現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

のぼうの城 「忍城」

2011-08-20 22:44:23 | 虚無僧日記
青梅から北へ、行田市に行く。ここは、青梅鈴法寺の虚無僧
「月山養風」の父「秋山惣右衛門」がいた「忍城」があった所だ。

忍城」は、秀吉による小田原北条攻めの際、北条方の城として
「石田三成」に攻められる。その攻防を描いた映画「のぼうの城」が、
この秋封切られる予定だったが、震災の影響で来年に延期された。

延期の理由は、「忍城の水攻め」が、津波に遭われた被害者の
心情を傷つけるのではという配慮らしい。

行田市は、三階櫓を復元し、「おもてなし武将隊」を編成して、
「のぼうの城」で、観光PRに力を注いでいる。だが、虚無僧
になった「秋山」氏については、ご存知ないようだ。

「忍城」落城後、城主「成田」氏の一族が、蒲生氏郷に従って
会津に行き、その子孫は、会津に続いている。

さて、行田から幸手を廻ったが、「虚無僧」に関連する手がかりは
得られなかった。

青梅・鈴法寺跡

2011-08-20 02:15:05 | 虚無僧日記
虚無僧寺を統括する本寺の「鈴法寺」は、江戸から
数十キロ離れた「青梅」に在った。東京の西はずれだ。

ここには、過去何度も訪れている。今は「公園」として
整備され、ネットでも数多く写真がアップされている。

「鈴法寺」が青梅に建てられた経緯は、旧家の吉野家に
伝わる古記録から明らかにされている。

吉野家の先祖「吉野織部之助」は、後北条氏の家臣で、
行田市の忍城主に仕えた武士であったが、落城後、
青梅に新田を開拓して、その名主となった。ある時、
かつて忍城で戦死した同僚(秋山惣右衛門)の子(惣太郎)に
出会う。父を失った惣太郎は、虚無僧となり「月山養風」と
号し、葦草村(いぐさむら=川越市)に住んでいるという。

そこで、吉野織部之助は、かつての同僚の倅でもあり、
開拓地の66区画の屋敷割りの中から三区画を寄進し、
鈴法寺を建て、庇護したという。

これほどまで具体的に経緯が明らかになっているのは
稀有だが、落城時「惣太郎」は5歳くらいの子供だった。
それが成人して、道で会って「やぁ、なつかしい」と
判るものなのだろうか。惣太郎の虚無僧の師はいないのか。
川越の葦草に居た時も「鈴法寺」だったのだろうか。
いろいろ疑問が残る。


さて、その「鈴法寺」の歴代住職の過去帖が残されているが、
生歿年が 全くデタラメなのだ。年号が、鎌倉時代だったり、
次は江戸の初め、かと思うと室町の年号だったり、時系列に
そろっていない。ただ知っている年号をアトランダムに
書いたとしか思えない。

まともに取り合っていると、チンプンカンプン。「虚無僧の
出鱈目」ここに極まれりなのだ。
先を急ごう。


『喪われた道』 塩山~青梅

2011-08-20 01:11:10 | 虚無僧日記
推理作家・内田康夫の『喪われた道』。

青梅山中で虚無僧の絞殺死体が発見された。「今時、虚無僧なんて
いるの?」と、虚無僧研究会を訪ねる。そして「今時の虚無僧は、
普通に仕事をしていたり、定年退職しての旦那衆ばかり」と聞く。

被害者の前職から、意外な事実が浮かび上がる。そして、伊豆の
修善寺と山梨の塩山~青梅に至る「鎌倉街道」があったことを
突き止め、被害者は、修善寺で殺され、青梅まで運ばれたと
推察するのだ。

伊豆の修善寺には「瀧源寺」という虚無僧寺があった。
内田康夫は、塩山の「向嶽寺」のことは知らなかったようだが、
伊豆と甲州と青梅には虚無僧寺があった。その3点を結ぶ
ルートと、もひとつ、金鉱の中の埋められた坑道が、
トリックになっている。その二つを結びつける発想がすごい。

『喪われた道』はテレビドラマ化もされ、虚無僧研究会も
協力、出演した。室内でも 天蓋をかぶって尺八を吹奏する
など、珍妙な光景もあったが、虚無僧を世に知らしめて
くれた。

さてそこで、塩山から青梅に抜ける道、国道411号線を
走行してみた。柳沢峠を越えて、奥多摩湖、「小河内ダム」を
経て、青梅に至る。すごい山道だが、車は走りやすい。
こんな道があったとは、と興奮する。虚無僧にはもって
こいの街道だ。

ところが、帰宅して ネットを検索して知った。江戸時代の
旧道は、南の「大菩薩峠」を越え「小菅村」に至る、ものすごい
難所だったと。

大菩薩峠といえば、中里介山の未完の長編『大菩薩峠』。
映画化もされ、「虚無僧姿に身をやつした机龍之介(市川雷蔵)が
カッコイイ」と、これで虚無僧に憧れた人も多かったのだ。

大菩薩峠の麓の村が「小菅村」。「虚無僧研究会」会長で
法身寺のご住職が「小菅大徹」師。関係・・・ある?

甲州乙黒明暗寺

2011-08-20 01:11:00 | 虚無僧日記
甲府駅の南 乙黒に、虚無僧寺の「明暗寺」があった。
40年前、尺八仲間に「乙黒」さんという人がいた。
「甲州乙黒の出身」という。そして そこに「明暗寺」が
あったとも聞いていたが、「今は何も残っていない」
ということだった。

旧「中巨摩郡玉穂町」は 今 合併して「中央市」。
どんどん町名が変わるので旧名ではナビも出ない。
さんざん探し回って「史蹟甲州明暗寺跡」と書かれた
碑を見つけた。

ネットで検索すると、「玉穂町」で いろいろ調査し、
虚無僧を顕彰してくれているそうな。

この「明暗寺」の開山「来輝明雲大居士」は「天正
3年(1575年)に死去」という。

京都の明暗寺は、寛永4(1627)年、京都所司代
板倉重宗の配慮により、妙法院の一部、わずか
45坪を借りて建てられた。「妙法院」内だから
だろうか、当初は「妙安寺」だった。

となると、甲州「明暗寺」の方が、京都より50年
以上も古いことになる。ま、虚無僧の伝記は、
ほとんど 嘘 でたらめだから、これを検証するのは
難しい。

甲府の北「塩山」(こちらも「山梨市」になって
しまったが)、ここには「向嶽寺」という「法燈派」の
名刹がある。塩山と言えば「恵林寺」が有名で、その
「恵林寺」に隠れてあまり知られていないが、
「向嶽寺」は なんと「紀州 興国寺」の3世
「抜隊得勝」(1327~1387)の出身地であり、開基の
寺なのだ。

そして、塩山から東京の西、青梅に抜ける鎌倉街道が
あった。青梅には、虚無僧本寺の「鈴法寺」がある。

このルートに着目して、内田康夫の『喪われた道』が
書かれた。作家とは、すごい推察力だ。私にも、
推察力があれば、「向嶽寺」と「鈴法寺」と「明暗寺」
の関係を解き明かすことができるのだが。