安倍美しくない国の美しくない首相

2007-01-31 17:39:37 | Weblog

 柳沢厚労相発言/何を以て前例とすべきか

 31日((07年1月)の『朝日』朝刊に「女性は子供を産む機械」発言した柳沢厚労相に対する民主党以下の野党の辞任要求に対しとて、「安倍首相は30日夜、首相官邸で記者団に『柳沢大臣も反省している。その上に立って職責を果たしていくことによって国民の皆様の信頼をまた得るべく努力してもらいたい』と述べ、改めて辞任を求める考えを否定した」(『野党3党 厚労相の辞任を要求 「補正予算案審議拒否も」』)と出ていた。

 政治家が社会的立場上備えていなければならない良識を裏切って愚かしい発言を繰返す。あるいは社会的立場上備えていなければならない自らに課せられたルール(=規範)を裏切って犯罪にも等しい、ときには犯罪そのものとなる反社会的行為を繰返し犯す。

 こういったことがとどまるところを知らずに連続して発生する。いつになったら止むのか。このことは問題を起こした政治家が閣僚であれば、任命責任者たる首相自身の人事管理の問題でもあろう。

 政治家たちのこういった情けない恥ずべき醜態を見納めとする第一条件は誰であれ、二度と繰返させない状況をつくり出す他に方法はないはずである。安倍首相が言っているような「職責を果たしていく」ことで責任の肩代わりとするといった不始末・不心得、あるいは無責任の従来的な抹消方法を主たる前例としていたのでは、これまでも見てきたように原因療法とならず、その場凌ぎの単なる対症療法で終わって再び繰返される失望を政治家に見ることとなっている。いわば「職責を果たしていく」方法は確実に跡を断つことの有効な方法とはなっていない。にも関わらず、「職責を果たしていく」で幕を降ろそうとするのは美しくない国の美しくない首相のやるゴマカシではないか。

 政治家たるもの国民に対して大きな社会的責任を負っているである。その責任にふさわしい態度を示すべきを国民の信頼・期待を裏切る振舞いを犯して示し得なかった場合は、負っている責任の重大さを自覚させるためにも、その重大さに比例した直接的で断固とした厳しい懲戒で臨むことを主たる前例とし、そのような前例によって跡を断つ方法とすべきではないだろうか。

 「職責を果たしていく」責任の取り方が政治家の不始末・醜態の跡を断つ有効な方法となり得ないのは、不始末・醜態そのこと自体に関しては責任回避できる、罰則とは言えない、無罪放免ともなる代用処置ともなっているからだろう。

 言ってみれば、「職責を果たしていく」は厳しい罰則を免れる役目を否応もなしに果たしてもいて、そのことは同時に任命者の責任を免れさせることにもなり、そのような回避プロセスが「職責を果たしていく」ことの前例となっていて、いつまでも自己の社会的責任に対する厳しい自覚を直接的に持てず、同じ繰返しが起こる理由となっているのではないだろうか。

  とすると、既に指摘したように同じことの繰返しを断つには「職責を果たしていく」無罪放免ともなる代用処置ではなく、無罪放免とはならない不始末・醜態そものもに直接与える罰則で臨む責任方法を以て前例とすべきだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「女性は子ども産む機械」発言で見逃していること

2007-01-30 05:02:28 | Weblog

 07年1月29日のTBS『みのもんたの朝ズバッ』(主要箇所のみ引用)

 柳沢厚労相が1月27日に松江市で行った講演で「女性は子ども産む機械」と問題発言した録音テープを入手したと、「物議をかもした」箇所と断りを入れてテロップ付きで流した。

 講演の演題は『これからの年金・福祉・医療の展望について』だそうだ。

 「今の女性が子供を一生の間にたくさん、あの、大体、この人口統計学ではですね、女性は15歳から50歳までが、まあ出産をしてくださる年齢なんですが、15歳から50歳の人の数を勘定すると、もう大体分かるわけですね。それ以外産まれようがない。急激に男が産むことはできないわけですから。特に今度我々が考えている2030年ということになりますと、その2030年に、例えば、まあ二十歳になる人を考えるとですね、今いくつ、もう7、8歳になっていなきゃいけないということなんです。生まれちゃってるんですよ、もう。30年のときに二十歳で頑張って産むぞってやってくれる人は。そういうことで、あとはじゃあ、産む機械っちゃあなんだけど、装置がもう数が決まっちゃったと。機械の数・装置の数っちゃあなんだかもしれないけれども、そういう決まっちゃったということになると、後は一つの、ま、装置って言ってごめんなさいね。別に、この産む役目の人が一人頭で頑張ってもらうしかないんですよね、みなさん」

 町の女性の声「普通の人ではそういうことは、うん、言わないなあって気がしますけど――」
 同「失礼で済むことと、済むことじゃないと思う。やっぱずっとそういうふうに思ってたから、口に出たんでしょうから」
 同「そういう簡単な言い方されると、ますます、こうー、産む人が少なくなってくるんじゃないかなーと。もうちょっと軽はずみは発言は避けて、慎重に発言して欲しいです」
 
 女性解説者「柳沢氏は集会があった日の夜、人口統計学の話をしていて、イメージで分かりやすくするために子どもを産む装置という言葉を使ったと説明」

 柳沢氏の釈明「ちょっと咄嗟に、そう、何て言うか、何回も言い換えたのね、そこんところ。まあ、何ていうか、装置・設備って、まあ、言ってたのね。そういうふうに――」
 (中略)
 みのもんた「ご本人は確かに分かりやすく言おうとしていたんでしょうけれども、島根県の松江市で目の前にいる方々たちの大変グレードを低く見たんですよね。こういう表現じゃないと、君たちには分からんだろうからという気持がプンプンと漂っている。私がこの会場にいたら、お前、俺たちをナメているのかと言いますね。分かりやすくするために俺たちが理解するためには機械・道具、そういう言葉を使わなければ理解してもらえない(と思っている)のかというふうに私がさっきから感じていました。それは柳沢さんという人間が松江にいる人たちを蔑視していることになります。先ずその点でも非常ーに(と力を入れて)これは大きな問題ですよね」

 小宮山洋子民主党衆議院議員(元NHKアナウンサー)「おっしゃるとおりだと思いますよ。やはり人口政策の道具だとしか女性を見ているとしか思えませんから。いくら言い方を替えたって、ええ、一度言ったということは日頃からそういう考え方だからでね。しかも厚生労働大臣というのは子育て支援の責任者なんですよ。その人が本当は女性たちね、若い人の8割ぐらいは2人子ども欲しいって言ってるんですよ。そういう政策をする人たちが自分たちがその政策を取らないでおいて、女たちに産めと、機械だから産めみたいなことを言ったら、これはこう、やはりその職にとどまるべきではないと、そういうふうに思いますね」

 みの「ところが、もう一つ輪をかけてね、自民党の中川幹事長――(と言いながら、中川幹事長の顔写真つきのフリップを手に持ち、そこに書き入れた「〝機械なんで言ってごめんなさい〟とすぐに言い直している。釈明をすぐにしたと理解している」というコメントを声を出して読み上げる)『機会なんて言ってごめんなさい』と言ってるだろう。釈明をすぐしたと私は理解しているよ、とこうコメントを述べたんですけど、私が中川さんだったら、(芝居っ気たっぷりに)何?柳沢ともあろう人がそんなバカなことを言っちゃった?じゃあ、申し訳ない。もう柳沢をすぐに呼んで謝らせますよ。何を考えてるんだろうね、あいつは。それじゃ、そんな失礼なことを言ったらね、ね、何とか挽回するためにも、じゃあどういう案を出したらいいのか、早急に検討して、彼から発表させますよ、とか何とか言ってくれりゃあいいんだけど、釈明するにしたって、『理解している』、要するにカバーしようとしちゃうんですよね、これ。これはだめです」

 (何をほざくか、みのもんた。「じゃあどういう案を出したらいいのか、早急に検討して、彼から発表させますよ」で一発勝負の名案をひねり出せるなら、とっくの昔に少子化問題は解決していて、柳沢大臣にしても「産め、産め」とせっつくこともなかっただろうし、それがなければ当然自らの程度の低さをさらけ出すこともなかっただろう。子供が産める環境を整えるのではなく、産めない環境を放置したまま産め、産めとせっついた考え違いを愚かしくも犯したのである。そのことを責めるべきだろう。民主党の小宮山洋子議員が既に「そういう政策をする人たちが自分たちがその政策を取らないでおいて」と指摘しているのだが、自分の頭にあった考えにしか目が向かなかったようだ。)

 末吉竹二郎・金融アナリスト「日本の政治家はですね、人権問題に極めて鈍感と言わざるを得ませんよね。ですから、これあの、自民党の中の女性議員沢山いらっしゃるけれども、その方々にも申し上げたいんですけども、これは党派を超えた日本全体の問題・世界の問題なんですよ。女性の人権・産む権利をどう認めるかって言うのはですね。これは日本の女性全部、本当に声を大にすべきですね」

 (「声を大に」するのはいいが、今通常国会初日だかに自民党の野田聖子議員は初登院だからなのだろう、艶やかな和服姿で登場していて、他にも和服姿の女性議員がいたようだが、「自民党でなんであれ、緊張感を持つには着物を着ることはいいことだと思います」とマイクに向かって言っていたが、情けない話で、形を借りなければ緊張感を持てないような政治家は日本の政治家として必要ではない。野田聖子の言っていることを裏を返せば、緊張感を持つにはいつも着物姿でいることが必要になるということになる。自分がどんなことを言っているのか気づかないのは今回の柳沢厚労相と同じだろう。)

 みの「大体がね、日本の国会議員にしても、県会議員にしても市会議員にしても、議会の会場を見るとね、女性が少なすぎます」
 小宮山「そうですね。国会議員が1割ですからね」
 みの「おかしいです。半数が女性じゃなくちゃ、法律はダメなんですよ。大体東京帝国大学って言うんですか、昔の?今の東大?あの、つくったとき、女性のトイレつくんなかったって言うんです。それから暫くして女性のトイレもつくろうかと、そんな感覚で明治維新政府はスタートしてるわけだから、やっぱり少しそういうところ、是正しなけれがダメじゃないですか。そのために一番必要なのは先ずね、女性を好きになることですよ。(自分から笑いもせずにすぐに)野党、辞任要求も、ということです(と次のフリップに移ったところを見ると、適切なユーモアではなかったと瞬時に気づいたのだろう)」

 (東京帝国大学が女性トイレをつくらなかった譬えよりも、戦前まで女性には参政権が認められていなかったことを挙げるべきではなかったか。男にしても1925(大正14)年の衆議員選挙で初めて認められ、歴史はそんなに古くはなく、女性は男よりも判断力が劣ると見られていたということだろう。夫に従属し、家に従属していた。いわば国家の最下位に位置していたのである。そのような日本の美しい歴史・文化・伝統を受け継いで、小宮山女史が言う「国会議員が1割」という21世紀の今日の世界に反したお粗末であるが、日本的には美しい現実があるのである。)
 (中略)
 末吉「安倍さんはアメリカと、例えば民主主義上の価値観を共有するとおっしゃってますけどね、これ民主主義の一番原点とこじゃないですか。人の権利・女性の権利をどう認めるかということ、こういったところで共有できないような発言が出てですね――」
 みの(遮って)柳沢さん、奥さんいるのかいないのか、いるなら奥さんに叱られるでしょうねといったことを言い出す。(そんな個人の問題に集約すべき事柄ではないというのに。)
 
 司会者のみのもんたも出席者の小宮山議員、金融アナリストの末吉氏、それにTBS解説委員の杉尾秀哉にしても、柳沢発言を主として〝産む・産まない〟は女性の権利だとする人権問題で把え、批判しているが、一つ見逃していることはないだろうか。
 
 産め、産めとの要求は、要求する主体が国家権力の一員である以上、国家という上の立場からの指示であり、意識していなくても、結果としてその指示への従属を求める権威主義関係への無理強い・強制に当たる。いわば本人がそう意図したものではなくても、個人が管理すべき出産という事柄を上からの指示という国家の管理によって問題解決させたい、少なくともその線上の衝動を疼かせた。いわば戦前の日本が兵力増強を目的として、「埋めよ殖やせよ」と上から号令をかけて強制したのと軌を一にする出産に対する国家管理思想の発動であろう。

 国家管理は国家への奉仕を要求課題とする。「10人以上の子どもを持つ親が『優良子宝隊』として表彰された」と『現代用語の基礎知識』(自由国民社)には出ているが、「10人以上」が最優秀の奉仕目標に設定されていたのである。

 国家管理思想(国家への奉仕要求)から出た意思表示だからこそ、女性それぞれを命ある人間と見るのではなく、「産む機械・産む設備」と機械視できたのだろう。戦前の日本は「埋めよ殖やせよ」と言いつつ、一方で戦場で多くの兵士を死なせ、それを国家への奉仕とさせていた。〝兵力増強〟が〝経済増強〟に目的が変わったに過ぎない。

 女性に対しての「産む機械・産む設備」を男に当てはめるとしたら、「働く機械・働く設備」と擬(なぞら)えることができる。国家権力を担う人間が発した言葉であるとしたら、国家に管理され、国家に奉仕する「働く機械・働く設備」へと転ずる。

 また国家管理思想は「産む役目の人」という言葉にも表れている。女性は「役目」で産むわけではない。にも関わらず、国の立場から見て「産む役目」とすること自体、産む性と見なして管理しようとする意志の働きなくして出てこない発想のはずである。女性はたくさん産むことによって、国家への奉仕となる。

 国家という上の位置からではなく、対等な位置に立って女性をそれぞれに人格や喜怒哀楽の感情を有した同じ人間と見たなら、決して機械に譬えることはできなかったろう。無意識下で、国家権力によってコントロールしたい意志を働かせたのである。

 みのもんたが同じ問題を扱った早い時間のコーナーで、「任命した大臣が次々問題を起こす。個人的には安倍さんがかわいそう」といったことを言っていた。対して民主党の小宮山洋子が「任命責任というのがありますから」と応じていた。

 柳沢厚労相が安倍内閣の一員で、安倍首相が任命責任者という関係だけではない。柳沢厚労相が出産を国家の指示でコントロールし、国家に奉仕させたい衝動を疼かせた国家管理思想の持ち主であるように、安倍首相も教育や憲法を使って上からの指示による要求によって国民を〝愛国心〟で従属させ、〝愛国心〟を通して国家に奉仕させるべく権威主義的衝動を疼かせている国家管理思想(=国家主義思想)の持主であり、その点において両者は極めて近親的に通底していると言えるのではないだろうか。

 「産む機械・産む設備」発言は〝産む・産まない〟は女性の権利、あるいは自己決定権の問題、さらには任命権者の責任云々で終わる事柄では決してなく、そこに国家管理思想(=国家主義)の意識が働いていると見たが、これは大袈裟な受け止め方だろうか。今一度日本国憲法が保障している「国民主権」を思い返してみれば、よく理解できるのではないだろうか。国民は国に対して人間としての扱いを要求する権利を有するが、国は国民をモノや機械として扱う、あるいは見立てる如何なる権利も有していないし、モノや機械として国に奉仕させる如何なる権利も有していない。「国民主権」とはそういうことも言うはずである。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

談合と権威主義の関係

2007-01-28 10:16:34 | Weblog

 「脱談合宣言」したあとの大手ゼネコンの名古屋市発注地下鉄工事談合。二つの工区に2社が相互に入札参加して、談合しているという情報が寄せられたら、していないと見せかけるためにそれぞれの工区を差し替える用意周到な事前調整。重複入札工区はほぼ同じ工事額で、どちらが請け負っても損しない仕組みになっていたというから、談合へのしぶといまでの執着・執念は見事という他ない。

 「事前に談合情報があり、当時のゼネコン関係者が『市側の意向で、情報後に落札予定のJVを変更した』と証言」(『談合情報、逃げ道用意 重複入札、工区差し替え 地下鉄JV』/『朝日』朝刊07.01.26)が事実としたら、名古屋市も加わっていた官製談合ということになる。

 これらの醜態が証明していることは、「脱談合宣言」は、旧道路公団の官製談合であった橋梁建設談合で摘発を受けて浴びることとなった世論の厳しい批判をいっときかわすためのポーズに過ぎなかったということの証明であろう。

 旧道路公団橋梁工事談合・水道談合・汚泥施設談合・都の河川敷工事談合・成田空港談合・ゴミ処理施設談合・防衛施設庁空調設備談合・防衛施設庁岩国滑走路談合・林道事業談合・和歌山、福島、宮崎の各県発注の公共工事談合etc. etc――ちょっと調べただけでこれだけ挙げることができる。枚挙に暇なしとはこういったことを言うのだろう。

 このような事実と上記指摘した「脱談合宣言」の舌の根も乾かないうちの名古屋地下鉄談合の巧妙化の事実から判断できることは、日本の殆どすべての公共工事が談合によって行われてきた談合日本ではなかったかという疑いである。

 日本人は和を尊ぶとか、和を重んじるとか言う。和の社会だと。日本人は古くから人間同士の和を尊ぶ集団であるとか。談合は果して日本人が古くから尊ぶ「和」の精神から生じているのだろうか。そうだとしたら、法律で禁じるのは日本人の精神性を逆撫でする反道徳的・反倫理的行為となる。

 1937(昭和12)年3月刊行の『国体の本義』の「四、和とまこと」には、「和」について次のように書いてある。

 我が肇国(ちょうこく/初めて国を建てること・建国)の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業(こうぎょう/大きな事業)より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。和の精神は、万物融合の上に成り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあつて和は生じない。個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。」云々と、「和」を天皇の祖先たちが建国の偉業の過程でつくり出した最高の精神価値であり、それが日本の「歴史生成の力」となったのは「和」を「人倫の道」としていたからで、「万物融合」を源としていると絶対価値化し、西洋の「個人主義」を否定している。

 さらに次のようにも解説している。

 「我が国の和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の械械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行(おこない)を通じてよく一体を保つところの大和である。従つてそこには相互のものの間に敬愛随順・愛撫掬育(きくいく/養いそだてる事が行ぜられる。これは単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく、各々その特性をもち、互に相違しながら、而もその特性即ち分を通じてよく本質を現じ、以て一如の世界に和するのである。即ち我が国の和は、各自その特質を発揮し、葛藤と切磋琢磨とを通じてよく一に帰するところの大和である。特性あり、葛藤あるによつて、この和は益々偉大となり、その内容は豊富となる。又これによつて個性は弥々伸長せられ、特質は美しきを致し、而も同時に全体の発展隆昌を齎すのである。実に我が国の和は、無為姑息の和ではなく、溌剌としてものの発展に即して現れる具体的な大和である。」――

 「大和」は「だいわ」と読ませるのだろうか。倭に大和という字を当てて、日本を意味させたことから「大和/だいわ」を持ってきたのだろうか?

 「実に我が国の和は、無為姑息の和ではなく、溌剌としてものの発展に即して現れる具体的な大和である。」

 何と素晴しい理想世界だろう。安倍首相の「美しい国」とはこのような「大和」(大きな「和」を言うのではないだろうか。「特質は美しきを致し、而も同時に全体の発展隆昌を齎すのである」と『国体の本義』が言っていることと合致するのではないか。

 談合を『国体の本義』の「和とまこと」の項に書いてある「人倫の道」、「万物融合」、「理性」「分」、「敬愛随順・愛撫掬育」といった徳目から解くとすると、談合とは「人倫の道」に則った「万物融合」を成す行為であり、「理性」や「分」から発して、すべてが「敬愛随順・愛撫掬育」の精神を動機とした営みであって、これら一つ一つの誘因はすべて「和」の精神に集約できるとすることができる。そのようにして成り立っている社会が「大和」社会だと。

 かつてゼネンコン幹部が「談合は江戸時代以来の日本の美風だ」と言い放ったが、談合は今始まったことではなく、日本の歴史・伝統・文化として延々と引き継がれてきたものだということを図らずも宣言したことにもなる。事実その通りだろう。

 だが、現在の社会は「談合」を〝悪〟と位置づけて法律で禁止している。と言うことは、少なくとも談合が持つ「和」は現在は否定的価値とされていることを証明している。

 そもそも日本の社会は「和」を精神的原理として人間関係を成り立たせ、各種活動を成り立たせているのだろうか。

 日本人は民族的本質性として権威主義を精神性とし、行動様式としている。権威主義とは、機会あるごとに言っていることだが、上が下を従わせ、下が上に従う精神性・行動様式を言う。だからこそ、天皇制が成り立っていたのである。天皇を父と見立て、日本国民を天皇によって保護される存在と見なす赤子(せきし)に位置づける上下の権威を成り立たせることができた。そしてすべての赤子が押しなべて平等ということでは決してなかった。戦前に於いては華族が存在し、役人は一般国民よりも上に位置づけられたいたし(=官尊民卑/「政府や官吏を尊び、民間の人や物をそれに従うものとした」『大辞林』三省堂)、男と女では未分格差(=男尊女卑の差別)が存在していた。男女差別の美風は現在でも残っている。

 このような身分的な人間関係・存在様式は是非・合理を無視することによって可能となる階級であり、差別であろう。現在でも多くの夫婦間で夫が妻にすぐ手を上げて殴るといったことが日常的光景となっているとテレビで言っていたが、これも男尊女卑を基本とし、是非・合理を無視することによって可能となる僭越行為であろう。

 江戸時代に於いては士農工商の身分差別が存在した。農工商の比較下位権威者が最高権威者の武士に無礼を働けば、裁判なしのリンチを受けるような、是非・合理を無視した切り捨て御免の厳しい罰を無条件に覚悟しなければならなかった。

 いわば日本人が本質的に民族性としている権威主義性と「和」とは相容れない対立する立場に位置する価値観となっている。逆説するなら、日本人の権威主義性と「和」の存在様式とは決して「和」す関係にはない。大体が『国体の本義』が言うところの「全体の中に分を以て存在し」とは、実際には「分」(=上下の位置・地位)を弁えることを言い、これは権威主義の行動力学に相当する存在性であって、「和」の有り様とは矛盾する姿であろう。

 「分」を『大辞林』で見てみると、「②人が置かれた立場や身分。また、人が備えている能力の程度。分際」となっていて、身分を基本に置いた言葉であることが分かる。「武士の身分」を言う「士分」という単語があるが、「分」とは「身分」の「分」を示してもいる。

 是非・合理を無視することによって可能となる権威主義の上は下を従わせ、下は上に従う行動原理から「和」を解説するなら、権威主義が是非・合理を無視することによって可能となるというまさにその理由によって、同調・従属の「和」、事大主義(自己保存のため勢力の強い者に従う姿勢)の「和」と言える。そのような「和」は悪くすると、馴れ合いの「和」に簡単に豹変する。談合の和は官製談合であれ、民民談合であれ、馴れ合いの「和」が作り出しているものであろう。

 官が取り仕切って、公共事業の場で民と「和」して談合を行う。あるいは民と民が前以て示し合わせて談合を行う。このようなことを言い換えるなら、談合は日本人が民族性としている権威主義性の原理に則った馴れ合いの「和」が可能としているヤラセ行為だと言える。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

給食費滞納と教育の問題

2007-01-27 09:55:20 | Weblog

 ここのところ給食費滞納問題が騒がれている。支払い能力がありながら、払わない親が増えているという。Asahi.com(07.01.24/20:58)からの引用だが、次のような記事が出ていた。

 『給食費滞納、全児童生徒の1% 総額22億円』

 ――給食を実施している全国の国公私立の小中学校で、全児童生徒の約1%にあたる10万人近くが05年度に給食費を滞納し、滞納総額は22億円余りになることが24日、文部科学省による初の調査でわかった。滞納がある学校は全体の約44%。滞納の理由について学校側は、60%の子どもについて「保護者としての責任感や規範意識」の問題、約33%については「経済的な問題」と見ている。

 調査は、深刻化している滞納への対策を検討するため昨年11月~12月に実施。学校給食を行っているのは全国の国公私立小中学校の94%にあたる3万1921校で、この全校に尋ねた。

 滞納した児童生徒がいるのは43.6%の1万3907校で、総額4212億円余の給食費のうち0.5%の22億2964万円が滞納された。滞納した児童生徒は計9万8993人で、小学校で6万865人、中学校で3万8128人。

 児童生徒の数で見た都道府県別の「滞納率」は表の通り。沖縄が6.3%と突出しており、北海道(2.4%)、宮城(1.9%)、福岡、大分(1.6%)などが続いた。

 滞納の原因について学校側の見方を選択式で尋ねたところ、保護者の姿勢を問題としたのが60.0%で、保護者の経済状況をあげたのは33.1%だった。

 滞納分を抱える学校に対策を自由回答で尋ねたところ、「徴収した分でやりくり」(29%)、「学校が他の予算などから一時補填(ほてん)」(27%)、「市町村教委などの予算から一時補填」(15%)などだった。保護者への対応(複数回答)では、「電話や文書で説明、督促」(97%)、「家庭訪問で説明、督促」(55%)が多かった。少額訴訟や裁判所への支払い督促の申し立てなど法的措置も281校(2%)あった。

 過去と比べて給食費の滞納が増えたかどうかについては、「かなり増えた」が13%、「やや増えた」が36%で約半分の学校が増加傾向とした。「やや減った」は9%、「かなり減った」が3%で、「変わらない」は39%だった。

 文科省は「地域や学校によってかなり集中している例もあるようだ。保護者が責任意識を持つと同時に、教育委員会やPTAも問題を学校、担任任せにせずサポートして欲しい」と話している。――

 テレビ各局が、高級車に乗っていながら払わない親や携帯の通話料に払うカネがあっても、給食費を払わない親がいると非難の嵐を吹きまくっている。TRSの「みのもんたの朝ズバッ」では相変わらずみのもんたが、怒りも露に「放っとけない」とか、「バカ親が」と吠えていた。非難の吠え声を上げるだけなら、誰でもできる。

 親だけを悪者にしていいのだろうか。「滞納の原因について学校側の見方」として、「保護者としての責任感や規範意識」(=「保護者の姿勢」)が「60.0%」、「保護者の経済状況」が「33.1%」ということだから、全部が全部払えるのに払わない親ばかりではない。「義務教育だから、学校で払うべきだ」という親もいるというのは論外だが、それで引き下がっているとしたら、学校の説得能力不足(=言葉の力不足)も大きく原因しているはずである。

 「保護者への対応」として、「電話や文書で説明、督促」が「97%」、「家庭訪問で説明、督促」が「55%」、「少額訴訟や裁判所への支払い督促の申し立てなど法的措置」が「281校(2%)」となっている。

 最初は子どもに「お父さんかお母さんに給食費を払ってくれるように伝えて貰いたい」と告げる穏便な方法から、それで効果のない親に対しては「電話や文書で説明、督促」、それでも応じない親には「家庭訪問で説明、督促」となり、最終的に「少額訴訟や裁判所への支払い督促の申し立てなど法的措置」という、より厳しい方法へ順序を踏んでエスカレートしているのだろうが、それぞれの方法が「97%」から「55%」、「55%」から「2%」とパーセンテージが少なくなっているのは、より厳しい方法を取ることで成果を上げているからと見なければならないが、実際は逆の状況にあるから、問題となっているのだろう。

 とすると、「97%」もある「電話や文書で説明、督促」は児童相談所が親の虐待を把握していながら、事実確認調査も連絡も電話頼みとし、自宅訪問とか直接の聞き取りを怠って、虐待されていた児童を死なせてしまう対応と同質の、あるいは社保庁が国民年金の納付率を上げるために未納者を訪れて納付を求めるのではなく、未納者本人の署名か押印が必要な支払い免除を電話で承諾を得ただけで署名・押印は三文判で済ませ、勝手に書類作成して納付者数を減らし、逆に納付率を上げるトリックを行ったのと同質の横着と怠慢を決め込んだ座仕事でしかない手抜き作業でしかなかったからではなないか。

 「家庭訪問で説明、督促」が次の手段であったとしても、「家庭訪問」という形式だけで責任を果たしたとする一種の責任回避行為に過ぎなかったのだろう。座仕事から離れてわざわざ「家庭訪問」したとしても給食費納付という最終地点までいかない以上、「一応これこれだけのことをしました」という形式的責任遂行で終止符を打っていたと見られても仕方があるまい。

 最初から形式的対応だったからこそ、成果を見ないままに「97%」から「55%」、「2%」というパーセンテージの目減りを生じせしめたのだろう。

 テレビでコメンテーターとかを務めている解説委員だ、知識人だと称するお偉方は「昔はこんな親はいなかった」といったことを盛んに口にしているが、〝ごね得〟という言葉は今に始まった言葉ではないだろうし、少なくとも〝ごねる〟と呼び習わされている性格行為は人間が本来的に持っている行動性である。単に少なくて、目立たなかったということだけのことではないだろうか。会費付きの会員でありながら、その会費を滞納する人間も、逆に会費に無断で手をつけて使ってしまう人間も〝昔から〟結構いた。

 借金でも何でもそうだが、溜め込んで額が増えると、払いにくくなる。状況が悪化する前に何らかの手を打つべきを、それを放置しててきた怠慢のツケが「滞納総額は22億円余り」ということではないか。

 「文科省は『地域や学校によってかなり集中している例もあるようだ。保護者が責任意識を持つと同時に、教育委員会やPTAも問題を学校、担任任せにせずサポートして欲しい』と話している」ということだが、「教育委員会やPTA」は文科省が言い出す前に連携して対応策を講ずるべきなのだが、それを手をこまねいていたのは児童虐待を把握していながら手をこまねくことで死に至らしめてしまうを児童相談所と同じ座仕事に甘んじていたということなのだろう。

 とすると、例え連携していたとしても、たいした力にはならなかったに違いない。教育委員会だと名前はもっともらしくいかめしいが、いじめ問題一つを取っても、証拠隠滅や存在自体を否定するだけを役目としているといった、〝教育〟という名を関するだけでも恥ずかしい情けない姿を曝すだけだったのだから、力にはならなかった証明とすることができるだろう。

 要は〝言葉〟を重要な存在表現としている学校の先生でありながら、説得するだけの言葉を持ち得ていなかったことが、滞納額を増えるに任せた主原因なのではないだろうか。

 みながほぼ等しく貧しかった時代は学校給食は比較的平等な措置ではあったが、経済成長と共に格差社会となっていて、その平等性が既に失われているのである。見掛けの平等を装っているに過ぎない。それが滞納者が多く出ることによって、給食は一層の悪しき平等主義を身に纏うこととなった。払わなくても食べることができるのだから、これ程の不平等はない。

 親が給食費を払わない家庭の生徒にはただで給食を出したら、お金を払って食べている他の生徒に対して不平等となるから、親が払わない以上食べさせることはできない。そうすることが社会のルールだろう。

 給食費に関わる社会のルールを親にも子どもにもきちっと伝えて、払わなければ、明日から弁当を持ってくるようにと命じ、払わないのは子どもである君の責任ではなく、親の責任だ、例えば酷いいじめがあっていじめられた生徒が自殺してしまうようなことがあると、いじめに加わっていない生徒でも、いじめ自殺があった中学校の生徒だと後ろ指差されたりする。それと同じで親の責任であっても、その子どもである君が否応もなしに悪い影響を受ける。君はこれを教訓に子どもに悪い影響を与えないような責任ある大人になるよう努めなければならないぐらいのことも親父の前で言ってやる。

 他の生徒にも、誰それは弁当を明日から持ってくるが、彼の責任ではない。責任でない以上、彼を庇うことはしても、蔑んだりしてはいけない。蔑まれる謂れはないからだ。親が無責任で子どもに迷惑をかけるといったことはいくらでもある。彼がそういった親になるかどうかは今後の生き方が決めることで、弁当を持ってこなければならないのは彼だけの問題ではなく、自分が大人になって、そういった親にならないよう、彼も君たちもそれぞれ自分自身の問題と受け止めるようにと説得する。弁当が問題ではなく、生き方が問題だと教える。

 「33.1%」の「保護者の経済状況」で払えない家庭の場合は学校の問題ではなく、失業者なら自治体、勤務者なら、勤務先の問題であって、何か他の面で補助か融資を受けることができるようにして給食費を工面できるようにするか、ギャンブルや女遊びに回すカネはあっても、給食費は疎かにするといった個人の性格の問題なら、弁当を持たせるかすべきだろう。

 最近家庭の教育力、親の教育力が低下したと言う。家庭や親だけの問題ではないのだが、給食が親の食事を与えるという責任放棄にも影響している側面を考慮すると、給食自体を廃止しすべき時期に来ているのではないだろうか。弁当一つにも親の姿が映る。映るんだということをすべての親に伝えて、弁当を親の姿勢を見せる教育に位置づける。子どもに弁当作りを手伝わせることができるかどうかも、親の姿勢にかかっていて、そのことも弁当に映し出されていくということを教える。

 弁当作りが面倒で、登校途中でコンビニに寄らせて弁当を買わせ間に合わせたとしても、親の自由ですと、そういったことも親に伝えて、親の姿勢とする。生徒がそれを嫌がるようだったら、小学3年生も以上なら、自分で作ってこい、弁当ぐらい作れないでどうする。コンビニ弁当を買うカネで前の日にスーパーに行って、ご飯と肉や野菜の惣菜を買ってきて、自分の弁当に詰め替える。唐揚げはどこに並べようか、煮物はどう盛り付けようか、あれこれ工夫するだけでも楽しいぞ、コンビニの弁当を買ってきて、ただそれを食べるだけよりずっと楽しいから、と教えてやる。このことだけでも、工夫するということを覚えていくキッカケになるはずである。そのうち作り物ではなく、生の食材を買ってきて、自分で料理するようになるかもしれない。

 自分の弁当がお粗末だからと言って、ひがむなということも教える。世の中は平等ではないことと弁当が自己実現のすべてではないことを教える。真の意味の自己実現はもっと別のところにあるはずだと。Jリーグの選手か?プロ野球の選手か?発明家か?国会議員の偉い先生か?会社社長か?お笑い芸人か?自己実現はそういったところに置くべきで、弁当がうまそうだ、不味そうだ、高そうだ、安そうだといったことは小さい、小さい。将来的にどういった自己実現を果たすかが、それが目指すべき真に大きなことだというメッセージを子どもたちに向けて発する。

 そういったメッセージを子どもに向かって常に発することによって、それが自然と親にも伝わり、弁当のおかずを親の虚栄心から無理に豪勢にするといったことがごくごく小さなことだと親も悟る機会になることもある。弁当作りで大切なことは子どもが将来の自己実現に向けて必要とする肉体と精神を養うに必要十分な親の姿勢を込めることだと親にも子どもにも伝える。単に弁当を昼食として食べさせるだけの問題ではないのだと。親の姿勢の中に栄養や健康への配慮も含まれるだろう。

 こういったことを親の思想・子どもの思想とするよう、仕向ける。それが言葉の職業者である学校教師の務めでもあろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕張の平和運動公園維持・管理費の疑問

2007-01-26 12:45:23 | Weblog

 こんな記事が1月22日(07年)の『朝日』朝刊に載っていた。

『夕張激励 スポーツの輪』

 「財政破綻したため、4月から財政再建となる北海道夕張市を元気づけようと、スポーツ界も動き出した」というもので、大相撲が巡業開催の計画を立て、プロ野球の日本ハムは夏に2軍戦を主催するという。

 「(前略)夕張市でのプロ野球は74年以来で市内の平和運動公園野球場で開催される予定だ。
 内外野共に天然芝が張られ、今年度までは年間2300万円で民間業者に芝刈りなどの整備を委託してきた。しかし、新年度から、芝刈りは打ち切られ、公園を管理する同市教育体育振興課の職員6人も大幅に削減される見通しだ。
同課の竹原伸課長は『芝の整備はどうするかは決まっていない。職員が刈ってでも試合に間に合わせたい』と話している」

「年間2300万円」の整備維持費とは相当な額だと思ったから、夕張市のHPで「平和運動公園野球場」なるものがどの程度の規模のものか調べてみた。

 「夕張市平和運動公園」とは次のような説明が載っている。

 ――Jリーグの「横浜マリノス」や「ガンバ大阪」の合宿、「横浜マリノス」と「ジェフ市原」の練習試合、また日体大ラグビー部夕張合宿などに利用された専用球技場をはじめ、多彩な施設を集約した夕張市自慢の屋外スポーツ施設です。サッカー、ラグビーに利用される全面芝の第1球技場・第2球技場、多目的運動広場、フィールド内も活用できる陸上競技に加えて、内野も天然芝でおおわれた野球場もオープン。ますます充実しています。――

 全部で5施設である。

 別の「平和運動公園野球場」のHPでは、

 ――平和運動公園に自慢のスポーツ施設が誕生。

 *道内初のアメリカンスタイルの本格的野球場。
 *あなたも一度、メジャーリーガーになったつもりでプレ
  イしてみませんか。
 *両翼98cm、中堅122cm、観客収容人員5,300人
 *使用料は、午前6時から日没まで1日利用しても、一般
  で10,000円、高校生以下で5.000円と低料金で幅広くご
  利用いただけます。
 *詳しくは、ゆうばり文化スポーツセンターまで。
  ――と出ている。 

 写真で見ると、芝生も見事なまでに青々とした素晴しい各施設となっている。野球場を写した写真に5階建ほどの鉄筋コンクリートの市営アパートと思しき建物郡も写っていて、背後に小高い山が迫っているから、市郊外の山裾の広大な平地に造成したものだろう。

 野球場外野席外に公園なのか、下草の生えた通路らしき左右に一部樹木群が写っているが、公園だとしたら、その維持・管理費も「23000万円」に含まれているに違いない。

 「23000万円」の維持・管理費が正当・妥当な金額だとしても、夕張市は赤字経営を続けていて、銀行からの融資で表面を取り繕う遣り繰りをしていたのである。パンクへの道はここ数年で始まったことではないだろう。それを何ら手を打たず、「今年度までは年間2300万円で民間業者に芝刈りなどの整備を委託し」続けてきたのはなぜかという疑問は残る。日本ハムの2軍戦開催が決定して、「職員が刈ってでも試合に間に合わせたい」と言うなら、市の台所がにっちもさっちも行かなくなってきた時点で、何らか策を施すべきを施さなかった怠慢・無策は問われても仕方がないのではないだろうか。

 どのくらいの頻度で「Jリーグの『横浜マリノス』や『ガンバ大阪』の合宿、『横浜マリノス』と『ジェフ市原』の練習試合、また日体大ラグビー部夕張合宿などに利用され」ているのか、HPにあった「ゆうばり文化スポーツセンター(TEL 0123-56-6046)」に電話で問い合わせてみた。昨年に限ってだが、Jリーグの合宿も練習試合もなく、学生や社会人のサッカー試合が24ゲームあったのみで、ラクビーやゲートボール大会を含めて、全部で29ゲーム。野球場の使用に関しては「集計は入っていなくて」と言いながら、社会人野球等が練習試合を行ったと言っていたが、たいした使用状況にはなかったということでなないか。

 但し、18年度は(残る2月3月の期間でのことか、それとも19年度の間違いか)亜細亜大学野球部が合宿の予約を取っていると言っていた。これまでの使用状況が芳しくないことの埋め合わせの言い訳にも聞こえた。

 野球場以外の4施設で昨年1年に29ゲームとすると、平均を加えても、36ゲーム。多く見積もって40ゲームとして、施設の維持・管理にどのくらいかかるか、無責任となるかもしれない素人計算を試みてみた。

 施設自体の収入は野球場を例に取ると、「プロ野球は74年以来」だから、年に10ゲームの利用として、「一般で10,000円、高校生以下で5.000円」)のみでは、「年間2300万円」÷5施設=460万円に遥かに追いつかなかいに違いない。高校・社会人野球で入場料を取ったとしても、たいした金額は取れないし、春夏の高校野球地方大会で使っていたとは言っていなかったから、微々たる金額と見る。春夏の高校野球地方大会ならともかく、練習試合などでは関係者以外の入場者は殆ど望めないからだ。

 さて、「全面芝の第1球技場・第2球技場・多目的運動広場・フィールド内も活用できる陸上競技・内野も天然芝でおおわれた野球場」の5施設の維持・管理である。芝生の刈込・水撒き。、そして傷んだ芝の修復等の整備が主たる作業となるだろう。芝刈りは人間が大勢して手動の芝刈り機を手にして刈るわけではない。各施設とも幅広の芝刈り用器械を後部に連結したオート式の芝刈り機1台で2時間もかからずに刈り終えることができるのではないか。効率よくやれば、5施設1日で終わらせることができるだろう。

 野球場の場合は、内野はピッチャーマウンドを中心にしてぐるぐる回れば、自動的に芝が刈れて、刈った芝は掃除機よろしく自動的に吸引して回収していってくれる。外野はフェンスのカーブに沿って円弧状にか、ラインに沿って縦にか、いずれかの方法で走らせるだけだろう。乗用車をゆっくりと全面に亘って隈なく走らせるのと同じで、グラウンドを満遍なく一通り撫でていくだけで、何時間もかかるものではない。芝以外の土部分は後部の芝刈り機を外して、トンボ(土均し)式の土を平らにしていく機械を取り付けて走らせるだけで済む。

 素人でも、プロ野球で使っていないのであれば、野球場で何日か練習すれば、すぐに熟練できる。後部に連結した芝刈り機をバウンドさせると、芝に食い込みをつくってしまうから、それが跳ねないように芝の表面を撫でていくようい注意して運転するだけのことである。

 このことは表面が平坦である「全面芝の第1球技場・第2球技場・多目的運動広場・陸上競技」に於いても、条件は同じだろう。全部で5施設。各施設とも、カネがあり余っていないとなったなら、使用スケジュールに合わせて、主としてその前後に整備すればいいはずだから、年間40ゲームの前後で80回の整備となる。実際には赤字経営だろうから、逆に回数を減らす工夫をしなければならないはずだが、素人計算上、大きくかけ離れないためにさらに多く見積もって、年間100回の整備とする。約4日に一度の整備である。

 試合後の芝が剥がれた部分や傷んだ芝の修復は人手がかかるが、芝刈り・水撒き等含めて5~6人で1日もあれば十分ではないだろうか。100回の作業×6人として=600人×15,000円(作業員の実質手取りは10,000円以下だろう)=900万円

 芝刈り自体は草が最も伸びやすい夏場の4ヶ月間は1ヶ月に2度刈り込む必要があったとしても、あとの月は1ヶ月に1度として、年に16回。これも多く見積もって20回としてみる。オート式芝刈り機の燃料や機械自体の消耗費を含めた損料はちょっと見当がつかないが、1回5万円としたとしても、5万×16回の作業=80万円。
 
 その他植栽樹木の剪定などの維持は赤字経営である以上、単価の張る専門の植木職人の手を煩わすのではなく、トリマーとかバリカンとか呼ばれている、髪の毛をバリカンで刈るように樹木の表面を一気に刈り取っていく、素人でも操作できる機械で剪定したなら、1年で20日間かかるとして、20日×15000円の単価=30万円。全部合計すると、900万円+80万円+30万円=1千10万円 。トリマー(あるいはバリカン)の損料も加えてさらに多く見積もって、その他諸々を加えて1500万円としたとしても、2300万円からお釣りがくる。

 この計算は少なすぎるだろうか。決して少なくない証拠の一つとして、日本経済が失われた10年の不景気のどん底に入ってから続出した倒産ゴルフ場を外資が買収し、その維持・管理に欧米式の徹底した合理化策を取り入れた結果、従来を遥かに下回る維持・管理費で納めることに成功したと言う事実を挙げることができる。そのことの経費節減と1回のプレー代を下げ、ステータススポーツであったゴルフを大衆化して客数を増やして収入を伸ばし、多くの外資買収ゴルフ場が黒字経営に持っていっていることは既に広く知られている事実であろう。

 夕張の「2300万円」の維持・管理費が随意契約のものか、あるいは高値で取引されたものか、調べる必要があるのではないだろうか。そういった種類のものであったなら、キックバックとか、接待とかの存在も疑わなければならなくなる。

 少なくとも、既に指摘したことだが、「財政破綻したため、4月から財政再建となる」という苦しい台所状況にありながら、「今年度までは年間2300万円で民間業者に芝刈りなどの整備を委託してきた」正常な感覚とはいえない怠慢・無策の責任は問う必要があるだろう。

 もし「芝の整備はどうするかは決まっていない。職員が刈ってでも試合に間に合わせたい」ということだが、「株式会社共立」というところで、「フライングモア」というハンドル操作で左右に動かして芝を刈っていく手動の機械がある。何も「共立」の宣伝をしようというわけではないが、この機械は宙に浮く形で、芝の刈り込み長さをセットすることができるから、同じ長さで刈ることができ、少し練習すれば誰も操作可能となる機械で、長柄式の芝刈り機のように長さが不揃いになる心配はない。メーカー希望小売価格(税込)は164,850円。4~5台買い入れれば、職員でも芝刈りができる。あるいはリースで借り入れることができれば、作業単価をより下げることもできる。

 他にも安い金額で、上手に芝刈りができる機械があるかもしれない。多くの人の知恵を借りれば、職員であっても、プロ野球の2軍の試合に間に合わせるだけの用を足すのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そのまんま東新知事は裏ガネで一発かましたと言えるのか

2007-01-25 04:07:37 | Weblog

 前日朝(07.1.24)のTBS「みのもんた朝ズバッ!」が宮崎県新知事・そのまんま東こと東国原英夫氏が一昨日県庁に初登庁し県職員を前にして挨拶した模様その他を報道していた。同じ場面でありながら、時間を違えて微妙にずらして何度か放送していたから、ずらした箇所を当方で纏めて一場面としてみた。

 東国原英夫新県知事「この宮崎県に、宮崎県庁に裏ガネというのがございませんか。もしあるんであれば、早期に、早期にその膿を出したい。後で分かるようなことがあれば、また恥じです。非常に恥じですから――」

 みのもんた「優しいね。ボクだったらこんな優しいことは言わないね。その場で、全部出しなさいって言う――」(このセリフの部分は記憶から)
 岸井成格(しげただ・毎日新聞特別編集委員)「さあ、それで出すかどうかですね」
 みのもんた「でしょう?――」(態度急変)
 寺脇研(ゆとり教育導入の元文科官僚)「でも、それ言っちゃったということの意味は大きいですね。岐阜県知事さん何とかもね、そんなことは俺知らなかった――」
 みの「梶原さん――」
 寺脇「で、知事が聞いたでしょ。聞いたっていうことは、今まで聞かれなかったから答えませんでしたとか言い訳できないわけですけれどもね。もう聞かれっちゃったわけですから」
 岸井「業務命令になっちゃう――」
 みの「うーん、なるほどそうなるんだ」(納得の笑顔を女子アナにも振り撒く)
 岸井「副知事に誰を持ってくるかですね」
 みの「うーん、副知事ね」
 岸井「すぐにはできないかもしれないけどね」
 みの「ボク、日曜日は空いてるんだけど」(と笑いを取る)
* * * * * * * *
 何とまあ気楽な遣り取りに終始しているのだろうか。「膿を出したい」からと言われたって、誰が正直に告白などするものか。裏ガネに手を染めていた部署・人間があったなら、さっそく証拠隠滅に取り掛かっているだろう。現金であれば、誰かが預かる。口座に預けてあったなら、個人名義に書き換える。以前他の官公庁でしていた手口を踏襲するだけだろう。それもなるべく下っ端の人間に回す。責任が上の人間に及ばないようにである。

 なぜなら、出しましたで済まないからだ。戒告・減給・左遷・懲戒・降格等の彼らが最も恐れる経歴にキズがつく責任が伴うだろう。隠せば等分はビクビクしなければならないだろうが、喉元通れば熱さ忘れる、頭を低く下げて台風をやり過ごすといったことも人生経験上知ってもいるだろうから、後日での露見も計算に入れてイチかバチかの知らぬ存ぜぬを押し通すに違いない。

 後日露見が現実のものとなったとしたら、そのときは開き直って戒告・減給・左遷・懲戒・降格を覚悟し、関係者一同、神妙そうに雁首揃えて頭を下げる。第一難関はそれでやり過ごせることぐらいは不祥事を起こした日本全国の諸先輩方々がそうして凌いできたことを学習もしているだろう。

 最悪懲戒免職になったとしても、課長とか部長とかの地位を獲得していたなら、現役中に世話になったお返しに先輩幹部退職者の天下り等の再就職後の活動に利益を回すなどの手を貸す恩を売り・売られる回りまわっている同じ穴のムジナ関係・馴れ合いを利用して、それ相応の収入ある仕事の世話を受け、潜り込むぐらいのことをするだろうから、懲戒免職といういっときの不名誉を我慢しさえすればどうにかなるぐらいのことも学習していて、たいして痛くも痒くも感じないに違いない。

 天下りした先輩幹部退職者に対する利益供与は彼らのためと言うよりは、そのような美しい日本の伝統を受け継ぐことで自身が天下りしたときに同じ伝統の恩恵に与ろうとする先を見越した将来的自己利害からなのは既に通念化している。

 以上見てきたように後からの露見に高を括っているとしたら、寺脇元文科官僚が言っている「今まで聞かれなかったから答えませんでしたとか言い訳できない」ことなど問題としていないだろうし、知事があのとき言ったのに、なぜ出さなかったと詰問したとしても、相手にとってはカエルの面にショウベンで、単に知事自身の責任逃れに姿を変えるだけのことだろう。

 裏ガネのプールは予算の私的流用による税金のムダ遣いといった問題で終わらない。予算の効率的な執行だけではなく、職員の仕事の能率(=効率性・生産性)と深く関わっている。与えられた予算を限られた金額と定めて有効に使おうとする意志を常に働かせていたなら、そのエネルギーは自動的にムダ遣いを回避する方向に作用するだろうし、そのこと自体が職員の仕事の能率(=効率性・生産性)に転換されていく。

 裏ガネの存在はその逆の力学の支配(=予算を〝有効に使おうとする意志〟の不在支配)の証明以外の何ものでもなく、そのことは当然予算の効率的な執行と職員の仕事の能率を蝕み、
望ましい姿を損なっていることの証明とすることもできる。

 東国原英夫新知事がこのようなことを弁えて裏ガネのことを言ったのかどうかである。弁えていたなら、単に「膿を出したい」、「恥じです」ということではなく、予算の効率的な執行と職員の仕事の能率(=効率性・生産性)に深く関係することを説いて、裏ガネ等のムダを牽制する警告にするといったことをすべきではなかったろうか。裏ガネの問題だけで終わらないこと、その人間の存在性・有り様を左右する心掛けの問題だと。

 日本の公務員が欧米の公務員と比較して生産性が低い(=予算執行の非効率と仕事の非能率)状況にあるということは、公務員世界全体に亘って何らかの裏ガネ行為かそれに類する金銭的ズサン行為(随意契約とかキックバック、あるいは各種接待や収賄、同じ日の夕方の同じTBSで「みのもんた激ズバッ」なる番組で取り上げていた政務調査費や政治資金の私的流用等々)が支配的となっていて、それが影響したマイナス状況と見て間違いないのではないだろうか。

 予算が限られていることも考えずに、その中から私的に少しでもいい思いをしよう、少しでもおいしいことに与ろうと、そういった方面に精力を使うことで、当たり前に為すべき仕事が疎かになる。

 公務員世界全体の問題だとするこの見方が間違っていないとすると、どのような政府機関にしても地方自治体にしても一筋縄で行かぬ伏魔殿となっている可能性が生じる。そのまんま東新知事と会談した県議会議長が会談後、新知事の印象として「緊張感を感じさせるような、畏怖を感じさせるような存在ではないと感じた」といったことを平気で口にしていたが、私的な間柄での会話ならともかく、テレビカメラに向かって公言したのである、相手に失礼を欠く、あるいは見下し軽んずるような冷笑的態度は一筋縄でいかない伏魔殿の住人でなければ示し得ない態度だろう。

 東国原英夫新知事に一つ疑問に思ったことは、初登庁時は公約どおりホームセンターで買ってきたとテレビが報じていた真新しい作業着を着用していたが、認証を受けるときと県知事の椅子に初座りしたとき、それに昼飯の弁当を食するときは着替える暇がなかったのか、スーツ姿だった。それは改まった席ではスーツ姿となることの宣言のように見えたが、なぜどんな時・場合でも作業着姿で通さないのだろうか。国会や中央省庁に行って大臣に陳情する場合もである。それが一つ筋を通す意志表示となると思うのだが。

 よく言えば柔軟、悪く言うと、時と場合でカメレオンのように態度を変えるシグナルのようにも見えた。県民の見えない場所で官僚と馴れ合い、官僚の指示に乗っかって抜かりなくこなすだけ、成果は自分の手柄にしていくといったことなら、不祥事さえ起きなければ無事安泰の幸運に恵まれるが、何のためのそのまんま東か不明となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子ども投げ落とし報道・切り口の違い・その2

2007-01-23 09:08:51 | Weblog

以下、『子ども投げ落とし報道・切り口の違い・その1』の続きです。 
* * * * * * * *
 みの、吉岡容疑者が過去起こした事件を列記したボードを手で叩き、「男の子、頭と足骨折して、重傷ですよ。今、集中治療室ですって。ねえ、お父さんが手を握るとね、握り返してくる。どこに怒りをぶつけていいのか分からない。こいつのためですよ。こいつのためですよ(とボードに張った吉岡容疑者の写真を手で叩く)。どこに?こいつにぶつけるしかないじゃないですか。でもできないよ。世の中ですから。社会ですから。どこにぶつけたらいいんですか、みなさん?」

(「こいつ」と名指しする。怒りのみのもんたの真骨頂を最も凝縮した形で発揮すべく口にした一言だろう。怒りを持って激しく糾弾するの図だが、そのことがそのままみのもんたを正義の立場に置く。見事なまでの正義の人と化す。)

 父親「昨日まで元気だった息子にまさかあんななってるとはね――」

 男性解説者(衝撃的事件であることを演出したいためだろう、声をことさららしく抑えた、昔の活弁に近いゆっくりとした語り口調で)「集中治療室に横たわる3歳の我が子との対面。父は必死に呼びかけました」

 父親「璃音、璃音って何度も何度も泣きながら声をかけましたね。手を握ったときにですね、まあ、軽くでしたけど、握り返してくれた形なんですけどもね――」

 男性解説者「父の呼びかけに僅かに答えてくれたという息子璃音君。しかし父の思いは――」

 父親「何で息子なんだろうって。今もうほんま、それしかないですよね」

 男性解説者「なぜ自分の息子が歩道橋から投げ落とされたのか。父はこの男に問いたいと言います。吉岡一郎容疑者は41歳。実はこの男、過去にも6度事件を起こしていた要注意人物。いずれも幼い子供ばかりを狙った事件でした。そしてまたしても起きてしまった子どもへの犯行。『職場がいやだった。悪いことをすれば、戻れなくなると思った』」

 (以上見ただけでも、個人性のみに集中した取扱いとなっている。)
 ――CM――
カメラは近鉄八尾駅を写し、事件が起きた歩道橋へと移動していく。

 男性解説者(相変わらず抑えた声で)「人で賑わう近鉄八尾駅の歩道橋。この場所で事件は置きました。西田璃音ちゃんはおばあちゃんと二人で買い物に出かけていました。その帰り、歩道橋に差し掛かったとき――」

 蓮見孝之リポーター「目撃者の話によりますと、吉岡一郎容疑者は不意に近くにいた子どもを両手で抱え、そしてこの歩道橋の階段を駆け上がります(と自分も同じように階段を駆け上がっていく)。そして高さ1メートル20センチぐらいあるでしょうか、この手すりの上から歩道橋の下に落とすようにして落としたと言うことです」

 目撃者のおばさん、自分の口の周囲を指で触れながら、「もうこの辺が血ーだらけで、目ーここ(と目を指差し)、まぶた?青白いと言うか、黒っぽい感じになっていたから――」
 若い男性目撃者「子供さんとおばあちゃんが凄いかわいそうでしたね。特にもうおばあちゃんが泣きじゃくっておって、子どもも泣いておったんですけどね。お孫さんねえ、目の前でそうやって放り投げられて――」

 男性解説者「事故当時、交通の多い時間帯にも関わらず、奇跡的に車との接触はありませんでした。璃音ちゃんは血まみれの顔で泣き声を上げ続けていました。そして現場近くの階段には璃音ちゃんを投げ落とした男が座っていました」
 別の目撃者。声のみ。「何か男の人が追いかけて、それでまあ、口論になったやね。一回殴られたらしいけど」

 質問者の声のみ。「男にい?」
 目撃者「うん。そんでもう、見たときにはおまわりさんと一緒に連れられておった、手錠はめられて」

 男性解説者「むしゃくしゃしていて子どもを投げ落とした現場へ駆けつけた警察官によって殺人未遂で現行犯逮捕されたのは吉岡一郎容疑者41歳。そして逮捕から一夜明けた昨日、吉岡容疑者が過去にも事件を起こしていたことが明らかになりました。吉岡容疑者が通う障害者の施設の理事長が会見を開き、事件当時の吉岡容疑者の様子を語りました」

 理事長「繁華街に連れていって、それであの、子どもを眺めたり、見たりするのが多いので、
頻度としたら、半年に1回ぐらいだと思います。目的はあのー、いつも子どもを見たがったと――」
 男性解説者「吉岡容疑者が逮捕されるのは今回の事件で7回目。最初は1987年大阪市内で幼児を誘拐。1998年にも大阪豊中のショッピングセンターで2歳の女の子を連れまわし、その後、吉岡容疑者のアパートで女の子は無事保護。未成年者略取誘拐の現行犯で逮捕されました。施設に入所したあとも、2000年にも2歳の男の子を連れ去る事件を起こして懲役1年の実刑判決を受けました」

 施設理事長「親がどれだけ悲しむかということについては、こちらの話の中では『わかりました』と。『ほんま、申し訳ない』という形では答えています」
男性解説者「服役後、施設はさまざまな対策を取っていたと言います。例えば、外出時は誰か付き添う。必要以上のカネを持たせないというものでした。しかしその対策の甲斐もなく、今回7回目の事件が起きてしまったのです。『職場がいやだった。悪いことをすれば戻れなくなると思った。璃音ちゃんに悪いことをした』」

 理事長「まったくあのー、想定外だったなので、考えてもいなかっと、正直なところです」

 父親「そんな状況で許せるような問題じゃないですからね、だからもう、とにかくもう、どこに怒りをぶつけていいのか分からないですしね」

 みの「みんなはどうしたらいいと思いますか。他人事じゃなくて、自分の事と思って考えてください。過去に6回事件を起こしている。いいですか(と、6回の事件と判決を列記してボードに貼り付けたフリップを手で叩き、怒りを込めた強い口調で)、有罪、不起訴、不起訴、有罪、実刑、実刑ときています。今回7件目です。今回何をやったと思いますか?(歩道橋の絵)吉岡容疑者、歩道橋の近くでお菓子を売っていた。璃音ちゃんが来た。えっ?突然ばっと来て、璃音ちゃんを両手で抱えて歩道橋に向かって走る。いきなり高さ6メートル投げ落とす。車が通っている道路ですよ。そして階段に座り込む。璃音ちゃん今集中治療室です。もう一回いいですか。過去(再びフリップに手を当て)、過去、これだけ事件を起こしている。有罪、不起訴、不起訴、有罪、実刑、実刑。そして今回はお菓子売ってた璃音ちゃんが来た。抱える。投げ落とす。いいですか。7回目です、これ。(怒りの声を急に落とし、普段の穏やかな声で)今回は大沢弁護士さんにおいでいただきました。(大沢弁護士に近づき)おはようございます」

 (相変わらず個人性と刑の面からのみ、事件を論じている。刑の非有効性が再犯につながっているとしているから、二度も「有罪、不起訴、不起訴、有罪、実刑、実刑」と繰返すことになり、結果として吉岡容疑者を必要以上に犯罪的人間であるとする演出となってしまっている。)

 大沢孝征弁護士(検事出身だと言う)「おはようございます」

 みの「最初この番組では実名とか、顔写真とか、まあやめようと。まあ、俗に言う障害と言うんですか、持ってるということです。しかし今回は名前も実名も写真も出させていただきましたけど。最初から出すべきだと思っていました」

 (それほどまでに許せない罪を犯した「要注意人物」だとしていることの現れであろう。少なくとも凶暴性を秘めている人間と見ている。)

 大沢弁護士「そうですね」

 みの「今の状況では我々はどういうふうに把えていいんですか?先ずそれをお伺いしたいんです」

 大沢弁護士「まあ確かにね、みのさんがおっしゃるように7回目ですよね。このことだけど、このパターンを見て欲しいんですよ。人間のやることって、そうそうあるパターンから外れないっていうことが、ある程度我々の世界では常識なんです。連れまわしなんです、殆ど。それ以上凶暴なことをしていなっていうのが、彼の今までの経過だったんですよ。もう40歳を越えていて、それまでと違う犯罪パターンを行うってことはあんまりないんですよ。だから、通常の場合であれば、子どもに興味を持つ、連れまわしちゃうかも知れいなっていうことで、ずっと福祉施設の方ではついてまわっていたわけででしょ?ところが、まさかこんなふうな、要するに子どもをさらって、子どもを投げ落とすような凶悪な行動に出るっていうのは予測が不可能だったと。だから、そうそうこの福祉側を、施設側を責められない状況にある。ただ、我々が知っとかなきゃいけないのは、そういう傾向のある人間の場合に突然こういうことを仕出かす可能性があるんだってことも、この事件の教訓として知っておかなくちゃいけない。ええ、まあ、それから、こういう難しい、ちょっと知的障害のある人を更生させるっていうことは非常に苦労が伴う善意がないとできないってとこがあるんですね。ただ、まあ、こういう分野は国の施策の最も弱い点、あの刑務所から出た人たちをどうするかについてカネも使わなければ人も使わないというのが国のやり方なんです、今は。で、殆どが民間の保護司さんもそうですし、こういう更生施設の人たちもそうですが、そういう人たちの善意に頼り切っているのが実情なんですよ。本当にそれで社会を守り、まったく、その、エー、自分の問題のない子供さんたちが安全に行くってことを考えたらですね、こういう人のためにある程度科学的な、あるいはその、人もおカネもかけた施策っていうものをもう少しやってもらわないといけないんじゃないかと。えー、民間の善意にばかりに頼りきっている今の国のあり方自体に大きな問題があると、僕は思います」

 (みのもんたとしたら自分が煽る方向に乗って貰いたかっただろうが、意に反してそうはならなかった。再犯と刑の関連付けを一切行わなかっただけではなく、問題点が個人の犯罪性よりも社会にあることを示した。)

 みの「そう、見た目じゃ分からないんですよね」

(表面的に把えるだけの「見た目」で判断していたくせに、巧妙に誤魔化している。一種の偽装で、みのもんたの正義の人もこの程度のものでしかなく、このことだけでも『あるある大事典Ⅱ』を批判できないだろう。)

 大沢弁護士「そうです」

 みの「だから、じゃあ、我々はお父さんも言ってるんだけど、璃音ちゃんのどこに怒りをぶちまけたらいいんだ?今の日本の社会はこうだから、しょうがねえよ。とじゃあ、また起こる可能性もあるわけですよ。他で」

 (諦めの悪い男だ。みのの吉岡容疑者個人の問題と把えようとする意志の働きに対して、大沢弁護士はやはり社会の問題と把える意志を示す。)

 大沢弁護士「ということですよ。で、あの、今まで問題にされたのはよく小さな子どもに対して性的暴行のような連中が繰返し行っているってことが問題になりましたよね。それは警察の方で出所したら把握できるよう体制を取ろうじゃないかと、注意しようじゃないかってとこが、まあできるようになったわけですど、それも最近始まったばかりですからね。それは国の問題として、こういう一般の無垢の人たちをどう守るかっていうことを、しかも一遍、一旦行っちゃった人たちからどう守るかっていうことをもっと真面目に考えて、カネも時間もかけて欲しいというふうに僕は思っています」

 TBS杉尾秀哉「累犯障害者っていうのは非常に多いじゃないですか?そういう人たちを例えば矯正とか保護の仕方ですよね、それが非常に立ち遅れていることがあります」

 (「立ち遅れている」のは「最近始まったばかり」からきていることは断るまでもないことで、大沢弁護士の訴えの言葉を変えた単なる繰返しに過ぎない。)

 大沢弁護士「それはあります。それが矯正の中に入っているときから、矯正と言いながら、それがですね、管理しかしていない。本当の意味で中身を直そうっていうのがようやく最近プログラムが始まったばかりです。ですから、刑務所の中の処遇の仕方も、それから外に出てからの、あの対応の仕方も、もう少し総合的に考えてもらわないと困るっていう――」

 (「矯正」が「管理」という〝強制〟としかならなかったこれまでの日本人の創造性もツケとして回りまわっている面もあるだろう。「性犯罪再犯予防プログラム」とか「性犯罪者処遇プログラム」といった、いわゆる更生プログラムにしても、日本生まれではなく、欧米の制度からの導入だから、日本という管理社会・権威主義社会に機能させるだけの柔軟性を示せるかどうかが問題となる。管理の側面を残していたなら、管理から離れたとき、プログラムはその有効性を失うことになる危険性を抱えることになりかねない。)

 吉川美代子「そういういう専門家自体もいませんものね、本当に。少ないですよね」

 (やはり「始まったばかり」なのだから、「専門家」が少ないのは当然の状況で、杉尾秀哉と同じく後追いのなぞり解説に過ぎない。何か言わなければ解説委員として恰好がつかないと思ったとしても、お粗末過ぎる。もし纏めるとするなら、「今後そういったプログラムを一般社会の中で如何に有効に機能させるかどうかが問題となりますね」であろう。杉尾秀哉や吉川美代子の刺身のツマ程度のことしか言えない発言を聞くたびに、もう少し頭の訓練をした方がいいのではないかという思いにさせられるが、当方の思い上がりだろうか。)
 
 吉川美代子の発言を受けた大沢弁護士の「少ないですね」の発言のあと、別のテーマに移る。

 (大沢弁護士の登場がなかったなら、みのもんた以下の吉岡容疑者という個人を責めるだけの議論が番組を支配し、おぞましいだけの奇妙な内容となったのではないだろうか。それとも怒りのみのもんたの独壇場で終わるだけのことだったろうか。少なくとも大沢弁護士がみのの怒りを尻切れトンボにさせたことは間違いない。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子ども投げ落とし報道・切り口の違い・その1

2007-01-23 09:02:10 | Weblog

 大阪府八尾市で07年1月17日に3歳の男児が歩道橋から投げ落された。一命は取り留めたが、重傷だと言う。加害者は知的障害者で、過去6回、子供を連れまわすなどの事件を起こしていて、今回7度目だと言う。マスコミにとってはその犯人像、累犯度、加害対象が児童ということで、大々的に報道するには条件が揃った絶好のネタだから、執拗に食いつく展開を見せたのだろう。

 マスコミ自身は見過ごすことのできない衝撃的な重大事件だ、世に知らしめなければならないと一生懸命報道しているつもりだろうが、如何に衝撃的であるかを証明しようとして微に入り細に亘り、あるいは手を変え品を変えて掘り返す余り、結果として自分たちで事件を実像以上に大きくしたり、あるいは実像とは違った形に見せてしまうといったことが起きる。

 チャンネルを回してくれる視聴者を一人でも多く獲得しなければならない企業力学に縛られているからでもあるだろうが、いくらマスコミがセンセーショナルに糾弾しても、自らが所有している能力は糾弾のみで、そこから先が大事である糾弾が犯罪の防止につながっているわけではない。つながっていないからこそ、犯罪がなくならない状態が続いているのだが、それは社会自体が犯罪をなくす力がないからでもある。問題は糾弾だけという限界を弁えて報道の仕事をしているかどうかだろう。限界を弁えることによって、謙虚さを失わずにいられるのではないだろうか。

 マスコミが社会同様に犯罪をなくす力がない限界を弁えずに、さも自分たちがオールマイティの正義の人ぶって犯罪を糾弾する。しかし犯罪が次々と起きる状況にあっては本質的には糾弾を役目としているだけのことで、悪く言うとその場限りに大騒ぎするだけで終わらせているとも言える。大騒ぎが事件を実像以上に膨らませたり違った形に見せてしまう原因にもなっている。

 マスコミが報道を手段として大なり小なり事件の実像を変える危険な側面を抱えているとすると、それは一種の虚偽行為であって、事件を大袈裟に報道することで日々虚偽行為を繰返しているとしたなら、フジテレビの07年1月7日放送の『発掘!あるある大事典Ⅱ』が「納豆ダイエット」を取り上げ、架空データーを駆使してさも効果があるかのように報道した虚偽行為に対してどのマスコミも自分たちを正義の立場に置き真正面向から糾弾する資格はないのではないだろうか。それに大抵のテレビ局・新聞社がデーターの捏造やヤラセを行ってもいるだろう。

 パソコンを叩きながらだが、早朝の無料地上波『日テレ24』(07.1.19)と明け方からのTBSの『みのもんたの朝ズバッ』とで歩道橋からの幼児投げ込み事件の切り口・把え方の違いに気づいた。何かの参考になると思い、途中からの録画を文字に起こし、解説を少々付け加えてみた。
 * * * * * * * *
 『日テレ24時間テレビ』
 
 施設理事長「吉岡君がクッキー売り場から抜け出し、その子に近づいていったので――」

 女性解説者「施設側は会見で吉岡容疑者が以前から子供に強い関心を持っていたことを明らかにした」
 
 理事長「まあ子どもが非常に好きやと、その結果トラブルが起こったりすることがあると。繁華街に出て行って、それで、あの子どもを、あの割と眺めたり、あの見たりするのが多いようで、できるだけあの、繁華街に一人でやらないとか、そういう形で対応していました――」

 女性解説者「過去にも6回幼児を連れまわすなどして逮捕されていた吉岡容疑者――」

 新聞の『2歳女児誘拐 保護 大阪のアパート 一緒の男を逮捕』の見出しが映し出される。

 (言葉の説明だけで、わざわざ古い新聞記事など持ち出す必要はないと思うのだが。テレビ局はリアリティーを出すためと言うだろう。)

 女性解説者「職員も普段から注意はしていたが、今回の行動は予想外だったという」

 理事長「かわいがることはあっても、その状態からそういう形に結びつくようなことについてはちょっと、こう、まったく想定外なので、管理不足もありまして、被害者の方にも大変迷惑をかけてしまって、本当に申し訳なく思っております」

 女性解説者「6回逮捕されながら、なぜ繰返し犯行を重ねるのか。障害者の犯罪を研究し、国へ福祉政策の提言を行っている山本譲司氏は一つの可能性に言及する。山本氏は国会議員だった7年前、秘書給与の流用事件で逮捕、当時服役していた刑務所で知的障害を持つ受刑者に接し、驚くべき現実を知ったという」

 山本著『累犯障害者』の本が映し出される。帯に「罪を犯さなければ生きられない マスコミが絶対に報じない驚愕の事実」のキャッチコピー。

 山本氏「刑務所を出所して社会に出ても行き場がないと。もう一回戻りたいと、刑務所に――」

 女性解説者「山本氏が接した中には刑務所に戻りたいという思いから再犯に走るケースがあったというのだ」

 山本氏「これをやれば刑務所の中に戻れる。放火をしたある障害者が言うのですよ。刑務所には入るんだったら、放火なんて大変重い罪だよ。死者も出るかもしれない。じゃなくて無銭飲食ぐらいにしたらと言うと、そんな悪いことはできないって言うわけですね。うん、だから、何ていうか、罪の重いか軽いもなかなか分かっていないところもあるなあーと」

 (「マスコミが絶対に報じない驚愕の事実」を記述した人間の割には平凡な証言となっている。放火が出火原因の名誉ある1位を常に占めているということだが、知的障害がなくても、死者が出る危険性を考えることもできずに放火する人間はゴマンといるという「驚愕の事実」の方が問題ではないだろうか。消防士の放火もこの世には存在する。知能がまともでありながら、数多く存在する愉快犯と比べたら、山本氏の言う「驚愕」が驚愕でなくなるのではないか。「社会に出ても行き場がない」という現実や「もう一回戻りたい」と仕向ける社会の方こそ問題となると思うのだが。「放火」は従に位置するその手段でしかない。)

 女性解説者「刑務所に戻るために罪が繰返される悪循環。吉岡容疑者も動機について『仕事がいやだった。悪いことをすれば警察に捕まり、仕事に戻らなくてもいいと思った』と話しているという。一方別の専門家は知的障害者の再犯を防ぐのは簡単ではないと話す」

 (シャバ(=社会)と刑務所があり、このシャバよりも刑務所の方が生きやすいと考える。それは社会がそう仕向けているからに他ならない。本人の心がけが社会にそう仕向けさているすべての原因だというわけではあるまい。社会自体がその一員に危害を加える場合が多々あるからだ。自殺者にしてもシャバとあの世があり、シャバよりもあの世の方が生きやすいと考える。)

 知的発達障害者刑事弁護センター・副島洋明弁護士「今の現状から見ると、多いと思います。通常の人のような知能指数になっていくっていうことはあり得ません。現行社会の中でやっぱり苦しいから、痛いから、色んな犯罪にある意味で巻き込まれたり、止むを得なくやってしまったりという場面で、再犯を、犯罪をやると。しかし(周囲の理解があれば/テレビ局の注釈)社会との共生・適応っていうものはできるようになっていく――」

 女性解説者「また最大の問題は世の中の理解不足だとも話す」

 副島弁護士「断ち切られて、福祉と一切つながらない仕組みになっていると、社会の底辺の中で追いつめられていく。また犯罪にもつながっていく」

 女性解説者「周囲は彼らをどうケアすべきなのか。知的障害を持つ人たちが通う都内の施設を訪れた」

 『昭島生活実習所』のカンバンが取り付けられた建物。「認知度ごとに自分のあった作業を行う」と言うキャプション。

 オバサン施設職員が作業中の知的障害者の後頭部を撫で、「早いねー」と褒める。

 女性解説者「作業する利用者たちに常に付き添う職員」
 自分の力で靴を履かせようとしたのだろう、格闘しながら靴を履こうとしている知的障害者に「頑張れ」の掛け声をかけるオバサン職員。

 女性解説者「彼らをケアする上で大切なのはいつも目を話さず、パニックにさせないことだと言う」

 昭島生活実習所・笠間秀行施設長「パニックになったときはそうそうコントロール自分でできなくなっていくんじゃないですか。そのときやっぱり怪我をしたりとか、好きで本人がパニックなってるんじゃないので、そんなとき『ダメですよ』とかね、言っても意味がないので、辛いのはやっぱり本人ですからね」

 女性解説者「接見した弁護士に対し施設で責任にある立場に置かれたことでストレスが溜まったと話しているという吉岡容疑者。同じような犯罪を防ぐためには今何をすべきなのだろうか」

 (『日テレ24』は明らかに知的障害犯罪者個人よりも、彼らを取り巻く〝社会〟を重点に扱っている。)
* * * * * * * *
 早朝の『日テレ24』が終わって、同じ07年1月19日の5時半頃からのTBS『みのもんたの朝ズバッ』

 女性解説者「1998年大阪豊中市で2歳の女の子を連れまわすなど、これまでに誘拐などで6回逮捕されています」
 吉岡容疑者が通う障害者施設の記者会見「繁華街に出て行って、それで、あの、子どもを眺めたり、見たりすることが多いので、今回のような、何て言うか暴力的と言うか、卑劣と言うか、こういう行動に出るようについてはまったく想定外だったので――」

 女性解説者「吉岡容疑者が通っていた障害者施設には1000円以上の現金を持たせないなどの対策を取り、事件当時も施設の職員が付き添っていました」
 被害者のまだ若い父親「何とかね、これを最後にね、まあ、警察を含め、何とかそういう対策を考えて欲しいと思います」
 女性解説者「吉岡容疑者は璃音ちゃんに悪いことをしたとも供述しており、警察が事件の背景を詳しく調べています」

 いよいよ怒りのみのもんたの登場。「や、しかし、どこに怒りをぶっつけていいのかって、お父さんが言ったって言うけど、本当にそうですねえ。どうしたらいいんでしょう、これは。結局新しい判決出ないんじゃないんですか?」

 (「新しい判決」とは、一般健常者に対するような厳しい判決のことだろう。そのような判決で再犯の抑止にしようと望んでいることを示している。)

 以前長年TBSの報道番組アナウンサーをしていて、現在解説委員だかを務めている吉川美代子「また実刑判決が出ても、また同じようなあれですよねえ・・・・」

 (みのもんたにしても吉川美代子にしても、再犯の可能性を個人性からのみ把えているから、刑の軽重に話が向かってしまうのだろう。この意識性を突き詰めていけば、再犯を絶対的に防ぐには一般社会と遮断した施設に一生閉じ込めておく〝刑〟(=まったく「新しい判決」)を与える以外にないということになる。一般社会に生きていても、ある意味遮断された生活を余儀なくされているなどといった考えを働かせる想像性など持ち合わせてもいないに違いない。『日テレ24』と違って、明らかに〝社会〟よりも犯罪者個人に重点を置いている。)

 荒俣宏「この形では無理って言うことですね」

 (刑を厳しくする「形では無理って言うことですね」といことなら、何が有効か話さなければ、前2者と同じことを言っているに過ぎなくなる。荒俣宏はこれ以外に発言していない。いくらギャラ貰っているのだろうかと余計な心配をしてしまった。)

 現在TBS報道局取材センター社会部長だとかいう杉尾秀哉「そこまで職員が付き添っていたわけですから、そのときも職員の人がいたんだけれども、ちょっと目を離した間にっていうことなんで、非常に難しいですねえ、ええ」

 (あった事実を書き入れた原稿を読むだけの解説者なら許される、単なる表面をなぞっただけの解説に過ぎない。「職場がいやだった。悪いことをすれば、戻れなくなると思った」という本質部分の動機を既に知っていたはずである。それが仕向けた事件であって、いくらでもある「ちょっと目を離した間」が仕向けた事件ではないし、問題とすべき事柄でもないだろう。)

 みの「でも、人権を考えると、今の方法ではそれ以上の方法はない」
 杉尾秀哉「でも、ただ今回の事件は相当重いと思いますけど」
 みの「でも、いずれ出てくるわけですよ」
 杉尾秀哉「まあ、まあ、そうですね。まあ、何らかの形ですけどね」

 (杉尾にしてもみのもんた同様に刑だけの面から論じている。重くすべきだとの意志を働かせて、再犯を刑のみで関連付けている。)
 
 ここで一旦この話題は打ち切りとなり、時間を変えて、再度同じ話題となる。新たに大沢弁護士の登場を待っていたのだろう。

 (以下は字数の関係で『子ども投げ落とし報道・切り口の違い・その2』として別記事にします。) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育再生/「社会総かかりで子どもの教育にあたる」

2007-01-21 07:22:44 | Weblog

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成

 朝日新聞(07.1.18.夕刊)の「再生会議第1次最終案(要旨)」の【7】は、
 「社会総がかりで子どもの教育に当たる。
 地域リーダー(地域コーディネーター)の育成」と美しいばかりの理想を掲げている。

 何日前だったか、テレビの夕方の地方ニュースで次のようなシーンに出くわした。10人近くの幼稚園児が、どんな活動をしているか視聴者に示すためにヤラセたのだろう、場面手前にそれだけ差し出してあるマイクに向かって、お互いの顔を引っ付けるように突き出し一斉に「お酒を飲んで運転しないでね」と元気のよい大きな声を出した。

 酒を飲んで運転ばかりしている父親に子どもが心から心配して「お酒を飲んで運転しないでね」と訴えるといった声の調子は全然なく、機械的で一本調子な発声となっていたのはその通りに言うことだけを目的とし、そのことだけに意識を集中していたからだろう。

 アナウンサーの解説によると、幼稚園児が10人ぐらいずつのグループとなって3組か4組かに分かれて、先生共々だろう、交通警察官に連れられて銀行や郵便局を訪れ、「お酒を飲んで運転しないでね」と交通安全を訴え、青色と黄色と赤色の三色の餅を手渡して歩いているのだそうだ。

 テレビに映し出されたグループは中年男性の制服警察官と若い女性の同じ制服警察官が連れ立っていた。女児の幼稚園児が確か街の郵便局の前だったと思うが、中年男性の通行人に「お酒を飲んで運転しないでね」と元気はよいが一本調子なだけの声で言い、続けて同じ声の調子で「信号機のお餅です」と餅を手渡していた。

 上記シーンと次のシーンを見ただけで、まったく同じ言葉を同じ調子で言ってまわり、餅を手渡す同じ繰返しを終了の合図が出されるまで続けたのだろう。内部のコンピューターに入力された限られた言葉を人間らしい抑揚もなく機械の命ずるままに繰返すロボットさながらの子どもたちだった。

 「信号機のお餅」をアナウンサーは手作りだと言っていたが、自分たちが発想して自分たちだけでつくった「手作り」ではなく、警察からの指示があったか、幼稚園の先生の指示があったか、どちらであっても上からの指示で手伝ってもらいながら、その指示に従って作ったごく限定的な「手作り」なのは「お酒を飲んで運転しないでね。信号機のお餅です」だけの機会的な繰返しそのこと自体が証明している。

 いわば自分から発した言葉ではなく、指示を受け、その指示に従って指示通りに発している言葉に対応した上からの指示を受けた「手作り」の形式を取っているに過ぎないだろう。当然、呼びかけの言葉も餅の手渡しも指示通りに手順を踏んだ儀式と化す。そして儀式をそつなくこなした園児が指示通りにできたと褒められる。「よくできたわね」と。

 この上と下の関係を具体的に述べるとすると、上は下を上の指示通りに如何に従属させるか、下は上の指示に指示通りに如何に従属するかが人間関係に於ける最大の価値観となっていることを示している。この構図は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性そのものと対応した価値観なのは言うまでもない。

 保育・幼稚園の年齢になって初めてこのような権威主義的価値観を身につけるわけではない。一定の年齢に達してから突然変異的に現れるわけではないからだ。生まれたときから血として受け継ぎ、複数の様々な人間関係の場面を経て、徐々に補強されていく。

 だが、4歳頃からの保育・幼稚園の年齢で、ロボットさながらに教えられた一字一句に違わずに従属し、違わずに行動する様子は権威主義の血の受け継ぎの根強さを証明して余りある。そしてその根強さは当然上の年齢へと向かってしっかりと根を張っていく。

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成」とは言うものの、既にボランティアで子どもたちに野球やサッカーを教える人間が「地域のリーダー」として存在し、活躍している。その裾野が広がって、少年サッカーリーグとか少年野球リーグなどもできている。それをさらに他の分野にも広げて、改正教育基本法が言うところの、「第十三条・学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」――「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」を完成させようとしているのだろう。

 しかし家庭に始まって保育・幼稚園時代から親や保母といった上の指示で動くことに飼い慣らされてきているのである。さらに「地域リーダーの(教育コーディネーター)」なる上の人間をつくって、その指示で動く人間、指示に従属する人間へと飼い慣らす場を用意したなら、現在以上に自分の判断で行動する人間をなおのこと間引きしていくことにならないだろうか。

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成」と言っても、地域リーダー(教育コーディネーター)養成者が文科省や教育委員会の養成マニュアル(=指示)を受けて、その指示に従属した教育を地域リーダー(教育コーディネーター)を目指している者に教育し、その教育を受けて地域リーダー(教育コーディネーター)となった者が、自分の受けた育成教育をそのまま受け継ぐ形で地域の子どもたちに伝えていくとしたら、教師が教科書というマニュアルをなぞって教え、生徒がそれをさらになぞって暗記していく、考え・判断させるプロセス・機会を省いた学校教育と同じ手順を踏むだけのことになるだろうからである。

 少年野球や少年サーッカーの選手たちは地域のボランティアの指導の下、教えに単に従属するだけでなく、自分たちで考えたプレーをのびのびとしていると言うだろうが、ではなぜ18歳以上から30歳、35歳までいる人間相手のプロ野球で〝考える野球〟といったテーマ・課題が取り上げられることになるだろうか。考えるという思考作用を特定して要求するのは考えてプレーするのとは逆の、指示を受けて、その指示に従属した(=指示を指示通りになぞった)プレー状況にあるからだろう。

 少年サーカーに於いても、同じことが言える。06年6月26日に当ブログ『ニッポン情報解読』に載せた「教育論からの日本サッカー強化の処方箋」の記事から抜粋・引用して、再度説明してみる。

 ――(06年6月)「23日夜のNHKテレビでは、98年の日本チーム監督の岡田武史氏がアナウンサーに日本サッカーの今後の課題は何かを問われて、『コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ』と言っていた。」

 この言葉はまさしく日本代表チームがコーチの指示を受けて、その指示に従属するだけの(=指示を指示通りになぞっただけの)、自分自身の判断で動くのではないプレーをしていることの何よりの証明となる警告であろう。「何をするか分からない」は、選手個人の瞬間的な判断から生まれるプレーであって、それがないことの要求なのは断るまでもない。

 このように独自の判断がない、コーチの指示を再現するだけの従属性は日本チームに入ってから発揮する特性ではなく、少年サッカー時代から、あるいは中学や高校のサーカー時代からの特性であって、プロになってからも受け継いでいる指示と従属の関係性ということだろう。

 同じブログ記事に06年6月24日の『朝日』新聞からの引用として、中小路徹氏なる人物の次のような言葉を載せている。「戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に引き出すことを求めたジーコ監督」は「指示されるのではなく選手自らが状況判断を下す自主性を求めた」。

 これも「選手自らが状況判断を下す自主性」を持たず、「指示される」ままに動く従属性(指示のなぞり)をプレーの基本としているからこそ、逆の状況への要求として出たことであろう。

 次のように私は解説している。
 ――「何度でも言うことだが、暗記教育にしてもその一つ現れに過ぎない、上からの指示に従い、それをなぞる方法で自分の行動・思考を決定していく習性(権威主義)を日本人は一般性としている。判断・自主性に関して言うとするなら、如何に従い、如何になぞるかに関する判断と、判断に応じてその方向に向けた自主性は、その限りに於いては勿論十分に発揮し得る。指示に従って、指示されたとおりになぞっていく上での発展はあるが、指示にない自分の判断がないから、それが必要となる相手がある場合は相手の動きを追いかけるのが精一杯の、なぞることに関する自主性は何ら役に立たないといった事態に陥る。その忠告として、岡田武史氏は『コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ』と選手個人個人が自らの判断を持ち、それに従った自己独自の動きを求めたということだろう」

 5歳や6歳の頃からボランティアの指導者が地域地域でサッカーを教えている。あるいは野球を教えている。自分では指導者の指示に単に従属するだけの選手を育てていると露ほどにも思わないだろうが、指導者にしても上が下を従わせ、下が上に従う権威主義的日本人性を血としているのである。幼稚園の先生や交通警察官が幼稚園児に「お酒を飲んで運転しないでね」と言わせ、「信号機のお餅です」と手渡させる、それを受けて幼稚園児が彼らの指示通りになぞり、「お酒を飲んで運転しないでね」と言い、「信号機のお餅です」と手渡す指示と従属の関係を同じようにサッカー少年や野球少年にも実際は植え付けているのである。ああしろ、こうしろと指示し、指示と同じようにプレーする従属を求めているのである。

 だからこそ、説明がくどくなるが、岡田武史氏の「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」の要求が生じるのであり、中小路徹氏の言うように、ジーコ監督は「指示されるのではなく選手自らが状況判断を下す自主性を求めた」という課題提示が必要となったのである。

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成」が指示と従属の関係をつくり出す同じ運命を辿る可能性が非常に大きいということなら、そういったことはせず、子どもたちが上からのどのような指示の関与も受けない、安全パトロール以外の大人入場禁止の子どもたちだけで自由に遊んだり、プレーできるグランドや体育館だけを造ることが求められているのではないだろうか。サッカーで言えば、グラウンドや体育館にブラジルのストリートサッカーを実現させるのである。

 このような取り組みが自分で判断する自主性と主体性を子どもたちに育む最良の道になることは間違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育再生/「規範意識」教育は役立つのか

2007-01-20 01:59:51 | Weblog

 第一番に問題とすべきは何であるのか。

 1月18日(07年)の「朝日」夕刊に『再生会議第1次最終案(要旨)』が報道されている。具体的な説明として、「教育再生会議『第1次報告』『教育再生のための当面の取り組み』(『七つの提言と五つの緊急対応』)の要旨」となっている。「七つの提言」の中の3番目にある、安倍首相が機会あるごとにバカの二つ覚えのように口にしているうちの一つである「規範意識」の件を見てみる。バカのもう一つが「美しい国」なのは断るまでもない。

 「【3】すべての子どもに規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する」とチョー壮大な目標を掲げ、その具体策として、「『道徳の時間』の確保と充実・高校での奉仕活動の必修化」(同記事)を定めようとしている。

 規範意識教育・社会人教育を〝チョー壮大な〟目標だと批評したのは、この最終報告案を安倍首相が持ち前の、あるかどうか知らないが、決断力・実行力を発揮して実現の成功をもたらしたなら、この手の教育に薫陶を受けた小・中・高の生徒が学校を卒業して社会人となり、社会の中堅で活躍する20年後、30年後には日本は各種談合・各種粉飾・各種偽装・各種違法資金操作・各種裏ガネ工作・各種私利私欲行為・各種天下り利益行為・各種偽善行為etc.etcの跳梁跋扈が日常的な姿となっている現在のコジキ犯罪列島から抜け出し、神武建国以来3000年(皇紀2667年+20年後、30年後≒3000年)の歴史を経て初めて日本社会を覆って泥色に汚濁していた水が時間をかけて徐々に浄化し、ついには澄んだ水を見せるように安倍首相が掲げる、もう一つのバカの覚えである「美しい国」日本が実現することになるだろう。

 いわば劣る日本民族からの脱却である。劣る日本民族から、清く正しい「美しい」日本民族への変身を遂げる。

 「美しい国」日本の体現者として、安倍晋三はそのときまだ生存していたなら、ノーベル平和賞に推薦されるべきだし、あの世に旅立っていたなら、その墓は「美しい国」実現者の墓として世界遺産に登録されるべきではないだろうか。

 果して20年後、30年後の日本列島は官民談合も官官談合も、家賃ゼロの議員会館事務所に高額な事務所費計上といった政治不正も、違法政治献金も、政治家の無理無体な地位を利用した恫喝混じりの薄汚い口利きも、タウンミーティングの世論操作といった狡猾・鉄面皮な偽装・粉飾も、企業犯罪も何もない美しいばかりの社会空間となっているだろうか。

 誰も「イエス」とは言わないのではないだろうか。言わないとしたら、残念ながら安倍晋三のノーベル平和賞受賞の目も、世界遺産登録の目もなくなる。依然として「美し」くない日本・劣る日本民族は日本の歴史・伝統・文化として進行形の姿を取ることとなる。

 改正教育基本法は第10条「家庭教育」の項目で、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」としているが、これは家庭教育力が低下している、あるいは欠如していると見ていることが要求した、その裏返し内容なのは言うまでもない。

 だが、そのような教育力不在の親・家庭を延々と生産してきたのは日本の学校教育であり、社会教育であろう。家庭は日本の全体社会の最下位に位置した社会であり、学校・一般社会は家庭社会の上位に位置した社会であって、それぞれの社会は孤立して存在しているわけではなく、相互に関連・作用しあっている関係にある以上、家庭の教育力のみ低下・不在という状況は取り得ないからである。

 例えば学校社会で家庭で育まれる幸運を与えられることによって植え付け可能となると考えられている基本的「規範意識」を学校教育でも補強して本格的「規範意識」に高めつつ真面目に行動し、真面目に勉強して高学歴を獲得し社会に旅立った生徒の多くが席を占めることとなる政界・官界・業界(大企業)で当然の結果性として優れた高度な「規範意識」が確固とした網目を張っていて然るべきだが、現実には綻びだらけの網目しか張ることができず、あらゆる種類の不正・犯罪が横行している状況から説明すると、政治家や教育者の多くが「家庭の教育力の低下・不在」をことあるごとに口にしているものの、「教育力の低下・不在」という点では家庭も学校も一般社会も条件を同じくし、同列状態にあるということを示していて、家庭だけの問題でないことを証明している。

 言葉を変えて説明するなら、家庭で幸運にも恵まれることとなった「規範意識」教育にしても学校教育での「規範意識」教育にしても付け焼き刃の効果しか与えず、その上の社会も、自らが備えるべき教育力(社会教育力)を備えていないために参入してくる社会的新来者に社会人としての「規範意識」を満足に植えつけることができないでいることの最終局面として迎えることとなった「規範」の破綻現象であり、それはそれぞれの段階の社会すべてに共通する光景としてあると言うことだろう。

 となると、「教育の原点は家庭にある」とか、その家庭の教育力が低下、もしくは欠如しているとする把え方そのものがそもそもの出発点から間違いを犯していることにならないだろうか。

 次のように把えるべきなのだろう。日本社会の「規範意識」の欠如・不在は日本の家庭教育力・学校教育力・社会教育力の欠如・不在を受けた、その反映としてある全体像であり、このことはそのまま全体社会の形成者であり、それぞれが社会の経営者で社会の中身を主として構成している大人たち自身が「規範」という品質を備えるに至っていないまま総がかりで築き上げた成果物としてある「規範意識」の欠如・不在(=社会の姿)なのだと。

 社会人としての地位を占めている日本の大人たちが「規範意識」喪失状態にあったなら、彼らが親の位置を占めていようと、教師の位置を占めていようと、国会議員の位置を占めていようと、中央省庁の何様の地位を獲得していようと、彼らの発する「規範」に関わるどのような言葉も、如何ように贅を尽くした美しい文言で取り繕おうと言葉としての力を持たず、奇麗事の姿を取るだけのことで、単なる空文・スローガンの実質を備えた形でしか社会的後発者の内心に響かず、成人式が形式的な通過儀式への形式的な参加といった形式に対応する形式の構図で終わっているように、「規範意識」教育の形式に対する形式的な「規範意識」の身の纏い(=社会参加のための表面的な従属)を誘うだけで推移していったとしても不思議はない。

 かくして教育再生会議最終報告に従って「『道徳の時間』の確保と充実・高校での奉仕活動の必修化」等の完全実施を通して高邁な美しいばかりの「規範意識」教育を徹底的なまでに受けさせたとしても、その努力の甲斐もなく、大人になれば、同じ日本の大人となる。その結果の同じ「規範意識」無しの社会的光景の連続シーン。「美しい国」日本とは裏腹の、現実日本の延々と続く再現・再生産である。

 いわば、誰も「イエス」とは言わないのではないかと予測した世界の出現である。

 正義漢を持って、この世の不正と戦うべく警察官になったり、この国をよくしようと政治家になったりする。しかし数年も経たないうちに組織内に充満し、組織を動かす基本的な行動力学と化している怠惰・馴れ合い・日和見主義・横並び主義・責任回避主義・事勿れ主義・縄張り主義・縦割り主義・ご都合主義・事大主義(「勢力の強い者に追随して自己保身を図る態度・傾向」『大辞林』三省堂)等の壁に阻まれて自分の無力を思い知らされ、組織で生きていくため・日本の社会で生きていくため背に腹は変えられない、他に選択肢はないのだと組織の行動力学と馴れ合い、横並びして同じ組織の一員と化していく。朱に交われば赤くなるを完成させる。

 このようなよくある構図も、組織運営の基本的態度として「誠実・実行力・社会貢献」などと如何ように掲げ、組織内教育として新入者に徹底して「規範意識」教育を行い、人格要素としていくら求めようとも、周囲を囲んでいる教育する側、あるいは範を垂れるべき既成所属成員が「規範意識」をその時点で自己のものとしていなかったなら、教えや模範行動は口にする言葉通りの力を持ち得ず、あるいは示す態度どおりの力を持ち得ず、奇麗事の姿を取る同じ宿命に見舞われ、単なるスローガンの伝授とその従属のまま推移する同じ展開を示すものだろう。

 教育を受ける側は教育を受けた当座はその気になったとしても、周囲を囲む人間が「規範意識」をクスリにもしたくない人間ばかりなら、自己を異端者、あるいは異邦人と受け止めるだけのことで、社会の一員、あるいは組織の一員として生きる以上、異端者、あるいは異邦人であり続けることに耐えられる人間がどれ程いるだろうか。かくして日本の政治家たちが揃いも揃ってそうであるように、似たり寄ったりの人間たちばかりで占められることになる。

 学校での「規範意識」教育を効力あるものにする当然・唯一の答は、家庭社会・学校社会・一般社会のすべてを含めて、それぞれの社会に生きる日本の大人たちが「規範意識」を持つことということになり、それ以外の答を導き出すことは不可能である。日本の大人たちが「規範意識」を持つことによって、「規範」に関わる言葉は形式・スローガンから離れて真正な品質・真正な力を持つことになり、その品質・力と共に他者に伝えられていくはずである。

 一定の年齢に達した生徒が、教師が立派な言葉を口にするほどに奇麗事・口先だけのこと受け止め、誰がまともに聞き入れるだろうか。だが、それを教師一人の責任とすることはできない。
それぞれの社会が相互に関連し合うことで社会の大人たちの姿を反映させてもいる教師の姿でもあるからだ。いわば教師も日本の大人として、一般社会の大人たちとお互いの姿を響き合わせている似た者同士だからである。同じ穴のムジナと言ってもいい。すべてが同じ穴のムジナだからこそ、日本の社会全体に亘って各種談合・各種粉飾・各種偽装・各種違法資金操作・各種裏ガネ工作・各種私利私益行為・各種天下り利益・各種偽善etc.etcの跳梁跋扈が日常的に演じられているのであり、それが日本の美しいばかりの一般的な社会的姿となっているのである。

 教育を問題にするよりも、大人たち自身の姿を第一番に問題にすべきだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする