現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

白山~伊勢 東経136度沿いに なにやら不思議  

2011-05-29 18:11:25 | 虚無僧日記
地図で見ると、伊勢と白山は、南北一直線上にある。
「伊勢-白山 道」というカルトの教祖(リーマン)は
それを意識してのことかと思うが、ブログを見ても、
そのことに触れた記事は無い。

東経136度の子午線(経線)を辿ると、白山神社
(石川県白山市)から、能登国一宮の 気多大社(石川県羽咋市)、
熱田神宮(名古屋市)、椿大社(三重県鈴鹿市)、そして
伊勢神宮(三重県伊勢市)が、南北にほぼ一直線に
並んでいるのだ。

また、北から南へ、能登、加賀、飛騨、美濃、尾張、伊勢、
各国の「一の宮」も、ほぼ 縦一列に並んでいるのだ。

これは偶然か、古代人の叡智か、神のなせる業か?これを
解明した人はいないようだ。

 
白山神社:石川県白山市三宮町  東経 136度38分 (加賀国 一宮)
気多大社:石川県羽咋市     東経 136度46分 (能登国 一宮)
水無神社:岐阜県高山市     東経 137度15分 (飛騨国 一宮)
真墨田神社:岐阜県各務原市鵜沼 東経 136度56分 (美濃国 一宮)
真清田神社:愛知県一宮市    東経 136度48分 (尾張国 一宮)

熱田神宮:名古屋市熱田区    東経 136度54分
椿大社 :三重県鈴鹿市山本町  東経 136度27分 (伊勢国 一宮)

伊勢神宮(外宮):三重県伊勢市  東経 136度42分
伊勢神宮(内宮):三重県伊勢市  東経 136度43分   

ついでながら、日本最南端の「沖ノ鳥島」は、東経136度。

そして、地震の震源地が、ここに集中しているようだ。

1891年(明治24年)の「濃尾地震」の震源地は、岐阜県本巣市根尾で、
東経136度20分と推定されている。

1948年(昭和23年)の「福井地震」の震源地は、福井県坂井市で、
東経136度17分

2007年(2007年)3/25の「能登半島地震」の震源地は、石川県輪島市で、
東経136度41分

そして「能登半島地震」直後の4月の地震データ。
能登と三重県で地震が起きている。

04/16 能登半島沖  (東経136度33分) 震度2 M4.0 深さ0km (**)
04/15 三重県中部  (東経136度25分) 震度4 M4.6 深さ17km (**)
04/15 三重県中部  (東経136度24分) 震度5強 M5.4 深さ16km
04/11 石川県西方沖 (東経136度25分) 震度2 M4.3 深さ8km
04/06 石川県西方沖 (東経136度26分) 震度3 M4.3 深さ7km
04/06 石川県西方沖 (東経136度25分) 震度3 M4.7 深さ7km
04/06 石川県能登地方(東経136度47分) 震度4 M4.3 深さ12km
04/05 石川県西方沖 (東経136度26分) 震度2 M4.3 深さ8km


そして、ジヤジャジャジャ~ん。私が住んでいる所は
「東経136度51分」。オオ こわッ。

ボランティアの心のケア

2011-05-29 09:15:40 | 虚無僧日記
5/29 中日新聞、1面トップ記事は「ボランティア帰り、
心に傷」

東北被災地でボランティア活動をしてきた人たちの
多くが、その後、職場に復帰しても仕事が手につかな
かったり、不眠や食欲不振、人間不信などの精神的
苦痛に さいなまれているという。

「被災者は大変な生活を強いられているのに、普通の
生活をしている人、幸せそうな人たちが、うとましく、
“人でなし”にさえ思えてくる」とも。

私も、名古屋で一部地域が浸水した時、後片付けの
手伝いに行ったことがある。水は引いても、汚泥の
臭いはたまらない。たった一日手伝っただけだが、
しばらくは 食事が喉を通らなかった。

狭い道路ひとつ隔てて天国と地獄。ちょっと低い所に
あった家は床上浸水で、家具も畳も、柱、壁までやられ、
一段高い所にあった家は、平常通りの生活。

被災者は、3日も一週間も、配給のおにぎり か パン、
冷たいカレーだ。自分は、暖かい食事を口にできる。
これでいいのかと、苦しんだが、やがてすぐ忘れて、
平常にもどってしまった。

「被災者のことを忘れずに」と云っても一体、何をどう
すればよいのか、苦しみ悩んでいる人たちもいるのだ。

神戸・長田地区は今

2011-05-29 08:43:14 | 虚無僧日記
神戸に行くと、もう「阪神・淡路大震災」の傷跡は
探せないほどに復興している。火災が起き、全滅と
なった「長田地区」には立派なビルが建っている。

しかし、である。中は空き店舗が目立ち、寒々しい。

震災直後、時の政府は、即「阪神・淡路復興委員会」を
発足させ、「市街地再開発計画」に基づいて、神戸市が、
長田町地区を一括買い上げ、住居と店舗が混在する高層
ビルを建設した。これは、すべて官主導で、住民の参画
は無かったという。

元住民で、1,500万円の借金をして、このビルの一区画を
買い、洋品店を始めたAさん。「客足は伸びず、店舗を
売却したくとも売れず」で、最悪の事態に追い込まれて
いると「赤旗しんぶん」。

菅総理は、この「神戸の復興委員会」を「成功モデル」
として、東日本大震災の「復興構想会議」を創設したが、
この二の舞にならぬかとの記事だ。

たしかに、東北の被災地の跡に、近代的な工場団地や
商業施設を造っても、移転していく企業があるのか。
冷え切った産業構造のままでは、お先まっくら。どう
するべい。

面白い性格診断

2011-05-29 03:21:54 | 心の問題
【性格テスト】

「あなたは、今から、牛、馬、羊、猿、ライオンを連れて
 旅に出ます。どれから順番に捨てていきますか?」

という質問。意図が解らぬが、直感で答えてみた。

私は まず①番にライオンを捨てた。次に②猿、③に牛、
④が馬、最後に⑤羊を残した。どうしてその順になったか、
自分でも よく解らない。直感だ。

さて『診断結果』

①番に捨てた「ライオン」は「プライド」を意味するそうな。
次に捨てた「猿は子供」、以下、③の「牛は財産」、
④の「馬は仕事」、最後に残った「羊はパートナー」。

つまり、私は、先ずプライドを捨て、子供を捨て、財産も捨て、
仕事は まだ細々続け、パートナーは 最後まで側に居てくれる
という、私の人生そのものを表していて 驚き。

さっそく 5人の人に試してみた。

真っ先に「ライオン」を捨てた人が3人も。ライオンは
扱いにくいし、他の動物を襲う恐れがあるし、自分まで
食べられかねない、というわけだ。「プライドは邪魔」に
通じる。

逆に「ライオン」を最後まで残したA子さん。その前の④は
「馬」。先に「猿=子供」も「羊=パートナー」も捨て、
「ライオン」を付き従え、「馬」に乗って堂々と突き進んで
いく「独立自尊」型の自営者、という診断結果に、自他ともに
納得。

真っ先に「猿は 噛み付くから嫌い」と捨てたBさん。
その人生は、正に 子供を「捨て育て」し、早くから独立
させている。そのものズバリ。


逆に、「猿」を最後まで残したCさん。先に「羊=パートナー」を
捨て(離婚し)たが、晩年もずっと「猿=娘夫婦と孫」に支え
られて、幸せに過ごしている。

みなそれぞれの生き方が、ピッタシ かんかん 当たっていて、
今朝の「お茶会」は 多いに盛り上がった。不思議。


ずーずー弁

2011-05-29 03:21:19 | 虚無僧日記
「ふるさとの 訛りなつかしき 停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく」(石川啄木)。「作者は今どこにいますか?」
小学6年で扱う国語の問題だ。

今回の大震災のおかげで、テレビ、ラジオで、東北の
人たちの声が よく聞かれるようになった。その話し
ぶりを聞いていて、「標準語」に近いのに驚く。

25年前、福島に勤務していたが、若く美人の女性でも、
「私」を「おらぁ」とか「おれ なぁ」と言っていた。

先日、ニュースで、会津若松の小学生たちが、東京で
町ゆく人に、会津の物産品を配ってPRしている様子が
映し出された。ちょっとイントネーションの違うのが、
私には なつかしく 感じられた。

イントネーションは なかなか直らない。私の小学校
1年の時、「通知簿」に「言葉がおかしい、直すように」
と書かれた。両親が会津人だから仕方ない。母は
「アクセント字典」を買ってきて、必死に私の訛りを
直そうとした。

でも、今 名古屋で、しょっちゅうマネージャーに笑われる。
「ヒる(昼)は スし(寿司)で」が「頭高」になるのだ。
「名古屋人」でないことが バレる。「頭高」になるのは、
東京でも下町言葉だそうだ。


そして「発音」。典型的東北人は「し」が「す」になる。
「福島市」は「ふくスまス」。

方言色の強いタレントの動画だけを集めたサイトがあった。
東北出身の人は、口をあまり開けずにしゃべる。冬寒い
から、その習性が身についているのだ。私もそう。

さすが「そうだべぇ」は、もう最近 聞かれなくなったが、
江戸時代は、江戸でも使われていたらしい。戦国時代の
「口語体」で書かれた『雑兵物語』は、「そうだべいや」と
書かれているのだ。つまり、東北弁は かつては「標準語」
だった?!

「ひちや」と「しちや」どっち?

2011-05-29 03:20:57 | 虚無僧日記
名古屋に来て奇異に思うのは「質屋」の看板。
必ず「ひちや」と書いてある。名古屋では「し」が
「ひ」になる。「七」も「ひち」なのだ。

上方地唄の『松尽くし』という曲は、「七(ひち)本目は、
姫小松」で「ひ」だから、上方は昔は「ひち」なのか、

と、疑問に思っていたら、今日(5/28)中日新聞に、
同志社女子大学教授の「山田邦和」氏が「京都では、
『七』は『ひち』と読むのが伝統」とあった。

「質屋」は「ひちや」。「七条」は「ひちじょう」
「ひっちょう」だそうだ。ただし、古代は「しち」
だったのが、「ひち」は、近世になってからとのこと。

ネットで見ると、岡山、神戸あたりも、以前は「ひち」
だったが、今は「しち」。京都でも「ひ」から「し」に
看板が書き換えられているとの情報もあった。

岐阜も三重も「しちや」になっているが、堂々と
「ひちや」と書くのは、名古屋文化の象徴のひとつか。


江戸弁は、「ひ」が「し」になる。「日比谷」が
「しびや」になって「渋谷」と聞き間違える、とは
タクシー運転手の嘆き。「広島」は「しろしま」だ。
「潮干狩り」は「ひおしがり」となる。