穴山梅雪の夫人「見性院」は、武田信玄の次女。
穴山信君(梅雪) は信玄の姉の子であり、従兄妹同士の結婚となる。
穴山梅雪は、本能寺の変後、家康とは別路をとり、「宇治田原で
野盗に殺された」とされる。しかし当時の史料である『家忠日記』には
「切腹」とあり「野盗に殺された」とは書かれていない。穴山梅雪は
家康によって「切腹させられたのではないか」と、明智憲三郎君は
推理している。
穴山梅雪が「本能寺の変」直後のどさくさで 落命したのは、
天正10年(1982)。梅雪の遺児「勝千代」は、5年後の天正15年
(1587年)16歳で早世した。
3年後の天正18年(1590)には 小田原北条氏が滅びる。
その翌年、家康は5男の「福松丸(万千代丸)」を 穴山梅雪の
未亡人「見性院」の養子にして、武田の跡目を継がせることを
約束する。福松丸の母は、武田の遺臣「秋山氏」だった。
生まれは 天正11年(1583年)だから、まだ7歳。後 元服して
「武田信吉」と名乗るが、「信吉」も 慶長8年(1603年)21歳で
死去する。
失意の「見性院」に対し、家康は、江戸城 田安門 内 の 北の丸 に
屋敷を与えて住まわせる。「見性院」は 元和8年(1622)79歳で
亡くなるまで、北の丸の「比丘尼屋敷」に住んでいた。
家康は、武田を滅ぼし、穴山梅雪をも死なせたことへの、償いの
つもりだったのだろうか。
見性院は、2代将軍の徳川秀忠が 侍女のお静に生ませた子
(幸松)を匿(かくま)い 養育する。嫉妬深い正室「お江」の執拗な
詮索に、幸松丸は、信州高遠の保科家に養子となり、長じて、
会津藩主保科正之となるのだ。保科家も旧武田方の武将だった。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「60代の日記」ランキングです。クリックお願いします。
穴山信君(梅雪) は信玄の姉の子であり、従兄妹同士の結婚となる。
穴山梅雪は、本能寺の変後、家康とは別路をとり、「宇治田原で
野盗に殺された」とされる。しかし当時の史料である『家忠日記』には
「切腹」とあり「野盗に殺された」とは書かれていない。穴山梅雪は
家康によって「切腹させられたのではないか」と、明智憲三郎君は
推理している。
穴山梅雪が「本能寺の変」直後のどさくさで 落命したのは、
天正10年(1982)。梅雪の遺児「勝千代」は、5年後の天正15年
(1587年)16歳で早世した。
3年後の天正18年(1590)には 小田原北条氏が滅びる。
その翌年、家康は5男の「福松丸(万千代丸)」を 穴山梅雪の
未亡人「見性院」の養子にして、武田の跡目を継がせることを
約束する。福松丸の母は、武田の遺臣「秋山氏」だった。
生まれは 天正11年(1583年)だから、まだ7歳。後 元服して
「武田信吉」と名乗るが、「信吉」も 慶長8年(1603年)21歳で
死去する。
失意の「見性院」に対し、家康は、江戸城 田安門 内 の 北の丸 に
屋敷を与えて住まわせる。「見性院」は 元和8年(1622)79歳で
亡くなるまで、北の丸の「比丘尼屋敷」に住んでいた。
家康は、武田を滅ぼし、穴山梅雪をも死なせたことへの、償いの
つもりだったのだろうか。
見性院は、2代将軍の徳川秀忠が 侍女のお静に生ませた子
(幸松)を匿(かくま)い 養育する。嫉妬深い正室「お江」の執拗な
詮索に、幸松丸は、信州高遠の保科家に養子となり、長じて、
会津藩主保科正之となるのだ。保科家も旧武田方の武将だった。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
![日記@BlogRanking](http://img.diary-ranking.com/banner03s.gif)