朋友「竹内氏」からの電話がありました。
ある尺八の会で、奏者が尺八を鳴らそう
鳴らそうとしていて、気の毒だった。
それにくらべ、「志村禅保」師の吹禅
尺八は、吹いて聞かせようというのでは
なく、奏者自身が“竹の音を聞く”と
いう姿勢だったと。含蓄のある話です。
「古管」や「地無し管」は、竹一本一本に
個性があり、“音”を持っている。その、
竹の“音”を引き出してあげる。奏者も
自分の音ではなく、「竹の音」を聞く
くらいの心が必要だというのです。
私も最近そのような気持ちになって
きました。「竹の音」「竹の声」を聞く
というのでしょうか。
だから、尺八家は、何本もの尺八を
欲しくなるのでしょう。
ある尺八の会で、奏者が尺八を鳴らそう
鳴らそうとしていて、気の毒だった。
それにくらべ、「志村禅保」師の吹禅
尺八は、吹いて聞かせようというのでは
なく、奏者自身が“竹の音を聞く”と
いう姿勢だったと。含蓄のある話です。
「古管」や「地無し管」は、竹一本一本に
個性があり、“音”を持っている。その、
竹の“音”を引き出してあげる。奏者も
自分の音ではなく、「竹の音」を聞く
くらいの心が必要だというのです。
私も最近そのような気持ちになって
きました。「竹の音」「竹の声」を聞く
というのでしょうか。
だから、尺八家は、何本もの尺八を
欲しくなるのでしょう。