現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

桑名 諸戸邸「六華苑」

2013-03-08 12:41:40 | 「八重の桜」
桑名城の北 300m、伊勢湾に面して「六華苑」という
広壮な邸宅があります。桑名の実業家「諸戸清六」の邸宅で、
明治44年に着工、大正2年に竣工したものです。
日本家屋は岐阜県海津町の「高須藩」の陣屋を移築したもの。

洋館部分は、鹿鳴館等を建てた「ジョサイア・コンドル」の
設計。洋館と和館は国の重要文化財に指定されています。
現在、桑名市の所有となり、「六華苑」として公開され、
琴の演奏などのイベントが開催されています。昨年と今年の
正月、鈴花がここで琴を弾きましたので、見に行きました。

諸戸家は 信長の時代から、木曽崎の庄屋でしたが、初代
清九郎が始めた塩問屋に失敗して 身代を潰した事から、
弘化4年(1847年)桑名に移住。


安政7年(1860年)に父・清九郎が亡くなった為、
「清六」は18歳で家督を継いだ。その時の家財は
わずかな布団や衣類などで、借金は千両以上あったと言う。

清六は、寝る間も惜しんで 米の仲買に励み、僅か3年で
借金を完済。明治9年(1876年)の西南戦争で、軍用御用
(兵糧調達)を勤め、多くの政府要人や岩崎弥太郎の
信頼を得て、明治11年(1878年)には大蔵省御用の
米買付方となった。

借金返済にあたって自ら定めた「心得二十カ条」では、
時間を無駄にする事と、無駄金を使う事を極端に戒めている。

・熱き飯は食ふに手間取り時間を空費するゆえ、飯は冷飯にすること。
(まさに“冷や飯喰い”の生活だった)

・ 昼飯は一口に食し得る程の握り飯 二、三個を作りおき、
 其の場にて用向きの隙間に食すこと。
(私も、昼食はおにぎり一個。3分)

・ 多忙の時は食せざること。一、二度の食事を省きて
 空腹を覚ゆるようにては 金は儲らぬと知るべし。

などと記している。私も 金貯まるかな?



桑名の殿様

2013-03-07 16:27:36 | 「八重の桜」
名古屋から木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)を
越えれば 桑名です。今はJR東海道線が、名古屋から
北に岐阜方面へ向かうため、忘れられがちですが、
桑名は 東海道の宿場町でした。

名古屋の熱田の「宮」から 桑名の「七里の渡し」までは、
伊勢湾を 船で渡る海上航路でした。「七里」ですから
28km。船に揺られて4時間。女性にとってはトイレを
我慢しなければならず、船酔いもするし、苦痛の難所だった
ようです。

三代将軍「家光」が上洛の際、家光が船酔いを嫌ったのと、
警備上の問題で、陸路の佐屋街道が設けられたのでした。

「その手はくわなの焼き蛤」。桑名といえば蛤。
ま、それぐらいが有名で、桑名藩のこととなると、
会津ほど話題にはなりません。

私も、桑名藩主は、寛政の改革の「松平定信」の系譜とは
知りませんでした。「松平定信」は福島県の白河藩主で
「白河公」と呼ばれていました。

『桑名の殿さま ヤンレー ヤットコセー ヨーイヤナ
桑名の殿さん 時雨で茶々漬 ヨーイトナー アーレワ
アリャリャンリャン ヨイトコ ヨイトコナー」と歌う
民謡の「桑名の殿様」は、「松平定信」のこととも、
いやいや、明治のお大尽(豪商=諸戸清六)のこととも。

東京の料亭で盛大な酒宴を行い、芸者衆と大いに遊んだ
桑名の大旦那衆が、宴会の最後に桑名名産の「時雨蛤の
茶漬け」を食べた様を唄にしたのが『桑名の殿様』だそうです。

松平定敬は「松平定信」の子孫?

2013-03-07 15:04:23 | 「八重の桜」
琴古流尺八の大家「三世荒木古童」の門弟に
「松平定敬」の写真があり、説明書きに
「松平定信の孫」とありました。顔から
察するに「桑名藩主・松平定敬」のようです。

「松平定信」は(福島県)白河藩主で、寛政の
改革を行った人として有名です。

「松平定敬」は美濃の高須松平義建の子ですから、
「松平定信」と血はつながりません。

Wikipediaで調べてみました。

桑名藩主は、本多、久松松平、奥平、そして
再度、久松松平と4度藩主の国替えがありました。

白河藩主だった「松平定信」は寛政の改革の後、
失脚し、家督を「松平定永」に譲り、桑名への
国替えを幕府に願い出ます。

「定信」自身は桑名には赴かなかったようですが、
桑名では今も、「定信」の血筋であることを誇りに
しているようです。

「定信」は、実は8代将軍「吉宗」の孫で、一時期、
田安家を継ぎ、いずれは第10代将軍・徳川家治の後継と
目されていたのでしたが、田沼意次を「賄賂政治」
として批判したため、疎まれて、白河藩2代藩主・松平
定邦の養子とされたのでした。

定信から3代目の松平定猷が死去すると、嫡男「定教」は
まだ幼少であったため、多事多難の折、美濃高洲藩から
「松平定敬」を 初姫の婿養子として迎えたのでした。

鳥羽伏見の敗戦で「定敬」が失踪したため、藩では、
官軍に降服し、先代の実子「定教」を藩主として
お家再興を図った。

会津藩の「容保」も養子でありながら、藩士が主君に
忠節を尽くしたのと対象的に、桑名藩は、養子の殿様を
さっさと放り出してしまった感があります。

でも、実情はもっと複雑で、詳しくはこちら

桑名藩主「松平定敬」

2013-03-07 13:34:04 | 「八重の桜」
桑名の名勝「六華苑(ろっかえん)」は、明治に財を築いた
「諸戸清六」の邸宅で、国の重要文化財になっています。
正月ここで琴の演奏がありました。

その「六華苑」の南 数百mの所に、「九華公園」があります。
こちらが桑名城跡です。(まぎらわしい・・・)

幕末の桑名藩主は「松平定敬」です。尾張徳川の分家、
美濃高須藩主「松平義建」の八男で、12歳の時、桑名の
久松松平家に婿養子としてはいります。「義建」は子だくさんで、
次男は「尾張藩主・徳川慶勝」。三男は「石見浜田藩主・
松平武成」。五男は「御三卿の一橋家当主・一橋茂栄」。
七男が「会津藩主・松平容保」で、九男が「桑名藩主・
松平定敬」。

つまり、会津藩主「松平容保」の弟です。それで「容保」が
京都守護職になると、弟の「定敬」は「京都所司代」に
任ぜられます。この時「定敬」わずか17歳。

慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見で桑名藩は会津とともに
進撃しますが、藩主・定敬は慶喜に強いられて、容保と
ともに江戸に遁走します。

藩主不在で、桑名藩では“お家大事”と、官軍に
降服し、城を焼かれてしまいます。帰る城を失った
「定敬」は、会津から函館まで流浪の身となります。
この時21歳。「松平容保」の名声に隠れて、その
行跡はあまり知られていません。現在の桑名の人たちも
会津ほど、戊辰戦争には関心ないようです。


会津藩、殿様の首と借金問題

2013-03-05 23:47:58 | 「八重の桜」
2009年に書かれた記事。
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会津藩は世の中の流れが読めずに、それに逆らった
ということですね。利発な西国諸藩と、頑迷固陋で
愚鈍な東北諸藩ということですね。地理的特性なのか
風土性なのか教養の違いなのか。

徳川慶喜はすでに恭順の意を示しているのに、容保は
やらなくてもよい戦争をやって、家臣を大勢死なせ、
17歳前後の白虎隊士もたくさん死んで、領民に迷惑をかけ、
自分は日光東照宮の宮司におさまって のうのうと生き延びた。
戦後すぐ、農民たちが暴動を起こしているので、いかに
農民たちからも嫌われていたか判ります。

容保ってホント酷い大名だったのですね。現在の会津市の
人たちや会津ファンの人たちは、そういう真実の歴史を
知っているのでしょうか?
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つい20年前(今もかな?)、高校の日本史の教科書にも
このように書かれてありましたから、一般にはそんな
歴史認識なのでしょう。(そのページを私は破り捨てました)。

「やらなくてもいい戦争」なら、やらなかったでしょう。
慶喜に逃げられて、今さら、徳川に義理立てする筋合いも
なかったのですから。
会津藩が抵抗したのは、「禁門の変」と「長州征討」の
意趣返しで「容保の首を差し出せ」と強要されたからです。
会津藩士5千人が、戦わずして おめおめと殿様の首を
差し出すことなど できようはずもありません。

ま、その結果、3千人の命が失われたのですから、
殿様の首一つと、藩士3千人の命が引き換えというのは、
現代人には理解できないこどなのでしょうか。

会津藩士は、徳川への忠義の為ではなく、武士としての
誇りのために戦っただけです。


また、「会津藩が 降服した後すぐ、農民による
ヤーヤー一揆が起きたことから、会津藩は過酷な
税の取立てをやって、農民達の反感を得ていた」と
いう論調はしばしば見受けられます。

今までの歴史は、人物中心でしたが、最近漸く経済的な
面が研究されるようになってきました。考えてみれば、
会津藩士 1千人が 20日かけて京都まで上るのに、今
のお金に換算して1億円はかかったでしょう。それが、
毎年1千人が入れ替わり、365日京都に駐在するのですから、
その費用だけで 50億。5年で 250億。外国から
2千丁もの鉄砲や大砲、弾薬の購入費用は100億。

長岡藩の河井継之助が購入した「ガトリング砲」は
2門で1万両。今のお金で 50億円ともいわれます。

会津藩は、藩士から給金の半分を借り上げたり、
御用商人たちから350億円もの借金をしています。

現在、会津若松市の歳入が150億円ですから、
その倍以上の借金を抱えることになります。

家老の西郷頼母が、「藩の財政は火の車、会津藩は
滅びる」と訴えるのも切実だったのです。それもこれも
「京都守護職」のお役目ゆえ。

『八重の桜』では、どこまで解き明かしてくれるで
しょうか。





3月4日 NHK FM で放送

2013-03-05 05:57:50 | 虚無僧日記
本日3/4(月)午前11時~、NHK FMラジオ
『邦楽のひととき』で「松の寿」が放送
されました。
録音時、再生チェックがされなかったので、
放送で初めて聞きます。2尺管ですので、
音が重いかと心配していましたが、結構
きれいに流れていました。
私も65歳。半世紀前なら、もう最長老格です。
老練の域に達しても良い歳。気負いなく力まず、
サラリと吹いていました。

過去の放送曲。「熊野(ゆや)」「水の玉」
「春の曲」「秋の曲」「楓の花」「茶音頭」
「新浮船」「千鳥の曲」。そして「松の寿」で
9回目の放送でした。


かつては、「地唄・筝曲は 盲人の音楽なので
色があってはいけない」などと、どれもこれも
ワンパターンの吹き方でしたが、私の師「堀井
小二朗」氏は、「花風鳥月を歌っているのだから、
曲ごとにそのような情緒を醸しださなくては」と
教えてくれました。私の演奏は、常にそのように
心がけてきました。

今「歌舞伎」が熱い

2013-03-04 20:07:46 | プロとアマ
今「歌舞伎」が熱い。
新歌舞伎座の落成を前に、中村勘三郎、市川團十郎の急逝。
それが、大々的に連日ニュースとなった。
人間国宝の「杵屋五三郎」氏の逝去は、訃報欄の片隅に
小さく載っただけだった。その取り扱いの違いは、この
二人の巨匠の生前の活躍度。マスコミへの登場頻度にある。
そして今、市川海老蔵、市川染五郎、中村勘九郎、七之助、
市川中車(香川照之)、市川猿之助(亀治郎)、中村獅童と
いった若手が、どんどんテレビドラマに出演して顔を
売っている。

そうした歌舞伎界のたゆまぬ努力の結果があって、今
ブームを巻き起こしつつある。


「歌舞伎を見に行ったことはありますか?」という問いに

・何度もある・・・・・・・・・・・・・・・35.6 %
・一応ある・・・・・・・・・・・・・・・・・21.2
・ない。興味もない・・・・・・・・・25.2
・ない。けど行ってみたい・・・17.7 (全864票)

そして女子高校生への質問では、7.7%が見ている。
そして、ギャルたちに「若い世代を惹きつけるためには、
歌舞伎に何が求められているのでしょうか」と質問した
ところ。

『(男性)アイドルが歌舞伎に挑戦する』
『イケメンの歌舞伎役者を揃える』
『人気のメンズモデルや俳優が歌舞伎をやる』

といった意見が出た。そう、尺八界もブームを起こすには、
人気のイケメン・スターやアイドル達に「尺八を趣味」に
してもらうことだ。「尾崎豊」の父親が都山流尺八の師範で、
「豊」に影響を与えていたことは、よく知られている。

そして、ギャル達が考える「歌舞伎が若者に支持される
ようになる方法」として意見を求めたところ。

『学校で歌舞伎の勉強をする機会があったら良い』
『歌舞伎鑑賞を 学校の授業や行事に取り入れる』
『ダンスを授業に取り入れるくらいなら、歌舞伎の
舞踊があっても良いかも』と。

そう、慶応の中等部では、四代目市川段四郎、亀治郎
(現猿之助)が、慶応在学中だったこともあって、
歌舞伎鑑賞の日があり、事前に国語の授業で演目の
解説がありました。それで、歌舞伎を身近に感じて
いましたし、慶応高校では「歌舞伎研究会」を立ち上げて
何度か観に行っていました。

名古屋では、御園座が経営赤字で閉館となり、その
最後の公演に出演する「市川猿之助」や「市川中車
(香川照之)」らが会館の周囲を練り歩く「お練り」を
行った。沿道には約3千人が集まり、紙吹雪が舞い、
声援を送りました。

御園座では、「再建したら、出し物は 歌舞伎中心で
いこう」と、歌舞伎ブームに期待を寄せているようです。


3/2 津 本願寺で「ひなまつり」

2013-03-03 22:29:27 | 虚無僧日記
3月2、3日は、一絃琴の真道さんのお寺(津市分部の本願寺)で
「ひなまつり」。今年は「一絃琴」の古典3曲『古代わくらば』
『須賀』『をしどり』に『荒城の月』『平城山』『おぼろ月夜』
『早春賦』他。そしてそれに『御詠歌』が加わりました。

全50分。一絃琴のお弟子さんも一人増えて4人。全曲暗譜です。
そもそも、一絃琴に楽譜は無く、リズムや緩急の速度、“間”を
ピッタリ合わせるのですから、感心します。相当の練習が必要で
しょう。

御詠歌も、私よりはるかにお年を召したご婦人の方々が、
音階とリズムをピタッと合わせられることに驚きです。
真道さんの厳しい指導の賜物のようです。

一絃琴は開放絃をGで合わせ、「D・F・G・A♭・C」の
5音階で、Gが基音ですが、声域に合わせて、一音下げ。
尺八は「2尺管」を使用。

御詠歌は、開放絃をFで合わせ「D・F・G・A・C」の
音階。これは なんと尺八の「ロツレチハ」の音階と同じ
ですが、「C=ハ」が基音。これも半音下げで 尺八は
1尺9寸管を使用。

こんなことも、体験です。













「子育ては家庭で」が倫理

2013-03-01 00:40:32 | 社会問題
「子育て本来家庭で」杉並区議ブログ炎上 待機児童問題(朝日新聞) - goo ニュース

認可保育園に入れなかった東京都杉並区の母親グループ
60人が、入園を認めなかった区の決定に異議を申し立てた。

母親グループは「多くの子どもが入園できない現状は、
行政が責任を果たせていない」として申し立てた。

それに対して、自民党の田中裕太郎区議が「子育ては
本来は家庭で行うべきだ。『お願いです。私たちの
子育てをどうか手伝ってください』と言うならともかく、
行政が面倒をみるのは義務とばかりに、居丈高に、
世を恨むかのような態度は 倫理にもとる」と書いて、
批判殺到。ブログ炎上とか。

田中区議は37歳という若さにしては、今時 ずいぶん
“お古い”。“倫理”という言葉が出てきた。

「(社)実践倫理宏正会(朝起き会)」では、60年前の
価値観そのままだから、「子育ては家庭で、女性は
外で働くべからず」と説く。上広会長は、そのように
断言はしておらず、女性が働くことも容認しているのだが、
下部組織では、「主婦が働くと 夫がダメになる」と
戒める。

それも一理あるが、若い女性には抵抗あって、会員は
減る一方。

自民党の議員で「朝起会」の会員は多い。「朝起会」に
とっては心強い味方だが、批判殺到ということは、今の
世の中に「倫理」は受け入れ難いということか。