現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

至学館の「校歌」鳴り響かず

2011-08-09 17:39:42 | 社会問題
夏の甲子園。愛知代表、初出場の「至学館」、
「東大阪」に1-8で完敗。期待の「校歌」流れず。
野球に興味の無い私でも「至学館」の試合は
ずっと観ていたのに、ザンネン。

実は、2回戦の前だったか、校歌が流れたのだが、
聞いていたのと違う。「男声」ではないか。

今朝の「東海ラジオ、モルゲン」で説明していた。
毎試合、2回戦目で両校の校歌を流すことになって
いるが、この時流す校歌は、わざわざ録音し直した
ものとのこと。

だから、オーケストラ伴奏で、男声ボーカル4人が、
全校(49)分を歌っている。もっとも、出場経験校は、
以前のを使うから、初出場校の校歌だけが 新規に
録音される。地区予選で出場校が決ると、即 録音に
はいるのだそうだ。

でも・・・、なんで 新たに 録音し直す必要があるのだろう。
全部同じ声楽家が歌っているから、みな同じに聞こえる。

各校のオリジナリティは消されるのだ。「至学館」の
ような、ドラムスとシンセでのPOP調は、甲子園に
ふさわしくないから、改めるというのか。

「もしドラ(もしも高校野球の女子マネージャーが
ドラッカーの経営哲学を読んだら)」は、「甲子園の
既成の価値観を変えよう!」という思いで、地区
予選を勝ち抜いた。そうした思いは、高校野球協会の
おエライさん方によって踏みにじられた。
その意味でも 悔しい。









インド人もビックリ

2011-08-09 04:27:32 | 虚無僧日記
尺八と箏でインド音楽を奏するアメリカ人「T.M.ホッフマン」氏が
名古屋にみえた。○○福祉大学での夏季講座のため。

彼は、音楽を通して、インド人と日本人の国民性の違いを論じ、
日印交流にさまざまな提言を行うことで、慶応大学講師の
肩書きを持ち、日本の各大学や、さらにインド各地で講演を
行っている。すごい人なのだが・・・・・。

「8月20.21日も講座があり、名古屋に来るので、せっかくだから
前日の19日(金)どこかでライブ演奏をやりたい」との相談を受けた。

急のことで無理だと思うのだが、彼は、ゴーイング・マイ・ウエイ。
ネットでインド料理店を検索し、そこへ出向いて、即「了解」を
取り付けてきた。

彼の持論は「インド人は なんでも受け入れがいい。それは
インド音楽の即興性とも関連する。インド人は箏や尺八も
スンナリと受け入れてくれる。だが、日本人は融通が利かない。
閉鎖的」と。

なるほど、日本人は古くから中国や韓国に学び、仏教も道教も、
儒教も、日本の神道や修験道の中に取り込んで、独自の倫理観、
宗教観を構築した。その点では、日本の古代人は寛容で融通無碍
だった。

ところが、江戸時代の鎖国が、日本人を「閉鎖的、閉塞的」にして
しまった。特に、近世邦楽の箏や尺八の世界では、家元制度、
流派の壁がある。

大方の日本人は、「箏や尺八は、もう現代には適合しない」。
「なんで、インド音楽を箏や尺八でやる必要があるのか」という
拒絶心が先に働く。インドの楽器を演奏する日本人でさえも、
「インド音楽はインドの楽器で演奏してこそ、インド音楽」と
思っている。頭が固いのだ。


『邦楽ジャーナル』(2008.11号)で、彼は「インドに好奇心、
日本に警戒心」と書いている。まさにその通り。

彼は、「なんで、日本人は、こんなすばらしいこと(箏)に、
気がつこうとしないのか。関心を持とうとしないのか。
インド人は素直に受け入れてくれるのに」と嘆くが、私も
「日本では無理」と思ってしまう。

「その“無理”と否定する心がイケナイ」と熱っぽく説かれる
のだが。

さてさて、19日、彼はインド料理店でライブをするつもりで
いるが、お店のインド人も「貸切にして、お客がはいらなくては
困る」と戸惑い気味。彼は「尺八と箏でインド音楽、面白い
でしょう。みんな来るよ」と、どこまでも楽観的。私は、
悲観的。はて、結果はいかに。