2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(1)

2022-10-31 04:53:31 | 政治
 2022年8月、NHKが再放送も含めて日本の戦争を検証する番組をいくつか放送していた。内容に刺激を受けて、ブログで取り上げてみることにした。ここで取り上げるのは全て番組を記事にしたものから利用することにした。(リンクはあとから)

1.2022年8月10日放送NHKスペシャル 選 新・ドキュメント太平洋戦争1941開戦(前編)
2.2022年8月10日放送NHKスペシャル 選 新・ドキュメント太平洋戦争1941開戦(後編)
3.2022年8月13日放送NHKスペシャル新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(前編)
4.2022年8月14日放送NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(後編)
5.2022年8月15日放送NHKスペシャル 選「戦慄の記録 インパール」
6.2022年8月15日放送NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」

 放送の体裁は、記事も同じ体裁を取っていることになるが、将兵や一般市民、さらに現地人等、それぞれの日記、手記、証言、尋問調書等に現れている各個人の思いや考え、主張に「エゴドキュメント」としての体裁を与えて、検証していくという手法を採っている。そこでは日米戦争の形勢悪化の過程でより露出することになった日本帝国軍隊という組織の矛盾を暴くことになり、結果としてその実相・正体がどのようなものであったかを明らかにしていく。日本は東南アジア諸国を欧米の植民地支配から解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるとする「大東亜共栄圏」とアメリカの影響力を排する「自存自衛」を戦争の大義としたが、その構想自体が東南アジア進出当初から矛盾を見せていて、1945年8月15日の敗戦に向かう過程で手の施しようもなく破綻していく作戦の遂行に飲み込まれて有名無実化し、敗戦と共に潰え去ることになるが、日本という国家に戦争を遂行する能力も、何よりも大東亜共栄圏を概念通りに実現する道徳的精神さえも欠いていたことを番組は明らかにする。所詮、戦争を正当化するために体裁よく用意したスローガンに過ぎなかったから、構想と現実との乖離が生じることになった。

 日本はアメリカに中国大陸からの完全撤退等を要求され、呑むことができず、「大東亜共栄圏」と共に「自尊自衛」のスローガンを掲げて1941年12月8日午前3時20分(現地時間7日午前7時50分)、真珠湾を奇襲攻撃、対米開戦に踏み切ったが、時の総理大臣は東條英機。陸相と内相を兼任していた。就任は1941年10月18日。就任から2ヶ月とかからない開戦となっているが、総合的な戦略を伴わせた戦争計画の立案に関しては「大日本帝国憲法 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の規定に則って陸海軍を統率・指揮する統帥権は天皇の大権、天皇のみが許される独立した権限とされ、陸軍の場合は参謀総長をトップとした参謀本部、海軍の場合は軍令部総長をトップとした軍令部が行い、首相も陸軍大臣も海軍大臣も作戦計画には参画外にあったが、東條英機は中国では関東軍参謀長を務め、のちに陸軍省陸軍次官の地位に就き、1940年7月に第2次近衛文麿内閣の陸軍大臣に就任してたのだから、軍人の立場からのネットワークによって作戦の内容・骨格は一定程度知りうる立場にあっただろうし、一定程度の口出しも可能だったかもしれない。その上、首相就任後は天皇の意向を受けて対米和平に転じていたものの、元々は対米開戦強硬派の一人であったことと陸軍大臣を兼任していた関係から、開戦した場合はかく戦えりの対米戦争戦略は大まかには持ち合わせていたはずで、その理由は当初は陸軍大臣として天皇臨席による国の重大政策決定の場である御前会議に出席、1941年11月5日の対米和戦両構えの策を決定した第7回御前会議と1941年12月1日の対米開戦を決定した第8回御前会議には内閣総理大臣兼内務大臣兼陸軍大臣の資格で出席していたからである。

 その一定程度がどの程度か知る術は当方は持ち合わせていないが、陸海軍が構想することになったかく戦えりの戦争計画の立案、対米戦争戦略はある制約を受けることになった。戦略とは一般的には自らの人的・物的戦争資源を如何に使い、南進とか、北進とか、あるいはどこを占領して、どのような資源を確保するかといった戦争の長期的・全体的な準備・計画・運用の方法を言うが、ここでは個々の戦いに於いて国力や軍事力等を背景とした兵力の彼我の差を計算に入れて、その差をどう埋めて、どう処理し、どう勝利に導いて、長期的・全体的な準備・計画・運用の総合的な戦略にどう貢献するか、どう導いていくかの実際的戦法にも「戦略」なる言葉を用いる。その理由は個々の戦いは勝ち負けの単なる戦術を超えて、全体的な戦争目的に常に関連付けられていかなければ、戦争そのものの最終的な勝利へと結びつけることが困難となるからである。

 勿論、個々の戦いの指揮は各現地部隊の司令官に任されるが、戦争の総合的な戦略に適う戦いを可能としうるか否かの人材の配置は作戦計画の立案に関わる軍の統帥機関や現地司令部の、誰をどう用いて如何に軍を経営していくか、如何に戦争を進めていくかの組織管理能力の問題に帰す。当然、軍上層部の全体責任事項となる。

 先ず陸海軍が戦争計画の立案に基づいた対米戦争戦略にどのような制約を受けることになったかを見てみる。制約を与えたのは勅命設立の総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告である。「総力戦研究所」(Wikipedia)

 〈模擬内閣閣僚となった研究生たちは1941年7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。

 その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。

 これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。

 この机上演習の研究結果と講評は1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府及び統帥部関係者(陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、その他)の前で報告された。

 研究会の最後に東條陸相は、参列者の意見として以下のように述べたという。

 東條英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。

 日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。

 戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」〉――

 「日本必敗」は実際には「戦争の不可能なること」と結論づけられた。不可能を無視した挑戦はイコール「必敗」と表現したということなのだろう。

 東條英機は1904年(明治37年)2月8日から同年9月5日までの日露戦争の時代から1940年代後半のその時代に至る兵器の発達と各性能の向上を無視して(日露戦争当時は戦車も戦闘機も存在せず、潜水艦は日露共に実用の段階に至っていなかったという)、40年近くも昔の日露戦争を参考にして、"意外裡な事"(意外の裡〈うち〉に入る事=偶然性主体の計算外の要素)に期待、合理性に基づいた戦争の進め方とは異なる気持ちの持ち方が大事だとする精神論に近い訓戒を行った。対米開戦した場合の戦争計画については一定程度の情報に接しているはずにも関わらずにこのような精神論を持ち出すこと自体、合理的な考えに立った不可能を可能とする戦略、勝てる戦略への思い巡らしに意識を向けていなかった疑いが出てくる。これが単なる疑いなのか、実際のことなのかはおいおいと分かってくる。

 このように日米戦想定の机上演習は長期戦が国力負担不可能の関係を取るという制約を対米戦争戦略に与えることになった。この関係を回避策とする戦争条件は短期決戦以外に答はないことになる。この演習約3ヶ月後に日本軍は真珠湾奇襲攻撃によって対米戦争に突入した。陸軍と海軍が策定することになった対米戦争計画は総力戦研究所の結論"戦争不可能"を覆しうる短期決戦の内容と骨格を持たせた総合的戦略に勝機を置いていたのか、あるいは結論を無視して、結論以前に策定した戦略に基づいて開戦したのか、いずれかだろうが、当たり前のことを言うと、間違っても、"意外裡な事"に勝機を置いていいはずはない。"意外裡な事"は他から偶然に与えられる経緯を取り、必ず与えられるという保証はなく、計算して自らの力で手に入れる行程を取ることはないからだ。

 ここで思い出すのが『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋/2007年4月特別号)の1941年(昭和16年)9月5日の内容である。陸海軍両総長が天皇に呼びつけられて参内した。

 昭和天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 
 杉山元陸軍参謀総長「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」
 
 昭和天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」

 杉山元陸軍参謀総長「支那は奥地が広いものですから」

 昭和天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」

 杉山元陸軍参謀総長は答え得ず、ただ頭を垂れたままであったという。自身も立ち会っていた総力戦研究所が行った日米戦想定机上演習の研究報告1941年8月27・28日からたった8日後の1941年9月5日のことではあったが、その報告を待つまでもなく、昭和天皇の質問内容から言って、対米戦争作戦立案と戦略構築が完成していることを前提としていることになり(この理由はあとで述べる)、その作戦と戦略に基づいて杉山元は対米戦争に於ける日本の勝利の方程式を一定程度正確に答えなければならなかった。だが、「南洋方面だけで」と地域を限定したことは他地域での戦闘を想定していることになり、南洋方面を3ヶ月程度で片付けたイコール日本の勝利と結びつけることは不可能となって、以後、戦争が続くようなら、その期間が長引けば長引く程に南洋方面の3ヶ月程度は
意味を小さくしていく。この程度の合理性に則った思考力しか見せることができないということは陸軍参謀総長としての能力と責任意識は心許なく、如何に立派な戦略を手にしたとしても、それぞれの戦闘に柔軟且つ発展的に応用できるかどうかが疑わしくなってくる。

 では、果たしてどのような対米戦争戦略に基づき、勝機をどこに置いて戦争を戦ったのか、エゴドキュメントを駆使して日本の戦争を検証したNHK放送の記事の中から探っていく。勢い、この趣旨に添う記事箇所を主に取り上げ、それ以外は伝える必要があると思った出来事のみを書き出すことになる。なお、NHK記事中の文章は次の括弧、「〈〉――」で表すことにし、必要に応じて文飾を施し、記事を意味を変えない範囲で纏めたりした。

 NHK記事に取り掛かる前に記事が取り上げている各戦闘を簡単に列挙してみる。

「真珠湾攻撃」   1941年(昭和16年)12月8日
「ビルマ侵攻」   1941年12月14日
「ラングーン攻略」1942年(昭和17年)3月8日~1941年12月14日
「ドーリットル空襲」1942年4月18日
「ミッドウェー海戦」1942年6月5日~ 6月7日
「ガダルカナル島の戦い」 1942年8月7日~1943年2月7日
「インパール作戦」 1944年(昭和19年)3月8日~7月3日作戦中止決定)
「対英ラングーン防衛イラワジ会戦」1944年12月~1945年3月28日
「イギリス軍によるラングーン陥落」1945年(昭和20年)5月2日

 ここで最初に取り上げるのはNHKスペシャルの最後の放送である2022年8月15日放送「ビルマ絶望の戦場」とするが、この番組は記事に起こしていなくて、〈NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」取材班〉取扱いの《インパール作戦後の“地獄” 指導者たちの「道徳的勇気の欠如」》(NHKWEB特集/2022年8月31日 11時55分)の記事が放送番組と重なることから、この記事を利用して、その日本軍検証を眺め、自分なりの解釈を付け加えたいと思う。最初に取り上げる理由は日本軍上層部の無責任体制をイギリス軍司令官が短い言葉で的確に言い当てているからである。この無責任体制を通して日本軍の行動を見ることになる。

 インパール作戦中止から半年経過後の1945年の初頭、日本軍はミャンマー中部を流れるイラワジ河の南岸でラングーン奪還を目指すイギリス軍を迎え撃ち、インパール作戦を上回る死者を出すことになった敗戦を“さらなる地獄”として描き出した記事内容となっている。記事冒頭でいきなりイギリス軍司令官の日本軍に対する鋭い洞察力を紹介している。

 〈太平洋戦争で日本軍と戦ったイギリス軍のある司令官は、日本軍の上層部の体質を次の様に喝破していた。

 第14軍ウィリアム・スリム司令官 「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、“肉体的勇気”とは異なる“道徳的勇気の欠如”である。彼らは自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ」〉――

 大本営から始まる日本軍という組織の欠陥、その無責任体制を見事に言い当てている。「計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がない」と言っていることは、「失敗し、練り直しが必要な計画を練り直さないままにずるずると実行し続ける」という無責任性の指摘に他ならない。この無責任性は失敗を直視する感性の欠如――「道徳的勇気の欠如」によってもたらされる。

 また、道徳的勇気を欠如させた肉体的勇気は蛮勇でしかない。肉体的勇気が道徳的勇気を基盤としていなければ、戦争は単なる殺し合いの場と化し、陣地の取り合いではなくなる。殺し合いの場とした場合、あるいは殺し合いの場に過ぎなくなった場合、殺し合いに障害となる道徳的勇気は最初から排除される関係にあり、逆に陣地の取り合いでこそ、冷静な判断に基づいた沈着で的確な行動を生み出す肉体的勇気は道徳的勇気をこそ基盤としていなければならない。つまり「間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める」道徳的勇気こそが蛮勇とはならない肉体的勇気を導き出す。日本軍の肉体的勇気の多くが蛮勇であったのは合理的な精神に基づかない、大和魂を全ての解決策の万能薬とするような非合理で情緒的な精神論を重要な武器としていたからだろう。精神論は蛮勇を引き出す麻薬でしかない。

 〈インパール作戦が中止された1944年7月から、終戦までの1年間。その間の死者は、ビルマでの犠牲者全体の実に8割近くに上っていたのだ。ビルマ侵攻後の日本の将兵の死者は16万7000。インパール作戦のあと、さらに10万人以上もの命が失われていたのである。〉――

 計算式で出してみる。1941年12月14日ビルマ侵攻~終戦死者数=16万7000人×(インパール作戦1944年7月中止後~終戦死者数)8割=13万3600人。インパール作戦とそれ以降の攻防が如何に日本軍に不利に働き、多くの兵士を如何に無駄死にに向かわせたかが見て取れる。
 
 〈インパール作戦の後にいったい何があったのか。

 インパール作戦中止から半年がたった1945年の初頭。日本軍は、ミャンマー中部を流れるイラワジ河の南岸で、ラングーンの奪還を目指すイギリス軍を迎え撃った。〉――

 イラワジ河の日英衝突は1945年1月から1945年3月28日の約3ヶ月間。決着がついたのは1945年8月15日の敗戦約4ヶ月半前である。

 〈イギリス軍の500機に上る航空戦力の前に、日本は完全に制空権を失っていた。

 さらに、イギリスの陸上兵力は26万。

 それに対し、日本軍はわずか3万。その大半が、インパール作戦で疲弊しつくした兵士たちだった。

 補充兵としてビルマに送られたばかりだった重松一さん(当時22)は、日本軍の惨状を生々しく覚えている。

 歩兵第56連隊 元二等兵 重松一さん(99)証言「『大隊長どの、戦車が来とるとですよ。どうしますか』って聞いたら、『なら下がれ!』と言って。でも、その本人がどんどん逃げながら『下がれ』です。敵から見つけられんように逃げる一方です。日本軍が小銃で一発撃ったって、そんなものも何も役に立たない。日本の大和魂なんて、そんなものは、一切ありません」〉――

 国力の差を反映した物量の差。そして国力が保証する消耗兵器の生産回復力の差が(イギリス軍は米軍からの支援も得ていたであろう)人的・物的戦争資源の差となり、その差が当初からイラワジ河での日英衝突の戦局を大きく支配していた。当然、撤退でもなく、降伏でもなく、戦うと決めた以上、この差を縮めて、差自体を問題外とする戦略を、それがあればのことだが、立てなければならないことになる。

 〈この戦いを指揮したのは、ビルマ方面軍の田中新一参謀長。参謀本部第一部長の時、アメリカとの開戦を強硬に主張した人物だった。

 田中参謀長は、軍上層部の独断で敗北したインパール作戦の失敗の原因を「軟弱統帥にある」と分析し、強気の方針を掲げていた。

 田中新一『緬甸(ビルマ)方面軍参謀長回想録』「徒(いたずら)に消極防守に沈滞することなく、機会を捕らえて積極攻撃によって解決すべき努力が、是非必要であると思う」

 一部の将校からは、戦線をラングーン周辺にまで引いて、長期持久戦に持ち込むべきという声が上がっていた。しかし、田中参謀長は、イラワジ河のあるビルマ中部に防衛ラインを設定。イギリス軍を迎え撃つことを決めたのである。

 しかし、戦力の差を度外視した上層部の命令で、前線の士気は著しく低下していた。

 歩兵第58連隊元曹長佐藤哲雄さん(102)「日本人の兵隊同士で泥棒がはやったの。『お前もう死ぬんだから』というわけで、死にそうになっている人のものを取ってしまう。戦争というよりも自分の身を守るということが、第一にその当時はあった」〉――

 物量の差を一定程度無効にする戦略は夜間の遊撃戦(ゲリラ戦)が有効なはずで、日本軍は中国戦線で中国国民党の軍・国民革命軍の遊撃戦に散々手こずった経験があるはずである。にも関わらず、人的・物的兵力の差を無視して真正面からの「積極攻撃」を仕掛けた。子どもが相撲取りを相手にするようなもので小さな物量で大きな物量にまともにぶっつかっていった。

 〈もはや、日本軍に立ち向かえる戦力はなかった。イラワジ河での戦死者は6500にも上った。戦いは、“無謀”そのものであった。イギリスの国立公文書館に残されていたイギリス軍が日本軍の大本営参謀や現地軍の上層部ら30人に行った尋問調書。

 田中参謀長尋問調書「日本軍が、イラワジ河の防衛線を無期限に持ちこたえられるとは思っていなかった。だが、ラングーンを防衛し続けるための時間を稼ぐことはできると考えたのである」〉――

 イギリス陸上兵力26万に対して日本軍3万、イギリス軍航空戦力500機に対して「Wikipedia イラワジ会戦」によると出動可能機64機。この兵力差でラングーン防衛の時間稼ぎのためにイラワジ河防衛を徹底抗戦に持っていった。要するにイギリス軍によるイラワジ河防衛線突破もラングーン陥落も時間の問題だと予測していた。3ヶ月は持ちこたえたが、ラングーン陥落は1945年5月2日で、イラワジ敗戦からラングーン陥落まで1ヶ月程度しか持ちこたえることができなかったことになるから、合計で4ヶ月程度の時間稼ぎに過ぎなかった。

 勿論、時間稼ぎの可能期間は前以って予測困難だが、イギリス軍を撤退に追い込むことも降伏に追い込むことも不可能で、イラワジ河防衛線突破もラングーン陥落も時間の問題だと予測できた以上、時間稼ぎは物量と士気の差によって消耗戦への挑戦となる。歩兵銃やその弾丸、大砲やその砲弾の消耗等々、兵器・物資は再生産が可能とすることはできるが、味方兵士の命を無視して投入する消耗戦は命が再生産できないだけに時間稼ぎの道具とすることができたのは兵士の命に対しての責任感を持ち合わせていなかったからだろう。だが、上官の兵士の命に対するこの責任感の欠如が日本軍では通用していたことをおいおいと知ることになる。

 イラワジ河会戦の指揮を取ったビルマ方面軍参謀長田中新一が時間稼ぎによって作戦指揮の責任に応える戦略を取ったとする自負は独りよがりの思い上がりに過ぎない。もはや起死回生は不可能な状況にあることを見抜き、残された蛮勇でしかない肉体的勇気を発揮していたずらに死者の数を増やすのではなく、撤退、もしくは投降という道徳的勇気を発揮すべきだったが、できなかった。

 尤も撤退や投降は1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した、命を人質に取った最たる精神論の「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓が邪魔をし、恥となることを恐れて選択肢とすることはできなかった可能性は指摘できる。戦陣訓が幅を利かしていたこと自体、日本軍の成り立ちは本質のところで精神主義に支配されていたことになる。この精神主義が合理性を持たせなければならない戦略にそれを持たせることができずに狭めることになっていた。不利な戦況下では早期の退避、早期の撤退、早期の投降・降伏等々、"計画の練り直し"を用いた臨機応変な対応で人的・物的戦争資源のより多くの温存を適宜図り、温存した戦力を以後の戦闘に利用可能な場合はその方向に持っていくといった柔軟な戦略は取り得なかった。柔軟な戦略の欠如は国力の差を国力の差のまま維持し続けることになるばかりか、ときには広げてしまう恐れも出てくる。

 イギリス軍が首都ラングーンに迫る中、現地軍の上層部は臨戦態勢にあらざる態度を取っていた。

 〈若井徳次少尉回想録「芸者を中心とした、高級将校の乱脈ぶりは、目を覆うものがあった。逆境の時の人間の犯す過ちは、何か日本人の欠陥を見る思いである」

 高級将校が通っていたのは、ラングーンにあった芸者料亭「萃香園」。もともと九州にあった料亭がラングーンに出店したものだった。

 今回、萃香園関係者の証言記録も見つかった。

 板前の回想「前線から菊部隊の兵隊さんが帰ってきました。みんなボロボロになった軍服を着ていました。ところが夜でも光々(こうこう)とあかりがついている萃香園の騒ぎぶりを見て、その中のお一人が『軍はええかげんなとこよ。作戦を練りながら女を抱いている』と、涙を流して怒られていました」

 当時、27歳だった若井少尉は、戦争のために大学が繰り上げ卒業となり、入隊していた。

 手記には、軍への失望がつづられていた。

 若井徳次少尉回想録「軍人の世界には、誠のみが支配すると信じていたが、正義以外のものがまかり通っていた。特に軍紀の頽廃(たいはい)にいたっては、欲望の醜悪さのみをさらけ出していた」〉――

 軍上層部のこのような行状も前線で命を賭して戦っている兵士の命に対する責任感の欠如を証拠立てることになる。イギリス軍が迫っていても慌てず騒がずの強がりを軍幹部として演じていたのか、迎え撃つどのような戦略も思い浮かばないままに女を交えたどんちゃん騒ぎに逃避していたのか、戦闘は現場任せの無責任さはまさにイギリス軍第14軍ウィリアム・スリム司令官 が言う「道徳的勇気の欠如」に裏打ちされた行動形態となる。その欠如は蛮勇さえ発揮できない「肉体的勇気の欠如」を伴走者とする。

 〈1945年3月27日、イギリス軍がラングーンに迫る中、日本と協力関係にあったビルマ国軍が対日蜂起する。反乱は瞬く間に全土に広がった。1か月後、ラングーンのビルマ方面軍司令部で異常事態が発生する。

 上層部数人が突如、陥落の危機が迫ったラングーンから飛行機でタイ国境付近に撤退。現地部隊や民間人は置き去りにされたのだ。司令部撤退の決定を下したのは、ビルマ方面軍の木村兵太郎司令官だった。東條英機首相が陸相を兼務していた内閣で陸軍次官を務めていた人物である。

 サイパン島の陥落で東條が失脚したのち、ビルマに派遣されていた。

 イギリス軍は、この突然の撤退についても、木村司令官から詳細に聞き取っていた。

 木村司令官「尋問調書」「寺内南方軍総司令官から電報があり、ラングーンを最後まで防衛することが急務であると言われたが、その指示には従えなかった。イギリス軍の驚異的な進軍を考えれば、ビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されないはずである。ラングーンを放棄するという私の決定は、立派に筋の通るものであると確信している」〉――

 方面軍司令部は複数の軍部隊と上下一体の関係にある。ラングーン放棄の理由はビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されなかったから。当然、司令部と軍部隊共々ビルマ方面軍全体がラングーン放棄の方向に進むのが順当な手続きとなるが、放棄したのは司令部要員のうちの幹部数人のみであった。残る司令部要員と部隊を置き去りにし、結果、この集団をラングーンで孤立させ、断絶状態に追いやった。例え無線機で指示系統は維持できたとしても、置き去りによる司令部からの孤立と断絶はそれが司令部の数人によるものであっても、司令部全体と軍部隊との物理的且つ心理的な一体性を破壊したことを意味し、軍部隊から見た司令部自体の存在意義を失わせたことになり、そういった信用喪失の経緯に木村司令官は気づかなかった。この鈍感さがビルマ方面軍を代表する自分たち司令部の幹部数人のみのラングーン放棄を「ビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されないはずである」という言葉に現れているとおりにビルマ方面軍全体のラングーン放棄と見立てるこじつけを可能とした。

 実態は「イギリス軍の驚異的な進軍」を受けて、方面軍司令部の幹部数人のみが命令・指示もなくイギリス軍の進軍のない場所へ移動したのだから、自分たちだけが生き残ることを考えた撤退そのものである。こういったことができるのは道徳的勇気の欠如がそもそもの素因を成していて、その欠如が行き着くことになる蛮勇さえも発揮できない肉体的勇気の欠如を誘ったと考える以外にない。これらの欠如には兵士の命に対する責任感の欠如も入れなければならない。日本軍上層部のこういった欠如が組み合わさって、兵士の犠牲をいとも簡単に生み出していった。

 〈一方で、撤退した上層部は、置き去りにした将兵や民間人に、ラングーンの防衛を命じていた。日本の商社・日綿実業のラングーン支店では、186人の社員が急きょ召集され、防衛隊として、首都の守備隊に加わっていた。小隊長を命じられた支店長の松岡啓一さんは、司令部に見捨てられ、多くの部下を失った無念を書き残している。

 松岡支店長回想録「軍司令官は『ラングーンを死守すべし』と命令を下したまま、ラングーンに残された吾々(われわれ)は、司令部の撤退を数日後に知り、唖然(あぜん)としたのでした。吾が部隊の行く手には、いつも敵が待ち伏せして邀撃(ようげき)し、世にいう“白骨街道 死の行進”が続きました。日綿支店員も百八十六名のうち、五十二名が戦死の憂き目を見て仕舞ったのです」

 ラングーンに海と陸から侵攻したイギリス軍は、木村司令官らの撤退から11日後、首都奪還に成功した。戦場で日記をつづっていた若井徳次少尉は、ラングーンを再び奪還するよう命じられていた。

 若井元少尉回想録「司令部は、己達のみ逃げ去っておきながら、僅かな在蘭将兵と共に此の無防備な蘭貢(ラングーン)を、『固守すべし』との一片の冷厳な命令を残して去っている。こんな矛盾した考えがどこにあろうか」〉――

 自分たちだけが撤退する卑怯な振舞いをそうと思わせないために指揮命令系統に於ける指揮の主体が誰であるかを知らしめ、自己存在を誇示するシグナルが「ラングーンを死守すべし」の命令だったのかもしれない。己たちの命が惜しくなっただけの道徳的勇気の欠如と響き合わせた肉体的勇気の欠如を本能的に隠すためには毅然とした見せかけの態度が必要となる。

 〈1945年7月。終戦まで、残り1か月。ビルマ国軍は完全にイギリス軍の指揮下に入っていた。

 司令部の突然の撤退で取り残された第28軍を中心とする3万4000の将兵と、ラングーンから逃れてきた多くの民間人は、密林でイギリス軍とビルマ国軍に包囲されていた。〉――

 〈若井元少尉回想録「時々遠く近くで爆発音が起こる。それは手榴弾による、自決者の増加を意味している。衰弱し切った病兵に、無情にも豪雨が追い打ちを掛ける。この生き地獄の転進は一体いつまでどこまで続けねばならぬのであろう」〉――

 〈将兵や民間人は、終戦を知らないまま、9月になっても撤退を続けた。死者は最終的に1万9000に達した。この惨劇について、ラングーンから撤退していた木村司令官は、イギリス軍の尋問に対して、こう語っている。

 木村司令官尋問調書「シッタン河における第28軍の敵中突破作戦は、どの地点で試みても、重大な困難に遭遇し、それに耐えることは難しいと考えていた。私は第28軍がほとんど全滅するだろうと思っていた」〉――

 撤退日本軍兵士に対してイギリス軍が追討作戦に出ている。イギリス軍の物量が遥かに優るということなら、全滅を避け、兵士の命を守るためるための残された唯一の方法は投降以外にない。木村司令官が「全滅するだろうと思っていた」だけで済ましているのは兵士の命を守るための投降という選択肢を全然頭に置かず、兵士という戦争に於ける人的資源の喪失に無頓着だったことの現れでしかない。「戦陣訓」によって植え付けられた捕虜は恥という固定観念が原因だとしても、兵士の命を無駄死にさせていた事実は変えようがない。無駄死にによる戦力低下はやれ学徒動員だ、徴兵年齢の引き下げだと人員補充によって片付けることができたとしても、訓練期間や士気の点で戦争の準備・計画・運用の方法としての戦略そのものを狭めることになる代償を支払わなければならなかったことも事実として横たわる。にも関わらず、戦争期間を通じて兵士の命を軽視し続けた。

 記事はここで前出のイギリス軍第14軍ウィリアム・スリム司令官の言葉を再び伝えている。

 〈第14軍ウィリアム・スリム司令官 「日本軍は、計画がうまくいっている間は、アリのように非情で大胆である。しかし、その計画が狂うと、アリのように混乱し、立て直しに手間取って、元の計画にいつまでもしがみつくのが常であった。確かに戦争では、決意のみで達成できることもあり、決意を伴わない柔軟さでは成果を上げられない。しかし、最終的な成功をもたらすのは、この2つを併せ持つときにほかならないのだ。指揮官としての最も厳しい試練は、この決意と柔軟さのバランスを保つことである。日本軍は決断力によって高い得点を得たが、柔軟性を欠いたために大きな代償を払うことになった」(「Defeat into Victory」より)

 「決意」と見えたものは精神主義に基づいた蛮勇が主体の行動力に過ぎないだろう。当然、「決意と柔軟さのバランス」など望むべくもなかった。このバランスを保持し得ていたなら、退避、退却、撤退、投降、降伏等々、より柔軟な戦略を駆使し得ていただろうし、兵士の命をこれ程までに無駄死にに向かわせることもなかった。もし真の柔軟さを体質とし得ていたなら、精神論を振り回すことも、精神論に頼ることもなかった。蛮勇を引き出す麻薬とする以外に役に立たない精神論は、当然、柔軟さ発揮の障害として立ちはだかることになっていた。 

 記事最後の言葉

 〈77年前、終戦間際という最大の逆境の中で表出していた日本軍の体質。
 これは、いま、さまざまな危機の中に生きる私たちにとって、決してひと事ではない。
 目をそらさずに向き合わなければならない歴史である。〉――

 次は8月9日放送(2021年12月4日放送の再放送)「NHKスペシャル選 新・ドキュメント太平洋戦争1941開戦(前編)」から日本軍の無責任体質を見てみる。

 前置きの言葉、〈もし80年前、太平洋戦争の時代にもSNSがあったなら、人々は何をつぶやいたのだろうか?今、研究者たちが注目するのが、戦時中に個人が記した言葉の数々「エゴドキュメント」だ。膨大な言葉をAIで解析。激動の時代を生きた日本人の意識の変化を捉えようとしている。〉 

 「エゴドキュメント」に注目する理由は表現の自由が制約された時代性から考えて"ホンネ"が散りばめられている可能性を見ての姿勢としている。

 (日中戦争から太平洋戦争までの15年間の戦争での死亡は)〈日本人だけで310万もの命が失われた。〉との記述があるが、パソコン内を調べたところ、〈日本人の軍人軍属などの戦死230万人。民間人の国外での死亡30万人。国内での空襲等による死者50万人以上。合計310万人以上(1963年の厚生省発表)〉のメモを見つけることができた。軍人軍属の死に様の多くは既に触れたように上官の兵士の命に責任を持たない戦闘方法によって無駄死にを強いられていたことと敗戦を重ね合わせると、その殆どが無駄死にそのままで占められていることは容易に想像がつく。勿論、敗戦に関連付けられたこのような膨大な死者数の積み重ねは対米戦争計画自体の不備、あるいは欠陥、計画に則って構築することになる総合的な戦略の不備、あるいは欠陥、さらには個々の戦いが戦争計画そのものに有意性を与えることが可能となる戦略を欠如させていたことを物語ることになる。

 開戦の前年は都市部ではアメリカブームに沸き、ハリウッド映画やジャズが流行していたという。いわば一般的には生活に暗い影を差していることはなかったが、1940年の後半から、「代用品、配給、外米」等々の不自由さを示す単語がエゴドキュメントに現れ始めたと記している。原因は3年に及んでいた日中戦争の影響で、1939年4月米穀配給統制法公布。1940年米穀管理規則実施、政府の管理・統制によって米穀の供出・配給制度が開始されることになったからである。

 子供が生まれて半年が経った東京の一主婦の日記に見るエゴドキュメント。このエゴドキュメントは開戦前年の2月に一人娘が出産したことで書き始めた育児日記に基づいているが、ここに記されているエゴドキュメントから世の中の状況の変化に応じた思いの変化を追っている。

 〈金原まさ子育児日記(1940年)「八月十一日。外米になってから子供の腹こわしが増えた。今月からは麦が入る。7割外米の麦入りときては大変なり。大人は我慢するが子供はかわいそうだ」〉――

 市井の人々の思いとは別に戦争を遂行する上で欠かすことのできない重要な戦争資源でもある食糧の不足を日米開戦前から既に来していた。

 1940年9月27日、日独伊三国同盟締結。記事は、〈ドイツと結んだ日本にアメリカの世論が反発。厳しい経済制裁を求める声は8割に上った。飛行機の燃料やくず鉄などの重要資源の輸出禁止が矢継ぎ早に決まった。〉――と解説している。正式名「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」(コトバンク)の三国同盟は「第二条」で、「独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス」、「第三条」で、「日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国カ現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス」と、アジアでの日本の支配と「現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国」、即ち米国に日本が攻撃を受けた際のドイツとイタリア2国の軍事介入を義務としているのだから、名指ししていないものの、アメリカを仮想敵国に位置づけている関係からアメリカの世論が反発。

 記事は触れていないが、実際は1940年9月の日本軍の北部仏印進駐に対して米政府は屑鉄の対日輸出を全面禁止、続いて1941年7月の南部仏印進駐によって1941年7月25日に在米日本資産凍結と同年8月1日に対日石油輸出の全面禁止に出た。日本がフランスに対してこの進駐を容易に成し得たのは1940年5月のドイツ進撃によってフランスが降伏、ヴィシー傀儡政権成立という状況の利を受けたゆえの展開だったが、真珠湾攻撃前に日本軍は南進の一歩を踏み出していた。そしてアメリカの対日屑鉄と石油の禁輸が「資源獲得」の名のもと、日本の南進を日本の思惑以上に誘発することになった。

 1940年(昭和15年)11月15日に海軍大将に任ぜんられた山本五十六の三国同盟締結時の発言を紹介している。
 
 〈「三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避する様、極力ご努力願いたい」〉――

 だが、真珠湾攻撃の際の連合艦隊司令官を務めることになった。

 〈1941年、太平洋戦争開戦の年が明けると、日本はアメリカの経済制裁の影響であえぎ始める。国は不足した鉄などの資源を補うため、市民から供出させた。街中から金属が消え、経済全体が冷え込み始めていた。

 作家・永井荷風は、散歩の途中で見た光景を日記につづっている。

 「道すがら虎ノ門より櫻田(さくらだ)へかけて立ちつらなる官庁の門を見ると、今まで鉄製だったのをことごとく木製に取り換えていた。これは米国より鉄の輸出を断られたためである」

 市民の日記から、「品切れ」「枯渇」など物資不足に関する単語を抽出。1941年1月以降、増加傾向が顕著になっていく。同じ時期、戦争への関心も高まっていた。戦争に関する単語数も増加に転じていた。

 生活の不満の高まりを背景に、アメリカに対する過激な論調が目立つようになっていた。当時のオピニオンリーダー、徳富蘇峰は、1月、ラジオでこう呼びかけた。

 評論家・ジャーナリスト徳富蘇峰「米国は日本が積極的に進んでいけば、むろん衝突する。しかしボンヤリしていても米国とは衝突する。早く覚悟を決めて、断然たる処置をとるがよい」

 さらに、当時のベストセラー作家(北村賢志のこと)が刊行した本。『日米戦わば』。

 「米国なお反省せず。我が国の存立と理想を脅かさんとすることあらば、断然これと戦うべし。日本は、難攻不落だ」

 今でいうインフルエンサー的存在。戦争をあおるような言葉が、人々を捉え始めていた。

 この頃、雑誌が「日米戦は避けられるか」というアンケートをおこなった。4割もの人々が「避けられない」と回答した。

 「米英の妨害を 断然排除して進まねばなるまい」

 静岡・伊東市で書店を営む竹下浦吉さんは不穏な未来を予測していた。

 「日本がドイツと同盟して東亜に新秩序を確立せんとする以上、どうしても米英との衝突は免れぬと思う」

 子育て中の主婦・金原さんも、危機感を抱くようになっていた。

 「日米間の情勢についてだいぶ悲観的な話を聞くようになり、ママたちも本気で心配するようになっている。本当に日米戦が起こったら東京空襲も免れないし、住代ちゃんのような弱い子を、お医者もいない田舎に連れて行って、もしものことがあったらと思うと暗然とする。しかし、何という時代に生まれ合わせたものか!強い母にならねばならない」

 開戦の8か月前。国の指導者たちは、アメリカとの決定的対立を避けるための外交交渉に乗り出そうとしていた。背景には、陸軍が極秘でおこなったアメリカとの戦力比較のシミュレーションがあった。その報告に立ち会った将校の「エゴドキュメント」が残されていた。そこには指導者たちの「本音」が吐露されている。

 「三月十八日、物的国力判断を聞く」

 陸軍の中枢で政策決定に関わった石井秋穂中佐。この日、参謀本部で明かされたシミュレーションの結果は、陸軍の首脳に衝撃を与えた。

 「誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむをえざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる」

 資源豊富なアメリカとの戦争が2年以上に及んだ場合、日本側の燃料や鉄鋼資源が不足することが判明。これを受け、陸軍大臣・東條らは、日米戦争は回避すべきと判断した。〉――

 石井秋穂中佐の「三月十八日、物的国力判断を聞く」の発言からは、首相直轄の総力戦研究所日米戦争想定の机上演習報告が1941年8月27・28日の両日で、これより以前に陸軍がアメリカとの戦力比較のシミュレーションを行っていたという事実を窺うことができる。ネットで調べたところ、次の一文に出会うことができた。「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」(牧野邦昭/摂南大学)に、〈1940年冬、参謀本部は陸軍省整備局戦備課に1941年春季の対英米開戦を想定して物的国力の検討を要求した。これに対し戦備課長の岡田菊三郎大佐は1941年1月18日に「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判断していた。〉――

 日付は一致していないが、このことを指すのだろう。要するに1941年8月末の総力戦研究所が検証・提示した対米戦争「不可能」の結論を待つまでもなく、陸軍は前者の不可能性程ではないが、2年以内の短期戦という条件づきで「対南方武力行使」に関してのみ、「概ね」という形容詞を冠して大体に於いて武力行使可能性を提示しているが、南方以外の他地域を加えた場合の長期戦は(この想定は対南方武力行使のみで対米戦争は終わりを告げないことの示唆となるが)、「大なる危険を伴う」と対米戦争の困難性を1941年初頭の段階で既に突きつけつけられていた。当然、陸軍も海軍もこの「物的国力判断」に従い、1941年初頭以降、アメリカの国力と比較した日本の国力の程度に基づいた戦争の許容年数を2年以内と区切られた短期決戦で済ます方法を取るか、大東亜共栄圏建設の自存自衛達成にはそれなりの時間の必要性を視野に入れて、「大なる危険を伴う」長期決戦を覚悟する方法を取るか、選択しなければならないが、必要に応じてどちらかを選択できるように両方それぞれの戦略の構築に取り掛かっていたことになる。

 となると、1941年(昭和16年)9月5日の時点で昭和天皇から「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」と聞かれた陸軍参謀総長の杉山元は「物的国力判断」の報告を受けてから9ヶ月を経過しているのだから、短期決戦を取る場合と長期決戦を取る場合とに分けて対米戦争に於ける日本の勝利の方程式を一定程度の具体性を持たせて説明する合理性を持ち合わせていなければならなかった。にも関わらず、「南洋方面だけで」と地域を限定すれば済むわけではないことを限定して、「3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」と対米戦争がさも簡単に片付くようなことを匂わせた感覚の持ち主を陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て歴任させ、元帥の称号を与えていたのだから、日本軍という組織の程度が想像はつく。

 「物的国力判断」の対米戦争の困難性の提示にも関わらず、日本軍は虫のいいことを考えていた。

 〈日本の物的国力では対英米長期戦を遂行できないことは秋丸機関などの研究により十分認識されており、英米を刺激しない形での南方進出が意図されていた。秋丸機関の研究は1941年前半時点では当局者に日本の国力の限界を認識させ、武力行使を抑制させる働きを持っていた。

 しかし日本側が戦争に至らない範囲での南進策と考えていた1941年7月の南部仏印進駐は対日石油輸出停止というアメリカの強力な経済制裁を引き起こした。これにより対米開戦の機運が高まり、陸軍省戦備課は東條英機陸軍大臣から11月1日開戦を前提として再度物的国力判断を求められた。この結果も「決然開戦を断行するとしても二年以上先の産業経済情勢に対しては確信なき判決を得るのみであった」と岡田は回想している。〉(同「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」から)

 2年以上の長期戦には日本の国力(=軍事力)は耐えられないという結論を克服する方法としての「英米を刺激しない形での南方進出」という虫の良さは屑鉄と石油の禁輸によって第一歩でつまづいた。当時の日本は製鋼原料として銑鉄のほかに配合比50パーセント以上の屑鉄を用いる屑鉄製鋼法が主流で、鉄源の約半分は屑鉄利用となっていて、鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして銑鉄とし、鋳物、あるいは製鋼原料とする製鉄法は小規模だったことから、兵器製造に欠かすことができない米国の屑鉄の輸出停止は勿論、戦闘機や戦車、艦船の燃料となる石油の禁輸を南部・北部仏印進駐の代償としたことは対米戦シュミレーションのいずれかの時点での予測項目としていただろうが、資源小国としては戦争の不可能性、あるいは困難性を一段と露わな形で突きつけられたことになる。だが、このような状況に反して陸軍内で「対米開戦の機運が高ま」った状況は日米戦争という事態を招くことになったとしても、2年かそこらの短期決戦でアメリカを降伏させる何らかの戦略を持ち得たということでなければならない。断るまでもなく、単なる対米反発からの感情的な対抗心ではあってはならないからだ。

 陸軍の対米戦シミュレーション「物的国力判断」の陸軍内部での最初の報告は1941年1月18日。徳富蘇峰が早期対米開戦論を唱えた日付は「1941年1月」とだけしか出ていないが、どちらが先であっても、報告が悲観的内容であることは国民には知らされていないのだろうから、徳富蘇峰の対米開戦積極論も、当時のベストセラー作家北村賢志がアメリカと戦争しても勝てる、「日本は、難攻不落だ」と強気の自信を示し得たのも無理はない反応ということになる。ましてや一般市民が「生活の不満の高まりを背景にアメリカに対する過激な論調が目立つようにな」って、鼻息だけで対米開戦を唱えたとしても、ある意味当然であろう。勿論、軍部・政府がこのような世論に押されて、開戦を当然視する動機づけの一つとしたということもありうる。

 上記NHK記事は南部仏印進駐を次のように描いている。

 〈「自存自衛上、立ち上がらねばならない場合に備えて、あらためて南部仏印に軍事基地を作るという要求が生まれつつあった」

 独ソ戦により、日本にとって背後のソビエトの脅威がなくなった。その隙に、アメリカの禁輸政策のため欠乏する資源を手に入れようと、東南アジアの資源地帯を押さえようとしたのだ。アメリカは、日米のパワーバランスを崩しかねない日本軍の行動に強く反応した。そして、日本への石油の輸出を止めた。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、計り知れない打撃だった。軍の指導者たちは、アメリカがそこまで強硬に反応するとは想定していなかった。南部仏印進駐に関わった石井(秋穂中佐)はこう振り返っている。

 「大変お恥ずかしい次第だが、南部仏印に出ただけでは多少の反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいとの甘い希望的観測を包(かか)えておった」〉――

 先の記事が取り挙げていた、英米を刺激しない形での南方進出の意図という虫のよさが石井秋穂中佐の発言の中に色濃く現れている。要するにこのような虫の良さに全面的に頼った南北仏印進駐だったことを露呈することになる。このことは日本軍がケースバイケースを想定、想定に応じた危機管理としてのそれぞれの戦略を立てていなかったことをも暴露することになる。事態を想定した上での次なる行動と想定しなかった上での次なる行動とでは長期的展望と心の準備に自ずと違いが出てくるだけではなく、対米戦争に備えた厳密な意味での戦略らしい戦略を構築していなかったのではないのかとの疑いが出てくる。

 軍人のエゴドキュメントを紹介している。

 〈海軍のリーダー永野修身「ぢり貧になるから、この際決心せよ。今後はますます兵力の差が広がってしまうので、いま戦うのが有利である」

 海軍次官澤本頼雄「資源が少なく、国力が疲弊している状況では、戦争に持ちこたえることができるか疑わしい。日米の外交交渉の方向に向かうことこそ国家を救う道である」〉――

 前者はその時点での日米の国力の差を背景とした戦力の差を以ってしても早期の対米戦争が日本側に有利に働くと考えていた。当然、そのような条件下で日本を戦争勝利に持っていく戦略が頭にあったことになる。頭になくして早期の戦争を訴えることは無責任となる。海軍大臣や海軍軍令部総長などのを務めた海軍のリーダーなのだから、妥当性は別にして、当然、それなりの戦略は頭にあったことになる。

 一方で対米外交交渉も壁にぶち当たっていた。

 〈10月。開戦の2か月前。日米は対立を深めながらも、ぎりぎりの外交努力を続けていた。アメリカが日米交渉の条件として求めたのは「中国からの日本軍即時撤兵」。しかし、その要求は陸軍にとって受け入れがたいものだった。

 日中戦争での戦死者18万人以上。東條たち陸軍首脳は、撤兵はその犠牲を無にするものとして受け止めていた。では、アメリカとの戦争を選ぶのか。東條は悲壮な面持ちで漏らしたという。

 「支那事変(日中戦争)にて数万の命を失い、みすみす撤退するのはなんとも忍びがたい。ただし日米戦となれば、さらに数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えねばならないが、決めかねている」

 6日後、東條英樹は決断を近衛首相に伝えた。

 「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。数十万人の戦死者、これに数倍する遺族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」〉――

 要するに東條英機は中国大陸からの完全撤退は膨大な死者まで出して築き上げてきた今までの「成果を壊滅する」ゆえに認めがたいと主張した。一方で軍事力を加えた日米国力の比較から戦争の不可能性、あるいは困難性を何度か突きつけられていたことから、日米開戦したら、「日中戦争での戦死者18万人以上」に加えて、「数万の人員を失う」と計算していた。但しこの計算は開戦を決意する場合は、そして実際に開戦を決意した以上、「数万の人員を失う」ことになるが、何らかの戦略を背景に勝利し、人員喪失に何層倍もする国益を手に入れ、その国益を以って国力発展に利するという方程式を完成させなければならないし、完成させていなければならない。方程式の完成を頭に置かずにこのような発言をしたとしたら、東條英樹は陸軍大臣として無責任極まりない軍人となる。

 こういった勝利の方程式に基づいてのことなのだろう、東條英樹総理大臣のもと、1941年12月8日、真珠湾奇襲攻撃によって対米戦争の火蓋は切って落とされた。石井秋穂中佐の言葉「真にやむをえざる場合」であったとしても、戦略的に計算し尽くされていなければならない。

 市民2人のエゴドキュメントを伝えている。

 〈息子二人を徴兵され、重労働にあえいでいた米農家の野原武雄さん。

 「大戦果を得たり。まったく我が海軍の強さに驚くほかない。大東亜戦の開戦ここに始まる」

 わずかだが、暗い予感を日記に記した人もいた。長野県の教師・森下二郎さん。

 「国民は大よろこびでうかれている。しかしこれくらいの事で米・英もまいってしまうこともないから、この戦争状態はいつまで続くかわからない。あてのつかない戦争である」〉――

 宣戦布告もなく、用意万端の上、不意打ちで襲いかかった真珠湾奇襲の戦果である。ハワイを要衝の地として占領し、日本の基地としたわけでもなく、そのまま引き上げた。資源大国アメリカの国力を以ってする軍事面の回復力を計算に入れる戦略は描いていた開戦であったはずである。1940年の兵士供給源ともなる日本の人口約7200万人。対してアメリカの人口は約2倍近い1億3000人。《太平洋戦争における航空運用の実相》(防衛研究所)によると、1940年採用の零戦以降、終戦までの5年間に海軍が生産した単座戦闘機は約12300機、1941年採用の一式戦闘機以降、終戦までに陸軍が生産した単座戦闘機は約13700機。合計約2万6000機。

 対してアメリカは、《アメリカにおける航空機工業の発達(その2)宇野博二》によると、アメリカ軍の航空機生産高は、

1940年 6,019機
1941年19,433機
1942年47,836機
1943年85,898機
1944年96,318機
1945年47,714機  

 合計約30万3000機。日本の約12倍弱。1944年の96318機に対して1945年47714機と大幅に生産機数を下げたのは戦争勝利によって、生産を急ぐ必要がなくなったからなのだろう。勿論。ヨーロッパ戦線にも向ける必要性を含めた生産高だが、それだけの能力と資源を抱えていた。このような諸々の事情によって日本陸軍の日米の「物的国力判断」での対米戦争困難性や総力戦研究所の日米戦想定机上演習での対米戦争不可能性を答とするに至ったのである以上、これらの不可能性・困難性はアメリカの軍事面の回復力まで予想していたから(総力戦研究所の日米戦想定机上演習では兵器増産の見通しの日米比較を行っている)、これらの克服を可能とする戦略に立って本格的に南方進出を謀ったであろうことを前提に次は以下のNHK記事を見てみることにする。

 《2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(2)》に続く
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2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(2)

2022-10-31 04:43:44 | 政治
 2022年8月10日NHK総合テレビ放送の記事――《NHK新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(後編)」》(2021年12月7日)が取り上げている真珠湾奇襲攻撃と東南アジアの戦争から見えてくる日本軍の上層部が本質的に抱えていた無責任体制を窺ってみる。

 〈この頃ハワイでは、その後の命運を分ける出来事が起きていた。アメリカ軍が試験的に導入していたレーダーが偶然、日本軍の編隊を捕らえた。しかし、報告を受けた将校は、この日到着予定だった米軍機と思い込んだ。住民も日本軍だとは思いもしなかった。

 ハワイ住民 ケントン・ナッシュ証言「驚いたな。今日の演習は徹底的だ。飛行機に日の丸を描くなんて」

 アメリカは日本軍の奇襲に気づくチャンスを逃した。〉――

 東條英機の言う「意外裡な事」(=偶然性主体の計算外の要素)が幸いした真珠湾奇襲攻撃の大成功ということだったのかもしれない。結果論ではあるが、物は取りようで、失敗し、手痛い打撃を受けたなら、手を引いていた可能性は考えられ、泥沼の戦争に陥ることなく、余分な死者を出すことはなかったかもしれない。現実には成功し、本格的な戦争に向かうことになる。日本は最終的な勝利を確信できる確固とした戦略に基づき、自存自衛の信念のもと、大東亜共栄圏建設の偉業に挑むことになったはずだ。最終的な勝利を確信できない戦略など存在しようがない。しかも2、3年の短期決戦での成就を頭に思い描いていなければならなかっただろう。  

 真珠湾奇襲攻撃の成功に一般市民は歓喜して迎え入れた。奇襲攻撃という一般的には成功確率の高い要素を誰も省みることはなかった。そのエゴドキュメント。

 〈金原まさ子育児日記「血湧き肉躍る思いに胸がいっぱいになる。一生忘れ得ぬだろう、今日この日。しっかりとしっかりと大声で叫びたい思いでいっぱいだ。大変なのよ、住代ちゃん、しっかりしてね」

 学生や子どもたちも、興奮の中にいた。

 学生西脇慶弥日記「朝の軽い眠りを楽しんでいた自分は、待ちに待った臨時ニュースの知らせに床をけり、階段をかけ下り、ラジオの前に立った。心臓が破れそうの興奮である」

 国民学校六年生絵日記「この時に生まれ合わせたことは、とても幸福なことであると思う。五時間目、住吉神社へ戦勝祈願に行った。皆、真心込めてお祈りした」〉――

 この初戦で日本が早くも情報隠蔽を働いたことを伝えている。〈繰り返し華々しい戦果が報じられる陰で伝えられなかった事実があった。真珠湾で水中からの攻撃を担っていた潜水艦部隊。2人乗りの特殊潜航艇5隻は、すべて帰ってこなかった。さらに、日本軍機の搭乗員55人が命を落とした。〉――

 不都合をなくし、完璧さの装いを情報の隠蔽によって作り上げる。自らの実力とその実力に対する自らの責任に面と向き合う潔癖さの欠如(道徳的勇気の欠如)が自ずと情報隠蔽という働きに向かわせることになる。正真正銘の実力を直視することができなければ、勝利の方程式となるどのような戦略も成り立たせ不可能となる。過大に評価した実力にどのような戦略も立てようがないことは自明の理である。このことは軍隊という組織や各部隊という集団に対してのみではなく、指揮官個人についても当てめることができる原則となる。自らの実力に対する冷徹な直視の回避は水増しした実力での行動に向かわせ、水増しした分を差し引いた結果しか手に入れることができなかった場合、自ずと責任の回避という手を使って、自らの実力に辻褄を合わせるようになる。

 記事は「大東亜共栄圏」なる言葉は開戦1か月前からエゴドキュメントに増えていると記している。記事も一部触れているが、東亜新秩序建設は前々から言われていたが、同じ開戦約1ヶ月前1941年(昭和16年)11月5日第7回御前会議で、〈一、帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此ノ際対米英蘭戦争ヲ決意シ左記措置ヲ採ル〉との「帝国国策遂行要領」を採択していることのうち、「米英蘭戦争ヲ決意」の文言を隠して国民を鼓舞するために「自存自衛」と「大東亜ノ新秩序ヲ建設」の文言のみを宣伝した結果の傾向ということに違いない。

 真珠湾奇襲攻撃大成功のエゴドキュメントが続く。

 〈埼玉の役場職員「大東亜共栄圏建設の世界史的偉業は、光栄ある大和民族の双肩に、すでに現実のものとして、さん然と登場しているのである」〉―― 

 真珠湾奇襲攻撃大成功=「大東亜共栄圏建設はすでに現実のもの」と把握するに至ったという経緯が見て取れる。中国戦線で近代化されていない中国という国の近代化されていない中国軍を相手に手こずっている状況は食糧の配給制度によって知り得ている情報であったろうし、一方で日本という国が国家経営に必要な各種資源の多くを米国に依存していることの情報にも触れているはずだが、真珠湾奇襲攻撃成功の一事で大東亜共栄圏が既に建設されたかのように興奮する状況は、「光栄ある大和民族の双肩」という言葉に現れているように日本民族への買いかぶり――優越性なくして成り立たない。そしてこの買いかぶり、あるいは優越性は「大東亜共栄圏」なる言葉の中の「共栄」という平等性に反することになるが、自らへの買いかぶり、あるいは優越性によって無自覚なまま放置されることになる。

 記事は米英の経済制裁に対抗するためにアジアの資源地帯を押さえる名目としての「大東亜共栄圏の建設」を戦争目的に加えるべきと主張したのは陸軍で、海軍や石井秋穂(陸軍大佐)ら陸軍の一部は、あくまでも自存自衛の範囲内にとどめておくべきだと考えていたと解説している。
 
 〈陸軍大佐石井秋穂回想録「この戦争は油が切れるまで、日本国家としての経済的及び、国防的生命をつなぐ必要に迫られ、やむにやまれず立ち上がるのである。もしも米・蘭から従前通り油が買える様になれば、戦争目的は達したことになる。最低限の戦争目的を規定しておかなければ、和平が出来にくくなる」〉――

 石井秋穂の発言は短期決戦の戦略を頭に置いている。米軍を一定程度壊滅し、日本とのこれ以上の戦争継続は得策ではないと考えさせ、停戦を選択させる局面にまで持っていく。このプロセスは日米戦を想定した際の戦争の困難性、あるいは不可能性を克服する方策として編み出したであろう長期戦の回避、短期決戦の戦略に適う。但し石井秋穂の思惑どおりに進めるためには短期決戦での完遂を確実にするための戦略の再確認が前提となる。再確認もなく述べたとしたら、短期決戦の必要性にすがっただけの思惑で終わる。

 しかし日本軍は長期戦へと突入していく。日本は当初は日本、満州国、中国の3カ国の「東亜新秩序建設」を掲げていたが資源獲得のための南進の必要性からインドネシア、フィリピン、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、インド等々の東南アジアの国々を大東亜共栄圏の勢力範囲とすべく謀った。長期戦への突入は大東亜共栄圏の勢力範囲を広く取り過ぎたための回避不可能な到達点だったのかもしれない。だが、大東亜の新秩序建設のために対米英蘭戦争を決意した第7回御前会議は1941年11月5日で、それよりも約7ヶ月半も前の1941年3月18日に「日米物的国力」比較シミュレーションで対米戦争困難性が報告され、当該御前会議1ヶ月余前の総力戦研究所の日米戦想定では戦争の不可能性を宣告されていた。これらのことを無視したとすると、真珠湾奇襲攻撃を仕掛ける段階で既に短期決戦など念頭になく、長期戦を視野に入れていた疑いが浮上する。疑いが事実そのものとすると、当然、長期戦に適応させた戦略を構築していなければならない。

 日本軍は1941年12月8日にマレー半島上陸、そこでのイギリス軍を破り、さらに1942年2月8日から2月15日にかけてシンガポールに上陸、兵力差2倍のイギリス軍を打ち負かし、攻略。破竹の勢いであった。しかし矛盾も見え始めた。

 〈陸軍中尉・三好正顕日記「食い物も探しながら、戦争せんならん。一昼夜2、3時間眠り、あるいは徹夜で行軍して進み、被服は着の身着のまま、何処へでもごろりと転んで、まるで原始人のよう」

 戦争を継続していく上で、不可欠な食糧の調達がままならない。敵から奪うしかなかった。

 同三好正顕日記「今日は兵営を占領して、ビールあり、ジンあり、ウイスキーありの盛況だ。兵隊たち、敵の黒パンをおいしそうに食べる。何もかも友軍より贅沢である」〉――

 要するに補給を無視し、進軍だけを考えた戦略を採っていた。但し緒戦の段階だからだろう、士気盛んであった。このような場合、攻める側の士気・精神力は攻められる側のそれらを往々にして上回る。このことを勝因の一つとして記憶しておく戦略が必要になる。攻略の要因を部隊の戦闘技術の優秀さだけに置いた場合、攻める側と攻められる側の心理的関係性や地理的・気象的要因等との関係性の違いに応じてときに技術的優秀さは相対化される厳粛な事実を無視、あるいは過大評価することになって、戦略そのものを狂わすことがときとして起こりうるだろう。

 〈すでに日本国内では開戦前から、食糧不足に悩まされていた。戦争で輸入が途絶え、銃後の国民どころか、前線や占領地での食糧補給が厳しくなるのは目に見えていた。日本の指導者たちは開戦前からこのことに気づいていた。

 マレー半島上陸1カ月前の1941年11月5日御前会議、賀屋大蔵大臣発言。

 「南方作戦地域の経済を円滑に維持するがためには、わが方において、物資の供給をなすを要すべきも、我が国はそのために十分の余力なきをもって、当分はいわゆる搾取的方針にいづることやむを得ざるべしと考えらる」

 搾取的方針。それを具体的な占領政策に落とし込んだのが、あの石井秋穂だった。食糧の供給が困難になるという見通しのもと、石井は、「作戦軍の自活」を基本方針に据えた。

 陸軍大佐・石井秋穂回想録「占領軍の現地自活のためには民生に重圧を与えても、これを忍ばしめると規定したことは、大英断のつもりであった」〉――

 「搾取的方針」の「搾取」は有償であるべき物品に対する優越的立場からの強制的な相当部分の代価免除を指し、それなりの体裁を保っていたとしても、この優越性を力とした相当部分の代価免除は “奪う”という要素を本質のところで紛れ込ませている。敵軍からは武器や食糧、敵地住民からは食糧を奪う形式で戦いを継続していく。当初から兵站に関しては行きあたりばったり、出たとこ勝負であったことになる。この出たとこ勝負を吉とするためには連戦連勝の勝ち戦を絶対条件としなければならない。負け戦となった場合、奪う形式にまでは手が回らなくなって、「搾取的方針」は破綻することになる。勿論、個々の戦闘に於ける戦略は、こういったことをも計算に入れていたはずで、負け戦は兵站を停滞、最悪、崩壊させることになるとの予測に立っていなければならない。

 一方で大東亜共栄圏の理想を掲げ、一方で「作戦軍の自活」のために現地人に対する搾取も止むなしとした。但し「大英断のつもりであった」の言葉は「大英断」が裏目に出たことの示唆以外の何ものでもない。

 〈しかしその後、現地を視察した石井は、想像以上に軍紀が乱れている現実を目の当たりにする。

 石井秋穂日記「夕刻、コタバル飛び、渡辺大佐と共にケランタン州の政務を聴取す。皇軍の掠奪強姦を嘆す」

 石井秋穂日記「シンゴラ埠頭を見る。ここも皇軍の掠奪強姦に悩めり」〉――

 ネットを調べてみると、石井秋穂がマレー半島東岸の都市コタバルを視察したのは1942年1月1日。「作戦軍の自活」のための「搾取的方針」が勝ち戦の優者心理に正当性を持たせることになって、優越的な正当性に纏い付かせがちとなる規律を自己中心に置く思い上がりを生じせしめて、食糧や生活用品に対する強制的な相当部分の代価免除が「掠奪」という支配欲へと走らせ、同じ思い上がりが女性に対しても掠奪そのものの支配欲を募らせたといったところなのだろう。日本軍はまさしく道徳的勇気を麻痺状態にさせた蛮勇そのままの肉体的勇気発揮の一人舞台を演じていた。そこのけそこのけとばかりに。

 記事は書いている。〈アジアを解放し、共存するという理想も揺らぎ始めていた。〉――

 結果、陸軍大佐石井秋穂をして回想録に次のように書かしめた。

 〈『これが大東亜戦争の性格を、雄弁に物語るものでもあった』〉――

 石井秋穂の目には日本軍兵士が現地住民に対して絶対君主のように振舞っているかのように見えたのかもしれない。個々の兵士が抱えることになる戦争の現実はともかく、日本政府と日本軍が大東亜共栄圏の理想をどう実現していくか、その実現にしても対米英戦争の最終的な勝利が保証することになるが、戦争そのものに対する総合的な戦略と個々の戦いに於ける戦略とが相互関連し合って最終的な結末を演出することになることから、戦争に臨むに当たってそれぞれの戦略をどのように描いていたかがやはり重要となる。一方で国民は様々な矛盾や不都合を抱えた戦争の現実を知る由もなく、矛盾や不都合を隠し去った見せかけの勝利のみを知らされて、天皇を始め、軍や国への信頼を厚くし、さらなる進撃と勝利を望むことになり、大本営は望みに応じるためと軍のメンツを維持するためにさらに見せかけの勝利を伝え続ける。但し自己中心一方の規律しか持ち得ない組織・集団、他の規律との兼ね合いを推し量ることのできない組織・集団は自らが抱え込むことになった矛盾や不都合の傷口を際限もなく広げていき、組織・集団としての纏まりを失い、収拾が効かなくなる恐れが出てくる。

 中華系の住民の一部が日本軍への抵抗を強めていた。

 〈憲兵の分隊長として治安維持にあたった大西覚は、「日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱す者、また乱す可能性のある者」などを選別し、処刑するよう命令を受けたという。 

 元第二野戦憲兵分隊長・大西覚取調証言「華僑(中華系住民)に対しては相当深刻な注意をせなきゃならんと。不逞分子をもう虐殺して殺して処分していいと。これはえらいこっちゃ、そんなこと言ったって十分調べてもおらんし、もう本当の容疑で、これが本当の敵性で、抗日分子で何するという確証はない。それをすぐに虐殺せよということはですね、非常に人道に反するしいかん。嫌だった。でも命令ならしようがない」(1978年3月18日収録 日本の英領マラヤ・シンガポール占領史料調査フォーラム調べ)

 戦後、イギリス軍による裁判でこの虐殺に関わった大西ら5人は終身刑、2人の死刑が確定した。処刑された司令官は、5千人を粛正したと日記に記しており、裁判の証拠とされた。しかし、シンガポールでは、虐殺は数万人規模にのぼるとみる専門家もおり、研究が続いている。〉――

 「Wikipedia」の「シンガポール華僑粛清事件」の項目に、〈1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた。〉とある。

 規律のないこの虐殺は道徳的勇気を麻痺させた蛮勇でしかない肉体的勇気によって成し遂げられる。強奪・強姦は戦闘から離れた場所での兵士たちの規律の喪失だが、虐殺は戦闘行為の一環として行われる規律の喪失であり、兵士の中で止むを得ないことと正当化された場合、普段の戦闘行為にも持ち込む危険性を抱える。特に負け戦に影響を与えて、規律の維持への忍耐心を簡単に失わせて、ストレートに規律の喪失に向かわせかねない。この規律の喪失が上官が仕向けているとなると、軍の体質の問題となる。1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃からたったの3カ月余の短期間での日本軍のこの有様で、秩序ある組織・集団としての体裁を取ることができなくなると、目先の勝利だけを考え、なりふり構わなくなり、いつかは無秩序が支配することになる。

 2022年8月13日NHK総合放送《NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(前編)》は、〈1941年から1945年までを個人の視点(エゴドキュメント)から歴史のうねりを1年ごとに追体験する〉形式を採り、〈連戦連勝だった日本が、一転して苦境に陥っていく〉経緯から日本の戦争の実体を浮かび上がらせている。このことに便乗して日本の陸海軍の最高統帥機関である大本営が予定として建てた戦争計画を個々の戦いで如何に具体化し得たのか、それぞれの戦略を見ていくことにする。

 市民は1942年を皇軍の連戦連勝の報道を受けて、目出度い正月、目出度い新年として迎えていた。

 〈人々の気持ちを高揚させたのは、リーダーの言葉。1942年2月18日、内閣総理大臣・東條英機が演説する祝典には、10万人が押し寄せた。

 内閣総理大臣 東條英機「聖戦目的の完遂に向かって、諸君と共に、一路邁進(まいしん)せんことを誓うものであります」

 東京の主婦金原まさ子『2月18日日記』 (祝典の様子をラジオで聞いて)「東條首相のマイクの前における万歳発声。全国の民草、街頭にあるものも、家庭にある者も、一斉に日本バンザイを叫ぶ。盛大に挙行された今日の感激を、一生忘れないだろう」

 愛国心、民族意識の高まりを刺激したのは、今で言うインフルエンサー。人気を集めた思想家や学者たちだった。

 大川周明『米英東亜侵略史』「我等の大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦であります」

 西谷啓治座談会『大東亜共栄圏の倫理性と歴史性』「大東亜では同じ水準に達しているのは日本だけで、あとの民族はレヴェルの低い民族だ。そういうものを引っ張って育てて行き、民族的な自覚をもたす』〉――

 大川周明は大東亜戦争そのものに「東洋の最高なる精神的価値及び文化的価」を付与し、西谷啓治はアジアに対する日本民族の優越性を丸出しにしている。但しその優越性はアジアではアメリカと「同じ水準に達しているのは日本だけ」だとアメリカを上に見たアジアに対する優越性となっていて、これは本人一人だけのものではないだろう。大東亜共栄圏は日本を中心として東亜の諸民族による共存共栄の樹立を目的としていたが、日本民族以外は「レヴェルの低い民族」とするこのような位置づけ、価値観には日本を支配者とし、他のアジア民族を日本の支配を受ける存在とする上下思想の考え方を潜ませ、「共存共栄」は日本の支配をカムフラージュするタテマエに過ぎないことを暴露することになる。

 連戦連勝の高揚した気分に冷水を浴びせたのは1942年4月18日の「ドーリットル空襲」と呼ばれた米軍機による日本本土爆撃だった。

 〈大統領側近の手記による米大統領フランクリン・ルーズベルトの言葉「日本に爆撃する作戦はどうだ。日本をできる限り早く爆撃することが、アメリカ国民の戦意のために、なによりも重要だ」〉――

 〈1942年4月18日金原まさ子日記「高射砲のとどろき、とうとう帝都、敵機襲来。近くの士官学校裏手から、もくもくとした煙。大爆撃。敏感な住代ちゃん、おびえてかわいそうだった」〉――

 日本軍による真珠湾攻撃を逃れた空母部隊が日本近海にまで接近、空母から発進した16機の爆撃機B25で奇襲するという決死の作戦だという。対して日本軍は地上から高射砲を撃ち、撃墜しようとしたが、目的を果たすことができなかった。日本上空への侵入を許し、撃墜不可。このことは日本軍の失態を示すと同時に本土防衛の大きな欠陥を示す事態だったが、大本営はこの事実を隠蔽、米爆撃機9機撃墜を発表。ラジオと新聞で華々しく報道した。

 〈4月22日作家伊藤整日記「昨日、小島君より聞いた所では、落ちた飛行機を写真にとろうとして歩いても、どこにもその現場がない。多摩川辺に落ちた由を聞き出かけると、憲兵が番をして、そこへは立ち入らせない。九機撃墜と発表しているのだから、落ちた敵機の姿が写真に出ないのは変だ」

 4月19日作家山本周五郎「少年が敵機の落とし去った焼夷弾を持ってきて見せる。民家に落ち、三、四軒全焼したとのことだ。敵機のいずれより来しや。戦果どうなりしや。軍の発表明確ならず。よって人々の不安は、不必要なるほどに複雑深刻なり。報道法拙劣」

 4月19日新聞記者森正蔵日記「昨日の空襲に際して、九機を撃墜したという当局の発表も嘘らしい。まさにわが国防史上の一大汚点である」〉――

 〈実は9機撃墜は、迎撃した部隊による見間違えだった。実際にはアメリカ軍の爆撃機は、すべて国外に飛び去っていた。あってはならない誤報を出してしまったのである。軍のメンツに関わる事態に怒ったのが、首相の東條英機だった。

 佐藤賢了『軍務局長の賭け』「東條大臣は大変興奮のおももちで、『陸軍から九機撃墜したとの公表がでたが、どこにも撃墜した跡が見当たらない』『こんなでたらめな報道をやったのでは、今後の戦果の発表の信を内外に失う』恐ろしい立腹であった」

 軍は、誤報を訂正せず、報道機関にあらたな方針を通達した。

 「空襲被害状況は新聞、ラジオは今後は一切不可」
 「空襲関係の発表は大本営一本に統一する」

 敵機に爆撃を許し、誤報を流し、市民に疑念を広げてしまった軍。以降、情報を、大本営が一元管理する方向へ進んでいく。〉――

 東條英機が言う「でたらめな報道」はこのときが初めてではない。立腹も、「信を内外に失う」も、滑稽そのものである。「見間違え」説は日本軍の実力を過大に見せるための虚偽情報流布(=大本営発表)が遠く離れた海外の戦果なら如何ようにも誤魔化しが効くが、国内のこととあって戦果を大々的に見せることができず、露見しそうになり、その露見を誤魔化すための新たな虚偽情報として「見間違え」説を流したはずだ。対米戦端開始の真珠湾奇襲攻撃の初っ端から特殊潜航艇の乗員の座礁捕虜となった1名を除いた残り9名の戦死と日本軍機搭乗員55人の戦死の事実を大本営は隠し、その経緯を東條英機が承知していなかったはずはなく、東條の怒りは叱責という形で虚偽情報に終止符を打つ猿芝居の類いに過ぎなかったろう。

 特殊潜航艇9名戦死は1941年12月8日の真珠湾攻撃から約3か月後の1942年3月6日に発表。隠蔽から一転して公表に転じたのは軍人の手本として九軍神に昇格、戦意高揚と愛国心高揚の対象として利用するためだった。このことは座礁捕虜となった1名の存在は日本人捕虜第1号の恥ある対象とされ、存在そのものが抹消されたことが証明する。軍にとっての不都合を隠し、不都合を時には好都合に変える情報操作は東條英機も主要な共犯者として加わっていたはずである。

 大本営発表の捏造情報に対して関係する軍部署は自らの実力が生んだ実際の戦果を知っていることから、捏造が度重なるにつれて日本軍全体にそのカラクリが知れ渡って捏造そのものに麻痺し、実力に対する冷徹な直視の回避と責任回避を生み出すことになり、この体質はやがて日本軍の隅々にまで浸透していく。このようなイキサツは道徳的勇気の麻痺を伴い、その欠如を深化させていく。

 実際の展開を考えて見ると、1機も撃墜できなかったことは軍のメンツに関わるから、16機÷2=8機+1機で半分以上撃墜したとすることで軍としての体裁を守ろうとした。だが、実際に撃墜したなら、空襲の時間帯は「正午過ぎ」と言うことだから、エンジンから火を吹き、錐揉み状態で落下するとか、エンジンの火で機体が爆発するとかを誰かが目撃できるはずだし、何よりも地上落下後に残骸という物的証拠が残る。煙の如くに何も残さずに消えることはないから、物的証拠となる9機の残骸を確認したことになり、その残骸の写真を大々的に報道させて、軍の手柄を誇示し、戦意高揚の材料とするのが世間に知られている常道だから、それをしなかったから、おかしいぞと思われ、放っておくことができなくなって、「見間違え」説で収拾を図ろうとした。

 大体が撃墜できなかった事実を撃墜したと見間違えること自体が軍の能力にも関わってくる大失態であり、見間違えは日本の領空から飛び去った16機の飛行航跡をレーダーで追跡できなかったことになる新たな事実を炙り出すことになる。その程度の性能のレーダーで日本の空を守っていることの方が問題となるあってはならない見間違えであろう。

 真珠湾奇襲攻撃の連合艦隊司令官山本五十六が米空母発進の日本本土空襲を阻止する方策として思いついたのがアメリカ軍の飛行場などがある重要拠点の太平洋に浮かぶ小島・ミッドウェー攻略だと記事は解説している。日本の攻撃に対するハワイから援軍の米空母部隊を壊滅するという戦略だったというから、ミッドウェー攻略は囮ということになる。ミッドウェー攻略は1942年(昭和17年)6月5日から。真珠湾奇襲攻撃は1941年12月8日。約半年後にハワイの米空母部隊は無視できない規模の戦力を回復していたことになる。

 〈山本五十六手紙「帝都の空を汚されて、一機も撃墜し得ざりしとは、なさけなき次第にて」、「米残兵力をおびきだして、一挙に撃滅できれば結構」〉――

 〈空母「赤城」に乗組み、戦闘の一部始終の記録が任務の大橋丈夫主計中佐手記「印度洋で、英空母ハーメスを易々と撃沈したときのような気分で、又、ミッドウエイの周辺に群棲する伊勢蝦(いせえび)のテンプラを夢みながら、黙々として行進した』〉――

 〈「赤城」には、『戦えば必ず勝つ』という楽観的な空気が満ちていた。〉と記事にあるが、「赤城」だけの気分ではなく、連合艦隊全体を覆っていた安心感なのだろう。「赤城」以外の艦艇全体がピリピリと緊張していたなら、「赤城」も呑気に構えていることができなくなり、大橋丈夫中佐にしても、それなりの緊張感で戦いの場に臨むことになったはずだが、国民総生産米日差12倍、粗鋼生産量も航空機生産量も遥か上を行き、石油の9割をアメリカに頼っていて、禁輸措置を受けた日本の国力に対してアメリカの真珠湾奇襲攻撃で失った空母、航空機等、軍事面の回復力、個々の戦いに於ける戦略や体制の立て直しを頭に置くこともせずに戦う前からのこの警戒感のなさ、危機感のなさ、安心感は軍隊という組織では致命的な欠陥となる。個々の戦いに於ける戦略に狂いを生じさせ、その狂いが日本の戦争計画全体に関わる総合的な戦略をも狂わせていく危険性が生じることになりかねない。

 米空母部隊は日本軍の暗号を解読、日本軍の次の攻撃目標はミッドウエーだと掴んだ。暗号解読能力も、戦争の準備・計画・運用の方法としての戦略そのものに影響を与え、戦略遂行の重要な要素の一つとなる。解読によって日本側の進軍を待ち構えることができ、逆にアメリカの空母から奇襲を受けることになった。航空母艦「赤城」の艦上爆撃機は陸用の爆弾装着、米空母への反撃用に魚雷装着への転換作業が加わり、現場は大混乱に陥った。取り外した陸用爆弾を格納庫に無造作に放置。米軍の急降下爆撃機が襲い、格納庫が火災を起こし、放置された陸用爆弾と魚雷を誘爆。大勢の乗組員と共に沈没することになった。

 問題なのは軍隊という組織にはあってはならない「戦えば必ず勝つ」という楽観論が予想外の突発事態に遭遇して必要以上の狼狽を誘発しただろうということである。狼狽が防御の際に発揮されるべき冷静さのエネルギーをかなり殺ぎ、奇襲をかける側の満を持した姿勢によって発揮されるプラスアルファのエネルギーとのプラスマイナスの差が大きく出る結果となる。

 〈攻撃開始から22時間。山本五十六は作戦の中止を命令する。

 この戦いで日本が失ったのは、空母4隻。死者3057人。遺骨は船と共に5000メートルの深海に沈んだ。

 ミッドウェー海戦の結果を報じる新聞では空母4隻喪失の事実は伏せられ、日本側の戦果が強調されていた。

 日本軍は負けていないと受け取った市民。なぜ、真相が隠蔽されたのか。

 1942年6月5日、大本営にミッドウェー海戦の敗北が伝えられた。衝撃が広がるなか、海軍報道部の士官たちは、大本営発表の準備にとりかかった。

 田代格海軍大佐回想録「驚愕の一語に尽きた。ハワイ海戦(真珠湾攻撃)、マレー沖海戦の赫赫(かくかく)たる勝利も、一度に吹き飛んだ思いであった。大本営発表文中、最大に苦しかった発表であった。軍令部と軍務局の意見が真っ向から衝突して、容易にまとまらず、私は両方を走り回るのみであった」

 議論は三日三晩続いた。報道部は真相を国民に知らせるべきだと主張したという。

 冨永謙吾『大本営発表 海軍篇』「すぐに作戦部の強硬な反対を受けた。軍務局も同意しなかった。課長と主務部員は、国民に真相を知らせて奮起を促す必要ありとして、夜の目も寝ずに関係者の説得に、重い足を引き摺りながら飛び回った」

 真相の公表に反対したのは、作戦指導の中核を担っていた部署だった。公表することは、戦争遂行を危うくすると訴えた。

 吉田尚義『大本営発表はかく行なわれた』「これは当然発表すべきではありません。これだけの大損害を、大本営発表をもって確認することは敵に一層、傍若無人な積極作戦をとらせるだけであります。抗戦持続不可能になる恐れありとすら言えます。戦争中の報道は、当然、作戦の目的にそわしめることが第一義であります。そのため同胞が欺かれる結果となっても、戦争中のことゆえ、真にやむをえないと考えます」〉――

 〈実際の損害を公表すれば、アメリカの攻勢を招きかねない。戦争を続けていくという大義のために国民を欺くことは正当化された。こうして、大本営発表は、真相とはかけ離れたものになった。

 発表された損害は、空母1隻喪失、1隻大破。戦果は、空母2隻撃沈。損害は半分、戦果はほぼ倍。戦果が喪失を上回り、勝ったことになってしまった。〉――

 「同胞が欺かれる結果となっても、戦争中のことゆえ、真にやむをえないと考えます」と虚偽情報の発表を自己正当化しているが、国民だけが「欺かれる結果」となるのか。

 同胞を欺くことができても、大本営発表のカラクリを知ることになる戦闘現場で直接戦う戦闘員は、特に敵の物量が優っていると一目で分かる戦闘では心の底からの戦意を持って戦うことができるだろうか。敗退しても勝ったことになるんだとの冷笑がどこかに芽生えて、その分の戦意喪失と軍上層部への何がしかの不信感を抱えて戦うことになったなら、計算通りの実力は出てこない。結果、「作戦の目的にそわしめることが第一義」の意図に反する事態となる可能性は否定できない。

 日本海軍の中央統括機関である軍令部はこの見せかけの損害と戦果を昭和天皇にもそのまま報告したという。つまり天皇まで欺き、その存在まで蔑ろにした。このようにできたということは、大日本帝国憲法上の「第1章天皇第1条 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は形式的なことで、天皇は国民統治のために軍部・政府に利用された存在に過ぎなかったことが分かる。

 大体が戦果を偽ること自体が大本営なりに果たすべき責任履行の放棄――責任回避に当たる。この責任を取らない責任回避の体質は真珠湾奇襲攻撃成功の当初から自前のものとしていた。「やむをえない」で済ますことはできない重大な問題となる。

 〈ミッドウェー海戦で従軍したニュース映画のカメラマン牧島貞一は日本へ逃げ戻る船のなかで、大本営発表を聞いた。

 牧島貞一著『ミッドウェー海戦』「ラジオを聞いていると、軍艦マーチとともに、例の聞きなれた平出大佐の声が聞こえてきた。ミッドウェー強襲の大戦果だった。『平出大佐のバカ野郎っ!』『こんなでたらめな放送をして、国民をいい気にさせておいていいのか!』と叫びたくなった。ダイアルをまわすと、今度はアメリカの放送が入ってきた。アメリカの勝利と日本の敗北を報じていた」〉――

 ミッドウェー海戦での大敗北以降、戦況は悪化の一途を辿る。真珠湾奇襲攻撃大成功から半年しか経っていない。短期決戦であったとしても、早すぎる形勢逆転であり、長期戦覚悟であったとしたら、話にならない程のあっけない攻守逆転となる。だが、日米の国力と物量の差を考えた場合、順当な経緯と言えないことはない。形勢の悪化は個々の戦いに於ける戦略の狂いが日本の戦争全体の戦略を狂わしていく道筋を取っていくことになる。繰り返しになるが、戦果を偽れば、敗因を直視することに忌避感が生じかねず、その厳格な分析を避けた新たな作戦計画を次々に立てていけば、その可能性大だが、同じ失敗を繰返す欠陥を抱え込んだままとなりかねない。

 〈ラジオとニュース映画で使われた言葉から「大戦果」や「撃破」「圧倒」など、勝利に関連した言葉を抽出した。ミッドウェー海戦以降も、日本軍の優勢を示唆する言葉が、ニュースでさかんに使われていく。大本営発表は、太平洋戦争全体で見ると、損害はおよそ5分の1に、戦果は6倍に修正されたという。情報の隠蔽や改ざんが、当たり前となっていった。〉――

 日本側がミッドウェー海戦での形勢の逆転を受けてから以降、形勢逆転のまま推移した事実は個々の戦いに於ける暗号解読の情報処理能力をも含めた戦略の拙劣さが日米の国力の差を克服できなかったための総合的な戦略への悪影響を要因と考えると、戦略の拙劣さも国力の差も、如何ともし難い壁となって立ちはだかり続ける欠陥となるから、当然、戦争方針の次なる戦略は名誉ある撤退ということも選択肢として考慮しなければならないはずだが、自らの欠陥をものともせずに日本軍はさらい突き進むことになる。もしかすると、大本営も陸軍大臣兼総理大臣の東條英機も日本の自存自衛のために南方の石油資源や鉄鉱資源を獲得し、そのために大東亜共栄圏を建設するという目的のみを立てて、その目的を実現させるために物量も影響することになる日本軍と米軍の能力の差や、人的・物的資源の応用としての質などの反映としてあるトータルとしての国力の差に裏打ちされた、アメリカとどう戦うのかの総合的な戦略を厳密に立てずに東條英機が言うところの「意外裡な事」(=偶然性主体の計算外の要素)に期待する類いの精神論に依拠し、我々には大和魂がある(2022年11月1日12時40分加筆)、日本は負けるはずがないといった思い込みのもと対米開戦に踏み出し、確固とした戦略を築かないままにズルズルと戦線を拡大していった可能性も考えられる。なぜなら、アメリカと正面からぶつかり合う本格的な戦いに入って以降、総力戦研究所等が出した日米戦の結論、「戦争の不可能性」あるいは「戦争の困難性」を見事なまでに覆す決定的な戦略を一度も発揮し得ず、逆に「戦争の不可能性」あるいは「戦争の困難性」を色濃く見せる戦いを続けることになるからだ。

 最後に2022年8月15日再放送のNHKスペシャル選「戦慄の記録 インパール」から、ここでは個々の戦いを任された各現地部隊の司令官の戦略、その質、全体的な戦況への影響等を見ることにする。インパール作戦は1945年8月15日の終戦より1年5ヶ月前の1944年3月8日に開始された。

 〈73年前、日本軍が決行したインパール作戦。およそ3万人が命を落とし、太平洋戦争で最も無謀と言われたこの作戦は、なぜ決行されたのか。新たにイギリスで見つかった膨大な機密資料や兵士の証言などから、その真相を追う。〉――

 インパール作戦はイギリス領インドに部隊を構えるイギリス軍相手の戦闘となる。当時のヨーロッパ戦線を見ると、ドイツが1941年6月に独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻。1942年8月23日開始のスターリングラード攻防戦で激しい戦闘を繰り広げた末に1943年2月2日にドイツ軍は敗北。ヨーロッパ戦線攻防の転換点になったと言われている。以後、ドイツは敗戦に追い込まれていく。このことを裏返すと、ヨーロッパに於けるイギリス等の連合国側はアメリカの支援もあり、士気・戦力に余裕が生じていく段階を迎えたことを意味する。スターリングラード攻防戦ドイツ敗北の1943年2月はインパール作戦開始の1ヶ月前である。大本営はこのことを計算に入れたインパール作戦遂行の戦略を立てたはずである。

 〈1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。〉――

 記事によると、決行1年前の1943年3月に大本営はビルマ防衛を固めるためにビルマ方面軍を新設、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は着任前、首相の東條英機大将から太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げられていたと書いている。1943年3月当時の陸軍参謀総長は杉山元(任期1940年〈昭和15年〉10月~1944年〈昭和19年〉2月)で、これ以降、東條英機がその後任を引き継いで、首相兼陸軍大臣と共に兼職、権力を集中させているが、ビルマ方面軍に戦局打開の任を与えるか否かは陸海軍の最高統帥機関である大本営であり、その戦略は陸軍の場合は参謀総長をトップとした参謀本部が作成、大本営の認可を受けて河辺正三の任務という経緯を取るから、東條英機の口出しできる戦局打開の任務ではないはずだが、インパール作戦自体は既に発令されていた関係から、東條英機自身の希望としてインパール作戦が決行されることを願い、その決行を以って戦局打開を期待したという可能性はある。

 〈同じ時期、牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。しかし、大本営では、ビルマ防衛に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。〉――

 牟田口中将が第15軍司令官へと昇進したのは1943年(昭和18年)3月18日。要するにその当時の大本営の主流はビルマ方面軍の任務はビルマ防衛に限定していた。だが、ほぼ1年後の1944年3月8日に牟田口中将の指揮のもと、インパール作戦決行の軍事行動は開始されることになった。牟田口自身、勝利の方程式となる戦略を思い描いていたことになる。但し実行不可能として反対していた部下の参謀も存在していたのだから、成功するか、失敗するかは自身の勝利の方程式となる戦略が現実に即して実行可能か不可能かを判断する能力にかかることになる。牟田口は実行可能と判断したことになる。

 〈作戦部長眞田穰一郎少将手記「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ」

 冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。〉――

 1944年1月当時の陸軍参謀総長は1943年に軍の最高階級である元帥に昇進していた杉山元だから、1944年1月7日のインパール作戦発令は杉山元陸軍参謀総長による寺内南方軍総司令官の「所望」という形でその実現を眞田少将に依頼。陸軍参謀本部の参謀次長下で作戦、兵站、編成、動員などに関する戦略実務を担う第一部長であった眞田少将は杉山総長の人情論に負けてインパール作戦計画の段取りを付け、大本営がその計画を認可、1944年1月7日に作戦発令を行ったという経緯を取ることになる。

 ネットで調べてみると、寺内寿一(ひさいち)は陸軍中将で、広田内閣では陸軍大臣を務めていたことがあり、当時、タイ、ビルマ、フィリピン、マレーシア、シンガポール等々を管轄する南方軍総司令官に就いていた。以上のようなことからNHK記事は、〈インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。〉と伝えているが、問題は南方軍総司令官だった寺内寿一がインパール作戦の決行を望むに当たって、勝利の方程式となるどのような戦略を思い描いていたかであり、眞田少将は陸軍参謀本部で作戦、兵站、編成、動員等の実務を担っている関係から、杉山元陸軍参謀総長から「なんとかしてやってくれ」と頼まれた際、どのような戦略を用いてインパール攻略を考えているのかを尋ねたはずだし、役目上、尋ねなければならなかった。だが、「結局、杉山総長の人情論に負けたのだ」と手記に記してある言葉から推測すると、本来なら作戦の決定はそれを進める戦略の適否に従うべきを、戦略に関しては話題としなかったか、話題としても、取り上げる程の戦略ではなかったからか、議論されず、「何とかやりのけるだろう」程度で話をつけた可能性から、結局のところ、人情論が決め手になったという印象を持つに至ったということなのだろう。だが、陸軍参謀総長の杉山元にしても、眞田少将にしても、作戦決行に向けた戦略は結果はどうであれ、計画上は完璧を期す立場にあった。例え人情論に左右されたことであっても、大本営に作戦の進言をするについては人情論で済ますことはできず、最適な戦略を立てた上で取り掛からなければならなかったし、インパールを攻略できる戦略が見つからないということなら、杉山元に「インパール攻略は無理だ」ということを伝えなければならない立場にあった。何もしなかったのは杉山元の無責任は元より、眞田少将にしても、「杉山総長の人情論に負けた」で完結させるのは無責任な振舞い以外の何ものでもなく、無責任が満遍なく横行していた状況が見て取れる。

 〈インパール作戦は雨期の到来を避けるため、3週間の短期決戦を想定し、3つの師団を中心に、9万の将兵によって実行された。南から第33師団、中央から第15師団がインパールへ。北の第31師団はインパールを孤立させるため、北部の都市、コヒマの攻略を目指した。大河と山を越え、最大470キロを踏破する前例のない作戦だった。

 1944年3月8日、作戦が敢行。3週間分の食糧しか持たされていなかった兵士たちの前に、川幅最長600メートルにおよぶチンドウィン河が立ちはだかった。空襲を避けるため夜間に渡河したが、荷物の運搬と食用のために集めた牛は、その半数が流されたという。

 さらに河を渡った兵士たちの目の前には、標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。車が走れる道はほとんどないため、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかなく、崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たちは、戦いを前に消耗していった。〉――

 「Wikipedia」記事のインパール作戦の目的、〈イギリスの植民地インドを独立させて、イギリスの勢力を一掃するという政治的な目的に加えて、ビルマ防衛のための攻撃防御や援蔣ルート(英領インドから中国蒋介石政府への援助輸送路)の遮断を戦略目的としていた〉と紹介、構想自体はなかなか壮大ではあるが、この構想はこうすればこうなるという成り行きを壮大に述べたものに過ぎない。イギリス軍の兵員規模、兵器の種類と種類それぞれの破壊規模、兵站、それらの予想に立った総合的な攻撃能力、対する同じ内容を持たせた自軍の攻撃能力とその差引き計算、攻撃能力が劣る場合はそれを補う攻撃方法の構築、さらに地理的条件や気象条件等々を組み込んだ戦略を構築し、勝利の方程式を導き出していなければならない。まさかインドの独立だ、援蔣ルートの遮断だといった壮大な構想に酔い、その酔いが成功を確信させ、始めたわけではあるまい。

 但し戦闘遂行に不可欠の兵站面はいつもの物量不足からだろう、この物量不足自体が新たな作戦を仕掛ける資格をもはや失っていることを証明するが、9万の将兵で3週間で攻略する計画だから、3週間分の食糧を持たせた。と言うことは、兵站部隊利用の食糧の後方支援は予定していなかった。想定していた準備・計画・運用そのままの戦略どおりに事は狂いもなく進むことを前提としていた。戦略に狂いが起こりうることを前以って備えていた場合、最低限、狂いに備える心構えで事に当たることになるから、その狂いが修復不可能であっても、何らかの予防策を講じることになるが、前以って備えていなかった場合、狂いにどうにか対処できたとしても、生じるはずもない狂いが生じたことになる予想外の思いが戦略そのものへの疑心暗鬼を駆り立て、その思いに囚われて作戦を遂行することもありうる。 

 3週間分の食糧の中には荷役も兼ねた集めた牛も入っていた。ところが、渡河作戦の途中、半数は流されてしまった。同じ「Wikipedia」記事の「インパール作戦」の項目に牛が渡河中に水の流れに驚かないように訓練したことが書いてあるが、要するに訓練が役に立たなかったということは訓練の方法が間違っていたか、訓練の効果を無効とする流れの状況だったか、そういったことだろうが、結果が全てだから、作戦遂行に狂いが生じて、満足な運用に至らない準備・計画の不完全さが露わとなり、戦わずして戦力の低下を招くことになった以上、戦略に狂いが生じた段階で戦闘継続困難のシグナルと受け止めるべきだが、中止命令は司令官の能力の問題に降り掛かってくるから、できなかったのだろう。

 作戦開始から2週間後のイギリス軍との最初の遭遇戦は大規模な戦闘となり、第33師団は1000人以上の死傷者を出す。イギリス軍は戦車砲や機関銃を用いたとあるが、日本側の地の利が悪かったからなのか、重火器類の数に見劣りあったからなのかは不明だが、前者・後者いずれであっても、戦略の不備か見劣りに関係してくる。特に後者の戦略の見劣りがイギリス軍と比較した場合の装備品不足の影響だとしたら、インパール作戦は精神力でカバーしようとしていたことになる。

 牟田口司令官第15軍〈第33師団の柳田元三師団長は、「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として、牟田口司令官に作戦の変更を強く進言。牟田口司令官のもとには、ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次いでいたという。牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していた。

 齋藤博圀少尉の回想録「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした」〉――

 両人の会話から想定される状景は重火器類を駆使して戦闘を決するのではなく、敵重火器弾丸が飛来する中を相手陣地に向けて突入させて、相手弾丸を撃ち尽くさせ、生き残った兵士で陣地を占領、あるいは撃ち尽くす前であっても、命と交換の気持ちになると異常な力を発揮することになって、弾丸をかいくぐって敵陣地に突入、占領し、勝敗を決するというものであろう。但し数人、あるいは十数人が敵陣地に到達できたとしても、その代償に到達人数の何十倍もの兵士の命を差し出すことになるはずで、結果、「何千人殺せば、どこがとれる」という話になる。そして軍上層部の兵士の命を何とも思わないこのような戦略は道徳心のカケラなりとも存在していたなら成り立たないし、兵士自身が自らの命の消耗を前提とし、その上、上官の兵士の命の消耗を前提とした戦略は道徳心に関係しない肉体的勇気への要求でしかないから、 “蛮勇”以外の表現を見つけることはできない。そしてこのような戦略を推し進める基本要素は精神主義以外にない。上官は兵士それぞれに精神力を求めて、味方兵士の命よりも戦闘勝利を重視する。物量が劣勢にあるときはそれをカバーする特別な戦略が必要になるが、二人の会話からはそのような戦略を模索する意思も姿勢も窺うことはできない。窺うことができるのは上官としての兵士の命に対する責任意識の欠如――責任放棄のみである。要するに上官の兵士に対する精神主義の要求は兵士の命に対する道徳心のカケラもない責任意識の欠如・放棄によって成り立つという図式を取ることになる。このようにして兵士の命は軽視され、無駄死にに向かわされることになった。

 終戦直後にイギリス等連合軍がインパール作戦に関与した日本軍司令官や幕僚17人に行った聞取り調査資料を発見。特にインパール作戦の勝敗の鍵を握ることになった第31師団が担った「コヒマの戦い」について詳しく聞き取られていたという。コヒマは第31師団によって一度攻略したが、イギリス軍に奪還された。

 〈第31師団長佐藤幸徳中将調書「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった」
 
 3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。

 日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。東條大将の元秘書官は、現地で戦況を視察した大本営の秦中将が東條大将に報告したときの様子を語っている。

 元秘書官西浦大佐の証言「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた」

 この翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。

 東條英機上奏文「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」〉――

 「Wikipedia:佐藤幸徳」の項目に、〈作戦が始まったが、佐藤の予想通り、第31師団の前線には十分な糧秣・弾薬が補給されなかった。第15軍司令部からは「これから物資を送るから進撃せよ」などの電報が来るばかりで、佐藤はその対応に激怒していた。〉

 3週間分の食糧を持たせた。弾薬も3週間分だったことになる。何らかの状況の急変で食糧や弾薬が底をついた場合はどうするかという予備対策は戦略構築の要である。戦闘に悪影響が出たら、元も子ない。だが、糧秣・弾薬共に補給されなかった。敵側が用意周到さの点で上回る戦略を用いたために敗北や失敗を招くのはある意味仕方がないが、用意周到さの点で無頓着な戦略を用いたことからの敗北や失敗は指揮官の重大な責任となる。3週間攻略予定のインパール作戦にあってその手前140キロ近くのコヒマの戦闘は2か月間続き、死者は3000人を超えたが、国内では実情を隠す大本営発表が行われていた。

 大本営の秦三郎中将が現地で戦況を視察(インパール作戦1944年3月8日開始2ヶ月後の5月初旬から中旬にかけてか)、同じく大本営(陸軍部)に詰めていた東條英機に作戦の悲観的成功可能性を報告した。不都合な事実を受け付けなかっただけではなく、海軍軍令部がミッドウェイ海戦の戦況報告で天皇を欺いたように東條は不都合な事実を覆い隠して天皇を欺く報告をした。前者の戦況報告に関して天皇は国民統治のために軍部・政府に利用された存在に過ぎなかったと書いたが、こういった経緯から政府・軍部等が、勿論東條英機をも含めて、天皇の存在理由をどこに置いていたかを明瞭に汲み取ることができる。彼らにとって天皇の存在理由としていた絶対性は見せかけに過ぎず、その絶対性は国民のみに向けられていたもので、国民統治の格好の道具として利用されていた。要するに天皇の絶対性を信じていたのは国民だけで、だから、「天皇陛下万歳」と言わせて命を投げ出させることができた。

 東條の天皇への上奏は補給(後方支援)は滞りなく行うことができる体制を辛うじて維持している、そのような体制のもと、堅固な不屈の意志であらゆる手段を尽くして既定方針の貫徹に努力することが必要というもので、努力を条件に成功する見込みを告げた言葉だが、補給に関してはウソで塗り固めた報告でしかなく、戦いの条件とし得ない以上、「剛毅不屈万策を尽くして」は精神力頼みの域を出ないことになる。柔道で相手も体一つ、こちらも体一つの戦いなら、精神力がモノを言う場合がある程度あるだろうが、敵の弾丸が雨あられと飛んでくる中でこちらは打つ弾に事欠き、突撃ありの精神力だけでは相手に与える打撃は少なく、味方の打撃が増すばかりなのは目に見えているが、東條英機はそこに目を向けずに精神論だけをブチ上げ、精神論に勝機を預けていたということは補給や戦況の進捗・遅滞に応じて進撃・待機・投降・撤退等を臨機応変に選択する柔軟な戦略は考慮の外に置いていたことを証明することになる。このことは1941年8月の総力戦研究所の日米戦想定机上演習の結果報告「戦争は不可能」に対して40年近く前の日露戦争を持ち出し、"意外裡な事"(=偶然性主体の計算外の要素)が戦争勝利の要因となる云々を説いたことが戦略を頭に置かない精神論で終わっていたことをも証明することになる。そしてこういった精神論は陸軍統率の参謀総長(1944年2月から就任)としてお、一国の国民を率いる総理大臣としてのそれぞれの責任の放棄をも証明することになり、その無責任体制は救い難く、その体制は否応もなしに兵士の命だけを消耗させる構図を取ることになっていた。   

 第15軍牟田口司令官は苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして全師団、第15師団、第31師団、第33師団の師団長全員を更迭。作戦中の更迭は異常事態だと記事は書いている。牟田口は自ら最前線に赴き、第33師団で陣頭指揮を執る。〈全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのだ。〉――とあるが、食糧や武器の補給なくして戦況の潮目を変えるという殆ど不可能事そのものに挑戦した。当然、本人の頭にあったのは個々の兵士が持つ精神力の発揮、精神力頼みだった。

 〈ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言「われわれは、日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。敵は雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた」〉――

 イギリス軍は日本軍が順当に補給を受けていたと見ていたことになる。だが、記事は触れていないが、第31師団長佐藤幸徳中将は何ら補給のない状況での進撃は不可能と見て、上官の命令は絶対の軍ルールを無視し、ビルマ方面軍宛に司令部批判の電文を送り、コヒマから無断撤退している。要するに食糧・弾薬の
補給を重視・優先し、補給がないままに相手に損害を与える手段として兵士自らの命と交換させるといった精神主義は限界と見て、途中で放棄した。

 〈インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。〉――

 日本軍は作戦を裏付ける戦略がないままにインパール作戦を開始し、進軍を裏付ける戦略もないままに開始した作戦を闇雲に進めていった。進軍を支えていたのは補給の裏づけがない徒手空拳の精神力がウエイトを占め、このことは「100メートルでも前に進め」と前進の目標を「100メートル」にしか置くことができないにも関わらずにそれを敵陣地までと期待する精神力頼み自体に現れているが、イギリス軍の補給の保障を受けた、少なくとも日本軍よりも豊富な物量とその豊富さが兵士に与える戦力的にも精神的にも優位な士気の差によっていたずらに日本軍兵士の死者の数を積み増していくことになっていった戦闘しか頭に浮かべることができない。当然のことだが、こういった展開には軍戦闘司令所を最前線にまで移動させ、陣頭指揮を取った第15軍牟田口司令官の精神論に依拠しない作戦の準備・計画・運用の方法としての戦略というものに対する責任意識、兵士の命そのものに対する責任意識はいずれも感じ取ることはできない。このように見てくると、インパール作戦がやれ、インドの独立だ、援蔣ルートの遮断だといった壮大な構想に酔い、その酔いが成功を確信させただけで満足な戦略もなしに始めたように見えてくる。

 インド、ビルマ国境地帯は1944年6月に降水量世界一と言われている雨季に入った。日本、イギリス共に悪条件は同じだが、戦闘を優勢に進めている側と劣勢に立たされている側とでは悪条件の程度が違ってくる。こういったことも計算に入れるのも戦略策定能力に関係してくる。この年は30年に1度の大雨だったという。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3ヶ月が経ち、推定1万人近くが命を落としていた。大本営の作戦中止決定は1944年7月1日。1944年3月開始から4ヶ月後。但し戦死者の6割が作戦中止後の発生だという。つまり救出作戦は行われなかった。大本営の作戦中止決定には救出作戦という項目は設けられなかった。兵士という戦争資源の処遇に対して、その命に対して軍という立場上、負わなければならない任務及び義務を果たす責任を放棄した。この責任放棄はインパール作戦でのみ見られた現象ではなく、他の戦闘でも広く見られた現象であることから、日本軍全体の体質となっている責任放棄であろう。大体が精神主義自体が戦略放棄に相当することになり、軍という集団の戦略放棄は軍組織としての体質そのものとしてある責任放棄と表裏一体の関係を取る。

 〈レッドヒル一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。

 一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団。後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退した。しかし、ようやくたどり着いた村に、食糧はなかった。分隊長だった佐藤哲雄さん(97)は隊員たちと山中をさまよった。密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。

 佐藤哲雄さん証言「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」

 衛生隊にいた望月耕一(94)さんは、武器は捨てても煮炊きのできる飯盒を手放す兵士は 1人もいなかったという。望月さんは、戦場で目にしたものを、絵にしてきた。最も多く描いたのが、飢えた仲間たちの姿だった。

 第31師団衛生隊元上等兵望月耕一さん証言(94)「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ。」〉――

 軍としての責任と義務を放棄した救出作戦の不履行――軍上層部の兵士の命への軽視が兵士たちを人間以下のケダモノに変え、軍組織を収拾の効かない最悪の無秩序集団に変えた。撤退時に於いても後方支援できる食糧の調達が不可能だったとしたら、勝利を絶対条件としたインパール作戦の立案と立案に基づいて構築することになった戦略自体が身の程知らずの高望みだったことになり、現状把無能力の責任の有無が問われる。

 〈齋藤博圀少尉の日誌「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう」〉――

 結果的にインパール作戦の補給・兵站無視の無責任な戦略が徐々に育んでいった、だが、この手の戦略の必然とも言える最終場面での飢餓地獄の一場面、一場面ということになる。

 〈太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。

 牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関・大本営。インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、次のように答えている。

 大本営服部卓四郎作戦課長「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして第15軍の責任範囲の拡大である」〉――

 イギリス側は計画と責任を一対の項目と捉えて質問している。牟田口廉也の「インパール作戦は、上司の指示だった」が事実だとしても、直接指揮したのは第15軍司令官牟田口廉也である。食糧・弾薬の後方支援の最終調整者は牟田口廉也自身であった。進軍だけを命令し、食糧・弾薬の後方支援要請を無視した。後方支援が不可能な状況であったなら、撤退の命令を下すべきを不可能を可能とする万能薬とはならない精神論をあたかも万能薬であるかにように頼って、傷口を広げていった。

 陸軍参謀総長東條英機の前任者杉山元陸軍参謀総長は1943年3月当時、大本営陸軍作戦部長眞田穰一郎少将に対して「寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ」と言い、インパール作戦が大本営の承認を得るよう取り計らいを請い、その結果、1944年1月7日に大本営によってインパール作戦は発令された。

 東條英機にしても陸軍参謀総長に就任、首相と陸軍大臣とを兼任することになってから、現地戦況を視察した大本営の秦三郎中将が東條英機に作戦の悲観的成功可能性を報告した際、その報告に取り合わず、天皇への上奏で作戦続行を伝え、精神論を手段とした作戦の成功可能性を臭わせている。にも関わらず、作戦、兵站、編成、動員などの戦略実務を担う大本営の作戦課長服部卓四郎はビルマ各現地軍が責任範囲を拡大させて行った作戦であって、大本営には関係しない責任事項だと言ってのけている。百万歩譲って、言っていることを事実と認めた場合は天皇直属の最高戦争指導機関、陸海軍の最高統帥機関である大本営がビルマ各現地軍をコントロール下に於いて統率・指揮できなかった責任を新たに発生させることになるが、このことに無頓着な無責任を見せている。

 この大本営の部隊に対する責任転嫁は卑怯で卑しい。責任を潔く認める道徳的勇気は見当たらない。インパール作戦は無責任な戦略で始まり、無責任な途中経過を経て、撤退する兵士を見殺しにする無責任な戦略で終わりを告げ、そこに軍上層部のより下位の部署への責任転嫁が加わった。この責任転嫁は倫理観の欠如と道徳観の欠如が動機づけとなっている。

 以上見てきたように日本軍上層部は言葉だけで作り上げた立派な精神論を振りまわして組織や階級や自らの立場に威厳ある装いを施しはするが、それは程度の低い戦略立案能力をカムフラージュする狡猾な外観に過ぎず、結果、無責任を恣にすることになり、全体的に道徳心のカケラも、倫理観のカケラもない、それゆえに道徳的勇気も肉体的勇気も欠如させた日本軍人とは名ばかりの見せかけの存在でしかなかった。この愚かしい見せかけによって700万人余の陸海出征兵士の多くが過酷な労苦を強いられ、うち日本軍人軍属戦死230万人、その9割方は占める下層兵士200万人余の運命を希望なき死へと向かわせただけではなく、国外で民間日本人30万人、国内では本土空襲等によって民間日本人50万人を死に追いやり、その影響で終戦直後に12万人の戦災孤児を作り出し、その多くに艱難辛苦の人生を歩ませた。

 この罪・責任は本人たちは道徳観や倫理観を欠いた無責任集団であることから自己弁護や自己弁解で言い逃れはできても、「人間として」という意味合いに於いて、また歴史の教訓としていつまでも記憶しておかなければならない究極の罪悪であろう。

 であるにも関わらず、保守党政治家、その代表格安倍晋三が靖国参拝の目的について頻繁に使う常套句「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に尊崇の念を表するために参拝した」の「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊」という戦死に至るプロセスのうちの「国のために戦い」は確かに国を対象とした兵士の自発的行為と位置づけることは可能であるものの、「尊い命を犠牲にした」の丁寧語である「尊い命を犠牲にされた」を同じく国を対象とした兵士個人個人の自発的行為の文脈で捉えることは日本の戦争の実態から言って、狡猾な歴史改竄を紛れ込ませていることになる。

  “尊い命の犠牲”はその多くが日本軍上層部の精神論だけで突っ走った無責任な戦争計画、無責任な戦略、個々の戦闘に於ける強引で無責任な作戦から発した被害としてある理不尽な犠牲だからであり、言ってみれば、日本軍上層部の愚かさの生け贄にされた“尊い命の犠牲”が実態だからである。その無責任な愚かさがなかったなら、むざむざ犠牲になることはなかった。

 当然、かつては安倍晋三を筆頭として、兵士の自発性と見せかける「国のために」云々の靖国参拝は日本軍上層部の無責任で愚かしい戦略や兵士の命を何とも思わない生命軽視の無責任や責任を負わない組織的体制、軍上層部個人個人の本来的な性格傾向と見える無責任体質等々の日本軍の実態を隠蔽する仕掛けを施していることになり、逆に戦争主体の国家・軍部の無能・無責任の罪を問わない仕掛けとなり、このような両面を持った仕掛けが毎年、終戦の月の8月と春と秋の例大祭の靖国神社を舞台に繰り返し演じられるに至っている。

 2022年も銃撃死する前の安倍晋三、その他高市早苗、西村康稔、萩生田光一、小泉進次郎、超党派議連等々の右翼の面々が日本軍の無能・無責任を受けて無駄死にさせられた多くの日本軍兵士に対して理不尽な犠牲という実態隠蔽の仕掛けを一方で施すと同時に戦前日本国家の無能・無責任の罪を問わない仕掛けを施すことになる靖国参拝が例年どおりに演じられた。そして毎年繰り返されるだろう。

 《2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(1)》に戻る
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