先週、父が入院をしたため帰省をしていた、と少し書かせていただいた。
父が入院をしていた病院は、米子市内でも郊外にある急性期病院(=病床数が多く、緊急性と重症度が高い患者の治療を目的としている病院)と呼ばれる総合病院だった。
そのため父の治療説明等を受けるために、実家から駅までバスを使い、その後ほかの系統のバスに乗り換える、という地方にありがちな不便さを感じながら、病院に行くことになった。
駅前までバスを使い、駅前で他の系統のバスに乗り換える、というルートなので、駅前商店街を少なくとも2回は見るということになる。
帰省をするたびに感じていたのだが、駅前商店街の衰退というか寂れ感が、年々加速しているような印象を持っている、
それは「空き店舗」が、増えているというだけではなく、人通りそのものがとても少ないのだ。
当然、平日の昼間なので、人通りは週末ほど多くはないとしても、人影すらほとんど見ないという状況だったのだ。
というのも、駅前商店街から街中の繁華街につながるルートに、商店街があるため飲食店以外のお店も平日の昼間でもそこそこ人が入り、買い物等をしていたという記憶があったからだ。
そのルートに市役所や図書館、美術館といった公共施設もある、ということを考えれば、以前ほどではないにしても、それなりの人通りがあっても良いはずなのだ。
それに対して、父が入院をしていた郊外にある病院の近くには、大型ショッピングモールがある。
入院中の父が必要なモノを買いに行ったのだが、平日の昼間であっても巨大駐車場には、それなりの台数の自家用車が駐車している。
「散水効果」ではないが、大型ショッピングモール近辺には、山陰の海産物を食べさせてくれる食事処や、ショッピングモール内に出店していない家電量販店等があり、そちらのお店もそこそこの人が入っていた。
「平日の昼間」という、時間的条件は同じだが、巨大駐車場があるという理由で、買い物客が多かった、と考えるのは少し乱暴な気がしたのだ。
確かに地方での生活で「自家用車」は、必要なものだ。
実は、実家から病院まで自家用車を利用すれば、20分もかからない距離だった。
私のように自動車免許を持たないとなると、バスの乗り継ぎをするために1時間半以上の時間がかかってしまう。
「車がないと生活できない」という言葉の意味を実感する、ということになる。
ただ「車社会だから」という理由だけでは、無いような気がしたのだ。
それは、商店街からどんどん郊外へと行くと、いわゆるチェーン店と呼ばれるお店が増えていたからだ。
「地元資本」というと、大袈裟だが昔からあるお店ではなく、ここ20年位の間で全国展開をするようになったお店が、郊外に行くほど増えていくのだ。
バスの車窓がそのような風景を見ながら感じたのは「古いビジネスコミュニティー」と「新規ビジネスコミュニティー」ということだった。
「古いビジネスコミュニティー」というのは、駅前商店街のようなところで、昔ながらの商売を続けているコミュニティー。
「新規ビジネスコミュニティー」というのは、郊外型店舗や全国チェーン店のように、ここ20年ほどの間に郊外でビジネスをしているコミュニティーという、私の造語だ。
そして「古いビジネスコミュニティー」は、その関係性が強く「既得権益」のようなものを既に所有しているがために、「時代と共に変化する」ということがしにくいのでは?という、気がしたのだ。
そのため「商店街の活性化」ということが度々言われても、新規参入者が入りにくいビジネス環境を知らず知らずのうちに、つくりだしているのでは?ということなのだ。
それは同時に、子育て世代であるファミリー層などは入りにくい商業地域、と言えるのではないだろうか。
何故なら、子育て世代であるに求められることとは、新しさや便利さ等に加え、1日中家族が楽しめるレジャー的要素がある買い物の場所、だからだ。
確かに郊外にある大型ショッピングセンターは、駐車場も広く・利用料金もほぼ無料。なおかつ1日中家族で過ごせる場所だ。
商店街に全く同じようなつくりにすることはできなくても、「子育て世代であるファミリー層が楽しめる商店街」にするためには、ノスタルジックな、古いビジネスコミュニティーにしがみ付いていては無理のような気がした。
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