読売・日経・朝日読み比べサイト案内記事の読み比べ

2008-01-31 06:06:14 | Weblog

 「各界著名人・言葉」サイトといったものができないだろうか

 昨日30日「グーグル」を検索していたら、朝日と読売、日経の3社が共同出資する、お互いの記事を読み比べることのできる「あらたにす」と言う名のサイトを立ち上げるとするそれぞれ3社の記事が紹介されていた。

 で、その紹介記事を読み比べてみた。その中で唯一読売の記事だけがサイト「あらたにす」の文字にハイパーリンクを貼り付けてあった。開設は1月31日午前7時過ぎだから、トップページに開設の予告文が掲載されているに過ぎないが、このことは「情報を伝える」という点で決して小さな問題ではなく、かなり大きなことに思えた。

 日経はアドレスのみ書き入れてあり、日経プレスリリースはリンクがつけてあった。

 読売記事から「あらたにす」のホームページアドレスをクリックすると、トップページになるのだろう、「あらたにす」の拡大ロゴマークと下記案内文が記載されていた。

  <2008年1月31日 午前7:00すぎ オープン

日経・朝日・読売インターネット事業組合(所在地:東京都千代田区、理事長:長田公平[日本経済新聞デジタルメディア代表取締役社長])は、1月31日(木)よりインターネットニュースサイト『新s あらたにす』を開設いたします。
このサイトは、世の中で起きている様々な事件・問題・出来事について、日経、朝日、読売の3社が報道するニュースをそれぞれ掲載することにより、より分かりやすく、より興味深く伝えていく「新聞ナビゲーションサイト」です。
各新聞社が発信する報道や社説、評論の価値を統合または対比しつつ広く提供していくことで、かっ達な言論社会づくりに貢献するとともに、新聞事業の更なる発展を目指してまいります。>――
 
 そしてページの上部に「くらべる一面」、「くらべる社会面」、「くらべる社説」「注目テーマ」、「新聞案内」「書評」、「最新テーマ」とタブ形式でと言うのだろうか、各ページへ移動できるそれぞれの案内が並べてある。

 1月31日の午前7時過ぎになってからアクセスすれば大まかな仕掛けは分かる。しかし案内記事を載せた時点でそのページへのリンクをつけて顔となるページだけでも案内し取っ掛かりをつけることができるようにしたことは「情報を伝える」という点で手堅く、そのスピードという点で手早い対応と言えないだろうか。手堅く・手早く、そして万全を期すは情報伝達の基本だからだ。 

 私自身は朝日新聞を何十年も購読しているが(懐が許せば読売と毎日も購読したいが、残念ながら許さない状況にある)、「朝日」のインターネット記事は記事自体に日付は入っているものの、発信元の「asahi.com」が入っていないことが常に不満の対象となっている。記事のみをコピーして一時的にメール作成画面に貼り付けて溜めて置くときわざわざ「asahi.com」とキーを叩かなければならない。その点、「読売」や「毎日」は日付と共に名前が記入されているから、簡単に貼り付けることができて便利である。「日経」などは社名の記入もなし、日付の記入もなしが殆どである。時々新聞社名を記入し忘れて、後になってどこの新聞の記事だか分からなくなるときがある。情報伝達という点で欠けていることにならないだろうか。

 「朝日」と「日経」の案内記事の題名はそれぞれ≪朝日・読売・日経読み比べサイト、31日朝にオープン≫、≪日経、朝日、読売よみくらべサイト「あらたにす」31日開設≫と自社の名前を最初に持ってきているのに対して、「読売」は≪日経・朝日・読売のサイト「あらたにす」、31日オープン≫と最後に置いているが、「あらたにす」の案内記事に限った情報伝達の準備のよさという比較で当ブログの題名は「読売」を最初に持ってきて、次に「日経」、情報が欠けていると思えた「朝日」を最後にして、私自身の「読み比べ」の評価とした。

 官公庁や大学のHPでも、日付が入っていなくて、いつの記事なのか最後まで分からないものがある。日付が欠かせない統計記事にしても記入なしに出会うことがある。情報の内容も重要であるが、誰がいつ伝えたのか、あるいは日付がいつの情報なのかが不明では、その情報は万全とは言えない。

 「あらたにす」は3紙の社説等へのアクセスを簡単にしてくれるだろうし、asahi.com記事によると<三紙を読み、「新聞案内人」として交代で論評やコラムを書くページもある。朝刊の編集責任者が、その日の紙面の見どころなどを200字程度にまとめた「編集局から」というコーナーもある。>ということだから、「読み比べ」の参考に供するだろうが、但し3紙に限ったアクセスと3紙に限った読み比べという限界を抱えることになる。

 読み比べるのは3紙だけではない。地方のニュースは地元紙、あるいは地域紙がより詳しく取り上げていることもある。3紙が「グーグル」から撤退するということなら、「あらたにす」と「グーグル」を往き来する面倒を払わなければならないが、撤退なしで、新聞案内人の論評、コラム、あるいは編集責任者の「見どころ」記事等が特に面白くなければ、一度のアクセスで済む「グーグル」を多くは活用することになるのではないだろうか。

 グーグルに参加していない「毎日」がいい例である。グーグルを検索した後、「毎日」はどういった記事にしているのだろうかと時に思い出してアクセスするが、一手間面倒であるし、「グーグル」のように使い勝手がよくないから、一つの記事ならまだしも、いくつかの記事を検索するとなると、目的の記事に辿り着くまでに検索文字を何回も変える手間を払わなければならない。

 毎日新聞側から言わせたなら、新聞を購読していなくてカネにならないアクセスだとしても、多くの人間に記事を知られないのは損ではないだろうか。それとも多数が面倒を厭わずにアクセスしてるのだろか。

 情報を如何に伝えるかも重要なことだが、情報の受け手としても、面倒なく受取ることができるか否かが重要な事柄となっているはずである。

 現在のマスメディアに最も欠けている情報は各界の人間が日常不断に話す「言葉」の丁寧な記録ではないだろうか。言葉はその人間を表す。社会を映し、時代を映す。テレビがその情報伝達を補っているが、編集した言葉をニュース等で流すから、情報の受け手を常に満足させるわけではない。

 勢い当人が顔を出している番組に、それがワイドショー番組であろうとチャンネルを回すことになるが、それらの番組をすべて録画できるわけではないし、録画のセットをしていても、たいしたことを喋らなくて骨折り損のくたびれ儲けで終わることもある。

 時の人となっている政治家や事件の容疑者、犯人、各選挙に立候補した立候補者の選挙運動中の言葉、各界の著名人のインタビューを受けたときの言葉、記者会見での言葉、あるいは講演で喋った言葉等を最初の一言から最後の一言まですべてを活字化してインターネットで配信したら、相当なアクセスがあると思うが、どんなものだろうか。

 少なくとも喋った言葉が正確に後世に伝えられていく。テレビや新聞でニュースや記事に直すとき編集してしまえば、編集者の意図や解釈を受けた言葉となって、必ずしも正確ではなくなる。

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橋下新大阪府知事のジレンマ/小学校運動場全面芝生化か人件費削減か

2008-01-30 06:51:54 | Weblog

 「建設事業の場合は資産が残る」(橋下)は事実か

 大阪府07年度当初予算は次の通りだそうだ。
  【歳出】
 一般施策経費/1兆2130億円
    その他/4700億円
  建設事業費/2870億円
  義務的経費/1兆2855億円(うち人件費9266億円
    計3兆2555億円
  【歳入】
    その他/4953億円
貸付金元利収入/6415億円
     府債/2293億円
  国庫支出金/2415億円
  地方交付税/1750億円
     府税/1兆4694億円
    計3兆2555億円
 (08.01.28/asahi.com≪橋下氏「府債発行認めない」 人件費カットの可能性も≫)から。

 次に≪橋下インタビュー・一問一答≫(asahi.com/2008年01月28日)

 <大阪府知事選で当選した橋下徹氏のインタビューの要旨は次の通り。(聞き手・渡辺雅隆社会エディター)

――「赤字隠し」のための府債の借り換えは今後どうするか。
 基本は認めない。
――借り換えを認めないと毎年900億~500億円の歳出削減が必要になり、
  職員の人件費も聖域ではなくなる。
  聖域はない。一つ一つの事業を見直すことは当たり前だが、基本は府債
  の発行は認めない。借り換えも58%までしか認めない。収入の範囲でや
  ってくれと。足りなければ人件費を削ってもらうしかない
――私学助成も削減の対象になるのか。
  聖域はない。府債が2300億円、借り換えを認めないと年間500億~600億
  円、合わせて3千億円をどうするか。自分らの後始末だから頭を使って
  くれと。
――建設事業のための府債も認めないのか
  建設事業の場合は資産が残るので、本当に必要ならやむを得ずや
  るだろう。ただ、基本的には認めない。府債発行と借り換えを安易に認め
  ない形で予算編成をやってもらう。知恵を出すのは職員の使命。政治的な
  圧力を無視して思う通りに予算を組んでもらいたい。
――08年度予算にマニフェストの施策は反映させるのか。
  2月議会では、どれも入らないと思う。
――歳出削減でマニフェストに掲げたことができなくなる。
  最悪でも職員の人件費を削ればできる。僕はそれで選挙を通ってきた
  。絶対に予算に入れる。
――副知事人事で外部登用は考えているか。
  人事はまったくの白紙。まずは現職の副知事と話がしたい。
――大阪市との連携は。
  それが一番重要だ。これまでは互いにメンツにこだわって連携がとれなかっ
  た。僕は府民のためなら大阪市長に土下座してでもお願いしたい。>・・・ 

 5兆円も残高を抱える府債の新規発行は認めない、収入の範囲内で予算を組む、不足分は人件費を削ると言っている。

 その一方で、建設事業の府債は必要ならやむ得ず発行する、府債発行と借り換えを安易に認めない形で予算編成をやると言っている。

 いわば「安易には認めない」が「必要ならやむを得ず」認めると一方で柔軟性を早くも示している。当然柔軟性を自民党政治家や官僚みたいに打ち出の小槌とするのか、伝家の宝刀とするのか、その辺がカギとなってくる。

 全職員の人件費9266億円。警察官も教師の給与も含んでいるという。人件費削減の内に人員カットによる削減も入っているだろうが、日本の公務員の生産性が欧米に比して低いのは責任感に欠けることが原因であろう。裏ガネをつくって飲み食いに使う。仕事中にインターネットで馬券や車券を買ったり、結果をインターネットニュースで調べたりする。そういったことにエネルギーを注いでばかりいれば、当然仕事の効率は落ちる。逆に責任感を持って仕事に励んでいれば、裏ガネづくりやその他のことに精を出す暇など出てこないはずである。
 
 各事業ごとに少人数のチームをつくり、事業に向けたアイデアを出させる。それ以外の事務作業はパートとかの職員に任せることで人員を絞っていく。3分の1程度は減らせるのではないか。

 橋下徹が「建設事業のための府債も認めないのか」と問われて、「建設事業の場合は資産が残るので、本当に必要ならやむを得ずやるだろう」と答えたのは、頭に小学校の運動場芝生化を公約として掲げたことがあったからなのだろうか。それが公約の芝生化を果たすために生じるかもしれない「やむを得ず」なのか、芝生化の公約を実現することによってはみ出すことになるかもしれない他の建設事案を考えた「止むを得ず」なのか、当然優先順位ということは起きるのだから、どちらなのだろうか。

 簡単に芝生化といっても、大掛かりな工事となるから、当然造成の予算は生半可では済まなくなって、優先順位を下げさせられる建設事案も発生するに違いない。水はけの悪い運動場だと雨が降った後芝生の根に水分がいつまでもたまって根腐れを起こし芝生が枯れてしまうから、水はけをよくするために上半分に無数の小さな穴が開いていて、そこから地中の水分を引き寄せて外に流す有孔塩ビ管を要所要所に埋め込み、その周りを土で孔が塞がらないように微細な小石で30センチほどの厚さで管を巻かなければならない。小豆大の小石ばかりをわざわざ篩いにかけて集めたものだから、安くは上がらない。

 また場合によっては有孔管を埋め込むだけでは水はけがよくならない運動場の場合は土自体を4~50センチの深さ程度まで掘り起こして芝生の生育に適した土に入れ替えるといった大掛かりなこともしなければならない。そうせずに済んだとしても芝生を植える前に表面の土を機械でほぐし、肥料を満遍なく散布し根付きをよくする工事は必要不可欠の工程で、運動場全体となると、それだけでも相当な工事となる。

 また植えれば植えた後で日照りのときの水撒きや定期的な草刈、雑草抜き(芝生よりも雑草の方が勢いがいいから、放っておくと芝生が生えているのか雑草が生えているのか分からなくなる)といった手入れも相当に費用がかかる。費用が高くつけば、限られた建設予算が窮屈になって、いやでも他の建設事業にしわ寄せが及ぶ。

 当然他の建設案件に利害を持つ建設会社やナマコン会社、セメント会社等の後押しを受けた議員や職員と計画の激しい奪い合いが起きる。他の建設事案に犠牲を求めて、自分の「運動場芝生化」のみを通すことができるだろうか。両立させれば、予算が規定以上に膨らむ可能性も生じる。

 それを避けるために歳出削減が難しくなったなら、「最悪でも職員の人件費を削れば(歳出削減は)できる」と言っていた通りに職員に犠牲を求めるとしたら、自分が公約とした運動場全面芝生化は何ら犠牲に供しないままで済まなくなるだろう。これまで子供たちは土の運動場を走り回っていたのだから、運動場芝生化が必要不可決の課題とは言えず、そうである以上、他の予算に犠牲を求めた場合、自分の公約につける予算の場合も犠牲を受け入れないとしたら、バランス上都合が悪くなるに違いない。

 悩ましいばかりのジレンマが続くことになるだろう。

 橋下徹は上記「一問一答」の中で口にした時点で間違っていることを一つ言っている。「建設事業の場合は資産が残る」と言っているが、厚生省・厚労省と所管した年金被保険者、年金受給者向けの保養施設として年金保険料を1953億円も投じて日本各地に13ヶ所も建設した「グリーンピア」はすべて廃止され、売却額は僅か48億円、当初目的の「資産」の形をすべて失っている。このような場合、「資産が残る」とは言えないのではないか。

 旧郵政省が建設した「かんぽの宿」も赤字で売却した施設は残らない「資産」と化した。

 道路や橋にしても、そんじょそこらにない立派な構造物に仕立てたとしても、1日に数台しか車が通らないような道路・橋であったなら、もはや「資産」とは言えない。それを「資産」だと言うなら、利用価値や地域発展といった実質を無視し、外形のみに価値を置くハコモノ思想に侵されているからだろう。

 いや、「建設事業の場合は資産が残る」と言って何ら疑問を感じなかった時点で、人間がハコモノ思想で出来上がっていることを証明したのではないだろうか。

 しかし「建設事業の場合は資産が残る」は公共事業建設推進派にとって、建設正当化の口実にはなる。

 自民党や公明党の国家議員は「地方はまだ道路を必要としている」とか、「必要な道路は造らなければならない」と「必要な道路」をキーワードとして道路財源を死守しようと血眼になっているが、今後、死守の正当化に「建設事業の場合は資産が残る」と言い出すかもしれない。それが橋下の残した唯一の功績にならなければいいが。

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文科省の学力テスト分析に不足はないか

2008-01-29 09:14:03 | Weblog

 暗記形式の「書く・読む」重視では問題は解決しない

 昨07年4月に文科省が行った小学4年生・中学3年生の全国学力テストの追加分析結果が公表された。23日(08年1月)のasahi.com記事≪正答率高い学校「書く・読む」重視 全国学力調査≫で見てみると、

 <小6と中3を対象に昨年4月行われた全国学力調査で、国語と算数・数学の平均正答率がいずれも高かった学校は、国語で「書く習慣」や「様々な文章を読む習慣」を身につけさせる授業をよく行っていたことが、文部科学省の分析で分かった。同省は「書く力や読解力は国語だけでなく、他の教科の学力でも重要ということの表れ」とみている。
 文科省は昨年10月に学力調査の結果を公表したが、学校長らが記入した「学校質問紙調査」の結果と平均正答率の関係について分析。相関関係がみられた内容を23日、新たに発表した。
 今回の分析では、公立学校のうち国語、算数・数学のA問題(知識中心)とB問題(活用中心)すべてで、平均正答率が全国平均より5ポイント以上高い「A群」(小学1024校、中学321校)と5ポイント以上低い「B群」(小学1320項、中学523校)に分類。その結果、「国語で書く習慣をつける授業をよく行っていた」のはA群で小学28.8%、中学37.1%に対し、B群では小学16.5%、中学21.6%。「様々な文章を読む習慣」を狙った授業をよく行っていた場合も、同じ傾向だった
 一方、すべての学校を比べた項目では、「朝の読書」など一斉読書の時間を設けている学校が、設けていない学校と比べ、平均正答率が全科目で2~3ポイント、高かった。>・・・・・

 要約すると、
Ⅰ「公立学校のうち国語、算数・数学のA問題(知識中心)とB問題(活用
 中心)」をひっくるめた「平均正答率が全国平均より5ポイント以上高い
 」学校(A群)と「平均正答率が全国平均より5ポイント以上低い」学校
 (B群)の割合は、
①「A群」(高い)は「小学1024校、中学321校 
②「B群」(低い)は「小学1320校、中学523校

Ⅱ「国語で書く習慣をつける授業をよく行っていた」学校の割合は。
①「A群」(高い)で――小学28.8%、中学37.1%
 「B群」(低い)で――小学16.5%、中学21.6%

Ⅲその他。
①「様々な文章を読む習慣」を狙った授業をよく行っていた場合も、同じ傾
 向が出た。
②すべての学校を比べた項目では、「朝の読書」など一斉読書の時間を設け
 ている学校が、設けていない学校と比べ、平均正答率が全科目で2~3ポ
 イント高かった。

Ⅳ分析して分かったこと。
①国語と算数・数学の平均正答率がいずれも高かった学校は、国語で「書く
 習慣」や「様々な文章を読む習慣」を身につけさせる授業をよく行ってい
 た。
②書く力や読解力は国語だけでなく、他の教科の学力でも重要ということが
 判明。

 記事は「国語で書く習慣をつける授業」に関して解説しているが、Ⅲ②の<「様々な文章を読む習慣」を狙った授業をよく行っていた場合も、同じ傾向が出た>ことから省略したのだろう。

 後回しになったが、挿入されている「図画像」を文章に変えて見てみる。

「国語の指導で書く習慣をつける授業をした」
 平均正答率の高い小学校
      よく行った――28.8%
どちらかといえば行った――58.5%
  あまり行っていない――12.4%
   全く行っていない―― 0.2%

 平均正答率の低い小学校
      よく行った――16.5%
どちらかといえば行った――61.1%
  あまり行っていない――21.7%
   全く行っていない―― 0.7%

「国語の指導で様々な文章を読む習慣をつける授業をした」
 平均正答率の高い中学校
      よく行った――33.6%
どちらかといえば行った――55.85%
  あまり行っていない――10.6%
   全く行っていない―― 0%

 平均正答率の低い中学校
      よく行った――16.1%
どちらかといえば行った――60.6%
  あまり行っていない――22.9%
   全く行っていない―― 0.6%

 キャプション【平均正答率が高い学校は「国語A、国語B、算数・数学A、算数・数学Bの4科目すべてで全国平均を5ポイント以上高い」、低い学校は「4科目すべてで全国平均を5ポイント以上下回る学校」】
* * * * * * * *
 上記統計で特に目につくのは小学校は「国語の指導でよく書く習慣をつける授業」を、中学校は「国語の指導で様々な文章を読む習慣をつける授業」を、統計の数値自体からはその内容と質が見えてこないから、その点に関する推量は後回しにするが、「平均5ポイント以上高い」小・中学校にしても「平均5ポイント以上低い」小・中学校にしても、「どちらかといえば行った」が半数以上を占めていることである。「どちらかといえば行った」は意識して積極的には行わなかったということであろう。

 但し、意識して積極的には行わなず「どちらかといえば行った」の割合は、小学校は58.5%→61.1%、中学校は55.85%→60.6%で、「平均5ポイント以上高い」成績の小・中学校よりも「平均5ポイント以上低い」成績の小・中学校の方がわずかに上回っている。

 上回っているにも関わらず、成績自体は劣るのだから、成績の違いに大きな影響を与えている因子から外してもいいのではないだろうか。

 最も大きな数値差を見せている項目は意識して積極的に行った形態の「よく行った」であり、「平均5ポイント以上低い」小・中学校の「よく行った」割合の「平均5ポイント以上高い」小・中学校と比較した減少分が「どちらかといえば行った」と「全く行っていない」への移動はほんの僅かで、その殆どは「あまり行っていない」に移動している

 とすると、小学校は「国語の指導でよく書く習慣をつける授業」を、中学校は「国語の指導で様々な文章を読む習慣をつける授業」を「よく行った」学校数の小学校では12.3ポイント差、中学校では17・5ポイント差が、裏を返すと「全く行っていない」学校数の小学校では9.3ポイント差、中学校では12.3ポイント差が正答率を「全国平均を5ポイント以上高」く押し上げた要因と言えるのではないだろうか。つまり「平均5ポイント以上高い」成績は「よく行った」学校数の多さにかかっていたと言い直すことができる。

 このことだけを見ると、文科省の分析結果である<国語と算数・数学の平均正答率がいずれも高かった学校は、国語で「書く習慣」や「様々な文章を読む習慣」を身につけさせる授業をよく行っていた。>、<書く力や読解力は国語だけでなく、他の教科の学力でも重要ということ判明。>は的を得た内容だと言える。

 但し上記分析結果は「どちらかといえば行った」は成績の違いに大きな影響を与えている因子から外してもいいのではないだろうかと既に予測してはいるが、成績の良し悪しは「よく行った」学校数の割合次第ではないかとした予測と併せて、「どちらかといえば行った」はどちらの成績群でも似たような成績結果だったという統計づけを含まなければ私自身の予測は成立しなくなる。

 ここで分析数値からでは見えなかった小学校は「国語の指導でよく書く習慣をつける授業」の、中学校は「国語の指導で様々な文章を読む習慣をつける授業」の内容とその質を推し量ってみる。

 新聞記事は「A問題(知識中心)とB問題(活用中心)」と簡単に片付けているが、実際は「A問題」は基礎的知識を問い、「B問題」は応用力を問うテストとなっていた。改めて断るまでもなく、「応用力」の活用は思考力(考える力)や想像性(創造性)を必要とする。考える力もなければ、想像(創造)する能力もなければ、「応用力」は機能しない。

 文科省の昨年10月発表による成績結果は(下記読売インターネット記事から引用)、
 小学校・国語A――82%/国語B――63%
     算数A――82%/算数B――64%
 中学校・国語A――82%/国語B――72%
     数学A――73%/数学B――61%

 「A問題」と「B問題」では小学校でそれぞれ20%の差、中学校で10%の差が出ている。

 ここで改めて文部省の分析結果を取り上げてみる。

①国語と算数・数学の平均正答率がいずれも高かった学校は、国語で「書く
 習慣」や「様々な文章を読む習慣」を身につけさせる授業をよく行ってい
 た。
②書く力や読解力は国語だけでなく、他の教科の学力でも重要ということが
 判明。

 上記因果関係に整合性を与えるためには、言っている「習慣」、「授業」の成果が「応用力」を問う「B」問題にこそより多く反映されなければならない。だが、テストの結果は逆となっている。この説明はどうつけたらいいのだろうか。

 国語の「書く習慣」は機械的に「書く」(=機械的書き写し)ではなく、そこに考える要素が入り込んでいなければ、機械的な暗記にはつながるかもしれないタダの筆写と化す。「様々な文章を読む習慣」にしても、機械的に「読む」(=機械的音読)ではなく、「応用力」の育みへとつながる考え・想像(創造)する頭の働きを作動させる仕掛けを並行させなければ、「様々な文章を読む習慣」も教師が指示したからその指示に従ったに過ぎない機械的習慣、あるいは積極的取組みとは反対の受身の習慣で終わる。

 いわば国語で「書く習慣」にしても「様々な文章を読む習慣」にしても生徒の積極的姿勢を必ずしも引き出せないでいる中途半端な「習慣」で推移しているから、反映されるべき「B問題」で具体的成果を得ることができなかったということではないだろうか

 「A問題」がどちらかというと暗記学力で片付く「知識中心」であることと、思考力や想像(創造)力の裏打ちがあって機能する「応用力」を問う「B問題」に反映されなかったこととを考え併せると、日本の学校授業が暗記教育に傾いていて、国語で「書く習慣」や「様々な文章を読む習慣」を身につけさせる授業が中途半端に終わっていることを示していないだろうか。

 <国語で「書く習慣」や「様々な文章を読む習慣」を身につけさせる授業をよく行っていた>と言っても、圧倒的多数の小・中学校が「よく行っていた」から外れているのである。従来どおりの暗記授業に低迷し、それを全体的慣習としているからこそ、その種の授業が成績の高い「A群」の小学1024校のうちの28.8%、約3分の1の僅か295校、中学校で321校のうちの4割近い37.1%の119校にのみとどまっているのであり、その種の授業の中途半端に終わっていることの状況ではないだろうか。

 このことは成績の低い「B群」についても言える。小学校1320校のうち、16.5%の218校、中学校で523校のうち21.6%の113校でしか「書く習慣」や「様々な文章を読む習慣」の授業を行っていない。それを暗記教育と取るかどうかは別問題としても、圧倒的多数の学校が「応用力」につながらない従来どおりの教育スタイルを引きずっているということではないだろうか。

 以上文科省の分析結果の不足部分を分析してみたが、どんなものだろうか。

 記憶を改めるために古い記事だが読売インターネット記事(07.10.25)を引用しておく。

 ≪全国学力テスト結果公表、基本知識あるも応用力に課題≫

 <文部科学省は24日、小学6年生と中学3年生を対象に今春実施した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。
 全員参加を前提としたテストとしては43年ぶりで、計算などの基本的知識は身についていたものの、応用力に課題があることが浮き彫りになった。
 都道府県別の結果では、ほとんどの自治体が全国平均に近い成績を収め、大きな格差は見られなかったが、学校ごとに見ると成績に開きが生じている実態も明らかになった。
 今回のテストは、学力低下の指摘を受け、自治体や学校、児童生徒の課題を明確にし、改善に役立てるため、4月24日に実施された。
 愛知県犬山市の14項を除くすべての国公立と、私立の約6割の小中学校の計約222万人が参加。国語と算数・数学について、それぞれ主に知識を問うA問題と、知識を実生活で生かす力を記述式問題などで試すB問題に挑んだ。
 全問題中、何問正解したかを示す平均正答率を教科別に見ると、小学校の国語A、算数Aはともに82%だったのに対し、国語Bは63%、算数Bは64%にとどまった。
 中学校でも、国語Aの82%、数学Aの73%に比べ、国語Bは72%、数学Bは61%だった。表現力や思考力を十分身につけていない子供が多い実情が明確になり、経済協力開発機構(OECD)の「国際学習到達度調査(PISA)」などと同じ傾向が出た。
 1960年代の学力テストでは、都道府県別の結果に開きが生じ、自治体間の競争が過熱する一因となったが、今回は、小学校の国語Aで各都道府県の平均正答率が全国平均のプラスマイナス5ポイントの範囲に収まるなど、自治体ごとの差は小さかった。
 だが、中学校になると差が開き始め、数学Aでは、最も平均正答率が高かった福井県(80・3%)と低かった沖縄県(57・2%)で20ポイント以上の差が生じていた。
 学校単位で見ると、出来不出来でかなりばらつきが見られ、例えば、中学校の数学Bでは、参加した約1万校のうち、978校が正答率5割未満だったのに対し、8割以上の正答率だった学校も299校あった。
 一方、文科省は、テストと同時に児童生徒の意識調査も行い、生活環境や生活習慣と学力との関係を調べた。経済的な理由で国や自治体などから学用品代や修学旅行費などの就学援助を受けている児童生徒の割合の高い学校の方が、低い学校より平均正答率が低い傾向が見られた。
 結果は、都道府県のほか、市区町村や学校にも24日中に届けられ、近く児童・生徒個人の結果も一人一人に手渡される。ただ、学校の序列化や過度の競争を防ぐため、都道府県は学校別や市区町村別の結果については公表しない方針だ。>・・・・

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大阪府知事選橋下の当選と大相撲朝青龍の千秋楽負け

2008-01-28 09:03:37 | Weblog

 まず橋下の当選。ただでさえ有名タレントが選挙に強い日本国にあって吉本興業のお膝下、お笑いタレントエリアだけのことがある。80万票近い差の圧勝とテレビが報じていた。

 残念ながら民主党候補熊谷貞俊には63歳という年齢もあるだろうが、大衆受けする華やかさが橋下に比べて劣っていた。

 選挙戦最終日の土曜日には実質自公推薦の橋下にお笑いタレント出身東国原そのまんま東宮崎県知事が応援に駆けつけた。このことは橋下を応援したのと同時に自公を応援したことを意味する。この事態を占うと、今後限りなく自公化し、宮崎県議会の与党である自公の力を借りて彼らの要求を受け入れつつ、その見返りに自分の名を売る政治を一つ程度実現させてもらうといった取引政治に走るように思えてならない。

 東国原知事就任から1年のこれまでの実績は殆どがお笑いタレントとしての資質が実現させた成果のみで、政治家としての資質は未だ成果を発揮できずにいる。未到達の成果を埋め合わせるための手打ちが自公化ではないかという予測である。府知事選橋下応援でPRや宣伝に供するタレント性のみでは財政再建の力とはなり得ないにも関わらず、「大阪を宣伝できるのは誰なんですか、大坂をPRをできるのは誰なんですか。橋本さんしかいないんじゃないですか」とそのタレント性のみを力とする訴えをしていたのも、同じタレント出身(橋下は弁護士でもあるが)でタレント性を頼みとしている同列意識が言わせた言葉なのだろう。

 人間の才能(=タレント)は常に人格(=キャラクター)を伴うとは限らない。往々にして才能のみでその人間の人格までが価値づけられる。例えば野球や大相撲、ボクシングその他のスポーツの世界では、ボクシングとかで仕組んだ対戦を含んでいても、それが露見するまでその人間の人格までが成績の形で現れる才能によって価値づけられがちである。

 会社員も所属する会社での仕事の成績によってそれぞれの才能が評価され、余程の正体を現さない限り、その才能を以ってその人格までが価値づけられる。

 映画俳優やテレビタレントは自らの演技の才能のみによって形作られるのではない、物語の脚本によっても色づけられ、監督の指示によっても上塗りされる出演キャラクターの人間性によってその人間の人格まで往々にして価値づけられる。

 出演キャラクター=人格となっているから、悪役専門の役者の場合はその子供が学校で「お前のお父さんは悪者だ」といったいじめを受けることになる。いつも素敵な妻役演じている女優が実際に結婚してイコール素敵な妻となり得ず、失格者となることも生じる。

 政治家の場合は利害集団のよき代弁者足り得ることによっても手に入れることができる当選回数や役職の歴任を以ってその人間の才能とされ、その才能によって人格を含めた人間全体が価値づけられる。その食い違いによって当選回数を重ねて大臣に登りつめた政治家が世間向けの才能を裏切って「女は産む機械」といったホンネの正体を曝すことになり、見せ掛けの人格だったことが判明したりする。

 お笑いタレント、お笑いタレントでなくてもテレビに出演して笑いを取ることを得意とするお笑いタレントまがいの橋下のようなテレビタレントに対して笑いの才能(=タレント)によって表現されることになる笑いを演じるキャラクターを実際のキャラクター(=人格)と価値づけてしまう過ちを犯しがちとなる。

 その過ちが、参議院議員を2回務め、大阪府知事となり、2期目を235万票の圧勝で当選しながら、選挙中に女子大生運動員へのセクハラ行為で民事裁判での有罪、さらに強制ワイセツ行為での在宅起訴を受けて辞任するお笑いタレント出身の横山ノックのようなお笑いのキャラクターとは異なるキャラクター(=人格)を曝す事件に驚くことになるといった事態を引き起こすことになる。

 今朝(08.1.28)の「日テレ24」が当選した橋下に10の質問をぶっつけていた。
 「やしきたかじんが対抗馬だったら、勝てなかった」
 ――○と×の札を同時に上げる。
 「実は結構前から政治家になろうと思っていた」
 ――首を傾げてから、×の札。
 「若い女性から人気がある」
 ――成人式出席の和服の女性が選挙運動中の橋下にキャーキャーと駆け寄る
   シーンがあったにも関わらず、×の札。
 「選挙でお世話になった自民党・公明党には頭が上がらない」
 ――少し考えてから。×の札。
 「橋本さんの当選で大阪は2万パーセント元気になる」
 ――○の札。
 「色んな意味で東国原知事には負けない」
 ――同時に○と×の札。
 「最近本音を言いたくてウズウズしている」――×の札。
 「休日くらいはサングラスで過ごしたい」
 ――×の札。
 「そろそろ8人目(の子供)を考えている」
 ――同時に○と×の札。

 これは大阪府知事という地方自治体の首長に当選した人間にぶっつける質問ではなく、あくまでもタレントに向ける言葉であろう。橋下を依然としてタレントとして見、タレントとして扱っているからこそできる質問である。その方が大衆受けするからでもあろう。いわばテレビタレントのタレント(=才能)は深く大衆性と関わってそのキャラクター(=人格)へと橋渡しされていくことの証明でもある。

 余程注意深く人間を見つめないと、才能(=タレント)を以ってキャラクター(=人格)とする過ちから抜け出れないことになる。

 次に初場所千秋楽で1敗同士で優勝決定戦となった朝青龍対白鵬は白鵬の上手投げで賜杯を手にした。

 元々不遜なところが生理的に受付けなくて朝青龍のファンではないし、白鵬にしてもミニ朝青龍の傾向があるように思えてファンでもないが(モンゴル勢では旭天鵬のファン)、しかし今回は朝青龍に優勝して欲しかった。怪我を理由に巡業を休み、その間モンゴルに帰国してサッカー試合に興じたことが世間の批判を浴びて2場所休場の処罰を受けた。

 朝青龍のその態度を非難することで自らを何様の正義漢のキャラクター(=人格者)に仕立て、正義漢のキャラクターと化し、エセ正義感を満足させたテレビに出演のコメンテーターとか著名人とかがどれ程いたことかうんざりしていたから、そういった連中に一泡吹かせるためにも朝青龍に優勝を願うようになった。

 だが願いは叶わず、白鵬の優勝となって、テレビに引っ張り凧となるから演じていたに過ぎない見せ掛けのキャラクター(=人格)を持ったエセ正義漢たちを満足させたに違いない。優勝が決定するまでヒヤヒヤしていただろうが、朝青龍が優勝を逃したことで怒りも露の正義漢を演じた手前、ほっとしたことだろう。

 尤も2場所も休場して、その影響を引きずらずにあっさりと優勝したなら、慢心が募って土俵外でもしもの不届きな行為に及ぶようなことがあったなら、再びエセ正義漢たちを元気づけ、テレビで鼻持ちならない正義の言葉を野放し状態にさせることになる。そう思い直して、何様の正義漢たちを喜ばせた残念は忘れることにして優勝逃しを受け入れることにした。

 最後に何様の正義漢を演じたタレントたち――やくみつる、内舘牧子、元NHK相撲解説者・杉山邦博、みのもんた、元大相撲力士・現タレントの竜虎、ビートたけしの兄、その他ワイドショー番組出演のコメンテーターetc.etc。

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高村・伊吹「日米同盟」破棄の意思/芸当だけの日本政治家

2008-01-27 10:10:47 | Weblog

 今朝(08.1.27)のフジテレビ「報道2001」。

 アメリカのサブプライム問題に端を発した日米欧同時株安、それを受けた円高。株安は中国・インドにも飛び石。

 「報道2001」のインタビューを受けた福田内閣の高村外相と伊吹幹事長。

 高村「アメリカ発だから、アメリカがどうにかするでしょう」
 伊吹「アメリカのトバッチリを受けた」

 さすが政治一流国日本の一流内閣の重要閣僚たる外務大臣を務める一流政治家と、政権党の重要な党役職である自民党幹事長を担った一流政治家の言葉であって、一流の説得力がある。この言葉に納得しない国民がいるだろうか。納得しないとしたら一流国民とは言えない。高村や伊吹と同様に一流でいようよ。

 伊吹の「トバッチリを受けた」はアメリカ次第だ、アメリカがしっかりしていれば、「トバッチリ」を受けることはなかった。――

 高村の「アメリカがどうにかするでしょう」は、さすが外交を預かる外務大臣だけのことはあって、アメリカが問題を解決をしてくれれば、景気不安を誘う日本の株価下落状況も輸出製造業に打撃を与える円高問題も解決するとアメリカの動向のみを見据えた発言となっている。

 しかし日本はアメリカの重要な同盟国であって、ある種、運命共同体の関係にある。日本発の景気不安がアメリカの景気に悪影響をを与える場合もあるし、ドル高・円安が日本の輸出産業を潤わせてきた長い間の事情もある。いわば持ちつ持たれつ・ギブアンドテークの関係になければ同盟とも運命共同体とも言えない。

 それを「トッバチリを受けた」、「アメリカがどうにかするでしょう」は同盟の否定に当たらないだろうか。持ちつ持たれつ・ギブアンドテークの否定、イコール運命共同体の否定とならないだろうか。

 高村も伊吹も「アメリカ発だから、アメリカがどうにかするでしょう」、「アメリカのトバッチリを受けた」と発言した時点では気持ちの上でアメリカとの同盟を破棄していたのである。

 アメリカとの同盟を掲げている日本の外交に矛盾する、それに逆らう発言であり、同盟国の政治家が見せてはいけない言葉と態度であろう。

 もう一つ、「トッバチリを受けた」、「アメリカがどうにかするでしょう」は日本の景気はアメリカ次第、日本はアメリカにおんぶに抱っこだとの宣言でもある。アメリカが「どうにか」してくれたら、「トバッチリ」は解消するし、株価下落・円高も是正される。再び円安となって、日本の輸出産業は潤う。

 アメリカ依存・アメリカ従属・追従が事実その通りだとしても、一方で同盟を謳い、一方で同盟を否定する意思の提示は矛盾そのものであろう。発言対象に対して責任を持たなければならない政治家の言葉である。

 しかしアメリカが「どうにかしてくれ」なければどうする気でいるのだろう。そのことを考えずに、「どうにかしてくれる」ことだけを考えるその政治的創造性も一流政治国日本の一流政治家だからこその芸当とも言える。

 芸当で政治を行っている政治家が如何に日本に多いことか。

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自民党偽装政治から発した偽装国家・にっぽん

2008-01-26 09:45:22 | Weblog

 冬柴の責任は手づかずでいいのか

 食品会社の食品内容偽装・産地偽装、米販売会社の新米への古米混入表示偽装、製紙会社の再生紙偽装、建材メーカーの断熱材・防火材の性能偽装、そして約1年半前に遡るが、国の機関である内閣府主催教育タウンミーティングでのカネを掴ませてやらせたヤラセ質問や会場誘導係に4万円、エレベーター運転に1万5千円といった適正この上ない支出で行われた適正この上ない、談合していなければできない運営偽装。社会保険庁のデタラメな年金業務と年金保険料からの健康器具等への私的流用、年金保険料の余りにストレートな、ストレート過ぎる着服等々の当たり前の職務を当たり前に行わない職務偽装。

 そして国の機関による新たな偽装が露見し、改めて偽装(=ゴマカシ)が国家機関から企業まで日本全国にまで亘って蔓延していることを知らしめた。これは自民党政治が数々の偽装から成り立っていることから発した国家的偽装図であろう。水の流れと同じで、「上のなすところ、下これに倣う」ことはあっても、「下のなすところ、上これに倣う」ことは立場と責任の関係からしてあってはならないからだ。

 新たな偽装とは国土交通省が道路特定財源の一部を道路整備特別会計から支出し職員宿舎の建設費やレクリエーションのための野球用具購入費に当てていたことである。これは道路「特定」という名に恥じない、その名に添った正々堂々たる偽装であろう。但し「正々堂々」も国土交通省そして冬柴国土交通相の価値観に照らし合わせた場合の「正々堂々」であり、国民の目に見えない場所での「正々堂々」の「特定」の偽装なのは説明するまでもない。

 国土交通省の峰久幸義次官は当初24日の記者会見で「福利厚生費として各省統一の基準で認められている。他の特別会計も同様の仕組み」(≪道路財源でレク用具「不適切」 国交省、緊急見解で転換≫asahi.com/08.1.26/01:05))だと「道路特定」の「特定」を偽装するものではないし、自分たちにとっても「特定」ではなく、「他の特別会計も同様の仕組み」だから一般的に「認められている」と弁明を展開。

 だが、一日明けた25日、「レクリエーション費」に限って「法的には問題ないが、暫定税率の延長をお願いしている中で疑念を抱かれることのないように」(同asahi.com記事)と支出中止を表明している。

 「法的には問題ない」とは言っても、国民の監視のない隠れた場所で自分たちに都合のよいようにお手盛りで自作自演した「法」・規則であって、一般的な社会常識から懸け離れた偽装であることに変わりはあるまい。

 自作・自演、一般的な社会常識から懸け離れた偽装だからこそ、「福利厚生費として各省統一の基準で認められている。他の特別会計も同様の仕組み」となっていること自体がそもそもおかしいとは気づかない神経でいられる。

 また職員宿舎の建設は下記引用読売記事を参考にすると、国道の工事や維持管理にあたる職員向けだということだが、工事・建設に供する施設なのだから、社会常識的には工事費、建設費の類から支出すべき事案でなければならない。職員宿舎の建設に07年度は24億9000万円も計上している(同読売記事)ことから考えると、工事費・建設費に含まないことによって、工事費・建設費を見かけ上少なく抑える役目を持たせている疑いもある。

 例えば社会的常識に則って建設費・工事費に職員宿舎の建設費を加えることをルールとしたなら、談合で上乗せすべき金額が窮屈になり、その分、天下り官僚へのボーナスや給与、退職金、あるいは工事・建設を請負ったゼネコンの政治家への政治献金という名の見返りの上納金にも影響して、従来のボロ儲けを窮屈にする。そのことを避ける意味合いからの道路特定財源からの支出ではないかという疑惑である。

 もしも職員宿舎が赤坂の議員宿舎の超豪華さ程ではないにしても、一般常識の上をいく豪華な施設となっていたなら、工事費・建設費に含めた場合の上記窮屈さを避ける意図からの配慮であると同時に、窮屈になった場合、それが自分たちの宿舎に於ける居住空間の窮屈さ、そのことから生じる生活の窮屈さに波及することを避ける駆引きからの道路特定財源からの支出だと証明できるのではないか。

 大体が上の者が会社や役所のカネにルーズだと、摘発逃れや糾弾逃れに下の者を朱に交われば赤くの同類化してなあなあの関係にするために下の者に対する扱いがカネにルーズとなるし、下の者が上を真似てカネにルーズであっても大目に見るものである。

 国土交通省峰久幸義次官の「正当化」から一転「中止」表明は教育タウンミーティングでのカネをつかませてやらせたヤラセ質問者への謝礼に関して、当時の塩崎官房長官が当初「議論の口火を切ってもらった人への謝礼金で、まったく問題視していない」と正当づけながら、文科省が前以て発言案を作成して、その案に添って発言するよう要請していたことが露見すると、「現場の行き過ぎで遺憾だ」と正当づけを引っ込めたものの、世論を操作する不法な偽装であるという認識はなく、単なる「行き過ぎ」で片付けた姿勢と軌を一にする偽装であろう。

 さらに言うなら、上記両者の似たり寄ったりの偽装と同一線上にある五十派百歩の偽装として挙げることができる出来事は、「沖縄集団自決」問題で軍の直接的関与はなかったとして教科書の記述の修正を指示した文科省の検定意見に対してその撤回を求めた沖縄住民に文科省側は軍関与に関わる検定意見の撤回はできないが、沖縄住民の感情に配慮して教科書の記述の修正には応じるとした、軍関与否定の基本線は譲らない自己正当づけの偽装がある。我々は自民党政治がつくり出す国家の偽装を忘れてはならない。

 冬柴国土交通相にしても「社会保険庁は保険料をぜいたくなものに使ったことが批判されたわけで、全然違う。法律に従ってやっている」と一旦は自分の口から道路特定財源からの支出を流用には当たらないと正当づけていた。そのような冬柴の姿勢と峰久幸義次官が基本線は譲らないにしても、表面上は「中止」を表明したこととの整合性は何らかの方法で決着づけなければならない問題ではないだろうか。何しろ国土交通省を統括する最高責任者なのである。

 それとも自分は表に立たずに偽装に身を任せようという狡い手を使うのだろうか。そういった手を使いそうな公明党の面々である。いずれにしても自民党偽装政治から発した偽装国家・にっぽんなのである。連立を組むくらいだから、同じ穴のムジナであることに何ら後ろめたさも感じないのだろう。

 「自民党偽装政治から発した偽装国家・にっぽん」ということなのだから、自民党政治を断つことから始めなければこの国の偽装を断つことはできないに違いない。

 参考までに読売インターネット記事とasahi.com記事を引用。

 ≪国交省、道路特定財源で職員の野球用品購入≫(08.1.26/読売インターネット記事)

 <揮発油税(ガソリン税)など道路特定財源の一部が、国土交通省職員のレクリエーションのための野球用具購入費や、同省職員宿舎の建設費などに充てられていたことが25日、分かった。
 国土交通省は当初、「法律に基づいた適正な支出だ」としていたが、与野党などからの批判を受け、峰久幸義次官が25日夜に記者会見し、「不適切だった」として見直しを公表した。民主党は「年金保険料の流用が問題になった社会保険庁と全く同じ体質だ」と追及の姿勢を強めており、国会の新たな火種になりそうだ。
 国交省によると、野球のグラブやバットの購入費やグラウンド使用料などは、道路特定財源に基づく道路整備特別会計から支出しており、2007年度は約425万円が予算計上されている。同省は、職員の福利厚生を定めた国家公務員法に基づき、支出は可能だと判断していた。
 公務員宿舎は、国道の工事や維持管理にあたる職員向けで、建設・補修費が同特別会計から支出されている。国家公務員宿舎法などが根拠で、07年度の計上額は約24億9000万円。
 公務員の福利厚生費を巡っては、社会保険庁が年金保険料の一部を職員用のマッサージ機購入などに使い、批判された例がある。
 冬柴国土交通相は25日午前の記者会見で「社会保険庁は保険料をぜいたくなものに使ったことが批判されたわけで、全然違う。法律に従ってやっている」として、問題はないとの認識を強調した。
 これに対し、民主党の山岡賢次国会対策委員長は記者会見で「常識から見て考えられない。国民の税金を遊び道具に使っても合法だと居直っている。泥棒が当たり前と言っているような役所の感覚こそ最大の問題だ」と批判した。
 政府・与党内からも「グラブ、ミット代などの10万円くらい、自分で出せ、と言いたい気もする」(町村官房長官)、「あまり感心したことではない。無駄なものには使わないという公務員の規範をしっかり持つことが大切だ」(伊吹・自民党幹事長)と疑問や苦言を呈する声が相次いだ。
 こうした批判を踏まえ、峰久次官は記者会見で、〈1〉野球用具購入などレクリエーションのための費用は道路特定財源から支出しない〈2〉道路特定財源を使った職員宿舎の新規建設は厳に抑制するなど、適正な運用を行う――などとした上で、「暫定税率の延長をお願いしている時期でもあり、疑念を抱かれないようにすることが必要だ」と語った。>・・・・

 ≪路財源でレク用具「不適切」 国交省、緊急見解で転換≫
(asahi.com/08.1.26/01:05)

 <道路特定財源の暫定税率延長問題に揺れる国土交通省の峰久幸義・事務次官が25日夜、「緊急会見」を開き、同財源を主な原資とする道路整備特別会計から支出していた、道路関係職員のレクリエーション費について「今後支出をやめる」と表明した。前日の会見や25日午前の冬柴国交相の会見で「問題ない」としていた見解からの突然の転換には、暫定税率延長に向けたなりふり構わない姿勢が透けて見える。
 特別会計からスポーツ用具などのレクリエーション費を支出していることの是非について峰久次官は、24日の会見で「福利厚生費として各省統一の基準で認められている。他の特別会計も同様の仕組み」などと述べた。ところが25日の会見では「法的には問題ないが、暫定税率の延長をお願いしている中で疑念を抱かれることのないよう……」と支出取りやめの理由を釈明。町村官房長官が同日午前の会見で疑問視する発言をしたことなど「いろいろなところで不適切ではないかとご意見をいただいている」と述べた。
 対象となる支出は06年度で卓球のラケットやゲートボールのスティックなどスポーツ用具13万4000円を含む約770万円。前日は「問題なし」と胸を張って説明していた担当職員らは夕方以降、次官に呼ばれ方針転換を告げられたといい、「(転換の理由は)察してください……」と言葉少なだった。>・・・・・

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自民党郵政造反議員ならぬ民主党暫定税率廃止反対造反議員

2008-01-24 12:07:25 | Weblog

 生活は道路によって裏打ちされない。健全な財政運営によってのみ裏打ちされる

 昨23日(08年1月)に永田町の憲政記念館で500名を集めて開催された道路特定財源堅持を求める都道府県議会議員総決起大会に民主党が掲げる道路特定財源維持反対、一般財源化政策に造反して大江康弘、渡辺秀央、山下八洲夫の民主党参議院議員が出席。

 壇上のテーブルに伊吹や谷垣、二階ら自民の狸たちが雁首を並べていた。決起大会が終わった後なのか、民主党造反議員大江が記者に囲まれて次のように言葉を踊らせていた。

 「まず財源的な、その裏づけというものに対しても、わが党の案というのはまったくメチャクチャですからね、われわれは今の状況の中で、えー、どちらを選択するということになれば、私はやっぱりそちらに対して、えー、自分の意思表示をさせていただく」(08年1月23日NHK「ニュースウオッチ9」)

 どのような事情に立っての発言か知らない者には真意が伝わらない意味不明の言葉の羅列となっている。「そちら」とはNHKが画面に(政府案)と追加字幕を入れる丁寧さぶりを見せていた。「自分の意思表示をさせていただく」などと持って回った言い方をせずに、もっとストレートに自民党案に「賛成するしかない」とでも言えないのだろうか。

 「わが党の案というのはまったくメチャクチャで」、「そちら(政府案)に対して自分の意思表示をさせていただく」とは、何日か前に官房長官の町村が記者会見で「ガソリンが25円下がると国・地方で2.6兆円の税収減になる、通学路のガードレールや開かずの踏切の整備、除雪作業に影響する、サミットで環境問題が議題となったときガソリンの税金を下げたりしたら温暖化対策に熱心だと見られない」といったことを言っていたのと対応する政策姿勢であろう。

 町村も町村である。戦後のほぼ60年をかけて税金・国庫のムダ遣いをしてきた自民党政治である。それを「そんなの関係ねえ、オッパピー」と棚にあげて、「2.6兆円の税収減」もないだろう。
 
 大江某にしても鈍感なのか、非効率・不採算の自民党政治のムダ遣いに一切視線を向けず、しかもムダ遣いの代表格だった道路建設であることを無視して道路建設のみに目を向け、自ら気づかずにいる。

 大江は24日の『朝日』朝刊≪世論争奪 ガソリン国会≫によると、<「バカなポピュリズムに乗じて党利党略的なことをすると信じたくない。民主党の心ある方の方針を聞かせてほしい」と自民党の伊吹幹事長から促され>(おだてられてと表現すべきだったろう)「心ある方」大江某は次のように「心ある」言葉を踊らせている。<「この場の空気や熱意が伝わらないようであれば、我が党はKY(空気が読めない)だ。地方に住む我々にとっては、生活とは道路なんだ」>・・・・

 言葉を踊らせ過ぎて素晴らしい熱弁となっている。道路は生活を維持する上で重要な要素であり、生活や生産を形成し発展させていく上での重要な基盤ではあるが、生活は道路だけによって解決されるものではない。

 過疎化で赤字路線化したバスが山間部から撤退して道路は残ったものの、町の病院まで行く足をなくして、経済的は負担を強いるタクシーを使ったり、親切に頼って知り合いの老人の車に便乗させてもらったりしてやっとのことで用を足している残された高齢者たちの生活状況は日本全国の地方に於ける今や特別ではなくなった一般的な問題であろう。

 バスが通ってこそ生活に役に立ち、生活に密着した「道路」だと言えるが、バスが通らなければ生活から離れた道路と化す。

 財政が悪化して、保育所や直営病院などの撤退、その他の住民サービスの低下,あるいは税負担の増加が相次いでいる地方自治体が少なからず存在する。残ったのは赤字経営か閉鎖して廃墟と化した温泉施設やスキー場といった観光施設。そして道路。何の意味があるのだろうか。

 こういった荒んだ自治体ではもはや「生活とは道路なんだ」とは決して言えない。「道路」はあっても何も解決してくれない。従来どおりの生活の維持には何の役にも立たない。住民サービスを失った地域の立派な「道路」とは倒錯的なブラックユーモアを示すに過ぎない。

 今朝(08.1.24)のNHKテレビで財政再建団体仲間入り寸前の青森県の大鰐町を取り上げていた。バブル時代に大型ディペロッパーと共に第3セクターを組んで大型の屋内型流水プールとスキー場を備えた温泉リゾート施設を経営したが、バブル崩壊で大型ディペロッパーが経営破綻、相手方の融資を肩代わりした残債が確か26億とかで、一度に返すと財政再建団体へスキーコースから外れて谷底に転落の危険に見舞われるからと年に3億円ずつ返済。しかしリゾート施設運営維持に町の財政から年に1億ずつ投入しているという。

 そのとばっちりが住民サービス向けられ、現在3カ所ある保育所が少子化や建物の老朽化を理由に廃止し、1カ所に統合されるという。人口12,188人、4,300世帯の小さな町と言えども、町自体の広さは163.40km²もある。概算すると、東西南北約13キロメートルずつの広さだから、それが1カ所になったなら、閉鎖される保育所に通っていた利用者にとってはかなりの遠距離通所となるだろうし、冬の積雪期となると、通所もままならなくなるに違いない。

 閉鎖される保育所に通っている子供の母親なのだろう、マイクを向けられて、「通うのに不便になれば、町から出て行く人も出て、余計に人口が減っていってしまう」といったことを言っていたが、町から出て行く住民にとっては出ていくための「道路」は欠かすことができないインフラだろうが、それが立派な道路であり過ぎたなら、虚しく見えるに違いない。あるいはこんなものに大金をかけてと腹立たしくなって、窓を開け道路に向けてツバでも吐くかもしれない。

 鈍感・粗雑脳細胞の大江某が言うのとは違って、基本的には「生活とは道路」では決してない。「生活」を保障するのは健全な財政運営であり、いい加減な財政運営は道路は残しても地域住民の生活を破壊する。地域住民の健全な生活安全保障とはならない。

 大江某の言い方を借りるなら、「生活とは健全な財政運営」と言うことができる。そして健全な財政運営が「道路」をも有効化する。当然、健全な財政運営と「道路」建設は両立を絶対条件としなければならない。例え借金で建設しても、計画通りの返済を行うことができなくなれば、見通しを誤ったのだから、健全な財政運営だったとは言えなくなる。

 いわば道路特定財源を維持することで国・地方合わせて2.6兆円の税収が確保されようと、健全な財政運営を条件としなければ、借金を重ねるだけだろう。条件としてこなかったから、借金を重ねるだけのことをしてきた。それが07年9月末現在で国の借金833兆円6982億円、老人から赤ん坊まで国民1人頭約653万円、地方と合わせて1千兆円超の借金という形となって現れたと言うことだろう。

 大江某は道路特定財源堅持を求める都道府県議会議員総決起大会の壇上で所属政党である民主党を次のように勇ましくも切って捨てた。

 「こんなことで国民に迷惑をかける政党は国民の政党ではありません」

 「われわれは今の状況の中で、・・・・自分の意思表示をさせていただく」までは許される。同じ党に所属していても、政策によっては考え方の違い・主義主張の違いというものがあるだろうからである。だが、違いは政策までで、自らが所属する民主党自体を「国民の政党ではありません」と切って捨てたのである。切って捨てながら、その党に所属しているのは自己矛盾そのものではないか。「国民の政党ではない民主党に所属しています」と言うことなのだから。

 自民党内の郵政造反議員に対して自民党は小泉首相の意を汲んで党除名や総選挙時に非公認の仕打ちで報いたが、大江康弘は民主党そのものを否定したのだから、自ら党を離れ、自分が「国民の政党」だと思っている自民党に移るべきだろう。自民党を「国民の政党」と位置づけるのは滑稽な逆説でしかないが。

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道路特定財源一般財源化/「必要な道路」という言葉のマヤカシ

2008-01-23 18:32:55 | Weblog

 自民党及び福田政権は民主党が要求する道路特定財源の一般財源化に反対している。その理由は「地方へ行けばまだまだ必要な道路がある。地方の事情を知らないのだ」とテレビに出る自民党・公明党議員は雁首を並べて右へ倣えの九官鳥かオウムみたいにバカの一つ覚えの同じ言葉を囀り踊らせている。

 都市選出の議員は開かずの踏切解消や電柱の地中化に道路特定財源は必要だと言う。

 開かずの踏切解消に何も電車の高架化が必要なわけではあるまい。電車が通らない夜中に線路下と道路上にH鋼で骨組みを造り、その上に鉄板を這わせて置いて車も人も電車も通行可能にしておき、地下に24時間作業の推進掘削工法でトンネルを掘り、掘った順に上からの重力に耐え得る既製品のコンクリート製のカルバートボックスを推し込んでいく工法なら、線路とその前後、車や人が出入できる距離の地下道を確保すれば済むから、高架にするよりも遥かにカネがかからない。

 多分工程は次のようになるのではないか。まずアスファルトの必要箇所にボウリングして薬剤を注入して道路下の土砂を固める。夜間工事で線路を含んでその前後の必要な距離の道路左右の端を掘削して、家の下の土砂が崩れないように必要な厚さで高さ2メートルで十分だと思うが、これも既製品のコンクリート壁を衝立形式で埋め込んで土留め擁壁とする。左右の擁壁間を内側に倒れないようにH鋼で支え、それを鉄板の厚さを引いて擁壁に固定し、その上に鉄板を敷いて、道路とする。トンネルの出入口は深さが浅くなるから、擁壁を崩しながらトンネルを掘り、その下にカルバートボックスを押し込む形になる。

 工事期間、地下への資材搬入スペースが必要なら、駐車場か閉店店舗を借りるかして、相手に対する損害補償を行えばいい。空き地も店舗もなければ、貸してもいい家主を募り、その家を壊して更地(さらち)として資材置き場を兼ねた搬入スペースとする。その家が商売屋なら、他に店舗を斡旋して、それなりの補償をする。

 より最適な工法が存在するかもしれない。日本の道路建設の技術を以ってして不可能事ではあるまい。電車の高架化よりも遥かにコストは低くて済む。

 建設費の低い道路建設はそれが談合で成立した建設であってもなくても、政治家や官僚その他の懐を潤す利益率が低くなるから、勢い余分にカネをかけて大工事にしたくなる。

 また灰色のコンクリートが剥き出しの高架は街自体を汚くする。日陰を余分につくり、朝・晩の街を暗くする。高架自体の大きさが街に圧迫感を与えかねない。

 今までも「必要」として道路を作ってきた。しかしその内幕は政治家・官僚・天下り・ゼネコン・地元有力者といった特定の存在を利する目的で計画された彼らに最優先に「必要な道路」建設であって、地域や経済活動の発展、あるいは生活者の生活の効率化・便利化を最優先に位置づける構図とはなっていなかった。

 だからこそ、車が滅多に通らない、通行人の姿もないだだっ広いだけの無駄な道路があちらこちらに建設されることとなり、談合で建設費を高く設定することもできたはずである。地域や経済活動の発展、あるいは地域生活者の生活の効率化・便利化を最優先に位置づけた道路建設であったなら、いわば政治家・官僚・天下り・ゼネコン・地元有力者たちの利益を眼中としない、それらを排除する建設であったなら、談合などできようはずはないし、建設したけれども利用者が少ないといった、ただ幅が広くて立派な道路が延々と横たわっる滑稽な無駄が生じるはずはない。

 言ってみれば福田首相が口先で踊らせている「国民本位」、「消費者本位」、「国民の目線に立った」といった言葉とは正反対の自分たちの利益のみを考え、国民の利益を頭の隅に追いやった道路建設を自民党政治の美しい歴史とし、美しい伝統とし、美しい文化としてきたのである。

 そのような自民党の道路建設の歴史・伝統・文化を温存させたままでは、「必要」、「必要」と言いながら、当然のこととして政治家・官僚・天下り・ゼネコン・地元有力者たちの利益に向けた道路建設を繰返すこととなり、結果として地域や経済活動、地域住民の利益とならない単に道路を造っただけ、カネをかけただけとなる同じ税金のムダ遣いを繰返すことになるだろう。

 そのような自民党の美しい歴史・美しい伝統となっている自分中心の道路建設文化をガラガラポンして息の根を止めるには、道路特定財源を一般財源化して道路族や道路官僚が直接手をつけることができないようにする方法しかないのではないか。

 その方法とは、「必要な道路」建設の要望事案が生じたなら、そのルート、道路規模、建設コストを計画立てた立案書を真に必要かどうか、その必要度と必要度に応じた建設規模と建設コストを審査し、建設を許可する第三者機関を設けてそこに提出させて審査させることで、国や自治体に対して道路建設に間接的な関与機会しか与えない方法である。

 いわばこれまでのように自分たちで計画立てて自分たちで決定する自己専管事項とさせるのではなく、そこに第三者の判断と決定を介入させて建設計画の贅肉部分・無駄を排除させ、より緻密な道路建設へと持っていく。

 さらに建設結果を評価する別機関を設けて、道路建設後の利用状況、経済波及効果、地域生活の活性化の度合い等から費用対効果を算出・評価しランク付けを行う。道路建設を計画する国や自治体と建設の是非を審査し、許可する機関の間に馴れ合いや癒着があったり、あるいはなくても建設後の道路を評価する機関の評価点数次第で責任の所在が明らかになる。責任の所在の明確化こそが無駄な道路建設の最良の歯止めとなるはずである。

 また自民党・公明党は民主党のガソリン税暫定税率廃止要求に対して、「道路整備など必要な対策を実施するための財源確保が必要」とか、「ガソリンが安くなれば車を走らせて環境悪化につながる」といった言葉を踊らせて反対しているが、「財源確保」は上記制度を設けて無駄を省くことで解決できない問題ではなく、ガソリンの値下げの問題はまたいつ値が上がるかもしれない不確定要素を抱えた値下げが一般国民に無暗に車を走らせる欲求に駆り立てるとは考えにくいことで、それよりもアメリカのサブプライム問題・株価下落等で景気が益々減速していきそうな予感の中、ガソリンが安くなることで生活不安に陥っている大方の国民に一息つかせる効果は計りしれないものがあるのではないだろうか。

 国民が元気でなければ、健全な消費活動に向かうことはない。個人消費が高まらなければ、輸出依存型からいつまでも抜け切れず、内需型経済は望めない。

 輸出型大企業のみが膨大な利益を上げ、それが国民に何ら還元されなかったことが逆に個人消費を冷え込ませ、それが原因となってサブプライム問題で震源元のアメリカ以上に株価が下落している現象を招いているといった指摘をテレビで伝えていたが、だとすると、ガソリン1リットルにつき25円の値下げ分でも他の消費に向かうように図るべきではないだろうか。

 生活不安の国民にほんのわずかでも元気を与える政治も「国民本位」・「消費者本位」だと思うが、無駄を省くことを考えない「財源確保」にのみ目を向けた福田政治・自公政治は「国民本位」・「消費者本位」の言葉は単に言葉を躍らせて国民の歓心を買っているだけの政治のようである。

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福田首相、あなたは正しい「言葉が踊るだけでは何も変わりません」

2008-01-22 08:45:15 | Weblog

 「Stop the 自民党」

 昨日衆院本会議での民主党鳩山幹事長の「日本を変えるためには、古い皮袋、即ち自公政権では無理です」(07.1.21/7:00~NHKニュース)

 新しい酒を古い皮袋に入れると皮袋が破れてしまうことから、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」という諺があるそうだ。小学生3、4年生の頃だったと思うが、日本がまだ貧しく、我が家はそれ以上に貧しかった頃、高価な牛革はとてものことで、より安上がりの豚革のグローブを買って貰ったことがある。店頭に並んでいる牛革製品と比べると見るからに貧弱で、鼻を近づけると豚革特有の臭い臭いがする。ザラザラしている裏側は特にきつく臭った。

 牛革にしても豚革程ではないにしても革特有の生臭い臭いがするはずだから、新しい酒を新しい皮袋に入れた場合、皮の臭いが逆に酒に付着して折角の酒の香りを消してしまうように思えるがどうなのだろうか。

 使い古す程に酒が逆に皮に滲みこんで、時間の経過と共に皮自体が独特の風味を放ち、それが新しい酒を入れるたびに酒に移って微妙な味わいを醸し出すように思えて、古い皮袋程、それが破けるほどに古くなければ、却って珍重されるといったことはないだろうか。

 「古い自民党政治」が珍重されるという意味ではない。鳩山幹事長が口にした「古い皮袋」よりも、「使い古して磨り減った靴底」という表現の方がくたびれ切って始末に負えなくなっている状況を示していて全身疲労・全身弛緩に見舞われている「古い自民党」の譬えにふわしく適切ではなかったのではないだろうかという思いがしたから、取り上げてみたに過ぎない。

 伊吹自民党幹事長がいくら真新しいピカピカの最高級靴を履いていたとしても、全身から受取る感じからしたら、「使い古して磨り減った靴底」のくたびれた靴を履いているようにしか見えない。どこをどう探っても、溌剌印象はその一カケラも見えない。

 鳩山「与党にあるのは政権から転落することへの恐怖と焦燥感だけじゃありませんか。・・・・・・人気取りのための<自立・共生」>という言葉遊びなら、やめてください」(08.1.22早朝/日テレ24)

 福田「言葉が踊るだけでは何も変わりません。政治は行動であり、結果でございます」(上記NHKと日テレ24から)

 自民党の総理大臣でこれ程の「絶対真理」を述べた首相はかつて存在しただろうか。安倍口先前首相にはないものねだりの「絶対心理」である。尤も安倍晋三も「政治は結果責任」という言葉を機会あるごとに口先で「踊」らせていたが、「結果」をつくり出す行動を最後まで取らずに政権を投げ出してしまう「無責任」を安倍政治の「結果」とした。見事なまでの「オッパピー」。

 医師と看護師の大都会集中・大病院集中とその反動としての地方での医師・看護師不足、地域間の富の偏在と産業格差、そのことによる地方経済の疲弊・破綻、農村からの人口流出・過疎化とその代償としての高齢化、非正規社員の増大といった形で現れている強者温存・弱者無視の人権意識を基盤とした労働政策とその結果の個人間の収入格差、自殺者や生活保護受給者、孤独死者の増加、そして同じ人権意識が作用した厚生医療政策に於ける十分に医療や介護を受けることができる者とできない者との待遇格差等々。

 現在の日本という国のこのような散々な体たらく、殺伐・荒涼とした社会の姿はすべて「自民党政治」によって「行動」された「結果でございま」して、「オッパピー」、裏を返すまでもなく、「自民党政治」が一党独裁状況を利用して驕り高ぶり、族益・省益を自分たちの行動基準とし延々と政策の「言葉」を躍らせ、口先だけで弄んできた(その代表選手は安倍晋三前首相なのは誰もが認める絶対事実だろうが)、その空疎さの「結果」であることの証明であろう。

 奇しくも福田首相は「言葉が踊るだけでは何も変わりません。政治は行動であり、結果でございます」と、「行動」と「結果」の関係式で言い表される「何も変わらない」現在の惨憺たる日本の現状を取り上げることで自民党政治の本質を「言葉」を踊らさせてきたに過ぎない内容だったと逆説的に言い当てたのである。

 まさか現在の日本の姿を誇って、「政治は行動であり、結果でございます」と言ったわけではあるまい。「自民党政治」が言葉を踊らせてきたに過ぎないから、今の日本があり、今の日本の社会があるはずである。

 日本で今一番の「小島よしお」的組織は民主党鳩山幹事長が「古い皮袋」と表現した「古い自民党」、私自身は「使い古して磨り減った靴底」と表現したい「古い自民党」なのではないだろうか。日本で一番の「国民なんか、そんなの関係ねえ、オッパッピー」を組織的に演じている政党というわけである。

 だからこそ、福田首相は組織の親玉としてその綻びを誤魔化すために「国民の目線に立った」とか、「国民本位」、「消費者本位」といった「言葉」を「踊」らせなければならなくなった。前の首相である安倍晋三が特に目立って「言葉」を「踊」らせて来たこともあって、一層始末が悪くなった綻びの修復に右往左往しているといったところなのだろう。

 改めて福田首相の言葉。「言葉が踊るだけでは何も変わりません。政治は行動であり、結果でございます」

 何も変わらなければ、却って国民にとっては幸せではないか。日本の社会は悪い方向への一方通行のみを突っ走っているようにしか見えない。認知症の高齢運転者が高速道路を気づかずに逆走するように。当然、「Stop the 自民党」があるのみ。

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食える国と食えない国の「食の安全」

2008-01-20 07:09:42 | Weblog

 クーロン肉食品の安全性の実験台に志願の用意あり
 
 細々とした国民年金暮らしで節約に節約を重ねなければならないから、安売りのウインナー以外、加工しない肉など満足に食べたことがない。それでも豚肉かニワトリの手羽などは1ヶ月に一度ずつくらいの間隔で食べることにしているが、牛肉となると、いつ食べたか忘れてしまい、何ヶ月に一度は食べるとは言えない。

 秋田特産の比内地鶏を使ったわけでもないのに産卵用鶏の卵を産まなくなったいわゆる廃鶏を原料に比内地鶏の燻製とか偽装して販売していたことが露見したとき、原料とした廃鶏の値段は確か一羽100円以下と報道していた。鶏肉細切れの100グラムの値段程度の100円以下で鶏を一羽、丸焼きにして食べることができたら凄いなと、その安さと量の違いにに驚いてどうしたら手に入れることができるだろうかとインターネットで探してみた。

 ラーメン屋がスープの出しにする鶏ガラにされるとか書いてあるHPがあった。骨以外の肉はどこへ行くのだろうか。産業廃棄物として捨ててしまうわけではあるまい。骨以外に利用価値がないとなると、一羽100円以下の値段が廃棄のコストを加えて骨だけ取り出す手間にそのまま跳ね返って鶏ガラ自体の値段が高くなり、当然ラーメンの値段に影響することになる。肉のすべてを利用することによって、鶏ガラの安さは維持される。

 ペットフード用の肉になると書いてあるHPもあったが、産卵業者から直接ペットフード製造業者にまわることはあっても、個人の肉屋やスーパーからまわるとしたら、輸送コストが高くつく。

 安売りの串刺し焼き鳥用にまわされたりするのだろうか。何しろ秋田特産と銘打って廃鳥が比内地鶏燻製で通るのだから、安売りの焼き鳥に利用されていたとしても不思議はあるまい。兎に角食用できる状態で簡単に安く手に入れる方法はないかと、羽をむしられて丸裸になった丸ごと一匹の鶏につい執着して頭から離れない。まともな値段のまともな一羽には死ぬまで出遭う機会はないと思うと、余計に裸姿の廃鶏が恋しくなる。買い物のすべてが美味い・不味いが基準ではなく、少しでも安い値段であることが基準となっているから、味がちっとやそっと悪くたって「そんなの関係ねえ、オッパピー」である。中国産の椎茸とかの農産品が基準以上の農薬が使用されていたことが問題となっても、安けりゃいいというわけで全然気になどしなかったくらいだ。日本もかつては農薬使用大国であった。それをいたって健康のまま潜り抜けてきたことと老い先が短いことを考えると、身体を労わるよりも懐具合を労わらざるを得ない。

 ササニシキだかコシヒカリだか忘れたが、銘柄米を新米と偽って古米を混ぜて販売していたことが判明したと伝えるテレビが確か古米の値段を1キロ100円前後だと言っていたが、それを聞いたときも5キロ入りで500円、10キロ入りで1000円、2000円や3000円節約できるなと思って、たちまち古米に恋焦がれてしまい頭から離れなくなった。

 米屋はどこから古米を仕入れているのだろうか。農林水産省の備蓄米倉庫から古い順に放出される機会を狙って仕入れているのだろうか。それとも農協の売れ残った米なのか、インターネットで調べてみた。古米が安い値段で販売されていて、個人でも簡単に手に入れることができるなら、生活安全保障に甚だしく関わってくる。そしたらポータルサイト「goo」の「古米、古々米の購入方法-教えて!goo」に出会った。
質問の内容は、現在10キロ2700円程度の新米を購入して食用にしているが、生活費をさらに節約するために安く手に入るなら古米を購入したいが、どこで売っているのか教えてもらいたいというものである。

 同じ思いの人間が他にもたくさんいるに違いない。返答者は「たくわえくん」という備蓄米があることを紹介していた。漢字で書くと「蓄え君」になるのだろうか。さらにインターネットで調べてみると、品質が劣化しないよう精密な空調管理のもと玄米の状態で備蓄した米のことで、産米をそのまま出荷するのと違ってそれ相応にコストがかかるだろうから、新米への混入米にもならないだろうし、古米として一般に出回ることもないように思えた。

 ただ「教えて!goo」の返答者の次の言葉がなかなか辛辣で振るっている。

 「10kg2700円と言うのはすでにかなり安いと思いますが・・・
 新米と袋に表示されていても、実はご要望通りのものを召し上がっている可能性があるのでは?」

 新米と銘打っていても古米を混入しているゆえの安さではないかというわけである。だが質問者の希望は生活防衛最優先の混ざりっ気なしの古米との出逢いであり、新米分の値を差引いた「2700円」よりももっと安い古米だけの金額で凌ぎたいということなのだろう。

 希望の古米に出逢えたかどうか不明だが、腹が満たされればそれでいい、身体を労わるよりも懐具合を労わらざるを得ないという人間が世の中にはたくさんいるだろうから、古米と銘打った安い値段の米がスーパーでも米屋でも手軽に入手できるシステムは期待できないものだろうか。

 それとも古米に走る人間がたくさん出て、新米が売れなくなる需給混乱が起きるのだろうか。少なくとも言えることは古米を古米として流通させる仕組みができなければ、新米に古米を混ぜて新米の値段で売る誤魔化しはなくならないように思えるが。

 トウモロコシや小麦といった植物性穀物がバイオ燃料にまわされているだけではなく、オーストリアといった小麦生産地の凶作によって生産が大打撃を受ける要因も加わり、穀類が軒並み高騰し、そこに原油高が仲間入りして一般生活者の生活に打撃を与えている。微々たる国民年金生活者の中には食べる量を落としてまで家計の遣り繰りに走る者も出るに違いない。

 さらに穀物の高騰に追い討ちをかける報道を日経新聞が1月18日(08年)に伝えている。

 ≪遺伝子組み換え作物「生態系影響に疑い」・仏政府諮問機関≫

 <【パリ=古谷茂久】遺伝子組み換え作物の安全性を評価するフランス政府の諮問機関は同国内で栽培されている組み換えトウモロコシについて「(生態系への影響などに)深刻な疑いがある」との報告書をまとめた。ボルロー環境相は「至急、対策をとる」と述べた。世界有数の農業国が組み換え作物の栽培禁止に踏み切れば他国の農業政策に影響を与える
 仏国内で栽培されている組み換え作物は現在、トウモロコシだけで、昨年の作付面積は約2万2000ヘクタール。報告書はこのトウモロコシに組み込まれた遺伝子が自然界に広まり「動植物や土壌の微生物に悪影響を及ぼす恐れがある」と指摘した。政府は2月から組み換え作物全体を規制する新法の制定に着手する方針だ。>・・・・

 遺伝子組み換えトウモロコシが何に利用されているか知識不足だが、トウモロコシ自体は食用以外にバイオ燃料の原料、もしくは鶏や豚、牛の飼料に利用されている。誰が見ても他の物価への波及は避けられない状況にある。生活困窮者がその痛みをまず引き受けなければならないが、それ以上に最貧国の飢えに苦しむ国民への穀物供給に悪影響を及ぼすことにならないだろうか。
 
 何日前かに牛、豚、ヤギのクーロン家畜の肉や加工食品の安全性を保証する米食品医薬品局(FDA)の報告書が公表されたが、実際に安全なのかと消費者団体側から批判や反発が出ているといったニュースが流れた。

 必要は発明の母と言う。「必要」と言うカードが生じたからこそ、遺伝子組替え穀物やクーロン家畜が発想され、誕生を迎えたのだろう。大豆やトウモロコシ、小麦が安価な上有り余っていたなら、家畜飼育用の飼料にも十分にまわり、遺伝子組替え穀物もクーロン家畜もそれらの発明を促す母なる「必要」は生じない。

 自然栽培の食物のみで地球上のすべての人間の「食」の欲求を満足に満たすことができ、誰一人飢えることのない食糧事情にあるならいいが、経済的に豊かな国の国民だけが自然栽培食品で十分に食の欲求を満たすことができるが、貧しい国の貧しい国民が満足に「食の欲求」を満たすことができていないと言うことなら、クーロン家畜も遺伝子組替え食品も必要であろう。

 要は人間生命の活動に安全か否かである。もし安全でない、生態系に悪影響があるということなら、乗り越えなければならない技術的課題ではないだろうか。
 
 単に安全性の面から存在自体を否定するだけでは、食物の値段が高騰することはあっても食糧不足を起こさずに済んでいる国の人間だけが「口の中に入る食品の安全性」を問い、満足に食糧にありつけない貧しい国の人間は「口の中に入らない食品の安全性」に振り回される逆説的食糧事情に立たされかねない。と言うことは、食えない国の飢餓・餓死を置き去りにする食える国の自己中心的な「食の安全」に堕す。

 FDAのクーロン安全宣言を受けて米政府は準備期間を置いて流通に乗せる意向だと08年1月16日の毎日新聞インターネット記事が伝えている。
 ≪クローン家畜:安全宣言受け、流通開始も視野に-米農務省(毎日新聞 

 <【ワシントン和田浩明】米食品医薬品局(FDA)が、体細胞クローン技術で生産された牛、豚、ヤギを食品として安全と判断したことを受け、米農務省は15日、関係業界などと流通開始を視野に入れた調整を始める意向を示した。一方、当面の間はクローン食品の販売自粛(01年6月導入)を継続するよう要請した。自粛期間は「市場へのスムーズで切れ目のない導入を準備するのに十分な期間」と述べるにとどめた。
 農務省はFDAの評価を全面的に支持しており、自粛継続の要請は、安全上の懸念からではなく、クローン家畜の追跡システム構築など関係業界や市場の体制整備を行う期間確保などが目的。
 自粛が解除されても、クローン食品流通には数年かかるとの見通しを米メディアは示している。市場に出れば、日本への輸出の可能性もある。米国内での販売時にクローン食品かどうかを表示させるべきかについて、農務省は「通常の食品と変わりがない以上、区別を求める根拠はない」と説明している。>・・・・

 表示義務付けなしは表示を義務付けた場合の消費者のクーロン食品回避が流通停滞を起こしかねない、そのこと恐れた措置ではないだろうか。

 だが表示の義務付けが行われない場合、一般の肉らしく販売して値段は据え置く、あるいは加工肉食品の中に混入させて一般の肉と見せかける偽装を行い、値段は通常のままということが起こらないだろうか。いくらFDAが安全宣言を出したからといって、偽装への疑念と安全性への疑念が併せ合った疑心暗鬼が消費者の不安を肉製品全体に向かない保証はない。

 そういった状況を受けて消費者の肉離れ・魚志向が生じた場合、生産者側が自主防衛から製品に「クーロン肉は一切使っていません」といった表示をつけて肉離れの阻止を図ることも予想される。そうなった場合、クーロン肉が市場から駆逐され、反対派には勝利の瞬間となるが、全世界的に見た場合の食糧不足の解決から逆に後退することにならないだろうか。

 新しく開発された医薬品は安定性や毒性、副作用の有無を問う動物実験を経て、実際に人間に投与して危険ではないか、患者に試す前に健康な人間に試用させて同じ結果が得られるか臨床試験(治験)を行う。「当面の間はクローン食品の販売自粛(01年6月導入)を継続する」、自粛期間は「市場へのスムーズで切れ目のない導入を準備するのに十分な期間」ということなら、その間、食費節約のためならクーロン食品の安全性を自らの身体で試してもいい、懐具合を労わることさえができたなら、身体は労わらなくてもいいといった人間が少なからずいるだろうから、肉類やその加工品はクーロン食品に限ってその食用の機会を与えて安全かどうかの判定を目に見える形で提供するようにしたらどうだろうか。健康に異常ないということになったなら、消費者は表示の義務付けがあってもなくても何の抵抗もなく受け入れるようになり、クーロン製品の普及に拍車がかかって、その結果全世界的に見た場合の貧しい国には届かない食肉の偏重を是正する一助につながっていくように思える。

 医薬品の治験のアルバイトに応募する人間も、大学生とかが多いようだが、簡単にできて結構値のいいアルバイト料が目的の応募で懐具合優先を動機としているだろうから、食費節約のために肉など満足に食べる機会がないといった私みたいな人間の応募がたくさんあるように思えるのだが。クーロン肉が安全かどうか自らの人体を使って試すというのもなかなか刺激的な実験のようにも思える。

 いずれにしても食べることに事欠かない国の人間だけが「食の安全」を基準に食品の受入れと排除・取捨選択を行うのではなく、食べることに事欠いている国の人間の食の欲求を満たす方向をも併せた生産機会の多様化を図るべきだと思うが、どんなものだろうか。

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