Yahooに「医療現場で方言の壁」という、トピックスがあった。
ニュースソースは、地方の医療現場で戸惑う方言、津軽弁などデータベース化へ だ。
この記事を読んだとき、30年くらい前の自分を思い出したのだ。
拙ブログに来てくださる方は、私の実家が鳥取県にあるという事はご存知だろう。
だが私自身は、生まれは埼玉、幼稚園~中学までは静岡・浜松、高校が鳥取県・境港市で、現在実家があるのが鳥取県・米子市なのだ。
父の実家は、出雲弁が飛び交う地域(今だに、親戚同士の話は理解できないトホホ状態)。
亡くなった母の実家は、作州弁(岡山県北部)地域。
そんな環境で育った私は、現在名古屋弁エリアで生活をしている。
私の場合は、決して極端な例だとは思わないのだが、浜松から境港へ引越した頃に受けた「カルチャーショック」は、衝撃的だった。
「何を、大袈裟な!!」と、思われる方もいらっしゃるだろうけれど、本当に衝撃的だったのだ。
理由は、「自分のことばが通じないし、相手が何を言っているのかも分からない」からだった。
育った環境が転勤族が多い地域だった事もあり、自分の話し言葉は全国共通で通じる「標準語」だと思っていた。
ところが、その「標準語」が通じないし、何よりもクラスメイト同士の会話も授業で話す先生の説明さえも理解ができない!!のである。
国語や社会、英語などは教科書を読めば問題ないのだが、苦手な理数系となると・・・。
事実、卒業後某教師からは「おまえと話す時は、先生は緊張をした。標準語を話さないといけなかったから」と、冗談なのか本当なのか分からないようなことを言われた。
そんな経験があるからこそ、今「人を観る。相手(の気持ち)を想像する」という、マーケティングの仕事ができるのかもしれない、とは思っている。
今、イロイロな方と接する時「方言」を恥ずかしがる方が多い。
だが、その地域に住み・生活をしているのだから、恥ずかしがる必要はないと思うのだ。
標準語は共通認識をもちやすいが、心というか気持ちの内を伝えるには「方言」のほうが伝えやすいことが多い。
緊急を要する医療現場で聞きなれない(=理解できない)「方言」を理解するためには、この記事のようなコトも必要だと思うが、聞き手となる医師も普段は「方言を楽しむ」という発想を持ってもらいたいと思うのだ。
30年ほど前、私がクラスメイトの会話が理解できず「何???」と戸惑いながらも、「相手を理解する努力」をしたように。
何よりも「方言」には、その地域の生活から生まれた感性というものがある。
その良い例が、宮沢賢治の「風の又三郎」なのでは?と、勝手に思っている。
「標準語>方言」では決してないと思うのだ。
「若者ことばの平板化は、関東方面の方言の一般化ではないか」という、指摘もあるのだから。
ニュースソースは、地方の医療現場で戸惑う方言、津軽弁などデータベース化へ だ。
この記事を読んだとき、30年くらい前の自分を思い出したのだ。
拙ブログに来てくださる方は、私の実家が鳥取県にあるという事はご存知だろう。
だが私自身は、生まれは埼玉、幼稚園~中学までは静岡・浜松、高校が鳥取県・境港市で、現在実家があるのが鳥取県・米子市なのだ。
父の実家は、出雲弁が飛び交う地域(今だに、親戚同士の話は理解できないトホホ状態)。
亡くなった母の実家は、作州弁(岡山県北部)地域。
そんな環境で育った私は、現在名古屋弁エリアで生活をしている。
私の場合は、決して極端な例だとは思わないのだが、浜松から境港へ引越した頃に受けた「カルチャーショック」は、衝撃的だった。
「何を、大袈裟な!!」と、思われる方もいらっしゃるだろうけれど、本当に衝撃的だったのだ。
理由は、「自分のことばが通じないし、相手が何を言っているのかも分からない」からだった。
育った環境が転勤族が多い地域だった事もあり、自分の話し言葉は全国共通で通じる「標準語」だと思っていた。
ところが、その「標準語」が通じないし、何よりもクラスメイト同士の会話も授業で話す先生の説明さえも理解ができない!!のである。
国語や社会、英語などは教科書を読めば問題ないのだが、苦手な理数系となると・・・。
事実、卒業後某教師からは「おまえと話す時は、先生は緊張をした。標準語を話さないといけなかったから」と、冗談なのか本当なのか分からないようなことを言われた。
そんな経験があるからこそ、今「人を観る。相手(の気持ち)を想像する」という、マーケティングの仕事ができるのかもしれない、とは思っている。
今、イロイロな方と接する時「方言」を恥ずかしがる方が多い。
だが、その地域に住み・生活をしているのだから、恥ずかしがる必要はないと思うのだ。
標準語は共通認識をもちやすいが、心というか気持ちの内を伝えるには「方言」のほうが伝えやすいことが多い。
緊急を要する医療現場で聞きなれない(=理解できない)「方言」を理解するためには、この記事のようなコトも必要だと思うが、聞き手となる医師も普段は「方言を楽しむ」という発想を持ってもらいたいと思うのだ。
30年ほど前、私がクラスメイトの会話が理解できず「何???」と戸惑いながらも、「相手を理解する努力」をしたように。
何よりも「方言」には、その地域の生活から生まれた感性というものがある。
その良い例が、宮沢賢治の「風の又三郎」なのでは?と、勝手に思っている。
「標準語>方言」では決してないと思うのだ。
「若者ことばの平板化は、関東方面の方言の一般化ではないか」という、指摘もあるのだから。