女は、死の2ヶ月前にスイスの安楽死団体に登録を行った。英文の希望理由の一部を番組は字幕で伝えている。
「私が私であるうちに安楽死をほどこしてください。確実に私が私らしくなるんです」
「私が私であるうちに」とは彼女が考えている彼女なりの人間としての尊厳を維持できている命である間にという意味を取るはずである。そしてそういった命である間にその命を閉じることが彼女にとって「確実に私が私らしくなる」、つまり「確実に私は私らしい命の尊厳を守り通すことができる」ということなのだろう。
「私が死を選ぶことができるということは私のどうやって生きるかということを選択することと同じくらい大事なことだと思うんです。安楽死をみんなで考えることは私の願いでもあるんです」
「私が死を選ぶ」とは、勿論、安楽死を指す。「どうやって生きるか」は彼女が置かれている状況から考えると、人間としての尊厳の線引をどこに置いて生きるのかの選択ということになり、その選択が安楽死であって、「どうやって生きるかということ」と安楽死=「私が死を選ぶこと」はイコールの関係にある「大事なこと」という意味を取るのだろう。
彼女にとって安楽死が自分自身の命の尊厳、あるいは人間としての尊厳を守る切迫した、唯一の手段となっていた。
番組はスイスの安楽死団体に日本人の登録は2016年から始まり、2018年には8人、2019年には6人の合計17人に上ると伝えていた。
命の尊厳、あるいは人間としての尊厳の線引をどの辺りに置くかは人それぞれが自らの意思で任意に決めることであって、人それぞれによって異なる。但し日本では人間としての尊厳を維持するためには死以外にないと考えた場合は自殺か、自殺幇助や嘱託殺人以外の方法はないことになる。老老介護殺人の悲劇も減らないことになる。