尾木直樹のイジメを防止法で「バシッと歯止め」をかけつつ学校作りの二刀流療法は教育放棄を詳しく解説

2024-04-30 05:02:04 | 教育
 【副題】《死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった主張をしながら、イジメを"法律によってバシッと歯止めをかける"の矛盾は底なしの無責任》

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)から最終章「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目を取り上げて、表題に示した矛盾を摘出したいと思う。

【お断り】書籍からの引用箇所は〈〉、「」カッコ付きとし、黒色太字と茶色太字は書籍のままとする。年号等の和数字は算用数字に変えた。引用箇所以外でも、〈〉、「」の記号は使うが、文脈から判断してほしい。)

 「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目に入る。
 「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!
 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です
 
 では、「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!

 次のように解説している。次々と不幸なイジメ自殺が相次ぎ、多くの子どもたちがイジメで苦しむ状況は一向に改善されていないことを考えると、イジメを堰き止めるための対策が緊急に求められている。2012年11月に国は「犯罪行為に相当するイジメについて警察への早期通報を徹底する」通知を全国の教育委員会、各都道府県知事などに出した。

 その内容はイジメに関係した「校内での傷害事件、暴行、強制わいせつ、恐喝、器物損壊」等々、刑罰法規に抵触する可能性がある事案は警察への早期連絡と連携、被害者の生命や身体の安全が脅かされた場合は直ちに警察に通報する。

 当然、通報を受けた警察は明らかに刑罰法規に抵触すると看做した案件については取調べ後に逮捕・検察送り(検察官送致)、その後家庭裁判所送致もありうることになり、結果として保護観察、試験観察以外に実刑に相当する少年院送致も否定できないことになる。だとすると、尾木直樹は「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の一項目で、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で、アメリカ・マサチューセッツ州での2010年1月の当時15歳女子高生イジメ自殺事件を例に挙げて、アメリカではイジメ行為が既存の刑法に該当する犯罪と看做された場合は、その刑法の規定に従った刑事罰に委ねられると解説していたが、この書籍出版(2013年2月)当時は何もアメリカに限った話ではないことになり、日本のイジメ対策の欠陥のように触れていたことは虚偽説明となり、尾木直樹の人格の疑わしさがなお浮き立つことになる。

 その上、ここでも八方美人的言説を弄している。〈本来であれば、きちんと解決できる学校や地域をつくり、警察はその後方支援をするという関係性が最も望ましいことです。が、現代のいじめは歯止めとして警察の介入が必要なほど、ひどい状況になっています。理想論では子どもたちの命を救えないところまできてしまっているのが事実です。〉――

 イジメに関わる学校に対する警察の最も望ましい関係性としている"後方支援態勢"だけでは問題が片付かない原因はイジメ対策に関わる学校や助言を撒き散らすだけの教育評論家たちのイジメに手をこまねくだけの無力にも原因の一端はあるはずで、単に「最も望ましいことです」で済ますのは無責任を棚に上げた物言いとなる。

 その最たる一人である尾木直樹の無責任は次の文言にも現れている。

 〈学校や教育委員会が機能不全に陥り、いじめ自殺をストップすることができずにいる状況では、子どもを守るための緊急措置が早急に必要です。警察との連携はそのひとつですが、私はもうひとつ、時限立法でよいから「いじめ防止法」を日本でも検討すべきだと考えています。〉――

 責任を学校や教育委員会に預け、尾木直樹は自身を責任の外に置いている。この無責任は「いじめ防止法」制定の主張にも現れている。

 前の項目、「子ども自身が中心になってこそ「いじめ」を駆逐できるのです」で、「『子どもの問題のスペシャリストは子ども』との観点に立つ」と題して、〈これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います。子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉と主張していたこと、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」の項目箇所で、死刑制度が犯罪抑止に役立っているわけではないこと、少年法の法の適用年齢を引き下げが必ずしも少年事件の抑制に効果を上げているわけではない等、法の規制に否定的考えを示していたこと、日本ではいわば重大事態に当たるイジメはアメリカでは刑法扱いとなっていて、上に挙げた2010年の女子高生イジメ自殺事件では少年の2人が懲役10年の刑を受けたが、泣いて後悔し、司法取引の末100日間の道路清掃のボランティアとなった事例をアメリカではイジメには刑事罰ではなく、教育罰だと牽強付会まで働かせて教育罰での問題解決を主張していたことと明らかに矛盾する展開であって、無責任なご都合主義を曝け出している。

 但し矛盾との整合性を取るために特大の釈明を持ってきている。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。今でも学校の教育活動、あるいは家庭教育や地域の教育力を高めていくことで、いじめをなくしてもらいたいという願いは変わりません。

 したがって、法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません。できることなら、先述したような、「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。けれども、学校という土台の修復メドが立たない以上、土台の立て直しを待って……などと悠長なことは言っていられなくなっています。

 法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていくといった、対症療法と根本治療の二刀流でいかなければ、もはやいじめの濁流を堰き止めることはできないでしょう。日本でも「いじめ防止法」を制定することは急務の課題です。〉――

 "法律によってバシッと歯止めをかける"とはまだ決めないうちの法律に100%全幅の信頼を置いている。尾木直樹だからこそできる芸当なのだろう。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、「法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません」と言いつつ、その"本望ではない"をかなぐり捨てて、法律制定への強い期待を見せている。その上、言っていることが一種の教育放棄となることに気づかないのだから、教育学者として最高ランクの八方美人に鎮座させなければならない。

 先ず指摘しなければならないことは法律が規定する対策が必ずしもイジメや犯罪を止めるわけではないことは次の理由による。何らかの欲望や感情に支配されて、その充足に関わる損得の、特に感情的な利害に絡め取られた場合、既に法律の規定に向けるべき理性の働きを失っている状態に自身を置いていることになり、充足できなかった際の"損"を排除、充足させる"得"を優先して欲望や感情の利害に決着をつけることになる。これが様々な法律が存在するにも関わらず、人間がイジメや犯罪を犯してしまうメカニズムとなっている。

 小中学生のイジメの場合、教師や保護者や尾木直樹が言う何らかの「いじめ防止法」や学校の規則を楯に「このように決めている、あのように決めている、イジメてはいけない」と言い諭そうが、理性自体が未熟な状態にあれば、未熟な分、欲望や感情はコントロール機能を失うことになり、その充足に向けた損得の利害に縛られた場合、善悪の理非よりも充足だけを考えて、そのための行動を取ってしまう。

 こういった行動のメカニズムが少年法が法の適用年齢を引き下げて事実上の厳罰化に向かっても、データ上で少年事件が少なくなっていないという尾木直樹が指摘している現実を見せることになっているのであって、尾木直樹はこのような理解がないままに少年法の無効力以外に死刑制度の犯罪抑制無効力や監視カメラの犯罪予防の無効力を口にする一方で、「いじめ防止法」の効力に期待をかけてその制定を望み、その矛盾に気づかないでいられる。

 法以前の問題としての欲望や感情の充足の損得の利害に流されない要件としての善悪の理非が判断できる理性の確立が必要であって、理性の確立は主体性の確立と深く関わっている。備えるに至った人格上の両要素は理性が主体性を支え、主体性が理性を伴走者とさせ、自立心(自律心)の育みを同時進行させる。これらの人格を特徴づける性向によって自己決定意識や責任意識、自他の省察能力を体することになり、これらの諸々の人格上の要素が個の確立へと向かわせ、個の確立が欲望や感情充足の損得の利害に流されない感情のコントロールを備えさせて、イジメの抑制効果へと行き着く。

 勿論、完璧な状態というのはあり得ないが、法律がイジメを止めるのではなく、あくまでも主体性や自立性(自律性)を伴った理性であり、そのような理性が感情のコントロールを機能させうるかどうかに掛かっている。もし法律がイジメを止めてくれるなら、それは法律が規定している罰則が自分に降りかかる影響への損得の打算が働くからであり、損得の打算をコントロールするのも、その本人なりの理性であって、ときにその理性による損得の打算よりも欲望や感情の充足に向けた利害が上回った場合は犯罪に走ってしまうことになる。

 「いじめ防止対策推進法 第23条いじめに対する措置6項」の、〈学校は、いじめが犯罪行為として取り扱われるべきものであると認めるときは所轄警察署と連携してこれに対処するものとし、当該学校に在籍する児童等の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるおそれがあるときは直ちに所轄警察署に通報し、適切に、援助を求めなければならない。〉の規定が生かされることになったとしても、警察がイジメ行為を刑法として扱うのはあくまでも既遂状態にある個別の案件に対してであって、未発生状態にあるイジメの歯止めではない。

 もし尾木直樹が逮捕されたイジメ加害者の受けた生半可ではない刑法上の懲罰を以って他の児童・生徒をしてイジメ行為の損得を打算させ、その打算によってイジメを怯ませる効果を狙った「法律によってバシッと歯止めをかける」だとしたら、これ以上の教育放棄はないだろう。恐怖心や恐れを植え付けて、他人を律する。尾木直樹自身が体罰派の教師の睨みを効かせて学校の秩序を維持する方法は恐怖から来る一時的な状態に過ぎないと反対していたことを率先して勧める矛盾を自ら犯すことになる。

 要するにどのような意味でも法律も警察も、イジメに「バシッと歯止めをかける」役目を担っているわけではない。その役目を担っているのは第一番に学校であって、尾木直樹がその役目を法律や警察に期待するだけで教育放棄となる。イジメが起きる一定の人間集団は学校の管理下にあるのであって、法律や警察の管理下にある訳ではない。この常識が尾木直樹には通じない。

 つまるところ、〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉云々にしても、〈「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。〉云々にしても実効性ある方法論を示すことができない綺麗事だから、法律とか警察とかに行き着く。

 この法律頼み、警察頼みは尾木直樹が現代のイジメは悪質で残酷だと言っていることと対応していることになるが、本音は「柔らかく、しなやかに」イジメのない学校づくりをすることだとはどこまで綺麗事を言えば済むのか計り知れない。

 これまでに、「根絶はできなくても、いじめを防ぐ、あるいは克服することはできるのです」、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」等々言ってきた全てを投げ打って、「いじめ防止法」に頼る、それしか手はないと教育学者の立場を恥知らずにも放棄した。

 尾木直樹はここで少し前の項目、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で取り上げたアメリカ・マサチューセッツ州(以下マ州と表現)「反いじめ法」を日本の「いじめ防止法」の制定に「私がひとつのモデルとして注目している」として再度取り上げている。ご都合主義者尾木直樹のお眼鏡に適ったのだから、効果が十分に見込める信頼に足るイジメ抑制の法律ということなのだろう。

 この「反いじめ法」が、「全米で最も包括的ないじめ対策法と言われており」としている評価は自分が全米全州の"反いじめ法"の類いに目を通したわけではなく、本人が信頼に足ると見ている他者の評価を参考にしてその法律を自身で目を通して確かめた上での"評価"ということになるが、「ひとつのモデルとして注目している」との物言いは多くの事例を確認した中での一つとして注目という意味を取り、矛盾した言い方となる。正直な人間なら、「マ州の『反いじめ法』は全米で最も包括的ないじめ対策法との評価を受けていて、目を通したところ、日本の『いじめ防止法』の制定の一つのモデルとなるように思える」という文脈で紹介することになるだろう。

 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく、さらに「教職員向けの研修」と「子ども向けの啓蒙活動」を両立させている点が特徴〉だとしている。以下、具体的内容を枠内に書き入れてみる。

 【いじめの法的定義】

 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返し行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

【「いじめ」と定義される具体的な行動】

■ 相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える
■ 相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる
■ 相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す
■ 相手生徒の学校内での権利を侵害する
■ 実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する

【特徴】
■ いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す
■ 教職員はいじめの予防と介入方法に関する研修を毎年受けなければならない
■ いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む  

 マ州「反いじめ法」は2010年5月3日制定時に併せて刑法も改正、特定のイジメ行為を各種迷惑行為の罪に該当させているとの解説がネットでなされている。尾木直樹自身も前のところでアメリカでは、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と述べているように「反いじめ法」には一定限度を超えた場合のイジメに対しては刑法の罰則の適用を背後に控えさせた防止機能を持たせていると同時にその効果もなく一定限度を超えたイジメに対しては直ちに刑法を適用する車の両輪の役を両法に担わせていることになる。

 もし学校側がイジメを抑えるために頻繁に次のような警告を発した場合、例えば一定限度以上のイジメを働いたなら、警察に逮捕され、法の裁きを受けることになる、進学にも就職にも影響するだろうと刑法が持つ強制力を利用する、それを警告の類いに位置づけていたとしても、威嚇の性格を持つことになる他律的な行動規制となり、教育の先に期待する自律的な行動規制とは異なる点で、一種の教育放棄となるだろう。

 こういった要素を頭に置いて尾木直樹のマ州「反いじめ法」に対する入れあげ状態を見てみることにする。
 
 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく〉と好印象の評価を与えているが、日本のイジメの定義との比較での指摘であるはずだが、どう細かいか並べて比較させる合理性は備えていないようだ。

 平成25年度(2013年度)からのイジメの定義。〈「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含れる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。〉――

 日本のイジメの定義も警察との連携を謳い、警察の対応次第で刑法扱いとなるケースも出てくることになるが、確かにアメリカ・マ州の「反いじめ法」は尾木直樹の紹介を見る限り丁寧で細かい。但しこの定義と定義が定める具体的行動に触れるかどうかは初期的にはイジメ被害者か教師や児童・生徒等の目撃者の判断によって判定されることになるが、問題はイジメ加害者が対人行動の際に自らの行動を定義とそれが示す具体的行動に抵触するか否かを前以って自覚できるかどうかにかかることになる点である。

 勿論、その自覚には学校側からこういったイジメを働いたなら刑法扱いとなり、自分の進路に悪影響を与えることになるだろうとの限りなく威嚇に近い警告を受けていることによって芽生えさせる自覚も入る。

 イジメを働いたあとにイジメ被害者か教師、他の児童・生徒といった第三者によってそれはイジメだと判定され、その行為をやめることになったとしても、その際に抵触の自覚にまで至っていなかったなら、再びイジメを働く可能性は否定できないし、自覚せずに似た行動を取る児童・生徒が新たに出てきた場合、イジメは繰り返し行われることになる。

 要するに自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを、特に自律的にであることが望ましいが、他律的にであっても自覚できる理性・感性の類いを備えていなければ、年々のイジメの継続を止めることもできないし、認知件数の減少も、少なくとも満足には望めないことになるから、本質的にはイジメの定義がどうのこうのという問題ではない。尾木直樹は「第1章 いじめの現状」でも文科省の当初のイジメの定義がイジメ被害者にウエイトを置き、イジメ加害者を問題視していないことを批判していたが、当方は、〈定義自体がイジメにブレーキを掛ける役目を担っているわけではない。あくまでも児童・生徒が定義を理解するかどうかにかかっている〉のだと、定義に拘ることを瑣末主義だと批判した。

 ところが、尾木直樹はマ州の「反いじめ法」の定義が丁寧で細かいだなどと今なお拘っている。児童・生徒が自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを自覚できる理性・感性の類いは自立心(自律心)や主体性の確立を基盤として自らの行動を省みることのできる自省心を育ませ、責任意識を持たせることが必須要件となるが、この点には目を向けることができずに尾木直樹の関心はイジメの定義から離れない。

 〈読んでいただいてわかるように、「いじめの定義」では、どれがいじめで、どれはいじめではないかという境界線が明確に設定されています。「これ以上の定義はない」と思うぐらい見事な内容です。その定義に基づいて、いじめが及ぼす影響にまで落し込み、いじめの有無の判断材料としているところも優れている点です。〉――

 「どれがいじめで、どれはいじめではないか」、いくら「境界線が明確に設定」されていようと、明確に理解できる者と理解できない者、理解できていても、感情の利害に流されて理解を失ってしまう者、様々に存在するのだから、「これ以上の定義はない」は何の価値があるわけでもない。要するに尾木直樹は定義にのみ目を向けて、その定義がよくできているかどうかを論じているに過ぎない。このことは次の文言に象徴的に現れている。〈五つの行動例のうち、特筆すべき項目が「相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる」です。「危害が及ぶ恐れ」を感じたら、それはもう「いじめ」である、違法であるとしている点は本当に画期的です。〉――

 そのような行為をされた児童・生徒はイジメだとすぐさま自覚できるだろう。問題はそのような行為をする側がイジメだと自覚しないままに行動することである。特に前者が後者を恐れて、誰にも訴えることができずに口を噤んでいたなら、そのような児童・生徒にとって定義などないに等しくなるし、傍観者も定義の外にいる存在ということになる。こういった点を何も考えることができない尾木直樹は幸せな教育学者である。世界一幸せな教育学者と言っていいのかもしれない。

 〈日本で起こっているいじめを照らし合わせてみたら、いじめ加害者の子たちは軒並み全員が法律違反であることは明白でしょう。〉――

 益もないことを言っている。いくらイジメの定義を教え込んだとしても自覚できる生徒、自覚できない生徒がいる。自覚できない生徒にとってイジメの定義は馬の耳に念仏にしかならない。尾木直樹はこの限界を乗り越えて、教育学者であるなら、「『これ以上の定義はない』と思うぐらい」を云々する前に多くの児童・生徒をして「法律違反」だと自覚させうる、分かりやすい言葉の発信を心がけるべきだろう。

 以下、言っていることを纏めてみる。「『いじめ』と定義される具体的な行動」のうち、「敵対的な学校環境を作り出す」、「学校内での権利の侵害」、「学校の秩序の妨害」の3点は教職員と子どもの両方に「いじめ」とは何か、いじめがあった場合はどうするかを正しく落し込んでいく内容となっている、いじめの存在に気づいた教職員は校長への報告義務があり、このように法律で謳われたら、日本の先生たちも「いじめ隠し」には走れなくなる、いじめの解決に向けて教職員は毎年研修を受けなくてはならず、子どもたちはカリキュラムの中でいじめについて学ぶ。いずれも日本では行われていない云々。

 どれも定義の解釈と効用であって、児童・生徒の自覚という点を抜かしている。いわば"定義全能主義"となっている。尾木直樹に定義全能主義者という尊称を奉ることができる。大体が、「このように法律で謳われたら、日本の先生たちも『いじめ隠し』には走れなくなります」と言っているが、一般的な法律が禁止事項を謳っているからと言って、禁止事項が全ての人間によって守られるわけではない。結果、法律は生き続ける。時代に合わなくなれば、改正される。

 イジメの定義も同じで、社会が定義を必要とし、その定義が生き続けるのは定義を守らずにイジメが相当頻度で繰り返し発生し、その中に無視できない重大事態を少なくない数で混じるからに他ならない。マ州はイジメに関わる法律の制定だけではなく、刑法をも改正してバックアップすることになった。尾木直樹は、「死刑制度があるからといって犯罪が減っているかといえば、減っていません」と法律の不完全性を言いながら、イジメの定義に関しては"定義全能主義"に陥る矛盾した無知を曝け出している。

 尾木直樹は定義の内容の素晴らしさだけではなく、学校側による定義の運用の結果として現れるイジメ発生件数の減少を具体的根拠として提示、その運用は定義が丁寧で細かいことが助けとなっているからだと証拠立てることができた場合にのみ、その先に定義に対する最大限の評価を持ってくることができるのだが、肝心のその途中段階を抜け落ちさせて、定義の素晴らしさだけを言い立てる失態を犯して、蛙の面に小便でいられる幸せを満喫している。

 果たしてマ州「反いじめ法」がその素晴らしい"定義"でイジメの発生件数を抑えることができているのか、その情報をネットで探してみた。上記法律の制定2010年5月から5年後の2015年の調査である。尾木直樹のこの書籍出版は2013年2月1日であることを改めて頭に置いておかなければならない。マ州「反いじめ法」がイジメ抑制に効果のある法律であるなら、年数経過と共にその効果は増大していくはずである。

 Microsoft EdgeのAI「Copilot」でマ州のイジメ発生件数の推移を検査してみたところ、2019年度の数値が出てきたから、日本の同年度の数値と比較してみる。

マ州        1000人あたりの件数
小学校  3,333件   6.2件
中学校  2,633件   8.4件
高等学校 1,292件   3.1件

《令和元年度(2019年度) 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について》(文科省)

 日本 認知件数 1000人あたりの件数   
小学校 484545件   75.8件
中校学 106524件   32.8件 
高等学校18352件    5.4件。

 確かにマ州の1000人あたりの件数から見たイジメ認知件数は少ない。だが、こういった統計を先に持ってきてから、このようにイジメが少ないのは「反いじめ法」の定義の効果だとする論理展開とすべきだが、そういう方法は採用せずに「反いじめ法」のイジメの定義にのみ最大賛辞を贈るだけの姿勢というのは論理的な実証精神を欠いているからこそできることだろう。

 だが、マ州のイジメ発生件数の少ないことが「反いじめ法」の背後に刑法を控えさせていること、いわばいじめ行為を刑法上の犯罪として位置付け、さらに刑法への適用が厳格であることがイジメ抑制に効果を上げているとしたら、教育力を用いた自律的なイジメの抑制から遠ざかることになり、刑法が持つ規制力利用の他律的なイジメの抑制と親密性を持つことになって、教育放棄というプロセスへと際限もなく足を踏み込んでいくことになる。

 尾木直樹が日本でも「いじめ防止法」の制定を急務の課題とし、「法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていく」等、様々に言っている趣旨からはマ州のイジメ発生件数の少なさが「反いじめ法」単独の力によってではなく、背後に控えさせている「刑法」の力に負うところが大きいことを窺わせることになる。

 理由はこれまでの尾木直樹の主張からも明らかなのだが、「反いじめ法」単独の力によるマ州のイジメ発生件数の少なさだったなら、尾木直樹の日本でも制定は急務の課題だとしている「いじめ防止法」を以下のところで刑法の罰則を背後に控えさせたアイディアとして明確に提示することはないだろうからである。教育学者としてバンザイしたということである。本人はこのような自覚は全然ない。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉は教育学者としての体裁を保つ綺麗事に過ぎないことになる。真の教育学者であるなら、教育力によって克服する方法論を創造する責任を負っているはずだが、その責任を役にも立たないイジメ未然防止論だか、イジメ克服論だかどっちつかずのご都合主義な綺麗事を並べただけで早々にバンザイした。

 マ州の「反いじめ法」が、この法律と連携・援護させるために刑法を同時に改正したことを取り上げずに「反いじめ法」が4カ月で立法化された、「アメリカならでは(?)の政治力」だなんだと「反いじめ法」のみの効力であるかのように宣伝しながら、〈法律によって、いじめ問題のすべてが解決するわけではありませんが、「いじめは犯罪行為であり、法律に違反すれば罰せられるよ」「法律ではこうしたことをすべていじめとして扱うよ」と明確なメッセージにすることで、「いじめは許されない。こんなことはやめよう」といった強力なアピールができます。〉と、刑法での罰則を頼みとする。まさに教育の放棄であり、教育者という立場からの刑法への依存に他ならない。「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」だとわざわざ1章を設けた理由がこの程度なのだから、尾木直樹の『「脱いじめ」論』は底が割れている。

 アメリカではイジメとされるシーンをテレビスポットで流し、「これはいじめです」と映像でも教育している。ここまでやらなければイジメはなくならない。「絶対に子どもたちをいじめから守るのだとのアメリカ国民の強い意思を感じます」と教育以外の方法でのイジメの抑止に期待を置く、この滑稽な逆説に教育評論家尾木直樹は死ぬまで気づかないだろう。

 そして日本のイジメ対策法の遅れを強調している。1986年の鹿川裕史君イジメ自殺から何10年経っているが、イジメ問題は全く放置されてきたといっても過言ではない。国としての対応のスピードの遅さもさることながら、「いじめとは何か、いじめがあったらどうするか」に関しての啓蒙教育すらきちんとできていない。「これは恥ずかしいことだと思います」

 長年の学校教育経験者として、イジメ問題を論ずる教育評論家として自分たちの無力を省みる自省心は
持ち合わせていない。そして結論。〈加害者の子どもたちを罰するためのものでなく、「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させるために、早急に日本でも「いじめ対策法」を実現させていかなくてはなりません。〉――

 マ州の「反いじめ法」は罰則規定はない。尾木直樹のこの書籍出版2013年2月から7ヶ月後の2013年6月28日に施行された日本の「いじめ防止対策推進法」にしても罰則規定はない。いわば、"加害者の子どもたちを罰するためのものでない"が、両者共に犯罪行為として取り扱うべき性質のイジメは警察署の取り扱いとし、取り扱いの結果、場合によっては刑法の罰則を当てる。

 このようなシステムとなっているのは、尾木直樹自身は「いじめ防止法」に〈「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させる〉効果を見ているが、現実問題として「いじめ防止法」のみでは認識定着は困難としていることからの「いじめ防止法」のバックに控えさせた刑法の強制力をイジメ抑止の次善の策として据えているということであって、尾木直樹が「いじめ防止法」が"イジメは禁止行為"の認識定着を目的としているかのようにさも見せかけているのは誤魔化し以外の何ものでもない。

 既に尾木直樹自身が、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と"イジメは禁止行為"の認識の定着を刑法頼みで指摘しているのである。そのことも忘れて、このようなの認識の定着を「いじめ防止法」が可能であるかのように装う。ご都合主義はどこまで行けば済むのか、底なしに見える。

 〈スピーディーな対応はアメリカだからできたのだなどという言い訳は通用しません。スピードの違いは危機感の違いなのです。人が、社会が、そして国が本気で子どもを守りたいと考えているか否かの違いです。その本気度を日本も示してほしいものです。〉――

 言っていることは立派過ぎる程に立派だが、刑法頼みが教育の放棄というステップを踏むことを教育学者であるにも関わらず一切気づかない言説の垂れ流しとなっている。イジメのなくならない現状と自身がイジメの未然防止論だか、イジメの克服論だかで論じているイジメの抑止の方法論との大きな食い違いに背に腹は代えられない気持ちにさせたのかもしれない。だが、刑法頼みは自身がこの書籍で書いている教育を用いたイジメの抑止を、あるいはイジメの克服を、尤も実現のための具体的な方法論は満足に書いていないのだが、全て無益なことに貶めることになる。

 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です

 尾木直樹は「いじめ対策法」の成立に時間を要するなら、全国全ての自治体で「いじめ防止条例」を制定すべきだと、あくまでも法的措置に下駄を預ける方向に熱心となっている。

 〈条例には罰則規定はありませんが、市民の意識を高め、学校の先生、保護者、子どもたちに向けて、お互いを思いやる心を大切にし、大人も子どももそのような生き方をしていこうというメッセージの発信としては大変に重要です。〉――

 教育でしなければならない市民意識の向上、相互共感能力(=お互いを思いやる心)の育みを「いじめ防止法」の制定までの間、自治体の条例に期待する。どこまで教育の放棄へと突き進もうとしているのか際限が知れない。結局は自身の教育評論家としての能力不足の裏返しでしかない。綺麗事、ご都合主義、矛盾だらけの『「脱いじめ」論』の当然の行き着くべくして行き着いた「いじめ防止法」任せ、条例任せといったところなのだろう。

 〈いじめへの認識が不足している今の日本には、条例によって 大人社会、そして子どもたち自身に「いじめ」についての認識と理解を高めていくことがとにかく必要とされています。〉――

 「いじめへの認識が不足」は第一番に学校の努力不足、教育力不足を挙げなければならないはずだが、挙げたら、教師や保護者向けに現実には役に立たない綺麗事のイジメ防止教育論しか垂れ流していないことに気づかれてしまう。

 この書籍の締めくくりとなる最後の言葉。
   
 〈2012年10月に公布された岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」は、子どもに特化した防止条例としては全国初のものです。内容も、ロマンのある高い理念を掲げ、さらに市・学校・保護者・地域に対する「責務」を明確に記し、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているという点で、条例作成のモデルとなるものです。  

 可児市の条例を参考に、温かく「人権・愛・ロマン」あふれる防止条例が速やかに全国に広がっていくことが早急の願いです。

 もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません。しかし、事態は急を要します。大人が総力を挙げて、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていかなくては、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになります。

 子どもたちをいじめから守るためにいかに行動を起こすか。社会全体でどう子どもを救っていくか。私たち大人たちには、今その覚悟が問われているのではないでしょうか。〉――

 岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」を「条例作成のモデル」として推薦しながら、「もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません」と逃げの手を打つ責任逃れの用意周到さは八方美人の面目躍如といったところである。

 可児市の「子どものいじめ防止条例」が「子どもに特化した防止条例としては全国初のもの」であろうが何だろうが、「ロマンのある高い理念」を掲げていようが掲げていまいが、「市・学校・保護者・地域に対する『責務』を明確に記し」ていようがいまいが、法律、条例を制定しただけ、あるいは存在させているだけでイジメのどのような制御弁となるわけではない。イジメを働く主体に位置する児童・生徒が自身の、特に対人関係行為・活動が有意義な可能性の追求となっているか、有害な可能性の追求となっているかどうかを自省できる理性・感性の類いを備えているかどうかに掛かっているのであって、尾木直樹大先生は決定的に思い違いをしている。

 ネットで可児市のイジメに関する情報を探してみた。条例自体は「ロマンのある高い理念」を掲げていようがいまいが意味のないことだから、要は条例がイジメの抑制にどれ程の効果を上げているかに尽きる。効果の程度を可児市の次の記事から見てみる。

 《令和3年度 可児市いじめ防止基本方針3つの指標について》

 小学校調査児童生徒数5141人、いじめ認知件数581人から1000人当たりを計算すると、113人となる。「調査児童生徒数」となっているが、長期欠席者や不登校児童を除いた全児童数ということでなければ性格な数字は出てこない。

 対して《令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要》(文科省/令和4年10月27日)から小学生のいじめ認知件数は500,562件、1000人当りは79.9人で、全国計算よりも1000人当りで33.1人も多いことになる。

 要するに可児市の「子どものいじめ防止条例」の制定当時は教師も児童・生徒もイジメ防止に意識を高く持つだろうから、多少なりとも効果を上げるだろうが、肝心なことは継続性である。実質的に効果が見込める条例なら、年々の効果の積み重ねによって現状では取るに足らないイジメ問題に帰していなければならないが、そうはなっていない現状しか浮かび上がってこない。
 
 尾木直樹のロマンのある高い理念を掲げているだ、責務の対象を明確にしているだ、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているだはイジメの抑止という点に関してはさしたる意味を持たないことになる。

 児童・生徒に対して条例の目的や定義を如何に理解させ、理解させた上で如何に自身の行為・活動に反映させるかが決め手となるのだから、教育の責任が全てと言っていい。尾木直樹が並べ立てている、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていく、そうしなければ、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになる、子どもたちをいじめから守るために如何に行動を起こすか、私たち大人たちには、今その覚悟が問われている云々の問いかけは如何にも喫緊の課題であるかのように見せかけてはいるが、イジメの本質的な解決策、どうすべきかから離れているゆえに巧みな言葉を用いた見せかけの危機意識に過ぎない。

 大体が尾木直樹のこの『「脱いじめ」論』自体が綺麗事、ご都合主義、矛盾で成り立たせた本質的なイジメ解決策とは的外れの論考に過ぎないのだから、尾木直樹自身の覚悟の無さこそが問われるべきだろう。

 この書籍出版が2013年2月。7ヶ月後の2013年6月28日に「いじめ防止対策推進法」施行。約8ヶ月後の2014年3月初版発行立憲民主党小西洋之の著作を紹介している小西洋之自身のネット記事、《いじめ防止対策推進法の解説と具体策》(2015年5月21日)にはかの著名な教育評論家尾木直樹の推薦の言葉を彼の上半身の写真付きで載せている。文飾は当方。

 〈教職員•保護者のための立法者による初の解説書
「本書は、子どもの命を救う法律に息を吹き込み、血を通わせる、いじめ対策のバイブルである」 教育評論家 尾木直樹氏推薦〉

 尾木直樹大先生は2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と見ていた。法律こそがイジメの未然防止、あるいはイジメの克服に役立つと位置づけていた。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、自身のこの著作にも見えるようにイジメ防止に関わる法律には全幅の効用と信頼を置いていた。

 このことの裏を返すと、自身の著作『「脱いじめ」論』には全幅の効用と信頼を置くことができていなかったことの暴露となる。大体が的外れの綺麗事を並べただけの言葉の羅列に過ぎないから、役立つはずはないのだが、教育学者の立場で、『「脱いじめ」論』を書きながら、イジメ防止の法律を頼みとする、これ程のペテンはないだろう。

 尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と最大限に評価しながら、いつ頃からか、盛んに法の改正を叫んでいる。例えば一例。

「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」(NHKクローズアップ現代+/2021年11月9日)

 2021年3月23日の旭川女子中学生イジメ凍死事件を受けて尾木直樹は「NHKクローズアップ現代+」の番組に出演、インタビューを受けている。イジメはイジメっ子が100%悪い、イジメをしなければ、イジメ被害者は出ない、出さないように「加害者指導」が必要、この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない、新たな被害を生まないための対策を盛り込んだ「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できることが理想だなどと発言している。

 「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」だと太鼓判を押しながら、そのような法律とはなっていない現実を突きつけられて、その改正に期待をかける法律頼みの姿勢は変えないままでいる。

 この法律頼みは法律そのものがイジメを止める力があるわけではないという事実に対する無知と法律どおりに行動できるかどうかは人間の理性・感性の類いが決め手となるという事実に対する無知、さらには法律どおりの行動への期待は一にも二にも啓発という名の教育を必要とするが、その放棄になるという事実に対する無知――尾木直樹は何重もの無知を犯しながら自らを教育学者として立脚させている。

 尾木直樹が「NHKクローズアップ現代+」で語ったようにイジメをしなければ、イジメ被害者は出ないは100%その通りの事実である。誰にも分かっていることだが、尾木直樹はたまには正しいことを言う。だが、同じく発言している「加害者指導」はイジメが起きる前ではなく、イジメ被害者本人がイジメられていることを訴え出るか、教師か他の児童・生徒の誰かが目撃して公になるか、進行中のイジメが学校側に認知されて、誰が加害者か判明するのを待ってから初めて「加害者指導」は可能となるのであって、当然、イジメ被害者は出ない、出さない段階での「加害者指導」は不可能であるにも関わらず不可能を可能であるかのように尤もらしい言説を垂れる。

 自身の論理矛盾に気づかずに、ハイ、優秀な教育評論家でございますといった顔で得々と喋るから始末に負えない。だが、"得々と"に多くの人間が騙される。天下のNHKでも騙される。

 「加害者指導」の力量を教育的に学校現場や教育委員会がつけたとしても、事後解決の力量を身につけるだけであって、イジメ被害者は出ない、出さないといったイジメ未然防止の力量とは異なる。この手の力量に関する考え方は尾木直樹の頭の中には存在しない。存在したなら、イジメ防止法に頼ることも、類似の条例に頼ることも、イジメ防止法の改正に頼ることもない。

 誰が加害者となるのか分からないのだから、「加害者指導」ではなく、全児童・生徒対象の「イジメ防止指導」でなければならないのだが、「加害者指導」などと尤もらしい呼称を掲げて自身の独自性をウリにする。最たる綺麗事に過ぎない。

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