現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

白河~大内宿

2011-08-21 14:22:57 | 虚無僧日記
行田から加須に抜け、東北縦貫道を通って「白河IC」で出る。
慶応4年4月、ここで、奥羽征討軍との攻防戦があった。

東軍の戦死者は700名に対して、西軍はわずか16名。圧倒的
「火力」の差だ。白河城内や稲荷山の古戦場を初め 30カ所に
「墓碑」がある。東軍の遺体は多く川に流されたと云われ、
「墓碑」は後年作られたものだ。

わが家の先祖も一人、ここで戦死しているのだが、どこで
戦死したのか、墓誌に名前も無い。白河城と稲荷山に詣でた
だけで、心残りだったが、甲子温泉を経て「大内宿」に向かった。

ここは、会津と日光を結ぶ「会津西街道=日光街道」の宿場
だったが、江戸時代の初めには、参勤交代も白河へ抜ける
街道を通るようになり、時代に取り残された村となった。

40年ほど前だったか、一カメラマンが、この地を訪れ、写真に
撮り発表したことから、マスコミの注目を浴びることになった。
村は、開発か保存かで揺れ動いたが、昭和56年(1981)に
宿場町としては 妻籠宿、奈良井宿に次いで 全国3番目に
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、コンクリート
舗装や電信柱を撤去し、トタン屋根を茅葺に替え、観光地と
して売り出すことになった。タイム・スリップしたような
異次元の世界が、今では人気スポットとなっている。

それぞれの店が「蕎麦」や「団子」「岩魚(いわな)の塩焼き」を
供し、土産物を売る「店」として、賑わっていた。

看板で目についたのが「高遠蕎麦」の表示。そう、保科正之が
信州高遠から転封となった時、高遠から蕎麦を伝えたという。

今回の旅で、先に「高遠」に寄ってきたが、そこの「お巡りさん」が、
「高遠に『高遠蕎麦』は無い。あれは会津で売っている蕎麦。
保科正之が 蕎麦の種や蕎麦打ちの道具、職人まで、根こそぎ
持っていってしまったから、一時期、高遠には蕎麦が無くなった」
と話してくれた。


大内宿の入口で、虚無僧姿で尺八を吹く。その後、宿場を往復
してみた。「馬籠」と違って、初めて見る虚無僧にどう対処して
いいのか、戸惑っている様子だった。映画のセットに エキストラの
通行人が歩いている感じだったかも。