現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

異変 蛙がいない

2008-06-10 09:18:59 | 虚無僧日記
新しく合併でできた「北名古屋市」に行った。
まだ田んぼも残るのどかな町。田植えが済ん
だばかりの田んぼを覗く。畔道や用水路を見
るのが好きなのだ。何か生き物がいないかと。

ギョギョギョのギョ。おたまじゃくし一匹いない。
5年前来た時は、この用水路で、どじょうや鮒
を捕まえた。蛙もザリガニもタニシもたくさん
いた。これは一体どういうことなのか?まさか、
農薬はもう使ってないはずだが。

しばらく歩きまわって、畔に動くものを見つけた。
殿様蛙だった。これは珍しい。もう絶滅寸前の
はずだ。貴重な一匹、捕まえるのはやめた。

COP10(こっぷてん)とか、なにやら松原名古屋
市長が張りきっとった。「自然と共生の万博」後
の目玉にするとか。絶滅危惧種の保存だそうな。

生き物のいない川は、つまらんからね。

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異変 道路ガラすき

2008-06-10 09:03:40 | 社会問題
6月に入ってガソリン高騰とともに、車の
通行量が減った。普段の三分の一か。
いつも渋滞する場所もスイスイである。
日曜も行楽渋滞無くスイスイ帰れた。
ありがたい。
かくいう私、週1回のペースでガソリンを
入れている。1回1万円近い。月4万か。
“ギョッ”である。

車が減った代わり自転車が増えた。広い
交差点も信号無視してスイスイ。やばい、
事故が増えそう。気をつけよう。

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6月から自転車も『道路交通法改正』で
厳しくなった。雨の日、傘をさしての
片手運転。子供を前後に乗せての走行。
みな禁止。昨日の新聞に『自転車でひき
逃げ逮捕』。今年2件目だそうだ。

無灯火もどんどん取り締まって欲しい。

松平容保(かたもり)

2008-06-09 11:22:55 | 会津藩のこと
ついでに、もうひとつ、『会津ほうぎょく館』という
サイトから、「会津藩主松平容保(かたもり)の逸話。

容保は、尾張徳川の分家高須松平家から会津に養子に
はいった。尾張徳川義勝と桑名松平定敬と兄弟になる。
三人は仲が良かったのだが、戊辰戦争ではからずも、
尾張は官軍に付き、敵味方となる。戦後(会津人に
とって戦後とは戊辰戦争後のこと)、明治になって、
三人の兄弟がおち合った。その時、長兄の義勝が容保に
「尾張徳川家を継いでくれと」と話を切り出した。
容保はそれを受けず、黙って帰宅した。後に家臣に
語っていうには「3000人の家臣が亡くなり、残された
者も路頭に迷い、辛酸を舐めることになったのは、
自分の不徳の致すところ。自分だけが、会津を捨てて
尾張に戻るわけにはいかない」と。

その後、容保の孫娘が尾張徳川家に嫁ぎ、その娘婿が
尾張の当主になった。また、同じく孫娘勢津子は
秩父宮妃に、ひ孫は、現在徳川宗家を継いでいる。
すごいことになっているのだ。

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殿様扱い

2008-06-09 11:06:50 | 虚無僧日記
「平維茂」を検索して「会津呆ぎょく館」というサイトに
ぶつかった。松平容保(かたもり)のその後の話が
載っていた。幕末最後の藩主であり、朝敵となって
ひっそりと身を隠すようにして過ごされていた時の
ことである。

明治8年、戊辰戦争で亡くなった3,000名の藩士の
慰霊祭が、容保公をお迎えして、しめやかに行な
われた。久々に顔を合わせる主従。慰霊祭の後、
食膳と酒も出された。
食膳といっても粗末なものだった。これでは殿様に
申し訳ないと、家臣どもは、精一杯の金を出し合って、
殿様の前に料理を差し出した。

しかし、宴が始まっても、容保公は箸を付けられない。
もともと寡黙な方である。じっと下を向いておられた
まま。
元家老格の者が、御前に出て、「このような粗末な
物しか用意できずに申し訳けありません」と頭を下げると、
公は「私の膳も皆と同じものにしてほしい」とポツリ。

これには居並ぶ元家臣一堂、涙滂沱であった、と。
私も泣けた。そのような藩主だから皆命捨てて戦った
のだ。わが一族でも8名が戦死している。

私も詩吟の会などでは、私よりはるか年上の方々から
「先生、先生」と呼ばれ、昼は会議室で折り詰めの
弁当をご馳走になる。会員はと見ると、ホール内では
飲食禁止のため、通路や階段に腰を下ろして、助六か
いなり弁当を食べている。「私もみなさんと一緒でいい
ですよ」とは言うのだが、いつも甘んじて受けてしまう。
もう料理は食べ飽きた。虚無僧の私には、おにぎり一つ
あればいい。心痛む。

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平維茂(これもち)

2008-06-09 09:55:07 | 虚無僧日記
朝起会のご本読みで『余五将軍平維茂』の話が出た。
信州戸隠の鬼女退治の伝説で、能や歌舞伎の『紅葉狩』
の主人公だが、正歿年など詳しいことは不明である。

その墓というのが新潟県の三川村にある。ネットで
検索すると出てきた。

『平等寺』境内の『将軍杉』は維茂の墓所として伝え
られ、樹齢1400年、幹周り19mで、屋久島の縄文杉を
抜いて、日本一」とのこと。
「1995年から3年間に渡って、この将軍杉の幹から
“濁り酒”が噴出し話題になった」そうな。
“ヒェー”である。

実は私は40年前、初めて虚無僧の旅に出、新潟県の
新津から会津に向かう途中、ここを通っていたのである。
なつかしく思いだした。三日三晩野宿しながらの旅で
ヘトヘトになって、この平等寺で休んでいると、声を
かけられた。尼寺だった。庫裏に上げていただき、
「ここは平維茂の開基で、平家の郎党(等)を祀ると
いう意味で『平等寺』と名づけられた」というような
お話を聞かせていただいた。そして、「尼寺ですので
泊めることはできないが、せめて」と、大きな握り飯
を三つこしらえてくれた。
それを大事に腰にぶらさげ、炎天下を歩く。一日一個
食べ、三日目には最後のおにぎりが糸をひいてきた。
それでも捨てては罰が当たると思い、無理して食べた。

お釈迦様も最後の旅で出されたキノコ料理を、危ない
と知りつつ食し、それが元で亡くなられた。死を覚悟
して、あるがままに受ける修行である。

幸い私はなんともなかった。以来おにぎりを食べるたび
に平等寺の安寿さんのことを思い出す。私の虚無僧人生
の原点だ。

6/8 刈谷で詩吟の会

2008-06-08 20:05:55 | 虚無僧日記
刈谷市の公民館で「愛知県吟武道文化連盟」
の「一吟研修会」。名前はすごいが、わずか
6団体で出吟者は58名。一団体、会員は10名
たらずと情けない。昨日の琵琶楽協会同様、
風前の灯。

もう10年以上のおつきあい。この10年で3人の
会長が亡くなり、今日はお2人体調すぐれず
欠席。ここでも私が最年少。ご老人が一生懸命
机や椅子を運んでるのをみて、手伝わないわけ
にはいかない。とにかく、尺八も後期高齢者
へのサービス事業だ。

今朝の朝起き会で「“はたらく”とは“はた”を
ラクにすること」と、学んだ。「“難有って”も
ありがとう」とも。
みなさんに楽しんでいただければいい。そんな
気持で、伴奏をさせていただく。そしてしっかり
謝礼をいただいた。ありがたい、これで父の
墓参りに行ける。

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宮城道雄慰霊碑に詣でる

2008-06-08 19:48:15 | 虚無僧日記
6/8 刈谷での詩吟の会の後、刈谷駅近くの
『宮城道雄慰霊碑』に行ってみた。20年前、
豊田病院内でのイベントに参加した帰り、
タクシーの運転手に「宮城道雄遭難現場に
案内してくれ」と頼んだら「知らない」との
返事で断念していた。

東海道線で刈谷駅を通過するとすぐ、ガード
をくぐる。そこが転落現場だということは
知っていた。検討をつけて道路から私道に
入って見つけた。道路に案内標識も無いので、
タクシーも知らないというのもうなづける。

100坪ほどの空き地内に「慰霊碑」があった。
宮城道雄は、列車から転落してもなお半日は
意識があった。亡くなったのは刈谷市豊田病院。
すぐ近くに看板が見える。

だから、ここは亡くなった場所でも墓地でもない。
宮城道雄の霊が宿る場所ではないのだが、『手向』
と『春の海』を献奏した。心なしか、宮城道雄の
応援もいただいて、音は一段と響き渡った。

S31年、6月25日、まもなく命日。もう52年、
半世紀を過ぎたのだ。

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鶴田浩二

2008-06-08 09:17:28 | Weblog
鶴田浩二を検索して「1987.6.16 癌で亡くなる 62歳」とある。
あれれ?? 2005年のNHK朝ドラ「私の青い空」で
売れない歌手役で好演していたのは鶴田浩二だと思ったが。
あの当時「あれ、懐かしい、まだいたのか」という思いで、
毎朝みていた。でもその20年前にすでに亡くなっていたこと
になる。「私の青い空」で出演していたのは誰?。
ネットで検索しても、NHK朝ドラの歴代リストが出てこない
というのも意外。誰か教えて!

 答え:7/8ネットで判明。「宝田明」でした。すみません。


鶴田浩二は、大正13年生まれ、母と同じだ。存命なら84歳。
1961年『鳴門秘帖』の虚無僧法月弦之丞役だった。この映画
のおかげで、虚無僧といえば「白面の貴公子、美男でおわす」
だったのだが。今鶴田浩二を知る人も少なくなったか。
ざんねん。

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傷だらけの人生

2008-06-08 08:34:15 | Weblog
鶴田浩二の『傷だのけの人生』

古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを
欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。
生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。

何から何まで真っ暗闇よ、筋の通らぬことばかり
右を向いても左を見ても 馬鹿と阿呆(あほう)の絡み合い
どこに男の 夢がある。

好いた惚れたと けだものごっこが罷(まか)り通る世の中でございます。
好いた惚れたは もともと「こころ」が決めるもの。……こんなことを
申し上げる私も やっぱり、古い人間でござんしょうかねえ。

一つの心に重なる心 それが恋ならそれもよし
しょせんこの世は 男と女 意地に裂かれる恋もあり
夢に消される意地もある。

なんだかんだと お説教じみたことを申して参りましたが、
そういう私も 日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く
馬鹿な人間でございます。

まっぴらご免と 大手を振って歩きたいけど 歩けない。
いやだいやです お天道様よ 日陰育ちの 泣きどころ、
明るすぎます おいらには。


なぜかおいらはこの歌詞が好きだ。虚無僧にピッタリだ。

1971年のヒット曲だから、もうかれこれ40年前になる。
この前年には『同期の桜』がヒットした。70年安保で
荒れた時代に、堂々と右翼の旗を振った。
任侠物、戦記物で右翼のシンボル的存在かと思いきや、
山口組からの興行依頼を断って、襲撃されたとか。
「特攻隊生き残り」というのも、実は整備兵だったと
非難も浴びたが、反論することなく、黙々と稼いでは、
巨額の私財を投じて遺骨収集を行なっていたとか。
彼が出演した戦記物の映画は、戦争で散った兵への挽歌
であった。鶴田浩二は「反戦右翼」だったと、今、ネット
で知る。

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帽子はファッション?

2008-06-08 07:44:14 | 心の問題
長野オリンピックで金メダルを獲った若い
女子選手が、表彰台で「君が代」が流れて
いる時、帽子をとらなかった。その画面を
見て私はテレビに物を投げつけて「帽子を
とれ!」と怒鳴った。
翌日「IOCから本人に注意があった」という
記事が、新聞に小さく載ったが、それに対
して、「頭が古い」と非難する声の方が多く
載せられ、私は愕然となった。
「こういう私は、古い人間なんでしょうかねぇ」。
これは鶴田浩二の『傷だらけの人生』のセリフ
だったっけ。もう誰も知らない?。

あれから10年以上が経ち、今ではテレビ
でも、スタジオ内で帽子をとらないタレント
をよく見る。若者だけじゃない。

NHKの「先輩さんいらっしゃい」という
番組で、有名写真家の立木氏が野球帽を
被ったまま教室に入っていく場面があった。
学校では生徒に帽子をとるよう教えている
はずだが、子供の目にはどう映ったか?

私の公演でも、来聴者で帽子を被ったままの
お年寄りをみる。「禿げ頭を隠す鬘代わりと
思えばいいか」と、昔ほど腹は立たなくなっ
たが、時の流れ、流行に追いつけない複雑な
気持だ。

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