Kindle電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」発行案内

2024-05-19 13:51:50 | 教育
 「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
(学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)  

 目次例

  1.〈「可能性教育」〉
   「可能性」とは何か
   イジメも自身の可能性追求の活動である
   イジメ判定は相互補完性に基づいた可能性の追求となってい
   るかを問う
   プロレスごっこが相互に愉しみ合う遊びになっていなけれ
   ば、イジメとなる
   友情をキーワードとしてイジメているとは思わないイジメの
   横行の抑制
   学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認
   める
   全ての活動に自覚性を持たせる自己省察の習慣付け
   自己省察から他者省察へ
   可能性の追求自体が自身の居場所となる
   問い掛けの参考例

  2.〈厭なことは「やめて欲しい」から入る、言葉の訓練ともな
   るロールプレイ〉
   ロールプレイの目的
   ロールプレイのルール
   わざと靴の踵を踏むイジメ
   プロレスごっこ
   集団無視のイジメ
   部活動での仲間外れ
   言葉の暴力
   特徴を笑いの対象とするイジメ
   裸の写真を撮られ、lineグループに流される
   貧乏を笑い、イジメの対象とする
   集団暴力によるイジメ
   集団暴力と金銭恐喝のイジメ   
   カネ持ちの家の子に遊興費を支払わせるイジメ

  3.〈居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中
   学校改革〉
   児童・生徒の居場所と問題行動の関係
   一般コースと一教科専門コースの中学校改革
 
  4.〈主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の
   「自習時間」の導入〉
   目的
   レポートの提出と担任の役目

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尾木直樹のイジメを防止法で「バシッと歯止め」をかけつつ学校作りの二刀流療法は教育放棄を詳しく解説

2024-04-30 05:02:04 | 教育
 【副題】《死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった主張をしながら、イジメを"法律によってバシッと歯止めをかける"の矛盾は底なしの無責任》

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)から最終章「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目を取り上げて、表題に示した矛盾を摘出したいと思う。

【お断り】書籍からの引用箇所は〈〉、「」カッコ付きとし、黒色太字と茶色太字は書籍のままとする。年号等の和数字は算用数字に変えた。引用箇所以外でも、〈〉、「」の記号は使うが、文脈から判断してほしい。)

 「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目に入る。
 「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!
 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です
 
 では、「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!

 次のように解説している。次々と不幸なイジメ自殺が相次ぎ、多くの子どもたちがイジメで苦しむ状況は一向に改善されていないことを考えると、イジメを堰き止めるための対策が緊急に求められている。2012年11月に国は「犯罪行為に相当するイジメについて警察への早期通報を徹底する」通知を全国の教育委員会、各都道府県知事などに出した。

 その内容はイジメに関係した「校内での傷害事件、暴行、強制わいせつ、恐喝、器物損壊」等々、刑罰法規に抵触する可能性がある事案は警察への早期連絡と連携、被害者の生命や身体の安全が脅かされた場合は直ちに警察に通報する。

 当然、通報を受けた警察は明らかに刑罰法規に抵触すると看做した案件については取調べ後に逮捕・検察送り(検察官送致)、その後家庭裁判所送致もありうることになり、結果として保護観察、試験観察以外に実刑に相当する少年院送致も否定できないことになる。だとすると、尾木直樹は「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の一項目で、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で、アメリカ・マサチューセッツ州での2010年1月の当時15歳女子高生イジメ自殺事件を例に挙げて、アメリカではイジメ行為が既存の刑法に該当する犯罪と看做された場合は、その刑法の規定に従った刑事罰に委ねられると解説していたが、この書籍出版(2013年2月)当時は何もアメリカに限った話ではないことになり、日本のイジメ対策の欠陥のように触れていたことは虚偽説明となり、尾木直樹の人格の疑わしさがなお浮き立つことになる。

 その上、ここでも八方美人的言説を弄している。〈本来であれば、きちんと解決できる学校や地域をつくり、警察はその後方支援をするという関係性が最も望ましいことです。が、現代のいじめは歯止めとして警察の介入が必要なほど、ひどい状況になっています。理想論では子どもたちの命を救えないところまできてしまっているのが事実です。〉――

 イジメに関わる学校に対する警察の最も望ましい関係性としている"後方支援態勢"だけでは問題が片付かない原因はイジメ対策に関わる学校や助言を撒き散らすだけの教育評論家たちのイジメに手をこまねくだけの無力にも原因の一端はあるはずで、単に「最も望ましいことです」で済ますのは無責任を棚に上げた物言いとなる。

 その最たる一人である尾木直樹の無責任は次の文言にも現れている。

 〈学校や教育委員会が機能不全に陥り、いじめ自殺をストップすることができずにいる状況では、子どもを守るための緊急措置が早急に必要です。警察との連携はそのひとつですが、私はもうひとつ、時限立法でよいから「いじめ防止法」を日本でも検討すべきだと考えています。〉――

 責任を学校や教育委員会に預け、尾木直樹は自身を責任の外に置いている。この無責任は「いじめ防止法」制定の主張にも現れている。

 前の項目、「子ども自身が中心になってこそ「いじめ」を駆逐できるのです」で、「『子どもの問題のスペシャリストは子ども』との観点に立つ」と題して、〈これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います。子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉と主張していたこと、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」の項目箇所で、死刑制度が犯罪抑止に役立っているわけではないこと、少年法の法の適用年齢を引き下げが必ずしも少年事件の抑制に効果を上げているわけではない等、法の規制に否定的考えを示していたこと、日本ではいわば重大事態に当たるイジメはアメリカでは刑法扱いとなっていて、上に挙げた2010年の女子高生イジメ自殺事件では少年の2人が懲役10年の刑を受けたが、泣いて後悔し、司法取引の末100日間の道路清掃のボランティアとなった事例をアメリカではイジメには刑事罰ではなく、教育罰だと牽強付会まで働かせて教育罰での問題解決を主張していたことと明らかに矛盾する展開であって、無責任なご都合主義を曝け出している。

 但し矛盾との整合性を取るために特大の釈明を持ってきている。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。今でも学校の教育活動、あるいは家庭教育や地域の教育力を高めていくことで、いじめをなくしてもらいたいという願いは変わりません。

 したがって、法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません。できることなら、先述したような、「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。けれども、学校という土台の修復メドが立たない以上、土台の立て直しを待って……などと悠長なことは言っていられなくなっています。

 法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていくといった、対症療法と根本治療の二刀流でいかなければ、もはやいじめの濁流を堰き止めることはできないでしょう。日本でも「いじめ防止法」を制定することは急務の課題です。〉――

 "法律によってバシッと歯止めをかける"とはまだ決めないうちの法律に100%全幅の信頼を置いている。尾木直樹だからこそできる芸当なのだろう。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、「法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません」と言いつつ、その"本望ではない"をかなぐり捨てて、法律制定への強い期待を見せている。その上、言っていることが一種の教育放棄となることに気づかないのだから、教育学者として最高ランクの八方美人に鎮座させなければならない。

 先ず指摘しなければならないことは法律が規定する対策が必ずしもイジメや犯罪を止めるわけではないことは次の理由による。何らかの欲望や感情に支配されて、その充足に関わる損得の、特に感情的な利害に絡め取られた場合、既に法律の規定に向けるべき理性の働きを失っている状態に自身を置いていることになり、充足できなかった際の"損"を排除、充足させる"得"を優先して欲望や感情の利害に決着をつけることになる。これが様々な法律が存在するにも関わらず、人間がイジメや犯罪を犯してしまうメカニズムとなっている。

 小中学生のイジメの場合、教師や保護者や尾木直樹が言う何らかの「いじめ防止法」や学校の規則を楯に「このように決めている、あのように決めている、イジメてはいけない」と言い諭そうが、理性自体が未熟な状態にあれば、未熟な分、欲望や感情はコントロール機能を失うことになり、その充足に向けた損得の利害に縛られた場合、善悪の理非よりも充足だけを考えて、そのための行動を取ってしまう。

 こういった行動のメカニズムが少年法が法の適用年齢を引き下げて事実上の厳罰化に向かっても、データ上で少年事件が少なくなっていないという尾木直樹が指摘している現実を見せることになっているのであって、尾木直樹はこのような理解がないままに少年法の無効力以外に死刑制度の犯罪抑制無効力や監視カメラの犯罪予防の無効力を口にする一方で、「いじめ防止法」の効力に期待をかけてその制定を望み、その矛盾に気づかないでいられる。

 法以前の問題としての欲望や感情の充足の損得の利害に流されない要件としての善悪の理非が判断できる理性の確立が必要であって、理性の確立は主体性の確立と深く関わっている。備えるに至った人格上の両要素は理性が主体性を支え、主体性が理性を伴走者とさせ、自立心(自律心)の育みを同時進行させる。これらの人格を特徴づける性向によって自己決定意識や責任意識、自他の省察能力を体することになり、これらの諸々の人格上の要素が個の確立へと向かわせ、個の確立が欲望や感情充足の損得の利害に流されない感情のコントロールを備えさせて、イジメの抑制効果へと行き着く。

 勿論、完璧な状態というのはあり得ないが、法律がイジメを止めるのではなく、あくまでも主体性や自立性(自律性)を伴った理性であり、そのような理性が感情のコントロールを機能させうるかどうかに掛かっている。もし法律がイジメを止めてくれるなら、それは法律が規定している罰則が自分に降りかかる影響への損得の打算が働くからであり、損得の打算をコントロールするのも、その本人なりの理性であって、ときにその理性による損得の打算よりも欲望や感情の充足に向けた利害が上回った場合は犯罪に走ってしまうことになる。

 「いじめ防止対策推進法 第23条いじめに対する措置6項」の、〈学校は、いじめが犯罪行為として取り扱われるべきものであると認めるときは所轄警察署と連携してこれに対処するものとし、当該学校に在籍する児童等の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるおそれがあるときは直ちに所轄警察署に通報し、適切に、援助を求めなければならない。〉の規定が生かされることになったとしても、警察がイジメ行為を刑法として扱うのはあくまでも既遂状態にある個別の案件に対してであって、未発生状態にあるイジメの歯止めではない。

 もし尾木直樹が逮捕されたイジメ加害者の受けた生半可ではない刑法上の懲罰を以って他の児童・生徒をしてイジメ行為の損得を打算させ、その打算によってイジメを怯ませる効果を狙った「法律によってバシッと歯止めをかける」だとしたら、これ以上の教育放棄はないだろう。恐怖心や恐れを植え付けて、他人を律する。尾木直樹自身が体罰派の教師の睨みを効かせて学校の秩序を維持する方法は恐怖から来る一時的な状態に過ぎないと反対していたことを率先して勧める矛盾を自ら犯すことになる。

 要するにどのような意味でも法律も警察も、イジメに「バシッと歯止めをかける」役目を担っているわけではない。その役目を担っているのは第一番に学校であって、尾木直樹がその役目を法律や警察に期待するだけで教育放棄となる。イジメが起きる一定の人間集団は学校の管理下にあるのであって、法律や警察の管理下にある訳ではない。この常識が尾木直樹には通じない。

 つまるところ、〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉云々にしても、〈「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。〉云々にしても実効性ある方法論を示すことができない綺麗事だから、法律とか警察とかに行き着く。

 この法律頼み、警察頼みは尾木直樹が現代のイジメは悪質で残酷だと言っていることと対応していることになるが、本音は「柔らかく、しなやかに」イジメのない学校づくりをすることだとはどこまで綺麗事を言えば済むのか計り知れない。

 これまでに、「根絶はできなくても、いじめを防ぐ、あるいは克服することはできるのです」、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」等々言ってきた全てを投げ打って、「いじめ防止法」に頼る、それしか手はないと教育学者の立場を恥知らずにも放棄した。

 尾木直樹はここで少し前の項目、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で取り上げたアメリカ・マサチューセッツ州(以下マ州と表現)「反いじめ法」を日本の「いじめ防止法」の制定に「私がひとつのモデルとして注目している」として再度取り上げている。ご都合主義者尾木直樹のお眼鏡に適ったのだから、効果が十分に見込める信頼に足るイジメ抑制の法律ということなのだろう。

 この「反いじめ法」が、「全米で最も包括的ないじめ対策法と言われており」としている評価は自分が全米全州の"反いじめ法"の類いに目を通したわけではなく、本人が信頼に足ると見ている他者の評価を参考にしてその法律を自身で目を通して確かめた上での"評価"ということになるが、「ひとつのモデルとして注目している」との物言いは多くの事例を確認した中での一つとして注目という意味を取り、矛盾した言い方となる。正直な人間なら、「マ州の『反いじめ法』は全米で最も包括的ないじめ対策法との評価を受けていて、目を通したところ、日本の『いじめ防止法』の制定の一つのモデルとなるように思える」という文脈で紹介することになるだろう。

 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく、さらに「教職員向けの研修」と「子ども向けの啓蒙活動」を両立させている点が特徴〉だとしている。以下、具体的内容を枠内に書き入れてみる。

 【いじめの法的定義】

 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返し行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

【「いじめ」と定義される具体的な行動】

■ 相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える
■ 相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる
■ 相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す
■ 相手生徒の学校内での権利を侵害する
■ 実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する

【特徴】
■ いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す
■ 教職員はいじめの予防と介入方法に関する研修を毎年受けなければならない
■ いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む  

 マ州「反いじめ法」は2010年5月3日制定時に併せて刑法も改正、特定のイジメ行為を各種迷惑行為の罪に該当させているとの解説がネットでなされている。尾木直樹自身も前のところでアメリカでは、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と述べているように「反いじめ法」には一定限度を超えた場合のイジメに対しては刑法の罰則の適用を背後に控えさせた防止機能を持たせていると同時にその効果もなく一定限度を超えたイジメに対しては直ちに刑法を適用する車の両輪の役を両法に担わせていることになる。

 もし学校側がイジメを抑えるために頻繁に次のような警告を発した場合、例えば一定限度以上のイジメを働いたなら、警察に逮捕され、法の裁きを受けることになる、進学にも就職にも影響するだろうと刑法が持つ強制力を利用する、それを警告の類いに位置づけていたとしても、威嚇の性格を持つことになる他律的な行動規制となり、教育の先に期待する自律的な行動規制とは異なる点で、一種の教育放棄となるだろう。

 こういった要素を頭に置いて尾木直樹のマ州「反いじめ法」に対する入れあげ状態を見てみることにする。
 
 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく〉と好印象の評価を与えているが、日本のイジメの定義との比較での指摘であるはずだが、どう細かいか並べて比較させる合理性は備えていないようだ。

 平成25年度(2013年度)からのイジメの定義。〈「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含れる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。〉――

 日本のイジメの定義も警察との連携を謳い、警察の対応次第で刑法扱いとなるケースも出てくることになるが、確かにアメリカ・マ州の「反いじめ法」は尾木直樹の紹介を見る限り丁寧で細かい。但しこの定義と定義が定める具体的行動に触れるかどうかは初期的にはイジメ被害者か教師や児童・生徒等の目撃者の判断によって判定されることになるが、問題はイジメ加害者が対人行動の際に自らの行動を定義とそれが示す具体的行動に抵触するか否かを前以って自覚できるかどうかにかかることになる点である。

 勿論、その自覚には学校側からこういったイジメを働いたなら刑法扱いとなり、自分の進路に悪影響を与えることになるだろうとの限りなく威嚇に近い警告を受けていることによって芽生えさせる自覚も入る。

 イジメを働いたあとにイジメ被害者か教師、他の児童・生徒といった第三者によってそれはイジメだと判定され、その行為をやめることになったとしても、その際に抵触の自覚にまで至っていなかったなら、再びイジメを働く可能性は否定できないし、自覚せずに似た行動を取る児童・生徒が新たに出てきた場合、イジメは繰り返し行われることになる。

 要するに自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを、特に自律的にであることが望ましいが、他律的にであっても自覚できる理性・感性の類いを備えていなければ、年々のイジメの継続を止めることもできないし、認知件数の減少も、少なくとも満足には望めないことになるから、本質的にはイジメの定義がどうのこうのという問題ではない。尾木直樹は「第1章 いじめの現状」でも文科省の当初のイジメの定義がイジメ被害者にウエイトを置き、イジメ加害者を問題視していないことを批判していたが、当方は、〈定義自体がイジメにブレーキを掛ける役目を担っているわけではない。あくまでも児童・生徒が定義を理解するかどうかにかかっている〉のだと、定義に拘ることを瑣末主義だと批判した。

 ところが、尾木直樹はマ州の「反いじめ法」の定義が丁寧で細かいだなどと今なお拘っている。児童・生徒が自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを自覚できる理性・感性の類いは自立心(自律心)や主体性の確立を基盤として自らの行動を省みることのできる自省心を育ませ、責任意識を持たせることが必須要件となるが、この点には目を向けることができずに尾木直樹の関心はイジメの定義から離れない。

 〈読んでいただいてわかるように、「いじめの定義」では、どれがいじめで、どれはいじめではないかという境界線が明確に設定されています。「これ以上の定義はない」と思うぐらい見事な内容です。その定義に基づいて、いじめが及ぼす影響にまで落し込み、いじめの有無の判断材料としているところも優れている点です。〉――

 「どれがいじめで、どれはいじめではないか」、いくら「境界線が明確に設定」されていようと、明確に理解できる者と理解できない者、理解できていても、感情の利害に流されて理解を失ってしまう者、様々に存在するのだから、「これ以上の定義はない」は何の価値があるわけでもない。要するに尾木直樹は定義にのみ目を向けて、その定義がよくできているかどうかを論じているに過ぎない。このことは次の文言に象徴的に現れている。〈五つの行動例のうち、特筆すべき項目が「相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる」です。「危害が及ぶ恐れ」を感じたら、それはもう「いじめ」である、違法であるとしている点は本当に画期的です。〉――

 そのような行為をされた児童・生徒はイジメだとすぐさま自覚できるだろう。問題はそのような行為をする側がイジメだと自覚しないままに行動することである。特に前者が後者を恐れて、誰にも訴えることができずに口を噤んでいたなら、そのような児童・生徒にとって定義などないに等しくなるし、傍観者も定義の外にいる存在ということになる。こういった点を何も考えることができない尾木直樹は幸せな教育学者である。世界一幸せな教育学者と言っていいのかもしれない。

 〈日本で起こっているいじめを照らし合わせてみたら、いじめ加害者の子たちは軒並み全員が法律違反であることは明白でしょう。〉――

 益もないことを言っている。いくらイジメの定義を教え込んだとしても自覚できる生徒、自覚できない生徒がいる。自覚できない生徒にとってイジメの定義は馬の耳に念仏にしかならない。尾木直樹はこの限界を乗り越えて、教育学者であるなら、「『これ以上の定義はない』と思うぐらい」を云々する前に多くの児童・生徒をして「法律違反」だと自覚させうる、分かりやすい言葉の発信を心がけるべきだろう。

 以下、言っていることを纏めてみる。「『いじめ』と定義される具体的な行動」のうち、「敵対的な学校環境を作り出す」、「学校内での権利の侵害」、「学校の秩序の妨害」の3点は教職員と子どもの両方に「いじめ」とは何か、いじめがあった場合はどうするかを正しく落し込んでいく内容となっている、いじめの存在に気づいた教職員は校長への報告義務があり、このように法律で謳われたら、日本の先生たちも「いじめ隠し」には走れなくなる、いじめの解決に向けて教職員は毎年研修を受けなくてはならず、子どもたちはカリキュラムの中でいじめについて学ぶ。いずれも日本では行われていない云々。

 どれも定義の解釈と効用であって、児童・生徒の自覚という点を抜かしている。いわば"定義全能主義"となっている。尾木直樹に定義全能主義者という尊称を奉ることができる。大体が、「このように法律で謳われたら、日本の先生たちも『いじめ隠し』には走れなくなります」と言っているが、一般的な法律が禁止事項を謳っているからと言って、禁止事項が全ての人間によって守られるわけではない。結果、法律は生き続ける。時代に合わなくなれば、改正される。

 イジメの定義も同じで、社会が定義を必要とし、その定義が生き続けるのは定義を守らずにイジメが相当頻度で繰り返し発生し、その中に無視できない重大事態を少なくない数で混じるからに他ならない。マ州はイジメに関わる法律の制定だけではなく、刑法をも改正してバックアップすることになった。尾木直樹は、「死刑制度があるからといって犯罪が減っているかといえば、減っていません」と法律の不完全性を言いながら、イジメの定義に関しては"定義全能主義"に陥る矛盾した無知を曝け出している。

 尾木直樹は定義の内容の素晴らしさだけではなく、学校側による定義の運用の結果として現れるイジメ発生件数の減少を具体的根拠として提示、その運用は定義が丁寧で細かいことが助けとなっているからだと証拠立てることができた場合にのみ、その先に定義に対する最大限の評価を持ってくることができるのだが、肝心のその途中段階を抜け落ちさせて、定義の素晴らしさだけを言い立てる失態を犯して、蛙の面に小便でいられる幸せを満喫している。

 果たしてマ州「反いじめ法」がその素晴らしい"定義"でイジメの発生件数を抑えることができているのか、その情報をネットで探してみた。上記法律の制定2010年5月から5年後の2015年の調査である。尾木直樹のこの書籍出版は2013年2月1日であることを改めて頭に置いておかなければならない。マ州「反いじめ法」がイジメ抑制に効果のある法律であるなら、年数経過と共にその効果は増大していくはずである。

 Microsoft EdgeのAI「Copilot」でマ州のイジメ発生件数の推移を検査してみたところ、2019年度の数値が出てきたから、日本の同年度の数値と比較してみる。

マ州        1000人あたりの件数
小学校  3,333件   6.2件
中学校  2,633件   8.4件
高等学校 1,292件   3.1件

《令和元年度(2019年度) 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について》(文科省)

 日本 認知件数 1000人あたりの件数   
小学校 484545件   75.8件
中校学 106524件   32.8件 
高等学校18352件    5.4件。

 確かにマ州の1000人あたりの件数から見たイジメ認知件数は少ない。だが、こういった統計を先に持ってきてから、このようにイジメが少ないのは「反いじめ法」の定義の効果だとする論理展開とすべきだが、そういう方法は採用せずに「反いじめ法」のイジメの定義にのみ最大賛辞を贈るだけの姿勢というのは論理的な実証精神を欠いているからこそできることだろう。

 だが、マ州のイジメ発生件数の少ないことが「反いじめ法」の背後に刑法を控えさせていること、いわばいじめ行為を刑法上の犯罪として位置付け、さらに刑法への適用が厳格であることがイジメ抑制に効果を上げているとしたら、教育力を用いた自律的なイジメの抑制から遠ざかることになり、刑法が持つ規制力利用の他律的なイジメの抑制と親密性を持つことになって、教育放棄というプロセスへと際限もなく足を踏み込んでいくことになる。

 尾木直樹が日本でも「いじめ防止法」の制定を急務の課題とし、「法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていく」等、様々に言っている趣旨からはマ州のイジメ発生件数の少なさが「反いじめ法」単独の力によってではなく、背後に控えさせている「刑法」の力に負うところが大きいことを窺わせることになる。

 理由はこれまでの尾木直樹の主張からも明らかなのだが、「反いじめ法」単独の力によるマ州のイジメ発生件数の少なさだったなら、尾木直樹の日本でも制定は急務の課題だとしている「いじめ防止法」を以下のところで刑法の罰則を背後に控えさせたアイディアとして明確に提示することはないだろうからである。教育学者としてバンザイしたということである。本人はこのような自覚は全然ない。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉は教育学者としての体裁を保つ綺麗事に過ぎないことになる。真の教育学者であるなら、教育力によって克服する方法論を創造する責任を負っているはずだが、その責任を役にも立たないイジメ未然防止論だか、イジメ克服論だかどっちつかずのご都合主義な綺麗事を並べただけで早々にバンザイした。

 マ州の「反いじめ法」が、この法律と連携・援護させるために刑法を同時に改正したことを取り上げずに「反いじめ法」が4カ月で立法化された、「アメリカならでは(?)の政治力」だなんだと「反いじめ法」のみの効力であるかのように宣伝しながら、〈法律によって、いじめ問題のすべてが解決するわけではありませんが、「いじめは犯罪行為であり、法律に違反すれば罰せられるよ」「法律ではこうしたことをすべていじめとして扱うよ」と明確なメッセージにすることで、「いじめは許されない。こんなことはやめよう」といった強力なアピールができます。〉と、刑法での罰則を頼みとする。まさに教育の放棄であり、教育者という立場からの刑法への依存に他ならない。「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」だとわざわざ1章を設けた理由がこの程度なのだから、尾木直樹の『「脱いじめ」論』は底が割れている。

 アメリカではイジメとされるシーンをテレビスポットで流し、「これはいじめです」と映像でも教育している。ここまでやらなければイジメはなくならない。「絶対に子どもたちをいじめから守るのだとのアメリカ国民の強い意思を感じます」と教育以外の方法でのイジメの抑止に期待を置く、この滑稽な逆説に教育評論家尾木直樹は死ぬまで気づかないだろう。

 そして日本のイジメ対策法の遅れを強調している。1986年の鹿川裕史君イジメ自殺から何10年経っているが、イジメ問題は全く放置されてきたといっても過言ではない。国としての対応のスピードの遅さもさることながら、「いじめとは何か、いじめがあったらどうするか」に関しての啓蒙教育すらきちんとできていない。「これは恥ずかしいことだと思います」

 長年の学校教育経験者として、イジメ問題を論ずる教育評論家として自分たちの無力を省みる自省心は
持ち合わせていない。そして結論。〈加害者の子どもたちを罰するためのものでなく、「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させるために、早急に日本でも「いじめ対策法」を実現させていかなくてはなりません。〉――

 マ州の「反いじめ法」は罰則規定はない。尾木直樹のこの書籍出版2013年2月から7ヶ月後の2013年6月28日に施行された日本の「いじめ防止対策推進法」にしても罰則規定はない。いわば、"加害者の子どもたちを罰するためのものでない"が、両者共に犯罪行為として取り扱うべき性質のイジメは警察署の取り扱いとし、取り扱いの結果、場合によっては刑法の罰則を当てる。

 このようなシステムとなっているのは、尾木直樹自身は「いじめ防止法」に〈「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させる〉効果を見ているが、現実問題として「いじめ防止法」のみでは認識定着は困難としていることからの「いじめ防止法」のバックに控えさせた刑法の強制力をイジメ抑止の次善の策として据えているということであって、尾木直樹が「いじめ防止法」が"イジメは禁止行為"の認識定着を目的としているかのようにさも見せかけているのは誤魔化し以外の何ものでもない。

 既に尾木直樹自身が、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と"イジメは禁止行為"の認識の定着を刑法頼みで指摘しているのである。そのことも忘れて、このようなの認識の定着を「いじめ防止法」が可能であるかのように装う。ご都合主義はどこまで行けば済むのか、底なしに見える。

 〈スピーディーな対応はアメリカだからできたのだなどという言い訳は通用しません。スピードの違いは危機感の違いなのです。人が、社会が、そして国が本気で子どもを守りたいと考えているか否かの違いです。その本気度を日本も示してほしいものです。〉――

 言っていることは立派過ぎる程に立派だが、刑法頼みが教育の放棄というステップを踏むことを教育学者であるにも関わらず一切気づかない言説の垂れ流しとなっている。イジメのなくならない現状と自身がイジメの未然防止論だか、イジメの克服論だかで論じているイジメの抑止の方法論との大きな食い違いに背に腹は代えられない気持ちにさせたのかもしれない。だが、刑法頼みは自身がこの書籍で書いている教育を用いたイジメの抑止を、あるいはイジメの克服を、尤も実現のための具体的な方法論は満足に書いていないのだが、全て無益なことに貶めることになる。

 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です

 尾木直樹は「いじめ対策法」の成立に時間を要するなら、全国全ての自治体で「いじめ防止条例」を制定すべきだと、あくまでも法的措置に下駄を預ける方向に熱心となっている。

 〈条例には罰則規定はありませんが、市民の意識を高め、学校の先生、保護者、子どもたちに向けて、お互いを思いやる心を大切にし、大人も子どももそのような生き方をしていこうというメッセージの発信としては大変に重要です。〉――

 教育でしなければならない市民意識の向上、相互共感能力(=お互いを思いやる心)の育みを「いじめ防止法」の制定までの間、自治体の条例に期待する。どこまで教育の放棄へと突き進もうとしているのか際限が知れない。結局は自身の教育評論家としての能力不足の裏返しでしかない。綺麗事、ご都合主義、矛盾だらけの『「脱いじめ」論』の当然の行き着くべくして行き着いた「いじめ防止法」任せ、条例任せといったところなのだろう。

 〈いじめへの認識が不足している今の日本には、条例によって 大人社会、そして子どもたち自身に「いじめ」についての認識と理解を高めていくことがとにかく必要とされています。〉――

 「いじめへの認識が不足」は第一番に学校の努力不足、教育力不足を挙げなければならないはずだが、挙げたら、教師や保護者向けに現実には役に立たない綺麗事のイジメ防止教育論しか垂れ流していないことに気づかれてしまう。

 この書籍の締めくくりとなる最後の言葉。
   
 〈2012年10月に公布された岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」は、子どもに特化した防止条例としては全国初のものです。内容も、ロマンのある高い理念を掲げ、さらに市・学校・保護者・地域に対する「責務」を明確に記し、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているという点で、条例作成のモデルとなるものです。  

 可児市の条例を参考に、温かく「人権・愛・ロマン」あふれる防止条例が速やかに全国に広がっていくことが早急の願いです。

 もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません。しかし、事態は急を要します。大人が総力を挙げて、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていかなくては、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになります。

 子どもたちをいじめから守るためにいかに行動を起こすか。社会全体でどう子どもを救っていくか。私たち大人たちには、今その覚悟が問われているのではないでしょうか。〉――

 岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」を「条例作成のモデル」として推薦しながら、「もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません」と逃げの手を打つ責任逃れの用意周到さは八方美人の面目躍如といったところである。

 可児市の「子どものいじめ防止条例」が「子どもに特化した防止条例としては全国初のもの」であろうが何だろうが、「ロマンのある高い理念」を掲げていようが掲げていまいが、「市・学校・保護者・地域に対する『責務』を明確に記し」ていようがいまいが、法律、条例を制定しただけ、あるいは存在させているだけでイジメのどのような制御弁となるわけではない。イジメを働く主体に位置する児童・生徒が自身の、特に対人関係行為・活動が有意義な可能性の追求となっているか、有害な可能性の追求となっているかどうかを自省できる理性・感性の類いを備えているかどうかに掛かっているのであって、尾木直樹大先生は決定的に思い違いをしている。

 ネットで可児市のイジメに関する情報を探してみた。条例自体は「ロマンのある高い理念」を掲げていようがいまいが意味のないことだから、要は条例がイジメの抑制にどれ程の効果を上げているかに尽きる。効果の程度を可児市の次の記事から見てみる。

 《令和3年度 可児市いじめ防止基本方針3つの指標について》

 小学校調査児童生徒数5141人、いじめ認知件数581人から1000人当たりを計算すると、113人となる。「調査児童生徒数」となっているが、長期欠席者や不登校児童を除いた全児童数ということでなければ性格な数字は出てこない。

 対して《令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要》(文科省/令和4年10月27日)から小学生のいじめ認知件数は500,562件、1000人当りは79.9人で、全国計算よりも1000人当りで33.1人も多いことになる。

 要するに可児市の「子どものいじめ防止条例」の制定当時は教師も児童・生徒もイジメ防止に意識を高く持つだろうから、多少なりとも効果を上げるだろうが、肝心なことは継続性である。実質的に効果が見込める条例なら、年々の効果の積み重ねによって現状では取るに足らないイジメ問題に帰していなければならないが、そうはなっていない現状しか浮かび上がってこない。
 
 尾木直樹のロマンのある高い理念を掲げているだ、責務の対象を明確にしているだ、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているだはイジメの抑止という点に関してはさしたる意味を持たないことになる。

 児童・生徒に対して条例の目的や定義を如何に理解させ、理解させた上で如何に自身の行為・活動に反映させるかが決め手となるのだから、教育の責任が全てと言っていい。尾木直樹が並べ立てている、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていく、そうしなければ、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになる、子どもたちをいじめから守るために如何に行動を起こすか、私たち大人たちには、今その覚悟が問われている云々の問いかけは如何にも喫緊の課題であるかのように見せかけてはいるが、イジメの本質的な解決策、どうすべきかから離れているゆえに巧みな言葉を用いた見せかけの危機意識に過ぎない。

 大体が尾木直樹のこの『「脱いじめ」論』自体が綺麗事、ご都合主義、矛盾で成り立たせた本質的なイジメ解決策とは的外れの論考に過ぎないのだから、尾木直樹自身の覚悟の無さこそが問われるべきだろう。

 この書籍出版が2013年2月。7ヶ月後の2013年6月28日に「いじめ防止対策推進法」施行。約8ヶ月後の2014年3月初版発行立憲民主党小西洋之の著作を紹介している小西洋之自身のネット記事、《いじめ防止対策推進法の解説と具体策》(2015年5月21日)にはかの著名な教育評論家尾木直樹の推薦の言葉を彼の上半身の写真付きで載せている。文飾は当方。

 〈教職員•保護者のための立法者による初の解説書
「本書は、子どもの命を救う法律に息を吹き込み、血を通わせる、いじめ対策のバイブルである」 教育評論家 尾木直樹氏推薦〉

 尾木直樹大先生は2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と見ていた。法律こそがイジメの未然防止、あるいはイジメの克服に役立つと位置づけていた。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、自身のこの著作にも見えるようにイジメ防止に関わる法律には全幅の効用と信頼を置いていた。

 このことの裏を返すと、自身の著作『「脱いじめ」論』には全幅の効用と信頼を置くことができていなかったことの暴露となる。大体が的外れの綺麗事を並べただけの言葉の羅列に過ぎないから、役立つはずはないのだが、教育学者の立場で、『「脱いじめ」論』を書きながら、イジメ防止の法律を頼みとする、これ程のペテンはないだろう。

 尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と最大限に評価しながら、いつ頃からか、盛んに法の改正を叫んでいる。例えば一例。

「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」(NHKクローズアップ現代+/2021年11月9日)

 2021年3月23日の旭川女子中学生イジメ凍死事件を受けて尾木直樹は「NHKクローズアップ現代+」の番組に出演、インタビューを受けている。イジメはイジメっ子が100%悪い、イジメをしなければ、イジメ被害者は出ない、出さないように「加害者指導」が必要、この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない、新たな被害を生まないための対策を盛り込んだ「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できることが理想だなどと発言している。

 「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」だと太鼓判を押しながら、そのような法律とはなっていない現実を突きつけられて、その改正に期待をかける法律頼みの姿勢は変えないままでいる。

 この法律頼みは法律そのものがイジメを止める力があるわけではないという事実に対する無知と法律どおりに行動できるかどうかは人間の理性・感性の類いが決め手となるという事実に対する無知、さらには法律どおりの行動への期待は一にも二にも啓発という名の教育を必要とするが、その放棄になるという事実に対する無知――尾木直樹は何重もの無知を犯しながら自らを教育学者として立脚させている。

 尾木直樹が「NHKクローズアップ現代+」で語ったようにイジメをしなければ、イジメ被害者は出ないは100%その通りの事実である。誰にも分かっていることだが、尾木直樹はたまには正しいことを言う。だが、同じく発言している「加害者指導」はイジメが起きる前ではなく、イジメ被害者本人がイジメられていることを訴え出るか、教師か他の児童・生徒の誰かが目撃して公になるか、進行中のイジメが学校側に認知されて、誰が加害者か判明するのを待ってから初めて「加害者指導」は可能となるのであって、当然、イジメ被害者は出ない、出さない段階での「加害者指導」は不可能であるにも関わらず不可能を可能であるかのように尤もらしい言説を垂れる。

 自身の論理矛盾に気づかずに、ハイ、優秀な教育評論家でございますといった顔で得々と喋るから始末に負えない。だが、"得々と"に多くの人間が騙される。天下のNHKでも騙される。

 「加害者指導」の力量を教育的に学校現場や教育委員会がつけたとしても、事後解決の力量を身につけるだけであって、イジメ被害者は出ない、出さないといったイジメ未然防止の力量とは異なる。この手の力量に関する考え方は尾木直樹の頭の中には存在しない。存在したなら、イジメ防止法に頼ることも、類似の条例に頼ることも、イジメ防止法の改正に頼ることもない。

 誰が加害者となるのか分からないのだから、「加害者指導」ではなく、全児童・生徒対象の「イジメ防止指導」でなければならないのだが、「加害者指導」などと尤もらしい呼称を掲げて自身の独自性をウリにする。最たる綺麗事に過ぎない。

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川勝知事新規採用職員訓示に日本の教育の反映を見る 日本最優秀の教育学者尾木直樹先生はそうは見なかった

2024-04-05 15:31:57 | 教育

 2024年4月1日、川勝静岡県知事が新人職員への訓示の中で職業差別とも捉えられかねない発言をしたとマスコミから一斉に批判を受けた。訓示自体が日本の教育を反映していると読んだが、川勝知事自身が日本の教育で育ち、日本の教育を血肉としているということであろう。2024年4月2日付け「asahi.com」記事が訓示全文を紹介しているから、必要な箇所だけ利用させて貰う。

《川勝知事の訓示全文 静岡県の新規採用職員へ「県庁はシンクタンク」》

静岡県の川勝平太知事(75)が1日に県庁であった新規採用職員に対する訓示で、特定の職業に携わる人などへの差別とも受け止められかねない発言をした。訓示の全文は以下の通り。(静岡県の公式チャンネルでも配信されています)

 静岡県知事の川勝平太でございます。この度、令和6年度4月1日をもって、静岡県庁の職員として、職員を選んで頂いて、ありがとうございました。

 静岡県庁の職員5800人ぐらいいるんですけれども、県庁の職員すべてを代表いたしまして心からご歓迎を申し上げたいと思います。難関だったんじゃないですか? そうでもないですか?

 聞くところによると県庁の職員になるには、かなり高度な試験をマスターしなくちゃいけないと。かつ、そのための準備もひとかたならぬものがあるという風に聞いております。こういう形でみなさま方、同期になられた数は233名であります。そして、きょう、この本庁に配属になった方たちが77名いらっしゃる。残りの156名の方たちは、きょう1日からそれぞれの出先機関で辞令を受けるなり、そして、いま研修を受けられているという風に承知しておりますが、ともあれ、本当は全員にお顔を見せていただき、また、お話をしたかったんですけれど、70何名の方だけとはいえ、こうした形でお目にかかれて大変うれしゅうございます。

 今年はご案内の通りですね、能登半島ですさまじい地震がございまして、まだ厳しい生活を受けられている方がたくさんいます。一番最初にですね、心得ておくべきことは危機管理です。静岡県はみなさま方、生まれるはるか前、1979年、昭和で言うと54年になるでしょうか、その頃にですね、東海地震説というのが唱えられまして、で、東海地震で確実に静岡県は被害を受けると、1979年のことでございましたが、それ以来ですね、毎年、危機管理のための防災訓練をしていました。

 そのうち東海地震だけで単発で起こるんではなくて、東南海地震と連動する可能性があると、いや南海地震と3連動する可能性もあるということにもなりまして、いまはですね、南海トラフの巨大地震、これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということですが、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレてですね、起こる地震ということで、この地震が仮に起こりますと、何もしなかった場合、30万人ぐらいの方たちが犠牲になると言われています。そのうち静岡県だけで10万人ぐらい犠牲になるという、そういう数値が2013年ぐらいに出ました。

 静岡県では、もうその時からそれをゼロにしようということで、現在は8割ぐらいの人が想定ですけれども助かる形になっておりまして、ただし、まだ全員が助かるというのは。ですから、能登半島の大きな地震というのは決してひとごとではありません。

 従って、いつ何時そういうことが起こるかもしれないと、私どもはパブリック・サーバント、公僕ですからまずは自分が元気でなくてはいけませんので、自己の危機管理を最優先にしつつ、同時に人を助けるということですから、人助けのために何をするべきか、それぞれの班なり、部局で何をするべきかということが共通認識になっておりますので、また抜き打ちの、場合によっては防災訓練が行われる可能性もあります。その時にですね、戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならないという風に思います。

 これが、まず静岡県の、県庁としてですね、360万人の人たちの生命と財産を預かっておりますので、これを守るという危機管理をしっかり胸の中にたたみ込んでですね、仕事してください。

 それからですね、公務員ですから、人の役に立つと、それから社会の役に立つということがとても大切です。なかなか自分でそういう気持ちを持っていてもですね、それが出来るものではありません。そのためにはですね、やはり「職員のみなさま方は立派だ」という風に尊敬されていくことがとても大切で、これからコンプライアンスといって、法令順守のこともいろいろ言うかもしれませんけれども、基本的にですね、公務員として身に私を構えないと、公務においては身に私を構えない、これも大切なことですね。それから、公の仕事をしていますから、心は素直でうそ偽りを言わないと、これもとても大切なことです。

 それからですね、ちょっと難しいかもしれませんけれども、上にへつらわない、下に威張らない、まあ、下がいませんね……。ですから、上にへつらわないと。そういう気持ちが出てきてもですね、逆に仮に威張る人がいたらですね、こういうような上司にはならないということで反面教師にしてください。上にへつらってはならない、下に威張らないと。

 で、言葉遣いはとても大切です。ですから「です・ます」調というのが基本になるようにしていただければと思います。上司の方々もですね、それを心がけていますけれども、やはり年齢が離れていたり、責任が違いますので、場合によっては口語調あるいはため口になるかもしれませんけれども、基本的に言葉遣いは礼儀正しくするということがとても大切です。

 それから何より、人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないと。人が困っている時にですね、助けるというのが我々の仕事です。ただ、それぞれ預かっている部局によって、これは自分の担当ではないということがあるかもしれません。だけど、静岡県庁に来られる人たちはですね、何か助けを求めて来る人、返事を求めて来る人がいますから、どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考えるということが大事ですね。そういう癖を持つと。これは先例がない、前例がないということではなくて、どうしたらこれを解決できるかというように考えると。やがてみなさんもこれから60過ぎくらいまでお仕事されるわけですけれども、様々な部署に行かれると思います。その時にどういう風にすると一番いいかなということをですね、仮にその決定権を持っていなくても考えるということが大切ですね。で、もし可能なら、その担当局の方に紹介して差し上げるということも、それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないということですね。

 それからですね、我々はふじのくに静岡県といいます。富士山、これは2013年6月22日に世界文化遺産になりました。信仰の対象、または芸術の源泉ということで、あの品格のある姿、その姿を自分の心の姿にしていただければと思いますね。富士山に向かって恥ずかしいことをしない。つまり自分、天知る、地知る、己は己のことを知っていますから、天知る、地知る、そして自らも知っているということで、そこに富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないということです。

 それからみなさん優秀ですから、なかなか物をわかってくれない人がいるかもしれない。その時にですね、情理を尽くすということが大切です。理屈ではわかっていても、腹にストンと落ちない場合があります。ですからハート・トゥ・ハートで、その心からこうすると本当に良いというように言って差し上げるとストンと落ちる場合がある。ですから情と理、情理を尽くして、自分が正しいと思う信念を貫くということが大切です。

 そしてですね、そのためにはですね、やっぱり勉強しなくちゃいけません。実は静岡県、県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。で、それは磨き方はいろいろあります。知性を磨くということ。それからですね、やっぱり感性を豊かにしなくちゃいけない、それから体がしっかりしてないといけませんね、ですから文武芸、三道鼎立(ていりつ)と。文武両道というのは良く聞くでしょう。しかしですね、美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい。

 ですから、自分の知性がこの人に及ばないなと思ってもですね、知性というものを大切にするということが大事ですね。そのためにはやっぱり勉強しなくちゃいけません。それから体を鍛えると。しかし、スポーツが苦手な人もいらっしゃるでしょう。でも、スポーツを楽しむことはできますね。見たり、楽しむこともできます。まあ、無芸大食の人もいるでしょう。しかし、芸術を愛することはできますから、文武芸、三道鼎立ということでですね、豊かな人間になっていただきたいと思います。

 人に情けをかける、もののあわれを知ると昔からそういう風に言われますけれども、人に情けをかけることはですね、情けは人のためならずという言葉がありまして、つまり人のために助けるんですけども、結果的には自分のためになっているということが多いんです。ですから、人に情けをかけるという、困っている人は助けるということを、こうしたことをやってください。(以下略)

 能登半島地震が起き、静岡県も南海トラフの巨大地震の発生が予測されている。これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということで、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレて起こる地震で…云々は静岡県庁の職員としては災害関連以外の部署に配属される予定でいたとしても、東日本大震災や今回の能登半島地震の例もあるから、前以って一般常識としていなければならない危機管理上の知識・情報であるはずだが、それを新入職員の訓示で改めて伝える。

 この過剰な世話焼き、過干渉は日本の学校教育で一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼く姿と通底している。日本の学校はこうすべきと教える対象者を一個の人格として扱うことができず、基本を教えて、あとは本人の判断に任せるということができていないために中高生に対しても"ああしなさい、こうしなさい"がなくならない。現在も残っている暗記教育にしても基本のところで"ああしなさい、こうしなさい"と一から十まで教える力学によって成り立たせている。

 こういった現象は個々の生徒を判断力を有する一個の人格と看做して、教えることを最小限に抑えて、あとは自分で考えて答を考えさせるという訓練を行ってきていないことから生じているのだろう。結果、教えるに時間がかかることになって、教師の長時間労働に繋がっている。

 家庭教育でも子どもをそれなりに判断能力を有する一個の人格と認めることはせず、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼き、入学一年のスタート地点から自分から考えさせて自分の行動を自ら決めさせる発想の元、一人前に持っていくという思想を欠いているために一から十まで教える過剰な世話焼きが延々と続き、社会人になっても、一個の人格としての扱いができず、"ああしなさい、こうしなさい"が入庁の訓示にまで続き、入庁後も各部署の上役から、"ああしなさい、こうしなさい"と指示を受けて、結果、指示の範囲内で効率を上げていく程度だから、目を見張る創造的な発展性や生産性の向上が望めないことになる。まさしく日本の教育課程で植え付けられた思考構造の反映を川勝知事が自ら演じている。

 災害発生の予測不可能性から、最優先とした自己の危機管理を対県民ということだろう、救援・救命や生活保全に備えて何をすべきか、各部署でのルールに則った「共通認識」で動き、防災訓練の場合は、〈戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならない〉云々と、自分の常識として備えていて自ら考えて行動しなければならないことを任せることのできる信頼性を持ち得ず、信頼性を持ち得るには何かが足りないのだろう、手を取り、足取りのように指示する。

 指示を受ける側も手取り、足取りの指示を当然のこととして抵抗もなく受け入れ、日常慣習化している。中には腹の中ではそんな指示を受けなくたって、常識じゃないか、分かってらあと反発しても、上に向かって悪しき慣習を改めさせる勇気はなく、表面的に従い続けるうちにそのこと自体が自身の慣習となっていく。

 公務員として人の役に立ち、社会の役に立つことは大切なことで、役に立つ基礎として県民に尊敬される対象となること、第一にコンプライアンス(法令順守)を先に持ってきて、身に私を構えないこと(「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」(出水市)には、「身に私(わたくし)を構(かま)へず」は、「自分よがりの考えをもたないこと」と現代語訳されているが、要するに私情(個人的な感情や利己的な心)を挟まないことということなのだろう、そういった姿勢が大切で、公務という性格上、「心は素直でうそ偽りを言わない」ことが肝要であると、一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と手取り、足取りの世話を焼く。

 さらに上にへつらわず、下に威張らずの態度の必要性を言い、下に威張る人がいたら、反面教師にしろと、表面をなぞるだけの指示も暗記教育の反映であろう。なぜなら、上司の部下に対する威張り、その行き過ぎたパワハラは諌める部下の不在の証明でもあり、その不在の証明は部下自体の従属性を纏う一方の姿の証明となるだけだが、当然、変えるべきは部下自体の従属性であるはずが、そうはせずに反面教師にするということは上司の威張りにじっと我慢する従属性はそのままにすることになるからだ。

 さらに常識として弁えていなければならないはずの言葉遣いを"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼かなければならない。大体が言葉遣いをあれこれと世話を焼かなければならないような、時と場合を弁えないままの人材の採用に判を押したこと、あるいは採用し続けること自体を問題としなければならないはずだが、方向違いにも言葉遣いに世話を焼く。親や教師の子どもに対する世話を焼くことと共通している。

 困難な状況に立たされて相談に来た来庁者に対しては粗末に扱うのではなく、親切に相談し、対応することと極々当たり前のことに世話を焼かなければならない。相談が自分の担当ではなくても、「どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考える」、先例・前例がなくても、あるいは自身に決定権がなくても、何か解決方法がないか模索する、担当違いなら、「その担当局の方に紹介して差し上げる」、〈それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。〉云々と常識としていなければならない姿勢、行動をあれこれ指示し、要求する。

 指示され、要求される側も世話を焼かれるのを子どもの頃からの当たり前の慣習としているから大人しく当たり前の様子で静聴する。

 あの品格のある富士山の姿を自分の心の姿にして、富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないようにして欲しいは自らの身はそれぞれに自らの方法で律する術を相当程度に学んでいなければならない年齢の人間にそれぞれの方法に任せることができずに富士山の姿を自分の心の姿にしろと一律にある種の強制となる世話を焼いていることになる。

 依頼事に納得のいかない来庁者に対しては優秀なみなさんは情理を尽くし、ハート・トゥ・ハートで自分が正しいと思う信念を貫きなさいと自ら学ぶべきこと、あるいは自ら学ばなければならないことをそれぞれに任せることができずに一つ一つ手ほどきする。こういったことも学校教育の慣習を受け継いだ過剰な世話焼きに入る。川勝知事はそういった学校社会の空気を吸って育った。学校教育の慣習を一般社会の慣習として受け継いでいるから、県知事にまで上り詰めても、その慣習が抜けきれずに、手取り足取りの世話焼きから抜け出ることができない。

 川勝知事は県庁をシンクタンク(研究機関)と称しているが、福祉、災害、教育等々、それぞれの在り方や政策の向上、住民利益の向上や公平性、政策執行の効率化といった役割に於いてシンクタンクの一面を担っていないわけではないが、ここまではいいとして、〈毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。〉は、勉強のできる子とスポーツのできる子はいい子で優秀な子という学校社会で通用させている価値観、いわば多様な可能性に対する差別をそのまま一般社会に引きずってきている、日本の学校教育の反映が如実に現れることになっている姿であろう。

 学校社会の悪しき慣習を一般社会にまで持ち込んだまま年齢を重ねても断ち切ることができない川勝知事も悪いが、もしこの発言が職業差別とも捉えられかねない発言であるとするなら、先ずは学校社会の多様な可能性をそれぞれに等しく認めていない可能性に関わる差別をなくすべきだろう。なぜなら、多くの日本人がホワイトカラーよりも肉体労働者を差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は学校社会での可能性に関わる差別の延長にある現象だからだ。

 勉強のできる子やスポーツのできる子が勉強のできない子やスポーツのできない子に持つ意識・無意識の優越感を解消し、可能な限り対等関係に持っていくためにはどのように学校の成績が悪い子どもであっても、何らかの可能性を見つけ出す手伝いをして、見つけ出した可能性を尊重し、伸ばしていくための助言を与えて、勉強のできる子が勉強を自らの居場所とし、スポーツのできる子がスポーツを自らの居場所としているように勉強のできない子であっても、自らが見つけた可能性の追求を自らの居場所とできて、学校生活を充実させて送ることができるようになれば、彼らが勉強やスポーツのできる子に持つ下位意識は自然と薄まり、彼らにとって勉強やスポーツのできる子が彼らに持つ上位意識は相対的に意味が薄れていくことになり、このこととの連動でこのような意識を優越的な立ち場で一般社会にそのまま引きずっている川勝現象も余程の例外を除いて消えていくことになって、世間的に肉体労働者をホワイトカラーよりも差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は少なからず是正されていくことになるだろうからである。

 学校教育での上下の物差しで計られることになる優劣の価値観が一般社会に於いても影響していて、牛の飼育で生活するのも、野菜を売ったりするのも、モノを作ったりするのも、一つの可能性であると同時にそれぞれがそれぞれの可能性への挑戦であることが蔑ろにされている。

 知性を磨け、感性を豊かにしろ、三道鼎立(ていりつ)(文(学問)、武(スポーツ)、芸(芸術)の3つが調和することだとネットに出ていた)だ等々、それぞれの自覚に任せるべきを任せることができずに口出ししてしまう。親や教師が子どもがすることなすことを任せることができずにあれやこれや口出ししてしまうように。

 「美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい」、「知性というものを大切にするということが大事だ」、「人に情けをかける」、「結果的にじぶんのためになる」等々、どこまで行っても、それぞれの判断に任せることができない。

 できていたなら、言うべきは次のようなことであるはずだ。

「みなさんがどう成長していくか、どのように成長した姿を見せるか、その成果はみなさんの自覚と努力次第でもたらされることになるが、年々の成長に具合を周囲に見せることになるし、自分自身も自分の年々の成長の具合を判定できる目を持たなければ、不足を補い、伸ばすべきは伸ばす点を弁えることもできなくなる」

 任せる信頼を寄せることが信頼関係の構築に重要なことのはずだが、世話を焼くばかりで、それができない。学校教育の悪しき慣習の反映に過ぎない。

 以下、「身に私を構えず、上にへつらわず、正直であること」も、「情理を知って、人に情けをかける」ことも、いわば「見返りを求める親切はいけない」ことも、世話を焼いてさせるよう仕向けることではなく、自ら学んでその必要性を自覚しなければできないことで、自覚が意志の形を取ったとき、誰に言われるまでもなく自分から進んで行うことのできる行動、働きかけとなる。

 相手が置かれた立ち場立ち場で"できる"という相手の可能性を信頼して、「あなたがたは年齢相応に応じた、あるいはそれ以上の可能性を備えているはずで、その可能性を既に備えてここに立っているはずだ。あなた方にとっては何を今さらといった指摘でしょうが、それぞれの可能性は自らの意志・判断に基づいて責任ある行動を心がけることのできる主体性と、他の助けや支配を受けずに自ら立ち、自ら行動できる自立心、同じく他の助けや支配を受けずに自ら立てた規律に従って自らの行動を律することのできる自律心の三つの行動特性を確固とした柱としているはずだから、どのような部署に配属されても、自ら学び、自ら行動する力を発揮することになるだろうし、他の部署に移動になったとしても、あるいは他の県に自然災害が発生して自然災害関連以外の部署からその県庁に災害関連の応援に駆けつけることになったとしても、その場に自身を置けば、その場の状況に応じて自身の可能性の柱としている主体性・自立心・自律心がその場の状況に応じて学びながら臨機応変に対処していく態度を随時発揮することができて、困ることはないだろう」

 相手の可能性と可能性が年齢相応に備えているはずの主体性・自立心・自律心に期待をかける訓示のみで相手を信頼していることになり、相手への信頼が相手の主体性・自立心・自律心をよりよく引き出す力となって、積極的な行動を促すことになる。

 当然、学校教育に於いても成績の優劣に関係なしに自分の可能性を見つけ出すことができていな子どもに何らかの可能性を見い出すことができるようにし、見つけ出した可能性を自ら発展させていく過程でその"自ら"という姿勢が主体性や自立心、自律心を育むキッカケとなり、育んでいくことになるだろうから、そうなれば、川勝現象は限りなく必要性を失い、姿を消していくことになる。

 当方は川勝静岡県知事の新規採用職員訓示をこのように読んだ。一方、日本の著名が教育学者は自身のブログで次のように読んでいる。

 《こりゃ〜即首ですよ!6月まで待てません!》((尾木ママ)オフィシャルブログ「オギ♡ブロ」Powered by Ameba/2024-04-02 19:11:25)

静岡県知事さんの『暴言』

桁はずれに酷すぎます

農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱するとはーー

更に

公務員をシンクタンクで持ち上げるとはーー

国家公務員、地方公務員問わず

国民・県民の為に働く『公僕』たれ

と訓示、期待を表明すべきところを

どうかしていますねーー

今すぐの辞職と詫びを期待したいです

みなさんはどうですか?

尾木ママ

久しぶりに怒りでいっぱいです

 要するに訓示を"農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱する、桁はずれに酷過ぎる『暴言』"とのみ読んで、頭に血を上らせた。

 読みの正当性は読者の判断を仰ぐしかない。

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尾木直樹イジメ撲滅の「愛とロマンの提言」/子どもの"居場所と出番"の必要性の方法論には黙する詐欺

2024-03-25 05:56:07 | 教育
 副題:中学校非義務教育化による一教科専門学校化が多様な可能性に応じた居場所としうる

 尾木直樹は2013年2月1日発売の自著『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』の「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」第6節で、「大きな理想を掲げていじめ解決に取り組んでいきましょう」と取り組み可能性を保証する元気一杯の掛け声で、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」を画像で提示。児童・生徒に対する「直接的アプローチ」と「間接的アプローチ」に分け、「直接的アプローチ」のテーマは「ほほえみを以って子どもを丸ごと愛する受容と寛容」、「間接的アプローチ」のテーマは「全分野への大胆な参画・子どもが主人公」とする「権利としての子ども参画」を高らかに謳い上げている。

 その実効性をゆめゆめ疑ってはならない。日本で有数の教育学者尾木直樹の頭脳が生み出した「本気でいじめをなくす」」と銘打った「愛とロマンの提言」である。

 「プログラム」の中の「直接的アプローチ」、「個人への対応」は「保護者への防止プリント配布」、「いじめっ子タイプへのケア」、「アトピーっ子へのケア」、「いじめられやすい子に自己肯定感を」の4項目を"いじめをなくすための愛とロマン"として取り挙げているが、「保護者への防止プリント配布」を除いた以下の3項目と、プログラム外で、「大切な視点」だと断っている、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」についてその妥当性に検討を加えたいと思う。

 特に「どの子にも居場所と出番」は最重要の課題であろう。学校社会で正当とされる"居場所と出番"をどの子も見つけることができたなら、イジメを"居場所と出番"とする必要はなくなる。当然、尾木直樹は「どの子にも居場所と出番」を最重要課題、"取扱注意"の札を貼り付けて取り組み、尾木直樹流の創造的な答を出さなければならない。

 では、最初の(個人への対応)の「いじめっ子タイプへのケア」について見てみる。いじめっ子タイプはどのようにして見つけるのだろうか。「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「今日のいじっ子は明日のいじめられっ子」で、次のように解説している。〈1980年代ぐらいのいじめでは、まだ「いじめる子どもたち」が見えやすい状況にありました。いじめをするのは大体が乱暴で勉強嫌い、そのため成績もあまりよくなくて、日頃の素行も悪いことから教師たちに目をつけられている不良タイプが多かったものです。〉――

 だが、現代のイジメは、〈いじめっ子といじめられっ子がわかりやすく記号化されていた時代と違い、教師や親からの信頼が厚い、しっかりとしたリーダータイプの子でさえ、いじめられっ子になり、いじめっ子にもなるのが現代版のいじめです。〉と特定困難性を強調している。但し現場教師だった頃の経験から、「いじめっ子10の特徴」を割り出して紹介している。それはイジメを働いた児童・生徒の性格や行動特性を分析して得たタイプ付けであって、「いじめっ子タイプへのケア」とはそのタイプに当てはまる子どもを選別してケアすることを意味しているはずで、イジメを働いたわけではなく、タイプだからと言って、イジメを働くとは決まっているわけではなく、あくまでもタイプと言うだけでケアする理由をどうように設けるのだろうか。「君はいじめっ子タイプだから、いつかはいじめを働くかもしれない。ケアする必要がある」とでも言うのだろうか。誰が考えても許されるはずもないケアの類いとなるはずだ。

 未遂でも既遂でもない、疑わしい行動を取っているわけでもない、タイプというだけで犯罪可能性の容疑をかけてケアするかしないかの選別をかけるのだから、人権侵害、人間差別となる恐れが生じるだけではなく、逆に反発を受けることになる危険性を招くことになる。

 但しクラスメートを常習的にからかったり、プロレスごっこでいつも技を仕掛ける子がいる場合、それは既にタイプであることを超えて、疑わしい行動を取っていることになり、声掛けという形でごくごく初期的なケアを心がける必要は出てくるが、相手が自分がしている行為を遊び感覚・ゲーム感覚でしていることと頑なに思い込んでいた場合、ケア自体を受け付けないケースが出てくる。尾木直樹自身もイジメているとは認識していない遊び感覚・ゲーム感覚のイジメの始末の悪さを訴えているのだが、こういった現実に存在するケースを一切考慮しないケア設定となっていることからも、有効性は著しく見い出し難い。

「君がしているプロレスごっこは君がいつも技を仕掛けているが、イジメになっていないか?」
「彼とは友だちで、普通に遊びでプロセスごっこをしているだけですよ。自分の方が力があるから、いつも勝つことになるけど、ときどきわざと負けてやって、バランスを取れということですか。わざと負けて、相手が勝ったことにするなんて、彼を馬鹿にすることにはならないですか?」
「彼は嫌がっていないか?」
「彼に聞いてみてください。もし嫌がっているようだったら、彼と遊ぶのはやめます。わざと負けることなんか、彼を馬鹿にすることだから、そんなことはできませんからね」

 「彼」に声掛けをしても、一緒に遊ぶのをやめるという言葉が自身にとって何をされるか分からないという恐怖となって、ある種の威しとなり、「別に嫌でもなんでもないですよ」と答えるケースも出てくる。

 「彼」が精神的と身体的苦痛を訴え出て、既遂状態であることを把握して初めて相手に対するそれ相応のケアは正当性を持つこととなり、人権侵害でも人間差別でもなくなるだけではなく、イジメっ子のイジメ被害者に対する人権侵害であり、人間差別であることを伝えることができるが、この場合はあくまでも「いじめっ子へのケア」ということで、ケアとして成り立つが、タイプというだけでは、誰に対してもケアは成り立たないはずだ。

 当然、こういった事態を避けるためにも、イジメっ子タイプだからとケアすることによって生じる人権侵害や人間差別を避けるためにも、特定の児童・生徒を対象とするのではなく、児童・生徒全員を対象とした主体性の確立、精神的な自立(自律)を先に持ってこなければ、イジメは簡単には抑えることはできないし、抑えることができたとしたとしても、個々の解決で終わり、イジメは繰り返されることになるだろう。

 多くの犯罪者の中から共通する性格を抜き出して犯罪者タイプを導き出すことはできても、犯罪者タイプだからと言って、犯罪予備軍と看做すことは人権上、優生思想に繋がりかねない問題が生じる。2015年から2022年までの間の犯罪に於ける再犯率は48~49%台でほぼ一定していると言うから、半数は更生していることになり、タイプは常にタイプであるとは限らないことを認識しなければならない。だが、尾木直樹は認識不可としている。

 尾木直樹自身、「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「これが『いじめをしているときの子どもの特徴』です」で、外見は圧倒的に普通で成績のよい子でも、イジメっ子になるし、人望があって信頼が厚いクラスのリーダーみたいな子が、裏に回ると大変なイジメの首謀者だったといったこともあり得ると警告していることは誰がイジメ加害者になるかはイジメが発覚してから分かることで、このことはタイプでイジメっ子を識別することの不可能性の指摘となり、「いじめっ子タイプへのケア」は人権侵害、人間差別という点でも成立させ得ないことを示す。

 当然、尾木直樹の「いじめっ子タイプへのケア」は無駄・無効と言うだけではなく、危険な上、小賢しいだけの発想としかならない。

 「アトピーつ子へのケア」はアトピー性皮膚疾患が顔等の見える場所に現れて、容姿を気にし、他人の目を意識するあまり、全てに臆病となって、引っ込み思案を招き、何事につけてもハキハキした態度を取れなくなる。そういっところを突け込まれてイジメを受けやすいことから、ケアが必要ということだろうが、アトピー性皮膚炎は皮膚のバリア機能の低下によって引き起こされ、ストレスが悪化の一因となる心身症に発展、心のケアは治療過程で行うとされている。学校ですべきことは、同じ「第3章 どんな子がいじめをするのか」で、「どんな事情があっても『いじめるほうが100%悪い』のです」と指摘しているのだから、クラス全員・全校生徒対象にアトピー性皮膚炎は伝染しない病気であること、完治までにときには何年とかかる治療困難な病だが、完全治癒するということを誰もが理解しなければならないと強く求めて、「もしアトピー性皮膚炎の児童・生徒が引っ込み思案でいるようなら、仲間に入れてやる、仲間に誘ってやるぐらいの強い意志を持たなければならない。強い意志を持てずに逆にからかったり、冷やかしたり、『キモっ』などと侮蔑の言葉を吐きかけたり差別するようなら、そういった差別をする児童・生徒の方こそが精神の病に罹っていると言える。最低限、そっとしておいてやるぐらいの思い遣りは持たなければならない。そっとしておいてやる思い遣りは無視することとは違うことぐらいは理解しているはずだ。そっとしておいてやる思い遣りはそれなりに相手を気遣う態度だが、無視は相手の存在自体を認めまいとする軽蔑や敵意が僅かでも混じっていて、相手の気持ちを傷つける態度で、この違いが分からないようでは理解力を疑われるだけではなく、人間としての育ちの点でも疑われることになるだろう」等の言葉かけを行って、周囲のイジメや差別を止めることを優先させるべきだろう。

 尾木直樹は「いじめっ子タイプ」や、「アトピーつ子」へのケア取り上げるよりはイジメそのもの、差別そのものを問題視すべき課題だとする留意点を忘却する、見当違いも甚だしい過ちを犯して平然としている。この程度の教育者でしかない。

 (個人への対応)の「直接的アプローチ」の最後に、「いじめられやすい子に自己肯定感を」と提唱している。「いじめられやすい子」と特定すること自体が尾木直樹は差別や人権侵害になると気づいていない。特にほかのところで、〈実際に起きたいじめ事件を丁寧に分析してみると、決して「弱い者」だけがいじめられているわけではない。〉と指摘している以上、「いじめられやすい子」は選別不可能となるはずだが、この不可能を忘れて、可能とするのはご都合主義以外の何ものでもない。

 既に書いていることだが、イジメもイジメる能力や才能に基づいた一つの活動であり、その活動に自身の可能性の追求を置き、追求の成果を自己活躍と看做し、自己活躍自体が自己実現の一つとなり、その自己実現を自己肯定感の根拠とする。自己肯定感に繋がる才能・能力の何らかの発揮は誰にとっても必要だが、その自己肯定感は自身にとって有意義であっても、学校社会に於いて誰にも有害とならない、多くの生徒に参考となる自己肯定感の保持でなければならないのであって、当然、こういった道理を全児童・生徒を対象に理解させなければならない。

 いわば、「いじめられやすい子」に限ったことではなく、誰にとっても他者に迷惑や有害とはならない、誰の目にも有意義と見える自己肯定感を持つことは必要であり、持てるように全員を指導していくのが学校教育の本筋であるはずだが、そういった大局に立った教育を通してイジメ加害者を出さないようにしていくことが重要だが、尾木直樹は「いじめられやすい子」を特定する差別や人権侵害まで犯して、そのような子に限定した自己肯定感を云々する姿勢はあまりにも局所的で、狭い視野しか見えてこない。

 主体性や自立性(自律性)といった資質を育むことの肝心要の必要性に何ら視点を置かない事柄を取り上げただけでも尾木直樹の「学校におけるいじめ防止実践プログラム」はイジメ防止の目論見としては欠陥製品だと断定せざるを得ないが、「いじめっ子タイプ」や「アトピーつ子」、「いじめられやすい子」に対して意識もできずに見せている差別観や人権侵害になるという点から見ても、有害な数々の提案であり、これが、「人権・愛・ロマン」だと言うから、悪臭フンプンとしたニセモノの教育論だとする評価がふさわしい。

 では、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」について尾木直樹が実現可能性あるどのような提言をしているのか見てみる。だが、〈またどの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現も大切な視点となります。「間接的アプローチ」 では、心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立がポイントとなります。厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境をいかに緩和できるかということも学校の取り組みとしては重要になります。〉(蛍光ペンは当方)と謳い、要求するのみで、「実現」に向けた具体策についての助言は何一つ示していない。

 ここでポイントとして挙げている、「心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立」も、「居場所と出番のある学級づくりの実現」と深く関わっていて、この実現によって手にするであろう積極的な生き方が活力ある精神的な安定性への獲得に向かい「心安らぐ学習・生活環境」を自分なりに工夫して確立することになるはずで、当然、「居場所と出番」云々を先に持ってこなければならない。

 このことだけではない、「居場所と出番」こそが児童・生徒それぞれの可能性追求の機会と場を保証し、そこから自分たちなりの生きる姿が導かれていくのだから、学校は目標としては一人残らずの児童・生徒に対して「居場所と出番」を用意できる体制の構築に向けて努力しなければならない重要事項に入るはずだが、このような認識を尾木直樹は僅かでも持つことができないでいる。

 「居場所と出番」を見い出せない象徴的現象が不登校であろう。尾木直樹の書籍出版前年の2012年度の文科省調査「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」によると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数676万4619人に対して2万1243人(0.31%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数355万2663人に対して9万1446 人(2.57%)と学年を追うごとに増えていて、因みに2022年度の調査を見ると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数619万6688人に対して10万5112人(0.8%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数324万5395人に対して19万3936人(6.0%)となっていて、少子化傾向であるにも関わらず10年間で小学生の不登校児童数は約8万4千人近く増加、中学生の不登校生徒数は約10万3千人近くに増えている。

 「居場所と出番」を見い出せない児童・生徒は不登校児童・生徒に限られているわけではなく、義務教育だからと学校の勉強についていけないままに惰性で学校に行き、惰性で授業を受けている児童・生徒、あるいは参加したい運動部活動、文化部活動もなく、単に学校に機械的に顔を出すだけの児童・生徒、自らの「居場所と出番」だと心得違いをしてイジメを働く児童・生徒等々を含めると、相当数存在することが推定できる。2012年当時を考えても、無視できない人数が存在していたはずだ。

 尾木直樹は「第5章」を「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」と大々的に名付け、その線上で「学校におけるいじめ防止実践プログラム」を実効性を前提としてであろう、掲げた以上、「居場所と出番」づくりの建設的で有意義な案を優秀な教育学者としての知恵をフルに絞って提供すべき責任を負っていることになるはずだが、何一つ助言も指導も行う気配すら見せていない。尾木直樹は1972年4月から高校教諭として教師生活を出発させ、学校教師を22年間、1994年から教育評論家としての活動をスタートさせている。この書籍出版の2013年初頭まで40年余、教育に携わってきた。「居場所と出番」はイジメ問題の克服にも役立つはずだから、何かしらひとかどの見識――一家言があって然るべきだが、黙して語らず。語るべきアイディアが頭にないから、何も喋れないのだろう。

 《こどもの居場所づくりに関する調査研究報告書》(内閣官房こども家庭庁設立準備室/2023年令和5年3月)は、〈社会的居場所とは、「自分自身がポジティブに活動でき、他者から存在や能力を認められ、評価してもらえる活動場所」を指す。〉と解説している。

 当方は「居場所」とは主体性をベースとして子ども自身が持つ何らかの能力・才能に基づいた有意義と思える可能性の追求によって自己実現を見い出すことのできる機会と場と解釈している。自分から進んで行う主体性を纏うことができていればいる程、自分にとっての「居場所」は確固とした有意義性を増す。

 「居場所」を見つけることができれば、「居場所」そのものが「出番」のチャンスを与える機会と場となる。

 「居場所」を見つけ得ない児童・生徒の存在の原因の一つは価値観の多様化を言いながら、学校社会が各教科の成績を主体に運動部活動、文化部活動の成績で色付けした限られた価値観で児童・生徒を評価、結果的に可能性の追求に応じたそれなりの自己実現の機会と場がこういった画一的な価値観が占拠することになった「居場所」となっていて、価値観の多様化を反映していないことが一部の価値観以外を排除する力学を働かせることになっているからだろう。

 当然、どのような価値観にも可能な限り対応できるようにする「居場所」の多様化・広範囲化を図らなければならないことになる。この方策として実は2008年11月18日「gooブログ」投稿の《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を‐『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の中で、価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるための学校改革を提案している。「居場所」の確保については直接触れていないが、間接的には触れている。

 この記事は私自身のHP『市民ひとりひとり』の第9弾《提案します『中学校構造改革』》(2006年10月2日)に書いた内容を参考にしたもので、中学校を非義務教育化し、同時に学区制を廃止、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採って、好きな教科を学ばせる無試験入学の"専門学校化"とすることを提案している。「自ら学ぶ」形式の選択は自ずと自立性(自律性)と主体性を必須要件とすることとなり、そのような態度の育みへと向かう。

 但し一教科を選択後、自身が学びたいこととの違いが気づいた場合は、自己責任に於いて他教科への中途転籍を許すこととする。中学校を例え非義務教育化しても、最低限高卒の学歴は獲得したい一般的な学歴主義から、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、中学校を非義務教育化しても、中学校へ進むだろうと予想されること。この記事には書かなかったが、非義務教育化しても、国が授業料その他を現在通りに負担すべきだろう。

 学区制を廃止するのは一教科選択の生徒数がクラスを編成するには少人数過ぎる場合は近隣の中学校の同じ教科の生徒との合同の学級を組むためである。それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とする。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で仕切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。

 例えば一教科選択の例としてマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のためにマンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。好きな教科の選択が児童・生徒の価値観の多様化に応じる体制とすることができ、結果的に「居場所」の確保に繋げることができる。

 自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。

 譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となる。いわば自己選択した一教科を学問への昇華へと持っていく。

 具体的にはマンガ科に於いてもただ単にマンガのストーリー作りと絵の描き方を学ぶだけではなく、世界各国のマンガの歴史についてとその伝統、現代のマンガ状況、それぞれの国における外国のマンガの影響、マンガ表現に現れたそれぞれの民族性、あるいは国民性、文化、さらにマンガに関する数々の評論について学ぶ。それはマンガ科に限ったことではない、人間や社会を知るプロセスとする。人間を知り、社会を知り、それぞれの営みを知ることで、生徒はそれぞれに世界を広げていく。

 このことは土いじりが好きな生徒の陶芸科に於いても準拠するプロセスとする。各国の陶芸について学び、その歴史について学ぶ。日本各地の陶芸について学ぶ。記事では触れなかったが、勿論、中間試験、期末試験等の試験は行う。出題の素材は無限と言えるだろう。

 以上、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性の中学校非義務教育化の"専門学校化"によって、価値観の多様化に応じた「居場所」の確保について大体纏めてみたが、中学校の非義務教育化が非現実的に過ぎるなら、義務教育のまま一教科選択性の"専門学校化"とすることも一つの手である。

 だが、学校社会は「価値観の多様化」を言いながら、その多様化に応えて、一部の児童・生徒以外に対してはそれぞれに相応しい「居場所」を提供できず、不登校やイジメ、無気力、その他の問題行動を抑えることができないでいる。

 尾木直樹はイジメ対策として「居場所と出番」づくり以外に「厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境」の緩和、「子どもたちがこれまでの自分とは異なる一歩前進した『新しい自分づくり』に挑戦できる」サポート体制の構築等々の必要性を挙げているが、これらの必要性はそれぞれの児童・生徒のそれぞれの「居場所と出番」を用意できる体制を前以って整えておかなければ、満足な解決は期待できないはずだ。

 にも関わらず尾木直樹は、〈理念に基づいた確たる構想抜きにしては、学校からいじめを吹き飛ばすことなど叶いません〉と、「構想」だけでイジメを吹き飛ばすことができるかのような言説を弄して得意になっている。この点だけでその悪質性の程度は小さいとは言えないが、「構想」の必要性だけを口にしてその実現は学校現場への丸投げとなっているのだから、綺麗事を口にしているだけの無責任は底が知れない。

 綺麗事に過ぎない「」は必要ない。それぞれの児童・生徒が自分で見つけるか、父母や教師の手助けを得て見つけるかした、自らが得意とすることのできる何らかの才能・能力を自身の可能性追求の素材として何らかの有意義な自己実現を目指すことのできる「居場所と出番」を学校社会に用意する具体的な計画と実行こそが求められている。

 義務教育のままであっても、非義務教育化であっても、学区制を廃止する「自ら学ぶ」形式の一教科選択性採用の児童・生徒の多様な価値観に対応させる中学校の"専門学校化"は決して非現実的な提案ではない。このことは大学の「一芸入試」が十分に証明してくれる。自己選択によって一つの教科を学問としてそれなりに極めることができれば、手にする知識・教養はほぼ暗記教育で成り立っている従来の教科教育で手にする知識・教養よりも遥かに柔軟性に満ちた生きる力を与えてくれることになるだろう。

 何らかの才能・能力を試行錯誤する可能性の追求を自己選択を通して何らかの有意義な自己実現へと持っていく。この一連の試みを自らの「居場所と出番」とする。有意義な活動に向けた自己選択は自ずと主体性を育み高め、自立性(自律性)の確立を伴い、自己責任意識を確固としたものにしていき、自己実現のさらなる高みに向けた引き続いての可能性の追求を試みる方向に向かう。

 イジメという活動に基づいた可能性の追求など、取るに足らないちっぽけなものに見えてくるに違いない。

 尾木直樹は日本の教育にとって害以外の何ものでもない。
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(1)

2024-03-16 04:00:55 | 教育
  以下の記事は《八方美人尾木ママの"イジメ論"を斬るブログby手代木恕之》から転載したものです。

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)の「子ども自身が中心になってこそ『いじめ』を駆逐できるのです」から。

 ここでは「『いじめ』を駆逐」、いわばイジメの撲滅、イジメの消滅を謳っている。「発生は防げなくても、いじめは克服さえできればいいのです」の主張を忘れた二枚舌となっている。

 1997年に北欧に視察に行った。スウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」という話をした。スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっていて、どんなに善意からであっても大人の独断専行は許されていない。イジメ問題に対しても小学校でさえ子どもたち自身による取り組みが重視されているとの説明を受けた。

 この"視察"から尾木直樹は、〈「子どもの問題のスペシャリストは子ども」との観点に立つ。〉姿勢を、いわば教訓とするに至ったのだろう。ここまでの記述で尾木直樹が如何にどうしようもなく単細胞で、底の浅い解釈と発想しかできないことに気づかなければならない。理由は少しあとに述べる。
 
 この教訓が、「現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と早くも安請け合いでしかない確約を推定するに至っている。この推定も次の瞬間骨抜きにして、〈子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉とほぼ確約に近づけている。その方法論、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」の中でも取り上げているが、生徒会の中に「いじめ対策委員会」をつくり、〈「いじめをしない、させない、見逃さない」をスローガンに掲げた「三ない運動」を立ち上げていく。〉――

 そして最後は、〈こうした子ども自身の手による自主的な活動こそ、いじめをなくすための最善の方法かもしれません。〉と、ほぼ確約から「しれません」の推定に戻してしまっている。視察先のスウェーデンの子ども問題の専門家から「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と聞かされた話まで持ち出していながら、「最善の方法となるでしょう」と確約することもできず、「最善の方法かもしれません」では情けなさすぎると自分自身では気づかない。

 スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっている。意見を聞き、その意見を参考にすることを可能とするには意見聴取対象の子どもたちが主体性と自立性(あるいは自律性)をそれぞれの年齢相応に備えていることが条件となるはずだ。主体性も持たない、自立性(あるいは自律性)も欠いているでは、意見らしい意見を持つことはできないからだ。

 前のブログで尾木直樹が学校の主人公に子どもを据えることは、21世紀の学校づくりを展望したとき、国際的動向や子どもの権利条約の精神から考えても当然の観点で、歴史的な流れと言えると解説したのに対して、〈当方の考えでは子どもは学校の主人公足り得ない。教師と児童・生徒はあくまでも教える・教えられる関係にあるが、児童・生徒を一個一個の人格を有した個人と看做して、それぞれの主体性が幼稚な状況にあったとしても、その主体性を可能な限り尊重する関係を取らなければならない。教師のこのような可能な限りの主体性尊重の姿勢が児童・生徒の自立心(あるいは自律心)の育みに繋がり、自立心(あるいは自律心)の確立に向かう過程で児童・生徒の主体性はより確固とした姿を取っていく。〉と書いているが、尾木直樹はスウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と指摘した時点か、あるいは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞く慣習となっていることを聞かされた時点でスウェーデンの子どもたちは子ども問題のスペシャリストとして耐えうる、あるいは意見聴取に耐えうる主体性や自立性(あるいは自律性)を備えていることに気づかなければならなかった。気づかないから、"単細胞"で、底の浅い解釈と発想しかできないと書いた。

 主体性も欠いている、自立性(あるいは自律性)も欠いている子どもたちが「子ども問題のスペシャリスト」になり得ないし、子ども関係の法律に関する意見聴取の対象になりうるはずはない。このことを事実だと証明するためにネット上を探し、次の記事、《「主体性」を重視するスウェーデン教育》(日本私立大学協会/平成24年8月22日)に出会うことができた。

 次の一文がある、スウェーデンの〈教育制度で「主体性」が重視されていることだ。スウェーデンの教育の目標は、社会で経済的に自立して生きていける人を生み出すことであり、教育制度はそれを支えるものである。〉――

 記事を纏めてみると、先ず9年制一貫の小・中学校初等教育卒業後、中等教育として高校進学と成人教育プログラムへの進学(他の記事を調べたところ、就職を目指す一般教養も含む職業プログラムのことらしい)の二つの選択肢があり、高校では進学コースと就職コースに分かれていて、就職コースはホテル・レストランコース、保育士・教師コース等の17のプログラムが用意されている。一方高校に進学せずに成人教育プログラムを選択した場合でも、卒業後は就職以外にも大学進学も可能で、個人の選択(=自己決定)に任されている。就職したとしても、学び直しをしたくなって、大学入学を目指すのも個人の選択にかかることになる。

 さらに記事はスウェーデンの統計局実施の高校生意識調査を伝えていて、「卒業後3年以内に大学に行きたいか?」の設問に対して、「はい」は6割、「いいえ」が4割。大学進学猶予期間を4割が3年以上に置いているという。Google AIに聞くと、高卒後から大学進学までの間に、あるいは在学中、卒業から就職までの間に一般的にはということなのだろう、1年間の猶予期間(Gap Year)を置き、留学や旅行、インターンシップ、ボランティア等の社会体験活動を行うことがありますと、個人の選択として根付いている社会的慣習であることを紹介している。

 個人の選択という自己決定行為は主体性と深く関わり、主体的選択としての行動志向を育む。そして個人の選択としての主体性を持たせた自己決定行為は自己責任意識を自ずと芽生えさせ、自己責任意識を裏打ちとした自己決定行為という形を取ることになって、主体性をより確固とした資質とすることになる。

 次も記事が触れていないことだが、スウェーデンの教育理念が"主体性重視"であるなら、親が学校で植え付けられた"主体性重視"の態度を日常的に子どもに求めるようになるだろうし、日本の幼稚園・保育園に当たる、1歳半頃から預かる就学前学校でも、"主体性重視"の行動を求められ、ある年齢に達したなら、父母等の身近な存在から成長過程の節目節目で自己決定に基づいた個人の選択を求められることを実体験としても、社会的慣習となっているということも見聞きして成長していくことになれば、成長と共にハッキリとした意味、場面を取って体験を積み重ねていくこととなり、体験の積み重ねと共に自己決定に基づいた主体性を持った姿勢・行動が常態化していく。

 そして主体性が育まれるに伴って自立心(自律心)は芽生え育っていき、自立心(自律心)を獲得する程に主体性はより確かな姿勢となり、相互に影響し合って育んでいくことになると同時に主体性や自立心(自律心)はこれらとの関連で常について回る自己決定意識や自己責任意識を高めていき、これらの一連のサイクルの各要素は人生の各進路や日常生活の各場面で発揮することが求められて、あるいは自分から進んで発揮していき、自明の資質としていく。

 勿論、言葉通りに理想の姿を取るわけではないだろうが、"主体性重視"という目標を立てなければ、自分から進んで自立的、あるいは自律的に行動するという姿勢・行動も、その姿勢・行動に責任を持つ意識も自覚な育みに向かいにくくなり、このことに応じてこれらの姿勢・行動を自覚的に取る傾向も可能な限り全体的趨勢とすることは難しくなるなるはずである。

 とは言っても、スウェーデンでもイジメは存在していて、《OECD 生徒の学習到達度調査(PISA)2015年調査国際結果報告書『生徒のwell-being(生徒の「健やかさ・幸福度」)』(概要)》の解説によると、〈「いじめの被害経験」指標の平均値を見ると、日本の値は「-0.21」で、OECD平均の0.00よりも小さい。日本について指標を構成する各項目の割合を見みると、最も割合が多いのは、言語的ないじめの「からかわれた」である。次いで、物理的ないじめである「たたかれたり、押されたりした」、関係的ないじめである「意地の悪いうわさを流された」と続く。日本は「からかわれた」及び「たたかれたり、押されたりした」の2項目の割合についてOECD平均を上回り、「仲間外れにされた」「おどされた」「物を取られたり、壊されたりした」「意地の悪いうわさを流された」の4項目の割合がOECD平均を下回る。〉(文飾は当方)としているのに対してスウェーデンの「いじめの被害経験」指標は「-0.11」で日本の約半分となっている。この非常に少ないということ自体がスウェーデンの子どもたちの多くが主体性や自立心(自律心)を獲得するに至っていることの反映と見なければならない。

 視察期間(2015年9月9日〜9月14日)の『スウェーデン王国視察報告書』(YEC(若者エンパワメント委員会))によると、〈スウェーデンでは60、000人の子供と園児がいじめを受けており、これは各クラスに 1、2人がいじめを受けていることになる。〉と伝えている。

 対して尾木直樹書籍『「脱いじめ」論』2013年2月出版近辺の文科省調査2012年度の小学校の
イジメ認知件数は11万7384件で、1000人当たりでは17.4件となっているが、上記報告書では1000人当たりは出ていないから、分からないが、園児を混じえていながら6万人というのは日本の小学校のイジメ認知件数を1件1人としたとしても、約2倍近くの多さになる。1件2人としてほぼ近似値を取ることになるが、園児を差し引くと、日本の方の多さは変わらない。

 上記「報告書」には主体性や自立性(あるいは自律性)重視が如何に生かされているかを伝えている箇所がある。文飾は当方。

 〈政治との近さである。スウェーデンの若者には政治家と触れ合う場が日本と比べて圧倒的に多い。大人だけでなく若者自身が政治家と対面する場を積極的に作り出している。そして、政治家の中にも「若者がこれからの社会で一番長く生きるのだから、若者の意見を聴くことは当然である」と考え、積極的に若者を意思決定の場に参加させている。日本では、若者は知識がなく、未来を担う存在として彼らが社会の決定に参画することは敬遠されがちである。スウェーデンではこういった考えがあるからこそ、19歳や20歳で議員になる若者が当たり前にいる。〉――

 スウェーデンの選挙権も被選挙権も共に18歳だと言う。18歳であったとしても政治を任せるに足る主体性や自立性(あるいは自律性)を背景とした自己決定意識や自己責任意識を備えていると見られているということであろう。

 何度でも取り上げているが、尾木直樹自身が、〈子どもの発達の視点から見ると自立できていない子、もっとやさしく平らな言い方をすると"自分を持てていない子"というのが、「いじめているときのいじめっ子」の非常に大きな特徴〉と解説していることの裏を返すと、イジメの抑止には子どもたちの自立心(自律心)の獲得如何にかかっていることになるにも関わらず、『学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像』は勿論、その他の解説でも、獲得如何にかかっていることを思いつかないままに、あるいは抜かしたままに『「脱いじめ」論』を得々と展開している。自立心(自律心)は主体性の獲得と共に育まれていく。

 また前のところで、傍観者の存在は主体性や自立性(自律性)の欠如と深く関わっていることをあとで述べると書いたが、イジメの目撃者が主体性や自立性(自律性)を行動様式としていたなら、イジメ加害者が怖い存在であったとしても、友人の何人かに働きかけて自分たちから多数派を形成してイジメを止めるか、教師に訴えるかしてイジメをやめさせる行動に出るだろうし、少なくとも自らをいつまでも傍観者の位置に沈めることは避けるはずで、こういったこともスウェーデンのイジメが少ないことの理由と見ることもできる。

 要するにスウェーデンの子ども問題専門家の言葉はスウェーデン子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己決定意識や自己責任意識等の態度・姿勢をそれ相応に備えていることに信頼を置いた、「子どもは、子ども問題のスペシャリスト」の位置づけであり、子どもたち自身の意見を聞くというシステムであって、そのことに一切気づかず、考えずにスウェーデンの子どもたちと日本の子どもたちを同列に置き、同じ役割を機械的に課して、そこにスウェーデンの子どもたちと同様の効果を期待する安易さは底の浅い解釈と発想に基づいているとしか言いようがなく、"どうしようもない単細胞"とする以外の評価は下しようがない。

八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)に続く
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)

2024-03-16 03:58:30 | 教育
 大体が日本の子どもを子ども問題のスペシャリストと位置づけることの効果を、「これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と最大限に持ち上げているが、尾木直樹がこれまでに解説してきたイジメ解決の困難性を忘却の彼方に放り投げて180度転換させた、無責任過ぎる期待感となる。この無責任は尾木直樹を信用できない人間という評価に変えうる。

 日本の子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等をそれ相応に備えないままに、あるいはこれらの資質を育むことを頭に置かないままに「いじめ対策委員会」を立ち上げようと、「いじめをしない、させない、見逃さない」の「三ない運動」を展開しようと、学校が用意したお仕着せをそのまま纏う
他力本願の取り組みとなる可能性が高く、他力本願が与えることになる従属的対応のままに推移する恐れが生じる。この恐れは、イジメが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の欠如に端を発していることと考え併せた場合、イジメ認知件数の変わらない推移か、逆に増加傾向という姿となって現れたとしても、止むを得ないことになる。いわばイジメ認知件数と主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の資質の欠如の度合いはほぼ正比例の関係を取るということである。

 以上のことを頭に置いて、尾木直樹の以後の解説を眺めてみる。子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組んだとき、初めてイジメのない学級や学校の実現が可能となる。理由は学校の中にいじめがあることを一番よくわかっているのは子どもたちであることと、教師には発見できていなくても、子どもたちは身近にイジメがあることを知っているから…。

 子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組むには主体性や自立性(自律性)といった資質を積極的な行動要素としていなければならない。例え教師には発見できていなくて、子どもたちが身近にイジメがあることを知ることになったとしても、現実問題としてクラスの殆どを占める数で存在し続けているイジメ傍観者は教師より先に知るイジメの存在の把握を無効としている姿であって、同時に主体性や自立性(自律性)といった資質を行動要素として抱えていない姿を示していることになり、イジメ問題を自らの課題とさせることは難しく、学校側の指示に従う形の取り組みであった場合、言われたからするという積極性とは正反対の従属性や惰性に陥りやすく、その分、効果は減じることになり、尾木直樹のイジメのない学級や学校の実現が可能となるという約束は額面通りには受け取れなくなる。

 尾木直樹は引き続いて主体性や自立性(自律性)といった資質の必要性を頭に置くことができずに仲間の同調圧力(ピアプレッシャー)や自身が次はイジメのターゲットになる恐れや思春期のプライドからイジメを話したがらない傾向を考慮して、〈そこで仲間内の生徒会が「3ない運動」を立ち上げてくれたらどうでしょうか。〉と、主体性や自立性(自律性)といった資質を個々に育む方向には向かわずに、あろうことか逆の他力本願を勧めている。断るまでもなく、他力本願の姿勢・行動は主体性や自立性(自律性)といった資質を欠いていることから発する姿勢・行動である。

 だが、尾木直樹はこの他力本願のイジメ根絶の効果を高々と謳い上げている。

・スローガンとして打ち出されていれば、「ほら、3ないだよ。やめなよ」と言うことができる。
・「みんなで決めたこと」という錦の御旗があることで、全体の意志をバックに「3ないだから、いじめやめよう」と明るく堂々と言うことができる。
・元々どの子の中にも「いじめはよくない」、「人の心を傷つけることは恥ずかしい」という気持ちはあるのだが、一人声高に言い、前面に立つ勇気がなかなか持てないだけのこと。
・生徒会という子どもたちの自治の最高機関が「いじめない、させない、見逃さない」を謳い、校内のあちこちにスローガンを掲示してくれれば、俄然行動もしやすくなる。
・一人ひとりの心のうちにあった認識が、逆の同調圧力(ピアプレッシャー)として良い方向に作用し、周りにつられて「みんながいじめを追放したがっている。自分も行動していかなくては」と動き出す子も増えていく。
・それが全体の大きなうねりとなって行き渡れば、いじめの駆逐は夢ではない。――

 全てが自分から動くのではなく、他を頼り、他の動きを見て、自分が動く。周囲の形勢を見ることになり、形勢に応じて動くことになるから、例え「それが全体の大きなうねり」となったとしても、精々付和雷同を正体とすることになって、一時的か、その場限りか、その程度で、ホンモノのうねりとはなり得ない。主体性や自立性(自律性)の行動様式に従って自分たちから立ち上がるという形式を、それらを欠いているがゆえに取ることができないだろうからだ。 

 当然、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」という発案も、「子どもが中心」という熱い期待も、綺麗事の幻想に過ぎないことを暴露することになる。

 〈子どもが中心にならない「いじめ対策」は、形式的、表面的にいじめがなくなったように見えても、いじめの根を残したままになってしまいます。根っこを埋もれさせたままにしないため、極論をいえば、私は「子ども問題のスペシャリスト」である子どもたちに任せてしまうのがよいと思います。〉――

 子どもが中心のイジメ対策はイジメの根を残さない、教師指導のイジメ対策はイジメの根を残したままになる。それ程にも子どもを万能な存在と見ることができるのは尾木直樹の教育者としての人徳の深さなのだろう。子どもと言えども、感情の生き物である。その上、イジメ加害者にしても主体性や自立性(自律性)といった資質が成長途上であった場合、あるいは未成熟な状態にあった場合、そのような状況に応じて感情のコントロールも未成熟な状態にあると見なければならないから、これらの事情が障害となってイジメ被害者側との関係修復に素直に割り切ることができなければ、否でも根を残すケースも出てくる。出てこないという保証はどこにもない。

 要するに尾木直樹がここで解説している、子ども中心であればイジメの根を残さない解決策が可能という見方はイジメ解決側の事情からのみ見ていて、イジメ加害者側の利害を抜きにしているからである。教師指導でのイジメ解決であろうと、子ども中心のイジメ解決が可能であったとしても、現実問題として解決後、暫くは監視を続けなければならない事情はイジメ加害者側が感情の生き物として悪感情を再発させる恐れや可能性を予測しているからだろう。尾木直樹は教師を何十年、教育評論家も何十年とやってきて、実際にはイジメの何たるかを何も弁えていない無知蒙昧の輩のようだ。だから、何の根拠もなしに子ども中心のイジメ解決は根を残さないなどいうデタラメを言うことができる。

 イジメを抑制していくためにも、イジメ傍観者を少なくしていくためにも、既に述べているようにどのような能力・才能に基づいた、どういった活動に自らの可能性を置いて学校生活で望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、見い出しているのか、あるいは将来的な生活に向けてどういった活動で自らの可能性を試し、望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、機会あるごとに問いかけて、それぞれの行動を自己省察させる"可能性教育"を行う。

 自己省察は自ずと他者省察に向い、自他の省察能力を育み、この自他省察の自分という人間を考えさせて、他人という人間を考えさせる働き合いによって、「こうあるべきだ」、「こうあるべきではない」と考えるようになり、そのように考える働きが自分の意志や判断に基づいていて自覚的に行動する態度や性格を指す主体性を育む方向に進むと同時に自分の考えで自ら行動するという点で意味の重なる自立心と自律心を併せ育んでいく。主体性や自立心(自律心)が社会的な規範との兼ね合いで正しいことか正しくないかを判断させて、自己の価値観を正しい方向に形作っていき、それが良心という形を取って、例え突発的な感情に流されてイジメてしまったとしても、その行為に負けてしまうことなく、身に付けた諸々の行動要素によって感情のコントロールが働くこととなり、自己抑制の理性が機能するという道筋を取り、自分からイジメを止めることになるだろう。

 一方でイジメを許していることになる傍観者となることは倫理的に許すことのできない自己の価値観(=良心)との間に心理的なねじりを生み、そのねじりに人間の自然な感情によって後ろ暗さを感じることとなり、その後ろ暗さを主体性や自立心(自律心)によって備えることになる自己責任意識から解消すべく、知恵を働かす。働かせなければ、主体性や自立心(自律心)を自らの資質としたこと、姿勢・行動とした意味を失う。

 イジメの抑止についても、イジメの傍観者を減らしていくためにも、児童・生徒に責任ある行動を取らせるためにも主体性や自立心(自律心)の育みに視点を置いた教育が必要だが、尾木直樹にはこの視点は一切なく、イジメを「本気でなくす」だ、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」だと、役に立たない綺麗事を撒き散らしている。

 当然、子どもたちを「子ども問題のスペシャリスト」との位置づけを行う場合にしても、その資格は主体性や自立性(自律性)、自己決定意識、自己責任意識等々の資質のそれ相応の体現者であることを頭に置かなければならないが、尾木直樹はこういったことにも頭を置くことができないのだから、尾木直樹の「いじめ対策」に於ける"子どもスペシャリスト論"は幻想そのものの砂上の楼閣に過ぎない。現実問題としても、イジメ傍観者内には"正義派"が3人はいて、その3人を中心にイジメ加害者に対抗する多数派を形勢、イジメ問題を解決すべきという発案自体が当方が指摘したとおりに矛盾に満ちている上に主体性等々の資質の育みの重要性を忘却しているのだから、子ども自身にイジメ問題に立ち向かわせることはイジメ加害者側の勢力次第という当てにならない成り行きを示すことになるだろう。

 尾木直樹の最後の纏め。〈大人が躍起になっていじめを封じ込めるのでなく、子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼して、子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく方向にもっていくことだと思います。いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくことではないでしょうか。〉――

・子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼する
・子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく
・いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくこと

 尾木直樹は「子どもたちが主役」を何度か取り上げている。子どもたちを信頼する思い遣り、理解する優しさに満ちた姿は見て取れる。これだけ信頼され、深く理解されたなら、信頼と理解に応えることになるだろう。既に触れていることだが、信頼と理解に応えるには子どもたちがそこに存在するだけで可能となるわけではないことは尾木直樹も認識していなければならないが、そこに存在するだけで可能となるような言い回ししか窺うことができない。

 子どもたちが主体性や自立性(自律性)を年齢相応に育むまでに至らずに自己決定意識や自己責任意識を欠いていたなら、このことはイジメを目の前にしてもクラスの殆がイジメの傍観者に成り下がることが証明していることで、このような状況下で子どもたちを主役に位置づけ、尾木直樹が信頼と理解を寄せて期待する役割を十分にこなすことは不可能なのは目に見えている。

 結局のところ、1997年のスウェーデンの教育視察は深く理解できずにその上っ面だけを参考にして、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」だと自らの底の浅い解釈と発想を得意げに振り回したものの、役にも立たない見当違いを大真面目に演じているだけのことで、尾木直樹は教育評論家を名乗るピエロに過ぎない。だが、そのことに誰も気づかない。

 今回はここまで。

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イジメ未然防止目的のロールプレイ――厭なことは「やめて欲しい」で始まるイジメ態様に応じた参考例をいくつか創作してみた

2023-01-15 10:45:25 | 教育

 2022/12/9更新の「ブログ」(2)でアドリブを用いたロールプレイの参考例をいくつかを例示したが、改めて目的や効果、方法等を纏めた上で例示した参考例を再度記載し、さらにイジメ態様に応じた新たな参考例をいくつか創作してみた。イジメの未然防止に少しは役立てばいいが、どんなものか。

 再度触れるが、イジメは怒り、憎しみ、恨み、嫉み、嘲り(面白がって笑う)、間違った優越感の誇示(その裏返しとしての蔑み)等々の負の感情の発露によって引き起こされる。当然、その未然防止はイジメ側の児童・生徒の負の感情のコントロールに負う。小中学校のイジメの未然防止を目的の一つとしたロールプレイング、略してロールプレイにしても、負の感情のコントロールに主眼を置いているはずで、この線に添ったイジメの様々な態様に応じた場面を設定してアドリブ(即興劇)で演じさせるロールプレイの参考例ということになる。

 アドリブ・ロールプレイのルールは次のとおり。

 1.現実に起きているイジメにどういった種類があるのか、生徒それぞれの知識となっていると思うが、その態様や特質、原因・背景等々を改めて復習させておく。既知の知識・情報についての記憶を新たにさせるためと未知の知識・情報を新たに記憶させるために。

 2.アドリブとする目的は相手との関係に応じて相互に希望通りの言葉を的確・率直に作り出す会話思考能力とその言葉を思い通りに相互に伝え合う会話伝達能力を養い、両能力の取得によって険悪な人間関係にあっても、言葉を用いた秩序だったコミュニケーションを生み出すことのできる訓練の一つとするためである。

 3.イジメのシチュエーションと大まかな展開は学校側が指示し、導入部はイジメ被害者がイジメ加害者に対して「イジメはやめてくれ」と断る場面から入ることを決まりとする。目的は上記訓練の必要不可欠な実践例の一つとするためでもあるが、何よりも大切なことは嫌なことをされたときには断ることのできる会話を習慣とすることが当たり前のことだと児童・生徒全員に認識させることにある。ロールプレイの登場人物も観客もイジメを断る場面を当然の光景として頭に記憶するようになれば、断らないことの方が生理的にも不自然な態度と認識することになる。イジメ加害者に対しても同じ感覚に持っていくようにする。

 さらにイジメ側が単にからかっているだけだ、懲らしめるためにやっているだけと思ってしている行為であっても、相手が嫌な思いがすると伝えた場合、少なくとも相手の言葉の正当性を考えざるを得なくなって、自分の行為に対しての無考えな容認(頭から間違ってはいないとする思い込み)は許されなくなる。

 4.現実のイジメで一方の断りに対して相対するもう一方が断られる状況に立たれさることによって例えカッとなったとしても、一方の断ることをロールプレイで演じ続けた場合、相手が嫌がることをしたことに対する自然な反応だと学ぶことになり、この学びは感情のコントロールの学びを唆す。嫌なことをされたときは断ることを当たり前の感覚とし、相手が嫌がることをしてしまった場合は断られることを当たり前の感覚とする場所にまで持っていくよう努める。

 5.ロールプレイを通してイジメの加害者、被害者、観客としてイジメの場面とイジメに対する善悪の感覚を、現実に似せた状況に身を置き、現実に起こるであろう様々な感覚を体験することを意味する疑似体験することにより、それが頭の中に記憶として僅かにでも残れば、のちにイジメ加害者の立場に立つ、あるいは被害者、観客それぞれが似たような立場に立たされたとき、ロールプレイでの疑似体験を実体験する形を取ることになるから、僅かにでも残ったロールプレイでの記憶はよりはっきりとした姿かたちで再現を受けやすく、イジメの加害者は自分は今イジメを働いている、イジメの被害者は今イジメを受けている、あるいはその場に居合わせているイジメの観客は今イジメを目にしている等々、それぞれに現在進行形の自己認識(自分は今何をしているかという認識)を促せやすくすることになり、同時に疑似体験で受けた善悪の感覚をも自己認識(自分は今何をどのように感じているかという認識)を発動させるキッカケを与え、自分自身の言動を省みて善悪いずれかを判断するのかの自己省察の場に立たざるを得ないよう持っていく。つまりイジメ加害者に対してであっても、結論はどう自己認識しようが、善悪いずれかを考えざるを得ない自己省察の場所に立たせるよう取り計らう。

 6.自己省察をより確実に習慣づけるためにロールプレイの出演者それぞれの言葉から人間を観察するよう求める。クラスメートとして人柄をよく知っていても、アドリブでどのような人間(役柄)を演じようとしているのか、口にした言葉自体から観察し、自身の性格や人柄との違いや似た点を見つけ出すよう求める。この自分で自分の性格や人柄を省みる心理的働きも「自己省察」であり、他者の性格や人柄を知ろうとする心理的働きが「他者省察」であって、自己省察と他者省察の比較によって言動の善悪を知ったり、長所や欠点を知ることになると教える。小学校低学年には教師が言葉を砕いて教え込む。他者省察によって知ることになる他人の良し悪しを自己省察によって知ることになる自分自身の良し悪しと比較して、他者の優れた点を学んだり、自身の劣る点を正したりするところにまで行く、この状況は何かしらの成長を示すことになるから、自己省察と他者省察は成長を促す要素としての意味を持つことになると教える。

 自他の省察を通して自分の長所・欠点を知りながら、手つかずのままにしておくのは自己省察と他者省察の意味を失うだけではなく、人間としての成長を望まない態度となる。ロールプレイを用いて自他省察の心理的働きを習慣づけ、この習慣づけを通して"成長"というものを意識させるよう心がけ、イジメの未然防止に役立てるよう努める。つまり自分を成長させるためには他人の行動や発言を省みる他者省察との比較で自身の行動や発言を省みる自己省察は欠かすことができない必要条件となる。欠かせている人間、つまり他人の言動を省みることもなく、自身の言動をも省みることのない人間は自己の感性や感覚、考えのみに従う自己中心の生き方をしているからであって、そのような生き方は他者との関係で成長する機会を持ち難い人間と言える。

 また、自己省察によって自分の長所・欠点を知り、他者省察で他者の長所・欠点を知ることになれば、両者の長所・欠点の比較から、自身も他者も絶対的価値観を持って存在しているのではなく、それぞれに長所もあれば欠点もあるという他者との比較で自分を見る、逆に自分との比較で他者を見る価値観の比較化(価値観の相対化を価値観の比較化と呼び慣わすことにする)の原理を自然と学ぶことになり、この学びは負の感情のコントロールを身につける場所に運んでくれるはずである。なぜなら、自分は他者と同様に絶対的存在ではなく、長所もあるが欠点もある人間だと価値観の比較化ができれば、他者の長所に対しても欠点に対しても寛大になりうるし、欠点を笑って攻撃を加えることなどはできなくなって、知らず知らずのうちに負の感情のコントロールを同時に発動することになるからである。

 7.ロールプレイは各教室でクラスメートのみで演じるのではなく、小学生、中学生、それぞれが講堂や体育館に全生徒を集めて全校集会形式で行う。理由はクラス内では自他の関係性に慣れてしまっていて、他者を意識する気持ちが薄れがちとなり、その分集中力を欠くことになるが、全校生徒が体育館なり、講堂なりにその都度集合した場合、いつもとは違う大勢の他者存在を意識して改まった気持ちからのそれなりの緊張感を得て、集中力が増し、ロールプレイに注視する効果が期待できるからである。さらにこの効果を最大化するために席はクラスごと、学年ごと、男子生徒、女子生徒ごとに固めるのではなく、見知らぬ者同士を順不同に入り交じるようにする。

 8.小学生は演劇クラブ所属生徒や児童会役員、中学生は演劇部所属生徒や生徒会役員等のうちの各上級生が人前で話すことに慣れていることを見込んで、彼らから始める。イジメのシチュエーションと大まかな展開は学校側が指示するが、その前提としてのロールプレイのテーマと登場人物は校内生徒指導委員会等が決め、生徒指導主任等が司会と進行役を務める。以後取り上げるアドリブ・ロールプレイはあくまでも参考例、サンプルだから、当面はシナリオとして用いたとしても、ゆくゆくは児童・生徒それぞれに自分独自の言葉を駆使したロールプレイへの、それぞれのテーマに添ったステップアップを求めていく。

 最初からは臨機応変な言葉の遣り取りは難しくても、考える力や会話力を養うという目的を共通認識とさせて、シナリオをベースにアドリブを少しずつ混じえていき、混じえたアドリブを参考材料や反省材料に学習させ合い、最終的にはシナリオを離れて、アドリブのみでコミュニケーション能力を獲得できるように指導していく。

 9.校内生徒指導委員会指導主任はロールプレイの開始前には「誰もが生きている一つの一つの命だ」ということを伝えておくべきだろう。「自分だけが喜怒哀楽の感情、喜びや怒りや哀しみや楽しみの感情を持って生きている命というわけではない。暗い一辺倒で何の取り柄もないように見える生徒であっても、ほかの生徒と同じように喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている一つの命だということを忘れないように。暗い、キモイと言われれば、その命は傷つき、怒りの感情を持ったり、哀しみの感情を湧かせたりする。こういったことが理解できて、それぞれの命を尊重できる心の広い人間に成長していけるようにしなければ、生きている命としてどこがが足りないことになる」と。

 自分だけではなく、どの生徒もそれぞれに喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている大切な命であるという価値観の比較化と比較化を可能とする成長を求めていき、求めに応じた成長を見せることができれば、成長に応じて負の感情をコントロールする能力も自ずと身についていく。

 10.指導主任はアドリブで演じることになるロールプレイだから、登場人物が次のセリフに詰まった場合、適宜手助けする。手助けは自他の省察を自ずと働かせて価値観の比較化と負の感情のコントロールを仕向ける方向への展開とするように努める。指導主任は適宜終了を告げ、解説と講評を行う。指導主任以外が意見を述べる場合もあるだろうが、ここでは指導主任のみが解説と講評を行う形式を採る。

 では、上記伝えた当ブログ記事で取り上げたアドリブ・ロールプレイを手直しが必要なところは手直しして、再度提示するところから始める。小学校か、中学校か、あるいは学年の記載があるなしに関係なしにそれぞれの区分を超えて広範囲に応用して貰うことにする。

 わざと靴を踏むイジメ

 被害者A「靴を踏むのはやめてくれ」
 加害者B「間違えて踏んだんだ」
 (言葉に詰まったなら、指導主任が手助けする。)
 指導主任「イジメは特定の誰か1人か2人を標的にする。イジメなら踏む生徒と踏まれる生徒は決まっていて、しかも何回も踏まれることになる」
 被害者A「何回も踏んでいる。同じ人間の靴を何回も踏み間違えるわけはない。目的があって、わざと踏んでいるんだ」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「何か原因があって、嫌がらせをするという結果がある。原因は面白くない態度を取られたとか、面白くないことを言われたとか、何かで得意になっていて面白くないとか。原因を尋ねたまえ」
 被害者A「なぜ踏むのか教えて欲しい」
 加害者B「いつもいい子ぶっている」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「自分で気がつかないだけじゃないか。いい子ぶってる」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「みんなからもいい子ぶってるって見られている」
 指導主任「終了。加害者Bは被害者Aがいい子ぶってると思っていて、それが面白くなくて、懲らしめてやろうと思って靴を踏む嫌がらせをした。そうなんだな?」
 加害者B「そう」
 指導主任「誰かをいい子ぶっていると思ってしまうと、大抵、厭な奴と誰もが抱く自然な感情だと思う。どこまで懲らしめるつもりでいたのだろうか。不登校になるまで、あるいはイジメを苦にして首を吊るか、ビルの屋上から飛び降りるまでだろうか」
 加害者B「・・・・」(答えることはできないだろう)
 指導主任「だけど、いい子ぶっていると思わない生徒もいるはずだ。クラスの全員が全員共にいい子ぶっているとは思っていないと思う。例えA自身がいい子ぶっているのが事実だとして、いい子ぶるのはA自身の問題で、いい子ぶっていて面白くないと思うのは懲らしめるために靴を踏む嫌がらせをしているのだから、取り敢えずはB自身の問題となる。だが、Aにしてもそうだが、Bにしても、自分自身の問題としてやらなければならないことはたくさんあるはずだ。いい子ぶっていて面白くないからと靴を踏んでいるよりもやらなければならない自分自身の問題を一つ一つ片付けていくことの方が自分自身の成長のためには大切なことだと思う。いい子ぶってるから面白くないからと靴を踏むことが自分の成長に役立つのなら、いくらでも靴を踏んだらいい。誰もが自分自身の成長のためにしなければならないたくさんのことがあるはずで、そのことから比べたら、ほかの生徒がいい子ぶっていることなどどうでもいい小さなことになると思う」(自他の省察、価値観の比較化と負の感情のコントロール)

 プロレスごっこ

 被害者A「プロレスごっこはもうやめにする」
 加害者B「なぜ?」
 被害者A「技を掛ける方と技を掛けられる方が決まっているのは遊びではなく、イジメだと本で読んだ」
 加害者B「しょうがないだろ、俺の方が強いんだから」
 被害者A「勝ったり、負けたりして、初めて遊びになるんだって」
 加害者B「八百長はできない」
 被害者A「勝ったり負けたりするには弱い相手ばかりではなく、同格の相手や強い相手とも戦わなければならないんだって。いつも相手は僕一人だ。僕ばかりを相手にしないで欲しい」
 加害者B「じゃあ、今度負けてやる」
 被害者A「首を絞められて、苦しい思いはもうしたくない。床を叩いてギブアップしても、すぐには腕を離してくれないから、この間は苦しくて、本当に死んでしまうんじゃないかと思った」
 加害者B「じゃあ、今度からはすぐに腕を離す」
 被害者A「僕はもういい。誰か君よりも腕っぷしの強い相手を選んで欲しい」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「終了。B、君はプロレスごっこの相手になぜAを選んだんだ」
 加害者B「友達だからです」
 指導主任「友達はA以外にいないのか」
 加害者B「います」
 指導主任「友達がA以外にもいながら、プロレスごっこの相手はいつもAと決まっているのはなぜかね」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「何か腹が立って、懲らしめてやるつもりでプロレスの技を掛けたのが始まりだったが、技があまりうまく掛かって得意な気持ちになり、続けることになってしまったのではないのかね?」
 加害者B「分かりません」
 指導主任「AはBよりも体力的に弱い人間であるためにAとプロレスごっこをしている間は幸いにもカッコいい主役クラスの活躍を演じることができていたことになる。いつもAを負かせて、君自身はいつも勝利する活躍を見せつけることができていたからだ。だけど、弱い人間相手の活躍はAだけか、Bの仲間数人だけに通用させることができていたのであって、その他大勢の生徒にまで通用させることができていた活躍というわけではない。(自他の省察、価値観の比較化)社会に出てからも同じように似た活躍しかできなかったなら、ごく少数の仲間には通用しても、その他大勢の社会人には通用しないことになる。社会に向かって成長していくためにも今のうちから、その他大勢の生徒にまで通用させることができる活躍の道を考えるべきではないのか。そのためには面白くないことをされたから、懲らしめで痛めつけてやるといったことは、Bに限らず、誰にとっても自分の成長にとって意味があることなのかどうか考えて欲しい」(自他の省察、価値観の比較化、負の感情のコントロール)

 集団無視のロールプレイ(加害者Bが集団無視のリーダー、被害者Aは以前グループのメンバー)

 被害者A「みんなで無視するのはもうやめてほしい」
 加害者B「無視なんかしていない。相手にしないだけだ」
 被害者A「・・・・」
 指導主任「理由を聞いたら?」
 被害者A「なぜ?理由は?」
 加害者B「口を利く必要がないから口を利かない。呼びかける必要がないから呼びかけない。だから、相手にしないことになる」
 被害者A「・・・・・」
 指導主任「Aはクラスの全員から口を利いてもらえないのか?」
 被害者A「ううん。Bのグループからだけ」
 指導主任「B、Aはクラスの全員から口を利いて貰えないわけではない。なぜ君のグループの全員だけが口を利かないのだ?」
 加害者B「そんなことは知らない」
 指導主任「グループのメンバーはリーダーの君が恐くて、口を利かない君に従って口を利かないようにしているのか?」
 加害者B「口を利くなって一言も言っていない」
 被害者A「グループの中に以前口を利いてくれたメンバーが何人かいたけど、Bから無視されるようになってから、誰も口を利いてくれなくなった」
 指導主任「Bは本当に全員に口を利くなって指示は出していないんだな」
 加害者B「指示なんか出していない。勝手にみんながそうしているだけだ」
 指導主任「指示を出さなくても、メンバーはBが怖いから、顔色を窺う形で口を利かなくなったことになる」
 加害者B「そんなことはしらない」
 指導主任「どうしても口を効きたくなくても、必要に迫られる以外は口を利かないでいる相手というのはいる。先生もいる。だが、誰と口を利く、利かないは本人の自由意思で決めることで、誰それが恐くてとか、誰それに気兼ねしてといった理由で自分自身の自由意思を曲げてしまう人間関係は本当の友だち関係とは言えない。Bはグループのメンバーと本当の友だち関係を築いているとはとても言えない。君が恐くて従っている。君は怖がらせて従わせている。本当の友だち関係と思うか」
 加害者B「・・・・・」
 指導主任「BがAと口を利かないのは君の自由意思だが、メンバーと本当の友人関係を築きたいと思ったら、メンバーがAと口を利く、利かないはメンバーそれぞれの自由意思に任せるようにできるまでに年齢相応に成長していなければならないだろう。もし自由意思に任せることができるようになったら、君は一段と成長したところを見せることになる。ここで見せることができるかどうかで社会に出てからの成長も違ったものになっていくと思う」(自他の省察、価値観の比較化、負の感情のコントロール)

 以下、イジメの未然防止に役立てる意図の新たに創作したアドリブ・ロールプレイを例示していくが、物語の組み立てを改めて述べてみる。児童・生徒それぞれに対して自分がどのような人間であるかを省みる自己省察とこのこととの比較でほかの児童・生徒がどのような人間であるかを省みる他者省察を習慣づけて、自分も他者と同じように絶対的存在ではなく、長所もあるが欠点もある人間だと気づかせる自他の価値観の比較化を行うように仕向けて、自分も何らかの欠点があるのだから、他人の欠点に対してムカつきや腹立ちを持つことよりも自分の欠点を直すことのほうが大切であるということ、あるいは他人が長所としている能力や才能に対して妬みや不快な思いに駆られることよりも自分が長所としている能力や才能が何かしらあるはずだから、その能力や才能を社会に出て生きていくための可能性の一つと考えて伸ばしていくこのとの方が自分自身を社会に向けて成長させていくためにはより意味があるということを認識させ、ムカつきや腹立ち、妬みや不快な思い等々の負の感情をコントロールさせる訓練とすることができるよう仕向けていく展開を目指すことにする。

部活動での仲間外れ

 登場人物(被害者中2A、加害者中2B、被害者友人中2C、被害者友人中2D)

 2022年12月18日付の「asahi.com」記事《泣き叫ぶ妻の横で謝罪なき顧問 自死したバレー部員の父が語る防止策》が伝えていたバレーボール部活顧問から激しい暴言・叱責を受けて高校3年の男子生徒が2018年7月に自死した、体罰でもあり、イジメでもある事件を中2のバレー部員に置き換えて、同学年の同じ部活部員からの仲間外れとして脚色し、アドリブ・ロールプレイ仕立てにした。記事内容はアクセスして貰うことにして、男子生徒が遺書に書き遺してあった部活顧問が当該生徒に浴びせた、「背は一番でかいのに、プレーは一番下手だな。・・・・そんなんだから幼稚園児だ。・・・・必要ない、使えない」等の罵倒のみを参考にする。

 被害者中2A(部活部員)「背は一番でかいのに、プレーは一番下手だななんて言うのはもうやめて欲しい。下手だからといって、これからは幼稚園児扱いはしないで貰いたい」

 加害者中2B(部活部員)「事実じゃないか。幼稚園児扱いされたくなかったら、少しはうまくなってくれ」

 被害者友人C(クラスメート)「下手なら、試合に出さずにベンチに置けばいいじゃないか」

 加害中2者B「部員が6人しかいない。試合に出さないわけにはいかない。相手チームが下手なのを知っていて、狙い撃ちするから、足を引っ張るのはいつもAだ」

 被害者友人中2D(クラスメート)「相手チームの攻めのパターンが分かっているなら、腕のいい選手をAの横に置いて、ボールを受けさせればいいじゃないか」

 加害者中2B「そんなことは言われなくたって分かっている。とっくの昔にやってるんだけど、こういう作戦で行くからって決めておいても、自分のところにボールが来ると、ボールだけ見て、他の選手の動きを見ていないから、自分からボールを取りにいって、打ち返すと決めていた選手とぶっつかってしまったりする。結局打ち返せずに点を取られてしまう。こういう作戦だと何度言い聞かせても、自分のところにボールが来ると、反応してしまって、作戦もクソもなくなってしまうんだ。チームの中で一番背が高いから始末に悪い。顧問が幼稚園児だってバカにするから、みんなも幼稚園児、しっかりしろって言うことになる」

 被害者友人中2D「一番背が高んだから、ネットの近くに置いて、ブロック専門に使ったらどうだ。両手を上げて相手ボールを跳ね返すやつ」

 加害者中2B「ブロックも満足にできないし、サーブプレーヤーが変わるごとにポジションを順番に時計回りに移動するルールなんだから、いつまでも一番前に置いておくことはできない。ブロックだけではなく、攻撃の役目もある。手首を効かせて、狙った場所にボールを強烈に撃ち込む技術もないんだから、どのポジションでも使えやしない」

 被害者友人C「Aが抜けて、他の選手と同じ程度の技術のある部員が入ったら、強いチームに変身できるのか?」

 加害者中2B「負試合ばかりではなく、少しはマシな試合をするようになるかもしれない。顧問も口汚く怒鳴ることが減るはずだし、とばっちりでほかの部員まで怒鳴られることも減るはずだ」

 被害者友人中2C「要するにAが抜けても、少しはマシな試合ができるようになるというだけで、総合力は元々たいしたことはないんだ?」(自他の省察と価値観の比較化)

 加害者B「たいしたチームじゃなくても、ボールは受け損う、打ち返すことはできない、一番ドン臭い。背が一番高いから、ドン臭いのが一番目立つ」

 被害者友人中2D「総合力がない中でAのヘマが一番目立つというだけなら、チームの弱いのをAのせいにして、自分たちを納得させているんじゃないのか?」(自他の省察と価値観の比較化))

 加害者中2B「まさか、そんなことはない」

 被害者友人中2C「将来、バレーボールでメシを食っていこうと考えている部員はいないということだ?」

 加害者B「いるはずがないじゃないか」

 被害者友人中2C「近所に大学生がいて、ときどき勉強を見て貰っているんだけど、小学生や中学生、高校生はまだまだ可能性の途上にあるんだって。発展途上国の途上。その人自身の最終的な可能性が固まっていくまでにはまだまだ時間がある途中にいるんだって」

 加害者中2B「スポーツをしたことがない優等生の言うことなんか役に立たない」

 被害者友人C「バレボール部の勝利が社会に出てからの最終的な可能性に直接関係するわけではないのなら、試合に勝つことだけに可能性を限定するのは間違っている。今は色々な可能性を試したり、学んだり、楽しんだりして、最終的な可能性に役立てるときだっていうことを教えられた」(自他の省察と価値観の比較化)

 被害者友人中2D「顧問に言ってやった方がいい。Aにしたって、好きでやっているけど、バレーボールの技術だけが可能性というわけではないのだから、その技術だけで可能性がない人間扱いして、悪く言うのは間違いだって」(価値観の比較化と負の感情のコントロール)

 被害者友人中2C「近所の大学生は東大野球部は約4年半近くの間に2引き分けを含んで94連敗も記録したことがあって、春と秋のシーズンで毎年、1勝かそこらしかできない野球ベタの集まりだけど、野球することが好きな気持ちや練習で学んだ忍耐力、部員同士の絆、それぞれに好きな勉強などを最終的な可能性を実現する支えにして社会に巣立っていくはずだって言っていた。Aはバレーボールの技術では幼稚園児並みの可能性しかないかもしれないが、可能性は一つではないのだから、今は眠っている状態の可能性がいつか目覚めて、立派な人間にならないとも限らない。今はバカにできても、将来、逆にバカにされてしまうこともあるかもしれない。バレーボールの可能性だけでバカにするのは気をつけた方がいい」(自他の省察と価値観の比較化、負の感情のコントロール)

 被害者友人中2D「試合に勝てる可能性が低いなら、試合を楽しむ可能性に重点を置いてもいいじゃないか。ヘマしたら、ドンマイ、ドンマイと庇って、あとに残さない。ついついバカにしてしまうストレスを抱え込むこともないし、バカにされるストレスを抱えることもない。勝ち負け抜きにみんな助け合ってバレーボールを楽しめば、将来的な可能性に何かしらプラスしていくかもしれない」

 加害者中2B「そうだなあ。プレーは一番下手だ、幼稚園児並みだと厭味を言ったって、俺たちのこれからの可能性にプラスにはならないだろうし、Aのこれからの可能性にもプラスになるわけでもないのに、何でイラついていたのだろう」(自他の省察と価値感の比較化と負の感情のコントロール)

 指導主任講評「イジメ被害者中2Aの友人同学年のCは『小学生や中学生、高校生はまだまだ可能性の途上にあるんだ』と近所の大学生に教えられた。可能性とは児童・生徒それぞれが持つ能力や才能を力にして成功する見込みや発展していく見込みがあることを言う。だが、将来的に成功したり、発展するためには現在の能力や才能では力不足で、年齢を重ねると共に色々なことを学び、経験して、能力や才能の力をつけていって、今身につけている可能性だけではないそのほかの色々な可能性を身につけ、最終的にはこれはといった可能性に絞って社会に立つことになる。だから、Cが近所の大学生に教えられたように『小学生や中学生、高校生はまだまだ可能性の途上にある』のだから、将来身につけるかもしれない可能性を一切無視して、今の可能性をさも最終的な可能性であるかのように人の能力や才能を評価するのは間違っていると指摘したことになる。

 加害者Bの最後のセリフは他者省察と自己省察を経て、中学生の時点で可能性というものを限定することの間違いに気づいた言い回しとなっている。Aの友人のCやDとの会話を通して、一歩成長したところを見せたことになる」

 言葉の暴力

 登場人物(母親がフィリピン人、父親が日本人の被害者中2女子Aは1年時に転校。被害者Aの友人中2E、加害者中2Bとその仲間中2Cと中2D)

 被害者中2A「私をもうバイキンと呼ばないで欲しい。バイキンなんかじゃないんだから」

 加害者グループリーダー中2B「ちょっと、あんまり近づかないでよ。だって、バイキンでしょ?顔、日焼けして黒くなっているようには見えないし、土色に汚れている感じは、マジ、病気じゃん。何かバイキンに取り憑かれていなければ、そんな汚い肌にはならない」

 被害者中2A「バイキンではなくて、生まれつき、こんな肌なんです」
 加害者グループリーダー中2B「だから、生まれつきバイキンが入り込んでいたんだよ」
  5人全員して笑う。

 被害者中2A「お母さんの故郷のフィリピンではこんな肌の人はいくらでもいるって言ってた」

 加害者グループリーダー中2B「満足に病院もないんでしょ。フィリピンでは当たり前でも、ここではバイキンが入っていなければ、そんな肌にはなりっこがない」

 被害者中2A「じゃあ、今度病院で精密検査をして貰って、診断書を書いて貰って、見せます。何も病気にかかっていなければ、バイキンと呼ぶのはやめてください」

 加害者グループリーダー中2B「診断書を見るまでは約束できない」

 被害者中2A「ええ、いいですよ」

 加害者グループ中2C「あんたの体から臭いニオイがするのは事実だよ」

 加害者グループリーダー中2B「そうよ、診断書に問題がなくたって、クサイ臭いがするのは事実だからね」

 被害者中2A「誰かほかにクサイ臭いがする女子はいるんですか」

 加害者グループリーダー中2B「あんただけに決まってる」

 加害者グループ中2E「あんた以外にフィリピンとのハーフなんかいないじゃん)

 加害者グループリーダー中2Bとグループ中2D(同時に)「そう、そう」

 加害者グループ中2C「キモイんだよ」

 加害者グループ中2B(続けて)「キモイったらありゃしない」
  (ほかの4人が同時に小馬鹿した笑いを見せる)

 被害者Aの友人中2 E「私には臭いニオイなんかしない」

 加害者グループリーダー中2B「鼻が悪いからじゃん」
  加害者グループ全員して笑う。

 被害者Aの友人E「本当に臭いんだったら、近づかなければいい」

 加害者グループリーダー中2B「近づきたくないんだけど、廊下ですれ違わない訳にはいかないときもあるんだから」

 被害者Aの友人E「ほんの少しの間だけでしょ。我慢すればいい」

 加害者グループリーダー中2B「嫌な臭いはいつまでも鼻について離れないじゃん。頭の中にまで残る」

 被害者Aの友人中2 E「クラス32人だけど、臭いニオイするって言っているのはあんたたちグループの5人だけで、残り27人は何とも言っていない」(自他の省察と価値観の比較化)

 加害者グループリーダー中2B「私たち5人は鼻が敏感だからね」

 被害者Aの友人中2 E「そうだったとしても、ちょっと我慢すれば、『キモイ』、『汚い』、『臭い』、『近寄るな』などと言わなくても済むし、言わなければ、Aが厭な思いをさせられることもない」

 加害者グループリーダー中2B「言わなくて済むように臭いニオイ、先にどうにかしてよ」

 被害者Aの友人中2 E「Aのお母さんはフィリピン人で英語を話すから、Aは子どもの頃から教えられていて、英語も話せる。だから、英語の成績がいいんだけど、私たちもAから教えて貰って、英語の成績を上げることができている。私たちの大切な仲間だから、あんたたちが臭いニオイがするからっていくら拒否しても、私たちはずっと友達でいる。A、負けちゃダメよ」

 被害者A「ええ、ありがとう」

 加害者グループリーダー中2B「何よ、英語の成績が少しぐらいいいだけのことで、バイキンじゃしょうがないじゃん」

 加害者グループ中2C「バイキンは殺さなければならない」

 加害者グループリーダー中2Bと加害者グループ中2D(嘲りながら)「死んで貰おう、死んで貰おう」(終了)

 指導主任講評「BたちのグループがAに対して『キモイ』とか、『汚い』とか、『臭い』、『近寄るな』などと言って、近づけないようにしていたのは日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれたハーフだから生まれつきバイキンが入り込んでいて、そのせいで肌の色が汚くて体から臭いニオイがするからだと、そのような理由を述べている。言っていることが正しいとすると、日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれたハーフは全員が生まれつきバイキンが入り込んでいて、臭いニオイがして、肌の色がよくないことになる。今どきの若者の言葉を借りて言うと、『ちょっとおかしくね』となるが、Bとそのグループの4人はちっとも『おかしくね』とはなっていない。

 被害者Aの友人Eが、『クラス32人だけど、クサイ臭いがするって言っているのはあんたたちグループの5人だけで、残り27人は何とも言っていない』と、自分たちの言っていることがおかしいか、おかしくないかを省みる自己省察のキッカケを与え、同時に27人が何とも言っていない状況をなぜだろうと省みる他者省察のキッカケを与えているが、自分たちの立場に拘って、折角のキッカケを生かすことができずじまいにしている。

 さらにEが『Aはフィリピン人のお母さんの影響で英語が話せて、英語の成績がいい』とAがフィリピン人のハーフであっても、英語力という長所を持っていることを指摘したのに対してBたちは自分たちにはこういった長所があると正当な方法で対抗するわけでもなく、これと言って長所がなければ、得意になれることは自分たちに何があるのだろうかと自分自身を省みて、このことも自己省察のうちに入るが、探し出して自分たちの長所にしようと人間的成長を図ろうとする気持ちも持たない。

 結局のところ、BたちはAに対して何かしら面白くない感情を抱いていて、それが『バイキンだ』、『クサイ臭いがする』、『キモイ』、『汚い』、『近寄るな』といった言葉の攻撃となって現れたに過ぎないことになる。一つ考えられる理由は転校生で日本人とフィリッピン人のハーフということで自分たちのエリアに侵入してきた他所者と見て反発したものの、Eたちに歓迎されている様子から嫉妬心が湧いてなおさら反発し、嫉妬と反発が憎しみにまで進んでしまったという状況が考えられる。

 一般社会に出て自分をどう生かしていくか、生かすことのできるようにどう成長していくかはあくまでも自分自身の問題であって他人の問題ではないということを忘れてはならない。誰がハーフであるとか、ないとか、誰が面白くないとか、面白いとかの問題よりも自分自身を成長させていくことの方がより大切なことだということを忘れてはならない。そして最も注意しなければならない言葉はCが『バイキンは殺さなければならない』と言い、それに対してBとDが『死んで貰おう、死んで貰おう』と応じているが、バイキンにかこつけてAの死を望むような言葉は相手の置かれた精神状態次第では実際に死に追い詰めてしまうことはないこともないから、決して口にしてはならないことを記憶しておかなければならない」

 身体的特徴を笑いの対象とするイジメ

 登場人物(被害者中3A、被害者Aの友人中3F、加害者グループリーダー中3B。その仲間その仲間C、D、E。C、D、E。)

 シチュエーション(被害者中2男子A。加害者クラスメートBとその仲間C、D、E。Aの友人F。Aが右足をびっこを引きながら、廊下を友だちのFと肩を並べて歩いている。Aの右足は両の太腿の下辺りからくるぶしにまで達する金属製の幅の狭い2本の支柱が挟みつけていて、太腿、膝、ふくらはぎ、足首それぞれを幅の異なる革製のベルトで固定している形の装具を着けている。5メートル程背後をBたち5人が歩いている。BがCの背中を押し、Aの方に顎をしゃくる。CはAとFの背後にこっそりと近づき、1メートル程離れながら大袈裟にびっこの真似をしてついていく。顔だけをBたちに振り向け、笑いをこらえる様子で得意げな様子を見せる。DがCの背後に同じように近づき、縦1列に並んで同じ真似をする。BとE、ニヤニヤ笑う。Cがこらえきれずに笑い声を立てる。続いてDが笑い出す。AとFが振り返る。B、ニヤニヤ笑いながら「おい、おい、からかうもんじゃないよ。困っている人には手助けしてやらなくっちゃあ」、C「なんじゃい、この歩き方」と言って、その場で笑いながら体を左右に揺するようにして大袈裟にびっこの真似をする。Dが急いで同じ真似をする。)

 被害者中3A「もうびっこを笑ってからかうのはやめて欲しい。病院の先生はあと1年程したら完治するって言ってた。普通に歩けるし、走ることもできるって」

 加害者グループリーダー中3B「おかしいんだから仕方がないだろ。治たって、びっこ引いていたときのことを思い出して、笑っちゃうかもしれない」
  Eと顔を合わせて、「なあ」と言いながら笑い出す。「とにかくおかしな歩き方をしてくれるぜ」

 被害者中3A「君たちは病気で、こういう歩き方なんだと同情する気持ちはないのか」

 加害者グループリーダー中3B「何言ってやがる。同情が欲しいのか。哀れなこと言うなよ」

 被害者Aの友人中3F「Aはここまでずうっとこのような歩き方をしてきた。Aの個性となっている」

 加害者グループリーダー中3B「笑っちゃう個性だってあるはずだ。顔を見せただけで、笑ってしまうお笑い芸人がいる」

 被害者Aの友人中3F「お笑い芸人の場合は笑わせてくれるのを期待して何も言わないうちから笑ってしまうことがあるけど、Aに対してはバカにして笑っている」

 加害者グループリーダー中3B「バカにされてしまう個性だからだろう」

 被害者Aの友人中3F「バカにしてもいい個性だと思っているようだけど、Aの歩き方である個性が恥ずかしさに耐える我慢強さやびっこを引いて長い距離を黙々と歩く我慢強さを生み出して、その我慢強さが難しい問題に諦めずに立ち向かおうとする挑戦する気持ちなどの別の個性を生み出している。だから、成績がいいんだ。君たちはびっこを引く歩き方だけがAの個性だと思っているようだが、個性がたくさんあるうちの一つに過ぎない。笑っちゃう個性を一つぐらい持ったとしても、人に笑わせない個性がどのくらいあるかだと思う」(自己省察と他者省察の促し。価値観の比較化)

 加害者グループリーダー中3B「いい子ぶるな。覚えていろ」(終了)

 指導主任講評「Aの歩き方も一つの個性だが、加害者グループがAの歩行困難をからかい、笑うのも彼らの個性の一つだということを認識しておいて欲しい。被害者Aの友人FがA自身の個性と加害者グループリーダーのB自身の個性に対して忠告を通して自己省察と他者省察の機会を暗に与えているが、Bは応じなかった。しかもFが注意したことを『いい子ぶるな。覚えていろ』と反発しているから、面白くない感情、不快な感情で受け止めたことになる。こういった感情にさせられた場面は記憶に残ることになるから、何度でも思い出すことになる。思い出すたびに面白くない感情、不快な感情に改めて襲われるか、ふとした弾みでFの忠告に反発したことは間違っていなかっただろうかとちょっとでも反省したとしたら、ほんの僅かだが、自己省察と他者省察のメカニズムに歩を進めることになり、どちらが正しくて、どちらが間違っているのかの価値観の比較化にまで進むことが期待できる。そうしたことができるようになれば、負の感情のコントロールも可能となり、成長を果たすことになる。こういった方向に進まなければ、Bとその仲間は成長しないままに今の状態にとどまることになるだろう」

 裸の写真を撮られ、lineグループに流される
 
 登場人物(被害者中1女子ソフトボール部員A、加害者中2女子リーダーBとその仲間C、D)

 被害者中1A「裸の写真、撮るの、もう辞めにしてください」

 加害者リーダー中2B「ソフトボール部やめたら、許してやる」

 被害者中1A「だめです。私、ソフトボールしかないから」

 加害者リーダー中2B「だったら、裸の写真、撮らせて貰う」

 被害者中1A「裸の写真、撮らせるのも、ソフトボール部、やめるのも断ります」

 加害者中2C「強情だよ、あんた」

 加害者中2D「やめるまで、脱がせて、写真、撮る」

 加害者リーダー中2B「今度もlineグループに流す」

 被害者中1A「私にはソフトボールしかないから」

 加害者リーダー中2B「あんた、監督からソフトボール選手としての可能性があるって言われたんだって?」

 被害者中1A「ええ、まあ・・・」

 加害者リーダー中2B「その気になってんじゃねえよ。あんたがキャッチャーのレギュラーになったから、3年生が抜けてもEは補欠のまんまじゃないか」

 加害者中2D「順番ってもんがあるんだよ」

 被害者中1A「順番は監督が決めることですから」

 加害者リーダー中2B「E先輩の方がキャッチャーとしての可能性は私よりも上ですって譲ることだってできるはずよ」

 被害者中1A「今度監督にそう言ってみます」

 加害者リーダー中2B「言うだけじゃ、誰だってできる。何か理由を作って、あんたの方から部をやめたら、あんたの裸の写真を撮る必要もなくなる」

 被害者中1A「ソフトの可能性を大事にしたいんです。ほかに勉強はできないし、得意にできるものもないし。ソフトバカなんです」

 加害者リーダー中2B「じゃあ、裸の写真撮らせて貰う。今度はlineグループつながりで別のグループにも流すから、どこまで拡散するか知らないからね」

 被害者中1A「もう写真は撮らせません。lineの写真も削除して貰います。これは犯罪だって教えられました。削除しなければ、警察に訴えます」

 加害者リーダー中2B「私たちを威す気?」

 被害者中1A「最初に威したのはB先輩の方です。後輩を威して裸の写真を撮って、lineに流すしか自分たちの可能性はないんですか」

 加害者リーダー中2B、C、D「ふざけたこと言うな」(終了)
 
 指導主任講評「被害者Aはソフト部の監督からソフトボール選手としての可能性があると言われていた。本人も『ソフトの可能性を大事にしたい』と言っていて、1年先輩である加害者のBたちを『後輩を威して裸の写真を撮って、lineに流すしか可能性はないんですか』と批判している。この『可能性』という言葉について改めて説明すると、野球やサッカーや音楽などでそれぞれの能力や才能に見込みがあると見られたときに使われるように児童・生徒それぞれが持つ能力や才能でそれ相応に活躍する見込みや成功する見込みがあることを言う。ソフトボール選手としての可能性があるということはソフトボールの部活動では選手として活躍する見込みがある、あるいは成功する見込みがあるということになる。 

 断っておくが、あくまでも見込みであって、実現の保証ではない。それ相応に努力しなければ、見込みが実現そのものに向かうことはないだろし、将来的な可能性として活躍する見込みや成功する見込みまで保証しているわけではないことは理解できると思う。

 加害者BたちがAから『後輩を威して裸の写真を撮って、lineに流すしか可能性はないんですか』とそれぞれの可能性を比較されたとき、ここでBたちが自分たちの可能性を省みる自己省察ができ、対してAの可能性を省みる他者省察を試みて、両者間の可能性を比較、どちらの可能性に価値があると言えるか、価値感の比較化ができて、改めるべきは改めることができたなら、成長を見せていることになって、その成長が負の感情のコントロールをしやすくする場所に導いてくれることになるが、『ふざけたこと言うな』とあくまでも反発している。反発することだけしかできなくて、面白くないからと何か仕返しを企むようだったら、成長しない状態を続けることになる。こういったことから、イジメっ子は『成長していない子』と定義づけることができる。イジメっ子でいる間は人間として成長していない状態にあることを示すことになる。

 加害者BたちがここではAが後輩として先輩を立てる身の程を弁えていない、生意気だ、懲らしめてやろうと裸の写真を撮って自分たちのLINEに流した。成長するためにはこういった懲らしめてやろうと思ってしたイジメだけではなく、面白がってやっていた、あるいはからかっていただけだと思ってしていたことが実際にはイジメになっていることもあるのだから、自分たちが考えたり思ったりしてしていることと相手が考えたり思ったりしていることの違いを自己省察と他者省察を通して価値観の比較化にまで持っていき、答を出そうとする姿勢が必要になってくる。もし相手が嫌がっていることを歓迎されていることだと答を出し、その間違いに気づかないとしたら、自己省察も他者省察も不足していて、価値観の比較化を行うについての材料不足を来しているからだろう。結果、何も成長できないままでいることになる。

 こいつ、気に食わないから、懲らしめてやれ、あるいはあいつをからかっていると面白いからなどと相手が嫌がるイジメを働いたはいいけど、イジメられっ子から逆に『成長していない子』と言われないように気をつけなければならない」

 貧乏を笑い、イジメの対象とする

 登場人物(被害者中2A、加害者中2B、C、D、E、仲裁人中3F)

 仲裁人中3F(中2B、C、D、Eに)「ちょっとこい」

 加害者中2B、C、D、E「な、何だよ」
  (被害者中2Aのところに連れて行かれる)

 仲裁人中3F「Aがお前たちに言いたいことがあるそうだ」

 加害者B「言われることなんか何もない」

 仲裁人中3F「黙って聞け」

 被害者中2A「全校集会で体育館に座っているとき、4人で後ろから小さな声で『ナマポ、ナマポ、ナマポ』って囃すように言うのはもうやめて欲しい。廊下などですれ違うとき、『くっせえ』って言うのもやめて欲しい」

 仲裁人中3F「どうなんだ、やめるのか?」

 加害者B「Aのかあさん、生活保護受けている」

 仲裁人中3F「生活保護受けているのはAんち家庭の事情で、Aには関係のないことだろう。俺んちも母子家庭で、生活保護受けている。俺が悪いわけではないし、Aが悪いわけではない。Aの母さんも、俺んち母さんも生まれつき体が弱くて、みんなみたいに働けないんだから、母さんたちが悪いわけでもない。それぞれ事情があるんだ」

 加害者B「そんなこと、知らなかった」

 仲裁人中3F「知ったんだから、もうやめるな?」

 加害者B「仕方がない」

 仲裁人中3F「仕方がないとはどういうことなんだ。理解が悪いな」

 加害者B「・・・・」

 仲裁人中3F「Aも生活保護を受けているのは親の事情なんだから、恥ずかしがって、自分を小さくすることはないんだ。BたちもAをバカにしたり、蔑んだりして、Aが自分を小さくするのを手伝っていることになる。大体が他人をバカにしたり蔑んだりするのは人間が小さくできているからだ。小さくできている上にほかの人間まで巻き込んで小さくさせている。少しは考えろ」

 加害者B(不承不承)「ああ・・・」

 仲裁人中3F「ここでは仕方なく言うことを聞いて、陰に回って嫌がらせをするようなことはするなよ」

 加害者B「しない」

 仲裁人中3F「約束だからな。もう行っていい」(終了)

 指導主任講評「からかい言葉の『ナマポ』は知っている児童・生徒はいると思うが、知らない児童・生徒のために説明すると、『生活保護』の『生(せい)』を『ナマ』と読ませ、『保護』の『ほ』を『ポ』と読ませて、『ナマポ』と呼び習わし、生活保護受給者やその子どもをバカにするときの言葉として使われている。誰かがSNSで言い出し、たちまち拡散したのだと思われる。体が弱いから働けないからといって生活保護を受けて、パチンコばかりしている受給者を実際に知っていて、税金泥棒と腹の中で思ったとしても、そのような受給者はごく少数で、実際には殆どの受給者が働いて稼ぐことができなくて止むを得ず受給することになっている。生活保護という国の制度がある以上、受給者を一緒くたにして税金泥棒とか、怠け者とか決めつけることは間違っていることになる。

 中2のB、C、D、Eが同級生のAに対して『ナマポ』と蔑んだり、多分、貧乏だから、洗濯もせずに同じものを長い間着ているからだろうと名推理して『くっせえ』と厭味を投げつけた。B、C、D、Eは3年生のFにAのところに連れていかれ、そこでAに『ナマポ』と言うのも、『くっせえ』と言うのもやめて欲しいと言われると、加害者Bは『Aのかあさん、生活保護受けている』という事実を挙げて、自分たちのからかいや蔑みを暗に正当化している。対して上級生Fは『生活保護受けているのはAんち家庭の事情で、Aには関係のないことだろう』と言って、Aの母親が生活保護を受けていることに対してAをからかったり、蔑んだりしていい理由とはならないことを伝えている。

 さらに上級生Fは他人をバカにしたり蔑んだりするのは人間が小さくできているからで、自分という人間が小さいだけではなく、他人をバカにしたり蔑んだりすることでほかの人間まで小さくしていると言い、Aに対してもイジメられて悩むのは自分で自分という人間を小さくすることだと注意している。

 上級生Fはこのような言葉で加害者B、C、D、Eに対しても被害者Aに対しても自分やほかの人間が言っていることや行っていることを省みて、その良し悪しを考える自己省察と他者省察を促している。この促しが意識下に残って、自他の省察を試みるようになって、正しいことをしていたのか、間違っていたことをしていたのか、あるいは生活保護をからかったり、蔑んだりしてもいいことだったのかどうかを考える価値観の比較化へといい方向に向かえば、負の感情のコントロールを学ぶキッカケとなり、学んだなりの成長を見せることができて、イジメっ子は『成長していない子』というレッテルを剥がすことができるようになるだろう。レッテルを剥がすことができるかできないかは自己省察や他者省察のチャンスを見逃すか見逃さないかにかかっていることになる」

 アドリブ・ロールプレイで上級生Fのような役割を作り出したり、Fが口にするセリフは簡単には出てこないだろうが、この参考例をベースにしたアドリブ・ロールプレイを通して会話思考能力や会話伝達能力を少しずつ獲得していくようにすれば、イジメ未然防止の一つの方法としてだけではなく、言葉を用いた秩序だったコミュニケーションを生み出すことのできる訓練としても役立つことになると思われる。

 集団暴力によるイジメ

 登場人物(被害者中2A、加害者グループリーダー中2B、加害者グループ中2C)

 被害者中2A「一発芸を無理やり要求するのはもうやめて欲しい」

 加害者グループリーダー中2B「何だと?」

 被害者中2A「断ると殴る。面白くないと言って殴る。それもやめて欲しい」

 加害者グループリーダー中2 B「ふざけんな」 

 加害者グループ中2C「ふざけたことを言っている」

 加害者グループリーダー中2B「お前は一発芸してなんぼじゃないか」

 被害者中2A「僕は勉強はできない。スポーツも何もできない。だけど、家に帰ると、昆虫採集している。いつか世界中を飛び回って、新種の蝶を見つけるのが夢なんだ」

 加害者グループリーダー中2 B「だから、何だって言うんだ。学校ではタダの陰キャ(陰気なキャラクター)に過ぎないじゃないか。一発芸取ったら、何もない」

 被害者中2A「学校では何もなくてもいい。放課後や休みの日に昆虫採集することが僕の中では凄い活躍になっている。BもCも放課後や日曜日の活躍はゲームセンターに行ってゲームすることで、みんなの活躍になっているけど、学校では僕に無理やり一発芸させたり、僕を殴ったりすることを自分たちの活躍にしている。僕は学校では活躍できるものは何もないけど、誰かを困らせたり、誰かが嫌がるようなことをさせる活躍はしていない」

 加害者グループリーダー中2 B「ふざけたことを言いやがる。ぶん殴っちまえ」

 被害者中2A「殴りたければ、殴ればいい。自分たちがしている活躍がどんな活躍なのか、しっかりと見ながら殴って欲しい」(終了)

 指導主任講評「被害者中2のAは勉強はできない、スポーツもできない陰キャで、学校では活躍できるものは何もないけども、放課後や休みの日に昆虫採集することが僕の中では凄い活躍になっていると、『活躍』という言葉を使って、自分はこのように存在していると自分や他人に証明する自己存在証明を行っている。対してBとCの活躍は学校ではAに一発芸をやらせたり、殴ったりすること、休日や放課後ではゲームセンターでゲームすること。それらの活躍を自己存在証明としていると両者の活躍に基づいたそれぞれの自己存在証明を比較している。

 この比較に応じてBとCが自分たちを省みる自己省察とAを省みる他者省察を行い、それぞれがしていることの価値の良し悪しを考える価値観の比較化にまで進んで、適切な答えを導き出すことができて、改めるべきは改めることができれば、負の感情をコントロールできるようになって、人間として自ずと成長を果たすことができるようになる。BとCはAからそうする機会を与えられたが、機会を機会として捉えることができるかどうかはBとC自身の考えにかかることになる。

 活躍ということと自己存在証明ということをもう少し説明すると、野球部員やサッカー部員、その他の運動部活部員は野球やサッカー、その他のスポーツの活躍で、自分はこのように存在していると自分や他人に証明する自己存在証明を日頃から行い、文化系部活での美術クラブ員や音楽クラブ員、その他のクラブ員は美術や音楽やその他の部活の活躍で、自分はこのように存在していると自分や他人に証明する自己存在証明を日頃から行っている。勿論、テストの成績でいい点を取る活躍を通して自己存在証明としている児童・生徒もいる。

 そしてその活躍はAの昆虫採集のように趣味を通して発揮してもいいわけで、趣味が高じて専門職になる例は世の中にいくらでも転がっている。つまり誰もが何かしらの活躍で自分はこのように存在していると自己存在証明していることになるし、他人が嫌がることや迷惑をかけることではない活躍で、それが例えささやかな活躍でもいいから、自分はこのように存在していると自己存在証明しなければならないことになる。

 となると、校内大会とか対外試合といった学校行事での活躍はそのまま自己存在証明としての評価を受けることができるが、一般的な学校社会での自分の中での活躍が自分の自己存在証明として評価される種類のもなのかどうか、自己省察と他者省察の篩に掛けて、確かめておかなければならないことになる。確かめずにいて、人に迷惑をかけているのを知らずにいたら、まさしく成長していない子になってしまう」

 集団暴力と金銭恐喝のイジメ

 登場人物(被害者中3A、加害者リーダー中3B、加害者中3C、加害者中3D)

 被害者中3A「もう集団で殴ることも、カネを持ってこさせることもやめて欲しい」

 加害者リーダー中3B「カネのこと、オヤジにバレたのか」

 被害者中3A「まだバレていない」

 加害者リーダー中3B「じゃあ、何でだ?」

 被害者中3A「僕は勉強した。一切断ることにしたんだ」

 加害者リーダー中3B「ふざけたこと言うな。持ってくるまで痛い目にあうことになるだけじゃないか」

 加害者中3C「お前んちオヤジ、金持ちだから、少しぐらいなくなったって、分かりゃしない。痛い目にあうよりましだろ?」

 被害者中3A「大勢で一人を殴りつけると、一人の方が弱い子ならなおさら思いのままに殴りつけることができるから、万能感に取り憑かれて、物凄く力を持った強い人間になったような錯覚に陥って、ブレーキが効かなくなり、相手を殺してしまうところまでいってしまうこともあるんだって。気をつけた方がいい」

 加害者リーダー中3B「俺たちを威す気か?何だ、その万能感って何だ」

 被害者中3A「大きな力で凄いことをしているような感覚になることだって書いてあった。でも、大勢で一人を殴りつけるときに手に入れる感覚だから、その感覚を手に入れるためには同じことをしなければならなくなって、最後には一人を大勢で殴りつけることがやめられなくなってしまうって書いてあった。病みつきになるんだって。だから、一歩間違うと、相手を殺してしまうところにまでいくって」

 加害者リーダー中3B「ふざけたこと言うな。言いつけどおりにカネを持ってこなかったり、持ってきたカネが少なかったりするから、ぶん殴るだけのことで、万能感とか何とか、関係ねえ」

 被害者中3A「持ってこさせたおカネを使うときも、自分のおカネではないから、自由に惜しげもなくパッパと使うことができて、何か物凄いカネ持ちになったような万能感に取り憑かれることになるんだって。勿論、その万能感も、病みつきになると、おカネを強請り続けなければ発揮できないし、万能感を十分に味わうために強請る金額も大きくなっていくんだって」

 加害者リーダー中3B「ふざけたこと言いやがって。いいからカネを持って来い。持ってこなければ痛い目に遭うのは分かっているだろ?家までついていく。ゲーセンへ行って、一緒に遊ぼうぜ」

 被害者中3A「ゲーセンでは僕から取り上げたおカネを自分のおカネのようにしてみんなのプレイ料金を払っているけど、気前のよい気分になって、おカネ持ちになったような万能感を味わっているんだ。自分のおカネでもないのに」

 加害者リーダー中3B「この野郎」(襟首を掴む)

 加害者中3C、D「ふざけやがって。痛めつけ足りないんだ」

 被害者中3A「いつかは僕を殺してしまうところまでいく」

 加害者リーダー中3B(ハッとなって手を離す)(終了)

 指導主任講評「被害者中3Aは集団暴力のイジメがときとして被害者に対する殺人にまで至ってしまう原理と金銭恐喝がときとして際限もなく金額を増やしていく原理を述べた。大勢の人間で一人を自由自在に殴りつけることができるのだから、物凄い力を手に入れたと勘違いして、万能感に取り憑かれるのも無理はないし、強請ったおカネを自分のカネにして使うのだから、ついつい気前良くなって、金銭に対する万能感もハンパではなくなり、その万能感をより大きくしたくなって、強請る金額も増やさなければならなくなる。1万円を気前良く使うのと10万円を気前良く使うのとでは万能感は桁違いとなるはずだ。しかも他人のカネだから、あとのことは何も心配せずに思い切り使うことができる。

 覚醒剤常習者が常習を続けて覚醒剤が体に蓄積されるようになると、始めた頃のときのような効き目を失って気持ちよくならないから、1回の使用量を増やしていくことになり、増やしていって、体が受けつける許容量を超えると、急性中毒を起こして、ときにはショック死を招くのと似ている。

 Aは弱い1人の人間を大勢で殴って腕力で万能感を手に入れる、あるいは他人から強請ったカネを使って金遣いで万能感を手に入れる、その考え違いと万能感が際限のないものとなっていくことの危険性を加害者グループのBたちに伝えるが、このことは言葉で直接言っている訳ではないが、自己省察や他者省察を促していることになる。その促しに応じて自分たちがしていることの意味とその良し悪しを他者との比較で答を出そうとする価値観の比較化にまで進まないと、負の感情をコントロールする機会にも恵まれないとになって、Aが言ってたように一歩間違うと、相手を殺してしまうところにまでいってしまうかもしれないし、恐喝する金額も桁違いとなっていくこともあるかもしれない。

 実際にも集団で1人を殴り続けて死に至らしめてしまったイジメも存在するし、強請ったカネで気前よく使う万能感に麻痺してしまったのだろう、1人の中学生から5000万円ものおカネを強請ったイジメ事件も起きている。こういったイジメの形もあるということを頭に入れておかなければならないし、同じようなイジメに遭ったなら、早い段階で断る勇気を持ち、相手が応じなければ、担任等に相談して、自分のことだけではなく、学校全体の問題としてイジメそのものの芽を摘むようにしなければならない」

 カネ持ちの家の子に遊興費を支払わせるイジメ

 登場人物(被害者中2女子A、担任女性教師B、加害者中2女子C)

 担任女性教師B「Aが用事があると言うから、Aのところに一緒に行きましょう」

 加害者中2女子C「何で先生が一緒なんよ?」

 担任B「付き添い役を頼まれた」

 加害者中2女子C「逮捕じゃなくて、任意でしょ?断る」

 担任B「怖気づいた?」

 加害者中2女子C「怖気づきゃあしない。行ってやる」
  (被害者中2女子Aのところに行く)

 被害者中2女子A「これからみんなの遊興費を払うことはやめるから。一緒に遊びに行くのもやめる」

 加害者中2女子C「好きにすればいい。あんたが払ってやるって言うから、払って貰っただけなんだから」

 担任B「そお?Cの言う通り?」

 被害者中2女子A「4月に転校してきて少し経ってから言葉のイジメを受けていた」

 加害者中2女子C「お前、変なこと喋んじゃねえよ」

 担任B「Cの今の言葉遣いでCとAの力関係がどちらが上か分かった。どんな言葉でイジメられたの?」

 被害者中2女子A「『いい家の子なんだってね。だからツンツンしてるんだ』とか、『テストの成績がよかったんだってね、だから何様顔してんだ』とか、すれ違いざまとか、すぐ後ろから厭味を言われるようになり、殆どの生徒から無視されるようになった」

 担任B「任意の取り調べだけど、認める?認めない?」

 加害者中2女子C「いい家の子だってことにも、成績がいいってことにも少しムカついていたから、からかっただけ。だけど、みんながシカトするようになったのは私には関係ない。みんなの勝手だから」

 担任B「どうかしら?(Aに)それで?」

 被害者中2女子A「夏頃にコンビニで会ったら、『これ飲みたいんだけど、小遣い足りないの。払ってくれる?』って言われた。厭味を言われたり、無視されるのが少しは収まるかなと思って、払ってしまった」

 担任B「ご機嫌取りに出たのね?でも、一度のご機嫌取りでは終わらなかった」

 被害者中2女子A「ええ。『買いたい物があるから、今からコンビニに行くけど、お小遣い底をついっちゃった。一緒に行っておカネ、払ってくれない』とか、『ゲーセンに行くけど、小遣いが足りないから、メダル代、払ってくれない』ってスマホを掛けてきて、断ったら、また言葉のイジメを受けたり無視されたりするかもしれないと思って、嫌だったけど、一緒に行って、おカネを払うようになった」

 加害者中2女子C「頼んでそうして貰っただけで、脅したりしていない。イジメなんかじゃない」

 担任B「言葉のイジメや無視するイジメの続きでやったことでしょ?それができたのはさっき言ったようにCの方の力関係がAよりも上に置くことができていたからで、その力関係を利用しておカネを払わせていたのだから、立派なイジメね。もしイジメでないと言うなら、おカネを払ったり、払われたり、双方向の対等な関係でなければならない。Cは一度でも払ったことがあるの?」

 加害者中2女子C「Aが勝手に払っていたんだ」

 担任B「一度ぐらい私が払うって言ったことあるの?」

 加害者中2女子C「何で私が言わなきゃならないのよ」

 担任B「イジメではない、対等な関係なら、何度かは払っていたでしょうね。もしAが自分の意思で払っていて、Cが払うと言っても払わせず、そういう関係を当たり前にしていたなら、Cはお金を払って貰う済まなさの埋め合わせに大抵のことはAの言うことを聞こうとして、今とは逆にAを上に置いてC自身を下に置く上下関係ができていたでしょうね」

 加害者中2女子C「何で私がAの下にならなきゃなんないのよ」

 担任B「そら、ご覧なさい。CはAの上に立っていた。その関係でおカネを払って貰っていたから、言葉はお願いのように見えても、一種の強制行為でイジメだった」

 被害者中2女子A「例え無視されたり、厭味を言われたりしても、私はもう、1円も払わない」

 加害者中2女子C「勝手にすればいい。お前になんか、払って貰わなくたっていい」

 担任B「返金を求める裁判を起こせば、勝てる。おカネが戻ってくる」

 被害者中2女子A「裁判に勝っても、嬉しくないでしょうから。人生の勉強をさせて貰ったと思って、苦い経験のまま残しておきます」

 担任B「C、Aの自分にはない勉強の優秀な成績も、家におカネがあることも、どれも様々な可能性を生み出す土台となるから、羨ましくなったり、妬ましくなったり、ムカつく気持は理解できるけど、他人の可能性は自分の力とはならない。力となるのは自分自身の可能性だから、これと決めた可能性に賭けてみるべきでしょうね」

 加害者中2女子C「ハッキリ言ってくれたね。可能性を生み出す土台なんて何もない。土台がなければ、何も生まれない」

 担任B「高校まで行くにしても、大学まで行くにしても、あるいは専門学校に行くにしても、先ず大人になったらしてみたい仕事は何か、探すことから始めたら?職業ガイドブック関係の本なら図書館にもあるし、気に入りそうな仕事を探してみる。探すことができたなら、本に書いてあることだけではない色々なことを知りたければ、ネットでさらに詳しく調べてみる。気に入りそうだと思ったことや、やってみたら面白そうだと思ったことが土台となって、自分なりの可能性に導いてくれる」

 加害者中2女子C「保証してくれるの?」

 担任B「保証はできない」

 加害者中2女子C「えっ、なぜ?おかしいじゃないか」

 担任B「どれくらい真剣に取り組むか分からないから保証できない。真剣に取り組めば、その姿勢自体が可能性を生み出す土台となる」

 加害者中2女子C「ああー、そうか。途中で飽きちゃうかもしれないけど、やってみるか?」

 担任B「是非試してみるべきね」(終了)

 指導主任講評「担任Bの会話の中に自己省察、他者省察、価値観の比較化を促す言葉が多く含まれている。加害者中2女子Cの最後の言葉は負の感情をコントロールできる地平に立った内容となっている。だが、あくまでもその地平の出発点に位置することができただけで、本人の成長はC自身の今後の姿勢に負うことになるだろうし、どういった姿勢を取り続けるかによって生み出す可能性にしても、その結果としての社会に出てからの本人なりの活躍も違ってくることになるということを誰もが頭に置いて置かなければならない」

 以上、アドリブ・ロールプレーの参考例をいくつか例示してみた。アドリブに拘るのはシナリオ仕立てのロールプレーだったなら、セリフをなぞる方向に注意が向けられ、言葉を作る頭に向ける注意が疎かになりがちで、暗記教育とさして変わらぬ道筋を辿ることになる危険性を抱えかねないからである。児童・生徒たち自身が担任や指導主任の助けを借りたとしても、アドリブで言葉を作る試行錯誤を繰り返しながらロールプレーを組み立てていった場合、イジメの問題に最も近くにいる児童・生徒たちの感性によって現実のイジメにより即した、嫌なことは断るところから入る展開が期待できる。と同時にその友人等を含めてイジメ被害者側が利益相反の関係にあるイジメ加害者側とその利益相反を押さえて自らの利益に適うようにアドリブでイジメを断るためのセリフを成り立たせていく試行錯誤は会話思考能力とその言葉を思い通りに相互に伝え合う会話伝達能力の訓練と、険悪な関係にあっても言葉を用いた秩序だったコミュニケーションを成り立たせる能力の訓練に役立っていくだろうし、それが全校生徒の前で行われることによってより多くの児童・生徒に訓練の影響を与えることができる。そのような状況に向に進めば、イジメの未然防止にも役に立つ方向に事態は少しずつではあっても、動いていくことと思われる。

 理想はロールプレイ中の指導主任の役割や最後の事例に於ける担任Bの役割を児童・生徒自身が被害児童・生徒やその友人等の役割として担い、指導主任や担任Bのような言葉を作り出すことができるようになることである。
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イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(1)

2022-12-09 05:49:59 | 教育
  イジメ加害者にイジメという攻撃を強いる要因は広く知られていることの説明だが、怒り、憎しみ、恨み、嫉み、嘲り(面白がって笑う)、間違った優越感の誇示(その裏返しとしての蔑み)等々の負の感情の発露に基づく。この感情をコントロールするキッカケを与えることができれば、イジメの未然防止に役立つ。役立たせようとして学校で行っている方法の一つがロールプレイングであり、略してロールプレイと呼ばれている。role(役割)+playing(演じること)で「役割演技」と呼称されているが、前以って用意しておいたシナリオに基づいて演じさせるのとイジメの様々にある場面のみを設定してアドリブ(即興劇)で演じさせる二つの方法が行われている。どちらもイジメ加害者とイジメ被害者、イジメ傍観者等を登場人物に仕立てて、実際の状況に即してそれぞれの役割を演じさせることでイジメの成り立ちやイジメの展開、さらにイジメ加害者とは何か、イジメ被害者とは何か、イジメ傍観者とは何かなどなどの感じ方や思いを見つめさせて客観的視点を持つように仕向け、その視点を自身の行動にまで反映させて、その行動の善悪が判断できる成長を促し、イジメ未然防止に応用する。果たして学校で行っているイジメ未然防止目的のロールプレイは誰もが抱えることになる負の感情をコントロールする仕掛けとなっていて、イジメの未然防止に一定程度役立っているだろうか。どうも、そうではないようだ。

 不登校とイジメが過去最多との記事を読んで、両弊害を終息させる方法はないにしても、歯止めをかける方法ないのだろうかと考えてみた。学校教師や教育評論家といったことを職業としている優れた人材ができていないことを教師として学校教育に携わった経験ゼロの人間が考えつくはずはないと思われそうだが、戦前生まれの比喩となるが、竹槍でB29に向かうが如くに解決困難な障害に突っかかっていくのも悪くはない。歯止めに関してはイジメの問題に絞って取り上げるが、イジメの歯止めは学校という社会の生活環境の改善となって現れて、不登校生徒数もかなり減少することになると思う。

 2022年10月27日付NHK NEWS WEB記事が2021年度の小中学生の不登校が2020年度+約4万9000人、+25%の24万4940人で過去最多と出ていた。内訳は小学生8万1498人、中学生16万3442人。不登校の小中学生増加は9年連続、10年前との比較で小学生3.6倍、中学生1.7倍。特に中学生は20人に1人が不登校となっている。増加要因を調査した文科省はコロナ禍の影響を挙げている。学級閉鎖だけではなく、感染への不安による自主休校など「感染回避」で30日以上休んだ児童・生徒数は小中学生と高校生で合わせて7万1704人、2021年度に比べて休みが2倍以上に増えたと記事は伝えている。2021年度の感染児童・生徒数は約59万人。コロナ禍での生活環境の変化や学校生活での様々な制限が交友関係などに影響、登校する意欲が湧きにくくなったのではないかと分析しているという。この分析を素直に受け止めると、日本国内コロナ患者第1号発症確認は2020年1月初旬のことで、それまでの不登校の小中学生増加8年連続は説明がつかなくなる。コロナ禍の影響もあるだろうが、学校社会の一般的な人間関係から受ける児童・生徒のそれぞれの感受性に問題点を置くべきだと思う。

 日常的な人間関係は良好なコミュニケーションのみで成り立っているわけではない。良好なコミュニケーションを取れる人間と仲間を組むことになるが、厄介なことにある日突然、良好が険悪に変じて人間関係を阻害することになり、往々にして不登校やイジメという形を取ることになる。険悪へと変じたなら、良好なコミュニケーションを取れる新たな仲間を早急に求めるべきだが、妬まれはしないかなどと恐れてグズグズするうちに新しい仲間をつくる機会を逃してしまったりする。

 不登校が過去最多となったことについて。

 清重隆信文部科学省児童生徒課課長「不登校の要因が複数の場合もあるので、一人ひとりにあった対応を進められる環境整備に取り組み、学びの保障に努めたい」

 不登校の小中学生が9年連続の増加という記録を前にしながら、環境整備を今後の取組みとする発言となっている。しかもあるべき人間関係の構築に的を絞った問題意識の提示を全面に出すべきを、そうはなっていない。教育行政の専門家の発言だから、間違ったことは言っていないように思えるが、問題の根本にある原因の改善に立ち向かわなければ、懸案の放置とさして変わらないことになるが、9年連続の増加という事態そのものが懸案となっている問題放置そのものを示すことになる。この長年の放置は何を言おうと、今後共実を結ぶ期待可能性を抱かせないことになる。

 同じ日付(2022年10月27日)のNHK NEWS WEB記事が文部科学省が同日発表した2021年度の全国の学校に於けるイジメ認知件数が61万件超で、コロナ禍で一斉休校が行われた2020年度より約9万8000件増の過去最多だと伝えている。

 内訳は
▽小学校50万562件
▽中学校9万7937件
▽高校1万4157件
▽特別支援学校2695件
 
 イジメ原因の自殺児童・生徒368人。内訳は
▽小学生8人
▽中学生109人
▽高校生251人

 368人もの児童・生徒。1学級生徒数約30人としても、12学級の児童・生徒を1年間にイジメで死に追いやってしまった。考えられない恐ろしい数字である。

 イジメを含めた不登校等の「重大事態」は2020年度から+191件の705件で過去2番目。SNSなどインターネットを使ったイジメ件数は2020年度+約3000件の2万1900件で過去最多。文部科学省はイジメ増加の背景に不登校と同様にコロナ禍で学校行事の制限や給食の黙食などが続いたことで人間関係を築くのが難しくなっていることがあると見ているという。

 清重隆信文部科学省児童生徒課課長「(コロナ禍による)さまざまな行事の制限で子どもたちに大きなストレスがかかっている。スクールカウンセラーなどによる相談体制の充実に努めたい」

 コロナ禍の前からイジメも不登校も深刻な状況にあったのだから、コロナ禍にのみ目を向けた対応は問題意識を狭くする。安倍内閣が内閣の最重要課題の一つと位置づけた教育の再生を議論し、実行に移していくための「教育再生実行会議」の設置を閣議決定したのは2013年1月15日。1999年以前は成人の日であった1月15日の閣議決定とは何か象徴的である。第1回会議は2013年1月24日に開催。2013年2月26日に第一次提言がなされた。

 《教育再生実行会議の提言の概要》(文部科学省)から「いじめの問題等への対応について」(第一次提言)(2013年2月26日)を抽出。

🔴 心と体の調和の取れた人間の育成に社会全体で取り組む。道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う。
🔴 社会総がかりでいじめに対峙していくための法律の制定
🔴 学校、家庭、地域、全ての関係者が一丸となって、いじめに向き合う責任のある体制を築く。
🔴 いじめられている子を守り抜き、いじめている子には毅然として適切な指導を行う。
🔴 体罰禁止の徹底と、子どもの意欲を引き出し、成長を促す部活動指導ガイドラインの策定 

 「社会総がかりでいじめに対峙していくための法律の制定」の謳い文句どおりに『いじめ防止対策推進法』が2013年(平成25年)6月28日に公布。〈体罰禁止の徹底と、子どもの意欲を引き出し、成長を促す部活動指導ガイドラインの策定〉の謳い文句に添って体罰禁止を主眼とした『運動部活動での指導のガイドライン』を2013年5月27日に発表。道徳の教科化が2018年に小学校、2019 年に中学校で全面実施。だが、2021年度の全国の学校でのイジメ認知件数は過去最多。いじめ防止対策推進法の施行に伴って2013年度からイジメの定義は、〈当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為 (インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。〉とされているが、それ以前は、〈当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの〉とされていた。イジメを幅広く捕捉するために言葉を和らげたのかもしれないが、イジメは児童・生徒なりの人格や喜怒哀楽の自然な感情を歪める心身に対する硬軟の攻撃そのものであって、いじめ防止対策推進法施行以前の、〈心理的、物理的な攻撃〉とする解釈の方がより適切な表現に思える。

 心身に対する硬軟の攻撃とは心理的・肉体的痛めつけであって、心理的と肉体的とが合わさって命そのものとなるから、イジメは命に対する痛めつけ、命の痛めつけそのものであり、体罰が心理的・肉体的攻撃を用いた命の痛めつけでもあるのだから、イジメの範疇に入り、イジメと体罰は命の痛めつけという点で同質同士の仲間関係にある心理的・肉体的攻撃ということになる。

 安倍晋三が2013年1月に閣議決定、「教育再生実行会議」設置から9年経過したが、いじめと対峙していくために制定した2013年6月のいじめ防止対策推進法施行も、道徳の教科化も、イジメ・不登校の抑止に役に立たなかった。その結果の過去最多ということである。例えコロナ禍の影響があったここに来ての増加傾向だとしても、施策の全てが抑止要因としての働きを一貫して見せることはなかった。

 イジメも不登校も児童・生徒間の人間関係の結果値の一つであるが、このことは人間が他者との関係で存在する相互性の社会の生き物であり、児童・生徒同士が学校社会を主舞台として他の児童・生徒との関わりで相互に自己を存在させている生き物である以上、断るまでもないことで、上記NHK NEWS WEB記事がネタ元とした『令和3年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について』 (文科省・2022年10月27日)が児童・生徒の問題行動のうち、公立小学校のイジメに限定して、人間関係という視点からどの程度に捕捉しているか、主だった内容を眺めてみることにする。NHK NEWS WEB記事から既に触れているが、先ずこの画像を載せておく。
  ② いじめを認知した学校数は29、210 校(前年度29、001 校) 全学校数に占める割合は79.9%(前年度78.9%)
③ いじめの現在の状況として「解消しているもの」の割合は80.1%(前年度77.4%)
④ いじめの発見のきっかけは、
 ・「アンケート調査など学校の取組により発見」が54.2%(前年度55.4%)と最も多い
 ・「本人からの訴え」は18.2%(前年度17.6%)
 ・「当該児童生徒(本人)の保護者からの訴え」は10.7%(前年度10.1%)
 ・「学級担任が発見」は9.5%(前年度9.6%)
⑤ いじめられた児童生徒の相談の状況は、「学級担任に相談」が82.3%(前年度81.5%)と最も多い
⑥ いじめの態様のうちパソコンや携帯電話等を使ったいじめは21、900 件(前年度18、870 件)。総認知件数に占める割合は3.6%(前年度3.6%) 
⑦ いじめ防止対策推進法第28 条第1 項に規定する重大事態の発生件数は705 件(前年度514 件)

 (イジメ解消の条件は次のようになっている。)

 「解消している」状態とは、少なくとも次の2つの要件が満たされている必要がある。ただし、これらの要件が満たされる場合であっても、必要に応じ、他の事情も勘案して判断するものとする。

① いじめに係る行為の解消;
 被害者に対する心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)が止んでいる状態が相当の期間継続していること。この相当の期間とは、少なくとも3か月を目安とする。ただし、いじめの被害の重大性等からさらに長期の期間が必要であると判断される場合は、この目安にかかわらず、学校の設置者又は学校いじめ対策組織の判断により、より長期の期間を設定するものとする。

② 被害児童生徒が心身の苦痛を感じていないこと;
 いじめに係る行為が止んでいるかどうかを判断する時点において、被害児童生徒がいじめの行為により心身の苦痛を感じていないと認められること。被害児童生徒本人及びその保護者に対し、心身の苦痛を感じていないかどうかを面談等により確認する。

 イジメ発生件数に対して解消割合は80.1%。だが、年々のイジメ件数が減らない状況は解消が一時的に終わっていて、3ヶ月後か、あるいはそれ以上の月数を経て、あるいは年次を超えて標的を変えることなく再発させているか、標的を変えて、新たなイジメを発生させている様子を窺わせると同時にイジメ解決が事後対応、あるいは対処療法となっていて、事前予防、あるいは原因療法となっていないことを証明することになる。

 (5) いじめの発見のきっかけ(公立小学校のみ抽出)

(注)(A)と(B)の構成比は「(A)+(B)」合計件数に対する(A)、(B)それぞれの件数の割合。(1)~(5)と(6)~(12)それぞれの構成比は「(A)+(B)」合計件数に対する各件数の割合。

(A)学校の教職員等が発見(公立小学校342、274件 構成比69.0%)

(1)学級担任が発見(公立小学校47、177件 構成比9.5%)
(2)学級担任以外の教職員が発見(養護教諭、スクールカウンセラー等の相談員を除く) (公立小学校6、274件 構成比1.3%)
(3)養護教諭が発見(公立小学校1、022件 構成比0.2%)
(4)スクールカウンセラー等の相談員が発見(公立小学校494件 構成比0.1%)
(5)アンケート調査など学校の取組により発見(公立小学校287、307件構成比57.9%)

(B)学校の教職員以外からの情報により発見(公立小学校153、820件 構成比31.0%)

(6)本人からの訴え(公立小学校81、261件 構成比16.4%)
(7)当該児童生徒(本人)の保護者からの訴え(公立小学校50、902件 構成比10.3%)
(8)児童生徒(本人を除く)からの情報(公立小学校14、721件 構成比3.0%)
(9)保護者(本人の保護者を除く)からの情報(公立小学校5、683件 構成比1.1%)
(10)地域の住民からの情報(公立小学校293件 構成比0.1%)
(11)学校以外の関係機関(相談機関等含む)からの情報(公立小学校620件 構成比0.1%)
(12)その他(匿名による投書など) (公立小学校340件 構成比0.1%)

 (A)を見てみると、学校社会に於ける生徒にとって最も身近な存在である学級担任のイジメ発見は9.5%と多くはなく、「アンケート調査など学校の取組により発見が」半数以上の57.9%を占めているが、アンケート調査が主体ということなら、学校が用意したものであっても、間接的な把握にとどまる。

 (B)から窺い得ることは「本人からの訴え」と「当該児童生徒(本人)の保護者からの訴え」が合計合わせて26.7%、約3分の1近くを占めるているということと、想像するに生徒それぞれにとってイジメがかなり深刻な程度に達している、あるいは限界に近づいていて、我慢できなくなって訴え出たという状況が見て取れる。そして訴え出るまでの間、学校側は様々な対策に取り組んでいながら、イジメを把握するまでに至っていなかった裏の状況が見えてくる。
 

 (7) いじめの態様:

冷やかしやからかい、悪口や脅し文句、嫌なことを言われる。(公立小学校282、582件 構成比57.0%)
仲間はずれ、集団による無視をされる。(公立小学校61、127件 構成比12.3%)
軽くぶつかられたり、遊ぶふりをして叩かれたり、蹴られたりする。(公立小学校124、059件 構成比25.0%)
ひどくぶつかられたり、叩かれたり、蹴られたりする。(公立小学校31、218件 構成比6.3%)
金品をたかられる。(公立小学校4、393件 構成比0.9%)
金品を隠されたり、盗まれたり、壊されたり、捨てられたりする。(公立小学校25、430件 構成比5.1%)
嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをされたり、させられたりする。(公立小学校47、742件 構成比9.6%)
パソコンや携帯電話等で、ひぼう・中傷や嫌なことをされる。(公立小学校9、264件 構成比1.9%)
その他(公立小学校21、907件 構成比4.4%)

 イジメの種類の多さに驚くが、学校はこれだけのイジメの方法を把握していながら、事前予防、あるいは原因療法に役立たせることができないでいる。
 

 (9)学校におけるいじめの問題に対する日常の取組

 (注3)構成比は各区分における学校総数に対する割合

職員会議等を通じて、いじめの問題について教職員間で共通理解を図った。(公立小学校数18、859校 構成比98.4%)
いじめの問題に関する校内研修会を実施した。(公立小学校数17、229校 構成比89.9%)
道徳や学級活動の時間にいじめにかかわる問題を取り上げ。指導を行った。(公立小学校数18、695校 構成比97.5%)
児童・生徒会活動を通して、いじめの問題を考えさせたり、児重・生徒同士の人間関係や仲間作りを促進したりした。(公立小学校数16、390校 構成比85.5%)
スクールカウンセラー、相談員、養護教諭を積極的に活用して教育相談体制の充実を図った。(公立小学校数17、626校 構成比91.9%)
教育相談の実施について、学校以外の相談窓口の周知や広報の徹底を図った。(公立小学校数16、456校 構成比85.8%)
学校いじめ防止基本方針をホームページに公表するなど、保護者や地域住民に周知し、理解を得るよう努めた。(公立小学校数17、561校 構成比91.6%)
PTAなど地域の関係団体等とともに、いじめの問題について協議する機会を設けた。(公立小学校数8、602校 構成比44.9%)
いじめの問題に対し、讐察署や児童相談所など地域の関係機関と連携協力した対応を図った。(公立小学校数7、140校 構成比37.2%)
インターネットを通して行われるいじめの防止及び効果的な対処のための啓発活動を実施した。(公立小学校数16、531校 構成比86.2%)
学校いじめ防止基本方針が学校の実情に即して機能しているか点検し、必要に応じて見直しを行った。(公立小学校数18、036校 構成比94.1%)
いじめ防止対策推進匡第22条に基づく、いじめ防止等の対策のための組織を招集した。(公立小学校数18、307校 構成比95.5%)

 〈学校におけるいじめの問題に対する日常の取組〉のうちのどれかは役立った事例や学校もあっただろうが、全体的には役立たなかったことになる。例を上げてみると、〈インターネットを通して行われるいじめの防止及び効果的な対処のための啓発活動を実施した。>が、〈公立小学校数16、531校 構成比86.2%〉も占めている状況に対して2021年度のSNSなどインターネットを使ったイジメ件数は2020年度+約3000件の2万1900件で過去最多という状況はイジメ解決がやはり事後対応、あるいは対処療法となっていて、事前予防、あるいは原因療法となっていないことを証明することになる。

 (10) いじめの日常的な実態把握のために、学校が直接児童生徒に対し行った具体的な方法(いじめを認知した学校)

アンケート調査実施

①【いじめを認知した学校】

②【いじめを認知していない学校】の統計も取っている。

 
以上見てきた中で何よりも問題なのは、〈 (9)学校におけるいじめの問題に対する日常の取組〉である。イジメ認知件数が年々増加して過去最多となっている状況を前にするなら、「日常の取組」が機能している学校が存在するかもしれないが、全体的には機能不全に陥っていることを示す。当然、その原因調査が行われていなければ、イジメや不登校、あるいは暴力行為が増えた、減ったの結果値だけを辿ることになる。特に「児重・生徒同士の人間関係や仲間作りの促進」は人間関係がイジメや不登校発生の主たる要因となっていると見なければならない以上、イジメや不登校の事前予防・原因療法を「促進」する取組でもあるが、他の取組同様に機能不全の観点から眺め返してその原因を探らなければ、機能することのない"促進"に向けた無駄な努力を続けることになるだろう。

 《学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント》(文部科学省)には次のような記述がある。
  
 〈いじめ問題に関する基本的認識

 1.「弱いものをいじめることは人間として絶対に許されない」との強い認識を持つこと。
 2.いじめられている子どもの立場に立った親身の指導を行うこと。
 3.いじめは家庭教育の在り方に大きな関わりを有していること。
 4.いじめの問題は、教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる問題であること。〉等々・・・・・

 「2」番目は事前予防・原因療法をすり抜けたイジメや不登校に対する事後対応・対処療法ということになる。このことはイジメや不登校が過去最多という現状、横行を恣にさせている現状からみても証明できることであって、当然、「教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる」ことになっているが、その問われ方は主として事後対応・対処療法の場でのこととなり、「1」の〈「弱いものをいじめることは人間として絶対に許されない」との強い認識を持つこと。〉は現実には生かされていない単なるタテマエ、単なる標語に陥っていることになる。イジメを受ける生徒が見つかってから、不登校となる生徒が出てきてから、指導に取り掛かるという手順だけが見えてくる。

 人間関係教育に関しては次の記述がなされている。
 
 〈適切な教育指導

 ③ 学校教育活動全体を通して、お互いを思いやり、尊重し、生命や人権を大切にする態度を育成し、友情の尊さや信頼の醸成、生きることの素晴らしさや喜び等について適切に指導すること。特に、道徳教育、心の教育を通して、このような指導の充実を図ること。
 また、奉仕活動、自然体験等の体験活動をはじめ、人間関係や生活経験を豊かなものとする教育活動を取り入れることも重要であること。〉――

 イジメの加害生徒や被害生徒、不登校生徒には耳に届くことはない、具体性の全くない美しい言葉の羅列に過ぎないだろう。

 実際問題として学校・教師がイジメ問題について具体的にどう取り組んでいるのか、《いじめ対策に係る事例集》(文部科学省初等中等教育局児童生徒課/平成30年9月)からいくつかの事例を見てみることにする。文飾は当方。

 冒頭部分に次のような断りが記載されている。〈本事例集の作成に当たっては、各教育委員会や学校等から募集した多くの実際の事例の中から、いじめの防止、早期発見及び対処等の点で特に優れていると判断した事例や学校現場において教訓となると判断した事例を掲載しました。また、事例ごとに文部科学省のコメントを付記し、着眼点を整理しましたので、事例とあわせて御参照ください〉――

 要するにイジメ解決の対応がスムーズに進めることができなかった事例や早期発とはいかなかった事例等々は文科省の募集に応じなかったケースがあることが考えられ、逆に満足のいく対応ができた事例のみが募集に応じた可能性は否定できず、募集に応じた事例はさらに篩を掛けられて、「いじめの防止、早期発見及び対処等の点で特に優れていると判断した事例や学校現場において教訓となると判断した事例」が主として掲載の栄誉を受けたということになる。結果として文科省のコメントは肯定的な評価という形を取るはずである。このことを前以って承知して読み通さなければならない。

 公立中学校 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきもの等の具体例 Case 01 加害・被害の関係性に気づきづらい事案

事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】中学1年男子A(1名)
●【加害】中学1年男子B(1名)

❷ いじめの概要
 BがAに対し女子生徒の嫌がることや、女子生徒への告白を「やらないと痛い目にあうぞ」「先生にはC(無関係の生徒)にやらされたと言え」などと強要してやらせていた。

 中学校における普段の二人の様子は、主従関係があるようには見えず、普段は一緒に行動していた。周囲には仲良くしているように見え、何もなく過ごしていた。Aは性格がおとなしく静かなタイプであり、そのことがBにとってAは自分の言う通りになる都合のよい相手であったようである。

 今回の事案以外にも、同様のケース(BがAに命令すること)は複数あった。違う小学校出身の男子に「アホと言ってこい」、あるいは、違う小学校出身の女子に無差別に「告白してこい」「身体を触ってこい」などと、昼休みに廊下で命令していた。

 Bが今回の出来事を起こした動機については、本人曰く特にこれといった理由はなく、ただ楽しかったようである。関係教職員は、違う小学校出身の同級生に、自分の存在をアピールしようとしたのではないか、と見ている。

 AとBに事実確認をしていく中で、二人は小学校6年生のときにけんかをし、それ以降、勝ったBがAとの間に主従の関係をつくって命令に従わせていたことが判明した。小学校では当時「けんか」と判断し、事後の関係性に気づいておらず、小中間の引き継ぎも行われていなかった。

 よって、学校は、Aを自分の弟子として、見下して命令していたこと、過去の暴力で支配しようとしたこと、Aをターゲットにし続けたこと、長い期間続いていること、AがBの暴力に怯え命令に従っていたこと、やりたくないことをやらされたこと、嫌なことを隠していたことといった理由から、いじめと認知し、事案に対応した。

事態の経緯及び対応
❶ 本事案を教師が把握することとなった経緯
●昼休みに廊下で騒がしく女子が逃げ回っていたのを確認したこと
●他クラスの女子生徒が自学ノート(自主学習ノート:小学生の家庭学習)に「Aくんが身体を触ってくるので注意してください」と担任宛に書いていたこと
●同じ小学校出身の男子3名(A・Bと同クラス)が「小学校の時からAがいじめられている」と担任に相談したこと

❷ 教師が生徒から事情聴取した内容
Aより: 命令に従わないと「殴るぞ」と(Bから)言われていた。先生に事情を聞かれた時は、『命令をやらされたことは、Bからの命令ではなく、C(同じ小学校出身で小学校のときにAに嫌がらせをしていた)に命令されたと言え』と(Bから)言われている。
Bより: CがAに命令をしていたが、自分は友達だから身体を張ってでも(Aを)守ってあげなければならない。
Cより: 特別何かを命令したり、いじめたりしていない。

❸ 教師が指導した内容
A: 自分が嫌なことを強要されたときは、誰かに相談すること。Bと一緒にいることが苦しいと思うなら距離を置くことも考えること。
B: 師匠と弟子の関係は友人同士には成り立たないので解消すること。今まで自分がAに対して行った嫌がらせを謝罪し、友だちとして生活すること。嘘をつかないこと。いじめは許されないこと。
C: 人に対して嫌がらせをしないこと。

❸ 本事案を連絡した際の保護者の反応
A保護者: 事柄の内容、小学校のときから続いていたこと、本人が相談してくれなかったことすべてにショックを受けていた。
B保護者:「はぁ…そうですか。うちの子だけですか?」という無関心な反応。
(Bの母親にAの自宅へ謝罪に行くよう促し、本人と母親が謝罪へ)

❺ 教師から周囲の生徒に対する説明
 嫌がらせを受けた女子生徒にはAが行った行為はA本人の意思ではなく、やらされていた行動だったと伝え、納得をしてもらうことができた。

 学年生徒へは集会の時間を使い、「知っていること、見たことは教えて欲しい。いじめのないクラス、学年、学校を目指そう」と呼びかけた。

❻ 本事案に関して職員間の共通理解を図るための方法
 学校全体及び学年の生徒指導担当が複数で事案に対応した。事実を把握した初期の段階で、生徒指導担当は、管理職・学年団・部活動担当職員を招集し、事実の共通理解と今後の対応について協議を行った。
 後日、校内生徒指導委員会にて、他の学年生徒指導担当職員へ報告した。それ以外の教職員には職員会議で報告した。

❼ 指導後のA、Bの関係性・様子及び生徒指導担当の支援
 部活動がスタートしてからはA-B間の生活リズムの違いもあり、自然に良い距離ができていった。Bは部活動での仲間が増えたことや多くの先生に関わってもらうことで、明るく前向きに生活できている。

 Aも現在では新しい友人と仲良く、楽しそうに過ごしている。AとBが顔を向き合わせても、ごくごく自然体で対等に接しており、現在では主従関係があるようには感じられない。

 生徒指導担当教諭は、定期的にA本人に声かけをし、いじめが継続されていないか確認している。

本事例に対するコメント
●本事例は、一見すると、対等な関係性の下で仲良く過ごしている2人の友人が、実際には加害-被害の関係(非対称的な力関係)にあった事案である。「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、いじめの認知について、「けんかやふざけ合いであっても、見えない所で被害が発生している場合もあるため、CE景にある事情の調査を行い、児童生徒の感じる被害性に着目し、いじめに該当するか否かを判断する」としている。いじめは教職員の目の届かない所で起きる場合があることに留意しつつ、児童生徒の感じる被害性に着目して、適切に認知することが重要である。
●学校が事実確認を進めた結果、本件をいじめと認知したことは適切な判断だったと言うことができる。なお、学校がいじめと判断した理由のうち「見下して命令していたこと」や「Aをターゲットにし続けたこと、長い期間続いていること」は、いじめか否かを判断するに当たっては考慮に入れる必要がない要件ではあるが、教職員においては、このような背景事情にも留意しつつ、適切な支援・指導につなげていくことが重要と考えられる。
●本事例のように、加害者と被害者の関係性に気づきづらい事案の場合は、当該児童生徒の表情や様子をきめ細かく観察するなどして、注意深く確認する必要がある。この点、生徒指導担当教諭が、Aの様子を継続的に確認していることは有効な取組と言える。

 この事例はイジメ加害者と被害者の関係性に気づきづらいものとしているが、イジメは本来的には教師に気づかれずに行うものだから、簡単には気づかれないのが当たり前であって、結果としてイジメの殆どが一定程度かそれ以上に進行したところで被害者本人が担任に訴えるか、たまたま目撃したほかの生徒が訴えるか、同じく教師がたまたま目撃することになって表面化するパターンを踏むことになるから、個別的に解決に乗り出す事後対応・対処療法の形式を取ることになっている。教師は学校教育者である以上、このことを自覚していなければならない義務があるはずだが、この義務に反して気づきづらい事例に入れているとしたら、教師として鈍感なのか、自分たちでイジメを発見できなかったことに対する責任回避意識を働かせているかどちらかだろう。

 加害者B自身は「これといった理由はなく、ただ楽しかった」こととしていて、関係教職員はBがAにさせていたことは違う小学校出身の同級生に自分の存在をアピールしようとしたと解釈していた。Aが命令なのか、指示なのか、自身の思い通りにBを行動させるのは一種の支配欲求から出た行為であって、その具体化がBを介した女子生徒に対しても支配を及ぼそうとする嫌がることや告白の強要であり、その支配欲求どおりにBを行動させることができた点に"楽しさ"を感じていたのだろう。如何なる行為・行動にも意味や目的があり、である以上、教師がBの「これといった理由はなく、ただ楽しかった」をそのまま受け止めるのは教育者としてあまりも素直過ぎる。

 BのAに対する支配行為には関係教職員の見立て通りに自己存在アピール目的が果たして加わっていたのだろうか。そのような目的があったとしたら、AがしていることはBがやらせていることだと自身の存在を表に出していなければ、自己存在アピールとはならない。他クラスの女子生徒が自学ノートに担任宛に「Aくんが身体を触ってくるので注意してください」と書いていることはA自身の存在のみを視野に入れた言葉であって、B自身の存在は見ていない言葉の成り立ちとなっているし、教師が嫌がらせを受けた女子生徒に対して、〈Aが行った行為はA本人の意思ではなく、やらされていた行動だったと伝え、納得をしてもらうことができた。〉としていることも、Aが嫌がらせを行っていた際にはBの存在は見えない状態になっていたことになり、見えない状態の存在はどうアピールもしようがない。但しBはAに対する支配行為を通して思い通りのことをさせることで達成感や満足感、肯定感を手に入れ、これらを手に入れることがAに対する自己存在をアピールする道具としていたことと解釈すべきだろう。学校教師が生徒の行動の目的や意図を読む目を欠いていたなら、事前予防・原因療法は夢のまた夢で、事後対応・対処療法すら、満足な決着を見ることなく、どこかが抜け落ちた解決しかできないことになる。

 公立中学校 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきも Case02「大丈夫」と答えたので苦痛を受けていると判断しなかった事案

 事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】中学2年女子A(1名)
●【加害】中学2年女子B(1名)

❷ いじめの概要
●被害生徒Aは、加害生徒Bと同じグループの一員であるが、グループ内での立場が弱く、からかいやいじり、嫌がらせが起こるようになった。
●Aは、グループの一員であるため、自分がされて嫌だと思うことは嫌だと言えていると主張しており、いじめ被害を認めようとしない。

事態の経緯及び対応
❶ 事態の経緯
●Aはグループの一員として行動をともにしていたが、弱い立場のように見えたため、他のメンバーからからかわれたり、いじられたりすることがあった。Aは、常に同じ役割を担わされているわけでなく、言い返したりもしていることを例にあげ、いじめではないと主張している。

</>❷ 学校の対応
●客観的に見て、いじめに当たる事案としてとらえ、いじめ対応チーム会議を開き、対応した。
●Aから、どのような言動を受けているのか丁寧に聞き取るとともに、Aの心情に寄り添った指導を行った。
●Bを直接指導することをAが望んでいないため、教育相談の中で示唆的に指導を行った。
●学年集会を開き、いじめアンケートの結果をもとにした講話を行った。
●学年集会や教育相談を通じて、いじめについて指導を行った後、経過観察を行い、Aへのいじめにつながる言動があった時は、加害生徒に対し、その場でただちに指導を行った。

●本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●「からかいやいじり、嫌がらせ」の行為があり、被害児童生徒が「心身の苦痛を感じている」(いじめ防止対策推進法第2条第1項)のであれば、「いじめ」として認知して適切な措置を講じる必要がある。
●本事例では、被害生徒がいじめ被害を認めていないため、いじめの定義に該当しないようにも思われるが、グループ内における当該生徒の立場など背景事情を考慮し、いじめ事案として捉えた上で、いじめ対応チーム会議(学校いじめ対策組織)を開催して対応した点は評価することができる。

❷ 児童生徒への支援・指導の視点から
●本事例では、加害生徒への指導をAが望んでいなかったために、教育相談の中で加害生徒に示唆的に指導を行うに留まっているが、示唆的な指導だけでは、必ずしもいじめの解消に結びつかない場合があることを認識しておく必要がある。

●グループ内のいじめについては、「いじめの防止等のための基本的な方針」において、「特定の児童生徒のグループ内で行われるいじめについては、被害者からの訴えがなかったり、周りの児童生徒も教職員も見逃しやすかったりするので注意深く対応する必要がある」とされている。こうしたことも踏まえ、グループ内のいじめを早期に発見するためには、「日頃からの児童生徒の見守りや信頼関係の構築等に努め、児童生徒が示す小さな変化や危険信号を見逃さないようアンテナを高く保つとともに、教職員相互が積極的に児童生徒の情報交換を行い、情報を共有することが大切」(基本方針)である。
●「いじめの防止等のための基本的な方針」で示しているいじめの解消の考え方も参考としつつ、Aに対する「からかいやいじり、嫌がらせ」が予期しない方向へ推移することのないよう、加害・被害生徒とも日常的に注意深く観察することが重要である。この点、学校が経過観察を行い、いじめにつながる言動があったときにただちに指導を行ったことは適切な対応であると考えられる。

❸ 保護者対応の視点から
●被害生徒の心情やグループ内での様子、いじめの状況について、経過観察の結果を踏まえ、保護者にも定期的に説明・報告することが重要と考えられる。

 被害生徒Aは〈グループ内での立場が弱く、からかいやいじり、嫌がらせが起こるようになった。〉――グループ内での立場の弱さがどのような理由で生じたのか、何がキッカケで「からかいやいじり、嫌がらせ」を受けていることを発見するに至ったのかの理由と、「からかいやいじり、嫌がらせ」の具体的内容は記載されていない。当たり前のことだが、事例集とはただこういうことがあった、ああいうことがあったと起きたことの事実を並べるだけではなく、他の参考に供する目的の情報として作成する。容姿や動作の点で、あるいはテストの成績の点で身体的を除いた攻撃の標的にされたのか、発見は生徒か教師の目撃によるものなのか、アンケートによる発見なのか、発見時のイジメの進行度合いも、発見が早かったのか遅かったのかの問題にも繋がることになるから、知らせるべき重要な情報としなければならない。だが、一切曖昧なままとなっている。

 〈Aは、常に同じ役割を担わされているわけでなく、言い返したりもしていることを例にあげ、いじめではないと主張。〉。対して学校側の対応を改めて。
 
●客観的に見て、いじめに当たる事案としてとらえ、いじめ対応チーム会議を開き、対応した。
●Aから、どのような言動を受けているのか丁寧に聞き取るとともに、Aの心情に寄り添った指導を行った。
●Bを直接指導することをAが望んでいないため、教育相談の中で示唆的に指導を行った。
●学年集会を開き、いじめアンケートの結果をもとにした講話を行った。
●学年集会や教育相談を通じて、いじめについて指導を行った後、経過観察を行い、Aへのいじめにつながる言動があった時は、加害生徒に対し、その場でただちに指導を行った。

 Aのイジメ否定を本人のプライドからと見てのことだろう、「客観的に見て」イジメ事案とした。だが、「からかいやいじり、嫌がらせ」の具体的な内容の提示もなく、それに対して客観的にどう判断するに至ったのか、その道筋も示さずにイジメだと結論した。後先からすると、順番が違うように見えるが、Aに対して丁寧な聞き取りを行い、Aの心情に寄り添った指導を行ったとしているが、丁寧な聞き取りがどのような言葉を用いて行われたのか、心情に寄り添った指導がどのような性格の内容のものなのか、さらにBに対して教育相談の中で「示唆的に」行ったとしている指導が厳密に言うと、どういった言葉をどういったふうに用いて、どういった効果を結果としたのか、さらにさらに学年集会や教育相談を通じて行ったとしているいじめについての指導は一般的なものか、当該学校独自の内容に基づいてしたことなのか、学校当事者のイジメについての諸々の認識を知る上で重要なことだが、肝心の知りたい情報は何一つ見えてこない。

 ところが文科省は「本事例に対するコメント」で"示唆的指導"については、〈加害生徒への指導をAが望んでいなかったために、教育相談の中で加害生徒に示唆的に指導を行うに留まっているが、示唆的な指導だけでは、必ずしもいじめの解消に結びつかない場合があることを認識しておく必要がある。〉と取り上げていて、共通理解の対象としているようである。もしかすると言葉の意味どおりにイジメはいけないといったことを一般論で仄めかしただけのことなのだろうか。

 Aがイジメではないとする根拠は、〈自分がされて嫌だと思うことは嫌だと言えていると主張して〉いることと、〈常に同じ役割を担わされているわけでなく、言い返したりもしていることを例にあげ〉ていることの2つとなっている。だが、自分がされて嫌だと思うことは嫌だと言ったり、言い返したりしているものの、自分がされて嫌だと思うことを完全に止める効果を与えることはできず、繰り返されている状況を窺うことができ、完全には止めることができない点に一定程度の上下関係が固定化されていることを意味することになる。この上下関係が「からかいやいじり、嫌がらせ」が繰り返される原因であって、そこに軽度ながら、イジメを見ないわけにはいかないということなのだろう。

 このような場合のイジメに関わる教師の指導は「自分がされて嫌だと思うこと」をA本人自身がか、担任が代わってか、相手に明確に告げて、「からかいやいじり、嫌がらせ」の対象から外すよう求めて、お互いが嫌だとは思わない、冗談で済ますことができる「からかいやいじり、嫌がらせ」にとどめることをルールとするよう決めさせることだろう。あとはこのように決めたルール通りの関係を築くことができるかどうかを見守り、できたなら、今までできていなかったことができるようになったのだから、お互いに人間的にそれなりに成長していることになるということを伝えて、「成長している」、「成長していない」をイジメの加害・被害を含めたそのときどきの児童・生徒の人間関係を向上させるキーワードにすべきだろう。例えば、「イジメを働くのは成長していない人間のすることだ」といった使い方をする。

 文科省が「本事例に対するコメント」の中で述べている「いじめの防止等のための基本的な方針」(2013年10月11日 文部科学大臣決定 最終改定2017年3月14日)とは、「いじめの定義」から始まって「いじめの防止等のために学校が実施すべき施策」、「いじめ防止基本方針の策定」等々イジメ防止を目的としたマニュアルで、学校・教師は学習指導要領に対するのと同じくこのマニュアルに従ってイジメ対応を行っているように見受ける。例えば「7 いじめの防止等に関する基本的考え方 (1)いじめの防止」で、〈いじめは、どの子供にも、どの学校でも起こりうることを踏まえ、より根本的ないじめの問題克服のためには、全ての児童生徒を対象としたいじめの未然防止の観点が重要であり、全ての児童生徒を、いじめに向かわせることなく、心の通う対人関係を構築できる社会性のある大人へと育み、いじめを生まない土壌をつくるために、関係者が一体となった継続的な取組が必要である。〉云々とあるようにイジメの未然防止に関しては「心の通う対人関係の構築」、「社会性のある大人へと育み」、「いじめを生まない土壌の形成」等、このように抽象的な理念を謳うだけで、具体的な取組抜きのマニュアルとなっているから、学校の文科省のマニュアル追従の習性上、既に二つ挙げた事例だけではなく、以後の事例についても同じだろうが、事前予防・原因療法とならずに事後対応・対処療法ということにならざるを得なかったのだろう。

 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきもの等の具体例  Case03 公立中学校 双方向の行為がある事案

事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】中学2年男子A(1名)
●【加害】中学2年男子B、C、D、E(4名)
❷ いじめの概要
●中学2年男子Aが、同級生B、C、D、Eからあだ名で呼ばれている。
●AもB、C、D、Eに同じようにあだ名をつけて、グループの輪に入ろうとしているが、自分の行為だけ、周囲から否定されている。
●Aは他の4名と仲良くやりたいと思っており、あだ名をつけられていることは、友情の証と捉えている。Aも他の4名に自分と同じようにあだ名をつけているが、なぜか自分の行為は否定されているような気がしている。

 事態の経緯及び対応
●生徒指導部会での報告、対応策の検討、職員会での情報共有を行った。
●Aに対して、今の気持ちを聞くための面談を行った。
●Aは加害生徒への指導を望んでいなかったが、あだ名に込められた正しくない言葉遣いや、人を傷つける言葉遣いは、他の4名のために良くないことから、耳にした時点で指導することを確認した。
●同様に他人にあだ名をつけている行為について、仲の良さをはき違えないようにと指導した。
●B、C、D、Eには個人面談を行い、Aに対する感情や、振る舞い方について話を聞き、アドバイスと指導を行った。

 本事例に対するコメント
●本事例では、あだ名で呼ばれることに対して、当該生徒が心身に苦痛を感じていることも勘案し、いじめに該当すると捉えて対応している。本事例のように、双方向の行為がある事案については、「いじめの防止等のための基本的な方針」にあるとおり、「けんかやふざけ合いであっても、見えない所で被害が発生している場合もあるため、背景にある事情の調査を行い、児童生徒の感じる被害性に着目し、いじめに該当するか否かを判断する」ことが必要である。
●本事例では、被害生徒Aが、加害生徒4名にあだ名をつけてグループの輪に入ろうとしているが、その行為が否定されている状況にある。Aは加害生徒4名と仲良くしたいと思っているためか、当該4名への指導を望んでいないようだが、Aの感じる被害性に着目して、個人面談や指導など必要な対策を講じたことは適切であったと考えられる。
●加害生徒に指導を行う際は、友情や親しみに由来するあだ名であっても、相手に心身の苦痛を与えてしまう場合があることを、あわせて理解させることが考えられる。

 AはB、C、D、Eのグループの一員になりたいと思っているが、なれないでいる。B、C、D、EはAをあだ名で呼び、Aも仲良くやりたいと思って、親密さを演出する目的でか、4人にあだ名を付けて、〈グループの輪に入ろうとしているが、自分の行為だけ、周囲から否定されている。〉と思っている。否定の根拠はあだ名に正しくない言葉遣いが込められていることと人を傷つける言葉遣いを投げつけられること、さらに4人をあだ名で呼んだとき、受け入れられないこと、多分、「あだ名で呼ばないでくれ」、「ちゃんと名前で呼べ」と言われているのかもしれない点に置いているのだろう。4人はAのあだ名に正しくない言葉遣いを込めていることからか、Aからあだ名で呼ばれると、同じ性格のあだ名と疑い、拒絶反応を示しているのかもしれない。

 但しAは正しくない言葉遣いがあだ名に込められていても、人を傷つける言葉遣いを使われてても、加害生徒への指導を望んでいなかった。この関係性はA自身を4人の人間よりも自分という人間を下に位置させて下位権威とし、4人の人間をAという人間よりも上に置いて上位権威とする構造を取っていることになる。このように上下の関係性を築いていても、グループの輪に入ろうとしているところに現れているようにAは苦痛を感じていなかった。教師たちはB、C、D、EをAに対するあだ名に正しくない言葉遣いが込めている点と人を傷つける言葉遣いを投げつける点で指導するに至ったのみで、Aの4人に対する上下関係を当然視している態度に対等な関係の必要性から指導の目が向いていたかどうかは窺うことはできない。文科省の「本事例に対するコメント」に、〈本事例では、あだ名で呼ばれることに対して、当該生徒が心身に苦痛を感じていることも勘案し、いじめに該当すると捉えて対応している〉と書いてあるが、指導前は、〈AもB、C、D、Eに同じようにあだ名をつけて、グループの輪に入ろうとしている〉こと、〈Aは他の4名と仲良くやりたいと思っており、あだ名をつけられていることは、友情の証と捉えている〉としているのだから、あだ名に苦痛は指導開始後、教師たちに諭されて、そう思うようになった可能性は否定できない。

 素(す)の人間関係は地位の上下や年齢の上下、男女の性別の違い等に関係なしに対等でなければならない。対等の意識は相互に同じ一個の存在と見ることによって成り立つ。人間関係が例え児童・生徒の間でも対等の意識に裏打ちされているべきである以上、Aが自分という人間をB、C、D、Eという4人の人間よりも下位権威と看做して下に置き、4人を上位権威に位置させて自分よりも上に置く上下意識(上下の権威主義)は時と場合に応じて自身をいつ卑下する場所に立たせかねない危険性を抱えるゆえに阻止しなければならない。上下関係のもとでの卑下や服従、妥協が当たり前になると、自分という人間を小さくすることになる。

 人間を小さくする学校教育は考えられないが、テストの成績にばかり目を向けると、テストの成績順位を受けた上下関係が形成されて、成績の悪い生徒に自己達成感の機会を与えず、自信喪失させ、結果的に児童・生徒の人間を小さくする手助けをすることになりかねない。 

 公立小学校 明らかに法のいじめに該当するので、いじめとして扱うべきもの等の具体例

Case04 グループ内のトラブル(その1)

事例の概要
❶ 関係児童
●【被害】小学3年女子A(1名)
●【加害】小学3年女子B、4年男子C(2名)

②いじめの概要
●11 月中旬、3日間に渡って、登校班で登校中、小学3年女子Aが、同じ登校班の小学3年女子Bと小学4年男子Cから「足を踏まれる行為」を複数回受けた。Aは心身ともに苦痛を感じていた。その行為を見ていた登校班の児童が担任に報告。しかし、担任は、事実関係を確認したところ、「足踏み遊び」の中で起こった行為であったとして、校内の「いじめ対応チーム」に報告しなかった。
●11月下旬、Aは学校を欠席し、その日にAの父親が来校した。学校は、父親の訴えにより、「しつこく足を踏まれる行為」を受けたことで、Aが心身ともに苦痛を感じていたことを初めて知った。
●学校は加害・被害児童の聞き取り調査を行い「しつこく足を踏まれる行為」を確認し、児童どうしの謝罪をもって事案終結としていた。加害及び被害児童の保護者には、面談による報告や謝罪の場に同席させることもなく、電話連絡に留まっていた。
●12 月中旬、Aが1週間連続して学校を欠席した。欠席の理由は「同じクラスのBが怖い」であった。
 12 月下旬、Aの父親が、BとCの保護者を家に呼び出し、謝罪させるという事態が発生した。学校が市教育委員会に「いじめ」の報告をしたのはその直後であった。

事態の経緯及び対応
❶ 学校が「しつこく足を踏まれる行為」を確認した直後の対応
●管理職、生徒指導、担任で今後の指導について協議。
●BとCから聞き取りを行うとともに、BとCがAに謝罪する場を設定。
●加害・被害児童の保護者に指導の結果を電話にて報告。
●Aの不安解消のため、集団登校時に教諭が同行。
●その後、Aは連続1週間の欠席。Aの保護者がBとCの保護者を家に呼び出して謝罪させるという事態に発展した。(情報不足。Aの連続1週間欠席の理由
❷ 学校が市教委にいじめを報告した後の対応
●「いじめ対応チーム」にて、今後の指導について協議。
●加害・被害児童の保護者に直接会い、事実関係とともに指導方針を伝える。
●「ケース会議」を継続して開催(市教委やスクールカウンセラーも参加)。
●Aが別室で学習できる体制を構築。
●進級時にBと違う学級・登校班になるよう配置。その結果、Aは、3学期は別室で、4月以降は教室で毎日学習している。

成果
●この事例により、「いじめの定義」「早期発見における取組」「いじめに対する措置」等が学校において徹底されていないことが明確となり、全教職員で「学校いじめ防止基本方針」を確認するとともに、「学校いじめ対応マニュアル」を作成する契機となった。
●いじめの認定後、別室で学習できる体制の構築、進級時の学級・登校班編成により、被害児童が安心して登校できるようになった。

本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●11 月中旬の「しつこく足を踏まれる行為」について、担任は、Aが心身に苦痛を感じていたにもかかわらず、「足踏み遊び」の中で起こった行為であるとして、校内のいじめ対応チーム(学校いじめ対策組織)への報告を行わなかった。これは、いじめ防止対策推進法第23条第1項が求める「いじめの事実があると思われるとき」の「学校への通報」が適切に行われなかったケースと言うことができる。この時点で、いじめの疑いがあるとして学校いじめ対策組織へ報告し、組織的な対応をとる必要があったと考えられる。
●また、学校は、加害・被害児童に聞き取り調査を行った際に、Aの足を踏む行為がしつこく行われた旨を確認していたことから、この時点で、いじめと捉え、学校いじめ対策組織への報告等の必要な措置を講ずる必要があったと考えられる。

❷ 児童生徒への支援・指導の視点から
●学校は、「しつこく足を踏まれる行為」を確認した後、聞き取りや謝罪の場の設定等の対応をとったが、Aの不安は解消されなかった。その後、いじめと認知し、学校いじめ対策組織での指導方針を踏まえ、別室での学習体制の構築や進級時のBと異なる学級・登校班への配置等の措置を講じた結果、Aが安心して登校できるようになった。
●これを踏まえると、より早期の段階から、いじめを認知した上でAの心情に寄り添った対応を行うべきであった。

❸ 保護者対応の視点から
●11 月下旬にAの父親が来校し、Aが心身ともに苦痛を感じていることを把握した時点で、「しつこく足を踏まれる行為」がいじめに該当すると判断し、今後の指導方針等を丁寧に説明する必要があった。Aの不安が解消されなかったために、Aの父親がBとCの保護者を家に呼び出し、謝罪を求める事態に至ってしまった。

 被害児童小学3年女子Aは加害児童小学3年女子B、4年男子Cから「足を踏まれる行為」を複数回受け、心身ともに苦痛を感じていた。目撃児童が担任に報告。担任は事実確認を行った。被害児童の女子Aは足を踏まれる行為がエスカレートするのを恐れて、はっきりしたことは言えなかったのだろうか。加害側の児童が遊びだと証言したために担任は加害側の言い分のみ従ってイジメとしての対応は放置した。被害児童女子Aがはっきりとしたことが言えない性格なのは自分から担任に訴えることはできずに目撃児童が訴えた事実から窺えるし、結局のところ、学校を欠席することで嫌がらせからの回避策としたところにも現れている。

 勿論、学校を欠席したのは遊びだと判定後のことではあるが、担任は足を踏む行為が女子Aに対して女子Bと男子Cとの間でのみ行われていたのか、踏まれる側がAにターゲットを絞った一方通行のものなのか、両者間でターゲットが不定期的に入れ替わる両方向のものだったのか、あるいは登校班の中で一般的に行われていた遊びだったのか、B、Cから聞き取りをするのではなく、被害児童Aからも根気よく聞き取りをすべきだったし、登校班の他の児童からも同じ聞き取りをすべきだった。遊びはしたり、されたり、両方向からの相互性をルールとしていて、ターゲットを固定した一方向をルールとしていた場合、それが他愛のないことに見えても、遊びではなく、攻撃の部類に入るイジメそのものとなる。担任はこういったことに気を配るだけの教育的配を欠いていた。

 Aの学校欠席と入れ替わりの父親の来校で実際には「しつこく足を踏まれる行為」を受けていて、Aに苦痛を与えていたことを学校側は初めて把握することになり、加害・被害児童の聞き取り調査、「しつこく足を踏まれる行為」を確認、11月下旬以降、児童同士の謝罪を以って事案終結としたが、12 月中旬、Aが1週間連続して学校を欠席。理由は「同じクラスのBが怖い」。イジメとされて根に持ち、睨みつけるか何かしたのかもしれない。学校は人間関係の修復を理想の解決策とすることができずにAを3学期は別室で学ばせ、進級時に別の学級に移し、登校班も変える、より安易な隔離政策で問題の決着を図った。

 「自分の成長は学校での毎日の生活や家での毎日の生活を自分がどう過ごしていくか、どう送っていくのかによって決まっていく。あの子が面白くないといったことは自分の成長という問題から比べたら、どうでもいい小さな問題ではないか。どうでもいい小さな問題とすることができずに足踏んだりする嫌がらせをする。成長していない人間のすることではないのか。クラスメートや同級生に何かするんだったら、お互いの成長に役立つことをして欲しい」ぐらいのことは日々話して聞かせておかなければならないだろう。イジメの事前予防に役立つ可能性は否定できない。この点については文科省の「本事例に対するコメント」も何ら触れていない。イジメ事例から事後対応・対処療法のみに目を向けて、事前予防・原因療法の可能性に目を向けることを忘れているらしい。

《イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(2)》に続く

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イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(2)

2022-12-09 05:10:10 | 教育
 「Case05 グループ内のトラブル(その2)」は公立特別支援学校高等部1年男子Aのイジメ被害者とし、1年男子B、C(2名)をイジメ加害者とする事例であるが、前に載せた画像から2020年度の小中高のイジメ合計認知件数は612656件。ネットで調べた2020年5月1日現在の小中高生数12、686、079人で、イジメ認知件数の割合は20.7人に1人。特別支援学校(幼稚部、小学部、中学部、高等部、高等部専攻科)生徒数は144、823人でイジメ認知件数は2695件。2020年5月1日現在の支援学校生徒数は144、823人で、イジメ認知件数の割合は53.7人に1件。小中高の認知件数の半分以下だが、障害の特性上、個別面談にはイラストを使って行うと紹介されていて、教師・職員は並大抵ではない苦労をしているに違いないという思いに駆られるが、特別支援学校に関わるイジメ問題については勉強不足で考える力は持ち合わせていないから、残酷な話だが、省略することにする。

 Case06 公立高等学校 組織的ないじめの認知(その1)

事例の概要
❶ 関係生徒
●【被害】高校1年女子A(1名)
●【加害】高校1年女子B(1名)
❷ いじめの概要
●高校1年女子Aから、同じ学級内の女子生徒Bと席が近くなった際や体育等でペアを組む際に、Bから「最悪、地獄、キモい」と言われるなどの訴えがあった。

事態の経緯及び対応
●訴えを受け、担任、学年主任、生徒指導部が連携し、Aと仲の良い生徒3人から聞き取りを行った。その中で「学級内の女子が2つのグループに分かれており、Aがもう一方のグループから毛嫌いされている。特にBのAに対する言動はひどい」との情報を得た。
●聞き取りを受け、いじめ認知対応委員会(学校いじめ対策組織)で協議し、Aの保護者に実態を報告することを決めた。Aの保護者は、実態に驚くとともに、Bに直接注意することは避けて欲しいと述べた。学校は学年全体に指導すること、本人を見守るとともに様子を定期的に伝えることなど、家庭と連携していくことを伝えた。
●学年集会で全体指導を行うも、状況の改善が見られなかったため、いじめ認知対応委員会で協議した結果、Bに聞き取りを行うとともに、指導を行うことを決定した。
●BはAに対する言動を認め「Aに原因があるのではなく、自分に悪感情があるために行ったもの」と答えた。
●その後、Bに指導を行ったにもかかわらず改善が見られなかったことから、いじめ認知対応委員会は、このことを重く受け止めさせ、今後の生活について考えさせるために謹慎指導を行うこととし、校長は保護者を呼び出して申し渡しを行った。
●Aの保護者に状況を説明し、学校の対応に納得してもらった。今後も連携してAを見守ることを確認した。

成果
●生徒の訴えを受け、複数の職員が関わり、組織的に対応することができた。特に実態把握をする上で、周辺生徒への聞き取りをすることで、全容を把握することができている。
●指導後の見守りが、改善していないことを確認することにつながった。また、加害生徒については毅然とした態度で指導するとともに、指導後の学校生活について考える指導がなされた。

本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●いじめ防止対策推進法第22条に基づき、学校は、複数の教職員、心理、福祉等に関する専門的な知識を有する者等により構成されるいじめの防止等の対策のための組織(学校いじめ対策組織)を設けることとされている。また、「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、いじめ問題への学校が一丸となった組織的対応の重要性が強調されている。
●本事例では、学校いじめ対策組織で協議を重ねながら対応方針を定めるなど、組織的に対応を進めている。このことにより、事案の全容把握やBへの毅然とした指導が可能となり、Aに対するいじめをやめさせることにつながったと考えられる。
❷ 児童生徒への支援・指導の視点から
●保護者の意向を踏まえ、最初はBに対する直接的な指導ではなく、学年集会における全体指導を選択しているが、全体指導と個別指導の効果等を見極め、保護者に事前に説明した上で、早期に個別指導を行うことも考えられた。
●「いじめの防止等のための基本的な方針」において、「加害児童生徒に対しては、当該児童生徒の人格の成長を旨として、教育的配慮の下、毅然とした態度で指導する」とされている。
加害児童生徒に対する指導については、自らの行為を見つめることや相手の立場に立った言動の大切さを考えさせることを通して、反省を促す指導が必要である。
●本事例では、学級内の女子が2つのグループに分かれているが、仮に双方のグループが対立関係にあるのであれば、今後のいじめの未然防止の観点から、学級全体の在り方について指導を行うことも考えられた。
❸ 保護者対応の視点から 
●学校いじめ対策組織における協議を踏まえ、早い段階でAの保護者に状況を伝えることで、保護者の意向を踏まえつつ、段階的な指導を進めることが可能となったと考えられる。

総括
●いじめの加害生徒及び被害生徒に対する指導を実施した後、双方の状況を見守ることは欠かせない。本事例では、見守りを継続したことによって、Aへのいじめ行為が継続されていることが分かり、Bがいじめ行為の非や責任を十分に自覚できていないことが明らかとなった。
学校は、Bに指導を行ったにもかかわらず改善が見られなかったことを踏まえ、今後の学校生活について考えさせるために謹慎指導を行うことを決定した。このことは、Bの今後の学校生活の土台を固めるとともに、より良い人間関係の形成に資する観点から必要な指導であったと考えられる。

 公立高校1年の学級内で女子が2つのグループが存在、一方のグループのBからもう一方のグループのAに対して身近にいるときや体育等でペアを組む際に「最悪、地獄、キモい」等の言葉を投げつけられている、いわば言葉の暴力を受けているとの訴えがあった。Aと仲の良い生徒3人から聞き取りを行い、相当程度深刻なレベルと判断。いじめ認知対応委員会(学校いじめ対策組織)で協議、Aの保護者に実態を報告することを決めて報告。Aの保護者から驚きながらも〈Bに直接注意することは避けて欲しい〉との要望を受け、〈学校は学年全体に指導すること、本人を見守るとともに様子を定期的に伝えることなど、家庭と連携していくことを伝えた。〉

 学校側のこの経緯には責任回避意識を色濃く滲ませている。イジメとなるこの言葉の暴力に関してはBに聞き取りを行い、その悪意ある言動が何に発しているのか、その理由を把握しない限り、問題解決には取り組むことはできないという関係を取ることになる。但しAの保護者の要望を拒否して解決がこじれてイジメが悪化した場合は非は全面的に学校側にあることをAの保護者から突きつけられる恐れが予想される。このために優先すべきBからの聞き取りを後回しにしてAの保護者の要望を優先させた。「Bへの聞き取りを行わなければ、嫌がらせの原因を探り当てることができませんし、できなければ、根本的な解決策を見つけることはできません」と保護者を説得すべきだったが、それを回避した責任の放棄である。

 学校はAの保護者の要望を受け入れることと「学年全体に指導する」こと、その他を保護者に伝えた。この"学年全体への指導"とは具体的にどのような内容の指導なのか、何ら触れていないのは事例集の他の参考となるための情報という役目を何ら果たしていないことになって、この点も学校の責任が問われることになるし、このことに何ら配慮を向けずに事例集に載せた文科省の責任も問題となる。

 察するに「いじめ防止対策推進法」が触れている「いじめの定義」、〈「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。〉とか、「基本理念」としている〈いじめの防止等のための対策は、いじめが全ての児童等に関係する問題であることに鑑み、児童等が安心して学習その他の活動に取り組むことができるよう、学校の内外を問わずいじめが行われなくなるようにすることを旨として行われなければならない。〉などなどを講話の形で触れたといったことなのだろうか。

 Bの言葉の暴力、悪意ある言動の理由をB本人から聞き出さない限り、問題解決に取り組むことはできないという関係を無視したのだから、学年集会で全体指導を行ったものの、靴の上から足の痒いところを掻くのと同じで、「状況の改善が見られなかった」のは前以って予測できていたはずだが、その予測を責任回避意識が打ち消してしまったといったところなのだろう。結果、寄り道をした上でBへの聞き取りを行うことになった。

 〈BはAに対する言動を認め「Aに原因があるのではなく、自分に悪感情があるために行ったもの」と答えた。〉が、〈その後、Bに指導を行ったにもかかわらず改善が見られなかった〉。

 学校はBの最初の説明をどのように解釈し、その解釈に基づいてどのような指導を行ったのだろうか。何も触れていないから、事例集としての情報の役目を何も果たしていない点はここにも現れている。学校側のこのような対応に対して文科省は焦点を当てることは何もしていない。事例集の意味をなくしている。

 改善が見られなかったということは、当然、「最悪、地獄、キモい」等の言葉の暴力をやめなかったことになる。だが、Aに原因はなく、自分の悪感情がそう言わせてしまっているといったことを説明したのだろう。考えられる主な原因は生理的な拒絶感の可能性が高い。生理的に受け付けることができないという対人関係がときとして起こりうる。顔も見たくない。顔を見てしまうと、押さえようもなく腹が立ってくる。だが、完璧な人間は存在しない。誰もが何らかの欠点や欠陥を抱えている。自分自身の欠点や欠陥に目を向けずに他人の欠点や欠陥にだけ目を向けて、生理的な拒絶感を剥き出しにし、言葉の暴力を働くのは許される、あるいは自分の勝手だとするのは成長していない人間のすることではないのか。体育等でペアを組む際の生理的な拒絶感は体育の先生にほかの生徒とペアを組ませて欲しいと申し出て許可を取れば、抑えることができるし、教室で直ぐ側を通らなければならないときぐらいは一瞬のニアミスと自分に言い聞かせて生理的な拒絶感を抑えることができるくらいに成長しているところを見せて欲しいと伝えることぐらいは教師はすべきだろう。

 人間としての成長を促す方法でイジメの事前予防・原因療法を試す。そうはしなかったようで、指導の結果、改善が見られなかったために校長は保護者を呼び出して謹慎指導という隔離政策を申し渡した。要するに加害者を被害者から遠ざけることで沈静化を図った。校長、あるいは担任がB本人にどのような言葉をかけて自宅謹慎を申し渡したのか知りたいが、「自宅で一人じっくりと考えて、反省するところは反省して欲しい」程度の声掛けしかできなかったに違いない。

 隔離政策による沈静化に過ぎないのに掲げた「成果」はなかなかのものとなっている。〈生徒の訴えを受け、複数の職員が関わり、組織的に対応することができた。特に実態把握をする上で、周辺生徒への聞き取りをすることで、全容を把握することができている。〉、〈指導後の見守りが、改善していないことを確認することにつながった。また、加害生徒については毅然とした態度で指導するとともに、指導後の学校生活について考える指導がなされた。〉云々。イジメ被害者からイジメ加害者を遠ざける解決策に過ぎないにも関わらず、〈加害生徒については毅然とした態度で指導〉したとしている。そして「本事例に対するコメント」では、〈事案の全容把握やBへの毅然とした指導が可能となり、Aに対するいじめをやめさせることにつながったと考えられる。〉と抜本的に解決できたかのような万々歳のことを言っている。 

 Case07 公立小学校 組織的ないじめの認知(その2)

事例の概要
❶ 関係児童
●【被害】小学5年男子A(1名)
●【加害】小学5年男子B、C、D(3名)
❷ いじめの概要
●小学5年男子Aが、同じ学級の男子B、C、Dから継続的な仲間はずれや言葉による嫌がらせを受けていると、Aの保護者より学級担任に相談があった。
●Aの保護者によると、そのいじめは、休み時間や放課後等の担任の目が届かない場面で行われているようであるとのことであった。

事態の経緯及び対応
❶ いじめの発見
●担任は保護者からの相談により、いじめの疑いがあると認識し、保護者からAの訴えや心身の状況を丁寧に聞き取るとともに、今後、校内いじめ防止対策会議(学校いじめ対策組織)に報告し、組織的な対応を約束。Aからの聞き取りの実施に向けて、今後、保護者と相談の上で進めていくことを話した。
●担任は、保護者からの相談内容を学年主任及び管理職に報告。管理職は直ちに校内いじめ対策会議を開催した。対策会議では、これまでに実施したアンケートや関係児童の生活の記録等を見直し、対応の方針を協議。Aの聞き取りには、Aが話しやすい教職員として現担任と前年度担任を、B、C、Dには現担任と学年主任(必要に応じて養護教諭)が聞き取りを行うことを決めた。
●学校は、Aに対する聞き取りの方針を保護者に説明し、協議の上で、翌日、学校でAに対する聞き取りを実施することを決めた。
❷ 情報共有
●Aの聞き取り後、対策会議でAの状況を情報共有し、Aが心身の苦痛を感じていることから、いじめとして対応することを確認した。また、Aからの聞き取りにおいて、SNSによる仲間はずれの疑いも浮上したため、その内容に即してB、C、Dへの個別の聞き取りを実施し、事実関係が整理できた時点で、保護者への協力依頼を行うことを決定した。
●学校はB、C、Dへの聞き取りの結果、言葉による嫌がらせは確認できたが、SNSでの仲間はずれ等については確認することができなかった。
❸ いじめに該当するか否かの判断
●対策会議では、これまでの情報を整理し、本件の「言葉による嫌がらせ」はいじめに該当すること、また、SNSによる仲間はずれは確認できなかったものの、事実であればこの行為もいじめに該当する可能性が高いことを確認した。今後は、関係保護者に調査の結果を伝えるとともに、SNSの適正な使用を含め、
学校と保護者が連携して関係児童を見守っていくことを依頼する旨の指導方針を確認した。
❹ 関係保護者への報告及び謝罪と見守り
●学校は対策会議での調査の結果を関係保護者へ報告し、言葉による継続的な嫌がらせについてはB、C、DがAに対して謝罪することができた。しかし、SNSによる仲間はずれについては関係児童・保護者ともに事実を認めることがなく、学校もそれ以上踏み込むことができなかった。現在、Aの保護者は警察へ相談し、法的手続きも検討している。

本事例に対するコメント
❶ いじめ防止対策推進法の視点から
●担任は、保護者からの相談を受け、被害児童Aに対するいじめの疑いを認識した段階で学校いじめ対策組織へ報告している。この報告は「いじめの防止等のための基本的な方針」でも速やかに行うこととされており、直ちに校内いじめ防止対策会議が開催されたことによって、組織的な対応をとることに繋がっている。
●被害児童及び加害児童からの聞き取りを、話しやすさ等を考慮して担任や学年主任を充てるなど、複数人で組織的に聞き取るようにした点は有効であると考えられる。
●「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、「学校いじめ対策組織において情報共有を行った後は、事実関係の確認の上、組織的に対応方針を決定し、被害児童生徒を徹底して守り通す」とされている。本事案においても、Aからの聞き取りを受け、いじめと対応する方針を、校内いじめ防止対策会議において決定しており、基本方針に則った対応が行われている。
❷ いじめの判断の視点から
●校内いじめ防止対策会議において、本事例における「言葉による嫌がらせ」は被害児童Aが心身の苦痛を感じていることから、いじめ防止対策推進法の定義に基づきいじめとして認知し、対応を判断している。加えて、SNSでの仲間はずしについても、いじめの「疑い」があるとして、いじめの可能性を考慮しながら事実関係を確認したことは、適切な対応であったと考えられる。

 イジメ被害者は小学5年男子A。イジメ加害者は同じ学級の男子B、C、Dの3対1となっている。Aの保護者の学級担任への相談で表面化した。イジメの内容は継続的な仲間はずしや言葉による嫌がらせ。Aの聞き取りにはAが話しやすい教職員として現担任と前年度担任が担当し、B、C、Dに対しては現担任と学年主任(必要に応じて養護教諭)が行うなかなかの配慮をみせている。Aからの聞き取りによって前記以外にSNSによる仲間はずしの疑いも浮上し、Aが心身の苦痛を感じていることが分かった。この聞き取りの結果を受けてB、C、Dへの個別の聞き取りを実施。言葉による嫌がらせは確認でき、加害側が被害側に謝罪。SNSによる仲間はずしについては加害側は保護者共に認めなかったため、学校もそれ以上踏み込むことができなかった。

 但しAの保護者が警察へ相談し、法的手続きも検討しているのは加害側が後者のSNSを使った仲間外しを認めていない点にあり、前者よりも後者の方を匿名を利用したより悪質なイジメだと見ている可能性からなのかもしれない。B、C、Dも匿名だから、露見しないと思って事実を否定している可能性はある。根拠はAにはウソをつく理由も利益もないが、B、C、D側には両方共にある。罪と責任を軽くできる理由と利益である。Aの肯定に対してB、C、Dが否定したからと言って、その否定が正しいとは限らない。SNS等の利用サイトにIPアドレスの開示請求を行い、開示を受けてプロバイダに対して契約者情報の開示請求すれば、海外のプロキシサーバー経由かログ(コンピューターの通信記録等)が消去されていない限り、匿名の投稿者を特定できるという。学校は前以って特定できるということを生徒全員に伝えておかなければならないだろう。学校はそれ以上踏み込むことができなかったでは責任を果たしていないことになる。と同時に誰かのことを陰でコソコソと悪く言う、自分自身はそれが間違っていない言い分だと思っていても、ある人間をどう見るかの評価は人によって違ってくるから、悪く言われた側が悪く言った人間の言い分として間違っていないかどうかを判断するには顔を隠し、名前を出していなければできないことになる。このことを避けるためには誰かを悪く言う場合は顔と名前を出して、その言い分に対しての責任を負わなければならない。このようなことを道理とするよう、日常普段に生徒に語りかけていなかったとしたら、Aの聞き取りにはAが話しやすい教職員として現担任と前年度担任が担当し、B、C、Dに対しては現担任と学年主任(必要に応じて養護教諭)が行うといった配慮はさしたる意味は持たないことになる。

 また対策会議で、〈SNSの適正な使用を含め、学校と保護者が連携して関係児童を見守っていくことを依頼する旨の指導方針を確認した。〉としているが、学校・教師がSNS適正使用の言葉を持たない限り、このことは加害者側がSNSの不適正使用の事実を認めなければ、それ以上踏み込むことができないとしている姿勢に現れているが、変わらない事態を繰り返すことになって、言葉倒れとなるだろう。

 文科省の「本事例に対するコメント」は結局のところ、途中過程の対応をよしとするだけで、最終的問題解決に至ったのかどうかの点については触れていない。

 Case08 いじめとして認知するが、「いじめ」という言葉を使わずに指導する対処例

事例の概要 
❶ 関係児童
●【被害】小学6年男子A(1名)
●【加害】小学6年男子B、C、D(3名)
❷ いじめの概要
●小学6年男子Aが、同級生の男子B、C、Dから、下校中に冷やかしの言葉を浴びせられた。また、学校で、BがAの靴のかかとを繰り返し踏もうとした。
●個人懇談会で、Aの母親が担任に話したことにより発覚した。

事態の経緯及び対応
●個人懇談会において、担任は「すぐに対応したい」と母親に伝えた。しかし、母親は「本人が『先生に言ってほしくない。自分の力で仲良くなりたい』と強く言っているので、対応はしないでほしい。次、もし何かがあった場合はすぐに先生に言うように約束をしている」とのことであった。
●懇談後、担任はいじめ対応チーム(学校いじめ対策組織)に報告し、対応について話し合った。すぐ対応した方が良いと判断し、母親に電話連絡をしてその旨を伝えたが、「やっぱり本人の意思を尊重したいので対応はしないでほしい」とのことであった。そこで、「もし今後、何かあればすぐに対応する」という約束をした上で話を終えた。
●後日、BがAの上靴のかかとを踏もうとしているところを他クラスの担任が発見し、すぐに担任に伝え、そのままBから聞き取りをした。B以外にAに嫌がらせをしている児童は誰かをBに聞くと、C、Dの名前が出たので、Aから事実確認した後、C、Dそれぞれからも聞き取りをした。内容はAやBが話していたことと一致していた。その後4人を集めて事実関係を確認した後、今回の問題点や人間関係の築き方について指導した。
●4人全ての家に家庭訪問し、指導内容を伝えた。加害側の3人は保護者とともにAの家に行き謝罪している。

成果
●担任は、Aの母親から話を聞いてすぐ校内いじめ対応チームに報告し、対応について話し合った。これを受けて、担任以外の教師も注意して見守りを行った結果、いじめの行為を見つけることができた。Aの母親の意向は、「対応はしないでほしい」ということであったが、組織的対応の体制を整えずに児童を注視しているだけでは、事態の深刻化を招く恐れがある。この事案では、母親の意向を尊重しつつ、何かあればすぐに対応するという姿勢で見守りを続けた結果、事態が深刻化する前に指導することができたと言える。

本事例に対するコメント
●「いじめの防止等のための基本的な方針」においては、「例えば、好意から行った行為が意図せずに相手側の児童生徒に心身の苦痛を感じさせてしまったような場合、軽い言葉で相手を傷つけたが、すぐに加害者が謝罪し教員の指導によらずして良好な関係を再び築くことができた場合等においては、学校は、『いじめ』という言葉を使わず指導するなど、柔軟な対応による対処も可能である」とされている。
●本事例は、被害児童もその保護者も教員が介入して解決に至ることを望んでいない事例であるが、「いじめ」という言葉を使うことなく見守りや指導を行うことで、被害児童や保護者の意向に配慮した生徒指導が可能であることを示している。
●本事例については、被害児童及びその保護者に寄り添い、その意向を尊重しつつ、事態の深刻化を防ぐため、担任以外の教師も注意して見守りを行い、加害児童への指導につなげていった点が優れた対応であったと評価できる。

 小学6年男子AがB等同級生男子3人に下校中に冷やかしの言葉を浴びせられ、学校でBがAの靴のかかとを繰り返し踏むイジメを働いた。個人懇談会でAの母親が担任に訴えたことにより発覚したが、母親から「本人が『先生に言ってほしくない。自分の力で仲良くなりたい』と強く言っているので、対応はしないでほしい。次、もし何かがあった場合はすぐに先生に言うように約束をしている」と言われて、取り敢えずいじめ対応チーム(学校いじめ対策組織)に報告、チームは即座の対応が望ましいと判断、その旨を母親に電話連絡すると、「やっぱり本人の意思を尊重したいので対応はしないでほしい」と言われて様子を見ることにした。多分、教師全員で注意深く見守ることにしていたのだろう、〈後日、BがAの上靴のかかとを踏もうとしているところを他クラスの担任が発見し、すぐに担任に伝え、そのままBから聞き取りをした。B以外にAに嫌がらせをしている児童は誰かをBに聞くと、C、Dの名前が出たので、Aから事実確認した後、C、Dそれぞれからも聞き取りをした。内容はAやBが話していたことと一致していた。その後4人を集めて事実関係を確認した後、今回の問題点や人間関係の築き方について指導した。〉

 結構毛だらけ猫灰だらけの対応に見えるが、母親から「本人が『自分の力で仲良くなりたい』」と言われたあと、A本人から、「どのような方法で仲良くなりたいと考えているのか」と尋ねたのだろうか。単なる強がりで口にするケースも考えられるが、そうでない場合は本人の主体性を尊重し、本人の成長に手を貸すためにもその方法を聞いて、試させるのも一つの教育的配慮となるだろう。だが、そうしたことは触れていない。

 Bからの聞き取りで仲間だと分かったCとDの3人のうちで誰がリーダー格なのか確認したのだろうか。B自身がリーダー格で、率先してAを冷やかし、靴の踵を踏んでいるのか、C、Dのどちらからに命令されてしていたことなのか、それによって指導の方法が違ってくるはずである。4人に対して〈人間関係の築き方について指導した。〉とあるが、どのような言葉を用いて指導したのだろうか。知りたいが、何ら触れずじまいで、事例集としての情報提供の役目を果たしていない。2013年10月11日文部科学大臣決定の《いじめの防止等のための基本的な方針》をマニュアルとして、〈7 いじめの防止等に関する基本的考え方〉に書いてある、〈心の通う対人関係を構築できる社会性のある大人へと育み〉云々から、「心の通う対人関係でなければならない」とか、「社会性のある大人になって欲しい」とか言葉で訴えるのみの指導したということなのだろうか。学校独自の創造的な人間関係の築き方の教えであり、何がしかの効果があるものなら、公表の価値があるはずだが、公表しないところを見ると、そうしましたというだけの形式的なものに過ぎない疑いが出てくる。

 やはり「成長」をキーワードに「冷やかしの言葉を浴びせたり、靴の踵をわざと繰り返し踏んだりして相手が嫌がることをするのは成長していない人間のすることだと思うが、成長している人間もしていることなのかどうか考えてみたまえ」と問いかけ、成長という観点から自分のしていることを眺めさせて自分自身を客観的に見つめさせる機会とし、自己省察能力というものの育みに力を貸すべきではないだろうか。

 加害側の3人は保護者と共にAの家に行き謝罪した。指導を受け、求められたから応じた謝罪なのか、素直に反省して成長を見せることができた結果の謝罪なのか。後者なら、成長を促す指導はイジメの事前予防・原因療法にも役立つはずだから、イジメは減少傾向に向かうはずだが、そうはなっていない以上、後者の可能性は低い。Aにしても個人懇談会でAの母親が担任に訴えたことで表面化したイジメであって、その場でやめて欲しいと訴えたわけでも、自分から担任に訴え出たイジメでもない点で、加害者たち程ではないにしても、自律的な成長からは程遠い姿をしている点でAに対しても成長を促す指導を心がけなければならなかったはずだが、一切窺うことができない事例となっている。文科省の「本事例に対するコメント」がこの件に関する学校対応に「優れた対応であったと評価できる」と高得点を与えているが、加害者・被害者に対して人間としての成長を促す教育配慮が共に見えてこない以上、マニュアル通りの機械的な対応としか見えない。

 次の「Case 09」は「いじめ防止等に効果的な学校基本方針の例」として平成29 年度の「市立A中学校のいじめ問題対応の基本方針の事例」を取り上げているもので省略することにする。理由は上に挙げた2013年10月11日文部科学大臣決定の《いじめの防止等のための基本的な方針》のマニュアルをほぼなぞった内容だからである。その根拠を示すためにほんの一部を取り上げると、次のとおりとなっている。

〈「いじめは、人間として絶対に許されない」という強い認識をもつこと
「いじめは、どの学校でも、どの子にも起こりうる」という危機意識をもつこと
「いじめられている子どもを最後まで守り抜く」という信念をもつこと
 本校においては、この3つの考え方を基本に、家庭・地域等と連携を図り、自校の課題を見出し、生徒の実態に応じた取組を推進する。また、市教委や関係機関等と連携し、「いじめの防止」「いじめの早期発見」「いじめに対する措置」を適切に行う。〉・・・・・・・

 1番目と2番目はなぞりで、3番目は文部科学大臣決定に、〈教職員はいじめを受けた児童等を徹底して守り通す責務を有するものとして、いじめに係る研修の実施等により資質の向上を図ること。〉と書いてあることの言い換えに過ぎない。イジメ対応のマニュアルはそれらしく立派に作り上げることはできる。だが、「はじめに」の項目に〈いじめは、いじめを受けた児童生徒の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせる恐れがあるものである。〉とイジメの悪影響に触れてはいるが、イジメ加害者のみならず、時と場合のイジメ被害者に対しても「心身の健全な成長」と「人格の形成」を促すことのできる具体的な"言葉"を創造できなければ、マニュアルはマニュアルで終わる。

 以下、イジメとその指導の事例は続くが、ブログ字数の関係と、以上各「Cace」を見てきたようにマニュアルに従った個別的対応の繰り返しで、児童・生徒の成長を促すような教育上の創造的な言葉は一切見えてこないから、省略することにする。

 ネットを調べてみると、どの学校も当然のこととしてイジメの未然防止に取り組んでいる。学活(小学校・中学校で行われる特別活動の一つ。学級を単位として、学校生活の充実と向上をめざし、諸課題を解決しようとする態度や健全な生活態度を育てる教育活動。高等学校ではホームルーム活動という。「goo辞書」)や道徳の時間を使った「イジメはいけません」を主題とした担任講話、イジメ防止アクティビティ(活動)での、同じく「イジメはいけません」を主題として様々に工夫を凝らしているのだろう、スローガン作り、全校集会で全校生徒対象で行う、イジメに関わる校長講話、そしてイジメ防止のロールプレイングが幅広く行われていることを窺うことができる。

 多分、文部科学省の学習指導のお仕着せの一環として始まったことなのだろう。《学校における「いじめの防止」「早期発見」「いじめに対する措置」のポイント》(文部科学省)に次の一文を見かけることができる。
  
 「イ)いじめに向かわない態度・能力の育成」の具体的方策を「注2」として記載している。

 〈2 児童生徒の社会性の構築に向けた取組例としては、以下のようなものがある。
 「ソーシャルスキル・トレーニング」:
 「人間関係についての基本的な知識」「相手の表情などから隠された意図や感情を読み取る方法」「自分の意思を状況や雰囲気に合わせて相手に伝えること」などについて説明を行い、また、ロールプレイング(役割演技)を通じて、グループの間で練習を行う取組〉・・・・

 今まで挙げてきた《いじめ対策に係る事例集》(文科省・平成30年9月)にも同じ文言が記載されている。

 〈2 児童生徒の社会性の構築に向けた取組例としては、以下のようなものがある。
 「ソーシャルスキル・トレーニング」:
 「人間関係についての基本的な知識」「相手の表情などから隠された意図や感情を読み取る方法」「自分の意思を状況や雰囲気に合わせて相手に伝えること」などについて説明を行い、また、ロールプレイング(役割演技)を通じて、グループの間で練習を行う取組〉・・・・

 「ソーシャルスキル」とは、「社会の中で他者と関係を築いたり、一緒に生活を営んだりするために必要な技能、社会的技能」で、そのトレーニングが「ソーシャルスキル・トレーニング」ということになる。教師や児童・生徒、児童・生徒同士の日常普段の授業内や授業外の生活の中で喜怒哀楽の感情を交えた意思疎通を通して感覚的に学んでいく人間関係・対人関係を特別な授業をお膳立てして喜怒哀楽の感情を離れた言葉によって学ばんでいく。その一つがイジメの問題に絞ったロールプレイング、略してロールプレイということなのだろう。プロフェッショナルスキル(職業的、あるいは専門的技能)ではないソーシャルスキル(社会的技能)を特別に授業をお膳立てして学ばなければならない理由は教師対児童・生徒、児童対児童、生徒対生徒が時間的に最も長く、距離的にも、当然心理的にも最も近接した関係を取る授業の場、授業の世界で教師を介して教科書の内容と内容に関する知識・情報の遣り取りに時間を取られ、教師のリードで児童と児童の間で、あるいは生徒と生徒の間で喜怒哀楽の感情を交錯させた意思疎通の言葉の闘わせが殆ど不在であるところにあるように思える。その不在を補う道具としてロールプレイが位置づけられているということなのだろう。

 言葉の闘わせの不在は2006年6月22日の当ブログ《愚かしいばかりの"愛国心"教育 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》でNHKが放送した実際の小学校の授業風景を参考に取り上げてみたが、そこでは愛国心を育てる授業が行われていた。担任にとって初めての愛国心教育ということからか、NHKが撮影に入るからか、担任だけではなく、校長が直々に授業に参加した。授業の背景には教育基本法が改正され、2006年12月22日の公布・施行を受けて学習指導要領の内容が基本法の「教育の目標」〈5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。>の規定に従って変更されたという事情があった、

 校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うかと前置きしてから質問した。
 校長「僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」
 女子生徒「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」
 男子生徒「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」
 女子生徒「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」

 校長も担任も生徒それぞれの意見を言ったままに引き取ってそれで終わらせている。一つの意見が出るごとにその意見についてどう思うか、違う意見があるかほかの生徒の何人かに尋ねて、いくつかの違う意見と合わせてより幅広い知識・情報へと近づけていく相対化を試み、視野を広げ、世界を広げる意図の言葉の闘わせは一切行うことはなかった。例えば最初の女子生徒の意見「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」に対して「この意見はどう思うか」を尋ねた場合、「正直な日本人ばかりではない。中には平気でウソをついて人を騙す日本人もいる」、あるいは「正直でいようとしても、ついウソをついてしまうこともある」、「正直なのは日本人ばかりではない。どこの国の人も正直な人間は存在する」等の異なる意見が出た場合、校長・担任がそれぞれが間違ってはいない意見であって、正しい意見は一つではないことを教えることができれば、言葉の闘わせを通した知識・情報の相対化の訓練となり、自ずと児童・生徒の視野と世界を広げることができる。但し最初に意見を述べた女子生徒が自分の意見が否定されたような不愉快な感情に囚われることになったとしても、違う意見を出し合う授業が日常的に繰り返されるようになれば、喜怒哀楽の感情の交錯がごく自然に当たり前となって、不愉快な感情に囚われることもいっときのことと慣れて知識・情報の相対化を通した自分自身の視野や世界を広げていく"成長"に意味を見い出す可能性にこそ期待できる。

 要するに相対化の言葉の闘わせを通して快・不快の感情のコントロールの訓練とすることができる。この論理でいくと、アメリカでは小学校から自分の意見を言う教育が行われ、中学からは何らかの議題について「賛成派」と「反対派」に別れて「ディベート」と呼ばれる言葉の闘わせが頻繁に行われているが、にも関わらずイジメが存在するのは平行して感情のコントロールの訓練が行われていないことが原因と見なければならないことになる。思うにディベートという言葉の闘わせは「論理的に話す力」や「説得する技術」の競い合いであって、本質的には情報リテラシー(情報活用能力)を試す活動であり、特に他者関係を動機として誘発される自身の感情を客観視して言語化し、コントロールする感情リテラシー(感情活用能力)を試す活動ではない点がイジメ防止に有効な手立てとなっていない原因と言えるように思える。

 当然、言葉の闘わせは情報リテラシーと同じ線上に置く活動とは限定せずに感情リテラシーをより重視する活動とし、イジメ防止のためのロールプレイは感情リテラシーを十分に意識した快・不快の感情コントロールの訓練となる言葉の闘わせとする必要がある。

 では、現在学校で取り入れているイジメ未然防止のロールプレイはイジメ加害者に対して自身の負の感情を見つめさせて言語化を仕向け、快・不快の感情のコントロールへといざなう仕組みとなっているのか、次のネット記事からロールプレイ用シナリオ3例を挙げてみる。ネット検索で気づいたことだが、ロールプレイが物事への客観的視点を高めて日常生活での課題や問題点、さらに自己自身の行動や思考に目を向けるようになって自己再発見能力や善悪の判断能力の向上をもたらし、イジメ未然防止には役立つといった記事の多さに比較してロールプレイの実践例を紹介するページは非常に少なかった。

 《いじめ6時間プログラム》(ほんの森出版)

シナリオ 小学生用
Aはこの前トイレに行ったとき、うっかりと手を洗うのを忘れてしまいました。
BとCはそれを見ていて、その日からAのことを「バイ菌」と呼んだり、「ふけつ」と言ったりしています。また、「バイ菌がうつる」という理由で、Aに触ったり近くに行ったりするのを嫌がります。
※Bは、Aにプリントを配布しない。
A「プリント回してよ」
B「Aさんはふけつだから、プリント配りたくない」
A「ふけつじゃないよ」
C「だって、Aさんはこの前トイレのあとに、手を洗わなかったでしょ」
B「そうそう! Cさんと見てたんだからね」
A「あのときは、たまたま洗い忘れてただけで......今日は、きれいだよ」
C「Bさん! Aさんと話してたら、バイ菌がうつっちゃうよ」
B「そうだね。Aさんはふけつだから、話さないほうがいいよね」
A「今日は、きれいだって言ってるのに......」

シナリオ 中高生用①
Aは教科書の音読を指名されたとき、つっかえてしまい、クラスで笑われてしまいました。
次の授業で、またAの順番になったとき、後ろの席のBとCが小さな声で「また、読めないんじゃない?」と言いながら、クスクス笑っています。そのことがプレッシャーとなって、Aが小さな声で読んでいると、後ろから「聞こえませ~ん」「何を言っているかわかりません」などの声があがり、他のクラスメイトも笑っています。Aに対するからかいが、しだいにクラス全体に広がっていってしまいました。

※Aが指名されて、小さな声で教科書を読んでいる。
A「..................」
B「聞こえませ~ん。もっと大きな声で読んでくださ~い」
A「..................」(1回目より、ちょっとだけ大きな声で)
C「すみませ~ん。何て言ってるか全然わかんないですけど」
D「アハハハ~!」(大勢で笑う)
A (黙ってしまう)
E (下を向いて黙っている)
〈2回目は続きとして〉
F「からかったり、笑うのやめなよ。そういうこと言われたら、だれだって嫌でしょう?」

 シナリオ 中高生用②

 昼休みにAが図書室から借りた本を読んでいると、後ろでBとCのグループが「Aって
いつも本ばかり読んでいて暗いよね」「話しかけても続かないよね」「何、考えているんだ
ろうねぇ~」などとうわさ話をしています。
 ある日の休み時間、いつものように本を読んでいると、また自分のうわさ話が始まった
ので、Aは思いきって後ろを振り返ってみました。すると、BやCが「うわっ、こっち見
てる、キモイ!」などと大声で叫び、それを見ていたまわりの人たちまで一緒になって笑
い始めました。
※Aが昼休みに教室で本を読んでいる。
B「Aさんってさ~、いつも本ばっかり読んでるよね。暗いよねぇ~」
C「だよね。何、考えてるか、全然わかんないよね」
B「このあいだ、話しかけてきたんだけど、何言ってるか全然わかんなかった」
C「うける~」
※たまりかねてAが振り返る。
A「……あの……」(小さな声で)
B「うわっ! こっち見てるし。こわっ」
C「超キモイんですけど~」
D「アハハハ~!」(大勢で笑う)
A(黙ってしまう)
E(見て見ぬふりをして、下を向いて黙っている)
〈2回目は続きとして〉
F「からかったり、笑ったりするのやめなよ。陰口はよくないよ」

 この記事ではロールプレイでのこれらのシナリオの意図についてイジメの場面かどうかを把握させること、いじめの発端となりやすい場面を認識させること、それぞれの役を交代で演じさせて、イジメ加害者やイジメ被害者、イジメ傍観者等になったときのそれぞれの気持ちを発表して、お互いの気持ちをシェアリング(共有)すること、このような相互理解を通してイジメに関する判断能力を高めてイジメ防止に役立てるといったことを説明している。但しどのシナリオを見ても、目的に入れていないのかもしれないが、負の感情をより直接的にコントロールさせることを意図した内容とはなっていない。例えば小学生用のシナリオにあるトイレに行ってうっかりと手を洗い忘れた行為を取り上げて「バイ菌」、「ふけつ」と名指しするのは他人の些細な落ち度に対して自分には些細な落ち度もないとする、負の感情となる自己優越性の誇示に当たるが、現実には落ち度のない人間は存在しない。友達との約束を破る、大事な用事を忘れてしまう、ついウソをついてしまう等々。当然、小学生相手でも、自分にも何かしら落ち度があると他の生徒の落ち度を相対化して(価値観の相対化)、他人の落ち度のみに不快な感情を投影させることの間違いを指摘、指摘を通して負の感情をコントロールさせる技術を学ばせなければならない。

 先ずシナリオ通りのロールプレイを行ってから、Aに「BさんとCさんは手を洗い忘れたことはないの?友達との約束を忘れたり、大事な用事を忘れたり、何かしら失敗したことはないの」というセリフを付け加えたロールプレイを次に演じさせたなら、他の生徒の些細な落ち度に「バイ菌」、「ふけつ」と決め付けて自分はさも落ち度が全然ない完璧な人間であるかのように自己の優越性を誇示する類いの負の感情の見せつけは、当たり前の感覚をしていたなら、恥ずかしい思いに駆られなければならない。最後に担任が「自分には全然落ち度がないかのようにほかの生徒の落ち度を攻撃した生徒が自分にも何かしら落ち度があることに気づいて(自己客観視からの価値観の相対化)、攻撃したことが間違いだったと気づいたとしたら、それだけ人間として成長していることになる。いつまでも気づかないでほかの生徒の落ち度を攻撃し続ける生徒は人間として成長していないことになるから、気をつけるように」とロールプレイを講評したなら、イジメ未然防止により役に立つことになるだろう。

 「中高生用①」のイジメは緊張を原因とした失敗を笑って、からかう内容となっている。もし自分も緊張して失敗することがある生徒だったら、笑うことも、からかうこともできず、逆に同情することになるだろう。緊張し、失敗する生徒との比較で自分を緊張することも失敗することもない優秀な生徒と位置づけていなければ、ほかの生徒の失敗を笑ったり、からかったりはできない。しかし緊張もしない、失敗もしないという完璧な人間はこの世に存在しないのだから、間違った自己優越性に囚われた負の感情からの嘲り、からかいということになる。そのような負の感情をコントロールさせるためにはAかほかの誰かに「自分が何があっても緊張することもない、どのような失敗もすることもない完璧な人間でなければ、誰かが緊張して、失敗したことを笑うことはできないはずだ」のセリフを一言喋らせたなら、ロールプレイの観客は誰もが完璧な人間など存在せず、誰だって緊張することも失敗することもありうるという人間価値観の相対化を学ぶことになり、誰かの緊張や失敗を標的にからかったり、笑うことは間違っていることだと気づくことになるはずだし、そこまでいかなくても、耳にすることで自分が何かで失敗したときに思い出して、人が緊張して失敗したことを笑うのは間違いだったと気づく、否定できない可能性に掛けることもできる。

 担任は「どのような緊張も、どのような失敗もしない完璧な人間はこの世に存在しない。誰もが緊張することも失敗することもあるというアタリマエのことをいつも頭に入れておくことができる、人間としての成長を見せて欲しい」と講評して、児童・生徒一人ひとりの人間としての成長がイジメの起きない学校環境を作り出す要因となるということを伝えておくべきだろう。

 「中高生用②」のシナリオは学校社会のルールに反していないにも関わらずにその範囲内の自分たちとは異なる児童・生徒の存在の有り様を認めることができずに快・不快の感情だけで判断して、からかい、笑う内容となっている。この関係は自分たちの存在の有り様を絶対とし、異なる児童・生徒の存在の有り様を否定すると同時に自分たちと同じ存在の有り様を押し付け、全く同じ存在の有り様に持っていこうとする強制意思の働きを見ることになる。自分たちと同じでないことが面白くないためにからかい、笑う負の感情の働きがそうさせている。人は社会のルールに反しない限り、その社会に自身をどう存在させるかは自由である。本ばかり読んでいて、ほかの生徒と話すのが苦手というのも一つの生き方であり、その生徒の個性である。お互いの生き方、お互いの個性を尊重する教えができていて、生徒それぞれが自身の感性とすることができていたなら、快・不快の感情をコントロールできないままに、不快の感情のみを突出させて、自身のそのような感情の中に他者存在の有り様を取り込もうとする欲求は誰かがブレーキ役を果たして、簡単には集団化することはないだろう。

 お互いの生き方、お互いの個性を尊重する教えは簡単である。「ほかの生徒を笑うことができる程に自分は立派な人間か、先ず考えて、立派な人間だと自信を持って誰にでも言うことができるようなら、ほかの生徒を笑うようにしたまえ。だが、実際には立派な人間程、人の失敗を笑うようなことはしない。どの生徒も、その生徒なりに生きている。その生き方がその生徒の個性であって、立派な人間程、お互いの生き方、お互いの個性を尊重することができるから、他人の失敗を笑うようなことはしない」
 
 当然、生徒それぞれに自分はどのような人間か振り返る自己省察の機会を頻繁に与えて、価値観の相対化を学ぶことができるように仕向けなければならない。価値観の相対化を学ぶことができれば、自ずと感情のコントロールができるようになる。となると、「中高生用②」のシナリオに、「本ばかり読んでいて、暗い印象を与えてしまうのはAの個性だし、そのせいで話しベタでも、頭の中は物凄い知識が詰まっているのかもしれない」とこのようなセリフを付け加えれば、個性が人それぞれによって違いがあり、それぞれの違いを認めなければならないという個性の尊重の訴えとなり、そこから何がしかを学ぶだろうし、本ばかり読んでいて暗いように見えるマイナスの価値観(他人の価値観)に対して頭の中は知識が一杯詰まっているかもしれないというプラスの価値観(本人の価値観)を置くことで価値観の相対化に思いを持っていくようにしなければならないし、このようなロールプレイを繰り返すことで価値観の相対化を生徒それぞれの確かな感性とするに至る可能性は否定できない。価値観の相対化が感情のコントロールを伴走者とする。

 担任は次のようなことも伝えるべきだろう。「自分たちだけが喜怒哀楽の感情、喜びや怒りや哀しみや楽しみの感情を持って生きている命というわけではない。暗い一辺倒で何の取り柄もないように見える生徒であっても、ほかの生徒と同じように喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている一つの命だということを忘れないように。暗い、キモイと言われれば、その命は傷つき、怒りの感情を持ったり、哀しみの感情を湧かせたりする。こういったことが理解できて、それぞれの命を尊重できる心の広い人間に成長していけるようにしなければ、生きている命としてどこがが足りないことになる」

 それぞれの生徒がそれぞれに喜怒哀楽の感情を持ってそれぞれに生きている命であるという価値観の相対化と相対化を可能とする成長を求めていき、求めに応じた成長を見せることができれば、負の感情をコントロールする能力も自ずと育っていく。

 では、最後に当方がイジメの事前防止に役立つと考えたロールプレイを紹介してみる。前以ってシナリオを用意して演じさせるものではなく、現実に起きているイジメをベースにして全編アドリブの即興劇で演じるロールプレイとする関係上、各学年の各教室で演じるのではなく、中学生、小学生、それぞれ全校集会形式で行う。小学生は6年生から、中学生は3年生から始めて、以下下級生たちにセリフの受け答えや展開の方法を学習させる。始める前に半ば生徒それぞれの知識となっているだろうが、イジメはどういった種類があるか、その態様や特質、原因・背景等々を学習させておく。最初からはロールプレイでの臨機応変な言葉の遣り取りは難しくても、考える力や会話力を養うという訓練の意味も込めて様々に繰り返させ、お互いのアドリブを参考材料や反省材料にして上達させていくという方法を採用する。テーマは担任が決める。導入部はイジメ被害者がイジメ加害者に対して「イジメはやめてくれ」というところから入るのを決まりとする。目的は厭なことをされたとき、断ることのできる会話を習慣とすることが当たり前のことだと生徒全員に認識させるためである。ロールプレイの登場人物も観客もイジメを断る場面を当然の光景として頭に記憶するようになれば、断らないことの方が生理的にも、理性の点から言っても、不自然な態度と認識するようになる。イジメ加害者にとっても、同じ感覚に迫られるだろう。

 ロールプレイを通してイジメの加害者、被害者、観客としてイジメとイジメに対する善悪の感覚を疑似体験(現実に似せた状況に身を置き、現実に起こるであろう様々な感覚を体験すること。)し、それが頭の中に記憶として僅かにでも残れば、のちにイジメ加害者の立場に立ち、あるいは被害者、観客がそれぞれの立場に立たされた場合にロールプレイでの疑似体験の再体験の形を取ることになるから、僅かにでも残ったロールプレイでの記憶ははっきりとした姿かたちで再現を受けやすく、イジメの加害者は自分は今イジメを働いている、イジメの被害者は今イジメを受けている、その場に居合わせている、いわば観客は今イジメを目にしている等々、それぞれに現在進行形の自己認識(自分は今何をしているかという認識)を働かせやすくなり、同時に疑似体験で受けた善悪の感覚をも自己認識(自分は今何を感じているか、どのような感覚でいるかという認識)することになって、自分自身を省みて善悪いずれかを判断するのかの自己省察の場に向かわざるを得なくさせる。つまりイジメ加害者に対してであっても、結論はどう自己認識しようが、善悪いずれかを考えざるを得ない自己省察の機会を与えることになる。

 アドリブで演じることになるロールプレイだから、登場人物が次のセリフに詰まった場合、担任が適宜手助けする。手助けは価値観の相対化と負の感情のコントロールを仕向ける方向への展開としなければならない。担任はそれ以上の展開が望むことができない場合、終了を告げて、解説と講評を行う。では、以下を参考にアドリブのロールプレイを演じるよう求めて欲しい。

 わざと靴を踏む嫌がらせを例としたロールプレイ

 被害者A「靴を踏むのはやめてくれ」
 加害者B「間違えて踏んだんだ」
 (言葉に詰まったなら、担任が手助けする。)
 担任「イジメは特定の誰か1人か2人を標的にする。イジメなら踏む生徒と踏まれる生徒は決まっていて、しかも何回も踏まれることになる」
 被害者A「何回も踏んでいる。同じ人間の靴を何回も踏み間違えるわけはない。目的があって、わざと踏んでいるんだ」
 加害者B「・・・・・」
 担任「何か原因があって、嫌がらせをするという結果がある。原因は面白くない態度を取られたとか、面白くないことを言われたとか、何かで得意になっているとか。原因を尋ねたまえ」
 被害者A「なぜ踏むのか教えて欲しい」
 加害者B「いつもいい子ぶっている」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「自分で気がつかないだけじゃないか。いい子ぶってる」
 被害者A「いい子ぶってなんかいない」
 加害者B「みんなからもいい子ぶってるって見られている」
 担任「終了。加害者Bは被害者Aがいい子ぶってると思っていて、それが面白くなくて、懲らしめてやろうと思って靴を踏む嫌がらせをした。そうなんだな?」
 加害者B「そう」
 担任「誰かをいい子ぶっていると思ってしまうと、大抵、厭な奴と誰もが抱く自然な感情だと思う。どこまで懲らしめるつもりでいたのだろうか。不登校になるまで、あるいはイジメを苦にして首を吊るか、ビルの屋上から飛び降りるまでだろうか」
 加害者B「・・・・」(答えることはできないだろう)
 担任「だけど、いい子ぶっていると思わない生徒もいるはずだ。クラスの全員が全員共にいい子ぶっているとは思っていないと思う(価値観の相対化)。例えA自身がいい子ぶっているのが事実だとして、いい子ぶるのはA自身の問題で、いい子ぶっていて面白くないと思うのは懲らしめるために靴を踏む嫌がらせをしているのだから、取り敢えずはB自身の問題ということになる。だが、Aにしてもそうだが、Bにしても、自分自身の問題としてやらなければならないことはたくさんあるはずだ。いい子ぶっていて面白くないからと靴を踏んでいるよりもやらなければならない自分自身の問題を一つ一つ片付けていくことの方が自分自身の成長のためには大切なことではないだろうか。このことを理解できたら、自分自身の成長のためにしなければならないたくさんのことから比べたら、ほかの生徒がいい子ぶっていることなど小さなことになると思う」(価値観の相対化と負の感情のコントロール)

 プロレスごっこ。

 被害者A「プロレスごっこはもうやめることにする」
 加害者B「なぜ?」
 被害者A「技を掛ける方と技を掛けられる方が決まっているのは遊びではなく、イジメだと前に本で読んだことがある」
 加害者B「しょうがないじゃないか、俺の方が強いんだから」
 被害者A「勝ったり、負けたりして、初めて遊びになるんだって」
 加害者B「八百長はできない」
 被害者A「勝ったり負けたりするには弱い相手ばかりではなく、同格の相手や強い相手とも戦わなければならないって書いてあった。いつも相手は僕一人じゃないか。僕ばかりを相手にしないで欲しい」
 加害者B「じゃあ、今度負けてやる」
 被害者A「首を絞められて、苦しい思いはもうしたくない。床を叩いてギブアップしても、すぐには腕を離してくれないから、この間は苦しくて、本当に死んでしまうんじゃないかと思った」
 加害者B「じゃあ、今度からはすぐに腕を離す」
 被害者A「僕はもういい。誰か君よりも腕っぷしの強い相手として欲しい」
 加害者B「・・・・・」
 担任「終了。B、君はプロレスごっこの相手になぜAを選んだんだ」
 加害者B「友達だからです」
 担任「友達はA以外にいないのかね」
 加害者B「いいえ、います」
 担任「友達がA以外にもいながら、プロレスごっこの相手はいつもAと決まっているのはなぜなのかね」
 加害者B「・・・・・」
 担任「何か腹が立って、懲らしめてやるつもりでプロレスの技を掛けたのが始まりだったが、技があまりうまく掛かって得意な気持ちになって、続けることになってしまったのではないのかね?」
 加害者B「分かりません」
 担任「少なくともAは幸いにもBよりも体力的に弱い人間であるためにAとプロレスごっこをしている間はカッコいい主役クラスの活躍を演じることができていたことになる。いつもAを負かせて、君自身はいつも勝利する活躍を見せつけることができていたからだ。だけど、弱い人間相手の活躍はAだけか、Bの仲間数人だけに通用させることができていたのであって、その他大勢の生徒にまで通用させることができていた活躍というわけではない。(価値観の相対化)社会に出てからも同じように似た活躍しかできなかったなら、ごく少数の仲間には通用しても、その他大勢の社会人には通用しないことになる。社会に向かって成長していくためにも今のうちから、その他大勢の生徒にまで通用させることができる活躍の道を考えるべきではないのか。そのためには面白くないことをされたから、懲らしめで痛めつけてやるといったことは、大体からして意味はないことなのだから、控えるべきではないのか」(負の感情のコントロール)

 集団無視のロールプレイ(加害者Bが集団無視のリーダー、被害者Aは以前グループのメンバー)

 被害者A「みんなで無視するのはもうやめてほしい」
 加害者B「無視なんかしていない。相手にしないだけだ」
 被害者A「・・・・」
 担任「理由を聞いたら?」
 被害者A「なぜ?理由は?」
 加害者B「口を利く必要がないから口を利かない。呼びかける必要がないから呼びかけない。だから、相手にしないことになる」
 被害者A「・・・・・」
 担任「Aはクラスの全員から口を利いてもらえないのか?」
 被害者A「ううん。Bのグループからだけ」
 担任「B、Aはクラスの全員から口を利いて貰えないわけではない。なぜ君のグループの全員だけが口を利かないのだ?」
 加害者B「そんなことは知らない」
 担任「グループのメンバーはリーダーの君が恐くて、口を利かない君に従って口を利かないようにしているのか?」
 加害者B「口を利くなって一言も言っていない」
 被害者A「グループの中に以前口を利いてくれたメンバーが何人かいたけど、Bから無視されるようになってから、誰も口を利かなくなった」
 担任「Bが口を利くなって指示を出さなければ、全員が口を利かなくなるなんてことはなかったことになる」
 加害者B「指示なんか出していない。勝手にみんながそうしているだけだ」
 担任「指示を出さなくても、メンバーはBが怖いから、顔色を窺う形で口を利かなくなったのではないのか」
 加害者B「そんなことはしらない」
 担任「どうしても口を効きたくなくて、必

要に迫られる以外は口を利かないでいる相手というのはいる。先生もいる。だが、誰と口を利く、利かないは本人の自由意思で決めることで、誰それが恐くてとか、誰それに気兼ねしてといった理由で自分自身の自由意思を曲げさせてしまう人間関係は本当の友だち関係とは言えない。Bはグループのメンバーと本当の友だち関係を築いているとはとても言えない。君が恐くて従っている。君は怖がらせて従わせている。本当の友だち関係ではない」
 加害者B「・・・・・」
 担任「BがAと口を利かないのは君の自由意思だが、メンバーと本当の友人関係を築きたいと思ったら、メンバーがAと口を利く、利かないはメンバーそれぞれの自由意思に任せるようにしなければならない。(負の感情のコントロール)任せることができるまでに成長しなければ、今はいいかもしれないが、社会に出てからはそれ相応のリーダーとはなれないかもしれない」(価値観の相対化)

 参考のためのアドリブ即興劇のロールプレイを挙げたが、担任のセリフは同じような場面設定のロールプレーを繰り返すうちにその多くを生徒自身が慣れを受けて、肩代わりするようになるだろう。誰もがそれなりに考える力を持っている。その考える力をロールプレイの繰り返しによって刺激することの意図のもと、イジメを断るところから入ることで断ることができるようにならなければならないという義務感を持たせるように促していく。以上――

 良い年の瀬を。来年もよろしく。

 《イジメ過去最多歯止めは厭なことは「やめて欲しい」で始まり、この要請に順応できる人間としての成長を求めるロールプレイで(1)》に戻る
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教師の働き方改革に適う顧問の手を煩わさない学校単位の生徒自身運営の中学校運動部活動を模索する

2022-06-30 07:04:54 | 教育
 ――競技志向の生徒は学校運動部活動で、レクリエーション志向の生徒は地域運動部活動で――

 現在81歳と6カ月。歳を取ってから気づいたことが多々ある。いわば歳取ったからこそ、言える言葉の方が多く、ここに書いていることの殆どは歳を取ってから気づいたことばかりであることを前以って断っておく。81歳と6カ月にもなってこの程度のことしか書けないのかという評価も当然のことあるだろうが、読むのにムダな時間を使わせてしまったと謝るしかない。

 ブログで何度も繰り返し言ってきたことだが、日本人の行動様式は基本的なところで権威主義的人間関係の影響下にある。「権威主義」とは「権威を振りかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式」と「大辞林」(三省堂)には出ているが、要するに上の立場の人間が自らの上の立場を権威とし、その権威を以ってして下を従わせ、下は上の立場を権威として、その権威に無条件同様に従う行動様式を指すが、私自身が使う「権威主義」は権威を媒介物として上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向だと簡略的に意味させている。要するに日本人の殆どの場合、と言うのは、封建時代から遥か遠ざかってきたために日本人全体というわけではなくなっているが、傾向としては立場上の上下を人間関係にそのまま反映させて上下に隔て、上により価値を置いた上下方向の人間関係を意思決定の大きな力学として働かせている。いわば立場上の上下関係に無関係に水平方向の対等な人間関係を取って相互に意思決定する関係性を多くの場合取っていない。

 勿論、この上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係は学校社会の授業に於ける教師から生徒への知識授受や意思伝達にも影響を与えて、その力学として作用することになるが、同じ日本人として共通の行動様式を取る傾向にある以上、当然の影響ということになる。教師が教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識をほぼ機械的に伝えて、生徒に機械的に暗記させる一方通行の知識の授受にしても教師が自らの立場を上に位置づけて権威とし、その権威に則って生徒を下に位置づけている権威主義的な上下の人間関係に則り、上は下を従わせ、下は上に従う上下方向の力学を教師と生徒が相互に働かせているからこその自然な成り行きとしてある影響であろう。

 いわば教師が生徒を機械的に従わせ、生徒が教師に機械的に従う権威主義的な上下の人間関係が暗記教育を可能としていて、未だ色濃く残っているのであり、裏返して言うと、暗記教育は学校社会での教師対生徒の権威主義的な上下の人間関係が産み出している必然的な産物ということになる。

 逆に考えさせる教育は考える生徒生徒が主体となるから、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的関係は関係してこないことになる。如何に日本の教育が暗記教育となっているのか、2020年9月に一度当ブログに使ったが、《我が国の教員の現状と課題 – TALIS 2018結果より –》(文部科学省)から見てみる。ブログに使ったのは「国立教育政策研究所」の資料だったが、リンク切れしているから、同じ内容の文科省のを使うことにした。「TALIS」とは「Teaching and Learning International Survey」の略で日本語では「国際教員指導環境調査」と紹介されている。

 〈日本では2018年2月~3月に小学校約200校及び中学校約200校の校長、教員に対して質問紙調査を実施〉とある。

 教師が批判的に考える必要がある課題を与える  
  小学校11.6%
  中学校12.6%
  参加48か国平均 61.0%

 児童生徒の批判的思考を促す
  小学校 22.8%
  中学校 24.5%
  参加48か国平均 82.2%

 さらに一つ加えると、

 明らかな解決法が存在しない課題を提示する
  小学校 15.2%
  中学校 16.1%
  参加48か国平均 37.5%

 教師が教えるのをただ従うという上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的関係が大勢を占めている状況が如実に現れている、

 授業の場のみならず、運動部活動の場でも、文化部活動の場でも顧問対生徒の間に同じ日本人として同じ人間関係を取り、同じ行動様式を踏むゆえに授業の場とほぼ同じ暗記教育型の上は下を従わせ、下は上に従う知識授受や意思伝達の影響を受けることになる。教室での教師同様に顧問も自らを上の権威と位置づけ、部員を下の権威と看做して上の権威を以ってして下の権威を従わせる力学が働く。顧問の命令・指示に対して部員各自が「ハイ、ハイ、ハイ」と無条件に従う光景はこのような上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の影響なくして成り立たない。そしてこの人間関係の力学は当然のこととして先輩対後輩の間にも存在することになる。先輩が自身を絶対的な存在として後輩に服従を求めたり、対して後輩が先輩を絶対的な存在としてその命令・指示への服従を受け容れるのは上は下を従わせ、下は上に従う同じ人間関係に基づいた同じ行動様式の最たる影響としての現れであろう。

 教師であれ、顧問であれ、先輩であれ、上の立場にある人間が自己の権威を絶対視して下の立場の人間に命令・指示を下し、無条件に従わせる場合は当初の権威の提示は他人を支配し、服従させる権力の行使へと一段も二段も強めた色合いを帯びることになる。そしてそのような権力の行使は自己絶対視を背景としているために自己の絶対性を押し通そうとして当たり前の方法で押し通すことができなかった場合、押し通すために、あるいは自己の絶対性を否定された場合、否定への反発として、教育活動のみならず、運動部活動や文化部活動でも往々にして暴力やその他の方法を使った体罰という形で自己の絶対性を守ることになる。体罰は上の立場から下の立場に対する権力行為であり、下の立場からの上の立場に対する権力行為として現れることはない。一時期はやった生徒が教師に暴力を振るう校内暴力は教師が教師としての上の立場からの権威を示すことができずに生徒を精神的に上に立たせてしまう上下の権威関係の逆転からの暴力の形を取った生徒の権力行為だったはずだ。

 余談になるが、セクハラは一般的には年上の上司である男性が年上の上司であることと男性という存在に権威を置いて、女性であることと年下の部下であるということから二重にその権威を蔑ろにしている下の存在に対する男から女への一方的な権力行為として現れ、その逆はあり得ないが、その例外が女性が男性の上司であるといった立場が上の場合に限られ、上司等の上の立場に権威を置いて部下等の下の立場の権威を認めていないことから起こる女から男への一方的な権力行為としてしばしば見聞きすることは周知の事実となっている。だが、権威の上下関係を利用した権力行為であるという点で、年上の男性の年下の女性に対するセクハラとその本質的な構造に違いはない。

 日本人の行動様式が基本のところでは上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的上下関係の影響を受けていて、多くの人間関係が同じ構造を取る傾向にあることを前提としてスポーツ庁が手始めに休日のみに限定して進めようとしている運動部活動の地域移行を考えてみることにする。

 2022年6月6日、「運動部活動の地域移行に関する検討会議」が提言書をスポーツ庁に手交したとマスコミが伝えていた。「運動部活動の地域移行に関する検討会議提言 ~少子化の中、将来にわたり我が国の子供たちがスポーツに継続して親しむことができる機会の確保に向けて~」

 「提言書」題名によって検討目的はほぼ把握できるが、少子化を受けて小中高の生徒数の減少が部活動維持を困難にさせていることと、併せて教師が顧問として部活動に拘束される時間外勤務に多くの時間を取られて、教師本来の業務に影響が生じていることから取り敢えずは公立中学校の休日の運動部活動を地域の運動クラブ等に移行することによって教師の部活動顧問の役割と役割に付随する時間的制約からの解放を図ることで、この面の教師の働き方改革を推進するという内容になっている。

 移行期間は2023年度から2025年度末までの3年間を目途にしていて、将来的には平日の運動部活動の地域移行をも想定している。地域に於ける実施主体は総合型地域スポーツクラブやスポーツ少年団、クラブチーム、民間事業者等々を想定しているようだが、中学校の運動部活動の地域移行だから、便宜的に"地域運動部活動"と呼ぶことにする。少子化の影響を受けて2つの中学校や3つの中学校が合同で野球部とかサッカー部を結成したとしても、野球部とかサッカー部とかの部活動となることに変わりはないはずだからだ。体制的な変化はなく、活動場所が学校から地域に変更する変化しかないはずだ。

 「提言書」は先ず最初に運動部活の教育的意義を高々と掲げている。

 〈中学校等(義務教育学校後期課程、中等教育学校前期課程、特別支援学校中学部を含む。以下同じ。)の運動部活動は、これまで生徒のスポーツに親しむ機会を確保し、生徒の自主的・主体的な参加による活動を通じて、達成感の獲得、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するとともに、自主性の育成にも寄与するものとして、大きな役割を担ってきた。

 また、学校教育の一環として行われる運動部活動は、異年齢との交流の中で、生徒同士や教師と生徒等の人間関係の構築を図ったり、生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなどの教育的意義だけでなく、参加生徒の状況把握や意欲向上、問題行動の発生抑制など、学校運営上も意義があった。

 さらに、生徒や保護者から学校への信頼感を高めることや、学校の一体感や愛校心の醸成にも大きく貢献してきた。

 あわせて、スポーツの「楽しさ」や「喜び」を味わい、生涯にわたって豊かなスポーツライフを継続する資質・能力の育成や、体力の向上や健康の増進につながるなどの意義も有してきた。〉――

 「生徒の自主的・主体的な参加による活動」、「達成感の獲得」、「学習意欲の向上」、「責任感、連帯感の涵養」、「自主性の育成」、「異年齢との交流」、「生徒同士や教師と生徒等の人間関係の構築」、「自己肯定感の獲得」、「意欲向上」、「問題行動の発生抑制」、「生徒や保護者から学校への信頼感」、「学校の一体感」、「愛校心の醸成」等々、言うことなしの様々な価値を学校部活動に付与している。学校という社会にイジメなど存在しないかのようだ。2020年度中学校のイジメ認知件数は80877件。いじめを認知した学校数は前年度から4.1ポイント減ではあるものの8485校で総数の82.2%を占めている。

 部活動維持が困難になってきたことの単なる回避策ではなく、教師の働き方改革の推進をかねているものの、生徒が学校の部活動で手に入れてきたこれらの様々な優れた価値を地域運動部活動でも保証するだけではなく、運動部活動に所属する生徒のみならず、〈地域における新たなスポーツ環境を整備充実する際には、単に運動部活動の実施主体を学校から地域のスポーツ団体等へ移行するのではなく、現在、運動部に所属していない生徒も含めて、スポーツ活動への参加を望む生徒にとってふさわしいスポーツ環境の実現につなげていく必要がある。〉と運動部活動未所属の生徒のうち、スポーツに本格的に、あるいは趣味的に参加したい生徒をも地域運動部活動に呼び込むことのできる環境の提供をも目論んでいるから、なかなか壮大な計画ということになる。

 要するにスポーツ機会平等論に立ち、その実現を目指している。その目指す方法論が次の一文である。〈地域における新たなスポーツ環境の構築の趣旨・目的は、どの生徒にとってもスポーツに親しむ機会を確保していくためのものであり、複数の運動種目の活動があることも生徒にとっては重要なことである。また、たとえ同じ運動種目であっても、レクリエーション志向の生徒向けの活動と競技志向の生徒向けの活動を提供したり、競技志向の活動であっても、生徒がそれぞれのレベルでスポーツを楽しむことができるよう複数のレベルに分けた活動を提供したりするなど、生徒自身が自分の志向やレベルに合う活動を選べる環境を構築していくことも重要である。〉

 同じスポーツでも生徒それぞれの志向やそれぞれのレベルに合わせた技術的に複数の段階の活動を自由に選択させる新たな取組みを学校で行った場合は活動の段階に合わせた細分化が必要になり、細分化は教師の分担を分散させることになるだろうから、運動部活動から地域部活動の移動によって解放されて手にする部活動顧問の時間の新たな拘束要件となって教師の働き方改革に逆行する恐れが出てくるため、地域部活動でこそ解決可能な問題となる。その対象生徒と活動種類を次のように記述している。

 〈○ 地域におけるスポーツ環境において、生徒のスポーツの機会を確保する際、中学校等の生徒には、体力や技量が高い競技志向の生徒もいる一方で、スポーツを楽しむことを重視するレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒もおり、生徒の志向や状況に応じた対応が求められる。

 ○ そのため、現行の運動部活動のように競技志向で特定の運動種目に継続的かつ長期間にわたり専念する活動だけではなく、青少年期を通じて幅広いスポーツ活動に親しむため、休日や長期休暇中などに開催されるスポーツの体験教室や体験型キャンプのような活動、レクリエーション的な活動、シーズン制のような複数の運動種目を経験できる活動、障害の有無にかかわらず、誰もが一緒に参加できる活動など、生徒の志向や体力等の状況に適したスポーツの機会を確保し、体験の格差の解消にもつなげていく必要がある。〉

 特定のスポーツの高度な技量の獲得を目指す継続的かつ長期間に亘って部活動に従事する生徒だけではなく、スポーツを楽しむことを重視するレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒も地域運動部活動ではスポーツ体験できる様々な場と選択可能な様々な時間の提供を図り、前者後者間のスポーツ体験の格差の解消に努めるとなっていて、学校運動部活動そのままの地域運動部活動への移行とはしない、学校部活動からこぼれ落ちていた生徒まで掬い上げることを狙ったなかなか壮大な目論見となっている。

 このように志向するに至ったのは、〈多くの学校の運動部が、日本中体連が主催する全国大会を目標としているため、スポーツを楽しむことを重視する生徒や複数のスポーツ等を経験したいと考えている生徒にとって、ふさわしい活動内容の運動部活動があまり見られない状況もある。〉ことからの学校運動部活動体制の欠陥の改善を地域運動部活動で図るということになる。

 こういった欠陥だけではなく、学校運動部活動の運営面、あるいは指導面の欠陥についても、一般的に広く指摘されていることだが、言及している。

 〈全国一位に至るまで「上を目指す」仕組みとなっており、生徒や保護者、指導者が、より上を目指そうとして、練習の長時間化・過熱化やそれによる怪我や故障を招いている。中には、勝利至上主義による暴言や体罰、行き過ぎた指導等が生じる一因となっている。〉――

 当然、学校運動部活動の地域運動部活動への移行は休日のみならず、ゆくゆくは平日も想定している都合上、中学校の運動部活動体制の欠陥の改善のみならず、部活動運営面や指導面の欠陥の改善までを想定内としていることになる。いわば「勝利至上主義」に基づいた「練習の長時間化・過熱化」、そして「暴言や体罰」、「行き過ぎた指導」、この結果としてある「怪我や故障」等の是正・解消をも頭に置いていて、このことが次の一文となっている。

 〈運動部活動の地域移行にあたり、地域における新たなスポーツ環境については、単に休日の運動部活動の練習内容、活動時間、指導体制などを、そのまま地域に移していこうとすると、地域におけるスポーツ環境において、生徒のニーズに十分に応じることができなかったり、大会での成績等を重視した活動が多くなったりするなど、学校の運動部活動が抱える課題がそのまま温存されてしまう恐れがある。このため、中学校等の生徒が参加できる地域における新たなスポーツ環境の在り方を新たな視点で具体的に示していく必要がある。〉――

 学校部活動のこのような指導面に於けるマイナス要素が「成績重視」の姿勢が招いた考え方や態度であるとするだけでは温存の危険性を抱えかねないが、「成績重視」が何によって起因しているのか、本質的な点にについては触れていない。確かに地域のスポーツクラブなど営利を目的とした組織はスポーツ庁が示すルールの都合上、客を失って利益を落とす危険性を避けるために厳しい指導は行わない可能性はあるが、体力や技量の高みを目指す競技志向の強い、結果、成績重視・勝利至上主義に染まった生徒が厳しくない指導に不満をいだいて厳しい指導を求める突き上げを行ったり、別のクラブに移籍する事態が起きたなら、経営維持のためにスポーツ庁のルールを無視して厳しい指導を行わざるを得ないケースが持ち上がる事態も想定される。となったなら、成績重視や勝利至上主義に走るのも走らないのも、学校の運動部活では顧問か生徒の、あるいは顧問と生徒両者の、地域運動部活動では主として生徒自身の姿勢の問題に帰することと捉えなければならない。

 要するに体力や技量の高みを目指す結果、成績重視や勝利至上主義に囚わることになる思いの大部分は高い体力や技量が約束してくれるだろうと想定している素晴らしい成績や輝かしい勝利の経歴が将来の自己実現を約束する大いなる要因となると見ているだろうから、彼らにその実態と価値の程度を認識させておかなかった場合、地域運動部活動であったとしても成績重視や勝利至上主義がいつ頭をもたげないとも限らなくなる。成績重視や勝利至上主義が頭をもたげて、勢いがつくと、練習の長時間化・過熱化へと走ることになり、成績という結果がついてこないと、必然的に監督や顧問の部活生徒に対する、あるいは先輩の後輩に対する、暴言や体罰、行き過ぎた指導等々、学校部活動と同じ局面に行きつく危険性は決してゼロとは言えなくなる。あるいは中学生の3年間に頭を抑えられて我慢していた成績重視や勝利至上主義が高校に入って反動で迸ることになって、生徒の方から監督や顧問を成績重視や勝利至上主義に巻き込まないとも限らない。

 成績重視や勝利至上主義がなぜ長時間の練習になるのかと言うと、監督や顧問といった上の指示を受けて、下の各部員がその指示に従って各技術の向上を図ることになるが、多くの場合、指示の範囲内で指示内容を何度も反復練習し、体で覚えさせる方法で最低限、身につけている技術のレベルを維持するか、レベルアップを図っていく方法を取るが、このような方法によるその機械性によって目指す成績や勝利の程度に応じて反復練習の回数とその積み重ねが必要となり、自ずと長時間へと向かうことになるからだろう。

 但し各部員は監督や顧問等の上の指示をそのままなぞる形で練習を成り立たせている構造は一般的な人間関係の方式となっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式そのままの反映となる。授業の場で教師が教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識をほぼ機械的に伝えて、生徒に機械的に暗記させる一方通行の知識の授受となっている暗記教育と同じ構造であり、伝える知識の量の多い少ないに応じて暗記する時間の多い少ないが決まってくるのと変わらない。上から言われた一つの指示を部員が自分で考えて二にも三にも発展させることができるだけの考える力を備えていたなら、備えるについては監督や顧問がその方向に指導しなければならないのだが、反復練習は機械的であることから免れて、体で覚えるだけではなく、頭で組み立て、頭で覚えていくことになるから、反復練習に於ける機械的な時間の経過は必要なくなり、結果的に長時間は回避可能となり、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式からの解放ともなる。

 いわば監督や顧問の指示にそのままに従うのではなく、指示を自分なりに咀嚼して自分なりの意味を加えて行動するようになると、野球で言うと、「しっかり捕れ」、「どこを見ているんだ。ボールをよく見ろ」、「遣り直しだ」、「バットの芯に当てることができないのか」等々次から次へと指示が飛ぶのを待たずともまずいプレーに対してどこが悪かったのか、どうしたら良くすることができるのかを頭で考えてプレーするようになり、結果を出しさえすれば、監督も顧問も選手自身に任せるようになって、その選手に対する指示を必要としなくなる。いわば一から十まで指示を受けなくても、考えたプレーで自分を律することができるようになれば、自分の力で少しずつ自分を発展させていくことができる。だが、こういった行動は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式を当たり前としている間は望むことができない。指示を受けてそれに従う機械的反復のみを必要とし、結果として長時間の猛練習を招くばかりか、機械的な反復でしかない練習量の多さと比較した結果を求めるようになって、いわばこれだけ練習したのだからとそれ相応の成績や勝利を目指すようになって、そういった目標が成績重視や勝利至上主義へと繋がっていく。

 自分という素材をどう活かすか活かさないかの決定権は最終的には持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)に掛かっている。監督や顧問の指導が新たな技術の獲得のキッカケやモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)を与えるキッカケとなることもあるだろが、その技術を自分のモノにできるかどうかにしても、モチベーションどおりに力を発揮できるかどうかにしても、やはりあくまでも持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)に掛かかることになる。指導は何かを誘発するキッカケになるに過ぎない。個々の運動部活員の素材を活かす決定権を監督や顧問が握っているとしたら、高校野球で言うと、春夏いずれかの甲子園大会で何回も優勝に導いている名の通った強豪校の監督や顧問の指導を受けた部員の殆どがプロ野球や職業野球で大活躍することになるが、真に活躍する選手は1年にそれ程多くは存在しないはずだ。そもそもからしてプロで活躍する選手の多くが強豪校野球部出身の肩書を持っているものの、その部員の殆どはプロの野球選手として自己実現を目指す全国の中学校野球部からの越境入学者で占められている状況にある。今年2022年春の選抜優勝校大阪桐蔭高は地元選手は1人のみだという。

 いわば強豪校の優秀な監督、あるいは顧問と言えども、最初から優れた素材が指導の対象となっている。それでも指導した優れた素材の全員をプロや職業野球界に送り込んで、全員をスタープレイヤー(花形選手)に育てることができるわけではない事実はスタープイレヤーに育つかどうかは、つまり自分という素材を活かすか活かさないかの決定権はやはり最終的には持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢に掛かっていることの証明としかならないし、監督や顧問の意志や姿勢ではないことは誰もが理解しなければならないことだろう。

 自分という素材を本質のところでどう扱うかは最終的にはあくまでも自分自身の問題だということであって、肝に銘じておかなければならない。プロで名を成した野球選手を見ると、持って生まれた才能だけではなく、野球について本人独自の考えを持っている上に野球選手としての自分を語る言葉を持っているように見える。こうなるには監督や顧問の指示に従うだけではなく、指示を自分なりに考えてプレーするようになると、そのプレーは自分の考えを加えてしていることだから、その良し悪しは監督や顧問の評価に従うだけで済まずに自分で確かめて、なお進化を図らなければならないために外側から自分を眺める目が自然と養われることになる。外側から自分を眺めて自分自身を様々に評価することになるから、自ずと言葉を獲得していく作業と同時進行していくことになる。言葉でプレーを修正し、プレーを動きだけではなく、言葉でも確認して、常時相互反応させることによって、言葉もプレーも磨きがかかっていくはずで、このようなステップを踏んだ選手が選手としても名を残し、監督になっても名を残し、解説者になっても名を残すことになるのだと思う。

 こういったことを裏返してみると、持って生まれた才能がいくら優れていても、その才能を監督や顧問の指示に従うだけではない、部活部員自身が十分にバックアップできるだけの強固な意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)を持ち合わせていなかったなら、折角の才能を宝の持ち腐れとしてしまうだろうし、事実、宝の持ち腐れとしてしまう例は少なからず存在するはずである。例えば高校野球や大学野球で大活躍し、プロでも通用する逸材と言われた選手がプロに入って芽を出さずに終えてしまう例である。

 尤もそのような選手でも、プロから離れた世界で今までの鳴かず飛ばずがウソのように活躍する例がある。自分という素材を本質のところでどう扱うかはあくまでも自分自身の問題だからと気づいて、腹を据え、新しい世界なりに自身の問題として取り組むことに成功するからだろう。

 持って生まれた才能は先天的に与えられたもので、それを伸ばすための極めて個人的な意志と姿勢は「自発性」(他からの影響・強制などではなく、自己の内部の原因によって行われること:goo辞書)や「主体性」(自分の意志・判断で行動しようとする態度:goo辞書)、「自主性」(他に頼らず、自分の力で考えたり行なったりすることのできる性質:コトバンク)、「自律性」(他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動する態度:goo辞書)といった精神的資質を後天的に獲得、自らのモノとしていかなければならない。そしてこれらの精神的資質を個人の内面に育む共通する要因は考える力である。考える力がなければ、これらは育むことはできない。他人に従うだけの人間となって、その範囲内で終わる。奴隷がいい例で、奴隷は主人の考えに絶対的に従い、自身の考えを持たないことを存在理由とし、主人に従う範囲内の人生を送る。

 既に触れている監督や顧問の指示にそのままに従うのではなく、自分の頭で考えてプレーするという行為は自発性や主体性、自主性、自律性といった各資質を既に獲得しつつあるか、獲得に向かう状況にあることを示す。そしてこれらの資質を獲得するのも獲得しないのも自分自身の気づかないところで進行することになるが、例え気づかなくても、獲得するしないは自分自身の問題として付いて回る。

 また、これらの資質が考える力と関連付けが必要である以上、基本のところで日本人の行動様式として日々影響を受けることになっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係はその関係性から言って、自発性や主体性や自主性、自律性獲得の阻害要因として作用することになる。なぜならこの人間関係は指示に従うのみで自分からは考えないことによって最大限機能することになるからなのは断るまでもないが、具体的には自発性や主体性や自主性、自律性はそれぞれの単語の意味が示しているとおりに極めて内発的な精神性によって獲得しうる性格傾向であるのに対して上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係は下の存在は上の存在との関係を受けて成り立たせることになり、外発的関係性を取ることになるため、自発性や主体性や自主性、自律性といった内発的な精神性の発揮に対して否応もなしに頭を抑える力学を取ることになるからである。

 このことを認識しないままに学校部活動を地域運動部活動に移行させた場合、成績重視や勝利至上主義が一定程度抑えられたとしても、残滓として生き残ることになって、高校に入ってから反動という形で取り戻して却って始末に悪い状況に至る事態も起こりうる。

 権威主義的な人間関係の影響を受けて、自発性や主体性や自主性、自律性がどのように阻害されているか、《運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書》(公益社団法人全国大学体育連合)を基に指導者からの体罰という名の暴力行為に対する体罰対象者の受け止め方から窺ってみる。

 〈1。調査の目的
 本調査の目的は、学校や社会において運動部活動の指導者となる可能性のある大学生の運動部活動における体罰・暴力の経験や意識を把握することであった。

 2。調査の方法一対象
 本連合の会員校に共同研究への参加を募集したところ、全国の13大学・2短大から協力を得られた(「共同研究参加大学募集要項」は後掲する)。所在地は、首都圏が8大学、東海地方が2大学、近畿地方が1大学・1短大、九州地方が2大学・1短大であった。これらの会員校に在学する学生3,957名(男性2504、女性1,417、無回答36)から同答を得た。調査はアンケート用紙を用いて2013年9月1日から10月31日の期間に実施した。〉

 調査は2013年9月1日~10月31日で、約9年前の少々古いものだが、「体罰の実態把握について(令和2年度)」(文部科学省)によると、小中高校から中高一貫の中等教育学校、特別支援学校を含めた2020年度に処分等が行われた体罰は2019年度 685件に対して485件の発生で、減少してはいるものの、表に現れていない件数が相当数あると仮定できるから、決して少なくない状況を示している。この仮定の根拠として児童虐待も体罰の一種に当たり、「厚労省調査」は、〈2019年度中に、全国220か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は205,044件で、過去最多。〉と伝えていることを挙げて、日本人の多くが上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係に如何に影響を受けていて、最悪の状態にまで達している例が数多く存在していることを類推できるはずである。

 要するに暴言や暴力を用いてまでして言うことを聞かせようとする究極の行動形態は児童虐待の場合は親という存在を権威とし、学校の体罰の場合は教師や顧問という存在を権威として上は下を従わせ、下は上に従うべきとする権威主義的人間関係を元々の素地としていなければ、究極にまで行き着くことはないということであり、このことは日本人の行動様式は広い範囲でそういった素地の影響下にあることを示すことになる。

 では、上出「運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書」にある権威主義的な人間関係の究極の形としてある体罰に対する大学生、短大生の受け止め方から自発性や主体性や自主性、自律性を如何に阻害することになっているのかを見ていく。

 「調査報告書」は「体罰の頻度」や「体罰の回数」、「体罰に至った経緯」等を調査項目としているが、「受け止め方」のみの画像を取り出して、貼り付けておいた。
       
 体罰を受けて、「精神的につよくなった」、「技術が向上した」、「試合に勝てるようになった」等、プラスの能力を手に入れたと見る多数派を占める肯定的な価値判断は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を積極的に、あるいは無条件に受け入れていることを示すことになる。この人間関係に於いて上の権威主義性が強まる程に上の下に対する自発性や主体性、自主性、自律性といった各人独自の精神的資質の発揮を要求する度合いが弱まり、体罰はこれら精神的資質の発揮を、備えていたとしての話だが、一切考慮に入れない考えのもとに行われることになる。

 尤も暴言や体罰を与えることで自発性やそれ以下の資質を引き出すんだと体罰に正当性を与える主張もあるだろうが、自発性等々の資質はいつ如何なる場合も他からの強制を受けて発揮するものではなく、強制は自発性等の資質を反対に歪める働きをし、十分に機能しない状態にさせて、だから体罰は繰り返される、あるいは繰り返さなければならないという性格を持つのだが、自発性とそれ以下の資質は自分が経験することになる数々の事例から直接学んだことや他人が経験した事例を直接目撃するか、情報として受け取った中から自分から学んで考える力を身に付け、自分の中に確立していくことになる各性質であって、このような構造上、自分の中にある性質として他からの強制を受けなくても自然と反応して自分自身の意志と姿勢となって現れなければならない。要するに体罰をそのまま受け入れて、なおかつプラスの評価を与えた大学生・短大生は、それぞれの年令になっても、自発性やそれ以下の資質を満足な状態で前以って備えていなかったことが監督や顧問をして誘発させることになった体罰ということにもなる。体罰受けて一見、自発性や主体性や自主性、自律性等を発揮したかのように見えるが、実際の精神性の発揮とは似ても似つかない機械的な反応に過ぎないということなのだろう。

 当然、「精神的につよくなった」以下のプラスの能力は極めて内発的なモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)に基づいて手に入れることになったものではなく、体罰が外発性であるにも関わらずに自らのモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)にして手に入れた実態を如実に物語ることになる。
      
 かくこのように上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的上下の人間関係自体が自発性や主体性、自主性、自律性といった精神的資質を排除する形で成り立っていて、そうであるゆえに日本人が行動様式として影響を受けている権威主義的な人間関係そのものがこのような精神的資質を育む阻害要因として立ちはだかっていることになる。

 一方の「プレーが萎縮した」、「体罰・暴力を受けることが不安になった」、「反抗心を持った」等は体罰を嫌悪し、反抗心が湧いていることからのマイナス評価であるものの、監督や顧問を上の権威に置いていて、止むを得ずか、諦めているかして体罰を受け入れていることに変わりはなく、結果として上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を相互に維持し合っていることになっている状況は否定できない。とは言っても、体罰を嫌悪し、反抗心を湧かせること自体が何がしかの自発性とそれ以下の精神的資質を備えていて、その内発性と体罰という外発性との衝突が誘発したマイナス感情と見ることができる。

 但し肯定派にしても否定派にしても運動部活動の指導者や顧問が自らの立場を権威として上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を行動様式としていて、部活部員はその影響下にあることに変わりはなく、体罰という究極の形で現れなくても、その人間関係が自発性以下の資質を育むのを抑圧する力学として働いているということにも変わりはない。

 となると、権威主義的人間関係の行動様式をそのままにして学校部活動を地域部活動へと移行させた場合、体罰やイジメが減ることがあったとしても、自発性や主体性、自主性、自律性といった内発的精神性の際立った育みは期待できないことになり、上は下を従わせ、下は上に従う関係性の影響下にある人間を地域部活動でも再生産し続ける恐れは否定できない。

 この再生産を断ち切って、自発性や主体性、自主性、自律性といった内発的精神性を備えた人間を育てるための核心は断るまでもなく指導者や顧問と部員との間の行動を規制して、その規制が外面的な行動だけではなく、内面的な人格形成にまで影響することになっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を断ち切り、この人間関係から部員を解放することであり、解放がそのまま指導者や顧問としての教師の部活動に関わる時間の短縮に繋げることができるなら、何もわざわざ学校部活動の"地域部活動"へと移行させる必要はなくなる。

 もしこういった目論見が成功した場合、授業の場で同じ人間関係を取って成り立っている暗記教育を生徒自らが自発的・主体的に進んで学び取り、自主性や自律性を確立していく考える教育、思考型の教育への転換も不可能でなくなる。

 では、その方法を模索してみる。主に野球部について述べるが、他の競技にも応用できるはずである。

 部活の顧問は教師が担うが、練習には基本的には参加しない。このことによって顧問による部活生徒に対する上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の接触は制限され、制限に応じて行き過ぎた指導としてある暴言や体罰は存在しなくなる。小学校の部活は6年生の中から5人程度を選抜して集団で指導する。中学校は3年生の中から5人程度を選抜してこの役目を担う。小学校の6年生や中学の3年生の部員が5人を欠く場合は小学校は5年生から、中学校は2年生から必要人数を繰り上げる。もし小学校も中学校もチームを組むだけの人数が不足する場合は最寄りの学校と合同チームを組む。この方法はあとで述べる。

 ミーティングを全体練習と同等に重用視する。ミーティングには顧問の教師が加わるが、進行は小・中共に集団指導の5人が行う。但し教師はミーティングを行うに当たって先ず最初に自分という素材を本質のところでどう扱い、どう発展させるかは監督や顧問といった他人ではなく、最終的には自分自身の問題にほかならないということを教え、押さえさせて置かなければならない。ミーティングは上級生と下級生の上下の壁を取り払い、下級生も自由に発言できることをルールとする。顧問は上級生と下級生が自由に意見を言い合い、自由に質問し合う環境づくりの責任を負う。このことを義務とする。目的は勿論のこと、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を断ち切るためである。顧問はときに応じて下級生を名指しし、「何か意見はないか」とか、「何か質問はないか」と聞いて、誰もが自由に口を利き合うことができる対等な場作り、雰囲気作りに努める。

 ミーティング開催の回数は各部で決めることを原則とするが、最低、週に1回か、2週に1回は行い、紅白試合と対外試合後はその当日か翌日に必ず開く。練習や紅白試合、対外試合の反省点や満足点を話し合い、反省部分は改善点を模索し、満足部分はさらに伸ばす方法を全員で考える。監督や顧問にああしろ、こうしろと言われれて、ハイ、ハイと頷くだけの指導ではなく、全員で意見を出し合い、考えることによって自然と言葉の力と考える力を付けて、その力は自発性とそれ以下の資質の形成に向かうことになるだけではなく、競技に関わる技術についても、自分で考えることによって自分で発展させることになるから、長時間のハードトレーニングは必要なくなるということも前以って教えておかなければならない。そして監督や顧問の指示を受けて練習するのではなく、部員が上級生から下級生まで交えて効率よくできる練習メニューを考え、考えたとおりに練習ができれば、自分がしている競技にについて学ぶだけではなく、自己達成感や自己肯定感を味わうこともできて、これらの感覚は効率のよい短時間の練習で仕上げることができる程に確実性を増すことになるから、自ずと長時間の練習は効率の悪さの証明となるだけで、自然と好まない傾向として扱われることになる。

 紅白試合と対外試合後のミーティングは各試合を動画撮影し、撮影した動画に基づいて行い、各選手の動きの良し悪しを分析し、良い点を学び、悪い点は改善策を全員で論じ、見つけ、実践していく。動画撮影は誰でもいい。最初は下手でも、次第に慣れてきて、上達する。引き受けてくれる保護者がいるかもしれない。部員でなくてもいい。このこと以外にも動画を活用することにする。部員各自は各競技ごとのそれぞれのフォームを自分に合ったものとして備えた状態でそれぞれの競技に入部することになるが、記録や成績が伸びない、もっと記録や成績を伸ばしたいという部員のための技術指導はミーティングの場でユーチューブの動画を活用する。野球で言えば、何人かの元プロ野球選手が小学生や中学生のための技術指導を動画で公開している。動画は技術指導の必要ない部員も視聴することのよって一つのフォームを紹介する説明自体に参考になる知識が含まれていて役に立つ場合があるし、自分が行っている競技について知らないことを学ぶことは視野を広げる機会となる。顧問はこういったことを部員に説明して、動画視聴を行わせる。あるいは高校や大学に進学した参加できる先輩に加わって貰って、技術指導を受けるという手もある。

 部員はより良い成績を上げるために自分に合った新しいフォームを見つけようとして試行錯誤した末にこれでやってみようと自分で決めたフォームを暫くの間続けてみて、成績が上がるかどうか様子を見てみる。そこに新たな思考作用が生じ、自分で考える習慣を積み上げていくことになって、ただ単に持って生まれた才能に任せて競技を行ったり、顧問の指導に従うだけで技術を伸ばすのではない、自分発の思考と行動をベースにした歩みをより強固にしていくことになって、自分なりの自発性や主体性、自主性といった精神的特性をより確かな状態で形作っていき、芯の強い自律性の獲得に向かうことになるはずである。

 先輩も後輩もこういった精神的特性に基づいて行動することの大切さ、価値観を知ることになれば、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の影響は次第に剥がされていき、このような人間関係から自由な境地に立つことになる。真の自律への旅立ちとなるだろう。当然、このような人間関係の行き過ぎた指導としてある暴言や体罰は監督や顧問と部員を律する、あるいは先輩と後輩を律する無縁の力学として忘れ去られていくことになる。要するに上の権威・立場から下の権威・立場に向けた暴言や体罰といった強制力学も、同じ関係式による長時間のハードトレーニングという強制力学も、自発性や主体性、自主性、自律性といった精神的資質の前に意味を成さなくなる。

 教師が顧問として部活動の練習に参加しないことで一番気をつけなければならないことは生徒の大怪我である。生徒が大怪我をした場合に備えて従来から保健室の養護教諭に連絡を取る、あるいは救急車を出動を依頼するといった備えのためにベンチとかにスマホを用意していると思うが、AEDにしても各部に備えるだけの台数が不足する場合は校舎のグランドから最も近い場所、昇降口等に備え付けの形で用意しているはずだが、練習場所がグランドから遠い場合はより短時間で準備するために自転車を用意しておくのも必要であろう。ミーティングでAED使用の訓練を適宜行い、使用の注意点について常時記憶を新たにさせておくことも肝心である。緊急の場合を常に想定していると、杞憂で終わることが多いが、心がけることだけは忘れてはならない。

 よく言われているように練習に休憩を挟むことは忘れてはならない。

 2007年2月13日の当ブログ《運動に於ける新たな練習理論 :(<リズム&モーション>) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のようなことを書いた。

 〈これは主として特別な才能を持たない運動選手の体力と技術の底上げを目的とした練習理論である。野球で言えば、高校野球や大学野球、あるいはプロ野球の万年2軍選手に有効と思われる。

 この運動理論は最初に断っておくが、科学的根拠なし、経験からの理論付けのみ。経験からと言っても、プレーヤー、あるいはアスリートとしての経験・実績はゼロに等しいから、乏しい経験を基に頭の中で考え出した練習理論に過ぎない。既に誰かが以前から実践している理論であるとか、全然役に立たない可能性もあるが、だとしたら、悪しからずご容赦を。

* * * * * * * *

 ①<リズム&モーション>

 すべてのトレーニングに亘ってのコンセプトは<リズム&モーション>。リズムとモーションを一体化させたトレーニングを意識的、目的的に、且つ継続的に行うことで、その二つが身体に一体化して記憶され、肉体化を受ける。

 当然必要とする動きが求められたとき、身体は記憶し、肉体化していた情報に従って、リズムとモーションを一体化させた動き(<リズム&モーション>)で反応することになる。

 ダンスを考えてみれば、理解を頂けると思う。同じステップを踏み続けることで、リズムとモーションが身体に記憶され、肉体化して、逆に身体は音楽を主体とした外部からの動きの指令に従って自然とステップを踏むようになる。ダンスのステップ自体が<リズム&モーション>で成り立っている。私自身、ダンスの経験はないのだが、上達したダンサーを見ると、彼らは非常に心地よい動きをする。運動に於いても、リズムとモーションを一体化させた動きは大切で、そのことは野球の試合で解説者が好調に投げている投手を評して、「非常にリズムよく投げている」とか、勝利投手自身が「最後までリズムよく投げることができた」と勝因を分析したりする言葉が証明している。途中で崩れた投手は「リズムに乗れなかった」とか言う。

 勝利を手にしたマラソンランナーにしても、「最後までリズムよく走れた」と言うし、逆に希望したとおりに走れなかったランナーは「途中でリズムが崩れてしまった」と述懐したりする。

 かくこのようにプレーする点でリズムに則った動作(モーション)=<リズム&モーション>が重要な要素となるということなら、リズムとモーションを一体化させた身体の動きの習得を最初から目的とし、そのことを基本に据えた継続的なトレーニングが重要になる。〉――

 そのためには練習の合間に休憩を取ることの必要性に触れた。最近では休憩を取る例も出てきたようだが、休憩も取らず、水分補給も禁じていた時代があった。根性が付く、忍耐力が付くと行った根性論に支配されていた。だが、疲れることで動作(モーション)が惰性となり、リズムも失い、そのままに練習を続けたなら、練習そのものが消化するための義務となって積極性が失われ、その間の「リズム&モーション」は身体への記憶も肉体化も意味のないものとなる。途中休憩を取りながら、疲労を取り去り、気分を改めて練習を開始することで練習開始から終了まで積極的な「リズム&モーション」を維持できたなら、維持できない場合と比較して身体への記憶と肉体化への滋養分は比較にならない程に違いが出てくるはずである。滋養分の違いは成長の違いとなって現れるだろう。

 〈ボクサーが試合で3分のラウンドの間に1分の休憩がなかったなら、回を重ねるごとにステップはリズムを失い、打ち合いの殆どは威力もないパンチを惰性でただ単に繰り出すだけとなるのは目に見えている。1分の休憩があることによって、体力の回復が可能となる。ラウンドを重ねるごとに体力の回復は遅くなるが、それでも戦っているときの体力消耗を1分の休憩が僅かでも救うことになる。〉といったことも書いた。

 人は運動や仕事でリズムを持って動くことができるそのリズムは運動や仕事に従事している際に心に余裕が持てているときに身に付いていくもので、余裕がなければ身につくはずはないことは誰にでも明らかであろう。身につけたリズムで運動や仕事をこなしていく。但し野球のように相手がある競技の場合は打者がいくらリズムを持ってバットを振ることができても、相手投手の投球が打者のリズムを狂わすだけの威力があった場合はリズムは封じられることになるが、動きに応じた自分に最適のリズムを獲得、備えていなければ、プロにもなれないだろうし、打者なら、ここぞというときに好球必打を見せることはできないだろうし、投手なら、登板の機会を与えられることはないだろう。そして心に余裕を持てる練習でなければ、動きに応じた自分なりのリズムは身に付かないということである。

 少子化で部員数不足の運動部活動は同じ状況にある他校運動部と合同運営を行う。スクールバス、あるいはマイクロバスで1時間以内で移動可能な中学校同士が1日交代で練習場所を変えるといった条件付きで練習を行う。移動側の中学校運動部は練習の1時間以内のロスをDVDプレイヤー内臓24型ディスプレーをスクールバスかマイクロバスに設置、部活動と同じ競技や関係しない競技の映像を視野を広げさせる勉強目的で見させる。どのような映像のDVDやBDを購入し、その日は何を見るかは部員自身に決めさせる。前以って顧問である教師が自分という素材を本質のところでどう扱い、どう発展させるかは最終的には自分自身の問題であるということ、所属する競技だけが自分自身の将来的な可能性ではないこと、可能性は様々にあるということ、何をするにしても心に余裕を持つことが大切であるということ等々を機会あるごとに言い諭していたなら、自発性や主体性や自主性、自律性等々の資質を獲得する状況に向かっていさえすれば、何事も自分自身の問題として立ち向かう意志を持つはずだし、そのような意志を持てるよう指導していかなければならない。

 こういった方法を取れば、学校部活動の地域部活動への移行は必要なしに顧問の教師が部活動に時間を取られて、自身の業務に必要な時間が削られるといった事態に対処した教師の働き方改革にも適うことになり、暴言や体罰、長時間練習を生みがちな権威主義的人間関係の排除と排除に応じて部活部員を主体性や自主性等の資質の獲得に向かわせ、彼らを自律した存在に持っていくことも可能となる。部活動の監督や顧問からやる気を出させるための体罰を受けて、「精神的につよくなった」、「技術が向上した」等々、評価する部活動員も影を消すことになるだろう。

 地域への移行は競技志向を持たないが、スポーツを楽しみたいレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒等々を募って
学校を超えてそれぞれにチームを組み、本人それぞれの技術に合わせた各レベルのスポーツの場の提供のみにとどめておくべきだろう。こういった場の学校内設置は難しいと思われるからであることは既に触れた。

 学習指導要領で学校部活動は教育課程外とされているが、学校の教育活動の一環と位置づけられていて、教育課程との関連付けを求められている以上、学校という場で行われることが理想に思われる。
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