現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津~高田、坂下(ばんげ)

2011-08-22 20:43:42 | 虚無僧日記
母の実家はすでに無く、「老人ホーム」になっていた。
子供の頃、夏休みには遊びにきて、2、3週間、ここで
従兄弟たちと一緒に過ごしていた。敷地は500坪、部屋数は
50あった。松の木が数本と、石塀がわずかに残り、面影を
留めていた。

思い切って 中にはいり、「虚無僧で、あちこち廻ってます。
入所者の方々に 尺八演奏 いかがですか」と、言ってみたが、
「好きな方と、嫌いな方がいますので」と断られてしまった。
尺八はダメですか。ザンネン。

会津若松市から会津高田に向かう。最近、周辺の町村と
合併して「美里町」になっていた。

伊佐須美神社に詣でる。
「会津」の名は、「古事記」「日本書紀」にすでに出てくる。
紀元前88年(崇神天皇10年)、4人の将軍が東西南北、四方に
派遣された。「四道将軍」だ。そのうちの二人「大毘古命」は
北陸道を北へ進んだ。その子「建沼河別命」は東山道を東へ、
そして、親子が おち会った場所を、「会津」と名づけたという
その故事により、552年(欽明天皇13年)に、大毘古命」と
「建沼河別命」を 合祀したとされている。なんとも古い話だ。

40年前、初恋の人と訪れた思い出の場所。ところが、なんと
社殿は3年前、火災に遭って焼失したとのこと。「お守り」などを
売るお店のご婦人が、いろいろ教えてくれた。これから11年かけて、
これまたビックリ、古代の「出雲大社」に模して、長い梯(階段)を
設け、高さ30mもの社殿を造営するのだそうだ。ほぼ10階建ての
ビルに相当する。観光の目玉になるか。

高田の町を、なつかしい思い出に浸りながら、虚無僧する。

大塚山墓地

2011-08-22 13:13:39 | 虚無僧日記
会津若松駅の北東に「大塚山」がある。ここには
東北最大の140m級の前方後円墳がある。そして
今では「市営」の一大墓地となっている。

私の母方の祖父母と伯父はここに眠っている。
私に尺八を教えてくれた伯父だ。耳鼻咽喉科の医者
だった。墓に行くと、すでに花が手向けられていた。
看護師(婦)をしていた「ゆき」さんだ。
こうして、命日とお盆、彼岸には、今でも墓参りをし、
墓の掃除をしてくれている。

こうした律儀さに、何もお返しできない辛さを感じる。

そのあと、親戚の家々を巡り、何十年ぶりに会い、
私の両親のいろいろな昔話を聞かせてもらった。

なつかしい家々は、見た目にはきれいだった。「震災の
影響は少なかったのか」と思ったら、とんでもない。
壁も屋根瓦も、梁も落ち、改修工事を終えたところ
だという。復興の早さに、感嘆した。


強清水から滝沢旧道を経て会津へ

2011-08-22 13:05:57 | 虚無僧日記
強清水から会津まで、今はバイパスができてすぐだが、
あえて滝沢の旧道を通り、会津に向かう。途中に、
何箇所か、こうした墓碑があるのだ。

滝沢峠には「戦死18人墓」がある。峠から下りてきた
年配の男性に「この近くに戊辰戦争で戦死した人の墓が
あるはずですが」と聞いてみた。「知らない」という。
彼が今通ってきた わずか 300m先の道端なのにだ。

こうして、三箇所の墓を巡り、それぞれの場所で
「手向」を吹く。

会津に戻って「甲賀町の郭門」跡に行ってみた。市内も
どんどん道が整備され、昔の記憶はあいまいだ。ここでも
散歩している人に聞いてみた。「知らない」という。

そこからまっすぐ 300mも行くとあった。大きな石垣が
残っている。この郭門の内側に、江戸時代、牧原邸が
あった。「牧原奇平」の兄「牧原一郎」は 63歳で 隠居の
身だったが、官軍が甲賀口の閣門を突破すると「もはや
これまで」と 自邸で 割腹した。

何年か前、TBS年末時代劇で『白虎隊』があった。
堀内孝夫の『愛しき日々』がテーマソングで歌われヒットした。

あのドラマで森茂久弥が演じた「井上丘隅」は、牧原邸の
隣人で実在の人物。だが「井上丘隅」も甲賀口で討ち死に
しているが、ドラマでは最後まで生き残り、斗南まで行く。

ついでに、スーちゃんこと田中好子が演じた「山本八重子」が
再来年のNHK大河ドラマになる。「新島襄」夫人だ。


さて、その「甲賀口郭門」の牧原邸は「居酒屋」になっていた。
そこの板前さんが二人、外に出てきて煙草を吸っていたので、
いろいろ話しかけてみたが、「全然知らない」と 関心も
なさそう。

もう がっかり。私は、会津でも、もう過去からの亡霊に
なっている。

「風葬の城」会津

2011-08-22 12:49:49 | 虚無僧日記
「大内宿」から会津までは 30km。バイパスが整備され、
意外と早く会津盆地が見えてきた。

内田康夫の『風葬の城』は、会津が舞台。内田康夫は、
4日間、会津を旅しただけで、会津人の気質、観光地を
すべて把握し、この推理小説を書いた。その構成力には
感心する。

登場する女性は、勤務地は会津だが、家は「大内村」と
なっている。当時の感覚では、「大内村」から会津まで
毎日通勤するのは無理な話だった。そんなことおかまい
なしに設定することに感心するのだ。テレビドラマにも
なった。大内村はシチュエーションとして最高だ。

だが、美人OLの住まいが「藁葺き屋根の純農家」という
のは、会津人としては“気恥ずかしい”。あれを見た人は
「東北は、貧しい未開の地」と思われたことだろう。

「風葬の城」とは、戊辰戦争で戦死した遺体は埋葬される
ことを許されず、野ざらしにされたことからの「題」だ。

大内宿から会津に行く道路沿いにも「戦死者の碑」があった。
今回の私の旅も、戦死した先祖の慰霊の旅。

「大内こぶしライン」という新道を走っていたら「美里町」の
標識。「美里町」は「会津本郷」や「会津高田」などが
町村合併してできた新名。そんなこと“知んめい”私。

どうも旧名でないと方向が判らない。まもなく、見覚えの
ある墓地。なんと我家の墓地ではないか。墓地のすぐ脇を
新道ができていたのだ。もうビックリである。

墓参りをして、墓誌をチェックする。ここは、明治以降、
私の曽祖父の代からの人が眠っている。江戸時代以前の
墓は、会津盆地の東「大窪山」にある。

盆地の東側の「小田山」から「青木山」「大窪山」一帯は、
江戸時代の初め、保科正之入封の時から「会津藩士の墓地」と
定められ、何千という墓が、山の中にあるのだ。しっかり
子孫によって整備されている墓もあるが、多くは 子孫も絶え、
草木に覆われ 荒れ果てている。

私の家の先祖の墓も、子供の頃、伯父に連れられて墓参りに
来。その後、二度ほど訪れているのだが、藪に覆われて、
見つけることができなかった。今回、山中を駆け巡り、
30分ほどして ようやく見つけた。

そして、猪苗代方面に行き、強清水にある「牧原奇平」の
墓に詣でる。「牧原奇平」は、すでにだったが、「官軍迫る」の
報に、白虎隊たちとともに戸の口原に向かった。会津藩兵は、
日光、越後方面に出払っていて、城下には正規軍は居なかった
のだ。牧原奇平は、僧侶や相撲取りを狩り集めて出陣した。

しかし、鉄砲の扱いも刀も握ったことの無い兵だから、
官軍の大砲の音に、一目散に逃げてしまった。牧原奇平は、
戸の口を防ぎきれなかった責任をとって、その場で割腹して
果てた。

遺骸は、野ざらしにされていたのを、村人が街道脇に埋葬して
くれていた。それが判ったのが、50年前、私が中学の時だった。

墓に名前は無かった。他の戦死者と合葬して、「十二人墓」
としか記されていないのだが、村の古老の言い伝えで
「牧原奇平」他が埋葬されているとのことだった。