現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

信玄の次女「見性院」

2011-02-15 23:37:02 | 虚無僧日記
穴山梅雪の夫人「見性院」は、武田信玄の次女。
穴山信君(梅雪) は信玄の姉の子であり、従兄妹同士の結婚となる。

穴山梅雪は、本能寺の変後、家康とは別路をとり、「宇治田原で
野盗に殺された」とされる。しかし当時の史料である『家忠日記』には
「切腹」とあり「野盗に殺された」とは書かれていない。穴山梅雪は
家康によって「切腹させられたのではないか」と、明智憲三郎君は
推理している。

穴山梅雪が「本能寺の変」直後のどさくさで 落命したのは、
天正10年(1982)。梅雪の遺児「勝千代」は、5年後の天正15年
(1587年)16歳で早世した。

3年後の天正18年(1590)には 小田原北条氏が滅びる。
その翌年、家康は5男の「福松丸(万千代丸)」を 穴山梅雪の
未亡人「見性院」の養子にして、武田の跡目を継がせることを
約束する。福松丸の母は、武田の遺臣「秋山氏」だった。
生まれは 天正11年(1583年)だから、まだ7歳。後 元服して
「武田信吉」と名乗るが、「信吉」も 慶長8年(1603年)21歳で
死去する。

失意の「見性院」に対し、家康は、江戸城 田安門 内 の 北の丸 に
屋敷を与えて住まわせる。「見性院」は 元和8年(1622)79歳で
亡くなるまで、北の丸の「比丘尼屋敷」に住んでいた。

家康は、武田を滅ぼし、穴山梅雪をも死なせたことへの、償いの
つもりだったのだろうか。

見性院は、2代将軍の徳川秀忠が 侍女のお静に生ませた子
(幸松)を匿(かくま)い 養育する。嫉妬深い正室「お江」の執拗な
詮索に、幸松丸は、信州高遠の保科家に養子となり、長じて、
会津藩主保科正之となるのだ。保科家も旧武田方の武将だった。


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伊賀越えで 消された「穴山梅雪」

2011-02-15 22:31:04 | 虚無僧日記
天正10年(1582年)3月、信長・家康連合軍が 信濃・甲斐に侵攻し、
武田家は滅びたのだが、実は、武田の名跡は「穴山信君/梅雪
(あなやま のぶきみ / ばいせつ)」の子「勝千代」に引き継がれた。

穴山梅雪は、母が信玄の姉、妻は信玄の娘 ( 見性院 )。武田信玄の
甥であり、武田勝頼からみれば、従兄弟であり、妹の夫。

穴山梅雪は、家康が甲斐に侵攻してくると、「武田の家督相続と
本領 安堵 ( あんど )」を条件に、さっさと勝頼を裏切り、家康の
下に降った。

信長は、戦後の論功行賞で、穴山氏の本領「甲斐河内」を安堵し、
嫡子の勝千代が 武田氏の当主となることを認め、家康には駿河を
与えて、駿河、三河、尾張を廻って、4月21日安土に帰った。
徳川領内をしっかり検分したのだ。

家康は、「武田攻めの戦勝祝い」と「駿河一国を得たお礼」と称して、
穴山梅雪を連れて、5月14日 安土城に信長を表敬訪問する。
その時の 接待役 が 明智光秀だったが、17日 光秀は 接待役を
解かれ、坂本に 帰城する。

この、突然の「接待役解任」について、「家康の饗応がぜいたく
過ぎると信長から叱責を受けた」など、いろいろ言われているが、
それらはすべて後世の作り話。明智憲三郎著『本能寺478年目の真実』
よれば、この時、光秀は、信長から「四国の長宗我部懐柔策を
変更し、討伐軍を出す」ということを聞かされ、それに反対し、
信長の怒りをかう。光秀としては、長宗我部には斉藤利三の妹を
嫁がせ、縁戚関係を結んでいたからである。そして、さらに
信長から「家康を殺せば、尾張、三河、駿河を与える。その代わり、
坂本と丹波は召し上げる」というような密命を受け、光秀は動揺する。
そして 思案の末、光秀は、家康と娘婿の細川忠興、舅の藤孝に、
すべてを打ち明ける。

そこで表向きは「秀吉から毛利攻めの援軍を要請してきたため」と
いう口実で、安土を去り、本拠地の坂本と領国丹波で軍を整えた。

そして 光秀は 6月4日、京都に引き返す。「敵は本能寺に有り」で
ある。この時、光秀の家臣はみな「徳川家康を討つためと思って
いた」という証言記録がある。光秀が大軍を率いて京に入ってきた
ことに信長が疑いをもたなかったのも、「家康を討て」という命令を
実行するものと 踏んでいたからに他ならない。

家康と穴山梅雪は5月21日に安土を出立して、堺に行っていた。
6月3日、岸和田には、四国の長宗我部を討つための軍勢が
終結し、渡海の準備をしていた。家康はそれを見ていたであろう。

このような状況の中で、6月4日「本能寺の変」が起きる。

家康が、伊賀を抜けて、伊勢白子から 舟で知多に渡り、無事
浜松まで帰れたのも、秀吉が、備中高松(福山の北)から7日で
「大返し」できたのも、すべては、「光秀の謀反」を事前に知って
いて、手はずを整えていたからだ。

家康は無事帰れたが、同行していた「穴山梅雪」は途中で殺された。
『家忠日記』に「切腹」とある。なぜだ? 家康は「光秀の謀反を
知っていた」ということを隠すため、「混乱の中、ほうほうの体で
三河に帰ったことを演出するために、穴山梅雪を殺したのだ。


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トヨタ叩きは終わったか?

2011-02-15 13:14:14 | 社会問題
トヨタの未来 「世界一」になんてならないほうがいい 欧米メーカーにない「企業文化」こそトヨタの真骨頂(日経ビジネスオンライン) - goo ニュース

パチンコ業界の売り上げが「21兆円」、国家の税収の半分と聞いて、
それに相当する企業はあるか 調べたら、なんと「トヨタ」が、2009年度で
20兆円。昨年は「リコール問題」もあり、2兆円減の18兆円とのこと。

「パチンコ」も「トヨタ」も愛知県が発祥の地。すごいもんだ。

というわけで、話は「トヨタ」に飛び火。

トヨタ車のリコール問題。「電子制御装置に欠陥はない」との結論が出て、
売り上げも急速に回復し、今年度も黒字の見通し。まずは祝着至極。

「いったい なんだったの?。無実の罪、冤罪事件だ。売り上げ減収分を
訴えた連中に請求しよう」なんて 憤るトヨタ社員は 一人もいないのも、
さすが世界一のトヨタだ。

「アクセル加速」事故の大半が、「アクセルとブレーキの踏み間違いによる
もの」とのこと。「運転手の初歩的ミスか」と、つまらぬ結果に 私も気が
抜けたが、「待てよ」である。「これはトヨタ車に限らず、全メーカーに
共通してある。日本では、年間 7,000件も発生している。だから、トヨタに
責任は無い」と聞くと、「チョッと待って」である。

「湯沸かし器の不具合が 年間1万件もあるから、不具合は当たり前で、
会社に責任は無い」と言っているのと同じだ。

私は車を運転していて、いつも思う。アクセルペダルがブレーキペダルより
手前に出ている。走行中、アクセルペダルは踏み続けているので、急ブレーキの
時は、アクセルペダルから右足を離し、いったん上げてからブレーキを
踏まなければならない。ワンクッション、膝を上げる動作が必要なのだ。

アクセルペダルを踏んだ状態から、そのままブレーキペダルへ滑らせて
踏み込めるようにしないのか。さらに、外人など、特に体も 足も大きいから、
アクセルペダルから足がはみ出しているわけだし、アクセルとブレーキを
両方同時に踏むことも十分あり得る。

ノークラッチ車になってから、左足は使わないのが どうも不自然。
右足をアクセルに、左足はブレーキペダルに、左右はっきり分ける構造に
したらよいのにとも思う。毎年7,000件も事故が発生していて、その対処を
しないというのは いかがなものか。この提案高く売れないかな?



くノ一と虚無僧」の漫画『虚無僧の故意』


虚無僧行脚」の模様を抜き出し、英語訳もつけて
紹介していただいてます。クリックして ご覧ください。

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3人姉妹の兄??「おくうたま」

2011-02-15 11:17:36 | 虚無僧日記
岩井三四二著「おくうたま」(光文社)が 話題になっている。

主人公は浅井喜十郎。信長に滅ぼされた浅井長政の側室の子。
NHK大河ドラマ『江』では登場してこなかったが、浅井長政には
二人の男子がいたのだ。お江の長男「万福丸 ( 10歳 ) 」は、秀吉に
よって捕らえられ、串刺しの刑で殺される。。そして、もう一人
側室が生んだ子がいた。万寿丸がいた。まだ0歳の赤児で、近江
長沢の福田寺に匿われ、成人して後、福田寺の住職となったが、
後還俗して、細川家に仕え、九州豊後杵築藩士となったそうな。

杵築城は、昨夏、虚無僧で国東半島を一周した際、立ち寄った。
半島の南側の付け根に位置し、きれいな城下町だった。その町に
伝わる言い伝えなのだろう。

さてさて、この小説では、その「万寿丸」のことでもなさそうだ。
もうひとり、他にもいたとして、これはすべて作家のフィクション。

その子の名前は「喜十郎」。出生を隠し、医師の「瑞石」のもとに
弟子として預けられる。
瑞石は外科医。喜十郎を連れて、羽柴小一郎(秀吉の弟)の従軍
医師となる。灯台元暗し。敵の懐に飛び込んだ方がかえって安全と
踏んだのだ。しかし、戦場では、旧浅井家の家臣たちと鉢合わせと
なることもある。何度も素姓がバレそうになる危機に見舞われる。
ハラハラドキドキのエンタメ性たっぷりの展開。活き活きと戦乱の
世を描き、読者を引きずりこむ筆力に、満足度は高い「歴史小説」と
なっている。

う~ン。でもやっぱり「事実は小説よりも奇なり」。フィクションは
私には 向かない。


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長宗我部氏のこと

2011-02-15 08:43:48 | 虚無僧日記
「光秀謀反 ひとつの理由」に即、「桜」さんからコメントをいただいた。

「愛媛県には、西日本では規模の大きい神社、通称「椿神社」があります。
ここの神主さんは、長宗我部氏です」と。

ありがとうございます。先日は、家康の長男の名「信康」と「元康」を
取り違えていることを ご指摘いただいたり、びっくりです。

さっそく、愛媛県の「椿神社」をネットで検索してみました。

「椿神社」と言えば、芸能の神「猿田彦命」を祀る三重県鈴鹿市の
「椿大社」が有名で、その末社は全国にありますが、愛媛県松山市の
「椿神社」は、こちらとは 関係が無いようです。

松山市の「椿神社」は、祭神は『伊豫豆比古命・伊豫豆比売命』他二柱で、
正式名は『伊豫豆比古命神社』。通称「椿神社」と呼ばれるのは「津(港)の
脇の神社で『つわき神社』が訛って『つばき神社』となったとか、境内に
椿が自生しているので「椿の神社=椿神社」と呼ばれるようになったとか。

神主さんの出自までは、判りませんでしたが、「長宗我部元親」の嫡流は
秀吉によって滅ぼされたものの、その一族の子孫という方は、現在でも
何人かおられるようです。はい

そして「長宗我部」を調べていて、貴重な史実を発見。

土佐は、室町時代、足利幕府の重臣、細川氏の領国で、夢窓疎石が
ここに禅の修養所として「吸江庵」を建てた。(現在も存続)。そして、
長宗我部元親の祖は、細川氏から『吸江庵の寺奉行(別当職)』に
任ぜられていた」ことが判明。

「細川頼之」は、足利三代将軍「義満」の後見人であり、一休とも接点があった。
一休の尺八の友「一路」が棲んだという宇治の草庵の名が「吸江庵」である。
土佐と宇治、双方の「吸江庵」につながりがあるのか、それが私の知りたい
ところだぁぁ。「長宗我部」を探っていけば、それが判るか。



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