現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

私の中での天皇

2011-05-15 13:31:59 | 虚無僧日記
「週刊ポスト」5.20 の「藤原正彦×櫻井よしこ 緊急対談
『日本人の覚悟と誇り』で、天皇について、

「日本がどん底で困った時には、天皇陛下が必ず出てきて
くださる。今回の震災でも、天皇ご一家は、暖房を止め、
食事も蝋燭で召し上がられた。本当に天皇陛下がいて
くださるというのはありがたいと思います」と。

10年前の私なら、感激してお涙ものだが、最近は変わった。
「天皇」について書くのはタブーだが、あえて。

戦後の復興期、昭和天皇は全国をご巡行された。
私も二度ほど、昭和天皇のお姿を拝見したことがある。それは
子供の時の記憶だ。父母の実家の会津若松に向かう時のこと。
当時、上野から会津若松まで、蒸気機関車で8時間かかった。
途中、那須あたりの小さな駅で、列車がしばらく停車した。
単線だから、上り下りの列車は、駅ですれ違うのだ。

車内アナウンスで、天皇・皇后のお召し列車が通過する
とのこと。車内の乗客は一斉に立って、窓を開け、外を見る。
やがて天皇・皇后のお召し列車が、ゆっくりと通過していく。

天皇・皇后は車内でお立ちになり、われわれに手を振って
おられた姿が、私にもはっきりと見えた。戦前なら、お顔を
見ることも憚られたのに、ミーハー気分で、見たものである。

このことだけでも、戦前と戦後、大変な価値観の転換だった。

今、皇室の権威と人気は だいぶ失墜していると言わざるを
得ない。そのように誘導したのは マスコミだ。今や国民の
大半は「皇室不要論」に傾いているのではないかとさえ思う。


すり替えられた明治天皇

2011-05-15 03:54:11 | 虚無僧日記
会津人の立場で言うと、会津藩は「孝明天皇」の信任を
受けていたのが、孝明帝の崩御によって、政局が急変し、
薩長は15歳の明治天皇を擁立して、錦の御旗を掲げた。

孝明帝のお子様であるはずの「明治天皇」の豹変ぶりには
驚かざるを得ない。そこで「岩倉や伊藤が、孝明天皇を
暗殺し、「長州に居た大室寅之祐を明治天皇に仕立てた」
という説には、素直に納得してしまうのだ。

私の祖父も、明治、大正、昭和と続く天皇を「天皇」とは
認めていなかった。

明治天皇が孝明帝の皇子でない」とする根拠は、

孝明帝の御子は、殿中で女御の中で育てられており、
禁門の変で大砲の音に驚いて失神するほど気弱な性格
だったのが、慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、
馬上ゆたかに颯爽と閲兵式を行っている。その時の写真
を見ると、とても15歳の皇子とは思えない、浅黒く逞しい
顔立ちなのだ。

明治天皇の写真は、それ1枚しかなく、有名な「明治大帝」の
御真影は、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮ったもの
だという。

孝明帝は、細表の瓜実(うりざね)顔だったが、明治天皇は
ふてぶてしい顔立ちで、唇が厚かった。明治天皇が孝明帝の
お子であることを示すかのように、孝明帝の肖像画の口の部分が、
明治天皇に似せて、わざわざ書き変えられているという。

なぜ、写真を撮らせなかったか。明治天皇は、痘瘡(天然痘)を
煩い、口の周りに「あばた」があった。また、明治天皇は
「左利き」だった。皇室育ちならば、そんなことはありえない。

「大室寅之祐」が明治天皇となった経緯について、大室家の者が、
かなり具体的に証言している。とても作り話、虚言とは思えない。
大室家には、皇室関係者や政府高官が、おしのびで度々訪れて
おり、特別の扱いを受けている。

元総理の橋本龍太郎も「大室」氏の血を引くらしい。

東京遷都の時、京都御所で仕えていた女官を全員解雇しているのも、
口封じの意味があった。


私の中の「明と暗」

2011-05-15 03:50:51 | 虚無僧日記
震災の動画を見ていたら、次第に戦争の動画に移っていった。
「硫黄島」「サイパン」そしてまた「ノルマンディ上陸作戦」。
攻める方も守る方も地獄だ。手がちぎれ、足が吹っ飛び、
生首が飛んでくる。「被弾して 後方に運ばれて行く奴は
幸せだ」の声。
人間同士の争いほど、バカバカしいものは無い。何のために、
なぜ命を落とさねばならないのか。「国家の大義名分」なんて
まやかしだ。その元を探れば、一部の特権階級の利権争い。

最近「憲法改正して軍備増強を」という声が力を得てきた。
いずれ「中国や北朝鮮と戦うことになる」と言う。

戦争して何になるというのだ。戦争に行かない人が、戦争を
始める。戦争したいなら、自ら先頭きって前戦で闘えばいい。
その覚悟も無い者が「戦争、戦争」と声高に叫ぶ。

そんな奴のために、多くの国民が犠牲となった。その愚を
また繰り返せというのか。


「日本人の覚悟と誇り」について

2011-05-15 03:50:26 | 虚無僧日記
「週間ポスト」5.20 「藤原正彦×櫻井よしこ 緊急対談
『日本人の覚悟と誇りについて』を、たまたま見た。

右翼の急先鋒のおふたりの対談。

藤原正彦のベストセラー『国家の品格』でも「会津藩の教育」の
ことが書かれてあったが、ここでも「白虎隊」や「柴五郎」の
ことが出てくる。

会津人の血を引く私としては、10年前までは、こうして
とりあげてもらうことに、誇りもあり、喜んだものだ。

だが、最近考えが変わった。会津人は「戊辰戦争の仇を討て」と
そそのかされて、西南戦争に狩り出された。私の母方の「山室
五郎」は、今大分県の護国神社に祀られている。この140年、誰
ひとり墓参りに訪れることも無く。

日中戦争では、「会津人なら白虎隊精神で」と煽てられ、会津若松
歩兵第65連隊は、「南京攻略」から中国大陸縦断という、過酷な
使命を帯びた。

父の部隊も半数が還らなかった。靖国に祀られる福島県出身者は
6万6千柱。だが、太平洋戦争で犠牲となった“同朋??”アジア人の
数は1,300万人以上とも。

それでも、藤原、櫻井両氏は「あの戦争は、アジアを白人から
開放したという大勲章を打ち立てた、誇るべき歴史」と言い、
「日本国憲法を改正して、軍備を強化しなければならない」と説く。

なんのための軍隊なのか。どこと戦争するのか。戦争が始まれば、
藤原正彦や櫻井よしこ は、真っ先に軍隊に入って、前線で戦うのか。

その「覚悟」も無い人に「憲法改正」などと言ってもらいたくは
ないものだ。

こんなこと書くと、また賛否両論、喧々諤々。二極対立の中道は
あるのか。一休ならどう解決するのか。「一休さ~ん」と呼んで
みたら「ひと休み、ひと休み」だって。

母と娘の代理戦争

2011-05-15 03:50:13 | 虚無僧日記
「ダンシャリアン、やました ヒロコさんのコラム」から


「母が持たせてくれた嫁入道具の箪笥。結婚数十年の
今となっては、無用の長物。狭い家なので邪魔で邪魔で。
『捨てたい』と言ったら、母は『そんなことをしたら、
母娘の縁を切る』と。どうしら、いいのでしょう」との
ご質問。

「どうしたら、いいのでしょう」と、他人に問う前に、
「私は、どうしたいのか」を、自らに問うことが大切。

「縁を切る」などど、脅し文句で迫る母親。 ようは、
支配的な親を前にして、 ずっと、抗うことを避けて
きた娘。持たされた嫁入道具は、親の圧迫の象徴でしか
なくなる。 物理的に邪魔である以上に、 心理的に邪魔だ
という思いの方が、増幅していく。

一方 母親。「縁を切る」などと、怒りをあらわにするこそ、
娘の巣立ちが、受け入れられていない。

要は、双方が 脅し合いをしているような関係。

自立を望みながらも、心理的に母親の縛りから 逃れ
られない娘は、嫁入道具を邪魔に思うことで、

道具を捨てられることが、 即 自分への否定と感じて
しまう母親は、それを、絶対阻止することで、

自分の気持ちを、互いが「わかってよ」と、「捨てる」
「捨てさせない」と「嫁入箪笥」を通して、 主張しあって
いるようなもの。

だから、モノによる代理戦争。

まずは、相手を「わかろう」とすることが先決。

順番を取り違えると、解決策は功を奏するどころか、
問題をややこしくしていきますね。


なるほど。私も母の心に はいって、ようやく まともな
話し合いができるようになった。それまでは、何を話しても
けんか腰で、話しの端緒も掴めなかった。

「断捨離」も賛否両論

2011-05-15 03:50:01 | 心の問題
「断捨離」の「やました ひろこ」さんのメッセージ。


人は、同じモノを 見ているにもかかわらず、
どうして、こんなふうに、 正反対の反応がおきる
ものなのか。
『断捨離』についても、 方や「絶賛」、方や「酷評」。

賛成なのか反対なのか、気に入ったのか、気に入らないのか、
価値を見出すのか、無価値と結論づけるのか。私たちは、
自身の「前提と背景」を、それぞれが、それぞれに
映し出しているだけなのではないか。

対象物を判断しているようで、 実は、自分を判定して
いるのですね、知らず知らずに。

そうであるならば、私たちは、他人の表面上の反応に
拘泥することなく、 人それぞれがもつ「前提と背景」に、
想像力を働かせる方が、面白い。


ホントにそう思う。「断捨離で どんどんモノを捨てた」と
自慢したら、「もったいない、すべてを流された被災者が
いるというのに、なんてことするんだ」と いうお叱りの声。

その人も、自分の今置かれている境遇を背景に、そう言って
いるのだ。立場、環境が違えば、価値観も異なる。

虚無僧を見て、「明」と思うか「暗」と思うかは、その人の
置かれている背景を映しているのだ。