現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

2/21 虚無僧 3日目

2011-02-21 23:37:37 | 虚無僧日記
2/19(土) から再開して、今日(2/21) で3日目。通算89日目だ。
釣りで一匹も魚が釣れないのを「ぼうず」というらしい。
今日は月曜日で、人通りは少ない。「3日目はボウズ」、
つまり「ゼロ」を覚悟して、名古屋駅前に立つ。

「布施」を気にせず、無心で吹いていると、あにはからんや、
すぐに男性が。そして5分置きぐらいに次々と。
二人連れの中国人の男性も立ち止まって、不思議そうに
見つめ、「明暗箱」を指差して、(ここにお金を入れる
のか?)というようなことを身振りで示す。「以心伝心」。
言葉はわからなくても伝わるものだ。布施してくれた。

続いて、白人の若い男性が、前の階段の所に腰を降ろして、
ジィーと15分ほど 聞いてくれた後、近づいてきて、
「ありがとうございました。楽しかったです」と、片言の
日本語で話しかけて来、喜捨してくれた。

若いサラリーマンの男性も、金髪に染めたお兄いさんも。
年配の男性も・・・・。1時間で10人以上というのは、いまだ
かつてない。

一人のビジネスマンが、お札を入れてくれ、「(お金が)
欲しいから 吹くというのとは違うねぇ」と、言って
立ち去った。

自分としては、今日は「真音」がビリビリ鳴り、心地よく
「無心」で吹いていたのだが、それが伝わったのだろうか。

「3日坊主」にならないようにしよう。



虚無僧行脚」の模様を抜き出し、英語訳もつけて
紹介していただいてます。クリックして ご覧ください。

名古屋駅・虚無僧」クリックすると「虚無僧」の写真が見れます

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2011-02-21 18:45:34 | 虚無僧日記
本能寺の変で、二条城にいた信長の嫡男「信忠」も、
明智勢に攻められ落命する。その後の跡目争いで、
秀吉は、信忠の子「三法師」を担ぎ出す。

ところで、信長の跡継ぎとなったはずの「三法師」だが、
その後は どうなったのじゃろうか? 余り出てこない。

元服して「織田秀信」と名乗り、岐阜城主となった。
「お江」と「豊臣秀勝」の間に生まれた「完子」を妻に
迎えたという説もあるが、明らかではない。

その後、関が原の戦いでは、徳川方に就くはずだったが、
支度が間に合わず、石田三成に与して、岐阜城を守った。

結局、西軍の敗戦で、徳川方に捕らえられ、高野山に
送られる。しかし、高野山は、織田信長によって焼き討ち
された恨みもあって、「秀信」の受け入れを快く思わず、
高野山も追われ、26歳でこの世を去った。


織田信長の嫡流の末路はあわれ。


三法師は秀吉の「親戚の子」だった

2011-02-21 17:50:23 | 虚無僧日記
2/20 NHK大河ドラマ『江』。信長の跡目争いで、秀吉は、
本能寺の変で信長と共に殺された嫡男信忠の子「三法師丸」を
担ぎ出す。清洲の城に連れてきて、寧々や「お江」に「親戚の
子じゃ」と、あいまいに隠すセリフがあった。

調べたらなんと、秀吉は、本能寺の変より3年前に、信長の4男
「秀勝」を養子にもらっていたのだ。ならば、秀吉は信長の子
「秀勝」の養父であるから、「三法師」も親戚となる。あながち
嘘ではなかったのだ。 

子の無かった秀吉は、天正7年(1579年)信長にねだって、4男
「秀勝」を養子にもらっていた。織田家の中で勢力を得るための
布石は、この時から用意されていたのだ。さすが智恵者。

秀勝は、天正10年(1582年)3月、秀吉の備中児島城攻めで
初陣を果たし、本能寺の変の後の明智光秀追討の弔い合戦では、
秀吉は この秀勝を擁して 大義名分を立てた。信長の葬儀に
喪主を務めたのは、この「羽柴秀勝」だった。

織田家の跡目相続では、羽柴秀勝は、明智光秀の旧領「丹波
亀山城」をもらう。しかし その3年後の 天正13年(1585年)
秀勝は 丹波亀山で病死する。享年18。

この年、秀吉は「関白」になっており、織田家の血筋は、もう
用済みだった。(ひょっとして秀吉の手の者に毒を盛られたかも)

そして秀吉は、「羽柴秀勝」が亡くなると 即、姉の子を養子にして、
「豊臣秀勝」として、「羽柴秀勝」の跡の亀山を継がせている。

この秀吉の甥である「豊臣秀勝」が「お江」の2度目の夫であり、
二人の間には「完子」が生まれているのである。この豊臣秀勝は
文禄元年(1592年)朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中に
病死する。

織田一族は 子だくさんだった

2011-02-21 10:51:25 | 虚無僧日記
織田信長の子は、男子12人、女子10人も居たとは驚いた。
父信秀も子沢山で、信長の兄弟は12人、姉妹は13人。「お市」
だけじゃなかった。(「信長の家系」)


1織田信正(庶長子、但し、実在したかは不明)

2織田信忠(嫡男 天正10年 本能寺の変で死亡)。その子が「三法子(秀信)」

3織田信雄(次男、のぶかつ。北畠具房養子。天正11年 秀吉と柴田勝家の対立では
      秀吉に就き、弟「信孝」を 岐阜城に攻めて自害させる。しかしその後、
      秀吉に逆らって 徳川家康と同盟を結んだり、関が原では去就をあいまいにし、
      最後は徳川幕府の旗本として幕末まで長らえた。8男5女あり、七男
      信高の系統の末裔がフィギュアスケート選手の織田信成とのこと。

4織田信孝(三男、神戸具盛養子))本能寺の変の後の信長の後継争いでは、
      柴田勝家に担ぎ出され 岐阜城主となるが、翌天正11年(1583)
      信雄に攻められ自害。

5羽柴秀勝(四男、羽柴秀吉養子)。なんと、本能寺の変の前に、秀吉は信長の4男を
      養子にもらっていたのだ。ならば、養子の「秀勝」を立てればよかったのに
      あえて「嫡流を」と筋を通したところが智恵者。NHK大河ドラマ『江』で
      嫡男信忠の子「三法師」を担ぎ出し、「親戚の子」といっていたが、
      信長の子「秀勝」の義父であれば、「三法師」も親戚となる。あながち
      嘘ではなかったのだ。 

6織田勝長(五男)人質として武田勝頼の養子となり「勝長」を名乗る。本能寺の変では
      二条城にいて、兄信忠とともに死す。

7織田信秀(六男)
8織田信高(七男)
9織田信吉(八男)
10織田信貞(九男)
11織田信好(十男)
12織田長次(十一男)

織田信長の子や兄弟、甥っ子はたくさんいたが、出家したり、各大名に召抱えられたり、
徳川幕府の旗本となって、かろうじてその命脈を保っている。