現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津の旅 総括

2011-08-23 14:44:11 | 虚無僧日記
子供の頃から大学4年まで、毎年、夏休みには、
会津に行き、戊辰の戦跡や、神社仏閣などを
巡っていた。

私の記憶は、40年前に止まっている。私の人生も
40年 止まっていたように思う。40年前のことは
鮮やかに甦るのだ。

会津も、新しい道は、いくつもできていたが、
過疎化と産業や観光の停滞は続き、40年、時間が
止まっているようだ。

今回の震災、原発問題で、会津も避難民を受け入れ、
賑わっているかと思ったが、工場を誘致するために
田んぼを埋めたてた「工業団地」の空き地が、
避難民の仮設住宅になっていた。田んぼの中に
隔離された場所だ。それを見て、愕然とし、言葉を
失った。

我々会津人にとっては、下北に移住した時の、絶望の
思いが甦ってくるのだ。でも、祖先たちはみな、
なんとか食いつなぎ、頑張って成功し、今日に命を
つないできたのだ。

今日は、8月23日、白虎隊、そして牧原一郎、奇平
他が自刃した「命日」だ。すぐそんなことが頭を
よぎるが、今回の旅を最後に、過去を吹っ切りたい。


思い込み

2011-08-23 14:33:32 | 虚無僧日記
ラジオで、ある落語家の噺に、多いに笑えた。

坂道をね、重い荷物を積んだ大八車を曳いて、上っていく
親子がいた。前で引っ張っている人に

「後ろで押してるのは息子さんですか?」と訊いたらね、
「そうです」と云う。
そんで、後ろに廻って、後ろで押している子に
「前にいるのはお父さんかい」と訊いたら、「違う」って
いうんだよ。

変だねぇ。「後ろにいるのは息子さんかい」と訊いたら
「そうだ」。でも、後ろの子に「前にいるのは お父さん
かい?」と訊いたら、「違う」って。ややこしいね。

いいですか。・・・・。

(一瞬の間(ま)があって、私も考えこんでしまった。すると)

後ろの男の子に もう一度聞いてみた。「前にいるのは
お父さんじゃないの?」そしたらね・・・・・

「お母さんです」

そこで観客は大笑い。

つまり「大八車を曳いているのは“男性”=父親」という
先入観、思い込みがあるんですよ。これが怖いですね。

という噺。
「会津なんかの山奥に 平安時代の仏像なんかあるはずがない」。
「猪苗代湖ができたのは、磐梯山の噴火があったからだ」も
皆の“思いこみ”なのだ。

猪苗代湖の謎

2011-08-23 14:05:26 | 虚無僧日記
会津のガイドブックには、一様に「猪苗代湖は、
平安時代の初め、大同元(806)年に、磐梯山が
爆発して、堰きとめられてできた」と説明している。

その根拠は、江戸時代に書かれた『新編会津風土記』だが、
原文を読むと「その年、1年中 天地揺れ、暗雲たれこめ、
村々が水没した」とある。つまり、「磐梯山が爆発した」
とは、書いてない。今回の大震災同様、大地震が1年もの間
続いたのだ。そして、猪苗代湖周辺が地盤沈下したのだ。

磐梯山は、明治21年に大爆発し、裏磐梯で崩落が起きて、
村が埋没し、川が堰き止められて、五色沼や桧原湖、
小野川湖、秋元湖ができた。

地質調査でも、明治の爆発以前の古い地層からは、
火山灰や火山岩、溶岩などが見つからないため、
平安時代に磐梯山が爆発した痕跡は無いのだが、
「明治の爆発」から単純に、そう思い込んでいるのだ。

このことは、私は、中学の時の「夏休み自由研究」で
発表したが、未だに「磐梯山の噴火」とされている。


法用寺、龍興寺、そして勝常寺

2011-08-23 14:05:17 | 虚無僧日記
会津は、戊辰の史跡だけでなく、平安時代の仏教文化を
今に伝えていることでも、特異な地域なのだ。高田の
「法用寺」には、平安時代後期の「仁王像」がある。
平安後期のものは、他に現存していない貴重なもの。

同じく高田の「法幢寺」には「善光寺式阿弥陀三尊像」が
ある。「善光寺式」というのは、「阿弥陀如来」とその
両脇に立つ「観音・勢至菩薩」の「三体」で 一つの光背を
共有している形式。善光寺と同じものが会津にあったのだ。

また「龍興寺」は、平安時代の「一字蓮台法華経」が
伝存している。7万字もの一文字ずつに極彩色の蓮の華が
書かれた珍しいもので、これも「国宝」指定。

この「龍興寺」は、これまたなんと「天海大僧正」生誕の地。
「天海」は、徳川家康のブレーンとして暗躍し、「明智光秀
ではないか」とも噂されているが、会津高田の出身である
ことがわかり、「光秀=天海」説は否定された。

 
そして 究めつけが 湯川村の「勝常寺」。本尊の「薬師如来」と
両脇侍の「日光、月光菩薩」はじめ、9体の仏像が、平安
時代初期のものとして「国宝」に指定されているのだ。

「平泉の中尊寺」が「世界の文化遺産」に認定されたが、
会津の仏様は、平安末期だから、平泉より3百年も古い
のだ。

実は、私の卒論が「会津嶺の国」。「会津」は、山深い
東北の片田舎と思われているが、「古事記」「日本書紀」に
早くもその名が見られ、平安初期には「恵日寺」や「勝常寺」
をはじめいくつかの寺院が建てられ、平泉より300年も昔に、
仏教文化が、花開いていたのだ。

しかし、文化庁のお役人は「会津なんか東北の田舎、平泉
以前に、そんなものがあるはずが無い」との偏見で、これらの
仏像を全く無視してきた。勝常寺の仏像が「国宝」に指定
されたのは、私が卒論で発表してから30年も後、ほんの
10年前なのだ。

しかも、東日本の仏像が「国宝」に指定されたのは、これが
最初のことだった。

勝常寺も私の遠戚になるのだが、40年ぶりの訪問だ。私の
知っている住職はすでに他界され、私を知らないご婦人が、
とうとうと弁舌さわやかに「勝常寺」のガイドをしてくれた。
勝常寺の仏様への厚い思いが伝わり、感動。