現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「命は大切じゃありません」

2011-05-17 03:49:45 | 心の問題
「週刊ポスト」5.20 《肉喰う人々》

サバイバル登山家「服部文祥」の言葉。「命は大切じゃ
ありません。地球上に必要で大切な命なんて本質的には
無いんだ。本来的に自分は世界に必要とされていない」。

前後の流れを紹介せず、この部分だけを取り上げると、
随分センセーショナルな発言だが、私もそう思っている。

原発騒ぎで、半径○キロ以内かの 牛、馬、豚、何万頭も
するというと、誰しもが「かわいそうに」と 心痛める。
だが、普段、牛や豚は 平気で食べているのだ。私の子供の
頃(50年前)、父の里でも、牛や豚、羊を飼い、それを
売ったり、鶏をさばいて食することは、当たり前のこと
だった。そんな話しの流れで、上記の言葉となっている。

「服部文祥」氏の〆の言葉は「(命なんて必要ない)と
いうことを 心のどこかで理解して初めて、人はこの
日々を必死に生きるんですよ」と。

今、世界の人口は 60億を超えた。これ以上増えると、
地球の許容量を超え、自然淘汰が始まる。「ノアの箱船」
伝説が、ま近にせまってきている。その時、「生き残る
べき人」のリストの中に、自分は入らないのは確実だ。

釈迦は「生老病死」の不安から解脱することを説いた。
私も、この年で、生への未練も無いし、死を怖れないが、
最後の審判の時がきた時、「船に乗れる者のリスト」に
名前が乗っていなくとも、最後まで あきらめず、必死に
生きる努力はするだろう。

いや、今も必死に、日々充実して生きている。

福島県の平と信州真田の縁

2011-05-17 03:24:11 | 虚無僧日記
福島県「平」(現いわき市)と信州松代藩の真田家との関係について、
私のコメントに「スポッツ」さんから 詳しい情報が寄せられた。
要約すると、

【松代藩真田家の世継ぎ争い】
松代2代藩主・真田信政は、6男の右衛門佐(うえもんのすけ、
後の幸道)に家督を継がせると遺言して亡くなった。

「幸道」はまだ2才。そこで、信政の兄の子である沼田城主の
「信直」が、家督相続に名乗り出て、幕府や縁戚大名を
巻き込んだ騒動となった。

最終的には「幸道」が第3代藩主となるが、「幸道」を支持
したのが、岩城平藩の内藤忠興。

忠興の次男で、湯長谷藩藩主の内藤頼直の正室は真田信政の
長女。つまり真田幸道の姉。

忠興の長男で磐木平3代目藩主となった内藤義概(風虎)が
「八橋検校」を藩のお抱え楽師として召抱えていた。
八橋が平藩のお抱え筝曲師となっていたのは、1648--1652年と
される。


さてさて、これだけの関係で、平藩の八橋の箏が真田家にも
伝承されたというのは、私は どうも腑に落ちない。

そもそも、松代に伝わる伝承は、「2代目お通(1587~1679年) が、
京都で、八橋検校から八橋流筝曲を学び、それを 勘解由家に
伝えた」とされる。そしてこの説は、前にも書いたが、年号が
合わないのだ。

「八橋検校」が、京に上り「八橋検校」を名乗るのは1639年
〈寛永16年)以降。(それまでは「山住勾当」[上永検校」と
称していた)。この1639年当時、2代目お通は、すでに52歳。
八橋が平藩に召抱えられた時は、お通は60歳を超えている。
60の手習いか。

そして、『真田勘解由家文書』の後半部分では、松代の8代藩主
「真田幸貫」(松平定信の実子)が、藩士の禰津権太夫夫妻を
京都に派遣して、八橋流16代目の「有一座頭」から「八橋流」を
習わせ、藩内に八橋流を広めさせた と記している。

こちらの方が、真実性がある。一般に「八橋検校」創始の曲が
連綿と伝えられたかのように言われているが、「真田しん」が
伝承した「八橋流」、大阪の八橋流、沖縄の八橋流、それぞれ
全く違うのはどういうことか。

さらに不可解なのは、八橋の箏曲を伝承したとされる住山検校、
北島検校らは八橋の弟子ではなく、また、大阪八橋流の祖と
される城追座頭や、沖縄箏曲への伝承の祖とされる吉部座頭なども
八橋との関係のは不明という。(平野健次『日本音楽大辞典』平凡社)