日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

遊びと勉強-学力と教養-

2008-02-03 12:05:35 | 徒然
毎日新聞のWEB家庭欄に消えた風の子:第1部・現状/1 仲間で遊べないと言う企画連載が始まった。

「子供たちの遊びが変わった」と言われて久しい。
顕著な一例が、「家の中で子供たちが集まり、黙ってそれぞれの携帯ゲーム機で遊んでいる」と言う姿だろう。
小学生などを狙った事件なども年々多くなってきた事も、子供たちの外遊びを減らしている要因なのかもしれないと思いつつ、時折考えてしまう事がある。
それが「安全」を考えすぎる余り、外に出ないことで「どこの子か知らない」ご近所さんが増えているのではないか?と言うことなのだ。

昭和の頃を懐かしむ気はないのだが、あの当時は子供の通学路に面した家々の人たちは、「どこの子」と言うコトを、知っていたように思うのだ。
だから、遅くまで遊んでいたり、遠くまで遊びに行って道が分からなくなったりすると「早く帰らなきゃダメだよ」だとか、「見かけない子だけど、どこの子?」と声をかけてくれる、おばさんやおじさん(多くは、小売店主さんなのだが)がいた。
その声を聞くと、変に安心した記憶がある。
もちろん、家に帰ってから怒られる覚悟もできるのだが・・・。

記事中にもあるのだが、子供は遊びを通して「社会」を知る。
そして年齢とともに、行動範囲が広くなり、広がっていく行動範囲の中から他人との関係性や自己を学び、社会に必要な教養を身につけていくのだ。
「人が傷つく」と言う感覚などは、学校の勉強では身につくことではない。

もう一つ感じる「外遊びの消滅」による弊害は、「感性・感覚」と言う点だ。
「モノ・コトを観て・感じる力」と言うものは、受験勉強で身につくものではない。
例えば、春の桜を散らす風は、嵐のような風ばかりではない。
ハラハラと花びらを散らす、やわらかな春風もまた春の風だ。
そのような感覚や感性と言うものは、一朝一夕で身につくものではなく、子供の頃から様々な場面を通して体験して身につくものなのだ。
このような感覚・感性があるからこそ、大学受験の古典の定番「枕草子」の情緒や風景が思い浮かび、清少納言の伝えたいモノ・コトを理解することができると思うのだ。
ことばの意味だけで、理解したと思うのは大きな間違いだろう。
その感覚・感性こそが、社会人になってから役に立つ「教養」でもあるのだ。

集団での「遊び」は、相手がいて成り立つ。
「相手を思い・気持ちを想像し、自分の思い通りにいかない」コトから、「どうしたら良いのだろう」と言う思考の発展へと繋がっていくのだと思う。
社会に必要な「教養」は、子供の頃の遊びの中から多く学び・身に付けていると思うのだ。
「社会が危ないから外で遊ばせない」のではなく、「安心な遊びサークル」と言う発想が大切なのだと思う。