現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

真如苑と大日如来

2011-02-05 23:33:06 | 虚無僧日記
2/3 は「真如苑」の東京支部で「節分会」に参坐。ビデオで
教祖が「成田山新勝寺」や「京都醍醐寺」と法縁を結んでいく
過程を知る。開祖真如教主は、まず「運慶作の不動明王」像を
入手したことから「成田不動尊」の一講中として立教した。

しかし、寺の僧侶としての資格を得るため、浦野法海師の紹介で、
真言宗の醍醐寺で得度受戒する。真言密教の本尊は「大日如来」
なのだが、真如教主は「大般涅槃教」を依経として「釈迦の涅槃像」を
自ら謹刻し、それを本尊としてきた。

そしてである。2008年、「運慶作の大日如来像」がニューヨークで
オークションに出され、真如苑が 14億円で落札した。この
「大日如来」像は、重要文化財級のものだったが、個人の所蔵で、
重文の指定を受けていなかったため、海外に流れるところだった
のを 真如苑が買取り、国外流出を免れたとして 話題になった。

こうした仏像には不思議な因縁がつきまとう。真如苑としては、
醍醐寺派の真言密教の法脈を継ぐ教団として「大日如来」像が
必要だった。しかも、すでに所有している「不動明王」像と同じ
「運慶」の作だ。今の時代に、国宝級の像が入手できることは
有り得ぬ奇跡だ。二体の像は収まるべき所を得て 収まったのだ。

虚無僧の元は 高野山に始まる。中世に、大日如来の頭上に
現れるという「一字金輪」の呪「ノーマクサンマンダ、ボタナン
ボロン」を 108篇 唱える念仏集団があって「梵論字、梵字、ボロ」と
呼ばれていた。その「ボロ」が、近世 虚無僧と合体していったと
私は考えている。

2/5 立川の真如苑総本部「親苑」に帰苑。「親苑」の上に太陽が
輝き、その周りに「大日輪」が出た。これで、ますますのパワーを
得た気がする。


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新島襄 寒梅

2011-02-05 23:04:59 | 虚無僧日記
梅が咲きはじめた。新島襄の『寒梅』を 思い起こす。


『寒 梅』  新島 襄

 庭上(ていじょう)の 一 寒梅(いち かんばい)
 笑って 風雪を 侵(おか)して 開く
 争(あらそ)わず 又 力(つと)めず
 自(おのずか)ら 百花の魁(さきがけ)を占(し)む

「庭先の一本の梅の木が、風雪に耐え、笑っているかの
様に咲いている。冬の厳しさに抗しているわけでもなく、
無理に努めているわけでもなく、あらゆる花にさきがけて、
咲いている」

表面上は そういう意味だが、もっと深い意味が込められて
いる。新島は元治元年(1864年)函館から日本を脱出して
上海に行き、そこからアメリカに渡った。

新島の本名は「七五三太」。「しめた」と読む。「襄(じょう)」は、
なんとアメリカに渡る船で「ジョー」と呼ばれたから。そう
元祖「明日のジョー」だ。

アメリカで洗礼を受け、アマースト大学を卒業。日本人初の
「理学士」の学位を取得したというのだからおそれいる。
アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・
スミス・クラークから化学の授業を受けていた。「ボーイズ・
ビィ・アンビシャス」のクラーク博士は、新島との縁で 来日
したのだった。

徳川幕府が滅び、明治の世となって、明治5年(1872年)岩倉
使節団がアメリカにやってくる。新島は、使節団に面会して、
語学力をかわれ、木戸孝允の通訳としてニューヨークから
ヨーロッパへ渡った。岩倉施設団が帰国した後もヨーロッパに
残り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを歴訪して、帰国
したのは明治7年(1874年)。実に10年。明治維新がなければ、
彼は一生日本に帰れなかったのだ。

帰国して、最も保守的な京都で、周囲の猛反対に遭いながら
キリスト教を布教し、同志社を設立した。まさに自作の詩
『寒梅』は、文明開化に先駆けてアメリカ、ヨーロッパに
渡った自分の生き様を詠じていたのだ。

京都でのキリスト教公認、同志社の設立が、虚無僧尺八愛好家に
よる「明暗教会」設立への動きになった。明治4年に廃宗となった
普化宗だが、江戸時代禁制だった耶蘇(キリスト)教が公認されたの
だから、虚無僧も、キリスト教の教会に倣って、「明暗教会」として
申請し、認可されたのだ。これはメイアン(名案)だった?。


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新島襄と山本八重子

2011-02-05 22:56:53 | 虚無僧日記
新島襄の妻は、これまた驚き、会津藩の女傑、山本八重子。
山本八重子は、会津戦争では、女ながら、男物の軍服を着て、
7連発スペンサー銃を持ち、砲兵隊を叱咤激励、指揮した
として、会津人なら誰でも知っている。開城の時、城の壁に
次の和歌を記した。
 
「明日よりは、いずこの誰か 眺むらん
          なれしお城に 宿す月影」

戊辰戦争で、父も弟も戦死。兄覚馬を頼って京都に行く。
兄の覚馬は早くから洋学と洋式砲術を学び、会津藩を洋式兵法に
改革するなど、先見の明があった。(山本家は武田の軍師山本
勘介の子孫と称している) 幕末、会津藩が京都守護職として
京都に駐留したおり、公用人として他藩との折衝にあたり、
また洋学の私塾を開いて、他藩の士も受け入れていた。

鳥羽伏見の時には、京都に留まっていて、官軍に捕えられたが、
西郷隆盛はじめ官軍の幹部にもその名を知られており、救われる。
この時、すでに失明していたのだが、山本覚馬の活躍は、明治
になってからがすごい。

失明しながらも、英語を学び、聖書を読み、キリスト教に改宗。
都が江戸に移り荒廃していた京都に、産業を起し、日本最初の
万国博覧会を開いている。京都人の信頼篤く、府議会議員に推
され、府議会議長も務めた。失明しているのにである。

そして、妹八重子が、外国帰りの新島襄に英語を習い、聖書の
翻訳を手伝っているうちに恋仲となり、新島襄と結婚する。
その新島のために、自宅(旧薩摩藩邸6,000坪)を提供して、
同志社英語学校を設立したのである。

山本兄妹がいなければ、同志社は無かった。同志社の設立は、
山本覚馬によるところが大であった。

京都というところ、保守的な古都と思いきや、京都の収入は、
ハイテク産業の方が、観光収入をはるかに上回っているとか。
京都は平安の昔から、常に日本の産業の最先端をいっていたのだ。

慶応の琴・尺八クラブ「竹の会」は、毎年、京都南禅寺で合宿し、
同志社女子大の箏曲部と交流があったが、東京の慶応は保守的で
古典曲ばかりなのに、京都の同志社は新曲ばかりで、意外に感じ
たものである。


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一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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