尾木直樹の体罰が考える力発の言葉の問題だということに気づかないこども基本法講演

2024-10-27 05:34:24 | 教育

 Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 尾木直樹は2022年7月23日のこのこども基本法講演で、自身の学校教師辞職が務めている学校の体罰問題だったことを明かしている。尾木直樹の人間性を知る上で参考になると思うから、このイキサツを改めて取り上げてみる。

 「僕が辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」

 述べているのはこれだけだから、具体的な事情は知りようがない。詳しく知りたいと思ってネットを探したところ、2014年10月9日付「産経ニュース」が伝えていた。一部抜粋。

 インタビューなのか、次のように話している。「授業を休んで講演会に行ったことは一度もありません。ただ、夏休みはほとんど講演と執筆活動に充てていました。仕事が早いし、集中力があるんでしょうか。話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けますし、いくつもの仕事を同時並行でできるんです。

 その後、非行のデパートと呼ばれる学校にも異動しました。そこにいたからこそ今、教育評論家をやれているのです。どんな問題でもおおよそ想像ができますから」――

 「最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、『子供の権利条約』が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。

 ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が『恥をしれ』と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば『先生、保護者が怒っているから考えようよ』とか言えるんですが、それもない。外では『体罰はだめだ』と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。

 いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ちもあって、その学校には1年いて、教師を退職することにしました。

 すると保護者が自宅に大挙して押しかけてきて、『なぜやめた』と怒るんです。体罰の事情を説明したら、『すぐに保護者が学校に文句を言って尾木先生の味方をしたら、先生たちの中で浮いてしまってやりにくいだろう』と気遣ってくれた。それで『1年待って、尾木先生の足場ができたら一緒にやろうと考えていた』という話でした。うれしかった半面、残念、短気だったなと後悔しました」――

 ところどころ自慢が入って、自分を宣伝することを忘れない抜け目のない点も一つの人間性である。「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」、「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」、「(長年の教師勤務の経験によって)どんな問題でもおおよそ想像ができます」

 先ず、「その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする」とは、どういう意味なのだろうか。尾木直樹の「体罰はだめだ」の考えを強く支持する先生の存在を以ってしても、ファンである本人が生徒に対して体罰を禁止できるだけの影響力を持ち得ていないことから、学校で体罰が横行しているという意味なのか、尾木直樹の支持者でありながら、支持する考えに反して自ら体罰を行っているという意味なのだろうか、両方に取れる。

 前者だとすると、より強い影響力があるはずの本家本元の尾木直樹の方がファンの先生よりもその点で劣っていて、体罰禁止、あるいは体罰排除の力とはなり得ていないことを示すことになる。

 後者だとすると、ファンを自任しているが、自任に反する行為に走っていることになって、ファンの先生個人の問題となるが、それでも、その先生に関しては尾木直樹の影響力はその程度で、絶対的ではないどころか、お粗末そのものとなる。

 となると、「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」等は体罰解決に(イジメ解決にしても同じだが)結びつけることができていない能力となるが、最初からそのことに気づかずに自身の優れている能力としてひけらかしていたことになって、その見当違いは教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。

 その欠陥は、「いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ち」から臨床教育研究所「虹」を立ち上げて、そこの所長に収まっている事実を中身の伴わない見せかけとすることになるだけではなく、
「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」と自負していることも、ただ単に講演依頼が多い、著作物が売れている、テレビ番組の出演が多い等、人気があるということだけのことで、実際には言っているとおりの教育効果を上げているわけではない。

 このことの証明として2013年発売の自著で、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」を、体裁よく名前をつけて行っているが、年々増加のイジメ認知件数が"なくす"どころではない深刻化を招いている実態を挙げることができる。

 何もかも見せかけであることはこの足元の体罰をキッカケに教師を辞職した経緯にその片鱗が既に現れている。

 サッカーの練習試合で小学生のチームに負けたサッカー部生徒4人を顧問が丸刈りの坊主頭とする体罰を行った。だが、生徒4人はニコニコしているし、保護者からクレームがあれば、「先生、保護者が怒っているから考えようよ」と言えると説明している。

 先ず第一番に本人の意志に反して強制的に坊主刈りにする。人権侵害行為に当たるにも関わらず、本人たちがニコニコしているからとその危うい人権感覚を正さずに放置したままにできる尾木直樹の人権意識は教師とは名ばかりで、見せかけの教師に過ぎなかったことを証明することになる。

 次に生徒からか、保護者からのクレームを体罰を注意する基準としていて、体罰を用いた躾上の問題点や教育上の問題点を注意する基準としていないことになり、当時の学校教育者としての人間性に疑問符がつけなければならないことになる。

当然、尾木直樹が体罰やイジメについて何を語ろうと、何を訴えようと、全て見せかけの綺麗事に過ぎないと見なければならない。にも関わらず、臨床教育研究所「虹」の所長に収まっている。

 この胡散臭いばかりの偽善は計り知れない。体罰やイジメ解決とは結びつかない能力であることを弁えることもできずに「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」などなどの能力自慢の胡散臭さに現れている偽善、その人間性と相響き合う。

 尾木直樹はこの講演で体罰に関して前半部分の最初にフッリップで掲げた「問題山積の教育現場と子どもたちの実態」の中で、〈④ 体罰と「指導死」問題」〉を取り上げていて、後半部分で掲げたフッリップ、「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 」では、〈④子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の恵識を変えていくことが必要〉と主張している。

 但し、〈体罰と「指導死」問題」〉についての具体的な解説は前半部分でも、後半部分でも一切触れていない。多分、時間の都合で省いたのだろう。

 後半部分での体罰に関する言及を見てみる。

 「4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと。

 ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。

 ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある」――

 尾木直樹は、「メディアとか、社会ぐるみ」で体罰に関する社会の意識改革を行っていく必要があると訴えているが、文科省は学校に対して体罰禁止の通達を出し、厚労省はポスター等で〈2020年から法律が変わりました!

 体罰等によらない子育てを広げよう!子どもへの体罰は法律で禁止されました。体罰等によらない子育てを推進するため、子育て中の保護者に対する支援も含めて社会全体で取り組んでいきましょう。〉などと啓発活動を行っている。

 厚労省がここで「2020年から法律が変わりました!」と言っていることは「改正児童虐待防止法」を指す。尾木直樹の「こども基本法講演」は2022年7月23日だから、この啓発活動は講演の2年も前からだが、ネットに学校での体罰を最初に禁止した法律は明治12年(1879年)の教育令第46条だと出ているが、例え啓発活動にまで踏み込んでいなかったとしても、最近ではどのような法律の施行であっても、啓発活動を同時進行させる。

 ネットで探した例を紹介してみる。法務省の《令和2年度に講じた人権教育・啓発に関する施策》(法務省)には、

 〈学校教育

ア 人権教育の推進
文部科学省では、人権教育・啓発推進法及び「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年閣議決定、平成23年一部変更)を踏まえ、学校教育における人権教育に関する指導方法等について検討を行い、平成16年6月に「人権教育の指導方法等の在り方について[第1次とりまとめ]」、平成18年1月に[第2次とりまとめ]、平成20年3月に[第3次とりまとめ]を公表した。令和3年3月には、[第3次とりまとめ]策定後の社会情勢の変化を踏まえ、[第3次とりまとめ]を補足する参考資料を作成した。文部科学省では、この第3次とりまとめなどを全国の教育委員会や学校等に配布するなど、人権教育の指導方法等の在り方についての調査研究の成果普及に努めて
いる。〉ことや、〈青少年の保護者向け普及啓発リーフレット「保護者が正しく知っておきたい4つの大切なポイント(児童・生徒編)」〉を作成・配布する啓発活動を行っている。

 上記「第1次とりまとめ」は次のような記述となっっている。

《人権教育の指導方法等の在り方について》(第1次とりまとめ)には、

〈② 子どもに関する課題として、子どもたちの間のいじめは依然として憂慮すべき状況にあるほか、教師による児童生徒への体罰も後を絶たない。また、親による子どもへの虐待なども深刻化しつある。〉、〈⑩児童虐待や体罰等の事案が発生した場合には、人権侵犯事件としての調査・処理や人権相談の対応など当該事案に応じた適切な解決を図るとともに、関係者に対し子どもの人権の重要性について正しい認識と理解を深めるための啓発活動を実施する。(法務省)〉等、体罰が後を絶たない状況の説明とそのことに対応した啓発活動の実施の必要性を既に平成16年(2004年)から訴えている。

 要するに尾木直樹の啓発活動の訴えは後追いに過ぎないと同時に日本の啓発活動がスウェーデンのようには効果を上げていないことを示すことになるが、この事実に気づかなままに啓発活動を訴えていることになり、この点についても尾木直樹の教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。

 最も重要なことは体罰が後を絶たない状況は啓発活動が効果を発揮できていない状況と相互対応しているという点であり、このことを見逃してはならない。特にイジメも人権問題であり、イジメの年々の無視できない増加は社会的啓発活動にしても、学校教師に対する文科省通達等による直接的な指導・啓発活動にしても、殆ど役に立っていない証明となってしまう。

 啓発活動の無効性は人々の意識の硬直性を意味する。尾木直樹はこういった現状を考えもせずに啓発活動や人々の意識の変革を訴えることができるのは法律の字面のみの解釈で終わっているからだろう。 

 2022年度の教師の体罰件数を見てみる。「令和4年度公⽴学校教職員の⼈事⾏政状況調査について」(概要)(文科省/令和5年12⽉22⽇)によると、

〈教育職員の懲戒処分等の状況
○懲戒処分等(懲戒処分及び訓告等)を受けた教育職員は、4、572⼈(0.49%)で、令和3年度から102⼈減少。
・「体罰」により懲戒処分等を受けた者は397⼈(0.04%) (令和3年度︓343⼈(0.04%))、
「不適切指導」により懲戒処分等を受けた者は418⼈(0.04%)。(令和3年度︓406⼈(0.04%))〉となっている。

 確かに教職員全体から見れば、「体罰」を働いて懲戒処分等を受けた教師は0.04%、「不適切指導」により懲戒処分等を受けた教師は同じく0.04%とごく少数ではあるが、前年度より減っているわけではなく、それぞれ少しずつ増えている。少しずつであったとしても、啓発活動の逆行性を示すことになるし、ここには親の子どもに対する体罰そのものである虐待は含まれていない。

 《令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数(速報値)》(こども家庭庁)によると、次のような虐待相談件数となっている。

令和3年度(2021年度) 207,660件
令和4年度(2022年度) 219,170件(速報値)

 因みに令和3年度(2021年度)の国公私立中学校3年間のイジメ認知件数は9万7937件であり、小学校6年間で計算すると約19万件のイジメ認知件数に匹敵する虐待相談件数となって、如何に多い件数か把握できる。

 小中9年間、高校までだと12年間、子どもが学校で、あるいは大学まで進学したとしても16年間を学んで社会に出て、成長して結婚して子どもを持って親となるという循環を考えたとき、その中から体罰を働く親が出た場合、その親が子どものときの親の教育・躾が悪くて、子どもとしての人間的成長に役に立たなかったとしても、その後の学校教育という現場で教師が人間的成長の育みに見るべき刺激を与え得ず、スルーさせてしまったことを示すことになって、教師としての役目が問われることになる。

 さらには教師自身が教員免許試験に合格し、都道府県教育委員会から教員免許状を授与されて教員となるについては大学等で「教職論」「教育原理」「教育心理」等を学び、これらの知識・情報を知の栄養、いわば自分自身に独自の知識・情報の栄養素としていなければならない。でなければ、学んだ意味が出てこないし、体罰に対して自己コントロールできない教師が跡を絶たないことになる。

 断るまでもなく体罰の何が問題なのかは身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為、あるいは注意や懲戒の目的で私的に行われる身体への暴力行為などと言われているが、有形力を行使した、あるいは威迫的意思を行使した強制的躾であり、このことは教育の現場と言いながら、言葉を用いて相手を納得させる道理に適ったプロセスを省いていることを意味していて、このようなプロセスを持った児童対児童、あるいは生徒対生徒の関係性がイジメと言うことになる。

 大学で教育を受けながら、適切で合理性に適った言葉を駆使した躾ができずに言葉の威しや有形力に頼ってしまう教化・指導がなくなくならない、減りもしない原因は児童・生徒を個人として尊重する姿勢に基づいた理性的な言葉を日常普段から使い慣れていないか、冷静さを欠くと理性がどこかに飛んでしまうからで、これらのことも高等教育を受けた意味をなくすが、逆に児童・生徒に対して個人として尊重する扱いと言葉を理性的に話すことを習慣としていたなら、その習慣性によって体罰に対する抑止力の役目を果たすだけではなく、そのような習慣は児童・生徒も目や耳にしたり、肌で感じることになって自ずと学ぶことになり、イジメに対する抑止力ともなるはずだが、現状はそうはなっていない。

 要するに体罰を必要としない言葉を話す力=言語力の不足に陥っている。考える力(=思考力)が言語力を養うことになるのだが、考える力の不足が言語力の不足と対応することになり、その関連性によって教化・指導に手っ取り早く体罰を用いてしまう。

 要するに考える力もない、言葉のコミュニケーション力もないことが体罰に向かわせてしまう。

 但し考える力の不足が原因となる言語力不足は体罰を行う教師ばかりの問題ではなく、他の教師や児童・生徒全般に関して指摘できる考える力不足(=思考力不足)と言語力不足であって、その原因は断るまでもなく今なお主流となっている暗記教育に影響を受けている。

 子どもの思考力不足と言語力不足は言われて久しいが、日本の教育のプロセスが教師の与える知識・情報を児童・生徒にそのままなぞらせる形で機械的に彼ら自身の知識・情報へと持っていく、その反復の強制を内容とする暗記型教育となっていて、教師からの知識・情報が児童・生徒それぞれの思考を刺激し、それぞれに自分なりの意味・解釈を付け加えることになる知識・情報へと持っていく仕掛けの思考型教育とはなっていないことが考える力の貧困状態を作り出して、結果として言語力不足を成果とすることになっている。

 となると、スウェーデンでの39年を掛けて95%から2%へと持っていった家庭内も含めた体罰減少は体罰で子どもを躾けることが社会的常識となっていて、それを当たり前のことと容認する場所で思考停止状態となっていたが、人権意識に基づいて法律で体罰禁止を打ち出し、社会に向けて体罰禁止の啓発活動を行うと、社会の側が考える力を刺激されて思考停止状態を解くことになった結果、体罰の目を見張る減少ということでなければ、理解を得ることはできない。

 なぜなら、既に触れたように体罰は考える力の不足(=思考力不足)が招くことになる言語力不足(=言葉のコミュニケーション力不足)が原因なのであって、スウェーデン人が考える力を元々の素地としていなければ、啓発活動を受けたからと言って、非人権的な強制行為でしかない体罰から穏便な言葉を用いた教化・指導に急激に変貌を遂げることはできないだろうからである。

 日本が体罰禁止や虐待禁止の法律を作り、啓発活動を様々に行っても、家庭内の虐待をも含めて無視できない件数の体罰がなくならずに横行している。言葉を使った言い聞かせ、言葉を使った教化・指導の実践ができないからで、つまるところ、大学という教育の場で児童心理学等を学び、さらに学校という教育の場で児童・生徒のそれぞれの人間性を通して学ぶべきことを学ぶことができないという皮肉な逆説によって、考える力を背景とした言葉の力で教師が児童・生徒を教化・指導ができず、そういった扱いを受けた児童・生徒が大人になって子どもを持ち、子どもに対して同じ扱いしかできないでいる循環が変わらない横行風景を作り出しているということなのだろう。

 当然、尾木直樹の「子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だ」云々は視点の把えどころを間違えた、考えもない無益な訴えとなる。

 自ら考える力のある人間は啓発活動を受けなくても、自分から意識を変えていくことができるだろうし、自ら考える力のない人間にいくら啓発活動を行なったとしても、馬の耳に念仏、意識を変えるところにまでいかないだろうからである。

 こういった道理を弁えることができないのだから、尾木直樹自身、考える力を満足に備えていないことになる。だから、事実を表面的に見ただけの八方美人的な綺麗事しか見せることができないでいる。論理的思考力ゼロの人気教育評論家と見るほかない。

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尾木直樹2022年7月23日「こども基本法制定記念シンポジウ」講演全文

2024-09-22 03:55:32 | 教育
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 尾木直樹の「YouTube」から採録した、《「こども基本法制定記念シンポジウ」講演》(日本財団主催/2022年7月23日開催)全文を当方が4回に分けて行った、この講演の批判の妥当性を判断して貰うために前以って知らせておいたとおりに紹介することにする。日本財団の講演開催を知らせるネットページ、《こども基本法制定記念シンポジウ 開催 「こどもの視点にたった政策とは」》に、『こどもの権利と日本のこどもたち(仮)』という題名が付けられているのをあとになって知った。現在も仮題のままとなっている。聞き取れない箇所は「?」をつけておいた。

レジュメ:問題山積の教育現場と子どもたちの実態(一部)
①いじめ認知件数、重大事態の増加。
②子どもの自殺者数の増加
③体罰と「指導死」問題 
④人権侵害の「ブラック校則」問題 
⑤不登校と「登校しぶり」の急増(コロナ禍の心と生活――マスク問題)
⑥「教育虐待」を生む受験制度と競争主義的教育
⑦教育格差の拡大(公私間、地方と都市間等)
⑧教師不足と質の低下が深刻化(わいせつ教師問題等)
⑨中等度以上の「うつ症状」の子ともが増加
⑩外国にルーツをもつ子どもたちへの差別、いじめなど、子どもの命や人権に関わる深刻な問題が山積

尾木直樹「どうも皆さんこんにちわー、尾木ママですー。今、山田先生(参議院議員山田太郎 講演題名「こども基本法とこども家庭庁について」)からですね、色んな、非常に広い観点から、コメントを聞いたり、一杯あったかと思うのですが、僕も一応レジュメを作ってきたのですが、前に出てきますけれども、漠然としたところもありますので、そこは焦点化して正していかなければならないなあというふうに思います。

 僕が今日、特にお話したいのは大人と子供の、子どもと大人ですね、子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立ったなあということで、新しい関係性をどう作っていくのか、そこをですね、現状の問題から含めてお話していければというふうに思っています。

 丁度77年前、男女平等が推進され、男女平等社会が始まった。それに匹敵するよりももっと大きいかも知れない、びっくりするような関係性の変化の問題、そんな今回のこども基本法が、こども家庭庁の意義が大きくあるんじゃないかなと思うんですけども、それで先ず次のレジュメに行きますけども、問題山積の教育現場と子どもの実態というのは数か所挙げてみたのですけど、これほんの一部なんですけども、こんなにたくさんあるんです。

 ここに10項目も挙がっていますけども、先程から理事長から、(?)先生がおっしゃっていたんで、ダブっていますけども、中でも4番の人権侵害の『ブラック校則』の問題。これは僕はいつだったかな、結構最近なんですけども、TikTokをやってるんですね。こどもたちとつながろうということで。

 TikTokに『ブラック校則なくなれ』とか何とか、1分間ですから、叫んで動画を入れたらですね、何と再生回数が270万超えて、コメントだけでも、7000入っていて、ずっと楽しみながら、読みみましたけど、本当に苦しんでいます。

 とんでもない校則、下着の色で決めるとかですね、それをチェックするとか、まあ、髪の毛は自分は元々茶色に、外国籍っていうかな、外国の両親を持つ子であっても、黒く染めなければいかないという指導が入っちゃうという、もう人権侵害、人間否定です。本当にひどい、そういう問題。

 それから、『登校しぶり』というのが物凄く増えていますよね。日本財団の調査で33万人と言われていますよね。

 それからこれは『教育虐待』の6番目の問題なんかもホントーに、日本っだけの問題じゃないですが、競争して他人より成績がいいとか、他人より何点取ったとかですね、優秀だとか、優秀でないとか、評価を決められたり。高校入試をやっても(?)凄く無駄なんです。どこも中高一貫なんです。

 僕なんか教育学の原理原則から言えば、中高で分断する何てのはあってはならない一番の、勿論ね、選択の自由というのがありますから、高校受験する子にいつも言うんですけれども、こんなに全ての子にそれを強制するような国家というのは間違っていると思います。それが大きいですね。

 それから、先生不足、教育者不足、これ深刻になっていて、これも詳しくは時間がなくて言えませんけども、9番のコロナ禍の、これも子どもたちの心と生活の問題。これはオミクロン株、少しは落ち着いてきたと言われている。マスク無しで歩きましょうということで、文科省の方でも体育館の中での体育でも、マスク外していいんだとか、色々言ってんですけども、マスクを子どもたちは外しませんと言うよりも、正確に言うと、外せないんです。

 保育園の子どもたちも同じです。これもまた詳しくはお話できませんですけれども、子どもの発達を随分阻害してしまっている。そこに私たち大人はですね、そこに配慮しないままきてしまいました。フランスのマクロン大統領なんか透明のマスクを80万枚配っているのに、我が国はそういう配慮は全くしなかったのです。子どものことをどんだけ見落としているのかという、そういうことだと思います。

 今、子どもたちの命とか、人権に関わる深刻な問題が山積しているんだということですね。それをもう少し掘り下げてみますと、深刻化するいじめ問題。なぜこのいじめ問題を取り立てて取り上げるのかと言いますと、子どもたちの命の危機を孕んでいるのはいじめ問題だけなんです。

 極端な言い方をすると、いじめで亡くなっている子はどれだけたくさんいるかという、丁度子どもたちの加害者の成長も阻害してしまうし、傍観者の人たちも、30、40もなっても、トラウマを引きずって大人に成長している日本の現状。

 いじめ問題の選択ニーズは重要だと思っています。いじめの認知件数のそのものは(コロナ禍で)学校が休校になりましたから、約9万件ぐらい減っていますけれども、今度は逆にパソコンとか、携帯電話の誹謗中傷、嫌がらせ、あるいはそれが原因で命を落としたんじゃないかといういじめ、そんな深刻な状況が過去最多を更新しているという問題ですね。

 これは読売新聞などの調査によりますと、109の自治体でやったところ、25の自治体で配った、やっぱ学校から配ったタブレットがこういういじめ問題が起きたというふうに報告が挙がっています。

 これなんかについてはですね、今日の専門の先生方はやはりどういうふうにしてタブレットを使うかというリテラシーが必要で、ということを仰って、学校で教えろと仰って、僕もその必要はあると思うんです。だけれども、そこがポイントではないんです。そこんところは一定程度教えますが、今大事なのはそんなことに左右されない信頼に満ちた学習とか、学年とか、学級、学校づくりができるかという、あくまでも生活の場として安心・安全かどうかということが土台にしっかりと息づいていれば、 こういうタブレットを生徒全員に配っても、何ら問題は起きないというふうに思います。

 これは海外の国との比較で見ていくと、明らかなんですけども、今学校の先生方に言おうとしているのは、『いじめ対策推進法』の28条というのがありますけれども、1の1項1号に該当する重大事態というのはですね、514件、重大事態のうち児童生徒の心身とか財産とか、重大な被害が生じた疑いのある件数が239件。それからいじめにより単純に不登校になった子が347件。非常に多いと。

 それから文科省のデータで見ると、いじめを苦にして自殺した子どもは小学校1人、中学生5人、高校生6人で、12人亡くなっている。これは全くの実態を反映していません。毎年そうなんですけども、それからいじめの定義をですね、何が一番問題かと言うと、いじめの定義を恣意的、前提的に解釈、保護的な対応を怠ったり、教師や学校側が誤ったいじめ対応や人権に対するいくつかの認識、いくつかの希薄化によって子どもたちが不登校やいじめに追いやられているという問題。

 これはですね、詳しくお話すると、いじめの定義が行われたのは1985年なんですよ。1985年の文科省の定義はですね、いじめられる子がどういういじめを受けたなら、いじめかと、認定するのは学校だと明記されている。

 1985年の文科省の定義が未だに殆どの学校を支配しているんです。文科省は2006年にすっかり定義を変えているんです。発生主義ではなくて、認知主義、認知したら、それはいじめとカウントしましょうということで、だから、たくさん件数が出れば出る程、それは子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しないんですね。本当に不思議です。

 認知主義と我々言いますけども、定義が、これまでは主語が加害者が、85年の定義では主語が加害者だったんです。ここが2006年の定義では被害者が主語になったんです。だから、被害者が辛いなと思ったり、嫌な目線を送ったなあとね、そう思えばもういじめですよというので、取り組んでくださいとか、それは誤解だったら、誤解でいいわけですから、子どもたちの被害というかなあ、そちらの側に立ったんですねえ。

 ところがですね、現場では、これ社会的にもそうですけど、いじめられる方にも問題があるとかね、子どもはいじめを通して成長していくんだとか、こんなことを言う学校の先生がいたり、いるんですね。何年前になりますか、加害者冤罪論で、加害者として決めつけることが冤罪として発生させているということが弁護士の先生の間で物凄く広がったことがある。

 つい今もひどい争いになっている事件が、亡くなった子の事件があるんですけれども、そこの地域で、ついこの間ですね、加害者を守る会が発足しました。分かります?加害者を守る会、そこで先頭に立っているのはちゃんとした精神科のドクターなんですね。いつまでもきちっと文科省(?)が指導力を発揮できないでウジウジしていると、こういう変なところで変な力が顔を出してくる。今、ネット社会ですから、こういうことも起きやすくなっているのかなと、僕は非常に残念で。
 
 それからですね、公正・中立、かついじめの第三者委員会、第三者委員会、の遣り直しとかいうのが言われております。今もまた議論されていることがいくつもありますけれども、この第三者委員会の条件と役割と明確にすべきだと思います。地元の方ばっか入った第三者委員会なんか機能するわけはないのに、平気でやっておられる、いうようなことも思っております。

 それからですね、次のところですね、日本の学校に於ける子どもの権利条約ということで、先程から山崎先生なんかも仰ってくださっていますけど、空白の28年間、我が国は1994年(4月22日)、何と子どもの権利条約が国連で批准されてから5年後に署名、158番目の締約国になったんです。子どもの権利条約が日本で批准され、発効しました。この日本政府は5年ごとに報告を出すことになっていますから、4回に亘って勧告を貰っているんですね。

 で、僕、この子どもの権利条約のこと、おっかけていたんですけども、何回勧告を貰っても、殆どメディアも、それから政府も、一番罪深いのはメディアだと思っています。メディアが報じないから、一般社会市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです。で、ほぼ無視してきた28年間なんです。

 だから、ホント、僕は子どもたちに『ゴメンね』と大人を代表してお詫びしたいような気持ちです。ホントーによくぞ28年間、あのーバカにしてきたなあというふうに思います。ですから、もう子どもの、子どもの権利条約に対する理解が進まない理由をちょっと掘り下げてみるとですね、子ども権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にあるんじゃないかと。

 それから以前はどうしてきたのか言いますと、1994年批准した、発効したからですね、文科省は事務次官名による通知を出しました。現場に対してです。僕が現場に、このとき辞めたくらいですから。僕が辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね。

 事務次官の通達により、こういうふうに言われている『本条約の発効により教育関係について特に法令等の改正の必要はない』。こう言ったんですね。で、学校に於いて児童生徒に権利及び義務を正しく理解させることは極めて重要だというので誤った権利と義務の撤去論というのが通知をされた。

 これは撤回は難しいから、融和的な新しい通知を出して頂かないと困りますという話なんです。それから致命的なのは子どもの権利条約第44条には条約報告義務というのが明記されている。これは日本の学校では子どもの権利条約について教えてこなかったので、これは明らかに条約違反です、

 その結果、子どもはイジメや虐待といった様々な人権侵害とか貧困や差別などの困難な中にいても声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない、こういう生き辛さを感じているんじゃないかと。

 それからですね、困ったことに子ども権利条約について現職の教員の約3割が全く知らないと言っている。それから名前だけ知っている、約4人に1人。子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる。今度の遠足で違反がなければ、秋の運動会は自分たちで進めていいとかね、こんなのとんでもない間違いです。

 権利があって初めて義務が出てくるのであって、これは発達論から言って間違ってるんですね。これ、平気で言うんですね。大学の教育課程でセンター長をやってるんだけども、子ども権利条約は教えることになっていません。教育課程の一定の科目にもなっていないと。

 教育委員会現場の先生方から見て、教育委員会を怒っているように本当に点数が多いんですね。ホントーに。(以下不明)

 それでは次にですね、こども家庭庁に対するということで一つ纏めましたけども、7つ程あります」
 
 (以下、画像をテキスト化する。)
 「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう!

① 「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分な予算と人材の確保を!
② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との協働•パートブーシップが重要
③「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進する→大人側への啓発活動が重要
④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の恵識を変えていくことが必要(例:スウェーデン)
⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦としての「駆け込み寺」の機能を
⑥ 特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”するまで見届けることが必要
⑦ すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意見を聞き、受け止め、考慮する必要
 尾木直樹「『こども基本法』を実体化させる。子どもをど真ん中に置いて支援していくという社会の実験に向けてやっぱり十分な予算と人材(強調する)教育問題は殆予算を倍にして、先生の人数を倍にしたら、あるいはクラスのサイズは2分の1にするとか、肝心なところで一気に問題は6割は解決するというふうに思っています。

 2つ目は教育者の視点に立った細やかな丁寧な取り組みを自治体や民間団体、それから企業なども含めた協働とかパートナーシップが大事だろうというふうに思います。

 3つ目ですね、子どもの権利条約に謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及する大人側への啓発活動が勿論、これは重要だと思っています。

 4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと。

 ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。

 ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある。

 5番目、『コミッショナー制度』の確立とこれをどう導入するか、検討の継続ということが言われているわけで、ここんところ、ぜひ実現させていきたいなあ。最後の砦としての『駆け込み寺』としての機能を持たせることも重要だということになります。

 特にイジメ問題に於ける実効性の伴った『勧告権』の発動をですね、これは問題の解決まで見届けていくことまで、重要と思っています。それをやっている自治体が既に、例えば大阪の寝屋川市などで出てきていて、本当にモデルになるような実現されているんですね。

 それから7番目の全ての生活を「子ども参加」で、子どもに関わることは教育者が子どもの意見を聞いて、受け止め、顧慮することが不可欠だというふうに思います。子どもが一番分かっています。

で、次に纏めですが、日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な包括的に課題に取り組むという『子ども家庭庁』のような組織の創設は長年の夢でした。僕はずっと願ってきたことで、これでようやく、まだ不自由なとこがあったとしても、成立させたということは、画期的なことで、子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています。

 子どもや保護者の視点から見れば、切れ目のない支援こそが必要で、子ども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになるはずだ。子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います。

 子どもに貴賎はありません。子どもの利益のために今こそ大人の側が最善を尽くし、様々な課題を克服し、子どものために協働して欲しいと強く願っております。子どもの専門家は子ども自身でコロナ禍で不透明な今だからこそ、子どもたちと共に考え、声を上げ、協働していかなければなりません。子どもたちとのパートナーシップで、未来に向け、様々な課題や困難を乗り越えていきたいと思います。
 
 特に先程からも言っているとおり、国がこども大綱を決めて、そのあと子ども政策を各自治体で進めていくということになっていますけども、先行している例としては東京都が極めてシンプルで、子ども条例、基本法というのが去年から決まったのですが、決まっています。

 子どもコミッショナーというものをやろうということになっていますけども、ついこないだ予算措置が取られて、1億何千万か、予算を取ったというのが、ネットニュースで見て、ああ、いよいよ動いてきたなあというので、国の方でちょっと遅れがあったような、東京の方は分かりやいんですよ、子ども条例。たった17条くらいですけど、分かりやすい。子どもが読んでも、子ども基本条例のページ数で言うと、たったね、3ページ半しかない。

 だから、あっという間に読めますし、各自治体で決めたというところはどんどん決めて、頂いたらいいなあと思っています。

 以上、ありがとうございます」
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尾木直樹こども基本法講演:程度の低いエセ教育者を「尾木ママ」と有難がっている多くの存在、「はてな?」

2024-09-08 08:03:55 | 教育
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」

2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ

3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革

4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入

学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 尾木直樹が「こども基本法制定記念シンポジウム」のパネリトとして掲げた2つ目のテーマをここに改めて書き記し、続きとしてその⑤番目から最後までを取り上げる。

 「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう!

①「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分な予算と人材の確保を!

② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との協働•パートブーシップが重要

③ 「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進する→大人側への啓発活動が重要

④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の意識を変えていくことが必要(例:スウェーデン)

⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦としての「駆け込み寺」の機能を

⑥特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”するまで見届けることが必要

⑦すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意見を聞き、受け止め、考慮する必要

 尾木直樹「5番目、『コミッショナー制度』の確立とこれをどう導入するか、検討の継続ということが言われているわけで、ここんところ、ぜひ実現させていきたいなあ。最後の砦としての『駆け込み寺』としての機能を持たせることも重要だということになります」――  この発言のみでは何を言っているのか皆目見当がつかないのでネットを調べてみた。子どもの権利や利益が守られているかどうかを監視し、子どもの代弁者として活動する機関としての子どもコミッショナー制度のことだそうで、《子どもコミッショナーの設置を急げ》(日本総研池本美香/2024年4月1日)に、〈2002年、国連子どもの権利委員会は、子どもの権利条約を批准したすべての国に子どもの権利擁護状況の監視を行う独立機関(以下、子どもコミッショナー)が必要だという考えを明示している。〉と出ている。但し日本政府は消極的で、今以って設置に至っていないということである。

 要するに「コミッショナー制度」は尾木直樹発の発想ではなく、国連子どもの権利委員会が求めている監視機関ということになる。既に前のところで挙げているが、「子どもの権利条約」の「第28条の2」は、〈締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。〉と規定している。

 教師の児童・生徒に対する体罰も、児童・生徒相互間のイジメも、ブラック校則も、学校の実際面での多くの規律が児童の人間の尊厳に適合していない状況を示すことになる。ブラック校則は教師が自分たち大人の価値観を絶対としている間は児童の人間の尊厳に適合している状況にあると見ることはできない。

 繰り返しになるが、体罰は教師が児童・生徒に対して、保護者が自分の子どもに対して自身の価値観を絶対とし、相手の価値観を認めないことによって起きる。イジメは力関係が上の児童・生徒が自身の価値観を絶対とし、力関係が下の児童・生徒の価値観を認めないことによって起きる。どちらも権威主義の力学を介在させた相手に対する人間の尊厳を欠いた行為としなければならない。

 但し体罰やイジメが発生する前に権威主義の力学が介在しているという段階のみを把えて、その未然防止のために権威主義の力学を排除するのは難しい。一人ひとりの教師や児童・生徒の行動・態度を監視している教師を配置しているわけでもなく、一人ひとりの教師や児童・生徒の行動・態度をチェックする監視カメラを配置しているわけでもないからで、結果、体罰やイジメの全体的発生状況が手に負えない段階になってから、「コミッショナー制度」に通報するという手続きを取ることになる。

 尾木直樹が言っている「駆け込み寺」としての機能も、体罰やイジメの発生を受けてからの利用となる。いわば事後対応が専門で、イジメが発生した場合の「学校いじめ防止対策委員会」の役割と変わらない。"いじめ防止"と名前が付いているが、"防止"ではなく、現に起きているイジメをやめさせる"対策"ということになる。発生を受けて、その件に限った解決という従来通りの循環を取る可能性も否定できない。

 循環という経路を取るのではなく、既に取り上げたが、「子どもの権利条約」の「第28条の2」が、〈締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。〉と謳っていることに合わせて、児童・生徒の諸権利がそもそもからして侵害を受けないようにする基本的対策はやはり教師一人ひとりが児童・生徒に向き合う際、一人ひとりを"個人として尊重する"態度・姿勢を取ることができるかどうかに掛かっていて、このことをスタート台に児童の諸権利の擁護・保障を図っていくことが「児童の人間の尊厳に適合する方法」となっていくはずである。

 そうするためには教師であるという身分上の上位性を外し、あるいは大人であるという年齢上の上位性を無視して、権威主義的な人間関係力学を排除、教師が児童・生徒と同じ目線に立つことが求められるはずである。そしてこのような関係を築くことができれば、教師は児童・生徒を信頼の対象としていることになり、その信頼は児童・生徒の教師という存在に対する信頼となって跳ね返ってきて、既に触れていることだが、相互の信頼が児童・生徒の責任感の育みや自主性、主体性、その他の育みの手助けとなり、それらの能力は教師の体罰、児童・生徒間のイジメを予防する力学としての働きをすることになる。

 だが、尾木直樹は体罰やイジメを生み出している直接的な現場となっている学校での人間関係の問題点、権威主義的な人間関係を捉えるのではなく、法律や条約が持つスローガン性、義務化不足を考慮に入れず、「いじめ防止対策推進法」がイジメ認知件数の減少に何ら役に立っていない実効性欠如に目を向けることもできず、「こども基本法」や「子どもの権利条約」といった法律や条約の実効性に解決策の期待を掛ける見当違いから抜け出れないでいる。

 尾木直樹「特にイジメ問題に於ける実効性の伴った『勧告権』の発動をですね、これは問題の解決まで見届けていくことまで、重要と思っています。それをやっている自治体が既に、例えば大阪の寝屋川市などで出てきていて、本当にモデルになるような実現されているんですね」――

   尾木直樹がここで言っている「勧告権」とは条約が規定している義務の履行の達成に関して締約国の進捗状況を審査する役目を担った「児童の権利に関する委員会」が締約国に於いて権利の実現のために取った措置及びこれらの権利の享受に不足がある場合、その不足を正すよう締約国に勧告することのできる権利のことで、「児童の権利に関する委員会」がイジメ問題で勧告権を発動したとしても、直接的な解決を担うのはイジメ問題を発生させた学校であり、その学校を監督するのは文部科学省という国の機関であって、問題の解決まで見届けるのは当然の措置であり、改めて言うことではなく、やはりイジメ問題を起こさないよう注意を向けることが子どもの権利擁護となるはずである。

 当然、尾木直樹は"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないといった趣旨の仮説を披露している以上、そのような学校を実現する方法論を先に持ってくるべきで、持ってくることができれば、子どもの権利擁護は大部分が片付くはずだが、言うだけ言って、方法論には口を閉ざしたままでいる。

 「子どもの権利条約」に関する勧告権と大阪府寝屋川市とどう関連があるのか理解できなかったから、ネットで調べてみた。2020年1月1日施行の「寝屋川市子どもたちをいじめから守るための条例」に市長の権限で行うことのできる「是正の勧告」が定めてあって、イジメ加害者の「出席停止」、イジメ被害者対象なのだろう、「児童等の学級替え」や「児童等の転校の相談及び転校の支援」等の勧告が行えると規定している。  尾木直樹は「子どもの権利条約」の締約国としての日本政府が行うべき義務について解説しながら、一自治体の条例が定めている勧告権を持ち出して、それが締約国に課した勧告権であるかのように話す混同を犯しているだけではなく、"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと宣言しながら、イジメが起きた場合の法律や条例に頼った対処の仕方ばかりを話している。頭のどこかが狂っているとしか思えない。

 それとも「子どもの権利条約」から離れて、学校のイジメ問題一般へと話題を変えたなら、そうと受け取ることができる文言を明示すべきだろう。明示もせずに繋げた話にするから、合理性が欠如した印象のみを与えることになる。

 尾木直樹「それから7番目の全ての生活を『子ども参加』で、子どもに関わることは教育者が子どもの意見を聞いて、受け止め、顧慮することが不可欠だというふうに思います。子どもが一番分かっています」――

 一見、"個人としての尊重"を訴えているように見えるが、似て非なるものである。「全ての生活を『子ども参加』」で行ったとしても、学校が決めたルールとしてそのルール内で行うことと"個人としての尊重"が育むことになる相互信頼や児童・生徒側の責任感、自主性や主体性を背景に置いた参加とは全然別物だあらである。尾木直樹はこの講演の中で"個人としての尊重"を頭に置いた発言を一度も行っていない。

 また、「子どもが一番分かっています」からと子どもの意見を聞いて物事の決まりやルールを決めていったとしても、学校の価値観が勉強の成績かスポーツの成績にほぼ限定されている思考環境では自ずと限界を抱えることになる。

 その理由は多様性が幅広く認められている学校社会であったなら、これ程までにイジメ認知件数は増加の一途を辿らないだろうし、不登校児童・生徒数も増加傾向を取ることもないだろうし、既に触れている全国学力テストで暗記で片付く基礎的知識よりも思考力や表現力の点数が左程劣ることなく、よりマシな成績を示すことになるだろうから、そうなっていない、いわば多様性の狭さに応じて子どもの意見自体の自由度は高くはないだろうからである。

 勿論、思考力や表現力が優れた子どもいるだろうが、主として学校の勉強知識に関しての優秀さであって、テストの結果が証明しているように全体的傾向とはなっていないだけではなく、学校の勉強から離れた知識に関しては未知数なのだから、「子どもが一番分かっています」と断言するのは安請け合いそのものでしかない。

 大体が法律や国の組織を無条件に信頼することで可能となる法律頼み、国の組織頼みで子どもの権利擁護を散々に語ってきながら、最後になって「全ての生活を『子ども参加』」だ、「子どもが一番分かっています」と子どもを中心に据えるのはご都合主義そのもので、所詮、綺麗事としか映らない。

 尾木直樹「で、次に纏めですが、日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組むという『こども家庭庁』のような組織の創設は長年の夢でした。僕はずっと願ってきたことで、これでようやく、まだ不自由なとこがあったとしても、成立させたということは、画期的なことで、子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています。

 子どもや保護者の視点から見れば、切れ目のない支援こそが必要で、こども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになるはずだ。子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います」――

 ここでは再び国の組織頼みに先祖返りしている。ご都合主義は尾木直樹の性格の一部だから、不自然なことは何もない。

 「子ども家庭庁」は2022年2月25日に家庭庁設置法の国会提出を受けて審議、6月15日成立、6月22日交付、2023年4月1日発足という経緯を踏んでいる。要するに尾木直樹は2022年7月23日開催の「こども基本法制定記念シンポジウム」講演で発足8ヶ月前に早くも「子ども家庭庁」の創設は「子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています」と先見の明を発揮、我先にと先物買いに走って、いわば売値を高めた上で子どもや保護者にとって、「こども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになる」と国の組織に信頼を置いた国頼みを心置きなく披露している。

 この先見性、国組織への信頼、国頼みが2022年7月時点での尾木直樹一人の印象ではなく、国民が全般的に抱える印象となっていたなら、国の「子どもの育ちや子育て」への応援に期待を抱き、今まで諦めていた2人目、3人目の出産を考えてみようかと、少なくとも気持ちが前向きとなって、それが現実面でも実際の形を取る可能性は否定できないのだが、2023年の出生数は前年比4万3482人減少の72万7277人。

 2022年の出生数は前年比4万0863人減少の770759人。2021年の出生数は前年比29213人減少の811622人。もしこども家庭庁設置によって国への出産に対する期待が持てると感じていたなら、2022年以降の減少幅は少しは歯止めの兆候が見えていいはずだが、前年比の減少幅は拡大基調を維持したままとなっていて、そこからは国民の期待は微塵も感じ取ることはできない。

 国の組織が新しくできただけ、あるいは新しい法律が成立しただけで、その成果、あるいは効果を確かめもずに保証する。尾木直樹ぐらいのものだろう。大体が「日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組む」はスローガンでしかなく、実現へと持っていくための具体的な規則・規定の類いとは別物であるし、具体的な規則・規定の類いが効果を必ずしも約束するわけではないことは尾木直樹が「子どもの命を救う法律」だと見ていた「いじめ防止対策推進法」がイジメの抑止に役立っているわけではないことが最適な例とすることができる。

 子どもたちの命を守る直接的な方法は喜怒哀楽の自然な発露を歪めることによって一種の精神的殺人の形を取ることになるイジメや、実質的な殺人とさして変わらない自殺に向かわせてしまう執拗で過度なイジメ、教師や保護者の体罰、保護者の暴力や虐待等をなくすことで、なくすためには学校という教育の現場で教師が児童・生徒とどう向き合うか、家庭という養育の現場で保護者が子どもたちとどう向き合うか、その具体的な向き合い方を考えることであって、「法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組む」といった官僚が使う言葉で政策を述べることではない。

 「こども基本法制定記念シンポジウム」のテーマは「こどもの視点にたった政策とは」となっているが、子供の視点に立っていない第一人者は国の組織頼み、法律頼みの尾木直樹を措いてほかにはいないだろう。

 ネットで調べたところ、こども家庭庁は「日本国憲法」と「こどもの権利条約」の精神を取り入れて制定した「こども基本法」を基に2023年12月22日閣議決定した「こども大綱」を土台に自らのリーダーシップのもと、政府全体のこども施策を推進する組織として設立されたという。

 政策のほんの一部を見てみる。

 「こども大綱」

 3 こども大綱が目指す「こどもまんなか社会」

~全てのこども・若者が身体的・精神的・社会的に幸福な生活を送ることができる社会~

「こどもまんなか社会」とは、全てのこども・若者が、日本国憲法、こども基本法及びこどもの権利条約 の精神にのっとり、生涯にわたる人格形成の基礎を築き、自立した個人としてひとしく健やかに成長することができ、心身の状況、置かれている環境等にかかわらず、ひとしく その権利の擁護が図られ、身体的・精神的・社会的に将来にわたって幸せな状態ウェルビーイングで生活を送ることができる社会である。

具体的には、全てのこどもや若者が、保護者や社会に支えられ、生活に必要な知恵を身に付けながら

・心身ともに健やかに成長できる

・個性や多様性が尊重され、尊厳が重んぜられ、ありのままの自分を受け容れて大切に感じる(自己肯定感を持つ)ことができ、自分らしく、一人一人が思う幸福な生活ができる

・様々な遊びや学び、体験等を通じ、生き抜く力を得ることができる

・夢や希望を叶えるために、希望と意欲に応じて、のびのびとチャレンジでき、将来を切り開くことができる

・固定観念や価値観を押し付けられず、自由で多様な選択ができ、自分の可能性を広げることができる

・自らの意見を持つための様々な支援を受けることができ、その意見を表明し、社会に参画できる

・不安や悩みを抱えたり、困ったりしても、周囲のおとなや社会にサポートされ、問題を解消したり、乗り越えたりすることができる

・虐待、いじめ、体罰・不適切な指導、暴力、経済的搾取、性犯罪・性暴力、災害・事故などから守られ、 困難な状況に陥った場合には助けられ、差別されたり、孤立したり、貧困に陥ったりすることなく、安全に安心して暮らすことができる

・働くこと、また、誰かと家族になること、親になることに、夢や希望を持つことができる社会である。

 以上のことの実現を「全てのこどもや若者」に約束しているが、抽象的なスローガンの単なる羅列に過ぎない。勿論、方法論次第で実現する約束もあり、実現しない約束もあることになるが、尾木直樹のように「心強いメッセージ」と見た場合、実現の意味合いがより強い約束となる。実現の見込みがない「心強いメッセージ」は逆説としてのみ成り立つ関係性を取る。

 では、こども・若者に対してこれらの約束事の実現を誰が担うのかと言うと、こども家庭庁がリーダーシップを取ることになるだろうが、「こども基本法」と同様に国や地方公共団体、地域、学校・園、家庭、若者、民間団体、民間企業等の連携・協働となっていて、そのことを謳うのみで、それぞれにどのような部署、あるいは組織の設置を要請して、どういった活動の必要性を謳っているわけでもない。「連携・協働」を言うのみである。

 当然、この「連携・協働」の効果が問題となる。子どもの貧困を例に取ってみてみる。「こども大綱」は子どもの貧困に多くのページを割いている。貧困が人格の形成に与える影響が大きいと見ているからだろう。次のような対策を見受ける。その一部を取り上げる。

 〈(4)良好な成育環境を確保し、貧困と格差の解消を図り、全てのこども・若者が幸せな状態で成長できるようにする〉――

 では、現状はどうなっているのか、次のように伝えている。〈相対的に貧困の状態にあるこどもの割合は 11.5%となっており、特にひとり親家庭は44.5%と高くなっている。〉――

 この現状をこども家庭庁を中心とした政府関係機関と他機関の「連携・協働」によって解消していく。だが、議員立法で成立、10年前の2014年1月17日に施行された「子どもの貧困対策の推進に関する法律」は、〈子どもの貧困対策は、国及び地方公共団体の関係機関相互の密接な連携の下に、関連分野における総合的な取組として行われなければならない。〉と謳っているが、この2014年から「こども大綱」を閣議決定した2023年12月末まで約10年経過してもなお、〈相対的に貧困の状態にあるこどもの割合は 11.5 %となっており、特にひとり親家庭は 44.5 %と高くなっている。〉状況にあって、貧困問題が生易しく解決できる問題ではないことを示しているが、尾木直樹はこども家庭庁が何でも簡単に解決してくれると捉えているようだ。

   尤も最近は人手不足による賃金の上昇(決して経済の好循環による賃金の上昇ではない)で貧困率は少し下がる傾向にあるようだが、賃金の上昇以上に格差が拡大していることから、相対的貧困の感覚は変わらないことになり、一般的には子どもはその影響をより強く感じることになる。

 要するに人手不足が低所得層の賃金の上昇をささやかながら招いているのであって、「国及び地方公共団体の関係機関相互の密接な連携」が貢献している賃金上昇というわけでも、貧困率のささやかな低下でもない。果たして「こども大綱」が期待している「連携・協働」が機能するのか、2014年1月の「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が謳った「連携・協働」が、あるいはその他の法律が謳っているとおりには機能していなかった前例に鑑みると、極めて疑わしいことになる。

 上に引用した「こども大綱」が目指す「こどもまんなか社会」の各実現目標を簡単に纏めて改めて列挙してみる。

「心身ともに健やかな成長」

「個性や多様性の尊重」

「尊厳の重視」

「自己肯定感を持ち、自分らしく、一人一人が思う幸福な生活ができる」

「様々な遊びや学び、体験等を通じて生き抜く力を育む」

「夢や希望に基づいたチャレンジ可能な将来への切り開き」

「固定観念や価値観を排した自由で多様な選択に基づいた自分の可能性を広げることができる将来性の用意」

「自らの意見表明に対する支援と社会参画支援」

「周囲のおとなや社会のサポートを受けた不安や悩みに対する問題解消と克服」

「虐待、いじめ、体罰・不適切な指導、暴力、経済的搾取、性犯罪・性暴力、災害・事故などを受けて差別・孤立・貧困を招くことなく、安全・安心な生活の保障」

「勤労の権利と結婚の権利と出産の権利の保障によって夢や希望を与える」――

 等々の実現を目標に掲げていて、目標の達成が子どもをまんなかに据えた「社会」の実現になると宣言している。

 どれも久しい過去からその実現が言われていて、満足に解決はできていない目標ばかりである。解決していたなら、「こども大綱」には載せはしない。にも関わらず、我が尾木直樹は、「『こども家庭庁』のような組織の創設」によって「子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています」と褒め立て、「子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います」と、過去から言われ続けている子どもの権利保障を、言われ続けてきたことに終止符を打ち、何もかも可能とすることができる、歴史の転換となる瞬間を迎えるかのように歓迎することができる。

 「子どもの権利条約」でさえ、尾木直樹によると国連子どもの権利委員会から4回に亘って勧告を受けている。にも関わらず、「子ども基本法」が掲げる子どもの権利保障が「こども家庭庁」のリーダーシップによって確実に実現できるかのように看做す。

 法律の持つスローガン性や国民の義務化不足を一切顧慮に入れず、しかも具体的根拠もなしにである。大体が学校社会での「多様性の尊重」はどれ程に久しい以前から言われているのだろうか。言われる理由は学校社会自体が勉強の成績かスポーツの成績第一主義で、他の可能性は排除する"多様性の否定社会"となっているからなのは断るまでもない。当然、文科省も学習指導要領で「多様性の尊重」を散々に言ってきているはずで、44年とか教師生活をしてきて、長年に亘って足元で問題とされてきたことが「こども大綱」に引き継がれて、こども家庭庁が政策遂行の新たな司令塔となる、この無限ループ状態は解決の困難さを露わにするのみで、「歴史を転換させる大きな一歩」どころか、同じ繰り返し状態に大変だなという思いしか浮かばない。

 ところがこども家庭庁が目指すこども・若者のあるべき状態(あるべき状態となっていないから、あるべき状態を求めなければならない)の殆どは学校自身が自らの現場で児童・生徒と協働して求めなければならない目標であって、「こども家庭庁」にしても最終的には学校に求める目標であろう。だが、いつまで経っても学校が一部の優秀な児童・生徒に対してのみ目標を実現できていないから、その結果問題行動がなくならないことになって、文科省やこども家庭庁が方針を決めて、義務という形で同じことの繰り返しでしかない解決を求めていくことになる。

 だが、文科省やこども家庭庁が求めるこども・若者のあるべき状態は教師が児童・生徒を"個人として尊重する"ことができるかどうかに決定権が掛かっていると見なければならない。改めて断るまでもなく児童・生徒を"個人として尊重"できたなら、そのような態度・姿勢は児童・生徒一人ひとりに対する信頼感に基づいて発動されることになるから、一人ひとりの性格や能力・資質を尊重できて、そのことはそのまま「個性や多様性の尊重」へと向かい、「尊厳の重視」という姿勢となって現れ、教師がこのような姿勢を持つことができたなら、教師に対して信頼感という形で跳ね返り、相互の信頼が児童・生徒の自主性や主体性や責任感を育むことになり、イジメや暴力の抑止力として働くばかりか、こういった全てのことが児童・生徒に自己肯定感を植え付けるキッカケとなるだろうし、自己肯定感が貧困に負けない精神的逞しさを育て、同じ自己肯定感が様々な遊びや学び、体験へのチャレンジを可能とし、様々なチャレンジが固定観念や価値観を排した自由で多様な将来的選択を可能とし、自身の進路選択の幅を広げることになって、これらのことが意見表明と社会参画に道を開き、逞しく社会を生きる力となり、夢や希望を持って勤労に励むことができ、結婚や出産にも希望を持って向き合うことができることになる。

 こうして見てくると、こども家庭庁が目指すこども・若者のあるべき状態の殆どは児童・生徒が多くの時間を過ごす学校という現場で教師一人ひとりが児童・生徒一人ひとりに対して"個人として尊重する"態度・姿勢を示すことができるかどうかが問題解決の糸口となることを明示していることになる。

 "個人として尊重"できるかどうかが諸権利保障の基本的出発点、あるいは基本的スタート台であって、このことを原則としなければならないと説いた所以である。だが、尾木直樹は解決できないままに長年に亘って繰り返されるままの各問題の解決を法律や国の組織に頼った模索を性懲りもなく続けている。

 尾木直樹「子どもに貴賎はありません。子どもの利益のために今こそ大人の側が最善を尽くし、様々な課題を克服し、子どものために協働して欲しいと強く願っております。子どもの専門家は子ども自身でコロナ禍で不透明な今だからこそ、子どもたちと共に考え、声を上げ、協働していかなければなりません。子どもたちとのパートナーシップで、未来に向け、様々な課題や困難を乗り越えていきたいと思います。

   特に先程からも言っているとおり、国がこども大綱を決めて、そのあと子ども政策を各自治体で進めていくということになっていますけども、先行している例としては東京都が極めてシンプルで、子ども条例、基本法というのが去年から決まったのですが、決まっています。

 子どもコミッショナーというものをやろうということになっていますけども、ついこないだ予算措置が取られて、1億何千万か、予算を取ったというのが、ネットニュースで見て、ああ、いよいよ動いてきたなあというので、国の方でちょっと遅れがあったような、東京の方は分かりやいんですよ、子ども条例。たった17条でくらいですけど、分かりやすい。子どもが読んでも、子ども基本条例のページ数で言うと、たったね、3ページ半しかない。

 だから、あっと言う間に読めますし、各自治体で決めたいというところはどんどん決めて、頂いたらいいなあと思っています。

 以上、ありがとうございます」――

 条例、法律の類は文字数、ページ数の多い少ない、あっと言う間に読めるかどうかでその価値・効果が出てくるわけではない。一通り読んで、終わりにしたのでは意味を成さない。義務化できるかどうかがカギを握るのであって、条文通りに義務化を心掛けたなら、立派な文章で成り立たせている関係上、だからこそ、スローガンとしての色彩を色濃く見せることになるのだが、ややこしくなるだけだから、基本の精神だけを押さえて、義務化に努めるべきだろう。

 勿論、基本の精神とは、繰返し言っているように大人たちの子どもに対する"個人としての尊重"を当たり前の態度とすることである。このことが子どもたちの大人たちに対する"個人としての尊重"を約束することになる。

   この"個人としての尊重"がイジメをしない、体罰をしない、貧富を問題としない、学校の成績や人種や身体等に優劣をつける存在上の差別をしない等々の規律に向かわせる。このことの実践から入って、各決め事の義務化に向かわせるべきだろう。なかなかの難事業だが、義務化への道を進むことができれば、「こども大綱」が掲げた「こどもまんなか社会」がおぼろげながらも姿形を取ることになる。

 ときとして親が自分の子どもに好き嫌いがあり、ましてや赤の他人である児童・生徒に教師は好き嫌いが生じるだろうが、好き嫌いはお互い様として、その好悪を抑えて、一個一個の存在として対等に扱う義務を親が自分の子どもに、教師は児童・生徒に負っている。このことを弁えて、"個人としての尊重"を自身の態度・姿勢の土台とすることができれば、子どもたちの様々な権利保障に繋がり、自律した存在として、あるいは自立した存在として社会に立つことが可能となっていくはずである。

 ところが尾木直樹は子どもの権利を口するものの、その内容は子どもの権利擁護を担う国の組織が掲げる方針と条例を含めた法律の効果に最後の最後まで便乗している。何のことはない、それらの代弁者の役割を自らに担わせているに過ぎない。国の方針や条例を含めた各法律が同じ繰り返しとなる文言を延々と続ける役目しか、あるいは効果しか見せていないにも関わらずである。

 こういった見事なまでの見当違いを発揮できる才能が"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと一度はぶち上げながら、ではそのような学校づくりはどうしたらできるのかは最後の最後まで口を閉ざしたままで講演を終えることのできる面の皮の厚さに繋がっているのだろう。

 ここからは教育評論家という姿は見えてこない。役人かケチ臭い地方政治家の姿しか見えてこない。結局のところいい顔を振り撒いただけの講演、八方美人を演じただけで終えている。

 だが、「尾木ママ、尾木ママ」と持て囃されている。NHKの朝ドラのセリフを借りると、「はてな?」である。

 以上で尾木直樹の「こども基本法制定記念シンポジウム」講演を取り上げた当方の批判を終える。この正当性の判断は読者が負う。

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尾木直樹こども基本法講演:可能か否かの答なく"信頼に満ちた学校"を作れば、イジメは起きないの恥知らず

2024-08-11 10:15:51 | 教育
 「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性
 教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3.居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学
 校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自
 習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 「こども基本法制定記念シンポジウム」講演での尾木直樹の最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》の後半部分から最初にイジメについての解説を取り上げてみる。解説していることは今までに著作やマスメディアに対して述べてきたことの繰り返しで何の新味もないし、冒頭、「こども基本法」について述べた「子どもと大人の新しい関係性の第一歩」に立っているとの示唆がイジメ問題にどう作用し、どういった効果が期待できるのかのどのような文言も見当たらない。大体が「子どもと大人の新しい関係性」とはどういうものか、その意味付けもなしに終えている。詐欺の疑いが早くも臭い立つ。

 尾木直樹は最初に、「深刻化するいじめ問題を取り立てて取り上げるのは子どもたちの命の危機を孕んでいるのはいじめ問題だけだからだ」と解説。コロナ禍で学校が休校になったことでイジメ認知件数は約9万件減少しているが、逆に自宅からでもできるタブレットやスマホを用いた「誹謗中傷、嫌がらせ、あるいはそれが原因で命を落としたんじゃないかといういじめ、そんな深刻な状況が過去最多を更新しているという問題」、その上「読売新聞などの調査」を用いて自治体を通して学校が児童・生徒に配ったタブレットがイジメに利用されている問題を挙げて、今日の講演者はタブレットをどういうふうに使うかのリテラシーを学校で教える必要性に触れているが、尾木直樹自身もその必要性は認めるが、「そこがポイントではないんです。そこんところは一定程度教えますが、今大事なのはそんなことに左右されない信頼に満ちた学習とか、学年とか、学級、学校づくりができるかという、あくまでも生活の場として安心・安全かどうかということが土台にしっかりと息づいていれば、こういうタブレットを生徒全員に配っても、何ら問題は起きないというふうに思います」と、要は学級、学年を含めた"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと当たり前の仮説を堂々と述べている。

 当然、そういった学校づくりは可能か不可能かの問題へと進み、尾木直樹自身は「可能」の答を出さなければならない。「可能」の答を出すことができずに"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないなどといった仮説はいくら尾木直樹が恥知らずでも口にはできないだろう。

 現在のところ、多くの学校が信頼関係の構築を不可能としているから、イジメや暴力行為、暴走行為、窃盗、恐喝、不登校、ひきこもり、自傷行為、自殺等々の問題行動がなくならない状況にあるということであって、その状況とはやはり子どもを信頼して任せる"個人としての尊重"が教師と、あるいは両親と児童・生徒の両者関係に、あるいは児童・生徒同士の関係に機能していない状況を裏打ちしていることになる。

 となると、尾木直樹の言う「こども基本法」がその第一歩を秘めていると見ている「子どもと大人の新しい関係性」は子どもを信頼して任せる"個人としての尊重"に帰着すると思うが、前のブログで「こども基本法」の「基本理念 第3条」を別の形で取り上げているが、「第3条」は、〈こども施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない。〉と規定、その1項で、〈全てのこどもについて、個人として尊重され、その基本的人権が保障されるとともに、差別的取扱いを受けることがないようにすること。〉と謳い、その他5項目の権利の保障を謳っているが、確かに"個人としての尊重"を最初に掲げてはいるものの、この"尊重"を他の権利保障の基本に据えるとの指示を出しているわけでも、最重要の実施項目として掲げているわけでもないし、勿論、尾木直樹がこの"尊重"に最重要課題として着目しているわけでもない。目を向けさえしていない。

 だが、このような"尊重"が前のブログで述べたように、〈法律がどのように子どもの権利を認めようとも、子どもが個人として尊重される扱いを受けない限り、その他の如何なる権利も認められることなく子どもを素通りしていくことになる。〉ことから、子どもの諸権利を保障する基本とすべきを自明の理としなければならないはずで、こういった関係性の上に"信頼に満ちた学校"づくりを想定していることになるが、イジメを起こさない"信頼に満ちた学校"づくりと言うだけで、なかなか手の内を明かさない。八方美人だけで持たせている有名人だから、当然の道理なのかもしれない。

 尾木直樹は"信頼に満ちた学校"作りを述べる一方で、「『いじめ対策推進法』の28条というのがありますけれども、2の1項1号に該当する重大事態というのはですね、514件、重大事態のうち児童生徒の心身とか財産とか、重大な被害が生じた疑いのある件数が239件。それからいじめにより単純に不登校になった子が347件」だと、イジメの深刻な状況を重大事態の発生件数で伝えているが、この物言いは"信頼に満ちた学校"となっていないことの間接証言であって、"作りさえすれば"の自身の物言いを後回しにする矛盾を犯していることに気づきさえしない。

 "信頼に満ちた学校"づくりの方法論を先に持ってきて、こうすれば従来の深刻なイジメは影を潜めることになるだろうと述べるべきことを述べない矛盾である。あるいはそのように述べることに自らの責任を置くべきを置かない矛盾した責任感のなさである。

 だが、尾木直樹は自身が犯している矛盾にも責任感のなさにもサラサラ気づかずに文科省のデータでイジメ自殺した子どもは「小学校1人、中学生5人、高校生6人で、12人亡くなっているが、これは全くの実態を反映していない」とか、学校教師が「いじめの定義」を厳格に解釈できていない、学校・教師のいじめ対応の過ち、お座なりな人権解釈によって子どもたちが不登校やいじめに追いやられているなどと、"信頼に満ちた学校"づくりができたなら、多くがそれ相応に収まりが期待できるかもしれないことをムダに延々と述べている。

 尾木直樹は自身の著作の一つでイジメの定義に非常な拘りを見せているが、イジメの定義がイジメを防止するわけではない。人間関係の衝突が発生してから、それがイジメに当たるかどうかを認定する物差しの役目を担うに過ぎない。にも関わらず、"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと言いながら、それをイジメ未然防止の解決方法とすべく実現の具体的な方法論を提示するわけでもなく、イジメかどうかの判断基準を示しているだけのイジメの定義に異常な拘りを見せている。

 「これはですね、詳しくお話すると、いじめの定義が行われたのは1985年なんですよ。1985年の文科省の定義はですね、いじめられる子がどういういじめを受けたなら、いじめかと、認定するのは学校だと明記されている。

 1985年の文科省の定義が未だに殆どの学校を支配しているんです。文科省は2006年にすっかり定義を変えているんです。発生主義ではなくて、認知主義、認知したら、それはいじめとカウントしましょうということで、だから、たくさん件数が出れば出る程、それは子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しないんですね。本当に不思議です。

 認知主義と我々言いますけども、定義が、これまでは主語が加害者が、85年の定義では主語が加害者だったんです。ここが2006年の定義では被害者が主語になったんです。だから、被害者が辛いなと思ったり、嫌な目線を送ったなあとね、そう思えばもういじめですよというので、取り組んでくださいとか、それは誤解だったら、誤解でいいわけですから、子どもたちの被害というかなあ、そちらの側に立ったんですねえ。

 ところがですね、現場では、これ社会的にもそうですけど、いじめられる方にも問題があるとかね、子どもはいじめを通して成長していくんだとか、こんなことを言う学校の先生がいたり、いるんですね」――

 イジメの定義が加害者が何をしたのか、加害者を主語とするのではなく、被害者が何をされたのか、被害者を主語とすることに変わって、認知件数が増えることになり、このことは「子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しない」と批判しているが、認知件数は被害件数であると同時に加害件数でもあるのだから、被害側児童・生徒にとっては「密着している証拠」とはなり得ても、加害側児童・生徒にとってはいわば"密着していない"からこそ起こり得るイジメ行為ということでもあり、そのこと自体は学校にとって誇り得る点は何もないことになって、尾木直樹が言っていることは一面的事実に基づいた「素敵なこと」という評価に過ぎないことになるにも関わらず、オメデタイと言うか、本人は何も気づいていない。
 
 また、この加害側児童・生徒にイジメ行為に走らせてしまう"密着していない"状況は"信頼に満ちた学校"とは縁遠い状況――教師と一部児童・生徒間の信頼関係の不在を示していることになるし、と同時に「こども基本法」が「基本理念」として掲げている"個人としての尊重"が不満足な実施状況にあることをも提示していて、こども基本法制定記念シンポジウムにパネリストとして登場し、「こども基本法」が「子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタート」を約束していると見る以上、「新しい関係性」の具体図を提示するのが何よりの先決問題だが、その点をなおざりにして、「新しい関係性」が実現できたなら縮小に向かうかもしれない可能性の高い数々の問題に、これまたムダな拘りを見せて、自らの矛盾に気づかないでいられる。

 その最たるムダな拘りの幾つかを紹介する。何年か前にイジメの加害者として決めつけることが冤罪を発生させるとする「加害者冤罪論」が「弁護士の先生の間で物凄く広がったことがある」とか、イジメでということなのだろう、「亡くなった子の事件がある」が、その地域で「加害者を守る会が発足」したとか、「地元の方ばっか入った(イジメ)第三者委員会なんか機能するわけはないのに、平気でやっておられる」とか、さらに1989年11月20日第44回国連総会採択、1990年発効の「子どもの権利条約」(児童の権利に関する条約)は国連採択から「5年後に署名、158番目の締約国になった」とその遅れと4回に亘って勧告を受けていることを批判的口調を滲ませて解説している。

 「で、僕、この子どもの権利条約のこと、おっかけていたんですけども、何回勧告を貰っても、殆どメディアも、それから政府も、一番罪深いのはメディアだと思っています。メディアが報じないから、一般社会、市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです。で、ほぼ無視してきた28年間なんです。

 だから、ホント、僕は子どもたちに『ゴメンね』と大人を代表してお詫びしたいような気持ちです。ホントーによくぞ28年間、あのー、バカにしてきたなあというふうに思います。ですから、もう子どもの、子どもの権利条約に対する理解が進まない理由をちょっと掘り下げてみるとですね、子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にあるんじゃないかと」――

 全てが尾木直樹自身が感じ取っている事実を表面的に羅列しただけで、それ以上を出ない。大体が学校で子どもの権利を教えたとしても、大人に位置する教師がその権利を子どもがよりよい形で行使できる人間関係を児童・生徒との間に構築していなければ、教えただけで終わり、教えなかったことと結果は変わらないし、大体が子どもの権利条約を教える教えないは要点ではない。

 なぜなら、繰り返し言うことになるが、教師自身が子どもを一個の人格を有した個人と看做してその意志を尊重し、何をするについてもその意志に任せる"個人としての尊重"を示す姿勢から始めることを求められているはずで、次のことは既に触れているが、1947年(昭和22年)5月3日施行の日本国憲法が「第3章国民の権利及び義務 第13条 すべて国民は、個人として尊重される」と規定していながら、学校社会では子どもたちの多くが"個人としての尊重"から排除されていて、子どもの価値観を抑圧、学校教師の、あるいは大人の価値観を強制する権威主義が横行している。

 いわば日本国憲法が権利規定として取り上げている、諸権利の出発点とすべき肝心の"個人としての尊重"が多くの子どもに対して単なるスローガン化していて、大人たちは義務化を忘却、結果、「子どもの権利条約」の「第12条」で、〈1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。〉と定めていることの、〈自由に自己の意見を表明する権利〉とは"個人としての尊重"を受けた状況下で可能となる主体的権利であって(個人として尊重されていなければ、どのような権利を主張しても相手にされない)、その権利が〈自己の意見を形成する能力のある児童〉に限定されてはいるが、自己の意見を形成する年齢に達していないがために、あるいは自己の意見を形成する訓練を受けていないがために自己の意見を満足に形成できなくても、大人が子どもという存在をそれぞれに"個人として尊重"していたなら、どのような意見であっても、汲み取ろうとする姿勢を向けることになる。それが、〈児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。〉に相当する扱いであって、このような扱いも大人と児童間の信頼構築の礎となり、相互の信頼が児童側の責任感や自主性、主体性あるそれぞれの姿勢を育んでいくことになる。

 にも関わらず、1947年(昭和22年)5月施行の日本国憲法から1994年5月22日発効の「子どもの権利条約」を通って、2023年4月1日施行の「こども基本法」まで"個人としての尊重"をそのままの語句によるか、あるいは間接的な物言いで繰り返し謳わなければならないのはこのことが満足に機能してこなかったことの証明としかならない。

 こういったことをこそ問題とすることができずに子どもの権利条約について「メディアが報じないから、一般社会市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです」などと条約そのものについて、"伝わる・伝わらない"の問題に矮小化している。

 "個人としての尊重"を子どもに対して実践すべき必要性に気づかなければ、必要性に気づいていないからこそ、「ブラック校則」やイジメや体罰を延々と存在させているのだから、子どもの権利条約が子どもの権利をどう謳っていようとも、スローガンの域を出ないことになって、単にスローガンとして教え、児童・生徒もスローガンとして受け止めるだけで終える可能性が高いことに気づくべきだろう。

 前のブログで既に触れていることの繰り返しになるが、"子どもを信頼して何事も任せる個人としての尊重"の実践こそが法律が子どもに付与すべきと義務付けている諸権利を保障可能な状況に導く出発点となるという点に常に留意していたなら、「子どもの権利条約」にしても前々から言われていることの反復に過ぎないのだから、お浚いする程度に読めば済むはずである。

 子どもを"個人として尊重"できなければ、何も始まらない。子どもでなくても、大人であっても、一個の人格を有した個人として尊重されない間は権利ある主体として扱われることはない。尾木直樹はこの肝心な点に目を向けることができずに表面に現れている事実のみに目を向けて、子どもに権利について教えてこなかっただ何だと騒いでいる。

 「ブラック校則」やイジメや体罰は児童・生徒が"個人として尊重"されず、それぞれの権利を認められていないことからの教師間との信頼関係の不成立(意思疎通の困難性、あるいは断絶)を発生要因と見て、"個人としての尊重"を第一番に持ってこなければ、「いじめ防止対策推進法」を持ち出そうと、「こども基本法」を持ち出そうと、「子どもの権利条約」を持ち出そうと、子どもの権利状況は改善に向かうことはない。何十年もの間、改善しなかったことは以上のことに原因があるはずだ。

 要は大人が子どもを権利の主体として扱うことができるかどうかは、あるいは子どもの如何なる権利の保障も、子どもを一個の人格を有した"個人として尊重"できているかどうかが決め手となるということであって、「子どもの権利条約」に照らして子どもの権利状況の不備から国連から勧告を受けながら、マスコミが満足に報道しなかった、だから一般社会にも子どもたちにも伝わらない、大人を代表して子どもに「ゴメンね」とお詫びしたい気持ちだとさも子どもの味方であるかのように見せかけているが、八方美人の性格から出た綺麗事でしかない単なるポーズであって、「ゴメンね」で済むはずはなく、見当違いも甚だしい。

 例えば日本政府は「子どもの権利条約」に関して国連から女子高生サービス(JKビジネス)を含めた子どもの買春問題等で勧告を受けているとネットには出ているが、学校で常々教師から"個人として尊重"されていたなら、あるいは意見や考えを述べることと述べた意見や考えをそれ相応に"尊重"されていたなら、その信頼に対して学校価値観に反する行動に無考えに走ることになるだろうか。

 絶対走らないとは断言はできないかもしれないが、極力抑えることにはなるだろう。例えばJKビジネスが法の目を潜って行われる大人側の手っ取り早い儲け商売となっていて、それに便乗して小遣い稼ぎに走り、化粧品や洋服を買い求めてオシャレをしたりを日々の刺激的なエネルギーの発散とする、あるいはそれを個人的に行って同じく稼いだカネを小遣いにして日々の刺激的なエネルギーの発散とするのは学校で"個人として尊重"されていないことからの自身の必要性を、いわば自身の存在価値を安易に作り出してしまう現象でもあるだろうから、まずは学校社会内で"個人として尊重"することから始めて児童・生徒それぞれの必要性、存在価値を築いていく手助けをして、それ相当のエネルギーの発散へと導くべきだろう。

 ところが尾木直樹は肝心な点には目を向けることができずに、「子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にある」とかないとか肝心ではないことに尤もらしげに拘る。

 繰り返し言うことになるが、子どもを"個人として尊重する"ことで育まれる相互の信頼が子どもに責任感や主体性、自主性を身に付けていく流れを取ることは十分に期待できるのだから、「子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる」などといった見当違いそのものの世間の一部の取り沙汰を、見当違いだと一蹴することもできずに仰々しく取り上げる尾木直樹の常識は決して正常とは言い難い。

 尾木直樹はここでどのような理由があってのことか理解に苦しむが、自身が教師を辞めたことと子ども権利条約発効との関連、条約に関わる文科省事務次官通達、子ども権利条約の学校現場に於ける知名度、その他を細切れに紹介している。

 「僕が(現場を)辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」――

 要するに子ども権利条約発効を受けてNHKで番組が制作され、出演して「体罰は子どもの権利の侵害に当たる」とか何とか発言したものの、自身が勤めている学校で体罰が行われていて、足元の世界で体罰をやめさせることができないのに体罰はいけないとか何とか発言するのは矛盾しているのではないのかといった批判を受けたか、悩んだかして、体裁が悪くなって辞めざるを得なくなったと言えばまだしも聞こえはいいが、体罰の現場から逃げたということではないかと疑いたくなった。

 この予測が当たっているかどうか、ネットを検索してみた。

 《話の肖像画 教育評論家・尾木直樹(4)狭心症で退職、研究所を立ち上げる》(産経ニュース/2014/10/9 07:20)

 尾木直樹の談話である。〈最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、「子どもの権利条約」が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。

 ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が「恥を知れ」と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば「先生、保護者が怒っているから考えようよ」とか言えるんですが、それもない。外では「体罰は駄目だ」と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。〉―― 

 「最後に勤めていた学校でも」と断って体罰の横行を伝えている以上、勤めていたほかの学校でも体罰が行われていた。尾木直樹は普段は体罰は非人権行為・非人間行為と厳しく批判していて、マスメディアを通してそのような発信を盛んに行っているが、教師時代は体罰禁止の影響力は必ずしも持ち得ていなかったことを示すことになる。

 自分が最後に勤めた学校で丸刈りを強制する体罰が行われた。普通、自分の学校にマスメディアや世間に珍重される教育思想を抱える著名な教師がいれば、結束してその教師の思想を体現しようと努力するものだが、その影響力は日常的に平穏無事な間だけで、想定外の突発事態が発生すれば、脆くも崩れてしまう程度の影響力に過ぎなかったということなのだろう。

 但しサッカーの練習試合で小学生チームに負けたからと丸刈りにする体罰よりも、その体罰に対する尾木直樹自身の対応の方が遥かに悪質である。体罰の形は物理的には丸刈りだが、精神的な意味合いに於いては顧問の意志の強制に生徒自身が自らの意志を無条件に従属させたもので、この無条件な従属は生徒が主体性や自律心のカケラさえも備えていない下位者の権威主義性によって可能となる。

 カケラさえも備えていない、その従属性の強さによって強制的に丸刈りにされても、ニコニコとして一種の勲章とすることができる。いわば丸刈りにされたことに得意になることができた。主体性や自律心をカケラ程度でも備えていたなら、サッカーの練習試合で小学生チームに負けた上に丸刈りにされたのである、顧問の強制に異を唱えることができなければ、二重の悔しい思いをするはずで、ニコニコなどとてもできなかったろう。

 だが、尾木直樹は生徒の主体性や自律心の欠如に気づきもせず、当然、問題にすることもなかった。

 また体罰を行った顧問に対する注意は「保護者からクレーム」があるなしに関係せずに行うべきもので、それとも尾木直樹は学校内で教師の体罰を目撃した場合、「保護者からクレーム」を待ち、「クレーム」がなければ、体罰扱いから外すことを規準にしていたのだろうか。であるなら、児童・生徒が教師の体罰を保護者に訴えない限り、あるいは他の教師の目に触れもしなければ、体罰は暗々裏に大手を振って行われることになる。

 要するに尾木直樹はテレビでは偉そうな口を叩いているが、体罰を行った顧問に直接注意できない言い訳に「保護者からクレーム」のあるなしを持ち出したに過ぎない。尾木直樹にとって狭心症になったことは教師を辞める理由になって、役立ったに違いない。何も言わず、何も戦わなかったが、狭心症に助けられた。

 それでも著名な教育評論家としてやっていけるのは尾木直樹が抱えている八方美人の性格が助けとなっているからだろう。

 尾木直樹は体罰問題を次のテーマでも解説しているから、その際にこの問題を再度取り上げてみる。

 尾木直樹は以上話してきたことに時間を取られて最後は端折ることになったのか、とりとめもない解説となっていて、意味を明確に取ることができない。

 「事務次官の通達により、こういうふうに言われている。『本条約の発効により教育関係について特に法令等の改正の必要はない』。こう言ったんですね。で、学校に於いて児童生徒に権利及び義務を正しく理解させることは極めて重要だというので誤った権利と義務の撤去論というのが通知をされた。

 これは撤回は難しいから、融和的な新しい通知を出して頂かないと困りますという話なんです。それから致命的なのは子どもの権利条約第44条には条約報告義務というのが明記されている。これは日本の学校では子どもの権利条約について教えてこなかったので、これは明らかに条約違反です。

 その結果、子どもはイジメや虐待といった様々な人権侵害とか貧困や差別などの困難な中にいても声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない、こういう生き辛さを感じているんじゃないかと」――

 前半部分は意味不明だが、後半部分は「子どもの権利条約第44条には条約報告義務」があるものの、学校で教えていないから、児童・生徒は自分たちの権利状況を訴えることができない。いわば「声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない」ということであって、このような手続きを経ない報告に正当性はなく、条約違反だとしているだろう。

 だが、訴えることができたとしても、教師や保護者が児童・生徒に対して"個人としての尊重"を基本的姿勢とすることができなければ、国連からの是正勧告、日本政府の是正に務めますの繰り返しで推移するのは
目に見えている。

 その理由は子どもの権利擁護が一向に改善を見ないからこそ、条文の多くが重なる「こども基本法」を新たに設ける必要性が出たのであり、この必要性自体が条文のスローガン化を証明、この証明が是正に対する繰り返しの推移を予見させることになるからである。

 当然、基本のところではやはり子どもの権利は児童・生徒一人ひとりが"個人として尊重されている"か否か、"子どもを信頼して任せる個人としての尊重"に掛かっているはずで、そのこと自体が肝要なことであり、教えてこなかっただ、条約違反だはやはり見当違いの大上段の構えに過ぎないだろう。

 例えば「子どもの権利条約 第28条 2」は、「締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる」と規定しているが、国は「学校教育法」で体罰を禁止し、「いじめ防止対策推進法」でイジメを禁止し、いわば「児童の人間の尊厳に適合する方法」、あるいは措置を採っている。だが、体罰もイジメもなくならない。ごくごく直接的には国が関係している問題ではなく、学校現場や家庭現場が関係している問題、教師、あるいは保護者といった大人による法律の義務化の問題、あるいは法律が規定している子供の人権をどう考えるかに帰着する。

 また学校が「子どもの権利条約」に対応させて「児童の人間の尊厳に適合する」規律を文言を駆使してそれ相応の体裁を整えて採用したとしても、教師一人ひとりが児童・生徒一人ひとりに対して"個人として尊重する"態度・姿勢を取りうるかどうかで体罰やイジメの回避を可能とする信頼関係の構築が決まってくるのだから、条約を学校で教える教えないや規則で律するといったことは本質的問題とは言えない。

 だが、尾木直樹は本質的問題だと決め込んで、事務次官通達が何だかんだ、条約違反だ何だかんだと騒いでいる。当然、次の指摘も本質的問題とは言えない。

 「それからですね、困ったことに子ども権利条約について現職の教員の約3割が全く知らないと言っている。それから名前だけ知っている、約4人に1人。子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる。今度の遠足で違反がなければ、秋の運動会は自分たちで進めていいとかね、こんなのとんでもない間違いです。

 権利があって初めて義務が出てくるのであって、これは発達論から言って間違ってるんですね。これ、平気で言うんですね。大学の教育課程でセンター長をやってるんだけども、子ども権利条約は教えることになっていません。教育課程の一定の科目にもなっていないと」――

 尾木直樹は「子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる」は発達論から言って間違いで、「権利があって初めて義務が出てくる」と高らかに宣言しているが、ニワトリが先か卵が先かといった問題ではなく、権利と義務は一対の関係にある、あるいはコインの裏表の関係にあると見るべきで、権利を主張した場合、主張した権利に相当する義務が付随し、義務を果たす場合、果たした義務に相当する権利が生じる、そういう関係にあるはずである。

 つまり権利を主張する際は権利に付随する義務を念頭に置き、義務を果たす際は義務によって生じる権利
の正当・有効な利用を念頭に置く。後者の場合、国民は納税の義務があるが、納税したカネが正しく使われているかどうか、国家権力及び地方権力を監視し、物申す権利が生じる。

 どうも尾木直樹は自分は子どもの味方だと振る舞ってはいるが、味方を気取っているだけのことで、味方でも何でもない。

 以上、2回に亘って最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》を見てきた。尾木直樹が扱う教育現場にしても、子どもたちの実態にしても、表面的に掬い取って、表面的な解釈で終える新味は何もない解説となっていた。「こども基本法」がその効果を備えていると確実視していた、いわばびっくりするような「子どもと大人の新しい関係性」とはどのような内容のものなのかについても、どう作るのかについても、"信頼に満ちた学校"づくりについても、最初に持ってくるべき課題のはずだし、最初のテーマに一区切りがつくにも関わらず、期待を振りまくだけで、ここまでは一切語らずじまいで片付けている。

 こんな男が「大学の教育課程でセンター長をやってる」、と言うよりも、やっていられる。適材適所と思う人間が多数占めているからだろう。

 次回は次のテーマ、《「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 》に移るが、子どもと大人の新しい関係性を、さらには"信頼に満ちた学校"づくりをどう決着づけるのか、おいおい眺めていくことにするが、当方は尾木直樹の講演発言を既に最後まで読み通しているから、いわば体の良いハッタリで終えることを予め伝えておく。
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Kindle電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」発行案内

2024-05-19 13:51:50 | 教育
 「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
(学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)  

 目次例

  1.〈「可能性教育」〉
   「可能性」とは何か
   イジメも自身の可能性追求の活動である
   イジメ判定は相互補完性に基づいた可能性の追求となってい
   るかを問う
   プロレスごっこが相互に愉しみ合う遊びになっていなけれ
   ば、イジメとなる
   友情をキーワードとしてイジメているとは思わないイジメの
   横行の抑制
   学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認
   める
   全ての活動に自覚性を持たせる自己省察の習慣付け
   自己省察から他者省察へ
   可能性の追求自体が自身の居場所となる
   問い掛けの参考例

  2.〈厭なことは「やめて欲しい」から入る、言葉の訓練ともな
   るロールプレイ〉
   ロールプレイの目的
   ロールプレイのルール
   わざと靴の踵を踏むイジメ
   プロレスごっこ
   集団無視のイジメ
   部活動での仲間外れ
   言葉の暴力
   特徴を笑いの対象とするイジメ
   裸の写真を撮られ、lineグループに流される
   貧乏を笑い、イジメの対象とする
   集団暴力によるイジメ
   集団暴力と金銭恐喝のイジメ   
   カネ持ちの家の子に遊興費を支払わせるイジメ

  3.〈居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中
   学校改革〉
   児童・生徒の居場所と問題行動の関係
   一般コースと一教科専門コースの中学校改革
 
  4.〈主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の
   「自習時間」の導入〉
   目的
   レポートの提出と担任の役目

   著者略歴
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尾木直樹のイジメを防止法で「バシッと歯止め」をかけつつ学校作りの二刀流療法は教育放棄を詳しく解説

2024-04-30 05:02:04 | 教育
 【副題】《死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった主張をしながら、イジメを"法律によってバシッと歯止めをかける"の矛盾は底なしの無責任》

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)から最終章「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目を取り上げて、表題に示した矛盾を摘出したいと思う。

【お断り】書籍からの引用箇所は〈〉、「」カッコ付きとし、黒色太字と茶色太字は書籍のままとする。年号等の和数字は算用数字に変えた。引用箇所以外でも、〈〉、「」の記号は使うが、文脈から判断してほしい。)

 「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目に入る。
 「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!
 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です
 
 では、「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!

 次のように解説している。次々と不幸なイジメ自殺が相次ぎ、多くの子どもたちがイジメで苦しむ状況は一向に改善されていないことを考えると、イジメを堰き止めるための対策が緊急に求められている。2012年11月に国は「犯罪行為に相当するイジメについて警察への早期通報を徹底する」通知を全国の教育委員会、各都道府県知事などに出した。

 その内容はイジメに関係した「校内での傷害事件、暴行、強制わいせつ、恐喝、器物損壊」等々、刑罰法規に抵触する可能性がある事案は警察への早期連絡と連携、被害者の生命や身体の安全が脅かされた場合は直ちに警察に通報する。

 当然、通報を受けた警察は明らかに刑罰法規に抵触すると看做した案件については取調べ後に逮捕・検察送り(検察官送致)、その後家庭裁判所送致もありうることになり、結果として保護観察、試験観察以外に実刑に相当する少年院送致も否定できないことになる。だとすると、尾木直樹は「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の一項目で、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で、アメリカ・マサチューセッツ州での2010年1月の当時15歳女子高生イジメ自殺事件を例に挙げて、アメリカではイジメ行為が既存の刑法に該当する犯罪と看做された場合は、その刑法の規定に従った刑事罰に委ねられると解説していたが、この書籍出版(2013年2月)当時は何もアメリカに限った話ではないことになり、日本のイジメ対策の欠陥のように触れていたことは虚偽説明となり、尾木直樹の人格の疑わしさがなお浮き立つことになる。

 その上、ここでも八方美人的言説を弄している。〈本来であれば、きちんと解決できる学校や地域をつくり、警察はその後方支援をするという関係性が最も望ましいことです。が、現代のいじめは歯止めとして警察の介入が必要なほど、ひどい状況になっています。理想論では子どもたちの命を救えないところまできてしまっているのが事実です。〉――

 イジメに関わる学校に対する警察の最も望ましい関係性としている"後方支援態勢"だけでは問題が片付かない原因はイジメ対策に関わる学校や助言を撒き散らすだけの教育評論家たちのイジメに手をこまねくだけの無力にも原因の一端はあるはずで、単に「最も望ましいことです」で済ますのは無責任を棚に上げた物言いとなる。

 その最たる一人である尾木直樹の無責任は次の文言にも現れている。

 〈学校や教育委員会が機能不全に陥り、いじめ自殺をストップすることができずにいる状況では、子どもを守るための緊急措置が早急に必要です。警察との連携はそのひとつですが、私はもうひとつ、時限立法でよいから「いじめ防止法」を日本でも検討すべきだと考えています。〉――

 責任を学校や教育委員会に預け、尾木直樹は自身を責任の外に置いている。この無責任は「いじめ防止法」制定の主張にも現れている。

 前の項目、「子ども自身が中心になってこそ「いじめ」を駆逐できるのです」で、「『子どもの問題のスペシャリストは子ども』との観点に立つ」と題して、〈これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います。子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉と主張していたこと、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」の項目箇所で、死刑制度が犯罪抑止に役立っているわけではないこと、少年法の法の適用年齢を引き下げが必ずしも少年事件の抑制に効果を上げているわけではない等、法の規制に否定的考えを示していたこと、日本ではいわば重大事態に当たるイジメはアメリカでは刑法扱いとなっていて、上に挙げた2010年の女子高生イジメ自殺事件では少年の2人が懲役10年の刑を受けたが、泣いて後悔し、司法取引の末100日間の道路清掃のボランティアとなった事例をアメリカではイジメには刑事罰ではなく、教育罰だと牽強付会まで働かせて教育罰での問題解決を主張していたことと明らかに矛盾する展開であって、無責任なご都合主義を曝け出している。

 但し矛盾との整合性を取るために特大の釈明を持ってきている。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。今でも学校の教育活動、あるいは家庭教育や地域の教育力を高めていくことで、いじめをなくしてもらいたいという願いは変わりません。

 したがって、法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません。できることなら、先述したような、「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。けれども、学校という土台の修復メドが立たない以上、土台の立て直しを待って……などと悠長なことは言っていられなくなっています。

 法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていくといった、対症療法と根本治療の二刀流でいかなければ、もはやいじめの濁流を堰き止めることはできないでしょう。日本でも「いじめ防止法」を制定することは急務の課題です。〉――

 "法律によってバシッと歯止めをかける"とはまだ決めないうちの法律に100%全幅の信頼を置いている。尾木直樹だからこそできる芸当なのだろう。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、「法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません」と言いつつ、その"本望ではない"をかなぐり捨てて、法律制定への強い期待を見せている。その上、言っていることが一種の教育放棄となることに気づかないのだから、教育学者として最高ランクの八方美人に鎮座させなければならない。

 先ず指摘しなければならないことは法律が規定する対策が必ずしもイジメや犯罪を止めるわけではないことは次の理由による。何らかの欲望や感情に支配されて、その充足に関わる損得の、特に感情的な利害に絡め取られた場合、既に法律の規定に向けるべき理性の働きを失っている状態に自身を置いていることになり、充足できなかった際の"損"を排除、充足させる"得"を優先して欲望や感情の利害に決着をつけることになる。これが様々な法律が存在するにも関わらず、人間がイジメや犯罪を犯してしまうメカニズムとなっている。

 小中学生のイジメの場合、教師や保護者や尾木直樹が言う何らかの「いじめ防止法」や学校の規則を楯に「このように決めている、あのように決めている、イジメてはいけない」と言い諭そうが、理性自体が未熟な状態にあれば、未熟な分、欲望や感情はコントロール機能を失うことになり、その充足に向けた損得の利害に縛られた場合、善悪の理非よりも充足だけを考えて、そのための行動を取ってしまう。

 こういった行動のメカニズムが少年法が法の適用年齢を引き下げて事実上の厳罰化に向かっても、データ上で少年事件が少なくなっていないという尾木直樹が指摘している現実を見せることになっているのであって、尾木直樹はこのような理解がないままに少年法の無効力以外に死刑制度の犯罪抑制無効力や監視カメラの犯罪予防の無効力を口にする一方で、「いじめ防止法」の効力に期待をかけてその制定を望み、その矛盾に気づかないでいられる。

 法以前の問題としての欲望や感情の充足の損得の利害に流されない要件としての善悪の理非が判断できる理性の確立が必要であって、理性の確立は主体性の確立と深く関わっている。備えるに至った人格上の両要素は理性が主体性を支え、主体性が理性を伴走者とさせ、自立心(自律心)の育みを同時進行させる。これらの人格を特徴づける性向によって自己決定意識や責任意識、自他の省察能力を体することになり、これらの諸々の人格上の要素が個の確立へと向かわせ、個の確立が欲望や感情充足の損得の利害に流されない感情のコントロールを備えさせて、イジメの抑制効果へと行き着く。

 勿論、完璧な状態というのはあり得ないが、法律がイジメを止めるのではなく、あくまでも主体性や自立性(自律性)を伴った理性であり、そのような理性が感情のコントロールを機能させうるかどうかに掛かっている。もし法律がイジメを止めてくれるなら、それは法律が規定している罰則が自分に降りかかる影響への損得の打算が働くからであり、損得の打算をコントロールするのも、その本人なりの理性であって、ときにその理性による損得の打算よりも欲望や感情の充足に向けた利害が上回った場合は犯罪に走ってしまうことになる。

 「いじめ防止対策推進法 第23条いじめに対する措置6項」の、〈学校は、いじめが犯罪行為として取り扱われるべきものであると認めるときは所轄警察署と連携してこれに対処するものとし、当該学校に在籍する児童等の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるおそれがあるときは直ちに所轄警察署に通報し、適切に、援助を求めなければならない。〉の規定が生かされることになったとしても、警察がイジメ行為を刑法として扱うのはあくまでも既遂状態にある個別の案件に対してであって、未発生状態にあるイジメの歯止めではない。

 もし尾木直樹が逮捕されたイジメ加害者の受けた生半可ではない刑法上の懲罰を以って他の児童・生徒をしてイジメ行為の損得を打算させ、その打算によってイジメを怯ませる効果を狙った「法律によってバシッと歯止めをかける」だとしたら、これ以上の教育放棄はないだろう。恐怖心や恐れを植え付けて、他人を律する。尾木直樹自身が体罰派の教師の睨みを効かせて学校の秩序を維持する方法は恐怖から来る一時的な状態に過ぎないと反対していたことを率先して勧める矛盾を自ら犯すことになる。

 要するにどのような意味でも法律も警察も、イジメに「バシッと歯止めをかける」役目を担っているわけではない。その役目を担っているのは第一番に学校であって、尾木直樹がその役目を法律や警察に期待するだけで教育放棄となる。イジメが起きる一定の人間集団は学校の管理下にあるのであって、法律や警察の管理下にある訳ではない。この常識が尾木直樹には通じない。

 つまるところ、〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉云々にしても、〈「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。〉云々にしても実効性ある方法論を示すことができない綺麗事だから、法律とか警察とかに行き着く。

 この法律頼み、警察頼みは尾木直樹が現代のイジメは悪質で残酷だと言っていることと対応していることになるが、本音は「柔らかく、しなやかに」イジメのない学校づくりをすることだとはどこまで綺麗事を言えば済むのか計り知れない。

 これまでに、「根絶はできなくても、いじめを防ぐ、あるいは克服することはできるのです」、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」等々言ってきた全てを投げ打って、「いじめ防止法」に頼る、それしか手はないと教育学者の立場を恥知らずにも放棄した。

 尾木直樹はここで少し前の項目、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で取り上げたアメリカ・マサチューセッツ州(以下マ州と表現)「反いじめ法」を日本の「いじめ防止法」の制定に「私がひとつのモデルとして注目している」として再度取り上げている。ご都合主義者尾木直樹のお眼鏡に適ったのだから、効果が十分に見込める信頼に足るイジメ抑制の法律ということなのだろう。

 この「反いじめ法」が、「全米で最も包括的ないじめ対策法と言われており」としている評価は自分が全米全州の"反いじめ法"の類いに目を通したわけではなく、本人が信頼に足ると見ている他者の評価を参考にしてその法律を自身で目を通して確かめた上での"評価"ということになるが、「ひとつのモデルとして注目している」との物言いは多くの事例を確認した中での一つとして注目という意味を取り、矛盾した言い方となる。正直な人間なら、「マ州の『反いじめ法』は全米で最も包括的ないじめ対策法との評価を受けていて、目を通したところ、日本の『いじめ防止法』の制定の一つのモデルとなるように思える」という文脈で紹介することになるだろう。

 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく、さらに「教職員向けの研修」と「子ども向けの啓蒙活動」を両立させている点が特徴〉だとしている。以下、具体的内容を枠内に書き入れてみる。

 【いじめの法的定義】

 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返し行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

【「いじめ」と定義される具体的な行動】

■ 相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える
■ 相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる
■ 相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す
■ 相手生徒の学校内での権利を侵害する
■ 実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する

【特徴】
■ いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す
■ 教職員はいじめの予防と介入方法に関する研修を毎年受けなければならない
■ いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む  

 マ州「反いじめ法」は2010年5月3日制定時に併せて刑法も改正、特定のイジメ行為を各種迷惑行為の罪に該当させているとの解説がネットでなされている。尾木直樹自身も前のところでアメリカでは、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と述べているように「反いじめ法」には一定限度を超えた場合のイジメに対しては刑法の罰則の適用を背後に控えさせた防止機能を持たせていると同時にその効果もなく一定限度を超えたイジメに対しては直ちに刑法を適用する車の両輪の役を両法に担わせていることになる。

 もし学校側がイジメを抑えるために頻繁に次のような警告を発した場合、例えば一定限度以上のイジメを働いたなら、警察に逮捕され、法の裁きを受けることになる、進学にも就職にも影響するだろうと刑法が持つ強制力を利用する、それを警告の類いに位置づけていたとしても、威嚇の性格を持つことになる他律的な行動規制となり、教育の先に期待する自律的な行動規制とは異なる点で、一種の教育放棄となるだろう。

 こういった要素を頭に置いて尾木直樹のマ州「反いじめ法」に対する入れあげ状態を見てみることにする。
 
 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく〉と好印象の評価を与えているが、日本のイジメの定義との比較での指摘であるはずだが、どう細かいか並べて比較させる合理性は備えていないようだ。

 平成25年度(2013年度)からのイジメの定義。〈「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含れる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。〉――

 日本のイジメの定義も警察との連携を謳い、警察の対応次第で刑法扱いとなるケースも出てくることになるが、確かにアメリカ・マ州の「反いじめ法」は尾木直樹の紹介を見る限り丁寧で細かい。但しこの定義と定義が定める具体的行動に触れるかどうかは初期的にはイジメ被害者か教師や児童・生徒等の目撃者の判断によって判定されることになるが、問題はイジメ加害者が対人行動の際に自らの行動を定義とそれが示す具体的行動に抵触するか否かを前以って自覚できるかどうかにかかることになる点である。

 勿論、その自覚には学校側からこういったイジメを働いたなら刑法扱いとなり、自分の進路に悪影響を与えることになるだろうとの限りなく威嚇に近い警告を受けていることによって芽生えさせる自覚も入る。

 イジメを働いたあとにイジメ被害者か教師、他の児童・生徒といった第三者によってそれはイジメだと判定され、その行為をやめることになったとしても、その際に抵触の自覚にまで至っていなかったなら、再びイジメを働く可能性は否定できないし、自覚せずに似た行動を取る児童・生徒が新たに出てきた場合、イジメは繰り返し行われることになる。

 要するに自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを、特に自律的にであることが望ましいが、他律的にであっても自覚できる理性・感性の類いを備えていなければ、年々のイジメの継続を止めることもできないし、認知件数の減少も、少なくとも満足には望めないことになるから、本質的にはイジメの定義がどうのこうのという問題ではない。尾木直樹は「第1章 いじめの現状」でも文科省の当初のイジメの定義がイジメ被害者にウエイトを置き、イジメ加害者を問題視していないことを批判していたが、当方は、〈定義自体がイジメにブレーキを掛ける役目を担っているわけではない。あくまでも児童・生徒が定義を理解するかどうかにかかっている〉のだと、定義に拘ることを瑣末主義だと批判した。

 ところが、尾木直樹はマ州の「反いじめ法」の定義が丁寧で細かいだなどと今なお拘っている。児童・生徒が自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを自覚できる理性・感性の類いは自立心(自律心)や主体性の確立を基盤として自らの行動を省みることのできる自省心を育ませ、責任意識を持たせることが必須要件となるが、この点には目を向けることができずに尾木直樹の関心はイジメの定義から離れない。

 〈読んでいただいてわかるように、「いじめの定義」では、どれがいじめで、どれはいじめではないかという境界線が明確に設定されています。「これ以上の定義はない」と思うぐらい見事な内容です。その定義に基づいて、いじめが及ぼす影響にまで落し込み、いじめの有無の判断材料としているところも優れている点です。〉――

 「どれがいじめで、どれはいじめではないか」、いくら「境界線が明確に設定」されていようと、明確に理解できる者と理解できない者、理解できていても、感情の利害に流されて理解を失ってしまう者、様々に存在するのだから、「これ以上の定義はない」は何の価値があるわけでもない。要するに尾木直樹は定義にのみ目を向けて、その定義がよくできているかどうかを論じているに過ぎない。このことは次の文言に象徴的に現れている。〈五つの行動例のうち、特筆すべき項目が「相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる」です。「危害が及ぶ恐れ」を感じたら、それはもう「いじめ」である、違法であるとしている点は本当に画期的です。〉――

 そのような行為をされた児童・生徒はイジメだとすぐさま自覚できるだろう。問題はそのような行為をする側がイジメだと自覚しないままに行動することである。特に前者が後者を恐れて、誰にも訴えることができずに口を噤んでいたなら、そのような児童・生徒にとって定義などないに等しくなるし、傍観者も定義の外にいる存在ということになる。こういった点を何も考えることができない尾木直樹は幸せな教育学者である。世界一幸せな教育学者と言っていいのかもしれない。

 〈日本で起こっているいじめを照らし合わせてみたら、いじめ加害者の子たちは軒並み全員が法律違反であることは明白でしょう。〉――

 益もないことを言っている。いくらイジメの定義を教え込んだとしても自覚できる生徒、自覚できない生徒がいる。自覚できない生徒にとってイジメの定義は馬の耳に念仏にしかならない。尾木直樹はこの限界を乗り越えて、教育学者であるなら、「『これ以上の定義はない』と思うぐらい」を云々する前に多くの児童・生徒をして「法律違反」だと自覚させうる、分かりやすい言葉の発信を心がけるべきだろう。

 以下、言っていることを纏めてみる。「『いじめ』と定義される具体的な行動」のうち、「敵対的な学校環境を作り出す」、「学校内での権利の侵害」、「学校の秩序の妨害」の3点は教職員と子どもの両方に「いじめ」とは何か、いじめがあった場合はどうするかを正しく落し込んでいく内容となっている、いじめの存在に気づいた教職員は校長への報告義務があり、このように法律で謳われたら、日本の先生たちも「いじめ隠し」には走れなくなる、いじめの解決に向けて教職員は毎年研修を受けなくてはならず、子どもたちはカリキュラムの中でいじめについて学ぶ。いずれも日本では行われていない云々。

 どれも定義の解釈と効用であって、児童・生徒の自覚という点を抜かしている。いわば"定義全能主義"となっている。尾木直樹に定義全能主義者という尊称を奉ることができる。大体が、「このように法律で謳われたら、日本の先生たちも『いじめ隠し』には走れなくなります」と言っているが、一般的な法律が禁止事項を謳っているからと言って、禁止事項が全ての人間によって守られるわけではない。結果、法律は生き続ける。時代に合わなくなれば、改正される。

 イジメの定義も同じで、社会が定義を必要とし、その定義が生き続けるのは定義を守らずにイジメが相当頻度で繰り返し発生し、その中に無視できない重大事態を少なくない数で混じるからに他ならない。マ州はイジメに関わる法律の制定だけではなく、刑法をも改正してバックアップすることになった。尾木直樹は、「死刑制度があるからといって犯罪が減っているかといえば、減っていません」と法律の不完全性を言いながら、イジメの定義に関しては"定義全能主義"に陥る矛盾した無知を曝け出している。

 尾木直樹は定義の内容の素晴らしさだけではなく、学校側による定義の運用の結果として現れるイジメ発生件数の減少を具体的根拠として提示、その運用は定義が丁寧で細かいことが助けとなっているからだと証拠立てることができた場合にのみ、その先に定義に対する最大限の評価を持ってくることができるのだが、肝心のその途中段階を抜け落ちさせて、定義の素晴らしさだけを言い立てる失態を犯して、蛙の面に小便でいられる幸せを満喫している。

 果たしてマ州「反いじめ法」がその素晴らしい"定義"でイジメの発生件数を抑えることができているのか、その情報をネットで探してみた。上記法律の制定2010年5月から5年後の2015年の調査である。尾木直樹のこの書籍出版は2013年2月1日であることを改めて頭に置いておかなければならない。マ州「反いじめ法」がイジメ抑制に効果のある法律であるなら、年数経過と共にその効果は増大していくはずである。

 Microsoft EdgeのAI「Copilot」でマ州のイジメ発生件数の推移を検査してみたところ、2019年度の数値が出てきたから、日本の同年度の数値と比較してみる。

マ州        1000人あたりの件数
小学校  3,333件   6.2件
中学校  2,633件   8.4件
高等学校 1,292件   3.1件

《令和元年度(2019年度) 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について》(文科省)

 日本 認知件数 1000人あたりの件数   
小学校 484545件   75.8件
中校学 106524件   32.8件 
高等学校18352件    5.4件。

 確かにマ州の1000人あたりの件数から見たイジメ認知件数は少ない。だが、こういった統計を先に持ってきてから、このようにイジメが少ないのは「反いじめ法」の定義の効果だとする論理展開とすべきだが、そういう方法は採用せずに「反いじめ法」のイジメの定義にのみ最大賛辞を贈るだけの姿勢というのは論理的な実証精神を欠いているからこそできることだろう。

 だが、マ州のイジメ発生件数の少ないことが「反いじめ法」の背後に刑法を控えさせていること、いわばいじめ行為を刑法上の犯罪として位置付け、さらに刑法への適用が厳格であることがイジメ抑制に効果を上げているとしたら、教育力を用いた自律的なイジメの抑制から遠ざかることになり、刑法が持つ規制力利用の他律的なイジメの抑制と親密性を持つことになって、教育放棄というプロセスへと際限もなく足を踏み込んでいくことになる。

 尾木直樹が日本でも「いじめ防止法」の制定を急務の課題とし、「法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていく」等、様々に言っている趣旨からはマ州のイジメ発生件数の少なさが「反いじめ法」単独の力によってではなく、背後に控えさせている「刑法」の力に負うところが大きいことを窺わせることになる。

 理由はこれまでの尾木直樹の主張からも明らかなのだが、「反いじめ法」単独の力によるマ州のイジメ発生件数の少なさだったなら、尾木直樹の日本でも制定は急務の課題だとしている「いじめ防止法」を以下のところで刑法の罰則を背後に控えさせたアイディアとして明確に提示することはないだろうからである。教育学者としてバンザイしたということである。本人はこのような自覚は全然ない。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉は教育学者としての体裁を保つ綺麗事に過ぎないことになる。真の教育学者であるなら、教育力によって克服する方法論を創造する責任を負っているはずだが、その責任を役にも立たないイジメ未然防止論だか、イジメ克服論だかどっちつかずのご都合主義な綺麗事を並べただけで早々にバンザイした。

 マ州の「反いじめ法」が、この法律と連携・援護させるために刑法を同時に改正したことを取り上げずに「反いじめ法」が4カ月で立法化された、「アメリカならでは(?)の政治力」だなんだと「反いじめ法」のみの効力であるかのように宣伝しながら、〈法律によって、いじめ問題のすべてが解決するわけではありませんが、「いじめは犯罪行為であり、法律に違反すれば罰せられるよ」「法律ではこうしたことをすべていじめとして扱うよ」と明確なメッセージにすることで、「いじめは許されない。こんなことはやめよう」といった強力なアピールができます。〉と、刑法での罰則を頼みとする。まさに教育の放棄であり、教育者という立場からの刑法への依存に他ならない。「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」だとわざわざ1章を設けた理由がこの程度なのだから、尾木直樹の『「脱いじめ」論』は底が割れている。

 アメリカではイジメとされるシーンをテレビスポットで流し、「これはいじめです」と映像でも教育している。ここまでやらなければイジメはなくならない。「絶対に子どもたちをいじめから守るのだとのアメリカ国民の強い意思を感じます」と教育以外の方法でのイジメの抑止に期待を置く、この滑稽な逆説に教育評論家尾木直樹は死ぬまで気づかないだろう。

 そして日本のイジメ対策法の遅れを強調している。1986年の鹿川裕史君イジメ自殺から何10年経っているが、イジメ問題は全く放置されてきたといっても過言ではない。国としての対応のスピードの遅さもさることながら、「いじめとは何か、いじめがあったらどうするか」に関しての啓蒙教育すらきちんとできていない。「これは恥ずかしいことだと思います」

 長年の学校教育経験者として、イジメ問題を論ずる教育評論家として自分たちの無力を省みる自省心は
持ち合わせていない。そして結論。〈加害者の子どもたちを罰するためのものでなく、「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させるために、早急に日本でも「いじめ対策法」を実現させていかなくてはなりません。〉――

 マ州の「反いじめ法」は罰則規定はない。尾木直樹のこの書籍出版2013年2月から7ヶ月後の2013年6月28日に施行された日本の「いじめ防止対策推進法」にしても罰則規定はない。いわば、"加害者の子どもたちを罰するためのものでない"が、両者共に犯罪行為として取り扱うべき性質のイジメは警察署の取り扱いとし、取り扱いの結果、場合によっては刑法の罰則を当てる。

 このようなシステムとなっているのは、尾木直樹自身は「いじめ防止法」に〈「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させる〉効果を見ているが、現実問題として「いじめ防止法」のみでは認識定着は困難としていることからの「いじめ防止法」のバックに控えさせた刑法の強制力をイジメ抑止の次善の策として据えているということであって、尾木直樹が「いじめ防止法」が"イジメは禁止行為"の認識定着を目的としているかのようにさも見せかけているのは誤魔化し以外の何ものでもない。

 既に尾木直樹自身が、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と"イジメは禁止行為"の認識の定着を刑法頼みで指摘しているのである。そのことも忘れて、このようなの認識の定着を「いじめ防止法」が可能であるかのように装う。ご都合主義はどこまで行けば済むのか、底なしに見える。

 〈スピーディーな対応はアメリカだからできたのだなどという言い訳は通用しません。スピードの違いは危機感の違いなのです。人が、社会が、そして国が本気で子どもを守りたいと考えているか否かの違いです。その本気度を日本も示してほしいものです。〉――

 言っていることは立派過ぎる程に立派だが、刑法頼みが教育の放棄というステップを踏むことを教育学者であるにも関わらず一切気づかない言説の垂れ流しとなっている。イジメのなくならない現状と自身がイジメの未然防止論だか、イジメの克服論だかで論じているイジメの抑止の方法論との大きな食い違いに背に腹は代えられない気持ちにさせたのかもしれない。だが、刑法頼みは自身がこの書籍で書いている教育を用いたイジメの抑止を、あるいはイジメの克服を、尤も実現のための具体的な方法論は満足に書いていないのだが、全て無益なことに貶めることになる。

 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です

 尾木直樹は「いじめ対策法」の成立に時間を要するなら、全国全ての自治体で「いじめ防止条例」を制定すべきだと、あくまでも法的措置に下駄を預ける方向に熱心となっている。

 〈条例には罰則規定はありませんが、市民の意識を高め、学校の先生、保護者、子どもたちに向けて、お互いを思いやる心を大切にし、大人も子どももそのような生き方をしていこうというメッセージの発信としては大変に重要です。〉――

 教育でしなければならない市民意識の向上、相互共感能力(=お互いを思いやる心)の育みを「いじめ防止法」の制定までの間、自治体の条例に期待する。どこまで教育の放棄へと突き進もうとしているのか際限が知れない。結局は自身の教育評論家としての能力不足の裏返しでしかない。綺麗事、ご都合主義、矛盾だらけの『「脱いじめ」論』の当然の行き着くべくして行き着いた「いじめ防止法」任せ、条例任せといったところなのだろう。

 〈いじめへの認識が不足している今の日本には、条例によって 大人社会、そして子どもたち自身に「いじめ」についての認識と理解を高めていくことがとにかく必要とされています。〉――

 「いじめへの認識が不足」は第一番に学校の努力不足、教育力不足を挙げなければならないはずだが、挙げたら、教師や保護者向けに現実には役に立たない綺麗事のイジメ防止教育論しか垂れ流していないことに気づかれてしまう。

 この書籍の締めくくりとなる最後の言葉。
   
 〈2012年10月に公布された岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」は、子どもに特化した防止条例としては全国初のものです。内容も、ロマンのある高い理念を掲げ、さらに市・学校・保護者・地域に対する「責務」を明確に記し、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているという点で、条例作成のモデルとなるものです。  

 可児市の条例を参考に、温かく「人権・愛・ロマン」あふれる防止条例が速やかに全国に広がっていくことが早急の願いです。

 もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません。しかし、事態は急を要します。大人が総力を挙げて、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていかなくては、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになります。

 子どもたちをいじめから守るためにいかに行動を起こすか。社会全体でどう子どもを救っていくか。私たち大人たちには、今その覚悟が問われているのではないでしょうか。〉――

 岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」を「条例作成のモデル」として推薦しながら、「もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません」と逃げの手を打つ責任逃れの用意周到さは八方美人の面目躍如といったところである。

 可児市の「子どものいじめ防止条例」が「子どもに特化した防止条例としては全国初のもの」であろうが何だろうが、「ロマンのある高い理念」を掲げていようが掲げていまいが、「市・学校・保護者・地域に対する『責務』を明確に記し」ていようがいまいが、法律、条例を制定しただけ、あるいは存在させているだけでイジメのどのような制御弁となるわけではない。イジメを働く主体に位置する児童・生徒が自身の、特に対人関係行為・活動が有意義な可能性の追求となっているか、有害な可能性の追求となっているかどうかを自省できる理性・感性の類いを備えているかどうかに掛かっているのであって、尾木直樹大先生は決定的に思い違いをしている。

 ネットで可児市のイジメに関する情報を探してみた。条例自体は「ロマンのある高い理念」を掲げていようがいまいが意味のないことだから、要は条例がイジメの抑制にどれ程の効果を上げているかに尽きる。効果の程度を可児市の次の記事から見てみる。

 《令和3年度 可児市いじめ防止基本方針3つの指標について》

 小学校調査児童生徒数5141人、いじめ認知件数581人から1000人当たりを計算すると、113人となる。「調査児童生徒数」となっているが、長期欠席者や不登校児童を除いた全児童数ということでなければ性格な数字は出てこない。

 対して《令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要》(文科省/令和4年10月27日)から小学生のいじめ認知件数は500,562件、1000人当りは79.9人で、全国計算よりも1000人当りで33.1人も多いことになる。

 要するに可児市の「子どものいじめ防止条例」の制定当時は教師も児童・生徒もイジメ防止に意識を高く持つだろうから、多少なりとも効果を上げるだろうが、肝心なことは継続性である。実質的に効果が見込める条例なら、年々の効果の積み重ねによって現状では取るに足らないイジメ問題に帰していなければならないが、そうはなっていない現状しか浮かび上がってこない。
 
 尾木直樹のロマンのある高い理念を掲げているだ、責務の対象を明確にしているだ、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているだはイジメの抑止という点に関してはさしたる意味を持たないことになる。

 児童・生徒に対して条例の目的や定義を如何に理解させ、理解させた上で如何に自身の行為・活動に反映させるかが決め手となるのだから、教育の責任が全てと言っていい。尾木直樹が並べ立てている、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていく、そうしなければ、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになる、子どもたちをいじめから守るために如何に行動を起こすか、私たち大人たちには、今その覚悟が問われている云々の問いかけは如何にも喫緊の課題であるかのように見せかけてはいるが、イジメの本質的な解決策、どうすべきかから離れているゆえに巧みな言葉を用いた見せかけの危機意識に過ぎない。

 大体が尾木直樹のこの『「脱いじめ」論』自体が綺麗事、ご都合主義、矛盾で成り立たせた本質的なイジメ解決策とは的外れの論考に過ぎないのだから、尾木直樹自身の覚悟の無さこそが問われるべきだろう。

 この書籍出版が2013年2月。7ヶ月後の2013年6月28日に「いじめ防止対策推進法」施行。約8ヶ月後の2014年3月初版発行立憲民主党小西洋之の著作を紹介している小西洋之自身のネット記事、《いじめ防止対策推進法の解説と具体策》(2015年5月21日)にはかの著名な教育評論家尾木直樹の推薦の言葉を彼の上半身の写真付きで載せている。文飾は当方。

 〈教職員•保護者のための立法者による初の解説書
「本書は、子どもの命を救う法律に息を吹き込み、血を通わせる、いじめ対策のバイブルである」 教育評論家 尾木直樹氏推薦〉

 尾木直樹大先生は2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と見ていた。法律こそがイジメの未然防止、あるいはイジメの克服に役立つと位置づけていた。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、自身のこの著作にも見えるようにイジメ防止に関わる法律には全幅の効用と信頼を置いていた。

 このことの裏を返すと、自身の著作『「脱いじめ」論』には全幅の効用と信頼を置くことができていなかったことの暴露となる。大体が的外れの綺麗事を並べただけの言葉の羅列に過ぎないから、役立つはずはないのだが、教育学者の立場で、『「脱いじめ」論』を書きながら、イジメ防止の法律を頼みとする、これ程のペテンはないだろう。

 尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と最大限に評価しながら、いつ頃からか、盛んに法の改正を叫んでいる。例えば一例。

「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」(NHKクローズアップ現代+/2021年11月9日)

 2021年3月23日の旭川女子中学生イジメ凍死事件を受けて尾木直樹は「NHKクローズアップ現代+」の番組に出演、インタビューを受けている。イジメはイジメっ子が100%悪い、イジメをしなければ、イジメ被害者は出ない、出さないように「加害者指導」が必要、この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない、新たな被害を生まないための対策を盛り込んだ「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できることが理想だなどと発言している。

 「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」だと太鼓判を押しながら、そのような法律とはなっていない現実を突きつけられて、その改正に期待をかける法律頼みの姿勢は変えないままでいる。

 この法律頼みは法律そのものがイジメを止める力があるわけではないという事実に対する無知と法律どおりに行動できるかどうかは人間の理性・感性の類いが決め手となるという事実に対する無知、さらには法律どおりの行動への期待は一にも二にも啓発という名の教育を必要とするが、その放棄になるという事実に対する無知――尾木直樹は何重もの無知を犯しながら自らを教育学者として立脚させている。

 尾木直樹が「NHKクローズアップ現代+」で語ったようにイジメをしなければ、イジメ被害者は出ないは100%その通りの事実である。誰にも分かっていることだが、尾木直樹はたまには正しいことを言う。だが、同じく発言している「加害者指導」はイジメが起きる前ではなく、イジメ被害者本人がイジメられていることを訴え出るか、教師か他の児童・生徒の誰かが目撃して公になるか、進行中のイジメが学校側に認知されて、誰が加害者か判明するのを待ってから初めて「加害者指導」は可能となるのであって、当然、イジメ被害者は出ない、出さない段階での「加害者指導」は不可能であるにも関わらず不可能を可能であるかのように尤もらしい言説を垂れる。

 自身の論理矛盾に気づかずに、ハイ、優秀な教育評論家でございますといった顔で得々と喋るから始末に負えない。だが、"得々と"に多くの人間が騙される。天下のNHKでも騙される。

 「加害者指導」の力量を教育的に学校現場や教育委員会がつけたとしても、事後解決の力量を身につけるだけであって、イジメ被害者は出ない、出さないといったイジメ未然防止の力量とは異なる。この手の力量に関する考え方は尾木直樹の頭の中には存在しない。存在したなら、イジメ防止法に頼ることも、類似の条例に頼ることも、イジメ防止法の改正に頼ることもない。

 誰が加害者となるのか分からないのだから、「加害者指導」ではなく、全児童・生徒対象の「イジメ防止指導」でなければならないのだが、「加害者指導」などと尤もらしい呼称を掲げて自身の独自性をウリにする。最たる綺麗事に過ぎない。

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川勝知事新規採用職員訓示に日本の教育の反映を見る 日本最優秀の教育学者尾木直樹先生はそうは見なかった

2024-04-05 15:31:57 | 教育

 2024年4月1日、川勝静岡県知事が新人職員への訓示の中で職業差別とも捉えられかねない発言をしたとマスコミから一斉に批判を受けた。訓示自体が日本の教育を反映していると読んだが、川勝知事自身が日本の教育で育ち、日本の教育を血肉としているということであろう。2024年4月2日付け「asahi.com」記事が訓示全文を紹介しているから、必要な箇所だけ利用させて貰う。

《川勝知事の訓示全文 静岡県の新規採用職員へ「県庁はシンクタンク」》

静岡県の川勝平太知事(75)が1日に県庁であった新規採用職員に対する訓示で、特定の職業に携わる人などへの差別とも受け止められかねない発言をした。訓示の全文は以下の通り。(静岡県の公式チャンネルでも配信されています)

 静岡県知事の川勝平太でございます。この度、令和6年度4月1日をもって、静岡県庁の職員として、職員を選んで頂いて、ありがとうございました。

 静岡県庁の職員5800人ぐらいいるんですけれども、県庁の職員すべてを代表いたしまして心からご歓迎を申し上げたいと思います。難関だったんじゃないですか? そうでもないですか?

 聞くところによると県庁の職員になるには、かなり高度な試験をマスターしなくちゃいけないと。かつ、そのための準備もひとかたならぬものがあるという風に聞いております。こういう形でみなさま方、同期になられた数は233名であります。そして、きょう、この本庁に配属になった方たちが77名いらっしゃる。残りの156名の方たちは、きょう1日からそれぞれの出先機関で辞令を受けるなり、そして、いま研修を受けられているという風に承知しておりますが、ともあれ、本当は全員にお顔を見せていただき、また、お話をしたかったんですけれど、70何名の方だけとはいえ、こうした形でお目にかかれて大変うれしゅうございます。

 今年はご案内の通りですね、能登半島ですさまじい地震がございまして、まだ厳しい生活を受けられている方がたくさんいます。一番最初にですね、心得ておくべきことは危機管理です。静岡県はみなさま方、生まれるはるか前、1979年、昭和で言うと54年になるでしょうか、その頃にですね、東海地震説というのが唱えられまして、で、東海地震で確実に静岡県は被害を受けると、1979年のことでございましたが、それ以来ですね、毎年、危機管理のための防災訓練をしていました。

 そのうち東海地震だけで単発で起こるんではなくて、東南海地震と連動する可能性があると、いや南海地震と3連動する可能性もあるということにもなりまして、いまはですね、南海トラフの巨大地震、これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということですが、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレてですね、起こる地震ということで、この地震が仮に起こりますと、何もしなかった場合、30万人ぐらいの方たちが犠牲になると言われています。そのうち静岡県だけで10万人ぐらい犠牲になるという、そういう数値が2013年ぐらいに出ました。

 静岡県では、もうその時からそれをゼロにしようということで、現在は8割ぐらいの人が想定ですけれども助かる形になっておりまして、ただし、まだ全員が助かるというのは。ですから、能登半島の大きな地震というのは決してひとごとではありません。

 従って、いつ何時そういうことが起こるかもしれないと、私どもはパブリック・サーバント、公僕ですからまずは自分が元気でなくてはいけませんので、自己の危機管理を最優先にしつつ、同時に人を助けるということですから、人助けのために何をするべきか、それぞれの班なり、部局で何をするべきかということが共通認識になっておりますので、また抜き打ちの、場合によっては防災訓練が行われる可能性もあります。その時にですね、戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならないという風に思います。

 これが、まず静岡県の、県庁としてですね、360万人の人たちの生命と財産を預かっておりますので、これを守るという危機管理をしっかり胸の中にたたみ込んでですね、仕事してください。

 それからですね、公務員ですから、人の役に立つと、それから社会の役に立つということがとても大切です。なかなか自分でそういう気持ちを持っていてもですね、それが出来るものではありません。そのためにはですね、やはり「職員のみなさま方は立派だ」という風に尊敬されていくことがとても大切で、これからコンプライアンスといって、法令順守のこともいろいろ言うかもしれませんけれども、基本的にですね、公務員として身に私を構えないと、公務においては身に私を構えない、これも大切なことですね。それから、公の仕事をしていますから、心は素直でうそ偽りを言わないと、これもとても大切なことです。

 それからですね、ちょっと難しいかもしれませんけれども、上にへつらわない、下に威張らない、まあ、下がいませんね……。ですから、上にへつらわないと。そういう気持ちが出てきてもですね、逆に仮に威張る人がいたらですね、こういうような上司にはならないということで反面教師にしてください。上にへつらってはならない、下に威張らないと。

 で、言葉遣いはとても大切です。ですから「です・ます」調というのが基本になるようにしていただければと思います。上司の方々もですね、それを心がけていますけれども、やはり年齢が離れていたり、責任が違いますので、場合によっては口語調あるいはため口になるかもしれませんけれども、基本的に言葉遣いは礼儀正しくするということがとても大切です。

 それから何より、人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないと。人が困っている時にですね、助けるというのが我々の仕事です。ただ、それぞれ預かっている部局によって、これは自分の担当ではないということがあるかもしれません。だけど、静岡県庁に来られる人たちはですね、何か助けを求めて来る人、返事を求めて来る人がいますから、どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考えるということが大事ですね。そういう癖を持つと。これは先例がない、前例がないということではなくて、どうしたらこれを解決できるかというように考えると。やがてみなさんもこれから60過ぎくらいまでお仕事されるわけですけれども、様々な部署に行かれると思います。その時にどういう風にすると一番いいかなということをですね、仮にその決定権を持っていなくても考えるということが大切ですね。で、もし可能なら、その担当局の方に紹介して差し上げるということも、それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないということですね。

 それからですね、我々はふじのくに静岡県といいます。富士山、これは2013年6月22日に世界文化遺産になりました。信仰の対象、または芸術の源泉ということで、あの品格のある姿、その姿を自分の心の姿にしていただければと思いますね。富士山に向かって恥ずかしいことをしない。つまり自分、天知る、地知る、己は己のことを知っていますから、天知る、地知る、そして自らも知っているということで、そこに富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないということです。

 それからみなさん優秀ですから、なかなか物をわかってくれない人がいるかもしれない。その時にですね、情理を尽くすということが大切です。理屈ではわかっていても、腹にストンと落ちない場合があります。ですからハート・トゥ・ハートで、その心からこうすると本当に良いというように言って差し上げるとストンと落ちる場合がある。ですから情と理、情理を尽くして、自分が正しいと思う信念を貫くということが大切です。

 そしてですね、そのためにはですね、やっぱり勉強しなくちゃいけません。実は静岡県、県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。で、それは磨き方はいろいろあります。知性を磨くということ。それからですね、やっぱり感性を豊かにしなくちゃいけない、それから体がしっかりしてないといけませんね、ですから文武芸、三道鼎立(ていりつ)と。文武両道というのは良く聞くでしょう。しかしですね、美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい。

 ですから、自分の知性がこの人に及ばないなと思ってもですね、知性というものを大切にするということが大事ですね。そのためにはやっぱり勉強しなくちゃいけません。それから体を鍛えると。しかし、スポーツが苦手な人もいらっしゃるでしょう。でも、スポーツを楽しむことはできますね。見たり、楽しむこともできます。まあ、無芸大食の人もいるでしょう。しかし、芸術を愛することはできますから、文武芸、三道鼎立ということでですね、豊かな人間になっていただきたいと思います。

 人に情けをかける、もののあわれを知ると昔からそういう風に言われますけれども、人に情けをかけることはですね、情けは人のためならずという言葉がありまして、つまり人のために助けるんですけども、結果的には自分のためになっているということが多いんです。ですから、人に情けをかけるという、困っている人は助けるということを、こうしたことをやってください。(以下略)

 能登半島地震が起き、静岡県も南海トラフの巨大地震の発生が予測されている。これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということで、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレて起こる地震で…云々は静岡県庁の職員としては災害関連以外の部署に配属される予定でいたとしても、東日本大震災や今回の能登半島地震の例もあるから、前以って一般常識としていなければならない危機管理上の知識・情報であるはずだが、それを新入職員の訓示で改めて伝える。

 この過剰な世話焼き、過干渉は日本の学校教育で一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼く姿と通底している。日本の学校はこうすべきと教える対象者を一個の人格として扱うことができず、基本を教えて、あとは本人の判断に任せるということができていないために中高生に対しても"ああしなさい、こうしなさい"がなくならない。現在も残っている暗記教育にしても基本のところで"ああしなさい、こうしなさい"と一から十まで教える力学によって成り立たせている。

 こういった現象は個々の生徒を判断力を有する一個の人格と看做して、教えることを最小限に抑えて、あとは自分で考えて答を考えさせるという訓練を行ってきていないことから生じているのだろう。結果、教えるに時間がかかることになって、教師の長時間労働に繋がっている。

 家庭教育でも子どもをそれなりに判断能力を有する一個の人格と認めることはせず、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼き、入学一年のスタート地点から自分から考えさせて自分の行動を自ら決めさせる発想の元、一人前に持っていくという思想を欠いているために一から十まで教える過剰な世話焼きが延々と続き、社会人になっても、一個の人格としての扱いができず、"ああしなさい、こうしなさい"が入庁の訓示にまで続き、入庁後も各部署の上役から、"ああしなさい、こうしなさい"と指示を受けて、結果、指示の範囲内で効率を上げていく程度だから、目を見張る創造的な発展性や生産性の向上が望めないことになる。まさしく日本の教育課程で植え付けられた思考構造の反映を川勝知事が自ら演じている。

 災害発生の予測不可能性から、最優先とした自己の危機管理を対県民ということだろう、救援・救命や生活保全に備えて何をすべきか、各部署でのルールに則った「共通認識」で動き、防災訓練の場合は、〈戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならない〉云々と、自分の常識として備えていて自ら考えて行動しなければならないことを任せることのできる信頼性を持ち得ず、信頼性を持ち得るには何かが足りないのだろう、手を取り、足取りのように指示する。

 指示を受ける側も手取り、足取りの指示を当然のこととして抵抗もなく受け入れ、日常慣習化している。中には腹の中ではそんな指示を受けなくたって、常識じゃないか、分かってらあと反発しても、上に向かって悪しき慣習を改めさせる勇気はなく、表面的に従い続けるうちにそのこと自体が自身の慣習となっていく。

 公務員として人の役に立ち、社会の役に立つことは大切なことで、役に立つ基礎として県民に尊敬される対象となること、第一にコンプライアンス(法令順守)を先に持ってきて、身に私を構えないこと(「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」(出水市)には、「身に私(わたくし)を構(かま)へず」は、「自分よがりの考えをもたないこと」と現代語訳されているが、要するに私情(個人的な感情や利己的な心)を挟まないことということなのだろう、そういった姿勢が大切で、公務という性格上、「心は素直でうそ偽りを言わない」ことが肝要であると、一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と手取り、足取りの世話を焼く。

 さらに上にへつらわず、下に威張らずの態度の必要性を言い、下に威張る人がいたら、反面教師にしろと、表面をなぞるだけの指示も暗記教育の反映であろう。なぜなら、上司の部下に対する威張り、その行き過ぎたパワハラは諌める部下の不在の証明でもあり、その不在の証明は部下自体の従属性を纏う一方の姿の証明となるだけだが、当然、変えるべきは部下自体の従属性であるはずが、そうはせずに反面教師にするということは上司の威張りにじっと我慢する従属性はそのままにすることになるからだ。

 さらに常識として弁えていなければならないはずの言葉遣いを"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼かなければならない。大体が言葉遣いをあれこれと世話を焼かなければならないような、時と場合を弁えないままの人材の採用に判を押したこと、あるいは採用し続けること自体を問題としなければならないはずだが、方向違いにも言葉遣いに世話を焼く。親や教師の子どもに対する世話を焼くことと共通している。

 困難な状況に立たされて相談に来た来庁者に対しては粗末に扱うのではなく、親切に相談し、対応することと極々当たり前のことに世話を焼かなければならない。相談が自分の担当ではなくても、「どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考える」、先例・前例がなくても、あるいは自身に決定権がなくても、何か解決方法がないか模索する、担当違いなら、「その担当局の方に紹介して差し上げる」、〈それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。〉云々と常識としていなければならない姿勢、行動をあれこれ指示し、要求する。

 指示され、要求される側も世話を焼かれるのを子どもの頃からの当たり前の慣習としているから大人しく当たり前の様子で静聴する。

 あの品格のある富士山の姿を自分の心の姿にして、富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないようにして欲しいは自らの身はそれぞれに自らの方法で律する術を相当程度に学んでいなければならない年齢の人間にそれぞれの方法に任せることができずに富士山の姿を自分の心の姿にしろと一律にある種の強制となる世話を焼いていることになる。

 依頼事に納得のいかない来庁者に対しては優秀なみなさんは情理を尽くし、ハート・トゥ・ハートで自分が正しいと思う信念を貫きなさいと自ら学ぶべきこと、あるいは自ら学ばなければならないことをそれぞれに任せることができずに一つ一つ手ほどきする。こういったことも学校教育の慣習を受け継いだ過剰な世話焼きに入る。川勝知事はそういった学校社会の空気を吸って育った。学校教育の慣習を一般社会の慣習として受け継いでいるから、県知事にまで上り詰めても、その慣習が抜けきれずに、手取り足取りの世話焼きから抜け出ることができない。

 川勝知事は県庁をシンクタンク(研究機関)と称しているが、福祉、災害、教育等々、それぞれの在り方や政策の向上、住民利益の向上や公平性、政策執行の効率化といった役割に於いてシンクタンクの一面を担っていないわけではないが、ここまではいいとして、〈毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。〉は、勉強のできる子とスポーツのできる子はいい子で優秀な子という学校社会で通用させている価値観、いわば多様な可能性に対する差別をそのまま一般社会に引きずってきている、日本の学校教育の反映が如実に現れることになっている姿であろう。

 学校社会の悪しき慣習を一般社会にまで持ち込んだまま年齢を重ねても断ち切ることができない川勝知事も悪いが、もしこの発言が職業差別とも捉えられかねない発言であるとするなら、先ずは学校社会の多様な可能性をそれぞれに等しく認めていない可能性に関わる差別をなくすべきだろう。なぜなら、多くの日本人がホワイトカラーよりも肉体労働者を差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は学校社会での可能性に関わる差別の延長にある現象だからだ。

 勉強のできる子やスポーツのできる子が勉強のできない子やスポーツのできない子に持つ意識・無意識の優越感を解消し、可能な限り対等関係に持っていくためにはどのように学校の成績が悪い子どもであっても、何らかの可能性を見つけ出す手伝いをして、見つけ出した可能性を尊重し、伸ばしていくための助言を与えて、勉強のできる子が勉強を自らの居場所とし、スポーツのできる子がスポーツを自らの居場所としているように勉強のできない子であっても、自らが見つけた可能性の追求を自らの居場所とできて、学校生活を充実させて送ることができるようになれば、彼らが勉強やスポーツのできる子に持つ下位意識は自然と薄まり、彼らにとって勉強やスポーツのできる子が彼らに持つ上位意識は相対的に意味が薄れていくことになり、このこととの連動でこのような意識を優越的な立ち場で一般社会にそのまま引きずっている川勝現象も余程の例外を除いて消えていくことになって、世間的に肉体労働者をホワイトカラーよりも差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は少なからず是正されていくことになるだろうからである。

 学校教育での上下の物差しで計られることになる優劣の価値観が一般社会に於いても影響していて、牛の飼育で生活するのも、野菜を売ったりするのも、モノを作ったりするのも、一つの可能性であると同時にそれぞれがそれぞれの可能性への挑戦であることが蔑ろにされている。

 知性を磨け、感性を豊かにしろ、三道鼎立(ていりつ)(文(学問)、武(スポーツ)、芸(芸術)の3つが調和することだとネットに出ていた)だ等々、それぞれの自覚に任せるべきを任せることができずに口出ししてしまう。親や教師が子どもがすることなすことを任せることができずにあれやこれや口出ししてしまうように。

 「美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい」、「知性というものを大切にするということが大事だ」、「人に情けをかける」、「結果的にじぶんのためになる」等々、どこまで行っても、それぞれの判断に任せることができない。

 できていたなら、言うべきは次のようなことであるはずだ。

「みなさんがどう成長していくか、どのように成長した姿を見せるか、その成果はみなさんの自覚と努力次第でもたらされることになるが、年々の成長に具合を周囲に見せることになるし、自分自身も自分の年々の成長の具合を判定できる目を持たなければ、不足を補い、伸ばすべきは伸ばす点を弁えることもできなくなる」

 任せる信頼を寄せることが信頼関係の構築に重要なことのはずだが、世話を焼くばかりで、それができない。学校教育の悪しき慣習の反映に過ぎない。

 以下、「身に私を構えず、上にへつらわず、正直であること」も、「情理を知って、人に情けをかける」ことも、いわば「見返りを求める親切はいけない」ことも、世話を焼いてさせるよう仕向けることではなく、自ら学んでその必要性を自覚しなければできないことで、自覚が意志の形を取ったとき、誰に言われるまでもなく自分から進んで行うことのできる行動、働きかけとなる。

 相手が置かれた立ち場立ち場で"できる"という相手の可能性を信頼して、「あなたがたは年齢相応に応じた、あるいはそれ以上の可能性を備えているはずで、その可能性を既に備えてここに立っているはずだ。あなた方にとっては何を今さらといった指摘でしょうが、それぞれの可能性は自らの意志・判断に基づいて責任ある行動を心がけることのできる主体性と、他の助けや支配を受けずに自ら立ち、自ら行動できる自立心、同じく他の助けや支配を受けずに自ら立てた規律に従って自らの行動を律することのできる自律心の三つの行動特性を確固とした柱としているはずだから、どのような部署に配属されても、自ら学び、自ら行動する力を発揮することになるだろうし、他の部署に移動になったとしても、あるいは他の県に自然災害が発生して自然災害関連以外の部署からその県庁に災害関連の応援に駆けつけることになったとしても、その場に自身を置けば、その場の状況に応じて自身の可能性の柱としている主体性・自立心・自律心がその場の状況に応じて学びながら臨機応変に対処していく態度を随時発揮することができて、困ることはないだろう」

 相手の可能性と可能性が年齢相応に備えているはずの主体性・自立心・自律心に期待をかける訓示のみで相手を信頼していることになり、相手への信頼が相手の主体性・自立心・自律心をよりよく引き出す力となって、積極的な行動を促すことになる。

 当然、学校教育に於いても成績の優劣に関係なしに自分の可能性を見つけ出すことができていな子どもに何らかの可能性を見い出すことができるようにし、見つけ出した可能性を自ら発展させていく過程でその"自ら"という姿勢が主体性や自立心、自律心を育むキッカケとなり、育んでいくことになるだろうから、そうなれば、川勝現象は限りなく必要性を失い、姿を消していくことになる。

 当方は川勝静岡県知事の新規採用職員訓示をこのように読んだ。一方、日本の著名が教育学者は自身のブログで次のように読んでいる。

 《こりゃ〜即首ですよ!6月まで待てません!》((尾木ママ)オフィシャルブログ「オギ♡ブロ」Powered by Ameba/2024-04-02 19:11:25)

静岡県知事さんの『暴言』

桁はずれに酷すぎます

農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱するとはーー

更に

公務員をシンクタンクで持ち上げるとはーー

国家公務員、地方公務員問わず

国民・県民の為に働く『公僕』たれ

と訓示、期待を表明すべきところを

どうかしていますねーー

今すぐの辞職と詫びを期待したいです

みなさんはどうですか?

尾木ママ

久しぶりに怒りでいっぱいです

 要するに訓示を"農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱する、桁はずれに酷過ぎる『暴言』"とのみ読んで、頭に血を上らせた。

 読みの正当性は読者の判断を仰ぐしかない。

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尾木直樹イジメ撲滅の「愛とロマンの提言」/子どもの"居場所と出番"の必要性の方法論には黙する詐欺

2024-03-25 05:56:07 | 教育
 副題:中学校非義務教育化による一教科専門学校化が多様な可能性に応じた居場所としうる

 尾木直樹は2013年2月1日発売の自著『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』の「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」第6節で、「大きな理想を掲げていじめ解決に取り組んでいきましょう」と取り組み可能性を保証する元気一杯の掛け声で、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」を画像で提示。児童・生徒に対する「直接的アプローチ」と「間接的アプローチ」に分け、「直接的アプローチ」のテーマは「ほほえみを以って子どもを丸ごと愛する受容と寛容」、「間接的アプローチ」のテーマは「全分野への大胆な参画・子どもが主人公」とする「権利としての子ども参画」を高らかに謳い上げている。

 その実効性をゆめゆめ疑ってはならない。日本で有数の教育学者尾木直樹の頭脳が生み出した「本気でいじめをなくす」」と銘打った「愛とロマンの提言」である。

 「プログラム」の中の「直接的アプローチ」、「個人への対応」は「保護者への防止プリント配布」、「いじめっ子タイプへのケア」、「アトピーっ子へのケア」、「いじめられやすい子に自己肯定感を」の4項目を"いじめをなくすための愛とロマン"として取り挙げているが、「保護者への防止プリント配布」を除いた以下の3項目と、プログラム外で、「大切な視点」だと断っている、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」についてその妥当性に検討を加えたいと思う。

 特に「どの子にも居場所と出番」は最重要の課題であろう。学校社会で正当とされる"居場所と出番"をどの子も見つけることができたなら、イジメを"居場所と出番"とする必要はなくなる。当然、尾木直樹は「どの子にも居場所と出番」を最重要課題、"取扱注意"の札を貼り付けて取り組み、尾木直樹流の創造的な答を出さなければならない。

 では、最初の(個人への対応)の「いじめっ子タイプへのケア」について見てみる。いじめっ子タイプはどのようにして見つけるのだろうか。「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「今日のいじっ子は明日のいじめられっ子」で、次のように解説している。〈1980年代ぐらいのいじめでは、まだ「いじめる子どもたち」が見えやすい状況にありました。いじめをするのは大体が乱暴で勉強嫌い、そのため成績もあまりよくなくて、日頃の素行も悪いことから教師たちに目をつけられている不良タイプが多かったものです。〉――

 だが、現代のイジメは、〈いじめっ子といじめられっ子がわかりやすく記号化されていた時代と違い、教師や親からの信頼が厚い、しっかりとしたリーダータイプの子でさえ、いじめられっ子になり、いじめっ子にもなるのが現代版のいじめです。〉と特定困難性を強調している。但し現場教師だった頃の経験から、「いじめっ子10の特徴」を割り出して紹介している。それはイジメを働いた児童・生徒の性格や行動特性を分析して得たタイプ付けであって、「いじめっ子タイプへのケア」とはそのタイプに当てはまる子どもを選別してケアすることを意味しているはずで、イジメを働いたわけではなく、タイプだからと言って、イジメを働くとは決まっているわけではなく、あくまでもタイプと言うだけでケアする理由をどうように設けるのだろうか。「君はいじめっ子タイプだから、いつかはいじめを働くかもしれない。ケアする必要がある」とでも言うのだろうか。誰が考えても許されるはずもないケアの類いとなるはずだ。

 未遂でも既遂でもない、疑わしい行動を取っているわけでもない、タイプというだけで犯罪可能性の容疑をかけてケアするかしないかの選別をかけるのだから、人権侵害、人間差別となる恐れが生じるだけではなく、逆に反発を受けることになる危険性を招くことになる。

 但しクラスメートを常習的にからかったり、プロレスごっこでいつも技を仕掛ける子がいる場合、それは既にタイプであることを超えて、疑わしい行動を取っていることになり、声掛けという形でごくごく初期的なケアを心がける必要は出てくるが、相手が自分がしている行為を遊び感覚・ゲーム感覚でしていることと頑なに思い込んでいた場合、ケア自体を受け付けないケースが出てくる。尾木直樹自身もイジメているとは認識していない遊び感覚・ゲーム感覚のイジメの始末の悪さを訴えているのだが、こういった現実に存在するケースを一切考慮しないケア設定となっていることからも、有効性は著しく見い出し難い。

「君がしているプロレスごっこは君がいつも技を仕掛けているが、イジメになっていないか?」
「彼とは友だちで、普通に遊びでプロセスごっこをしているだけですよ。自分の方が力があるから、いつも勝つことになるけど、ときどきわざと負けてやって、バランスを取れということですか。わざと負けて、相手が勝ったことにするなんて、彼を馬鹿にすることにはならないですか?」
「彼は嫌がっていないか?」
「彼に聞いてみてください。もし嫌がっているようだったら、彼と遊ぶのはやめます。わざと負けることなんか、彼を馬鹿にすることだから、そんなことはできませんからね」

 「彼」に声掛けをしても、一緒に遊ぶのをやめるという言葉が自身にとって何をされるか分からないという恐怖となって、ある種の威しとなり、「別に嫌でもなんでもないですよ」と答えるケースも出てくる。

 「彼」が精神的と身体的苦痛を訴え出て、既遂状態であることを把握して初めて相手に対するそれ相応のケアは正当性を持つこととなり、人権侵害でも人間差別でもなくなるだけではなく、イジメっ子のイジメ被害者に対する人権侵害であり、人間差別であることを伝えることができるが、この場合はあくまでも「いじめっ子へのケア」ということで、ケアとして成り立つが、タイプというだけでは、誰に対してもケアは成り立たないはずだ。

 当然、こういった事態を避けるためにも、イジメっ子タイプだからとケアすることによって生じる人権侵害や人間差別を避けるためにも、特定の児童・生徒を対象とするのではなく、児童・生徒全員を対象とした主体性の確立、精神的な自立(自律)を先に持ってこなければ、イジメは簡単には抑えることはできないし、抑えることができたとしたとしても、個々の解決で終わり、イジメは繰り返されることになるだろう。

 多くの犯罪者の中から共通する性格を抜き出して犯罪者タイプを導き出すことはできても、犯罪者タイプだからと言って、犯罪予備軍と看做すことは人権上、優生思想に繋がりかねない問題が生じる。2015年から2022年までの間の犯罪に於ける再犯率は48~49%台でほぼ一定していると言うから、半数は更生していることになり、タイプは常にタイプであるとは限らないことを認識しなければならない。だが、尾木直樹は認識不可としている。

 尾木直樹自身、「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「これが『いじめをしているときの子どもの特徴』です」で、外見は圧倒的に普通で成績のよい子でも、イジメっ子になるし、人望があって信頼が厚いクラスのリーダーみたいな子が、裏に回ると大変なイジメの首謀者だったといったこともあり得ると警告していることは誰がイジメ加害者になるかはイジメが発覚してから分かることで、このことはタイプでイジメっ子を識別することの不可能性の指摘となり、「いじめっ子タイプへのケア」は人権侵害、人間差別という点でも成立させ得ないことを示す。

 当然、尾木直樹の「いじめっ子タイプへのケア」は無駄・無効と言うだけではなく、危険な上、小賢しいだけの発想としかならない。

 「アトピーつ子へのケア」はアトピー性皮膚疾患が顔等の見える場所に現れて、容姿を気にし、他人の目を意識するあまり、全てに臆病となって、引っ込み思案を招き、何事につけてもハキハキした態度を取れなくなる。そういっところを突け込まれてイジメを受けやすいことから、ケアが必要ということだろうが、アトピー性皮膚炎は皮膚のバリア機能の低下によって引き起こされ、ストレスが悪化の一因となる心身症に発展、心のケアは治療過程で行うとされている。学校ですべきことは、同じ「第3章 どんな子がいじめをするのか」で、「どんな事情があっても『いじめるほうが100%悪い』のです」と指摘しているのだから、クラス全員・全校生徒対象にアトピー性皮膚炎は伝染しない病気であること、完治までにときには何年とかかる治療困難な病だが、完全治癒するということを誰もが理解しなければならないと強く求めて、「もしアトピー性皮膚炎の児童・生徒が引っ込み思案でいるようなら、仲間に入れてやる、仲間に誘ってやるぐらいの強い意志を持たなければならない。強い意志を持てずに逆にからかったり、冷やかしたり、『キモっ』などと侮蔑の言葉を吐きかけたり差別するようなら、そういった差別をする児童・生徒の方こそが精神の病に罹っていると言える。最低限、そっとしておいてやるぐらいの思い遣りは持たなければならない。そっとしておいてやる思い遣りは無視することとは違うことぐらいは理解しているはずだ。そっとしておいてやる思い遣りはそれなりに相手を気遣う態度だが、無視は相手の存在自体を認めまいとする軽蔑や敵意が僅かでも混じっていて、相手の気持ちを傷つける態度で、この違いが分からないようでは理解力を疑われるだけではなく、人間としての育ちの点でも疑われることになるだろう」等の言葉かけを行って、周囲のイジメや差別を止めることを優先させるべきだろう。

 尾木直樹は「いじめっ子タイプ」や、「アトピーつ子」へのケア取り上げるよりはイジメそのもの、差別そのものを問題視すべき課題だとする留意点を忘却する、見当違いも甚だしい過ちを犯して平然としている。この程度の教育者でしかない。

 (個人への対応)の「直接的アプローチ」の最後に、「いじめられやすい子に自己肯定感を」と提唱している。「いじめられやすい子」と特定すること自体が尾木直樹は差別や人権侵害になると気づいていない。特にほかのところで、〈実際に起きたいじめ事件を丁寧に分析してみると、決して「弱い者」だけがいじめられているわけではない。〉と指摘している以上、「いじめられやすい子」は選別不可能となるはずだが、この不可能を忘れて、可能とするのはご都合主義以外の何ものでもない。

 既に書いていることだが、イジメもイジメる能力や才能に基づいた一つの活動であり、その活動に自身の可能性の追求を置き、追求の成果を自己活躍と看做し、自己活躍自体が自己実現の一つとなり、その自己実現を自己肯定感の根拠とする。自己肯定感に繋がる才能・能力の何らかの発揮は誰にとっても必要だが、その自己肯定感は自身にとって有意義であっても、学校社会に於いて誰にも有害とならない、多くの生徒に参考となる自己肯定感の保持でなければならないのであって、当然、こういった道理を全児童・生徒を対象に理解させなければならない。

 いわば、「いじめられやすい子」に限ったことではなく、誰にとっても他者に迷惑や有害とはならない、誰の目にも有意義と見える自己肯定感を持つことは必要であり、持てるように全員を指導していくのが学校教育の本筋であるはずだが、そういった大局に立った教育を通してイジメ加害者を出さないようにしていくことが重要だが、尾木直樹は「いじめられやすい子」を特定する差別や人権侵害まで犯して、そのような子に限定した自己肯定感を云々する姿勢はあまりにも局所的で、狭い視野しか見えてこない。

 主体性や自立性(自律性)といった資質を育むことの肝心要の必要性に何ら視点を置かない事柄を取り上げただけでも尾木直樹の「学校におけるいじめ防止実践プログラム」はイジメ防止の目論見としては欠陥製品だと断定せざるを得ないが、「いじめっ子タイプ」や「アトピーつ子」、「いじめられやすい子」に対して意識もできずに見せている差別観や人権侵害になるという点から見ても、有害な数々の提案であり、これが、「人権・愛・ロマン」だと言うから、悪臭フンプンとしたニセモノの教育論だとする評価がふさわしい。

 では、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」について尾木直樹が実現可能性あるどのような提言をしているのか見てみる。だが、〈またどの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現も大切な視点となります。「間接的アプローチ」 では、心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立がポイントとなります。厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境をいかに緩和できるかということも学校の取り組みとしては重要になります。〉(蛍光ペンは当方)と謳い、要求するのみで、「実現」に向けた具体策についての助言は何一つ示していない。

 ここでポイントとして挙げている、「心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立」も、「居場所と出番のある学級づくりの実現」と深く関わっていて、この実現によって手にするであろう積極的な生き方が活力ある精神的な安定性への獲得に向かい「心安らぐ学習・生活環境」を自分なりに工夫して確立することになるはずで、当然、「居場所と出番」云々を先に持ってこなければならない。

 このことだけではない、「居場所と出番」こそが児童・生徒それぞれの可能性追求の機会と場を保証し、そこから自分たちなりの生きる姿が導かれていくのだから、学校は目標としては一人残らずの児童・生徒に対して「居場所と出番」を用意できる体制の構築に向けて努力しなければならない重要事項に入るはずだが、このような認識を尾木直樹は僅かでも持つことができないでいる。

 「居場所と出番」を見い出せない象徴的現象が不登校であろう。尾木直樹の書籍出版前年の2012年度の文科省調査「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」によると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数676万4619人に対して2万1243人(0.31%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数355万2663人に対して9万1446 人(2.57%)と学年を追うごとに増えていて、因みに2022年度の調査を見ると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数619万6688人に対して10万5112人(0.8%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数324万5395人に対して19万3936人(6.0%)となっていて、少子化傾向であるにも関わらず10年間で小学生の不登校児童数は約8万4千人近く増加、中学生の不登校生徒数は約10万3千人近くに増えている。

 「居場所と出番」を見い出せない児童・生徒は不登校児童・生徒に限られているわけではなく、義務教育だからと学校の勉強についていけないままに惰性で学校に行き、惰性で授業を受けている児童・生徒、あるいは参加したい運動部活動、文化部活動もなく、単に学校に機械的に顔を出すだけの児童・生徒、自らの「居場所と出番」だと心得違いをしてイジメを働く児童・生徒等々を含めると、相当数存在することが推定できる。2012年当時を考えても、無視できない人数が存在していたはずだ。

 尾木直樹は「第5章」を「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」と大々的に名付け、その線上で「学校におけるいじめ防止実践プログラム」を実効性を前提としてであろう、掲げた以上、「居場所と出番」づくりの建設的で有意義な案を優秀な教育学者としての知恵をフルに絞って提供すべき責任を負っていることになるはずだが、何一つ助言も指導も行う気配すら見せていない。尾木直樹は1972年4月から高校教諭として教師生活を出発させ、学校教師を22年間、1994年から教育評論家としての活動をスタートさせている。この書籍出版の2013年初頭まで40年余、教育に携わってきた。「居場所と出番」はイジメ問題の克服にも役立つはずだから、何かしらひとかどの見識――一家言があって然るべきだが、黙して語らず。語るべきアイディアが頭にないから、何も喋れないのだろう。

 《こどもの居場所づくりに関する調査研究報告書》(内閣官房こども家庭庁設立準備室/2023年令和5年3月)は、〈社会的居場所とは、「自分自身がポジティブに活動でき、他者から存在や能力を認められ、評価してもらえる活動場所」を指す。〉と解説している。

 当方は「居場所」とは主体性をベースとして子ども自身が持つ何らかの能力・才能に基づいた有意義と思える可能性の追求によって自己実現を見い出すことのできる機会と場と解釈している。自分から進んで行う主体性を纏うことができていればいる程、自分にとっての「居場所」は確固とした有意義性を増す。

 「居場所」を見つけることができれば、「居場所」そのものが「出番」のチャンスを与える機会と場となる。

 「居場所」を見つけ得ない児童・生徒の存在の原因の一つは価値観の多様化を言いながら、学校社会が各教科の成績を主体に運動部活動、文化部活動の成績で色付けした限られた価値観で児童・生徒を評価、結果的に可能性の追求に応じたそれなりの自己実現の機会と場がこういった画一的な価値観が占拠することになった「居場所」となっていて、価値観の多様化を反映していないことが一部の価値観以外を排除する力学を働かせることになっているからだろう。

 当然、どのような価値観にも可能な限り対応できるようにする「居場所」の多様化・広範囲化を図らなければならないことになる。この方策として実は2008年11月18日「gooブログ」投稿の《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を‐『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の中で、価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるための学校改革を提案している。「居場所」の確保については直接触れていないが、間接的には触れている。

 この記事は私自身のHP『市民ひとりひとり』の第9弾《提案します『中学校構造改革』》(2006年10月2日)に書いた内容を参考にしたもので、中学校を非義務教育化し、同時に学区制を廃止、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採って、好きな教科を学ばせる無試験入学の"専門学校化"とすることを提案している。「自ら学ぶ」形式の選択は自ずと自立性(自律性)と主体性を必須要件とすることとなり、そのような態度の育みへと向かう。

 但し一教科を選択後、自身が学びたいこととの違いが気づいた場合は、自己責任に於いて他教科への中途転籍を許すこととする。中学校を例え非義務教育化しても、最低限高卒の学歴は獲得したい一般的な学歴主義から、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、中学校を非義務教育化しても、中学校へ進むだろうと予想されること。この記事には書かなかったが、非義務教育化しても、国が授業料その他を現在通りに負担すべきだろう。

 学区制を廃止するのは一教科選択の生徒数がクラスを編成するには少人数過ぎる場合は近隣の中学校の同じ教科の生徒との合同の学級を組むためである。それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とする。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で仕切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。

 例えば一教科選択の例としてマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のためにマンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。好きな教科の選択が児童・生徒の価値観の多様化に応じる体制とすることができ、結果的に「居場所」の確保に繋げることができる。

 自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。

 譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となる。いわば自己選択した一教科を学問への昇華へと持っていく。

 具体的にはマンガ科に於いてもただ単にマンガのストーリー作りと絵の描き方を学ぶだけではなく、世界各国のマンガの歴史についてとその伝統、現代のマンガ状況、それぞれの国における外国のマンガの影響、マンガ表現に現れたそれぞれの民族性、あるいは国民性、文化、さらにマンガに関する数々の評論について学ぶ。それはマンガ科に限ったことではない、人間や社会を知るプロセスとする。人間を知り、社会を知り、それぞれの営みを知ることで、生徒はそれぞれに世界を広げていく。

 このことは土いじりが好きな生徒の陶芸科に於いても準拠するプロセスとする。各国の陶芸について学び、その歴史について学ぶ。日本各地の陶芸について学ぶ。記事では触れなかったが、勿論、中間試験、期末試験等の試験は行う。出題の素材は無限と言えるだろう。

 以上、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性の中学校非義務教育化の"専門学校化"によって、価値観の多様化に応じた「居場所」の確保について大体纏めてみたが、中学校の非義務教育化が非現実的に過ぎるなら、義務教育のまま一教科選択性の"専門学校化"とすることも一つの手である。

 だが、学校社会は「価値観の多様化」を言いながら、その多様化に応えて、一部の児童・生徒以外に対してはそれぞれに相応しい「居場所」を提供できず、不登校やイジメ、無気力、その他の問題行動を抑えることができないでいる。

 尾木直樹はイジメ対策として「居場所と出番」づくり以外に「厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境」の緩和、「子どもたちがこれまでの自分とは異なる一歩前進した『新しい自分づくり』に挑戦できる」サポート体制の構築等々の必要性を挙げているが、これらの必要性はそれぞれの児童・生徒のそれぞれの「居場所と出番」を用意できる体制を前以って整えておかなければ、満足な解決は期待できないはずだ。

 にも関わらず尾木直樹は、〈理念に基づいた確たる構想抜きにしては、学校からいじめを吹き飛ばすことなど叶いません〉と、「構想」だけでイジメを吹き飛ばすことができるかのような言説を弄して得意になっている。この点だけでその悪質性の程度は小さいとは言えないが、「構想」の必要性だけを口にしてその実現は学校現場への丸投げとなっているのだから、綺麗事を口にしているだけの無責任は底が知れない。

 綺麗事に過ぎない「」は必要ない。それぞれの児童・生徒が自分で見つけるか、父母や教師の手助けを得て見つけるかした、自らが得意とすることのできる何らかの才能・能力を自身の可能性追求の素材として何らかの有意義な自己実現を目指すことのできる「居場所と出番」を学校社会に用意する具体的な計画と実行こそが求められている。

 義務教育のままであっても、非義務教育化であっても、学区制を廃止する「自ら学ぶ」形式の一教科選択性採用の児童・生徒の多様な価値観に対応させる中学校の"専門学校化"は決して非現実的な提案ではない。このことは大学の「一芸入試」が十分に証明してくれる。自己選択によって一つの教科を学問としてそれなりに極めることができれば、手にする知識・教養はほぼ暗記教育で成り立っている従来の教科教育で手にする知識・教養よりも遥かに柔軟性に満ちた生きる力を与えてくれることになるだろう。

 何らかの才能・能力を試行錯誤する可能性の追求を自己選択を通して何らかの有意義な自己実現へと持っていく。この一連の試みを自らの「居場所と出番」とする。有意義な活動に向けた自己選択は自ずと主体性を育み高め、自立性(自律性)の確立を伴い、自己責任意識を確固としたものにしていき、自己実現のさらなる高みに向けた引き続いての可能性の追求を試みる方向に向かう。

 イジメという活動に基づいた可能性の追求など、取るに足らないちっぽけなものに見えてくるに違いない。

 尾木直樹は日本の教育にとって害以外の何ものでもない。
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(1)

2024-03-16 04:00:55 | 教育
  以下の記事は《八方美人尾木ママの"イジメ論"を斬るブログby手代木恕之》から転載したものです。

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)の「子ども自身が中心になってこそ『いじめ』を駆逐できるのです」から。

 ここでは「『いじめ』を駆逐」、いわばイジメの撲滅、イジメの消滅を謳っている。「発生は防げなくても、いじめは克服さえできればいいのです」の主張を忘れた二枚舌となっている。

 1997年に北欧に視察に行った。スウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」という話をした。スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっていて、どんなに善意からであっても大人の独断専行は許されていない。イジメ問題に対しても小学校でさえ子どもたち自身による取り組みが重視されているとの説明を受けた。

 この"視察"から尾木直樹は、〈「子どもの問題のスペシャリストは子ども」との観点に立つ。〉姿勢を、いわば教訓とするに至ったのだろう。ここまでの記述で尾木直樹が如何にどうしようもなく単細胞で、底の浅い解釈と発想しかできないことに気づかなければならない。理由は少しあとに述べる。
 
 この教訓が、「現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と早くも安請け合いでしかない確約を推定するに至っている。この推定も次の瞬間骨抜きにして、〈子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉とほぼ確約に近づけている。その方法論、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」の中でも取り上げているが、生徒会の中に「いじめ対策委員会」をつくり、〈「いじめをしない、させない、見逃さない」をスローガンに掲げた「三ない運動」を立ち上げていく。〉――

 そして最後は、〈こうした子ども自身の手による自主的な活動こそ、いじめをなくすための最善の方法かもしれません。〉と、ほぼ確約から「しれません」の推定に戻してしまっている。視察先のスウェーデンの子ども問題の専門家から「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と聞かされた話まで持ち出していながら、「最善の方法となるでしょう」と確約することもできず、「最善の方法かもしれません」では情けなさすぎると自分自身では気づかない。

 スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっている。意見を聞き、その意見を参考にすることを可能とするには意見聴取対象の子どもたちが主体性と自立性(あるいは自律性)をそれぞれの年齢相応に備えていることが条件となるはずだ。主体性も持たない、自立性(あるいは自律性)も欠いているでは、意見らしい意見を持つことはできないからだ。

 前のブログで尾木直樹が学校の主人公に子どもを据えることは、21世紀の学校づくりを展望したとき、国際的動向や子どもの権利条約の精神から考えても当然の観点で、歴史的な流れと言えると解説したのに対して、〈当方の考えでは子どもは学校の主人公足り得ない。教師と児童・生徒はあくまでも教える・教えられる関係にあるが、児童・生徒を一個一個の人格を有した個人と看做して、それぞれの主体性が幼稚な状況にあったとしても、その主体性を可能な限り尊重する関係を取らなければならない。教師のこのような可能な限りの主体性尊重の姿勢が児童・生徒の自立心(あるいは自律心)の育みに繋がり、自立心(あるいは自律心)の確立に向かう過程で児童・生徒の主体性はより確固とした姿を取っていく。〉と書いているが、尾木直樹はスウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と指摘した時点か、あるいは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞く慣習となっていることを聞かされた時点でスウェーデンの子どもたちは子ども問題のスペシャリストとして耐えうる、あるいは意見聴取に耐えうる主体性や自立性(あるいは自律性)を備えていることに気づかなければならなかった。気づかないから、"単細胞"で、底の浅い解釈と発想しかできないと書いた。

 主体性も欠いている、自立性(あるいは自律性)も欠いている子どもたちが「子ども問題のスペシャリスト」になり得ないし、子ども関係の法律に関する意見聴取の対象になりうるはずはない。このことを事実だと証明するためにネット上を探し、次の記事、《「主体性」を重視するスウェーデン教育》(日本私立大学協会/平成24年8月22日)に出会うことができた。

 次の一文がある、スウェーデンの〈教育制度で「主体性」が重視されていることだ。スウェーデンの教育の目標は、社会で経済的に自立して生きていける人を生み出すことであり、教育制度はそれを支えるものである。〉――

 記事を纏めてみると、先ず9年制一貫の小・中学校初等教育卒業後、中等教育として高校進学と成人教育プログラムへの進学(他の記事を調べたところ、就職を目指す一般教養も含む職業プログラムのことらしい)の二つの選択肢があり、高校では進学コースと就職コースに分かれていて、就職コースはホテル・レストランコース、保育士・教師コース等の17のプログラムが用意されている。一方高校に進学せずに成人教育プログラムを選択した場合でも、卒業後は就職以外にも大学進学も可能で、個人の選択(=自己決定)に任されている。就職したとしても、学び直しをしたくなって、大学入学を目指すのも個人の選択にかかることになる。

 さらに記事はスウェーデンの統計局実施の高校生意識調査を伝えていて、「卒業後3年以内に大学に行きたいか?」の設問に対して、「はい」は6割、「いいえ」が4割。大学進学猶予期間を4割が3年以上に置いているという。Google AIに聞くと、高卒後から大学進学までの間に、あるいは在学中、卒業から就職までの間に一般的にはということなのだろう、1年間の猶予期間(Gap Year)を置き、留学や旅行、インターンシップ、ボランティア等の社会体験活動を行うことがありますと、個人の選択として根付いている社会的慣習であることを紹介している。

 個人の選択という自己決定行為は主体性と深く関わり、主体的選択としての行動志向を育む。そして個人の選択としての主体性を持たせた自己決定行為は自己責任意識を自ずと芽生えさせ、自己責任意識を裏打ちとした自己決定行為という形を取ることになって、主体性をより確固とした資質とすることになる。

 次も記事が触れていないことだが、スウェーデンの教育理念が"主体性重視"であるなら、親が学校で植え付けられた"主体性重視"の態度を日常的に子どもに求めるようになるだろうし、日本の幼稚園・保育園に当たる、1歳半頃から預かる就学前学校でも、"主体性重視"の行動を求められ、ある年齢に達したなら、父母等の身近な存在から成長過程の節目節目で自己決定に基づいた個人の選択を求められることを実体験としても、社会的慣習となっているということも見聞きして成長していくことになれば、成長と共にハッキリとした意味、場面を取って体験を積み重ねていくこととなり、体験の積み重ねと共に自己決定に基づいた主体性を持った姿勢・行動が常態化していく。

 そして主体性が育まれるに伴って自立心(自律心)は芽生え育っていき、自立心(自律心)を獲得する程に主体性はより確かな姿勢となり、相互に影響し合って育んでいくことになると同時に主体性や自立心(自律心)はこれらとの関連で常について回る自己決定意識や自己責任意識を高めていき、これらの一連のサイクルの各要素は人生の各進路や日常生活の各場面で発揮することが求められて、あるいは自分から進んで発揮していき、自明の資質としていく。

 勿論、言葉通りに理想の姿を取るわけではないだろうが、"主体性重視"という目標を立てなければ、自分から進んで自立的、あるいは自律的に行動するという姿勢・行動も、その姿勢・行動に責任を持つ意識も自覚な育みに向かいにくくなり、このことに応じてこれらの姿勢・行動を自覚的に取る傾向も可能な限り全体的趨勢とすることは難しくなるなるはずである。

 とは言っても、スウェーデンでもイジメは存在していて、《OECD 生徒の学習到達度調査(PISA)2015年調査国際結果報告書『生徒のwell-being(生徒の「健やかさ・幸福度」)』(概要)》の解説によると、〈「いじめの被害経験」指標の平均値を見ると、日本の値は「-0.21」で、OECD平均の0.00よりも小さい。日本について指標を構成する各項目の割合を見みると、最も割合が多いのは、言語的ないじめの「からかわれた」である。次いで、物理的ないじめである「たたかれたり、押されたりした」、関係的ないじめである「意地の悪いうわさを流された」と続く。日本は「からかわれた」及び「たたかれたり、押されたりした」の2項目の割合についてOECD平均を上回り、「仲間外れにされた」「おどされた」「物を取られたり、壊されたりした」「意地の悪いうわさを流された」の4項目の割合がOECD平均を下回る。〉(文飾は当方)としているのに対してスウェーデンの「いじめの被害経験」指標は「-0.11」で日本の約半分となっている。この非常に少ないということ自体がスウェーデンの子どもたちの多くが主体性や自立心(自律心)を獲得するに至っていることの反映と見なければならない。

 視察期間(2015年9月9日〜9月14日)の『スウェーデン王国視察報告書』(YEC(若者エンパワメント委員会))によると、〈スウェーデンでは60、000人の子供と園児がいじめを受けており、これは各クラスに 1、2人がいじめを受けていることになる。〉と伝えている。

 対して尾木直樹書籍『「脱いじめ」論』2013年2月出版近辺の文科省調査2012年度の小学校の
イジメ認知件数は11万7384件で、1000人当たりでは17.4件となっているが、上記報告書では1000人当たりは出ていないから、分からないが、園児を混じえていながら6万人というのは日本の小学校のイジメ認知件数を1件1人としたとしても、約2倍近くの多さになる。1件2人としてほぼ近似値を取ることになるが、園児を差し引くと、日本の方の多さは変わらない。

 上記「報告書」には主体性や自立性(あるいは自律性)重視が如何に生かされているかを伝えている箇所がある。文飾は当方。

 〈政治との近さである。スウェーデンの若者には政治家と触れ合う場が日本と比べて圧倒的に多い。大人だけでなく若者自身が政治家と対面する場を積極的に作り出している。そして、政治家の中にも「若者がこれからの社会で一番長く生きるのだから、若者の意見を聴くことは当然である」と考え、積極的に若者を意思決定の場に参加させている。日本では、若者は知識がなく、未来を担う存在として彼らが社会の決定に参画することは敬遠されがちである。スウェーデンではこういった考えがあるからこそ、19歳や20歳で議員になる若者が当たり前にいる。〉――

 スウェーデンの選挙権も被選挙権も共に18歳だと言う。18歳であったとしても政治を任せるに足る主体性や自立性(あるいは自律性)を背景とした自己決定意識や自己責任意識を備えていると見られているということであろう。

 何度でも取り上げているが、尾木直樹自身が、〈子どもの発達の視点から見ると自立できていない子、もっとやさしく平らな言い方をすると"自分を持てていない子"というのが、「いじめているときのいじめっ子」の非常に大きな特徴〉と解説していることの裏を返すと、イジメの抑止には子どもたちの自立心(自律心)の獲得如何にかかっていることになるにも関わらず、『学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像』は勿論、その他の解説でも、獲得如何にかかっていることを思いつかないままに、あるいは抜かしたままに『「脱いじめ」論』を得々と展開している。自立心(自律心)は主体性の獲得と共に育まれていく。

 また前のところで、傍観者の存在は主体性や自立性(自律性)の欠如と深く関わっていることをあとで述べると書いたが、イジメの目撃者が主体性や自立性(自律性)を行動様式としていたなら、イジメ加害者が怖い存在であったとしても、友人の何人かに働きかけて自分たちから多数派を形成してイジメを止めるか、教師に訴えるかしてイジメをやめさせる行動に出るだろうし、少なくとも自らをいつまでも傍観者の位置に沈めることは避けるはずで、こういったこともスウェーデンのイジメが少ないことの理由と見ることもできる。

 要するにスウェーデンの子ども問題専門家の言葉はスウェーデン子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己決定意識や自己責任意識等の態度・姿勢をそれ相応に備えていることに信頼を置いた、「子どもは、子ども問題のスペシャリスト」の位置づけであり、子どもたち自身の意見を聞くというシステムであって、そのことに一切気づかず、考えずにスウェーデンの子どもたちと日本の子どもたちを同列に置き、同じ役割を機械的に課して、そこにスウェーデンの子どもたちと同様の効果を期待する安易さは底の浅い解釈と発想に基づいているとしか言いようがなく、"どうしようもない単細胞"とする以外の評価は下しようがない。

八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)に続く
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)

2024-03-16 03:58:30 | 教育
 大体が日本の子どもを子ども問題のスペシャリストと位置づけることの効果を、「これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と最大限に持ち上げているが、尾木直樹がこれまでに解説してきたイジメ解決の困難性を忘却の彼方に放り投げて180度転換させた、無責任過ぎる期待感となる。この無責任は尾木直樹を信用できない人間という評価に変えうる。

 日本の子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等をそれ相応に備えないままに、あるいはこれらの資質を育むことを頭に置かないままに「いじめ対策委員会」を立ち上げようと、「いじめをしない、させない、見逃さない」の「三ない運動」を展開しようと、学校が用意したお仕着せをそのまま纏う
他力本願の取り組みとなる可能性が高く、他力本願が与えることになる従属的対応のままに推移する恐れが生じる。この恐れは、イジメが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の欠如に端を発していることと考え併せた場合、イジメ認知件数の変わらない推移か、逆に増加傾向という姿となって現れたとしても、止むを得ないことになる。いわばイジメ認知件数と主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の資質の欠如の度合いはほぼ正比例の関係を取るということである。

 以上のことを頭に置いて、尾木直樹の以後の解説を眺めてみる。子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組んだとき、初めてイジメのない学級や学校の実現が可能となる。理由は学校の中にいじめがあることを一番よくわかっているのは子どもたちであることと、教師には発見できていなくても、子どもたちは身近にイジメがあることを知っているから…。

 子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組むには主体性や自立性(自律性)といった資質を積極的な行動要素としていなければならない。例え教師には発見できていなくて、子どもたちが身近にイジメがあることを知ることになったとしても、現実問題としてクラスの殆どを占める数で存在し続けているイジメ傍観者は教師より先に知るイジメの存在の把握を無効としている姿であって、同時に主体性や自立性(自律性)といった資質を行動要素として抱えていない姿を示していることになり、イジメ問題を自らの課題とさせることは難しく、学校側の指示に従う形の取り組みであった場合、言われたからするという積極性とは正反対の従属性や惰性に陥りやすく、その分、効果は減じることになり、尾木直樹のイジメのない学級や学校の実現が可能となるという約束は額面通りには受け取れなくなる。

 尾木直樹は引き続いて主体性や自立性(自律性)といった資質の必要性を頭に置くことができずに仲間の同調圧力(ピアプレッシャー)や自身が次はイジメのターゲットになる恐れや思春期のプライドからイジメを話したがらない傾向を考慮して、〈そこで仲間内の生徒会が「3ない運動」を立ち上げてくれたらどうでしょうか。〉と、主体性や自立性(自律性)といった資質を個々に育む方向には向かわずに、あろうことか逆の他力本願を勧めている。断るまでもなく、他力本願の姿勢・行動は主体性や自立性(自律性)といった資質を欠いていることから発する姿勢・行動である。

 だが、尾木直樹はこの他力本願のイジメ根絶の効果を高々と謳い上げている。

・スローガンとして打ち出されていれば、「ほら、3ないだよ。やめなよ」と言うことができる。
・「みんなで決めたこと」という錦の御旗があることで、全体の意志をバックに「3ないだから、いじめやめよう」と明るく堂々と言うことができる。
・元々どの子の中にも「いじめはよくない」、「人の心を傷つけることは恥ずかしい」という気持ちはあるのだが、一人声高に言い、前面に立つ勇気がなかなか持てないだけのこと。
・生徒会という子どもたちの自治の最高機関が「いじめない、させない、見逃さない」を謳い、校内のあちこちにスローガンを掲示してくれれば、俄然行動もしやすくなる。
・一人ひとりの心のうちにあった認識が、逆の同調圧力(ピアプレッシャー)として良い方向に作用し、周りにつられて「みんながいじめを追放したがっている。自分も行動していかなくては」と動き出す子も増えていく。
・それが全体の大きなうねりとなって行き渡れば、いじめの駆逐は夢ではない。――

 全てが自分から動くのではなく、他を頼り、他の動きを見て、自分が動く。周囲の形勢を見ることになり、形勢に応じて動くことになるから、例え「それが全体の大きなうねり」となったとしても、精々付和雷同を正体とすることになって、一時的か、その場限りか、その程度で、ホンモノのうねりとはなり得ない。主体性や自立性(自律性)の行動様式に従って自分たちから立ち上がるという形式を、それらを欠いているがゆえに取ることができないだろうからだ。 

 当然、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」という発案も、「子どもが中心」という熱い期待も、綺麗事の幻想に過ぎないことを暴露することになる。

 〈子どもが中心にならない「いじめ対策」は、形式的、表面的にいじめがなくなったように見えても、いじめの根を残したままになってしまいます。根っこを埋もれさせたままにしないため、極論をいえば、私は「子ども問題のスペシャリスト」である子どもたちに任せてしまうのがよいと思います。〉――

 子どもが中心のイジメ対策はイジメの根を残さない、教師指導のイジメ対策はイジメの根を残したままになる。それ程にも子どもを万能な存在と見ることができるのは尾木直樹の教育者としての人徳の深さなのだろう。子どもと言えども、感情の生き物である。その上、イジメ加害者にしても主体性や自立性(自律性)といった資質が成長途上であった場合、あるいは未成熟な状態にあった場合、そのような状況に応じて感情のコントロールも未成熟な状態にあると見なければならないから、これらの事情が障害となってイジメ被害者側との関係修復に素直に割り切ることができなければ、否でも根を残すケースも出てくる。出てこないという保証はどこにもない。

 要するに尾木直樹がここで解説している、子ども中心であればイジメの根を残さない解決策が可能という見方はイジメ解決側の事情からのみ見ていて、イジメ加害者側の利害を抜きにしているからである。教師指導でのイジメ解決であろうと、子ども中心のイジメ解決が可能であったとしても、現実問題として解決後、暫くは監視を続けなければならない事情はイジメ加害者側が感情の生き物として悪感情を再発させる恐れや可能性を予測しているからだろう。尾木直樹は教師を何十年、教育評論家も何十年とやってきて、実際にはイジメの何たるかを何も弁えていない無知蒙昧の輩のようだ。だから、何の根拠もなしに子ども中心のイジメ解決は根を残さないなどいうデタラメを言うことができる。

 イジメを抑制していくためにも、イジメ傍観者を少なくしていくためにも、既に述べているようにどのような能力・才能に基づいた、どういった活動に自らの可能性を置いて学校生活で望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、見い出しているのか、あるいは将来的な生活に向けてどういった活動で自らの可能性を試し、望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、機会あるごとに問いかけて、それぞれの行動を自己省察させる"可能性教育"を行う。

 自己省察は自ずと他者省察に向い、自他の省察能力を育み、この自他省察の自分という人間を考えさせて、他人という人間を考えさせる働き合いによって、「こうあるべきだ」、「こうあるべきではない」と考えるようになり、そのように考える働きが自分の意志や判断に基づいていて自覚的に行動する態度や性格を指す主体性を育む方向に進むと同時に自分の考えで自ら行動するという点で意味の重なる自立心と自律心を併せ育んでいく。主体性や自立心(自律心)が社会的な規範との兼ね合いで正しいことか正しくないかを判断させて、自己の価値観を正しい方向に形作っていき、それが良心という形を取って、例え突発的な感情に流されてイジメてしまったとしても、その行為に負けてしまうことなく、身に付けた諸々の行動要素によって感情のコントロールが働くこととなり、自己抑制の理性が機能するという道筋を取り、自分からイジメを止めることになるだろう。

 一方でイジメを許していることになる傍観者となることは倫理的に許すことのできない自己の価値観(=良心)との間に心理的なねじりを生み、そのねじりに人間の自然な感情によって後ろ暗さを感じることとなり、その後ろ暗さを主体性や自立心(自律心)によって備えることになる自己責任意識から解消すべく、知恵を働かす。働かせなければ、主体性や自立心(自律心)を自らの資質としたこと、姿勢・行動とした意味を失う。

 イジメの抑止についても、イジメの傍観者を減らしていくためにも、児童・生徒に責任ある行動を取らせるためにも主体性や自立心(自律心)の育みに視点を置いた教育が必要だが、尾木直樹にはこの視点は一切なく、イジメを「本気でなくす」だ、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」だと、役に立たない綺麗事を撒き散らしている。

 当然、子どもたちを「子ども問題のスペシャリスト」との位置づけを行う場合にしても、その資格は主体性や自立性(自律性)、自己決定意識、自己責任意識等々の資質のそれ相応の体現者であることを頭に置かなければならないが、尾木直樹はこういったことにも頭を置くことができないのだから、尾木直樹の「いじめ対策」に於ける"子どもスペシャリスト論"は幻想そのものの砂上の楼閣に過ぎない。現実問題としても、イジメ傍観者内には"正義派"が3人はいて、その3人を中心にイジメ加害者に対抗する多数派を形勢、イジメ問題を解決すべきという発案自体が当方が指摘したとおりに矛盾に満ちている上に主体性等々の資質の育みの重要性を忘却しているのだから、子ども自身にイジメ問題に立ち向かわせることはイジメ加害者側の勢力次第という当てにならない成り行きを示すことになるだろう。

 尾木直樹の最後の纏め。〈大人が躍起になっていじめを封じ込めるのでなく、子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼して、子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく方向にもっていくことだと思います。いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくことではないでしょうか。〉――

・子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼する
・子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく
・いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくこと

 尾木直樹は「子どもたちが主役」を何度か取り上げている。子どもたちを信頼する思い遣り、理解する優しさに満ちた姿は見て取れる。これだけ信頼され、深く理解されたなら、信頼と理解に応えることになるだろう。既に触れていることだが、信頼と理解に応えるには子どもたちがそこに存在するだけで可能となるわけではないことは尾木直樹も認識していなければならないが、そこに存在するだけで可能となるような言い回ししか窺うことができない。

 子どもたちが主体性や自立性(自律性)を年齢相応に育むまでに至らずに自己決定意識や自己責任意識を欠いていたなら、このことはイジメを目の前にしてもクラスの殆がイジメの傍観者に成り下がることが証明していることで、このような状況下で子どもたちを主役に位置づけ、尾木直樹が信頼と理解を寄せて期待する役割を十分にこなすことは不可能なのは目に見えている。

 結局のところ、1997年のスウェーデンの教育視察は深く理解できずにその上っ面だけを参考にして、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」だと自らの底の浅い解釈と発想を得意げに振り回したものの、役にも立たない見当違いを大真面目に演じているだけのことで、尾木直樹は教育評論家を名乗るピエロに過ぎない。だが、そのことに誰も気づかない。

 今回はここまで。

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