5月29日、鶴保国土副大臣と菅原経産副大臣が日本商工会議所を訪れて、加盟しているトラック輸送の荷主側企業を対象に円安による燃料価格上昇がトラック運送事業者の経営の重荷になっているとして燃料上昇分を運賃に適正転嫁できるよう協力要請したと、次の記事が伝えている。
《燃料高騰 トラック運賃に適正転嫁要請》(NHK NEWS WEB/2013年5月29日 19時20分)
鶴保国交副大臣「中小企業が90%以上を占めるトラック運送業者が燃料費の上昇で大きな打撃を受けるのは、日本経済にとってもよくない。荷主とトラック運送事業者がきちんとした関係を築くことが大切だ」
国土交通省「規制緩和で過当競争が指摘されるトラック運送業界では荷主に対する立場が弱いため、燃料価格の上昇分を運賃に転嫁することが難しい」(解説を会話体に直す)
外国のことは知らないが、元請となる大企業がその優越的立場を利用して下請関係としている中小企業に対して不当な抑圧待遇を行うのは何も荷主となる大企業のトラック業界に対する不当な運賃統制に限らない歴史的文化となっている。いわゆる下請けイジメというやつである。
確かに正さなければならない抑圧待遇ではあるが、仮に政府の要請だからと荷主側企業が燃料価格上昇分を運賃に転嫁したとしても、実体経済が伴わなければ、応じた分、荷主側企業の負担となり、その負担は人件費等への皺寄せとなって現れる。
トラック業界にしても実体経済が伴わなければ、荷主企業から燃料費が適正に支払われるだけのことで終わる。不況に応じた少人数体制・賃金抑制体制が強いることとなっていたトラック運転手の長時間・低賃金労働が正されるわけではない。
要するに実体経済の回復を先に持ってくるのではなく、それを置き去りにしたまま異次元の金融緩和を先に持ってきて株高と円安を生み出し、その結果として燃料高騰を招いた。
実体経済が回復していない以上、荷主企業としても政府の要請だからと言って、積極的に応じるとは思えない。
このことは安倍晋三が率先して経団連に賃金上昇を求めたが、経団連が業績が改善した場合の一時金や賞与への反映には応じたが、ベースアップには難色を示した条件付き積極性が証明している。
太田昭宏国交相も4月18日に建設業界団体と都内で会談し、建設労働者の賃上げを要請している。2013年度から公共事業の工事費を算出する際の労務単価を全国平均で前年度比15%引き上げているが、実際の賃金に反映させていないからだという。
だが、これも実体経済次第であることは被災地の復興公共事業が証明している。
公共事業や民間土木・建設事業が過度に集中したために人手不足、資材不足を招き、そのことが人件費の高騰ばかりか資材価格の高騰へと繋がって、これらの事情が公共事業の場合、被災地の入札不調となって現れ、前年度比1.6倍に達していると2013年3月12日の「NHK NEWS WEB」は伝えている。
人手不足、資材不足、人件費の高騰、資材価格の高騰が復興の障害となって復興遅れの大きな要因となっているとしても、被災地の実体経済に応じた人件費・資材価格の趨勢ということであって、実体経済を無視して政府が介入して決める諸要素ではないということである。
建設業界団体が前年度比15%増の公共事業労務単価を土木作業員の人件費に反映させていないのも公共事業自体が減っていたことと不況が重なって、倒産する企業が続出、反映させにくい状況にあったからだろう。
となれば、反映のカンフル剤は政府の要請ではなく、実体経済の回復となる。
安倍晋三も今年の4月19日(2013年)、日本記者クラブで講演、実体経済を前提としない成長戦略を語っている。
「失業なき労働移動」と題した項目で――
安倍晋三「昨年末に政権が発足してからのわずか3カ月で、それまで低迷していた新規求人数は4万人増えました。一本目と二本目の矢は、確実に、新たな雇用という形でも、成果を生み出しつつあります。
雇用を増やしている成長産業に、成熟産業から、スムーズに『人材』をシフトしていく。『失業なき労働移動』は、成長戦略の一つです」――
そのために「労働移動支援助成金」の増額、成長産業と労働者のマッチングを円滑実施するための3カ月間のお試し雇用を支援する「トライアル雇用制度」の拡充を謳っている。
いわば成熟産業から成長産業への「失業なき労働移動」によってより速やかに経済の成長を加速させていくことを以って安倍内閣の「成長戦略」とするということなのだろうが、いくら成長産業であっても実体経済が伴わなければ、政府から労働移動支援助成金を受けたとしても人件費の確実な保証は長続きしないはずだから、成長産業を生かすのも殺すのも実体経済の回復が基本となるはずだ。
また実体経済が回復すれば、政府の要請を待たずとも、成長産業への労働移動は自ずと発生することを市場原理とするはずである。
要するに講演という形で「成熟産業から成長産業への『失業なき労働移動』」などと謳わなくても、実体経済の回復に焦点を絞ってその実現を最初に図りさえすれば解決する政府の責任であるはずである。
言い替えるなら、安倍晋三が直々に経団連に賃金アップを要請するとか、副大臣が荷主企業に燃料高騰分のトラック業界の運賃への適正な転嫁を要請するとか、太田国交相が建設業界団体に労務単価の人件費への反映を要請するとかは政府が実体経済の回復という役目を果たしたあとですべき責任行為であって、実体経済回復を先決の責任問題とせずに様々に要請を出すことは主客逆転させた責任行為に過ぎないということである。
安倍内閣が金融政策で株高・円安を実現できたとしても、実体経済の回復という点で責任を果たしていないからこそ、主客逆転させた的外れの責任行為に勤しまなければならないということなのだろう。
このようなアベノミクスのズレ・見当違いは多くの識者が指摘している。
橋下徹日本維新の会共同代表は自身の慰安婦発言を取り上げてマスコミが「橋下徹は慰安婦制度を必要とした」といった文脈で記事にしたことに対して「大誤報だ」と批判、マスコミが誤報ではないと逆批判すると、今度は「認識の違いだ」と言い出したという。
《「誤報」の主張「認識の違い」 慰安婦発言めぐり橋下氏》(asahi.com/2013年5月29日0時3分)
5月28日(2013年)の記者会見。
橋下徹「(報道機関との)認識の違いだから仕方ない。
僕は誤報だと感じている、っていうのも僕の認識として認めてもらいたい」
「J-CAST」記事によると、具体的には次のように述べている。
橋下徹「ここはだから、そちらが(ネガディブ)キャンペーンじゃないと言っても、そうだという風に思っているし、徹底的に慰安婦問題について取り組まれてきた朝日新聞ですから、こだわりもあるでしょうし…。毎日新聞は、いまだに色んな見出しをつけながら事の本質を論じない報道になっている。これはまぁ、ある意味、報道の自由として僕は認めると言っている訳ですから、僕が誤報だと感じているというのも、僕の認識として認めてもらいたい」――
要するにマスコミが誤報ではないと主張していて、橋下徹が誤報だとしていることはお互いの認識であって、その認識に違いがあるが、誤報だとする橋下徹の認識は認識として認めて貰いたいと言っている。
「J-CAST」記事も取り上げているが、橋下徹は日本外国特派員協会での釈明記者会見で「私の認識と見解」と題した一文を読み上げて、その中でも「誤報」だと言っている。
橋下徹「(第二次世界大戦中、各国の軍が女性の人権を蹂躙する問題が存在した)歴史的文脈において、『戦時においては』『世界各国の軍が』女性を必要としていたのではないかと発言したところ、『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報されてしまいました」――
上記「asahi.com」記事はそもそもの発端となった5月13日の橋下徹の発言を紹介することで、朝日記事が「橋下氏『慰安婦、必要だった』」云々と見出しをつけて発信したことが誤報なのかどうか、暗に読者に判断を求めている。
橋下徹「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、そんな猛者集団というか、精神的にも高ぶっている集団は、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる」――
これを軍や政府によって「当時は慰安婦制度を必要としていた歴史的事実があった」と解釈したとしても、「慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる」と言っていることの理解は橋下徹を先頭に置いたすべての人間を主語とした言葉である。
尤も「誰だって」は強調語であって、実際にはすべての人間を指すわけではないし、勝手に加えられたとしたら、多くの人間が迷惑と思うだろうが、橋下徹は慰安婦制度の必要性を、それを当時のこととしても、現在の自身も認めていることになるはずだ。
上記「asahi.com」記事は橋下徹の5月13日の記者会見発言には含めていないが、5月上旬に沖縄のアメリカ軍普天間基地を視察、司令官に海兵隊兵士の綱紀粛正、いわば性犯罪防止に風俗業の活用を進言したことまで記者会見で紹介しているが、進言している以上、当時の政府や軍が慰安婦制度を必要としていたという過去の時点に於ける歴史的事実であることにとどまらず、自身も慰安婦制度を必要と現在も認識していることから発した風俗業活用の進言であるはずである。
橋下徹「海兵隊の性的なエネルギーを解消するために、司令官に対して、『もっと風俗業を活用してほしい』と言ったら、司令官は凍りついて、『禁止している』と言っていた。法律の範囲内の風俗業は認めないと、建て前論ばかりでやっていたらだめだ」(NHK NEWS WEB)
当時の軍や政府が慰安婦制度を必要とする歴史的事実があった。しかし自分自身は慰安婦制度を認めているわけではないとしたなら、風俗業活用の進言といった発想は出てこない。
いわば、マスコミが橋下徹を主語に置いて「慰安婦制度必要だった」と見出しをつけようが記事を書こうがも、誤報でも何でもないことになる。
橋下徹は「(報道機関との)認識の違いだから仕方ない。僕は誤報だと感じている、っていうのも僕の認識として認めてもらいたい」と言っているが、大体が「誤報」を認識の違いとは言わない。
橋下徹も「僕の認識として認めてもらいたい」と言っているように、一般的には認識の違いは相互の認識を認識として相互に認め合う関係にあるが、誤報は誤報として相互に認め合う関係にはない。
いわば誤報を認識の違いで片付けることはできない。
誤報と言うからには相手の認識は間違いだと断罪しなければならない。認識の違いだと言ってはならない。
誤報を認識の違いで片付けることができたなら、誤報によって名誉を傷つけられたとしても、裁判に訴えることはできなくなる。断るまでもなく、認識の違いで片付けることができるようになるからだ。
橋下徹が「誤報」だとしたことを「認識の違い」に持っていったことは、「誤報」で押し通すことに自信を失ったからなのは明らかである。いわば自分自身が慰安婦制度を必要としていたことを認めざるを得なくなったが、認めるのは橋下徹としての自尊心が許さず、支持率や人気にも影響するから、なおしぶとく認識の違いで「誤報」を押し通そうとしているといったところなのだろう。
だとしても、マスコミ報道を「誤報」だと一旦は決めつけたことを「認識の違い」にすり替えるのは牽強付会そのものである。
「認識の違い」とせずに「誤報」で押し通してマスコミと遣り合えば、さらにボロを出すに違いない。
2013年2月7日の衆議院予算委員会でのやりとり。
遠藤利明自民党議員「教育再生、まさに安倍内閣の大きな柱の一つであります。これまでも、臨教審とかいろいろな形で、教育改革国民会議、安倍総理になってからの教育再生会議等、いろいろな議論がありました。
総理、戦後教育、日本の教育というのは、今でも世界最高水準です。自信を持っていいんです。ただ、やはり中国やあるいは韓国やシンガポール、どんどん追いついてきているなと。何か停滞している感じがします。その原因は何だと思われますか」
安倍晋三「大変難しい質問ではございますが、6年前に教育基本法を改正いたしました。この改正教育基本法において、目的をしっかりと書いたんですね。教育の目標を書きました。教育の目的と目標を書き込んでいきました。
この教育の目標、目的の中には、例えば道徳心を培っていくということを書いた。これは古い教育基本法には書いていなかったことであります。そして、日本の文化と伝統を尊重しということも書き込んだ。これも書いていなかったことですね。そして郷土愛、愛国心を書いたのであります。
それはつまり、子供たちに、君は何者なんだということをしっかりと教えていくということであります。戦後の教育の問題点があったとすれば、それがすぽっと実は抜け落ちていたということにもあるのではないかと思います」――
哲学的思考に無縁な粗雑な頭の持主が、「君は何者なんだ」と言う哲学的言辞を尤もらしげにに持ち出す。滑稽な限りだが、「戦後の教育の問題点」は、「君は何者なんだ」ということを教えることが抜けていたことだと言っている。
テストの成績を問う教育に支配された日本の学校教育界で一体どこで誰が、「君は何者なんだ」と問う教育を行なっていると言うのだろうか。
道徳心と日本の文化と伝統、郷土愛と愛国心を教えれば、それが可能だと言うのだろうか。
だが、安倍晋三は可能だと考えている。
当然児童・生徒たちは道徳心と日本の文化と伝統、郷土愛と愛国心を教え込まれて、“自分は何者なんだ”を知ることを答としなければならない。
問題は安倍晋三がそう言うとき、教える内容が安倍晋三が国家権力者の立場から望ましいと考えている「道徳心」と「日本の文化と伝統」、「郷土愛と愛国心」だということである。
自分が考えていない価値観を頭に置くはずはない。
例えば2013年3月15日、TPP交渉参加決定の記者会見を首相官邸で行なって、次のように発言している。
安倍晋三「最も大切な国益とは何か。日本には世界に誇るべき国柄があります。息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら五穀豊穣を祈る伝統があります。自助自立を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば村の人たちがみんなで助け合う農村文化。その中から生まれた世界に誇る国民皆保険制度を基礎とした社会保障制度。これらの国柄を私は断固として守ります」――
2013年5月17日の日本アカデメイアでの「成長戦略第2弾スピーチ」
安倍晋三「農業の素晴らしさは、成長産業というだけにはとどまりません。
棚田をはじめ中山間地域の農業は、田んぼの水をたたえることで、下流の洪水被害の防止など、多面的な機能を果たしており、単なる生産面での経済性だけで断じることはできない大きな価値を有しています。
そのため、このような多面的機能も評価した、新たな『直接支払制度』を創設することが必要と考えています。
息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統があります。
農業を中心とした、こうした日本の『国柄』は、世界に誇るべきものであり、断固として守っていくべきものです」云々――
「息を飲むほど美しい田園風景」、「朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」――「美しい田園風景」と「自助自立」の精神と伝統が「日本の『国柄』」だと言っている。
これが安倍晋三の日本の農村と日本の農村を中心とした日本という国に対する価値づけ、価値観となっている。こういった日本の農村の文化と日本の農村の伝統が中心となって、「日本の『国柄』」は成り立っているとしている。
このような考えは日本という国と日本人という人間は優秀だとする信念を基づかせている。ここには美しいばかりではない、素晴らしいばかりではないと合理的に判断する相対主義が存在しない。
それ故に一種の日本民族優越主義が潜んでいるとすることができる。
そして安倍晋三は自分自身が望ましいと考えるこういった価値観を教え込み、そのような価値観の理解に基づいて、「君は何者なんだ」と問い、児童・生徒に“自分は何者なんだ”ということを知らしめたい教育を理想として願っている。
だが、日本の農村が「息を飲むほど美しい田園風景」を常に描いていたとしても、「日本には、朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」が厳然として存在していたとしても、そこで生活をするすべての人間がそういった「美しい田園風景」、美しい「伝統」に対応した美しい生活を送っていたわけではない。あるいはそのような生活を送ることができているわけではない。
人間は「美しい田園風景」や美しい「伝統」に反して幸不幸、美醜、善悪、多用な姿を取る。
江戸時代、日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民に過酷な年貢を課す搾取の制度によって格差社会を構成していた。勿論、武士社会に於いても食える武士と満足に食えない武士との格差が存在する格差社会となっていたが、その格差社会は農村にも反映していて、土地持ちの百姓と土地を持たない、土地持ちの百姓から土地を借りて小作する満足に食えない百姓との格差社会を構成していた。
小作人にしても僅かな収穫の中から四公六民とか五公五民の過酷な年貢を年々支払わなければならない。年貢を支払うことのできない小作人が土地を捨て、「走り百姓」とか「走り者」となって江戸や大阪という大都会に食を求めて流れていくことが恒常的な風景となった。
だが、都会に出たからといって満足に職にありつくことができずに浮浪人化し、都市の治安悪化と農村の荒廃を招き、幕府は寛政の改革期には「旧里帰農令」、天保の改革では「人返しの法」を設けて帰村させる策を講じたが、「走り百姓」とか「走り者」と名づけた逃げ百姓はなくならなかったという。
この農村の食えない現象は人身売買からも証明できる。農村は売買する人身の一大供給地であり、女の子は主に遊郭に、男の子は商家の丁稚や職人の弟子として売られた。
この農村を一大供給地とする人身売買は明治・大正と続き、昭和になっても続き、戦後も一時期まで続いた。
2011年12月31日当ブログ記事――《江戸人の小柄な体・栄養失調・伝染病は北朝鮮と同様の特権階級(=武士)による統治の質の反映-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に武士階級が如何に搾取者の位置に立っていたか、次のように書いた。
〈「江戸時代においてはわが国民の8割以上が農民であった」彼らの「生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の1割ぐらいに相当する人々(武士)を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかったという」(『近世農民生活史』児玉幸多著・吉川弘文館)〉――
上位社会と下位社会は相互に反映し合う。豪農と貧農の格差を抱えた農村社会と食える武士と満足に食えない武士の格差を抱えた武士社会は年貢を核として相互に反映し合っていた。
当然、武士社会に於いても農村社会に於いても人間は美しいばかりではない、幸不幸、美醜、善悪、多用な姿を取ることになり、そういった人間の姿を反映させた武士社会の姿、農村社会の姿を描くことになる。
現在、格差社会と言っていることは経済的格差の状況や生活上の格差の状況に置かれた人間が無視できない状態で存在し、その姿を反映させて成り立っている社会であることを言うのと同じであろう。
現在の農村社会も高齢化、少子化、後継者不足、人口減少、耕作放棄地等々、「美しい田園風景」や「朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」だけでは解決できない幾多の問題を抱えている。
いわば美しいだけの農村ではない。
だが、安倍晋三は日本及び日本人を優秀だと見せる美しいだけの文化と伝統のみを切り取って、それを自らの価値観とし、そのような価値観を土台として与えた「君は何者なんだ」、“自分は何者なんだ”という安倍晋三自身が意図した“何者像”を形成させる教育を日本の教育にしようと希望している。
このような“何者像”は日本だけではなく、世界を含めて知り得た文化・伝統の中から自から考えて実像とするものを学び取って、自身がこうあるべきとした価値観の体現によって問うことになる人間像とは無縁である。
このような人間像の形成には自ずと相対化の力学が働く。思考や価値感の相対化が合理的判断能力の育成へとつながっていく。相対化のない、日本という国、日本人という人間を優秀だとする価値感を主として反映させて形成する“何者像”は合理的判断を介在させていない点で柔軟な思考性を欠きやすく、日本優越民族に彩られた思い込みや独断へと発展していきかねない。
安倍晋三の単細胞に満ちた美しいだけの日本、美しいだけの日本人で描く日本の美し文化と伝統を望ましい価値感としてインプとさせようとする「君は何者なんだ」と問う教育が如何に危険か、一歩間違うと日本民族優越主義へと足を踏み込みかねない危険性を書いた。
小賢しさしか感じ取ることができない。
橋下徹日本維新の会共同代表が昨日、5月27日(2013年)、日本外国特派員協会で自身の従軍慰安婦に関わる発言やその他について事前に公表した「私の認識と見解」と題した文書を読み上げて講演を行い、一部謝罪、一部弁明を行ったという。 「私の認識と見解」
文書の全文を「毎日jp」が記事にしている。《橋下徹氏:「私の認識と見解」 日本語版全文》(2013年05月26日)
橋下徹は基本的にはこの文書の内容に基づいて記者の質問に答えているだろうから、全体の発言は内容に大きく外れてはいないはずだ。但し文書には問題となっている河野談話についての言及がないが、マスコミの記事では取り上げているから、質問されて答えたのだろう。
沖縄の在日アメリカ軍司令官に兵士の綱紀粛正に風俗業活用を勧めたことは、「アメリカ軍のみならずアメリカ国民を侮辱することにも繋(つな)がる不適切な表現でしたので、この表現は撤回するとともにお詫び申し上げます」としている。
ここでは従軍慰安婦についてと「河野談話」について取り上げてみる。従軍慰安婦に関して、「慰安婦の利用を容認したことはこれまで一度もありません」と断言していることが橋下徹発言の事実に反しているからであり、「河野談話」が認めている日本軍による従軍慰安婦強制連行を否定しているからである。
先ず「私の認識と見解」から従軍慰安婦に関する個所を抜き取ってみる。
■いわゆる「慰安婦」問題に関する発言について
以上の私の理念に照らせば(前段で、「私は、疑問の余地なく、女性の尊厳を大切にしています」と言っている。)、第二次世界大戦前から大戦中にかけて、日本兵が「慰安婦」を利用したことは、女性の尊厳と人権を蹂躙(じゅうりん)する、決して許されないものであることはいうまでもありません。かつての日本兵が利用した慰安婦には、韓国・朝鮮の方々のみならず、多くの日本人も含まれていました。慰安婦の方々が被った苦痛、そして深く傷つけられた慰安婦の方々のお気持ちは、筆舌につくしがたいものであることを私は認識しております。
日本は過去の過ちを真摯(しんし)に反省し、慰安婦の方々には誠実な謝罪とお詫(わ)びを行うとともに、未来においてこのような悲劇を二度と繰り返さない決意をしなければなりません。
私は、女性の尊厳と人権を今日の世界の普遍的価値の一つとして重視しており、慰安婦の利用を容認したことはこれまで一度もありません。私の発言の一部が切り取られ、私の真意と正反対の意味を持った発言とする報道が世界中を駆け巡ったことは、極めて遺憾です。以下に、私の真意を改めて説明いたします。
かつて日本兵が女性の人権を蹂躙したことについては痛切に反省し、慰安婦の方々には謝罪しなければなりません。同様に、日本以外の少なからぬ国々の兵士も女性の人権を蹂躙した事実について、各国もまた真摯に向き合わなければならないと訴えたかったのです。あたかも日本だけに特有の問題であったかのように日本だけを非難し、日本以外の国々の兵士による女性の尊厳の蹂躙について口を閉ざすのはフェアな態度ではありませんし、女性の人権を尊重する世界をめざすために世界が直視しなければならない過去の過ちを葬り去ることになります。戦場の性の問題は、旧日本軍だけが抱えた問題ではありません。第二次世界大戦中のアメリカ軍、イギリス軍、フランス軍、ドイツ軍、旧ソ連軍その他の軍においても、そして朝鮮戦争やベトナム戦争における韓国軍においても、この問題は存在しました。
このような歴史的文脈において、「戦時においては」「世界各国の軍が」女性を必要としていたのではないかと発言したところ、「私自身が」必要と考える、「私が」容認していると誤報されてしまいました。
戦場において、世界各国の兵士が女性を性の対象として利用してきたことは厳然たる歴史的事実です。女性の人権を尊重する視点では公娼(こうしょう)、私娼(ししょう)、軍の関与の有無は関係ありません。性の対象として女性を利用する行為そのものが女性の尊厳を蹂躙する行為です。また、占領地や紛争地域における兵士による市民に対する強姦(ごうかん)が許されざる蛮行であることは言うまでもありません。
誤解しないで頂きたいのは、旧日本兵の慰安婦問題を相対化しようとか、ましてや正当化しようという意図は毛頭ありません。他国の兵士がどうであろうとも、旧日本兵による女性の尊厳の蹂躙が決して許されるものではないことに変わりありません。
私の発言の真意は、兵士による女性の尊厳の蹂躙の問題が旧日本軍のみに特有の問題であったかのように世界で報じられ、それが世界の常識と化すことによって、過去の歴史のみならず今日においても根絶されていない兵士による女性の尊厳の蹂躙の問題の真実に光が当たらないことは、日本のみならず世界にとってプラスにならない、という一点であります。私が言いたかったことは、日本は自らの過去の過ちを直視し、決して正当化してはならないことを大前提としつつ、世界各国もsex slaves、sex slaveryというレッテルを貼って日本だけを非難することで終わってはならないということです。
もし、日本だけが非難される理由が、戦時中、国家の意思として女性を拉致した、国家の意思として女性を売買したということにあるのであれば、それは事実と異なります。
過去、そして現在の兵士による女性の尊厳の蹂躙について、良識ある諸国民の中から声が挙がることを期待するものでありますが、日本人が声を挙げてはいけない理由はないと思います。日本人は、旧日本兵が慰安婦を利用したことを直視し、真摯に反省、謝罪すべき立場にあるがゆえに、今日も根絶されていない兵士による女性の尊厳の蹂躙の問題に立ち向かう責務があり、同じ問題を抱える諸国民と共により良い未来に向かわなければなりません。
21世紀の今日、女性の尊厳と人権は、世界各国が共有する普遍的価値の一つとして、確固たる位置を得るに至っています。これは、人類が達成した大きな進歩であります。しかし、現実の世界において、兵士による女性の尊厳の蹂躙が根絶されたわけではありません。私は、未来に向けて、女性の人権を尊重する世界をめざしていきたい。しかし、未来を語るには、過去そして現在を直視しなければなりません。日本を含む世界各国は、過去の戦地において自国兵士が行った女性に対する人権蹂躙行為を直視し、世界の諸国と諸国民が共に手を携え、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう決意するとともに、今日の世界各地の紛争地域において危機に瀕(ひん)する女性の尊厳を守るために取り組み、未来に向けて女性の人権が尊重される世界を作っていくべきだと考えます。
日本は過去の過ちを直視し、徹底して反省しなければなりません。正当化は許されません。それを大前提とした上で、世界各国も、戦場の性の問題について、自らの問題として過去を直視してもらいたいのです。本年4月にはロンドンにおいてG8外相会合が「紛争下の性的暴力防止に関する閣僚宣言」に合意しました。この成果を基盤として、6月に英国北アイルランドのロック・アーンで開催予定のG8サミットが、旧日本兵を含む世界各国の兵士が性の対象として女性をどのように利用していたのかを検証し、過去の過ちを直視し反省するとともに、理想の未来をめざして、今日の問題解決に協働して取り組む場となることを期待します。
「女性の尊厳と人権」を何度でも言っている。「第二次世界大戦前から大戦中にかけて、日本兵が『慰安婦』を利用したことは、女性の尊厳と人権を蹂躙(じゅうりん)する、決して許されないものであることはいうまでもありません」と言い、「私は、女性の尊厳と人権を今日の世界の普遍的価値の一つとして重視しており、慰安婦の利用を容認したことはこれまで一度もありません」と言い、「日本兵が女性の人権を蹂躙したことについては痛切に反省し、慰安婦の方々には謝罪しなければなりません」と言い、第二次世界大戦中、各国の軍が女性の人権を蹂躙する問題が存在した、「このような歴史的文脈において、『戦時においては』『世界各国の軍が』女性を必要としていたのではないかと発言したところ、『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報されてしまいました」と言い、「戦場において、世界各国の兵士が女性を性の対象として利用してきたことは厳然たる歴史的事実です。女性の人権を尊重する視点では公娼(こうしょう)、私娼(ししょう)、軍の関与の有無は関係ありません。性の対象として女性を利用する行為そのものが女性の尊厳を蹂躙する行為です。また、占領地や紛争地域における兵士による市民に対する強姦(ごうかん)が許されざる蛮行であることは言うまでもありません」と言い、自らが思想としている「女性の尊厳と人権」という観点から軍が女性を性の対象とすることへの強い忌避感を示し、「私は、未来に向けて、女性の人権を尊重する世界をめざしていきたい」と言っている。 《慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話》(外務省HP/1993年8月4日)
当然のことだが、批判を浴びることとなったそもそもの発端となった5月13日の発言が「女性の尊厳と人権」に裏打ちされた言葉によって成り立たせていてこそ、以上の主張は正当化される。
橋下徹「当時の歴史を調べてみれば、日本だけではなく、いろんな国で慰安婦制度が活用されていたことが分かる。銃弾が雨嵐のごとく飛びかう中で、命をかけて走り、精神的に高ぶっている集団を休息させようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる。
日本は、無理やり強制的に女性を拉致して慰安婦の職業につかせたと批判されているが、違うことは違うと言っていかなければいけない。日本政府が暴行脅迫したというのは、証拠に裏付けられていない。意に反して慰安婦になってしまった方は戦争の悲劇でもあり、戦争の責任は日本にもあるのだから、慰安婦の方の心情を理解して、やさしく配慮することが必要だ」(NHK NEWS WEB)――
「意に反して慰安婦」とされた女性に対してはその「心情を理解して、やさしく配慮することが必要だ」とは言っているが、そういった女性の境遇に対する同情であって、「女性の尊厳と人権」という観点からの理解とはなっていない。
そのような理解ではないことは、「銃弾が雨嵐のごとく飛びかう中で、命をかけて走り、精神的に高ぶっている集団を休息させようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる」と言っていること自体が証明している。
兵士という男性を主体に置き、慰安婦という女性を従に置いた、言ってみれば軍や兵士だけのことを考えて、女性のことは何も考えない、「女性の尊厳と人権」は一顧だにしない発想で成り立たせた発言でしかない。
だが、日本外国特派員協会での講演では、「女性の尊厳と人権」を前面に打ち出している。要するに後付けの「女性の尊厳と人権」思想でしかないということであろう。
大体が、「銃弾が雨嵐のごとく飛びかう中で、命をかけて走り、精神的に高ぶっている集団を休息させようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる」と言っていること自体が慰安婦制度利用の必要性への言及であって、「慰安婦の利用を容認したことはこれまで一度もありません」と言っていることとは相矛盾する。後付けの弁解であるばかりか、弁解自体をウソとする。
果たして自分のこれまでの発言を振り返って「私の認識と見解」を成り立たせたのか、疑わしい。
5月13日の発言では、「日本は、無理やり強制的に女性を拉致して慰安婦の職業につかせたと批判されているが、違うことは違うと言っていかなければいけない。日本政府が暴行脅迫したというのは、証拠に裏付けられていない」と断言して、結果的に慰安婦の強制連行を認めている「河野談話」を証拠文書が存在しないことを根拠にして否定、日本兵の従軍慰安婦利用に免罪符を与えているのに対して日本外国特派員協会では、「女性の人権を尊重する視点では公娼(こうしょう)、私娼(ししょう)、軍の関与の有無は関係ありません」と、軍の関与があろうとなかろうと関係なしに女性を性の対象とすることは「女性の尊厳と人権」に反する行為だと、一旦は与えた免罪符を取り上げていることも発言に整合性を欠いていて、単に自分をいい子に見せる取り繕いにしか見えない。
兵士が相手が公娼であろうと私娼であろうと個人的に女性を性の対象とすること自体を女性の尊厳と人権を蹂躙する行為だと位置づけるなら、いわば女性の尊厳と人権に対する悪質な行為だと把えるなら、軍の関与となれば、組織的であるという点に於いて当然、その蹂躙は個人的な蹂躙の比ではない悪質さと重大さを増す。
だが、橋下徹は「軍の関与の有無は関係ありません」と、蹂躙の悪質さと重大さを無視している。この無視は女性の尊厳と人権の無視に相当する。無視できること自体、女性の尊厳と人権の思想がツケ焼刃であることを物語っているはずだ。
もし従軍慰安婦の多くが日本軍関与の強制連行であるなら、日本軍自体が女性の尊厳と人権を蹂躙どころか、抹殺する行為を行ったことになる。女性の人間性を抹殺することができるからこそ、強制連行を企てることができる。
河野談話は強制連行を認めている。
(一部分抜粋)
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
橋下徹は5月13日の発言では「日本政府が暴行脅迫したというのは、証拠に裏付けられていない」として強制連行を否定している。日本外国特派員協会での「河野談話」に関わる発言を、《橋下氏 風俗業活用発言を撤回し謝罪》(NHK NEWS WEB/2013年5月27日 15時35分)から見てみる。 フジテレビ「新報道2001」(2013年5月26日)
橋下徹「政府は平成19年に、国家の意思として女性を拉致したことはなかったという見解を出しているが、この核心的論点について河野談話は逃げている。これが日韓関係が改善しない最大の理由だと思うので、河野談話であいまいになっている点を明確化すべきだ」――
「平成19年」の見解とは安倍内閣が辻元清美の質問主意書に対する政府答弁書で、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と従軍慰安婦の強制連行を否定したことを指していて、河野談話が閣議決定していないのに対して安倍内閣政府答弁書は閣議決定を経ているゆえにこのことを根拠として安倍晋三とその一派が閣議決定の時点で河野談話を見直していると解釈している。
その一方で安倍内閣は公には「河野談話」を継承すると欺瞞を働かせている。いわば表向きの顔と内向きの顔を使い分けるマヤカシを行なっている。
橋下徹自身は5月13日の発言で河野談話が認めている従軍慰安婦の強制連行を完全否定していながら、日本外国特派員協会では「河野談話」は「核心的論点」である強制連行について「逃げている」、「あいまいになっている」と完全否定を撤回、不明確な取り扱いになっていると、その責任に触れている。
だから、「明確化すべきだ」と。
だが、河野談話は、「軍の要請を受けた業者」が「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と、官憲の「加担」の中に業者による「甘言、強圧」を含めていて、その強制連行を明確に認めている。
橋下徹自身がどう「明確化すべきだ」と言っているのか、5月27日日本外国特派員協会講演の前日の5月26日、出演したテレビで喋っている。
橋下徹「僕はやっぱり一番の問題点は自民党がね、あの、歴史の問題になると、曖昧にするんですよ。選挙の前を考えてね、えー、そこをきちっと明確化しない。
だって、今の自民党の政権の中でですよ、河野談話を見直したとかね、おかしいってことを声高に叫んでいた人が一杯いるんですよ。
今、こういった問題になったら、みんなダンマリを決め込んでしまって、僕は河野談話については否定しません。で、また、修正という言葉も問題だと思っています。僕は明確化なんです。何が一番問題かと言うと、1993年の河野談話で、あそこに書かれている事実は多分そうなんでしょう。
ただ、ホントーに明確化しなければならなかったのは、その当時、韓国サイドの方から言われていたのは、国家の意思として強制連行があったのか、どうかなんです。
国家の意思として拉致があったのか、人身売買があったのか。北朝鮮がやったような拉致をね、国家がやったのかどうなのかってところが争点になった。
そこをスパーンと落としてね、曖昧な河野談話を作った。
あそこに書いてあることは事実なんでしょう。しかし一番論点になっているところを落とし、そこで第1次安倍内閣の2007年の閣議決定でね、今度は直接、そのね、強制連行を裏付けるような文献的な資料はなかったってことで、もう、このね、日本の、その意思って言うものをグジャグジャにしてしまっている。
これ、自民党なんですよ。
ただ、ここはね、明確してくださいって言ってるのに、もう、自民党はだーんまりですよ、選挙のことを考えて――」
ここにもゴマ化しがある。5月13日の発言では、「日本政府が暴行脅迫したというのは、証拠に裏付けられていない」と証拠文書の存在していないことを以って「国家の意思」を自ら否定していながら、強制連行があったのかなかったのか「河野談話」が曖昧にしたために「強制連行を裏付けるような文献的な資料はなかったってこと」を言い出したのは「第1次安倍内閣の2007年の閣議決定で」あって、そのことによって「河野談話」が強制連行を含めて世界に示した「日本の、その意思って言うものをグジャグジャにしてしまっ」たと、安倍内閣、もしくは自民党に責任を転嫁している。
だから、どっちなんだと「明確化」を求めているのだと。
要するに自己正当化のために発言をコロコロと変えているに過ぎない。
この信用のなさは従軍慰安婦強制連行の証拠文書が存在するしない以前の橋下徹自身の人間性の問題であり、その信用のなさは安倍晋三の人間性と優劣つけがたいのではないか。
「国家の意思」とは何か。例え大本営が直接的に認めたことではなくても、軍全体として暗黙的な慣習として容認していたなら、国家の意思に相当する。慰安所の戦地全体に亘る、あるいは占領地全体に亘る広範囲な設置とその数の多さが証明する。そして従軍慰安婦の募集に直接軍が関わっていた事例が残されているし、募集した慰安婦の移送に軍のトラックを使用している。
戦争中旧日本海軍の主計官だった中曽根康弘元首相がインドネシアで兵士が現地人女性を襲ったり博打に耽る者が出たからと言って慰安所を作ったと自らの著書で明らかにしているが、独断行為として設置できるはずはなく、部隊上層部の承認を得ていたとしても、軍全体の暗黙的な慣習(=国家の意思)に対応した行為だからこそ、部隊としても承認可能とした慰安所設置だったはずだ。
「国家の意思」が強制連行にまで踏み込んで関わっていたかどうかが問題となる。
証拠文書が残されていないからと言って、強制連行が存在しなかったことと同じ事実とすることはできない。
無条件降伏を受け入れるに当たってポツダム宣言が求めていた戦争犯罪人に対する厳重な処罰を逃れるために1945年8月15日に閣議決定した「重要文書類焼却」の通達を受けて、特に従軍慰安婦に関わるメモをも含めた書類は各部隊共焼却を徹底させたはずだ。
いわば日本軍や日本軍兵士に都合の悪い文書類の抹消を最後の重要な役目とした。
あるいは職業としていない一般女性を人狩りのように狩り立てて従軍慰安婦に仕立てる強制連行は軍の名誉に関わる恥行為として書類による指示を避けて、常に口頭で行ったことも十分に考えることができる。
1945年8月15日閣議決定の「重要文書類焼却」の通達に触れずに証拠文書が存在しないからと「国家の意思」による強制連行への関与の事実まで否定できると考えるのは公平性を欠く。
ミャンマー訪問中の安倍晋三が5月25日、拉致問題について日本テレビの単独インタビューに応じている。《日朝首脳会談、拉致全面解決が条件~首相》(日テレNEWS24/2013年5月26日 1:10)
北朝鮮の金正恩第1書記との拉致解決に向けた首脳会談の可能性について。
安倍晋三「首脳会談のような重要な外交的決断をする上においては、しっかりと結論が出ると、拉致問題についても、もちろん、核問題やミサイル問題も、ある程度の展望があるということでなければ、そもそも行うべきではないと思っている」
記者「拉致問題で展望が開けそうであれば自ら北朝鮮を訪れることもあるのか」
安倍晋三「話し合うための話し合いは意味がない。金第1書記との首脳会談を行うとすれば、会談で拉致問題の全面解決という結論が得られることが条件となる」
記者「核・ミサイル問題と切り離して拉致問題の解決を先行させる可能性は」
安倍晋三「平壌宣言にあるとおり、拉致・核・ミサイル問題を包括的に解決して日朝関係を正常化するという基本線を変えるつもりはない」――
一部解説を会話体に直す。
これが一国の首相でございますと言える程の外交センスというものなのだろうか。「首脳会談のような重要な外交的決断をする上においては、しっかりと結論が出ると、拉致問題についても、もちろん、核問題やミサイル問題も、ある程度の展望があるということでなければ、そもそも行うべきではないと思っている」と言っている。
「結論が出る」状況、「ある程度の展望がある」という状況をつくり出すのが自らの支配下に置いた外交集団の役目であり、外交集団がそのような状況をつくり出すことができるかどうかは偏に彼らに対する一国の首相の外交上の創造性と主導性の発揮如何にかかっているはずである。
いわば待ってつくることができる状況ではないはずだが、発言は状況が熟すのを待つニュアンスとなっている。これでは何のために一国の首相の座についているのか意味を失う。何のために国民の生命・財産を守ると言っているのか、その言葉の力を疑う。
外国に拉致されている国民の生命・財産を守るについては国内に於けると同じように自身の方から守る策を講じなければならないはずだ。
当然、自らの外交上の創造性と主導性の発揮に恃(たの)まなければならないはずだが、発言からは、情けない限りだが、力強い創造性と主導性は一切窺うことができない。
大体が安倍晋三はそういった状況をつくり出すために指示して飯島参与を訪朝させたはずだ。だが、失敗してつくり出すことができなかった。
その結論が、安倍晋三は盛んに再チャレンジという言葉を使うが、解決の結論と展望を望むことができなければ首脳会談はできない、行うべきではないと、常々言っている再チャレンジの精神とは正反対の状況を待つ姿勢に転じた。飯島訪朝が失敗したために羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く類いの消極性への転進としか言い様がない。
何というい外交センスなのだろうか。一国のリーダーが担うべき国家運営の創造性と主導性の放棄でしかない。
いずれにしても安倍晋三は首脳会談開催の条件として解決に向けた結論と展望の可能性を条件とした。記者はこのことに応じたはずだ。「拉致問題で展望が開けそうであれば自ら北朝鮮を訪れることもあるのか」と展望の可能性を条件とした場合の結論を得るべき訪朝の可能性を質した。
そうである以上、直ちに「勿論」と答えるべきを、いわば結論と展望の可能性を前にして「話し合うための話し合いは意味がない」などと、記者が提示した可能性とは無関係な意味不明の全く以ってトンチンカンな、カッコーをつけるだけのことを言っている。
この頭の程度も凄い。
そしてやはり、「金第1書記との首脳会談を行うとすれば、会談で拉致問題の全面解決という結論が得られることが条件となる」と、自らの外交上の創造性と主導性に賭けて外交集団を駆使し、そういった状況を招き寄せるべく努めるのではなく、自分が望む状況が熟すのを待つニュアンスの、一国のリーダーにあるまじき消極的な姿勢を示している。
飯島訪朝の失敗は余程の羹となったようだが、同時に安倍晋三の外交センスの低劣性を世に曝すこととなった。
辻元清美民主党衆院議員が「安倍内閣は河野談話を継承するのか否か」の質問主意書を安倍内閣に提出、安倍内閣が継承するとの答弁書を決定したという5月25日の新聞報道を見て、一覧が出ている「衆議院質問主意書・答弁書」のページにアクセスしてみたが、「経過情報」の項目に「質問主意書提出年月日 平成25年 5月16日」、「内閣転送年月日 平成25年 5月20日」と記載されているのみで、質問主意書も答弁書も未だ記載されていない。
これは例の如くのことで、新聞報道後、何日間か経過しないと閲覧できない。情報時代に相応しいスピードなのだろう。
そこで試しに辻元清美のオフィシャルサイトにアクセスしてみたら、《慰安婦問題に関する一連の閣議決定について<報道資料>》と題して記載されていた。安倍内閣として「河野談話を継承しているか否か」に関する個所のみ抜粋してみる。
全体についてはアクセスして頂きたい。
〈問い四 安倍総理は現時点で、1993年8月4日の内閣官房長官談話(いわゆる「河野談話」)を継承しているか。今後も「河野談話」を継承するか。
答 先の答弁書(=辻元清美が出した質問主意書に対する平成19年3月16日の答弁書)三の2についてでお答えした政府の基本的立場と同じである。
→(辻元清美の解説)政府の基本的立場は、官房長官談話を継承している。〉――
新聞報道(時事ドットコム)の解説をそのまま借用してどういうことなのか記すと、〈第1次安倍内閣当時の2007年に「政府の基本的立場は、官房長官談話を継承している」とする答弁書を決めており、今回は「先(07年)の答弁書で答えた政府の基本的立場と同じ」とした。〉ということになる。
この答弁書決定に対して辻元自身が同じページで自らの感想を述べている。
〈私の質問主意書に対し、安倍政権がついに「河野談話を継承する」と閣議決定しました(2013年5月24日更新 )
私が提出した質問主意書に対する答弁書が本日閣議決定されました。
安倍首相が、現在、河野談話を継承しているかを問うた質問主意書に対し、その内容は、
「政府の基本的立場は、官房長官談話を継承している」
というものでした。第二次安倍政権ではじめて、「河野談話を継承する」と閣議決定したのです。〉――
要するに決定を歓迎している。
この歓迎の気持は上記「時事ドットコム」記事が紹介している5月24日記者会見の辻元の発言にも現れている。
辻元清美「継承していることがはっきりした意義は大きい」
無防備・単細胞な喜びとしか言いようがない。
2007年の辻元清美の質問主意書に対する第1次安倍内閣政府答弁書は、河野談話は〈調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。〉と、証拠不十分の嫌疑をかけて談話の有効性に疑問符をつけた上で、〈閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである。〉と、非公式の談話ではあるが歴代内閣が継承しているからという理由づけで、〈政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない。〉と、安倍第1次内閣も継承する、但し閣議決定して、政府公式の談話とするつもりはない、あくまでも非公式の位置づけにとどめておくというものである。
要するに河野談話に疑義を呈しつつ形式的な継承を謳ったに過ぎない。
そのような継承と現安倍内閣の基本的立場は同じだとしたのである。河野談話に対する疑義も変わらない、形式的継承も変わらないという内容だということであろう。
こういった姿勢を堅持しているからこそ、第1次安倍内閣で、〈政府の基本的立場は、官房長官談話を継承している〉としていながら、それが形式に過ぎないから、〈軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述〉が見当たらない証拠不十分を根拠に安倍晋三の河野談話見直しの熱意が消えることなく頭をもたげさせることになっているはずである。
辻元清美のように「継承していることがはっきりした意義は大きい」などと単純に歓迎を示していいものではないはずだ。
2013年2月7日の衆院予算委で安倍晋三は自らの河野談話観を述べている。そこには辻元清美も出席していた。
前原誠司民主党議員「去年の9月12日、自民党総裁選挙立候補表明。(従軍慰安婦の募集に)強制性があったという誤解を解くべく、新たな談話を出す必要があると御自身がおっしゃっている。菅さん(官房長官)がおっしゃっているんじゃない、御自身が総裁選挙でおっしゃっている。総裁になれば政権交代で総理になる、そういう心構えで総裁選挙に出た総理がおっしゃっている、御自身が。
そして、討論会、9月16日。河野洋平官房長官談話によって、強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている、安倍政権のときに強制性はなかったという閣議決定をしたが、多くの人たちは知らない、河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある、孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない。総裁選挙の討論会でおっしゃっている。これは御自身の発言ですよね」
安倍晋三「ただいま前原議員が紹介された発言は全て私の発言であります。そして、今の立場として、私は日本国の総理大臣であります。私の発言そのものが、事実とは別の観点から政治問題化、外交問題化をしていくということも当然配慮していくべきだろうと思います。それが国家を担う者の責任なんだろうと私は思います」
第1次安倍内閣で政府として河野談話を継承するとしながら、自身は孫の代までの不名誉だと信念する程に河野談話の内容の有効性に疑義を持ち、その見直しに熱意を持ち続けている。
だが、政治問題化・外交問題化を避ける観点から、見直しへの直接行動は控えるといったところなのだろう。
見直しの機会は国内世論ばかりか国際世論の手前、なかなか訪れはしないだろうが、歴史認識に関わる世論の関心が鎮まった頃に河野談話の有効性の疑義、見直しの必要性を世に知らしめるために安倍晋三はその二つを持ち出すに違いない。
河野談話の通念的公式化を恐れ、その非公式性を訴えるために。
要するに安倍晋三は実体は狼の如くに河野談話の見直しに虎視眈々としていながら、基本的に継承すると見せかける羊の姿を装っているに過ぎない。
従軍慰安婦の軍・官憲による強制連行を否定する勢力は強制連行を示す文書等の直接的な証拠資料の不在を根拠としている。
橋下徹然り。
2012年8月24日記者会見。
橋下徹「河野談話は閣議決定されていませんよ。それは河野談話は、談話なんですから。だから、日本政府が、日本の内閣が正式に決定したのは、この2007年の閣議決定だった安倍内閣のときの閣議決定であって、この閣議決定は慰安婦の強制連行の事実は、直接裏付けられていないという閣議決定が日本政府の決定です」
この発言を受けた安倍晋三の2012年8月27日午後の産経新聞のインタビュー
安倍晋三「橋下さんは慰安婦問題についても河野談話を批判した。強制連行を示す資料、証拠はなかったと言った。私は大変勇気ある発言だと高く評価している。彼はその発言の根拠として、安倍内閣での閣議決定を引用した。戦いにおける同志だと認識している」
だとしても、日本軍が業者と一体となって慰安婦募集やその移動に関与していた資料が残されている。この関与が軍直接のケースもあるが、業者を介したもので、直接的な強制性を持たなくても、日本軍及び日本軍兵士自体が持つ威圧性や強圧性を業者が代弁し、慰安婦の意思に反した連行を行った場合、強制連行の範疇に入れなければならないことと、1945年8月14日の御前会議でのポツダム宣言無条件受諾決定を受けて、同8月14日、政府・軍の重要文書類の焼却を閣議決定、内外の日本軍にも通達し、連合国軍進駐までに実施を徹底させたことを受けて、慰安婦の強制連行を証拠づける文書やメモ等が存在したとしても、特に戦争犯罪性が高く、戦争犯罪人とされることを回避するために焼却の最優先対象としただろうことを根拠に具体的な証拠資料が存在しなかったからといって軍・官憲による慰安婦の強制連行は存在しなかったとすることはできないと主張してきた。
今回、異なる事例を提示して、強制連行を示す文書等の直接的な証拠資料がないからといって従軍慰安婦の軍・官憲による強制連行はなかったとすることはできないということを根拠づけたいと思う。
韓国の中央日報記者が、広島と長崎への原爆投下を人間の手を借りた神の懲罰だとする趣旨の記事を書いて批判が起きたが、その中で安倍晋三が5月12日に被災地の航空自衛隊松島基地(宮城県東松島市)を訪れ、T4練習機の操縦席に乗り込んで右手の親指を立てて得意気に笑みを浮かべたポーズを取ったが、その機体が「731」と番号が打ってあったことを取り上げて、人体実験を行った731部隊(正式名:関東軍防疫給水部本部)に引っ掛け、原爆投下は「特に731部隊の生体実験に動員された丸太(死者)の復讐であった」と書いている。
安倍晋三が731部隊と同じ数字の機体に搭乗したのは偶然の一致に過ぎないだろうが、うろ覚えに記憶している731部隊の人体実験を詳しく知りたいと思ってインターネットで調べてみた。
「Wikipedia」取り上げているので、覗いてみると、〈人体実験]や(生物兵器の)実戦テストを行っていたという意見もあるが、実際の文書の形での記録証拠は現在までのところ発見されていない。〉と、従軍慰安婦の強制連行を証拠立てる直接的な証拠文書と同じ扱いになっている。
その一方で、731初代部隊長の石井四郎陸軍軍医中将が、〈再度のGHQ内のアメリカ人による尋問に対し、「人体実験の資料はなくなった」と主張。〉とか、〈731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」〉と書いてある。
ところが、2007年1月12日公開の米国立公文書館対日機密文書の731部隊に関するページには人体実験及び生物兵器の実践使用と実戦テストの言及はなかったという。上記「Wikipedia」の〈人体実験]や(生物兵器の)実戦テストを行っていたという意見もあるが、実際の文書の形での記録証拠は現在までのところ発見されていない。〉としていることは対日機密文書の扱いに対応した言及なのだろうか。
だが、米国立公文書館公開の文書に人体実験への言及が存在しないことを以ってその実態が存在しないとすることができないことはソ連が戦後行った731部隊兵士に対する「細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴したハバロフスク裁判での証言が証拠立ててくれる。
《731部隊 ハバロフスク裁判公判書類 証言》(真実を知りたい/2008/07/07)から引用すると、
〈生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験
元満州国軍憲兵団日本人顧問証人橘猛男ハ、次ノ如ク供述シタ──
「……被訊問者ノ中ニハ、私ガ担任シテイタ憲兵隊本部特高課関係デ処置サレルベキ部類ノ者ガアッタ。此ノ部類ニ該当シタ者ハ、パルチザン、在満日本当局ニ対シ極度ニ反感ヲ有スル者等デアッタ。斯ル囚ニ対シテハ、私達ハ、コレヲ処置スベク第731細菌戦部隊ニ送致シタ故、裁判手続ハ行ワナカッタ……」〉という記述、〈他ノ証人、元哈爾濱(ハルピン)憲兵隊長木村ハ、本人立会ノ下ニ、第731部隊長石井中将ガ哈爾濱(ハルピン)憲兵隊長春日馨トノ談話ニ於テ、今後モ、従来通リノ方法デノ「実験」用ノ被検挙人ヲ受領シ得ルコトヲ確信スル旨言明シタコトヲ訊問ニ於テ確認シタ。〉――
明らかに人体実験のために生きた人間を受領していると証言しているのだが、従軍慰安婦の強制連行に関してもそうだが、731部隊の人体実験を認めまいとする意志が強過ぎてなのか、この裁判の証言までも捏造に貶め、731部隊の人体実験を扱った森村誠一の『悪魔の飽食』までも捏造本だとする説がインターネット上に流布している。
だが、1945年8月14日閣議決定による政府・軍の重要文書類の焼却の命令は関東軍の各部隊にも通達されなかったはずはなく、各部隊は通達を受けて、既にポツダム宣言が連合軍の俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加えると宣言していたこととと併せて誰もが戦争犯罪人として訴追されることを恐れただろうから、証拠隠滅の重要文書焼却に過剰反応したことは想像に難くない。
そのような過剰反応の結果としての、人体実験や生物兵器に関係する〈実際の文書の形での記録証拠は現在までのところ発見されていない〉ということであったとしても、十分に整合性をつけることが可能となる。
直接的な証拠資料の不在を根拠として従軍慰安婦の強制連行はなかったとか、731部隊の人体実験は捏造だとかは決して言えないということである。
5月23日(2013年)の当ブログ記事――《安倍晋三の「日朝協議再開検討」は飯島訪朝が失敗に終わったことを失敗とは言えないための取り繕い - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、その後の安倍晋三や菅官房長官、飯島本人の発言からも飯島訪朝の完全失敗を裏付けることができ、発言の殆どが完全失敗隠蔽を取り繕うウソとなっていて、ウソにウソを塗り重ねるウソが続けることになっている
《首相 日本側の意思第1書記に伝わった》(NHK NEWS WEB/2013年5月23日 12時18分)
5月23日の参議院内閣委員会。北朝鮮が飯島内閣官房参与の訪問をマスコミ報道したことについて。
安倍晋三「北朝鮮側が公表することも十分に可能性があるだろうということは、当然、計算に入っていた。
報道されたことが悪いということではなく、飯島氏がナンバー2のキム・ヨンナム最高人民会議常任委員長に会っている以上、当然、こちらが何を話したかということは、キム・ジョンウン第1書記には伝えられることになるのは間違いない。
(米韓に訪問の事前連絡しなかったことについて)拉致問題は簡単にはいかない。日本が主導的にこの問題を解決しなければ、アメリカがやってくれるわけではない。アメリカに、ただついていけば解決してもらえるという問題ではない」――
「北朝鮮側が公表することも十分に可能性があるだろうということは、当然、計算に入っていた」とウソをついている。
だったら、なぜ米韓に事前に連絡しなかったのか。公表の十分な可能性を危機管理として想定していたなら、その危機管理は公表された場合の備えとして米韓に前以て連絡して置くことをスケジュールに入れておかなければ整合性がつかないことになる。
だが、実際には公表されてから、米韓に説明を求められて説明する後手の危機管理となっている。
秘密は完全に守ることができるを危機管理上想定できたときにのみ、事前連絡を省くことができ、秘密外交は推進可能となる。
にも関わらず、安倍晋三は公表された場合の備えとしての米韓への事前連絡を省きながら、「公表の可能性は計算に入っていた」と、矛盾した発言をしている。
この矛盾を解くには「公表の可能性は計算に入っていた」は自らの秘密外交失敗を隠蔽して正当化するためのウソと見なければならない。
また、安倍晋三の「公表の可能性は計算に入っていた」は飯島が平壌空港に降り立った瞬間に北朝鮮国営メディアによって公表されたことを念頭に置いた発言だから、初っ端からの露見に疑問を置かず、当然視していたことになる。
当然視していたことが早々の露見ではなくても、飯島訪朝中に於ける遅かれ早かれの露見の可能性を当然視していたなら、いわば訪問している間を通して秘密を守ることはできない可能性を覚悟していたなら、秘密外交は成り立たないことまで計算に入れていなければならなかったはずだ。
では、なぜ国民に公表してから飯島を北朝鮮に派遣しなかったのだろうか。
飯島北朝鮮派遣を国民に知らせずに秘密外交としながら、「公表の可能性は計算に入っていた」と矛盾したことを平気で言うことができるのは「公表の可能性は計算に入っていた」をウソだとしなければその矛盾を解くことはできない。
「報道されたことが悪いということではなく、飯島氏がナンバー2のキム・ヨンナム最高人民会議常任委員長に会っている以上、当然、こちらが何を話したかということは、キム・ジョンウン第1書記には伝えられることになるのは間違いない」と言って飯島訪朝を正当化しているが、この正当化は飯島を訪朝させた自身の判断の正当化でもあるが、同時に「伝えられること」を飯島訪朝の成果としていることになる。
お粗末な成果としか言いようがないが、実際には秘密外交であったはずが報道された上に「キム・ジョンウン第1書記には伝えられることになるのは間違いない」と予想したのみで、確認したわけではなく、確認は金正恩からの何らかの回答を得て初めてできることだから、金正恩から何らかの回答を得る成果がないままに帰国したことを成果とする倒錯を口にしているに過ぎない。
どのような回答も得ない秘密外交が秘密外交でなくなった訪朝とは完全な失敗であったことの証明以外の何ものでもない。上記安倍発言は自分では気づかないままに飯島訪朝に関わる自らの判断を正当化しながら、失敗だったことを自ら公表したのである。
米韓に事前連絡をしなかったことについて、「拉致問題は簡単にはいかない。日本が主導的にこの問題を解決しなければ、アメリカがやってくれるわけではない。アメリカに、ただついていけば解決してもらえるという問題ではない」と言っているが、日本が米韓中露と共に北朝鮮の核兵器及びミサイル開発問題、拉致問題等の包括的解決を方針としている以上、その方針に制約されていることに変りはない。
いわば包括的解決という制約下で、その制約を守りながら如何に日本が拉致問題に主導的に関わることができるかの方策が問われているはずで、当然他の関係国との協議の中で見い出さなければならない主導的方策を見い出す努力もせずに「アメリカがやってくれるわけではない。アメリカに、ただついていけば解決してもらえるという問題ではない」と言って、日本独自の行動を意図して包括的解決の制約と矛盾させている。
安倍晋三の以上のような矛盾も然ることながら、飯島自身も5月22日の発言と翌23日の発言で矛盾を曝していること自体が自身の訪朝の成果を如実に物語っている。
《飯島参与「日朝協議再開は参院選後に」》(NHK NEWS WEB/2013年5月22日 21時0分)
5月22日の首相官邸での記者団に対する発言。
飯島「もう私の任務は終わった。ある程度のやることはできましたから。
(政府間の日朝協議再開について)常識的に考えると、夏の参議院選挙までには間に合わないでしょう。お互いにそれなりのスタートラインに立つには、複雑なパズル、検討、いろいろありますから」
もし金正恩から拉致解決に何らかの成果を見込むことのできる回答を得ていたなら、日朝協議再開を「夏の参議院選挙までには間に合わない」からと参院選後に先送りする理由をないし、日朝協議再開を待つまでもなく、安倍訪朝を実現させて一人でも拉致被害者の帰国に成功したなら、参院選大勝利間違いなしだろうから、この飯島発言自体が飯島訪朝の失敗を如実に物語っている。
翌5月23日の飯島発言。《北朝鮮訪問で飯島参与「事務協議は終わった」》(MSN産経/2013.5.23 11:14)
飯島「事務的協議は全部終わった。あとは安倍晋三首相と菅義偉官房長官の判断だ。
(今後、外務省ルートで交渉が進められる可能性が取り沙汰されていることについて)何で交渉する必要があるのか。あとは、お互いにどうやって考えてやっていくかというだけだ。(今後の)事務協議、何をしようとしているか、よく分からない」――
上記「NHK NEWS WEB」では、政府間の日朝協議再開は「夏の参議院選挙までには間に合わない」と言っているのに対して、ここでは「何で交渉する必要があるのか」とか、「事務協議、何をしようとしているか、よく分からない」と言って、日朝協議再開の不必要を主張する矛盾を見せている。
この矛盾を解くとしたら、自身の訪朝が成功したと見せかけるレトリックとするしかない。
記事は飯島の「事務的協議は全部終わった。あとは安倍晋三首相と菅義偉官房長官の判断だ」とする発言を取り上げて、〈訪朝した際の北朝鮮要人との会談で、日朝双方の主張や提案に関する意見交換を終えたことを示唆した。〉と解説しているが、いわば「事務的協議は全部終わった」、あとは交渉当事者を一段階上げた日朝両首脳部の双方が満足のいく解決の着地点をどう見い出すかの「判断」のみが残されているという意味になるはずで、進展を見たような印象を受ける発言となっている。
だからこそ、飯島訪朝で一定の進展・成果があったのだから、順次段階を上げていくべき交渉当事者を逆行させて内閣官房参与よりも下位の地位にある外務省ルートを交渉当事者として「何で交渉する必要があるのか」と言うことになるのだろう。
このことは外務省ルートでの「事務協議、何をしようとしているか、よく分からない」という発言にも現れている。残されているのは日朝両首脳部が「あとは、お互いにどうやって考えてやっていくかというだけだ」と、最終調整のみだとしている。
だが、安倍晋三が「こちらが何を話したかということは、キム・ジョンウン第1書記には伝えられることになるのは間違いない」という文言で金正恩から何の回答も得ていないことを自ら暴露していて、当然、他の要人を介した回答も得ていないはずだから、金正恩の反応を欠いた状況で「事務的協議は全部終わった」とするのは矛盾そのものとなる。
精々できたことは飯島が日本側の要望を伝えただけといったことでなければならないはずだ。
だが、交渉が進展したような印象を持たせた。やはり失敗を取り繕って批判が安倍晋三に集中するのを避ける演出としか思えない。より厳しく言うと、情報操作・情報偽装に当たる。
ところが、権哲賢・前駐日韓国大使が5月22日の韓国・朝鮮日報のインタビューで、安倍晋三が早ければ今月末から6月初めの間に北朝鮮を訪問する可能性が高いとの見方を示したと、「MSN産経」が伝えた。
但し菅官房長官はこの可能性に関して、「答えることは控えたい」と言及を避けたという。
もし権哲賢・前駐日韓国大使の発言が事実なら、飯島訪朝は大進展の成功を見たことになる。自らが言っていた「事務的協議は全部終わった」にしても、ウソも矛盾もない正真正銘の事実ということになる。
だとすると、外務省ルートで交渉が進められる可能性が取り沙汰されること自体がおかしなことになるし、安倍晋三の金正恩から何らの回答も得ていないことを暴露することになった発言もおかしなことになる。
それとも5月18日の飯島帰国後に金正恩から外交ルートを通じて何らかの回答があったのあろうか。
権哲賢・前駐日韓国大使のインタビューは5月22日。新聞報道は翌日の5月23日。安倍上記発言は5月23日午前の参議院内閣委員会。飯島の「事務的協議は全部終わった」も5月23日。5月18日の飯島帰国後から権哲賢・前駐日韓国大使のインタビューの5月22日までに金正恩から何らかの回答があり、そのことを権哲賢・前駐日韓国大使が何らかのルートを使って察知したと言うことなら、安倍発言は違った内容とならなければならない。
だが、金正恩から何の回答もないことを間接的に証言している。
にも関わらず、5月25日になって、北朝鮮側が特定失踪者2人の帰国を提案したとする報道にお目にかかることになる。
このことが事実なら、最終的決定権者は金正恩でなければならないから、安倍晋三の金正恩から何の回答もないとする間接的証言は矛盾することになる。
情報源は5月23日の韓国紙ソウル新聞(電子版)で、日本の情報筋の話としているらしい。《特定失踪者2人の帰国可能=飯島参与に北朝鮮―韓国紙》(時事ドットコム/2013年5月24日 00:04)
〈同筋によると、飯島氏は北朝鮮当局者に、政府認定の日本人拉致被害者12人の速やかな帰国を要求。これに対して北朝鮮は、大部分は拉致をしていないか、死亡したとの従来の見解を繰り返した。
北朝鮮はその上で、特定失踪者2人を日本に帰国させられるとの新たな提案をしたという。〉云々――
安倍晋三からしたら特定失踪者2人では満足できないから、勇んで訪朝することはせず、参院選後の日朝協議に詰めを任せようということなのだろうか。
奇々怪々なことばかりが起きる。
権哲賢・前駐日韓国大使のインタビューに対する5月24日午前首相官邸での飯島反応。
飯島「(前駐日大使が韓国紙インタビュー発言について)そんなことあるわけない」(MSN産経)
失踪者2人の帰国提案に対する飯島反応。同じく5月24日午前首相官邸で。《飯島参与「妨害工作だ」 韓国紙の特定失踪者帰還報道》(asahi.com/2013年5月24日16時53分)
飯島「日朝(交渉)がうまくいかないための妨害工作だ。あるわけない。私は知らない。南北対話も大事なら、日本政府との協調が大事だ。
(日本人拉致問題、核開発、ミサイル問題の)全体像がうまくいくには協調が必要だ。(日本が)抜け駆けすることはあり得ない。韓国は一番冷静でなければいけないのに、上から下まで『日本外し』みたいな状態の発言とか『天罰』とか(言っている)」――
報道は事実ではないが事実なのか、交渉を進展させるために事実ではないとするカモフラージュなのか。
安倍晋三は飯島帰国5月18日2日後の5月20日午後の参院決算委員会で特定失踪者の帰国も要求していくことを表明している。このことは北朝鮮提案に呼応した表明だったのだろうか。
後者だとすると、それが満足のいかない一人、二人の人数であったとしても、日を置かずに早急に帰国に向けて詰めていかなければならない緊急事態であるはずだ。常識的には先ずは2人を帰国させて、さらに帰国を要求していく手順を取る。
だが、飯島は日朝交渉再開は参院選後だと言っている。
これも今後も秘密外交を進めるためのカモフラージュなのだろうか。
だが、安倍晋三が「飯島氏がナンバー2のキム・ヨンナム最高人民会議常任委員長に会っている以上、当然、こちらが何を話したかということは、キム・ジョンウン第1書記には伝えられることになるのは間違いない」を、金正恩から回答があるのかないのかも分からない段階で飯島訪朝の唯一の成果としていることがすべてを物語っている。
いくら自己正当化のウソを続けようとも、日米間、日韓間の不信だけを成果とした飯島訪朝の大失敗が正体とみなければならないはずだ。
韓国人記者が米軍による日本の広島と長崎への原爆投下は人間の手を借りた神の懲罰だとする記事を書いた。当然、多くの日本人が反発し、非難している。
菅官房長官(5月23日午前記者会見)「政府としては、中央日報の記事の表現は誠に不見識だと考えている。韓国の日本大使館を通じて、中央日報の関係者に強く抗議した。日本は唯一の被爆国なので、原爆に関する、こうした認識は断じて容認することはできない。また、日韓両国民が冷静に対応していくことも重要だと考えている」(NHK NEWS WEB)
広島市長「神の懲罰だなどという論理展開をしていること自体、読むに耐えない記事だ。被爆者や、被爆者の核兵器廃絶への思いを共有する日韓両国の多くの国民の気持ちを傷つけることをなぜするのか分からない」(NHK NEWS WEB)
長崎市長「報復のためになら核兵器を使ってもいいと捉えてもおかしくない、本当に多くの人を傷つけるひどい記事だ。こういった問題は、日韓関係が悪化するなかで起きやすくなるので、市民レベルや都市外交レベルでも互いの文化に対する理解を深め、友好関係を築いていけるよう努力していくことが大切だ」(NHK NEWS WEB)
だが、菅官房長官が「不見識だ」とし、広島市長が「読むに耐えない」とする、さらに長崎市長が「多くの人を傷つけるひどい記事だ」とする韓国人記者の記事は些かエキセントリックな内容となっているが、安倍晋三の歴史認識に憎悪し、対抗心も露わに挑戦した歴史認識に過ぎない。
安倍晋三の歴史認識が許されるなら、韓国人記者の歴史認識も許されなければ、不公平となる。
記事は書いている。「(日本の)ある指導者は侵略の歴史を否定し妄言でアジアの傷をうずかせる。新世代の政治の主役という人が慰安婦は必要なものだと堂々と話す。安倍は笑いながら731という数字が書かれた訓練機に乗った。その数字にどれだけ多くの血と涙があるのか彼はわからないのか。安倍の言動は人類の理性と良心に対する生体実験だ。いまや最初から人類が丸太になってしまった。
安倍はいま幻覚に陥ったようだ。円安による好況と一部極右の熱気に目をふさがれ自身と日本が進むべき道を見られずにいる。自身の短い知識で人類の長く深い知性に挑戦することができると勘違いしている」――
広島・長崎の原爆で約21万人の死者を出し、その後多くの市民が放射能汚染と汚染への恐怖で苦しんだ。
この約21万人を含めて日中戦争も入れた日本の戦争で軍人、軍属、外地一般邦人、国内戦災死没者等合わせて約310万人の死者を数えている。
対して日本の戦争によってアジア各国で生じた死者数は総計で1900万人以上と推計されている。
死者数のみから比較した場合、広島と長崎への原爆投下が実際に人間の手を借りた神の懲罰だと解釈したとしても、その懲罰は軽過ぎるという論も成り立つ。
問題は原爆投下を神の懲罰だとした場合、原爆投下を招いた責任をも抽象的な存在でしかない神に肩代わりさせることになって、当時の日本政府と軍部の人間の責任を曖昧にし、どこかに消してしまうことである。
米・英・中三国の日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が1945年(昭和20年)7月26日に発せられた。翌々日の7月28日、当時の鈴木貫太郎首相が記者会見で日本政府の態度を次のように表明した。
鈴木貫太郎「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う。政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」(Wikipedia/「毎日新聞」からの引用)
ポツダム宣言を無視、戦争継続を謳った。英米に対して戦争を継続するだけの能力を失っていたにも関わらずである。
カイロ宣言はその最後で、「日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」と、日本の無条件降伏を戦争の最終目的とした。そしてポツダム宣言はカイロ宣言の履行を求めている。
日本側はこの無条件降伏に拘った。国体護持=天皇制維持に関わるからだ。そこで軍部は鈴木貫太郎首相に圧力をかけ、上記「黙殺」を日本政府の態度とさせた。
逆説すると、軍部の国体護持=天皇制維持への執着が結果とした「黙殺」であった。国民の生命・財産を考えに入れた連合国側に対する態度ではなかった。
7月28日のポツダム宣言「黙殺」と「断固戦争完遂」から9日後の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に原爆投下。1945年末までに約14万人の生命を奪い、12日後の1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。同じく1945年末までに約7万人の生命を奪った。
もしあの時点でポツダム宣言を受諾し、無条件降伏に応じていたなら、原爆投下という歴史は存在しなかったはずだ。
だが、当時の日本政府と日本の軍部は結果としてその歴史を存在させることとなった。
これを以て人間の手を借りた神の懲罰だとした場合、当時の日本政府及び日本の軍部の国民の生命・財産を視野に入れない、国家体制の維持のみを考えに置いた愚かしい国家主義の責任は、日本人自身の手による戦争総括がないことと相俟って的をぼかされ、曖昧化させると同時に神の懲罰視した記者に対する批判・非難が逆に歴史認識に関わる日本の立場を正義とする暗黙的同意を生じさせない保証はない。
何よりも忘れてはならないことは既に触れたように記事の内容は安倍晋三の日本の戦争を侵略戦争ではないとした歴史認識に対抗して自ら創り出した歴史認識だと言うことである。
韓国人記者の原爆投下を人間の手を借りた神の懲罰だと見做す歴史認識を不見識だと批判・非難しながら、安倍晋三の侵略戦争否定を何ら批判・非難もせずに放置するなら、公平性を立つことはできない。
既に周知の事実となっているが、1943年5月31日御前会議決定の、太平洋戦争遂行に関する基本方針を定めた「大東亜政略指導大綱」には次のような一文が挿入されている。
〈六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム〉――
マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスに対する植民地宣言であり、「当分発表セス」と秘密とする必要性は自存自衛の戦争、あるいはアジア解放の戦争と謳った戦争目的との整合性を保つ関係からであろう。
いわば自存自衛の戦争、アジア解放の戦争の裏で上記国や地域を植民地とすべく謀っていた。と言うことは、侵略を戦争の目的としていた。
だが、安倍晋三は「侵略という定義は国際的にも定まっていない」とする文言で間接的に日本の戦争の侵略を否定する歴史認識に立っている。
再び言う。もし韓国人記者の原爆投下に対する神の懲罰視を批判するなら、安倍晋三の侵略否定の歴史認識をも批判してこそ、公平性を保つことができるはずだ。
菅官房長官の昨日(5月22日)午前の記者会見。《「日朝 政府間議含め対話再開目指す」》(NHK NEWS WEB/2013年5月22日 12時16分)
菅官房長官「安倍総理大臣は拉致問題の解決には非常に強い意思を持って取り組んでいるので、北朝鮮との間でありとあらゆる可能性を模索しながら、今、交渉に当たろうということだ」
記者「あらゆる可能性の中には、日朝間の政府間協議の再開も含まれるのか」
菅官房長官「あらゆる可能性を探るわけだから、当然それは入る」
この答弁は、去年11月以降中断されたままとなっている日本と北朝鮮の間の政府間協議を含めて、対話の再開を目指していく考えを示したものだと記事は解説している。
飯島内閣官房参与の北朝鮮訪問についての発言。
菅官房長官「私が判断して、安倍総理大臣の了解の下に訪朝していただいたということだ」
金正恩側近が中国訪問に向かったことについて。
菅官房長官「北朝鮮がどういう意図でやったかということは、今読みかねているから、答えることは控えさせていただきたい。ただ、話し合いをすることはいいことだろうと思う」
記事が伝える菅官房長官の発言はこれですべてである。
先ず飯島訪朝は菅官房長官判断・安倍晋三了解の形を果たして取ったのだろうか。菅官房長官判断ということは人選も秘密外という方法も菅官房長官主導による発案ということになる。
一度ブログに書いたが、安倍晋三は昨年(2012年)8月30日にフジテレビ「知りたがり」に出演して拉致解決について次のように発言している。
安倍晋三「金正恩氏はですね、金正日と何が違うか。それは5人生存、8人死亡と、こういう判断ですね、こういう判断をしたのは金正日ですが、金正恩氏の判断ではないですね。
あれは間違いです、ウソをついていましたと言っても、その判断をしたのは本人ではない。あるいは拉致作戦には金正恩氏は関わっていませんでした。
しかしそうは言っても、お父さんがやっていたことを否定しなければいけない。普通であればですね、(日朝が)普通に対話していたって、これは否定しない。
ですから、今の現状を守ることはできません。こうやって日本が要求している拉致の問題について答を出さなければ、あなたの政権、あなたの国は崩壊しますよ。
そこで思い切って大きな決断をしようという方向に促していく必要がありますね。そのためにはやっぱり圧力しかないんですね」――
ブログには「これは否定しない」の否定の対象を、(父親の拉致犯罪)としたが、(5人生存、8人死亡)の誤りでした。訂正します。
約半月後に産経新聞のインタビューで同じ趣旨のことを発言している。このもともブロに書いた。《【再び、拉致を追う】小泉訪朝10年、停滞する交渉 安倍元首相に聞く 正恩氏に決断迫ること必要》(MSN産経/2012.9.17 10:36 )
記事にはインタビューの日は記載されていないが、記事発信が9月17日10時36分だから、当日か前の日か前々日辺りだろうと思う。
安倍晋三「金総書記は『5人生存』とともに『8人死亡』という判断も同時にした。この決定を覆すには相当の決断が必要となる。日本側の要求を受け入れなければ、やっていけないとの判断をするように持っていかなければいけない。だから、圧力以外にとる道はない。
金正恩第1書記はこの問題に関わっていない。そこは前政権とは違う。自分の父親がやったことを覆さないとならないので、簡単ではないが、現状維持はできないというメッセージを発し圧力をかけ、彼に思い切った判断をさせることだ。
つまり、北朝鮮を崩壊に導くリーダーになるのか。それとも北朝鮮を救う偉大な指導者になるのか。彼に迫っていくことが求められている。前政権よりハードルは低くなっている。チャンスが回ってくる可能性はあると思っている」――
要するに安倍晋三はこのままでは北朝鮮は崩壊する、それを防ぐには拉致の問題に解決をつける以外にないという金正恩向けの拉致解決のアイディアを持っていて、二度も同じ趣旨の発言をマスメディアに対して発言している。
他の機会にも発言しているかもしれない。但し金正恩は父子権力継承の正統性を金日成に発して金正日を介し、金正恩に伝えられた血に置いていて、父親の金正日を常に正義の存在と位置づけていなければならないのだから、父親金正日が言った「5人生存、8人死亡」を「ウソでした。実際はもっと生存しています」と認めることによって起こり得る父親に対する偶像破壊は簡単にはできないし、そもそもからして拉致の首謀者は金正日だとする周知の事実を金正恩自ら認めるようなことは不可能と考えると、安倍晋三の拉致解決のアイディアは合理性を欠くが、しかし自身の中では確信となっていたからこそ、マスコミに対して堂々と発言したはずだ。
また、国連の経済制裁に応じて中国の国有大手である中国銀行が5月7日声明を発表して北朝鮮の貿易決済銀行である「朝鮮貿易銀行」に対して取引停止と口座の閉鎖を通知したことが、金正恩に日本の戦争賠償と経済援助を北朝鮮崩壊防止の残されたチャンスと期待を寄せる画期的出来事と見て、安倍晋三をして飯島訪朝を決断させた可能性も否定できない。
何しろ、北朝鮮崩壊か、拉致を解決して日本の援助かと二者択一を迫ることが拉致解決の有効策としていたのである。
当然、自らのアイディアを確信していたなら、実践への欲求を持つことになる。
さらに拉致解決は自身の使命であり、安倍内閣で解決すると公言して憚らなかった、ホンモノなのかどうか、口先だけなのかどうか分からないが、その熱意と考え併せると、飯島訪朝は菅官房長官の「判断」で、安倍晋三は単に了解を与えたでは、安倍晋三の拉致解決に向けた熱意、発言等と見比べて整合性を失うことになる。
アベノミクスのスタートの大成功と内閣支持率の高さが自身の政治能力への自身を高めたことも決心させる大きなキッカケとなったはずで、こういった安倍晋三を取り巻く状況とこれまでの言動から考えると、安倍晋三自らの判断で飯島秘密外交による訪朝を発案したとすることによって、初めて整合性を取り得るはずだ。
だが、菅官房長官は「私が判断して、安倍総理大臣の了解の下に訪朝していただいたということだ」と自らの主導だとしている。
考え得る理由は安倍晋三の判断による飯島秘密外交による訪朝だったが、北朝鮮にマスコミ報道されて秘密が秘密でなくなり、しかも拉致問題に進展がなかったでは安倍晋三の政治能力に疑問符をつけることになり、内閣支持率ばかりか、夏の参院選挙に悪影響を及ぼすために、自動車事故を起こして運転者を妻等第三者と偽って出頭させるのと同じで、菅官房長官にすり替えて、批判が安倍晋三に直接及ばないように手を打ったということであろう。
飯島訪朝が失敗に終わったことは「日朝協議再開検討」自体が証明している。飯島訪朝が拉致解決に向けて何らかのキッカケを掴む糸口となっていたなら、日朝双方が話し合いを重ねてその糸口を詰めていく継続という形式を取るはずだが、飯島訪朝の継続ではなく、「日朝協議再開検討」という別の形式を早々と口にしている。
いわば仕切り直しであって、仕切り直し自体が飯島訪朝の失敗を物語ることになる。
この仕切り直しは飯島が5月21日安倍晋三と会談、訪朝報告後の本人の記者たちに対する発言が証明している。
飯島「(報告内容について)言えない。(拉致問題は今回の訪朝を)一つの材料として、首相が不退転の決意で実行していくと解している」(YOMIURI ONLINE)
飯島訪朝を「一つの材料」とするということは、会談で取り交わした話し合いを拉致解決に向けて継続的に詰めていくすべての元とするということではなく、その継続性を断ち切って「一つの材料」とする、いわば参考にするという意味であって、いわば仕切り直しそのものを指していることになる。
飯島訪朝が成功していたなら、仕切り直しは必要ではなく、如何に継続させていくかが重要となる。
「日朝協議再開検討」と言っても、北朝鮮が応じるかどうかも分からないのだから、日朝協議再開を北朝鮮側に呼びかけるとしても、この時点で検討を持ち出したことは飯島訪朝が失敗に終わったことを失敗とは言えないために持ち出した取り繕いでしかないことが分かる。
要するに安倍主導の飯島秘密外交訪朝は飯島がピョンヤン空港に降り立った時点「で北朝鮮側にその秘密を暴露されて、拉致問題も何ら進展を見なかった安倍晋三の勇み足で終わった。
――狙いは「侵略」と言う言葉の抹消か?――
2つの記事から見てみる。《自民 複数見解掲載は見直しを》(NHK NEWS WEB/2013年5月16日 20時24分)
自民党教育再生実行本部特別部会が、現在の教科書が見解が分かれる歴史上の出来事などを説明する際、複数の見解を紹介していることについて生徒らが混乱するため本文には掲載しないよう、教科書検定基準の見直しを求めていくことを確認したという。
萩生田特別部会主査(元文部科学政務官)「例えば『南京事件』は、なかったという研究者もいれば、30万人の虐殺があったとする人もいる。学説上確定していないことが教科書の本文に幅広く出てくるのはおかしい。
現在の教科書では見解が分かれる歴史上の出来事などを説明する際、複数の見解を紹介しているが、生徒らが混乱する。本文には掲載せず、参考資料での紹介にとどめるよう、教科書検定基準の見直しを求めていくべきではないか」(下線部分は解説文を会話体に直した)
出席者から異論は出ず、特別部会の方針とすることを了承、党執行部に対して夏の参議院選挙の公約に盛り込むよう求めていくことにしたという。
大いに結構毛だらけ、猫灰だらけ。
《教科書記述、確定事実に限定 自民参院選政策集》(MSN産経/2013.5.17 00:25)
特別部会の正式名は「教科書検定の在り方特別部会」(主査・萩生田光一総裁特別補佐)として紹介している。
記事解説1.〈一部の歴史教科書に見られる偏向的な記述を是正するため、夏の参院選の総合政策集「Jファイル」に「確定した事実以外は本文に記述しない」と明記する方針を決めた。〉――
記事解説2.〈現行の教科書検定制度では、出所や出典を示せば、事実関係が不確かな南京事件の犠牲者数も通過させており、中国側が主張する誇大な「30万人説」も教科書記述として独り歩きしている。ただ、教科書執筆者の裁量を全面的に妨げるのは難しいため、政策集には「さまざまな意見を添付する」とし、参考資料などで複数説を併記することは認めることにした。〉――
5月16日(2013年)の方針決定。
さらに、〈教科書記述で中国や韓国などのアジア諸国に配慮するよう求める「近隣諸国条項」については、昨年の衆院選政権公約と同じく、参院選公約でも「見直す」と強調する。〉方針だという。
上記「NHK NEWS WEB」では、複数見解紹介は生徒が混乱するためとし、ここでは「偏向的な記述の是正」を目的としている。
要するに生徒が「偏向的な記述」に毒されないようにすることを目的としているということなのだろう。
だが、何を以て「偏向」と言うのだろう。例えば日本の過去の戦争を侵略戦争と見做さない勢力にとって侵略戦争だとする立場を取る見解は「偏向」ということになり、後者の立場の人間からすると、前者の立場の人間の見解は「偏向」となる。
だからと言って、教科書に「侵略戦争」という文字の記載をやめ、参考資料での紹介にとどめて詳しく教えることもやめたなら、どうなるのだろうか。
侵略戦争であることを否定し、自存自衛の戦争だとする、あるいはアジア解放の戦争だとする勢力にとっては生徒の頭の中から侵略戦争という文字を消すことができて好都合だろうが、逆に考えの違いを奪い、戦前のようにゆくゆくは政治権力が望む考えで国民の考えを統一することになる危険性を抱えることになる。
結果として考える習慣を奪うことになる。
こういった経緯を許すのはただでさえ日本の暗記教育が考える習慣を持たせていないことから可能となる事態であろう。
日本の戦争に関わる見解は日本国内に限った異なる様々な見解だけではなく、アジアやアメリカに於いて定着している見解等を紹介、なぜ異なる見解が生じるのか、どの見解を自らの見解とするのか、生徒に考えさせることによって考える習慣が生まれ、考える習慣が自ずと考える人間を形成していく。
「南京事件」を例に取ると、日本兵虐殺の中国側が主張する「30万人説」、日本側からの非存在説、あるいは数万人説と色々な見解があるが、事実の証明が困難な場合、被害者側は被害が深刻であったことを示したいがために過大に申告する傾向にあり、被害者側は自らの罪を小さく見せたいがために過小に申告する傾向にあることを教えて、その上で何事も自分自身の事実(=解釈)を持つべきだと、考える人間であることを求めるべきだろう。
と言っても、判断できなければ、無理矢理に一つの見解で統一するのではなく、複数の見解を並立させて自分自身の事実(=解釈)とするのも、他に強制されるでもなく、支配されるのでもなく、自分自身の考えに立脚させているという点で自律的存在足り得ることになる。
また、自分自身の事実(=解釈)を持ったとしても、その事実が終生常に絶対ではなく、様々な人生経験を経る中で事実の変更を迫られる場合もあることを教えて、常に柔軟な思考を求めなければならない。
異なる見解があってこそ、生徒は考えることができる。考える人間を育む。一つの統一した見解のみでは、考える必要性を失わせる。
考えない人間に自律的存在を望むことはできない。考えてこそ、自律的存在足り得る。
安倍晋三の「侵略の定義は学問的に決まっていない」に対応させた「確定した事実以外は本文に記述しない」に思えて仕方がない。
「侵略」と言う言葉の抹消である。
どう見ても、日本の戦争の不都合な部分を隠そうとする意図が見え隠れする。