Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円) |
尾木直樹は2022年7月23日のこのこども基本法講演で、自身の学校教師辞職が務めている学校の体罰問題だったことを明かしている。尾木直樹の人間性を知る上で参考になると思うから、このイキサツを改めて取り上げてみる。
「僕が辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」
述べているのはこれだけだから、具体的な事情は知りようがない。詳しく知りたいと思ってネットを探したところ、2014年10月9日付「産経ニュース」が伝えていた。一部抜粋。
インタビューなのか、次のように話している。「授業を休んで講演会に行ったことは一度もありません。ただ、夏休みはほとんど講演と執筆活動に充てていました。仕事が早いし、集中力があるんでしょうか。話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けますし、いくつもの仕事を同時並行でできるんです。
その後、非行のデパートと呼ばれる学校にも異動しました。そこにいたからこそ今、教育評論家をやれているのです。どんな問題でもおおよそ想像ができますから」――
「最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、『子供の権利条約』が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。
ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が『恥をしれ』と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば『先生、保護者が怒っているから考えようよ』とか言えるんですが、それもない。外では『体罰はだめだ』と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。
いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ちもあって、その学校には1年いて、教師を退職することにしました。
すると保護者が自宅に大挙して押しかけてきて、『なぜやめた』と怒るんです。体罰の事情を説明したら、『すぐに保護者が学校に文句を言って尾木先生の味方をしたら、先生たちの中で浮いてしまってやりにくいだろう』と気遣ってくれた。それで『1年待って、尾木先生の足場ができたら一緒にやろうと考えていた』という話でした。うれしかった半面、残念、短気だったなと後悔しました」――
ところどころ自慢が入って、自分を宣伝することを忘れない抜け目のない点も一つの人間性である。「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」、「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」、「(長年の教師勤務の経験によって)どんな問題でもおおよそ想像ができます」
先ず、「その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする」とは、どういう意味なのだろうか。尾木直樹の「体罰はだめだ」の考えを強く支持する先生の存在を以ってしても、ファンである本人が生徒に対して体罰を禁止できるだけの影響力を持ち得ていないことから、学校で体罰が横行しているという意味なのか、尾木直樹の支持者でありながら、支持する考えに反して自ら体罰を行っているという意味なのだろうか、両方に取れる。
前者だとすると、より強い影響力があるはずの本家本元の尾木直樹の方がファンの先生よりもその点で劣っていて、体罰禁止、あるいは体罰排除の力とはなり得ていないことを示すことになる。
後者だとすると、ファンを自任しているが、自任に反する行為に走っていることになって、ファンの先生個人の問題となるが、それでも、その先生に関しては尾木直樹の影響力はその程度で、絶対的ではないどころか、お粗末そのものとなる。
となると、「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」等は体罰解決に(イジメ解決にしても同じだが)結びつけることができていない能力となるが、最初からそのことに気づかずに自身の優れている能力としてひけらかしていたことになって、その見当違いは教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。
その欠陥は、「いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ち」から臨床教育研究所「虹」を立ち上げて、そこの所長に収まっている事実を中身の伴わない見せかけとすることになるだけではなく、
「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」と自負していることも、ただ単に講演依頼が多い、著作物が売れている、テレビ番組の出演が多い等、人気があるということだけのことで、実際には言っているとおりの教育効果を上げているわけではない。
このことの証明として2013年発売の自著で、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」を、体裁よく名前をつけて行っているが、年々増加のイジメ認知件数が"なくす"どころではない深刻化を招いている実態を挙げることができる。
何もかも見せかけであることはこの足元の体罰をキッカケに教師を辞職した経緯にその片鱗が既に現れている。
サッカーの練習試合で小学生のチームに負けたサッカー部生徒4人を顧問が丸刈りの坊主頭とする体罰を行った。だが、生徒4人はニコニコしているし、保護者からクレームがあれば、「先生、保護者が怒っているから考えようよ」と言えると説明している。
先ず第一番に本人の意志に反して強制的に坊主刈りにする。人権侵害行為に当たるにも関わらず、本人たちがニコニコしているからとその危うい人権感覚を正さずに放置したままにできる尾木直樹の人権意識は教師とは名ばかりで、見せかけの教師に過ぎなかったことを証明することになる。
次に生徒からか、保護者からのクレームを体罰を注意する基準としていて、体罰を用いた躾上の問題点や教育上の問題点を注意する基準としていないことになり、当時の学校教育者としての人間性に疑問符がつけなければならないことになる。
当然、尾木直樹が体罰やイジメについて何を語ろうと、何を訴えようと、全て見せかけの綺麗事に過ぎないと見なければならない。にも関わらず、臨床教育研究所「虹」の所長に収まっている。
この胡散臭いばかりの偽善は計り知れない。体罰やイジメ解決とは結びつかない能力であることを弁えることもできずに「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」などなどの能力自慢の胡散臭さに現れている偽善、その人間性と相響き合う。
尾木直樹はこの講演で体罰に関して前半部分の最初にフッリップで掲げた「問題山積の教育現場と子どもたちの実態」の中で、〈④ 体罰と「指導死」問題」〉を取り上げていて、後半部分で掲げたフッリップ、「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 」では、〈④子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の恵識を変えていくことが必要〉と主張している。
但し、〈体罰と「指導死」問題」〉についての具体的な解説は前半部分でも、後半部分でも一切触れていない。多分、時間の都合で省いたのだろう。
後半部分での体罰に関する言及を見てみる。
「4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと。
ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。
ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある」――
尾木直樹は、「メディアとか、社会ぐるみ」で体罰に関する社会の意識改革を行っていく必要があると訴えているが、文科省は学校に対して体罰禁止の通達を出し、厚労省はポスター等で〈2020年から法律が変わりました!
体罰等によらない子育てを広げよう!子どもへの体罰は法律で禁止されました。体罰等によらない子育てを推進するため、子育て中の保護者に対する支援も含めて社会全体で取り組んでいきましょう。〉などと啓発活動を行っている。
厚労省がここで「2020年から法律が変わりました!」と言っていることは「改正児童虐待防止法」を指す。尾木直樹の「こども基本法講演」は2022年7月23日だから、この啓発活動は講演の2年も前からだが、ネットに学校での体罰を最初に禁止した法律は明治12年(1879年)の教育令第46条だと出ているが、例え啓発活動にまで踏み込んでいなかったとしても、最近ではどのような法律の施行であっても、啓発活動を同時進行させる。
ネットで探した例を紹介してみる。法務省の《令和2年度に講じた人権教育・啓発に関する施策》(法務省)には、
〈学校教育
ア 人権教育の推進
文部科学省では、人権教育・啓発推進法及び「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年閣議決定、平成23年一部変更)を踏まえ、学校教育における人権教育に関する指導方法等について検討を行い、平成16年6月に「人権教育の指導方法等の在り方について[第1次とりまとめ]」、平成18年1月に[第2次とりまとめ]、平成20年3月に[第3次とりまとめ]を公表した。令和3年3月には、[第3次とりまとめ]策定後の社会情勢の変化を踏まえ、[第3次とりまとめ]を補足する参考資料を作成した。文部科学省では、この第3次とりまとめなどを全国の教育委員会や学校等に配布するなど、人権教育の指導方法等の在り方についての調査研究の成果普及に努めて
いる。〉ことや、〈青少年の保護者向け普及啓発リーフレット「保護者が正しく知っておきたい4つの大切なポイント(児童・生徒編)」〉を作成・配布する啓発活動を行っている。
上記「第1次とりまとめ」は次のような記述となっっている。
《人権教育の指導方法等の在り方について》(第1次とりまとめ)には、
〈② 子どもに関する課題として、子どもたちの間のいじめは依然として憂慮すべき状況にあるほか、教師による児童生徒への体罰も後を絶たない。また、親による子どもへの虐待なども深刻化しつある。〉、〈⑩児童虐待や体罰等の事案が発生した場合には、人権侵犯事件としての調査・処理や人権相談の対応など当該事案に応じた適切な解決を図るとともに、関係者に対し子どもの人権の重要性について正しい認識と理解を深めるための啓発活動を実施する。(法務省)〉等、体罰が後を絶たない状況の説明とそのことに対応した啓発活動の実施の必要性を既に平成16年(2004年)から訴えている。
要するに尾木直樹の啓発活動の訴えは後追いに過ぎないと同時に日本の啓発活動がスウェーデンのようには効果を上げていないことを示すことになるが、この事実に気づかなままに啓発活動を訴えていることになり、この点についても尾木直樹の教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。
最も重要なことは体罰が後を絶たない状況は啓発活動が効果を発揮できていない状況と相互対応しているという点であり、このことを見逃してはならない。特にイジメも人権問題であり、イジメの年々の無視できない増加は社会的啓発活動にしても、学校教師に対する文科省通達等による直接的な指導・啓発活動にしても、殆ど役に立っていない証明となってしまう。
啓発活動の無効性は人々の意識の硬直性を意味する。尾木直樹はこういった現状を考えもせずに啓発活動や人々の意識の変革を訴えることができるのは法律の字面のみの解釈で終わっているからだろう。
2022年度の教師の体罰件数を見てみる。「令和4年度公⽴学校教職員の⼈事⾏政状況調査について」(概要)(文科省/令和5年12⽉22⽇)によると、
〈教育職員の懲戒処分等の状況
○懲戒処分等(懲戒処分及び訓告等)を受けた教育職員は、4、572⼈(0.49%)で、令和3年度から102⼈減少。
・「体罰」により懲戒処分等を受けた者は397⼈(0.04%) (令和3年度︓343⼈(0.04%))、
「不適切指導」により懲戒処分等を受けた者は418⼈(0.04%)。(令和3年度︓406⼈(0.04%))〉となっている。
確かに教職員全体から見れば、「体罰」を働いて懲戒処分等を受けた教師は0.04%、「不適切指導」により懲戒処分等を受けた教師は同じく0.04%とごく少数ではあるが、前年度より減っているわけではなく、それぞれ少しずつ増えている。少しずつであったとしても、啓発活動の逆行性を示すことになるし、ここには親の子どもに対する体罰そのものである虐待は含まれていない。
《令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数(速報値)》(こども家庭庁)によると、次のような虐待相談件数となっている。
令和3年度(2021年度) 207,660件
令和4年度(2022年度) 219,170件(速報値)
因みに令和3年度(2021年度)の国公私立中学校3年間のイジメ認知件数は9万7937件であり、小学校6年間で計算すると約19万件のイジメ認知件数に匹敵する虐待相談件数となって、如何に多い件数か把握できる。
小中9年間、高校までだと12年間、子どもが学校で、あるいは大学まで進学したとしても16年間を学んで社会に出て、成長して結婚して子どもを持って親となるという循環を考えたとき、その中から体罰を働く親が出た場合、その親が子どものときの親の教育・躾が悪くて、子どもとしての人間的成長に役に立たなかったとしても、その後の学校教育という現場で教師が人間的成長の育みに見るべき刺激を与え得ず、スルーさせてしまったことを示すことになって、教師としての役目が問われることになる。
さらには教師自身が教員免許試験に合格し、都道府県教育委員会から教員免許状を授与されて教員となるについては大学等で「教職論」「教育原理」「教育心理」等を学び、これらの知識・情報を知の栄養、いわば自分自身に独自の知識・情報の栄養素としていなければならない。でなければ、学んだ意味が出てこないし、体罰に対して自己コントロールできない教師が跡を絶たないことになる。
断るまでもなく体罰の何が問題なのかは身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為、あるいは注意や懲戒の目的で私的に行われる身体への暴力行為などと言われているが、有形力を行使した、あるいは威迫的意思を行使した強制的躾であり、このことは教育の現場と言いながら、言葉を用いて相手を納得させる道理に適ったプロセスを省いていることを意味していて、このようなプロセスを持った児童対児童、あるいは生徒対生徒の関係性がイジメと言うことになる。
大学で教育を受けながら、適切で合理性に適った言葉を駆使した躾ができずに言葉の威しや有形力に頼ってしまう教化・指導がなくなくならない、減りもしない原因は児童・生徒を個人として尊重する姿勢に基づいた理性的な言葉を日常普段から使い慣れていないか、冷静さを欠くと理性がどこかに飛んでしまうからで、これらのことも高等教育を受けた意味をなくすが、逆に児童・生徒に対して個人として尊重する扱いと言葉を理性的に話すことを習慣としていたなら、その習慣性によって体罰に対する抑止力の役目を果たすだけではなく、そのような習慣は児童・生徒も目や耳にしたり、肌で感じることになって自ずと学ぶことになり、イジメに対する抑止力ともなるはずだが、現状はそうはなっていない。
要するに体罰を必要としない言葉を話す力=言語力の不足に陥っている。考える力(=思考力)が言語力を養うことになるのだが、考える力の不足が言語力の不足と対応することになり、その関連性によって教化・指導に手っ取り早く体罰を用いてしまう。
要するに考える力もない、言葉のコミュニケーション力もないことが体罰に向かわせてしまう。
但し考える力の不足が原因となる言語力不足は体罰を行う教師ばかりの問題ではなく、他の教師や児童・生徒全般に関して指摘できる考える力不足(=思考力不足)と言語力不足であって、その原因は断るまでもなく今なお主流となっている暗記教育に影響を受けている。
子どもの思考力不足と言語力不足は言われて久しいが、日本の教育のプロセスが教師の与える知識・情報を児童・生徒にそのままなぞらせる形で機械的に彼ら自身の知識・情報へと持っていく、その反復の強制を内容とする暗記型教育となっていて、教師からの知識・情報が児童・生徒それぞれの思考を刺激し、それぞれに自分なりの意味・解釈を付け加えることになる知識・情報へと持っていく仕掛けの思考型教育とはなっていないことが考える力の貧困状態を作り出して、結果として言語力不足を成果とすることになっている。
となると、スウェーデンでの39年を掛けて95%から2%へと持っていった家庭内も含めた体罰減少は体罰で子どもを躾けることが社会的常識となっていて、それを当たり前のことと容認する場所で思考停止状態となっていたが、人権意識に基づいて法律で体罰禁止を打ち出し、社会に向けて体罰禁止の啓発活動を行うと、社会の側が考える力を刺激されて思考停止状態を解くことになった結果、体罰の目を見張る減少ということでなければ、理解を得ることはできない。
なぜなら、既に触れたように体罰は考える力の不足(=思考力不足)が招くことになる言語力不足(=言葉のコミュニケーション力不足)が原因なのであって、スウェーデン人が考える力を元々の素地としていなければ、啓発活動を受けたからと言って、非人権的な強制行為でしかない体罰から穏便な言葉を用いた教化・指導に急激に変貌を遂げることはできないだろうからである。
日本が体罰禁止や虐待禁止の法律を作り、啓発活動を様々に行っても、家庭内の虐待をも含めて無視できない件数の体罰がなくならずに横行している。言葉を使った言い聞かせ、言葉を使った教化・指導の実践ができないからで、つまるところ、大学という教育の場で児童心理学等を学び、さらに学校という教育の場で児童・生徒のそれぞれの人間性を通して学ぶべきことを学ぶことができないという皮肉な逆説によって、考える力を背景とした言葉の力で教師が児童・生徒を教化・指導ができず、そういった扱いを受けた児童・生徒が大人になって子どもを持ち、子どもに対して同じ扱いしかできないでいる循環が変わらない横行風景を作り出しているということなのだろう。
当然、尾木直樹の「子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だ」云々は視点の把えどころを間違えた、考えもない無益な訴えとなる。
自ら考える力のある人間は啓発活動を受けなくても、自分から意識を変えていくことができるだろうし、自ら考える力のない人間にいくら啓発活動を行なったとしても、馬の耳に念仏、意識を変えるところにまでいかないだろうからである。
こういった道理を弁えることができないのだから、尾木直樹自身、考える力を満足に備えていないことになる。だから、事実を表面的に見ただけの八方美人的な綺麗事しか見せることができないでいる。論理的思考力ゼロの人気教育評論家と見るほかない。