日本の政治決定を官僚主導で担ってきた機関である事務次官会議を官僚主導から政治主導への転換を掲げてきた民主党が政権獲得後の鳩山前政権下で廃止し、大臣・副大臣・政務官の政務三役による「政務三役会議」を各府省の最高意思決定機関として代替させ、政治主導による政治決定へと持っていった。
だが、菅内閣はこの政治主導路線を修正、大臣・副大臣・政務官の「政務三役会議」に省側からの事務次官らの陪席を要請した。《政務三役会議に次官も 官房長官、「脱官僚」を修正》(asahi.com/2010年12月28日15時1分)
昨12月28日(2010年)に首相官邸で開催の各府省事務次官に対する年末訓示で仙谷官房長官がその要請を行い、年明けにも実施する考えだという。
仙谷官房長官「(政務三役会議に)次官や官房長が可能な限り出席、陪席するようお願いしたい」
記事はこの発言を以って、〈政務三役会議は民主党政権が政治主導の象徴と位置づけていたが、官僚トップの事務次官の出席容認は「脱官僚」路線を大きく軌道修正するものだ。〉――
軌道修正とは言っているが、菅首相は有言不実行内閣の看板を高々と掲げたのである。軌道修正と見るよりも既定路線への進入と見るべきかもしれない。
仙谷官房長官「民主党政権になり政治主導の行政を進めているが、政治主導とは事務方が萎縮したり、政治に丸投げしたりすることではない。政務三役と官僚が適切に役割分担し、緊密な情報共有、意思疎通を図りながら、国民のために一丸となって取り組むことだ」
仙谷官房長官「政務三役会議で事務方を排除することによって、意思疎通が図られないようではいけない。次官・官房長が出席、陪席するようお願いしたい」
要するに政務三役会議で事務方を排除したために政務三役と事務方の役割分担が適切に行うことができなくなってしまった、両者間の「緊密な情報共有、意思疎通」が実現できていなかったと言っている。
言い換えると、脱官僚、政治主導を掲げて事務次官を排除した「政務三役会議」は欠陥組織だったとの白状である。一度追い出した女房だが、家庭がうまくまわらなくなったから戻ってこいと強制するようなものである。
記事は解説している。〈民主党政権は事務次官会議を廃止し、週に数回開いている政務三役会議で意思決定や各省間の調整をしている。こうした仕組みの導入は、省庁の縦割りの弊害を廃し「省益」にとらわれず速やかに政策判断を進める狙いがあった。
ただ、主要課題の判断から官僚を排除したため、各府省が抱える情報を政務三役と官僚が共有できず、省庁間の調整がスムーズに進んでいないとのデメリットを指摘する声も出ていた。〉――
戻ってこいと言われた女房の方は、そら見たか、私なしではやっていけないではないかと立場を強くし、いつ主導権を確立しないとも限らない。官僚主導への逆戻りである。
政策決定とは情報決定である。それぞれの政策の構築に必要な様々な方面から収集した様々な情報の中から何をどうすべきかの情報を最終的に決定する。それが政策であろう。
組織に於ける情報発信を受けた情報収集と情報決定はピラミッド型の段階構造を取る。頂点に立つのが菅首相であり、最終的情報決定者として君臨している。
大臣・副大臣・政務官の政務三役は首相の下に位置し、さらにその下に各省の次官たちが位置している。首相が政務三役が持つ情報を如何に発信させ、それを如何に収集し、如何に情報決定するかは偏に首相の判断能力にかかっている。
勿論、政務三役も自分たちが収集して持つ情報を自分たちの方から首相に対して如何に発信し、首相の最終的な情報決定に如何に資するかはやはり偏に政務三役たちの判断能力にかかっている。
このような形式を踏むなら、政務三役にしても自分たちの段階で次官たちが持つ情報を如何に発信させ、それを如何に収集し、如何に情報決定し、その決定した情報を首相の最終的な情報決定に資するかの判断能力は役目上常に問われることになる。
要するに政務三役が政務三役会議以前の段階で執り行うべき次官たちとの「緊密な情報共有、意思疎通」だったはずである。政務三役会議に次官の参加を排除したということなら、他の方法で図るべき三役側からの情報収集であり、次官側に仕向ける情報発信でなければならなかった。
情報収集のために下部機関から情報を発信させて、発信させた情報の中から中間的に自ら情報決定する能力を発揮できなかったということは、いわばそれらの能力を欠いていたということは例え政務三役会議に次官の出席を要請したとしても、次官たちが発信する情報を単になぞる形の情報招集と情報決定しか期待できないことになる。元の木阿弥、官僚主導への回帰そのものとなる可能性である。
政治家側と官僚側の「緊密な情報共有、意思疎通」について、《仙谷氏、次官同士の調整も容認 政官の連携重視へ転換》(asahi.com/2010年12月29日2時5分) が書いている。
先ず記事は政務三役会議への次官の陪席要請を〈大臣・副大臣・政務官の政務三役を軸とした政策立案・調整は十分機能しなかったと自ら認め、官僚との連携重視に踏み出した。〉と、前の記事の発言を含めた仙谷官房長官の発言に添った解説を施している。
仙谷官房長官(28日)「政務三役会議に事務方の陪席を認めないところもあると聞いているが、政務三役会議の決定事項が円滑に実施されない弊害もある。陪席を認めても差し支えない案件では次官や官房長らの陪席を認めるなど、各府省の運用を見直してほしい」
「政務三役会議に事務方の陪席を認めないところもあると聞いているが」は陪席を認めている省もあることになる。政治家側と官僚側の「緊密な情報共有、意思疎通」の必要上からの措置であろう。当然と言えば当然だが、陪席云々ではなく、政務三役会議以前の段階で政治側が次官側に対して日常普段的に情報を収集し、情報を発信させる関係を構築していなければならないはずであるし、そういう関係でなかったなら、政務三役自身による時間をかけた満足な情報解読と情報決定は望み薄となり、逆に次官たちの解読と決定を経た情報に依存した政務三役の情報決定となりかねない。いわば従来どおりの官僚主導による情報決定である。
仙谷官房長官(閣議後の記者会見)「事務次官レベルの協議の場が必要であれば適宜、私の方から提起していく」
とは言っても、実際には事務次官たち自身が政務三役に向けた情報発信をどうしたらよりよい形に持っていけるか、そのことを機能させる方法・機能させる場を自分たち設定すべきことで、それが持ち場持ち場に於ける役目であり責任であろう。それができなければ、自分たちの情報招集と情報決定も満足に機能させることはできるはずもなく、当然政務三役に向けて発信する情報も満足な内容は期待できないことになる。
持ち場持ち場の役目と責任を十分に果たすべく意志を働かせたなら、いわば各自が持つ情報をより完璧な状態に持っていく意志を持っていたなら、他省庁との情報の交換も必要不可欠となり、必然的に縦割りを排することになる。
結局のところ、情報処理全般に亘って理想的な方法で機能させる力を持たなかったということであろう。
この時期に時間陪席に踏み切った理由。
仙谷官房長官「一年の締めくくりだと思ってやった」
機能していないということなら、機能していないと分かった時点で機能するよう適宜軌道修正を図るべきだから、「一年の締めくくり」は意味を持たない理由となる。機能していないにも関わらず、軌道修正は「一年の締め括り」とするために年末まで待ったことになる。この危機管理は官房長官としての役目上素晴らしい危機管理となる。
記事は政治主導のそもそもの出発点とその破綻を次のように書いている。
〈民主党政権は「政策の決定は、官僚を介さず、政務三役が担う」(鳩山由紀夫前首相の所信表明演説)としていたが、官僚との「融合」を強調することになった。〉
その理由。
〈背景には、細かいデータを持たない政治家だけで判断を一手に引き受けて混乱を招いたことへの反省がある。「本来は官僚のやる仕事まで政務三役がこなし、役割分担がはっきりしなかった」(民主党の政務官経験者)というわけだ。「政治主導を振りかざす政務三役と事務方とのかたくなな関係」(法務省幹部)は官僚排除につながった。〉
〈細かいデータを持たない政治家だけで判断を一手に引き受けて混乱を招いた〉としていたこと自体が政治側の次官側からの情報収集と次官側の政治側に向けた情報発信を満足な形で機能させる全般的な情報処理能力を欠いていたことになる。「細かいテータを持たない」まま政務三役段階での情報決定を行っていたと言うのである。当然最終的情報決定者である首相に満足な情報発信は期待できない。首相側から言うと、三役側からの満足な情報収集は不可能ということになる。
その混乱の典型が外交――特に尖閣諸島沖中国漁船衝突事件以降の対中外交を襲った。
仙谷官房長官「中国政府がどう反応するのか、外務省から情報が上がってこない」
この発言は菅首相の「首相官邸は情報過疎地帯だ。役所で取りまとめたものしか上がってこない。とにかく、皆さんの情報や意見を遠慮なく私のところに寄せてほしい」(YOMIURI ONLINE)とそっくりそのままである。
仙谷官房長官のこの発言は、「外務省から情報が上がってこない」ままに任せていたということになる。日常普段から情報が上がってくる構造の組織を構築していなかったばかりではなく、「情報が上がってこない」ままに任せていたと言うことは官房長官の役目と責任、あるいは危機管理を果たしていなかったことになる。
何とも情けない菅内閣の女房役である
仙谷官房長官「総理も私と共通している」
独断であろうはずはないから、菅首相承知の政治主導有言不実行官僚主導回帰であろう。最終決定は政治主導だといくら抗弁しても、官僚側に情報発信させ、それを収集して決定する全般的な情報処理能力のこれまでの機能不全を考えると、記事が書いている、〈肝心な情報を事務次官に集約する仕組みを変えられなかったため、政務三役主導は十分機能しなかった。〉――いわば事務次官集約から三役集約に仕組み変更をできなかった力不足を考えると、官僚が収集し、発信した情報に依存した情報決定となるのは目に見えている。
仙谷官房長官が「総理も私と共通している」と言った当の菅首相がまた馬鹿げたことを言っている。
菅首相「省庁には膨大な仕事があり、政務三役だけですべてやろうと思ってもオーバーフローする」
一国の総理大臣でありながら、組織に於ける情報発信を受けた情報収集と情報決定(=情報運用・情報活用)はピラミッド型の段階構造を取るということを何ら認識していないようだ。各省庁の情報処理自体がピラミッド型の段階構造を採り、最終的に省庁のトップが決定した情報の発信を受けた政治側の情報処理へと進むのだから、情報は各段階で集約された内容を取る。
にも関わらず、「政務三役だけですべてやろうと思ってもオーバーフローする」と言うことができるのは、省庁に於ける情報処理に関わる人数から言っても、全体の情報量から言っても、不可能を不可能と理解する頭を持たず、省庁の多人数による膨大な情報の処理を省庁に変わって少人数の政務三役がすべてこなすと解釈しているからだろう。それが政治主導だと。
要するに脱官僚だ、政治主導だと偉そうに言っていただけのことで、情報運用、情報活用、情報処理、情報発信、情報決定すべてに亘る情報処理に関して無能だったと言うことに尽きる。特に内閣のトップである菅首相とナンバーツーの仙谷官房長官のその発言から正体がすぐ分かる情報に関する認識不足は如何ともし難い。 |